1_航空機の発達と規制の歴史

-はじめに-

現在の主要な公共輸送手段である船舶、鉄道、自動車と比べ、航空機の歴史は一番短く、ライト兄弟が最初に動力飛行を成功させてから、凡そ100年しか経っていません。この間、人類の“夢”から“現実”の乗り物への道程には、数々の“想定外事象”が起きるとともに、これを克服してゆく勇気ある開発者の存在がありました。また公共輸送手段としての役割を担ってゆく過程では、リスクの受容(所謂“絶対安全”はあり得ない)が不可欠となりますが、これには圧倒的な高速性に着目した進歩的な市民の支持と、行政による的確な“規制”の制定・運用がありました。言うまでもない事ですが、航空機の兵器としての潜在力から、二つの大戦が進歩を大幅に加速させたことは間違いありません。

-航空機の進歩に伴う想定外事象の発生とその克服-

<黎明期>

1903年 ライト兄弟(米国)が動力機による初飛行に成功した
1910年 日本においても、徳川好敏・日野熊蔵によって動力機の飛行が行われた

これ以後、航空機の性能向上に伴い発生した想定外の事故とその克服
航空機の性能(速度、搭載量、航続距離)を向上させる為に行った軽量化により、ダイバージェンスやフラッターが発生し墜落事故が起こりました。
*ダイバージェンスとは:航空機のスピードを上げるにつれ徐々に翼の捩じれが増し、ある速度で翼が完全に破壊される現象
*フラッターとは:航空機のスピードを上げるにつれ翼が振動し始め、ある速度で翼が完全に破壊される現象 ⇒ NASAの動画
これらの現象は翼のねじり剛性を高めることや、翼の運動と空気力の相互作用に関する理論(空力弾性学)が確立されていくにつれ、次第に克服されていきました。

<商用機としての発展>

第一次世界大戦(1914年~1919年)において、航空機が初めて軍事目的(偵察、爆弾投下)に使用され、その有用性が広く認識される様になりました。また、その高速性能に着目しビジネスでも広く活用されるようになり、法整備が進んでゆきました;
1926年 米国において航空機を商用、等で使うことを奨励するための法律(The Air Commerce Act of 1926)が制定された

また日本においても、
1928年 日本航空輸送株式会社設立(→1938年 大日本航空株式会社)
1931年  関東軍軍用定期航空事務所設立(→1932年 満州航空株式会社)

1930年代になると米国の商用機の事故が相次ぎ(特に有名人の死亡事故)世間の注目を集めることとなりました;
1931年 “Knute Rockne”(フットボールの有名なコーチ)の乗った航空機が墜落。原因は構造設計が悪くフラッターが発生
1934年 “Will Rogers;Wiley Post”(先駆的なパイロット)が乗った航空機が濃霧の中で無謀な着陸を試みて失敗
1935年 “Bronson M. Catting”(著名な上院議員)が乗った航空機が燃料切れにより墜落
これらの事故の原因究明に関し組織的な取組が行われ、規制面で以下の様な対応が取られました;
1934 Bureau of Air Commerce の設立
1938
 The Civil Aeronautics Act of 1938 の制定
この中で、航空機の“安全性”と“経済性”を両立させるために、以下の様な3つの独立した政府機関(“Agency”)を設けることになりました;
*Civil Aeronautics Authority:民間航空産業の安全性と経済性に関する規制を行う組織
Administrator of Aviation:安全規制を専門に行う役職
Air Safety Board:事故調査を行う組織

また、
1940年 The Civil Aeronautics Act of 1938 に以下の修正を行いました;
*CAB(Civil Aeronautics Board)全ての経済規制と事故調査に責任を持つ組織
*CAA(Civil Aeronautics Administration):全ての安全規制に責任を持つ組織

<軍用機の開発競争>

第二次世界大戦(1939年~1945年)に於いては、米国、日本、英国、ドイツなどで兵器としての開発が行われ、航空機は性能(速度、搭載量、航続距離)面で飛躍的な進歩がありました。特に特筆すべき技術革新として以下があります;
1939年 日本/速度、航続距離、運動性能に優れた“零戦”の実戦配備
1942年 米国/航続距離、搭載量、高空における性能に優れたB29の実戦配備
1944年 ドイツ/プロペラに替わるパルス・ジェット推進のミサイル(V1)の実戦配備
* ミサイルV2は弾道ロケット
1944年  イギリス/プロペラに替わるターボ・ジェットジェット推進の戦闘機の実戦配備(V1迎撃で活躍)

<軍用機技術の民間機転用>

大戦中に急速に進歩した航空機を、国際間の主要な輸送手段として普及させていく為の体制整備が行われました;

1944年 連合国によるシカゴ条約の締結;
商用航空機の運航管理、技術管理、パイロット・整備士の技量管理、などについて国家間の違いを無くす仕組みを条約によって保証することとし、これを実行する組織として;
1947年 ICAO(International Civil Aviation Oeganization/国際民間航空機関)を創設しました。シカゴ条約を批准した国は、ICAOに加盟することが義務付けられています。

<敗戦後の日本の状況>

敗戦と同時に満州航空は消滅、またGHQにより日本国籍の航空機の全面飛行禁止措置が取られたため、大日本航空も業務停止となりました。更に、敗戦後7年間に亘り、航空機に関する研究・開発、製造が禁止され、それまで最先端の設計、製造技術を持っていた日本の航空機産業は壊滅的な打撃を受けることになりました。一方、航空輸送ビジネスに関しては以下の体制整備が行われ、徐々に活気を取り戻してゆきました;

1949 航空保安庁(電気通信省)設置
1950年 旧航空法は廃止され、航空保安庁は航空庁となった
1951年 GHQにより日本資本による国内航空事業が認可され、日本航空が設立された
1952年 航空法が制定され、航空庁は航空局となった
1953年 シカゴ条約の批准、ICAO加盟を果たし国際線運航の体制が整った

<ジェット旅客機の登場>

大戦末期にイギリスで登場したジェット戦闘機は、朝鮮戦争(1950年~53年/休戦)では早くも戦闘機の主役になっていました(米軍/F-86、ソ連軍/Mig 15)。一方、商用機の開発についてもイギリスが一番乗りを果たしました;
1952年 デ・ハビラント社製“コメット”の就航

コメットⅠ型機

しかし、戦闘機開発で培った経験をもってしても、以下の様な“想定外の事象”の発生を防ぐことはできませんでした;

1953 コメット機空中分解により墜落
*事故原因:油圧増力式操縦桿(自動車のパワーステアリングと同じ様な機能)が軽過ぎ、かつ反力が殆ど感じられないため、人力操舵機に慣れたパイロットが急激な操作を行ってしまうことが事故の原因の一つだった
*事故後の対策:油圧増力式の操縦桿に“Load Feel Mechanism(操縦桿の操作量に応じて反力が感じられるような装置)”の導入を義務化した

1954年 コメット機2機連続で空中爆発により墜落
緊急に取られた措置:同型式機の耐空証明を停止(→同型式機全ての運航停止)し、事故機の破片を回収して大規模な再現実験を実施した
*事故原因:客室内の与圧の繰り返しにより、胴体外板が一気に疲労破壊を起こした
*事故後の対策:航空機の耐疲労設計の導入(フェイルセーフ構造の高度化など)と疲労強度確認試験の見直しを行った

<米国における航空輸送の急速な発展>

大戦後、急速に経済発展を遂げた米国に於いて、ジェット旅客機の普及とGeneral Aviation(定期航空、軍用航空を除く航空輸送)の急速な発展がありました。しかし、運航機数が増えることに伴う事故が多発(年間3,500~4,000回の事故)し、以下の様な規制強化が行われました;

1958年 The Federal Aviation Act of 1958 の制定
公正な事故調査を保証し、事故の教訓を生かした再発防止が確実に行えるように以下の法整備が行われました;
CABに事故に伴う規制強化等の権限を付与
CABは同種の事故を防ぐための研究をFAA(Federal Aviation Administration)に勧告
CABに事故機、及びその部品の調査、保全の責任を付与
事故に係わる特別査問委員会(Special Board of Inquiry)の召集(内2名の委員は大統領の指名)

1966年 ョンソン大統領により以下の行政改革が行われました;
*新組織としてDOT(Department of Transportation)を設置。FAA(Federal Aviation Administration)はその組織の一部とする
CABの権限を経済規制(路線権益、運賃、企業合併等の許認可)に限定
NTSB(National Transport Safety Board/事故調査委員会)をCABの組織から分離し、全ての交通機関の事故調査を行う組織としてDOTの権限下に置く

-トピック-
1965年 戦後初の国産商用航空機/YS-11(ターボ・プロップ機)の就航。但しエンジンは英国製であった

YS11

1966年 英国海外航空(BOAC)・B707墜落
乗員・乗客124人全員がこの事故で死亡;
*事故原因
:有視界飛行方式で航空路ではない空域を飛行中、富士山の風下側に発生する強い晴天乱気流(Clear Air Turbulence)に突入し、設計値を大きく超える大きな荷重(重力の7.5倍)がかかり主翼、尾翼が一瞬のうちに破壊されて墜落
*事故後の対策:原則として指定された航空路を飛行すること。有視界飛行では、強い晴天乱気流が予想される気象条件の空域は飛行しないこと(運航ルールの改善)

<大量輸送時代の到来>

1970年に入って、航空機による移動が一般化し、運航する航空機の数が飛躍的に増加しました。また、この急激な旅客需要増加に対応するため、従来の2倍以上の搭載量を持つ超大型機(B747DC10トライスター)が登場しました。大型機は一回の事故で極めて多数の死傷者を出す結果となり、事故の原因究明と事故対策の実施が非常に重要になりました。

1974年 トルコ航空・DC10墜落
乗員・乗客346人全員がこの事故で死亡;
*事故原因:高度12,000ft(約3,600メートル/約0.64気圧)で後部貨物室ドアが開き、減圧による客室の床の変形で床下を通っていた操縦系統(方向舵、昇降舵、水平尾翼、センターエンジンをコントロールするケーブル、油圧パイプ)が破壊され、操縦不能となって墜落
空中で貨物室ドアが開いた原因; 整備士による不完全なドアロック(←注意書きの英語が読めなかった) ドア作動用のモーターの回転力不足 ドアロックが不完全な状態でもドア警告灯が消灯してしまう
<注>客室のドアや小さな貨物室のドアは“プラグ式”のドア構造(コルクの栓の様な形状をしており、客室内の圧力が外気圧より高ければきつく締まる様になっている)となっている為、空中でドアが開くことはない
当該事故の2年前にアメリカン航空DC10が同様な理由で後部貨物室ドアが開き、操縦困難になったものの、緊急着陸に成功した事例があった。これを受けてFAAが後部貨物室ドアのAD(Airworthiness Directives / 耐空性改善命令)を出そうとしたが、政治的意図によりFAA上層部に握りつぶされていた
*事故後の対策(DC10だけでなくB747、等の全大型機が対象): 客室床面の強度向上 貨物室に急減圧が起こった場合、客室内の大量の空気が瞬時に抜け、客室床の変形が起こらない様に大きな“穴”を設置 昇降舵・方向舵のコントロールケーブルの経路を床下から胴体横に変更

行政が、事故原因の究明や事故後の対策に介入することを防止するために、NTSBに関して以下の極めて厳格な法整備が行われた;
1974年 米国:Independent Safety Board Act of 1974
上院の助言と同意を基に大統領が5人の委員を選任。議長及び副議長は5人の委員の中から上院の助言と同意を基に大統領が指名
*同じ政党を支持する委員が3名を超えてはならない(“no more than 3”)
少なくとも3名の委員は“技術的な専門性”を有していなければならない。
*“技術的な専門性”が求められる分野:“事故再現調査(“accident reconstruction”)、安全工学、ヒューマンファクター、輸送及び輸送安全に係わる法規制
委員の任期は5年
事故調査を行う分野:民間航空、鉄道、パイプライン、高速道路、船舶
事故調査はあらゆる政府機関の権限に優先する。また事故に係わる“犯罪捜査”や“民事訴訟”に対しても優先する
事故に係わる安全勧告は、必要により連邦政府、地方政府、地方機関、民間組織に対して行われる
NTSBから安全勧告が出された後、運輸長官(“Secretary of Transportation”)は90日以内にこの勧告を全面的又は部分的に受け入れるか、拒否するかについて文書による回答を行わなければならない。運輸長官は毎年この勧告に対するDOTの取った措置を議会に報告しなければならない
NTSBは事故調査のプロセスについて“宣誓証言”による公聴会を行わなければならない
NTSBは必要な場合、証人の召喚、証拠提出の命令を下すことが出来る
許可なく事故機を動かしたり、隠したりした場合、罰金又は10年以上の禁固又はその両方を課される
NTSBは事故調査に必要なあらゆるサポート(専門家・コンサルタント、等々)を受ける権限を有する

 1977 ダン・エア(英国)・B707 墜落
着陸進入中に水平尾翼が脱落して墜落。当該機は貨物機であったため乗員6名旅客1名の死亡にとどまった;
*事故原因:水平尾翼の後ろ(Spar/翼の長手方向の加重を支えている太い部材;通常2~3本で構成されている)の上部が金属疲労で破壊(亀裂の発生から7200回の離発着で発生)され、同時にフェイルセーフになっているはずの中央桁も破壊されて水平尾翼全体の脱落に至った。根本原因は不適切なフェイルセーフ設計ということになるが、機体設計の時点で、この破壊モード(破壊に至るプロセス)を想定することはできなかった。
*事故後の対策; 高稼働機を対象とした追加の検査要目の設定 ②損傷許容設計の導入
損傷許容設計とは:破壊されても深刻な事態にならない構造をあえて作り損傷の早期発見と重要な構造に破壊が連鎖しないようにすること、あるいは構造をうまく分離することによって破壊の重要部分への進展を防ぐような設計手法

事故後の調査で同型機521機のうち38機に亀裂が発見されており、上記対策によって多くの深刻な事故の発生を抑止できたことがわかると思います。

<大競争の時代>

 1978 カーター大統領により、航空自由化に舵が切られ(The Airline Deregulation Act of 1978)た結果、米国内では急激に航空会社が増加(約2倍)し熾烈な競争時代を迎えました。
1984年 米国に於いては経済規制(路線権益、運賃、企業合併等の許認可)を行っていたCABが廃止されました。
この自由化の流れは米国主導で世界に波及し、欧州に於いては1990年前後から、日本においても2000年前後から本格的な航空自由化が実現し、内外の航空会社間で厳しい競争が行われる様になりました。ただ、この競争は営業面に限られ、安全運航に関わる技術規制に関しては、急激な機数増に伴う事故件数増を抑止するために、逆に強化されてゆきました。

1982年 統合失調症の機長(JAL/DC8)が故意にエンジンを逆噴射させた為に滑走路(羽田空港)手前の浅瀬の海に着水。水没した椅子に座っていた24名の乗客が死亡;
*事故後の対策: 飛行中にエンジン逆噴射やグラウンドスポイラーを操作できないようにするインターロック機能の装着義務付け 運航乗務員の精神病に係わる健康管理の強化を義務付け
*類似事故
1999年 エジプト航空・B767 副操縦士による故意の墜落。乗員・乗客217人全員死亡
2015年 ジャーマンウィングス・A320 副操縦士による故意の操作により山に激突。乗員・乗客150人全員死亡

1985年 操縦系統が失われた日本航空・B747が御巣鷹山に墜落乗員・乗客520人死亡;
*事故原因:1978年の“尻もち事故”で損傷した圧力隔壁をメーカーであるボーイング社が修理を行ったが、その際構造修理マニュアル(SRM/Structure Repair Manual)に沿った作業を行わなかった為、その後の離発着で圧力隔壁の疲労破壊が起こり、操縦不能となって墜落した。

圧力隔壁の損傷状態
事故現場から回収した圧力隔壁の損傷状態

圧力隔壁
圧力隔壁(“Pressure Bulkhead”;上図):客室内の与圧をこのお椀型の隔壁で支えている(FAAの公開資料より抜粋)

修理方法(正誤)
上の図で左が正しい修理方法。右が間違えた実際の修理方法:黒く塗りつぶしてあるジュラルミンの板が中心でつながっていない⇒上の板と下の板は結果として、それぞれ一つのリベットで繋がっておるだけとなる。左側の正しい修理方法の場合、それぞれ二つのリベットで繋がっている(FAAの公開資料より抜粋)

圧力隔壁を設計する段階で、圧力隔壁が急激に破壊されると尾部構造(垂直尾翼、水平尾翼など)も同時に著しく破壊されてしまうこと、圧力隔壁が急激に破壊されると操縦に不可欠な油圧システムの全系統(フェイルセーフの目的で独立した4系統で構成されている)が同時に不作動となること、は想定していなかった
*事故後の対策: 方向舵、昇降舵、水平尾翼を操作する油圧システムのパイプの経路変更(床下から胴体側面)を行うと共に油圧パイプにチェックバルブ(パイプ破壊に伴う作動油の喪失を食い止める為のバルブ)を増設する 大規模修理実施後の追加整備要目(航空機が廃棄されるまで継続実施を義務付ける)を設定する(←日本国籍機のみ)
*類似事故:2002年 中華航空・B747墜落(乗員・乗客225人全員死亡)。事故原因は修理作業を行った中華航空がSRMに沿った修理をしなかった為であり、JAL・B747事故と全く同じ

1991年 ユナイテッド航空・B737 墜落。乗員・乗客25名全員死亡
事故原因:方向舵の機能喪失
事故後の対策:
ボーイング社による方向舵システム(ラダー・サーボ・バルブの機能不全)の改修 
*類似事故:
1994 米国:USエア・B737 墜落事故。乗員・乗客137名全員死亡

1994 Public Law 103-272 の制定
1958年に制定された法律:“The Federal Aviation Act of 1958”と本質的な差は無いものの、以下の様に耐空性にかかわる判断基準が極めて具体的に記述されるようになりました;
耐空性がある”ということは以下の二つの条件を満たしていること: 機体の形状(正確には“Configulation”)及び装備品が“型式証明”取得の際に提出された“図面”、“規格・基準”、“その他のデータ”と完全に一致していること。但し、これには取得後の変更管理がSTC(Supplemental Type Certificate)や“仕様承認”、等によってきちんと行われていれば一致していることと看做す⇔分かり易く表現すると、使用者(航空会社)による勝手な航空機の形状変更は許されないということ 航空機及び装備品の状態が“安全に飛行できる状態”にあること。“安全に飛行できる状態”とは、磨耗や劣化、油脂の漏洩などが無いことである⇔分かり易く表現すると、保全整備が確実に行われていることが必要であるということ

1996年 ValueJet Airlines・DC-9墜落。乗員・乗客110名全員死亡;
事故原因:航空機から取り降ろされた旅客用酸素発生器に安全キャップを取付けないまま貨物室に搭載(整備を委託していた“Sabre Tech社”の整備士と検査員のミス)し、この酸素発生器から漏れた酸素が原因で貨物室が火災を起こし操縦不能となって墜落。
*事故後の対策; 当該貨物室(クラスD)への火災警報システムの装着義務化 委託管理の強化(委託先が犯したミスであっても、委託元の航空会社に管理責任があると見做すこと)

2001 同時多発テロ 発生
事故後の対策:①操縦室ドアの強化(小型の銃器では破壊できない)と運航中常時施錠の義務化 空港でのセキュリティー強化(航空会社の費用負担) 銃器携行の覆面警察官の同乗(全便ではない/国によって違いがある) 

2005 ギリシャ:ヘリオス航空・B737-300墜落。乗員・乗客121名全員死亡
*事故の経過:パイロットが機内与圧コントロールノブを“AUTO”にしないまま離陸・上昇したため、パイロットが低酸素症による意識不明に陥り、燃料が無くなるまでオートパイロットで飛行した後墜落
*事故原因:出発前の整備作業で機内与圧コントロールノブを“手動”にしたまま整備作業を終了した。パイロットは出発時に機内与圧コントロールノブが“AUTO”の位置にあることを確認しないで離陸上昇した。パイロットは“警告音”が鳴っているにも拘らず原因を特定しないで警告を解除した
*事故後の対策:パイロット及び客室乗務員に“低酸素症”の症状に係る教育(体験を含む)を実施する

2009 エールフランス・A-330墜落。乗員・乗客228名全員死亡
*事故の経過:離陸上昇し高度38,000フィート(11,580メートル)を飛行中、失速して墜落
*事故原因:飛行中にピトー管(対気速度の計測に必要)の一部が凍結し、操縦に必要な情報が充分に得られなくなり手動操縦に切り替えた後、操縦を誤り墜落した
*事故後の対策:高高度、高速運航時における失速の訓練実施(現行のパイロットの訓練には低高度、低速時の失速訓練しか行われていない)

2013年 日本航空・全日空 B787 バッテリー火災事故
*事故、対策、等の一連の過程
1) 1月7日、(JAL)ボストン空港に着陸した機体の補助電源系統のバッテリーに火災発生
2) 1月16日、(ANA)飛行中に電気室のメインバッテリーが火災を起こし、高松空港に緊急着陸
3) 1月16日、FAA(連邦航空局)は787の運航停止命令を発動(34年ぶり)、国土交通省も同様の命令を発動
4) 1月20日、日本の運輸安全委員会が米国の調査チームと連携して事故調査開始
5) 1月20日、ボーイング社、新規製造機体の引渡し停止
6) 1月21日、航空法に基づき国交省はFAAと合同で、バッテリーを製造している“GSユアサコーポレーション”に立入検査実施
7) 1月25日、ボーイング社は本件に関する数百人規模の特別チームを結成
8) 1月25日、FAAの能力に疑問を抱き、米国上院が公聴会を開催しFAA幹部を追及する方針を決定。調査には、リチウムイオン電池の研究で知られているアルゴンヌ国立研究所とNASAに協力を求めた
9) 1月28日、航空法に基づき国交省はFAA(連邦航空局)と合同で、バッテリーの制御装置を製造している“関東航空計器”に立入検査を実施
10) 2月7日、ボーイング社、バッテリーの設計変更検討開始
11)  3月1日、ボーイング社、国交省に以下を説明:
*火災発生の原因の特定はできなかった(調査は継続)
考えられる火災発生の原因の全て(100項目)に対して対策を立てる(設計変更)。主なものは; バッテリー・セル対策:最大電圧引下/最小電圧引上、結露の排水溝設置、セル周囲の絶縁 バッテリー・セル間の熱暴走対策として絶縁材の追加、耐熱素材による配線、気化した電解液の排出口を設置 ケース全体の対策として、バッテリー全体を新たなステンレスのケースで覆い、気化した電解液を機外に排出する配管を設置
12)  4月6日、ボーイング社、バッテリーの設計変更についてFAAの認可を得るために試験飛行を開始
13)  4月19日、FAA、設計変更を認可
14)  4月26日、FAA・AD(Airworthiness Directives)発行15)  4月26日、国交省・耐空性改善通報発行(上記ADを呼び出している)
16)  JAL、ANAは上記ADに加え以下の追加処置を行った: 改修実施後の確認飛行 飛行中のバッテリー監視装置の設置及びバッテリーのサンプリング検査の実施 パイロットの慣熟飛行の実施 利用者に対する情報開示、
16)  4月22日、JAL、ANA共に改修作業開始
17)  6月1日、JAL、ANA定期便復帰(運航停止期間:136日)
18)  2014年1月14日、JAL787バッテリーから発煙 ⇒ボーイング社JALと協力して原因調査開始 ⇒国交省、メーカーであるGSユアサと原因調査開始 ⇒国交省、安全運航に支障なしとの見解表明
19)  2014年9月25日 運輸安全委員会が最終報告書発表:「事故原因は特定できなかった

-この歴史から学ぶこと-

敗戦前までの日本では、多くの尊い犠牲を伴う“想定外事象”を乗り越えて航空技術の先進国として多くの優れた航空機を生み出してきましたが、戦後はGHQによる7年間の研究・開発、製造の禁止命令によりジェット機の技術開発では決定的な遅れをとってしまいました。しかし、米国製軍用機の製造分担などを通じて技術力を培ってきた結果、70年の歳月を経て現在は、MRJ(三菱リージョナル・ジェット)、C-2(次期自衛隊大型輸送機)、X-2(先進技術実証機)などの先進的な航空機の設計・製造を行える実力を持つに至りました。

MRJ
MRJ

しかし航空機では、開発段階は勿論、耐空証明取得後の運用段階でも“想定外事象”が発生し、場合によっては悲惨な事故となることも稀ではありません。これまでの70年間、日本人はこうしたリスクを負わないで航空機を利用することに慣れてきました。

航空機の歴史を振りかえってみると、“新しい技術の開発⇒想定外の事故の発生⇒事故の徹底分析⇒再発防止策の実施”のサイクルを繰り返してきたことが分かります。また、別の見方をすると、航空機とは“安全性と経済性のギリギリの妥協”の産物であると言うこともできます。従って、不幸にも想定外の事故が発生しても、これを進歩の為の糧としてチャレンジする気概が、開発する会社にも、またこれをバックアップする国にも必要になると思います。少なくとも敗戦前の日本はこの気概にあふれていました。70年間他国の開発した航空機を利用してきた今の日本に、果たしてこうした気概が残っているかどうかちょっと心配になります。

また、事故調査を徹底的に行って事故原因を究明することが、事故の再発防止の為に決定的に重要であることは論を待ちません。昨今の事故を分析すると、事故が発生するまでの一連のプロセスの中で、ヒューマンエラーが決定的な要因になっていることが少なくありません。米国では、1974年の法改正で“事故調査はあらゆる政府機関の権限に優先する。また事故に係わる犯罪捜査や民事訴訟に対しても優先する”ことが謳われており、事故関係者から正直な証言を得ることが容易になっています。
一方、日本に於いては航空事故が発生すると、警察や検察の事情聴取、取り調べが最優先され、過失の有無が厳しく追及されます。確かに多くの人命が失われた大事故の場合、国民感情がこれを求めるということも理解できないわけではありません。しかし航空事故の場合、事故原因の追究は専門家にしかできないことは明白です。また多数の同型式機が引き続きお客様を乗せて飛行していることを勘案すると、可能な限り早期に事故原因を究明し再発防止策を実行する必要があります。将来、日本製の航空機がどんどん世界に売られていくようになった時、日本の法制度によってヒューマンエラーに関わる事故原因の究明が遅れるような事態はどうしても避けなければならないと思うのですが、、、

以上