敬老の日?

老人は敬う存在?

今年の敬老の日は9月18日。当初は9月15日に固定されていたのですが、行楽の秋に連休を作って観光需要を増やすために祝日法が改正されて2003年からは9月の第三月曜日と定められました。敬老の日のきっかけとなったのは、兵庫県多可郡野間谷村の村主催の「敬老会」だそうですが、この時の趣旨は「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」ことだったそうです。
私は一昨年70歳となり、自他共に認める「老人」の仲間入りを果たしています。当初は、それほど意識はしていなかったのですが、最近は老人の視点で自身のこれからの生き方について色々と考える機会が増えてきました。

最近読んだ本で、五木寛之が書いた「孤独のすすめ」という小冊子があります。これは、その前に出版している「下山の思想」、「玄冬の門玄冬の門を読んで)」に続くもので、傘寿を越えている筆者が、自身の経験や、宗教、古今の哲学に照らして老人のあらまほしき生き方を提案しており、私自身にとって大変参考になっています
この本で、次世代を担う若い労働者と、年金を食み豊かな資産を持った老人との関係は「階級闘争」の体を為しているとの面白い見方が述べられています

先日、やや混んでいる通勤時間帯の電車の中で、ドアが開いた途端、たった一つ空いた「優先席」に老人を押しのけて座った若者が居ました。件の老人は、若い女性に席を譲られて座ることはできたものの、対面に座るその若者を怒りに満ちた眼で暫し睨み続けていました
若者の言い分を忖度してみれば、肉体労働で疲れ切った体を休めるために席に座ることは、わざわざ!通勤時間帯に乗り込んでくる五体満足で暇な老人に席を譲ることに優先するということでしょうか。若い労働者にとってみれば、少ない賃金から年金やら、健康保険の名目で、彼らにとって少なくない金額を天引きされることは「搾取」と感じてしまうのも分からないわけではありません。また、このまま少子高齢化が進めば、自分たちの世代は年金を受け取れない可能性があると聞けば、元気な!老人を敬えというのが無理なのかもしれません

9月13日に厚生労働省から発表された医療費統計(平成27年度・国民医療費の概況_全体版)によれば、国民一人当たりの年間平均医療費は33万3千円になりますが、これを年齢層別に分けてみると、65歳未満の年間平均医療費が18万5千円に対して、70歳以上は84万円、75歳以上になると何と92万9千円!に達しています
また先日、日経朝刊の一面に、膨張する介護保険の記事が出ていました(介護保険は医療保険とは別建て)。現在介護保険の給付額は約9兆円、2025年にはこれが25兆円に膨らむと予想されています。介護保険は40歳以上の勤労者と、国及び地方自治体(いずれも税金が原資)が折半で賄うことになっていますが、教育費のかかる子供を抱えた勤労者の負担も重く、日本経済を支える40歳以上の勤労者の怨嗟の的になるのも時間の問題と思われます

こうした状況を考えると、我々「老人階級」も、戦後の驚異的な経済成長を支えてきたのだから、少しは楽をさせてくれよ、、などと呑気なことは言ってられないような気がします。長寿時代に生きる人間の生き方については、”「100年時代の人生戦略」を読んで“で紹介しておりますが、ここではこれからの老人階級の生き方について、もう少し具体的に自論を展開してみようと思います

元気な老人になる為に

今後、急激に増加していくことが確実な老人階級が、若い世代にとって迷惑な存在にならない為には、 長患いをしないこと 肉体的な健康を維持すること精神的な健康を維持すること、の三つに集約できると思います

① 長患いをしないこと;
簡単に言えば、古来理想的な死に方として言われている「ピンピン・コロリ」を目指すという事になるのではないでしょうか。脳死後の延命措置や、回復の見込みのない老人に「胃ろう(胃に直接流動食を注入できるようにすること)」の施術を行うこと、などは長患いの原因になります。これを避けるには、自身で判断が出来なくなる前に、予め近親者に意思表示しておくことが必要になります。最近106歳で亡くなった聖路加病院名誉院長の日野原重明さんは、ご自身で延命措置を拒否されて大往生を遂げましたが、私たち夫婦もこれに倣った生き方を目指したいと時折話し合っています
長患いをしないためには、肉体的な健康を維持すること、精神的な健康を維持することが必須条件になることは言うまでもありません

② 肉体的な健康を維持すること;
最近のテレビを見ていると、健康食品、サプリメント、健康増進器具、その他老人の健康維持、向上を謳ったコマーシャルが異常に多いことに気がつきます。コミュニケーションの手段がSNS中心となってしまった若者世代や、スマホを操り、ドラマはネットテレビに限るなどと嘯く先進的な!中年層が、ニュースを除くテレビ番組から離れてしまった事など、マスコミ業界の構造変化が、こうした老人向けTVコマーシャルの氾濫に繋がっているものと考えられます。ただ、薬や器具に頼るよりも、年齢に応じた運動を行うことの方が、楽しく、且つ健康的であることは医者に説教されるまでもなく、誰しもが納得できることではないでしょうか
年を取るにつれ、体力の衰え、運動神経の衰えに見合った軽度な運動に移行してゆくことは自然の摂理に適うことと思われます。軽度な運動の代表格は何と言っても「歩くこと」であることは誰しも依存の無い所だと思います。太古の昔から、歩けることは生きていることと同義語であったと思います。激しいスポーツが出来なくなっても、積極的に歩くことを心掛けることによって介護に頼らずに生きていく為の筋力が維持でき、少なくとも若者の負担にならない生活が可能になると考えても良さそうです

③ 精神的な健康を維持すること;
ここでは、統合失調症の様な精神病やアルツハイマー症に代表される認知症は、医学の発展に期待することとして除外して考えたいと思います。ただ、老人性のうつ病については、生き甲斐との関連が深い事から考察の対象したいと思います
精神的な健康をどう定義するかは中々難しい問題ですが、少なくとも「燃え尽き症候群に陥っている」、「何をやる気にもならない」、「死ぬことが不安で他の事が考えられない」、「政治、経済、その他、世の中で起こっている事に全く興味が湧かない」、、、などの精神状態にある時は精神的に健康であるとは言えないと思いますが、如何でしょうか?
こうした状況は、外界からの刺激を自らが遮断する結果となり、更に悪い精神状況に追い込まれるという負のスパイラルに迷い込んでいくことになりそうです。明治維新を担った志士は、関門海峡を我が物顔で行きかう外国船から強い刺激を受け、これを革命のエネルギーに変えていったと言われています。老人も外部の刺激に自分を晒すことによって生きるエネルギーを生み出すことが必要と思われますが如何でしょうか? 例えば、私など俗物は時折若者文化の坩堝となっている繁華街に出て行くことでエネルギーを貰っています。海外旅行の好きな方は、成熟した文明国を訪ねるよりも、発展途上国のエネルギーに触れることも一考に値すると思われます
私は繁華街以外に、時としてビジネスの中心街に出向くことがあります。高いハイヒールを履いて颯爽と歩く若いビジネス・ウーマンに追い越されそうになって、慌てて歩を早める自分に気が付きます! 普段老人とばかり歩いていると気が付かないポイントですね!

また、話すこと聞くこと読むことも精神的な健康を保つ上で極めて重要になります。会社勤め時代に比べると、会話をする機会が激減していることに気が付くはずです。夫婦や気の置けない友人との会話は、意識してでも増やすことが必要ではないでしょうか。あれ、これ、それ、、など代名詞が沢山混じる会話でも脳機能を活性化させることは勿論、老人性の嚥下障害(老人死亡率の高い肺炎の第一の原因です)を予防する効果も期待できます。話し相手が居ない時は、最近はやり?の「ひとりカラオケ」に興ずるのも効果があると聞いています
読むことは脳機能の内、主に前頭葉(ドーパミンの殆どがここに存在し、知的な活動を行うために最も重要な部分)を使うことになり、脳の老化を防ぐ為には最も大切な行動と言えます。毎朝新聞を読む、好きなジャンルの本を探して読む、大きな書店に行ってあれこれ立ち読みをする、書評を見てネット通販で取り寄せて読む、いずれも習慣化することで相当の効果が期待できると思います。ただ、年々老眼が進み長時間読み続けることは難しくなりますが、、、
私の友人には、緑内障や加齢黄斑変性症で視力が弱っている人もいます。彼らはパソコンを使って字を大きくして読んだり、読み上げソフトを使って聞き取ったりしています。知的な好奇心がハンディを乗り越えるということでしょうか。また、彼等はラジオの効用も語っています。朗読だけでなく、対談なども大変知的な好奇心を刺激するものがあり、塙保己一の例を引くまでもなく聞くことができれば読むことと同じ程度の前頭葉の刺激が得られることは確かです

老人が抱えるハンディキャップとその克服

上記「元気な老人になる為」の行動を実践する時、老人が抱えているハンディキャップを正確に認識し、自らその対策を講ずることを忘れれば、やはり社会の迷惑者になることは必定です

まず言えることは、走れない早く歩けない、というハンディキャップです。横断歩道の通行を始めとして、若い頃には間に合っていた距離が間に合わなくなることは往々にしてあります。対策は「急がば回れ」の諺を実践すればいいだけ、実に簡単なことです。時間はたっぷりある筈なのにこれを実践できない老人が相当数いることは間違いありません。 信号を渡り切れないことが分かっていても渡ろうとする老人がなんと多い事か、、、信号の間隔は青になってから歩き始めれば、よっぽどでない限り間に合うように時間設定されています

一次記憶保持能力(脳の中の「海馬」部分が担っています)が低下していることは誰しも認識していると思います。昔は10桁の電話番号は一度見ればダイヤルできたのに、今は一度6桁位をプッシュして、もう一度番号を確かめて残りをプッシュする人が多いのではないでしょうか。IDやパスワードについても同様ですね
また、反射神経の衰えも程度の差こそあれ、老人は避けて通れません。躓いても咄嗟に足が前へ出ないでコケそうになる、歩いていて人にぶつかりそうになるなど、日々痛感しているのではないでしょうか
自動車を運転する場合、この二つの能力低下は深刻な事態を招く可能性があります。例えば、交通量の多い道路を右折する場合、左側通行であることから多くの人は右を見てから左をみて安全を確認すると思います。右を見た時に走ってくる車の現在位置と速度を確認し、左を同じように確認した上で右折の行動に入ります。しかし、悲しいかな!最初に右を見た時の位置と速度の記憶が曖昧となっている為、結果として危険な右折を行ってしまうことがあります。広い道を走っている時に、右折を開始した後、迫って来る右の車に驚くもののブレーキが掛けられずそのまま右折を強行してしまう車は、殆どが老人の運転です。老人なんですから、時間はたっぷりあります!少し遠回りとなっても、左折を2回繰り返して信号のある交差点を右折するなど、ちょっと考えれば、老人の見っとも無い姿を見せないですむ知恵はいくらでもありそうです

バランス感覚の低下もバカになりません。スキーをやるとこのバランス感覚の低下は、即!転倒に繋がるので嫌でも思い知らされますが、この種のバランス感覚を要求されるスポーツをしていない人は、気付かないままに深刻な事態を招くことがあります。例えば、老人が自転車で交通量の多い車道を走る場合、交通ルールに従って当然左側を走るわけですが、多くの道は左側が傾斜しておりバランスを取るのが難しい状況になります。結果として蛇行しながらトロトロと走り、しかも後ろは見えていないので、追い越す車と接触するリスクが高まります。やはり、自転車が通行できる広い歩道か、自転車専用レーンのある道路以外、老人は自転車に乗らない方が賢明のようです

あれ、これ、それ、、の会話になる最大の原因は、名前を思い出せない(「度忘れ」と言い訳をする場合が多いですね!)事につきると思います。老人同士の会話であればお互い様なので、特に問題は発生しませんが、若者との会話においては決定的なコンプレックスの元になる可能性があります
しかしこの現象は、時間が経てば思い出せたり、ひょんなことから思い出すこと、などを勘案すると、脳細胞の何処かにはしっかりと記憶されていることは確か(細胞が壊れて記憶が喪失してしまう認知症とは決定的に違う点です!)であって、記憶を取り出す糸が一時的に切れているだけの現象だと思います。このハンディキャップを克服する為に私は以下の二つの方法を実践しています;① よく使うと考えられる名前は、人知れず!反復練習を行って確実に記憶の糸を繋げておく、② 思い出せなかった時点で、スマホの検索を駆使して名前を無理やり!あぶり出す。最近のグーグル検索の能力は絶大で、その名前に係る周辺情報を入力すれば、たちどころに答えが得られます(ただ、友人の名前を見つけ出す、などの私的なことはこの方法では無理のようです!)。 検索の為に周辺情報を考える過程で、前述の前頭葉が大活躍するので、ボケ防止にも大変有効なことは言うまでもありません

老人の車の運転について

表題に関し、現在世の中でコンセンサスを得つつある考え方は、「老人の運転は危険なので運転するな!」というものです。これに合わせて運転免許制度が変更され、70歳以上の人の運転免許更新に際し、運転能力の判定というハードルが設けられました。また、75歳以上からは認知機能検査が加わることになりました。更に、高齢者の運転免許証返納を大々的に奨励するようにもなってきました

私も昨年3月この更新試験を受けましたが、正直に言ってガッカリしました。ドライブ・シミュレータのテストがあると書いてあったので、自身の運転適性が図れるチャンスと期待していたのですが、このシミュレーターなるもの、道路を一直線に走る画面が出てきて不意に赤、黄、青の信号が現れ、これに対するブレーキ操作の反応だけを測定するものでした
法定速度を守っていれば、黄色に変わった時点でブレーキをかければ、異常に反応速度が遅い人でない限り、赤に変わる前に車を停止させることが出来る様に設定されているはずです。私自身の経験でも、よそ見運転で黄色信号を見逃していない限り、ブレーキ操作の反応速度が問題になることはあり得無い様に思います。それより重要なのことは、運転中に発生する色々な状況に対する「リスク予知能力」のはずです。停車中の車の陰に横断しようとする歩行者がいるかもしれない、前を走っているバイクは急に右折するかもしれない、交差している道で右折しようとしている車の運転手が見ている方向(自分の方を見ていなければ急に右折行動に出るかもしれない)、等々、長い運転経験の蓄積が安全運転の「肝」であって、反応速度が安全運転の主たる指標になることはあり得ないと思っています。反応速度の遅れは運転速度を落とすことによって十分補えるものと、私は50年以上の運転経験から断言することができます。

そもそも、老人が精神的な健康を保つためには、他人の介助を得ずに移動の自由(モビリティー/Mobilityを確保することが大変重要な事と私は思っています。自動車の発明が人類の歴史を変えたと言われる所以もそこにあります
また、長寿時代に生きる人間の生き方(「100年時代の人生戦略」を読んで)として、歳をとっても働き続けることが当たり前になっていく時代に、単に年齢のみの基準で自動車の運転の自由を奪っていく風潮は正しいのでしょうか?

凡そ50年ほど前、2週間ほど米国を旅する機会がありました。生意気にも大学一年の頃から自動車の運転をしていたことがあり、米国滞在中はレンタカーを借りて移動していました。この時受けたカルチャー・ショックは今でも鮮明に覚えています。それは、① クラクションの音を殆ど聞かなかったこと(当時の日本では、都心はクラクションの音に満ち溢れていました)、② 道幅は広い(メインの道路は大体3車線以上)のですが、皆きちんとレーンを守って走行していること(空いているレーンがあってもレーン変更はほとんどしない)、③ 少なくともレンタカーは全てパワーステアリング、パワーブレーキを装備したオートマティック車であったこと、④  道路標識が極めて分かり易かった事
数日間運転するうちにその理由が分かりました。老人が運転することを前提に、車の装備、交通ルール、他が整えられていたのです。米国は広大であり、車以外の移動手段は、繁華街を除けば考えられないこと、子供は若いうちに独立し、歳をとっても自立して生きていくほか道はないこと、などがその背景にあると思います

考えてみれば、高齢化社会が急速に進展していく日本で、高齢者から車という移動手段を奪ってしまえばどういうことになるか、自宅周辺であてどなく散歩をする老人の群れ、ベンチに座って遠くを見つめている沢山の老人、ちょっと見たくない光景が想像されます。因みに、私の住んでいる郊外では、近くの商店街はシャッター通りになり、買い物は車が必要になる大型スーパーに行かなければなりません。大都市に人口が集中してしまった日本では、日本全国概ねこうした状況(米国と同じ)になっているのではないでしょうか?

老人から車を奪わないために

老人が、肉体の衰えというハンディがあっても安全に運転できる仕組みを考えてみました;

技術の進歩を積極的に取り入れる;
最近の新聞に大きく取り扱われていることでご存知の方が多いと思いますが、現在、自動車産業全体にパラダイムシフト(Paradigm Shift/劇的な構造変化)が起こりつつあります。それを促しているのは、環境問題に起因するEV(Electric Vehicle/電動自動車)の急速な普及と、自動運転車の実用化が目前に迫ってきたことです
この内、老人の自動車運転と密接にかかわるものは、自動運転車の登場です。自動運転車は以下のレベルに合わせて開発が進められています(以下は2017年1月現在の「官民ITS構想ロードマップ」で示されている定義に従っています);

レベル1:加速・操舵・制動のいずれかの操作をシステムが行う状態
レベル2:加速・操舵・制動のうち複数の操作を一度にシステムが行う状態
レベル3:加速・操舵・制動は全てシステムが行いシステムが要請したときのみドライバーが対応する状態
レベル4:加速・制動・操舵を全てシステムが行い、ドライバーが全く関与しない状態

現在、中級車種以上の新車についてはレベル1に相当する自動ブレーキなどが装備されているのが普通になってきており、高級車についてはレベル2が装備されている場合もあります。昨年、電気自動車で有名な米国のテスラ社製の車が死亡事故を起こして話題になりましたが、この自動車にはレベル3の運転システムが装備されており、事故前にシステムがドライバーに運転を替わる様に指示していたにも関わらず自動運転させたために事故が起こったと言われています

高齢者の事故で何かと話題になることの多い、アクセルとブレーキの踏み違いによる事故は、レベル1が装備されている車であれば起こりえない事故だと考えられます。また、高齢者による高速道路逆行などは、カーナビによる運転を行えば起こり得ないことと考えられます(自動運転を行うために、カーナビの地図情報の精度向上が世界的に進められています)。ただカーナビのセットを音声で行うことが出来る様な配慮は必要かと思われます(すでにレクサスなどはこの装備がセールスポイントの一つになっています)。勿論、交通量の多い道路を右折する様な危険な行為は現在のカーナビでも避けてくれるはずです。レベル4が実現すれば、運転中の急死による事故も防げるはずです

法規制を高齢者の運転を前提としたものに改める;
私が運転免許を取る直前まで、普通免許で大型バイクまで運転ができました。また、普通免許を取得するには操作の習得が難しいクラッチが悩みの種(特に坂道発進)でしたが、オートマチック車限定免許という逃げ道がありました。当時はオートマチック車は希少でしたが、現在は逆にマニュアル車は特注でもしない限り買うことすらできない状況になっています
つまり、運転免許制度そのものが時代に合わせて変わってきているのです。であれば、高齢者が運転することを前提として、以下の様な規制の改正を行うことは可能ではないでしょうか;
① 自動運転車を前提として、以下の様な限定免許を創設する
* 咄嗟のブレーキ操作に問題のある人(高齢者に限らず、追突事故を起こした人も含む):自動運転レベル1の自動ブレーキ装備車限定の免許とする
* 居眠り運転の事故歴のあるひと:レベル3以上の自動運転車限定

Follow_Up:2019年5月17日、自動運転に関する法改正が成立しました。詳しくは(「レベル3、4」想定の改正法成立_高速道自動運転来年実現へ前進・過疎地の移動手段補う)をご覧ください

Follow_Up:2019年6月18日、政府・高齢事故防止策として自動ブレーキ車限定免許を検討へ

Follow_Up:2020年12月16日、免許返納せずサポカー限定に AI教官が高齢者を指導

以上

初夏から夏へ!

タマネギ・ジャガイモの収穫

前回報告から大分時間が経ちましたが、5月下旬にタマネギを収穫、6月中旬にはジャガイモを収穫いたしました。今のところ9月一杯までは在庫が確保できそうです;

5月24日収穫・タマネギ2種
5月24日収穫・タマネギ2種

上の写真の左側はサラダなど生食用のタマネギで、昨年秋の天候不順でも生き残った僅かな苗から育てたものです。右側は、やむなく購入した苗で育てたタマネギです。一番右にある小さなタマネギは、わざと密植して小さなタマネギとして収穫したものです。シチューや煮物など、丸ごと料理に使うのに便利です

6月17日の収穫
6月17日の収穫

上の写真の左側が「男爵」、右側が「北あかり」です。食べたことが無かった「イモ餅」を北海道出身のワイフに作ってもらいました;

いも餅_7月13日
いも餅_7月13日

物凄く美味しい!訳ではありませんが、私の少年時代の「すいとん」よりはかなりいける味でした。食が贅沢になった昨今、昔を思い出す為にも時々昼食として食べるのもいいかな、と思いました

夏野菜代表のトマト、ナス、キュウリについて

今年は以下の様な実験的な試みを行いました;
① 真夏になると、水分の蒸発が盛んになり、朝晩2回の水やりでは水が不足する(特に根が張る深い所)ことが多くなるため、これに対する対策を工夫してみました(下記参照)。尚、プロの農家の方は、根元に藁を布いて乾燥を防いでおります。しかし、東京のホームセンターでは藁が非常に高い事(米作りの機械化が進み、コメの収穫機/コンバインで籾と藁に分離した後、藁は細かく裁断されて田圃に戻される為、米作りの副産物としての藁が残らない為と推定しています)、土を再生する時に藁の処理が面倒くさい!ので、最近は止めています
② 3月に育てた苗を一度に栽培すると、収穫できる時期が短くなることと、収穫最盛期には採れすぎて、夫婦二人では食べきれなくなります。そこで、種から育てている強みを生かして、栽培を三期(3月、5月、7月の種蒔き)に分けて細く長く収穫し続ける工夫をしてみました

①について;
底を切り落とし、周囲に小さな穴を開けたペットボトルをコンテナに埋め込むことにより、潅水の時、底の方まで水を充分に行き渡らせる工夫;

ペットボトル給水機のテスト
ペットボトル給水器のテスト
トマト・ナスのコンテナにセット
トマト・ナスのコンテナにセット
新兵器の効果_キュウリ_7月29日
新兵器!の効果_キュウリ_7月29日(最高気温35度)

右が給水機がセットしていないコンテナ、左にはペットボトル給水器がセットしてあります。猛暑の日の夕方に撮っていますが、多少効果があったかな?という程度でしょうか!

② 3月に種蒔きをした第一世代の苗は、保温をして育てる必要がありますが、第二世代、第三世代の苗は、勿論保温の必要は無く、発芽から育苗まで屋外で育てられますが、代わりに若芽が虫害にあわないようにすることと、乾燥から守ることに注意する必要があります。その目的で、以下の様な工夫をしてみました;

盛夏における育苗
盛夏における育苗

種を蒔いた後「発芽 ⇒ 苗」まで不織布で覆うのですが、その際写真右の小道具を使います。右の黒いものはホームセンターで売っている「マルチを地面に固定する為のプラスティック製のキーパー」、左は「割箸にペットボトルの蓋を接着剤で張り付けたもの」です。いずれも不織布を留めるために何度でも使用可能な便利な道具です
現在までのトマト、ナス、キュウリの生育記録は以下の通りです;

トマト_第1~3世代
トマト_第1~3世代(8月10日)
ナス_第1~3世代
ナス_第1~3世代(8月10日)
キュウリ_第2~3世代
キュウリ_第2~3世代(8月10日)

トマトについては、第一世代は8月初めに収穫終了していますが、第二世代が収穫時期に至ってないので現在(8月12日時点)トマトの収穫ができないでいます(ちょっと失敗!)。ナスについては第一世代の収量が落ちてきていますが、まだ毎日2~3個収穫できています。第二世代の収穫が始まったら、丈を半分程度まで切り詰め、追肥をした上で秋ナスに備えます(昨年は剪定が遅すぎたせいか失敗!)。キュウリについては、第一世代は既に第二世代に世代交代を完了しています。順調に毎日2~3本の収穫を続けています

ハーブ類の栽培状況

我が家では、最近ハーブの消費が増えています。特にイタリアン料理には欠かせないバジルは、真冬以外はフレッシュな葉が沢山採れるように大型のコンテナを使用して栽培しています;

バジル・ローズマリー
バジル・ローズマリー

上の写真のバジルは沢山の実をつけています。若い実は勿論食用で使えますが、成熟した実は食べられません。代わりにその辺に落ちて土があれば!芽を出します。真ん中の写真は近くのネギのコンテナに落ちた実から芽が出たものです。これを別のコンテナに移植すれば、秋頃には立派なバジルの苗になります
右端はローズマリーです。百円で八百屋で買ったものを挿し木で育て、屋上のコンテナで栽培していたのですが、成長が著しく供給過多(邪魔者!)となってしまったので、2年前に玄関わきに地植えをしました。紫色の小さな花を咲かせ、一年中収穫可能なのでローズマリーはこの栽培法が適切かなと思っています
その他のハーブについては、現在以下の写真の通りで、必要な都度少量収穫しています;

ハーブ各種_7月29日
ハーブ各種_7月29日

上記は言ってみれば外国産のハーブ類ですが、日本伝統の代表的ハーブと言えばシソがあります。シソの葉だけであれば小さなコンテナ1ヶで十分なのですが、今年は沢山栽培してシソの実を大量収穫し、塩ずけにしてみようかと思っています;

青じそ_7月29日
青じそ_7月29日

その他の野菜の栽培状況

トウガラシは我が家の必需食品です。昨年は、「鷹の爪」の他に激辛の「ハバネロ」を栽培しましたが、辛すぎて未だに酢漬けにしたものが残っています。そこで昨年早々と在庫切れを起こした「鷹の爪」を大量栽培することにしました。大小のコンテナ3ヶで育てていますが、今の栽培、収穫状況は以下の通りです;

トウガラシ_7月29日
トウガラシ_7月29日

数年来続けている「ウリ」の栽培は、今年は採れすぎない様に1株だけ育てています。時々漬け物にして食べるにはこれで十分です;

ウリ_8月13日
ウリ_8月13日

数年前にエストニアから入手した種を使って1株だけ栽培した「ミニ・キュウリ(正式な名称はエストニア語のみなので分からず!)は既に全て収穫済みで、ピクルスにして保存しています;

ピクルス用ミニ・キュウリ_7月9日
ピクルス用ミニ・キュウリ_7月9日

毎年栽培を続けているゴーヤは、生産調整?で今年は1株のみの栽培にとどめましたが、夫婦二人には丁度良い量が確保できています。料理がゴーヤチャンプルーおひたしなどいつも決まっていたので、ワイフに別の料理をと注文したところ、「ゴーヤとエビの辛子マヨネーズ和え」を作ってくれました。甚だ美味しかったです!;

ゴーヤ_7月9日
ゴーヤ_7月9日

ニラも我が家の大量消費野菜ですが、例年大きめのコンテナに密植していた為、量は確保できるのですが葉が細くなってしまいました。そこで今年は、小さなコンテナに分けて株間を広げてゆったりと植えてみました;

ニラ_8月10日
ニラ_8月10日

一応思惑通り幅広の葉の立派なニラができました!

以上

覇権国家、軍国主義、愛国心とは一体何でしょうか

-はじめに-

最近の国際情勢を概観すると、アジア太平洋地域では、経済力と軍事力を強化した中国の南シナ海の島々の軍事基地化、一帯一路政策の推進など、太平洋戦争終結後、西太平洋地域の秩序を主導してきた米国との間で緊張感が高まってきています

また、ヨーロッパ地域でも、ソ連邦崩壊後、東欧諸国が雪崩を打ってEUに加盟した結果、NATOに対峙していたワルシャワ条約機構が崩壊しヨーロッパ大陸における戦争の危機は無くなったかに見えましたが、経済力、軍事力を高めたロシアが、ウクライナへの軍事介入クリミヤ半島の強引なロシアへの編入によって、再びロシアとNATO諸国の間の緊張感が高まっています

クリミヤ半島占領
クリミヤ半島占領

一方、中東地域においても、イラク戦争終結後、政治的な秩序を回復することに失敗した米国は、オバマ政権以降、中東への積極的関与を弱めてきました。これが、ISの台頭シリア内戦を招き、これに千年以上に亘る長い歴史のあるスンニ派とシーア派の対立、3千万人以上の人口を有しながら国家の無いクルド人の国家樹立の野心、黒海艦隊を有するロシアの地中海への出口の確保、などの諸要因が複雑に絡み、多くの無辜の市民を巻き込む悲惨な戦争状態が続いています

これらは、現象から見れば、悪であるはずの少数の覇権国家による世界秩序が崩れた結果であると見ることもできます。しかし第二次世界大戦後、朝鮮戦争、ベトナム戦争、カンボジア、ラオスにおける戦争、中南米各国における戦争など、覇権国家である米ソによる代理戦争が起こり、我々の世代は覇権国家の存在そのものが、これらの戦争の原因であると教育され、そう信じて青春時代を過ごしてきました。

この矛盾をどう理解すればいいのでしょうか、米国、中国、ロシアという覇権国家のはざまで、東シナ海・南シナ海、北朝鮮の核・ミサイル開発、北方領土問題への対応を迫られている日本は、「覇権国家」に対してどう対応すべきかを考えるにあたって「覇権国家」に対する正しい理解が欠かせないと思われます

日中戦争、太平洋戦争と続く15年戦争で、310万人の日本人が亡くなりました。また、中国をはじめとするアジアの国々を侵略した結果、これ以上の尊い人命を奪ってしまいました。これらの過ちは、全て「軍国主義」によるものだと、我々は教育を受けてきました。戦後、憲法9条に代表される平和主義の下、経済を優先し軍事力を抑制してきたはずが、平成30年度の防衛費概算要求は6兆円を超える額となっており、年々増加の一途をたどっております。勿論、これは日本の防衛の為に必要であるということになってはいますが、軍事費の絶対値でいえば、極めて強力な軍事力を保持するようになったと言わねばなりません。今後、東シナ海・南シナ海、北朝鮮の核・ミサイル開発など、国際的な緊張が続く中で、軍事費は更に増大することが予想されます。世界的にみても強力な軍事力を持つに至った日本が、過去の軍国主義国家になる心配はないのか、あるいは「軍国主義」と軍事力との関係はどうなのか、軍国主義とは一体何なのか(何でもかんでも軍国主義のせいにしていないか)、などについて詳しく調べていく必要があると考えます

戦前、戦中において、幼い頃から徹底して「愛国心」を叩き込まれ、結果として多くの人々が戦争に駆り出されていったという歴史的事実があります。これらに対する反省から、戦後、教育の現場では愛国心に関わる教育が一切排除されてきました。しかし、国を愛する気持ちが悪であるはずがありません。少なくとも外交の分野で外国とわたりあう人々、防衛の最前線で軍事的な緊張のある中で仕事をしている人々のバックボーンには「愛国心」が無ければならないことは自明のことです。また、昨今の国会議員の二重国籍問題も、国籍と一体となっている「愛国心」が無ければ政治の舵取りは任せられないということから来ているものと思われます。「愛国心」とは一体何か、「愛国心」と国歌との関係、国際的な緊張が高まる中で、議論を深めていく必要があると考えます。

覇権国家

1.覇権国家とは

覇権国家とは、国際関係において覇権を目指している国家」ということになります

「覇権」を表す英語は”Hegemony”、この語源を英語版Wikipedia で調べてみると;「Hegemony is the political, economic, or military predominance or control of one state over others. In ancient Greece, hegemony denoted the politico–military dominance of a city-state over other city-states. The dominant state is known as the hegemon.」とあり、要約すれば、ギリシャ時代「ある都市国家が、他の都市国家に対して、政治的、経済的、軍事的に支配している場合、この都市国家のことを「覇権国家」(Hegemon)と呼ぶ」ということになります

一方、これに対応する「覇権」という日本語は、中国の儒家の政治思想である「覇道」から来ていると思われます。これを世界大百科事典で調べてみると;

春秋戦国時代の覇者の行った統治方式で,斉の桓公,晋の文公は覇道の代表的な実行者とされる。覇道を王道と対比させて明確に説いたのは孟子で,〈力を以て仁を仮(か)る者は覇,徳を以て仁を行う者は王〉という。仁政を装って権力政治を行うのが覇者である。ところが漢代になると,〈王を図りて成らざるも,その弊は以て覇たるべし〉といい,王道と覇道を等質とし,上下の段階の違いにすぎないと考えるようになる

両者を比較してみると、文明発祥の地として共通するギリシャと中国で殆ど同じ言葉があることに驚きますが、統治される庶民から見れば、平和をもたらしてくれる権力は有り難いという一面と、経済的に搾取され、政治的・軍事的に抑圧されるという、有り難くない面があることも見て取れます

巨大な版図を有し、数百年に亘って多くの民族を統治したローマ帝国は、パックス・ロマーナPax Romana)と言われる「ローマの平和」をもたらしましたが、統治の後半には各地で反乱が起こり、軍事力で抑え込もうとしてもうまくいかず、結局瓦解してゆきました。ペルシャ帝国、イスラム帝国、モンゴル帝国、オスマントルコ帝国、大英帝国、いずれも同じ運命を辿っています。

満州事変から始まった、日本の「大東亜共栄圏」構想も、理念としては同じようなものと考えられます。第二次大戦後の米国とソ連も、上記定義に基づけば「覇権国家」であることは紛れもない事実であると思われます

2.帝国主義とは

前節で述べたように、紀元前からの長い歴史の中で、数多くの覇権国家としての「xx帝国」が生まれ、消えて行きましたが、ここで言う「帝国主義」の帝国は、覇権国家と言い換えることはできません(勿論、覇権国家の一つの形態とは言えるかもしれません)

帝国主義」という言葉は、1917年、に発刊されたレーニンの「帝国主義論」に由来しています。極く簡単に要約すれば、「産業革命以降、発展した資本主義が、最終的な段階で『帝国主義』に移行し、その矛盾が極大化した後に、必然的に共産主義に移行する」ということです
もう少し具体的に言えば;「①生産と資本の集積が市場の独占を生みだす ⇒ ②銀行資本と産業資本の融合により金融資本が巨大化し、一国の政治と経済を支配するようになる ⇒ ③商品の輸出にかわって資本輸出が重要になる ⇒ ④世界を分割する資本家の国際的独占体が形成される ⇒ ⑤資本主義列強による地球の領土的分割が完了する:これが資本主義の最高段階でこれを帝国主義と呼ぶ」ということになります

3.二大覇権国家の対峙(冷戦)

日露戦争(1904年~1905年)、第一次世界大戦(1914年~1919年)によって疲弊したロシア帝国は、1917年の2月革命、1918年の10月革命で終焉を迎え、初めての社会主義(共産主義の第一段階)国であるソビエト政府(ロシア社会主義連邦ソビエト共和国)が生まれました。周辺の列強(日本、米国、英国、フランス、イタリア、など)からの軍事的干渉(シベリア出兵)を受けたものの、これを打ち破り確固たる社会主義国家としての地位を確立しました(1922年以降ソビエト社会主義共和国連邦/以降『ソ連』と呼びます)

計画経済で力を蓄えてきたソ連は、第二次世界大戦(1939年~1945年)当初ポーランド分割でナチスドイツと組みましたが、1941年ドイツの奇襲攻撃から熾烈な攻防(対独戦のみのソ連軍の死者は1100万人以上と言われています)が行われ、最終的に勝利した結果、ソ連は占領した国々の体制を社会主義化し、巨大な社会主義国のブロックを形成し、自由主義(下記)諸国と対峙することとなりました。ソ連は、第二次大戦を通じて築き上げた強大な軍事力と、社会主義(共産主義)という政治・経済のシステムを通じて他国を支配している実態は、まさに立派な!「覇権国家」になったと言えると思います

一方、米国はその強大な軍事力と経済力で、第一次世界大戦、第二次世界大戦を勝ち抜き、資本主義の欠点を修正しつつ国民の自由な政治、生産活動を保証する自由主義の旗手として社会主義国のブロックに対峙する存在となりました。強大な軍事力と併せ、巨大な経済力によって他国を実質的に影響下に置き、時として「民主化の名の基に他国の政治に干渉を行う状況は、「覇権国家」以外の何ものでもないと思います

この二大ブロックの対立は第二次大戦が終結すると直ぐに顕在化(1946年3月、チャーチルによる「鉄のカーテン」演説で有名になった)し、その後半世紀に亘る「冷戦」が続くことになりました。この二大覇権国家同士の直接の対決キューバ危機(1962年10月)のみにとどまり、独立運動や民主化運動にこの二大覇権国家が直接、間接に関与して世界各国で戦争が続いたことから「冷戦」とネイミングされたものと思われます

4.ソ連の崩壊と米国一強の時代

米ソの軍拡競争の結果、ソ連の経済が破綻するなかで、1991年ソ連が崩壊し巨大な社会主義国のブロックは、ロシア連邦とその他の国々に分解しました。経済力の無くなった国は軍事力のみで他の国をコントロールすることもできず、ロシア連邦は覇権国家としての地位を失い、社会主義のブロックを構成していた幾つかの国々はEUの経済ブロックに組み込まれ、NATOに加盟するなど、政治、経済、軍事全てにおいて自由主義ブロックの優位性が明らかとなると共に、米国が名実共に唯一の超大国となり、単独覇権の時代が本格的に始まりました

5.中国、ロシア連邦の覇権国家への変容

世界唯一の覇権国家であった米国は、2001年9月11日の世界貿易センタービル攻撃(約3000人が死亡)を受けて始めたアフガニスタン侵攻(2001年~2014年)、第二次イラク戦争(2003年3月~)によってイスラム過激派との泥沼の戦争を続け、政治的、軍事的な威信を失うと共に、2008年9月に始まったリーマン・ショックにより経済的に大きな痛手を受けることになりました。

一方、1966年から11年間に亘って続いた「文化大革命」によって、政治的、経済的に大きな傷を受けた中国は、その後、鄧小平指導の下に改革開放政策を始め、経済的な発展を開始しました。1986年には自由主義経済の象徴であるGATT(General Agreement on Tariffs and Trade/関税と貿易に関する一般協定)加盟を申請しましたが、なかなか加盟を認められませんでした。申請から15年後、GATTの後継組織であるWTO(World Trade Organization/世界貿易機関)加盟を実現しました。その後、リーマン・ショックも無事乗り切り、好調な輸出を背景に経済の急速な発展を実現しました。更に、経済発展に合わせて、軍事力の強化に邁進すると共に、輸出で得られた潤沢な外貨をアジア、アフリカへの投資、援助に振り向けることによって、国際政治においても大きな発言力を持つに至りました。中国主導で2013年に設立された「アジア開発投資銀行」はその象徴でもあります。今や、南シナ海の軍事基地化一帯一路政策の推進、など「覇権国家としての野心をあからさまにしています

1991年のソ連崩壊後、ソ連型計画経済から自由市場経済への移行は困難を極めましたが、もともと広い国土に分布する豊富な石油、天然ガス、石炭、貴金属、といった天然資源に恵まれていること、及び世界有数の穀物生産・輸出国であることから、徐々に経済発展を開始し、2000年以降は世界的な石油価格の高騰により、相応の経済規模を達成するようになりました。もともとソ連崩壊後も強大な軍事力と近代的な軍事技術開発能力を継承していたロシアは、ウクライナのNATO加入問題を契機に再び覇権国家」の道を歩み始めました

6.覇権国家の鼎立と日本

日本は、三つの覇権国家と過去から現在まで地政学的に大きな影響を与え合って来ました。この関係を無視して、「平和国家に徹する」、「スイスのように政治的な中立を目指す」などというのどかな考え方は、以下の考察を行ってみれば、許されるはずもないことは理解して頂けるのではないでしょうか;

ロシアとは、日露戦争の結果、日本は南樺太、千島列島などロシア領土の一部の割譲南満州鉄道の権益を奪取しました。また日本は、ロシア革命後に米英などと協調してシベリア出兵を行っています。1939年にはソ満国境のノモンハンで、双方共に2万人以上の死者を出す大規模な軍事衝突が起こっています。また、第二次世界大戦の終戦直前にソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄して参戦し、終戦直前の日本に甚大な人的被害を与えると共に、南千島を占領し、未だにこれを継続しています。このように、ロシアと日本の間には、力によって問題を解決してきた100年以上の長い歴史があります

現在、ロシアの太平洋艦隊第11航空群にとって、日本海や宗谷海峡、南千島は戦略的に極めて重要な意味を持っています。対立してきた歴史からくる両国民の微妙な国民感情や日米安保条約で保証されている米国の利害を勘案すると、北方領土問題の解決は容易ではありません

中国とは、1894年の日清戦争以降、中国に対し欧米列強と正に帝国主義的な侵略を続けていましたが、1931年の満州事変以降の15年間の日中戦争では、日本は中国国民に癒すことの出来ない大きな爪痕をのこしました。中国の大都市を訪ねてみれば分かることですが、日本兵の残虐な行為(相当誇張されていることは事実ですが)を大々的に展示する博物館が必ずあり、そこで授業の一環で見学している小中学生の一団に出会うことができます。戦後70年以上を経ても両国間の負の歴史はそう簡単に消し去ることはできません

また、中国側から太平洋を見れば分かるように、覇権国家を目指す中国の太平洋への出口を塞ぐように、九州から薩南諸島、沖縄諸島が台湾まで連なっており、尖閣列島問題や、東シナ海大陸棚天然ガス開発の問題の解決は容易ではありません

米国とは、「太平の眠りを醒ます蒸気船(黒船)、、、」が、日本の開国、明治維新の直接的な契機となったことから、必ずしも悪くはなかったのですが、日露戦争、第一次世界大戦を経て、身の丈以上に軍事強国となった日本は、それに見合った経済力、政治力を得るべくアジアでの覇権国家を目指した結果、太平洋の覇権国家となっていた米国と衝突し、第二次世界大戦で完膚なきまでに粉砕されてしまいました。惨めな敗戦からの独立、領土の返還、飛躍的な経済発展は、戦後の米国との緊密な政治、経済関係、とりわけ日米安保条約なくしてあり得ないことは自明のことです。

7.米中戦争の可能性

2016年の7月、国連海洋法条約に基づくオランダ・ハーグの仲裁裁判所は、「南シナ海での中国の海洋進出に国際法上の根拠がない」と認定しました。しかし、中国はこの判決を無視して人工島造成など実効支配を日に日に強めています

南シナ海岩礁の要塞化_2年前
南シナ海岩礁の要塞化_2年前

これに対し、南シナ海の自由航行を確保すべく、米軍は「航行の自由作戦」を実施し、米中の軍事力が極めて近距離で接触する状況が日常的に生じています。今のところ双方は節度をもって対応し、本格的な対決には至っていませんが。中国の南シナ海の島々の軍事基地化がさらに進展し、緊張が高まれば、近い将来この地域で偶発的な戦闘が起こる可能性を否定できません

2016年11月に発刊された「米中もし戦わば — 戦争の地政学(著者:ピーター・ナバロ/トランプ政権・首席補佐官)」によれば、既成の大国(⇒ペロポネソス戦争におけるスパルタ⇔現在の米国)と台頭する新興国(⇒同戦争におけるギリシャ⇔現在の中国)が戦争に至る確率は70%以上(世界史をひも解くと、覇権国家が対峙した15例のうち11例で実際の戦争が起こっていることが根拠)と言っています。また、全ての大国は「覇権」を求めるとも言っており、その根拠は、取り締まる者のいない世界では、できる限り強大な国になりたいという強い動機が存在するからだと言っています。

因みに、国際情勢を鑑みれば、第二次大戦後、国際紛争を平和的に解決する仕組みとして設置された国連の安全保障理事会は、常任理事国の拒否権行使によって、世界で起こる殆どの紛争に対して、警察機能を発揮できていません。だからといって、この本は米中戦争が不可避だと言っている訳ではなく、こうした中国の脅威を直視し、米国が政治、経済、軍事の面で採るべき選択肢を具体的に提案しているだけです

8.日本の進むべき道筋(私見

核大国であるロシア、中国と緊張が高まった時、米国の核の傘は、大きな抑止力(日本国民にとっての『安心』)を提供していることは疑う余地がありません。

しかし、1971年のニクソン・ショック(日本の頭越しに突如米中国交回復を行った)を思い出していただければ分かる通り、日米関係が如何に良好であっても、米国の利害の為には、日本が「蚊帳の外」になってしまう覚悟は常に持っていなければなりません。また、軍事的にも米国が起こした戦争の『巻き添えになるリスクも常に存在します

こうした環境下で、日本が被害者とならないためには、以下の対応が必要であると私は思います;

 政治、経済面では、ロシア、中国との交流を深め、緊張関係が発生すれば、ロシア、中国の国民にとっても、政治的、経済的につらい結果をもたらす様な状況を作り出すこと。

 軍事的には、ロシア、中国の攻撃能力と日本の防御能力とのバランスに関して、常に比較優位を保つこと。つまり、相手の国土に直接脅威を与えるような強力な攻撃力を持たない代わりに、相手の攻撃を無力化させることによって、相手の攻撃意欲を挫くことが必要になります。具体的には以下の通りです;

敵からの核ミサイル攻撃に対して迎撃ミサイルによる撃墜の能力を飛躍的に高めること。因みに、現在イージス艦の迎撃ミサイル(SM-3)で打ち損じたミサイルはパトリオットミサイル(PAC-3)で撃墜する体制になっていますが、これを3重にすることによって防御能力は飛躍的に向上します。

仮にそれぞれのミサイルの撃墜確率が90%であると仮定すれば、3重のミサイル防衛網を破って着弾する確率は;

10% x 10% x 10% ⇒ 0.1 x 0.1 x 0.1 = 0.001 ⇒ 着弾確率は 0.1%

つまり千発に1発しか着弾しないことになります。これに、ターゲットとなり得る大都市において地下街、地下鉄を利用した待避壕(核シェルターにもなる)と退避訓練を行うことにより、民間人の人的被害を極小化することが必要になります

周囲を海に囲まれ、多くの島嶼をかかえる日本は、これ等の領土を侵略から守るために日本の広い領海の制海権、制空権を確保する必要があります。この為には、索敵能力の向上(高性能レーダー、偵察衛星、偵察機、偵察ヘリ、潜水艦)と、耐空、対艦ミサイルの能力向上遠隔の領土に侵入した敵に対する打撃能力の向上(陸上兵力の急速展開に必要な装備の保有)、サイバー攻撃に対する防御能力の向上、などを着実に実施する必要があります

これらの防御能力は、技術力、工業力の水準に直接依存しまが、幸いなことに日本は技術力、工業力については他国に引けを取ることはないと思われます

軍国主義

1.軍国主義とは

辞書には色々な定義が書かれていますが、要約すると以下の様に定義することができると思われます;
① 戦争を外交の主たる手段と考え,外交問題を解決する手段として軍事力を最優先すること
② 戦争は避けられものではなく、戦争の遂行は国民全てにとって神聖な使命である
③ 戦争遂行のために、国民全員に対し、自己犠牲国家に対する忠誠を美徳とし,勇気冒険をたたえ,体力の鍛錬を推奨する
④ 上記の結果、常に軍人が最高の社会的地位を占め,教育,文化,イデオロギー,風俗習慣などが軍事優先となり、国家全体が「兵営」の様な観を呈する

確かに、戦前、戦中の日本や、ドイツは、正に上記定義の様な軍国主義国家であったことは紛れもない事実であると思われます
しかし、ドイツや日本の様な「軍国主義国家」と戦争をすることになった、連合国側ではどうだったでしょうか? 上記①~④について検証してみると;
① 外交問題で解決できなかったために、最後の手段として戦争が選択された
② (避けられなかった)戦争の遂行は、国民全てにとっての使命であった(宗教的理由で徴兵を忌避することを許すかどうかの問題はある)
③ 全く同じ様なことが行われていたと思われます
④ 戦争を勝ち抜くために軍事優先の国内体制を整えたものの、軍人が最高の社会的地位を占めることは無かった

つまり、軍国主義かそうでないかを決めるポイントは、「軍事が政治(特に外交)や経済のかじ取りをしたか、しないか」ということになるのではないでしょうか

2.日本の軍国主義

言うまでもない事ですが、日本の軍国主義に関わる象徴的な出来事として、515事件(1932年5月15日)と226事件(1936年2月26日)があります。前者では、軍人によって政府の要人や経済人が暗殺されました。また後者の事件では、大隊規模の軍隊によって政府の要人の暗殺に加え、警察の制圧マスコミ(朝日新聞)の制圧が行われました。いずれも事件が終結した後、首謀者は断罪されましたが、軍隊という強大な実力組織が、政治による統制がきかなくなり、軍組織内の規律が失われると、国全体が制御不能になることを予見させる出来事でした。

これらの事件に先立つ1921年、「バーデンバーデンの密約」という重要な出来事があります。1921年という年は、ヨーロッパを主戦場として戦われた第一次世界大戦(1914年~1919年)が終った直後の時期に当たり、悲惨な戦争の傷跡を随所に見ることができました。また明治以降、常に日本の最大の脅威であり続けたロシアが1917年の革命を経て、ソ連という新しい社会主義国に生まれ変わろうとしていた時期にもあたっていました。

丁度この時期に駐在武官としてヨーロッパにいた3人の優秀な中堅将校(永田鉄山少佐、小畑敏四郎少佐、岡村寧次少佐;3人共陸士16期生で日露戦争の従軍経験がない最初の世代)が、ミュンヘン西南のボーデン湖の近くにあるバーデンバーデンという温泉郷に集まり、①長州派閥を打破して軍人事の刷新を行う、②国家総動員体制を確立する、という誓いを立てました

これらの3人の将校は、優秀であるのみならず人望もあったこともあり、多くの少壮将校がこれに続いて、政治革新運動に関与していく流れが出来て行きました。また、1929年の世界恐慌以降、大不況に見舞われた日本の政治は混乱を極めていました。これらが、最終的に515事件、226事件、柳条湖事件→満州事変、満州国建国、盧溝橋事件→日華事変、と続く軍人による政治主導が終戦まで継続することになりました

この間、気骨のある政治家であった斉藤隆夫(1870年~1949年)が、226事件直後の粛軍演説(1936年5月)、や日華事変の泥沼化が明らかとなった時期の反軍演説(1940年1月)などで正論を述べていました(言論統制の厳しい当時にあっても、実に勇気ある発言をしているので、お時間のある時にご一読をお薦めします)が、軍人による政治主導の流れを変えることはできませんでした、一方、政治に対するチェック機能を果たすべきマスコミは、軍人による独断専行をむしろ称賛し、国民を戦争に向かって煽る記事を流し続けました。また、知性を代表する小説家達もこの流れに公然と逆らう人は残念ながら殆ど歴史には残りませんでした

ペンは剣よりも強し(イギリスの政治家・小説家ブルワー・リットンの戯曲『リシュリュー』にある「The pen is mightier than the sword.」の訳)とは言いますが、この時代の新聞記者たちは、特高の恐怖の前で、保身を優先せざるを得なかったということでしょうか。それとも本心から書かれた記事が正しいと思っていたのでしょうか。

ただ、膨大な犠牲を強いられた日露戦争のさ中に、戦場に赴いた弟の生還を願って書かれた与謝野晶子の反戦の歌「君死にたまふことなかれ」(1904年雑誌『明星』に掲載されました)があった事は忘れてはならないと思います(⇔明治、大正の戦争と、昭和の戦争の違い)

こうして日本の軍国主義の流れをつぶさに眺めてみると、明治維新及びその後の日本が、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦の戦勝を通じて急速に軍事大国に成長していったこと。明治維新以降の難しい時代に政治と軍を指導統制していた経験豊かな薩長の軍閥が、純粋培養で育てられ成績優秀ではあるものの、戦争の実相をしらない若手将校に取って代わり、政治に関与を始めたこと。マスコミに煽られた大衆がこれを後押ししたこと。普通選挙で選ばれた政治家が大衆に迎合したこと。など、全てが日本の軍国主義化に関わったものと考えられます

ともすれば、A級戦犯として裁かれた高級軍人のみが、軍国主義の責任者であると簡単に整理することは、歴史を今に生かすことにはなりません

3.日本陸軍の実態

日中戦争、及び太平洋戦争開始後のマレー・シンガポール攻略作戦、フィリピン攻略作戦においては、日本軍による残虐な行為略奪行為が行われたことは紛れもない事実です。これらの残虐行為が、軍国主義の故であると考える人がいるかもしれませんが、これは間違いです

民間人への暴行・凌辱・殺人や略奪については、陸軍刑法第86条~89条で明確に規定されている様に、重罪として処罰されることになっていました。

また、捕虜に対する暴行・凌辱・殺人は、日本も署名している1929年・捕虜取り扱いに関する条約(通称ジュネーブ条約)」に明確に違反している行為であり、日本軍にとってもあってはならない行為でした。

因みに、日露戦争におけるロシア人捕虜の取り扱いや、第一次世界大戦におけるドイツ人捕虜の取り扱いは、当時の国際法に則っており、模範的なものでした。また、旅順での激しい戦いが終わった後、水師営での降伏会見で乃木希典司令官が敗軍の将を丁重に扱う模様は、外国人従軍記者により広く世界に伝えられ称賛されました

水師営の会見
水師営の会見

こうした許されざる行為は、何故行われたのでしょうか。これに対する答えは、実際に下士官として従軍した経験を綴った「私の中の日本軍;(著者:山本七平から)」に詳しく書かれています(詳しくは、私の読書メモをご覧ください)
この中で、特筆すべき点は;
① 日本軍の戦略・戦術には「兵站」の重要性が考慮されておらず、敵を追って進出した地域での兵士の食料の調達は、略奪に頼る以外に方法がない場合が屡々起こった(当時の日本軍は、飯盒炊爨が原則となっていたので、天候が悪かったり、燃料となるものが現地で調達できなかった場合は当然略奪しか選択肢が無かった)
② 陸軍刑法を遵守するためには、厳正な軍紀の適用が不可欠であることは当然の事ですが、前線にあって実際に罪を犯す可能性のある下士官、兵卒には軍紀が全く行き届かず、あるのは古参兵と新兵の上下関係だけであったとのことです。こうした無法状態の中で、戦闘における極度の緊張が解けた時、本能のままに民間人への暴行・凌辱・殺人や略奪、捕虜に対する暴行・凌辱・殺人が行われていたと考えられます
③ あまりに酷い軍紀の乱れに、何度も通達が出されていますが、全く効果が無かったとのこと

こうした軍紀が乱れた状態で戦われた戦争の経験者は、被害者であると同時に加害者でもあった訳で、敗戦後、戦争の体験を周囲に語らなかった一つの原因になっているとも考えられます。当然の事ですが、軍紀が守られない軍隊は野獣の集合であって軍隊ではありません

4.日本軍の戦死者が何故かくも多かったのか

多くの戦線において日本の敗色が濃厚となったころから、多くの将兵が死ななくてもいい命を落としました。その原因として以下が考えられます;
① 「兵站」が考慮されていない作戦で、弾薬や食料が尽きた後に玉砕
② 制海権が失われた島嶼地域の防衛に当たらせ、退路が断たれ玉砕
③ 食料の供給や、移動の手段を考慮せずに大軍を動かした結果、飢えや疫病で大量死を招いた
これらはいずれも、兵站や退路を考えない杜撰な作戦の為に多くの兵士の命を失ったことになり、責任の多くは生き残った者の多い作戦参謀にあったと考えられます

また、
④ 陸軍刑法第40条に、司令官の判断で撤退や降伏をすれば死刑と規定されていたことで、激戦・敢闘の末戦闘の継続が意味を持たなくなった後でも、玉砕攻撃によって無駄な死を招いたこと
⑤ 陸士出身の将校や、激戦に巻き込まれた沖縄戦の一般市民、終戦直前に怒涛のように侵入してきたソ連軍に蹂躙された地区の一般市民は「戦陣訓」にある「生きて虜囚の辱めを受けるな」によって死を選択した可能性もあります
これらとは別に、
⑥ 1943年のアッツ島玉砕に始まる玉砕攻撃、1944年から始まる特攻攻撃を、作戦の失敗とは報道せず、英雄的な戦いとして報道し、劣勢になった戦局では玉砕を選ぶ風潮が生まれてしまった

 

5.まとめ(私見)

今や、防衛費だけ見れば世界の8番目に位置し、最新鋭の防衛装備を有する軍事大国日本が、悲惨な歴史を繰り返さないためには、以下の様な対応が必要であると私は考えています(自衛隊法法参照);
① 政治による自衛隊の統制を厳格に行うこと(但し、軍事知識に乏しい政治家が無謀な判断をしない様に、軍事行動が行われる時には、自衛隊制服組の判断を大切にすること) — 自衛隊法第7条~9条に明確に規定されています
② 自衛隊員は規律を遵守すること — 同法第56条、57条、59条に明確に規定されています
③ 自衛隊内で政治に関わることを一切禁止すること(自衛隊法にも明確に記述されており、当たり前の事ですが、) — 同法第61条に明確に規定されています
④ 戦闘行為が発生した場合、メディアによる報道は、真実を伝えることに徹し、自身の意見で世論を操作することが無いように心がけること
⑤ 国民一人ひとりが、確かな報道を基に自身の国土防衛に関する考え方を持ち、これを国政選挙の投票に反映させること
⑥ 国政選挙において、政党はその綱領において、日本の防衛に対す考え方を明確にしておくこと

 

愛国心

1.「愛国心」とは

愛国心と言っても、国によって、人によって、その意味が少しづつ違います。従って、幾つかのタイプに整理して考えてみたいと思います;
① 国土(地理的な意味での国土)を愛し、国土に忠誠を誓うこと
② 民族を愛し、民族に忠誠を誓うこと。国土が分割されていたり、国土が無かったとしても、その忠誠は変わりません
③ 宗教に忠誠を誓うこと。宗派別に考えた方がいい宗教もあります
④ 統治者に忠誠を誓うこと
⑤ 政治体制あるいはそれを代表する党派に忠誠を誓うこと

これらの分類に基づき、世界の代表的な国々の愛国心を点検してみると;

米国:移民によって成り立っている為、典型的な①のタイプになります。太平洋戦争が始まった時、日本人は敵国であると同時に多民族国家米国に忠誠を尽くさない可能性を考え、日本人のみを隔離した暗い歴史があります

仏国:現在のフランスの国土には、歴史的に国境を接するイタリア系の民族、スペイン系の民族が多く混じっており、更に第二次世界大戦後は旧植民地から移民を多く迎えた為、多民族国家といってもいい状態になっています。従って、愛国心のタイプとしては①となります。ナポレオンによる統治の時代から、フランス国民のアイデンティティーは民族ではなく正しいフランス語を話せることされており、フランス語の教育に力を入れています。ただ、最近はイスラム圏からの移民2世に、イスラム教に忠誠を誓う③のタイプの国民がおり、テロなどの問題が頻発しています

英国:大英帝国の時代から、君臨する英国王(女王)に忠誠を誓う④のタイプに分類できますが、18世紀にアメリカが、19世紀には南アフリカが完全な形で独立しました。未だに英連邦に残っている国々もありますが、これらの国々の国旗には英国の国旗のデザインが入っており、英国王(女王)に忠誠を誓う象徴になっています。一方、英国の正式名称は「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」であり、英国国教会とは違うカトリックを信じる北アイルランドの人々は、歴史的に英国王(女王)に忠誠を誓っているとは言えないと思われます。また、グレートブリテン島にいるウェールズ人や、スコットランド人は、歴史的に被征服民族であるゲール人を祖先に持っており、やはり英国王(女王)に忠誠を誓っているとは言えないと思われます。また、最近はフランスと同様に、イスラム圏からの移民2世に、イスラム教に忠誠を誓う③のタイプの国民がおり、テロなどの問題が頻発しています

中国:現在の中国は、漢族が多いとはいえ、多くの民族や宗教の違う国民で構成されており、中国共産党に忠誠を誓う⑤のタイプになります。しかし、イスラム教を信じるウィグル人の多い新疆ウィグル自治区やチベット仏教を信じるチベット人の多いチベット自治区は、必ずしも中国共産党に忠誠を誓っているとは思えません

ロシア:ソ連時代は中国と同じ共産党に忠誠を誓う⑤のタイプでしたが、ソ連崩壊後は、主だった民族は独立し、ロシア正教も復活したところから、①&②のタイプの忠誠心を求めていると思われます

中東諸国:国境が、列強の植民地の区分の名残をとどめています。王族の支配が続いている国や、そこからの独立を果たした国がありますが、いずれもイスラム教が国教であり、イスラム教の宗派に忠誠を誓う③のタイプに分類できると思われます

クルド族:イスラム教ではあるものの、民族としての国家を持たない為、忠誠心としては②のタイプになります

ポーランド、フィンランド、エストニア:歴史的に常に周りの強国の侵略を受けており、国土及び民族に対する強い忠誠心を持っています。つまり、忠誠心のタイプとしては①&②になると思われます

日本:日本は島国であり、二度にわたる元寇(1274年の「文永の役」、1281年の「弘安の役」)を除き、徳川時代まで外国の干渉を受ける機会が皆無であった為、忠誠心は、平安時代までは天皇に向けられていたと思われますが、実際は貴族や位の高い武士に限られていたものと思われます。鎌倉時代に入ってからは、武士団の長が領地を安堵してもらう代わりに武士たちは幕府に武力を提供するという関係性を持つようになり、一般の武士の忠誠の対象は、武士団を統括する長に向けられていたと思われます。元寇において武士団が命がけで戦ったのは、当時の執権「北条時宗」に先祖伝来の所領を安堵してもらう為だったと言われています(「一所懸命」はこの事を言っています)。戦国時代にあっても、武士団の規模は大きくなるものの、忠誠心の対象は戦国大名という武士団の長に向けられていました。徳川幕府の3百余藩による統治も、徳川家の親藩を覗けば基本的にそれを立脚しています

徳川幕府時代の藩単位の国家観が、日本国という国家観に大きく変貌するのは、明治維新の志士たちが、植民地化が進みつつあった中国を観、列強が跋扈する世界を観て、藩という小さな枠組みでは列強の植民地化を防げないと考えたからでした。しかし、明治維新が成った後も暫くは、藩単位の国家観から抜けきれず、武士の特権にしがみつこうとした、武士団の反乱が相次ぎました(佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、西南戦争)。最後の西南戦争を勝利した1977年(明治10年)になってようやく、明治天皇を頂点とする国家体制が出来上がりましたが、この新しい日本国に対する忠誠心を日本の国民に植え付けていくのは、そう簡単なことではありませんでした

その後、殖産興業、富国強兵に邁進し、欧米列強と鎬を削りながら、幕末に列強との間で結ばれた不平等条約を徐々に改定しアジアの強国にのし上がっていく内に、自然な形で日本という国土を愛し、日本民族を誇りに思う愛国心が芽生えていったものと思われます

しかし、1890年代に入って日清戦争を戦い、1900年初頭には日露戦争を戦う中で、死を賭して戦う勇気と、日本という国家に対する忠誠心が結び付けられて行きました

一方、これ等の戦争に勝利した結果、台湾、南樺太、南千島が日本の領土に加えられました。また、1910年には朝鮮併合が行われ、日本人以外の民族を日本という国家に抱え込むことになり大日本帝国という多民族の国家に対する忠誠心が必要となり、天皇という統治者に忠誠を誓う大英帝国型の愛国心を植えつけるべく、教育制度や法規制などの上からの改革が進められることとなりました

更に1932年には、満州国が誕生し、日本人、中国人(台湾人、漢族、満州族)、朝鮮人、蒙古人、ロシア人で構成される満州国が、大日本帝国のいわば傀儡国家として加わることとなりました。この広大な満州国を実質的に統治するために、「五属協和「五色の虹-満州建国大学・卒業生たちの戦後」を読んでを参照)」、「八紘一宇」などの空想的な国家観、世界観を作り出し、天皇という統治者に対する忠誠心を植え付けようとしましたが、結局目的を達することができませんでした。特に、統治がうまくいかなかった朝鮮では、「皇民化政策」や「創氏改名」の強要まで行われましたが、朝鮮人としての誇りを傷つけるだけに終わりました

1937年の盧溝橋事件、第二次上海事変で始まった日華事変(日中戦争の後半)は、果てしない泥沼の戦いとなり、敵地での死に物狂いの殺し合いは「愛国心」とは全く無縁の精神状態で行われていました。また、1941年に始まった第二次世界大戦においては、当初は華々しい戦勝が続き、戦場から遠く離れた日本国内では大いに「愛国心」が盛り上がりましたが、開戦から約半年後のミッドウェー海戦に敗北してからは劣勢に立たされ、撃沈される船の中で、撃墜される航空機の中で、弾薬、食料がつき無謀な突撃を行う中で、軍人達は、無謀な作戦を恨むことはあれ、「愛国心」で戦う者は少なかったものと思います。ただ、大空襲に晒される直前までの日本国内の多くの一般人や、ソ連が参戦するまでの満州における多くの一般人は、国家をあげての「愛国心」教育のお陰で、強い「愛国心」があれば戦争に負けることは無いと信じていた人が少なからずいたのかもしれません

1945年の敗戦と同時に、無謀な戦争遂行のために「作られた愛国心」は煙のように消え去りました。武装解除され最初に日本に帰還した日本兵数か月から1年以上海外に抑留された後引揚げてきた一般人、長期間シベリア抑留を耐え抜き帰国を果たした日本兵、戦犯として裁かれ刑期を終えて帰国した日本兵、いずれの日本人も祖国の土を踏んだ時涙を流したと思われます。つまり、この涙で象徴される安堵感が、焦土と化した日本を復旧させる原動力となったものであり、その後の日本の「愛国心」のベースとなっていったものと思われます

2.国歌の歌詞に表現されている「愛国心

国歌は近代西ヨーロッパに生まれ、幕末の頃には外交儀礼上欠かせないものになっていました。現在に至るも外交儀礼上は必須のものになっていますが、国内においても、多くの国民が参加する祝賀行事になどには国歌が演奏され、参加者は全員起立したり、軍人、あるいはそれに類する立場の人は、胸に片手を当て忠誠を表すポーズを取ったりします
また、オリンピックなどの国際スポーツ大会でも、表彰式では優勝者を讃えて国歌を演奏することはご承知の通りです。こうした場面をよく見てみると、国歌を実際に歌っている人と、歌わない人が居ることに気が付きます。オリンピックで勝つために国籍を変えて代表になった選手などは、例外なく歌っていない様に見えます。日本でも最近は歌わない(多分、覚えていないので歌えない!)スポーツ選手も多くなっています

国歌を歌うことの是非は、ここでは論じないこととして、どの国でも、国歌には国の歴史や、愛国心の源が歌い込まれていることが多いので、以下に代表的な国の国歌の成り立ちを紹介したいと思います、対応する歌詞は長くなるので割愛し別紙(国歌に見る「愛国心」)に纏めてあります。時間のある人はご覧になってください;

国歌に見る「愛国心」

日本の国歌「君が代」
「君が代」の元になった歌詞は、「古今和歌集」の短歌(読人しらず)の一つです。1880年に曲が付けられて以降、日本の国歌として使用され、1999年になって国歌として法制化されました(国旗及び国家に関する法律)。この歌詞からは軍国主義は汲み取れませんが、天皇を神聖化した戦前、戦中の記憶を思い出させるとして、終戦の機会に国歌を変えるべきであったという人もいます
主題:天皇の代が永久に続くことを願うこと 天皇に対する忠誠心を鼓舞する 

イギリスの国歌:「God Save the Queen
曲のルーツははっきりしていませんが、現在知られているメロディーに最も近い編曲は1745年頃、当時有名な作曲家であったトマス・アーン(Thomas Augustine Anne)によって行われたことが知られています。当時、名誉革命後の反革命勢力との争いがあり、祖国の勝利への強い願いが込められています
主題:女王(王)に神のご加護を願うこと 女王(王)に対する忠誠心を鼓舞する

アメリカ合衆国の国歌:「星条旗よ永遠なれ」
1812年の米英戦争に於いて、優勢であった英国軍に包囲され、集中砲火を浴びながら守り抜いていたボルティモア港「マクヘンリー砦」に翻っていた星条旗に感銘を受けたフランシス・スコット・キーが書き上げた詩「マクヘンリー砦の防衛(The Defence of Fort McHenry)」が元になっています
主題:祖国防衛の為に戦う勇者の象徴として国旗を謳いこんだ 愛国心を鼓舞する
* 太平洋戦争末期、米軍に大きな犠牲を強いた硫黄島攻防戦(1945年2月)で大きな犠牲をはらって「摺鉢山」を制した海兵隊員が、頂上に星条旗を立てた時の写真が新聞に掲載され、愛国心を鼓舞したことはよく知られています

硫黄島・摺鉢山の星条旗_AP通信・郵便切手
硫黄島・摺鉢山の星条旗_AP通信・郵便切手

フランスの国歌:「ラ・マルセイエーズ」
1789年のフランス革命後、王政を布いている周辺の国々から干渉を受けたことはよく知られています。1792年にフランス革命政府がオーストリアに宣戦布告をした知らせがストラスブール(現在の独仏国境に近いライン川沿いの都市)に届いた時、当地に駐屯していたライン方面軍の工兵大尉ルージェ・ド・リールが出征する部隊の士気を鼓舞するために、一夜にして作曲した「ライン軍の為の軍歌」がフランス国家の元になっています。1995年には国歌として採用されました
主題:国を侵略する者と戦う兵士を鼓舞する → 愛国心を鼓舞する

⑤ ロシアの国歌:「ロシア連邦国歌」
1922年に成立したソ連では、フランスの市民革命・パリ・コミューンの時代(1871年)につくられた「インターナショナル」が採用されました。その後、レーニンが率いるボルシェビキ党の党歌を流用し、児童文学者のセルゲイ・ミハルコスの詩を元に「ソビエト連邦国歌」が作られました。1991年のソ連崩壊後誕生したロシアでは、新たにミハエル・グリンカ作曲による「愛国者の歌」が国家として採用されましたが、これには歌詞が無く評判は芳しくありませんでした。2000年に大統領に就任したプーチンは、旧ソ連時代の「ソビエト連邦国歌」のメロディーを復活させ、セルゲイ・ミハルコスに新たな歌詞を作らせて「ロシア連邦国歌」としました。2001年には正式に国歌として定められました
主題:広大な国土と優秀な民族であることの誇り 愛国心を鼓舞する

インターナショナル
主題:国際共産主義(共産主義を世界に広めること)
* 日本でも60年安保闘争、70年安保闘争の折、全学連各派の集会が行われる時によく歌われました

⑥ 中国の国歌:「義勇軍進行曲」
最初の中国の国歌は、清朝崩壊寸前の1911年に制定されましたが、すぐに辛亥革命によって中華民国が誕生(1912年)し、孫文の提唱した三民主義思想に基づき作詞された「中華民国国歌」が正式決定されました。この国歌は今も台湾(中華民国)の国歌として使われています(ただ、オリンピックなど国際試合で演奏されているのは中華人民共和国の一つの中国政策を慮って、「国旗歌」が演奏されています)
1949年に建国された中華人民共和国では、抗日映画である「風雲児女」の主題歌「義勇軍進行曲」(作詞者:田漢;進行曲とは行進曲の意味です)が人民会議で決定されました

抗日戦
抗日戦

しかし、文化大革命の期間(1966年~1976年)は、作詞者である田漢が迫害され、その影響で義勇軍進行曲の歌詞は歌われなくなり、メロディーの演奏のみが行われていました。その間、事実上の国歌として歌われたのは、毛沢東を讃美する「東方紅」でした
文化大革命終結後は、義勇軍進行曲が復活したものの、当初は毛沢東や中国共産党を讃美する歌詞で歌われましたが、1982年の全国人民代表大会第5回大会において田漢の歌詞が再び国歌として決定されました。その後2004年には憲法に正式な国歌であることが明記されました
主題:長く苦しかった抗日戦争を戦い抜いた勇気を讃える 愛国心を鼓舞する

⑦ 韓国の国歌
作詞者不明で20世紀初頭から「蛍の光」のメロディーに乗せて歌われていました。1948年の大韓民国建国後、作曲家・安益泰(1905年~1965年)の作曲による「韓国幻想曲」の最終楽章として発表されたメロディーに乗せて歌われるようになりました
主題:国土を愛し、民族の誇りを愛でる 民族の矜持を鼓舞する

⑧ ポーランドの国歌:「ドンブロフスキ将軍のマズルカ」
ポーランドは、18世紀後半以降、周囲の列強(プロイセン、ロシア、オーストリア)により侵食されてゆきましたが、1795年の第三次分割により全ての領土を失ってしまいました。1797年にイタリアに亡命したドンブロフスキ将軍がポーランド軍団を結成しましたが、この時の軍歌「ドンブロフスキ将軍のマズルカ」が国家となりました
主題:侵略者を打ち破る勇気 →愛国心を鼓舞する

⑨ フィンランドの国歌:「我らの地」
1948年、ドイツ人移民であるフレドリク・パーシウスが作曲したメロディーに、ユーハン・ルードウィーグ・ルーネベリが作詞した「我らの地」が国家として採用されましたが、明確に法制化されてはいません
また、フィンランドでは国民的英雄であるシベリウスによって作曲された交響詩「フィンランディア」も第二の国歌として使われています
主題:祖国、民族に対する愛 

⑩ エストニアの国歌:「我が故国、我が誇りと喜び」
エストニア国歌は、1848年にフレドリク・パーシウスによって作曲され、1869年にヨハン・ヴォルデマル・ヤンセンによって歌詞が書かれています。 この歌は、1869年のグランド・ソング・フェスティバルで合唱曲として歌われたところ、瞬く間にエストニアのナショナリズムのシンボルのようになりました。エストニアの独立戦争の後、1920年に公式にエストニア国歌として採用されています
第二次世界大戦末期の1944年にソ連に併合されてからは禁止され、 1945~1990年の期間は別の曲が国歌とされていました
ソ連邦崩壊直前の1990年には、エストニア共和国の国歌として復権しています
なお、メロディ-はフィンランド国歌とほぼ同じものです(民族的にはフィンランドと近い関係にあり、言語も非常に近い関係にあります)
主題:祖国、民族に対する愛

3.日本の「愛国心」のあるべき姿(私見)

日本の近代史を俯瞰すると、他国を侵略したことはあっても、侵略されたことはありません。他国を侵略することは、侵略される国の「愛国心」を刺激し、必然的に厳しい戦いを強いられることになります。この戦いに勝つための「強兵」を養うために、神がかった「愛国心」像を作り上げ、国民全員が幼い頃から教育されました。不幸にも、マスコミもその片棒を担いだことは紛れもない歴史の真実です。

幸い終戦後の日本は、国土や美しい日本の自然を愛することをベースとした「愛国心」を多くの人が共有しています。他国を侵略する必要が無ければこれで充分であるし、また他国から侵略されれば、この素朴な「愛国心」が強大な力を発揮して侵略者を撃退することは間違いないと私は信じています

最近、メルギブソン監督の「ハクソー・リッジ」という映画を観ました。激しかった沖縄戦の中でも、最大の激戦となった浦添城址南東の高田高地での戦闘で、非武装のまま衛生兵として活躍し、日本兵を含む多くの命を救ったデズモンド・T・ドスの実体験を描いた映画です(詳しくは、私の感想メモ「ハクソー・リッジを観て」をご覧ください)。当時の米国軍人の愛国心とはどういうものか、特に米国本土以外の外国で戦う米国軍人が、死を賭して戦う勇気がどこから生まれてくるのかが私の知りたいところでした

沖縄戦に先立つ硫黄島の戦闘では、日本では日本兵2万人の玉砕のみで語られることが多いのですが、この戦闘で米軍側も6千人以上の戦死者と、それを遥かに上回る戦傷者を出しています。この戦闘の最前線に立ち、多くの犠牲者を出したのは、米軍の中でも最も勇敢であると言われている海兵隊です。かれらの仲間同士の間で交わされる「センパーファイ/Semper Fi」という合言葉は、最近の映画やドラマなどでもよく出てきますが、これはラテン語の”Semper fidelis”から来ていて、「常に忠義・忠誠・忠実であれ」という意味を持っています。

多くの米国人にとっては、自由選挙で国民に選ばれた大統領や、議員達が決定した国策を忠実に遂行することが国民の義務と考えていると思われます。米国軍人にとっては、これは米国に忠誠を誓うこと、忠実に上官の命令に従うことに繋がっているものと考えられます

第二次世界大戦で国策の誤りで310万人に死者を出した日本には、日本の国土を侵略された場合以外には、こうした忠誠を国民や自衛隊員に期待することはできないと私は思います

ただ、昨年法改正が行われた「新安保法制」では、自衛隊員が海外に於いて生命の危険に晒されることや、武器を取って戦うことが必要になる場面が想定されます。愛する国土の防衛とは異なる、在外邦人の救出米軍等の友軍の支援危機に瀕している外国人救出、など外地における新たな危険任務を、何を拠り所に遂行すればいいのでしょうか。「派遣される自衛隊員を志願制にするか?」、「国の名誉のために戦うことも自衛隊員の任務に加えるか?」など、いずれにしても、「戦闘があったかなかったか」、「日報を隠したか隠さなかったか」などを議論するより前に、こうした根本的な問題を国会で綿密に議論すべきではなかったかと私は思います

以上

母方親族の戦争体験

-はじめに-

先日、昨年末に亡くなった従兄の偲ぶ会に行って参りました。諏訪湖を臨む高台にある古刹「地蔵寺」で行われましたが、この寺の墓地には母方親族の墓が多くあり、幼い頃から法事などで度々訪れる機会がありました

故人の墓石
故人の墓石

まず、墓前で献花し祈りを捧げた後、墓石に刻まれた墓碑銘を読んでいくと、終戦前後の故人の悲惨な体験、無念の思いが直に伝わってきました

私共の家族を含め、母方の親戚の多くは満州で終戦を迎えました。終戦の直前(8月9日未明)、日ソ不可侵条約を一方的に破棄(注)してソ連が満州に雪崩れ込んできてから、それまでの生活が一変し、引揚までの一年間、地獄のような生活が続きました。劣悪な生活環境の中で病気や栄養失調で老人や乳幼児など弱い者から次々と命を落としてゆきました
(注)1945年2月に行われた米・英・ソ3国による秘密会談(ヤルタ会談)で、ドイツ降伏(同年5月8日)後90日以内のソ連の対日参戦が決められていました。一方、大本営は同年5月、ソ連の侵攻を予測して満州の4分の3を放棄し、南満州で持久戦に持ち込む計画を決定しました。この作戦計画に基づき、全満州で所謂”根こそぎ動員“を行うと共に、主力部隊を南に後退させることになりました。この結果、この作戦について何も知らされず取り残された放棄地域の開拓農民や一般住民は、男手の無い中でソ連軍の無慈悲な攻撃に晒される結果となりました

関東軍の対ソ作戦地域とソ連軍の侵攻ルート
関東軍の対ソ作戦地域とソ連軍の侵攻ルート

-母方親戚の戦争体験-

母方祖父母の子供達の中で、長男家族_A、三男家族_B、四男家族_C、五男家族_D、次女(私の母)家族_E が終戦時に満州に住んでおり、それぞれ悲惨な体験をしました。以下の二冊の本は、諏訪地域の人々の戦争体験を後世に伝えるべく多くの手記や和歌を集め、(株)長野日報社から出版されたものです;

戦争はいやだ平和を守ろう会
戦争はいやだ平和を守ろう会

この中から、私の親戚が寄稿した手記、和歌を以下にご紹介したいと思います;

家族_Aの長男の手記 ⇒ 竹田純人
家族_Aの長女の手記 ⇒ 塚原節
家族_Aの長女の和歌
灯火管制下に征きたる君の離(さか)りゆく長靴の音を今もなほきく

家族_Bの長男の手記 ⇒ 竹田静夫 --- 昨年末に亡くなった従兄です
家族_Bの長男の和歌
緑なす博多に引き揚げし母子吾ら征きたる親父(ちち)よ生きて帰って
尚、この他に上記の本には掲載されませんでしたが、「偲ぶ会」では以下の秀作も紹介されました;
負け戦知りつつ親父赤紙で母を頼むと十二のわれに
弟の骨箱開けてばらまいて金品探るロシア兵
引揚げて松のみどりのまぶしさよ親父信二よふるさとの土
谺(こだま)する諏訪湖の花火孫といて凍土に眠る父に献杯
家族_Bの長女の手記 ⇒ 小口陽子
家族_Bの長女の和歌
四十二歳父赤紙で北満へ征きて帰らず「英霊」一枚

家族_Cの長男の和歌;
吾を背のリュックに入れて引き上げし亡父(ちち)の苦節を今にし思ふ

家族_Dの長女の和歌;
シベリアから父帰りきて川の字に寝たるうれしさ六歳の夏

家族_Eの長男の手記荒井威雄
家族_Eの次男(つまり「」)は終戦の年に生まれ、母に背負われて引揚げましたので、全く記憶がありませんが、父母から聞いた終戦前後の状況は、私のブログにある記事:生立ちの記 をご覧ください

-海外居留民引き揚げの全体像-

1945年8月14日ポツダム宣言受諾を連合国に通告し、翌15日に終戦の詔勅が発布されソ連を除く連合国との戦争はほぼ停止状態になりましたが、ソ連軍との戦闘は続き、完全な停戦が実現するのは、満州、南樺太、南千島のソ連の占領が終る9月5日になりました。その後、在外軍人・軍属、一般人は、自身の判断で行動することは許されず、以下の法令に基づいて取り扱われることとなりました;
ポツダム宣言第9項
日本国の軍隊は、完全に武装解除されたのち、各自の家庭に復帰し、平和的で生産的な生活を営む機会を与えられる
日本政府の対応
外務省は現地の状況を認識できぬまま、ポツダム宣言の受諾を決定した8月14日に、大東亜大臣・東郷茂徳は、以下の訓令を出しました;
三加国宣言(ポツダム宣言のこと:米国、英国、中華民国)受諾に関する在外現地機関に対する訓令」:「居留民は出来得る限り定着の方針を執る
支那派遣軍の対応
支那派遣軍総司令部の「和平直後の対支処理要領」のなかで「支那居留民は、支那側の諒解支援の下に努めて支那大陸に於いて活動するを原則とし、、、その技術を発揮して支那経済に貢献せしむ」としています
GHQの対応
連合軍総司令官マッカーサーによる「日本政府宛一般命令第一号」によって、それぞれの軍管区の司令官のもとに降伏することとなった。その結果、全ての日本人は軍管区ごとの連合軍の支配下に入り、日本人の取り扱いに関しては、各軍管区の軍隊ごとに大きな違いが発生しました。また、連合軍の指示により、陸海軍部隊の移動を優先し、一般人の移動は後回しになりました
8月15日の時点で海外の居留民は、軍人・軍属が353万人(陸軍:308万人、海軍:45万人)、一般人は300万人で、合計653万人もの膨大な人数に上ります。軍管区毎の内訳は下の通りです;
中国軍管区
対象区域:旧満州地区を除く中国全土、台湾、北緯16度以北の仏領インドシナ(北ベトナム)
在留全日本人:約312万人(在外日本人の47%)
ソ連軍管区
対象区域旧満州地区、北緯38度以北の朝鮮(北朝鮮)、南樺太、千島列島
在留全日本人:約161万人(在外日本人の24%)
イギリス・オランダ軍管区
対象区域:アンダマン諸島、ニコバル諸島、ビルマ、タイ、北緯16度以南の仏領インドシナ(南ベトナム)、マライ、スマトラ、ジャワ、小スンダ諸島、ブル島、セラム島、アンボン島、カイ諸島、アル諸島、タニンバル及びアラフラ海諸島、セレベス諸島、ハルマヘラ諸島、蘭領ニューギニア
在留全日本人:約74万人(在外日本人の11%)

オーストラリア軍管区
対象区域:ボルネオ、英領ニューギニア、ビスマルク諸島、ソロモン諸島
在留全日本人:約14万人(在外日本人の2%)

米軍管区
対象区域:日本の委任統治諸島、小笠原諸島、その他の太平洋諸島、日本に隣接する諸小島、北緯38度以南の朝鮮(南朝鮮)、琉球諸島、フィリピン諸島
在留全日本人:約99万人(在外日本人の15%)

イギリス・オランダ軍管区オーストラリア軍管区および沖縄を除く米軍管区からの引揚は、B、C 級戦犯(下記注参照)の容疑者を除き、引揚船の手配が付き次第概ね順調に引揚が行われました
また、中国軍管区も、B、C 級戦犯の容疑者を除き、引揚船の手配が付き次第概ね順調に引揚が行われました

引揚者は、以下の18の港湾から日本に上陸しました;
浦賀、舞鶴、呉、下関、博多、佐世保、鹿児島、函館、大竹(広島県)、宇品(広島県)、田辺(和歌山県)、唐津、別府、名古屋、横浜、仙崎(山口県)、門司、戸畑

(注)B、C 級戦犯とは;
B級戦犯:「通常の戦争犯罪」、C級戦犯:「人道に対する罪」で、世界49ヶ所の軍事法廷で裁かれました。被告となった約5千7百人の内、約千人が死刑判決を受けたと言われています。これに対して、A級戦犯は、政治家、高級軍人を対象として「平和に対する罪」で裁かれました(東京裁判/極東国際軍事裁判)

中国、南樺太、南千島からの引揚げに関わる特記事項
1.中国山西省に駐屯していた北支派遣軍5万9千人のうち約2千600人は、武装解除を受けることなく残留し、中国国民党系の軍閥(閻錫山将軍)に合流し、終戦後約3年半にわたって第二次国共内戦を戦い、約550人が戦死、700人以上が捕虜となりました(日本軍山西省残留問題
2.ソ連軍管区では、日本人の引揚に全く無関心であり以下の様な悲劇が生まれました;
ソ連軍による抑留:ソ連軍が進駐した満州、南樺太、南千島では、ポツダム宣言第9項に違反し、軍人の大半(約65万人:諸説があります)を捕虜としシベリア各地に抑留し、強制労働が課されました。極寒の地で十分な食料も与えられず、約10%の人が命を落とした言われています
ソ連抑留
ソ連抑留(ラーゲリ:収容所)
② 満州からの引揚げ:満州に取り残された日本人は約105万人。ソ連軍の撤退が本格化する1946年3月まで引揚げは全く行われませんでした。ソ連軍撤退後に進駐した中華民国軍が米軍の輸送用船舶を使って引揚を実施しました。1946年内には中共軍支配地域を含めて大半の日本人が引揚げていきました
しかし、若い女性など一部の人は中共軍に拉致され、第二次国共内戦に参加しました。 満州在住の日本人の犠牲者は、日ソ戦(9月初旬まで続いた)での死亡者を含め、約24万5千人に上り、このうち8万人近くを満蒙開拓団員が占めています。満蒙開拓団の悲劇については、私のブログにある記事:「麻山事件」を読んで をご覧ください
南樺太、北朝鮮、および大連のソ連軍占領地区からの引揚げ:南樺太に取り残された日本人は約40万人。1947年2月、ソ連は南樺太をソ連領に編入(根拠:ポツダム宣言第8項:「カイロ宣言の条項は履行され、また、日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国、並びに我々の決定する諸小島に限られる」)し、ソ連の施政下でロシア人と同じ労働条件で生活することとなりましたが、正式な引揚が開始される前までに約2万4千人が密航により北海道に逃れたと言われています
1946年春以降、米ソ間で南樺太、北朝鮮、大連のソ連軍占領地区からの引揚が協議され、同年11月27日に「引揚に関する米ソ暫定協定」、同年12月19日に「在ソ日本人捕虜の引揚に関する米ソ協定」が締結され、引揚が開始されました。1949年年7月の第5次引揚まで29万2千590人が引揚げました。しかし、朝鮮人家族のいた人や、ソ連に足止めされた熟練労働者らは少なくとも1500人が南樺太にとどまりました
-祈りにかえて-
私の家族、親戚にとって満州での悲惨な体験は、その後の人生に大きな影を落としています。侵略した国に残された国民は、何故日本という国が行った侵略行為の犠牲とならねばならないのか、、、、
満州における一般人の犠牲者数は、東京大空襲、広島・長崎の原爆、沖縄戦の犠牲者を凌ぐ規模です。しかも、敵意に囲まれ、死と向かい合っていた長い時間は、どれほど引揚者の心を蝕んだか想像に難くありません
戦後、徹底的な「民主教育」を受けた我々の世代は、大日本帝国によるアジア・太平洋地域における侵略を負の遺産として引き継ぐことを徹底的に叩き込まれており、悲惨な引揚体験を「怨み」に変えることすらできませんでした。満州引揚げや、シベリア抑留に関し、国民レベルで行う追悼の日が設定されていないのも、こうした事が背景にあるのかもしれません
終戦後の引揚げに関わるこのネガティブな歴史を、悲しみの記憶として薄れるのを待つのも一つの生き方でしょう。また、悲惨な体験を二度と繰り返さない様に、積極的に若い人たちに体験を伝えていくことも非常に価値ある生き方であると思います
一方で、戦後の混乱した状況の中で、徒に死者を増やした行為や、こうした混乱の中にあっても人間としての誇りを失わずに戦った人の行為も、歴史に埋もれさせるのではなくきちんと調査し、次代を担う若者たちにも伝えていくことも重要であると思います。例えば、以下の事例についての私の見解を述べておきたいと思います;
1.大本営が1945年5月に決定した「根こそぎ動員と、「主力部隊の南満州移転の作戦は、結果として、何の告知もされないままに北満に取り残された「女、子供、老人ばかりの開拓農民」、青少年で構成され、ソ満国境に配置された「満蒙開拓青少年義勇軍」の救いようのない残酷な死を招きました。少なくとも本土では行なわれていた学徒疎開のような弱者を救う計画が、この作戦と並行して行われていれば、北満の悲劇のかなりの部分は防げたはずです。これを行わなかった大本営、関東軍の指導者、とりわけ参謀は、日本人自身による戦犯裁判で断罪すべきであったと思います
2.中国山西省に駐屯していた北支派遣軍のうち約2600人が、終戦後第二次国共内戦に参加し650名が戦死した裏には、北支派遣軍の司令官である澄田中将が、戦犯を免れ帰国するために、軍閥である閻錫山将軍と取引をした結果であると言われています。こうした部下をも裏切る卑怯な行為は、日本人自身による戦犯裁判で断罪すべきであったと思います
3.戦陣訓」を徹底したために、投降することをせずに無駄な死を強いられた兵士が無数にいました。また、沖縄戦や、引揚途中での一般人の集団自殺も、この戦陣訓の影響があったとも言われています。これを作成した責任者である東条英機大将は、東京裁判で「平和に対する罪」で死刑になっていますが、日本人自身による戦犯裁判でも断罪すべきであったと思います
4.ソ連軍の圧倒的な侵攻に対して、ろくな兵器も支給されずに戦い、死んでいった兵士も沢山います。こうした兵士に対する尊崇の念も、忘れてはならないと思います
以上

近所の八百屋では手に入らない野菜の栽培!

3月末から4月初めにかけて各種の野菜の種蒔きをしました。定番の小松菜や水菜、サニーレタス、チンゲンサイ、大根、等々は既に1ラウンド目の収穫が終わり、2ラウンド目の栽培に掛かっているものもあります
これ等の定番野菜の他に、タイトルにあるような「近所の八百屋では手に入らない野菜の栽培」も手掛けておりますので、以下にその栽培記録を纏めてご報告します

-野沢菜-

上の写真は、一昨年のゴールデンウィークに野沢温泉で「菜の花まつり」を見物した時に撮った写真です。遠くに見える川は日本一の大河「信濃川」につながる千曲川、一面に黄色く咲き乱れている黄色い花は、長野県の冬の名物:「野沢菜漬け」に用いられる「野沢菜」の花です。見渡す限り咲いているさまは中々壮観でした。この野菜の名称は、勿論”野沢”という地名に因んでつけられたことは明白ですが、この野菜の由来(例えば、大阪の天王寺付近で栽培されている”天王寺蕪”を持ち込んだ、など)については諸説あるようです。
まつりの中心部では、主催している「瑞穂の郷づくり委員会」(地方創生のために頑張っている飯山市観光局のホームページ参照)が、訪れた観光客に野沢菜の種を無料で配っており、一緒に行った友人の分も併せ5袋ほど持って帰りました;

野沢菜の種
無料で配られた野沢菜の種

以降、持ち帰った種を栽培しておりますが、この野菜の特徴として、 成長が極めて速い事、 暑さ、寒さに強い事、があり我が家の定番野菜になりつつあります

野沢菜の収穫
野沢菜の収穫

野沢菜は生命力が強いので、上の写真の様に葉を掻きとって収穫すればまたすぐに葉が出てくるで、何回でも収穫が可能です。利用方法は、御浸しや炒め物、など、小松菜と同じ様に万能野菜として重宝しています

今回は、「野沢菜漬け」も試してみました;

勿論、一冬越して発酵してあめ色となった野沢菜の味にはかないませんが、ちゃんと野沢菜の味がする立派な野沢菜漬けになりました。少なくとも高速道路のサービスエリアで購入する野沢菜漬けには引けを取りません!

また、長野県出身の友人から聞いた、もう一つの野沢菜の利用法である、根の部分の「カブ/蕪」の粕漬にも挑戦してみることにしました;

野沢菜のカブの部分
野沢菜のカブの部分

普通のカブに比べるとちょっと硬いので、どのような出来栄えになるかやや不安がありますが、珍味を越えて旨いものであればまたご報告します

-プンタレッラ-

今年の冬、私の盟友数人が”豪華イタリア・アルプス・スキー旅行”を敢行いたしました。帰ってきた後の会食で、スキーの話はそっちのけで現地の市場で購入した”プンタレッラ“の料理の話で盛り上がりました。私も何度か仕事でイタリアに行ったことがあり、またイタリアンが好きなので日本でもイタリアンのレストランにはよく出かけていますが、未だにプンタレッラを食べた経験はありませんでした。ちょっと悔しいので、帰宅後すぐにネットで調べ、通信販売で種を入手いたしました;

プンタレッラの種
プンタレッラの種

イタリアでは通常冬野菜として売られているものなので、日本でも秋蒔きが正解だと思いますが、どのような野菜か早く知りたいので4月初めに種まきをしてみました。株間を20~30センチにすると書いてあるので、やや大きめで底の深いコンテナに最終的に3株となるよう育ててみました。栽培日数は3~4ヶ月と書いてありましたが、東京あたりでの春蒔きではもう少し早く育つようです。5月末の生育状況は以下の通りです;

5月末の生育状況
5月末の生育状況

中心部を覗いてみると既に花芽が出ています(この野菜の花芽は日照時間を感知して出るものではないらしい ⇒ 秋蒔きに拘らなくても栽培は可能!)。海外経験の長い我が盟友に栽培していて感じた疑問点を聞くべく、また自身早く味見をしてみたいこともあり、2株ほど収穫してみることにしました;

収穫したプンタレッラ!
収穫したプンタレッラ!

新聞紙との比較で大きさは分かると思いますが、我が盟友の弁よればイタリアで売っているものに比べると小さめであるとのこと。従って、残りの株は、もう暫く栽培を継続してみようと思います
肝心の花芽(下の写真);

プンタレッラの花芽
プンタレッラの花芽

は、やはり小さめとのことでした
料理に関しては恐ろしく!応用動作が得意なワイフに、早速料理を頼んでみたところ、以下の様なものが出来上がってきました;

プンタレッラの料理
プンタレッラの料理

左の皿は、プンタレッラの葉だけを使ったクリーム系のパスタ、右は花芽と葉を使ったサラダです。確かに、プンタレッラという野菜は日本の野菜とはかなり違うことが分かりました。やや苦みのある味は、色々な日本料理にも応用が可能と思われます

また、収穫して初めて分かったのですが、中心部の株の外側には”子株”が分離独立しつつありました。次の収穫時には、この子株を食べないで植えなおして栽培してみようかと思っています
因みに、プンタレッラの生命力を試すために、根の部分を捨てずに水栽培してみました;

DSC_0038
根の部分のミス栽培

なんと、1~2日で写真の様に葉が出てきました!

-みよし菜-

私の息子の一人は、人付き合いが良く、全国に親しい友人が居て忙しい間を縫ってよく地方都市に出かけています。昨年秋、地方創生の活動を活発に行っている徳島県三好市(三好市のホームページ)に出かけた時に、友達から貰って来た種が「みよし菜」です;

みよし菜の種
みよし菜の種

上記の説明書にもある通り、小松菜・水菜・白菜の交配種ということで、私の大好物の野菜3種類のDNAが入っているということで、栽培してみることにしました
成長が極めて早く、4月初めに種蒔きをしたところ、5月末にはコンテナからはみ出るほどに育ち、間引きをしながら既に何度も食べています;

みよし菜_6月1日
みよし菜_6月1日

説明書にもある通り、アクが無く柔らかく、期待通り大変美味しい野菜であることが分かりました。拙宅の場合、漬け物を第一として、御浸しや白和えで楽しんでいます。大きさを実感していただくために、参考までに水菜との比較写真を添えておきます;

みよし菜(左)と水菜(右)
みよし菜(左)と水菜(右)

-ビーツ-

ビーツは北ヨーロッパを中心に多く栽培されています。ロシア料理で有名な「ボルシチ」の濃い赤い色は、主材料となるビーツから出てくる色です。数年前から行っているビーツ栽培は、エストニアからのお土産で入手した種がきっかけでした;

ビーツ
ビーツ

ビーツは寒さに強いばかりではなく、虫も付きにくく育てやすい野菜です。通常、株の部分を茹でて食べますが、葉の部分も食べられます。北ヨーロッパの人には叱られるかもしれませんが、味というよりは、その深い赤い色に魅力があるようです。ボルシチ以外にも、ポテトサラダなどに加えると見事なピンク色のサラダが楽しめます

-キャベツの生命力に驚愕しました!-

昨年秋から育てていたキャベツは、今年に入って春先までに全て収穫を終わりましたが、その後土の再生や種蒔きに忙しかったため一部のコンテナをそのままにしておいたところ、再び芽が出て成長し、またキャベツが出来てしまいました!

キャベツ再生の記録
キャベツ再生の記録

上の写真の一番左はキャベツ収穫直後の時期、真ん中の写真は4月15日の状況、一番右の写真は6月1日時点の状況です。十分食用に耐える大きさに再成長しました
再生の条件を考察してみると、鳥に食べられながらも大きな葉が残っており、根も十分に張ったままになっていたこと、また3月後半以降は気温も上がり、成長の条件が整ったためと考えられます。冬を越した、株の大きな野菜には底知れない生命力が宿っていることを知り、愛おしくなりました

以上

憲法について考える

-はじめに-

憲法記念日の5月3日、安部首相は都内で開かれた公開憲法フォーラムにビデオメッセージを寄せ、憲法改正の時期と改正内容について明快に意思表示を行いました。この内容については、野党はおろか与党内の根回しも行っていなかったため、かなりの反響を呼びましたが、結果として、好むと好まざるとに関わらず、これから数年間、政治家や有識者の間で憲法に関する熱い議論が行われることは間違いないと思われます。また、我々一人ひとりも国会議員の選挙や、憲法改正が発議された場合は、国民投票により、自身の判断を投票に反映しなければなりません

私個人の憲法に対する考え方は(憲法についての私の見解)で述べました。また、現在までに公式に発表されている各政党の考え方については(各政党の憲法改正草案をチェックする)で紹介いたしました
今後、2007年に成立した「国民投票法」に基づき、衆参両院の「憲法審査会」で議論されますが、出てきた憲法改正案について皆さんご自身の判断の助けになればということで、以下に現行憲法に関わる諸問題について纏めてみました

-民主主義と立憲主義について-

2015年に成立した「新安保法制」の審議以降、所謂「立憲主義」という言葉が世の中に氾濫していますが、我々の世代では「民主主義」については十分に承知しているものの、「立憲主義」はちょっと耳慣れない言葉に感じます。使われている文脈から考えて、少なくとも「憲法に立脚した、、」という簡単な解釈ではダメな様です

そこで、色々調べてみた結果、日本の憲法学の権威である、樋口陽一(東京大学名誉教授)氏の説明が、ストンと腑に落ちたので以下に概略紹介してみたいと思います;
 民主主義(Democracy)はギリシャ語が語源で、「人民の支配」「人民の統治」という意味なので、その時々の人民が「これで行こう」という方向に進める。それを邪魔するものは、排除することを意味します。結果として、1946年の日本国民が選んだ憲法が、現在の日本をも縛っているというのは、憲法そのものが純粋なデモクラシーには反するということになります

 立憲主義はドイツから生まれました。民主主義がスムーズに展開しなかったドイツで、議会主義化への対抗概念として出てきました。ドイツは普仏戦争に勝って、ようやく1871年に統一します。憲法が作られ、議会も作られる。歴史の流れでは、王権はだんだん弱くなり、議会が伸びてくるはずだったですが、ドイツの場合は、イギリスやフランスのように議会が中心になるというところまでは行きませんでした。しかし、君主の絶対的な支配ではない。どちらも、決定的に相手を圧倒できないでいる時に使われたのが「立憲主義」です。君主といえども勝手なことはできず、その権力は制限される。けれどもイギリスやフランスのように議会を圧倒的な優位にも立たせない。つまり、権力の相互抑制です。この時期のイギリスやフランスは「民主主義」で、ドイツは「立憲主義」 、明治の日本は、そのドイツにならったわけです。ドイツは第一次大戦後、ワイマール憲法で議会中心主義になり、そこからナチス政権が生まれて失敗しました。それで、戦後のドイツは強力な憲法裁判所を作ることになりました

 「民主主義」と「立憲主義」は、純粋論理的に考えると緊張関係にあって、決して予定調和ではない。従って、民主主義を象徴する機関が議会だとすると、権力を縛る立憲主義の役割を果たすのは裁判所ということになります。

 アメリカのように大統領をトップとする行政府と議会が別々に選ばれている国は、権力分立は見えやすいですが、日本のような議院内閣制では、「政権与党(議会の多数派)+行政府」と「議会の少数派」の権力分立になります。そして、それとは別枠で裁判所があることになります

 日本国憲法も、ラディカルな立憲主義はとっておらず、この憲法を作ったからには永久に不変という硬直したものではありません。96条で改正手続きを定め、国会の両院で3分の2の議員が賛同するまで議論を尽くしてから国民に提起する、そして国民投票で国民が決めたらそれに従う、という妥協点を持っています

 現在の「安保法制」は、多くの憲法学者が「憲法違反」と考えていますが、一方で政府は安全保障環境が変わったからこの法案の必要性を強調しています。現行法のもとでは、必要だと思うことができそうにもないという時には、現行法を変えるための努力をすべきと考えます。今回の新安保法制で言えば、憲法には改正の手続きもあるのだから、どうしても必要なら、先にきちんと憲法改正を提起すべきだと思います

以上は、ジャーナリストの江川紹子(大手メディアが及び腰であった頃からオウム真理教の危険性を告発していたことで有名です)氏のサイト(立憲主義ってなあに?)から抜粋したものです。このサイトには、上記以外の有益な情報も載っていますので時間のある時に読まれることをお薦めします

-現行憲法の解釈について-

現行憲法の各条規の表現は、一部を除き概して包括的であり、その解釈は人によって、あるいは時代によって異なることが発生します。従って、解釈に疑義が生じた場合は裁判で争い、最終的に最高裁判所が下した判断(最高裁の判例)で憲法の条規を補完することを積み重ねてきました。また、逆に上記の表現が、具体的であるため、時が経つにつれて改定が必要になってくるものもあります
以下に、憲法が政治や社会の実態にどのように合わせて来たか、また今後どのように変わっていくべきかについて述べてみたいと思います;

天皇制関連;
第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく ⇒ 昭和天皇、今上天皇の所謂「象徴業務(戦災地の慰霊行幸、災害地の慰問行幸」につながっています
第2条
 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する

皇室典範
第1条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する
第2条 皇位は、左の順序により、皇族に、これを伝える
 皇長子  皇位継承第一順位:現皇太子
  皇長孫  愛子内親王は皇位継承できない
三 その他の皇長子の子孫
四 皇次子及びその子孫 皇位継承第二順位:秋篠宮
  その他の皇子孫  皇位継承第三順位:悠仁親王
  皇兄弟及びその子孫
  皇伯叔父及びその子孫
  前項各号の皇族がないときは、皇位は、それ以上で、最近親の系統の皇族に、これを伝える。
  前二項の場合においては、長系を先にし、同等内では、長を先にする。
第3条  皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、前条に定める順序に従って、皇位継承の順序を変えることができる。
第4条  天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する ⇒ 今上天皇の生前退位はこれに反する
-以下略-

第3条  天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負う ⇒  昭和天皇、今上天皇の所謂「象徴業務」はどう取り扱うか
第4条;
 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない
 天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる
第5条  皇室典範 の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行う。この場合には、前条第1項の規定を準用する。
第6条;
 天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。
 天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。
第7条  天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行う
一  憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること
二  国会を召集すること
三  衆議院を解散すること
四  国会議員の総選挙の施行を公示すること
五  国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること
六  大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること
七  栄典を授与すること
八  批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること
九  外国の大使及び公使を接受すること。
十  儀式を行うこと
第8条  皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは賜与することは、国会の議決に基かなければならない 

戦争の放棄、自衛隊関連;
第9条;
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する
2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない国の交戦権は、これを認めない
第98条;
 この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない
 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする

砂川事件;
  1957年7月8日、砂川町にある米軍立川基地拡張のための測量で、基地拡張に反対するデモ隊が、米軍基地の立ち入り禁止の境界柵を壊し、基地内に数メートル立ち入ったとして、デモ隊のうち7名が日本国と米国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく行政協定に伴う刑事特別法違反で起訴された事件

砂川事件
砂川事件

 被告側の主張は、米軍の日本駐留自体が憲法9条違反
 第一審の東京地裁が安保条約を「違憲」の判決を下した
 検察側は、二審を経ずに直接最高裁に上告した
最高裁判決;
 憲法第9条は、わが国が敗戦の結果、ポツダム宣言を受諾したことに伴い、日本国民が過去におけるわが国の誤って犯すに至った軍国主義的行動を反省し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、深く恒久の平和を念願して制定したものであつて、前文および第98条第2項の国際協調の精神と相まって、わが憲法の特色である平和主義を具体化したものである
 憲法第9条第2項が戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となって、これに指揮権、管理権を行使することにより、同条第1項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起すことのないようにするためである
 憲法第9条はわが国が主権国として有する固有の自衛権を否定してはいない
 わが国が、自国の平和と安全とを維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置を執り得ることは、国家固有の権能の行使であって、憲法は何らこれを禁止するものではない
 憲法は、自衛のための措置を、国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事措置等に限定していないのであつて、わが国の平和と安全を維持するためにふさわしい方式または手段である限り、国際情勢の実情に則し適当と認められる以上、他国に安全保障を求めることを何ら禁ずるものではない
 わが国が主体となって指揮権、管理権を行使し得ない外国軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても憲法第9条第2項の「戦力」には該当しない
 安保条約の如き、主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係を持つ高度の政治性を有するものが、違憲であるか否の法的判断は、純司法的機能を使命とする司法裁判所の審査の原則としてなじまない性質のものであり、それが一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外にあると解するべきである
 安保条約(またはこれに基く政府の行為)が違憲であるか否かが、本件のように(行政協定に伴う刑事特別法第二条が違憲であるか)前提問題となっている場合においても、これに対する司法裁判所の審査権になじまないのは前項と同様である
 安保条約(およびこれに基くアメリカ合衆国軍隊の駐留)は、憲法第98条、第98条第2項および前文の趣旨に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは認められない
 行政協定は特に国会の承認を経ていないが違憲無効とは認められない

長沼ナイキ(地対空ミサイル)基地訴訟
 1969年、夕張郡長沼町に航空自衛隊の「ナイキ基地」を建設するため、農林大臣が森林法に基づき国有保安林の指定を解除。これに対し反対住民が、基地に公益性はなく「自衛隊は違憲、保安林解除は違法」と主張して、処分の取消しを求めて行政訴訟を起こした

長沼ナイキ基地反対闘争
長沼ナイキ基地反対闘争

 一審の札幌地裁は「平和的生存権」を認め、初の違憲判決で処分を取り消した
 二審の札幌高裁は「防衛施設庁による代替施設の完成によって補填される」として一審判決を破棄、「統治行為論」を判示
最高裁判決;
* 行政処分に関して原告適格の観点から、原告住民に訴えの利益なしとして住民側の上告を棄却したが、二審が言及した自衛隊の違憲審査は回避した

⇒ 最高裁は、砂川事件、長沼ナイキ事件いずれのケースも米軍の駐留や自衛隊の存在に対する直接の憲法判断を避けています。「新安保法制」が憲法違反であるという意見が多ければ、憲法9条の改正を目指すのが本筋かも知れません

法の下での平等関連;
第14条;
1 すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2  華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
3  栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。
第15条;
 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
 すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。
 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。
第44四条  両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める。但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によって差別してはならない

公職選挙法衆議院定数配分規定違憲訴訟(1976年4月14日);
公職選挙法衆議院定数配分規定違憲訴訟(1985年7月17日);
 衆議院議員選挙が憲法に違反する公職選挙法の選挙区及び議員定数の定めに基づいて行われたことに伴う選挙無効を求めた行政訴訟
最高裁判決;
 投票価値の平等は、常に絶対的な形での実現を必要とするものではないけれども、国会がその裁量によって決定した具体的な選挙制度において現実に投票価値に不平等の結果が生じている場合に、合理的に是認することができるものでなければならないと解される
 議員定数配分規定の下における各選挙区の議員定数と人口数との比率の偏差は、憲法の選挙権の平等の要求に反する程度になっていた為違憲と断ぜられるべきである
 しかし、投票価値の平等は人種、信条、性別等による差別を除いては、原則として、国会が正当に考慮することのできる他の政策的目的ないしは理由との関連において調和的に実現されるべきものと解さなければならない
 本件は憲法に違反する議員定数配分規定に基づいて行われた点において違法である旨を判示するにとどめ選挙自体はこれを無効としないこととし、選挙を無効とする旨の判決を求める請求を棄却する

日産自動車事件;
 原告女性は、元々プリンス自動車工業に勤務しており、この会社では男女とも定年が55歳であった。プリンス自動車は1966年に日産自動車に吸収合併され、就業規則で定年を男性55歳、女性50歳と定めていた。満50歳となった原告は1969年1月末で退職を命じられたことに対し、従業員である地位の確認を求める仮処分申請を起こした。しかし、一審・二審とも請求が棄却されたため女性が本訴に及んだ
 本訴では一審・二審とも男女別定年制が違法であると認めたため、会社側が日本国憲法第14条、民法90条の解釈誤りを主張して上告を行った
<民法>第90条  公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする
最高裁判決;
 会社がその就業規則中に定年年齢を男子60歳、女子55歳と定めているが、担当職務が相当広範囲にわたっていて女子従業員全体を会社に対する貢献度の上がらない従業員とみるべき根拠はなく、労働の質・量が向上しないのに実質賃金が上昇するという不均衡は生じておらず、少なくとも60歳前後までは男女とも当該会社の通常の職務であれば職務遂行能力に欠けるところはなく、一律に従業員として不適格とみて企業外へ排除するまでの理由はない。従って、就業規則中女子の定年年齢を男子より低く定めた部分は、性別のみによる不合理な差別を定めたものとして民法90条の規定により無効である
 上告棄却

人権関連;
第19条  思想及び良心の自由は、これを侵してはならない
第21条;
 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない
第23条  学問の自由は、これを保障する

昭和女子大事件;
 昭和女子大学は、学内で無届の政治署名運動を行なったり、無許可で学外団体に加入し、公然と大学を誹謗する活動を続けた学生2名を、1962年2月12日付で退学処分にした。また、当該大学は、穏健中正な校風を持つ大学として学生指導を行い、学則の細則として「生活要録」を定めており、その中で「政治活動を行う場合は予め大学当局に届け、指導を受けなければならない」旨規定していた。当該学生2名は、大学の「生活要録」そのものが、思想や信条の自由を謳った日本国憲法に違反することから、退学処分が違憲であるとして身分確認を求める訴訟を起こした
 一審では復学の請求を認めた
* 二審では一審判決を取り消し、請求を棄却した
最高裁判決;
* 私立大学において、建学の精神に基づく校風と教育方針に照らして学生が政治的目的の署名運動に参加し又は政治的活動を目的とする学外団体に加入することを放任することは教育上好ましくないとする見地から、学則等により、学生の署名運動について事前に学校当局に届け出るべきこと、及び学生の学外団体加入について学校当局の許可を受けるべきことを定めても、これをもつて直ちに学生の政治的活動の自由に対する不合理な規制ということはできない
 学校教育法施行規則13条3項4号により学生の退学処分を行うにあたり、当該学生に対して学校当局のとった措置が本人に反省を促すための補導の面において欠けるところがあつたとしても、それだけで退学処分が違法となるものではなく、その点をも含めた諸般の事情を総合的に観察して、退学処分の選択が社会通念上合理性を認めることができないようなものでないかぎり、その処分は、学長の裁量権の範囲内にあるものというべきである
 学生の思想の穏健中正を標榜する保守的傾向の私立大学の学生が、学則に違反して、政治的活動を目的とする学外団体に無許可で加入し又は加入の申込をし、かつ、無届で政治的目的の署名運動をした事案において、これに対する学校当局の措置が、学生の責任を追及することに急で、反省を求めるために説得に努めたとはいえないものであつたとしても、学生が、学則違反についての責任の自覚に乏しく、学外団体からの離脱を求める学校当局の要求に従う意思はなく、説諭に対して終始反発したうえ、週刊誌や学外集会等において公然と学校当局の措置を非難するような行動をしたなどの事情があるときは、学校教育法施行規則13条3項4号により当該学生に対してされた退学処分は、学長に認められた裁量権の範囲内にある
* 上告を棄却する

信教の自由関連;
第20条;
1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2  何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3  国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
第89条  公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない

 津地鎮祭訴訟;
* 1965年1月14日、滋賀県津市体育館建設起工式の際、市の職員が式典の進行係となり、大市神社の宮司ら4名の神職主宰のもとに神式に則って地鎮祭を行った。市長は大市神社に対して公金から挙式費用金7、663円(神職に対する報償費金4,000円、供物料金3,663円)の支出を行った。
* これに対し、津市議会議員が憲法第20条、及び憲法89条に違反するとして地方自治法第242条の2に基づき、損害補填を求めて訴追した
* 一審で原告の請求棄却
* 二審では原告勝訴
最高裁判決;
* 津市が行った地鎮祭は、目的が専ら世俗的なもので、その効果は、神道を援助、助成、促進するものではない。従って、憲法第20条第3項により禁止される宗教的活動には当たらず、これに対する公金の支出も憲法第89条に違反するものではない

箕面市忠魂碑訴訟;
 1970年代、老朽化した箕面小学校改築工事に伴い忠魂碑を移設・改築する際、土地の買取以外に、忠魂碑を移転・再建するだけでなく、遺族会に代替敷地の無償貸与、及び遺族会主催の慰霊祭に市教育長が参列した。この行為が、憲法20条及び89条違反するとして行われた二つの住民訴訟
 第一審では、忠魂碑は宗教的性質を帯びているものであるとして、市の行為は政教分離に反するとし、且つ、市教育長の慰霊祭への参列に対しても公務とはいえないととする違憲判決を行った
 第二審では、忠魂碑の宗教的性質を否定し、市の教育長の慰霊祭参列に関しても社会的儀礼の範囲内であり、自治体の行為は政教分離を反したものではないとして、住民らの訴えを退けた
最高裁判決;
 忠魂碑が、元来、戦没者記念碑的性格のものであり、特定の宗教とのかかわりが、少なくとも戦後においては希薄であること戦没者遺族会が宗教的活動をすることを本来の目的とする団体ではないこと、市が移設、再建等を行った目的が、忠魂碑のあった公有地を学校用地として利用することを主眼とするもので、専ら世俗的なものであることなどの事情の下においては、いずれも憲法20条3項により禁止される宗教的活動には当たらない
 財団法人日本遺族会及びその支部は、憲法20条1項後段にいう「宗教団体」、憲法89条にいう「宗教上の組織若しくは団体に該当しない
 市の教育長が地元の戦没者遺族会が忠魂碑前で神式又は仏式で挙行した各慰霊祭に参列した行為は、忠魂碑が、元来、戦没者記念碑的性格のものであること、戦没者遺族会が宗教的活動をすることを本来の目的とする団体ではないこと、参列の目的が戦没者遺族に対する社会的儀礼を尽くすという専ら世俗的なものであることなどの事情の下においては、憲法20条、89条に違反しない

言論の自由関連;
第21条;
 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない

博多駅テレビフィルム提出命令事件;
 1968年1月16日早朝、原子力空母エンタープライズの佐世保寄港阻止闘争に参加する途中、博多駅に下車した全学連学生に対し、待機していた機動隊、鉄道公安職員は駅構内から排除するとともに、検問と所持品検査を行った。この際、警察の検問と所持品検査に抵抗した学生4人が公務執行妨害罪で逮捕され、内1人が起訴された。本件自体は、1970年10月30日に無罪判決が出ています

エンタープライズ佐世保寄港阻止闘争
エンタープライズ佐世保寄港阻止闘争

 福岡地裁は、本件の審理に必要だとして、地元福岡のテレビ局4社(NHK福岡放送局、RKB毎日放送、九州朝日放送、テレビ西日本)に対し、事件当日のフィルムの任意提出を求めたが拒否されたため、フィルムの提出を命じた
 この命令に対して当該4社は、「報道の自由の侵害であり、提出の必要性が少ない」という理由で通常抗告を行った
 二審では抗告棄却となったため、当該4社は、最高裁に特別抗告を行った
最高裁判決;
 報道の自由は、表現の自由を規定した憲法21の保障のもとにあり、報道のための取材の自由も、同条の精神に照らし、十分尊重に値するものといわなければならない
 報道機関の取材フィルムに対する提出命令が許容されるか否かは、審判の対象とされている犯罪の性質、態様、軽重および取材したものの証拠としての価値、公正な刑事裁判を実現するに当たっての必要性の有無を考慮するとともに、これによって報道機関の取材の自由が妨げられる程度、これが報道の自由に及ぼす影響の度合その他諸般の事情を比較衡量して決せられるべきであり、これを刑事裁判の証拠として使用することがやむを得ないと認められる場合でも、それによって受ける報道機関の不利益が必要な限度をこえないように配慮されなければならない
* 抗告棄却

北方ジャーナル事件;
 1979年の北海道知事選に立候補を予定していた候補者(元旭川市長)の名誉を毀損する内容の記載がある、雑誌『北方ジャーナル』の発売停止の仮処分を札幌地裁に申請し、即日認められた。これに対して、この雑誌の出版社が、この差し止めが「検閲」に当たるとして、国とこの候補者に対して損害賠償を請求した事件
 名誉を棄損するとされた記事:候補者を、「嘘と、ハッタリと、カンニングの巧みな少年」、「言葉の魔術者であり、インチキ製品を叩き売っている(政治的な)大道ヤシ」、「ゴキブリ共」などと表現し、結論として知事に相応しくないと記載していた
 一審は請求を棄却、二審は控訴棄却
最高裁判決;
 雑誌その他の出版物の印刷、製本、販売、頒布等の仮処分による事前差止めは、憲法21条2項の「検閲」には当たらない
 名誉毀損の被害者は、人格権としての名誉権に基づき、加害者に対して、現に行われている侵害行為を排除し、又は将来生ずべき侵害を予防するため、侵害行為の差止めを求めることができる
 人格権としての名誉権に基づく出版物の印刷、製本、販売、頒布等の事前差止めは、その出版物が公務員又は公職選挙の候補者に対する評価、批判等に関するものである場合には原則として許されず、その表現内容が真実でないか又は公益を図る目的のものでないことが明白、且つ被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被るおそれがあるときに限り、例外的に許される。
 公共の利害に関する事項についての表現行為の事前差止めを仮処分によって命ずる場合、原則として口頭弁論又は債務者の審尋を経ることを要するが、債権者の提出した資料により、表現内容が真実でないか又は専ら公益を図る目的のものでないことが明白であり、かつ、債権者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞があると認められるときは、口頭弁論又は債務者の審尋を経なくても憲法21条の趣旨に反するものとはいえない
 上告棄却

東京都公安条例違反事件;
 デモを主催する者が、東京都公安委員会に許可の申請を行ったところ、公安条例に基づき「蛇行進、渦巻行進又は、ことさらな停滞等交通秩序を乱すような行為は絶対に行わないこと」という条件の下、集団行進の許可を得たが、この件に違反する行動をとったため、東京都公安条例違反で起訴された
 本件に対して、東京都条例の「許可制」は憲法21条1項に違反するとして争った
 その他の地方自治体でも、東京都と同じ様な公安条例を制定しており、同じような訴訟が発生している

<東京都 集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例
第1条 道路その他公共の場所で集会若しくは集団行進を行おうとするとき、又は場所の如何を問わず集団示威運動を行おうとするときは、東京都公安委員会(以下「公安委員会」という。)の許可を受けなければならない
-第2条省略-
3条;
1 公安委員会は、前条の規定による申請があつたときは、集会、集団行進又は集団示威運動の実施が公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合の外は、これを許可しなければならない。但し、次の各号に関し必要な条件をつけることができる。
一 官公庁の事務の妨害防止に関する事項
二 銃器、凶器、その他の危険物携帯の制限等危害防止に関する事項
三 交通秩序維持に関する事項
四 集会、集団行進又は集団示盛運動の秩序保持に関する事項
五 夜間の静ひつ保持に関する事項
六 公共の秩序又は公衆の衛生を保持するためやむを得ない場合の進路、場所又は日時の変更に関する事項
2 公安委員会は、前項の許可をしたときは、申請書の一通にその旨を記入し、特別の事由のない限り集会、集団行進又は集団示成運動を行う日時の二十四時間前までに、主催者又は連絡責任者に交付しなければならない。
3 公安委員会は、前二項の規定にかかわらず、公共の安寧を保持するため緊急の必要があると明らかに認められるに至つたときは、その許可を取り消し又は条件を変更することができる
4 公安委員会は、第一項の規定により不許可の処分をしたとき、又は前項の規定により許可を取り消したときは、その旨を詳細な理由をつけて、すみやかに東京都議会に報告しなければならない。
-第4条~第7条 省略-

 一審では、許可制により一般的制限を課し、その基準も不明確であるという理由で本条例は憲法21条違反として無罪とした
 東京都は控訴したものの、控訴棄却となった
最高裁判決;
* 集団行動は、一瞬にして暴徒と化す危険があるので、地方公共団体が公安条例をもって、不測の事態に備え法と秩序を維持するに必要かつ最低限度の措置を講ずることはやむを得ない
 東京都公安条例は、規定の文面上、許可制を採用しているが、実質は届出制と異ならない
 二審判決を破棄し東京地裁に差し戻した

婚姻の自由関連;
第24条;
 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
 この条規を変えない限り同性婚は認められません。所謂LGBT(Lesbian、Gay、Bisexual、Transgender)の差別に繋がる憲法の規定であり、早急に改正を行うべきであるという意見が多いと思われます

教育の機会均等関連;
第26条;
1 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する
 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育は、これを無償とする。
 貧困に伴う教育の機会均等が失われているという認識が一般化しつつあり、高等学校の無償化、あるいは義務教育期間の延長などの検討を行うべきであるという意見があります

公務員の争議権関連;
第18条  何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない
第28条  勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する
第31条  何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない

全逓東京中郵事件;
 昭和33年の春闘の際、被告人8名が全逓信労働組合の役員として、東京中央郵便局の従業員を勤務時間に食い込む職場集会に参加するよう要請、説得し、38名の従業員に対して職場を離脱させた行為が、郵便法79条1項の郵便物不取り扱い罪の教唆罪に当たるとして起訴された。
 郵便局職員の争議行為禁止規定の合憲性が争点
 第一審は無罪
 第二審は第一審判決を破棄し差し戻し
最高裁判決;
 公務員に対して労働基本権をすべて否定するようなことは許されず、原則としてその権利を認められねばならない
 一方、労働基本権を認めると言っても何等の制約も許されないという絶対的なものではなく、国民生活全体の利益を守るという見地からの制約を受ける
 労働基本権を制限することがやむを得ない場合は、これに見合う代替措置が必要
 二審判決を破棄し差し戻し。結果、無罪となる

全農林警職法事件;
 昭和33年10月、当時の内閣は警職法(警察官職務執行法)改正案を衆議院に提出しましたが、その内容が警察官の職権濫用を招き、ひいては労働者の団体運動を抑圧する危険が大きいとして、各種労働団体(公務員労組を含む)は勿論のこと、全国規模で反対運動が展開されました
 全農林労組総評(日本労働組合総評議会)の統一行動に参加することになり、同労組幹部が同年11月5日午前中の職場大会への職員の参加を指示したことについて、国家公務員法98条5項に違反するとして、同100条1項17号にて起訴されました

警職法改正
警職法改正

* 国家公務員法98条5:公務員は使用者としての公衆に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為をなし、又は政府の活動能率を低下させる怠業的行為をしてはならない。 又、何人も、このような違法な行為を企て、又はその遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおつてはならない
 国家公務員法110条1項17:何人たるを問わず第98条第2項前段に規定する違法な行為の遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおり、又はこれらの行為を企てた者は、3年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処する
 第一審は、被告人らの行為が強度の違法性を帯びない限り当該国家公務員法違反とはならず無罪
 第二審は、本件争議行為を「政治スト」と解し、被告人を有罪判決としました
最高裁判決;
 公務員が争議行為に及ぶことは、その地位の特殊性及び職務の公共性と相いれない。また職務の停滞は、勤労者を含めた国民全体の共同利益に重大な影響を及ぼすか、またはその恐れがある
* 地位の特殊性及び職務の公共性の他、勤務条件法定主義に基づき、公務員の争議行為を一切禁止した国家公務員法98条5項、及び、同法110条1項17号は合憲である
 被告人らは有罪

 都教組事件;
 東京都教職員組合(小・中学校)は、勤務評定に反対し、これを阻止するために、加盟組合員に有給休暇を一斉に請求した上で、1958年4月23日の集会に参加するよう指令し、約37,700名中、約34,000名の教職員が参加しました。そこで、当該組合の委員長、執行委員長、支部長、等の組合役員を、ストライキを煽ったことを理由に地方公務員法37条1項、及び61条4号違反として起訴された事件

勤務評定反対闘争
勤務評定反対闘争

<地方公務員法>
37
1項 職員は、地方公共団体の機関が代表する使用者としての住民に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為をし、又は地方公共団体の機関の活動能率を低下させる怠業的行為をしてはならない。又、何人も、このような違法な行為を企て、又はその遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおつてはならない
61
条 次の各号のいずれかに該当する者は、三年以下の懲役又は百万円以下の罰金に処する
4号 何人たるを問わず、第37条第1項前段に規定する違法な行為の遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおり、又はこれらの行為を企てた者

 被告は、「地方公務員法37条1項、及び61条4号は、憲法28条、21条、18条、31条に違反する法律規定であり無効。従って、被告人の行為は罪とならない。仮に構成要件に該当するとしても、正当行為として違法性が阻却(法律用語で“退けられる”という意味)される」と」主張
 一審は無罪
 二審は有罪
最高裁判決;
 地方公務員法37条1項は憲法28条に違反しない、同61条4号は、憲法28条、18条、31条に違反しない
 東京都教職員組合が、文部省の企図した公立学校教職員に対する勤務評定の実施に反対するため、一日の一斉休暇闘争を行なうにあたり、被告人らが組合の幹部としてした闘争指令の配布、趣旨伝達等、争議行為に通常随伴する行為に対しては、地方公務員法六一条四号所定の刑事罰をもつてのぞむことは許されない
 二審判決を破棄し無罪

以上

北朝鮮危機について

-はじめに-

トランプ大統領が生まれてから、北朝鮮の核開発と大陸間弾道ミサイルの開発を巡って急激に緊張が高まってきました。米国と北朝鮮の公式の言い分だけを聞いていると、今にも戦争が始まってもおかしくないような状況になっています
新聞、テレビなどのマスコミは、国際政治の専門家や軍事評論家などを招いて熱心に分析を行ってみせますが、どうも対岸の火事のような扱いをしているように思えてなりません。また、そうした「空気」が影響していると思われますが、国民全体としても、ウクライナやシリアの内戦をテレビで見ている様な、現実感の無い遠い出来事としてとらえているふしがあります

しかし、北朝鮮はミサイルという飛び道具(米国が恐れる大陸間弾道ミサイルと違って日本に届く中距離ミサイルは既に実戦配備されている)と原子爆弾や化学・生物兵器という大量破壊兵器を既に保有しています

中距離弾道ミサイル_同時発射実験
移動式中距離弾道ミサイル(固体燃料)_同時発射実験

一方、日本は、米国との同盟国として北朝鮮に明確に敵対している状況にあることと、1910年から終戦まで35年間に亘って日本が植民地支配を行なってきたことに対する朝鮮人の人々に共通する怨念などを考慮すると、戦端が開かれたあと最初の攻撃目標に日本の都市や米軍基地が選ばれる蓋然性は、決して低くはないと私は思っています

在日米軍基地・配置図
在日米軍基地・配置図

国際社会による経済制裁や、6ヶ国協議による謂わば「飴とムチ」政策の中で、北朝鮮が着々と進めてきた核開発やミサイル開発は、彼らの体制の維持の為の必須条件となっているため、最早止めようもないという認識が一般化しつつあります
一方、米国にとっても、これまでと違って大陸間弾道ミサイルの開発が最終段階となって、これと原子爆弾がセットになった場合、真珠湾攻撃以来の米国への直接攻撃という大きなリスクを抱えることとなり、少なくとも核兵器の放棄という果実が得られない限り、今までの様な妥協は許されない状況になっています

しかし、今回の危機の当事者である米国、韓国、北朝鮮、中国は、過去の悲惨な朝鮮戦争の当事者でもあり、開戦の決断に対する国民の心理的なハードルは極めて高いことも確かです。また、クリミヤ半島の併合、ウクライナ内戦、シリア内戦の当事者であるロシアも北朝鮮と国境を接し、経済的なつながりも持っていますので、世界の覇権を競うこの三つの軍事大国が激突する構図は避けたいと思っていることに加え、地政学的に北朝鮮という国が、この三つの国の間の緩衝国として必要であるという点で共通認識を持っていると考えられますので、以前の朝鮮戦争の様な全面戦争に発展する可能性はかなり低いと考えられます

ただ、金日成がスターリンや毛沢東の反対を押し切って朝鮮戦争を始めた経緯(下記の注参照)や、金正恩が父である金正日ではなく金日成の統治スタイルの継承を目指している現況を勘案すると、開戦のリスクはゼロではないと思われます
(注)ソ連邦の崩壊後に、金日成がスターリンや毛沢東と交わした極秘電文が公開されています。詳しくは以下の書籍をご覧ください:「朝鮮戦争の謎と真実」/草思社;A・V・トルクノフ著;下斗米伸夫・金成浩訳)

-朝鮮戦争のクイック・レビュー-

ソウルに突入する北朝鮮軍戦車隊
ソウルに突入する北朝鮮軍戦車隊

上の写真は、1950年6月25日、突如北朝鮮軍が38度線を突破して韓国に侵入してきたときのソウルの様子を写した写真です。その後、北朝鮮軍は破竹の勢いで釜山まで進軍し、ほぼ韓国全土を掌握しかけました。しかし、同年9月15日、米軍を主力とする国連軍が仁川に上陸し、北朝鮮軍を圧倒して38度線を越えて北朝鮮を中国国境近くまで追い詰めましたが、建国したばかりの中国の義勇軍が鴨緑江を越えて北朝鮮に侵入して国連軍を押し返し、38度線で膠着状態に陥りました。1953年7月27日、38度線上にある板門店で休戦協定を結んだ後、現在に至っています
一説によれば、この戦争で軍人及び民間人の犠牲者(死者のみ)は、韓国240万人、北朝鮮290万人、中国90万人、米国15万人と言われており、太平洋戦争における日本人の死者数310万人と比べてみてもその死者数は桁違いと言わざるを得ません。しかも同じ民族同志の殺し合いという意味で朝鮮民族にとってその悲惨さは計り知れません
その後、青瓦台襲撃未遂事件/1968年、ラングーン爆破テロ事件/1983年、大韓航空機撃墜事件/1987年、延坪島砲撃事件/2010年、ついこの間の金正男暗殺事件、などなど北朝鮮が仕掛けた事件が数多く発生しているものの、米ソの冷戦、及びこれに続く中国の覇権国家としての台頭という国際情勢の中でギリギリのバランスを保ち、全面戦争に至らないで現在まで65年以上にわたって休戦状態が続いています

敗戦後の日本は、この朝鮮戦争によって米軍の後方基地としての役割から経済復興の足掛かりをつかみ、その後の奇跡的な経済発展の出発点となりました。また、日本に駐留する米軍が朝鮮に出兵することに伴う日本の防衛・治安維持を担うために、1950年7万5千人規模の警察予備隊が発足しました。1952年にはこれが保安隊に改組され、更に2年後の1954年には現在の自衛隊になり、実質的に再軍備がなったことになります。
また、敗戦後の日本は周辺海域に残る機雷除去のために旧海軍の部隊が掃海業務を行っておりましたが、朝鮮戦争勃発後、米軍の艦船に蝕雷(機雷に触れること)による被害が出た為に、マッカーサーの命令で1200名規模の特別掃海隊が組織され、朝鮮海域に派遣されました。この部隊が、元山(現北朝鮮)付近の海域で掃海業務を行っている際に、蝕雷により戦後初の戦死者を出しましたが、憲法9条の建前上この事実はあまり知られないままに歴史のベールに包まれてしまいました

-法体系上留意すべきこと-

日本は、きちんとした「法治国家」であることは異論のない所です。現在の日本の憲法の下で、日本が宣戦布告をしたり、先制攻撃を仕掛けることはあり得ないとしても、不意に北朝鮮から攻撃を受けたとき、あるいは同盟国である米国が北朝鮮との間で戦端を開いた時、日本の法制度ではどのように戦争を始めるのでしょうか、以下に、そのあたりを素人なりに解明してみたいと思います

日本の憲法では、その前文、及び第9条に「戦争の放棄」を謳っています。しかし、内閣法制局の憲法解釈で「自衛権」の存在は認められており、それを根拠に自衛隊という戦力を保持しています(詳しくは私のブログ:憲法についての私の見解 を参照)
この自衛権の発動の手順は、以下の自衛隊法に規定されています;

第七十六条  内閣総理大臣は、次に掲げる事態に際して、我が国を防衛するため必要があると認める場合には、自衛隊の全部又は一部の出動を命ずることができる。この場合においては「武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律(平成十五年法律第七十九号)」第九条の定めるところにより、国会の承認を得なければならない
 我が国に対する外部からの武力攻撃が発生した事態又は我が国に対する外部からの武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至つた事態
二  我が国と密接な関係にある他国(本件の場合、米国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態

ここで大切なポイントは、戦争を始めることにつき改めて国民の意思を確認する機会はありません。政権を担っている政党、及びその政党を率いる総裁(=首相)に判断を委ねることになります(勿論、国会でのチェックは入りますが)

また、現憲法が成立した当時、この様な形での自衛権の行使は想定されていなかったため、一般に戦争を遂行する際当然必要となる「交戦権」は、以下の通り明確に否定されたままになっています;

第九条  国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。
第二項  陸海空軍その他の戦力の保持は許されない。国の交戦権は認められない

一般に「交戦権」とは明確な定義は無いものの、「交戦国が国際法上有する種々の権利の総称であって、相手国兵力の殺傷と破壊相手国の領土の占領などの権能を含むものである」とされております。従って、日本の領土に北朝鮮軍が侵入した場合に、これを日本の領土外に撃退するまでの戦闘行為であれば、今の自衛権の定義の範囲で対応可能と思われますが、ミサイルによる攻撃があった場合に、敵ミサイル基地の攻撃を行うことや、公海上で敵部隊が日本に接近中にある時に、敵部隊に対する攻撃を行うこと、また攻撃をやめない敵国の領土に侵入して攻撃を行うことが現行憲法上可能かどうかは、恐らく議論が分かれるところだと思います

-日本が甘受せざるを得ないリスク-

たとえ北朝鮮から攻撃を受ける蓋然性が低いといっても、もし攻撃を受けた場合のリスクについて国民すべてが正確に認識しておく必要があると私は考えます。以下に、戦端が開かれた後、直ちに発生するリスクについて概説してみたいと思います

<ミサイル防衛上のリスク>
日本が保有する弾道ミサイル迎撃システム(海上に於けるSAM3と陸上におけるパトリオット3による2段階の迎撃)も、命中する確率は100%ではないことと、保有するミサイルの数には限りがあるため、打ち漏らして着弾するリスクは存在します。特に北朝鮮が公言しているミサイルの「飽和攻撃」(沢山のミサイルを同時に一か所に集中する攻撃)が実施された場合、一定の数は打ち漏らしてしまうことは紛れもない現実として受け入れねばなりません

<原子爆弾が使用されるリスク>
原始爆弾がミサイルに搭載できるほど小型化されたという確証は得られていませんが、もし開発完了しているとすれば、同胞である韓国に対して使うよりは、日本にある米軍基地、あるいは日本の大都市に対して使うと考える方が自然です。中でも植民地時代に受けた屈辱や、米軍からの報復核攻撃のリスクを勘案すると、日本の大都市が最初に核攻撃を受ける蓋然性が高いと私は考えています

<化学兵器、生物兵器が使用されるリスク>
化学・生物兵器は、第一次大戦で最初に使用され、極めて非人道的な兵器として知られていますが、コストの安い大量破壊兵器として現在もなおイラクやシリアで実際に使われてきました。北朝鮮は、1997年に発効した「化学兵器禁止条約」に加盟していない数少ない国であり、また、化学兵器、生物兵器をミサイルの弾頭に搭載する技術は保有していると言われています;

サリンガス弾頭
サリンガス弾頭

上の写真にある弾頭の中には、小さな球形のカプセルが詰まっていますがこのカプセルの中に化学物質や細菌が仕込まれ、着弾と同時に広範囲にバラまかれて、人的被害を拡大する仕掛けになっています。
化学兵器は、マレーシアで金正男暗殺(VXガスを使用)に使われたことで分かる通り、北朝鮮にとって使用に係る心理的な障害は皆無であると考えられます。また、人的被害を与えることが目的の兵器なので、使うとすれば人口が密集する大都市が対象となることは当然考えられることです

<北朝鮮の特殊部隊が潜入し、日本国内で破壊活動を行うリスク>
北朝鮮には相当数の特殊部隊が存在していることは周知の事実です。そしてこれらの特殊部隊は極めて危険な任務についても、目的を達するまで戦い通す実力を備えていることは、臨戦態勢に近い状態であった韓国に侵入して起こした「青瓦台襲撃未遂事件」などをみても明らかな事です
一方、日本は「日本人拉致事件」の被害者数を見れば明らかな様に、海からの侵入に対して、無防備な状態に置かれています。北朝鮮が数多く所有している潜水艦を使って少数の特殊部隊を送り込むことは、戦時体制に入れば易しいとは言えないまでも、極めて困難とは言えないと私は思っています
送り込まれる特殊部隊が少数であることを考えると、比較的過疎地にあって発見されにくく、侵入が容易で、防御が手薄な原子力発電所や水力発電所が攻撃対象に選ばれる可能性が考えられます。最も危険な攻撃方法は、原子力発電所にあっては大量の核燃料を保管しているプールの爆破(→水が抜けると燃料溶融が起こる)、水力発電所にあってはダムの爆破(→下流の村落が水害に見舞われる)が考えられます

<韓国に滞在中の日本人が犠牲となるリスク>
1995~96年にかけて第三次台湾海峡危機がありました。当時蒋介石、蒋経国時代(蒋介石と共に大陸から台湾にわたってきた中国人による台湾支配の時代)が終わって、台湾人の李登輝が民選(選挙による)によって総統に選ばれるタイミングに当たっていていました。中国は、台湾の独立は許さないとの立場で強力な軍事的圧力(福建省内の軍隊の移動、台湾海峡を越えるミサイル実験)をかけ、これに対応して米軍は台湾海峡に向け原子力空母を移動させるという、現在の北朝鮮危機と同じ様な状況になっていました
丁度この時期、私は日本アジア航空の社員として台湾に駐在しており、台湾在住の日本人約2万人を有事の際、どのように帰国、乃至台湾外に避難させるかというプロジェクトに関わっていました。この時の体験は以下の通りです;

米国は、台湾在住の米国民間人を全て陸上輸送(完全な制空権が無いという前提)で東岸(台湾海峡の反対側;台北の場合は「花連」に集まる)に集め、そこで待っている米軍の艦艇に乗せて避難させるという計画でした
一方、日本には戦闘状態に入っている空域を飛ぶ民間機は考えられないこと、自衛隊も憲法の制約(当時は勿論「新安保法制」は無かった!)で来ることは不可能であったため、自前で避難させる手段は無く、残るは米軍の情け!というありさまでした
実は、1990年8月、イラクによるクウェート侵攻があった時、日本人214人が取り残されて帰還を許されず「人間の盾」として使われた歴史があります(日本人を含む人質全員の解放はこの年の12月になります)。この時、米国民は全て迅速に避難していて人質には取られませんでした

今回のケースでは、韓国在住の日本人は7万人に達すると言われており、避難計画は相当困難であると考えられます。プラスの要素としては、新安保法制の一環で自衛隊法が改正され、同法第八十四条の三、で、在外邦人保護のために自衛隊の航空機や艦艇を送ることができることとなりました。しかし、実際に自衛隊を派遣するためには当該国の許可が必要とであり、有事の際、韓国が許可するかどうかは今のところ不明です

-現在のリスク管理の状況-

もし米国と北朝鮮が戦端を開けば、日本人一人ひとりに、好むと好まざるとに関わらず、如上のリスクが降りかかります。国及び地方自治体の関係機関は、国民に被害が及ばない様に、またリスクを極小化するように活動することは当然ですが、現在まで公表されている政府の対応は以下の通りです;

1.最も緊急を要する情報は、ミサイル発射の情報と着弾予想地点の情報です。これは(J-ALERT)というシステムで一般国民に瞬時に伝達される仕組みが構築されています
2.武力攻撃やテロが実際に発生した場合、国民一人ひとりが自身の身を守るために実施すべきことは、内閣官房・国民保護ポータルサイト武力攻撃やテロなどから身を守るために)に纏められています。大変参考になる内容ですので、是非一読されておくことをお勧めします
尚、マスコミでも広く取り上げられておりますが、J-ALERTの情報を受けて、現在自分にいるところに実際に着弾する可能性があると考えられる場合の自身のとるべき行動については「弾道ミサイル落下時の行動について」でパンフレット1枚に簡単にまとめられておりますので、これも是非一読されることをお勧めします

上記政府の対応で、北朝鮮から攻撃があった場合に取るべき行動についてはカバーされていると思いますが、原子爆弾が投下された場合の行動については、日本が唯一の被爆国であり、且つ福島原子力事故にによる混乱の記憶も生々しい事から、もう少し詳しい説明が必要であると思われます。以下は、原子爆弾や放射線についての常識ですので、知っておいて損は無いと思います
尚、以下について説明がわからない部分があれば、以前投稿した私のブログ(原子力の安全_放射能の恐怖?)をご覧になっていただければ幸いです;

3.原子爆弾による主な直接的な被害は、爆弾炸裂と同時に放たれる電磁波粒子線衝撃波によって発生します。
電磁波とは、波長の短い(=エネルギーが大きい)順に、ガンマ線エックス線紫外線可視光線(普通の光のこと)、赤外線、テレビ・ラジオなどの電波のことです。また、電磁波は光の速度(30万キロメートル/1秒)で到達しますので、ピカッと原子爆弾が炸裂した時の火の玉を見た時には既に自身の体は被曝していると考えていいと思います。。政府の発行するパンフレットでミサイル発射の情報が入ったらすぐに求められている「できる限り頑丈な建物や地下街に避難する」、「物陰に身を隠す、、」とい行動は、この理屈からきています
電磁波のうちガンマ線エックス線はエネルギーが大きく(=人体への影響が大きい)、且つ透過力が強いので、爆心地から離れていても注意が必要です
波長の長い電磁波である赤外線は「熱線」と同じですから、爆裂に伴う強烈な赤外線を受ければ、木材などの発火性の高い建物は、瞬時に発火します。ここから木造住宅に隠れるのは薦められないことが分かります

* 粒子線とは、核分裂の際に生まれる様々な原子の高速の飛翔を意味します。従って、粒子線の速度は様々ですが、電磁波より遅い速度になります。尚、電子の粒子線はベータ線、ヘリウムの原子核の粒子線はアルファ線という放射線でご存知の方が多いと思います。これ以外で恐ろしい粒子線は「中性子線」です。中性子は電気的に中性なので、他の粒子と違って電気的な反発を受けることが無いので透過力が非常に強く遺伝子を破壊する力も大きいので、爆心地から離れていても注意が必要です。中性子線による被害例としては、1999年の東海村JCO臨界事故があります。二人の方が亡くなりましたが、この被害の特徴は即死はしないものの、数十日にわたって徐々に体内の臓器が機能を失って死に至るという経過を辿ります。中性子線を防ぐには水素原子と衝突させることが一番で、原子炉の中で多くの水(酸素原子と水素原子が結び付いた分子です)が使われるているのはその理由からです。また原子炉の建屋に厚いコンクリートが使われるのも、コンクリートには30%程度の水が含まれているからです。政府パンフレットの言う、「できる限り頑丈な建物や地下街に避難する」という表現はこの理屈からきています。ただ、丈夫な建物とは、コンクリート製の重厚な建物のことで、最近の高層ビルに多い鉄骨とガラスで出来ているような建物は含まれません。地下街はコンクリートに囲まれており、且つ水分を多く含む土砂がまわりを覆っているので中性子線を遮る効果が大きいと考えられます(⇔原子爆弾の被害を防ぐ目的でつくられる核シェルターは地下街と同じ構造です)

衝撃波とは、爆風とも言われますが、爆裂によって生じた強烈な音波のことです。従って伝播速度は電磁波や、粒子線よりずっと遅く空気中では330メートル/1秒の速度で進みます。中学校の頃の理科で学んだと思いますが、雷の稲光と音の時間差で雷の発生場所からの距離が分かる様に、原子爆弾の場合も、炸裂によって生じた「ピカッ」と「ドン」の時間差で、大体爆心までの距離が分かります
音波といっても、その破壊力は凄まじく、近くで浴びれば、人体もバラバラになってしまうほどです。ごく最近、米軍がアフガニスタンのISの地下基地攻撃に使った「大規模爆風爆弾(MOAB)」はこの衝撃波の破壊力を利用したものです。政府の発行しているパンフレットで言っている、「部屋の中に入る場合、窓から離れるか、 窓のない部屋に移動する」、「物陰に身を隠す、、」という表現はこの理屈からきています、尚、部屋の外であってもガラスの面積の多い最近の高層ビルでは、衝撃波によって破壊されたガラスの破片で大怪我や死者が出ることに注意しなければなりません。因みに、1974年の三菱重工東京本社ビル爆破事件では、爆破によってビルから落ちてきたガラスの破片で通行人にまで死者がでました

* 尚、上記に様に恐ろしい電磁波粒子線衝撃波は、当たり前の事ですが爆発が起こった場所から「球状(ボールの様に)」に広がってゆきます。従って、電磁波、粒子線、衝撃波の強度(=殺傷力)は、遠くになればなるほど弱まっていきます。その弱まり方は、球の表面積(表面積=4x円周率x中心からの距離の2乗)に反比例すると考えられます。従って、例えば爆心地から1キロメートルの電磁波、粒子線、衝撃波の強度をとすれば、10キロメートル離れたところの強度は理論的には100分の1になることになります。原子爆弾の直接の被害は爆心地からの距離によって著しく異なるのはこのような理屈によるものです。

4.上記の様な直接の被害のほかに、原子爆弾の核分裂により生成された所謂「死の灰」による被害も注意しなければなりません。広島、長崎に原子爆弾が投下された後、被害地に立ち入って被害者の捜索、救出などに携わった方々が、この「死の灰」から発生している放射線を浴びた(外部被曝)ため、あるいはこの「死の灰」を体内に取り込んでしまった(内部被曝)ために、放射線障害を起こしました。当時被害に会われた方々は、原子爆弾や放射線についての知識が全くなかった訳ですから当然と言えば当然です。しかし、原爆投下から70年以上が経過し、多くの知見が積み重ねられた来たため、「死の灰」による被害を極小化することは十分可能な事です
福島事故の際、ネット情報に踊らされて傷薬に使われる「ヨードチンキ」を飲んだ人います。確かに「死の灰」に含まれる放射性ヨウ素(ヨウ素131、133)は子供の体内に中入ると、甲状腺に取り込まれて甲状腺がんを引き起こすリスクがありますが、大人の場合はそのリスクは低く、あまり心配する必要はありません。またヨウ素製剤を使うのはいいのですが、「ヨードチンキ」は体内に入れば毒になります

* 「死の灰は風によって運ばれますので、風向きによっては爆心地から離れたところでも降り注いでくることになります。例えば、福島事故では水素爆発によってまき散らされた放射性物質を含んだチリが、南東の風によって流され、且つ地形の影響を受けながら下記写真の地域に降り注ぎました。多く降りそいだ赤い地域は、長期間立ち入り禁止区域に指定されたことはご承知の通りです;

福島原子力事故・被害地域
福島原子力事故・被害地域

つまり、「死の灰」による被害を受けないためには、爆心地付近に立ち入らないことは当然の事として、「死の灰」が降る地域の情報は、福島事故の教訓を踏まえて政府により迅速な情報提供が為されるとは思いますが、情報が遅かった場合、爆心地に比較的近い人は、自己防衛の為にも風向きに注意を払うことが賢明であると私は思います

* 不幸にも「死の灰が降る環境に身を晒してしまった場合、内部被曝を避けるために口や鼻を覆うことがまず必要になります。また自宅であれば、できる限り早めに衣服を脱いで汚染されていない服に着替えること、シャワーを浴びて完璧に身体全体を洗浄すること重要です。因みに、原子力発電所で作業を行っている労働者も全く同じことを行っていますで、外部被曝であればそれ程心配する必要はありません
一方、いくら口や鼻を覆ったとしても呼吸をしている以上僅かでも体内に入ってしまう(内部被曝)ことは避けられません。体内に入った放射性物質の量は勿論、ストロンチウム90のように、半減期が長く生理的に体内の組織に取り込まれる様な微量であっても危険なものもありますので、できるだけ早期に「ホールボディー・カウンター」を備えている医療機関に行って、体内に入った放射性物資の検査をすることをお勧めします

いずれにしても、ネットからの流言飛語に惑わされることなく、政府からの情報を漏らさず受け取る体制を整え(テレビ、ラジオ、スマホ/携帯電話などの通信手段の確保は非常に大切)、自身の知識を総動員して、冷静に対応することが重要です

以上

 

春たけなわです!

花見方々

先週、荒れた天気のあとで拙宅から徒歩10分程度の所を流れる「柳瀬川」に花見に出かけて参りました。この川は、江戸と川越を結ぶ水運で有名な「新河岸川」の支流になります。桜の花は上記の写真の様に既に満開を過ぎ、花びらが遊歩道に散り敷いていて、これもまた中々風情がありました。この川は、ここ10年ほど浄化が進んで各種の魚が戻ってきています;

釣風景
釣風景

上の写真の左側、親子で釣っている魚は

」です。20年以上前だと思いますが、川の浄化状況の確認の為に放流されたものですが、今では大きいものは50㎝位に育っています
真ん中の写真は「フライ・キャスティング」をやっている釣り人ですが、マス類は生息していないので、キャスティングの練習をしているのだと思います。でも間違って?鯉が釣れることがあるかもしれません
右の写真の釣り人は、川に立ちこんで釣っていましたが、聞いてみると「ゴリ」(ハゼの様な姿をした川魚)を釣っているとのことで結構間を置かずに釣れていました。恐らく唐揚げにして酒のつまみになるのではないでしょうか
ここ数年の観察によれば、4月の下旬には「アユ」の遡上が始まります。これは「新河岸川」が下流で「荒川」に繋がっていますので、天然アユが遡上するのだと思われます(⇔従って入漁料は取られない!)。川底が浅いので、友釣りは無理で、寄餌(アミ)を使った毛ばり釣りとなります、秋の落ちアユの時期には転がし釣りを行っていました。また、 以前は、ボラの幼魚が大量に遡上していましたが、最近は見かけません

川の両岸は、草地になっており山菜取りの人が、そこここに見られました。何を採っているかと聞いたところ相手は中国人であり、意思疎通ができませんでしたが、これだけ多くの山菜取りが居るという事は、豊富に自生しているに違いないということで、道具持参で再び訪れることにしました

昨日、園芸用シャベル、レジ袋持参でワイフと二人で山菜取りに出かけてきました。花見の時と同様に山菜取りの方が多く入っておりましたので、収穫物を覗いてみると「からし菜の菜の花」、「クコの新芽」、など、などでした
ネット情報によれば、最近どこの川でも「アブラナ科」の類が群生しており;

菜の花の群生
菜の花の群生

菜の花を採集することも可能と思われましたが、我が家の屋上菜園でもずっと採れ続けておりましたので私の狙いは、「のびろ」(昔、父が採ってきて酒の肴にしていました)と「よもぎ」(これは草餅の材料とするほか、天然の殺虫剤を作るために必要な材料となります)に絞りました。15分ほどで目標としていた量の収穫を終わりました
よもぎ」については、採集した後コンテナに植え付けて屋上で栽培することにしました;

よもぎ
よもぎ

また、「のびろ」は大・小に分類し、

のびろ
のびろ

小の「のびろ」は、コンテナに植え付けて屋上で栽培することにしました;

のびろ
のびろの植付

また、大の「のびろ」はワイフにお願いして、以下の2種の料理に変わりました;

"のびろ"と料理2種
“のびろ”と料理2種

大変美味しく頂きました

柳瀬川の川べりで出合った多くの中国人は、恐らく残留孤児(昨年までこの近くに日本に帰国した残留孤児の支援センターがありました)か、あるいは出稼ぎの中国人(この近辺の集合住宅は家賃が相当安くなっている)かと思われます。豊かになった日本人、特に都会人は山菜などを採る習慣が無くなってしまいましたが、長生きすればするほど貧しくなってくると予想されている我々の世代はもっと注目してもいい食材だと思いましたが、如何でしょうか?

屋上菜園の状況

気温が上がってきた3月末から4月にかけて種を蒔いた葉物野菜が順次芽吹き始めています;

葉物野菜
葉物野菜

今年は、サニーレタス、ホウレン草、水菜、小松菜、チンゲンサイ、野沢菜、などの定番の他に、息子が徳島県で手に入れた「みよし菜」(小松菜・水菜・白菜の交配種)と友人たちからの情報で入手したイタリアの野菜、「プンタレッラ」を試験栽培してみました;

プンタレッラ
プンタレッラ

この二つの野菜は、秋蒔きを推奨していますので、春蒔きをすると恐らく虫との戦いが待っていると思われます

我が家でネギ類は一年中必需の野菜なのですが、前回「春が来た!」でご報告した通り、栽培していた100本のネギは冬の3ヶ月で食べ尽してしまいました。前回ご報告した通りアサツキや行者ニンニクは栽培しておりますが、ほんの薬味程度しか採れないので、現在市販のネギ購入のやむなきに至っています
今年は、普通の「太ネギ」の他、関西でよく食べられている「九条ネギ」、鍋に使うネギとして有名な「下仁田ネギ」、薬味として使う「細ネギ」の種を蒔きました。一番早く種まきをした太ネギの発芽状況は下の写真の通りです;

太ネギの発芽状況
太ネギの発芽状況

ネギは一般に栽培に時間がかかります。このネギは夏場になってから植え替えて秋から冬にかけて食卓に上ることになります。近くでネギ栽培をしているプロの農家に聞いてみたところ、今頃出回っているネギは冬を越したネギだそうです。また一つ勉強しました!

根菜類は、定番のジャガイモ(キタアカリ、男爵)、タマネギ(2種);

ジャガイモ、タマネギ
ジャガイモ、タマネギ

を栽培しておりますが、順調に育っています。恐らくゴ-ルデンウィーク明けあたりから収穫できると思っています
大根、カブ類としては、普通の「青首大根」とエストニアで種を購入した「ビーツ」を蒔きました。これから暖かくなると虫との戦いが始まります

夏野菜は、いつも通り「キュウリ」、「トマト」、「ナス」を、種から苗を育て、数日前に屋上のコンテナに植え付けました;

キュウリ・トマト・ナス
キュウリ・トマト・ナス

これ等の野菜について、今年は以下の三つの工夫を行うことにしました;
苗をいっぺんに作って一斉に育てるのをやめ、3回程度時期をずらして栽培すること(現在2回目に植える苗を育てています)
根の張り方の違い(キュウリは根が浅いのに対し、トマト、ナスは根が深い)を考慮し、キュウリは平たいコンテナトマト、ナスは大根類を育てる深いコンテナを使うこと
深いコンテナは、底まで水が行き届かずに高温が続くと苗が弱る傾向にあるという経験を活かし、トマト、ナスには深い所に水が届く工夫(次回に現物を紹介する予定)を加えること

私の両親が満州で長く生活したせいでしょうか、拙宅ではネギと並んでニラを多く消費します。繁殖力が旺盛なので、昨年までは三つほどのコンテナに密植していました(これで量的には十分!)が、葉がやや貧相になるので、今年からは肥料がよく行き届くように栽培するコンテナの数を増やし、プロに負けない立派な葉に育つよう頑張ってみたいと思います;

ニラ
ニラ

いま、吃驚していることが二つあります。一つは、ブロッコリーの花芽が際限なく出てくることです。八百屋で売っているブロッコリーは、最初に中心部付近にできる大きな花芽ですが、これを収穫してから暫く放っておくと際限なく!脇に花芽が出てきます。現在もなお出続けているので、毎日これを食べています。他の野菜より相当なお得感?があります;

ブロッコリーの脇芽
ブロッコリーの脇芽

二つ目は、キャベツを収穫したあと暫く放っておいたら、再び芽が出てきたことです;

キャベツの新芽
キャベツの新芽

これがどれくらい育つか分かりませんが、暫く様子を見てみたいと思います。とにかくこの類の野菜の生命力には驚かされます

最後になりますが、例年ハナミズキと同じ頃に咲き出すブルーベリーの花が美しく咲き乱れています。花は相当多いのですが、例年鳥に食べられてブルーベリーの収穫量はそれ程多くはありません。ワイフの趣味で餌場を設けて鳥を集めているのでやむを得ないか、といったところです;

ブルーベリーの花
ブルーベリーの花

以上

「100年時代の人生戦略」を読んで

-はじめに-

本書を読むきっかけになったのは、2017年2月18日にNHK・BS1スペシャルで放映された「ダボス会議2017どう生きる?人生100年時代」を観たことです。このパネルディスカッションには、以下のメンバーが参加していました;
司会者:河野憲治、NHK社員(今年3月まで”ニュースウォッチ9”のメインキャスターをやっていた)
パネリスト
1.デイビッド・B・エイガス:南カルフォルニア大学・医学部教授(ガンの権威、最先端医療の知識が豊富)
2.リンダ・グラットン:ロンドン・ビジネススクール教授(下記)
3.佐藤康博:みずほフィナンシャル・グループ CEO
4.ウィリアム・フランシス・モルノー:カナダ財務大臣(年金システムに詳しい)

ディスカッションは、概ね今回紹介する本の内容に沿って行われましたが、上記エイガス教授から、今回紹介する本の中では触れられていない以下の興味深いトピックが提供されました;
* 人間は120歳まで生きることが可能 ←(最近細胞が老化することを防ぐタンパプ質の存在が発見された)
ビッグデータの活用で、今後多くの新薬の発見が期待できる ←(最近、ビッグデータの解析から安い血圧の薬が卵巣がんに効くことが判明した ⇒ 4.5年の延命効果が期待できる)
* 退職を1年遅らせると、アルツハイマー病のリスクが3%低下する →(頭脳を使い続けることがアルツハイマー型認知症の予防になる)

著者の経歴、その他
1.Linda Gratton:ロンドン・ビジネススクール教授、人材論、組織論の世界的権威、二年に一度発表される世界で最も権威ある経営思想家ランキング(50人)では2003年以降毎回ランキング入りを果たしている。また英タイムズ紙「世界のトップ15ビジネス思想家」に選出されている
2.Andrew Scott:ロンドン・ビジネススクール経済学教授、前副学長、オックスフォード大学のフェロー、欧州の主要な研究機関であるCEPRフェローを務めてい居る
本書の発行日は
原本“The 100-Year Life”初版発行:2016年6月2日
邦訳初版発行:2016年11月3日

以下は、この本の大まかな内容のご紹介です;

-この本のベースになっているデータ-

この本では、「人間の寿命が今後どう変わってゆくか」が最も重要なデータ(結論を左右する)になっていますが、これは以下のグラフで説明されています

ベストプラクティス平均寿命

“ベストプラクティス平均寿命”とは、平均寿命世界第一位となる国(先進国のみが対象)の平均寿命のことです。これを時系列で並べたものが上のグラフになります
上のグラフを見れば明らかな様に、過去100年近く、ほぼ一直線に平均寿命が伸びてきたことが分かります

次に重要になるのは、このグラフの傾向のままに寿命は本当に伸びていくのか?、また限界があるとすればそれは何歳か?、ということになります;
1.過去の平均寿命上昇の理由
* 1920年代の平均寿命の改善は子供の死亡率低下が大きい。結核、天然痘、ジフテリア、チフスなどの子供の命を奪った感染症の多くが抑え込まれた為
* 次に、中高年の疾患、特に心臓血管系の病気とがんの対策が大きい。また、病気の早期発見、治療と処置の改善、禁煙などの啓蒙活動の強化により、次第に健康水準が向上した
2.人間の寿命に上限はあるか?;
人間の寿命の上限については以下の三つの考え方がある;
悲観論者は、栄養状況の改善や乳幼児死亡率の低下はこれ以上見込めず、逆に歩かないライフスタイルや肥満によって平均寿命の上昇は足を引っ張られる
楽観論者は、啓蒙キャンペーンの効果は今後も大きく、それがテクノロジーのイノベーションと組み合わせることによって、平均寿命はまだ上昇し続ける
超楽観論者(レイ・カーツワイル/グーグルの人工頭脳チームのリーダー;テリー・グロスマン/医師)は、医学的アドバイスに従い、好ましい生活習慣を実践、バイオテクノロジーによる医療革命の恩恵に浴す、ナノテクノロジーのイノベーション(人工頭脳とロボットが老いた体を分子レベルで修復する)、の3ステップを経て数百年の寿命を手にすることができる
3.本書の著者は寿命の上限をどう考えているか?;
ベストプラクティス平均寿命の延びが鈍化していないことから、平均寿命は110~120歳まで上昇し続け、その後伸びが減速する、という楽観論者に近い考え方を持っています

次に上記の推論を前提にして、「現在生きている人は何歳まで生きられるか?という問いに応えなければなりません。その為には、平均寿命に関し以下の二つの理論を知っている必要があります;
ピリオド平均寿命:各年齢に現在までの実績に基づく平均余命を加えて平均寿命を算定したもの
コーホート平均寿命:各年齢に今後の平均余命が伸びるという前提で平均寿命を算定したもの
本書では、コーホート型の平均寿命を採用しています。平均余命は、あくまで現在までの実績をベースのしていますので、上で述べた平均寿命の延びが計算に入らないことになります
尚、年金制度の設計など、経済分野で平均寿命の推計を行なう時には、現在ピリオド平均寿命を使っており、結果として平均寿命を大幅に過小評価することになります。これが、年を追うごとに年金原資が足りなくなっていくという日本の現状をよく説明しています

こうした基本データを基に、本書でケーススタディー(ジャック、ジミー、ジェーン)を行っている3世代の平均余命を算出すると以下の様な驚くべき結果になります;
① ジャックの世代:1945年生まれ平均寿命が70歳前後
② ジミーの世代:1971年生まれ、平均寿命は85歳前後
③ ジェーンの世代:1998年生まれ、100年以上生きる可能性が高い

これを見て驚いたことは、ジャックは私と同じ年齢ジミーは私の子供達と同世代ジェーンは私の孫たちとほぼ同世代になります

―我々の世代はどんな人生なのか-

人生を考えるに当たって、本書では「ステージstage”」という言葉を使っています。ステージの意味を辞書で調べれば、あるプロセスの”段階、局面、時期”、となっています。例えば、地球の歴史でいえば「氷河期」の“期”に相当すると考えていいと思います

我々の世代の人生を、この“ステージ”で表現すると;
1.生まれてから就職する迄の時代(教育の期間):20年前後
2.職に就いている時代(労働の期間):40年前後
3.退職後死ぬまでの無職の時代(余暇の期間):?年間
の様な、3ステージの人生”と呼ぶことができます。我々は、この3ステージの人生をなんの疑いもなく送ってきた訳ですが、最近寿命が伸びたお陰で、退職後の時代が、職に就いている時代に匹敵するほど長くなってきた結果、年金システム(公的年金、企業年金)の破綻が叫ばれるようになりました

年金のシステムは、大まかに言って、確定給付年金確定拠出年金に分けられますが、以下の様にいずれも退職時期を固定し、退職後の期間が長くなれば破綻するのは当たり前の事です;
確定給付年金:給付額を固定し、給付のための原資は、受給者の退職前に積み立てたお金と現在働いている人が積み立てているお金(企業の補助金、税制優遇措置を含む)が充当されます。基本的に公的年金(国民年金、厚生年金、など)や一部大企業の企業年金がこれに相当します ⇒ 退職者が増加し、労働人口が減りつつある日本などは破綻することが明白です
因みに、老齢従属人口指数(労働人口に対する引退人口の割合)の実績及び今後の予想によれば、1960年、日本は10%(引退人口1人に対し10人の勤労人口が支える)だったのに対し、2050年ではこの数字が70%(引退人口1人に対し1.4人の労働人口が支える)に達すると予想されており、持続可能性が危ぶまれています
確定拠出年金:給付のための原資は、受給者が退職前に積み立てたお金(企業の補助金、税制優遇措置を含む)であり、退職後の期間が長くなれば受給額が目減りしてゆきます

こうした矛盾に対応するため、先進諸国では“定年延長”や年金原資に充当するための増税(日本では”消費税”の増税)などの対応を取っておりますが、上記を勘案すれば長寿化の流れに追いつくとは到底思えません

本書では、ジャック、ジミー、ジェニー、それぞれの世代が、3ステージの人生を送った場合、どのような結果になるかをケーススタディーしています;
シミュレーションの前提は以下の通りです;
1.老後の生活資金を、最終所得の50%とする
2.長期の投資利益率をインフレ率を除いて3%する(リスクの殆ど無い投資と、リスクの高い投資を組み合わせる。税・手数料引き前)
3.所得上昇のペースを年平均4%とする
4.ジャックは62歳で引退、ジミーとジェニーは65歳で引退する

ケーススタディーの結果は;
ジャックの世代:妻は専業主婦(一時パートで働いた時もあった)、主たる稼ぎ手は常にジャック、62歳で引退、70歳で死去。老後の生活資金は3種類(公的年金、企業年金、個人の貯え)、現役時代に老後のために所得の4%あまりを蓄えることは難しい事ではなかった

ジミーの世代:65歳まで働いて引退する積り。企業年金は受給できない。年金改革は進められるものの、公的年金は最終所得の10%程度にとどまる。退職後、最終所得の50%確保するためには、毎年所得の17%を貯蓄に回さねばならず非常に難しい

ジェニーの世代:65歳での引退を前提に3ステージの人生を送るという生き方は最早不可能。何故なら、最終所得の50%の老後生活資金を確保するには、労働期間に毎年所得の25%も貯蓄しなければならず、しかも、ここには住宅ローンの返済や子供の学費が入っていない。また、公的年金の10%も受給できる蓋然性は低い

このケーススタディーの結果から得られる結論は、ジャックの世代は3ステージの人生が適していたのに対し、長寿時代のジミーやジェニーの世代では、3ステージの人生は経済的に成立しないことになります
言い換えれば、何の対応もせずにこのまま推移すれば、私たちの子供や孫の老後には、惨めな貧困が待っていることになります。勿論、幸運にも億万長者になれた人や莫大な遺産が転がり込んだ人は別ですが、、、 こうした幸運に恵まれない一般の人は、働く期間を延長するしか対応しようがないということになります

なお、上記ケーススタディーでは、私と同い年のジャックは70歳で死去しています。現在の日本では、このケーススタディー以上に長寿化が進んでおり、不肖私も70歳を超えて生き続けて!おります。日本では、私の世代でも3ステージの人生は現実に合わなくなっているのかもしれません

-子や孫の世代はどんな人生になるのか-

前段で述べたように、子や孫の世代は、好むと好まざるとに関わらず多くの人が人生の長い期間働くことになります。しかし、我々の世代でも40年は長い労働人生でしたが、これが70年、80年間働くことになればどの様な問題が考えられるでしょうか?
本書では、以下の様な問題点を指摘しています;
1.人生の最初に選択した職業が自身の適性に合っていなければ、長い労働生活に耐えられないのではないか?
2.近年の人工頭脳(AI)やロボットの進化の速度を考えれば、業種によっては働き続けることが難しくなるのではないか?
3.同じ仕事を一生涯続けていくことの単調さに耐えられるかどうか?

この様な問題点を克服するために、本書では3ステージの人生をではなく、マルチステージの人生が必然になる時代が来ると予測しています

一方、長寿となった人生を実りあるもの(生きがいのある人生とするために、企業で働くというステージの他に、以下の様なステージの選択肢を用意する必要性を説いています;
1.エクスプローラー:エクスプローラーという言葉は、一般に”探検家”と訳しますが、本書では、「興奮、好奇心、冒険、探査、不安、一か所に腰を落ち着けるのではなく、身軽に、機敏に動き続ける」活動というイメージになります。敢えて言えば、戦中世代を代表する作家である小田実が、「何でも見てやろう」という本の基になった、若い時代の世界放浪の旅のイメージでしょうか
このステージは、発見の日々となります。旅をすることにより世界について新しい発見をし、併せて自分についても新しい発見ができるステージになります
また、このステージは、自分を日常の活動から切り離すことから始まります。ただ、観光客が旅先の町を見物する様な態度では、大きな成果は得られません。望ましいのはこのステージで多くの人との係わりを持つことです
私とって何が重要なのか?」、「私が大切にするものはなにか?」、「私はどういう人間なのか?」など、具体的な問いをもって探索に出る場合もあれば、「はしゃいで跳ね回ること」が目的であってもいい。こうした冒険(何を見て、誰と出会い、何を学ぶか)を通じて得られるストーリーが未来の人生の指針になります

2.インディペンダント・プロデューサー:普通に翻訳すれば”起業家”ということになりますが、ここでは今までの起業家とは性格の異なる新しいタイプの起業家になったり、企業と新しいタイプのパートナー関係を結んで経済活動に加わることも含めています
旧来のキャリアの道筋から外れて、自分のビジネスを始めた人たちがこのステージに入ります
また、インディペンダント・プロデューサーは、自分の職を生み出す人であり、人生のどの段階にある人でも実践できます

3.ポートフォリオ・ワーカー異なる仕事を同時並行的に行うステージです
ポートフォリオ・ワーカーを、様々な可能性を探索し、実験するために積極的に選択する人もいれば、やり甲斐のある仕事に就けないために、不本意ながらそれを選ぶ人もいます
企業幹部などに100年ライフを説明した後でアンケートをとると、以下の様な活動を組み合わせたポートフォリオ・ワーカー型の生き方を選ぶ人が多い様です;① 所得の獲得を主たる目的とする活動、地域コミュニティとの係わりを主たる目的とする活動、親戚の力になるための活動、趣味を極めるための活動、など
スキルと人的ネットワークの土台が確立できている人は、高い価値を生み出せるポートフォリオ・ワーカーになることができます
ポートフォリオ・ワーカーの核になるのは、有給の仕事です。企業のCEOであった人は、どこかの取締役に名を連ねることなどの選択肢を採ることができます
一方、過酷な労働人生を送ってきた人は、楽しく過ごしたり、社会に貢献したり、友人と過ごす時間を選択肢に加えることができます
ポートフォリオ・ワーカーは、以下の三つの側面のバランスを取ることになります;支出をまかない貯蓄を増やすこと、過去の経歴とのつながりがあり、評判とスキルと知的刺激を維持できるパートタイムの役割を担うこと、新しい事を学び、やり甲斐を感じられるような役割を新たに担うこと

上記のような仕事のステージを組み合わせて、自分に適したマルチステージの人生を設計するにあたって、本書では、貯蓄などの“有形の資産”だけでなく、下記の様な”無形の資産“の構築を自身のステージに適切に組み込んでいかなければ、長寿がもたらす恩恵を享受することはできないと言っています;
1.生産性資産:仕事で生産性を高めて成功し、所得を増やすのに役立つ要素で、スキル知識が主たる構成要素になります
2.活力資産:肉体的・精神的な健康幸福感(友人関係、パートナーやその他の家族との良好な関係、など)
3.変身資産:“自分についてよく知っていること”、“多様性に富んだ人的ネットワークを持っていること”“新しい経験に対して開かれた姿勢を持っていること”。このタイプの資産は、旧来の3ステージの人生ではあまり必要とされませんでしたが、マルチステージの人生では、あるステージから次のステージに移行する時に必要な資産になります

<ケーススタディー(マルチステージへのチャレンジ)>

ジミー(我々の子供たちの世代)のマルチステージの人生
途中まで3.0ステージの人生を送ってきた
が、50歳になって変化の速いテクノロジーの世界で、自身のスキルが時代遅れになり職場で脇役に追いやられてしまった。有形の資産をチェックすると65歳で引退するには貯えが足りないことに気づいた
1.3.5ステージの人生
ケース1:会社時代の古い友人が近所の社会人大学で学長をやっており、彼に誘われて、週一回夜間の講義を行う生活に入る。給料は減るものの、自分の能力は生かせるという実感が生まれると共に、仕事と家庭のバランスも生まれる。しかし、お金にゆとりはなく、多くの友人達ほどには夫婦での旅行は楽しめない。大学ではよき同僚と評価されてはいるが、1年たつごとに自分の知識と経験が古びていくことを痛感し、71歳で寂しい引退となる
ケース:夫婦の古い友人の紹介で、隣町の店の手伝いと他のスタッフの監督を行うことを頼まれる。給料は大したことは無いが、社交的な生活なので仕事そのものはそれなりにたのしい

3.5ステージのシナリオは、資金計画を成り立たせる助けにはなり、活力資産をはぐくむための時間がたっぷり確保できる。しかし、生産性資産を充実させたり、変身資産を活用したりすることはほとんど無い。追加の0.5ステージは3ステージの人生の付録程度の意味しか持たない

2.4.0ステージの人生
ケース1ポートフォリオ型の新ステージを選択)
45歳の時、立ち止まって自身の人生とまわりの世界を考えてみたところ、このままでは、資金計画が成立しないことと、自身のスキルがいずれ陳腐化することに気づく。しかし、新しいスキルを習得すれば、業界内の高成長分野に転身できる可能性が高まることが分かり、妻と相談してチャレンジすることを決心する
週末、休暇を使って研修プログラムに参加し、最終的に業界でよく知られた証明書を受け取り、この資格を有効に使って条件のいい会社に転職した。一方、妻もフルタイムで働ける職場で働きはじめた
新しい会社は、ジミーに有給の研修の受講を認めてくれたため、仕事の傍ら、3年間かけてマネージメント能力、アウトソーシング手法、ロボット工学などを学んだ
更に、上級レベルのプロジェクト・マネージメントと研修プログラムに参加し、プロジェクトマネージャーの世界規模の人的ネットワークを築いた
*65歳になったジミーは、二つめの企業も退職し、望み通りポートフォリオ型ライフを始めた。価値の高いスキルを持っているおかげで、刺激を味わえる仕事を得られ、70代後半になっても、まだ仕事の依頼がある

ケースインディペンデント・プロデューサー型の新ステージを選択)
45歳の時、会社の仕事は過酷で、家庭の負担も大きいことに耐えられなくなってきた。家計の維持と住宅ローンの返済で、現在のままでは70歳で老後資金が必要なだけたまらない事が分かった。そこで、余暇時間の一部をレクレーション(=娯楽)ではなく、リ・クリエーション(=創造)にするために使い、起業に向けた準備を始める
起業の為の準備として、仕事の傍らサイド・プロジェクトを行い、起業後の仕事の感触を探り始める。また、地元の企業家クラブに加わると共に、会計とマーケティングのオンライン講座も受講する
現在住んでいる町は規模が小さく、起業後の顧客があまり存在しないことが分かった為、会社の上司に掛け合って、大都市の拠点に異動を願い、叶えられる。大都市の拠点には、中小企業が多く集まりビジネスが盛んだ。新しい町に引っ越すと、早速これらの人との人脈づくりを始めた
*48歳の時、企業設立の準備が整うと同時に、夫婦で支出を細かく見直し、出費の少ないライフスタイルに変更し、質素な生活を心掛けるようになった。これにより、いざという時の貯えを少し増やすことができ、倹約生活にも慣れることができた
*49歳になって、友人と一緒に会社を設立。二人の地元のコネを通じて最初に二つの顧客を獲得し、人的ネットワークを利用して海外の提携企業と緊密に協力することにより、低コストで高いサービスの提供を始めた

二つのシナリオのまとめ
ポートフォリオ型にしろ、起業家型にせよ、4.0シナリオを実践するためには、現在の状況にしっかり目を開き、待ち受けている未来をじっくり検討しなくてはならない
いずれのシナリオでも、ジミーは勇気をもって大きな変身を遂げ、自分を「再創造」させたが、簡単な道ではない。また、目指す人すべてが成功するわけではない
成功を収める人たちにとっても、変化はストレスを伴う試練と感じられるだろう。こうした局面で重要になるのは変身資産である
二つのシナリオは、いずれも有形の資産と無形の資産を構築・増強でき、更に老後の生活資金を増やし、生産性資産と活力資産も増やすことができる
二つのシナリオの重要な違いは、起業家型の新ステージは、お金の面でも無形の資産の面でもよりリスクが大きく、ストレスも大きい。一方、ポートフォリオ型の新ステージは、夫婦が一緒に過ごせる時間を多く確保できる。どちらを選ぶかは、本人の嗜好と状況次第だ

ジェーン(我々の孫たちの世代)のマルチステージの人生
ジェーンの人生は非常に長いので、有形の資産と無形の資産の両方で問題が持ち上がり、3.0シナリオや3.5シナリオは実践不可能になる。従って、ジェーンは、4.0シナリオ、か5.0シナリオを生きるしかないことになる。長い年数働き続けるためには、無形の資産への大々的な再投資を行い、自らを再創造して変身を遂げなくてはならない

5.0ステージの人生
*21歳の時、自分が100年以上生きる可能性が高いことを前提に人生の選択を行う。そこで人生の進路について大きな決定を下すことを避け、さまざまな選択肢を模索することが必要と考えた。現代史を専攻して大学を卒業した後、旅に出る。その間、各種資産を築かないままに、不安定な雇用形態で働くことも厭わない。つまり、エクスプローラーとしての日々を送ることになる
アルゼンチンとチリへの旅行の途中、ブエノスアイレスに3ヶ月滞在し、スペイン語の集中講座を学び、技能検定試験にも合格する
料理好きなジェーンは、ラテンアメリカの期間限定の屋台に強い興味を抱く。自身もフィエスタ(お祭り)の日だけの屋台を始められないかと考え、流ちょうになったスペイン語を駆使して、他の都市のフィエスタ主催者と連絡を取り、実際の屋台ビジネスの経験を積む。収入は僅かだが、滞在費用をまかなうには十分である
この時期、ジェーンは楽しみながら、組織づくりのスキル予算策定の基礎、ラテンアメリカ各地のフィエスタ主催者とのコネも築く。帰国した後も、知り合った人たちとの人的ネットワークを維持する
*28歳になって、数人の友人とフィエスタ・ビジネスの会社を立ち上げ、インディペンデント・プロデューサーとして、組織に属さずに働く。初期の仕事は、幾つかのストリート・フィエスタの企画と運営であった。事業を立ち上げる人の多くと同様に、ジェーンは資金繰りに苦労するが、経験豊かなサムという人物と知り合い、イベントを手掛ける多くの起業家を紹介してもらったほか、資金調達に関して視野を広げるよう促された。オンライン上で不特定多数の人から資金を調達するクラウド・ファンディングで出資を募る
オンライン上での評判を確立する必要性に気づき、サムから“元気で面白い人物”というイメージ作りのコツを教わった。毎週ブログを更新し、フィエスタ主催者たちの間に熱心なファンを獲得してゆく。ジェーンは、自分についての知識を深め、人生の選択を間違えない様に有形の資産よりもむしろ、無形の資産(人的ネットワークの充実、評判の確立)の形成に多くの投資を行う

*35歳になった時、今後10年ほどで金銭的資産を築かなければならないと自覚した。オンライン上の存在感が高まったいたジェーンは、大企業の幹部たちの目にとまり、数社から入社を誘われる。食とエンターテインメントの分野での経験、質の高い人脈、新しい取り組みと顧客ニーズを取り込んできた実績が買われた。そこで、世界中の食関係のイベントを紹介したいと思っていた食品会社選んで入社、それなりの給料と地位を得た
*30代半ばで大企業に加わったジェーンは、意思決定が遅く、アプローチが官僚的である企業文化にすぐにはなじめなかった。しかし、いくつかの国際的な役割を歴任し、その都度給料が大幅に上昇すると共に、職業上のアイデンティティーは「ベンチャーの人」から「大企業の世界で活躍できる人」へと変貌した
ラテンアメリカで過ごした経験により、持続可能なサプライチェーンの構築という難題について、深い理解が得られたことに気づき、このテーマに関する知識を更に増やすために、専門のセミナーに参加。それを通じて、他の企業関係者やNGO関係者など接点がなかった人たちと人的ネットワークを築く
*37歳を迎えた時、人的ネットワークを土台に、アマゾン地方やルワンダのクループから、食品フレーバーの原料を購入するプロジェクトを立ち上げた。ジェーンはこのプロジェクトを通じて、ビジネスの実態を知り忙しい毎日を過ごす。持続可能なサプライチェーンに関する記事などで、頻繁にブログを更新したり、講演を行なったりして、職業上の評判を確立することにも腐心する

平均寿命が伸びても、出産に適した年齢は伸びないので、出産時期という大きな問題に直面するし、ブラジル旅行中に地元のNGOで働く男性と知り合い結婚する。ジェーンは37歳で長女を39歳で長男を出産する。ベビーシッターの力を借りつつ、夫婦で家事を分担して生活する
*43歳の時、新しい経営陣に代わり、今後の昇進は難しいと気づき、新しい選択肢の模索を始める
厳しい決断だったが、45歳の時に退職する。一家の所得は夫からのみとなり大きく落ち込むが、厳しいながらも破綻せずに済む
時間に余裕ができたジェーンは、学校に通う子供の世話、高齢の両親との時間を過ごしたりできるようになったが、数年先には仕事を再開すべきだと思うようになる。夫はジェーンが仕事を再開したら仕事を辞めて、自分の進む道を検討しようと計画している
ジェーンは、自身のアイデンティティーを見つめなおし、様々な選択肢について友人や知人の話を聞き、進むべき道を検討する。これは変身資産を強化するプロセスといえる
ジェーンは、所得を最大限増やすために人材採用の仕事を目指すことに決めた。必要となる生産性資産は、人間の心理に関する知識であることが分かり、2年間かけてオンライン講座で学び、大学で職業心理学の学位も取得する。
その後、ホテル、旅行、食品分野を専門とする人材会社に入社し、人材採用コンサルタントの道を歩み始める

*48歳の時、有形の資産の形成に力を入れる日々を送るが、この後15年間、同じ業界内で数回の転職を重ねたうえで、60歳の時にヘッド・ハンティングされて、業界屈指の大手企業の取締役に就く。これを機に、生産性資産を構成する要素が変わり始めた。社内の他のメンバーのメンタリングやコーチングの機会は増えると共に、その人たちの人的ネットワークの一員としての役割が大きくなる。一方、仕事は過酷で、出張も多く、家族のために避ける時間が無く、活力資産が底をつきつつある
*70歳の時、金の面ではうまくいくものの、友人達とは疎遠になり、夫との関係も緊張し、健康も悪化し始めた。そこで、活力資産を最優先にした生活に転換することを決める。子供たちにはもう手がかからず、夫婦で一緒に旅に出る
*72歳の時、リフレッシュしたジェーンは、キャリアの次の段階に移行することを望む。ただ、過酷な仕事や大幅に時間を制約される仕事にはつきたくない。それまで築いてきた変身資産でプロジェクトを計画する。様々な要素で構成されるポートフォリオ型の生き方を実践する;1年に30週は、週に1日ラテンアメリカのストリートチルドレンを支援する国際組織で働く、週に1日、ローカルな中規模の小売企業で非常勤取締役の仕事をする、2週間に1日は、地元の治安判事も務める
*85歳のとき、ジェーンは本当に引退する。これ以降は、孫やひ孫と過ごす時間を大切にし、毎年1回は、彼らを連れてアマゾン地方に出かけ、自分の人生で大切な意味を持った土地を訪ねる

-長寿化によって人間関係が変わる?-

本書が予測するところによれば、長寿社会が到来すれば、人生のあらゆる側面が変わると考えられます。ジェーンの5ステージのケースをご覧になれば分かる様に、夫婦やパートナー同士の関係はより長期のものになり、その間多くの変化を経験することになります。
また、子供の数は減るものの、孫やひ孫の家族が増え、高齢者と若者との関係が今より緊密になる機会が増えると思われます。仕事の世界も変わってゆきます。家族の多くのメンバーが職を持ち、70歳代や80歳代で働き続ける人も増えることになります。
また、職に就く女性が増えれば、伝統的な家族の在り方が崩れ、家族のメンバーが担う役割も大きく様変わりすると考えられます

<家庭>
長寿化の進行とマルチステージの生き方が一般化した結果、選択肢を残しておくために結婚の時期を遅らせること子育て期間の割合が縮小することが起こります。因みに、1880年には全世帯の75%に子供がいましたが、2005年にはその割合が41%%まで下がっています
子育てせずに人生のかなりの期間を過ごすことは、ジャックの世代(我々の世代)の夫婦の役割分担は説得力が大幅に低下します。性別役割分担が変わってきた要因には、家電用品・調理済み食品の普及により家事の負担が軽くなったこと、男女の賃金格差が縮小してきたことなども考えられます。パートナー同士で生産の補完性(夫婦の固定的な役割分担)が重要でなくなると、二人の間に純粋な関係が生まれと思われます。それは、不変の関係でもなければ、惰性で継続されるような関係でもなく、二人の間で調整を重ねていく関係となるはずで、相手と深く関わろうという意思が重要になります

経済的な面では、生産の補完性から「消費の補完性」の重要性が高まります。つまり二人の人間が、別々に大きな家を買ったり、休暇を楽しんだり、生活に必要なものを調達したりするより、二人で一緒の方が安く済むことは当然の事です
リスク分散の効果も見逃せません。何らかの理由で所得が途絶えた時、経済的に互いを支えることができます。これは近年、同類婚(自分と教育・所得レベルが近い人を結婚相手に選ぶ)の傾向がみられる一因かもしれません
本書では、多くの人が結婚を選択することを前提に話を進めてきましたが、事実婚やシングルファーザー、シングルマザーなど、様々な結婚の在り方が出現する可能性を否定する訳ではありません。しかし法律上の婚姻関係が、長期的であり、権利が法的に強く保護されており、離婚時の財産分与の仕組みなどが確立されていることなどを勘案すると、夫婦間で多くの調整が必要とされるマルチステージの人生では、むしろ結婚の重要性は大きくなると著者たちは考えています

<仕事と家庭>
仕事の世界で経済的な役割やキャリアの選択が変われば、家庭でのパートナーとの関係も変わってきます。OECDの調査では、1980年、25~54歳の女性で職に就いているか、職を探している人の割合はOECD加盟国平均で54%でしたが、2010年にはこの割合が71%まで上昇しています
*働く女性の割合は、未だに国による違いは大きい。男女の労働参加率の格差は、日本、イタリア、韓国などでは20%前後に達するのに対し、格差の少ないノルウェー、スウェーデンなどの国は5%未満となっています。この格差が大きい国は、女性が100年ライフの設計する際の選択肢が乏しいことになります
*現状では家事と育児をほとんどを女性が担っている国が多いものの、将来男女が家庭に等しく関わる様になれば、伝統的な性別役割分担の在り方が変革を迫られることは確実になります。マルチステージの人生では、家事と育児を主に担う役割をステージごとに交替してもいいと著者たちは考えています
*問題は、労働参加率の格差こそ縮小しつつありますが、賃金の格差が残っていることにあります。その原因の一つは、高い地位についている女性の数が少ないことにあります。多くの大企業で中級管理職の約30%を女性が占めていますが、全体としてみれば15%程度に過ぎません。ILOの報告書によれば、男女の賃金格差がなくなるまで、少なくとも70年かかると言っています

現状で柔軟な働き方を実践しているのは、もっぱら女性です。幼い子供の世話や、高齢の親や親族の介護をしたりする必要上そのような選択をすることが多いと考えられます
*自由裁量で仕事を進めやすい職(「融通性」の高い職)は、テクノロジーとサイエンスの分野であり、この種の職では男女の賃金格差が小さい
*今後こうした状況は、柔軟な働き方に対する人々の考え方、バーチャルテクノロジーが進歩するペース、業務が標準化される程度、高い地位にある男性が子供と多くの時間を過ごすロールモデルになる、などの度合いにより影響を受けると思われますます

ジェーンの5.0シナリオでは、夫婦が両方ともフルタイムで働く時期だけでなく、片方がフルタイムの仕事を離れて、育児や、知識の習得、ステージの移行への準備を行っていました
*マルチステージの人生の下、男性たちが柔軟な働き方を選択し始めた時、何が起こるか?;【悲観論】柔軟な働き方をする人が、男女とも低所得に甘んじ、結果として男女の賃金格差が縮小する、【楽観論】柔軟な働き方が企業や個人に課すコストを減らすために、仕事の在り方自体が根本から変わる。つまり、企業が仕事と年齢とジェンダーについて大きく発想を転換し、キャリア全体としては男女の生涯所得の格差が縮小に向かう
*いずれにしても、夫婦が役割を交替しながら、複雑に入り組んだマルチステージの人生を送るためには、夫婦の間で徹底的なする合わせを行うことと、強い信頼関係と協力関係を築いていることが不可欠であると著者たちは考えています

*現在、65歳以上の人の内結婚している人の割合は歴史上最も高くなっています。その割合は16~65歳の層と肩を並べるまでになっています。この背景には、寿命が伸びていること、夫婦の年齢差が縮小していること、再婚する人が増えているという要因があります(再婚に対する社会的偏見も薄らいでいるという事情もある)
*現在は、結婚年齢が上がり、離婚の割合が減り、再婚の割合も減っています。これは、結婚生活の土台が「生産の補完性」から「消費の補完性」に変わったため、結婚相手を選ぶ基準が変わって結婚が長続きするようになったこと、及び、結婚年齢が上昇し、人々が自分についての知識を多くもって結婚するようになったためと著者は考えています

<多世代が一緒に暮らす時代へ>
これまでの3ステージの人生では、同世代の人たちが一斉行進をする様に人生のステージを進むため、年齢層ごとに人々が隔離されて生きる欧米型の社会が出現しました。しかし、マルチステージの人生では、エイジ(年齢)とステージが一致しなくなり、大人が若々しく生きるようになる結果、世代間の関係に大きな変化が生まれます
*インドの様なアジアの国を訪れると、欧米ではめっきり見なくなった家族の在り方に目を見張らされます。子供と祖父母が一緒に暮らしている家庭が多く、子供たちは祖父母と多くの時間を過ごし、勤労世帯は親の支えを頼もしく感じられ、高齢者は自らが役割をもって貢献できると実感できている
高齢での孤独は寿命を縮めます。高齢者が家族の中で生きることには、確かなメリットがありますが、一方、多世代の同居は、プライバシーを確保できないことや、世代間で衝突が起きるなどの弊害もあります。
*40~50年前は欧米でもアジアの様に多世代同居型の家族が当たり前でしたが、現在では小規模な家族が一般的になっています。例えばデンマークでは、家族の構成員の数は平均してわずか2.1人過ぎません
*家族が多世代で構成されるようになれば、異なる世代が理解を深め合う素晴らしい機会が生まれます。また世代を超えた人間関係が築かれれば、年齢に関する固定観念や偏見も弱まるはずです。恐らく重要なのは、互いに親しみを抱き、世代間の触れ合いを長期的、安定的に続けることが重要になります

人類の長い歴史を通じて、人生の最大のイベントは出産と子育てでした。この時代、長生きすることの進化上のメリットは無かったと考えられます。寿命が延びれば、人生の中で子育てに費やされない時間が長くなる。その結果、友達付き合いが生活の中心になる時代が新たに出現するかもしれません
*最近の学生は、主たる人間関係として友達を重んずる傾向が強く、昔であれば家族に求めた様な温かみのある関係を友達に求めたいと思っています。このように、年齢的に均質な人的ネットワークの中でメンバー同士が付き合えば、その集団のアイデンティティが強化されます。その結果、生き方についてみんなが同じ考え方をしてしますことになります。
*問題は、年齢による分断が高齢者差別につながることです。異なる年齢層の人と交わらなければ、「我々対彼ら」という発想にはまり込み、固定観念と偏見を抱きがちになることになります ← (萩本欽一が70代で駒沢大学に入学し、そこでの経験を”週刊文春”に寄稿していますが、若い学生たちとの交流で、見事に年齢の壁を越えているのに驚きます)
*マルチステージの人生が一般的になれば、異なる年齢層の人たちが同じ経験をする機会が生まれます。心理学者のゴードン・オルポートの古典的な研究が明らかにしたことは、「固定観念と偏見を打破する手立ての一つは、集団間の接触を増やすこと」である
*年齢層の異なる人たちが触れ合う機会が増えれば、人的ネットワークの均質性が崩れはじめます。こうして高齢者が「別世界」の住人という状況は変わり始めるに違いありません

-本書を読んだ感想、その他-

本書は、引用文献のページだけで15ページに達することでご理解して頂けると思いますが、ビジネス分野における論文に近いものと思われます。論文であるが故に、出所の確かな文献を引用しながら、論理的な完璧性を目指していることは確かで、ぐうの音が出ないほどに筋が通っています
しかし、人生の選択は極めて個人的な問題であり、本書が勧めているマルチステージの人生が、すべての人に当てはまることはあり得ません。本書の著者も強調している通り、マルチステージの人生を送るためには、本人自身の覚悟と厳しい決断、不断の努力が必要となります。
従って、働かずとも十分に豊かで、余生を快適に!過ごしている人や、豊かではないものの、思索にふける孤高の人生を求めている人達には、本書が提供する”人生100年時代の人生戦略”は、全く役に立たない理論だと思います

いつの時代にあっても、大きな変革期には、私共の様な”普通の人々”が荒波に揉まれ、取り戻せない過去を悔やむことになります。
戦後70年を経て、人工頭脳(AI)、ロボット、クラウドサービスなどの先端科学が急速な進歩を遂げつつあり、産業構造が大きく変わろうとしています(本書ではこれを「スキルの価値が瞬く間に変わる時代」と表現しています)。また、生命科学・医療の進歩に伴い、着実に寿命が延びてきています。時代の大きな変革期にあって、我々の世代の人生設計の継続では、少なくとも子供や孫たちには、輝かしい未来は待っていないということは確かであると思います

振り返ってわが身を見れば、私自身が、突然の企業年金の大幅減額に慌てふためいて!いる現実がある一方、我が子3人の内2人は既に、苦しみながらではありますが、本書の定義による、エクスプローラーのステージ、インディペンダント・プロデューサーのステージ、ポートフォリオ・ワーカーのステージを経験しつつあり、更に、本人たちが意識しているかどうかは別にして、同類婚結婚の時期を遅らせることを実践している様であります

ところで、本ブログでは、終章で扱っている「自己意識」、「教育機関の課題」、「起業の課題」、「政府の課題」などは、敢えて本ブログでは触れていません。何故なら、ここでの提言はほとんどすべてが、それ以前の章で述べられているからです。ご興味のある方は下記の方法で添付のレジュメをご覧ください。尚、最近、安倍政権で取り組んでいる”働き方改革(働き方改革・実行計画要旨)”が、この流れにある事は間違いないようです

本書は、目次を見た時から内容が豊富で、ざっと読んだだけでは頭の中で内容が整理できないと思い、講義を受ける時の様にレジュメを並行して作りながら読み進みました。最初は、大学での半年の講義分の10ページ程度を予想していましたが、最終的には70ページになってしまいました。読み終わってから、レジュメの内容をチェックしてみると各章、各テーマで既述内容の重複が多いことに気が付きます。これは恐らく、著者たちが行ったロンドン・ビジネススクールでの講義をベースにして執筆された為ではないかと想像しています。逆にいえば、必要な章のみ(あるいは興味のあるテーマのみ)を読んでも、ある程度内容が理解できるようになっています。従って、このブログの内容をもっと深く知りたいという方のために、私の拙いレジュメ(Life Shift_読書メモ)も添付しました。ワードで作成してありますので、ダウンロードした後、最初の目次から、ご覧になりたいトピックにマウスを移動させ、”コントロール・ボタン”(キーボードの通常最下段の両端にあります)を押しながらマウスの左ボタンを押せば、そのページにジャンプすることができます

以上

 

 

春が来た!

長い冬が峠を越え、我が家の屋上にも春の息吹が感じられる頃になってきました。上の写真は、友人から頂いたフキの苗を裏の狭い路地に植えたものです。毎年2月頃にフキノトウ、春以降は葉を佃煮などにして楽しんでおります。ことしも2月中頃にフキノトウの初物を食べ、沢山出てきたらフキみそを作ろうと話していたのですが、すっかり忘れてしまい、今日チェックしたところ、上の写真の様に全て花が咲いていました。残念!

春の息吹_行者ニンニク・アサツキ
春の息吹_行者ニンニク・アサツキ

昨年秋、春の野草を楽しみたいと購入した「行者ニンニク」と「アサツキ」が目を出してきました。恐らく収穫は4月後半になると思いますが、楽しみです

ブルーベリー・ラズベリー・ブラックベリー
ブルーベリー・ラズベリー・ブラックベリー

ブルーベリー・ラズベリー・ブラックベリーなどのつぼみが膨らんできましたが、若葉がでるまでにはまだ時間がかかりそうです

メインの冬野菜として白菜、ネギ、キャベツ、ブロッコリーを栽培しましたが、白菜12ヶ、ネギ100本は3ヶ月で食べ尽し、やや出来損ないのキャベツとブロッコリーが、鳥の食害(冬は野鳥にとっても過酷な季節なので許してあげないといけませんね!)を受けつつ少々残っているばかりです;

キャベツ・ブロッコリー
キャベツ・ブロッコリー

一方、たび重なる寒波に耐え、冬のあいだ我が家に貴重なビタミンを補給してくれた“けなげな野菜”である野沢菜、水菜は、寒さで葉がやや黄ばんでいるものの、下記写真の様に未だ頑張っています;

冬の寒さを耐え忍び、春を迎えた野菜
冬の寒さを耐え忍び、春を迎えた野菜

これらの野菜からは、現在以下の写真の様な普通の八百屋さんでは買えない“菜の花”が収穫できます;

野沢菜と水菜の菜の花
野沢菜と水菜の菜の花

また、玄関へのアクセスの脇に、魚を飼うために作った10メートル程の水路(勝手に“ビオトープ”と称しています)には、クレソンが自生しています。下記写真の様に今が食べ頃です。因みに、春から夏にかけては虫がついて食べられてしまい、食用にはなりません(この水路には、金魚以外に各種生物が住み込んで!いますので、殺虫剤は使えません);

クレソン
クレソン

昨年11月に植えた“タマネギ”は、寒い冬を耐え、下記写真の様にようやく成長を始めました。写真左のタマネギは、大きく育てますが、右のタマネギは小さいうちに収穫し、シチューの具などに使う予定です;

タマネギ
タマネギ

白菜を収穫した後のコンテナは、土を再生した後、ジャガイモを植えました。今年は、「キタアカリ」の他に「男爵」も植えつけました。今年の工夫は1ヶのコンテナに種イモ2ヶを植えつけましたが、昨年(コンテナ1ヶに種イモ1ヶ)との収量の差を確認するのが楽しみです;

ジャガイモの植付
ジャガイモの植付

本格的な春に植え付けを行う予定の苗は、3月初旬から苗の育成を始めています。まず30度程度の温度を確保できる自作の“発芽装置”(詳しくは夏野菜の発芽・育苗の工夫_①を参照してください)を使って発芽させ;

発芽装置
発芽装置

発芽後は、居間のベランダに設置した自作の“育苗装置”(詳しくは夏野菜の発芽・育苗の工夫_②を参照してください)で苗に育てます;

育苗装置
育苗装置

現在、育苗段階に入っているのは、“サニーレタス”(←我が家の朝食のサラダに不可欠な野菜)と“プンタレッラ”です。プンタレッラは、私の親しい友人たちが2月にイタリアにスキー旅行を敢行し、市場で手に入れて食べた野菜で、食味を絶賛していたものです。さっそくネット経由で種を取り寄せ、実験的に栽培を始めたものです。日本では秋に栽培するのがいいようですが、春作が可能か確かめてみたいとおもいます

私の住んでいる埼玉県は、首都圏に出荷する野菜の産地として有名です。ちょっと散歩をすれば、真冬であってもプロの農家は、ビニールの覆いをしただけで見事な葉物野菜を育てているのを見ることができます。
昨年、天候不順のために冬野菜の栽培に苦労した経験(詳しくは冬野菜の収穫を参照してください)から、保温の効果を確認することができましたので、今年からは、以下の様にビニールの覆い(勿論!透明なゴミ袋使用)を使って3月初めから種まきをしてみました。成功するかどうかおなぐさみ!です;

大根・人参
大根・人参
大根・人参
大根・人参

以上