母方親族の戦争体験

満州国奉天市の古地図

-はじめに-

先日、昨年末に亡くなった従兄の”偲ぶ会”に行って参りました。諏訪湖を臨む高台にある古刹「地蔵寺」で行われましたが、この寺の墓地には母方親族の墓が多くあり、幼い頃から法事などで度々訪れる機会がありました

故人の墓石
故人の墓石

まず、墓前で献花し祈りを捧げた後、墓石に刻まれた墓碑銘を読んでいくと、終戦前後の故人の悲惨な体験、無念の思いが直に伝わってきました

私共の家族を含め、母方の親戚の多くは満州で終戦を迎えました。終戦の直前(8月9日未明)、日ソ不可侵条約を一方的に破棄(注)してソ連が満州に雪崩れ込んできてから、それまでの生活が一変し、引揚までの一年間、地獄のような生活が続きました。劣悪な生活環境の中で病気や栄養失調で老人や乳幼児など弱い者から次々と命を落としてゆきました
(注)1945年2月に行われた米・英・ソ3国による秘密会談(ヤルタ会談)で、ドイツ降伏(同年5月8日)後90日以内のソ連の対日参戦が決められていました。一方、大本営は同年5月、ソ連の侵攻を予測して満州の4分の3を放棄し、南満州で持久戦に持ち込む計画を決定しました。この作戦計画に基づき、全満州で所謂”根こそぎ動員“を行うと共に、主力部隊を南に後退させることになりました。この結果、この作戦について何も知らされず取り残された放棄地域の開拓農民や一般住民は、男手の無い中でソ連軍の無慈悲な攻撃に晒される結果となりました

関東軍の対ソ作戦地域とソ連軍の侵攻ルート
関東軍の対ソ作戦地域とソ連軍の侵攻ルート

-母方親戚の戦争体験-

母方祖父母の子供達の中で、長男家族_A、三男家族_B、四男家族_C、五男家族_D、次女(私の母)家族_E が終戦時に満州に住んでおり、それぞれ悲惨な体験をしました。以下の二冊の本は、諏訪地域の人々の戦争体験を後世に伝えるべく多くの手記や和歌を集め、(株)長野日報社から出版されたものです;

戦争はいやだ平和を守ろう会
戦争はいやだ平和を守ろう会

この中から、私の親戚が寄稿した手記、和歌を以下にご紹介したいと思います;

家族_Aの長男の手記 ⇒ 竹田純人
家族_Aの長女の手記 ⇒ 塚原節
家族_Aの長女の和歌
灯火管制下に征きたる君の離(さか)りゆく長靴の音を今もなほきく

家族_Bの長男の手記 ⇒ 竹田静夫 --- 昨年末に亡くなった従兄です
家族_Bの長男の和歌
緑なす博多に引き揚げし母子吾ら征きたる親父(ちち)よ生きて帰って
尚、この他に上記の本には掲載されませんでしたが、「偲ぶ会」では以下の秀作も紹介されました;
負け戦知りつつ親父赤紙で母を頼むと十二のわれに
弟の骨箱開けてばらまいて金品探るロシア兵
引揚げて松のみどりのまぶしさよ親父信二よふるさとの土
谺(こだま)する諏訪湖の花火孫といて凍土に眠る父に献杯
家族_Bの長女の手記 ⇒ 小口陽子
家族_Bの長女の和歌
四十二歳父赤紙で北満へ征きて帰らず「英霊」一枚

家族_Cの長男の和歌;
吾を背のリュックに入れて引き上げし亡父(ちち)の苦節を今にし思ふ

家族_Dの長女の和歌;
シベリアから父帰りきて川の字に寝たるうれしさ六歳の夏

家族_Eの長男の手記荒井威雄
家族_Eの次男(つまり”私”)は終戦の年に生まれ、母に背負われて引揚げましたので、全く記憶がありませんが、父母から聞いた終戦前後の状況は、私のブログにある記事:生立ちの記 をご覧ください

-海外居留民引き揚げの全体像-

1945年8月14日ポツダム宣言受諾を連合国に通告し、翌15日に終戦の詔勅が発布されソ連を除く連合国との戦争はほぼ停止状態になりましたが、ソ連軍との戦闘は続き、完全な停戦が実現するのは、満州、南樺太、南千島のソ連の占領が終る9月5日になりました。その後、在外軍人・軍属、一般人は、自身の判断で行動することは許されず、以下の法令に基づいて取り扱われることとなりました;
ポツダム宣言第9項
日本国の軍隊は、完全に武装解除されたのち、各自の家庭に復帰し、平和的で生産的な生活を営む機会を与えられる
日本政府の対応
外務省は現地の状況を認識できぬまま、ポツダム宣言の受諾を決定した8月14日に、大東亜大臣・東郷茂徳は、以下の訓令を出しました;
三加国宣言(ポツダム宣言のこと:米国、英国、中華民国)受諾に関する在外現地機関に対する訓令」:「居留民は出来得る限り定着の方針を執る
支那派遣軍の対応
支那派遣軍総司令部の「和平直後の対支処理要領」のなかで「支那居留民は、支那側の諒解支援の下に努めて支那大陸に於いて活動するを原則とし、、、その技術を発揮して支那経済に貢献せしむ」としています
GHQの対応
連合軍総司令官マッカーサーによる「日本政府宛一般命令第一号」によって、それぞれの軍管区の司令官のもとに降伏することとなった。その結果、全ての日本人は軍管区ごとの連合軍の支配下に入り、日本人の取り扱いに関しては、各軍管区の軍隊ごとに大きな違いが発生しました。また、連合軍の指示により、陸海軍部隊の移動を優先し、一般人の移動は後回しになりました
8月15日の時点で海外の居留民は、軍人・軍属が353万人(陸軍:308万人、海軍:45万人)、一般人は300万人で、合計653万人もの膨大な人数に上ります。軍管区毎の内訳は下の通りです;
中国軍管区
対象区域:旧満州地区を除く中国全土、台湾、北緯16度以北の仏領インドシナ(北ベトナム)
在留全日本人:約312万人(在外日本人の47%)
ソ連軍管区
対象区域旧満州地区、北緯38度以北の朝鮮(北朝鮮)、南樺太、千島列島
在留全日本人:約161万人(在外日本人の24%)
イギリス・オランダ軍管区
対象区域:アンダマン諸島、ニコバル諸島、ビルマ、タイ、北緯16度以南の仏領インドシナ(南ベトナム)、マライ、スマトラ、ジャワ、小スンダ諸島、ブル島、セラム島、アンボン島、カイ諸島、アル諸島、タニンバル及びアラフラ海諸島、セレベス諸島、ハルマヘラ諸島、蘭領ニューギニア
在留全日本人:約74万人(在外日本人の11%)

オーストラリア軍管区
対象区域:ボルネオ、英領ニューギニア、ビスマルク諸島、ソロモン諸島
在留全日本人:約14万人(在外日本人の2%)

米軍管区
対象区域:日本の委任統治諸島、小笠原諸島、その他の太平洋諸島、日本に隣接する諸小島、北緯38度以南の朝鮮(南朝鮮)、琉球諸島、フィリピン諸島
在留全日本人:約99万人(在外日本人の15%)

イギリス・オランダ軍管区オーストラリア軍管区および沖縄を除く米軍管区からの引揚は、B、C 級戦犯(下記注参照)の容疑者を除き、引揚船の手配が付き次第概ね順調に引揚が行われました
また、中国軍管区も、B、C 級戦犯の容疑者を除き、引揚船の手配が付き次第概ね順調に引揚が行われました

引揚者は、以下の18の港湾から日本に上陸しました;
浦賀、舞鶴、呉、下関、博多、佐世保、鹿児島、函館、大竹(広島県)、宇品(広島県)、田辺(和歌山県)、唐津、別府、名古屋、横浜、仙崎(山口県)、門司、戸畑

(注)B、C 級戦犯とは;
“B”級戦犯:「通常の戦争犯罪」、”C”級戦犯:「人道に対する罪」で、世界49ヶ所の軍事法廷で裁かれました。被告となった約5千7百人の内、約千人が死刑判決を受けたと言われています。これに対して、”A”級戦犯は、政治家、高級軍人を対象として「平和に対する罪」で裁かれました(東京裁判/極東国際軍事裁判)

中国、南樺太、南千島からの引揚げに関わる特記事項
1.中国山西省に駐屯していた北支派遣軍5万9千人のうち約2千600人は、武装解除を受けることなく残留し、中国国民党系の軍閥(閻錫山将軍)に合流し、終戦後約3年半にわたって第二次国共内戦を戦い、約550人が戦死、700人以上が捕虜となりました(日本軍山西省残留問題
2.ソ連軍管区では、日本人の引揚に全く無関心であり以下の様な悲劇が生まれました;
ソ連軍による抑留:ソ連軍が進駐した満州、南樺太、南千島では、ポツダム宣言第9項に違反し、軍人の大半(約65万人:諸説があります)を捕虜としシベリア各地に抑留し、強制労働が課されました。極寒の地で十分な食料も与えられず、約10%の人が命を落とした言われています
ソ連抑留
ソ連抑留(ラーゲリ:収容所)
② 満州からの引揚げ:満州に取り残された日本人は約105万人。ソ連軍の撤退が本格化する1946年3月まで引揚げは全く行われませんでした。ソ連軍撤退後に進駐した中華民国軍が米軍の輸送用船舶を使って引揚を実施しました。1946年内には中共軍支配地域を含めて大半の日本人が引揚げていきました
しかし、若い女性など一部の人は中共軍に拉致され、第二次国共内戦に参加しました。 満州在住の日本人の犠牲者は、日ソ戦(9月初旬まで続いた)での死亡者を含め、約24万5千人に上り、このうち8万人近くを満蒙開拓団員が占めています。満蒙開拓団の悲劇については、私のブログにある記事:「麻山事件」を読んで をご覧ください
南樺太、北朝鮮、および大連のソ連軍占領地区からの引揚げ:南樺太に取り残された日本人は約40万人。1947年2月、ソ連は南樺太をソ連領に編入(根拠:ポツダム宣言第8項:「カイロ宣言の条項は履行され、また、日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国、並びに我々の決定する諸小島に限られる」)し、ソ連の施政下でロシア人と同じ労働条件で生活することとなりましたが、正式な引揚が開始される前までに約2万4千人が密航により北海道に逃れたと言われています
1946年春以降、米ソ間で南樺太、北朝鮮、大連のソ連軍占領地区からの引揚が協議され、同年11月27日に「引揚に関する米ソ暫定協定」、同年12月19日に「在ソ日本人捕虜の引揚に関する米ソ協定」が締結され、引揚が開始されました。1949年年7月の第5次引揚まで29万2千590人が引揚げました。しかし、朝鮮人家族のいた人や、ソ連に足止めされた熟練労働者らは少なくとも1500人が南樺太にとどまりました
-祈りにかえて-
私の家族、親戚にとって満州での悲惨な体験は、その後の人生に大きな影を落としています。侵略した国に残された国民は、何故日本という国が行った侵略行為の犠牲とならねばならないのか、、、、
満州における一般人の犠牲者数は、東京大空襲、広島・長崎の原爆、沖縄戦の犠牲者を凌ぐ規模です。しかも、敵意に囲まれ、死と向かい合っていた長い時間は、どれほど引揚者の心を蝕んだか想像に難くありません
戦後、徹底的な”民主教育”を受けた我々の世代は、大日本帝国によるアジア・太平洋地域における侵略を負の遺産として引き継ぐことを徹底的に叩き込まれており、悲惨な引揚体験を”怨み”に変えることすらできませんでした。満州引揚げや、シベリア抑留に関し、国民レベルで行う追悼の日が設定されていないのも、こうした事が背景にあるのかもしれません
終戦後の引揚げに関わるこのネガティブな歴史を、悲しみの記憶として薄れるのを待つのも一つの生き方でしょう。また、悲惨な体験を二度と繰り返さない様に、積極的に若い人たちに体験を伝えていくことも非常に価値ある生き方であると思います
一方で、戦後の混乱した状況の中で、徒に死者を増やした行為や、こうした混乱の中にあっても人間としての誇りを失わずに戦った人の行為も、歴史に埋もれさせるのではなくきちんと調査し、次代を担う若者たちにも伝えていくことも重要であると思います。例えば、以下の事例についての私の見解を述べておきたいと思います;
1.大本営が1945年5月に決定した”根こそぎ動員“と、”主力部隊の南満州移転“の作戦は、結果として、何の告知もされないままに北満に取り残された”女、子供、老人ばかりの開拓農民“、青少年で構成され、ソ満国境に配置された”満蒙開拓青少年義勇軍“の救いようのない残酷な死を招きました。少なくとも本土では行なわれていた学徒疎開のような弱者を救う計画が、この作戦と並行して行われていれば、北満の悲劇のかなりの部分は防げたはずです。これを行わなかった大本営、関東軍の指導者、とりわけ参謀は、日本人自身による戦犯裁判で断罪すべきであったと思います
2.中国山西省に駐屯していた北支派遣軍のうち約2600人が、終戦後第二次国共内戦に参加し650名が戦死した裏には、北支派遣軍の司令官である澄田中将が、戦犯を免れ帰国するために、軍閥である閻錫山将軍と取引をした結果であると言われています。こうした部下をも裏切る卑怯な行為は、日本人自身による戦犯裁判で断罪すべきであったと思います
3.戦陣訓」を徹底したために、投降することをせずに無駄な死を強いられた兵士が無数にいました。また、沖縄戦や、引揚途中での一般人の集団自殺も、この戦陣訓の影響があったとも言われています。これを作成した責任者である東条英機大将は、東京裁判で「平和に対する罪」で死刑になっていますが、日本人自身による戦犯裁判でも断罪すべきであったと思います
4.ソ連軍の圧倒的な侵攻に対して、ろくな兵器も支給されずに戦い、死んでいった兵士も沢山います。こうした兵士に対する尊崇の念も、忘れてはならないと思います
以上