秋・冬野菜の現況

夏野菜その後!

夏野菜は9月一杯でおおむね終了ですが、以下は秋になっても作業が残っていた夏野菜たちです

1.トウガラシ
拙宅では、消費量が非常に多い唐辛子を一年間自給すべく、今年大量に栽培した5種類のトウガラシは、下記の写真の様に11月一杯迄、日当たりの好いベランダで乾燥させました。乾燥が終了したトウガラシは乾燥剤を入れて保存しています上記以外に、青い唐辛子も多く収穫して日々料理に使いましたが、この青い唐辛子の保存用としては柚子胡椒、トウガラシ醤油、自家製「かんずり」風があります

「かんずり」についてのみ「かんずり」風!としてあるのは、長野県、新潟県で作られる本物の「かんずり」は赤唐辛子を使うことと、最終的に屋外で寒に晒すのですが、当家では漬物博士の息子が、青唐辛子を麴と共に漬け込み冷蔵庫で熟成させます。食べるのは大分先になりますが、期待しているところです
<特記事項>
採取したトウガラシの種を翌年の栽培に使っていますが、同族のトウガラシは他種のトウガラシと交配してしまう事があります。今年栽培した「鷹の爪」は、「辛長キング」の近くで栽培した為に交配してしまい、1割位の鷹の爪はサイズがかなり大きくなってしまいました。ただ不思議なことに逆の交配はありませんでした

2.代表的な夏野菜栽培の顛末
① キューリ
今年は10月一杯まで収穫を継続すべく満を持して種蒔きの時期をずらして苗を育てていたのですが、始めに植えた苗が少し育ったところから「ウドンコ病」に罹り、薬を散布しても十分な収穫量は確保できず、2回目、3回目の苗も同様な経過を辿ってしまいました。原因として考えられるのは、長い期間再生を繰り返した「土」を使用していることと、雨により跳ね返った土が葉の裏に付いてしまうこと、これらがこの病気発生の原因と考えられます。再生土を使う事は避けられないので、来年は土の跳ね返りが葉の裏に付かない様に、プロの農家の様にマルチを使った栽培を考えたいと思っています
また、丈夫な苗を育てようとカボチャの苗を3本ほど種から育てこれを台木としてキューリの接木に挑戦しましたが、見事失敗。来年もチャレンジする積りです

② トマト

トマトは、大玉中玉ミニトマトの三種を栽培しましたが、概ね豊作で大好きなトマトをたっぷり楽しむことができました。ただ、大玉トマトの一部が尻腐れ病になってしまいました。これはネット情報によればカルシウム不足が原因の様なので、来年からは土作りの段階で大玉トマトにはカルシウムを含む肥料を使いたいと思っています
<特記事項>

上の写真左は12月15日ころの1本だけ残しておいた中玉トマトの苗です。右の写真は、12月19日に今冬最低気温を記録した日(屋上には霜が降り、水抜きを忘れた屋上の散水用の水道管が破裂しました)にこのトマトは枯死してしまいました。採集したトマトも零下の寒気で柔らかくなってしまい、赤くなるかどうか、食べられるかどうか不明です。残念!

③ ナス
ナスは、関東地方で一般的な中長ナス水ナス長ナスの三種を栽培しました。いずれも豊作で毎日各種のナスを色々な料理で楽しむことができました。中長ナスについて、秋茄子を楽しむべく一部の苗を7月中に刈り込み、肥料を充分に与えて秋茄子の実りを期待しましたが、10月以降の収穫は出来ませんでした
消費しきれなかったナスは、冬の鍋用に乾燥ナスとしたほか、夏の間冷蔵庫にたまってきた他の夏野菜と共に強い塩(10%程度)で漬け込み、冬の大根漬に活用しています
④ ピーマン類
今年は、普通のピーマンとパプリカの苗を一株づつ購入し栽培しましたが、量的には一家で十分なほど収穫できました。特に以前失敗したパプリカは大成功でした

⑤ 青紫蘇、赤紫蘇
今年から各種「しば漬」を作るという事で大量栽培しましたが、やや作り過ぎでした。下の写真の様に「大葉の塩漬け」、「ショウガと茗荷の梅酢漬け」、「紫蘇の実の塩漬け」などの保存食にはしましたが、冷蔵庫のスペースにも限界がありますので、来年からは少し栽培を減らそうかと思ています

⑥ さつまいも
さつまいもは、植え付け時期を逸したために、5月下旬に宮崎県から挿し芽用の苗(の元?)を取り寄せ、40リットルの袋(牛糞堆肥の袋)を使って栽培しました。指し芽用の苗は沢山入っていましたので、勿体ない精神!で1袋当たり2本、合計10本植え付けましたが、これが間違っていました。10月中旬に収穫しましたが、大きいイモは全体の半分にも満たない状況でした。小さいイモでも味は甘くて美味しく、まだ残っている大きな芋10ヶ程は、年末年始の孫に食べさせようと残してあります

ネギの大量!栽培

拙宅では、四季を問わず毎日の消費が盛んであるネギについては、昨年栽培した約100本のネギが、トウガラシ同様、約半年で在庫が払底したため、今年は更に大量に栽培しています
昨年4月に種を蒔いて育てた苗100本は冬を迎える前に十分太くなって現在消費しています。また、9月に種を蒔いた苗100本は現在育成中です(育成中のネギのコンテナは下の写真以外にも空いたスペースに置いてあります)

これらのネギ以外に、細ネギも栽培していますが、これは抜き取らないで根元から切って使えば、一年中再生産が可能な便利な野菜です

冬野菜の栽培

1.白菜
今年は13株栽培しました。12月に入ってから霜害を避ける為に葉を纏めて縛ってあります。収穫は何時でも可能な状態まで成長しています

<特記事項>
13株の内1株は、10月初めに苗の芯を虫に食われ、哀れな状態になりましたが、何と下の写真の様に再び成長を始め、小さな株が4つ収穫できそうです!(写真は4つの内1株収穫した状態です)

2.キャベツ
今年は夏野菜を9月下旬まで収穫を続け、その後に土の再生を行ってから植え付けを行ったこともあり成長はやや遅れ気味になりましたが、全部で12株あります。収穫は恐らく2月位になりそうです

3.大根類
今年はナスの栽培を計画的に遅くまで引っ張った為、例年栽培している青首大根(一番深いコンテナを使用;ナスとシーズンを分けて共用)は諦めました。それを補う為に中型コンテナで栽培できる大根を各種栽培しました;
① 日野菜カブ
昨年も栽培して漬物が美味しかったので、今年も1コンテナ栽培しました

② 飯綱辛味大根
長野県の有名な大根で、蕎麦や天ぷらを食べる時、とても辛~いこの大根おろしは必須です!

③ その他の大根

夫々美味しい大根でしたが、「もものすけ」なる大根は、葉も含めて生食が最高でした。青い大根は二種類とも結構辛く、また白い大根は成長が早く、青首大根の代替が可能な感じがしました
<特記事項>
寒い地方で収穫後の大根を長期間保存する方法として「地中に埋める」ことをやっているそうなので、今年から屋上栽培でも以下の写真の様にして試しています(勿論このコンテナは新聞紙を上に入れて蓋をしています)。既に1ヶ月程経っている大根もありますが、何とか新鮮さを保っている様です!
④ 野沢菜
今年は漬物にする野菜が多いので、野沢菜は中コンテナでやや密植気味に育てた所、例年に比べてカブの部分が小さく、このカブの粕漬は既に食べ終わっています。葉の部分は野沢菜の漬け方には各家で秘伝の技があるそうなので、今年は荒井家の特別な野沢菜漬けが出来ることを期待しています

⑤ ケール
昨年、栽培してみて驚いた野菜に「ケール」があります。昨年は苗2本を買って育てましたが、冬中新鮮な葉を供給し続けてくれました。分厚い葉は冬の寒さを何とも感じないのか常に成長し続けます。栄養分豊富なので、普通の人は「青汁」の材料にしていますが、拙宅では生野菜サラダの主役となります。今年は春に採取した種を使って下の写真の様に栽培数を6株に増やしました。今年はワイフに生野菜以外の料理を期待している旨を伝えてありますが、、、

冬にビニールテントを使って栽培、収穫する野菜

昨年実験的に始めた透明なゴミ袋を使った簡易ビニールテント」による栽培が、思いの外うまくいったので。今年は栽培する野菜の範囲を広げて実施することにしました
中で栽培している野菜は、朝食で欠かせない「生野菜サラダ」で使われる野菜類と一年中需要が旺盛なニラです。今冬屋上で、マイナス3度を記録した日(晴天)に、午前11時頃に測ったテント内の温度は30度を超えていました(右側下の温度計をご覧ください)。流石に早朝は外気温近くには低下しますが、この早朝の低温に糖分などを貯めて堪え得る野菜であれば、日中の温度で成長する事が期待できるはずです

春に収穫する野菜

① タマネギ
昨年は、種蒔き後手抜き(水遣り、草取り、施肥、など)をした為に苗が不足し、苗を追加購入する羽目になった反省を踏まえ、心を込めて?苗を育成した甲斐がありました。今年は11月末の植え付け時には、適切な大きさの苗(根元の直径が5ミリ前後)が十分に確保できました。現在は既に定着して来年5月頃には立派なタマネギが収穫できそうです

また、かなりの苗が余ったので、来年3月下旬以降、ペコロス(小タマネギ)として収穫すべく、中小のコンテナに密植して育てていますが、こちらも順調に育っているようです

② 鞘エンドウ
毎年鞘エンドウの栽培は欠かしていませんが、今年は100円ショップで外国原産の「巨大?鞘エンドウ」の種を見つけたので、これを栽培することにしました

鳥害(植えた直後の種や、芽吹いたばかりの苗が鳥に狙われる)を防止するためのネットで見にくいと思いますが、密植状態になっている苗が見えると思います。これは毎週日曜日に放送されるNHKの野菜栽培の番組から仕入れた知識ですが、間引きする苗を途中まで育てておいて、冬の間これを適宜切り取って「豆苗」として食べるという知恵を拝借したものです

日当たりの良い出窓でのハーブ栽培

ここ数年、拙宅の日当たりの良い出窓で、冬場フレッシュ・ハーブが食べられるように各種栽培しています

栽培しているハーブは、セージ、ミント、パセリ、イタリアンパセリ、フレンチパセリ、バジル、タイム、ディル、などです
蛇足ですが、写真の中央上部にある代物は、ワイフの希望により設置した「野鳥のエサ台」です。パンくずなどを補充しておりますが、以下の様な野鳥が訪れ、食事時の楽しみになっております

2021年度の屋上菜園関連費用総括


2020年から薬剤の散布を極力減らしている(以前に購入済みの薬剤は少し使用している)こと、葉物野菜類について種を採取して次回の栽培に使っていることが経費節減に多少役に立っていると思われます

以上

電動航空機の夜明け

-はじめに-

近年、温室効果ガスによる地球温暖化が原因と考えられる災害(注1)が全世界的に発生し、脱炭素社会の実現が急務であることが世界の共通認識になりつつあります
(注1)干ばつ、森林火災、洪水、巨大台風、北極・南極の氷溶解、永久凍土の溶解、海水面上昇、他

2021年11月、英国グラスゴーで開催されたCOP26(注2)においては、侃々諤々の議論が行われ、先進各国は「火力発電所の全廃」や「EV(Electric Vehicle/電気自動車)への切り替え」など脱炭素の取り組みの具体的時期を表明しました
一方、福島原子力事故以降多くの原子力発電所が停止し、その不足分を火力発電所が補っている日本も、火力発電所の削減や、EV化の推進については、困難ではあるものの、叡智を集めて先進国の一員としての責任を果たさねばならない状況になっていると考えられます
(注2)第26回気候変動枠組条約締約国会議(United Nations Climate Change conference);

企業独自の脱炭素化の動きは日本でも加速しつつあります。停滞する「物造り日本」を取り戻す絶好の機会であるばかりでなく、大企業は、ESG(注3)や SDG(注4)を意識して利益の追求だけではなく、地球環境や社会の持続性も企業目標に掲げなければ企業の永続的な発展が望めない時代となってきました
(注3)ESG:Environment Social Governance/環境・社会を考えた企業統治
(注4)SDG:Sustainable Deveropment Goals/持続可能な開発目標

以下は、新聞雑誌の記事やネット情報、定期購読している Aviation Week & Space Technologyの記事を読み、所々に私の勝手な意見を加えて纏めたものです

航空業界への波及

こうした事が背景にあって、国際民間航空機関(ICAO/International Civil Aviation Organization)は2020年以降にCO2排出量を増やさないとする国際目標を導入しました。また、2021年10月4日に開催された年次総会では2050年に温暖化ガスの排出量を実質ゼロとする目標を採択しました
一方、現在の商用航空機は殆ど全てと言っていいほど化石燃料に頼って運航を行っています。現在、最も近道と思われる植物由来の代替燃料の開発が行われていますが、燃料コストが数倍になると共に、十分な量を確保することも難しく、航空業界全体で代替燃料の活用の見通しが立っている訳ではありません。因みに、現在の燃費効率の良い長距離ジェット機で東京=ロサンゼルス間を運航した場合、240トンの二酸化炭素が発生すると言われています
<参考:植物由来の航空燃料開発の現状>
①「ユーグレナのバイオ燃料
②「ANA・JAL、国産の持続可能燃料を定期便に
③「エールフランスが_食用油入り5000㎞飛行
④「空の脱炭素へANA・JALが再生燃料争奪

燃費の改善以外には最も脱炭素化が難しいと思われていた航空機業界にも、電動航空機の開発が活況を呈してきました。最近、欧米先進国の大手航空会社もが電動航空機を開発している企業への投資や、大量発注に踏み切るところが出てきました(具体例については後段で詳述
但し、如何に電動航空機が発達したとしても、推進機構がプロペラに頼っていることから、ジェット機の速度に追い付くことは不可能なので、長距離路線については電動航空機にとって代わることは考えられず、ジェット機が消えるわけではありません(植物由来の代替燃料による運航など)

航空機の歴史(参考:詳しくは私のブログ「航空機の発達と規制の歴史」をご覧になって下さい)を振り返ると、1903年にライト兄弟が初めて動力付きの飛行機の初飛行に成功してから、たった7年後には日本においても、徳川好敏・日野熊蔵によって動力機の飛行が行われました。その7年後の第一次世界大戦では航空機が爆撃に使われ、第二次世界大戦前夜までには航空輸送が軍事だけではなく商用の交通手段としても一般化していました。第二次世界大戦最後の段階で登場したジェット機は戦争終了7年後には大型ジェット旅客機(英・コメット)が登場していました。航空の歴史は常に「夢の実現」の為にチャレンジを続けてきたことが分かります

電動航空機は無人のドローン以外は、まだ実用段階になっていませんが、近年のEVの急速な普及に伴う、電動モーター(以下「モーター」と略称)や蓄電池バッテリーと略称)などの要素技術の進歩が急速に進展しており有人の電動航空機の登場・普及は間近に迫っていると思われます

一方、電動航空機の一分野であるドローンについては、「空飛ぶ自動車」という覚え易い名称でメディアにはよく登場する様になりました
ライドシェアやフードデリバリー (Uber Eats)などで有名な米国の新興企業ウーバー・テクノロジーズ( Uber Technologies, Inc./カルフォルニア州)が、同社のサービスの一環として空のライドシェアに乗り出すことを発表し、一気に現実味を帯びるようになったのではないでしょうか。以下の動画には空の交通革命を齎す「夢」が詰まっているような気がします:Ubers elevate vision

バッテリー、モーターの技術革新

一昔前は、電動で航空機を飛ばすなどは、模型飛行機の世界の話でした。しかし、以下の要素技術の進歩には目を瞠るものがあります;
A.バッテリーの進歩
現在、パソコン、スマホ、EV、その他に搭載されているリチウムイオン電池を発明したのは日本人の吉野彰さん(2019年ノーベル化学賞受賞)でした
このバッテリーの充電能力単位重量当たりの充電量)と繰り返し充電・放電に耐える能力が従前の他のバッテリーに比べて格段に優れていることで急速にリチウムイオン電池は普及しました。唯一の欠点としては、何らかの理由(衝撃、振動、他)で熱暴走を起こす可能性がある事でした
パソコンの分野でソニーが初めてリチウムイオン電池をパソコンの電池として採用しましたが、発売後、暫くして発火事故を起こしてしまいました

極限までの軽量化が求められる航空の分野では、長らく充電能力に優れたニッケル・カドミウム電池が非常用電源として装備されていましたが、ボーイング社の最新鋭機である787型機に初めて非常用電源としてリチウムイオン電池が採用されました。しかし、日本において787型機が就航して間もなく(2013年1月)、JAL・ANA共に 787型機の バッテリーの火災事故が発生してしまいました
この火災原因が直ぐに究明できないこともあって、1月16日FAA(米国連邦航空局)は全世界で 787型機の運航停止命令を発動(34年振り)、国土交通省も同様の命令を発動しました。その後、火災発生の可能性のある個所を全て改修し、6月1日になってやっと定期便復帰を果たすことが出来ました(運航停止期間:136日)。詳しい経緯は私のブログ「航空機の発達と規制の歴史」の最後の方をご覧になって下さい

現在でもパソコンやスマホでは火災事故が時折発生していますが、当初に比べれば格段に事故は少なくなっています。また、EVが、一回の充電で走ることが出来る距離を競う中で、次々と新しい技術が開発されつつあります<参考>
EV特許の競争力、②マグネシウム・イオン電池、③リチウム硫黄電池

これからの技術開発競争は、EV化の急速な進展、電動航空機の登場、などの刺激を受けて加速することは間違いないと思われます

B.燃料電池(Fuel Cell)の実用化
燃料電池というのは、水素を燃料として空気中の酸素と化合させて発電するものです充電する代わりに水素(高圧の水素、又は液体水素)を補給することになります。既に日本の自動車業界ではトヨタとホンダが燃料電池車(FCV/Fuel Cell Vehicle)を発売しています;
簡単な動作原理と実物の燃料電池の写真は以下をご覧ください(画像をクリックすれば画面が拡大します)

燃料電池の可能性は、重量(体積)当たりのエネルギー効率が高いことにあります。以下の図表はネット上で見つけたもので数値の正確さについては確認していませんが、バッテリーに比べると燃料電池の重量当たりのエネルギー密度が非常に高いことは間違いないようです。また、消費することで重量が減っていくことなど長距離の電動航空機にはうってつけであると思われますC.モーターの進歩
直流モーターは、私が電気少年であった昔に知っていた知識を遥かに越える技術革新がありました
我々が持っていた知識は、直流モーターについては電車などで使われる直巻モーター(回転子と固定子の巻線が直結されている)と分巻モーター(回転子と固定子の巻線が並列に結合されている)の区別があり、交流モーターについては、産業界の主要な動力として使われる三相交流モーターと、主に家庭電化製品で使われる単相交流モーターがあるという程度でした
しかし、EVなどで使われる現在のモーターは、実は直流の電気を半導体を使ったインバーター(inverter)という回路を通して交流に変換し、三相交流モーターと似たような仕組みで回転させる様になっています;
<参考>  インバーターで直流から交流を作る仕掛け;
インバーターは直流を半導体のスイッチング回路で矩形波のパルスに変え、これをコンデンサー、抵抗、インダクター(inductor/コイル)、などの部品で平滑化することによって任意の周波数の疑似的な正弦波に変えることが出来ます。パルスに変える方法にはPMW(Pulse Width Modulation)変調と、PFM(Pulse Frequency Modulation)変調の二つの方法があります。詳しい説明は電気少年!しか興味が無いと思いますので省略します
この仕組みは、今や多くの電子回路でも使われております。因みに、最近の日本のエアコンは、省エネの為に100ボルトの交流を一度直流に変え、インバーターを使ってモーターの駆動をコントロールしています
また、パソコンや家電製品の電子回路には、多くの構成ユニットの動作電圧の違いに対してメインの供給電圧をその電圧に昇圧・降圧する為に同じ仕組みのインバーターを使っています。私の電子工作にも下の写真の様なインバータを使っています(中国製でたった200円!)
<参考> 直流モーターと三相交流モーターの回転する仕組みの違い;

直流モーターの変遷(原理)

上図右の現在のEVモーターでは、回転子に現在資源獲得競争で話題のネオジウムの合金(極めて強力な磁石となる)を使用し、固定子にはインバーターで直流を三相交流に変換させた電流で回転磁界を作り回転子を回すという原理(三相交流モーターと原理は同じ)で作動しています
回転数は固定子に流す交流の周波数で決まり、トルクはここに流す電流によって決まります。これらのコントロールは何れも半導体を使ったコントローラーで行います

動力としてのモーターとガソリンエンジンやタービンエンジンの最大の違いは、モーターは部品点数が極めて!少ないことと、低温で作動することです。この結果、航空機にモーターを使えば、定期点検や定期交換などの整備の負荷が大幅に減ることと、ベアリングなどの回転部分を除けば壊れる箇所が少ないので、極限の信頼性を要求される航空機の構成部品としてはうってつけであると考えられます

Follow_Up:2022年1月11日、ネット上で以下の情報を入手
DENSO の電動航空機用モータ-開発

電動航空機の分類

電動航空機は、幾つかのカテゴリーに分類できると思われます。電動と言うからには、少なくとも推進装置にモーターが使われていることは共通しています。ただ、モーターを駆動するエネルギーによって以下の様に分類できます(前提として炭酸ガスを出さないエネルギーに限ります)
A.モーターを駆動するエネルギー源による分類;
1.バッテリーによってモーターを駆動する電動航空機
*一般に、バッテリーは重量当たり貯められるエネルギー量は化石燃料を燃焼させた場合と比べ格段に少ないので、バッテリーで長距離の飛行機や重い航空機を飛ばすことは現在の技術では難しいと言えます

2.水素を燃料として発電し、その電気を使ってモーターを駆動する電動航空機

*既に自動車の分野ではFCV(Fuel Cell Vehicle;水素と空気中の酸素を化学反応させて電気を発生させ、この電気でモーターを駆動させる)として販売されています

燃料電池の原理と実物の画像

水素を燃料としてタービンを駆動し、その動力を使って発電しモーターを駆動させる。この方式はハイブリットの自動車と同様に、発生した電気を一時的にバッテリーに蓄電してモーターを駆動することになります(この技術は未だ開発中)

B.揚力を得る手段による分類;
1.ヘリコプターの様に回転翼のみを使って浮上し、回転翼面を傾け、前方への分力を使って前進する電動航空機(通称 eVTOL/electric Vertical Takeoff & Landing Airplane)
*ヘリコプター同様、滑走路は不要。但しエネルギー消費量は多い

2.離・着陸時に回転翼を使い、巡航時の揚力は普通の航空機と同じ翼を使う航空機
*ヘリコプター同様、滑走路は不要。巡航時に翼を使うのでエネルギー消費量は少なくて済む
2.2.離・着陸時に回転翼を使って短い滑走距離で離着陸し、巡航時の揚力は普通の航空機と同じ翼を使う航空機(通称 eSTOL/electric Short Takeoff & Landing Airplane)
3.推進機構のみをモーターで駆動し、揚力は通常の航空機と同じく翼で得る航空機(通称 eCTOL/electric Conventional Takeoff & Landing Airplane)
離着陸に滑走路が必要となる(空港発着が原則)。エネルギー消費量は少なくて済む

C.無人機か有人機かによる分類
1.無人で地上からの操縦による電動航空機(ドローン)
*無人のドローンについては既に実用化の段階に入っています

2.パイロットが操縦する電動航空機
*現在の航空機同様にパイロットが操縦し、旅客・貨物を輸送する
航空業界が導入を検討している機体は全てパイロット操縦を前提にしています
*将来AIを装備した航法機器と地上からの運航サポートにより無人の自律運航が可能になるかも知れません

無人電動航空機(ドローン)の普及

ドローン(Drone)とは我々の学生時代では空戦訓練時の銃撃やミサイルの標的用の無人機を意味していましたが、最近メディアなどでは無人の eVTOLのことを通常ドローンと言い慣わしている様です(但しモーターではなくガソリンエンジンを動力に使っているものも無人であればドローンと呼んでいます)。ここでもその定義でいきたいと思います
以下の報道を見ると、2015年から現在までの6年間でドローンが完全に実用段階に移行したことが分かります
1.電動ドローンの進歩と利用範囲の拡大;
*16年8月、空撮技研・農薬用ドローン販売
*17年11月、四国電力・設備転換にドローン活用
*18年1月、ドローン測量の主役に
*18年5月、ドローンの自律飛行に保険
*18年7月、ドローン物流が新段階
*18年10月、「空の物流革命」先陣争い
*19年4月、ゼンリン・空の地図と交通量統制構想
*19年10月、NEDO実証実験_1㎢に37機同時飛行

以下のJAL及び三菱重工が関わったの2件は、ドローン自体は電動ではないものの、無人ドローンの遠隔管理に必要な運航管理技術遠隔操作技術のノウハウを持った会社がドローンビジネスに関わり始めた事例です
*20年11月、JAL印の「無人ヘリ」が離島間を飛び回る!
*20年11月、三菱重工・千キロ先のドローン操作実現
以下の2件の事例は、携帯会社が自身が持つ通信網を使って、飛行中の現在地の確認やリアルタイムの映像を見ながらの操作を行うため通信インフラ提供でドローンビジネスに関わり始めた事例です
*21年11月、JR東・KDDI・JAL出来立ての食事ドローンでお届け
*21年11月、携帯会社が狙うドローンビジネス

2.商用ドローンに関わる規制の歴史;
*2015年9月、ドローン規制法成立
*15年10月、大型無人機を産業利用へ法整備
*15年12月、商用ドローンの環境整備・総務省が規制緩和検討
*16年3月、ドローンで農薬散布の認定制度_農水省
*17年3月、民間のドローン技能講習・公認制度導入_国交省
*19年4月、国交相ドローン向け飛行情報提供開始
*19年8月、ドローン商業ルール整備、登録制、安全基準設定
*20年3月、国交相ドローン免許創設
*国土交通省資料「ドローンの安全飛行の為のガイドライン

3.技能講習;
*17年12月、産業用ドローン操縦者スクールを開設
サイニチ・ドローンスクール

パイロットが操縦する電動航空機の開発状況

私はJALを退社して以降、航空・宇宙関連の雑誌である「Aviation Week & Space Technology」を購読し続けていますが、ここ数年、頻繁に電動航空機の記事が掲載されるようになりました。これは恐らく脱炭素化社会の実現が世界共通の目標となり、未だ化石燃料による航空機が大半である航空業界にとっても喫緊の課題になりつつあることがその背景にあると思われます
現在、電動航空機の用途としては、航続距離、速度、搭載重量、などがジェット機の能力には遠く及ばないことから、以下の様な用途に使うことが目標になっていると思われます;
大都市内の新たな輸送手段UAM/Urban Air Mobility)
*混雑する大都市内の自動車に替わる輸送手段;空のライドシェア(urban aerial ride-shareing)、エアタクシー
*eVTOLを使えば世界のトップ100の空港と都市中心部を結ぶ路線の93%は20分以内で結ぶことが出来、大きな需要があると考えられる
*日本では:JAL「空飛ぶクルマ」で旅客輸送
大都市内にヘリポートを作るのは騒音の問題などで設置が難しいが、Vertical Aerospace_VA-X4の騒音はヘリコプターの数百分の一なので、新たなVertiportの設置には周辺住民の抵抗は少ない可能性があります

地域輸送(regional transportation)
*航空業界ではハブ空港から地方空港への旅客・貨物の輸送には、現在は主に30人~50人乗りのターボプロップ機が使われており、使用機材も更新時期に入っているものが多いと言われています
短距離であるがアクセスが困難な観光地への輸送手段としての利用も需要があると考えられます。米国には各州にこうしたアクセスに時間のかかる観光地が沢山あるとのこと

高速貨物輸送(express logistics)
*サプライチェーン革命
により、在庫を多く持たない事業者が多く、この分野の需要は大きいと考えられている
医療関連の輸送
*臓器移植や輸血用血液の輸送などが考えられる
軍事輸送
沿岸の都市間を結ぶ旅客・貨物輸送

以下は、開発中の電動航空機の設計仕様の主要な部分の紹介ですが、これらは以下の「Aviation Week & Space Technology」の特集記事と日経新聞、雑誌の記事、ネット情報などを集約し、実用性がありそうだと私が判断したものを取り纏めています。尚、引用している動画はYouTubeが多いので、開始前にCMが入るものがありますがお許しいただければ幸いです!;
*Urban Air Mobility_A&W_2019年6月16日(原文は紛失!)
What Do Airlines Want From eVTOLs
_A&W_2021年7月11日
*Joby Hits Range and Noise Targets on Road to Certification_ A&W_2021年8月29日
Fixed Focus_A&W・2021年9月26日
 *AAM Leaders Ramp Up Development Spending on eVTOL Air Taxi_A&W_2021年12月5日

尚、以下の説明で、「耐空証明」、「型式証明」という用語が沢山出てきますが、この制度について詳しく知りたい方は私のブログ「3_耐空証明制度・型式証明制度の概要」をご覧になって下さい

〇Vertical Aerospace VA-X4

Vertical Aerospace社社は、英西部ブリストルを本拠とし、人工知能(AI)を駆使して電力事業を展開するOVOエナジーの創業者のステファン・フィッツパトリック氏が2016年に設立しました(宣伝用の動画
<性能>
*搭乗人員:パイロットを含め5人
*最高速度:325km/h;航続距離:160km

<機体仕様>
固定翼
*離陸用に8個のプロペラ;推進用に4個のプロペラ
<開発体制>
推進装置:英・ロールスロイス社;航法システム:米・ハネウェル社
<開発目標>
*2024年にFAA(米国連邦航空局)から型式証明を取得する計画
<受注状況>
*2021年11月時点で1350機
*主な受注先:アメリカン航空(250機+option/100機)、バージンアトランティック航空(50機+option/100機)、JAL(50機+option/50機)、Avolon(アイルランドのリース会社;310機+option/190機)、丸紅(200機予約注文)
*JALは50機まで購入またはリース、更に追加で最大50機導入可能(2021年10月22日日経新聞情報)
<特記事項>
騒音は実測でヘリコプターの数百分の

〇Jovy Aviation
米国カリフォルニアを本社とし、800人を超えるエンジニアと専門家のチームを持っている。2020年、トヨタ社は
約3億9400万ドル(約450億円)を出資ウーバーテクノロジーも出資している。飛行テストの動画
<性能>
搭乗人員はパイロットを含め
*2021年7月初旬、垂直離着陸を含むTest Flight実施、1回の充電で154.6マイル(286.32km)平均時速223km/hキロ達成
エアキャリアとしての許容騒音レベル達成
<機体仕様>
*固定翼
*プロペラ6基;プロペラは全てチルトタイプ(Tilt Type)になっており、プロペラ部分を傾けることにより垂直離着陸と巡航時の推進用の両方を兼ねている
*バッテリーはリチウムイオン電池

<開発体制>
自社開発体制
<開発目標>
*2022年にPart135エアキャリア(チャーターベースの旅客輸送を行う航空会社)としてのCertificationを取得すべくFAA(米国連邦航空局)と交渉をしている。型式証明を得るための機体は2022年の前半に飛行させる予定
Part23タイプの耐空証明(19席または最大離陸重量19,000ポンド未満の小型航空機としての耐空証明)とその製造免許取得を目指している
<受注機数>
*下記参照
<特記事項>
*Joby社は、自身でAOC(Air Operators Certificate/航空会社としての資格
を取得しウェットリース(パイロット付きで機体をリース)を行うことを目指していると思われる
*2026年までに850機をJoby社自身が所有する計画
*2019年12月に米Uber社とサービス提供契約を締結

〇Archer Aviation

カリフォルニア州パロアルトに拠点を置くオンライン求人マーケットプレイス「Vettery」も創業したAdcockとGoldsteinの2人が2018年にArcher社を立ち上げました。2021年2月にはAtlas Crest Investment Corp.(NYSE:ACIC)と企業結合契約を締結しています。会社の概要はArcher Aviationのホームページをご覧ください
<性能>

搭乗人員はパイロットを含め5人
*航続距離60マイル(約111km)、巡航速度150マイル(278km/h)
<機体仕様>
*固定翼
*プロペラ6基;プロペラは全てチルトタイプ(Tilt Type)になっており、プロペラ部分を傾けることにより垂直離着陸と巡航時の推進用の両方を兼ねている
*プロペラを駆動するモーターは12ヶ(各プロペラは2モーター)
*バッテリーはリチウムイオン電池

<開発体制>
*自社開発
<開発目標>
*2021年9月7日、FAAの耐空証明取得の第一段階であるG-1認証を受領
*2024年引渡し開始
<受注機数>
*United Airlines:200機+option100機
<特記事項>
*この機体の用途としてエアタクシーを考えている
*機体が頭上を通過しても殆ど聞こえない様な低騒音(45DBA;DBAとは通常使われる音圧の単位「デシベル」を人間の周波数別の感度で補正した単位)を実現

〇Beta Alia

Beta Technologiesは、米国バーモント州に本拠を置くスタートアップ企業で。eVTOLに関しては、キーとなるイノベーションである電動推進機構にフォーカスし、残りの部分は出来るだけ従来の固定翼航空機の考え方を踏襲し、FAA(米国連邦航空局)の認可を得るためのハードルを可能な限り低くしている。これは、ティルトタイプを選択したJovy AviationやArcher Aviationとは別の道を歩んでいることになります
<性能>
搭乗人員はパイロットを含み6人、貨物仕様の場合は200立方フィートの貨物の搭載が可能
*最大離陸重量は7000ポンド(約3.18トン)
600ポンド(約272kg)の搭載量航続距離250マイル(約463km);1500ポンド(約680kg)の搭載量では航続距離200マイル(約370km)
*時速145マイル(約269km/h)
*リチウムイオンバッテリーの容量330kwh充電時間は約1時間)
*上記の性能は、エネルギー消費の激しい離着陸の時間を、通常の操作では40秒間に制限している
<機体仕様>
*垂直離着陸用の4つのプロペラは巡航時には前後方向に揃えられて停止し、空気抵抗を最小化していると
*推進系には、ナセル構造はなし。プロペラは固定ピッチ
翼を使った巡航飛行には胴体後部のプッシュタイプのプロペラを装備
*滑走スペースさえあれば離陸と着陸、又はそのどちらかをエネルギー消費のはげしい垂直離着陸をしないで滑走で離着陸ができる
<開発体制>
*既に511百万ドル(約562億円/1ドル110円で計算)個人の投資を得ており、他社との合併・提携は不要
*Beta社は、モーター、インバーター、バッテリー、フライトコントロール・システム、機体仕様(aircraft configulation)などに関わるベストな会社を選定し、自社でこれらを統合することを行っている
<開発目標>
*最初の耐空証明取得を目指す機体は、2022年に初飛行を行い、2024年の終わりにFAR Part23(コミュータータイプの航空機区分)の耐空証明を取得することを目指している
*Beta社は、パイロット二人乗りの実験機を制作し、2020年2月からテスト開始;この機体は2ペア(4台)のティルトするバリアブル・ピッチのローターを装備しており、フライトコントロールのテスト機として使用している。これで、バッテリ・マネージメント、fly-by-wireシステムの評価、離着陸から巡航飛行の間の遷移状態の評価などを行っている
<受注機数>
*United Therapeutics(米国・バイオテクノロジー企業)60機;Blade Air Moblity20機;UPS社:10機(2024年に受領)、optionで最大150機
<特記事項>
-冗長性確保の為の設計仕様-
垂直離着陸用の4つプロペラは各プロペラが2台のモーターで駆動され、更に各モーターの巻線は二重になっている
推進用のプロペラはモーター2台で駆動され、各モーターは二重巻線となっている
垂直離着陸用の4つのプロペラと巡航飛行用のプロペラは、夫々5つの独立したバッテリーで駆動している
*既にワシントンにあるAliaのシュミレータ(飛行テストで得られた実際のデータが入れられている)で A&Wの熟練パイロットが操作を行った感想は、「この機体が殆どの飛行モードで如何に在来機の操縦と変わらないかということと、在来機との違いはどこのあるかが分かった」二つのタッチスクリーンと合成画像(synthetic vision)のPFD(Primary Flight Display/飛行に必要な情報を集中して表示する装置;現在の大型旅客機には必ず装備されている)は通常の飛行データに加え、バッテリーとモーターに関わる情報が表示できるように変更を行っている
*インフラへの投資;
当面、空港やVirtipod(空港以外の離発着場所)に必要なインフラが整って無いことから空港における燃料搭載用のトラックに似た「充電トラック」を開発。また、
機体が離着陸できる高いデッキ乗員休養室飛行計画室(planning room)、充電設備(機体と車両)を備えた「airport in a box」を開発し、発注した顧客には配置している

〇Lilium

Lilium社はドイツの会社で、見るからにユニークな姿をした電動航空機です。既にその姿はウェッブサイトに載っていますので垂直離着陸の様子をご覧になって下さい
<性能>
搭乗人員はパイロットを含め7
*航続距離250km+、巡航速度280km/h
<機体仕様>
*推進用モーターが装備された主翼・前翼と胴体後方下面のカナード翼
*推進用モーターは36ヶあり、離着陸の時はこの推進装置全体が翼の所で
折れ曲がります
<開発目標>
*以下の様な野心的な生産目標を掲げています、が実現するか?<受注機数>
*AZUL社(ブラジルの航空会社)から220機受注

<特記事項
*中々お洒落なVirtiportも提案しています

〇Eve

この会社はブラジルの航空機製造を行っているエンブラエル社の系列会社。エンブラエル社は1969年創業の航空機製造の会社で、JALもエンブラエル社製の小型ジェット機E170型機、E190型機を運航しています(Eve社のホームページ
<性能> ネット情報より
*搭乗人員4人(パイロットが含まれているかどうかは不明)
*最大離陸重量 2200 ポンド(約1トン)
<機体仕様> ネット上の画像より
*固定翼
*垂直離着陸用プロペラ4基、推進用プロペラ2基
<開発体制>
*エンブラエル社の全面的な支援が得られる
<開発目標>
*2026年に引渡し
<受注機数>
*Halo Aviation(ブラジルのヘリコプター運用会社、ニューヨークとロンドンに拠点を持っている) 200機、Helisul Aviation(ブラジルの会社で、ラテンアメリカで最大のヘリコプターオペレーター) 50機
*2021年12月6日、オーストラリアのSydney Seaplanes 50機発注

〇Skai米国マサチューセッツ州のAlakai Technologiesが開発。NASAとパートナーシップを結んでSkaiを開発
性能
*パイロットを含め5人
*最大離陸重量 2267kg;搭載可能重量 454kg
航続距離 300マイル(約556km);時速 100マイル(約180km/h)
機体仕様
*6モーター駆動、燃料電池3台、
航法システムは3重装備
開発目標2020年末にFAAの認証(FAR Part21.17b)を目指していたが、未だ取得していない模様
特記事項
*リチウムイオン電池のエネルギー密度は
0.6MJ/kgに対し燃料電池のエネルギー密度は147MJ/kg(リチウムイオン電池の245倍
(注)MJ(メガジュール):エネルギーの単位
Alakai社はこの機体を製造するだけでなく、エアタクシーの事業も運営する計画
*席当たりのコストはアバスのヘリコプターAS350の1/8になると言っている

〇Advanced Air Mobility

Advancesd Air Mobilityに関しては、沢山の用途や機体の仕様が提案されているが、どのアイデアも成功するか否かは分からない状況にある

〇Volokopter<ボロコプター社のウェッブサイト情報>
同社は、ドイツに本拠を置くベンチャー企業。2011年、航空業界に参入し、空飛ぶ自動運転タクシーの開発を進めてきた。2016年、ドイツ当局から2名乗りボロコプターの暫定ライセンスを取得。また、ドイツの自動車大手、ダイムラーからの出資も受けている。
同社は今回、ドバイ当局と協力し、空飛ぶ自動運転タクシー初のフライトテストを実施。ボロコプターの空飛ぶ自動運転タクシーは、2名の乗客を輸送する有人マルチローターヘリコプターで、都市部で飛行し、人々を輸送するように設計されている
フライトテストは、ドバイの厳しい気候条件の下で、信頼性を確認するのが目的。ドバイの航空関係当局が求める前提条件を満たしたため、テストが許可されている
ドバイでのテストフライトの動画
JALは最大100機導入を予約

日本独自の電動航空機開発

先進諸外国に比べれば、やや遅れを取っているのは紛れもない事実ですが、以下は現在メディアに紹介されている計画です

〇日本の若き起業家による電動航空機開発へのチャレンジ
スカイドライブ
テトラ・アビエーション

〇ホンダが開発する電動航空機

本田技術研究所 新モビリティドメイン統括フェロー 川辺俊氏【インタビュー】

*目標:都市間の輸送を担うことから航続距離400kmを狙う。
川辺氏は、エネルギー供給源にタービンを想定しているが、脱炭素を実現するには水素を燃料とする必要があります。しかし、現在の技術ではLPGなどの燃料に比べると水素の燃焼速度が速いので、技術のハードルはかなり高いと思われます。ただ、三菱重工グループが水素ガスタービン開発を行うようなので、将来的には可能性は十分あると思われます

その他のユニークな電動航空機

〇海面上を低空で飛行し地面効果による揚力増加で経済性を高めることを狙った電動航空機

長い海岸線に点在する多くの都市を持っている国では有用であると考えられる。但し、海上交通や沿岸漁業がが盛んな国は船舶との衝突リスクが無視できないと思われる

〇通常の航空機のエンジンのみを電動とした実験機(ロールス・ロイス製)

英国のロールス・ロイス社が、電動航空機による飛行速度記録の樹立を目的として開発されました。英国主催のCOP26開催前に初飛行に成功しています。航空機名は「Spirit of Innovation」
因みに、プロペラ機での最速速度記録は第二次大戦中ドイツで開発された戦闘機メッサーシュミット(ME109)です。時速755.13km/hを記録しました

〇超電導モーター推進の未来の航空機

超電導でモーターを使えば極めて大きなトルクを発生させることは可能ですが、超電導用の冷却装置を装備する必要があると考えられ、また燃料として液体水素を使うこととなれば燃料タンクの設計も中々ハードルが高いと思われる

おわりに

電動航空機の開発状況については、現役を離れて長い私にとっては情報収集に限界があり、開発をしている各社の現在の開発状況の記述が不揃いになってしまい残念でなりません。今後、新しい情報を得次第増補、修正をしたいと思っています

電動航空機が普及するには、運賃に直結する席当たり運航コスト(Seat mile cost/詳しくは私のブログ「エアラインというビジネス」をご覧ください)をできるだけ下げることが必要になります。ただ、既に大手航空会社を含む運航会社が大量機数の購入予約を始めていることは、ある程度の見通しが立っていることと思われます。しかし、これまで安定電源のベースになっていた火力発電と原子力発電の動向が電動航空機の燃料となる電気料金に大きく影響するのは間違いなく、購入予約を行った各社の一番の心配事ではないかと想像しています。
また燃料電池や水素タービン駆動の電動航空機も、水素の値段や供給体制も未だ確たる未来の姿が定まっていないので、購入を躊躇する運航会社も多いと思われます

今後、開発の進んでいる会社が直面する大きな壁は、開発の最後のステージで取得しなければならない機体の耐空証明の取得です。航空機の発展につれ、事故を起こさない為の型式証明の検査がより厳しくなる傾向にあり、この検査を通らない限り乗客を乗せての運航は出来ません。日本期待の三菱航空機「スペースジェット」もこの壁に阻まれて長期間開発が頓挫してしまいました

日本での電動航空機の導入には、多くの航空機とヘリコプター、無人ドローンが飛び交う空の交通ルールの整備が不可欠です。これから規制当局(JCAB)がルール設定をすることになりますが、過密度の高い日本の大都市ではライドシェアやエアタクシーの運航を可能にするルール設定はかなり難しいと想像しています
また、日本独自の電動航空機の開発はもう少し先になると思われますが、日本は電動航空機に関わる要素技術では最先端にあることは間違いないと思います。既に述べたバッテリーモーターなどの高い技術水準の他に、インバーターの心臓部に使われているSiC(シリコンカーバイト)製のパワー半導体機体の軽量化に必須の炭素繊維は日本のお家芸であり、日本が全世界の電動航空機普及の恩恵を受けるのは疑いの無いことだと思います

Follow_Up:2022年1月2日・日経新聞記事(脱炭素、本命担う先端技術は 薄型太陽電池や電動航空機

以上

老いらくの恋!ならぬボケ老人の趣味(道楽?)

はじめに

タイトルにある「趣味」と「道楽」の違いは定かではありませんが、「趣味」はやや高尚で文化的な感じがする一方、「道楽」は金がかかり、やや享楽的なイメージがあります。共通する特徴は、生活を支える仕事(なりわい)ではなく余暇を使って自分の人生を楽しむものであって、自分以外の家族には永遠に理解されないもの!と言えるかもしれません
以下は、私としては「高尚な?趣味の積り」ですが、家族から見れば「しょうもない道楽」の歴史を綴ったものです。いずれにしても、文科系の人や女性には全く興味が湧かない話題だと思いますので、ここで読むのを止めるのをお薦め!します

電波少年!」だった頃の思い出

A.小学生時代;
小学校低学年の頃は、住んでいた保谷周辺(現在はお隣の田無と併せ西東京市となっています)は雑木林など自然に恵まれ、同じ歳頃の友達と遊びまわっていました。シマヘビやヤマカガシなどの蛇に出会うことも度々でした。蛇を見つけると、尻尾を掴んでぶんぶん回し、最後に蛇の頭を地面に叩きつけて殺す勇気?ある友人を尊敬していました。
小学校4年生の頃だったと記憶していますが、何かの折に秋葉原の電気街に連れて行ってもらい、「鉱石ラジオ」のキットを買ってもらいました

鉱石ラジオの回路図と構成部品

実に簡単な回路と少ない僅かな部品点数ですが、一日がかりで制作し、AMラジオ放送が聞けたときは感激しました。ここから電気少年の歴史が始まりました

毎月、僅かな小遣いを貰うと、日曜日に一人で電車に乗って秋葉原電気街(最寄りの三鷹駅から電車一本で行けた)に出かけ、主に部品を物色するのみで終わることが多かった様に思いますが、それなりにとても楽しい時間であった記憶が残っています
当時、米軍の払い下げの中古部品(軍用無線機の部品は信頼性を確保する為に壊れる前に定期交換をしていました)が山ほど店頭に並んでいました。中古の真空管(先進的?なミニチュア管)などは50円で売っていましたが、部品番号が日本のものとは違うので買う訳にはいきませんでした

小学校高学年になると、電気回路などが出ている雑誌を買って、秋葉原で部品を買い集め、はんだごてを使って回路を組み立てることをやっていました

はんだごて4種

因みに今でも使っているハンダ付け作業用の道具箱(上の写真)の4種のはんだごての内、一番上の錆びたはんだごては当時使っていたものです!
当時は真空管で電子回路を構成するのが普通でした。小学校時代に最後に組み立てた回路は「並四」と言われていたラジオで、「真空管(ST管/下の写真)4本と「電源トランス」、「同調回路(鉱石ラジオと基本的に同じ)」、「出力トランス」、「スピーカー」、「コンデンサー」、「抵抗」、などで構成されていました。真空管4本の役割は、夫々「整流回路(交流を真空管を駆動するための高電圧の直流にする)」と「検波回路(高周波であるラジオ波を低周波の音の信号に変える)」、「増幅回路_1(イアホンを鳴らす程度まで増幅」、「増幅回路_2(スピーカーを鳴らす程度まで増幅)」でした。増幅回路_2に使われた真空管は、確か「6ZP1(通常仲間内ではロクゼットピーワンと呼称)」という名称だったと記憶しています

B.中学生時代;
中学に入った頃にはトランジスターラジオが出現していました。最初に手掛けたのは、トランジスター2ヶ(日立製)を使った携帯ラジオでした。これは部品を買い集めて作ったのではなく、必要な部品全てと、配線用の基盤がキットにして揃えてあり、特に知識が無くても、はんだ付けの技術さえあれば、後は根気だけで完成させることができるものでした。この頃から半導体を使った回路は、現在の電子回路と基本的に変わらずプラスティックの回路基盤に部品を差し、ハンダ付けを行うことで完成する様になっていました
父が私のこうした作業を観ていた為と思われますが、中学2年の時に「テレビを作ってみないか」と聞かれ吃驚しましたが、確か5万円位のキットを買うという事だったので喜んで承諾しました。完成まで1ヶ月程掛ったと思いますが、最初に写ったテレビの画面は1959年4月21日の昭仁皇太子のご成婚パレードの画面だったことを思い出します;

我が家では初めて観るテレビ放送だったので大変感激したことを思い出します
このテレビは自分で作ったこともあって、その後長い間使っていましたが、故障の際は全て自分で修理しました。直すと言っても当時は壊れるのは殆ど真空管なので、電源を入れて真空管をチェックしていくと、明りがついていない真空管(フィラメントが切れている)が見つかるので、この真空管を秋葉原に行って購入し、交換すれば大概治るものでした。ただ、チェックする過程で手をテレビの内部に入れて高圧回路に触れると物凄い電撃を受けます。電撃を受けた後、暫く放心状態になる経験を何度かしています

C,高校生時代;
高校に入ると電気の好きな仲間ができ、そんな仲間同士で「電気研究部」を創部しました;
残念ながらこの7人の内3人は既に故人となっています(電波少年は短命?)。後列左端の友人はつい最近亡くなり、葬儀に参列したばかりです
この電気研究部で成し遂げた最大の成果は、アマチュア無線のクラブ局の開設でした。前列に居る二人の女性に電話級アマチュア無線技士の資格を取らせ(男性陣が教育担当!)機材(送信機と受信機)を制作し、無線局の免許を取得、コールサインは JA1YCE となりました。因みに私は個人でも既にアマチュア無線局を開局しており、私のコールサインは JA1LZU でした(これらのコールサインは既に廃局となっている為使えません!)

その後、大学進学以降は何故か電気に対する興味が薄れ、無線機器の製作などからは遠ざかりました
大学では航空学科に進み、卒業論文、修士論文はコンピューターを使った計算が必要になり、FORTRANというIBMで開発されたプログラム言語を使ってプログラムを書く経験をしました

パソコンおたく」への道!

A.パソコンと OS の変遷;
日本航空に入社した当時、殆どの書類は手書きであり、字の汚い私には資料を作成するのは大変な苦痛でした。その後、暫くしてワードプロセッサー(通称ワープロ)が社内でも気軽に使えるようになりました。ワープロを使えば「汚い字!」のコンプレックスは無くなり、上司からの「書き直し 😈 」という退社直前の指示も難なく済ませて残業せずに飲みに行ける 🙂  ことになりました。

入社後10年ほど経った頃(1980年代)、個人用のかなり性能の良いパソコンが世に登場していました。中でも一世を風靡していたパソコンは、通称「キューハチ」と呼ばれていた NEC9801というシリーズのパソコンでした
既に会社の業務でパソコンを使っていた私は、大胆にも!会社から数十万円の借金をしてパソコン本体と20メガバイトのハードディスク、プリンターなど一式を購入しました
当時のパソコンの CPU(Central Processing Unit/中央演算素子)の演算能力はそれ程高くないので、日本語の変換はNECがワープロで培ったROM(Read Only Memory/日本語の膨大なフォントをビットマップ形式で記憶している素子)を使っていました。また、当時のパソコンの OS(Operating System/ディスプレー、キーボード、記憶装置などの入出力の機器とコンピューター本体の情報の仲介をするプログラム)は MSDOS(Microsoft Disk Operating System)といって、私が大学在学中に汎用コンピューターで使われていた UNIX というOS で使われていたプログラム言語をパソコン用に簡略化したプログラム言語でした

自宅に届いた「キューハチ」を見て子供たちが大喜びをしました。何故なら、この頃子供たちの間では、パソコンを使ったゲームをするのが憧れであり、これでゲームが出来ると喜んだのだと思います。しかし、パソコンで遊んでばかりいたら勉強が疎かになると考え、当時 MSDOS 上でプログラムを動かせる初心者用の BASIC というソフトを入門書と共に買って、これをマスターすればパソコンを使っていいと厳命!しました。しかし、残念ながら自宅にいる時間の少ない私にはこの厳命を管理することができず、子供たちは自由にパソコンを使ってゲームを楽しんでいたようです
ゲームを通じてだと思いますが、子供たちは見よう見まねでパソコンの操作を習得した様で、長ずるに及んで、今や3人の子供の内2人は IT を駆使した仕事で生計を立てており、パソコンおたくで終わっている私には及びもつきません!

1990年代に入るとパソコンの性能が著しく向上し(参考:ムーアの法則)、「キュウハチ」が誇った?日本語変換もソフトウェア上で難なく実現できるようになり、パソコンの主流は DOS/V機(ドスブイ機/AT互換機とも云う)にとって代わると共に、OS もマウスで画面上をクリックするだけで操作が完了する GUI(Graphic User Interface)を備えた Windows に急速に切り替わっていきました
勿論、OS が高性能化すると共に、より高性能なパソコンが必要になり、高価なOSも買い替えていく必要がありました。パソコンおたくになることは、家計への影響も計り知れないものであったに違いありません(←妻の言い分?)。
因みに、捨てないで持っていた OS の記憶媒体を並べると以下の通りです;
左上の9枚の3.5インチ・ディスケットは、MSDOS 導入用です(何と!9枚もあります)。Winndows初期のVer.1.0~3.1までの OS は、物持ちの良い私でも流石に捨てていたようです。Windows Vista は、パソコンおたくには有名な話ですが、「余りの遅さ!」に呆れて果てて、Windows7に切り替えると同時に憎しみをこめて破壊した記憶があります。Windows8、Windows10はネット経由の導入なので記憶媒体はありません

B.ネット時代への対応;
「キューハチ」を使っていた頃のネット環境はNTTの電話回線を利用した「ISDN/Integrated Service Digital Network」が主流でした。通信速度は64kbs(kiro bit per Second)で、現在私が使用している光回線と比べると1/1500以下の速度でした。これでも文字を送るには十分でしたが、画像を送るには非常に遅く、現在の様に動画を送るのは不可能でした

その後、1990年代後半と記憶していますが、拙宅にも光回線(100mbs/Mega Bit per Second)を引くことができ、ルーター(Router/ネットワーク上の機器同士を電子的に繋ぐもの)を介して自宅内各部屋に有線LAN(Local Area Network)を張り巡らしました。2000年代に入ると、このネットワークに無線LANも2系統設置し現在に至っています。設置状況の写真とネットワーク図は下記の写真をご覧ください(写真は小さくて分かり難いと思いますが、画面をクリックすると大きく拡大させて見ることができます);

家庭内のネットワーク

上の写真の上段左には、各種ルーターが並んでいます。真ん中にある2段のラックには今は稼働していない4台のサーバーがあります。これは、所属しているスキークラブの写真や動画を配信すべく、Windows2000の OS に、ネットから無料で入手できる有名な「Apatch」というソフトで HTTP サーバー、NAME サーバー、動画配信用のサーバーなどを構築したものです。
しかし、稼働させて数ヶ月も経たないうちに外部のハッカーに乗っ取られ(私のIPアドレスから無数のメールが発信されていた!)、休止したままになっているものです。やはり、サーバーを運営するのはパソコンおたくでは無理の様です
右側のエクセルの表は、家庭内のネットワーク内の各パソコン、プリンターなどにIPアドレスを割り振った表です。尚、IPアドレスとは、ネット上に接続されているパソコンなどの機器のインターネット上の住所の様なものです。4桁の数字を4組組み合わせて表します。この部分は、またハッカーに狙われるとまずいので黒く塗りつぶしてあります

C.パソコンの更新;
パソコンを数年に一度買い替えていると、市販のパソコンは、自分の要求する性能と価格が折り合わないことが増えてきます。従って、ここ20年くらいは自分の予算に合うCPUを決め、これに対応するマザーボードを選択し、更にこれに合う電源、メモリーを見つくろって秋葉原で購入し組み立てるようにしています。また、これを入れるパソコンケースの代りに「木の板」に固定して、ハイ出来上がデス! 上の写真のサーバーのラックにもこうしたパソコンを並べ収納しています。また、現在の私の机上にあるパソコンも同じです;

現在机上で使用中のパソコン

写真右のラックの上段には Windows10の現役のパソコン、下の段には以前使用していたWindows7のパソコンが入っています。このパソコンには、暇を見て無償でネット上で提供されるている Chrome Book 用の OS を導入してみようかと考えています
Chrome Book というパソコンは、Googleが開発したOSを搭載したパソコンのことで、これから一般用のパソコンの主流になると私は考えています。何故なら、この Chrome Book はスマホとの相性が良い上に極めて安価セキュリティーの心配なし、しかも現在小学生に無償で配布されているパソコンでのシェアが50%位に達しているからです

以下は、私が購入したマザーボードのサンプルです。ご覧になると分かると思いますが、組み立ては部品類やコード類をボード上のソケットにただ差し込むだけでパソコンが自作できます;

少年時代の電波少年に戻る、いや「電気老人」か?

A.孫に触発されて!
長女の次男が小学校低学年の頃、拙宅に遊びに来て、NHKのEテレ番組「ピタゴラスイッチ」を観るのが大好きな子でした。また、自分でも自身で考えた仕掛けを作って楽しんでもいました。この遊びの延長で、夏休みの宿題の工作に「流しソーメン」の仕掛けを作るというので、ペットボトルの工作は彼の独創性に任せ、私は一度使った水を、ソーメンを流し始める高い場所に揚水する為の小さなポンプを提供しました
これは、ひょっとして私の電波少年の再来が期待できるかも、ということである時秋葉原の電気街に彼を連れてゆきました。私の期待としては、「電気工作のキットなどを欲しがるに違いない」はず!だったのですが、結局買ってあげたのはゲームソフトでした
それでも諦めきれない私は、後日、一人で?秋葉原に出かけ下の写真の様な電気工作の材料などを買い集めました(写真に写っていない太陽電池、ギア付きのモーターなども購入!)。尚、写真右端の工作用の「可変電圧・電源ユニット」は、電池を使わないで済むように私が秋葉原で部品を集めて作りました;

しかし、これらの部品で暫くは遊んでくれた?のですが、彼はゲームの延長でソフトウェアに興味を示す様になり、小学校6年生になった現在は「マインクラフト」や「スクラッチ」など初心者向けのモジュール・プログラム(専門家の息子に聞くとこれからのプログラミングの主流になるかも知れないとのことです)を使いこなしていますが、これをユーチューブ・チャンネルで公開するまでに成長しています。しかも、最近は「Python」というAIのプログラミングにも使われているプログラム言語も学び始めているそうで、とても私などは足元にも及びません!

B.モジュールを使った「電気工作」の目覚め!
上の写真にある「可変電圧・電源ユニット」を作る過程で、私の少年時代には考えられないような多くの部品や高機能のモジュールが、考えられない程の安価で手に入ることが分かりました。根気、記憶力、学ぶ力が無くなった老人!でもこれらの部品、モジュールを使えば自分の作りたいものが作れることが分かりました
考えてみれば、プログラムがモジュール・プログラムに移行することと同じことが、回路設計をモジュールに区分し、それを基に半導体や他の部品を集めたモジュール基板を作り、それらを組み合わせて複雑な電気・電子製品を作り上げる時代となっていることが見て取れます
日本の電気メーカーもこうしたモジュール基板を海外に委託し、最後の組立のみを国内の工場で行うというワールドワイドなサプライチェーンが作られている現状が理解できます。昨今の半導体不足で自動車産業が大幅な減産を余儀なくされている事が、何となく解るのではないでしょうか

これらの部品や高機能のモジュールが、何でも揃う店としては、秋葉原の「秋月電子」という店がお勧めです。この店には何故か高専・大学の工学部の学生らしき若者、後進国の外国人、それに私の様な昔の「電波少年」でいつも賑わっています
因みに、AMAZONに出店している秋月電子の商品リスト秋月電子ホームページの商品リスト(←会員登録をしないと見られないかも知れません)、と秋葉原店の地図をご紹介しておきます。興味がある昔の「電気少年」の方々、一度覗いて見たら如何?;

秋葉原の秋月電子・地図

C.最近の自称「電気老人?」の作品
既に、一昨年10月に投稿したブログ(カラオケ万歳!)で「一人カラオケセット_第一世代」をご紹介しました。また、昨年8月に投稿したブログ(私の巣篭もり生活)では「可変電圧・電源ユニット」と「一人カラオケセット_第二世代」をご紹介しました。しかし、「電気老人」は時間だけはタップリあるので、常に改善を心掛けております。下の写真は現在使用中の「一人カラオケセット_第三世代」となります;

一人カラオケセット_第三世代

第二世代からの変更点は、音量を調整しやすい様にアンプを交換したことと、狭い机上にも置けるように立体化したことです

拙宅では、コロナ禍の影響で息子の ZOOMミーティングが頻繁に行われています。私やワイフのZOOMミーティングは仕事ではないので、周囲の雑音は問題にならないのですが、息子のZOOMミーティングは業務なので雑音は許されません。拙宅の間取りの制約で、大型テレビのある居間の隣で業務を行っているので、彼のZOOMミーティング中はテレビのすぐ前で音を極小にして観るか、イアホンを差して観ることを余儀なくされていました
最近ふと思い出したことは、第三世代のカラオケセットで不要となったアンプはブルートゥースの入力が可能だったこと、第二世代のカラオケセットで不要になったマイクアンプが遊んでいる事でした。これらを使えばテレビを観るためのベストポジションである居間のダイニングテーブルでいつもの通り私とワイフがテレビを観ることが可能になり、同時に大型テレビでカラオケを歌う事が可能になるはずだ、という事でした。こうして1週間程前に完成したセットが以下の写真の装置です;

テレビ音声伝送装置 兼 大型テレビを使ったカラオケセット

尚、拙宅の大型テレビは出始めの頃の代物なので、テレビ側にはブルートゥースの出力はありません。従って、下の写真の様にテレビ側のイアホン出力端子にブルートゥース送信機を接続しています;

テレビの音声をリモートで聴く時は、テレビに接続したブルートゥース送信機とアンプのブルートゥース受信機ペアリングを行います。また、スピーカーは写真のテレビ音声伝送装置 の透明ボックス(百円ショップで購入)に取り付けたものを使います
カラオケとして利用する場合、テレビ音声伝送装置の写真左下のスピーカー出力端子に大型の外部スピーカー(テレビ音声伝送装置のスピーカーでは大きな音で鳴らすと音が割れてしますます!)を繋ぎ、アンプの入力モードを通常音声入力に切り替えて、マイクをマイクアンプに繋ぎます
大型テレビの Chrome Castを通じてスマホのYouTubeのカラオケ画像を送信すれば、たちまち!我が家の居間はカラオケルームに変身します
また、
大型テレビを使わないで一人淋しく?カラオケをする場合は、「テレビ音声伝送装置」のブルートゥース受信機スマホのブルートゥースとペアリングすれば、歌詞と画像はスマホ、マイクの音声とカラオケの音声は大型外部スピーカーから流すことができます

以上。お粗末でした!

 

酷暑の中で頑張っている夏野菜たち!

はじめに

酷暑のなかでオリンピアンは金メダルを目指して必死に頑張っている今日この頃です
夏野菜も、この暑さには相当こたえていると思われます。特に屋上菜園では、朝夕の水遣りを怠れば直ちに枯死してしまう日々が続いており気が抜けません。今回の報告は、今年特に頑張ったこと、出会ったトラブルなどを中心に報告してみたいと思います

定番の夏野菜(キューリ・トマト・ナス、トウガラシ類)

1.キューリ
例年キューリは種から栽培していましたが、今年は早くから収穫を始める為に最初に植える二本のキューリを市販の接木苗とし、同時にカボチャの苗を3本ほど種から育てこれを台木としてキューリの接木に挑戦することとしました
しかし、キューリの接木は見事に失敗!来年再挑戦を誓って残りの5本は例年通り種から育てた苗を植えました。梅雨に入る前は購入した接木苗(298円/1本、高いなあ!)が順調に育ち、キューリの収穫も順調でしたが、長雨が続く内に病気に強いはずの接木苗に「ウドンコ病」が発生し見る間に広がってゆきました。種から育てた5本にもうつり収穫が望めない状況になってしまいました。ネット情報を色々試してみましたが効果は殆どありませんでした。最後に頼ったのは以下の農薬です;説明書を熟読すると、散布時に自身が吸い込まない様に注意する必要はありますが、採れたキューリに健康上の問題は殆ど心配ないようなので使ってみました。勿論、真っ白になった下の方の葉は再生しませんが、ウドンコ病になりかけている葉は見事に再生しました。現在の状況は下の写真の通りです。ウドンコ病で葉を落とした苗は下の方が裸になっていますが、枝を横に伸ばすことによりキューりの収穫をある程度維持できるまでに回復しました尚、奥に植えてある3本は縞瓜シマウリ/又の名を「漬けウリ」)で、糠漬けやスープの具材などの他に、長期間保存可能な「酒粕漬け」などにもしています

2.トマト
今年のトマトは、キューリと同じく早めの収穫を狙って市販の接木苗を2本購入し、種から育てた苗は8本としました。構成は大型トマト、中型トマト、ミニトマトの三種です大型トマトが収穫期を迎える頃、2本の市販の接木苗のトマトが「尻腐れ病」に罹っている事を発見しました。ネット上で色々調べた結果、土壌のカルシウム成分が不足している為で、細菌やウィルス性の病気ではないことが分かり、ネット上のインストラクションに基づき最初は「苦土石灰」を土壌に撒いて様子を見ましたが、全く効果が無く、次にこれもネット情報から「石膏」を主成分とする農薬(健康上の問題は無し)を購入し、土壌と葉に日を置いて数回散布しましたが、特に顕著な効果は出ませんでした
そこで、トマトの生育状況をよく観察し、尻腐れ病の発生初期に青いまま収穫して居間の出窓で熟するのを待つ方法で尻腐れ病のトマトの活用を図りました。尚、現在はちょっと色づいた程度で収穫する(見出しの写真参照)ことで、殆ど尻腐れ病による被害はありません。また、色づくまで待って食べれば甘味、酸味共に問題ありません

3.ナス
今年は、「中長ナス」5本、「泉州水ナス」2本、「長ナス」2本を種から育てています。中長ナスの方は収穫のピークを過ぎ、現在は収穫時に枝を切り詰め、9月からの秋ナス収穫に備えています。泉州水ナスと長ナスは7月後半からぼつぼつ収穫が始まりました長ナスは、皮のまま丸ごと焼いて食べるのが我が家の定番です。また新鮮な水ナスは、生で切り裂いて氷水に浮かべ、ポン酢か醤油でいただくと本当に美味しいです

冷やし・水ナス」のある夕食

漬物に凝っている息子からのリクエストで、大根を漬けこむ時(初冬)に、糠に乾燥させ粉末にしたナスの葉を混ぜるといい味が出るということで、ナス収穫時に捨てている「葉」を乾燥させ保存をしています

4.トウガラシ
拙宅のトウガラシ消費量は半端ないので、年々栽培量を増やしてきましたが、昨年相当量収穫したにも拘らず今年3月には一部を除き底をついてしまいました。そこで今年は昨年の倍を目指して苗を作り栽培を始めました。種は昨年栽培した品種(沖縄トウガラシ剣先なんば辛長キング鷹の爪)については、収穫したものから採取し、下の写真左上にある「立八房(中国産)」は3年前に購入して栽培に失敗した品種です;

また、今年はピーマンパプリカは市販の苗を一株ずつ購入して育てています。
トウガラシ類の栽培状況は順調です(以下の写真をご覧ください)一番手前の葉が大きい品種が「沖縄トウガラシ」です。葉は小さく、収穫量も少ないのですが、辛さは栽培しているトウガラシの中では一番です
パプリカは以前栽培した時には大きなものが採れず失敗したのですが、今回は摘果(ピーマン程度の大きさになったもの)を適切に行った結果、販売されているものと同じ様な立派なパプリカを栽培することができました。摘果したパプリカはピーマンと一緒に食べています!

その他の夏野菜

4.ゴーヤ
今年、ゴーヤは我々夫婦の寝室の天窓を覆うように栽培してみました(40リットルの牛糞堆肥の袋を使っています)。尚、葉が地を這うさつまいもを横に並べて植え、葉が上下で住み分けられる様にしています(土地生産性の極大化!

苗を植える時期がちょっと遅れたために、ゴーヤの収穫は8月に入ってからとなりました。日当たりが最も良い場所に植えたので、収穫は昨年より相当多く期待できそうです

5.ズッキーニとオクラ
昨年ズッキーニは、比較的日当たりの悪い場所に植えたことと、支柱に上手く固定できなかった為にアクセスが悪くなり受粉のお手伝い!が出来なかったことから、収量が非常に少なくなりました。そこで、今年は、しっかりした支柱を建て、日当たりの好い場所に植えましたので、これまでの所順調な収穫ができています
オクラは一日数本程度の収穫があれば十分なので、やや虐げられた場所に植えられていますが、もう少し待てばズッキーニの上に顔を出せるはずです!

消費しきれない夏野菜を保存する為に

1.漬物にして保存
<柴漬け>
我が家の漬物好きは相当なものです。これまで、夏野菜の漬物は糠漬け塩漬け味噌漬け酒粕漬など色々トライしてきましたが、今年からはこれに加えて京都風の「柴漬け」に息子がチャレンジすると言っていますので、これに必要な赤紫蘇青紫蘇(通称「大葉」)を大量栽培することにしました上の写真の他に、あちこちで栽培していますので、概ねこの倍の栽培量になります。赤紫蘇の育ちがちょっと悪いのですが、これは発芽がうまくいかなかった(3回種を蒔いてようやく発芽しました)為で、あと半月位で収穫可能です

青紫蘇を使った柴漬け

一般に、漬物は発酵食品ですので、塩分量乳酸発酵をコントロールすることが重要です。夏場の漬物は冷蔵庫で保管すると温度が低すぎて発酵が進まず塩辛いままになり、常温で保管すると乳酸菌が雑菌に負けて味が悪くなると共に悪臭が発生して食べられなくなります
夏野菜の柴漬けを美味しく作る為に、息子は何と!ワインクーラーの利用を思いつき、すぐさま購入に走りました。年金生活者には思いもよらぬ資金力と行動力です

漬物保存用としてのワインクーラーの活用

因みに、息子の「漬物研究」のネタ本は以下の通りです。これでは家事はベテランのワイフや聞き齧りの知識だけの私如きでは到底太刀打ちできません!

漬物研究のネタ本

<その他の漬物類>
ワイフと息子の努力でこれまで色々な漬物を作ってきました。以下は現在食に供している漬物類です;

酒粕漬・醤油糀漬・味噌漬
キューリのパリパリ漬

味噌醤油糀酒粕などは、既に漬け床の発酵が完了しているので、ここに漬込むことで時間が経てば経つほど美味しい漬物になります。因みに右の皿に入っている「野沢菜カブ」と「縞ウリ」の酒粕漬は3年物!です
キューリのパリパリ漬」はキューリを薄く輪切りにして二日間ほど天日で乾燥させた後、醤油、みりん、ショウガ、砂糖少々、好みでトウガラシの輪切りを加えた漬け汁に浸したものです。パリパリと言う食感が食欲をそそります。因みにこれは市販の「きゅうりのキューちゃん」を真似てワイフが考案したものです

拙宅の裏側には建築基準スレスレの狭いスペースがあります。ここに20年程前の竣工直後に植えた茗荷(ミョウガ)が、毎年7月頃になると相当量収穫できます。この茗荷は以下の様な梅酢漬け(梅酢は自家製梅干を作る時の副産物です)にして長期間保存して楽しんでいます。尚、一番左側は「茗荷の花」の甘酢漬けです

下の写真のトマトのシロップ漬けは今年初めての試みです(未だ味見していません)

2.乾燥させて保存
初夏から秋にかけて大量に収穫できるナスは、漬物の他に天日で乾燥させ、冬の鍋物の具として楽しんでいます。カラカラに乾燥させた後、乾燥剤を入れて保存すれば冬まで味が変わることはありません

乾燥ナス

またハーブ類はフレッシュなものを食べられ様に一年中栽培し、サラダ類には何種類ものフレッシュハーブを加えて野菜感覚で食べていますが、夏場はどうしても出来過ぎてしまいます

ハーブ類・香味野菜

そこで、ハーブ類を乾燥したものも以下の写真の様に作っています。子供達やワイフの友人などにお金のかからない!プレゼントとしても重宝している様です

上の写真の右端にある「バジルペースト」は、乾燥バジルではなくフレッシュバジルを大量に収穫した時にちょっと高価な!松の実(カシュウナッツでも代替可能)を使って作るのですが、子供達やワイフの友人に大変喜ばれているそうです

ネギの栽培

拙宅でのネギの消費量は恐らく日本一!ではないか、と思っています。四季を問わず毎日大量に消費しています。因みに、拙宅では刺身を食べる時には刺身の量の倍くらいのネギが必要になります
ここ数年、自給を目指しているものの、必要量の半分か、三分の一程度しか供給できていません。今年こそは、と以下の写真の様に継続的な供給に向け努力を行っています
上の写真の右下には、既に収穫済みの長ネギ(約60本)を土の中に重ねて埋めて消費に備えていますが、これでも2ヶ月もつかどうか、、、右の写真の上には葉ネギを栽培しています(他に4つのコンテナで栽培中)が、これは薬味として使うネギ用で、根元で切って使っていれば自然にまた生えてきます
左の写真は冬用の長ネギ(約100本)を育てているコンテナの一部です。因みに、長ネギは種を蒔いてから収穫までの期間がかなり長い(このネギは今年3月に種を蒔いたもの)ので、栽培の場所を多く必要としますので拙宅の狭い屋上菜園では、写真の様に小さなコンテナでスペースを求めて移動しながらの栽培になります

以上

「満州国」その”うたかたの夢”

―はじめに―

今年に入って、やや長文のブログ「日本の戦争の時代についての一考察」を纏めました(2021年2月)。その後、3月末に兄と私にとって恐らく最後となる両親の法事(父:50回忌、母:33回忌)を行うことになって、父母の遺品の数々(写真、日記類、葬儀や法事の記録、など)が整理をしないままに放置されていたことに気が付きました。既に私共第一世代は高齢化し、いつ死ぬかも分からず(既に妹は一昨年死去)、親戚関係の主役は、第二、第三世代に移りつつあります

そこで、父母の遺品の数々と私共第一世代の記憶を繋ぎ合わせ、厳しい戦争の時代を生き抜いてきた父母の生き様、及び私共第一世代を含めてお世話になってきた親戚関係を整理し、第二、第三世代に引き継ぎたいと考え、「ファミリー・ヒストリー」的な記録(ウェッブベースの記録)を残すことにしました
残念なことに私共第一世代の記憶は認知症一歩手前!まで衰えていて頼りなく、また残された古い写真も、きちんと整理していなかったツケが来て一本のヒストリーに纏めるには相当手間が掛かりました。漸く最近になって纏め作業が一段落し、今後新しいヒストリーを加えて補完すればいい所まで漕ぎつけました

この「ファミリー・ヒストリー」を纏めていくに当たって気付いたことは、父母が生きた時代の「満州国」について私自身余りにも無知であったことでした。満州国については、ブログ「日本の戦争の時代についての一考察」を纏める過程で歴史的・政治的な事実関係については理解した積りです。また、終戦直前、ソ連の大軍が宣戦布告無しに攻め込んできたため、満州在留邦人が塗炭の苦しみを味わったことは以前書いたブログ「生い立ちの記(生誕・抑留・引揚・困窮生活)」、「母方親族の戦争体験」、「麻山事件を読んで」で理解した積りです。また、我々の世代が戦後の民主教育で叩き込まれた満州国支配の犯罪性については「〝五色の虹-満州建国大学・卒業生たちの戦後”を読んで」である程度は分かった積りになっていました

しかし、私の父母・親戚は勿論、多くの日本人(軍人・軍属を除く)が、別に強制されることもなく満州を目指し、苦労をものともせずに頑張った動機は何か、また命からがら引揚げて来たにも拘わらず、何故望郷の想いで満州を語るのか、調べてみたのが以下の内容です

なかにし礼は、1999年『長崎ぶらぶら節』で直木賞を受賞した後、「週刊新潮」で家族の北満からの苦難の引揚げを書いた「赤い月」を連載し、その後の単行本は百万部の売り上げを記録しました。恐らく読者の多くは父母、親戚、あるいは自身の若い頃に満州体験があった人だと想像しています
彼は小説を書き始める前は超売れっ子の昭和歌謡の作詞家でした。彼の作詞で大ヒットした以下の曲は、失恋の歌の様に聞こえますが、この歌の「なかにし礼本人、失恋の相手は、彼が愛した「満州国」を表しているのだそうです(本人談)

*黛ジュン「恋のハレルヤ」

弘田三枝子「人形の家」

以下はこのブログを書く時に参考にした資料です;
 変容する世界の航空界・その4「日本の航空100年」 — ネット情報
 満州航空の全貌 著者:前間孝則 発行所:草思社
 満州航空最後の機長・空飛ぶ馭者 著者:下里猛 発行所:並木書房
 歴史群像シリーズ84「満州帝国」北辺に消えた〝王道楽土“の全貌 発行所:学習研究社
 偽「満州国」明信片(絵葉書)研究(中国に旅行した時に入手;中国人向けの内容
⑥ 満鉄に於ける鉄道業の展開(ネット上に掲載) 著者:林采成

-日本の領土拡張の歴史(Quick Review)-

1.日清戦争(1894年~1895年)後の下関条約では以下を獲得;
台湾および澎湖諸島の日本への割譲
遼東半島の日本への割譲 ⇒ フランス、ドイツ、ロシアの三国干渉により清に返還)
朝鮮の独立 ⇒ 朝鮮は清の冊封体制(清との君臣関係)下から脱し大韓帝国となる
④日本へ2億両の賠償金支払い(当時の日本の国家予算の3倍以上)

2.日露戦争(1904年~1905年)後のポーツマス条約では以下を獲得;
⑤日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める ⇒ 1910年朝鮮併合
⑥日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する
南樺太(北緯50度以南)の領土を日本に譲渡
東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本に譲渡
関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本に譲渡
⑩沿海州(ソ連のオホーツク海沿いの州)沿岸の漁業権を日本人に付与

3.第一次世界大戦(1914年~1918年)後のベルサイユ条約では以下を獲得;
⑪中国の山東半島のドイツが保有していた権益を入手
⑫赤道以北の南洋諸島(パラオ、マーシャル諸島、など)の委任統治
国際連盟の設置とその常任理事国としての地位

4.満州国の建国(1932年)
国王は清朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀であるものの、統治の実権は日本にあり、統治している地域は東北三省(遼寧省・吉林省・黒龍江省)と熱河省

見出しにある簡略化された地図で、上記で取得した中国に関わる領土、及び日本が実質的に統治するエリア全体が概観できます

-広大な満州国の統治-

日本が実質的に統治する広大な満州国のエリアは、当時満州人(ツングース系民族;「清」帝国を築いたのはツングース系の女真族)が多く住み、漢人にとっては謂わば「化外の地(けがいの地;国家の統治の及ばない地方)」とされており、人の往来、物流、鉱物資源の開発、などを行うためには、「治安の確保」、「インフラの整備」、「人材の確保」が緊急の課題となりました

治安の確保」については、「関東軍」が対応し、「インフラの整備」については「南満州鉄道(通称”満鉄”)」がその重大な役割を担うことになりました。また、「人材の確保」については治安の確保の他、賃金及び住環境の整備を行うことにより、満州国経済の発展につれ、日本人、朝鮮人、漢人、が大量に満州国に流入してきました

ネット情報(ウィキペディア)によれば、日露戦争後の1908年の時点で、満州の人口は1583万人でしたが、満州国建国翌年の1933年には2929万人、満州国建国後3年目には4300万人になっていました。1940年の満州国国務院の国勢調査では4223万人ですが、その内訳は以下の通りです;

民族別人口構成は(カッコ内は全人口の構成率);
満洲人(漢族+満洲族)     38,885,562人 ( 94.65%
日本人(朝鮮族131万人を含む)   2,128,582人  (  5.18%
その他外国人(白系ロシア人他)         66,783人  (  0.16%

また、主要都市の人口は(カッコ内は日本人の人口);
奉天(現在の瀋陽)                             : 1,003,716人 ( 170,580人
哈爾浜 (ハルピン)                            :     558,829人 ( 51,650人
新京(満州国の首都;現在の長春):    490,253人 (129,321人
大連                                                           :     338,872人 ( 84,794人
安東                                                           :     246,129人 ( 43,358人
営口                                                           :      176,917人   ( 8,320人
吉林                                                           :      145,035人(  17,941人
斉斉哈爾 (チチハル)                          :    118,708人  ( 14,290人

この広大なエリアを統治するに当たって、治安は関東軍が担当し、陸上輸送及びインフラ構築、整備、文化、機密任務を担ったのは南満州鉄道株式会社(通称満鉄)、航空輸送及びその他の機密任務を担ったのは私の父が入社した満州航空株式会社(通称満航)でした

-満州国に於ける関東軍の歴史(Quick Rview)-

日露戦争後のポーツマス条約でロシア帝国から獲得した租借地、関東州と南満州鉄道の付属地の守備をしていた関東都督府陸軍部(1906年設置)が関東軍の前身です。第一次世界大戦後(1919年)、関東都督府が関東庁に改組されると同時に、台湾軍・朝鮮軍・支那駐屯軍などと同じ権限を持った関東軍として独立し、司令部を関東州の旅順市に設置しました関東軍の当初の編制は独立守備隊6個大隊(約6千人か)を指揮下に置き、此れとは別に日本内地から2年交代で派遣される駐剳(ちゅうさつ:官吏や軍人が「駐留」すること)1個師団(約2万5千人位)もその指揮下に置いていました

1931年、関東軍の石原莞爾作戦課長らは柳条湖事件を起こして軍閥の張学良の勢力を満州から駆逐し、翌1932年、満州国を建国しました
また、関東軍司令官は駐満州国大使を兼任するとともに、満州国軍と共に満州国防衛の任に当たり、一連の満蒙国境紛争に当たっては多数の犠牲を払いながら、満州国の主張する国境線を守備する任務を遂行していました
1934年、関東軍司令部は満州国の首都新京(長春)に移りました

ソ連との国境紛争を通じてソ連軍の脅威が認識されたことや、ヨーロッパ戦線の推移などにより関東軍は漸次増強され、1936年には、関東軍の編制は4個師団及び独立守備隊5個大隊となっています。1937年の日中戦争勃発後は、続々と中国本土にもその兵力を投入しました。
また、1939年5月~9月、満州国とモンゴルとの国境線をめぐって日本とソ連の間で大規模な戦争(ノモンハン事件;両国合わせて数万人の死傷者が出ました)が発生しました

ノモンハン事件現場

こうした事から、太平洋戦争が始まる1941年には14個師団にまで増強されました。また、日本陸軍は同年勃発した独ソ戦にあわせて関東軍特種演習と称した準戦時動員を行った結果、同年から一時的に関東軍は兵力74万人以上に達しました。「精強百万関東軍」「無敵関東軍」などと言われていたのはこの時期です

太平洋戦争の戦況が悪化した1943年以降、日ソ中立条約(1941年4月締結)により、ソ連との国境に戦力を割く必要性が減少したことから、激戦が続く中国、東南アジア方面に戦力を提供していきました
1945年になると、戦力の埋め合わせとして満州在留邦人を対象に25万人の動員(所謂「根こそぎ動員」)を行い、数の上では78万人に達しましたが、これらの追加兵員は練度・士気が劣っている上に、装備も著しく貧弱であった為、前線に配置されていた兵員は犬死を余儀なくされたと言われています

1945年8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍がソ満国境を越えて侵入してきた時、参謀本部の方針により、関東軍主力は大連~新京のラインまで後退していた為、1945年8月15日の終戦を迎えた時には関東軍の多くの部隊は戦わずして武装解除となりました。ソ連軍に降伏した多くの関東軍兵士は、シベリアに抑留され過酷な労働と寒さにより多くの死者を出しています。また、「何も知らされずにソ満国境付近に残されていた開拓殖民を見捨てて逃げ出した関東軍」という汚名を着ることになりました。詳しくは私のブログ「“麻山事件”を読んで」、「母方親族の戦争体験」をご覧ください

-満州国に於ける満鉄の役割-

日露戦争終結後、ポーツマス条約で得た東清鉄道南満州支線(長春=旅順間鉄道)の運営及びその他付属事業を経営する目的で、1906年に設立された半官半民の国策会社で、正式には。南満州鉄道株式会社(以下”満鉄“)といいます

満鉄本社、ロゴ&ロゴ入り「切子」の小杯


上の写真は2015年に満鉄博物館となっていた旧満鉄本社を訪れた時の写真です。左側の写真は中国人民にとって犯罪的であったとされている満鉄を紹介している説明文です。右の写真は初代満鉄総裁である後藤新平も使用したとされる総裁室の机です

<付属事業>
満鉄は単なる鉄道事業ではなく、児玉源太郎がイギリスの東インド会社を研究させた上で献策した「日本の植民地経営を具体化していくための組織」として設計されました
従って、満鉄の付属事業は、「農産物の取扱、牧畜業」、「炭鉱開発/撫順、煙台」、「製鉄/鞍山」、「ホテル業/ヤマトホテル(大連、旅順、奉天など)」、航空会社(満州航空/後述)」、など多方面に亘っていました

撫順炭鉱・露天掘り
鞍山製鉄所、大連ヤマトホテル

また同時に、鉄道付属地の一般行政分野となる「水道、電力、ガス供給」、「土木・建築」、「教育(学校、図書館)」、「衛生(病院)」、「娯楽施設」などのインフラ整備事業も担い、徴税権も行使していました

満洲医科大学⇒中国医科大学

上の写真にある満洲医科大学の医師(教員)、看護師は、中国側から終戦後も医療・教育活動の継続を求められ満州に残りましたが、米軍の航空機で日本に帰還する機会があった時に、医学生からの自発的カンパによって航空運賃が賄われたという感動的な記録が残っており、日本人の教員と中国人の学生とは政治とは別の熱い師弟関係にあったことが窺えます

旅順・工科大学、奉天(瀋陽)高等女学校

1937年になり満洲全域が日本(満州国)の勢力下に入ると、鉄道付属地に限られた軍事・行政権は必要なくなり付属地行政の大部分は満洲国政府に移管され、大量の教員を中心とする満鉄職員は満州国に移籍しました

<満鉄調査部>
初代の満鉄総裁である後藤新平は、台湾総督府民政長官時代にも旧慣調査その国の法制および農工商経済に関する旧慣習の調査を行う事)などを行って台湾の植民地経営に活用した経験を活かし、満鉄でも創立2年目の1907年に満鉄調査部を設置しました。当時の日本が生み出した最高のシンクタンクの一つと言われています。日露戦争後、政情不安の状況にあった満州では企業活動を展開する為には不可欠な調査活動だったと考えられます。スタッフは100名前後で「旧慣調査」、「経済調査」、「ロシア調査」の他、「監査班」と「統計班」がありました。
また、インフォーマルな情報活動も、満鉄が各地に設けた満鉄公所においてさかんに行われており、ここでは日本人のみならず中国人も多く働いていました
満鉄公所とは;
満鉄が設置したインフォーマルな情報収集活動のための機関・施設であり、公式機関である領事館とは別に、非公式の折衝や秘密の情報調査活動を行っていました。以下の奉天領事館から外務大臣に出された要望書にあるように、本来こうした活動の中心になるべき外務省直轄の領事館と屡々軋轢があったことが窺えます;

奉天満鉄公所と奉天領事館から外相宛の要望書

<鉄道事業>
1907年の満鉄創業時、日本政府はむしろ石炭輸送以外に経済性はほとんど期待できないと考え、6%の配当を保証する為の補助金制度を設けていたほどでした。しか し,ロシアとの戦争が再び起こる事を想定していた為に、満鉄は営業開始とともに輸送力強化に取り組むことになりました
営業開始時,路線は大連=猛家屯/6952キロ,安奉線/296キロなど,合計 1万1508キロでしたが,その内、安奉線は軌道幅762mmの軽便鉄道であり、その他の路線も1067mmの狭軌であたため、その輸送能力が 脆弱であるばかりでなく、多くの事故が発生していました

そのため標準軌/1435mm(新幹線と同じ軌道幅)へ改修し、大連=長安(新京)路線を複線化するという日本政府の決定に従 っ て、1907 年5月に安奉線を除いた本線および支線の拡軌工事に着手し、応急措置として在来の狭軌の外側に一本、あるいは二本のレールを追加した狭軌・広軌併用運転法行って列車運転を休止させること無く、1908年5月に全線で標準軌の列車運行を開通をさせました
一方、安奉線については清国政府との交渉が まとまらなかった(日露戦争時に軍需輸送に使われていた)ため着工が遅れましたが、日本政府の決定によって、1909年から工事が始められ、1911年11月に完成しました
この標準軌化工事によって既存の車両は利用不可能となり、標準軌車両を米国より大量に購入しました(機関車/205両、客車/95 両、貨車/2190 両)
その後車両を増やし、1926年には、機関車/428 両、客 車/440 両、貨車/6811 両に達しました。また、交通量の多い幹線は、複線化工事を行い、満州国建国後2年目の1934年には全線の複線化工事を完了させました

輸送量については、1907年の旅客輸送量/226百万人キロ、貨物輸送量/397百万トンキロから年々増加し、世界大恐慌の影響で一時低下したものの、1939年には旅客輸送量/3013百万人キロ(13.3倍)、貨物輸送量/9344 百万 トンキロ(27.7倍)に達していました
大きな伸びを見せた貨物輸送の主役は石炭と大豆三品(大豆、大豆油、豆粕)でした。
一方,旅客輸送においては、車両の居住性改善、速度向上などを通じて旅客サービス向上を行い旅客需要の掘り起こしを行っています。例えば大連=新京(長春)線の急行列車の 場合、1924 年に13時間運転を実施、1926年には12時間30 分、1930年11時間30 分、1933年10時間30分へと時間短縮 を行 い、1934年11月には急行列車のほかに超高速の流線型の特急列車「アジア号」を使って8 時間30分/平均時速82.5キロ)の運航を開始しました。同じ時期に釜 山=奉天間の急行列車「ひかり号」を新京(長春)に まで 延 長 運転 しました(参考動画:満鉄特急・アジア号

また、生産性向上の諸施策(車両整備日数の短縮、整備士の技量向上、整備設備の改善、など)を行うと共に、路線運営の効率化を行った結果、満鉄社線の労働生産性、及び資本生産性は朝鮮国鉄、日本国鉄よりも高くなりました

1933年2月には、それまでの満鉄線(下記路線図の赤色の路線)の他に、満州国政府より同国国有鉄道の路線(下記路線図の青色の路線)運営と新線建設が満鉄に委託され、更に同年9月から朝鮮総督府の北鮮線(下記路線図の緑色の路線)が満鉄に委託されました
尚、1935年3月23日に満州国とソ連との間で締結された「北満鉄道讓渡協定」によって、満州国とソ連の共同経営であった北満鉄道を満州国が買収し、この路線(下記路線図の青色の路線の内「ハルビン=満洲里」、「ハルビン=綏芬河」、「ハルビン=新京」も満鉄に移管されました

満州国の鉄道路線

一方で、鉄道網が全満洲に拡大された為、鉄道の生産性は一気に低下し、収益性も悪化しました。生産性の低い路線を多く抱えることになったためやむを得ないとも言えます

-満州国に於けるの満航役割-

<航空輸送の曙>
第一次世界大戦において、欧州戦線では航空機による偵察、爆撃が作戦上重要な位置を占めることが分かってきました。そこで、1919年、日本の陸軍、海軍は、それぞれ当時の航空先進国であったフランス及びイギリスの指導を受けて、航空機の装備を整え始めました

一方、民間による航空輸送についても;
①1922年11月、「日本航空輸送研究所」が大阪=徳島、大阪=高松路線で、水上機(伊藤式カーティス飛行艇)による定期輸送を開始
②1923年1月、朝日新聞社による「東西定期航空会」が東京=大阪路線で、陸上機(中島5型)による定期輸送を開始③1923年4月、「日本航空株式会社後の日本航空とは別)」が大阪=別府路線で、水上機(川西式水上機)による定期輸送を開始

これらの三社は、軍用機の払い下げ、軍の現役操縦者の割愛を得て次第に路線を伸ばしていきますが、規模も小さく、海外(中国)路線への進出も叶わなかった為、各社は累積赤字を積み上げていく状況となり、航空局は各社に奨励金を出して支援を行っていました
一方、民間航空輸送の安全性確保について最も重要な航空法については、1921年4月帝国議会の承認を経て公布されました。これによって、軍用航空と民間航空とが法規上からも完全に分離されることになりました。また、1922年6月には、国際航空条約が帝国議会で批准されました。しかし、日本に於ける航空輸送は未だ開始されたばかりで未発達であった為、航空法が実際に施行されたのは、1927年6月になってからでした

航空局が最も重視した政策は安全運航の要となる乗員の養成でした。当時の民間養成機関の実情は極めて貧弱であったので、航空局は毎年民間人70人~150人の志願者から10人前後を選抜し、それぞれ半数ずつを陸海軍に委託して10ヶ月間程度の操縦教育を受けさせて養成していく方式をとりました。その養成者数は1920年から28年までの9年間で86人に達し、定期航空輸送の中堅乗員層を形成していくことになりました。同様の方法で航空機関士の養成も行われれました(私の父はこの航空局委託航空機関士養成課程の4期生として卒業し満州航空に就職しました

<日本航空輸送株式会社の設立>
定期航空輸送を開始していた民間三社は、どれも小規模企業で将来的な発展が見いだせない状況であった為、政府は国策の航空会社設立の方針を決め、1927年8月「航空輸送会社設立準備調査委員会」を設け、委員会会長に渋沢栄一子爵副会長に井上準之助を充て、9月航空輸送会社設立について諮問しました。同年11月、委員会は以下の答申を行いました;
「航空輸送会社企業目論見ニ関スル件:右企業目論見ハ適当ナリト認ム。但シ航空輸送会社ノ設立ハ我国創始ノ事柄ニ属スルヲ以テ其ノ営業収入及ビ支出計算ハ共ニ多少未知ノ事実ニ基ケル点アルハ己ムヲ得ザル所ナリ依テ会社ノ事業開始後ノ
営業実績ニ徴シ到底予期ノ業績ヲ挙グルコト困難ナルニ於テハ政府ハ会社ノ維持ニ付相当考慮ヲ払フ要アルモノト認ム

渋沢栄一と伊藤準之助

1928年4月の臨時帝国議会で、航空輸送補助金1,997万円の予算が可決され、同年7月航空輸送を運営する会社の発起人総会が開かれ、渋沢栄一子爵を委員長に創立準備に着手しました
公開株式公募には応募数が140倍あったというこの人気は、発起人が渋沢栄一を始めとする当時わが国一流の実業家を網羅したこと加え、当時の国民の大きな期待がみてとれます。これを受けて、1928年10月、完全独占運航の民間商業航空会社「日本航空輸送株式会社以下日本航空輸送と略称)」が設立されました

日本航空輸送の活動は始まったものの、需要はごく低く、まもなく同社は非常な経営難に陥り、総収入の9割を政府からの補助金に頼る経営内容に傾いていきました
しかし日華事変の後、1932年に満州国が成立して以降、環境が激変し、内地-大陸間の輸送需要が急増して運航回数が急激に増大し、路線も東京あるいは福岡から新京、青島、北京、上海、台北、広東などへ新路線が開設されていきました。これら路線の実態は軍用便であったものの、余席がある場合には一般民間貨客の輸送が許されました。軍は一般利用者分を除く全運航経費を支払ったので、その運航形態は日本航空輸送会社にとって甚だ有利であり、経営内容は次第に好転して行きました。また、満州国における路線運営を一元的に運営する方が効率的であることから、同年9月「満州航空株式会社」が設立されました

<満州航空株式会社>
設立時の会社概要;
社名:
満州航空株式会社(通称「満航」)
資本金:385万円満州国:100万円/満鉄/250万円/住友合資会社/35万円)
本社所在地 :満州国奉天市

満州航空本社@奉天(瀋陽)と会社ロゴ

*創立時の従業員数は、日本航空輸送からの転入が55人、新規採用が20人でした。操縦士は8人でしたが、内7人は日本航空輸送からの移籍でした。創立から9ヶ月後の1933年6月末時点で411名(満州人も含む)に増加し、操縦士・機関士は43名、また軍籍にある将校は30名でした(因みに私の父は、1933年10月、23歳でこの満航に入社しています
尚、円形の会社ロゴは満州国の国旗で使われている5色の色と同じで「五族協和」を表しており、五族とは「日本人、朝鮮人、満州人、蒙古人、漢人」を意味します;

業務内容;
① 旅客、貨物定期輸送、郵便輸送
② 軍事定期輸送
③ チャーター便の運航
④ 航空機整備
⑤  測量・調査(空中写真、測図、資源調査)
航空機製造(航空工廠)
*1938年6月、⑥の製造部門は、日本政府の監督下にあった「満洲重工業開発株式会社」の命令により、「満州飛行機製造株式会社として独立しました。主力工場はハルビン(哈尔滨)にありました。この会社は1941年~1945年にかけて、2196機の機体の生産(うち798機は戦闘機)と、2,168基の航空機用エンジンも生産しました。また、満洲国軍飛行隊日本帝国陸軍飛行戦隊様々な航空機の修理事業も行っていました

路線運営;
1936年末時点の定期航路の総延長は 9千キロで、政治経済の中心地はほとんど網羅していました;

満州航空の定期航路

尚、満州航空は、新京(長春)とベルリンを結ぶ長距離定期航空路線開設の為系列会社として「国際航空株式会社」を設立しましたが、その後1938年に日本航空輸送と合併し、新社名は大日本航空株式会社となりました

使用航空機;
① MT-1 ( 満州航空の工場で開発、製造を行なった旅客機)
② 三菱 MC-20
③ 中島飛行機 AT-2④ ユンカース Ju86、ユンカース Ju160
⑤ ハインケル He116
⑥ メッサーシュミット Bf108B 「タイフーン」⑦ フォッカー スーパーユニバーサル(ライセンス生産も実施)
⑧ デ・ハビランド・プスモス
⑨ ロッキード・スーパーエレクトラ
民間航空にしては多種多様な航空機を運用していることに驚きますが、上述した業務内容が極めて多岐にわたっていることと、航空機の名称からも分かると思いますが、航空機の先進国である米国、英国、ドイツから輸入、乃至ライセンス生産していることから、技術を学ぶ目的も大きかったと推測できます

因みに下の写真は、1936年、入社3年目の父が、奉天航空工廠発動機試運転場において「(ことぶき)」第334号の600時間耐久運転時に撮影されたものです;

」というエンジンは、中島航空機が1929年に開発を開始し、1931年に「寿一型」として正式採用され、その後発展型が順次開発されました。このエンジンは満航で使われていた「フォッカー・スーパーユニバーサル」に装着され、その後の発展型は「九六式艦上戦闘機」、「九七式戦闘機」、などに装着されています
この時、父は信頼性向上の為の研究、改修を行っていたことが亡くなった折の友人の弔辞に書かれてありました。当時、航空機の開発は急速なピッチで進められており、マニュアルなどの準備が整わない中で、信頼性向上の為の研究、改修は現場の技術者の努力に負う事が大きかったと言われています

-渡満した日本人が何故満州を愛してやまないのかについて-

関東軍は軍隊であり、本人の好むと好まざるとに関わらず任地の移動を繰り返しているので、恐らく終戦直前のソ連軍の進入以前は、満州は比較的楽な任地である程度の認識であったと思われます
ここでは、自らの意思で満州に渡った人々の心の内に分け入ってみたいと思います

1.何故満州を目指したか?
 一般に日本人にとって、当時の満州は「馬賊騎馬の機動力を生かして荒し回る賊で清末から満洲周辺で活動していた)や匪賊非正規武装集団)が跋扈する無法地帯」と言われていました。丁度、アメリカに於ける「西部開拓時代」の状況に似ていると言ってもいいかもしれません

アメリカの様に金鉱発見の様な華々しいきっかけはありませんでしたが、渡満を決心する際にお金に纏わる動機はあったと思います。 1929年米国に始まった世界恐慌で、日本の産業は大打撃を受け、日本国内には当時経済的に困窮する人々が多かったことは間違いありません
一方、満州には埋蔵豊富な資源(石炭、鉄鋼)があり、日本政府が満鉄を通じて満州にインフラ整備のための莫大な投資を継続的に行っていました( ← 「鉄道敷設、鉄道関連土木工事」、「炭鉱開発」、「鉄鉱石採掘、製鉄業」、「多くの拠点都市の街づくり」、「病院建設」、「学校建設」、他。この結果、満州には大きな雇用の機会が存在していました

 ② 満州は日本人の力で「五族協和」を実現し「王道楽土」にするんだという理想が当時確かに存在していました
馬賊匪賊が跋扈する未開の地に、法の秩序を齎し(警察官)、無学の人々に教育を施し(教員)、疫病の蔓延する地に近代医療の恩恵を与え(医師)、鉄道や航空機による人流、物流の革命を起こす(満鉄職員、満航職員)、荒蕪地を豊かな農地に変える(開拓農民)、などを志し理想に燃えて渡満した人も少なからず居たことは確かだと思います
*母の長兄は訓導(現在の教諭)として1931年に満州に赴任し、引揚まで各地(奉天、遼陽、連山関、本渓湖)の学校で教鞭を取っていました
*当時の満州は衛生状態が非常に悪く疫病に罹る人が多かったと言われています。私の姉も赤痢に罹って4歳で亡くなりました

これらのポスターは政府主導で満州への日本人移民を促すために作られたことは確かですが、「五族協和」、「王道楽土」という言葉は日本人の考え付いたものではなく、以下の様な中国の歴史に由来する言葉です;
五族協和」というスローガンは、1911年の辛亥革命の後「中華民国」が建国されましたが、この革命を主導した孫文が臨時大統領となった時に掲げたスローガンを真似ています。この時の「五族」は、「漢族、満洲族、蒙古族、回族(ウイグル族などのイスラム系民族)、チベット(西蔵)族」を意味しましたが、満州国での五族とは前述の通り「日本人、朝鮮人、満州人、蒙古人、漢人」を意味します

王道楽土」という言葉の「王道」とは、儒教に基づく政治思想で、中国古代の「周公(周王朝を創始した武王の弟)」が行った理想の道徳政治を意味します。これに対する反対概念は「覇道はどう)」ですが、これは春秋時代の覇者の行なった武力による権力政治のことを意味しています。満州に於いて日本は「覇道」ではなく「王道」を行って「楽土」を築こうという意味になり、中国人にも分かり易いスローガンになっていたと考えられます

③  満州国建国後、満州国国民の国民所得は急速に向上し、満州で働いていた人々の経済的充足感大きく、日本人のみならず、漢人の大量の流入に繋がったものと思われます(前述の「人口の推移参照」);満州国の国民所得の推移_山本有造(京都大学人文科学研究所)

④  「民族協和」は一般市民の間ではある程度受け入れられていたと考えられます。満州国に於ける民族構成で90%以上を占める中国人(漢人+満州人)と日本人との関係は、確かに支配される側と支配する側であり、相応の緊張関係はあったと思われます(特に高学歴の中国人:詳しく知りたい方は、私のブログ「五色の虹-満州建国大学・卒業生たちの戦後」を読んで」を参照してみてください)
しかし、日本人が遠い昔から中国の文化の影響を受けていたことは、日本人なら誰でも知っていることでしたし、また当時の教養人は学校教育で漢文を勉強し、漢詩に通じていた人も少なからずいましたので、中国人を見下したり、侮辱したりする人は無学の人に限られていたと考えられます
終戦後の引揚の厳しい状況下で中国人に引き取られた日本人残留孤児の総数は、厚生労働省の記録によれば約2800人と言われており、満州に於いて日本人に対する中国人の善意は、間違いなく存在していたと考えられます

2.苦難の引揚げ経験を経て、なお満州への愛が変わらないのは何故か?
なかにし礼氏に限らず、私の周りにも満州時代を懐かしむ人が多く存在します。そうした人々との思い出話や、写真、などから判断すると満州への愛を育んだものは以下の様なものと考えられます;
① 満州の新しい国づくり、街づくりに参加した人々にとって、欧米先進国に引けを取らない立派なインフラを作り上げたという誇り

新しい理想の国造りをする必要があった為、日本に居ては経験する機会の少ない「挑戦的な仕事」に恵まれたこと。また、あの広大な満州に行った日本人はたった2百万人程度だったので、多くの中国人を使って「大きな仕事をする機会に恵まれたこと

③ 狭い日本では経験のできない雄大な景色に対する郷愁

④ 多くの異民族に囲まれた環境下での、少数の日本人社会に於ける濃密な人間関係
因みに、私の父が所属した満航(本社は奉天)には、1938年に兄弟会社として生まれた「満州飛行機製造株式会社(主力工場はハルビン/哈尔滨)がありましたが、この二つの会社の人間関係は非常に濃密で、戦後7年を経て日本に幾つかの航空会社が立ち上がりましたが、「満航会」と称して年に一度多くの人が会社の枠を越えて集まり旧交を温めていました。父が亡くなった後、母を連れて私も参加していました
恐らく大所帯の、満鉄の関係者の人間関係も戦後の国鉄私鉄に引き継がれていったのではないでしょうか

―あとがき-

私は1994年から2年半ほど台湾に駐在していました。この時に、台湾人との交流で得た印象は、彼らは極めて親日的であるという事でした。私の上司であった人は世界各地での駐在の経験がありましたが、台湾ほど日本人がリラックスして生活できる国はないと言っておりました
当時、2千2百万人と言われていた台湾人の構成は、主として隣接する福建省から入植してきた中国人(大半が漢人)と、南方から入ってきた少数民族大まかにいって9種類の民族があり、最大の民族「阿美族」でも人口は約20万人でした)に加え、外省人と言われていた蒋介石率いる中華民国軍1949年12月、国共内戦に敗れて台湾に逃れてきた軍人、軍属が多数を占めていましたの子孫が約2百万人居ました
外省人は、台湾に侵入してきてから「大陸反攻」を行う為に全土に戒厳令を布くと共に、反共的で反日的な教育を徹底していましたが、外省人以外の台湾人は、恐らく日本統治時代を生きた親からの昔語り日本の統治は終戦まで約50年間続き、台湾に近代的インフラを整備し、教育制度も充実していた)や、支配層を独占し強圧的な政治を行っていた外省人への反発から親日的であったのだと思われます

一方、満州国は儚くも凡そ13年間で終焉を迎えました。しかしその統治の間に築かれたインフラは、今回写真類を転載した参考資料「偽「満州国」明信片絵葉書研究(私が中国に旅行した時に購入)」を見ると台湾にも増して素晴らしいものがあり、中には現在の中国でもは使われている建物もあり吃驚します;

しかし、表紙だけでなく絵葉書のタイトルにも全て「(偽の簡体字)」の字が接頭語!で付加されています
色々な解釈もあると思いますが、台湾同様、当時の満州国の統治は悪くなかったと思う中国人(4千万人近くいました)が少なからず存在するのではないか? それが故に、満州国の統治の間に作られたものは全て「」を付け、日本による犯罪的な統治を強調しているのではないか? と私は感じました

偶々、このブログを完成する直前に「日本語版NewsWeek」に以下の様な記事が載っていました。著者は、現在の中国「内蒙古自治区」のモンゴル人の知識人(静岡大学教授)です;

現在の中国が、孫文が掲げた「五属協和」の精神を踏みにじり、チベット人、モンゴル人、ウィグル人の人権侵害を引き起こしています。今の中国は、古色蒼然たる漢民族による「中華思想」の時代に戻ろうとしているのではないか、、、GDPの規模で世界第二の大国となり、軍事力でも米国に肉薄する軍事国家となった中国が、この様な時代錯誤の認識を基に、世界の各地で軋轢を起こしているのは心配でなりません

以上

日本の戦争の時代についての一考察

始めに

恒例となっている週一回の本屋渉猟で、最近、見出し写真の本を見つけ購入しました。この写真を見れば、多少でも歴史に興味のある方であれば「ミズーリ号上での降伏文書の署名式」であることはお判りのことと思います。明治以降の日本の歴史の中で、最も屈辱的な瞬間であったことは、ほぼ全ての国民にとって異論のない所だと思います
初版が2020年4月で第6刷発行が6月であることから、思いもよらぬ売れ行きだったのかもしれません。立ち読みで目次をパラパラ捲っていくと、学校で習ってきたこと、本で読んだことがあること、友人と議論したこと、などがズラリと並んでおり、それが「加瀬俊一」という外交官の活動と一本で繋がっていることが分かり、早速購入して一気に読み込んでみました。

今まで日本の戦争の時代についての、著作、映画、テレビ番組などは、相当程度チェックしてきた積りでしたが、この書の様に日本が経験した約15年間(1931年~1945年)の日本が関わった多くの戦争を、全体として繋げてみる機会が無かったので、この書を読むことによって、何か新しい歴史の見方や、現代の政治に生かせる教訓などが朧げに見えて来た様な気がします。そうした新しい気付きについて、恥ずかしながら以下にご紹介したいと思います。

尚、この本(開戦と終戦をアメリカに発した男」は加瀬俊一(としかず)という極めて有能な外交官が、歴史に名を残している東郷茂徳、広田弘毅、重光葵、吉田茂、松岡洋右、といった個性豊かな外交官の直属の部下として外交の実務面で、ほぼ一貫して「日本の戦争の時代」に関わり、それにより得られた各種の情報(裏話も含む)が詰まっています

15年戦争当時の主な外交官

最後の段落「開戦と終戦をアメリカに発した男_読書メモ」には、読書中に残した私のメモ(上記外交官の考え方、活躍の様子などが中心)に、時代を動かしたと考えられる内外の歴史上の出来事を、私の理解のために時系列で補完したものです。結果として前半の部との重複がかなり出てしまいましたが、私とは違った目で日本の戦争の時代を俯瞰するのに役に立つと思いますので、時間のある方は斜め読みでもご覧になっていただければ幸甚です

日本の針路に関わる重要な事象

1914年、オーストリア・ハンガリー帝国の都市・サラエボ(当時)での一発の銃弾で始まった第一次世界大戦(1914年~1919年)では、日本は戦勝国となり、パリ平和会議の結果結ばれたベルサイユ平和条約(1919年6月28日)では、日本は山東半島の旧ドイツ権益を継承し、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権を得ました。また、1920年1月に発足した国際連盟では常任理事国(イギリス、日本、フランス、イタリア)にも選任されています。以下は、それ以降の日本が関わる重要な事象を時系列に並べ、できるだけ客観的に記述したものです;

1.ワシントン会議(1921年11月12日~1922年2月6日)
1922にはワシントン会議が開催されました。全権大使は後の外務大臣、総理大臣となる幣原(しではら)喜重郎で、主力艦保有率を米:英:日本:フランス:イタリア=5:5:3:1.67:1.67とするワシントン海軍軍縮条約が締結されました
また、中華民国の領土保全、門戸開放、新たな勢力範囲設定を禁止する九カ国条約が締結され、日本は山東還付条約で山東省、及び山東鉄道を中華民国に還付することとし、山東半島や漢口の駐屯兵も自主的に撤兵することになりました。更に、日露戦争を勝利に導く大きな力になった「日英同盟」は、イギリスにとりロシア帝国とドイツ帝国が消滅したため無用になると同時に、英米関係にも好ましくなくなったため、解消されましたたワシントン軍縮会議
幣原喜重郎は米英との協調外交を主張しており、日本の軍事力を強く警戒していた米英に譲歩した結果になった為、この条約は海軍の不満のもととなりました

2.世界恐慌
1929年10月24日、ニューヨーク市場で株価が大暴落し、世界的な大恐慌に発展しました。この経済恐慌は日本にも波及し、日本の多くの産業分野が連鎖的な不況に苦しむ状況になりました
1930年、浜口雄幸(おさち)首相、井上準之助蔵相はこの経済状況の中で「金解禁」を強行したため、円の為替相場が暴騰し輸出産業は壊滅的打撃を被ってしまいました
更に東北・北海道の農家にとっては、「生糸価格の暴落」、「米価の大幅な下落」、「不況による都市労働者の帰農」に加え、1931年には大凶作が重なり、農家は「飢餓水準」の苦境に陥りました。この結果、欠食児童女子の身売りなど、深刻な社会問題が発生しました。陸軍・海軍の兵士には農村出身者が多く、こうした農村の疲弊に悩む兵士達を統率する将校たちの政治不信を生む原因の一つとなっていきました

3.第一次ロンドン軍縮会議(1930年1月21日~4月22日)
ワシントン会議では主力艦のみの規制であった為、各国(米英日)とも、巡洋艦以下の補助艦について高性能化や建造数を競う結果となった為、補助艦を含む建造制限を設けることとなりました
海軍は対米7割を主張するものの、首席全権大使の若槻禮次郎(元総理)は、日露戦争の際に発行した国債の借換え時期を控え、放漫財政縮減を行う必要があった為、米英との協調を維持しつつ、軍縮による軍事費の削減を実現することに対し積極的でした。最終的に米・英対日本は 10:6.975の比率で決着した為、海軍を中心とし不満が高まり、この後、海軍内に「条約派」と「艦隊派」の抗争を生む原因となりました

艦隊派」の不満の根拠となったのは以下の考え方です;
「帝国憲法に規定されている軍の統帥権は天皇にあり、陸軍・海軍は天皇に直属する組織なので外務大臣の様な文民が軍に関わる条約に関与すべきでない」
<参考:大日本帝國憲法>
第一章 天皇
第十一條 天皇ハ陸海軍ヲ統帥
第十二條 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第十三條 天皇ハ戰ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ條約ヲ締結ス
第十四條 天皇ハ戒嚴ヲ宣告ス。戒嚴ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム

4,柳条湖事件~満州事変~満州国建国(1931年9月18日~1933年5月31日)
1931年9月18日、瀋陽市近郊の柳条湖付近で、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破しました。関東軍はこれを国民政府軍による犯行と発表することで、満州における軍事展開およびその占領の口実として利用しました。
関東軍は、朝鮮師団(当時日本領であった朝鮮に駐在する師団:師団長/林銑十郎中将の越境による援軍を得て、戦闘そのものは約6か月で終結し、1932年3月1日には「満州国」が建国されました

抗日記念館で購入した写真集_題字は江沢民が書いた。「柳条湖事件を忘れるな」という意味

その後、1933年1月~3月、隣接する熱河省に軍を進出させ(熱河作戦)、満州国に編入し、さらに山海関をこえて中国本土にも侵攻しました。国民政府の蔣介石は、国内での中共との内戦を重視し、日本軍との妥協を図り、同年5月31日、塘沽停戦協定の締結に応じました。これにより日本軍は万里の長城まで後退し、熱河省を含む満州国を中国国民政府が承認するという結果となりました。
日本はさらに華北一帯を実効支配することを策し、華北分離工作を進めることとなります
1935年6月10日、梅津・何応欽協定を結んで華北一帯の国民政府軍を撤退させ、抗日運動は禁止されることになりました。内蒙古に関しても同様の土肥原・秦徳純協定が締結され、華北の国民政府軍を撤退させた上で、同年、冀東防共自治政府を傀儡政権として樹立させ、華北を国民政府から分離させることに成功しました


この全体のシナリオを描いたのは関東軍作戦参謀の石原莞爾中佐でした。彼が描いた満州国建国の目的は;
①石炭や鉄鉱石などの資源の確保、
②「世界恐慌」により貧困化した農民の受け皿
であり、国民に対しては「王道楽土」、「五族協和」、などの美しい言葉で理想国家・満州国を喧伝しました(参考:私のブログ「五色の虹-満州建国大学・卒業生たちの戦後」を読んで
この一連の関東軍の政治・軍事行動の問題点以下の通りであったとされています;
A.朝鮮軍の越境に関わる軍事行動は、天皇の事前の許可を得たものではなく、明らかな「統帥権干犯」の行為であったこと ⇒ その後陸軍の「独断専行」のきっかけとなったこと
B.その後石原莞爾が関東軍を去り、関東軍の行動が彼の理想とかけ離れていったこと ⇒ 日中戦争を始めてしまったこと

5.満州国建国と「リットン報告書」~国際連盟脱退
柳条湖事件の3日後の1931年9月21日、国民政府が国際連盟規約第11条に基づき、紛争の拡大防止を連盟に提訴しました。国際連盟による調査を行うかどうかについては日中間で意見の違いがあり時間がかかりましたが、イギリスの説得により同年12月10日の理事会で派遣がきまりました。調査団のメンバーはイギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリアで構成され、メンバー間の互選で調査団長はイギリスのリットン伯爵と決まりました。また日本、中国はアドバイザーとして参加し、日本のアドバイザーは吉田伊三郎(前トルコ大使)でした
調査団一行は翌年に出発し、1932年2月29日、東京に立ち寄って犬養毅首相、吉沢謙吉外相、荒木貞夫陸相、等と会談。その後南京にて、国民政府の汪兆銘行政委員長、蒋介石軍事委員長と会見、北京では張学良とも会見しています。また満州では、満州国執政の愛新覚羅溥儀、関東軍司令官・本庄繁中将などに会って現地調査を行っています
1932年7月に再来日し。斎藤実内閣のメンバーと会見しましたが、当時の内田康哉外務大臣が満州国を承認していただく以外、解決の道はないと強硬に主張したため日本での調査は殆ど進展しませんでした

報告書作成の段階で、
フランスのクローデル代表や、イタリアのアルドロヴァンディ代表は「日本を非難することは現実的ではない」と相当強い異見を述べましたが、これらの異見見は報告書にはあまり反映されず、1932年9月4日、メンバー全員が報告書にサインをして国際連盟に送付されました。

報告書では、「満州(東三省)は常に列国が中国の一部と認めていた地域で、同地方における中国政府の法律上の権限に異議が唱えられたことは無い」と書いてありますが、以下の点で日本の立場をかなり認めています(以下の文章では報告書の日本語訳が「シナ or 支那」としているので全てこれに合わせています);
①シナの内乱状態:これに関する所論は適切である。満州事変の遠因をシナの無秩序・無理想な混乱にあるとし、内乱によって受ける日本のダメージが痛切であることを指摘している
②満州の歴史:日露戦争の勝利によって、日本がロシアから満州における権益を受け継いで満州経営に乗り出すと、この「楽土」を求めてシナ人たちが満州にやってきたことや、日露戦争後、満州がシナから放棄されていたことを記述している
③満州における排日抗日運動:条約や取決めによって日本が取得した権益をシナが容認しない傾向を挙げており、排日的な命令及び訓令が発せられた事実を認め、日シ間の緊張が日本の積極的な行動によって生まれたのではないことを裏書きしている
④張作霖・張学良時代の満州の内政:腐敗、悪政が跡を絶たず、軍隊維持のために重税を課し、それでも足りずに不兌換紙幣を乱発したことなどを指摘している

更に、報告書の最後の方(第9章)には、、今後双方が満足すべき結果を得るには、以下の10項目に留意する必要がある事を述べています;
1.日支双方の利益と両立すること
2.ソ連の利益に対する考慮を行うこと
3.現存の多角的条約(国際連盟規約、不戦条約、ワシントン9ヶ国条約)と整合すること
4.満州における日本の利益を承認すること
5.日支両国間の新条約を成立させること
6.将来の紛争を解決するのに有効な規定を設定すること
7.満州の自治を認めること
8.満州内の治安維持、外部からの侵略に対する保証(武装隊の撤退と関係国間の不侵略条約の締結)を行うこと
9.日支両国間における経済関係を促進させること
10.シナ国内を政治的に安定させるために国際協力を行うこと

以下は、参考とした「全文 リットン報告書」の解説を行っている渡辺昇一氏の意見です。我々世代が学校で習ってきたことと随分違う意見なのでやや戸惑いますが、この報告書が採択されても連盟に留まるべきという意見には全面的に賛成です;
松岡洋右の「国際連盟脱退」の演説(1933年2月24日連盟総会でリットン報告書を採択 ⇒ 同年3月 27日日本政府は連盟事務局に脱退の通告を行ったについて、彼がジョンストン(愛新覚羅溥儀の英語教師、これは後に『紫禁城の黄昏』という本を出版している)のような知識を持っていなかったことが日本の不幸であった。彼は満州は清朝固有の領土」という歴史的事実を説くべきであった。国際会議の場でこうした事を言わないで、キリスト教国でもない日本を二千年前の「ナザレのイエス」に例えている(松岡洋右、国際連盟総会で「十字架演説」)のはいかにも場違いであると言わざるを得ない。満州が満州民族の正統の皇帝を首長に頂く独立国に既になっていることも主張すべきであった。「勇の前に知を」ということは日本の政治家や外交担当者が第一に心すべきであったと思う
尚、リットン報告書が採択されても、日本は連盟に留まっているべきであったこうした外交問題は揉めているうちに既成事実となり、承認する国も増えたはずである

6.第二次ロンドン軍縮会議(1935年12月9日~1936年1月15日)
日本は、海軍内が既に「艦隊派に牛耳られていた為、前年の予備会議でワシントン海軍軍縮条約の廃棄を通告し、1936年1月15日、遂にロンドン会議からも脱退しました。この後、日本は経済力の限界を超えた海軍艦船の建造競争に突入することになりました。また、この時点で既に海戦の勝敗は航空戦力で決まる事が分かっていたにも拘らず、「大鑑巨砲主義」に基づき、秘密裏に巨大戦艦「大和」と「武蔵」の建造を開始していました。こうした流れを生んだ背景には、マスコミが強硬論で煽り、世論がこれに同調し、海軍・艦隊派がこれに便乗するという構図がありました

7,5.15事件(1932年5月15日)~2.26事件(1936年2月26日~29日)
5.15事件は、武装した海軍将校たちが総理大臣官邸、他各地(内大臣官邸、立憲政友会本部、警視庁、変電所、三菱銀行)を襲撃し、総理大臣犬養毅を殺害したという事件です。
一方、2.26事件は、陸軍青年将校を中心として、1,483名の武器を持った下士官・兵卒を率いて起こしたクーデター未遂事件です。高橋是清・蔵相、斎藤実・内大臣、渡辺錠太郎・教育総監が殺害され、鈴木貫太郎・侍従長は重傷を負いました
この事件は、いずれも武装した軍人が起こした事件であり、政治を動かしている要人をターゲットにしていることから、軍の意向に逆らうことが生命の危険を伴うという恐怖心を植え付けることになりました。また、2.26事件では東京朝日新聞本社も襲撃され、被害は出ませんでしたが、以後の軍によるメディア統制に逆らえない状況が生まれるきっかけとなる出来事でした。こうした事から、2.26事件以降、軍による政治への干渉は最早抑えることができない状況になりました

2.26事件の首謀者

また、2.26事件の収束に当たって、天皇は、穏便に収めようとする陸軍首脳部の意向を拒否して戒厳令を布告し、即時鎮圧をさせたことは、帝国憲法第14条にある「統帥権」を自ら行使したことになります

8.広田内閣による「軍部大臣現役武官制」の実施
2.26事件の責任を取る形で岡田内閣が総辞職し、広田弘毅首相により組閣が行われました。広田内閣は一年しかもたなかった(原因:「腹切り問答」)が、最大の過ちは、軍の圧力に屈し「軍部大臣現役武官制」を復活させたことです。以降、軍の意向に沿わない内閣は、陸軍大臣、海軍大臣のどちらかが辞任さえすれば全て流産させることが出来るようになってしまいました
(参考)「腹切り問答」とは:1937年1月21日に帝国議会において立憲政友会の浜田国松衆議院議員が、2.26事件以降の軍部の政治干渉を痛烈に批判する演説を行いました。これに対して寺内寿一陸相は答弁に立って「軍人に対しましていささか侮蔑されるような如き感じを致す所のお言葉を承りますが」と険しい表情で反駁。これが「腹切り」の話に至るまでの激論に発展しこれが廣田内閣総辞職に繋がってしまった事件

9.西安事件発生(1936年12月12日)
西安事件とは、国民政府の蒋介石が張学良らにより拉致・監禁された事件を指します。ここで、これまで敵として戦っていた毛沢東率いる共産軍との話し合いが行われ、抗日共同戦線(国共合作)が形成されることになりました。この結果、国民政府軍と中共軍が戦っていたエネルギーが全て日本軍に向けられることになり、その後日中戦争が泥沼化する主要な要因の一つになりました

西安事件_東京朝日新聞記事

中共軍のうち、朱徳将軍率いる八路軍(アグネス・スメドレー著『偉大なる道』に詳しく書かれています)は統制が取れ、敢闘精神旺盛な兵士の集団であり、戦った日本軍も苦戦を強いられました。戦時中満州に居た私の父母もパーロ(八路軍のこと)は本当に強かったと言っていたのを思い出します

朱徳将軍(左)と毛沢東主席(右)_抗日記念館で入手した写真集より

10.盧溝橋事件(1937年7月7日)
1937年7月7日夜、豊台(下記写真をクリックすれば場所が分かります)に駐屯する支那駐屯軍の第三大隊・第八中隊が盧溝橋近辺の河原で夜間演習中(この演習については日本軍は7月4日夜、国民政府軍側に通知済みであった)に実弾が撃ち込まれ、兵士が一名行方不明(後日発見された)となり、第三大隊は中国軍が駐屯する宛平県城を攻撃しました。その後、小規模の戦闘はありましたが、9日には事実上の停戦状態となりました。

盧溝橋事件・現場

しかし、日本軍は、抗日共同戦線(国共合作)の形成以降、中国側の抗日の意識が強くなっていることを憂慮し、北京~天津付近にいる邦人保護の目的で内地、朝鮮、満州から計5師団という大量兵力を現地に派遣しました。陸軍内もこの際一気に華北を占領しようとする拡大派と、事態の収束を図ろうとする慎重派に分かれていましたが、結局拡大派が主流を占め「武力膺懲(ようちょう/”懲らしめる”という意味」を加えることに決しました。以降、日中は全面戦争の泥沼に入っていきます

11,通州事件(1937年7月29日)
中国の通州(現北京市通州区)において満州事変の過程で作り上げた日本の傀儡政権である冀東防共自治政府麾下の保安隊(中国人部隊)が、日本軍の通州守備隊・通州特務機関及び日本人居留民を襲撃・殺害した事件
通州守備隊は包囲下に置かれ、通州特務機関は壊滅し、200人以上におよぶ猟奇的な殺害処刑が中国人部隊により行われました
こうした残虐事件の報道を通じて、日本の世論は「武力膺懲」を主張する陸軍の「拡大派」を後押しする結果となりました

通州事件報道_東京日日新聞

12.第二次上海事変(1937年8月13日~11月12日)
当時外国人の租界地阿片戦争後、中国大陸 各地の 条約港 に設けら、行政自治権治外法権を持っていた)であった上海には、日本人居留区を守る目的で、約4千人の海軍陸戦隊が駐屯していました。
1937年8月13日、国民政府軍が日本軍の駐屯基地に対して突然攻撃を開始しました。それまでの国民政府軍と違って、ドイツ軍参謀将校の指導による堅固な陣地(多数のトーチカとそれを結ぶ塹壕で出来ている)からの攻撃であった為、海軍陸戦隊は壊滅的消耗を余儀なくされました

中国国民党軍の銃座

8月15日、蒋介石は全国総動員令を発し7万人の大軍で海軍陸戦隊を攻撃日本軍も横須賀と佐世保の陸戦隊を追加派兵(6千3百人)しましたが、それでも劣勢は変わりませんでした
最終的に日本は陸軍9個師団を投入し、10月10日、国民党軍の陣地攻撃を開始し、2日後には各所で突破に成功しました。10月26日、上海近郊の要衝が陥落し中国国民党の上海攻囲軍は南京へ全面壊走を始めました
日本はこの様な大戦争を想定しておらず兵力の逐次投入を行った為、日本軍は大苦戦を強いられ、日本側兵員の死者は約1万、負傷者3万に達しました

南京城壁_右の川は揚子江
南京城壁_2017年南京訪問時の写真・右の川は揚子江

13,南京攻略戦(1937年12月4日~13日)、及び所謂「南京虐殺」事件
上海から敗走してきた中国国民党軍は、国民政府の首都である南京に集結しました。追走してきた日本軍は周りを取り囲む高い城壁を爆破し、10日間で攻略しました。子に時点で、日本軍の兵力約20万人に対しており、中国国民党軍の兵力約6万5千5百人で戦力の差はかなりありました
南京陥落

南京攻防戦の最中、国民党軍守備隊の司令官・唐生智が敵前逃亡し、中国軍の指揮系統が混乱しました。日本軍陸軍大将・松井石根降伏勧告をしましたが、守備隊は応答しませんでした。そこで「守備隊は降伏しない」と判断し、攻城戦から城内に入って殲滅戦を開始します。
この時松井大将が懸念していたのは、便衣兵と呼ばれる民間人に偽装したゲリラ兵の存在でした。日本軍は彼らにたびたび悩まされていたこともあり、この便衣兵に対する日本軍の厳しい掃討戦が虐殺ではないかともいわれています。中国側は丸腰の民間人であったと主張しているのに対し、日本の南京大虐殺否定派は便衣兵の処刑であるとし、軍事行動としては当然の行為だったと主張しています
松井石根陸軍大将は、この事件の責任を問われB級戦犯(戦争犯罪人)として東京裁判にて死刑判決を受けています

南京大虐殺の真偽?

南京を追われた中国国民党軍は重慶に遷都し、以降、日本軍に対しては「持久戦」に戦略を変更しました

14.ノモンハン事件(1939年5月11日~9月16日)
日ソ両国に多数の戦死者、傷病者を出した国境紛争
。当時、国民の多くには知らされないで闇に葬られ、戦後になって真実が知られるようになりました。
五味川順平、司馬遼太郎、半藤一利、等の書籍により、日本軍が装備に劣り一方的に犠牲を強いられという説が主流になっていましたが、ソ連邦崩壊後に明らかになった機密文書からソ連軍の損害も日本軍と同等かそれ以上であったことが分かっています

ノモンハン事件の戦場

15.ミュンヘン協定(1939年9月29日)
1938年9月、ナチスドイツはチェコスロバキア国内のドイツ人が多く居住するズデーデン地方の割譲を要求しました。当時フランスはチェコと相互援助条約を結んでおり、本来ならチェコを守る義務があったものの、1938年9月30日のミュンヘン会談で宥和政策を取るイギリスのチェンバレン首相、フランスのダラディエ首相ズデーテン地方のドイツ編入を容認しました(「チェンバレンの融和外交」としてイギリス政治の歴史的汚点となっています)。しかしナチスドイツは1939年3月、協定を無視して、予告なしにチェコスロヴァキア本体を軍事占領しました
16.独ソ不可侵条約(1939年8月31日)
その後、半年もたたないうちに世界を驚愕させる独ソ不可侵条約が締結されました。公表された条文は相互不可侵および中立義務のみでしたが、この条約と同時に秘密議定書が締結されていました。これは東ヨーロッパとフィンランドをドイツとソ連の勢力範囲に分け、相互の権益を尊重しつつ、相手国の進出を承認するという内容でした
同年9月1日にナチスドイツがポーランドへの侵攻を開始し、9月17日にはソ連もポーランド侵攻を開始しました。これに対し、イギリスのチェンバレン首相は、9月13日までに侵略を停止しなければ、英仏両国はドイツに宣戦布告する」と演説。ここからヨーロッパにおける第二次世界大戦が始まりました
その後、条約の秘密議定書に沿って、ソ連はバルト諸国併合とフィンランドに対する冬戦争、及びルーマニア領ベッサラビア(現在のモルドバ共和国)の割譲要求が行われました

17.ナチスドイツ破竹の進撃
1940年5月15日オランダは降伏、更にフランスは、難攻不落の要塞と言われたマジノ・ラインを一気に突破されてパリを占拠され、同月17日には無条件降伏しました。一方、イギリス軍は各所でドイツ軍に敗れ、40万人の敗残兵がダンケルクまで撤退し追い詰められましたが、敗残兵の大半は英国漁民の決死の救助活動などによりダンケルクから英国本土に撤退することが出来ました

18.日独伊三国同盟(1940年9月27日)
1937年、共産主義の脅威からの共同防衛を約した日独伊三国防共協定が締結されていました。しかし前年に独ソ不可侵条約が締結された為、共産主義の脅威から日本を守るという目的は果たせなくなっていました。これを敢えて軍事同盟にまで発展させたことは、アジアに植民地を持っている米英との関係が、決定的な対立関係になることを意味していました

日独伊三国同盟

ただ欧州戦線におけるドイツの快進撃により、日本国内の世論は沸き返り、この軍事同盟を歓迎する状況にありました

19.日ソ中立条約(1941年4月13日)
相互に領土の保全および不侵略を約すと共に、締約国の一方が第三国から攻撃された場合は他方は中立を維持することを決めたものです。有効期限は5年で、満期の1年前(1945年4月13日に当たります)に締約国の一方から破棄の通告がなければ、さらに5年間、自動的延長されることになっていました

日ソ中立条約・調印式

日独伊三国同盟とこの日ソ中立条約をセットにして考えてみると、米英にとっては日本の軍事力が南方(米英の植民地がある)に向くというメッセージを与えていた可能性があります

20.独ソ戦(1941年22日~1945年5月8日)
1941年6月22日3時15分、ナチスドイツ軍を中心とする枢軸軍は作戦名「バルバロッサ」の下にソ連に対して奇襲攻撃を開始しました。開戦当初は各戦線でソ連軍が大敗を喫していましたが、ソ連軍の粘り強い戦いで次第に形成が逆転し、最終的に米英ソ連合軍に対して無条件降伏で終結しました。独ソ戦の犠牲者(戦死・戦病死)は、ソ連兵が1470万人、ドイツ兵が390万人であり、民間人の犠牲者を含めると数千万人に上ると言われています
特に、スターリングラード攻防戦(1942年6月28日~1943年2月2日)は、独ソ戦の帰趨を決めた戦いで、スターリングラードの市街地は凄惨を極め、開戦前60万人いた住民が終結時点で約9800人になっていたと言われています。最終的に枢軸軍は包囲され降伏しました

スターリングラード攻防戦

21.太平洋戦争開戦と日本軍が優勢であった時期
1941年12月8日早朝(真珠湾攻撃より1時間50分前)に、当時英領だったマレー半島・コタバル(現在のマレーシア)に上陸を開始、英軍と戦闘を始めました1941年12月8日未明(ワシントン時間、12月7日昼過ぎ)真珠湾攻撃開始。攻撃の30分前に通告する予定でしたが、実際に通告したのは攻撃開始の55分後になってしまいました。結果として日本は 騙し打ちの汚名被る(  Remember Pearl Harbor )ことになり、アメリカにとっては一気に挙国一致体制を固めることが出来ました。一方、アメリカはこの日本の暗号電を盗聴しつつ徹夜で解読作業に取り組み、翌朝にはこれが「宣戦布告」の文書であることは知っていたと言われています

1941年12月10日、マレー沖を航行中の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスからなる英海軍の東洋艦隊を日本海軍の陸上攻撃機機の魚雷攻撃により撃沈させるという戦果を挙げました
1942年2月、イギリス領シンガポールを攻略、同年3月、オランダ領ジャワ島に上陸(石油資源確保パレンバン油田での1年間の産油量は当時の日本の年間石油消費量を上回る)、同年4月アメリカ領のフィリピンを攻撃しバターン半島の米軍は降伏、同年5月、フィリピン・マニラ湾のコレヒドール島を攻略しました。マッカーサーは「I shall return」の言葉を残して撤退しました

下記以降の戦いにおける両軍の主な戦いにおける損害状況詳細については後段の「開戦と終戦をアメリカに発した男_読書メモ」をご覧ください

22.日本軍の敗退の始まり
真珠湾攻撃後、無傷で残った空母軍を中心に米海軍は反攻を開始しました。1942年5月の珊瑚礁海戦では、日本海軍は空母1隻大破、軽空母1隻沈没の損害を被りました。一方、米海軍は空母1隻の沈没に留まりました
1942年6月、ミッドウェー沖で日米両軍の大海戦が行われました。日本海軍の司令官は真珠湾攻撃の司令官であった南雲忠一中将でした。ここで日本海軍は大敗を喫し、その後戦局は悪化を一途を辿ります。国民に対してはこの敗戦は秘匿されました
ガダルカナル島の戦い、1942年8月、ガダルカナル島に米海兵隊1万人余の上陸により戦闘が始まり、これに呼応した帝国海軍と連合軍との第1次~第3次のソロモン海戦によっても戦況を挽回できず、翌1943年2月1日から撤退作戦が行われました。この撤退作戦で日本軍は多くの死傷者を出しましたが戦病死と餓死がその三分の二を占めるという悲惨な戦闘となりましが、国民に対してはこの敗戦も秘匿されました。また、米軍にとってもこの戦闘は大きな犠牲を伴うものでした

23.日本軍の無謀な作戦によって屍の山を築いていった
1941年1月8日、陸軍大臣・東條英機は「戦陣訓」を示達しました(陸訓一号)
この戦陣訓によって、絶望的な状況に置かれた兵士、民間人が死を選んだと言われています

太平洋の玉砕戦_「別冊宝島・大きな地図で読み解く太平洋戦争の全て」より

⑧1942年8月7日~8日、ツラギ島守備隊玉砕
⑨1943年5月12~29日、アッツ島守備隊玉砕
⑩1943年11月20~23日、マキン島守備隊玉砕
⑪1943年11月21日~23日、タワラ島守備隊玉砕
⑫1944年1月30日、ルオット島守備隊玉砕
⑬1944年1月30日~2月6日、クェゼリン島守備隊玉砕

1944年3月8日~7月3日、インパール作戦実施。援蔣ルート(連合軍が蒋介石軍に武器、弾薬、他の援助物資を輸送していたルート)の遮断を目的として、イギリス領インド帝国北東部の都市であるインパール攻略を目指した作戦。日・英・インドそれぞれに大きな犠牲を払う結果(両軍の損害状況の詳細については後段の「開戦と終戦をアメリカに発した男_読書メモ」をご覧ください)になりましたが、特に日本陸軍の膨大な戦死者の半分以上が戦病死であったことは指揮官(牟田口廉也中将)の重大な作戦ミスであったことは間違いないと思われます

インパール作戦

1944年5月27日~8月20日、ビアク島守備隊玉砕

1944年6月19日~20日、マリアナ沖海戦で日本海軍は壊滅的敗北を喫し、空母部隊による戦闘能力を喪失しました。マリアナ諸島の大半はアメリカ軍が占領することとなり、西太平洋の制海権と制空権は完全にアメリカが掌握され、太平洋の島々に展開する日本守備軍は米軍による艦砲射撃、空爆により絶望的な戦いを強いられることになりました

1944年6月15日~7月9日、サイパン島守備隊玉砕。サイパンを基地にすればB29爆撃機により日本本土ほぼ全域が爆撃可能となりました

サイパン島の戦い_朝日新聞

 1944年7月21日~8月10日、グアム島守備隊玉砕
⑲1944年7月24日~8月2日、テニアン島守備隊玉砕
⑳1944年9月15日11月27日、ペリリュー島守備隊玉砕
㉑1944年9月17日~10月19日、アンガワル島守備隊玉砕

㉒1945年2月19日~3月26日、硫黄島守備隊玉砕
米国内では、戦費を調達する為の国債を国民に購入してもらう為に、激戦だった硫黄島の戦いにおける摺鉢山頂上を攻略した時の海兵隊員の写真(下の写真の右側)が使われたそうです(クリント・イーストウッド監督の映画「父親たちの星条旗」より)

硫黄島の戦い

㉓1945年4月6日~6月23日、沖縄戦。沖縄諸島各地(主に本島)での陸上戦菊水作戦(1号~10号)と呼ばれる航空機と艦艇(戦艦大和も参加)による特攻作戦を実行しましました

沖縄戦
戦艦大和の最後

上の写真右側の本は特攻を行う部隊に入り、生き延びた学徒兵出身の作家二人の対談です。島尾敏雄の代表作は「死の棘」、吉田満の代表作は「戦艦大和ノ最期」です

24.無条件降伏への歩み
㉔1945年2月4日~11日、ソ連圏のクリミア半島ヤルタ近郊のリヴァディア宮殿でルーズベルト、チャーチル、スターリンによる連合国首脳会談(通称ヤルタ会談)が行われ、ソ連はドイツ敗戦後90日後に対日参戦すること、及び千島列島・南カラフト・朝鮮半島・台湾などの日本領土の処遇が決定されました
1945年3月10日東京大空襲
㉕1945年4月6日、ソ連のモロトフ外相は、「日ソ中立条約」を延長せずと通告
㉖1945年4月7日、小磯内閣総辞職 ⇒ 鈴木貫太郎内閣成立、阿南惟畿(これちか)陸相、米内光政海相、東郷茂徳外相
1945年5月14日、「最高戦争指導会議」でソ連に和平の仲介を依頼する方針を決定しました
㉗1945年7月10日、「最高戦争指導会議」でソ連に特使(近衛文麿)派遣を決定。しかし、同月18日、ソ連は否定的回答を伝えてきた

㉘1945年7月26日、連合国「ポツダム宣言」を通告。鈴木首相が宣言発行直後に発表した新聞談話で「宣言を黙殺する」と発言してしまった。連合国側はこの黙殺を「拒否」と解釈してしまった。
㉙1945年8月6日、広島に原爆投下
㉚1945年8月8日、ソ連は日本に対して「宣戦布告。満州国国境及びカラフトからソ連軍が進入しました。この突然の侵攻によって、当時満州在住の日本人がどんな悲惨な体験をしたかには、私の以下のブログをご覧ください:母方親族の戦争体験
㉛1945年8月9日、長崎に原爆投下

㉜1945年8月15日、ラジオの玉音放送で天皇から直接、全国民に終戦が伝えられました
㉝1945年8月30日、極東軍司令官ダグラス・マッカーサーが厚木基地に到着。横浜に総司令部(GHQ)を置き日本占領を開始しました
㉞1945年9月21日、横浜沖に停泊していた戦艦ミズーリ号上で「降伏文書」の調印式が行われました

マッカーサーによる占領統治開始
日本の針路を誤らせた幾つかの判断

日本が第一次世界大戦で戦勝国の仲間入りをしてから、第二次世界大戦の敗戦に至るまでの間、多くの政治的・軍事的な判断が行われましたが、結果的に泥沼の日中戦争に突入し、更にその収束の努力を充分に行わないままで、巨大な敵である米英に戦いに挑んでしまいました
今考えてみれば、正に負けるべくして負ける判断を続けてしまった訳ですが、ここではその判断の是非について私見を述べてみたいと思います

A.満州事変の際、熱河省まで進出してしまった判断(1933年2月)
1933年2月、中国の東北三省(遼寧省 、吉林省、黒竜江省)を超えて熱河省まで進出したことにより、東北三省を清国発祥の地であるとして満州国の正統性を主張していた論拠を自ら破る事に繋がり、国民党政府の強い反発を招くとともに、その後の抗日共同戦線が形成、盧溝橋事件の発生などを招くことになりました
また、通州事件が起きた背景も、こうした反発から来たと考えられ、こうした残虐事件が日本国内における「暴支膺懲」の空気を盛り上げ、中国内における陸軍の暴走を許す結果になったと考えられます

B.リットン報告書の採択拒否と国際連盟脱退の判断(1933年3月)
リットン報告書は東北三省の日本の歴史的な権益と、治安の悪化によってこうした権益が脅かされていることを認めていることから、国際連盟総会における報告書の採択反対が受け入れられなかったとしても、連盟脱退によって常任理事国としての地位、その後の中国との紛争解決を提起する場を自ら放棄してしまったのは最悪の判断だったと思います
連盟脱退以降、国民政府による反日国際世論の形成に対して、国際連盟の場を使った反撃を行えなくなり、日本の外交は二国間協議の場しか残されなくなってしまいました

C.海軍軍縮条約最終的に脱退してしまった判断(1935年12月)
第一次世界大戦終結2年後に開催されたワシントン軍縮会議で米国・英国・日本・仏・伊の主力艦保有率を5:5:3:1.67:1.67とするワシントン海軍軍縮条約が締結されました
海軍の艦隊派はこの比率に不満を持ち、第二次ロンドン会議の一年前にワシントン軍縮条約の廃棄を通告し、1936年1月にはロンドン会議からも脱退をしてしまいました

この判断には、ワシントン会議では米英との協調外交を掲げる幣原喜重郎が首席全権大使を務めていたをしたのに対し、ロンドン会議では永野修身海軍大将が首席全権ことが影響しているとは思いますが、この判断は明らかに間違っていると思います
第一に、1929年の世界恐慌によって日本の経済は深刻な打撃を受けており高額な艦艇の建造競争に勝てる経済的な余裕を持っていなかった、第二に満州事変を起こし満州国を建国したばかりであり、中国に多くの権益を持っている米英に、軍事力で対抗するというシグナルを与える可能性が高いことがあり、ここは臥薪嘗胆の精神で米英との艦艇保有比率を守った上で、日本の経済力が許す範囲で航空戦力の増強陸戦能力の向上の為の高性能武器の開発などに注力すべきであったと私は考えます

D.広田内閣における「軍部大臣現役武官制」実施の判断(1936年5月)
この制度により、陸海軍どちらかの反対があれば、内閣が成立しなくなることから、結果として軍部予算や、軍事に関わる政治判断が、軍部の主張を取り入れる形でしか決まらなくなりました。また、この制度と「統帥権干犯」という伝家の宝刀!により、経済や外交で打てる手が限られ、その後の中国に対する軍事行動の歯止めが利かなくなりました

E.日独伊三国同盟締結の判断(1940年9月)
以下の理由によりドイツとの軍事同盟を結ぶ必要性は全くなかったと私は思います
日本とナチスドイツはアジアにおいて共同の軍事行動を取るメリットは全く無いこと
②第二次上海事変において、ナチスドイツ軍参謀将校の指導により攻撃力を強化した国民党政府軍により、日本の海軍陸戦隊は多大な損害を被った為に、大軍を上海に派遣せざるを得なくなり、上海⇒南京⇒重慶⇒、、、と日中戦争の深みにはまりこむ要因を作ったこと
ナチスドイツはミュンヘン協定を一方的に破ってチェコを併合した上で、独ソ不可侵条約(三国同盟の前に締結していた日独伊防共協定は、ソ連の脅威から日本を守る意味があった)を締結し、ソ連との間で東ヨーロッパの分割を行いました。またその後、西ヨーロッパ全域に戦争を拡大していること、など国際協定の信義を守る国で無いことは明白であったこと
ドイツとの軍事同盟の締結は、英国のみならず、英国をバックアップしている米国との緊張関係を生むこと

また上記①~④と併せ、ヒトラーが獄中で書いた「我が闘争」の”民族と人種”の章では、日本人はアーリア人に比べると文化的に低い民族と書いていること(参考:ヒトラー著「我が闘争」第11章・民族と人種)も、同盟国に足るだけの信頼を置ける国ではなかったことも忘れてはならないと思います

F.「戦陣訓」示達の判断(1941年1月8日)
当時、日中戦争が泥沼に陥り死傷者が増加する一方であったこと、また米国との軋轢が酷くなり、近い将来米国との厳しい戦いが始まる可能性があった中で、兵士の戦意向上を狙って示達されたと思われます

1882年、兵の規律を高めるために「軍人勅諭」が示達されています。これを読むと、農村出身者が多くを占める当時の兵士に、武士としての心構えを説く内容になっています。日露戦争時、旅順攻防戦で日本が辛勝した後の乃木希典将軍はステッセリ将軍との紳士的な降伏会談を行ったこと、日本海海戦で日本が大勝したあと捕虜となったロジェストウェンスキー将軍東郷平八郎が見舞い、ロシアの勇敢な戦いを称賛した逸話などは正にこの精神に沿ったものでした;

日露戦争・勝利後の武士道精神

また、第一次大戦終了後の日独戦の捕虜(約5,000人)は、1899年のハーグ陸戦条約の捕虜規定に従って日本各地に設営された収容所において人道的な待遇を受けました。ヴェルサイユ条約締結後、本国送還が行われましたが、約170人の捕虜は日本に残り、収容所で培った技術で生計をたてたと言われています。バームクーヘンでよく知られている「ユーハイム」もその人達の生き残りの会社だそうです。尚、日本人が大好きな年末のベートーヴェン交響曲第9番の演奏は、収容所内でのドイツ人捕虜によるクラッシク音楽の演奏から広まったと言われています。以下の写真は、2014年に私が、鳴門にあるドイツ捕虜収容所記念館を訪れた時に撮影したものです;

第一次大戦時のドイツ人捕虜の取り扱い

一方、戦陣訓」には、こうした武士道精神はかけらも無く、有名な;
生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」、
屍を戦野に曝すは固より軍人の覚悟なり。縦ひ遺骨の還らざることあるも、敢て意とせぎる様予て家人に含め置くべし
などは、戦地に行く兵隊に、刀折れ絵、矢尽きたあとに、ハーグ陸戦条約基づく降伏する道があることを教えなかった事が、戦争後半における無意味な「玉砕」を多発させ、特攻作戦を生み、追い詰められた民間人の集団自決を招いてしまった事は明白です。満州の戦争の最終局面における集団自決(参考:麻山事件を読んで)も同様です。更に、玉砕を英雄的に報道したメディアもその責を負わねばならないと私は思います
また、こうした攻撃を恐れた米軍が、情け容赦のない密集した市街地の焼夷弾爆撃や原子爆弾の投下を決断した事も、作戦を指揮した米軍幹部の証言からも明らかになっています

G.対米英開戦の決断と真珠湾攻撃(1941年12月8日)
日中戦争を継続中であるにも拘わらず、米英に対して開戦を決断した背景には、通商関係の遮断、とりわけ米国が石油の禁輸を行ったことによる焦りがあったものと思われます。石油以外の軍需資源についても以下の通り長期の戦争に耐える水準ではありませんでした

開戦時点の日本の資源保有量_「別冊宝島・大きな地図で読み解く太平洋戦争の全て」より

これは当時の経済官僚が作成したと思われますが、この状況を知った上で、東南アジア諸国の資源を確保する為の戦争と、中国との戦争の継続と、同時に米国との戦争を始めるというのは、補給面から考えて無謀であると言わざるを得ません
その結果が、開戦後半年でミッドウェイ海戦に大敗し、しかも広い西太平洋の島々に戦力を分散配置していた為、各個撃破されて敗戦の道をまっしぐらに歩んでしまいました

日露戦争の時も巨大な相手でしたが、英国という頼りになる同盟国があり、停戦を仲立ちしてくれる米国という国がありました。この戦争では開戦時点でこうした頼りになる同盟国は居ませんでした
敗色濃厚になって日ソ中立条約を頼りにソ連に仲介役を頼んだ訳ですが、日露戦争でロシアが満州に持っていた全権益と南カラフトを取得し、ロシア革命ではシベリア出兵を行い、ノモンハン事件ではソ連軍に大きな損害を与えた国に仲介役を期待するのは非常にバカげていたと私は思います
結局、開戦の時点で残されていた選択肢は、「ハルノート」を受け入れる前提で、できる限り条件交渉をうまく進めること以外になかったと思います

また、真珠湾攻撃をする前に米国への宣戦布告をしなかった事は、極めて大きな判断の誤りだったと言わざるを得ません。ワシントンの日本大使館員の怠慢により宣戦布告が遅れたと言われていますが、真実はどうやら日本海軍が米国太平洋艦隊を極度に恐れていた為に、宣戦布告のタイミングを攻撃開始直前に設定したことが真の原因であると私は思います。でなければ、南雲忠一司令官が、米海軍空母軍の索敵を行って攻撃を行うべきだったにも拘らず、真珠湾攻撃が成功裏に終わると直ぐに反転して帰路についたことでも想像がつきます。正に半年後のミッドウェイ海戦では、この南雲忠一司令官率いる日本海軍の相手がこの米海軍空母軍だったのですから、、、
「宣戦布告」前の奇襲攻撃により、「Remember Pearl Harbor」という合言葉が生まれ、米軍の士気を大いに鼓舞したことは疑いなく、米軍にとっても苛烈な西太平洋の上陸作戦を実行することができたのだと思います

敗戦の経験を現在の政治・軍事情勢に生かす

現在、日本は巨大な軍事大国となった中国と、核戦力を持つに至った北朝鮮とは軍事的に対峙しています。また国境を接する中国と韓国とは、尖閣諸島(中国名「魚釣島」;日本が実効支配している)と竹島(韓国名「独島」;韓国が実効支配している)につい領有権を争っているために、こんなちっぽけな島であっても、常に戦争に発展するリスクがあることを歴史から学ばねばなりません
どんなにちっぽけな島でも、領有することによって国際法で認められている領海(岸から12海里=21.6kmの範囲)と排他的経済水域(岸から200海里=360kmの範囲)の海域を持つ権利があり、領海については軍事上の拠点としての価値があり、排他的経済水域については漁業資源のみならず海底の地下資源に関わる排他的な権利を保有できる価値があります。本件について詳しく知りたい方は、私のブログ:「国連海洋法条約」についてちょっと勉強してみましたをご覧ください
また、尖閣列島に関しては、中国の艦船が太平洋に進出する際の出口を囲んでいる「第一列島線」を構成しており、日中にとって軍事的な意味が非常に大きいと言われています。本件について詳しく知りたい方は、私のブログ:「尖閣諸島問題を考える」をご覧になってみてください。

領有権については国連海洋法条約に基づく仲裁裁判所に判断してもらうことも出来ますが、争っている片方の国が実質的に裁定に従わないこともよくある事です(参考:160712_中国・南シナ海で全面敗訴

こうした状況にある問題について、敗戦の経験を生かすとすれば、以下の様な政治的な対応が求められると私は思います;
尖閣諸島領有問題
習政権になってからの中国は、満州国を建国した当時の大日本帝国に非常によく似た覇権国としての振る舞いが目立つようになっています周辺の国々と国境紛争(インド、ベトナム、フィリピン、インドネシア、台湾)を抱え、国内では民族問題(チベット人、ウィグル人、モンゴル人、朝鮮人)に頭を悩ませ(まるで大日本帝国が行った「五属協和」のような政策も行われていると聞きます)、また開発途上国を中心に中国を支持する国を増やす外交政策は、まるで大日本帝国が行った「大東亜共栄圏」に似ているようにも見えます

この様な中国と対峙するには;
1.軍事的に挑発することは最悪
現在中国では、海警局(日本の海上保安庁/国土交通省の外局)の組織を中国人民軍の指揮下に入れると共に、海警局の船舶を大型化・重武装化を行って(自身が主張する!)領海に侵入してくる船舶を撃沈することも国内法的には可能にしています
昨今、尖閣諸島領域では領海侵犯以外に、漁を行っている日本の漁船を追い回すことも行っており、漁民に被害が出ない様に巡視船が双方の間に入って紛争にならない行動を取ると同時に、外交ルートで「厳重抗議」を行っています。こうした対応はまどろっこしい様に思えますが、この対応は先進諸国や中国との紛争を抱えている国々の支持が得られていることは確かなので、外交的には優位に立っていることは間違いありません。間違っても領海侵犯であるとして攻撃を先に仕掛けてはいけないと思います

Follow_Up:210303_尖閣「危害射撃」政府見解を整理へ・有識者に聞く_中国海警法1カ月・領海侵入、4年半ぶり高水準

<参考>  「日中・海洋法条約で対立
<参考> 「海洋法に関する国際連合条約」の関連条文
第二十五条 沿岸国の保護権
1 沿岸国は、無害でない通航を防止するため、自国の領海内において必要な措置をとることができる
2 沿岸国は、また、船舶が内水に向かって航行している場合又は内水の外にある港湾施設に立ち寄る場合には、その船舶が内水に入るため又は内水の外にある港湾施設に立ち寄るために従うべき条件に違反することを防止するため、必要な措置をとる権利を有する
3 沿岸国は、自国の安全の保護(兵器を用いる訓練を含む。)のため不可欠である場合には、その領海内の特定の水域において、外国船舶の間に法律上又は事実上の差別を設けることなく、外国船舶の無害通航を一時的に停止することができる。このような停止は、適当な方法で公表された後においてのみ、効力を有する
第二十六条 外国船舶に対して課し得る課徴金
1 外国船舶に対しては、領海の通航のみを理由とするいかなる課徴金も課することができない。
2 領海を通航する外国船舶に対しては、当該外国船舶に提供された特定の役務の対価としてのみ、課徴金を課することができる。これらの課徴金は、差別なく課する
第三十条 軍艦による沿岸国の法令の違反
軍艦が領海の通航に係る沿岸国の法令を遵守せず、かつ、その軍艦に対して行われた当該法令の遵守の要請を無視した場合には、当該沿岸国は、その軍艦に対し当該領海から直ちに退去することを要求することができる。

2.日米安保条約を結んでいる米国、及び中国と対峙しているインド、オーストラリア、英国などの国々と強力な連携を行うこと
米国とは日米安保条約の下で尖閣諸島防衛を共同で担う盟約ができています。また、インド、オーストラリア、英国などの国々とは「2プラス2(外務、防衛に関わる2閣僚)の会議」が定期的に行われており、同盟国に準ずる支援が得られる可能性が高い状況が構築されています。先に手出しをする必要は全くありません

3.急襲され、占拠されても再び奪取することが可能な戦力を保持していることを顕示すること
敵の軽はずみな先制攻撃をさせないには、強い反撃能力を常に顕示することが最も有効な方法です。日本は既に①「水陸両用部隊」を設置し、米国との間で共同訓練を行っていること、②離島に敵前上陸する為の戦備の調達(例えば「AAV7」の調達、など」を実施していること、③防空体制の強化(ヘリコプター搭載空母「いずも」のF35B戦闘機搭載可能とする改修、など)を計画していること、などを行っています

最近、とある人からの薦めがあって「邦人奪還」という本を読んでみました;

著者・伊藤祐靖氏は、防衛大学卒で海上自衛隊に入隊した後、能登半島沖不審船(北朝鮮)の事案に遭遇し、海上自衛隊の「特別警備隊」の創設に関わった人です。現在は退官してアドバイザー、執筆活動、などを行っています。
この本では中国に「尖閣諸島」を占拠された想定で人質となった邦人の奪還作戦をリアルに描いています。日本ではありえないことの様に思われていますが、JALの現役社員であった時代にJAL機を含む民間航空機が過激分子にハイジャックされ、乗員・乗客を人質を取られる事件が度々起きました。日本では犯人に譲歩する事しかできませんでした(よど号事件)が、ルフトハンザ航空がハイジャックされたケースでは、ドイツ軍の特殊部隊が突入して人質旅客を救助していました。平時にあってもこうした事態に対処できることを羨ましく思った記憶があります

竹島領有問題
太平洋戦争終結後、韓国の大統領・李承晩が、米軍も認めなかった「李承晩ライン」を設定し、その内側にあった「竹島」を勝手に領有宣言しただけのもので歴史的な根拠は全くありません。詳しくは私のブログ:「日韓関係_その2(「反日種族主義」を読んで)」をご覧になってください。従って;
4.韓国が同意しなくても国連海洋法条約に基づく仲裁裁判所に提訴し、勝訴した後、米国と協調して返還を要求する。解決まで長引く場合は、当面の対策として「漁民の安全操業」を約束させる

北朝鮮問題
北朝鮮が保有している核兵器が日本に向けられる可能性はゼロではありません。しかし、北朝鮮は核ミサイルを発射し、日本か米国の目標に向かっていることが確実になった時点で日米安保条約に基づく強力な反撃を受けることは十分に承知しており、先制攻撃を行う可能性は極めて低いと思われます、従って、
5.北朝鮮に対する軍事的な圧力を強めて自暴自棄になる状況を作らない様にした上で、経済の締め付けを維持しつつ長期戦で自壊を待つのが最善の策

開戦と終戦をアメリカに発した男_読書メモ

著者:福井雄三_東京国際大学教授/国際政治学、日本近現代史
初版:2020年4月13日 ⇒ 2020年6月11日第5刷発行
発行人:松藤竹二郎/元毎日新聞記者;(株)毎日ワンズ・代表取締
発行所:(株)毎日ワンズ

加瀬俊一(としかず);
生年・没年:1903年~2004年
*加瀬家:北総40数ヶ村を支配する豪農;父・加瀬禧逸は弁護士・衆議院議員・中央大学副学長
*俊一・外務省入省までの経歴:府立一中⇒東京商大⇒22歳で外交官試験合格

ワシントン軍縮会議(1921年年11月12日~1922年2月6日):米国・英国・日本・フランス・イタリアの主力艦保有率を米英5、日本3、フランス、イタリア1.67とするワシントン海軍軍縮条約が締結された

1926年、入省後すぐに米国留学(マサチューセッツ州・アマーストカレッジ/新島襄・内村鑑三も卒業生)⇒ハーバート大学・大学院
当時の外務大臣/幣原(しではら)喜重郎(米英との協調外交を主張)、当時の米国大使/松平恒雄(会津藩主・松平容保の子)

1928年外交官補として東郷茂徳主席書記官に仕える。東郷書記官から加瀬は外交官としての基本を徹底的に仕込まれた
(注)東郷茂徳は李氏朝鮮の陶工の末裔(1598年、慶長の役の際、島津義弘によって拉致された16人の陶工の子孫は、代々朝鮮風の氏名を受け継ぎ、苗代川に居住することを薩摩藩から命じられた;詳しくは司馬遼太郎作「故郷忘れじ難く候」参照)。旧制七高(現鹿児島大学)から東京帝大に進み、大学在学中に「朴」姓から「東郷」姓に変えている

*1928年6月4日、張作霖爆殺事件
瀋陽市近郊で、日本の意向に従わなくなった張作霖(奉天軍閥の指導者)が関東軍によって暗殺された事件

1929年東郷重徳が参事官に昇進し。米国からドイツに転任になると同時に加瀬ドイツへの転任辞令が出た。ドイツでは、デビューしたばかりの「マレーネ・デートリッヒ」と交際し、踊り明かしたこともある

1929年10月24日、ニューヨーク市場で株価が大暴落⇒世界的な大恐慌に陥った  この時ドイツは、ワイマール共和制の末期で、退廃と悦楽の文化が絢爛として花開いていると同時に、経済的には第一次世界大戦敗戦後に課せられた巨額の賠償金の為にハイパーインフレに陥り、混乱の極みにあった

1930年1月から第一次ロンドン軍縮会議若槻禮次郎元総理が首席全権)が開催され、加瀬は日本全権団をサポートする為ベルリンからロンドンに派遣された
*一連のテロ:浜口雄幸首相は1930年11月首相在任中に愛国社社員の佐郷屋留雄に銃撃され翌31年8月に死去、井上準之助は1932年2月、血盟団の小沼正により殺害された。1932年3月には三井財閥(企業防衛の目的で行った「円売りドル買い」が非難されていた)指導者の團琢磨が殺害された

1931年9月柳条湖事件発生。瀋陽市近郊の柳条湖付近で、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破した事件。関東軍はこれを中国軍による犯行と発表することで、満州における軍事展開を行った
*1931年9月18日~1933年5月31日)満州事変発生。柳条湖事件をきっかけとして始まった日本と中華民国との間の武力紛争(宣戦布告無しの戦闘)で、関東軍は約6か月で満州全土を占領した。正式には、1933年5月31日の塘沽協定の成立で紛争は終結することになった
*1932年3月 満州国建国
1932年10月、満州国建国に関する「リットン報告書」が発行されたが、意外にも日本の立場に一定の配慮を示していたものの、日本国内では新聞の威勢のいい論説が主流となり国際連盟脱退の世論が形成されていった(⇔世論の右傾化

1932年4月上海天長節爆弾事件発生:上海の虹口公園(現在の魯迅公園)で実行犯・尹奉吉(日本による朝鮮支配を駆逐する目的で設立された韓民国臨時政府のメンバー)による爆弾事件。この爆発で、上海居留民団行政委員会会長の医師河端貞次が即死、第9師団長植田謙吉中将、第3艦隊司令長官野村吉三郎海軍中将、在上海公使重光葵、在上海総領事村井倉松、上海日本人居留民団書記長の友野盛が、それぞれ重傷を負った。重光公使は右脚を失い、野村中将は隻眼となった。白川大将は5月26日に死亡した
1932年5月15日、海軍将校の率いる一団による5・15事件が発生し、犬養毅首相が殺害された

1933年加瀬は外務省本省の情報部に配属された。この時の外相は広田弘毅、次官は重光葵(まもる)。既に外務省一の英語の達人で、ドイツ語もフランス語も話す加瀬は、弘田外相にロシア語以外の通訳は加瀬にまかされることになった。広田外交は日米友好の回復、対ソ関係の調整、満州国の独立を維持しつつ、中国本土には一切干渉しない方針であった

*1933年3月27日、国際連盟脱退
1933年7月神兵隊事件発覚(斎藤実総理を筆頭に全閣僚、及び政友会・民政党の総裁を殺害し、皇族内閣を組織して昭和維新断行を目指していた)ご全員逮捕され有罪となったものの、全員の刑罰が免除された( ⇔ 裁判も右翼・軍部への迎合を行っていた)

1935年12月第二次ロンドン軍縮会議(永野修身海軍大将が首席全権)が開催された。加瀬は外務省随員として参加。日本は、海軍内が既に「艦隊派」に牛耳られていた為、前年の予備会議でワシントン海軍軍縮条約の廃棄を通告し、1936年1月、遂にロンドン会議から脱退(この時の離脱通告文は加瀬が起草した)
加瀬はロンドン会議について日記に「海軍随員は日本の世論に迎合するのに汲々として、国益のために挺身する意欲がなく、外務随員には識見力量をもって海軍を圧倒する人材見当たらず、事務的に消極的助言をするに過ぎず、誠に情けない。他方、各紙特派員は無定見に強硬論を煽るので、日本国民はこれに誤られて、真相を知る由もない・・・・・」と記している

*明治以降、陸軍の伝統的な基本戦略は「対ソ北進」であり、米国との戦争など最初から想定していなかった(⇔ 満州国建国を主導した陸軍中将・石原莞爾による「世界最終戦論」では敵は米国としているが?
1936年2月、陸軍皇道派による2・26事件発生(斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監殺害、鈴木貫太郎侍従長重傷)。この後、広田弘毅を首相とする内閣が発足した

*2・26事件以降、陸軍は「統制派」に牛耳られ、以降皇道派の置き土産であるクーデターの恐怖をちらつかせながら政治家を脅迫した結果、軍による政治への干渉は最早抑えることが出来なくなった
*広田内閣は軍の圧力に屈し、「軍部大臣現役武官制」を復活させた
1936年12月12日、西安事件発生:蒋介石が張学良らにより西安に拉致され、毛沢東率いる共産軍との抗日共同戦線が形成されることになった

1937年1月、弘田弘毅の強力な推薦により加瀬イギリス大使館勤務を命ぜられた。
*1937年6月、国民の期待を一身に集めた近衛文麿内閣(第一次;1937年6月~1939年1月)発足。近衛文麿は五摂家の筆頭であると同時に東京帝大から京都帝大に進み、主席卒業という華麗な経歴を持っていた
近衛文麿の思想の一端:「・・・全世界に植民地を持ちその利益を独占する米英にとって、現状維持は最善かも知れぬが、膨張発展を封じられたドイツにとっては平和原則に反するものだ。国際的な境遇からいえば、日本はドイツと同様に現状打破を求めるのが当然なのに、我が国の論者が英米の宣伝に惑わされて、国際連盟を天啓の様に賛美するのは笑止の沙汰だ。領土が狭く、資源も乏しく、輸出市場も貧弱な日本は、状況次第で生存の必要性に迫られて、ドイツの様に現状打破に打って出る日が来るだろう」

1937年7月7日盧溝橋事件発生。近衛首相も蒋介石も、盧溝橋で放たれた一発の銃弾があれ程の大戦争(日中戦争/支那事変)に発展するとは夢にも思っていなかった(⇔1914年6月28日、オーストリア帝国の皇位継承者フランツ=フェルディナント夫妻が暗殺された「サラエボ事件」が第一次世界大戦のきっかけとなったことを思い出させます
1937年7月29日通州事件発生。中国の通州(現北京市通州区)において日本の傀儡政権である冀東防共自治政府麾下の保安隊(中国人部隊)が、日本軍の通州守備隊・通州特務機関及び日本人居留民を襲撃・殺害した事件。通州守備隊は包囲下に置かれ、通州特務機関は壊滅し、200人以上におよぶ猟奇的な殺害、処刑が中国人部隊により行われた

1937年8月13日、第二次上海事変発生。ドイツ軍参謀将校の指導による堅固な機関銃陣地により、駐留していた海軍陸戦隊約4千名は壊滅的消耗を余儀なくされ、陸軍2個師団及び増援軍により制圧したが、その後、敗走する中国軍を追い南京に攻め入るなど、中国全土への戦争拡大が始まった

加瀬のロンドン赴任は海路で、横浜⇒香港⇒シンガポール⇒ペナン(スエズ運河経由)⇒ナポリ⇒(陸路)ローマ(ムッソリーニと会見)⇒(鉄道)ロンドン到着。当時のロンドン大使は吉田茂

*1938年9月、ヒトラーはチェコのズデーデン地方の割譲を要求。イギリスのチェンバレン首相はヒトラーと会見し、フランスと共にヒトラーの要求に応じることとした。当時、フランスはチェコと相互援助条約を結んでおり、本来ならチェコを守る義務があった
同年9月30日、ムッソリーニの仲介でミュンヘンに集まったチェンバレン、ダラディエ(フランス首相)、ヒトラーの4巨頭は、ヒトラーの要求をほぼ全面的に認めるミュンヘン協定を締結した
当時ハーバード大学の学生だったJ.F.ケネディは、当時のイギリス大使であった父親を訪ねてロンドンに来ることがあり、加瀬とは顔見知りになっていた。ケネディは、ミュンヘン会談が歴史に及ぼした結末に強い衝撃を受け、この会談を卒業論文のテーマにした(タイトル:「何故イギリスは眠っていたのか」;1940年に出版されベストセラーになった)。「平和主義者が戦争を引き起こす」というミュンヘン会談の教訓を骨身に徹して理解していたケネディは、大統領になってから「キューバ危機」で見事にこの教訓を生かした
加瀬は、アメリカ大使館の情報と引き換えという条件でケネディに50ポンド貸してあげたとの逸話が残っている

1938年10月、吉田茂大使は定年(60歳)で辞職。愛国的自由主義をモットーとする吉田は、英米との友好に全力を傾けていたが、彼の努力は実ることが無かった。日本政府は日英関係を改善するためモスクワから重光葵をロンドンに転任させた
重光大使は、「日英米三大海軍国の協調こそが世界平和の基盤である」との信念をもっており、イギリスの政府内にも共鳴者が少なからずいたと云う

チャーチル首相は、日本非難の辛辣な言動を繰り返すので、これがイギリスの世論に少なからぬ影響を与えていた為、加瀬はチャーチルとの会見を画策していた。予て知遇を得ていたイギリス政界の重鎮ロイドジョージの仲介でチャーチルとの会見を実現した時、チャーチルの著作を全て読破していた加瀬は、チャーチルを感激させ、以来すっかり加瀬に心を許し、彼の反日発言は明らかに少なくなったと云う*この頃、陸軍を中心に親・独伊の枢軸派が台頭しつつあり、外務省内にも枢軸派の外交官達が幅を利かすようになる。その代表がドイツ大使の大島浩とイタリア大使の白鳥敏夫であった(二人とも東京裁判で終身禁錮の判決を受けた)。ロンドンの大使館でも加瀬の同僚である牛場信彦などは、毎朝大使館に入ってくる際「ハイルヒトラー」といって手を挙げていたという

*1939年3月、ドイツは当時ヨーロッパ随一の工業国だったチェコを併合した
*1939年8月、独ソ不可侵条約締結。同年9月1日、ドイツ軍はポーランド侵攻開始(ソ連も9月17日にポーランドへの侵攻を開始した)
*チェンバレン首相は議会で、「9月13日までにポーランド侵略を停止しなければ、英仏両国はドイツに宣戦布告する」と演説。宣戦布告はしたものの、ドイツと英仏間の戦闘はこの後7ヶ月間発生しなかった

*1940年4月、ノルウェーを巡って英独間に壮絶な海戦(北岬沖海戦/Battle of North Cape)が発生し、双方に相当の被害が出たものの勝敗の決着はつかなかった
*1940年5月11日、ドイツ軍は突如としてオランダ、ベルギーの国境を突破して電撃的な攻撃を開始。二日後にチェンバレン首相は辞任し、チャーチルが首相に就任した。彼はヒトラーとの戦いを貫徹する決意を述べ、最後に「私が国民に提供できるのは血と苦しみと涙と汗だけである」と述べると、万雷の拍手が沸き起こり、議場は大歓声に包まれた
重光と共に加瀬も議場内の外交団席でこの演説を聞き、二人とも国難に際しても怯むことなく雄々しく立ち向かうイギリス国民の民族性の真髄に触れた思いがしたそうである

*1940年5月15日オランダは降伏、更にフランスは、難攻不落の要塞と言われたマジノ・ラインを一気に突破されパリを占拠された後17日には無条件降伏した
一方、イギリス軍は各所でドイツ軍に敗れ、40万人の敗残兵がダンケルクまで撤退し追い詰められた。しかし、ドイツは何故か突如攻撃を停止したため、40万人の敗残兵は英国漁民の決死の救助活動などによりダンケルクから英国本土に撤退することが出来た。ただ膨大なイギリス軍の装備は全て置き去りにされた
*大陸を制したドイツはイギリスに和平を提案したが、イギリスはジョージ6世のもとに国民が一致団結してこれを拒否した
*海軍力に劣るドイツ(対イギリスで10:1の戦力しかない)は、1940年7月16日、イギリス本土上陸作戦の前哨戦としてイギリスの制空権を獲得する為に空軍力でイギリスを屈服させようとしたため5ヶ月にわたる空の死闘(Battle of Britain)が行われた
ドイツ空軍は総合力でイギリスを圧倒したもののドイツの戦闘機(メッサーシュミット)はイギリスの戦闘機(スピットファイヤー)に航続距離で劣り、爆撃機を充分に護衛することが出来ず苦戦を強いられ、最終的にヒトラーはイギリス上陸作戦を断念した
加瀬は妻子を日本に帰した後、単身で生活していたが、彼が深い感銘を受けたのは、ドイツ軍の苛烈な爆撃で祖国の運命が風前の灯火になりながらも、臆することなく国難に立ち向かっているイギリス国民の強靭な精神力だった。いかなる困難に際しても誇りと平常心を失わず、ゴルフやダンスやハイキングに興じ、休日には散歩や舟遊びも欠かさなかった。早朝のハイドパークでは恒例の乗馬で散策を楽しむ貴族の婦人たちの姿もあった。夜間爆撃の翌日、街を見て歩くと、風景が激変し、焼け跡に焼け焦げた死体が至る所に転がっていることも屡々あった。5年後、東京の空襲の惨害を目の当たりにすることになるのだが、それと比べても、このロンドンの大空襲の方が、はるかに凄惨な地獄図絵として記憶の残ったという
あるとき加瀬が新聞記者数名を伴い、市内の避難所や防空壕を慰問したことがあった。そこで見たのは、ユーモア精神を忘れず、カードやチェスに打ち興じ、楽器の演奏にあわせて歌をうたい、貴族や平民の階級を超えて苦難を分かち合っている市民の素顔だった
更に加瀬を感動させたのは、イギリスの貴族が我も我もと率先して戦場に向かっていく姿だった(Noblesse Oblige/高い身分に伴う道徳上の義務)。イギリス上空で空軍を迎え撃ったパイロット達も名門貴族の子弟が非常に多かった。彼らが撃墜されても撃墜されても、その屍を乗り越えて新手が飛び立っていく。それは気負うでもなくなく、まるでお茶でも飲みに行くように、淡々と自分お義務を果たすのであった

1939年5月11日~9月16日ノモンハン事件発生
1939年7月、日中戦争の拡大に伴い、中国におけるアメリカの 通商権益を妨げているとして日米通商航海条約の破棄を通告(1940年9月発効)

1940年7月第二次近衛内閣(1940年7月~1941年7月)で松岡洋右が外相に就任。松岡からの要請により、同年9月、加瀬は松岡外相の首席秘書官に就任
加瀬の英国転出に伴うイギリスマスコミの反応:加瀬は英米社会についてまれにみる高度な知識と磨き上げられたユーモア精神を持っており、英米に知己が多い。また彼はハーバード大学出身なのに、オックスフォードのアクセントを駆使する。それ故、外交団でも人望を集め尊敬されていた

この時点の国内の情勢:1939年8月の「独ソ不可侵条約」の締結で日独防共協定の意義は根底から覆され、この裏切りで日本外交は混乱し進むべき方向を見失っていた。この時、日本はドイツからフリーハンドを持てる状況にあったものの、ドイツのすさまじい快進撃に日本国内は沸き返りドイツへの不信感はあっという間に消え去り、陸軍内部にドイツとの提携論が高まった。松岡外相のもとには軍人や右翼が連日押し寄せ、日独同盟を迫っていた
何故、ドイツ、イタリアなど枢軸国と歩を共にしたのかを探っていくと、陸軍や右翼が悪いのは確かであるものの、新聞報道に踊らされた国民の熱狂が背景にあることを忘れてはならない
1940年6月大政翼賛会結成

1940年9月、松岡外相のもとで日独伊三国同盟締結
松岡は元々ドイツ嫌いであり、13歳から渡米して苦学しながら9年間滞在し、アメリカを第二の祖国と自認していたほどの知米派であった。従って、その強大な国力も知り尽くしており、「アメリカと戦えば100%負ける」と考えていたと云う。松岡の戦略は日独不可侵条約を締結していたドイツと組めば、三国同盟にソ連を加え四国同盟として、ドイツが大西洋から、ソ連が北から、日本が太平洋からアメリカを圧迫すればアメリカの野望を阻止できると考えていた。従って、「松岡外交が日本を戦争に導いた」という批判は間違いである
帰国に際し、日ソ中立条約をまとめた松岡洋右をマスコミ及び国民は熱狂的に迎えた。松岡はいまや英雄になっていた

1940年9月北部仏印進駐 ⇒ アメリカは鉄屑・石油の輸出制限実施
1940年11月、紀元2600年記念式典
1940年11月、西園寺公望死去。彼は元老(大日本帝国にける、天皇の輔弼の任を担い、内閣総理大臣の奏薦など国家の重要事項に関与する重臣)であり、協調外交派の重鎮で会った
*1941年1月8日、陸軍大臣・東條英機、「戦陣訓」を示達した(陸訓一号)
1941年1月野村吉三郎海軍大将は、フランクリン・ルーズベルト大統領とは旧知の間柄ということが期待されて駐米大使に起用された

1941年3月松岡外相加瀬ヒトラー総統リッペントロップ外相と数回会談し、日ソ友好の仲介を依頼したが、ドイツの対応は冷淡であり、逆にシンガポール攻撃を要請してきた
ベルリンからの帰途、ローマを経由しムッソリーニを表敬訪問した後、モスクワに立ち寄りモロトフ外相と数回に亘る交渉を経て「日ソ中立条約」を調印した。その後、スターリンも交えた祝宴が催された
松岡外相は、モスクワ滞在中にアメリカの駐モスクワ大使を通じて、ルーズベルト大統領との会談を申し入れ、好感触を得ていた(ルーズベルトは日独ソによる同時攻撃を恐れていた)。また、この時、松岡外相の友人でアメリカの新聞王・ハワードヒューズは「大統領は君と会う積りだから大至急アメリカへ来てくれ。特別機を用意しておく」という電報を寄こしていたと云う
(参考):スターリンの身長/163㎝、チャーチルの身長/162㎝、ムッソリーニの身長/160㎝

帰国後の松岡、加瀬を待っていたのは、「日米諒解案」なる民間ベースの交渉来日した米国の神父ウォルシュとドラウトに門司税関長の井川忠雄と陸軍軍人岩畔壕雄(いわくろひでお)が飛びつき、これに野村駐米大使が巻き込まれて行われた非公式の交渉)から出てきた案であり、日本にとってあまりにも都合の良い内容(例えば満州国の承認など)であった
これは、独ソ開戦の情報をキャッチしていたルーズベルトと国務長官コーデル・ハルが、時間を稼ぐための作戦であった。因みに、この日米諒解案と同時にハルはこれと正反対の4原則を野村駐米大使に提示していた。この「ハル4原則」は、日米交渉を打ち切る切り札となった「ハルノート」とほぼ同じ内容であった。外交には全く無知の野村大使(海軍大将)は、このハル4原則を独断で握りつぶし、日本政府には報告しなかった

1941年6月、松岡は、南京政府主席の汪兆銘を歌舞伎座に招待し「修善寺物語」を観ていた時、外務省から電話が入った。内容は「ドイツ軍が国境を越えてソ連軍を攻撃した」ということであった。松岡はその報に接すると直ぐに宮中に参内し、ソ連攻撃を天皇に進言したと云う。この時天皇は同意しなかったと云う
アメリカ国務省もこの時ソ連を討つだろうと予想していた。またチャーチルもその著書の中で、「日本はソ連を攻撃しなかったことによって、第二次大戦の勝者になるチャンスを逃した」と指摘していると云う(私は、チャーチルのこの著書を読んでいないので、確信はありませんが、ネット上には同様な記述がありました

1941年7月2日御前会議で南進の国策を最終決定松岡は「南に向かえば必ず米英との衝突を招くから、あと半年待て」と進言したが受け入れられなかった。ソ連攻撃を行うことによって北樺太サチ油田を確保し石油自給体制を整えると同時に、対ソ戦の為に日本軍は北進する必要があり、日中戦争から脱却する名分が立つというのが松岡の戦略である。しかし、近衛首相は最終的に南進に同意してしまった
1941年7月16日、第二次近衛内閣は総辞職し、第三次近衛内閣では松岡は外相から外された
1941年7月28日、ヴィシー政権下の南部仏印に進駐開始 ⇒ 同年8月、アメリカは日本に対する石油輸出の全面禁止を通告

1941年10月16日、第三次近衛内閣は総辞職し、東条英機内閣が成立、東郷茂徳が外相に就任し加瀬は秘書官(兼北米課長)に就任
加瀬はこれ迄の日米交渉の記録を全て点検したところ、野村吉三郎大使豊田貞次郎前外相(第三次近衛内閣)の海軍出身コンビは、中国からの日本軍撤兵が焦点で、これさえ解決すれば日米は和解できると思い込んでいたことが分かった。しかし、日独伊三国同盟の解消こそアメリカの真の要求だったと云う
アメリカが交渉を引き延ばす中でしびれを切らした陸軍が外務省に「11月末までに日米交渉が妥結しなければ開戦に踏み切る」というタイムリミットを要求してきた。外交交渉にタイムリミットを設けることほど危険なことは無い。まとまる話も締め切り時間に追い詰められ、交渉に余裕を失ってしまうからある

1941年12月8日未明(ワシントン時間、12月7日昼過ぎ)真珠湾攻撃開始。攻撃の30分前に通告する予定でいたが、実際に通告したのは攻撃開始の55分後になってしまった。以下は、その顛末;
12月6日朝、ワシントンの日本大使館に対米覚書を発信し、「明日になってから本国からの覚え書き14部が届き次第、いつでもアメリカに手渡せるよう万全の準備を整えておき、手渡す直前に暗号文書を焼却し、全ての暗号機を破壊すること」と訓令していた。これを読めば、それが対米宣戦布告であることは直感的に分かるはず。その日、対米覚書14部の内13部が全て届き暗号は解読されていた。これを読めば「宣戦布告」であることが分かったはず。しかし、大使館員はそれをほっぽり出したままで、転勤する大使館員の送別会に出かけてしまった。7日の朝7時に14部目が届いたが、大使館員は誰も出勤しておらず、解読が始まったのは10時過ぎ、終わったのは12時30分であった。日本からの訓令で、タイピストを使わずに「宣戦布告」の文書を作成し、午後1時にはアメリカに手渡せとなっていた。結局野村大使がハル国務長官に「宣戦布告」の文書を手渡したのは14時20分となってしまった(既に真珠湾攻撃開始から55分も過ぎていた)
日本からは13時に手渡せと訓令が来ているので、これと同時に攻撃を開始する可能性もあるので、野村大使は文書は無理でも口頭でハル国務長官に伝えることができたはず。結果として日本は 騙し打ちの汚名被ることになり、アメリカにとっては一気に挙国一致体制を固めることが出来た( ⇔ Remember Pearl Harbor
一方、アメリカはこの日本の暗号電を盗聴しつつ徹夜で解読作業に取り組み、翌朝にはこれが「宣戦布告」の文書であることは知っていた

実は開戦10日前の大本営政府連絡会議では、攻撃を始める前に宣戦布告はしないと決めていた(開戦の翌日に宣戦布告する)。しかし、これではやはり「だまし討ち意をしたという汚名を後世に残すことになる」という反論がでたのであろう。開戦4日前になって「宣戦布告は開戦の1時間前」に変わった。ところが、これだと海軍は不安だったのだろう、開戦3日前になって更に「宣戦布告は開戦の30分前」に変更されていた。これは日本海軍が如何にアメリカの太平洋艦隊を恐れていたかの証拠である
この様な海軍の空気が、現地大使館の行動を招いたのではないだろうか。でなければあの緊迫した状況の中で世界一勤勉で時間厳守の日本人が、あのようなミスを犯すことはあり得ないのではないか?(本書の筆者の推測)
真珠湾攻撃(攻撃部隊の司令官:南雲忠一中将)ではPearl Harborに停泊している敵戦艦を撃沈したものの、石油タンクは攻撃せず、破壊した戦闘機も180機に止まった。また、米軍の空母艦隊は無傷のまま残った
加瀬は開戦の詔勅を海外に打電するため英訳を担当した。何度も変更があったが、最後の修正は天皇陛下の「アニ朕ガ志ナランヤ」という文章の挿入であったと云う

*1941年12月8日早朝(真珠湾攻撃より1時間50分前)に、当時英領だったマレー半島・コタバル(現在のマレーシア)に上陸を開始、英軍と戦闘を始めた
1941年12月10日、マレー沖を航行中の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスからなる英海軍の東洋艦隊を日本海軍の陸上攻撃機隊の魚雷攻撃により撃沈
1942年2月、シンガポール(イギリス領)攻略
同年3月、ジャワ島(オランダ領)上陸、同年4月フィリピン(アメリカ領)バターン半島の米軍降伏、同年5月、フィリピン・マニラ湾のコレヒドール島攻略(マッカーサーはI shall return」の言葉を残して撤退)

1942年5月珊瑚礁海戦(日本海軍/空母1隻大破、軽空母1隻沈没;連合軍/空母1隻沈没)
1942年6月ミッドウェー沖海戦(海軍司令官:南雲忠一中将)で大敗
<両軍の損害>
日本海軍:
航空母艦4隻沈没、重巡洋艦1隻沈没、重巡洋艦1隻損傷、駆逐艦1隻損傷、戦死3,057名・内航空機搭乗員110人;
連合軍:航空母艦1隻沈没、駆逐艦1隻沈没、戦死307人・内航空機搭乗員戦死者は172人)。以降日本海軍は敗退を重ねる

1942年8月ガダルカナル島で苦戦に陥ると、軍部は占領地域を確保する為に大東亜省を新たに設けて軍の管轄下に置こうとした。これは外務省からアジア外交の権限を奪うことが目的だったので、東郷外相は断固として反対し、東条首相と全面衝突、同年9月外相を辞任。同時に加瀬も外相秘書官を辞任し、北米課長に専念することとなった
1942年8月、ガダルカナル島の戦い。ガダルカナル島に米海兵隊1万人余の上陸により戦闘が始まり、これに呼応した帝国海軍と連合軍との第1次~第3次のソロモン海戦によっても戦況挽回できず、日本陸軍は同年12月31日の御前会議で撤退が決定され、1943年2月1日から撤退作戦が行われた
<両軍の損害>
日本陸軍死者・行方不明者約2万人強、直接の戦闘での戦死者は約5,000人、残り約15,000名は餓死と戦病死だったと推定されている
米軍:戦死者7,100人、負傷者7,789人以上

1943年2月、スターリングラード攻防戦でドイツ軍降伏

1943年4月、中国大使だった重光葵が外務大臣に任命さ、加瀬は秘書官となった

1943年7月、ムッソリーニ失脚。同年9月イタリア降伏

1943年11月、東京で大東亜会議開催。6ヶ国(日本、満州国、中国、ビルマ、タイ、フィリピン)の代表が集まり大東亜共同宣言が発表された。これは重光が起案し、それを加瀬が重光、大川周明の意見を聞きつつ和英両文を作成した;
共同宣言の五原則:(1)東亜の開放と共存共栄、(2)大東亜各国の独立と親和、(3)文化の高揚、(4)互恵の原則に基づく経済発展、(5)人種差別の撤廃

1944年6月6日、連合軍ノルマンディー上陸作戦実施

1944年3月8日~7月3日インパール作戦実施。援蔣ルート(連合軍が蒋介石軍に武器、弾薬、他の援助物資を輸送していた)の遮断を戦略目的として、イギリス領インド帝国北東部の都市であるインパール攻略を目指した作戦
<両軍の人的損害>
日本軍(3ヶ師団参加):戦死2万6千人、戦病死3万人以上
連合軍(2ヶ軍団参加;英国、インド国民軍):戦死1万7千5百人、戦病死4万7千人(但し第33軍団のみ)
1944年6月19日~20日マリアナ沖海戦で帝国海軍は壊滅的敗北を喫し、空母部隊による戦闘能力を喪失した。マリアナ諸島の大半はアメリカ軍が占領することとなり、西太平洋の制海権と制空権は完全にアメリカが掌握
<両軍の損害>
日本海軍航空母艦3隻沈没、油槽船2隻沈没、航空母艦1隻中破、航空母艦3隻小破、戦艦1隻小破、重巡洋艦1隻小破、艦載機395機喪失、水上機31機喪失、基地航空50機喪失
米国海軍:航空母艦2隻小破、戦艦2隻小破、重巡洋艦2隻小破、艦載機130機喪失

1944年6月15日~7月9日サイパン島の戦いで「玉砕戦」が行われた。サイパンを基地にすればB29爆撃機により日本本土ほぼ全域を爆撃可能となった(⇒1944年秋以降本土爆撃が本格化)
<両軍の損害>
日本陸・海軍:戦死 約3万人(捕虜 921人)、民間人死者8千人~1万人
米軍:戦死 3,441人、戦傷 11,685人

1944年7月21日~8月10日グアム島の戦で「玉砕戦」が行われた
<両軍の損害>
日本陸軍:死者18,500人(捕虜1,250人)
米軍:死者2,124人、負傷者5,676人
(注)日本軍は現地人であるチャモロ人の殆どとなる20,000人を、グアム島南東部マネンガンの収容所を初めとした5か所の収容所に送り込んだ。これが大多数のチャモロ人の命を救う事となった。それでも戦闘に巻き込まれて亡くなったチャモロ人は数千名に上った

1944年7月18日東条内閣総辞職小磯国昭内閣成立、外相は重光葵、加瀬は秘書官
1944年11月24日、東京空襲開始
1945年2月4日~11日、ソ連圏のクリミア半島ヤルタ近郊のリヴァディア宮殿でルーズベルトチャーチルスターリンによる連合国首脳会談(通称ヤルタ会談)が行われ、ドイツ敗戦後90日後のソ連の対日参戦、千島列島・樺太・朝鮮半島・台湾などの日本領土の処遇が決定された
1945年2月19日~3月26日硫黄島の戦いで「玉砕戦」が行われた
<両軍の損害>
日本陸・海軍:戦死17,845~18,375人(捕虜 1,023)
米軍:戦死6,821人、戦傷 19,217人

1945年3月10日東京大空襲。爆撃被災者は約310万人、死者11万5千人以上、負傷者は15万人以上、損害家屋は約85万戸
1945年4月6日ソ連のモロトフ外相は、日ソ中立条約」を延長せずと通告(但し、条約の有効期限は1946年4月13日)
1945年4月7日、小磯内閣総辞職 ⇒ 鈴木貫太郎内閣成立、阿南惟畿(これちか)陸相、米内光政海相、東郷茂徳外相、加瀬は秘書官

1945年5月14日、「最高戦争指導会議」でソ連に和平の仲介を依頼する方針が決定された

1945年4月6日~6月23日沖縄戦。沖縄諸島各地(主に本島)での陸上戦と菊水1号~10号作戦と呼ばれる航空機と艦艇による特攻作戦を実行した
<両軍の損害>
日本軍:戦死者約8万人(捕虜約1万人)、沖縄県民の死者・行方不明者:12万2千人(内民間人死者約9万4千人;物的損害:戦艦1隻(戦艦大和)沈没、軽巡洋艦1隻沈没、駆逐艦5隻沈没、戦闘機1,895機喪失、その他航空機1,112機喪失、戦車27輌大破
米英連合軍:戦死者:約2万人、戦傷者約5万5千人、戦闘外傷病者約2万6千人;物的損害:駆逐艦16隻沈没、その他艦艇20隻沈没、空母5隻(英軍)損傷、艦艇368隻損傷、航空機886機喪失、戦車272輌大破
(注)沖縄への特攻作戦は、効果の無い作戦だったとする意見がある、その根拠となっているのは米軍が公表した「特攻機の命中率2%」という数字を基にしている。実際は日本軍の特攻に米軍兵士はパニックになり、戦争の続行が危ぶまれる程だった。また、命中率は特攻が始まった時点で27%、末期においては13%で平均20%を超えていた。陸海軍併せて5千8百人の特攻に対して、連合軍の犠牲はそれより多かったと言われている(←連合軍の艦艇の沈没、損傷が多いことがその損害の大きさを物語っている)

1945年6月東郷茂徳外相から木戸幸一内大臣宛に一通の意見書(厳秘・時局収拾に関する意見書)が手渡された。この意見書は外務省の総意をまとめた、執筆者の名前はないものの加瀬が執筆したと云う。内容はこのまま戦争を遂行すれば日本が壊滅するので、現時点で終戦を希望するならば無条件降伏であっても甘受すべきであるということであった
天皇は、この意見書を読んだ翌日、御前会議で「戦争の終結については、この際従来の観念に囚われることなく、速やかに具体的研究を行い、これを実現して欲しい」と発言した
1945年7月7日天皇鈴木首相を呼んで「いたずらに時間が経過して機を失するのはよくない。この際私の親書を特使に持たせてソ連に派遣するように」と命じた

1945年7月10日、「最高戦争指導会議」でソ連に特使(近衛文麿)派遣を決定。しかし、同月18日、ソ連は否定的回答を伝えてきた

1945年7月26日、連合国、「ポツダム宣言」発行
鈴木首相が宣言発行直後に発表した新聞談話で「宣言を黙殺する」と発言してしまった。連合国側はこの黙殺を「拒否」と解釈してしまった
1945年8月6日広島に原爆投下死者約8万9千人崎に原爆投下
1945年8月8日ソ連は日本に対して宣戦布告。満州国国境及び樺太からソ連軍が進入
1945年8月9日長崎に原爆投下死者約7万4千人

1945年8月10日、御前会議で「ポツダム宣言受諾」を決定
御前会議では、ポツダム宣言の即時受諾を主張する東郷外相米内海相平沼枢密院議長と本土決戦も辞さないとする阿南陸相梅津参謀総長豊田軍令部総長とで意見が対立し結論が出せなかった。その時突然、鈴木総理が立ち上がり「現在の状況は寸刻を争う、陛下の思し召しをもって会議の決定にしたい」と発言
天皇はおもむろに口を開き「私は東郷外相の意見に同意する。このまま戦争を継続すれば日本は破滅するであろう。軍部の過去の発言は信用できず、計画と結果が食い違っていたことがしばしばあった。ここに出席している者の気持ちは十分に察するが、耐えがたきを耐え、ポツダム宣言を受諾し、戦争を終わらせざるを得ない。国民のために平和が回復されるならば皇室はどうなってもかまわない」と言った。正に間一髪のこところで本土決戦は回避された

御前会議の結果を閣議で採択されたことを受けて、加瀬は直ちに外務省に出向き、ポツダム宣言受諾の伝聞を作成し、中立国のベルン(スイス)とストックホルム(スウェーデン)の日本公使館に打電した。この電文に付けられた唯一の条件は「天皇の国家統治の大権を変更しない、という諒解のもとに受諾する」ということであった
ところが、8月12日のサンフランシスコ放送、及び13日に届いた連合国の正式回答は「天皇の地位は日本国民の自由な意思によって決定されるものとする」となっていた
翌13日の最高戦争指導会議では、再び意見が二つに割れ、侃々諤々の議論に費やされた

1945年8月14日、再び御前会議が開催され、天皇は受諾に反対する者たちの意見をじっと聞き、全ての論議が尽きると、天皇は次のように語った「私が4日前にポツダム宣言を受け入れることに同意したのは、内外の事情をよく考えた上でのことである。反対の意見はよく聞いたが、私は前の考えを変える必要は無いと思う。戦争をこれ以上継続することは不可能である。国体維持について疑問を抱く者もあるようだが、これは国民の信念と覚悟の問題である。連合国側の回答はこの点、概ね好意的であると思われる。将兵たちにとって武装解除や占領は耐え難いことであろう。しかし私は国民を眼前に迫る破局から救いたい。そのため私はどうなってもかまわない。私としてできることがあればなんでも厭わずに進んで行う積りである

天皇自身、時々感極まって言葉が詰まり、白い手袋をはめた手で両頬に流れる涙をぬぐった。これを聞きながらその場にいた24名の出席者で涙を流さぬ者はいなかった。77年間続いた大日本帝国が終焉した瞬間だった。同日午後1時から閣議が開かれ、詔勅案が可決された

同日深夜、近衛師団の内部で反乱が起き、畑中健二少佐をリーダーとする4名が、森赳(たけし)近衛第一師団長を惨殺して師団長命令を偽造し、皇居に乱入して玉音版を奪おうとしたが果たさず田中静壱(しずかいち)東部軍管区司令官により鎮圧され、4名は自決した
1945年8月15日、ラジオの玉音放送で天皇から直接、全国民に終戦が伝えられた(参考) 著者/半藤一利、編者/大宅壮一、文芸春秋社版「日本のいちばん長い日_運命の八月十五日」に詳しく描かれている 

1945年8月15日鈴木貫太郎内閣は総辞職 ⇒ 東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)が内閣を組織。外相は重光葵加瀬は秘書官留任
1945年8月30日、極東軍司令官ダグラス・マッカーサーが厚木基地に到着。横浜に総司令部(GHQ)を置き日本占領を開始した。彼が日本占領の最高司令官に任命された理由は、彼がアメリカ陸軍きっての日本通だったからである。彼が緒戦のフィリピン戦で日本軍に敗れ、部下を置き去りにして脱出したとき、マニラホテルの居室には膨大な日本関連の書籍が残されていたと云う
(参考)父のアーサー・マッカーサー中将も極東米軍総司令官で、日露戦争時、観戦武官として旅順攻防戦の日本軍司令部に招かれている。この時、父と同行したダグラス・マッカーサーは(25歳)は、東郷元帥や乃木大将から直接話を聞き、その人柄に深く感銘したと云う。占領下で首相を務めた吉田茂は「親子2代にわたるこのような日本通が日本占領の最高責任者になったのは、日本にとって大きな幸運だったというべきだろう」と述べている

1945年9月21日、横浜沖に停泊していた戦艦ミズーリ号上で「降伏文書」の調印式が行われた。日本側使節団の全権は重光外相、副全権は梅津美次郎陸運参謀総長、この他に陸軍・海軍・外務からそれぞれ3名の合計11名(加瀬もその中に加えられた
日本の使節団は、早朝5時横浜港に向かった。ミズーリ号に乗り移る際、義足の重光はタラップを上るのに苦労したが、ステッキを頼りに何とか登り切った。上甲板は黒山の人彼で立錐の余地も無く、マスト、砲塔、煙突の上にも米軍兵士がびっしりと鈴なりになっていた。この数千人の兵士たちの凝視が矢となって自分に突き刺さるのを、加瀬は歯を食いしばって耐えた

そこにマッカーサーが現れ、演説を始めた。その要旨は次の通り;「ここに交戦国の代表が集まり、平和の為の協定を締結しようとしている。相対立する思想・理念   の衝突は戦場での戦いで決着がついた。我々は悪意や憎悪に満ちて個々に集まったのではない。むしろ勝者であると敗者であるとを問わず、人類のより高い威厳に到達することを祈るものである。過去の流血と殺戮の中から、信頼と了解の上に立つ世界、自由・寛容・正義の実相を志す世界が出現することを期待する。私は連合国最高司令官として正義と寛容をもって責任を果たす決意である
マッカーサーの演説が3分ほどで終わると、降伏文書に署名が行われた。上空には400機のB29、1500機の艦載機が飛行した

1945年9月17日重光は外相を辞任し、吉田茂が後任の外相となった
1945年10月、東久邇内閣は総辞職し、幣原喜三郎内閣が成立。吉田はそのまま外相留任
1946年5月
、幣原内閣総辞職 ⇒ 第一次吉田内閣成立、吉田茂は外務大臣兼務。加瀬は内閣情報局第三部長としてGHQや内外のマスコミの対応に忙殺された。同年12月内閣情報局が廃止され、更に外務省広報部長の職も解かれた。以後、加瀬は文筆家としての道を歩むことになった

以上

秋冬野菜の現況

11月末から12月初めにかけての屋上菜園の全体像は見出しの写真の通りです

今年はコロナ禍に明け暮れる一年でしたが、例年に比べ、びっしりと野菜に埋まっているのは、7月発行のブログ(コロナ禍と家庭菜園)と8月発行のブログ(私の巣篭もり生活!)でご紹介した通り、時間が有り余っている!為に、あれもやりたい、これもやりたいと考え、結構多種類の野菜を栽培したことにあります。因みに、見出しの写真の状態で、大型のコンテナ35ヶ、中型のコンテナ7ヶ、小型のコンテナ52ヶを使って野菜を栽培しています

一方、今年の8月から11月にかけての天気は異常といってもおかしくない状態でした。以下は拙宅の隣の街である所沢市の気温と雨量の推移(気象庁提供のデータ)です;

8月~11月・所沢の気温と雨量の推移(雨量の棒グラフ:青/1日当たり、赤/1時間当たり)

この気温と雨量の推移をみると、9月上旬までは屋上での肉体作業は老骨には無理な状態!でした(せいぜい水遣りをする程度の世話)また9月上旬の雨は短時間でドッと大雨が降る例年とは違った(通常の時雨はシトシトと長時間降る雨)降り方でした

この時期は、大型コンテナを使って育てている大型夏野菜(トマト、キューり、ナス、など)を刈り取り、それらのコンテナの土の再生を行うと同時に、秋・冬の大型野菜(キャベツ、白菜、大根)の種を蒔かなければならない時期ですが、結局キャベツ、白菜は苗を育てることが出来ず止むなく苗を購入して間に合わせました。大根の栽培はやや種蒔き時期が遅れ、12月からの収穫には不安が残ります。他の葉物野菜についても蒔き時期は遅れましたが、霜が降りる前に透明ゴミ袋!の保温処置をすることで相応の収穫量は確保できると思っています
以下は、現在の栽培状況です

現在栽培中の野菜生育状況

1.大型野菜(大型コンテナを使用)
キャベツ(角型の大型コンテナで1コンテナ当たり1株栽培):10株栽培
*甘くて美味しい冬のキャベツは、何の料理にでも使えます。秋・冬の栽培は農薬を全く使わなくても食害は受けないのは嬉しい限りです

キャベツ

白菜(角型の大型コンテナで1コンテナ当たり1株栽培):13株栽培
*冬の白菜は、漬物、鍋の具材など需要が極めて大きい野菜です

白菜

大型大根3種青首大根、おでん大根、いいずな青大根;丸形の大型コンテナで1コンテナ当たり3株栽培合計30本
*通常の利用方法のほか、冬場はおでんの具材など需要が拡大します。いいずな青大根は初めての栽培ですが、漬物が適しているように思います

大型大根3種

小型大根3種おいばね大根、ねずみ辛味大根、日野菜カブ;角型の中型コンテナで1コンテナ当たり6株栽培)合計30本
*大型大根に比べ栽培期間が短いので重宝しています。ねずみ辛味大根は勿論!天ぷらや蕎麦とともに大根おろしにして楽しみます。日野菜カブは初めての栽培ですが、ネットのレシピなどを見ると漬物に適している様です

小型大根3種

⑤野沢菜(角型の中型コンテナで1コンテナ当たり6株栽培)合計12株
*野沢菜は一昨年以来栽培し葉は野沢菜漬け、根のカブは粕漬で楽しんでいますが、野沢菜漬けの方はいまいち長野県の地元の味にはなっていないので、今年はもう少し研究してしてみたいと思っています
葉が食害を受けていますが、これはモンシロチョウの青虫のせいです。毎日見つけ次第この青虫を虐殺!していますが追い付きません。ただ不思議なのは、直ぐ近くに美味しそうな?白菜やキャベツ、大根を栽培していますが、こちらの方は全く食害を受けていません!青虫といえども好みにうるさいのでしょうか?

野沢菜

2.小型葉物野菜(角型の中型又は小型コンテナを使用)
レタス(19株)とサニーレタス(10株
*レタスは株単位で収穫しますが、サニーレタスは必要なだけ葉を千切って収穫するので長期間収穫でき、株の数は少なくて済みます
尚、レタスは生野菜で食べる人が多いようですが、拙宅では鍋や炒めものの具材としても重宝しています

レタスとサニー・レタス

②ホーレン草(小型コンテナ4ヶ)とニラ(小型コンテナ5ヶ)
*ホーレン草は、霜が降りる頃から甘くなるので、収穫は1月以降か、、、ニラは餃子やレバニラ炒めの需要があるので常備野菜です

ホーレン草・ニラ

③水菜(小型コンテナ3ヶ)
*水菜は一年中栽培しています。冬場の水菜はちょっと固くなりますが、兎に角低温にも強い重宝な野菜です。下の写真のものは11月以降収穫を続けています。サラダ、はりはり鍋の具材、漬物などで利用します

水菜

④その他の葉物野菜(小型コンテナ各1~2ヶ)
*以下の野菜の収穫は1月以降になると思います。高菜、からし菜、ワサビ菜は漬物も美味しいです。
*カブは漬物が定番ですが、朝採りしたものを薄くスライスすれば生野菜サラダの具材としても美味しく食べられます!
*春菊は11月から収穫中。アスパラ菜は初めての栽培、どんな味がするか楽しみです。セロリは昨年栽培して冬の生野菜サラダの具材として重宝しましたが、今年は種を蒔くのを忘れ諦めていましたが、売れ残りの苗を見つけ格安で購入しました

小松菜・高菜・からし菜・ワサビ菜
カブ(赤・白2種)
春菊・アスパラ菜・セロリ

⑤ニンジン(大型コンテナ1ヶ)とケール2種(大型コンテナ各1ヶ)
*ニンジンは成長する度に「間引き」していきますが、これも生野菜サラダの具材として活用します
*ケールは初めての栽培です。青汁の材料として有名ですが、私は生野菜サラダの具材として活用する予定です

人参・ケール

3.来年初春以降に収穫する野菜
①長ネギ(小型コンテナ10ヶ;苗の余りを植えた小コンテナ1ヶ)100本
*8月末には種を蒔いたのですが、冒頭に書いた理由で植え替え時期が相当遅れた為に、残念ながら今年の冬の収穫は無理の様で、来年初春からの収穫となりそうです。夏から栽培している葉ネギの収穫はできますが、拙宅は一年中ネギの消費が異常に?多いので、近所の八百屋から泥ねぎの購入をせねばならない羽目になりました

長ネギ

②タマネギ2種紫色の生食用タマネギ、保存用黄色タマネギ;大型コンテは各3ヶ;苗の余りを植えた小型コンテナ4ヶ)合計60個
*昨年と同じ栽培数で、5月頃に収穫し9月頃迄自給できる予定です。余った苗は3月からペコロスとして利用可能です

タマネギ2種

4.その他
①トウガラシ3種鷹の爪、辛長キング、沖縄シマ唐辛子
*6月ころから収穫を始め、未だに収穫中です。今年は沖縄シマ唐辛子を初めて栽培しましたが、花が咲くの遅く、樹勢の割には実が小さく収穫量も少ないようです。ただ辛味は相当なものです!

唐辛子3種

②ハーブ類
*例年通り冬は室内に取り込み、いつもフレッシュ・ハーブが使えるようにしています

ハーブ類の出窓栽培

以上

 

Digital Transformation(DX)

はじめに

2020年9月16日に発足した菅内閣の目玉政策の一つは「デジタル庁」の新設でした。上表(国連電子政府ランキング)をご覧になれば分かる通り、日本の政府のデジタル化の進度は、今年度は14位、10年前と比べても殆ど順位は変わっていません。国内総生産の規模が世界第三位であり、一般的な国民の認識としても日本は「先進国であるはずなのにこれはどうしたことか? 」ではないでしょうか

しかし、こうした認識は以下の図表をみれば幻想であったことが分かります;

名目GDP・対1990年比較
IMD世界デジタル競争力ランキング.

IMD(International Institute for Management Development)とは:スイスにある国際経営開発研究所のことで、63カ国・地域を対象にデジタル技術の利・活用能力を、以下の3点から評価しています(今回は4回目の評価)
(1)知識:デジタル技術の習得やそれを支えるインフラ整備状況
(2)技術:デジタル技術の進展
(3)将来への準備度合い:デジタル変革に対する社会の受容性

6月に発行した私のブログ(COVID-19と日本の近未来)の中のパラダイムシフト_IT化の加速の項でその概略を述べましたが、どうやら今回こそは政府も本気で取り組むようで、数年以内に先進国?日本にも所謂 “Digital Transformation(以下”DX”と表現)” が起こりそうな気配です
Digital Transformationとは:情報技術の普及・浸透による「社会のデジタル化」がもたらす組織や社会の変革を指す言葉

世界に伍して戦っている日本の民間企業は、自身で完結できるビジネス・プロセスについては世界水準のデジタル化を実現すべく最大限の努力をしていることは間違いないと思います。
従って、ここでは菅総理の意気込みに合わせ、政府が真剣に取り組むと約束した行政全般のデジタル化、特に「日本の法律が及ぶ部分の民間企業のビジネス・プロセス」、「国民と行政組織、国民と民間企業の接点の部分のプロセス」のデジタル化に焦点を当て、デジタルとは程遠い「紙によるコミュニケーション(FAXを含む)」、「ハンコによる個人認証」、など業務の効率化、スピーディな情報交換の隘路になっているビジネスプロセスに焦点を当て、現在メディアやネットに溢れるDX関連情報を集約しつつ、一部私自身の考え方も加えて(青字で表示)纏めてみました

DXに関わるキーワードのについて

1.”はんこ” とは
DXに関わるニュースには頻繁に「ハンコ行政」とか民間のビジネスでもリモートワークを始めたものの、「ハンコを押す為だけに出社する」、、、などの言葉が氾濫しています。果たして”ハンコ”とは一体何者か?

A.”はんこ”に関わる幾つかの用語の意味;
①「はんこ」=「印章」:押印する道具そのもの(以下「印章」と表現します
②「印鑑」=「陰影」:「印章」を押印した時に紙の上に残る印の形(以下「印鑑」と表現します
③「実印」:市町村の役所に登録・保存された「印鑑
印鑑登録をすると印鑑登録証(カード)が役所から交付され、このカードがあれば役所の窓口で「印鑑登録証明書」が発行されます。これと実印を押印した書類がセットになって本人の同意の下で作成された書類ということになります
④「銀行印」:銀行に登録する印鑑で、本人と銀行との取引関係においてのみ、登録された印鑑が本人確認の重要な手段となっています。ただ、最近は銀行印の替わりに本人のサインや、指紋などを使うことも認めている銀行も多くなりました
⑤「認印」:実印以外で、書かれた内容に関して、内容が正しいことを本人自身が認めている “証(あかし)”として用いられます。法的な責任を問われる可能性もあります
また、企業間の日常取引に於いて作成される文書(請求書、納品書、領収書、など)に実印が用いられることは少なく、個人間取引の認印に相当する「角印」(四角い印章)が用いられることが多い様です

ハンコの歴史
最初にハンコの原型といえる円筒印章を発明したのは、紀元前3千年以上前のシュメール人だったそうです。ハンコ文化はその後世界に広がり、日本は遣隋使を通じて中国からこの文化を取り入れました
明治時代、既に欧米先進国で署名による本人認証が一般的になっていたことがあり、1870年代に太政官令により一旦は証書に署名と実印の両方が必要と定めました。法案を作った司法省は偽造しにくい署名を普及させたかったものの、当時は字の書けない人が多いため、すぐにハンコをやめて署名に切り替えるのではなく両者を併存させて署名に習熟させる趣旨だったようです。しかし、大量の文書にハンコを押す実務に慣れていた大蔵省と銀行はこの法案に大反対し、結局ハンコさえ押してあればよいという趣旨の法律が1900年に帝国議会を通過しこの法律が現在の会社法に引き継がれ、日本のハンコ万能主義の法的根拠となっています(2020年10月24日日経記事より)

日本では、ハンコ以外に平安時代中期から使用され始めた花押(かおう)というものがあります。署名の代わりに用いられる記号または符号ですが、以下の様に歴史上の有名人がそれぞれ特徴のある花押を使っていました。歴史上の署名入り文書の真偽を判定する際に今でも役立っていると思います

歴史上の人物の花押_ネット情報

B.「印鑑」が必要となる各種の行為
極めて厳格な本人確認を要する行為;
実印
①不動産取引を行う場合
②車の所有者の名義変更(移転登録申請)を行う場合
③不動産などを担保に金融機関から融資を受ける場合
④役場での公正証書を作成する場合
⑤金銭その他貸借証書・契約書を作成する場合
*金銭の貸借関係で軽率に連帯保証人(実印を押印する)になった為に大損害を被った人は少なくありません
⑥生命保険・自動車保険などの各種保険に加入する場合
⑦会社設立する際の公証人役場で定款認証を受ける場合
⑧遺産相続を行う場合

銀行印
⑨銀行(含む郵貯)口座を開設する場合
*海外との不正な金融取引や不正な手段で入手した現金のマネーロンダリング、脱税の為の秘密口座の開設(伊丹十三監督の映画「マルサの女」で沢山の銀行印を持たされていた内縁の女の映像が思い出されます!)などを防ぐ為に、最近口座開設に関わる本人確認が厳しくなっています

認印
⑩市町村の役所で、各種の申請書を提出する時に認印の押印が要求されています。(但し、請求者の代理で窓口に来た人は押印の替わりに署名でも認められるようです。参考:戸籍証明書等交付申請書_新座市
⑪役所や企業などの組織では、組織内で分担している複数の権限者の意思決定を表示する為に押印に関する規程を作り、押印できる権限者を限定しています。これは組織内でのルールに過ぎませんが、これらの組織で犯罪が発生した場合には責任者を特定するために使われる可能性も考えられます
⑫書留等の重要郵便物の受け取り、宅配業者の荷物の受け取り、などで押印が要求されことも多い(配達員の不正、例えば配達物の廃棄、窃盗、などを予防するためと考えられます)のですが、最近は押印の替わりに署名も認められるようです。尚、宅配業者によっては「置配(おきはい)」をした場合、確かに置配した証拠にスマホで写真を撮って保存することも行われるようになりました

Follow_Up:2021年1月19日(押印99%廃止 河野規制改革相「霞が関もやればできる」

2.”電子署名”、”電子証明書” とは
各種の重要事項の申請を行う時に、行政部門が要求していることは;
申請者が本人であることの確認(代理人が申請する場合は本人からの委任の証拠となる押印を要求している)
②申請書内に書かれている文言が改ざんされたものでは無いことの保証
③申請書内に書かれている文言の作成された年・月・日
が重要な要素となります
①に関しては申請書に実印の押印印鑑登録証の提出を義務付けており、②、③に関しては、受け付けた原本(実印の押印、及び申請書を受け付けた年月日が記載されている)を保存することにより申請内容の適確性を行政部門が保証していることになります

こうしたプロセスをネット経由で行うこととすれば、実印が押印された書類は単なるデジタル・データ(Digital Data)となり、申請書内の実印も書かれた文言も第三者が簡単に改ざんすることが可能であり、行政部門が申請内容の適確性を保証できなくなります。このデジタル・データをネット経由でも改ざん不可能にする仕組みが「電子署名、「電子証明書です
この仕組みは、民間企業同士(特に先進国同士)の取引では既に導入済みであり法制化も完了しています(電子署名及び認証業務に関する法律)。これと同じ仕組みを「日本の法律が及ぶ部分の民間企業のビジネス・プロセス」、「国民と行政組織、国民と民間企業の接点の部分のプロセス」に組み込むことは法規類(法律、政令、省令、条例など)の改正を行うことにより可能になります
因みに、欧米では20世紀末から21世紀にかけて登場した電子商取引にも素早い対応が進み、インターネットによって様々な商品の流通や契約が行われるようになり、こうしたことを電子的に処理する技術も確立しています

電子署名電子証明書の仕組み
電子署名とは:インターネット上のハンコ、あるいは署名のようなものであり、電子文書に添付することで、その電子文書が本人同意の下で作成されたことを証明するものです
電子証明書とは:インターネット上の印鑑証明書の様なものであり、デジタル文書の作成者が本人であることを確認することによって文書の適確性を第三者(役所ではなく、行政当局が認証した機関)が証明するものです
以下は「電子認証局会議(詳しくは設立趣意書参照)」の資料を抜粋したものです;

電子署名の仕組み

ハッシュ値とは:元になるデータから一定の計算手順により求められた固定長の値。その性質から暗号や認証、データ構造などに応用されています。詳しく知りたい方は「ハッシュ値とは」をご覧ください

 電子証明書検証の仕組み

3.”マイナンバーカード”とは
私のブログ(COVID-19と日本の近未来)でも紹介している様に、政府の管理のもとに国民一人ひとりに12桁の番号(⇔マイナンバー)を割り当て、2016年から運用開始されている以下の様なIC カードです

このカードには
うら面】: ICチップ(金色の部分)が組み込まれており、ここには  ①氏名、②住所、③生年月日、④性別、⑤電子証明書の有効期限、⑥セキュリティコード、などの基本情報がデジタルデータで収納されています
おもて面】: ⑦自身の写真(⇔身分証明書としても使えるように)、⑧住所、⑨生年月日の表記のほか、サインパネル領域に券面の情報に修正が生じた場合、その新しい情報を記載できるようになっています。また ⑩臓器提供意思表示欄 も設けられています

これまで日本が行ってきたデジタル化の足跡

1.文字情報基盤整備事業
*日本は、アルファベットを使う欧米先進国と違って、膨大な数の漢字とひらがな、カタカナを使って名前、文書が表現されています。これらの文字を全て登録してデジタル化を進めることは、デジタル化したものを分類、検索する必要性を考えると現実的ではありません(これまでは、登録されていない文字を使う場合、その都度文字フォント作成する必要がありました)
そこで、2010年から IPA(独立行政法人情報処理推進機構)国際標準推進センターが中心となり、一般社団法人 情報処理学会 情報規格調査会SC2専門委員会と連携し、漢字約6万文字の国際規格化の為の準備を進めてきました。2017年12月22日、この作業が完了しISO/IEC 10646 (Universal Coded Character Set) 第5版」が発表されました。これにより、行政の実務で求められる人名や地名等の正確な表記を、このISOで規格化された約6万字の文字のみを使い表現できるようになりました
<参考>
1871年(明治4年)戸籍法が出来てから戸籍に登録された日本人の名前は手書きであり、多くの種類の崩し字がそのまま戸籍名となりました。戸籍謄本や不動産登記簿謄本などの数多くの公文書が手書きのままで残されることになりました
戸籍上の名前に関わる私自身の経験ですが、ある時必要があって私の戸籍謄本を取り寄せてみたところ、私の名前(荒井)の「荒」が昔懐かしい!崩し字ではなくなっていました。確かに崩し字をそのままにして戸籍上の名前をコンピューターに登録することは難しいとは知っていました(参考:古典の「荒」の崩し字)が、「戸主である私の同意が無いままに国はこういう乱暴なことが出来るんだ」、と市役所窓口の責任者と無謀な!戦いを演じた事を思い出します!

2.自治体のデジタル化の取り組み
デンマークの様な国家主導のデジタル化ができなかった背景の一つには「自治」があります。住民記録などは地方自治体が権限を持つ自治事務にあたり、法令では氏名など必要な項目を規定しているだけで帳簿の様式など記録の方法は各自治体が独自に決めてきました
1960年の大阪市を皮切りに自治体にもコンピューターの導入が広がりましたが、その際も地方自治の原則に基づき、各自治体がそれぞれ考えた方法でデータをパソコンに入力しました。やや大袈裟に言えば、こうして全国約1700の自治体に別々の情報システムが形づくられていくことになりました。

一方、システム開発を請け負う ITベンダーにとって、自治体の数だけシステムがある状況はいわば「宝の山」です。初期開発だけでなく、修理や更新などの継続的な受注も見込めるからです。自治体にとっても地元のベンダーにシステム開発や保守を任せれば、雇用確保など二次的な効果も期待できたわけです。
しかし、特定ベンダーへの丸投げ・もたれ合いは、システムの見直しで行政を良くしようする改革の妨げになります。例えば自治体が保守費が安いクラウドへの移行を目指しても、既存の基幹コンピューターの中身は担当ベンダーしか分からないという壁に突き当たることになります。クラウド構築を手掛けるIT事業者が仕様書を書けないだけでなく、既存ベンダー側が「システムを人質にしてクラウドに移行させない」という動きもあるとのことです

また、自治体間のシステムの連携がうまく行かないのは制度に起因することも多いと考えられます。例えば児童養護施設児童相談所の中には、転居する児童の情報を転居先の施設、相談所に受け渡す際にメールで送ることを禁じたところがあります。個人情報保護条例の規定や運用が地域で異なるためです。2018年に東京都目黒区で起きた児童虐待死事件では、転居先の相談所に情報が十分に伝わっていなかったことが事件を防げなかった一因とされました(2020年10月7日に日経新聞記事より)

Follow_Up:201203_行政システム、乱立に歯止め

3.マーナンバーカードの制定
2016年に運用開始されました。当初は、財務省が国民一人ひとりの所得(個人個人に負荷すべき税金を計算する為の基本情報)を確実に把握することからスタートしましたが、その後徐々に活用範囲が広がっています(⇒後述)

今後政府が実施する DX 関連の施策

1.デジタル庁の設立
冒頭で述べました様に、デジタル庁の設立は菅政権の目玉施策の一つであり、来年早々の通常国会で法案が提出され、早ければ来年9月にも発足するスケジュールになっています
これまで長い間、行政のデジタル化については他の先進国に引けを取らない多額の予算をかけ推進してきました。しかし、これが現在の惨憺たる結果を招いている最大の原因は、中央政府においては「各省庁縦割りのデジタル化」であり、地方自治体においても、多くが「各自治体独自のデジタル化」であったことです。行政手続きのデジタル化に当たって、それぞれある程度の基本的なコンセプトは共有していたものの、各省庁、各自治体の事務作業のニーズに合わせて改修や更新を繰り返すうちに、それぞれのコンピューター・システムの共通性が失われ、結果としてデジタル・データの省庁間の連携、中央と地方との連携、地方自治体同士の連携、などがうまく行かなくなり、これが今回のコロナ禍に伴う臨時給付金配布に当たって、他の先進国に例を見ない大混乱に繋がったものと思われます。

ここまで後れを取った背景には以下の要素が考えられます;
中央集権的な行政システムに対する国民の潜在的な恐怖感
戦争を経験している世代や、戦後生まれであっても戦後の貧しさを経験し、戦後の民主教育が骨の髄まで沁み込んでいる世代には、個人情報を探られることや個人の自由を棄損する恐れのある政治的な企みには極めて敏感です

行政部門におけるIT人材の決定的な不足;
巨額の国家予算、地方自治体の予算を使って行政のデジタル化を進めるに当っては、実際のシステム開発は IT を専門とする会社に委託することは当然としても、システムの基本コンセプトを構築し、国全体としてのシステムの連携を視野に置いた開発を行うには、中央省庁や地方自治体内のシステム開発担当部門に IT のエキスパートの存在が不可欠です
因みに内閣府の2020年経済財政白書によれば「国内の IT人材のうち官庁や学校など公的部門の従事者は1%未満と推計」しており、欧米先進国にはかなり見劣りします(詳しくは官のIT人材、1%に届かず、投資も民に見劣り参照)

Follow_Up:201212_国家公務員試験にデジタル職創設 22年度、首相表明

こうした背景を踏まえたことと思われますが、11月13日にデジタル庁の組織概要につき発表がありました。内容は以下の通り;
「デジタル庁は首相直轄の組織として、担当閣僚に加えて「デジタル監(仮称)」を置く方向で検討。職員の定員は約500人とし、うち100~150人を民間から採用したい考え。政府は年末に取りまとめるデジタル政策の基本方針に、こうした組織の概要やあり方を盛り込む。500人体制は、消費者庁や復興庁を上回る規模。各府省の取り組みを統括するため、関連予算を一括で管理し、政府全体の情報システムの調達・整備費用を一元化して扱えるようにする。デジタル庁は恒久的な組織とする方針だが、創設後、デジタル技術の進歩に合わせて再検討する必要があるため一定期間が経過したら体制を見直す規定も設ける」
かなり本格的な組織であり、今回はかなり期待が持てそうです

Follow_Up:201212_国家資格者を一元管理
Follow_UP:201221_デジタル庁、課題は人材 民間との「回転扉」普及進むか

2.マイナンバーカードによるシステムの連携
現在発行されている ICカードの ICチップは極めて高機能で、将来運転免許証の代替(2026年頃実施か?)、健康保険証の代替銀行口座との関連付け(”ひもづけ”とも言ばれています)、など多くの未来の行政サービス、民間の電子サービスでの活用が可能な仕様になっています(詳しくはマイナンバーカードの技術仕様参照)

このカードを発行した当時は、多くの個人情報を国が把握しようとしている、と敬遠する向きもありました(交付開始から4年が過ぎた2020年9月1日時点での交付率は19.4%に留まっています)が、大半の情報は住民基本台帳に記載されており(2016年1月以降新たな住基カードは発行せず、現在住基カードを所有している人も有効期限が切れ次第マイナンバーカードに切り替えられることになっています)、顔写真についても運転免許証には組み込まれています(つまり顔写真と個人名、住所は関連付けられ、国に管理されている!)ので、私は当初からマーナンバーカードを保有し、確定申告や住民票、印鑑証明書のコンビニでの発行などで活用してています
現在、及び今後利用な能なサービスについては下図参照してください。尚、上記 ICチップの技術仕様をご覧になれば分かるのですが、電子署名電子証明書の機能も搭載しています;

マイナンバーカードの利用分野(総務省のサイトより)

*マイナンバーカード情報をスマホに搭載し、行政手続きや民間サービスを利用する際の本人確認に利用することも検討することになっています

<参考:デンマークの事例
冒頭の表で国連電子政府ランキング1位となっているデンマークの国民にとって「役所」とはほぼデジタル空間上の存在を指します。約580万人の全国民の8割がデジタルIDを持ち、給付金や税金など役所からの通知は全てネット上の「電子私書箱」に届きます。住所変更、入学手続き、年金、、、生活に関わるほぼ全ての手続きがオンライン上で完結しています
デンマークが取り組みを本格化したのは2001年で日本が取り組みを始めた時期と変わりませんが、その後デジタル署名制度の開始を皮切りに急速にこの政策を推し進め、2007年には公共機関に統一の IT 基盤の使用を義務化。2014年には15歳以上に電子私書箱の使用を原則として義務付けるなど、行政のあり方を変えてきました(2020年10月7日の日経新聞記事より)

マイナンバーカード使用に関する私の考え
ICカードを使用することによって各種の行政サービスがネット上で行えることに相当程度のメリットがあることに異存は少ないと思います
因みに、多くの人がわざわざ役所に行って、順番を待って届け出や発行申請を行うことを羅列すると;
<届出事項>婚姻届、出生届、認知届、養子縁組届、養子離縁届(協議離縁)、入籍届、分籍届、転籍届、死亡届、死産届、改葬許可申請
<発行申請事項>:戸籍謄・抄本、除籍謄・抄本)、改製原戸籍謄抄本、戸籍の附票の写し、身元証明書、独身証明書、婚姻要件具備証明書、住民票の写し、住民票記載事項証明書、印鑑登録証明書
申請する側にとってこれだけの事項があるということは、これに対応している行政側の人員配置、スペースの確保、などのコスト(⇒税金で我々国民が負担している!についても等閑視してはならないと思います
勿論、個人だけでなく法人についても、似たような届け出や発行申請事項が多くあることも忘れてはなりません(⇔会社の国際競争力にもつながる)

一方、マーナンバーカードを通じて個人情報が漏洩し、憲法で保障されている基本的人権の侵害が起こり得るという意見を言う人もいますが、そもそも基本的人権に関わる憲法の規定は;
第11条 国民はすべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる
基本的人権とは:この権利の内容は「平等権」、「自由権」、「社会権」、「参政権」、「請求権」を意味しています。中学校で習う「公民」では以下の様に説明しています/基本的人権、5つの種類とは何?
第21条の2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない
第35条 何人も、その住居、書類及び所持品について、侵入、捜索及び押収を受けることのない権利は、第33条の場合(犯罪を犯した場合)を除いては、正当な理由に基いて発せられ、且つ捜索する場所及び押収する物を明示する令状がなければ、侵されない

ICカードに収納された個人のデータ、及びこのカードに関連付けられた各種行政サービスに関わるデータが以下の様なケースに相当する場合、基本的人権の侵害が起こると考えられます;
A.国家権力が個人を特定した上でこのデータを利用(⇔検閲)する場合、但し統計的な利用を行う場合は許されると考えるのが一般的です(例えば、新型コロナウイルス接触確認アプリ(COCOA )の様な使い方)
B.国家権力及び民間を含む利用機関が故意、又は過失によりこのデータを漏洩し、国民一人一人に経済的、精神的、その他の実質被害を与えたり(⇔社会権)する場合

今後 ICカードの関連付け(”ひもづけ”)によって起こると考えられる人権侵害のリスクは;

①運転免許証の代替として使われる時(2026年以降):免許証所有者の交通違反情報、交通事故歴の漏洩
②健康保険証の代替として使われるとき(2021年3月以降):他人に知られたくない病歴(特に遺伝病、性病、精神病、難治性の病歴、など)情報の漏洩
③銀行口座との”ひもづけ“:所有財産、取引情報の漏洩。但し、財務当局や警察当局が脱税や不正取引の有無を確認することは許されると考えます
④その他行政手続きや民間のオンライン取引との”ひもづけ“:取引情報の漏洩

これらの犯罪行為を予防するには、行政を含む利用機関の限定、利用データの区分と限定を厳格に行うことと、情報漏洩に関する罰則の強化を行うことが必要と考えられます。また、自身の個人データにアクセスした組織や人を、本人のみに開示(アクセスした目的、日時)し不正が行われない様に監視できるようにするシステムの整備も必要と考えます

Follow_Up:201211_免許証とマイナカード統合、24年度末に前倒し
Follow_Up:201212_病院でもマイナンバーカード
Follow_Up:201229_転出入届、ネットで簡単に 22年度にもマイナカード活用

3.ハンコ行政の終焉
まず第一に着手されるのは「認印」の廃止だと考えられます。因みに、政府の規制改革推進会議(議長・小林喜光三菱ケミカルホールディングス会長)は2020年10月7日会合で、行政手続きの書面・対面規制や押印を抜本的に見直し、撤廃するための政省令改正を年内に実施する方針を示しました。尚、法改正が必要となるものは2021年の通常国会で関連法を一括改正するとしています
こうした施策の実行で、今後個人がハンコを持つ必要性が薄れてくることは間違いないと思われます

「実印」については、上述の通り理論的には「電子署名」、「電子認証」に切り替えることは可能と思われますが、現在「実印」が必要とされる手続き全てについて短期間に切り替えるのは中々ハードルが高いと思われます。
しかし、マーナンバーカードの普及がベルギー並みになる時がくれば、最早「実印」による本人認証は過去のものになると私は思います

4.医療関係業務のDX
<オンライン診療>
今年5月頃から、コロナ禍の影響で病気になっても感染が怖くて病院に行かない人が急増したと同時に、病院側としても来院患者が激減コロナ禍で通院激減)し、経営に深刻な打撃を与えています。
この結果、病院に行かなくてむ済むオンライン診療自宅パソコンやスマホでネット経由で医師の診察を受け、薬の処方もしてもらえる)のニーズが高まった為、政府は4月から時限的措置としてオンライン診療の全面解禁を行いました。
一方、IT企業各社は、将来を含めたオンライン診療拡大に伴うビジネス・チャンスに乗り遅れまいとパソコン、スマホで医師の診療を受けられるアプリを続々公開し市場獲得に乗り出してきました;
株式会社メドレーのオンライン診療システム:日本の医療 「非効率」にメス オンライン診療を普及
②Lineの場合:LINE、オンライン診療アプリ参入・8000万顧客生かす
③世界の趨勢:ネット診療、世界で拡大_米英中は保険適用

現在も尚、オンライン診療は暫定措置の状態のままですが、これは日本の現在の医療制度のままでは、恒久的な措置とすることは難しい状況にあります。「保険適用の対象範囲」、「診療報酬」、「対面診療が必要な病気の範囲」など、解決すべき問題が残っています。詳しくは雑誌「Wedge5月号:新型コロナの教訓・.オンライン診療は普及するのか・遅きに失した規制緩和」に特集されていますのでご覧になってください

Follow_Up:201209_オンライン診療、調剤も薬宅配も
Follow_Up:201209_オンライン診療、恒久化骨抜き 初診「かかりつけ医」調整
Follow_UP:201224_オンライン診療の効用は_園田愛氏・今村聡氏・翁百合氏

医療関係業務のDXに対する私の考え
オンライン診療は、我々国民にとって多くのメリットが得られるもと私は考えています;
受診する患者にとって;①感染のリスクが高い病院に行かないで済む、②病院に行くための交通費が不要になる、③病院での長い待ち時間が無くなる、④遠隔の地に居る“名医”の診断が受けられる
診断する医師にとって;①患者から感染するリスクがなくなる、またオンライン診療では当然予約制を取る必要があるので、②計画的な診療が可能となり、医師、看護師の過重労働が回避できる、しかし③患者にとってみれば、診察を受ける病院、医院までの距離が問題とならなくなりますので、医師の選別(感じ悪いお医者さんは敬遠される?)が進む可能性が考えられます

ただ、診断に必要となる以下の様な情報をオンラインで入手可能とする体制整備(システム構築とほか、セキュリティーの確保、機微情報の管理など)が必要になると考えます;
A.既に多くの大病院では電子カルテe-Clinicの電子カルテ画面サンプルを導入し、病院内の患者個人別の病歴・処方薬の履歴検査情報(血圧、血液検査結果、レントゲン検査/CT/MRI検査の履歴、その他過去の病気に対して行った検査の履歴、など)を各診療科で共有しています

電子カルテの導入率_厚生労働省データ

こうしたシステムをオンライン診療を行う全国の病院、医院の患者情報をクラウド上で共有することによって、対面診療が必要な一部の患者を除けば的確な診断が可能になると思います。こうした情報の共有によって、重複診療(高額な検査など)に伴う医療費の無駄を防げるだけでなく、処方薬の重複に伴う過剰摂取のリスク、医療費の無駄を軽減させる事が可能になると考えられます
B.診断の難しい病気に対しては、末端の「かかりつけ医と、「専門医」や「AI診断」を行える大病院の医師」との間をオンラインで繋ぐことにより、迅速、且つ的確な診断を行えると同時に誤診のリスクも軽減できると考えられます
C.オンライン診療を受ける側の患者側は、オンライン診療に不可欠なパソコン又はスマホを準備することの他、体温計血圧計血中酸素濃度の測定器、などの医療機器を個人で所有することが的確な診断を受けるために必要になると思われますが、これらは比較的安価であり、またこれらを日常的に活用することにより、個人としての健康管理が可能になり、副次的な効果として医療費の節減、救急医療の負担軽減にも繋がると思われます

尚、上記の様な本格的なオンライン診療に伴い、患者の来院が前提となっている現在の病院や”かかりつけ医”経営形態が変わることは間違いないので、健康保険の診療報酬体系を大幅に見直す必要があると思われます
また、間近に迫ってきた「超高齢化社会」における終末医療の在り方も、このオンライン診療によって変わる可能性があります。オンラインで繋がった病院や”かかりつけ医院”の医師による継続的なケアを続けることにより、「延命だけが目的のチューブに繋がれた惨めな病院死」から、「愛する家族に囲まれた自宅での静穏な死」への道を拓いてくれるのではないでしょうか
尚、この「看取り」の問題については、私のブログ「“死”について(その2)」の後半部で日本の現在の取り組み状況について解説しています

その他、思い付くまま!

A.DXに取り残される人たちにどう対応するか
未だにパソコンを持たず、ガラケーのみを使っている人は高齢者を中心に数多くいます。こうした人達にネットで全ての手続きができますと言っても、彼らにとってみれば何の意味もありません。しかし、全ての国民に平等な行政サービスを行うことは国の責務であることは論を待ちません。従って、こうした人達の為に以下の対策は必須のことと思います;
行政の窓口には必要な台数のパソコンを設置し、自身での操作を前提として操作に戸惑う人達の為のサポート要員を配置する(こうしたサービスは私が住む市役所ではやっていませんが、財政の厳しい地方都市では既に実施しているかもしれません。何故なら、こうした手続きを行う役所の職員は既に、手続きに来た人の手書きの申請書を見てパソコンに入力するという作業を行っているに過ぎないからです

②既にネットでも申請を受け付けている行政サービスもあると思いますが、素人でも扱えるような入力画面(GUI/Graphic User Interface)の工夫が為されていないものが多いようです。もともとシステムを設計する人も、行政実務を担当する人もその道のプロであるために、素人が扱いやすい入力画面がどんなものであるのか分からないのかも知れません
その点、ネット・ショップやネット・バンキング、航空会社の予約サイト、などの入力画面は、設計が悪ければ顧客に使って貰えないので結構工夫されていると思います。従って、この様なお客さま第一の業種の入力画面から学ぶ必要があると思います
③行政が使うシステムは、セキュリティー対策が脆弱であると甚大な被害を齎す可能性があります。最近、殆どの行政システムはインターネット・ブラウザ(インターネットを閲覧するソフトウェア)を使った入力画面を採用していますので、このブラウザのセキュリティー対策を確実に行うことが必須(常に最新のバージョンに対応すること)になっています
一方、インターネット・ブラウザは色々な種類があり、それぞれ扱い方が若干異なります。従って、行政システムは常に使用頻度の高い複数のブラウザの最新のバージョンに対応する必要があります

*こんなことは当たり前、と思っていたのですが、最近不動産登記のオンラインシステムを使う機会があったのですが、このシステムでは古いバージョンのブラウザ2種しか使えないと分かり、吃驚しました。恐らく予算上の問題だとは思いますが、行政のシステムはこんなことはあってはならないと思います

B.不動産登記に関わる諸問題
個人や法人が所有している不動産は法務局の下部組織である登記所で管理されています。登記上の記載事項についてはあまりご存知ないと思いますが、私はこの道のずぶの素人ですが、父母死去後の相続申告の時、自宅のローン返済終了後の抵当権抹消手続きの時、それに最近の不動産移転登記手続きの時、に経験しました。一般の人は、手数料を払って法律事務所や行政書士に依頼することが多いようですが、私の場合は、まずお金が無いこと! それに不動産登記の仕組みに興味があったので自分で申請書を作り申告しました。そこで、以下の様な面白い?(信じられない)事実を知ることが出来ました;

①不動産の登記関連事務は県別の法務局の下部組織である沢山の支局(例えば、人口220万人の新潟県の支局の場合)でのみ取り扱っており、持っている不動産の登記はそれぞれその不動産のある支局でしか扱わないことになっています。勿論登記済みの内容自体は、全国の不動産をカバーするデータベースから参照できるシステムになっています(既にデータベースのオンライン化は実施済み )
このオンライン化されたデータベースを使えば、 法律事務所や行政書士の様なプロの場合、全国の不動産の申告業務を自身の事務所で扱えるとは思いますが、素人が扱うにはハードルが高く、法律事務所や行政書士の様なプロ向けの行政(法務局で働いていた人が司法書士になるとか、、、)であると感じました

②登記所で扱っている不動産所有者(個人、法人)の名前現住所は、住基ネットのデータと一致していることが求められますが、住民サービスを受けるために国民が自らが必ず行わねばならない市町村役場への死亡届や住所変更届などの重要な情報が登記所に伝わらない仕組みになっている様です。その結果、以下の様な看過できない問題になっています;
不動産の所有者が死去した場合相続の登記を行わない限り、登記簿上は死者が不動産を所有し続けることになります。こうした事から、戦後山林の不動産価値が著しく下がったこともあり、相続申告を怠った持ち主不明の山林が全国に沢山あり、治山・治水工事の停滞、林業の合理化が遅れる、などの諸問題が発生しています(詳しくは私のブログ「森林経営管理法が成立しました!」をご覧になってください)

また市街地であっても、不動産価値が低い空き家、空き地が放置され周辺住民の迷惑になっています
都市周辺の農地が数代に亘って相続登記が行われないままにされていたものの、宅地転用規制が緩められたとたんに土地価格が高騰し売却しようとしても相続権を持っている親族(孫、曾孫、、年数を重ねるごとにネズミ算的に増加する)が多すぎて相続の合意が得られない事態が現に発生しています
(注1)2010年9月10日、法務省民事局は、各法務局、地方法務局に対し、戸籍の附票に住所の記載がない120歳以上の高齢者を戸籍上「死亡」とできるよう通知しました。これは「高齢者消除」と呼ばれ、対象者の戸籍には一律で「高齢者につき死亡と認定」と記されます。今後、戸籍の附票に住所の記載がない120歳以上の高齢者の戸籍は順次抹消されていくことになります
(注2)戸籍の附表とは、本籍地において戸籍の原本と一緒に保存している書類で、その戸籍ができた時から除籍されるまでの住所の履歴を記録したものです

れらの不動産登記上の諸問題は、マイナンバーカードに本人名義の不動産登記データの”ひもづけ”を行うことにより、
現住所情報は住基ネットの情報を自動的に登記上の所有者住所に反映し、
死亡情報は住基を管理する市町村の役所が戸籍の附表を通じて、相続権者全員の住所氏名を特定した上で登記所に提供し、登記所から相続権者全員に「遺産手続き」の開始を促す通知を行うこととすれば、解決できるのではないかと考えます

ただ、この様な行政サービスを行っても、不動産価値が低く、保有していく価値がマイナスとなるケース(不動産所有に関わる諸税、維持管理費、その他のコストが関連します)の場合、遺産相続を行わずに放置されることも大いに考えられます。これは、マイナスの相続財産の放棄は価値ある財産との相殺、乃至価値ある財産も放棄する場合しか認められないことに原因があるので、これを改め、相続者に相続財産を無償で放棄する権利を与え、放棄された不動産は地方自治体が所有権を得ることにすれば、公共的な別の価値(低所得者への住宅の提供、地方創生の為の企業の誘致、など)を生み出す可能性もあると考えられと思うのですが、、、

Follow_Up:210210_土地登記は相続3年内に、違反なら過料 法制審答申

以上

 

私の巣篭もり生活!

はじめに

今年4月7日に新型コロナ(CIVID-19)蔓延に伴い緊急事態宣言が発令されてから既に4ヶ月以上が経過しました。緊急事態宣言自体は5月25日には全面解除されましたが、依然として新たな罹患者が毎日相当数発生しており、我々の様な高齢者は、自らの命を危険にさらすことになる外出を極力控える毎日がつづいていいます。
自宅での謂わば“巣篭もり”の生活を続けることは誰にとってもストレスの多いことですが、芸能人たちがインスタグラムなどで巣篭もりの日常を晒すことによって自身のストレス解消を行っていることを真似て、私自身も恥ずかしながら“巣篭もり”生活の日常を晒してみようかと思い立ちました
ご参考になるかどうかは分かりませんが、以下のようかことをやって毎日をそれなりに楽しく過ごしています。ただ、大変マニアックな話が多いので、興味のない方は読み飛ばしてください

私の平均的な生活パターン

歳を取ってからは、生活のリズムが狂うと体調を崩すことが多くなってきました(⇔免疫力の低下?)ので、最近は以下の様な規則正しい生活を心掛けています;
① 食事を採る時刻をできるだけ一定にする(朝食/8時前後、昼食/13時~14時、夕食/20時前後)
② 食事の量、飲酒の量をできるだけ控えめ?にする(飲酒は夕食時及び夕食後)
③ 毎日の睡眠時間をできるだけ一定にする(夜/7時間程度、昼寝/昼食後15分~30分)。尚、熱帯夜が続く昨今、夜の睡眠を良質なものにする為に寝室の温度設定を24℃以下にし、布団をかけて寝るようにしています

④ 屋上菜園での作業:午前中/1~2時間、夕方/30分~1時間
⑤ 新聞、ネットニュースなどによる情報収集:1時間~2時間
⑥ 読書、ブログ制作作業:1時間~2時間
⑦ 趣味の電気工作?、家具などの修理:1時間~2時間

⑧ 週に一回程度都心に出て「本屋めぐり」などを行い8,000歩程度の運動量を確保(往復の交通手段を含めて“三密”の状況は回避)する。この日以外は平均2,000歩前後(プラス屋上菜園での力仕事など)。⇒ スキーシーズン前にはこれに加え筋トレを適宜実施する希望的!予定があります
⑨ 月に一回以上ZOOMを使ったリモート飲み会を実施しています。この時ばかりは「② で述べた程々の酒量」を超えて飲んでしまうこともありますが、全く友人と会えない「巣篭もり状態」が続くなか、暖かいコミュニケーションが可能になっています

新聞・雑誌、ネットニュースなどからの情報収集

ただ漫然と行うのではなく、現役時代同様に得られた情報はパソコン内に収納し、ブログの制作や自身の考え方を纏める時に使えるようにしています。具体的には、冒頭の画像(ウィンドウズ・エクスプローラーの画像)にあるように、収納する情報は階層状にしたフォルダーで管理するとともに、情報量の変化、情報の多様化などに対応するため、適宜フォルダーの種類、階層構造の変更などを行っています。因みに、6月25日に発行したブログ(COVID-19と日本の近未来)は冒頭の画像の右半分(疫病のリスク)に整理されている情報に基づき纏めたものです

こうした情報のデータベースは、かなり長い期間に亘って毎日集めてきたものなので、私にとっては非常に大切なものです。しかし、今年2月末この情報が入っているハード・ディスクが突然壊れ冷や汗をかきました。幸い1月初めまでの情報はバックアップを取ってありましたので、蓄積した情報の喪失は僅かだったので胸を撫で下ろしました。以降、1週間に一度はバックアップを取るようにしています

因みに、現在冒頭の画像に収められている情報量は以下の通りです;
*ファイルサイズ:108ギガバイト
*ファイルの数 :55,932
*フォルダーの数:5,072

読書の仕方

歳を取ってから読書を長時間続けると目が疲れますので、週一回本屋を渉猟するなかで興味を覚えた本や、新聞・雑誌で紹介され興味を覚えた本(主としてアマゾンの通信販売で購入)が中心になりますので、読書量は自慢できるほど多くはありません。60歳を過ぎたころから歴史好きになり、結果として最近は50%位は歴史関連の本になっています
ただ、偶々今年3月24日に封切された「三島由紀夫vs東大全共闘」という映画を観た結果、俄かに!三島由紀夫の思想、人生に興味を抱き非常事態宣言中は以下の本を丹念に読む機会がありました;

読了した三島由紀夫作品

また、これらの本を読んだ結果、「特攻」を志願し生き残った人や、少年時代に戦争を実体験している知識人の「生死」に関する考え方を知りたくなり以下の本も続けて読みました;

「生と死」関連

上記の本は全て「生・老・死」の問題が主要なテーマになっていますが、勿論結論などは得られていません。いずれこうした問題に関する自身の考えが煮詰まってきたら死に関する私のブログ二編(“死”について“死”について_その2)の続編を書いてみたいと思います

私の本の読み方は、読書中にやたら赤線を引き、心に刺さった文章のあるページには全て付箋を付けますので、BOOK OFF ではタダでも引き取ってくれない本になってしまいます。しかし、近頃若者の読書離れが進んで困っている出版社や本屋には歓迎されるかもしれませんね!

趣味の電気工作?

高校時代まで私は「電気少年!」だったので、時折秋葉原周辺の店(勿論、フィギュアの店、メイド喫茶、などは間違っても入りません!)を覗いて廻ります。最近は昔ながらのパーツを売る店は少なくなったものの、電気少年が買いたくなるような製作キットを売る店が幾つか残っています。最近そこで衝動的に買ったのが可変出力スイッチング電源(0.8~24ボルト)キットです。
この電源キットは、最近拙宅によく来る孫の一人がLEDのライトを使って何か作ってみたいと言っていたのを思い出し、実験用のボードと併せて買ったものです;

自作の可変電源と電子回路テスト・ボード

確かデジタル電圧電流計を合わせて買っても2千円程度だったと記憶しています。私の少年時代にはこのレベルの電源を自作するのは、金額的にも、性能的にも、製作時間から言ってもかなり決心がいる買い物になっていたと思います
尚、件の孫は夏休みの宿題の工作で「LEDライトを使ったプラネタリウム」を作って私を喜ばせてくれました!

昨年10月22日にカラオケ万歳!というブログを投稿しました。ここで「一人カラオケセット」を自宅の机の前にセットして楽しんでいると紹介しました。しかし、このコロナ禍の中で老人のカラオケはクラスターの元凶(全国でクラスター発生、明るみに出た「昼カラオケ」の実態)と非難され、私のカラオケ仲間はもう何ヶ月も唄えないと嘆いておりました
そんな折も折、アマゾンの通販で電子回路のキットの値段をチェックする機会があり(6月にZOOMを開始する前、私の自作パソコンにはカメラ・マイクが装備されていないので格安のパーツ探していた!)、驚くほど安いものがあることを発見しました。近年、国産、外国製を問わず色々な電気製品が驚くほど安くなっている原因がここにあると納得した次第です。これらはいずれも中国製です。信頼性についてはあまり期待できないと思われますが、ともかく安いので、これを使ってカラオケ仲間数人で楽しめるカラオケセットを試作してみよう、と思い立ち作り上げたのが下の写真のアンプです;

自作のアンプ

残響ボード(所謂マイクにエコーをかける装置)の値段は何と!1,256円

残響ボード

ヘッドホン・アンプの値段は何と!2,205円

ヘッドホンアンプ

50Wx50Wのステレオアンプは何と!1,598円

50Wx2 デジタルアンプ

これらに、壊れて廃棄した電化製品やパソコン類から取り外し保管していた(全く貧乏性ですね!)古い電源を取り付け1セットのカラオケ・アンプにしてみました

更に、機能を充実させる為に、Hard Off という近頃流行っている中古屋で、バンド活動ではなくてはならないミキサーの中古品を5千円ほどで買い揃えました;

Mixer

これは新品でも1万円程度で購入できますので、恐らく始めたばかりの学生のバンド活動で使われていたのではないでしょうか
いずれにしても、これらのセットに、パソコン、またはスマホで 、YouTubeで公開されているカラオケのソース音源を入力することでカラオケを楽しむことが出来ます
大人数でやる時にはスピーカーを繋ぎ、周りに迷惑が掛かる環境下ではヘッドホン(4台まで接続可能)を繋いでカラオケボックスでの臨場感を味わうことが可能です。既にテスト済みですが、近い内に機会を見つけてカラオケ仲間と楽しんでみたいと思っています

以上

コロナ禍と家庭菜園

はじめに

今年は中国武漢市のコロナのニュースで明け、これまで半年間コロナばかりのニュースで明け暮れている感じがします。また、「大都市で働いている人々」、「夜の文化?に日々勤しんでいる人々」、「芸術に直に接したい人々」、などは「3密を避けろ」、「Social Distance を取れ」、という政府の要請で大変辛い思いをしているのではないでしょうか。
しかし、定年退職後年金暮らしをしながら家庭菜園をやっている私共には、やることが無い分野菜の栽培に打ち込み、例年に無く野菜類が元気よく繁茂し、豊かな実りを楽しんでおります:

7月2日~4日の夏野菜収穫量

コロナ禍の騒ぎで、1月4日に報告して以来、栽培状況を報告していませんので、以下にザっと報告したいと思います

春野菜の栽培状況

春野菜については、例年通り水菜、カブ、春菊、三好菜、ニンジン、他については、今年は虫にやられなかったこともあって上々の出来でした。特に赤カブについては1ヶ月程度で収穫可能であり、生を薄くスライスしてサラダに混ぜると色どりも良く歯ごたえもシャキシャキして極めて美味しく、春野菜の優等生と感じました

春野菜の風景

また、今年は野沢菜の春栽培、レタスの栽培をやってみましたが、これもうまく行きました。レタスについては虫に食われない様にネットをかけて栽培したのが良かったようです。因みにサニーレタスは年中栽培していますが、ネットが無くても虫にやられないのは不思議です

野沢菜・レタス

野沢菜の葉の部分は塩漬け(野沢菜漬け)、カブの部分は甘酢漬けにして食べています。野沢菜漬けはちょっと繊維が強く春栽培には適さない様に感じました
6月に二度目の収穫をした水菜については、生食だけでは食べきれない量になったので、塩漬けにして保存しています

水菜と混じっていた混血児?

水菜は数年前から自身で栽培したものから種を採って蒔いています。上の写真の右側は水菜の中に混じっていた種類の違う野菜です。恐らく、近くで色々なアブラナ科の野菜を栽培していますので、他の野菜の花粉で受粉してしまったものと思われます!

ハーブ類の栽培

1月の報告で冬場は出窓を使ってハーブ類を各種栽培し、生のハーブを色々な料理で楽しみましたが、春になってからは屋上での栽培ものに切り替えています

ハーブ類_Ⅰ
ハーブ類_Ⅱ
ハーブ類_Ⅲ

三番目の写真にあるバジルとディルはそれぞれトマトとナスのコンパニオン・プランツとして栽培しています。また、同じ様な栽培の仕方として、キュウリのコンパニオン・プランツ(お互い「助け合い」があるかどうかは?)としてネギ類の種を蒔き、植え替える予定の苗として育てています(←拙宅は季節を問わずネギの消費が異常に多い)

今年は上記の他に新しい試みとして赤紫蘇を育てています。用途は「梅干漬け」(漬込み済み)と裏庭で収穫できるミョウガを「柴漬け」(ミョウガを収穫してから漬ける)にする為です

赤紫蘇

新しい試み

1.夏野菜の早期植付 — 大失敗!に終わった!
一昨年、昨年と9月に強力台風が襲来し、夏野菜はほぼ全滅してしまいました;
* 2018年:猛暑と台風襲来でこっぴどくヤラレマシタ!
* 2019年:酷暑の夏と強力台風の襲来!
そこで、今年1月4日に発行したブログで、夏野菜の植え付け時期を早めるトライアルを行うと書きました
そこで、3月初めに植え付けるべく1月から苗を育て、一回目の植え付は3月初旬に行いました。暖かい日に植え付けたのですが、その後低温で全滅! 次に3月下旬に保温措置をした上で植え付けたものの、トマトの一部を除いて再び枯れてしまいました、トホホ!

立ち枯れしたキュウリとナス

4月に入ってから3度目の植え付けを行った結果、無事根付かせることができ、現在「はじめに」の写真にある様な収穫を上げることが出来ています

改めて、キュウリ、ナス、トマトの生育可能な気温の範囲を調べてみたところ、トマトの生育可能な最低温度11℃ナスは15℃キューリは18℃ということが分かりました(ref:野菜の生育温度)。因みに、拙宅の隣町である所沢市の今年2月~6月の気温を気象庁のデータ(ref:所沢付近の気温実績_2020年2月~6月)で調べたところ、3月の植え付けなどは「無謀!」以外の何物でもないことが分かりました。やはり農業というものは極めて科学的であり、データに基づいて栽培しないと間違いなく失敗することを思い知りました!
昔から冷害に見舞われることが多かった東北地方の農民は、「山に残る残雪の形を観て田植えの時期を決める」ということを何処かで読んだことがありますが、考えてみれば残雪の残り方というのは、日々の温度変化の大きい春の気温の積分値を反映していると考えると、昔の人の知恵は凄いなと思い知らされた次第です

トマト、ナスについては自前で種から育てた苗をなんとか3度目の植え付けに間に合わせましたが、キュウリについては3度目の植え付けに自前の苗は間に合わず、久し振りに苗を買う羽目になりました。買った苗は、超高級!な「接ぎ木」の苗(298円/1本)です;

キュウリの接木苗

流石に丈夫な苗で、苗業者の自信のほどが窺えました

2.徒長したウリ類の苗を指し芽で育てる試み — 成功!
私の苗の育て方は、25℃~30℃の発芽用の自作の器具で発芽させた後、出窓で育てています。南南西向きの出窓ですが、冬の日当たりでは日照時間が不足するので自作のLEDライトで補っておりますが、やはりプロの苗に比べると茎が徒長する傾向があります;

出窓での苗の育成

そこで、ネットで仕入れた知識を駆使して、ウリ類の徒長した茎を途中でカットし、暫く水に浸けて水揚げをさせた後、指し芽をしたところ、見事に!発芽し、苗までに成長させることが出来ました。目出度し!、目出度し!

挿し芽から苗を育てる(キュウリ、まくわ瓜)

3.大きなタマネギを育てる試み — 成功!
昨年9月に種蒔きをしたタマネギ(二種)の苗が、台風などの影響で数が揃わなかったので、少し間隔を広げると共に化成肥料の元肥をやや多く施した所、かなり大きく、サイズの揃ったタマネギを収穫できました;

収穫したタマネギ(二種)

二種類のタマネギとも直径10センチ近くに育ち、淡路島に居る息子の友人の農家から毎年初春の頃に送られてくる大タマネギと比べても遜色のない大きさで収穫の喜びもひとしおでした!

以上