米ソ宇宙開発競争の歴史(スプートニク~アポロ計画)

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はじめに

現在、宇宙開発は人類共通の「未知への挑戦」として国境を越えて協力が行われていますが、人類が初めて地球の大気圏を脱して地球を周回する人工の衛星を打ち上げ、この人工衛星に人を乗せ、更に月にまで人間を送り込む有史以来の大事業は、米国、ソ連という第二次世界大戦の勝者の間で行われた12年間の熾烈な開発競争の結果達成されたたものです

こうした宇宙開発には強力なロケットが必要であり、このロケット開発のベースになったのは、米ソがお互いの国に原子爆弾を打ち込むことが出来る大陸間弾道ミサイルの開発があったことは紛れもない事実です。また、この莫大な資金を必要とする開発競争の陰で、両国の中に貧困にあえぐ国民がいたことも事実です
しかし、こうした宇宙競争の結果、両国の国民だけでなく全世界の人々が熱狂したことも確かです。以下に、この歴史を振り返ってみたいと思います

(注1)本ブログでは、青字で斜体の文は全て筆者に文責があります
(注2)本ブログでは、専門家の間では推力の単位をニュートン(N)で表しますが、地上での重量に換算した方が分かりやすいと考え、「kg/キログラム」乃至「ton/トン」の表現(正確を期すには「重」を末尾に付けます、例えば「kg重/kgf/kirogram force」など)を使います。推力の単位に関する詳しい説明は私のブログ「ロケットに関わる基礎知識と日本のロケット開発の歴史」の前半の部分をご覧になって下さい
(注3)一般に、人工衛星の近くで宇宙遊泳などを行っている時、公共放送でも「無重力」という表現が使われていますが、宇宙で無重力の状態は殆ど考えられません。例えば太陽系の中の宇宙では、太陽の引力、その他の惑星、衛星の引力の影響下にあります。従って正確には「無重量」という表現をすべきですが、このブログでは混乱を避ける為に敢えて「無重力」という表現を使います。因みに人工衛星は地球の重力場の中で自由落下しています。詳しくは私のブログ「宇宙に関わる基礎的な知識」の中の「1.人工衛星は何故落下しないか?」の項をご覧になってください

注4)本ブログでは、宇宙開発が多くの失敗を積み重ねた上で成功している事実を明確にするため、予想外の事象や失敗の部分は緑色下線付きで“XXX様に表現しています

 

ソ連による世界初の人工衛星打上の衝撃と米国の対応

1957年10月4日、ソ連によって人工衛星スプートニク1号が打ち上げられました(当時のNHKのニュース映像)。スプートニク(Спутник)とはロシア語で衛星を意味します。また、この衛星はロシアの宇宙開発の草分けと言われるコンスタンチン・ツィオルコフスキーの生誕100年と国際地球観測年に合わせて打ち上げられました
この衛星はバイコヌール宇宙基地からR-7ロケットを使って打ち上げられました。衛星の軌道は近地点約230km、遠地点約950kmキロメートル、軌道傾斜角65.0°の楕円軌道であり、96.2分で周回しました。尚、R-7ロケットは、離陸重量は280トン、全長34m直径3mという2段式の大型ロケットです。第1段ロケットは RD-107というロケットを4基束ねた推力381トンもの巨大なロケットで液体酸素とケロシンを推進剤として用いています

スプートニクの打ち上げ成功により、米国はソ連の科学技術力及びそれを背景にした軍事力に大きな脅威を感じることとなりました。当時は東西冷戦の渦中であり、米国は即座に軍備拡張を加速するとともに、人口衛星の打ち上げに総力を挙げる体制を築く為に、翌1958年にはNASA(連邦航空宇宙局)を設立して宇宙開発を強力に推進することとなりました

米国は、スプートニクの成功に直ちに追従すべく、たった1.36kgの衛星を搭載したヴァンガードロケットを、1957年12月6日ケープカナベラル空軍基地から打ち上げましたが、発射2秒後に爆発し、失敗してしまいました
その後、1958年1月31日、エクスプローラー1号が打ち上げられ、8.32kgの人工衛星打ち上げに成功しました。衛星の軌道は近地点約360km、遠地点約2,530km、軌道傾斜角33.2°の楕円軌道であり、114.8分の長楕円軌道を周回しました
打上に使われたジュノーⅠロケットは、ナチス・ドイツでV2号を開発していたウェルナー・フォン・ブラウンの提案の基にジュピターCロケット(観測用として開発された)の発展型(ジュピターCの3段目の上部に4段目を追加)として開発されました
全長21.2m直径1.78m離陸重量は29トン、第1段ロケットの推力は42トン、液体酸素とヒドラジンを推進剤として用いています

米国は、ソ連から遅れること約3ヶ月で人工衛星の打ち上げに成功しましたが、両国が打ち上げた人工衛星の重量、ロケットの発射重量を見ればわかる通り、ロケットの性能は相当程度劣後している事は明白でした

その後、ソ連はロケットの優位性を生かして、月探査、惑星探査、有人人工衛星の打ち上げに先陣を切っていくことになります

有人人工衛星の開発競争

無人の人工衛星の競争の後に続いて、1961年以降有人人工衛星の米ソの熾烈な競争が始まりました
1.ソ連のボストーク計画(1961年~1963年)
ボストーク(Vostok)とはロシア語の「東」という意味ですボストーク計画では各種ロケットが使われましたが、上の写真の「8K72A」が代表的なロケットです
性能は、全長約40m(シリーズにより若干異なる)直径2.68m離陸重量は287トン、液体酸素とケロシンを推進剤として用いる。離陸重量だけから見ればスプートニク打ち上げロケットと大差がないと思われます

打上実績(打上基地は「バイコヌール宇宙基地」)
①ボストーク1号は1961年4月12日にユーリイ・ガガーリン少佐を乗せて打ち上げられました。その後地球を1周し1時間48分飛行後、大気圏に再突入し、高度7kmでガガーリンは座席ごとカプセルから射出され、パラシュートで降下、無事帰還しました。成功後に人類初の有人宇宙飛行として公表され、世界中を驚愕させました。ガガーリンの帰還後の記者会見で「地球は青かった」と語り有名になりました

②1961年8月6日
ボストーク2号が打ち上げられ、宇宙空間に25時間滞在し、地球や宇宙空間の撮影、無重力状態での実験などを行いました
③1962年8月11日ボストーク3号が打ち上げられました。続いて
④翌日ボストーク4号が打ち上げられ、この両機は互いに5kmまで近づき人類初の宇宙空間同志での交信を行いました

⑤1963年6月14日、ボストーク5号が打ち上げられ、下記ボストーク6号と軌道上でランデブーを行いました
⑥1963年6月16日、ボストーク6号初めての女性宇宙飛士となるワレンチナ・テレシコワを乗せて打ち上げられました。尚、彼女が宇宙で発した最初の言葉である「私はカモメ/ヤー・チャイカ(Я — Чайка)」は有名になりました。因みに「カモメ」は各飛行士につけられるコールサインです

2.米国のマーキュリー計画(1958年~1963年)
マーキュリーという名称は、ローマ神話の旅行の神メルクリウス (英語名:Mercury) からつけられました
マーキュリー計画は、1958年から1963年にかけて実施された米国の有人宇宙飛行計画です。スプートニクで先を越された米国が、有人人工衛星ではソ連よりも先に達成することを目標としていました。この計画は、1958年に設立されたNASA(連邦航空宇宙局)によって実行され、20回の無人飛行及び米国人の宇宙飛行士たちを搭乗させた6回の有人飛行が行われました

<マーキュリー宇宙船の構造>

ケネディー大統領の演説;
宇宙開発において米国が主導権を取り戻す為に、ケネディー大統領による強力なリーダーシップを発揮しました
*1961年1月20日、ケネディー大統領就任
1961年5 月25 日、ケネディ大統領は国家的緊急課題に関する特別議会演説(Special Message to the Congress on Urgent National Need)』と題した 45 分に及ぶ演説の末部(上記演説草稿の「Ⅸ Space/8頁後半~10ページ前段)」で、有人月面着陸計画を議会に提示しました

<参考>適当な日本語訳が見つからなかったので、故ケネディ大統領の格調高い演説は再現できませんが、第Ⅸ章のみ私の拙い日本語訳を添付します:国家的緊急課題に関する特別議会演説_第Ⅸ章の日本語訳

アポロ計画始動後の 1962 年9 月12 日、ケネディ大統領はライス大学のフットボール競技場でアポロ計画についての一般向け演説行い、聴衆からの熱狂的ともいえる反応を得ました
*1963年11月22日、ケネディー大統領暗殺

 

打上実績(打上基地はケープカナベラル空軍基地);
①1961年5月5日(ボストーク1号に遅れること23日)、マーキュリー・レッドストーン3号は、アメリカ初の宇宙飛行アラン・シェパードが搭乗する宇宙船で弾道飛行(飛行時間15分22秒)を行いました
<参考>弾道飛行とは
地球を周回しないで地上に落下する軌道(弾丸が放物線を描いて地上に落下する軌道)ですが、大気圏外の宇宙を飛行したことは事実です。レッドストーンというロケットは、無人の人工衛星の打上ロケットであるジュノーⅠロケットと基本的に同じ仕様です


②1961年7月21日、マーキュリー・レッドストーン4号はレッドストーン・ロケットによって打ち上げられ弾道飛行(飛行時間15分37秒)を行いました

③1962年2月20日マーキュリー・アトラス6号が打ち上げられ近地点161km、遠地点261kmの楕円軌道を3回周回し(飛行時間4時間55分)し着水しました
この飛行で使用されたアトラスロケットの性能は、全長約28.7m直径3.0m離陸重量は120トン、第1段ロケットの LV-3Bの推力は356トン液体酸素とケロシンを推進剤として用いており、このロケットでソ連の打上ロケットの性能に追いついたことになります

④1962年5月24日、マーキュリー・アトラス7号が打ち上げられ、近地点161km、遠地点269kmの楕円軌道を3回周回し(飛行時間4時間56分)し着水しました
⑤1962年10月3日、マーキュリー・アトラス8号が打ち上げられ、近地点161km、遠地点283kmの楕円軌道を6回周回し(飛行時間9時間13分)し着水しました
⑥1963年5月15日、マーキュリー・アトラス9号が打ち上げられ、近地点161km、遠地点267km、の楕円軌道を22回周回し(飛行時間10時間20分)し着水しました

マーキュリー計画遂行に当たって注目すべきポイントは、上記6回の有人飛行の前に弾道飛行と軌道飛行を合わせて20回もの無人の試験飛行(内6回失敗、3回一部失敗)を行い万全を期して有人飛行に移行したことです

3.米国のジェミニ計画(1961年~1966年)
ジェミニ(Gemini)とは「ふたご座」を意味しますが、恐らく2人乗りの宇宙船を打ち上げることから命名されたものと思われます
ジェミニ計画は、連邦航空宇宙局(NASA)によるマーキュリー計画に続く有人宇宙飛行計画です。計画は1961年から始まり1966年までに2名の宇宙飛行士を宇宙に送り、船外活動、及び宇宙船同士のランデブーとドッキングを行う事が目的でしたが、これは月面着陸を目指すアポロ計画に必要となる技術を確立する為に必要な事でした。1965年から1966年までの間に10名の宇宙飛行士が地球周回低軌道を飛行し計画を達成しました。この成功により、米ソの宇宙開発競争において米国が優位に立つこととなりました
使用されたロケットは、米国空軍向けの大陸間弾道ミサイル(ICBM)であるタイタンIIを転用した「タイタンII GLV」というロケットです。このロケットの性能は、全長31.4m、直径3.1m、離陸重量は154トン、第1 段ロケットエンジンはLR-87 2基で1,862トンの推力推進剤はエアロジン-50(ヒドラジンと非対称ジメチルヒドラジンを半々で混合したもの)と四酸化二窒素(N2O4)とを用いています

打上実績(打上基地はケープカナベラル空軍基地);
①1964年4月8日、ジェミニ1号(無人)が打ち上げられました。発射後4時間50分で所期の任務を果たした後、宇宙船は3日と23時間周回飛行を行った後に大気圏に再突入し意図的に破壊されました
②ジェミニ2号(無人は、当初1964年12月月9日に予定されていましたが、エンジン点火1秒後に機体の異常検知システムがエンジン圧力に問題を発見したためロケットエンジンを停止させ、飛行は延期となりました
再打上げは、1965年1月19日に行なわれ、最高高度171.2kmの弾道飛行を行いました。ジェミニ2号はロケットから切り離された後、自動操縦により打上げ6分54秒後に逆噴射を実施して大気圏再突入を行い大西洋上に着水(予定地点からは26kmの誤差があった)しました。アメリカ海軍の航空母艦により回収されています。飛行時間は18分16秒。燃料電池や冷却装置などが改良すべき点が判明したしたものの、逆噴射装置や耐熱遮蔽板の性能は確認されました

③1965年3月23日、ジェミニ3号が打ち上げられました周回軌道を3周し4時間52分後に西大西洋に着水しました。着水地点は予定より約110km離れており、また着水時の姿勢はやや不安定であり回収作業には時間が掛かりましたが、宇宙飛行士は米海軍の航空母艦イントレピッド搭載のヘリコプターによって回収されました

④1965年6月3日、ジェミニ4号が打ち上げられました。飛行は順調に行き近地点162.3km、遠地点282.1kmの軌道に投入されました
軌道上でのランデブー試験は、「タイタンII GLV」ロケット第2段を標的に行なわれましたが、宇宙空間では、目視による距離が掴みづらく
軌道姿勢制御システム(以下OAMS/Orbit Attitude and Maneuvering Systemと記述)を用いた接近操作は難渋し、結局ランデブーは中止されました
その後3周目にキャビンを減圧させた後、
命綱を付け宇宙銃を持ったエドワード・ホワイト飛行士が船外に出て宇宙船より約5m離れて、宇宙遊泳を行い15分40秒後には船内に戻りましたが、ハッチの開閉に難があったため、2度目の宇宙遊泳は中止されました
軌道周回48回目にIBM製のコンピュータが故障したために、大気圏再突入時の揚力を用いた制御性の高い再突入は放棄され、ローリングを行いつつ再突入を実施しています。高度3,230mで主パラシュートが開傘、フロリダ半島沖の大西洋上に着水しました。飛行時間は4日を越え、米国の宇宙飛行では最も長いものとなりました。乗員はヘリコプターにより米海軍の強制揚陸艦ワスプへ回収されました

⑤1965年8月21日、ジェミニ5号が打ち上げられました。この飛行のミッションは、同時に打ち上げられた34.5kgの小型衛星とのランデブー試験でした。小型衛星は打上げ2時間後にジェミニ宇宙船から切り離されましたが、燃料電池が不調であったため、電力が不足し、ランデブーは中止されました。飛行3日目にランデブーではないものの、ランデブーのための軌道制御飛行試験を行っています。5日目にはOAMSのスラスターのうちの1基が故障し、いくつかの試験が中止されています。このほか、予定されていた地球観測や医学的実験は実施されています
大気圏再突入に際しては、本来の姿勢制御方式である「宇宙船を傾け、その揚力を利用した制御方式」で再突入が行われました。コンピューターの不調により、予定地よりも約130kmずれた大西洋上に着水しています

*ジェミニ6号は、に打ち上げを予定していましたが、ランデブー試験を行なう対象であったアジェナ標的衛星が1965年10月25日に打上げに失敗したために、7号の打上げが先となりました。
⑤1965年12月4日ジェミニ7号
が打ち上げられました。この飛行目的は、月飛行計画のための長期宇宙滞在を実施することにありました。宇宙船が軌道投入された後、搭乗員は長時間の宇宙服着用が不快であったために、地上と交渉した上で宇宙服を脱ぐことになりました。打上げ後5日目には高度300kmの安定した円軌道に軌道変更を行っています。12月15日にはジェミニ6-A号も打ち上げられ軌道上でランデブー(下記⑥参照)を行なっています。以降、予定されていた実験もほとんど完了したために宇宙飛行士は読書などをして過ごしました。一方、この頃からスラスターの不調燃料電池の出力低下が報告されています。ジェミニ7号は12月18日に大気圏再突入し、フロリダ半島沖の大西洋上の予定地点から11.8km離れたところに着水しています。宇宙滞在時間は13日18時間35分となり、ジェミニ5号の7日22時間を超え宇宙滞在記録を更新しました

⑥1965年12月15日予定変更されたジェミニ6-A号が打ち上げられ、近地点161km、遠地点259kmの軌道に投入されました。打上げ94分後に、ジェミニ6-A号は軌道変更のための5km/secの加速を開始し、軌道高度を上げ、ジェミニ7号に追い付くコースをとりました

ジェミニ6-A号から見たジェミニ7号

3回の軌道修正により6-A号は遠地点274km、近地点270kmの軌道に入りました後、微修正を繰り返してジェミニ7号とのランデブーを行いました。最接近時は距離30cmで近づいており、ランデブー状態を約270分継続しています。ジェミニ6-A号はランデブー試験の成功の後、ジェミニ7号よりも先に12月16日に帰還しています

⑦1966年3月16日、ジェミニ8号が打ち上げられました。この飛行では史上初となる2機の宇宙機の軌道上でのドッキングが行われました

ドッキングの対象となるアジェナ標的衛星(GATV-5003)は、1966年3月16日に打ち上げられ高度298キロメートルの円軌道に乗り、自動制御でドッキングのための正確な高度に軌道修正していました

ドッキングの為の手順は以下の通りです;
@第1回目の軌道修正は発射から1時間34分後に行われました。二人の宇宙飛行士は、 OAMS を5秒間作動させ遠地点をわずかに下げました
@第2回目の軌道修正は遠地点の近くで行われ、速度を毎秒15メートル増加させました
@第3回目の軌道修正は太平洋上空で行われ、横方向への噴射で毎秒18m加速し、軌道平面を南側に傾けました
@メキシコ上空にさしかかったとき、ヒューストンの通信担当官は、さらに毎秒0.79メートル加速する最後の軌道修正が必要であると伝えました
@ランデブー用レーダーは、距離322キロメートルの地点でアジェナの姿をとらえ、発射から3時間48分10秒後、宇宙飛行士らはさらにロケットを噴射し、アジェナよりも高度が28キロ低い円軌道に進入しました
@最初にアジェナを目視したのは距離141キロの地点で、102キロまで接近したときコンピューターによる自動操縦に移行しました
@その後の数度にわたる微調整で距離46メートルまで接近し、相対速度はゼロになりました
@宇宙飛行士らは30分間にわたってアジェナを目視で点検し、発射の衝撃による損傷は何も見られないことが確認できたため、管制室はドッキングを遂行するよう指令を出しました
@アームストロング飛行士は毎秒8センチメートルでアジェナへの接近を開始し、数分間のうちにアジェナのドッキング装置の留め金がかかり、緑色のランプが点灯してドッキングが完了しました。「管制室、ドッキングが完了! 実にスムーズなものだった」と、スコット飛行士が無線で地上に報告しました

緊急事態発生!;
@アジェナが内蔵プログラムにより、ジェミニと結合した船体を90度右に傾ける操作を開始した後、スコット飛行士は船体が右回転していることに気づきました。アームストロング飛行士はェミニのOAMSを使用して回転を止めましたが、一旦停止した後、すぐにまたローリングが始まりましたが、この時点で8号は地上との通信圏外にいましたた。
@アームストロング飛行士は、OAMSの燃料が30%にまで落ちていると報告しました(これは問題がジェミニの方にあることを示しています
@回転があまりに速くなりすぎると宇宙船の一方または双方が損傷し、さらには燃料を大量に積んだアジェナは分解あるいは爆発するおそれがあるため、飛行士らは状況を分析できるようアジェナを切り離すことを決断しました
@アームストロング飛行士が切り離しのた機体を安定させようと奮闘している一方で、スコット飛行士はアジェナの制御を地上からの指令に切り替えました
@スコット飛行士が分離のボタンを押すと、アームストロング飛行士はケットを長時間噴射してアジェナから遠ざかりました
@しかし、アジェナが切り離されたことによりジェミニの回転数は急激に上昇(1秒間に1回転)し、この状態では飛行士は視界がぼやけ、意識を失ったり回転性めまいに陥ってしまう危険がありました
@アームストロング飛行士は回転を止めるためにOAMSを停止し、大気圏再突入システム (以下RCS/Re-entry Control Systemと記述) の推進装置を使用することを決断しました


@宇宙船の状態を安定させることに成功した後、両宇宙飛行士はOAMSを順番に点検し8番の推進器に異常があることを発見しました
再突入用の燃料は回転停止に使用したためほぼ75%が失われており、規定では何らかの理由でRCSを一度でも噴射した場合は飛行を中止しなければならないとされていました。従って、ジェミニ8号はただちに緊急着陸の準備を始めました

着水、生還まで;
@その後、軌道を1周した後に大気圏に再突入することが決定されました。当初は大西洋に着水することが予定されていましたが、ここに到達するのは3日後のことでした。そのため新たに太平洋上の着水地点(沖縄東方800km、横須賀南方1,000km)が設定されました
再突入を開始したのは中国上空で、NASAの通信ステーションの範囲外でした
@着水想定地点に航空機が派遣され、パイロットは宇宙船の着水地点を目をこらして観測しました。ジェミニ8号を発見すると、この航空機からアメリカ空軍パラレスキュー部隊に連絡され、3名のレスキュー隊員が海面に飛びおりて宇宙船に浮き輪を取りつけました。着水から3時間後、ジェミニ宇宙船は艦上に引き上げられました。飛行士らは疲労困憊していましたが、無事に生還することが出来ました

⑧ジェミニ9-A号
ジェミニ9号の目的は、軌道上においてドッキングを成功させることにありましたが、ドッキング対象となるはずだったアジェナ標的機は、1966年5月17日に打ち上げられたものの、軌道投入に失敗し、ジェミニ9号の打ち上げも中止されました。その後、別の標的衛星が打ち上げられ、同年6月1日にジェミニ9-A号と名前を変えて打ち上げようとしましたが、発射3分前に機器の不調により打上げ中止となってしまいました。結局、1966年6月3日に打ち上げられました
軌道投入後の活動;
打ち上げ49分後、標的衛星に接近するための軌道修正を開始し、3時間20分後に93kmの地点にまで接近しました。しかし、標的衛星のペイロード・フェアリングが開ききっていないことが確認され、ドッキングは中止されました
飛行3日目に船外活動試験を実施することとなりユージン・サーナン飛行士が船外に出て、推進・機械部に搭載された宇宙飛行士推進ユニット(AMU/Astronaut Maneuvering Unit)を装着し船外活動を開始したものの、無重力下の宇宙空間での移動は困難を極めました。また宇宙服が動きづらかったのみならず、汗によりバイザーが曇り視界が確保できなくなったため、AMU の所まで移動するのに1時間を費やしました。飛行士の疲労や視界不良のため、AMUによる船外活動は中止となり、ユージン・サーナン飛行士は再び1時間をかけて船内に戻りました。
周回45週目に逆噴射を行い、大気圏再突入を開始しました。再突入動作は非常に順調に行われました

⑩1966年7月18日、ジェミニ10号が打ち上げられました。これに先立ち、ドッキング対象となるアジェナ標的機(GATV-5005)も打ち上げられて、打上げ6時間後にはアジェナ標的機(GATV-5005)とのドッキングに成功しました。ドッキング状態のまま、アジェナ標的機のエンジンを用いて近地点294km、遠地点763kmの軌道に変更することに成功しています。7月19日20時58分より78秒間の噴射を行い、近地点294km、遠地点382kmの軌道に再修正を行い、更に軌道修正を行って遠地点を378kmに変更しています
その後、アジェナ標的機(GATV-5005)を分離し、ジェミニ8号とドッキングしたことのあるアジェナ標的機(GATV-5003)とのランデブーを試み、3kmまで接近しています

打上げ48時間41分後から、マイケル・コリンズ飛行士は船外に出てアジェナ標的機(GATV-5003)へと移動しました。命綱を装着し宇宙銃を用いても移動は困難だったものの、アジェナ標的機(GATV-5003)に装着されていた微小隕石収集装置を回収し、ジェミニ宇宙船に戻ってきました
<参考> 微小隕石収集装置とは
色々な呼び方があると思いますが、宇宙空間に浮遊している、あるいは飛び交っている微小な粒子を補足する装置です
因みにISS(国際宇宙ステーション)に装備されている微小粒子捕獲装置は右の写真の様な装置です。JAXAはこの装置で世界的な発見を行っています(ISSで新種の地球外物質を回収

打上げ70時間10分後(48周回実施)に逆噴射を行い大気圏再突入を開始し、フロリダ半島沖の大西洋上で待機していた強襲揚陸艦ガダルカナルから5.6kmの地点に着水、無事回収されています

⑪1966年9月12日、ジェミニ11号が打ち上げられました。
これに先立ち、アジェナ標的機(GATV-5006)が1966年9月12日13時5分に打ち上げられており、ジェミニ11号は打上げ約1時間半後にはこのアジェナ標的機(GATV-5006)とのドッキングに成功しています
打上げ24時間後から搭乗員のリチャード・ゴードンは船外活動で各種の実験などを行っていましたが、疲労が激しく33分間で打ち切られ、全ての実験を消化することはできませんでした
打上げ40時間30分後に、アジェナ標的機(GATV-5006)のエンジンを用い軌道変更を実施、遠地点1,374kmの軌道に変更しましたが、これは当時有人で到達した最高高度でもありました。3時間23分後の再軌道修正により遠地点304kmの軌道に戻っています。また、打上げ後47時間7分後からゴードン飛行士が2時間に渡って、2度目の船外活動を行っています。

船外活動終了後、ジェミニ11号はアジェナ標的機(GATV-5006)とのドッキングを解除し、テザー試験を開始しています。これはジェミニ宇宙船とアジェナ標的機の間を約30mの紐で結び、軌道上の微小重力を用いたテザー推進により、姿勢制御を行なう試験でした。この試験は打上げ53時間後に終了しています
大気圏再突入は、米国の宇宙計画で初めて、完全コンピューター制御によって行われ、バハマ沖の大西洋上、強襲揚陸艦グアムから4.5kmの地点に着水、無事回収されています

⑫1966年11月11日、ジェミニ12号が打ち上げられました。これに先立ち、ドッキング対象となるアジェナ標的機(GATV-5001A)も打ち上げられています。
ジェミニ12号は打上げ4時間14分後にアジェナ標的機とのドッキングに成功しましたが、ジェナ標的機のエンジンに不調が見られたため、より遠軌道への軌道変更試験は中止されました

船外活動中のオルトリン飛行士

打上げ19時間29分後から1回目の船外活動が開始されました。これまでの船外活動の難しさを克服する為に、事前の訓練や作業道具の見直し・追加を行なっており、船外活動は以前より容易なものとなりました
オルドリン飛行士は2時間29分に渡って船外活動を行い、船外より微小隕石収集機の回収を行なっています。また2回目の船外活動は42時間48分後から開始され、2時間6分に渡って継続し、アジェナ標的機(GATV-5001A)とジェミニ宇宙船との間にテザー(綱)を設置し、これに携帯用手すりを用いて、船外活動をよりやり易くしています
47時間23分後にアジェナ標的機とのドッキングを解除し、テザーによる姿勢制御試験を行いました。テザーの長さは30mで、両端にジェミニ宇宙船とアジェナ標的機がある形になり、51時間51分まで続けられました。オルドリンによる3回目の船外活動が66時間6分後から行われました
94時間後に逆噴射を実施し、大気圏再突入を開始しました。全自動モードでの突入であり、目標より4.8km離れたバハマ沖の大西洋上に着水し、航空母艦ワスプにより無事回収されています

*ジェミニ計画で予想外の事象や失敗を多く経験することにより、アポロ計画は慎重に進められ、結果として比較的順調に成功への道を辿れたと思われます(私見)

アポロ計画

ケネディ大統領が国家事業として開始したアポロ計画は、NASAによるマーキュリー計画、ジェミニ計画に続く三度目の有人宇宙飛行計画です。この計画は、1961年~1972年にかけて実施され、全6回の有人月面着陸に成功しました

計画を具体化するに当たってまず必要になった事は、月飛行方式を決めることでした。具体的には以下の方式が検討されました;
A.直接降下方式
単体の宇宙船で月に向かい、着陸して帰還するとい方式。この方式では、非常に強力なロケットが必要とされる為不採用となりまhした。
B.地球周回ランデブー方式(Earth Orbit Rendezvous, EOR);
複数のロケットで部品を打ち上げ、月に直接降下する宇宙船、地球周回軌道を脱出するための宇宙船を組み立てる方式。軌道上で各部分をドッキングさせた後は、宇宙船は単体として月面に着陸する。
C.月面ランデブー方式
2機の宇宙船を続けて打ち上げる方式。燃料を搭載した無人の宇宙船が先に月面に着陸し、その後人間を乗せた宇宙船が着陸する。地球に帰還する前に、必要な燃料は無人船から供給される。
D.月周回ランデブー方式(Lunar Orbit Rendezvous, LOR);
いくつかの単位から構成される宇宙船を、1基のサターン・ロケットで打ち上げるという方式着陸船が月面で活動している間、司令船は月周回軌道上に残りその後活動を終えて離昇してきた着陸船と再びドッキングする

他の方式と比較すると、Dの方式はそれほど大きな着陸船を必要とせず、そのため月面から帰還する宇宙船の重量(すなわち地球からの発射総重量を最小限に抑えることができることから、この方式が選択されました

1.巨大なサターンロケットの開発
Dの方式でも有人月面着陸を行うには、米国が保有しているロケットでは対応不可能で、新しい強力なロケットの開発が必要になりました。サターンロケットは、ナチスドイツでV2ロケットの開発を行ったウェルナー・フォン・ブラウンが中心となって開発しました。サターン(Saturn)という名は、土星の英語名です

A.サターンIの開発;
サターン・シリーズの最初の型。日本のH-IIAとほぼ同等の低軌道打ち上げ能力を持ち、米国が地球周回軌道に衛星を乗せることを目的に開発した初めてのロケット(宇宙専用機)です。第一段は、新規に大きなエンジンを開発するのではなく、すでに完成されている小さいロケットエンジンを組み合わせる (clustered) ことによって大推力を発生させていることが特徴です。このクラスター方式は、手堅くて融通のきくものであることを実証してみせました。元々は1960年代において全世界を射程圏内に収める軍用ミサイルとなるべきはずのものでしたが、実際には1961年~1965年、10機のみが、アメリカ航空宇宙局 (NASA) によって使用されただけでした
このロケットの性能は、離陸重量は509.7トンで、地球低軌道には9トン、月軌道には2.2トンの打上能力があります

<構造・性能詳細>
①第1段目の構造・性能
全長:24.5m、直径:6.52m、エンジン:H-1/8基、推力:774トン、推進剤:ケロシンと液体酸素

②第2段目の構造・性能
全長:12.2m直径:5.49m、
エンジン:RL-10/6基、推力:41トン、推進薬:液体水素、液体酸素

③第3段目の性能
全長:9.1m、直径:3.1m、エンジン:RL-10/2基、推力:14トン、推進薬:液体水素と液体酸素

サターンⅠによる打上実績;
①1961年10月27日、1段目の飛行テスト(弾道飛行
②1962年4月25日、高度105kmに到達した時点で自爆装置を作動させてロケットを爆破し、模擬の2段目ロケットに搭載した109,000リットルの水を宇宙空間に散布して通信や気象への影響を調査(ハイウォーター計画)
③1962年11月16日、二度目のハイウォーター計画実施

④1963年3月28日
1段目ロケットの最後の試験飛行(2段目はダミーを搭載)。今回の目的は、エンジンの一基を発射から約100秒後に停止するというもので、停止したエンジンが使用するはずだった燃料を残りのエンジンに振り分け、燃焼時間を長くすることによってロケットは正しい軌道を維持できるかテストを行い正しい軌道が維持できるか確認するテスト。この技術はトラブルが発生した場合の冗長性確保(トラブルが発生しても深刻な事故に発展させない設計)が目的であり、後のアポロ6号やアポロ13号の大きなトラブルの際に大いに役立てられました

⑤1964年1月29日
、初めて二段目のロケットが搭載されて発射されました。1段目の切り離しは完璧に成功、2段目も順調に飛行し、近地点262km、遠地点785kmの楕円軌道に投入されました。この人工衛星になった2段目の重量は約17トンになり、その時点で世界最大の人工衛星となりました(⇔ソ連を越えた!
⑥1964年5月28日、形態・重量・重心などすべてが人間を搭乗させた場合と同等に作られた司令船と緊急脱出用ロケットのダミーが搭載し、司令船には116ヶの計測機器が搭載され、圧力・応力・加速などのデータを計測し地上に送信されました。発射から76.9秒が経過した時、1段目の第8エンジンが予定よりも早く燃焼を停止してしまった。しかし、冗長性確保の設計が完璧に機能し、残りのエンジンが予定よりも2.7秒長く燃焼し、ロケットは予定通りの軌道を飛行しました。第1段ロケットを切り離し、第2段が点火され、数秒後には緊急脱出用ロケットも切り離されました。第1段切り離しの様子は機体に搭載された8台のカメラで撮影され、フィルムは大西洋上で回収されました。2段目ロケットと司令船の模型は近地点182km、遠地点227kmの楕円軌道上に投入されました。司令船は地球を4周してバッテリーが途絶えるまでデータを送信し続け、6月1日に地球を54周した後大気圏に突入し、太平洋に落下しました

⑦1964年9月18日
、第1段ロケットは発射から147.7秒後に燃焼を停止し、その0.8秒後に切り離されました。さらに1.7秒後には第2段ロケットが燃焼を開始し、発射から160.2秒後に緊急脱出用ロケットが投棄されました。第2段ロケットは発射後621.1秒で燃焼を停止し、司令・機械船の模型が近地点213km、遠地点227kmの楕円軌道に投入されました。宇宙船は他の衛星を介してデータを送信し続け、地球を59周した後大気圏に再突入し、インド洋上に落下しました
⑧1965年2月16日、飛行は正常に行われ、2段目の先端に取り付けられた人工衛星ペガサスAは、およそ10分半後に近地点495km、遠地点743kmの楕円軌道上に投入されました。この飛行の目的は、緊急脱出用ロケット、及び司令船の切り離しに関わるテスト、またペガサスAには、機体の構造や電気的システムの機能に関するテスト、及び 低軌道に於ける宇宙塵が機体に及ぼす影響の調査という目的がありました

⑨1965年5月25日の夜間(現地時間午前2時35分)に発射されましたが、サターンIではこれが最初でした。10.6分後、2段目の先端に取り付けられた人工衛星ペガサスBは正常に軌道に投入されました。宇宙船、ペガサスB、使用済の第二段ロケットなど、軌道に乗ったものの総重量は約15.5トンでした。ペガサスBはその後1968年8月29日に通信が途絶えるまで、データを送信し続け、大気圏に再突入したのは、14年後の1979年11月3日でした。計画全体はほぼ完全に達成されました
⑩1965年7月30日に打ち上げられ、約11分後に司令船、ペガサスC、二段目ロケットが軌道に乗りました。ペガサスCは切り離され後872秒後に宇宙塵探査のためのパネルが展開しました。ペガサスCは当初の予想よりも長く1968年8月29日まで信号を送り続け、大気圏再突入は1969年8月4日で、計画のすべての目的は達成されました。司令船の大気圏に再突入は1975年11月22日でした(打上語10年以上経過!)

B.サターンIBの開発;
サターンIの改良型であり、第二段により強力なS-IVBを搭載しており、2段式ロケットです。以下、カッコ内の数値はサターンⅠとの比較です。尚、このロケットは、宇宙ステーション「スカイラブ計画」、「アポロ計画」にも一部使用されました
①第1段目の構造・性能
全長:25.5m(+1.0m)、直径:6.60(ほぼ同じ)、エンジン:H-1/8基(同じ)、推力:929トン(+155トン)、推進剤:ケロシンと液体酸素(同じ)

②第2段目の構造・性能
全長:17.8m(+5.6m)、直径:6.6m(+1.2m)、
エンジン:J-2/1基、推力:91トン(+49トン)、推進薬:液体水素、液体酸素(同じ)

サターンⅠBによる打上実績;
①1966年2月26日、サターンⅠBの初飛行(弾道飛行)及びアポロ司令・機械船の無人弾道試験飛行
②1966年7月5日、第2段性能試験。地球を4周
③1966年8月25日、司令・機械船の無人弾道試験飛行
④1968年1月22日(アポロ5号)、本来はアポロ1号で使用されるはずだった機体。アポロ月着陸船無人試験飛行。地球を36周
⑤1968年10月11日(アポロ7号)、アポロ宇宙船初の有人飛行。地球を163周
⑥1973年5月25日(スカイラブ2号)、宇宙ステーションスカイラブ第一次滞在クルーの飛行。地球を404周
⑦1973年7月28日(スカイラブ3号)、スカイラブ第二次滞在クルーの飛行。地球を838周
⑧1973年11月16日(スカイラブ4号)、スカイラブ第三次(最終)滞在クルーの飛行。地球を1,214周
⑨1975年7月15日、ソ連のソユーズ宇宙船とのランデブーとドッキングサターンIB 最後の飛行

<参考> スカイラブ計画とは;
スカイラブ計画は、1973年~1979年まで地球を周回する飛行を行いました。米国が初めて挑んだ宇宙ステーションです。主として、宇宙開発(アポロ計画を含め)の基礎となる実験や地球観測や長時間の無重力環境を必要とするような科学の実験に使われました。因みにスカイは「空⇒宇宙空間」、ラブは「laboratory」(実験室)の略です

C.司令・機械船、月着陸船の開発;
月周回ランデブー方式(Lunar Orbit Rendezvous, LOR)で月着陸、地球への帰還を目指す為の具体的手順は以下の様になります;
①地上からの打ち上げロケットにより司令・機械船と月着陸船を接続したまま地球周回軌道に入ります。その後、サターンⅤの第3段エンジンを噴射し司令・機械船と月着陸船月を月への軌道に乗せます。月周辺に到着後、
②月の衛星となる為に月着陸船を接続したまま司令・機械船のエンジンを噴射して月周回軌道に入ります。そこから、
③2人の飛行士を乗せて月着陸船を切り離し、月着陸船のエンジンを逆噴射をして軟着陸を行います。帰還する時は、
④月着陸船・下降段を切り離し、月着陸船・上昇段のエンジンを噴射して月周回軌道に入り、司令・機械船とランデブーを行い2人の飛行士を指令・機械船に収容します、その後、
司令・機械船はエンジンを噴射して地球周回軌道に入ります。その後、
指令・機械船エンジンを噴射して大気圏に突入し、機械船を切り離し指令船のみを着水させる

以上より、司令・機械船と月着陸船は以下の様な機能を持たせなければなりません

司令・機械船の開発
司令船・機械船は二つの部分から構成されています。司令船は3人の飛行士乗船し、宇宙船を操縦し地球に帰還させるために必要なすべての制御装置が搭載されています
機械船は推進用の大きなロケットエンジン1基と姿勢制御用の小ロケットエンジン16基およびその燃料、さらに宇宙滞在中に必要な酸素、水、バッテリーなどの消耗品などを搭載しています。最終的に地球に帰還するのは司令船のみで、機械船は大気圏再突入時に高温・高圧力で消滅します

司令船は直径3.9m、高さ3.2mの円錐形で、頂上部には二基の姿勢制御用小型ロケット、月着陸船とのドッキング装置および乗り換え用のトンネル、地球帰還時に使用するパラシュートなどが搭載されています。底辺部には10基の姿勢制御用小型ロケットとその燃料タンク水タンク機械船との集合接続ケーブルなどがあります。外壁は主にアルミニウムのハニカム構造(蜂の巣の様な構造)になっています。底面には4層のハニカムパネルを貼り合わせた耐熱シールドとなっており、大気圏再突入時にはこのシールドが断熱圧縮で高温となり徐々に融解することによって熱を吸収し、船体が熱破壊されることを防いでいます

テスト中の司令船の事故:
アポロ1号は、1967年2月21日に最初の有人宇宙飛行となる予定で準備が進められていましたが、同年1月27日、発射台上で発射の予行演習を行っていた際に火災が発生し、ガス・グリソム 、エドワード・ホワイト、ロジャー・チャフィーが3名の宇宙飛行士が犠牲になりました


機械船
は与圧されていない直径3.9m、高さ7.5mの円筒形の構造物です。内部は中央部とそれを放射状に取り巻く6つの外郭部によって構成されており、推進用ロケット・姿勢制御ロケットおよびその燃料、酸素、燃料電池、通信用のアンテナなどが配置されています

前部カバーは高さが86.4cmで、機械船コンピューター、司令船との結合装置などが収納されています

推進用エンジンは高さ約3.9m、直径約2.5mで、燃料にはエアロジン-50、酸化剤には四酸化二窒素を使用する。推力は894kgで、月周回軌道への投入および離脱、途中での軌道修正などを行ないます。 姿勢制御用ロケットは1基が推力4.4kgで、四基ずつ集合したものがそれぞれ90度の角度をおいて外周に配置され、宇宙船の姿勢制御や速度の微調整などを行ないます。姿勢制御用ロケットの燃料はモノメチルヒドラジン、酸化剤は四酸化二窒素です

月着陸船(Apollo Lunar Module)の開発
アポロ計画において、2名の宇宙飛行士を月面に着陸させ、かつ帰還させるために開発された宇宙船です。下降段と上昇段による構成で、着陸する際は下降段のロケット噴射をブレーキに用い月面に降り、帰還する際は下降段を発射台として、上昇段のロケットを噴射して軌道上の司令船とドッキングします。総重量は14.7トンで、そのうち下降段の重量は10.1トンを占めます

開発は困難を極めました。まず問題となったのは重量でした。当初ロケットの打ち上げ能力から要求された重量は9トン以内だったのですが、開発初期でさえ予定重量は10トンを超えていたため、徹底した軽量化が図られました。中でも一回きりの使用となる着陸時の緩衝機構はアルミ製ハニカムが潰れる事で着陸時の衝撃を吸収する方式が新たに採用されました。こうした努力にも関わらず最終的に重量は15トン近くに達し、見かねたウェルナー・フォン・ブラウンがサターンVの推力を増やすことでようやく解決することになりました。次に問題となったのは着陸用エンジンで、従来のロケットエンジンに比べ繊細な出力制御が要求されましたが、燃料と酸化剤の比を一定に保ちつつ流量制御する特殊な供給機構の開発により解決されました

D.サターンⅤの開発;
連邦航空宇宙局(NASA)が開発した世界最大のロケット(全長・総重量・搭載量)で、6年間で計13機のサターンVを発射し、その間大きな事故は一度も起こしませんでした
サターンVは、サターン・シリーズの旗艦ロケットです。ウェルナー・フォン・ブラウンの指揮の下、ボーイングノース・アメリカンダグラスIBM等、米国が誇る航空、ITに関わる巨大企業が開発作業を分担しました。アラバマ州ハンツビルのマーシャル宇宙飛行センターにおいて開発が進められましたが、最終的にそれらを引き取り、組み立てる作業はボーイングが行いました

以下、カッコ内の数値はサターンⅠBとの比較です
第1段の構造・性能;
全長:全長は42.0m(+16.5m)、直径:10.0(+3.4m)、エンジン:F-1/5基(Δ3基)、推力:3,460トン+2,531トン)、推進剤:ケロシンと液体酸素(同じ)
*エンジン5基のうち中央の1基は固定されており、ジンバル(首振り)機構が設けられた周囲の4基がロケットの飛行を制御する構造になっています。また加速度を制限する(⇔推力が変わらずに燃料を消費していくとロケットの重量が減少し、結果として加速度が増加して乗員の負担が大きくなるから)ために、中央の1基は発射後2分で燃焼を停止することになっています。更に、周囲の4基のエンジンがトラブルを起こした場合の冗長性/Redundancyの役割も担っているものと考えられます

第2段の構造・性能;
全長:24.9(+7.1m)、直径:10.0m(第1段と同じ;+3.4m)、
エンジン:J-2(4基;+3)推力:453トン+362トン)、推進薬:液体水素、液体酸素(同じ)
第3段の構造・性能;
全長:17.9m、直径:6.6m、エンジン:J-2/1基(サターンⅠBの2段目と同じ)、推力:91トン、推進薬:液体水素、液体酸素
*第3段目のロケットは、第2段ロケットの燃焼終了後から2分半にわたって噴射を行って機体を地球周回軌道に投入します。その後6分の噴射を行って月への軌道に乗せることになっています

サターンVによる打上実績;
*以下の実績で、アポロの発射番号で欠番になっている部分は、文末にある参考の図表をご覧ください
①1967年11月9日(アポロ4号)、サターンⅤの  初飛行。すべての実験が成功
② 1968年4月4日(アポロ6号 ) 、第2段と第3段のJ-2 エンジンに問題が発生
1968年12月21日(アポロ8号)  初の有人飛行。月を周回
④1969年3月4日( アポロ9号)、  地球周回軌道上で月着陸船の有人飛行試験
⑤1969年5月18日(アポロ10号) 月面着陸の予行演習
⑥1969年7月16日(アポロ11号)、  史上初の月面着陸
⑦ 1969年11月14日(アポロ12号)、 無人月面探査機サーベイヤー3号の近くに着陸。発射時に2回雷の直撃を受けましたが、ダメージはありませんでした

⑧1970年4月11日(アポロ13号)、月に向かう途中で機械船の酸素タンクが爆発する事故が発生しましたが、飛行士は月着陸船をあたかも救命ボートとして用い、使用不能になった機械船のエンジンの代わりに月着陸船の降下用エンジンを使って地球に帰還するための加速を行いました。月着陸船は、本来は2人の飛行士を45時間生存させるよう設計されていましたが、あらゆる部分を切り詰めて使用した結果、3人の飛行士を90時間生存させることに成功し、飛行士は無事に帰還しました
⑨1971年1月31日(アポロ14号)  フラ・マウロ高地の近くに着陸
⑩1971年7月26日(アポロ15号)  月面車を初めて使用
⑪1972年4月16日(アポロ16号)  デカルト高原に着陸
⑫1972年12月7日(アポロ17号)  初の夜間打ち上げ。アポロ計画最後のミッション
⑬1973年5月14日(スカイラブ1号)  宇宙ステーション・スカイラブを打ち上げに使用

おわりに

ソ連に先行された宇宙開発競争は、ジェミニ計画からは米国が完全に追い越し、アポロ計画に至って人類が夢見ていた月着陸、地球への帰還という快挙を成し遂げました。この契機となったのは、ネディー大統領の壮大な計画と大胆な財政支援であり、またこの計画をバックアップしたのは失敗を恐れず前に進むという米国民の開拓者精神であったと私は思います
考えてみれば、人類が鳥の様に空を飛ぶという夢を実現した航空機の歴史も似た様な経過を辿りました(ref:航空機の発達と規制の歴史)。幾多の事故に怯むことなく、原因を追究し飽くなき挑戦を続けていくこと以外に進歩はあり得ないという事であろうとおもいます

ネット情報を丹念調べていくと、失敗についての記事は、ソ連、ロシアからは余り見つからない(←多分隠している)のに対し、米国の宇宙開発途上での失敗(緑字の下線付きの部分参照)は数多く見つけることが出来ます。米国はこうしたチャレンジの結果としての失敗に実に寛容な国であると思います
翻って日本の宇宙開発はどうか、昨年から今年にかけて良型イプシロンロケット、H3ロケットの打上失敗がありました。強く非難する論調は無かったものの、開発担当者の落胆ぶりを見ると悲しい気持ちになります。これに対して宇宙開発用の大型宇宙ロケット「スカイシップ」打上の失敗では、スペースX社の開発担当者やオーナーであるイーロンマスクの表情は明るすぎるほど明るいものでした。恐らく未知の領域へのチャレンジとは、こういう心構えと財政的な余裕が必要なのかと気づかされました

革新的な設計を行っているイプシロンロケット、H3ロケットの開発
も、米国流でやるのであれば、地上でのテストとは別にペイロードを載せる前にまずロケットシステムのみの実射テストを行うべきではなかったか(まあ予算による制約も大きかったんでしょうね)? でも、ペーロードを載せての失敗はもっと失うものが大きかったような気がします

Follow_Up:2023年5月25日日経新聞記事_「H3」2号機、衛星載せず打ち上げへ リスク抑え性能確認

宙開発競争の歴史

以下のデータはネット上で検索を行って纏めたものであり、全てをカバーしている訳ではありません。また、軍事目的に関わる打上実績は敢えてピックアップしてません;