福島原発処理水海洋放出に関わる論点を整理してみました

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-はじめに-

最近、標記に関わるニュースが頻繁に登場する様になりました。きっかけは、福島原子力事故以降、地下水や雨水が原子炉内に入り、溶けた燃料(デブリ/Debris)の冷却に使われて後、放射性物質を含む汚染水は処理された後、発電所の敷地内にタンクを適時建設しつつ貯留(見出しの写真参照/現在タンクは1,000基以上)してきたものの全容量(137万トン)の約98%に達しており、今年8月から海に放出する必要が出てきたためです

現在の計画では、国で決められた基準値の1/40に希釈し、海に放出する計画になっています。タンクに収められている処理水は、左の図の様に、予めALPSで有害な放射性物質は可能な限り除去されております
<参考> 左図のALPSとは、 Advanced Liquid Processing System(多核種除去設備)の頭文字を取った略語で、トリチウムを除く63種類の放射性物質を規制基準以下まで浄化処理する設備のことです。尚、巷では海洋に放出されるものを汚染水と言う人もいますが、海洋に放出されるのは「処理水」です。

<参考>  トリチウム以外の放射性核種の処理について
汚染水にはトリチウムを除き63種類の放射性核種が含まれていますが、それぞれの核種について、生まれてから70歳になるまでその核種を含んだ水を毎日約2リットル飲み続けた場合に、平均の被爆線量が1年あたり1ミリ・シーベルトに達する濃度が限度として定められており、これを「告示濃度限度(ベクレル表示)」と言います。
一方、処理水は、この63種類の核種の濃度の合計が1以下(1/100)となる様に二次処理されています(詳しくは「多核種除去設備等処理⽔の⼆次処理性能確認試験結果(終報)」をご覧ください)
例:(告示濃度限度(べクレル/L)処理後の濃度(べクレル/L)
*セシウム137  90/0.1850.0013
*コバルト60   2000.3330.0017
*ストロンチウム90300.03570.0012
*炭素14     200017.60.0088

処理水を更に大量の海水を混ぜて海に放出する設備は既に完成し、国際原子力機関や韓国の調査団に公開されており、この設備の海面下の設備を含む概念図は以下の通りです;

今年7月4日には IAEA(注)のトップであるグロッシ事務局長は処理水の海洋放出に関し、科学的な観点からは問題ないとの報告書を岸田総理大臣に提出しております。しかし現在、国際的にはこの海洋放出に反対する国があり、国内でも漁業関係者などは反対を表明している状況にあります
そこで、以前原子力関係の仕事(原子力安全基盤機構・監事)をしていたこともあり、私にも海洋放出の安全性について友人・知人にそれなりの説明責任を果たす義務があると考え、以下にその論点を整理してみることとしました
(注)IAEA(International Atomic Energy Agency)とは、日本語で「国際原子力機関」といい、原子力の平和利用について科学的、技術的協力を進める為、1957年、国連傘下の自治機関として設置されました

尚、以下の説明には原子物理学上の専門的な用語が沢山出てきます(ニュースなどではあまり詳しい説明なしに使用される傾向があります)が、原子物理学が得意でない方は、2016年8月に発行している私のブログ「原子力の安全_放射能の恐怖?」を事前にざっと一読して頂ければ理解が早いと思います

論点1_トリチウムの放射線の危険性

水素という元素は陽子が一つである元素の一般名称です。水素には原子量が1~3ヶの三つの種類があり(下図参照)、科学的性質はほぼ同じです
通常、我々が水素と言っているものは、上図の左端の陽子が一つだけの原子核を持った水素です。真ん中の重水素(原子核が陽子と中性子で1ヶずつで構成されている)は最近話題に度々登場している「核融合反応」の燃料として使われる元素です。右端にある三重水素がトリチウムです。三つの元素の内、放射性物質(放射線を出す物質)はこのトリチウムのみです。重水素・トリチウムはごく微量で自然界にも存在する元素で、主に宇宙線によって生成されたものですが、原子爆弾・原子炉が登場してからはトリチウムは人工的にも生成される様になりました

放射線が人体に与える影響を論ずるには、「放射線の種類」、「放射性物質の半減期」、「放射性物質の生物学的半減期(体の中に取り込まれた放射性物質が50%排出される期間)」を理解しておく必要があります
トリチウムはベータ線を放出してヘリウムの同位元素(陽子2ヶ、中性子1ヶ)に変わります(この反応は一般にベータ崩壊と言います)。ベータ線の正体は電子で、陽子の「1/1800」の質量しかないためエネルギ-は他の放射線に比べて小さく(最大18.6keV、平均5.7keV/キロ・エレクトロンボルト⇔非常に小さなエネルギーの単位)、またマイナスの電荷をもっている為に空気中を約6mm程進む内に空気中の窒素、酸素、他の元素との相互作用でエネルギーを失ってしまいます。従って人間の皮膚を通過して体内に侵入することはありません。一般に障子一枚で遮蔽することが可能とされています

②人間の被爆を論ずる場合、「外部被爆」と「内部被爆(体の中に取り込まれた放射性物質による被ばく)」の違いを理解していなければなりません
外部被爆」が問題となるのは、一時的に極めて強い放射線を浴びた場合、例えば原子爆弾の最初の炸裂時の強い放射線の直射を受けた場合や、死の灰(原子爆弾の核分裂生成物)による被ばくを長時間受けた場合、原子炉近くで被爆を防ぐ防護服を着ないで長時間作業を行った場合などであり、トリチウムの海洋放出では、外部被爆による被害を受けることは考えられません
一方、「内部被爆」については、放射性物質が体内に留まり身体内部で被爆し続けるため身体への影響が大きいことは言うまでもありません。例えば、ベータ線を出すヨウ素131の場合、半減期は8日生物学的半減期は138日ですが、ヨウ素は成長過程にある子供の甲状腺に取り込まれる可能性があることから、内部被曝による甲状腺がんの発症や甲状腺機能障害に関与することがわかっています(成人については甲状腺の成長はほぼ止まっているので、リスクはそれ程高くはないと考えられます)。またストロンチウム90の場合、ベータ線を出してイットリウム90となり、イットリウム90もベータ線を出します。半減期は29年生物学的半減期は49年に達します。ストロンチウムが周期表カルシウムのすぐ下にあることから分かる様に、化学的性質がカルシウムに似ており人間の骨に取り込まれ骨髄にダメージを与えることが知られており、白血病の発症や白血球・血小板の減少による免疫力の低下などに繋がる可能性があります。特に骨の代謝が盛んな30才以前の人はリスクが高くなります

トリチウムの場合、半減期は約12.3年、生物学的半減期は、水として摂取された場合(自由水中トリチウム)は10 日程度、有機物に含有されたもの(有機結合型トリチウム)を摂取した場合は40 日程度であり、トリチウムのベータ線のエネルギーが小さいことと併せ、内部被爆によるリスクはかなり低いと思われます ⇒下表参照


上表は、経産省の報告書から拝借したものですが、図を読む時の注意点は、縦軸の1目盛が10倍きざみになっていることに注意してください。簡単に言うとトリチウムは他の放射性物質と比べて「桁違いに生物に対する影響が小さい」ことが分かります

また、IAEAのサイト情報によれば、世界中のほとんどの原子力発電所では、通常の運転の一環として、低濃度のトリチウム及び他の放射性物質を含む処理水を、日常的かつ安全に環境中へ放出しています。尚、この処理水の放出は国の規制当局により認可・管理され、日常的に厳密にモニタリングされています
因みに、経済産業省の資料によれば、以下の図の様に現状においても、他の国も相応のレベルで放出していることが分かります
<参考> ベクレルという単位について;
「1秒間に1個の原子核が壊れて放射線を出すとき、この元素の放射能を1ベクレルとする ⇒ 単位が「兆」で吃驚しない様に!という定義で分かるように、この単位は放射線の種類やエネルギー、危険性とは直接対応していません。ただ、原子力発電所から排出する放射性物質の種類は概ね同じなので、放射性物質の排出量を比較するには適した単位です
<参考> 世界各国の原子炉タイプ別の排出量、排出方法(河川・海洋放出、気体での空中放出)は以下の資料をご覧ください「世界の原子力施設からの年間排出量

論点2_処理水の海洋放出に伴う反対論とその対策

1.海外での処理水放出反対論と原発事故以降の日本産食品の輸入規制の状況
つい最近まで中国、韓国などの国は、日本の処理水海洋放出に強い反対をしていましたが、IAEAによる安全評価が発表されてからやや下火になっています
特に韓国の尹大統領は、IAEAのグロッシ事務局長から直接安全性の説明を受けて以降IAEAの報告を尊重する立場に変わりました。一方、中国については本年7月14日の林外務大臣と王毅共産党政治局員との会談の内容を見ると、なお反対を続けるようです。ただ「処理水」と「汚染水」との区別がついていない、あるいは知っていても(自国の排出量が日本よりかなり多い)政治的な理由から反対を貫いているのかもしれません

日本産食品の輸入制限については、EUとの間の外交努力により、近々規制撤廃が確実になると共に、処理水海洋放出についても、同様の考え方から輸入規制を行うことは無いと思われます

<参考>
* 2023年7月14日・日経新聞「林外相「科学的観点で対応」_原発処理水放出 王毅氏は批判

Follow_Up: 2023年7月25日・日経新聞「日米韓・原発処理水巡り偽情報対策協議
Follow_Up: 2023年7月30日・日経新聞「日本食品のEU輸入規制、8月3日に撤廃 農相が明らかに
Follow_Up: 2023年7月3日・日経新聞「原発処理水の風評対策_放出前でも基金活用・ 経産相、福島の漁協訪問
Follow_Up: 2023年8月10日・日経新聞「NPT準備委・処理水放出に理解相次ぐ_中国は反対
Follow_Up: 2023年8月16日・日経新聞「中国、日本の魚「輸入停止」1カ月_卸・飲食店に打撃
Follow_Up: 2023年8月26日・日経新聞「水産物に追加支援策、政府調整 中国禁輸でホタテなど
Follow_Up: 2023年8月26日・日経新聞「処理水、濃度「異常なし」 東電が海水調査の結果初公表
Follow_Up: 2023年8月31日・日経新聞「処理水放出を評価、中国対応は「暴挙」_エマニュエル駐日米大使寄稿

2.日本の漁業団体の反対
日本の業関連の団体は処理水の海洋放出については強く反対しています。経済産業省や東京電力が、放出に関わる科学的な説明を行っても納得する気配はありません
* 2023年7月13日・日経新聞「全漁連、原発処理水の放出反対変わらず

ただ、上記の記事を分析すれば全漁連の要求は、放出に伴う健康被害を問題にしているのではなく、「風評被害に対する金銭的な補償を政府に求めている」様に思われます
風評被害の補償については、原発事故以降世界各国で福島産の水産物の輸入禁止措置が行われた為、既に以下の様な基金が準備されています;

今後、8月に予定されている原爆事故後の欧州各国の輸入規制が撤廃されれば、恐らく水産物の輸出が増加することと思われます
しかし、今後、中国・香港は「海洋放出が始まれば福島県産の水産物の輸入禁止措置を行う」と公言していますので、措置が実施されれば、2022年度の全国の水産物の輸出総額実績が3,870億円を超え、その輸出先の1位・2位が中国・香港(2022年度の輸出総額:1,626億円)であることを勘案すると「風評被害の為の基金の増額」が必要になるかもしれません
内訳を詳しく知りたい方は上表の基になる資料「2022年度_農林水産物輸出入概況」をご覧ください

Follow_Up:2023年9月:「米、日本産ホタテ輸出支援 処理水放出1カ月 中国迂回ルート開拓

-おわりに-

日本のトリチウム放出の安全基準は、1リットル当たり6万ベクレル、数字としては大きい値に感じられますが、、、この量の水を毎日2リットル飲み続けると、ベータ線による被爆は1年で0.8ミリシーベルトになります。
一方、政府が今年8月以降に計画している処理水の海洋放出は、上記基準の1/40以下に希釈して放出されます。こればWHO(世界保健機構)が飲料水に定める基準の1/7に相当し、毎日飲み続けても年間の被爆は0.02ミリシーベルトにしかなりません
この被爆量を私達が日頃色々な放射線源から被爆している量と比較すると以下の図の様になります(下図の場合も、縦軸の1目盛が10倍きざみなっていることに注意してください);

私は、昨年から今年にかけて前立腺がんの放射線治療を受けました。約2ヶ月に亘る治療の被ばく量の合計は76シーベルト⇒7万6千ミリシーベルトにも上ります。治療中に多少の副作用はあったものの、今も元気?に生きています
人間は有史以前から各種の放射線に被爆しDNAに損傷を受けてきましたが、その損傷を自らの再生力で修復し、生き延びて繫栄してきました。私はこの生命力と、科学的に立証されている情報を信じています。また、計画通り処理水の海洋放出を実施し、最も大切な福島第一原発の廃炉措置を進捗させることが重要であると考えます

処理水の海洋放出に関して、立憲民主党と共産党は反対の立場を取っていますが、両党の正式見解(下記参照)を見ると、放出そのものに反対を唱えているのではなく、風評被害に対して政府としてきちんとした対応を取ることが必要との立場で反対を表明していると理解することが至当と思います;
処理水の海洋放出に関する立憲民主党と共産党の見解

以上