はじめに
今年4月からベトナムに赴任した娘に招待され、最近家族揃って赴任地のハノイに行ってきました。既に20年前にワイフとホーチミンに行っております(2005年4月ベトナム旅行記)ので、大した違いはないだろうと多寡を括っていたのですが、どっこい!訪問した翌日からベトナムという国・国民にすっかり「愛」を感じてしまいました。尤も、私の学生時代は「ベトナムに平和を ! 市民連合(通称ベ平連)」の活動の報道や学生運動を通じて心情的には熱烈にベトナム支援をしていたことがその背景にあるのかもしれません
見出しの写真は、左側が訪問翌日に訪れたディエンビエンフーの戦跡の中の激戦区となった丘の上に建てられていた「勝利の像」、右側は太平洋戦争終盤、日米双方に多くの死者を出した硫黄島の激戦の米軍勝利の象徴となった「摺鉢山の星条旗」です。この二つの像は、それぞれベトナム人、米国人の愛国心に限りなく大きな力を齎したに違いありません。短い旅行でしたが、以下はこの旅を通じて感じたこと、この旅を通じて触発された「ベトナムという国」の勉強の成果を述べてみます
ベトナムの現在地
ベトナムという国の国力に関わるデータを外務省のサイトで調べてみると以下の様になります(比較対象とする為にカッコ内に日本の数値を書いてあります);
*面積:33万 ㎢ ———————-(37万 ㎢)
*人口:1億30万人 ——————-(1億3200万人)
*人口密度:304人/㎢ —————(357人/㎢)
*2024年のGDP:4763億 USD ——-(4兆1448 億 USD)
*2024年の1人当たりGDP:4749USD (3万1400 USD/1人)
*GDP成長率:7.1%/年 ————–(0.1%/年)
まだまだ経済的には小さな国ですが、成長率はかなり高く、近い将来大きな国力を持つ国になりそうです
*民族構成:キン族(越人)約86%、他に53の少数民族で構成されている
*宗教:仏教、カトリック、カオダイ教
(ベトナムの新宗教/儒教、道教、仏教、キリスト教、イスラム教の教えを土台にしたことから、カオダイ=高臺(高台)と名付けられた)、他
*政治体制:共産党が唯一の合法政党;国会/一院制(定数500名)、任期5年、中選挙区、選挙権満18歳以上、被選挙権満21歳以上
*ドイモイ(刷新)とは:1986年の第6回党大会にて採択された市場経済システムの導入と対外開放化を柱とした路線。現在、汚職対策、構造改革や国際競争力強化等に取り組んでいる
*外交方針:全方位外交を展開。各種国際機関をはじめ、国際的、地域的枠組みにも積極的に参加している
*軍事力(2023年):軍事予算/63.5億ドル、徴兵制、正規軍45万人(陸軍/約38万人、海軍/約4万人、防空・空軍/約3万人)
*貿易額(2023年):輸出/3,555億ドル、輸入/3,275億ドル
*貿易相手国(2023年):輸出/米国、中国、韓国、日本、オランダ、輸入/中国、韓国、日本、台湾、米国
*主要援助国:日本、ドイツ、フランス、米国、韓国(この3ヶ国はベトナム近代史の中で敵国として戦った相手です)
| 日本の対ベトナム ODA供与規模・実績(単位:億円) | |||||
| 年度 | 2017 | 2018 | 2019 | 2020 | 2021 |
| 円借款 | 1,003.04 | 0 | 118.91 | 0 | 108.13 |
| 無償資金協力 | 30.43 | 13.63 | 30.4 | 49.6 | 37.39 |
| 技術協力 | 67.1 | 64.81 | 50.15 | 42.9 | 48.95 |
下の写真のニャッタン橋は、首都ハノイ市の紅河にかかる世界最大級の斜張橋です。ハノイ市街と空港との間を結ぶ経路上にあり、IHIインフラシステム・三井住友建設の共同企業体が受注し、日本政府の政府開発援助(円借款)で建設されました;

Follow_Up_2025年8月20日_日経新聞;「住友商事、ベトナムで街づくり_総事業費6000億円」
ベトナムの歴史 Quick Review
生成AI(ChatGPT、Copilot、Gemini)、ネット情報を使ってデータを集め、これらを纏めた結果は以下の通りです;
<古代>
バクソン文化/ベトナム最古の文明 ;
*ベトナムのハノイ北東、ランソン省のバクソン山地周辺で1920年代にフランスの考古学者によって発見・調査された文化で、中石器時代から新石器時代初期にかけての石器文化を指します。特徴的な「バクソン型石斧(木の柄に取り付けた石製の斧)」や打製の礫器、骨角器などが多く出土しており、食料としていた淡水産貝類や獣骨の層も見られます。約1万年前から7千年前に属するとされます
ドンソン文化;

*ドンソン文化は、紀元前4世紀頃から紀元1世紀頃にかけて続いたとされています。タインホア省・タインホア市のマー川(馬江)右岸のドンソンに遺跡が存在しており、1920年代、フランス極東学院の考古学者らによって発見され、特徴的な銅鼓が有名になりました;

<中国王朝による支配の時代(紀元前~10世紀)>
*紀元前111年に中国の漢王朝によって征服されて以降、ベトナム北部は約1000年間にわたり中国の支配下に置かれました。この「北属期」と呼ばれる時代には、中国の文化、政治制度、儒教、漢字などが導入され、ベトナム社会に大きな影響を与えました
*西暦40年から43年にかけて漢王朝の南部で。チュン姉妹(徴側・徴弐の姉妹)の反乱がおきました。40年に、ベトナム人の指導者であった徴側とその妹である徴弐が、交趾郡(現在のベトナム北部)に置かれていた漢の交阯太守に反旗を翻しました。42年、漢は、徴姉妹による百越の反乱を鎮圧すべく、馬援を将軍として派遣しました。43年、漢軍は反乱を完全に鎮圧しました。徴姉妹は捕らえられ、漢軍によって斬首されました
<独立王朝時代(10世紀〜19世紀)>
* 938年、呉権(ゴー・クエン)が中国の南漢軍を破り、ベトナムは約1000年ぶりの独立を果たしました。その後、以下のような王朝が興亡を繰り返しながら、ベトナム独自の国家を築き上げました
① 李朝(1009~1225)
*ベトナムで最初の本格的な統一王朝で、都をハノイに定め、中央集権的な統治を目指す一方、儒教が導入され、国が安定
② 陳朝(1225~1400)

この写真はホーチミン市一区メリン広場にあるチャン・フン・ダオ(陳国峻)の像です。彼は安生王陳柳の子として生まれ、陳朝の初代皇帝・太宗の甥にあたる人物で智勇に優れ、将軍として重用されていました。因みに、
1257年、モンゴル軍が侵攻してきた時、大越軍を率いてモンゴル軍を大いに破り、逆に追撃するまでの大勝を収めました
@1274年の元寇:文永の役(日本への攻撃)
@1281年の元寇:弘安の役(日本への攻撃)
1282年、クビライが建国した元による侵攻を受けると、元の圧迫に恐れをなした皇帝仁宗が降伏しようと言い出しましたが、チャン・フン・ダオは「戦わずして降伏するくらいなら、私の首を差し出せ」と言って、断固として反対したといいいます。これに勇気付けられた仁宗は徹底抗戦の構えを固め、チャン・フン・ダオは大越軍の総司令官に任じられ、巧みなゲリラ戦を繰り広げて元軍に大勝しました
@ベトナムへの侵攻が失敗したことで、元による日本への3度目の侵攻が行われなかったともいわれています
③ 胡朝・明の支配(1400~1427)
*一時的に明の支配を受ける(1400~1428年)
③ 後黎朝(1428~1789) ⇔ 日本の足利時代、戦国時代、安土桃山時代、江戸時代
*黎利が明の支配から再び独立を勝ち取り、最盛期には南部チャンパ王国を吸収し、南北統一をほぼ達成しました。しかし、内部では阮(グエン)氏と鄭(チン)氏による実質的な分裂状態が続きました。明を追い出し独立回復。長期王朝となる
④ 西山(タイソン)朝(1778〜1802)
*農民反乱から台頭した王朝。短命な王朝でしたが、南北の阮氏と鄭氏の対立を終わらせ、一時的にベトナム全土を統一しました
<阮朝とフランス支配(1802〜1945)>
⑤ 阮朝(1802〜1945)
*初代皇帝 阮福映(ザー・ロン)が統一最ベトナム全土を初めて統一し、フエを都としました。清を宗主国とし、中国の制度を取り入れて中央集権化を進めました。しかし、19世紀半ば以降、フランスが侵略を開始しフランスの保護国となった結果、実質的な国家権力を失い植民地化されました
*1887年:フランス領インドシナが成立(ベトナム、ラオス、カンボジア)。この
間、ベトナムではフランスからの独立を目指す運動が活発化します。ファン・ボイ・チャウ(1867年~1940年)などの民族運動指導者が、日本の近代化に学ぼうとするドンズー(東遊)運動などを展開しました
*第二次世界大戦が始まると、1940年には日本軍が北部仏印に進駐し、ベトナムは日本の軍政下に置かれました
*ホー・チ・ミンが指導するベトナム独立同盟(ベトミン)が結成され、反仏・反日闘争を展開します。敗戦後の日本兵の一部もベトミンに参加しディエンビエンフーの戦いにも参加しています
<独立運動とベトナム戦争(20世紀)>
*1945年9月2日:日本の降伏を受けてホー・チ・ミンが独立を宣言「ベトナム民主共和国」樹立
*1946年~1954年:フランスはこの独立を認めずベトナムに侵攻、第一次インドシナ戦争が始まる。1954年、ディエンビエンフーの戦いでフランスに勝利しました
1954年4月26日:インドシナ和平会談@スイス・ジュネーヴ
*参加国:フランス、アメリカ合衆国、イギリス、ベトナム国、カンボジア、ラオス王国、ベトナム民主共和国(べトミン)、ソビエト連邦、中華人民共和国
合意内容;
① ベトナム、カンボジア、ラオスの独立
② 停戦と停戦監視団の派遣
③ ベトミン軍の南ベトナムからの撤退とフランス軍の北ベトナム、カンボジア、ラオスからの撤退
④ ベトナムを17度線で南北に分離し、撤退したベトミン軍とフランス軍の勢力を再編成した上で、1956年7月に自由選挙を行い統一を図る
* 合意はベトナム民主共和国、中華人民共和国、ソ連、フランス、イギリスが署名するも、アメリカとベトナム国(ゴジンジエム政権)は署名しなかった
これ以降;
南北分断の固定化とベトナム戦争(1954年〜1975年)が始まりました。1965年以降から米国の本格介入が始まりました;
*ジュネーブ協定発効後、「南北統一選挙」に期待して、多くの共産主義者が南ベトナムに残っていました。しかしその約束は、南ベトナム政府(アメリカの傀儡政権/ゴジンジエム政権)により一方的に反故されてしまいます。その後、南ベトナム政権による共産主義者狩りは激しさを増し、逃げ延びた共産主義支持者たちは憎悪を募らせている状態でした
こうした中で生き残った南ベトナムの共産主義支持者は、北ベトナムと連携して、ベトナム統一のための戦争の準備(反政府活動)を始めることになります。やがて南ベトナムでは、ベトナム共産主義支持者による反政府テロが頻発し、内戦状態に陥ります
1950年代半ば、北ベトナムは南ベトナムを支援するためにラオスにも侵攻し、ホーチミン・ルートを確立してベトコンを補給・強化していました
1960年、南ベトナムの共産主義者らを中心に南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が発足します。その後ベトコンは北ベトナム軍と連携しながら、より激しく大規模な抵抗活動を展開していきます
1959年には、米国は、ケネディ大統領の下で軍事顧問団を派遣することとなりましたが、最初は1000人弱だった軍事顧問が1964年には2万3000人に達し、事実上米軍の介入が始まりました
1964年8月、トンキン湾事件発生;
米国のリンドン・B・ジョンソン大統領は、米軍艦が公海上のトンキン湾(実際は北ベトナムの領海)で攻撃されたとの演説を行いました。米国議会は圧倒的多数で大統領がこの攻撃に対し、相応の措置を取ることを認める決議を行いました。この結果、報復として北爆が行われ、1965年2月からは北爆が恒常化する等、米軍がベトナム戦争へ本格介入することとなりました
その後、米軍と南ベトナム軍は、圧倒的に優勢な軍事力を頼りに、地上部隊による苛烈な砲撃、空爆を伴う索敵・破壊作戦を展開しました。また、米軍は北ベトナムだけでなく、ホーチミンルートを提供しているラオスに対しても大規模な戦略爆撃を行いました。米軍に協調してベトナムに派兵した国は韓国、オーストラリア、タイ、ニュージーランド、カンボジア、ラオスの6ヶ国です
一方、こうした状況の中で北ベトナムは、ソ連と中華人民共和国から派兵は受けないものの、軍事物資に関し全面的な支援を受けていました
1968年1月、テト攻勢;
テトとはベトナムの旧正月の事であり、戦争中には祝日には短期間停戦する事となっていましたが、この年は1月30日未明にこの攻勢がかけられました
この戦いで北ベトナム軍とベトコンは南ベトナム全土で攻勢を開始し、同国の主要都市を一斉攻撃すると共にケサンのアメリカ軍基地を攻撃し、都市攻撃と基地攻撃の複合戦で南ベトナムやアメリカを揺さぶりました。この攻撃で同年2月12日までに全44の省都の内34の省都が攻撃を受けました。また、サイゴンのアメリカ大使館はベトコンのゲリラによって一時的に占拠され、古都フエ市は一時占領されました
また、首都サイゴンが攻撃を受けたことで、アメリカ軍の劣勢が明らかとなり、増加する死者数は米国民に大きな不信感をもたらしました。特にベトナム帰還兵の証言が戦場の実態を伝えると、一部の学生らは自ら徴兵カードを燃やし、徴兵を拒否するようになりました。このころになると、戦争推進を主張していた米国のタカ派の論調も弱まり、世論の大半はアメリカ軍の撤退を主張するようになりました。ベトナム戦争を正義とする声は少なくなり、誤った戦争であるという意見が多数を占めるようになりました
1968年3月16日、ソンミ村事件;
南ベトナムに展開するアメリカ陸軍のうち第23歩兵師団・第20歩兵連隊第1大隊 C中隊のウィリアム・カリー中尉率いる第1小隊が、南ベトナム・クアンガイ省ソンティン県にあるソンミ村のミライ集落(省都クアンガイの北東13km、人口507人)を襲撃し、無抵抗の村民504人(男性149人、妊婦を含む女性183人、乳幼児を含む子供173人)を無差別射撃などで虐殺しました。さらに C中隊が何ら抵抗を受けていなかったにもかかわらず、B中隊が増派され、近隣の集落でも虐殺を行っています
1968年、学生によるベトナム反戦運動の高揚;
アメリカの学生運動も、ベトナム反戦とともに大学の官僚的な統制に反発し、大学改革を求める運動として1964のカリフォルニア大学バークレー校に始まり、1968年にはコロンビア大学やハーヴァード大学でも学生が校舎を占拠するなどの過激な運動が展開されました。この学生運動はたちまち全世界に広がり日本でも東大紛争を始め全国の大学にベトナム反戦の嵐が吹き荒れました
* 世界でヒットしたベトナム反戦歌:Peter Paul & Maryの「Where have all the flowers gone」、Bob Dylanの「Blowin’ in the wind」
1968年12月、ベトナム駐留米軍の兵力は約54万人に達しています
1969年4月、米軍司令官は、ベトナム戦争でのアメリカ人の死者が33,641人に達し、1950~53年の朝鮮戦争での死者数(33,629人)を上回ったことを確認しました
1969年9月2日、ホー・チ・ミン死去、レ・ズアンが後継者となる
1970年6月3日、北ベトナム軍がカンボジアの首都プノンペンに接近し始めましたが、米軍の空爆によって阻止されました
1973年1月27日、パリ和平会談の結果和平協定成立;
米国のキッシンジャー補佐官とベトナムのレ・ドク・トによる秘密交渉が進められ、北ベトナム、ベトコン、南ベトナム、米国の四者によって調印されました。これによってベトナム戦争の停戦、米軍の撤退、南ベトナムの政治的対立の解決、捕虜の相互解放などで合意が得られました。この合意に基づき、
1973年3月29日、米軍のべトナム撤退が完了
しかし、この和平協定は米国にとっては戦争終結を意味しましたが、南ベトナムの政治的対立の解決が図られたわけではありませんでした。そのためその後も、ベトコンと南ベトナム軍の戦闘は内戦という形で続きました
1975年4月14日:ベトナム共和国大統領ティエウは海外亡命、南ベトナム政権自壊
1975年4月30日、北ベトナム軍が南ベトナムの首都サイゴン(現在のホーチミン市)を陥落させベトナム戦争は最終的に収束しました(南部解放の日)。
南ベトナム軍・政府関係の高官及びその家族は、先を争って米軍の艦船、航空機に押しかけ米国への亡命を目指しました

1976年7月2日、ベトナム社会主義共和国と国名を変え正式に統一が実現しました
1978年12月23日、ベトナム軍、カンボジア侵攻 ⇒1979年1月7日、カンボジアのプノンペン陥落
*侵攻の理由:親中国のポル・ポト率いるカンボジアのクメール・ルージュ政権を打倒し、親ベトナム政権を樹立する為
1979年1月8日、親ベトナムのカンプチア人民共和国 (PRK) がプノンペンで建国され、10年に及ぶベトナムの占領が始まりました(⇒ 1989年9月26日、カンボジアから完全撤退しました)
1979年2月17日、中国軍がベトナム北部国境全域に侵攻。中越戦争勃発
*侵攻の理由:中国はカンボジアのポル・ポト政権を支持しており、ベトナムの行動を「ベトナムの覇権主義」と非難していました
1979年3月18日、 中国軍完全撤退
*中国撤退の理由;ベトナムは中国軍の侵攻に対し、正規軍・民兵を動員して激しく抵抗した。その結果、中国は兵站の困難・地形の複雑さ・民間の敵意などに直面し損害が増大した。また、ソ連はベトナムの同盟国であり、実際にシベリア軍管区や極東のソ連軍を動かすなど、中国への牽制を強化した。この結果、長期戦になれば不利と判断した可能性が高いと言われています
1986年12月15日、ベトナム共産党第6回大会(~18日)でドイモイ(刷新)政策発動 ⇒ 市場経済の導入により、その後急速な経済発展を遂げました
傘寿のベトナム旅行 雑感
コロナ騒動以降、
我々日本人にとって、戦跡を訪ねることは辛い事ですが、
* ディエンビエンフーの戦跡見学;


ディエンビエンフーの戦いが、フランス軍の要塞が深い塹壕などによって堅固に守られていたことから、ベトミン軍にとっても厳しい戦いであったことが理解できました(←日露戦争・203高地の要塞戦では勝ったものの、日本軍には甚大な犠牲者がでたことは良く知られています)
以下の写真は、フランス軍が最後の抵抗を行った「A1の丘」と呼ばれている戦跡です;

降伏したフランス軍;

* ホー・チ・ミン博物館

どこかの国の様に、国家の指導者を神格化するのではなく、ホー・チ・ミンは「建国の父」として国民に愛されています。貧しい家庭に生まれたホー・チ・ミンの生涯は波乱万丈で、若い頃は右の写真のように、ロンドンのカールトンホテルでウェイターをしていたこともありました
博物館のお土産のコーナーに以下の「子供向けの」ものがありました;

このお土産には子どもに伝える以下の5つのことが書かれています;
① 祖国を愛し、人々を愛しなさい、② よく学び、よく働きなさい、③ 良い団結、良い規律、④ 良い衛生状態の維持、⑤ 謙虚で正直で勇敢であれ
ベトナムでは、子供たちにホー・チ・ミンを「ホーおじさん」と呼ばせていることからわかるように国の指導者を「愛する存在」となるよう工夫している事がわかります
* ベトナム軍事歴史博物館

ここでは、フランス軍との戦い、米国・南ベトナムとの戦いで勝利した結果、多くの敵の兵器を鹵獲(敵の武器・弾薬等を奪うこと)したものを屋外に展示しています。また、左上の写真は破壊された武器類を積み上げてモニュメントにしたものです。私が学生時代にベトナム戦争のニュースでよく見た軍用機が沢山展示されており、感慨深いものがありました
* 戦跡や博物館の記録、ベトナムの歴史を調べて実感した「ベトナム人の強さ」
ベトナム人は、理不尽な敵に対しては以下の歴史が教える通り、多くの犠牲を出しながら勇敢に戦い勝利を収める強さを持っています;
① 陳朝時代((1225~1400))の将軍・チャン・フン・ダオ(陳国峻)に率いられたベトナム人は、アジア・ヨーロッパを征服したモンゴル軍を二度に亘って撃退しました
② 第二次大戦後、日本の降伏の機会を捉えて再びベトナムの植民地化を推し進めようとしたフランスに対して戦いを挑み、1954年、ディエンビエンフーの戦いでフランスに勝利しました。この長い戦争で、フランス軍とフランスの支援をしたベトナム人の死者は併せて16万人であったのに対し、ベトミンとその支援者の死者も16万人に達したと言われています
③ 1960年以降のベトナム戦争では、米軍は約5万8千人の死者を出したのに対し、ベトナム人は併せて(北ベトナム軍、ベトコン、南ベトナム政府軍、一般民衆)200万人の死者を出したと言われています
* 戦いに勝利した後、敵に対して示す「ベトナム人の優しさ」
ベトナム近代史を振り返ると、フランス植民地時代の圧政、米国及びその同盟国との苛烈な戦争と戦争犯罪(非人道的な無差別爆撃/北爆・枯葉剤散布、住民の無差別殺害)、ベトナム戦争終了後に中国から仕掛けられた侵略戦争、などに苦しめられたはずなのに、現在これらの国々との友好関係を構築しています

* ハノイ市内で感じた「ベトナム人の美しい心映え」
ハノイ市内は、娘が手配してくれた車での観光でしたが、結果として助手席に座ることが出来たことからハノイの現在の交通事情をつぶさに観察できました。20年前にホーチミン市を旅行した時は「車・バイク・人が交通ルール無視で大混乱の状態だった」という印象でしたが、今回は全く違う印象を持ちました(ハノイの交通事情)。「トラック、乗用車、バイク、自転車、人がそれぞれ交通弱者を大切にして強者が弱者に譲ることで水の流れの様に実にスムース流れていく」状態であることに気が付きました。偶に短いクラクションも聞こえましたが、これは自身が近くの車の死角となる状況になった時に軽く存在を知らせるために鳴らしていることも理解できました。ベトナム人の美しい心映えが現れている交通ルールだと感動しました
あとがき
ある国の行動を本当に理解するには、国家が国民に何を期待しているのかを知る必要があると私は考えています。それには国歌で歌われている歌詞を理解するのが一番だと思います
日本や英国の様に、国の象徴たる国家元首が歴史的な存在である場合には「君が代」や「英国国歌」の様にそれぞれ天皇陛下、英国国王の永遠の繁栄を祈る内容になっています。
一方、外国との熾烈な戦争を勝ち抜いて独立を果たした国々の国歌は、歌詞の内容が全く異なります。因みにフランスの場合、国歌「La Maruseillaise」は周辺の列強の干渉を打ち破る革命軍の進軍歌が元になっており、米国の国歌「The Star Spangled Banner」はイギリスからの独立戦争の英雄的な行為が歌詞になっています。また、中国国歌「義勇軍行進曲」をお聞きになると、抗日戦争時の共産軍の進軍歌がベースになっており、日本との闘いの際に国民を鼓舞する勇ましい歌詞になっています
「ベトナムの国歌」は、ホー・チ・ミンが創立し、外敵に対して戦いを始めたベトミンの進軍歌をそのまま使っており、国民は他国の侵略に対しては命をかけて戦うことを期待されていることが分かります
日本は、13世紀の元寇以降、他国を侵略することはあっても侵略されたことはありません。ロシアや中国という覇権主義国と国境を接する日本は「平和を愛する国民」というだけで国の安全が保たれるのか?とふと疑問に思いました
以上