「五色の虹-満州建国大学・卒業生たちの戦後」を読んで

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-はじめに-

長野県出身の親しい友人の一人から標記の本を紹介されました。私が満州生まれであることを承知していたためと思われます。恥ずかしながら“建国大学”について全く知識を持たなかった私としては、内容すべてが非常に新鮮でした。教科書では教えてくれない“隠れた満州史”を学ぶ良い書物だと思い私のブログで概要を紹介することにしました。

-著者、出版社、他-

著者/三浦英司略歴:1974年神奈川県生まれ。京都大学大学院卒業後朝日新聞入社、東京社会部・南三陸支局長、ヨハネスブルグ支局長、
本書で2015年・第13回開高健ノンフィクション賞受賞
出版社:集英社、

-満州建国大学とは-

<設立の経緯>
満州国建国の中心人物である石原莞爾が、1937年に満州国に以下の構想の大学設立を提唱(当初は“アジア大学”と称していた)した;
①建国精神の一つである“民族協和”を中心とすること、
②日本の既成の大学の真似をしないこと、
③各民族の学生が共に学び、食事をし、各民族語でケンカができるようにすること
④学生は満州国内だけでなく、広く中国本土、インド、東南アジアからも募集すること、
⑤思想を学び、批判し、克服すべき研究素材として、各地の先覚者、民族革命家を招聘すること

その後、石原莞爾の命を受けた辻政信が「建国大学」設立計画を推進した。1938年創立され、1945年終戦とともに消滅した。設立の目的は、満州国の国家運営を担わせる為のエリートの養成と“五族協和”を実現することにあった。

<学生について>
学生は、日本、中国、朝鮮、モンゴル、ロシアの五族から選抜。一学年150人の内、日本人学生の割合は50%以下に抑えた。学費免除、且つ給与(5/月)も支払われる為、日本、台湾、朝鮮、満州から貧富の差を問わず多くの優秀な人材が集まった。

<カリキュラム、学生生活、等>
6年間の学生生活は、二十数人単位の寮に振分けられ、生活のすべてが異民族と一緒の共同生活を行なわせた。公用語は日本語、中国語であるが、他に英語、仏語、独語、露語、モンゴル語も自由に選択できた。

カリキュラムは学問、勤労実習、軍事訓練を三つの柱としていたが、もっとも特徴的なことは、学内で完全な言論の自由が与えられていたことである(日本政府を公然と批判する自由を与え、学内の図書館では共産主義や中国革命家関連の書籍など日本で発禁になっている書籍も自由に閲覧できた)。毎晩寮内で「座談会」が開かれ、民族問題や政治問題についても自由に討論が行われていた(朝鮮人や中国人学生から日本政府に対する激しい非難が連日のように日本人学生に浴びせられ、日本人学生も政府が掲げる理想が如何に矛盾に満ちたものであるかを身をもって知ることができたという)。

<敗戦後>
1945年8月敗戦と同時に殆どの資料は焼却処分された。また学生の多くは戦後自国で迫害、弾圧された(韓国のみは例外:後述)。日本人学生はシベリア抑留の後、生存者は日本に引き上げたが、満州国が設立した最高学府の出身者という「侵略者」のイメージと、捕虜となって赤化教育を受けた「共産主義者」というレッテルに苛まれ満足な職に就くことができなかった人が多かった。

こうした中で苦労して建国大学同窓会名簿(1400人分)が作られ、同窓生達は国境を越えてコミュニケーションを図っていた。2010年6月東京で最後の同窓会が開かれ、120人が参加した。著者もこの会に陪席した。

満州国の地図
満州国の地図

-建国大学出身者についての実地調査-

<宮野泰>:建国大学六期生、新潟県新発田市で農業に従事
著者が最初に出会い、建国大学に関して長期にわたる取材をするきっかけになった人物。

<藤森孝一>:建国大学二期生、長野県諏訪市で1921年生誕、両親は農業
1938年建国大学応募、長野県で1万5千人人が応募し、合格者2人の内の1人。
1939年1月~1942年2月までの膨大な日記(A3/1500枚)を残している。
日記に記された印象的な文章
*「・・・日本の朝鮮に対する政策は間違っていたと思う。日本は英米等の植民地政策を真似ただけに過ぎない。すなわち日本の利益のために朝鮮を犠牲にしたのだ。・・・彼らは独立したいのだ・・・満州はこの真似をさせてはいけない。今のところは朝鮮と同じではないか。日支事変を“聖戦”だと言っているが、聖戦の意義がなくなってしまいはしないか
*「昼食後南湖へ魚釣を見に行く。帰りに満人の部落を通った。実に粗末な家。・・・百姓たちは畑を一生懸命耕していた。振り返ってみると、新京の立派な建物が青空にそびえている。・・・建大(建国大学)の敷地を通って帰る。藤田先生も言われた通り、コーリャンの粥をすすっている農民たちを追い払って建大を建てたのだ。考えさせられることがあまりに多い」

インタビューでの印象的な言葉
*“座談会”に関する話題で、「・・・我々はいつも中国人学生の厳しい批判に晒されるわけです。“日本は民族協和を掲げながら、一方で中国人民を殺している、民族協和も建国大学も侵略戦争をカモフラージュする単なる道具に過ぎないのではないか”とね。・・・」ある夜、崔という朝鮮人学生に“日本は朝鮮で何をやっているか知っているのか”と問い詰められました。殴り合いのようになり、その後しばらくして仲直りのような状態になったとき、私がふと、“お前はなんで建国大学にはいったのか”と聞いたのです。すると彼は“俺は建国大学には自由があると思ったんだ。朝鮮にいては息が詰まるからな”なんて言いながら泣き出したのです。・・・頭のいい連中ですからね。だからこそ私たちは真剣に悩んだんです。・・・5年間も一緒に生活していて、お互い何を考えているのかが分かるようになっていた。互いの痛みがわかるようになると、人間は大きく変わっていくのです・・・」

<先川祐次>:一期生、戦後西日本新聞、ワシントン支局長
インタビューでの印象的な言葉
*「新しい国造りに星雲の志を燃やす日本人学生」、「すべては日本の大陸進出を美化するまやかしだと反発する中国人学生」、「満州の国造りを成功させることが朝鮮独立への道につながると現実路線を敷く朝鮮人学生」、「少数民族が被支配の立場から脱却できると希望を燃やす台湾人学生やモンゴル人学生」、「共産革命を逃れて安住の地ができ、陽気にはしゃぐロシア人学生」は夜の自由時間は議論に明け暮れた

<百々和>:一期生、1956年に帰国。取材当時神戸の特別養護老人ホームにいた
終戦時点で中国山西省にいた為、強制的に国民党軍に組み入れられ、終戦後4年間、戦闘員として中国共産党と戦わされた山西省旧日本軍残留問題)後、共産軍の捕虜になった。捕虜生活は労働、スポーツ、文化活動であったが、その中で百々が演出した演劇が反革命的であるとして監獄に入れられた。監獄内では告白と反省、自己批判と仲間による相互批判が繰り返された。1956年9月帰国。帰国後38歳で神戸大学大学院に入学。経済学博士課程を卒業後、講師などを務め、53歳で神戸大学教授になる。
*山西省旧日本軍残留問題を扱った映画「蟻の兵隊」(監督;池谷薫)の一人としてスクリーンの中央に収まっている。

インタビューでの印象的な言葉
*日本に帰れるかどうか決める裁判(戦犯であるか否かの裁判)で、百々が一切の弁明や釈明を拒んだ理由を問われて、「・・・でも、それはかつての日本人であれば誰もが持ち合わせていた気質だったんだよ。民族として最も大事にしていた美徳の一つだったといえるかもしれない。あの頃の日本人にとっては“潔さ”は“美しさ”とそれほど変わらない意味だった。そして“美しく”あることは“生きる”ことよりも、遥かに尊い事だった。それらをより強く意識していたのが建大生だったのかもしれない。・・・」また、「・・・建国大学が学生に求めていたことは“時代のリーダー”たれということだった。それは“いざというときは責任を取る”ということだ。・・・それは易しいように見えて実は難しく、とても勇気のいる行為なんだ。何かあったときには必ず自ら責任を取ること。建大生はその点においては、徹底的にたたき込まれていた」

<森崎湊>:四期生、映画監督・森崎東の弟
入学3年目の1944年4月に建国大学を自主退学し、特攻隊を志願して三重海軍航空隊に入隊した。そして敗戦翌日の1945年8月16日夜、近くの砂浜で割腹自殺を図った。玉音放送が流れたとき、航空隊内にはあくまで決戦すべきという声が渦巻いていたが、森崎の自決により、航空隊内の決戦論は沈静化し解散復員が実施された

遺族が16歳~20歳の日記を刊行(題名:遺書)。この日記にある印象的な言葉
*「・・・一期、二期生の中で20余名の抗日学生が出た・・・中国人の自覚と矜持の強烈な者ほど、実は我々の同志たるべきものなのではないか。中国の同胞たちが日本軍の力の前にたたかれているのを彼らが見るとき、いかばかりの苦痛を感ずるであろうか。満州も中国もとりかえしたく思うだろう。尊敬する憂国の士は一意救国のため反満・抗日を叫んで血を流している。今まで日本が中国に対し何をおこなってきたかを彼らはよく知っている

<楊増志>:一期生、大連在住
インタビューでの印象的な言葉
*「入学3年目から中国人だけで“勉強会”を始めた。マルクス、レーニン、孫文(三民主義)、蒋介石(中国の命運)、毛沢東(新民主主義論)を仲間で読みまわした。その後、この活動を新京の各大学に広げてゆき、“東北抗戦機構”というネットワークを作り、メンバーの一部を北京、重慶(国民党軍)に送り情報を集めた。独軍のソ連侵攻に合わせ、三国同盟に基づき日本がソ連に侵攻する機会に蜂起する計画を立てたが、1941年12月に「治安維持法」で逮捕された」
*「憲兵隊から厳しい拷問を受けたが口を割らなかった。建国大学の日本人メンバーから差し入れがあり、心の底から日本を呪い、一方で彼らにもう一度会いたいと思った」
*「判決は無期懲役:2人(本人を含む)、懲役15年:1人、同13年:3人、同10年:9人であった」
*「終戦の翌日に釈放された。半年間“水攻め”されたことによる後遺症で療養した後、国民党が実施していた中国東北部の水田の管理の仕事についた。アメリカ政府からの資金援助を受け、満州に残留していた日本人技術者30人を使い、土地の改良や品種の選定を行った。そこでは日本人以外に朝鮮人や中国人を使っていたが、建国大学での経験で民族の特性(中国人は利で動く、朝鮮人は情で動く、日本人は義で動く)を知っていたので、彼らを使うことは難しくなかった。中でも日本人を使うことが一番簡単だった。彼らはポストさえ与えておけば忠実によく働いてくれた」
*「数年後、長春市の議員になった。1947年共産軍は、長春包囲戦(市全体を共産党軍が封鎖)により兵糧攻めを行った。150日間の間に30万人の市民が餓死(長春市の人口の三分の二)した。楊は3丁の銃を共産党軍に渡すことにより家族を含めて包囲の外に出ることができた」
ここまで話した所で電話が入り話は続けられなくなり(当局に監視されており、長春包囲戦について語り出したことが原因か)、インタビューは終わった

<ダニシャム・ウルジン>:三期生
父親(ウルジン)は満州国軍の著名なモンゴル人司令官(ウルジン将軍)、ロシア革命が起きた時には帝政ロシアの職業軍人、赤軍との戦いに敗れて中国北部に逃れた。その後満州国軍に入り、ノモンハン事件にも参戦
1945年8月9日の新京空襲で、教職員や日本人学生は応戦準備態勢、中国人学生は兵器廠に勤労奉仕に行く方針が決まったが、敗戦の報が伝わった後自由行動となった。その後はソ連兵と日本人の通訳の仕事に就いた(日本人が建設した施設・設備の接収の際に通訳が必要になった)。ソ連兵撤退後、一時中国政府の合作所の職員として事務作業に従事したが、共産党政権になってそれも奪われ。その後貧しい生活を続けたが、モンゴル国出身の妻のツテで現在居住しているウランバートルに来ることができた。

<金載珍>:五期生、建国大学の韓国人同窓会会長、大邱在住。慶北大学校で経済学を教えていた
唯一韓国だけは、独立後優れた頭脳を持つ建国大学の出身者たちを積極的に登用した1970年代、80年代には政府や軍、警察、大学、主要銀行などにおける主要ポストを建国大学出身者が握り、政財界にはサークルのようなものが結成されていた

<姜英勲>:三期生、昌城で生誕、農学校を中退して広島の高田中学に転入、その後建国大学入学。在学中、学徒出陣を選択、秋田県内の陸軍演習場で終戦を迎えた
インタビューでの印象的な言葉
*「*故郷の村は中国との国境付近にあるため、ソ連の主導による共産化が進行しており、貧農の若者には戦闘訓練が実施されていた。村の水力発電機がソ連兵によって村外に持ち出されることをきっかけに村の共産化に激しい抵抗を感ずるようになった。周囲から“反革命分子”と見做されるようになり、当局から出頭命令を受けたその夜、5人の友人を引き連れて漁船で38度線を越えた」
*「1946年4月ソウルに到着すると、韓国軍が幹部将校育成を目的に設立していた軍事英語学校(後の陸軍士官学校)に入学。建国大学の出身であり、その語学力や日本における軍隊の経験から、創設後間もない韓国軍の中で確実に出世の階段を上り、4年後には早くも陸軍本部の人事局長になった」
*「1950年6月、朝鮮戦争が始まると中部戦線の第二軍団参謀長となった。開始時の兵力は圧倒的に劣勢だったが、開戦2日後に国連決議で米軍の支援が確実になったため兵力の温存を図った。80日後、米軍の仁川上陸後は形勢が逆転した。中国の参戦で38度線で戦線が膠着し、1953年7月休戦に入った」
*「1961年、朴正熙少将(後の大統領)の軍事クーデターでは士官学校校長になっていたが、クーデター支持でソウル市内を正装で行進した生徒に向かって、“軍は政治に介入してはならない。軍は中立でなければならない”と戒めたところ、その言動が軍事政権下で“反革命分子”とされ4ヶ月投獄されるとともに、陸軍中将のまま退役に追い込まれた。その後亡命同然の状態でアメリカに渡り、大学の研究者として16年間の生活を送った」
*「1988年、士官学校校長時代の教え子であった盧泰愚大統領の下で首相に就任した」

*建国大学についての評価を著者に問われて、「満州国は日本がねつ造した傀儡国家である。日本人学生は、“いかに日本が満州をリードして五族協和を実現させるか”について熱くなっていた。中国人学生は、“満州はもともと中国なのに、なぜ日本が中心になって満州国を作るのか”という批判が常に先に立っていた。朝鮮人学生は、“最も純真な意味で五族協和を目指していた”。もともと満州には朝鮮民族がたくさん住んでいたし、かつては朝鮮民族の土地でもあったから・・・」
*終戦後北朝鮮に行き、韓国にスパイとして送り込まれた(上陸後すぐに逮捕された)三期生の“K”について聞かれて、「「私は何もしてやれなかった」

<李水清>:一期生、台北在住、「台湾の怪物」と呼ばれていた。
孤児で貧しく、正規の学歴が無い中で1万人以上の中から選ばれた3人の一人に入った秀才。多くの卒業生は、すべての能力で李に敵うものはいないと言っている。
建国大学卒業後、志願して満州辺境の青年訓練所に赴任した。赴任半年後に日本は敗戦、建国大学の同級生の家を訪ねつつ半年後に台湾にたどり着いた。
図らずも1947年の二・二八事件(大規模な反政府暴動;日本統治時代の知識人が多数殺害された)に連座し二年半の間監獄に繋がれた。その後事業に成功し、台湾を代表する一大製紙企業を築き上げた。

<戸泉如二>:四期生、通称ジョージ。1923年レニングラードにて生誕。日本人の父(西本願寺の僧侶⇒満鉄⇒建国大学教授)と母(ロシア人)との間の混血児。哈爾濱中学卒業、日本語・ロシア語・中国語を母国語と同じように操れた。
1943年学徒動員で出征、終戦時は中支・武昌の飛行隊所属。敗戦後は親を探して中国内を転々としている内に、1947年夏奉天付近で国府軍に逮捕されたが半年後に釈放。その後、上海を経由して、フィリピン、オーストラリア、イタリア、オランダ、スリナム(南米)と渡り歩き、最終的にそこで貿易と水産の事業で成功した。
スリナムで味の素のセールスマンに出会ったことで両親との連絡がつけられるようになった。2001年心筋梗塞で死去

<ゲオルグ・スミルノフ>:建国大学六期生、ハイラル(中国東北部)出身。ハイラル第三高等学校で日本語と英語を学んだ。
1945年6月新京郊外で勤労奉仕をしている時にソ連軍の空襲を経験し、すぐに大学を飛び出してハイラルに帰った。その後モンゴルの小さな部落のハケに移った。8月ハイラルの様子を見に行くと、彼の親友のロシア人同期生“A”はスパイという密告で家族共々射殺されていた
1954年中国からソ連に行く様通告を受け。国境で荷物は全て中国人官吏に没収され、ソ連に入ると北方の収容所(常時銃を持ったソ連兵の監視があった)に送られた。その収容所ではエストニアやラトビアの人もぼろ服をまとって生活していた。食料は全て配給制のわずかなパンと水であった。過酷な収容所生活の中で、ロシア人の建国大学の先輩に出会い、週に一度程度は会って大学時代の楽しいことを話す機会を持ったが、彼も急に居なくなった。10年ほど収容所生活を送った後、優秀な建築技術者であった弟の尽力でアルマトイに戻ることができた。但し共産党への入党が条件であった。その後キリスト協会の経理担当者としての仕事を得、2003年にこの教会でのパーティーで日本人大使と話す機会があり、これをきっかけに日本の同級生との連絡がつくようになった。

著者は、満州国に関わる日本を代表する研究者である「京都大学人文科学研究所教授の山室信一氏」とのインタビューも行っているが、満州国、及び建国大学についての見解を求めたところ、以下の様に答えている;
1895年以降、日本は台湾を領有し、朝鮮を併合し、満州などを支配した。これらが一体となって構成されていたのが近代日本の姿だったのに、日本列島だけの“日本列島史”に執着するあまり、植民地に対する反省や総括をこれまで十分にしてこなかった。日本人の植民地認識は近代日本認識におけるある種の忘れ物なんです。そして、そんな日本という特殊な国の歴史の中で、台湾、朝鮮、満州という問題が極度に集約されていたのが建国大学という教育機関だったというのが私の認識であり、位置づけでもあります。政府が掲げる矛盾に満ちた“五族協和”を強引に実践する過程において、当時の日本人学生たちは初めて自分たちがやっていることのおかしさに気づくんです。そういうことを気づける空間は当時の日本にはほとんどなかったし、だからそれを満州で“実践”できていた意味は、当時としては我々が考える以上に大きいことであった。・・・私は満州国を研究していて強く思うのは、そこには善意でやっていた人が実に多かったということなのです。それがどうして歴史の中で曲がっていくのだろうか、その失敗を私たちは歴史の中から学び直さなければならない。・・・石原莞爾についても・・・やはり悩みながら、そして失敗していった人だと思います。・・・日本が過去の歴史を正しく把握することができなかった理由の一つに、多くの当事者たちがこれまで公の場で思うように発言できなかったという事実があります。終戦直後から1980年代にかけて、満州における加害的な事実が洪水のように報道されたことにより、建大生を含めたかつての当事者たちが沈黙せざるを得ない状況に追い込まれてしまった。・・・」

-私の読後感-

私を含めて1945年8月15日以前に台湾、朝鮮、満州で生まれた者は全て戸籍謄本にその痕跡が残っています。また若い頃、外国旅行をした時に入国審査書類の“Birth Place”を記入する時に困った記憶のある人も多いと思います。まぼろしに終わった満州国、教科書では何も学べない“自分の生まれた国”についての知識。この書は、老い先短い私にも、まだまだ勉強しなければならないことが沢山ある事を教えてくれました。

以上