「麻山事件」を読んで

-著者(中村雪子氏)紹介-

1923年長野県に生まれる。長野県立岡谷高等女学校卒業。1939年渡満、1946年引揚。1959年より名古屋女性史研究会、1979年より東海近代史研究会所属。「麻山事件」に関しては13年の歳月をかけて生存者から聞き取りを行い、1983年にこの本を上梓した。

-麻山(マサン)事件とは-

1945年8月9日、突如ソ満国境を越えて侵入してきたソ連軍に追われ逃避行途上にあった「哈達河(ハタホ)開拓団」の一団が8月12日麻山付近でソ連軍の包囲攻撃を受け、婦女子四百数十名が自決した事件。この時介錯は十数名の男子団員により小銃を用いて行われた。介錯を行った男子団員は、その後ソ連軍陣地に切り込みを行ったが圧倒的なソ連軍の前で目的を果たさず、一部団員が生きて日本に帰ることになった事件。

-はじめに-

私たち家族は満州からの引揚者です。幼い頃、中国残留孤児帰国の報道を見ながら母が涙を流していた事を今でも思い出します。私たち家族は終戦時奉天(現在の瀋陽)に住んで居た為、凡そ一年後に家族一緒に引揚げることができました(詳しくは当ブログの“生い立ちの記”参照)。しかし、満州北部に住んでいた(主に「満蒙開拓団」)の人達は、8月9日のソ連軍の侵攻と8月15日のポツダム宣言受諾との間の時間のズレから我々以上の苦難を味わった事は両親からそれとなく聞いていました。歴史を辿る勉強を続けている内に、最近本書に出会い、読み進む内に“母の涙”の本当の理由が分かってきました。終戦時、在外邦人は凡そ650万人(武装解除されたた軍人も含む)居たと言われますが、私の親も含め戦中・戦後の多くの悲惨な体験は語られないことが多いといいます。恐らく外地に居た人々が、結果として国策に協力していたことへの罪悪感や、引き上げ後内地の人々から受けた心無い言葉、あるいは人倫に悖る余りにも悲惨な体験、などが語ることを躊躇わせたからかも知れません。もうすぐ戦争を体験してきた人々が全て鬼籍に入ってしまう今、奇しくも「憲法改正」や「集団的自衛権」の議論が盛んに行われています。読むことがどんなに辛くても、こうした悲惨な歴史的な事実も正しく知っておく必要があると思います。

-満蒙開拓団について-

1929年、ニューヨーク株式市場の大暴落に端を発した世界恐慌により日本にも深刻な不況が襲い大量に都市労働者が失業しました。またその後2年間、北部日本を襲った冷害ににより農民の極度の窮乏が進みました(年若い農家の娘が売春窟に売られるなど)。こうした厳しい社会情勢を背景にして、国際的な反発を顧みず1932年に満州国が建国されました。建国とともに、加藤完治らの提唱する満州移民(満蒙開拓団)が脚光を浴びて登場してきました。同じ年の10月には、在郷軍人を中心として編成された武装移民団433名が満州に入植しました。

1936年には関東軍主催の第二回移民会議によって「満州農業移民百万戸移住計画(20年間に百万戸、一戸当たり5人として五百万人を入植させるという途方もない計画)」が決議され、広田内閣によって重要国策として決定されました。関東軍が主導したことで分かる様に、五百万人の日本人の移住(満州国人口の1割)によって、国防上の生命線を守るという強い軍事目的がこの計画の裏にはありました。これだけの大規模な移民を実現するためには、それまでの希望者ベースの開拓民募集という方法から、町村単位で一定戸数を集め、満州にその分村を建設させるという「分村移民」が原則となりました。また、不要、不急産業の転・廃業による「職業開拓民」や、高等小学校卒業生を郡、府県単位にまとめた「郷土部隊」、の様な仕組みも取り入れられました。因みに私の両親の出身地である長野県が最も多く開拓民となって満州に移住しました。開拓団が移住した場所は以下の地図(本の見開きページ)をご覧ください;

開拓団の入植地区とソ連侵攻後の避難経路
開拓団の入植地区とソ連侵攻後の避難経路

こうして入植した「満蒙開拓団」は、日本とは全く異なる気候や土壌に悩まされながらも、土着農民の農具を取り入れたり、様々な工夫を行うことにより一定程度の農業生産性を上げるようになっていきました。また、これだけの大規模な移民では土着農民の農地を侵食することも発生し、当初は軋轢が起こったものの土地買い取り制度の導入などによって一応の住み分けは出来るようになっていきました。一戸当たりの農地面積が非常に広かった(10~20町歩)ことから小作制度(小作人:満州人、朝鮮人)も取り入れられました。

-哈達河(ハタホ)開拓団-

麻山事件を起こした開拓団は1935年以降、以下の地図にある様に、満州北東部の虎林線(林口と虎頭を結ぶ鉄道)の真ん中あたりににある東海駅近くに展開していました。

虎林線沿線図
虎林線・沿線図

また、この開拓団部落の見取り図は以下の通りです;

哈達河開拓団部落
哈達河開拓団部落

入植2年後の1937年における哈達河開拓団の概要は以下の通りです;
所在地:満州国東安省鶏寧県
在籍者:178名(出身都道府県/岩手、宮城、福島、新潟、長野、山梨、栃木、埼玉、茨城、東京、千葉、神奈川、静岡、徳島、高知、香川、佐賀、長崎、熊本、宮崎、大分、鹿児島;尚、逃避行を始める1945年8月には少なくとも1300人以上に膨れ上がっていたと思われる)
団長:貝沼洋二(麻山にて自決。東京出身、北海道大学卒、開拓団経営を学び哈達河開拓団結成時から団長。公平無私、古武士の様な風格を持っていた)
幹部:農事指導員、警備指導員、畜産指導員、保険指導員
その他麻山事件に関わる特記すべき構成員;
1.笛田道雄:生還し麻山事件の詳細を証言した。1935年、哈達河開拓団の先遣隊として渡満。北海道八雲出身
2.遠藤久義:生還し麻山事件の詳細を証言した。長野県小県郡浦里村(現在の上田市)出身
3.福地靖:保険指導員(医師)。逃避行中に行方不明。麻山事件発生時、後続部隊におり部隊員に逃避行を勧めた。

-ソ連軍侵攻前の状況-

1943年西太平洋から始まった米軍の反攻により日本が徐々に敗戦に向かっている情報は、戦災の及ばなかった満州にも確実に伝わっていました。特に新聞などを通じて英雄的に語られている“玉砕”などの情報(アッツ島玉砕/1943年5月、サイパン島玉砕戦/1944年6月、硫黄島玉砕/1945年2月、沖縄戦/1945年3月~6月)や、帝国軍人必携の「戦陣訓」にある、“生きて虜囚の辱めを受けるな”の一節は、開拓団の婦女子に至るまで周知のことであったと思われる。一方この様な厳しい戦況にあっても一般の在満邦人は、精強な関東軍がおり、日ソ不可侵条約で守られている満州には当面戦火は及ばないと考えていました。

しかし実際は、南方の戦線に兵力を割愛してきた関東軍は兵員数、装備共に相当弱体化しておりました。また日ソ不可侵条約についても日本のあずかりしらぬヤルタ協定(1945年2月)により日本への参戦を約束していたソ連は、条約の延長交渉(1946年4月に期限を迎える)に応じていませんでした。1946年5月のドイツ降伏前後からソ満国境に膨大な兵力を移動させている情報は関東軍もキャッチしており、ソ連軍との戦争が時間の問題であったことは軍関係者にとっては周知の事実だったようです。因みに、関東軍は1945年に入ったころからソ連軍の侵攻に備えて「一部兵力による北満での玉砕的敢闘」を前提に、主力は後退して「新京(長春)-図們-大連」を結ぶ三角地帯(最初の図面で黄色の線で囲った部分)」の山岳部で長期持久戦を行うという作戦計画を秘かに立て、既に北満からの兵力撤退を開始していました。7月に入るとこの計画に沿って全満州から大半の男性を招集(所謂「根こそぎ動員」)しました。この結果開拓団の男性は殆ど招集され、開拓部落に残ったのは婦女子と体力の無い男性のみとなっていました。すなわちソ連軍侵攻の開始前から、開拓団の人々はいわば“棄民”になっていたと言えると思います。これは軍人と行動を共にしたことによる悲劇であったサイパンや沖縄とは事情が異なるということができます。

-ソ連軍の侵攻と開拓団の逃避行-

1945年8月9日午前零時、ソ連軍は圧倒的な兵力(兵員:約160万人、火砲、等:2万6千、戦車・自走車:5千5百両、航空機:約3千4百機)を投入して6方面から満州に侵攻を開始しました。既に関東軍の防空体制が皆無となっていた為、侵攻と同時に航空機による都市爆撃(新京/長春)、鉄道沿線の機銃による波状攻撃が始まっていました。その為県から鶏寧への引揚命令が出ましたが、逃避行に力を貸すはずの鉄道は、国境の東安方面に向かう路線が関東軍の命令により平陽駅で止められ(虎林線・沿線図参照)、哈達河開拓団部落の人は利用できませんでした。しかも、殆どの開拓団家族には男手がなく、また多くの乳幼児(5人程度は普通)を抱え、徒歩以外の移動手段は馬車のみという想像を絶する逃避行が始まりました

鉄道沿線に沿って逃避行を続ける開拓団家族に対して、航空機による容赦ない機銃掃射があり、この段階で多くの人が命を落としました。やっと辿り着いた鶏寧の街も多くの建物は爆撃により燃え盛っていました。8月11日午後から豪雨が続き、逃避する道路は満州名物の“泥濘”となり、頼みの綱の馬車は使い物にならなくなりました。また北満の夜の雨は8月であっても骨身に染みるほどで、馬車を失った家族は雨除けの衣類とてない状況となり体力の無い乳飲み子から先に命を落としてゆき、遺体は路傍に置いていかざるを得ませんでした。この頃、撤退する関東軍が逃避行を続ける開拓団を追い越してゆき、逃避する開拓団が最後尾になる状況が現出していました。

8月12日の午後、麻山付近で前方に強力な火力を持ったソ連軍が出現、後方からも機械化部隊が接近しており、正に挟み撃ちの状況になってしまいました。ここで関東軍から「・・・開拓団の男子は速やかに前進し軍に協力すること。・・・婦女子は直ちに退避せよ」との指示がありました。この時、逃避行を続けている哈達河開拓団は三つの集団に分かれており、先頭集団には遠藤久義など6~7名の男子と60~70名の婦女子が加わっていました。中央集団には貝沼洋二団長の他婦女子中心の400名余がおり、「麻山谷」と呼ばれる600坪ほどの窪地に退避していました。そこから1キロメートル程後方の高粱畑に笛田道雄福地靖のいる後尾集団がいました。

-麻山事件-

先頭集団は、周辺の山に布陣したソ連軍から突然猛烈な銃・砲撃を受けました。トウモロコシ畑には逃げ惑う婦女子の悲痛な叫びと断末魔のうめき声が満ち溢れ、この中で多くの死傷者が発生しました。最後の時を迎えたことを悟った男子団員が、生き残っている婦女子の「処置(苦しまない様に殺害すること)」を行った後、遠藤久義ほか1名は、戦場から脱出し、麻山谷の貝沼洋二団長に婦女子全員自決の報告を行いました。

この時点で、前方に展開していた関東軍はソ連軍との戦闘に負けて牡丹江に向けて撤退を始めていました(後方の敵からの攻撃を避けるため、麻山付近で山中に入る)。貝沼洋二団長は、後退してくる関東軍に対して、「せめて一個小隊の兵でもよい、安全地帯まで護衛をつけてもらえないだろうか」と懇願したが、拒絶されてしまいました。

こうした状況から、中央集団貝沼洋二団長は、全員まとまってこの危機を脱することは不可能と判断し、一緒にいた開拓団員全員に向かって二つの対処案を提示しました;
1.バラバラになって脱出する
2.生きるも死ぬも最後まで行動を共にする
嗚咽と慟哭が津波の様に広がるなか、まず女性の方から「私たちを殺してください」、男性たちから「自決だ」、「日本人らしく死のう」、「沖縄の例にならえ」、「死んで護国の鬼となるんだ」の言葉が発せられました。団員たちはそれまで肌身離さず携行していた写真などを燃やし、子供たちには晴れ着を着せ、大人たちは新しい下着に着替え、白鉢巻、白襷をしめ、同じ部落の者同士が円陣を組んで水盃を交わしました。貝沼洋二団長は男性団員による斬込み隊に後事を託し、最初全員の前でピストルで自決を遂げました。残りの婦女子も後を追い銃による覚悟の自決(銃を携行している男子団員による“処置”)を遂げました(但し3日後に7歳~10歳の子供7人は現地の人に助け出され生還しました)。

後尾集団では前方から聞こえる銃・砲撃の音などで異変を察知し偵察を行ったところ、中央集団の貝沼洋二団長と婦女子全員自決の事実を知ることとなりました。男性隊員たちは、「サイパンにならえ、沖縄に続くんだ、、」と絶望的な興奮に陥り、女性たちも自決を心に言い聞かせていた時、一人沈黙を保っていた福地医師が立ち上がり以下の様に語りだしました;
我々は既に敵の手中に落ちた。斬り込むもよいし、自決もよいが、勝つ見通しの無い戦いをするのが果してこの際とるべき最良の道であろうか。我々は哈達崗の大地で林口防衛の任務を命ぜられている。死中にだって活路はある筈だ。生きてことの仔細を中央に連絡すべき義務もある。生き抜く努力をすべきではないのか」、また地図と磁石を取り出し、「この裏手の山々の尾根を西に伝って行くと林口の裏手に出る、、、」、福地医師のこの言葉に男たちは、「だが、この大勢の婦女子が、この山中の行軍に従い歩くことができるかどうか。足手まといにならないかどうか」と発言した。これに対し女性たちから、「私たちを連れて行って下さい。決して男の人たちの足手まといにはなりません」。こうして後尾集団の大半が山中の行軍を選択しました。

一方、同じ後尾集団に居た笛田道夫が所属する武蔵野部落の一団は、中央集団自決の報に接し女性たちの方から、「私たちはここまで連れてきてもらっただけで充分です」。「笛田さんは心おきなく林口防衛の任務についてください」、「ご縁があればまたあの世で会いましょう」、「ありがとうございました」、「元気で頑張ってください」と言って山中の行軍を選択せず自決(24名)の道を選びました。

後尾集団で山中の行軍を選んだ150名~155名は、8月15日の終戦も知らないままに40日にわたって山中を彷徨しました。この行軍は悲惨を極め、引揚者として祖国の土を踏むことが出来た人は20名~25名、中国に残留し中国人と結婚、乃至養子となったものが約10名。福地靖医師は山中に入って4日目に行方不明となっていました。行軍を選択した人達は、長い行軍の途中でソ連軍の機銃掃射、飢え、愛する者の無残な死(あるいは“処置”)、やむにやまれず遺体から衣服、靴を剥ぎ取り着用するなど地獄の体験をすることとなり、からくも生き残った人達にも終生消えない心の傷を残すこととなりました。また山中彷徨の際、関東軍(撤退と称していたものの実際は統制を失った敗残兵)と出会う機会もありましたが、彼らの庇護を受けることは一切ありませんでした。

-その後、、、-

8月15日以降もソ連軍占領地域では、略奪、暴行、凌辱、が相次ぎ、この中で殺害されたり、自決する人が数多く出ました。
一方中国軍占領地域では、終戦直前の8月14日、蒋介石の以下の命令(重慶からのラジオ放送)が軍当局や各地の治安維持会の日本人に対する態度に大きな影響を与えました;
「暴を以て暴に報ゆるなかれ。我々は日本軍閥を敵とするが日本人民は決して敵と認めない

10月中旬~引揚が始まる翌年5月までの厳冬の期間で病没した人は13万人を数え、終戦以降全満州での病没者数17万人の実に76%に及びました。

生き残った遠藤久義は引揚前に麻山の地を訪れ、自身が“処置”を行った人の遺骨を収集し日本に持ち帰りました。

応召中の弟(シベリア抑留中に病没)の妻子6名を麻山で失ったことを知った薮崎順太郎は、1949年「参議院・在外同胞引揚委員会」に実情調査を提訴しました。この提訴内容を毎日新聞が以下の様な記事にしました;
「・・・牡丹江に向け徹夜で行軍、12日頃麻山に達したとき満州治安軍の反乱部隊が襲来、前方にソ連戦車隊があり進退きわまる状況になった団長貝沼洋二氏(東京出身)は最悪の事態に陥ったと推定し団員の壮年男子十数名と協議し“婦女子を敵の手で辱められるより自決せよ”と同日午後四時半ごろから数時間にわたって男子数十名が銃剣をもって女子供を突き殺した”。これら壮年男子はその過半が新京、ハルビンへ逃れあるいはシベリアで収容されて帰還している」

-私の読後感

戦争での死や苦しみは、それを体験した者にしかその真実は語れないことを痛感しました。13年間に亘って生き残った人達から証言を集め本書に纏めた著者に対して敬意を払いたいと思います。一方、終戦まで軍の追従記事を書いていた新聞が、一転して戦争中に起きた常識では考えられない色々な出来事(自決、婦女子の“処置”、特攻隊、虐殺事件、、)に、短絡的に加害者を当て嵌めて行くことは、正しい歴史観に基づいているとは思えません。

この事件を振り返ってみると、悲劇的な結末を生んだ背景には以下の様な状況があったと考えられます;
*軍の最大の使命が国民の生命の保護にある事を忘れていた事
*「戦陣訓」の一節:“生きて虜囚の辱めをうけるな”が国民一般にも徹底されていた事
*「アッツ島玉砕」、「サイパン島玉砕」、「硫黄島玉砕」、「沖縄戦の悲劇」、「特攻隊」、、等を報道機関は英雄的に伝えていたこと

振り返って現在にこの教訓が生かされているかどうか、きちんと検証することがこの事件で亡くなった多くの方への供養になると思いました。

以上

憲法についての私の見解

-先の戦争に関わる私の歴史観-

 我々の世代は、先の戦争で悲惨な体験をしてきた両親や、小・中学校の先生から徹底的な平和教育を受けてきました。その中心的な役割を担ってきたのが所謂日本の平和憲法です。また我々の世代の多感期にあっては、世界情勢が激変し小・中学校時代に受けてきたこうした平和教育と現実政治とのギャップに日々悩んできたことがあります。従って我々は他の世代の人々に対して、現行憲法についての歴史や問題点を論じ、発信する資格があると思っています。

満州事変から太平洋戦争に至る歴史をつぶさに学ぶにつれて、「軍国主義」がこの戦争の唯一の原因であり、この軍国主義を永久に葬るために「平和憲法」があるという考えは余りに単純な考えであることが分かってきました。軍民合わせて310万人もの死者を出した先の戦争の責任は、軍部や軍国主義者だけでなく、被害者であるはずの国民一人一人にもその責任があると考える方が自然です。先の戦争の当事者であった国々(連合国だけでなく、枢軸国も)は、まがりなりにも民主的な体制を整えており、戦争を始める前には国民の大多数が開戦を支持していたことは歴史的な事実です。民主主義のリーダーを標榜する米国ですら9.11同時多発テロ以降アフガニスタン、イラクとの泥沼の戦争に突き進んでいった時も、始める時点では国民の大多数の支持が得られていました。ある人はマスコミが悪いと言いますが、マスコミの論調に同調してしまうということは、とりもなおさず自身の判断力が劣っていたということを告白している様なものです。客観的な情報を集める努力を惜しまず、これらを基に自身の責任で判断していくことが民主国家の国民として求められていることだと私は考えます。

昨今、最も沸騰した議論が行われた政治的課題は「新安保法制」だと思います。この議論の中で一部の党派が、新安保法制は「戦争法案」だというスローガンで大衆を扇動しておりましたが、政治手法としては先の戦争で行われていた政治的プロパガンダと同質であるだけでなく、日本人が陥りやすい短絡的な思考を助長するという意味で大変危険に感じました。また、憲法学者を集めて意見を聞いた結果、「新安保法制」は憲法違反であるという意見が多かったことで、マスコミがキャンペーンを張り国会周辺が騒がしくなったのは、2.26事件以降の戦前・戦中のマスコミの姿勢とこれに踊らされて好戦的となった一般大衆を彷彿とさせ大変危険に感じました。

-現行憲法を素直に読むと-

 そもそも憲法の様な最も基本的な法律が、学者の解釈を必要とするほど難しくていいのでしょうか。ましてや、憲法条文の解釈を学者や政治家に委ねていて民主国家の国民といえるのでしょうか。我々一人一人が自身で憲法を読み、もっとシンプルに理解する必要があると思います。以下は現行憲法についての私の見解です;

憲法前文には以下の様な国際関係に関わる認識が書かれています;

「・・・日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。 ・・・」

また憲法9条には以下の様に「戦争の放棄」と「戦力の不保持、交戦権の放棄」が明確に書かれています;

「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久に放棄する

第2項;

「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない国の交戦権は、これを認めない

この条文を見て現在の陸・海・空の自衛隊が合憲と言えるでしょうか。私はこの条文を改正しない限り自衛隊の存在そのものが違憲であると思います

現行憲法は、GHQ支配下のもと所謂「マッカーサー草案」をベースに日本側の専門家と検討を重ねたうえで、1946年11月に公布され、翌年5月3日に施行されました。この時点では、交戦国である連合国軍、及び戦争によって過酷な被害を被った東南アジアの国々にとって、直接憎しみの対象となる日本軍を“永久に”葬ることが、この条文の目的であったことは間違いないと思います。また、1945年10月24日に誕生した「国際連合」による集団的安全保障により戦力を持たない国の正義は守られるという期待があったものとも考えられます。

国連憲章第51条には「集団的安全保障」について以下の様に規定されています;

「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。・・・」

(注)日本は1952年に国連加盟を申請したものの、冷戦下にあってソ連を中心とする社会主義国の反対にあい加盟できなかった。加盟できたのは1956年日ソ国交回復の後であった。

新憲法に関わる国会討論の場で、1946年6月26日に当時の吉田茂首相は;

「戦争放棄に関する本案の規定は、直接に自衛権を否定はして居りませんが、第9条第2項に於いて一切の軍備と交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、又交戦権も放棄したものであります」

と、明確に述べています。

-冷戦下に於ける「自衛権」の拡大解釈への道-

しかし国際情勢が激変する中で、吉田茂首相は1950年1月28日の国会答弁で;

「いやしくも国が独立を回復する以上は、自衛権の存在することは明らかであって、その自衛権が、ただ武力によらざる自衛権を日本は持つということは、これは明瞭であります(原文のママ)」

と述べており、自衛権に関わるニュアンスの違いが表れています。

終戦後1950年までの5年間に日本を取り巻く国際情勢が大きく変わりました。ドイツの分割統治に代表されるようにソ連邦を盟主とする社会主義諸国とアメリカを盟主とする自由主義諸国との間に「冷戦」が始まり、アジアでは大戦後の秩序を変える為の戦争が始まっていました。

因みに、中国本土では1946年6月、毛沢東に指導された中国共産党軍と蒋介石に率いられた国民党軍との間に内戦が再発し1949年には国民党軍を台湾に追いやり中華人民共和国が成立しました(同年10月1日)、

またベトナムでは日本の降伏後フランスの植民地に戻ったものの、すぐにホーチミンに指導された共産軍(ベトミン)が独立戦争を始め、1954年5月ディエンビエンフーの戦いでフランスには勝利したものの、米軍が支援する南ベトナムとの間で1970年まで続く長い戦争が始まっておりました。

一方朝鮮半島では1950年6月に金日成に指導された北朝鮮軍が突然38度線を突破し、破竹の勢いで韓国軍を圧倒して釜山に迫る状況になりましたが、その年の9月米軍を中心とする国連軍が仁川上陸作戦を決行し体勢を逆転させました。しかし北朝鮮軍が劣勢に落ち入ると、成立したばかりの中華人民共和国軍(義勇軍と称していた)が突如参戦し、戦局は38度線を境に膠着状態になりました。1953年7月休戦協定が成立したものの現在に至るまで緊張状態が続いています。

こうした緊迫したアジア情勢の中で、GHQの命令で新憲法の「戦力の不保持」の概念に抵触する可能性のある「警察予備隊」を設立(1950年8月)し、更にこれを明らかに武装組織と見做しうる「保安隊」に改変しました(1952年10月)。これらの隊員には旧日本軍の将兵が多く雇用されていました。

【日本の主権回復】

1951年9月サンフランシスコに於いて連合国との間に平和条約の調印が行われ、翌年4月に発効し日本の主権は回復しました。しかし冷戦の影響でソ連を中心とする社会主義の諸国はこの条約に署名をしていません。また、米国との間には平和条約調印と同時に二国間で「日米安全保障条約(以下“安保条約”)」が締結され、米国が日本の防衛の責任を負うことと、米軍の日本駐留を認めることが決められました。

一般にはあまり知られていないことですが、1954年3月には「日米相互防衛援助条約」が締結され、日本は自国の防衛力を強化していく義務が課せられました。これに伴い、同年6月「保安隊」は陸・海・空の「自衛隊」に改組されることになりました。

憲法を改正することなく実質的に軍隊と変わらない「自衛隊」を保持することは、当然国会での議論を呼び、1954年12月22日衆議院予算委員会で大村精一防衛庁長官が概略以下の様な趣旨の発言をしています;

* 憲法は自衛権を否定していない

* 憲法は戦争を放棄しているが、自衛の為の“抗争”は放棄していない

* 「戦争、武力による威嚇、武力の行使」を放棄しているのは「国際紛争を解決する手段としてはということ。他国から武力攻撃があった場合、武力攻撃そのものを阻止することは、自己防衛そのものであって、国際紛争を解決することとは本質的に異なる。従って自国に対して武力攻撃が加えられた場合、国土を防衛する手段として武力を行使することは憲法に違反しない

しかし、「国際紛争を解決する為」以外の目的で「他国からの武力攻撃」を受けることは常識的にあり得るでしょうか。これはどう考えても私には詭弁としか思えません。

砂川事件

1957年7月立川基地内に基地拡張反対派が立ち入ったとして、安保条約に基づく刑事特別法違反の疑いで7人が逮捕されました。被告人は安保条約そのものが憲法違反であるとして無罪を主張、一審の東京地裁では被告人の主張を認め全員無罪の判決を下しています。しかし1959年12月、最高裁では以下の判断のもと地裁判決を破棄し、差し戻しました(差し戻し審判決:罰金2千円);

* 憲法9条は安保条約を禁ずるものではない

* 裁判所が条約について「違憲審査権」を行使するのは明白に違憲であるものに限る

* 米軍の駐留は、憲法前文、第9条、第98条第2項(条約の遵守義務)に適合する

この最高裁判決では、自衛隊の存在が合憲か違憲かの判断はしていません。また、安保条約に基づく集団的安全保障は合憲であるという判断を行っています

-国内於ける保革の対立-

アジア諸国の自由主義と社会主義の対立の構図は、国内の「保守」対「革新」の対立にも色濃く反映していました。保守陣営による安保条約体制維持に対する革新陣営による安保条約破棄闘争と反戦運動は、正にこの構図そのものでした。

60年安保闘争

1959年~60年、安保条約に反対する労働者、学生、市民が参加して大規模な反対運動が起こりました。30万人以上が国会を囲み、激しいデモと警官隊との衝突により学生1名の死者(樺美智子さん)を出しました。私の中学時代の出来事ですが、この時の記憶は鮮烈です。しかし新しい安保条約は国会で批准され、岸首相は安保条約の成立を機会に辞任致しました。

この安保闘争では、1955年7月の日本共産党第6回全国協議会(通称“六全協‘)で暴力革命を放棄した共産党から分かれ、1958年に結成された共産主義者同盟(通称“ブント”)のメンバーが全学連を牽引し激しい闘争を繰り広げましたが、安保闘争が終息すると多数の党派に分裂し、この後の過激な学生運動に引き継がれてゆきます。

60年安保闘争
60年安保闘争

ベトナム反戦運動

1965年2月に始まった米軍の“北爆”を契機として、60年安保闘争に参加した知識人(小田実、鶴見俊介、他)を中心メンバーとして組織された無党派の反戦運動です。“ベトナムに平和を! 市民連合(ベ平連)”と称するこのムーブメントは、反戦を旗印に国内外で活発な運動を繰り広げましたが、1973年のパリ和平協定締結に続く米軍のベトナム撤退(1974年)を受け解散しました。

ベ平連のデモ
ベ平連のデモ

70年安保闘争

1960年に締結された新安保条約は期限が10年で、1年前の通告で一方的に破棄できると定めてあり、70年安保闘争とは締結後10年を迎える1970年に安保条約を破棄通告させようした闘争でした。この闘争は大学改革を目指した学生運動(全学連)と結合し、大学封鎖等の戦術が全国の大学に広がってゆきましたが、労働者、市民のレベルには共感が広がらず、70年の期限が迫るにつれ、60年安保後に生まれた“ブント”系の過激な党派(核マル派、中核派、赤軍派、等)に次第にイニシアティブを握られるようになり、条約破棄の通知期限である1970年を過ぎてこの闘争は目標を失い自動消滅致しました。この前後から、より過激になった“ブント”系党派間の争い(内ゲバ)は多くの死者を出す程の激しさとなりました。特に核マル派と中核派の間に起った凄惨な内ゲバはその後も長く続き、その血なまぐさい暴力は一般の人には耐え難いものでした。また赤軍派は1970年の「よど号ハイジャック事件」、1972年2月の「浅間山荘事件」、1972年5月の「テルアビブ空港乱射事件」、1973年の「ドバイ日航機ハイジャック事件」等の一連の大事件を引き起こし、大衆運動からは完全に遊離して行きました。マスコミにも大きく取り上げられたこれらの過激な活動が、結果として終戦後ずっと続いてきた先駆的な学生運動の系譜も完全に断ち切られてしまうことになりました。その後現在に至るまで続く政治に無関心な若者群は、この時代の過激な学生運動の挫折の結果かもしれません。

70年安保闘争_安田講堂の攻防
70年安保闘争_安田講堂の攻防

結局これらの闘争や反戦運動は自民党政権の打倒社会主義的な体制への変革を目指した活動が主になり、結果として自衛隊の違憲性については殆ど語られないままに終りました。

70年安保以降、日本は驚異的な経済発展が続き経済大国になると共に、大きな異論もないままに日本の防衛力は世界の五指に入るまで強化され、平和憲法の精神とは裏腹な強い“軍事力”を持つにいたりました。

-国際情勢の変化に伴う自衛隊任務の変質-

 一方1990年以降の世界は社会主義体制の脆弱化及びそれに続くソ連の崩壊により、それまで国際関係を決めていた冷戦構造が終焉しましたが、イスラム教過激主義の蔓延、国連安全保障理事会でのロシア、中国の拒否権の発動により中東地域、北アフリカ、東ヨーロッパでいつ終わるとも知れない戦乱が続くようになりました。

以下の歴史は、強い“軍事力”を持ってしまった日本が、平和憲法が求める「専守防衛」の枠から外れていく歴史的過程です;

湾岸戦争

1990年8月イラク軍が突如クウェート侵攻し占領後にイラクへの編入を宣言しました。1991年、米軍を中心とした多国籍軍がイラクを攻撃しクウェートを解放しました。日本は自衛隊の派遣はせず、130億ドルもの戦費等の負担を行ったものの、国際社会からは評価されませんでした。“Show the Flag”つまり軍隊の派遣無くして同盟軍とは見做されない現実を味わいました。ただ、1991年4月多国籍軍とイラク軍との間の停戦が発効すると、日本はペルシャ湾での機雷の撤去及び処置(掃海任務)を行うことになりましたが、これはあくまで日本の船舶の安全航行の為の通常業務と位置付けられていました。

PKO任務に伴う自衛隊の海外派遣

国連による平和維持活動に参加する為、1992年の国会(通称“PKO国会”)で「国際連合平和維持活動に対する協力に関する法律/通称“国際平和協力法”乃至“PKO”」を制定しました。以後、南スーダン、東チモール、ハイチ、ゴラン高原等、政情不安が続く(⇔危険の伴う)国々に自衛隊が派遣されており、最早海外に於ける日本の自衛隊のプレゼンスは先進諸国の「軍隊」と何ら変わりがない状態になっています

アフガニスタン侵攻

2001年9月11日(以降“9.11”)、ウサーマ・ビン・ラーディンに率いられたアルカイダにより米国の東部中心都市で同時多発テロが実行され、3,000人以上の死者が出ました。アフガニスタンの90%を実効支配していたタリバン政権にアルカイダのテロ実行犯の引き渡しを求めたものの応じなかった為、同年10月米軍を中心とした有志連合はアフガニスタンの北部同盟と協調して攻撃しタリバン政権を崩壊させました。この侵攻の前には国連安全保障理事会で「このテロ行為は全国家、全人類へ挑戦」という決議(1337号)を得ており、有志連合は国連憲章51条が認めている“集団的自衛権”の発動という立場をとっていましたが、この安保理事会決議には武力行使を行うとは書いていないので“集団的自衛権”発動とは見做せないという意見もありました。

同時多発テロ
同時多発テロ

日本は湾岸戦争を教訓(Show the Flag)に、2001年10月に「テロ対策特別措置法(“テロ特措法”)/2年間の時限立法;その後“新テロ措置法”として継続されましたが2007年に失効」を制定し、海上自衛隊の艦船をインド洋に派遣し、給油活動及びイージス艦によるレーダー支援を行いました。

イラク戦争(第二次湾岸戦争)】

湾岸戦争終結時にイラクに課せられた“大量破壊兵器”廃棄義務違反を理由として2003年3月、米軍を中心とする有志連合がイラクに侵攻しました。正規軍同士の戦闘はこの年に終わったものの、治安維持に向けた作戦に失敗しその後も泥沼化した戦闘が続きました。米軍の全面撤収は2011年末に一応実現したもののシーア派による政権運営が破綻し、イスラム最過激派であるISIS(又はISIL)による地域の支配を許し、現在も激しい戦闘が続いています。また、ISISの浸透は、シリア、北アフリカにも及んでおり、これらの国々からヨーロッパの国々に避難民が押し寄せ、結果としてEU内での左右の対立が深まり戦後営々として築かれてきた民族、宗教の融和は危機に瀕しています。

日本は2003年12月~2009年2月まで自衛隊を派遣しています。これは「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動実施に関する特別措置法(イラク特措法)/4年間の時限立法;2007年年に2年間の延長を行った」に基づくもので、自衛隊の人員規模は約1,000人に達する大規模な派遣(陸上自衛隊はサマーワを基地として約550人、航空自衛隊は輸送任務に約200人、海上自衛隊は輸送艦1隻、護衛艦1隻の乗組員約330人)となりました。国会での論議では自衛隊の活動が戦闘地域か、非戦闘地域かで紛糾したことは記憶に新しいところです。

上記の通り国会での議論を経てここ15年以上に亘って実質的に自衛隊の海外派遣が行われきており、自衛隊の存在に関わる違憲性はともかくとして、その任務を「専守防衛」として最後の歯止めをかけてきたことが、厳しい国際情勢の中でたとえ時限立法とはいえ崩れ去っていったことが分かります。

-新安保法制-

 衆議院で絶対多数を得た第二次安倍内閣では、2015年上記の体制を更に進め、自衛隊の任務を更に拡大した上で恒久法として以下の法律群(新安保法制)を制定しました;

1.国際平和支援法案:自衛隊の海外での他国軍の後方支援

2.自衛隊法改正:在外邦人の救出

3.武力攻撃事態法改正:集団的自衛権行使の要件明記

4.PKO協力法改正:PKO以外の復興支援、及び駆けつけ警護を可能とする

5.重要影響事態法:日本周辺以外での他国軍の後方支援

6.船舶検査活動法改正:重要影響事態における日本周辺以外での船舶検査の実施

7.米軍等行動円滑化法:集団的自衛権を行使する際の他国軍への役務提供追加

8.特定公共施設利用法改正:日本が攻撃された場合、米軍以外の軍にも港湾や飛行場を提供可能にする

9.海上輸送規制法改正:集団的自衛権を行使する際、外国軍用品の海上輸送規制を可能とする

10.捕虜取り扱い法改正:集団的自衛権を行使する際の捕虜の取り扱いを追加

11.国家安全保障会議(NSC)設置法改正:NSCの審議事項に集団的自衛権を行使する事態を追加

冷戦の終結とEUの東欧諸国への拡大で、一時世界は平和に向かって進むかに見えましたが、9.11テロ以降始まった中東での戦争で米国は疲弊し「世界の警察官」としての実力と威信を失う一方で、経済的な成長を遂げた中国が急速に軍事力を拡大し、東シナ海、南シナ海での新たな緊張を生み出しています。また欧州においてもロシアがウクライナに於いて領土的な野心を露わにしている状況が現出しています。シリアでの悲惨な状況を見るまでもなく、今の国際情勢は、最早米国中心の秩序も、国連中心の秩序も期待できない状況になっています。

新安保法制全体を俯瞰すると、もはや自衛隊の違憲性などは何処へやら、集団的自衛権の枠内(国連憲章の枠内ではなく)であれば、起こりうる国際紛争に立法措置無しで自衛隊を運用できるようになると思われます。であれば憲法9条は何の歯止めにもなっていないのではないでしょうか。

一方大統領選挙戦の論戦で見えてくる米国民の意識の変化は、モンロー主義(孤立主義的な外交方針)への回帰も伺えます。安保条約を頼りにしているだけで本当に日本は米国に守ってもらえるのか。また逆に米軍が引き起こす戦争に巻き込まれることにはならないのか。

-自衛隊を国防軍へ-

 如上を踏まえた上で、私の考えは憲法9条を改正し他の国々と同じように国防軍として認めた上で、この実力集団を如何にして戦争の抑止に役立てるかという議論こそ必要なのではないかと思います。

陸上自衛隊
陸上自衛隊
海上自衛隊
海上自衛隊
航空自衛隊
航空自衛隊

-沖縄基地問題の本質-

 本来国際間の条約では一方的に庇護されることはあり得ません。何かを頼れば、何かを譲らねばなりません。沖縄の基地問題もそこに原因があるものと思います。国防軍を持った上で対等の立場で米国との間の安全保障条約を作り直すことが必要です。1902年に結ばれた日英同盟が日露戦争の勝因の一つになっていますが、彼我に大きな国力の違いがあったものの、条約は平等で双務的な内容でした。

-解釈が必要な憲法は道を誤る-

明治憲法(大日本帝国憲法)では「統帥権」が天皇あり;

第11条:“天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス”

これが軍部の独走を許し、敗戦に至ったとよく言われますが、天皇を輔弼する国務大臣にも軍事費(兵員数、装備、等)や外交に関わる決済権限があり;

第55条:“國務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス。凡テ法律勅令其ノ他國務ニ關ル詔勅ハ國務大臣ノ副署ヲ要ス” 

また、帝国議会でも民選の衆議院議員によってチェックをする機能があり、同じ立憲君主国である英国の様に、天皇を頂点とする統治機構でも最善の決断ができるはずでした(現に衆議院議員・斉藤隆夫によって帝国議会で反軍演説が行われている)。しかし、実際には軍事に関しては「統帥権」を盾に取り、実力部隊をもった軍部に全ての判断を委ねる結果となりました。そもそも「統帥権」の定義、運用の基準等が具体性に欠けていたことが軍部の専横を許した訳ですが、国家存亡の危機を乗り切った仲間である明治の元勲達が政治・軍事を牛耳っていた明治時代にはこれで充分であったかもしれませんが、これらの指導者が世代交代した後はうまく機能しませんでした。

-結論-

 このような日本の歴史を踏まえ、憲法改正に当たっては、シンプルで、且つ曲解を生まないような条文にすべきであると考えます。また、改正すべきは9条だけではなく、96条(改正の発議に国会議員の三分の二の賛成を要する)も含めるべきだと考えます。何故なら、憲法は宗教の経典ではないので、改正の為のハードルを徒に高くすることは国民の利益にならないからです。憲法をめぐる国民の意思は国民投票のみによって示されるべきであり、真の平和は、現在の国民の意思によってこそ築かれるべきだと私は考えます

以上

夏野菜の発芽・育苗の工夫_①

普通素人が夏野菜を育てる場合、ホームセンター等で苗を購入してその植え付けから始める人が多いのですが、私の場合は屋上菜園を始めた当初から「種」からの栽培を目指しました。理由は、“野菜の一生”を観たいことと、苗としては手に入りにくい野菜(外国の野菜、日本の他の地方の野菜、など)を育てたかったからです。

夏野菜を種から育てる場合の最大の難関は、気温が低い春先に「発芽温度」を如何にして確保するかという点にあります。プロは温室を使って簡単にこの条件をクリアーしますが、素人の場合は発芽温度をコントロールできる温室など望むべくもありません。ただ私が最初にトライしたの以下の写真の様な自作の温室です;

自作の温室
自作の温室

角の柱に電気コードが這っているのでお分かりの様に、温室の中には温度コントロール式電気ヒーターと温風循環用の送風機(パソコン用のジャンク品)を設置しています。また保温を効率的にするために厚い発泡スチロールの板で囲っております。結果を申し上げると完全な失敗です。失敗の原因は、春先の気温の変化が激しく外気の中で、発芽温度として必要な25℃~30℃を維持するのが不可能だったためです。結果として、素人が夏野菜の「発芽」を成功させるには、下記の様な「発芽・育苗器」が必要であることを実感した次第です;

発芽育苗器_市販
発芽育苗器_市販

この「発芽育苗器」は温度コントロールされた電熱を利用しておりますが、市販価格は安いもので15,000円はします。そこでコストセーブを旨とする私としては、市販品を購入することを潔しとせず、最初に掲げた写真の様な自作「発芽器」を考案し、既に3年ほど実用に供しております。見事に発芽するので自画自賛している次第です。因みに構成部品とその価格は以下の通りです;

1.全体を収納しているケース:これはホームセンターでよく売られているプラスティックの「ストッカーです」 価格は大きさによりますが写真にある大きなもので、2,000円程度です。これにたっぷりの水(80%位の水位)を入れます

2.温度コントロール付きのヒーター:上記の水を25℃~30℃の「発芽温度」となるよう温める熱帯魚水槽用のヒーターです。価格は1,500円程度です。

3.苗を育てるポットを入れるトレー:100円ショップで売っているプラスティック・トレーです。消費税込みで105円/1個。上の写真ではポットを入れたトレーを3つ浮かべてあります。

この自作「発芽器」を窓際に置き、温度を30℃にセットして使っておりますが、種を植えたポットは24時間発芽温度を維持しています。これで種の種類により異なりますが、数日から10日ぐらいで発芽させることができます。上の写真ではプラスティック・ストッカーの蓋(右側)に銀色のシートが張ってありますが、これは日中窓からの光と熱を効率的に取り込み電力使用量を節約するための工夫です。また、夜間には蓋を閉めることにより、更に電力使用量を節約することができます。

注意事項:ポットの乾燥に注意すること。30℃くらいに保温しているので、毎日乾燥状態をチェックし、乾燥していれば給水すること。但し、過剰な給水は茎の徒長を招くので要注意!

次回の投稿では、これで発芽させたポットを、室内のベランダで立派な苗に育てる方法を報告します

生い立ちの記(生誕・抑留・引揚・困窮生活)

以下は、私が中学一年の夏休みの宿題で書いた「生い立ちの記」(原稿用紙50枚がノルマだった)の最初の部分です。平仮名が多く文章が稚拙なのは、私が理系の人間で国語嫌いであったということで許していただくとして、内容については全て両親から聞き取ったもので、実体験に基づいているものです;

生い立ちの記

中学一年A組 荒井 徹

満州での誕生と終戦

昭和20年4月2日、満州の奉天市で次男として私は生まれた。父は満州航空に勤めており、わりあいと生活は楽だった。それから五ヶ月くらいはこのように平和に暮らしていた。所が、それからがいけない。8月15日、大東亜戦争が終わって日本中がうれしいやら、かなしいやらでわいわい言っている時、こちら満州はソ連軍が入って大混乱おちいっていた。私達は、といっても父は会社の関係で入らないが、営口(えいこう)へそかいしていた。それから半月位で又奉天へ帰って来た。それからの生活は非常に苦しかった。父は終戦して少したってからソ連に飛行場をとられ、社員は解散となったので、ブローカーをして生活をした。しかし、それも父は商売がへただったのでうまく行かず、着物、母の「かたみ」の指輪などを売って暮らしをたてていた。

生誕の家
生誕の家

もうそのころになると、ここはあぶなくなってきた。昼はその日の生活を立てるために、二足三文になった高価な着物等を売り、中国人が買っていく。夜になると武器をすてさせた無抵抗な私達のところへ、武器をもった強盗が入ってくる。私達は何軒かで集団をつくり、そのまわりに鉄条網をはりめぐらせし、雨戸はくぎでうちつけ、かんたんに出入りできないようにした。男は一日中服を着替えず、強盗のみはりに務めた。もし私達の所へ入ってきたら、ドラを鳴らしてさわぎおっぱらうようにした。さいわい私達の所には一度しか入らず、たいしたことにはならなかった(しかし、ひとりの死者がでたが)。

内地への帰還

その恐怖の一年間が過ぎていよいよ帰国の日が来た。国民政府が満州を占領し、すぐ私達を帰してくれたくれたのだ。そのつぎの朝から苦しい帰国までの日がつづく。7月1日の4時、藤浪町町ぐるみマーチョ(馬車)でいっせいに自宅を出発。北奉天まで行った。そこから貨物列車で錦県(きんけん)まで行った。その道中は非常に苦しいものだった。なにしろ馬や牛が乗る貨物列車なのだから、家の近所のおばあさんが病気の体で来たため死んでいった。さて、その長い苦しい列車の時間が終わって錦県駅について、それから徒歩で宿舎まで行く。それはとても苦しい。母は背に満一歳の私をおぶり、前に大きいリュックサックをしょっていた。満五歳の兄は私のおしめをせおっていた。父は隊長だったので、リュックサック一つをせおってみんなの世話をしていた。やっと宿舎について。そこは兵舎であった。そこで約一週間、3万人位が自炊をして暮らしたのだ。入るときはDDTを全身にまいた。おかげで、はえ、南京虫、のみ、などにはなやまされなかった。入ってから間もなく母が心臓病で苦しみだした。それはあまりにひどい過労のためであった。さいわいいっしょに来た医者にみてもらい注射をしたら落ち着いた。

やっと兵舎生活が終わって、貨物列車に乗って、しかもその貨物列車が中国人に略奪されるので戸を全部しめてある。放尿はなかなかできない。三時間位でコロ島についた。そこからいよいよ7月20日、アメリカ貨物船リバティ型に乗って一路舞鶴に向かって出発した。船上でも色々と苦しい事がつづいた。なにしろ貨物船なのでねる所がない。その上いっぱいつめこんだので全員が横になれない。私達は横になったが、父はずっとよりかかったままだった。食べものはコーリャンにやさい少々、サバの肉少々が入った、おかゆとは言えぬぞう水と言ったほうが正しい。そのため栄養失調で三人位死んだ。その時は本土までもっていくとくさるので水葬をした。船はそのまわりを ぼおーー ぼおーー と、きてきをならしてまわる。乗船者は水葬者を見送る。それで水葬は終わる。なにしろ暑いのですこしもじっとしていられない位だ。わたしのおしめは海水で洗った。こういう事が三日間続いた。やっと日本についた。

記念碑@葫蘆島
記念碑@葫蘆島
葫蘆島の港
葫蘆島の港

腸チフス罹患

舞鶴で一泊して、いよいよ父母の実家のある長野に向かう。宿泊所では久しぶりの風呂に入って旅のあかを落とした。つぎの朝はさっそく駅へ向かった。途中、新しいトマトがたくさん有り、帰国の苦しい旅で新鮮な野菜にうえていたのでさっそく買ってかぶりついた。舞鶴駅から名古屋に向かって汽車は出発した。名古屋駅ではもう一度風呂へ入り、一泊して朝、いよいよたい望の長野へ向かった。長野駅についてから父の実家に行った。そこでは便りが全々とどかないので、行った時は非常におどろいただろう。

私達はほかに住む家が無いので、一応そこで落ちつくことになった。と、半年ばかりして私の兄が元気がなくなってきた。ちょっと遊びにいっては、すぐもどってきてごろごろ横になる。きっとだるいのだろう。母はなにか悪い病気の前ぶれではないかと心配した。間もなくそれがほんとうになった。兄は急に高い熱が出たのだ。医者に診察してもらった所、それは腸チブスとわかった。すぐ入院だ。しかしほんとうは市の病院へ入るのだが、そこへ行くと設備も医者も悪いので死んでしまうおそれがあるので、無理して日赤に入院させた。兄の病態は思ったより悪かった。母は看護のため病院にいた。私はまだ乳をのんでいたので、のむ時だけ母に待合室に来てもらってのんだ。所が、どこから感染したか私にもうつってしまったらしい。兄の発病後一週間ぐらいで私は発熱した。すぐ日赤で診察した所、案のじょう腸チブスであった。すぐ私は兄のとなりの所に入院した。なにしろ私は満一年と五ヶ月ぐらいしかなっていないし、兄の病態は非常に重いので、母はどちらかは取られるとかくごしていたらしい。私はまだ小さい時だったので良かったが、兄はもう五才であったので、毎日太いリンゲルをやり、ほかにも注射をたくさんやったので苦しかっただろう。それから一ヶ月ぐらいで私達は奇跡的に助かった。私は兄より一週間ぐらいしてから退院した。兄はあまり重かったのでこしがぬけてたてなかったという。母は毎日大きなにんにくをたべていたのでうつらずにすんだ。その時こそはにんにくのききめをはっきり知った。私達は金が一文もないので、父が事務長にだんぱんに行って引あげ者のことを話し、入院費はただにしてもらった。兄の退院後は、栄養を取らなければいけないので、父母達は配給のとうもろこしの粉等を食べ、兄にはその頃食べたこともない白米を食べさせた。そのような父母の苦労で私達の病気もすっかり良くなって、兄は学校へ行くようになった。

引揚者住宅入居

それから二ヶ月、引揚者のアパートのある長野市居町に引っこすことになった。私達は一年間世話になった父の実家に厚く礼をいってうつった。そこではアパートはいかれてるながらも、まずしいながらも、親子そろった楽しい生活がはじまった。父もやっと職業が見つかった。工業学校の恩師に世話をしてもらって、フォノモーター作りを始めたのだ。だが依然として生活は苦しかった。兄は引っこしたらすぐに鍋屋田(なべやた)小学校に転校した。

昭和二十三年七月六日、妹が生まれた。目方は八百匁ぐらいで重い方だそうだ。

良くおぼえていない。多分四才ぐらいだろう。夏のある晴れた日、兄は野球かなんかしていた。私は下の魚屋の子供等といっしょに、どこだかわからないが、まわりはたんぼで真中にはすの生えている池がある、こんな遠い所へは一度も来たことがないのでうれしさに飛びまわった。私達はとんぼをとりに来たのだった。収穫がどの位あったかはおぼえていない。

もうもうとほこりがたっている。ここは私の前のアパートの廊下である。私は同じとし位の友達とパッチン(「めんこ」のこと)をやっているのだ。私は生まれつき勝負事が弱く、いつでもまけてしまう。それでもこりずに何回でもやるのである。

私のいつも遊ぶ所は居町公園である。そこは私のいる居町アパートに近く、木もたくさん植わってい、私の絶好の遊び場所だった。と言うのは、私が木登りがとても好きだったからだ。しかし、それもやめなくてはならない時が来た。それは私が公園のある桜木に登っていた所、ふとしたはずみに五メートルぐらいの所から落ちたのだ。私は腰がぬけたらしくたてなくなってしまった。ぼーとしてしばらくそこにすわったままでいると、運悪く父の知り合いの人が通った。その人はすぐ母に知らせたらしく、私がしばらくして立ってぶらぶらしていると、母が青くなって飛んで来た。それからは母に木登りはやめなさいと言われ、自分でも少々こわくなったのであまり登らなくなった。又、その横の川では良く落っこちて母にしかられたりした。

そのころ父は、フォノモーター製作がうまくいかなくなって、ついにつぶれてしまった。昭和二十五年の春、父は職業をさがしに東京に行った。さいわい友人が東京の武蔵野市にいたので、そこの庭にバラックを立て自炊してくらしていた。職業の方は、父の友人の紹介でビクターオート株式会社という会社に入社して私達に仕送りするようになった。私達の所へは月に一回帰って来た。