尖閣諸島問題を考える


-はじめに-

現在日中関係の最大の問題は尖閣諸島帰属の問題です。日本側の主張と中国側の主張とが真っ向から対立し、特に石原都知事時代に都がこの諸島を購入してから、両国の緊張関係は明らかに高まっていることは論を待たないことだと思います。
両国が歩み寄る気配もなく、緊張が徐々に高まっていく現在の状況は、第二次大戦後70年以上を平和に暮らしてきた日本人にとって、正に戦後最大の異常事態といっても過言ではないと思います

言うまでもない事ですが、この緊張関係を回避する特効薬は、「尖閣諸島の領有権を放棄する」ことです。しかしこの策は、排他的経済水域(200海里以内)や軍事的なプレゼンスの問題を別にしても、日本人のナショナリズムを刺激して国論を過激に走らせ、更に大きな戦争のリスクを抱える要因にもなりかねません

とすれば、最善の策は「現在の実効支配の状況を維持する」ことになります。しかし、この状態は、常に色々な形で中国側からチャレンジされることを想定し、対処しなければなりません。これは、今まで国防を全て米国に頼ってきたこの国が、自身の意思と力で自国の領土を防衛するということを意味します
米国の今の政権は、尖閣諸島の防衛は日米安保条約の範囲内である(実効支配が続いている限り)と明言している一方で、尖閣諸島帰属の問題には米国は関与しないと言っています。言い換えれば日本に尖閣諸島を防衛する確固たる意思が無ければ米軍のサポートも得られないということです

であれば、日本自身が;
* 中国の現代史(特に戦争の歴史)
* 領土問題に対する中国の姿勢
をきちんと学習し、理解しておかねば異常事態に対する戦略が立てられません。
以下は、私自身が考えた“尖閣諸島防衛の基本戦略”です;

-中国の現代史(特に戦争の歴史)-

辛亥革命以降の中国は、以下の様に絶え間ない戦争を行ってきました;
<国共合作までの内戦>
 辛亥革命/1911年~12年:1911年10月武昌蜂起により中華民国樹立。1911年1月中華民国樹立、初代大総統に孫文が就任。1912年2月清国・宣統帝廃位。袁世凱臨時大総統就任。1916年の袁世凱病死後は軍閥の群雄割拠の時代になりました。
 南京政府樹立:1927年、蒋介石は南京に政府を樹立し共産党軍の排除を始め、1930年12月からは7次に亘る大規模な共産党軍掃討戦を行いました
 瑞金臨時政府樹立:1931年、毛沢東は江西省瑞金に臨時政府を樹立しました。1934年10月、瑞金を攻撃された共産党軍は6万5千人の犠牲者を出して延安に逃れました(長征
 西安事件:1936年12月、張学良に拉致された蒋介石は、共産軍との戦闘を止め、一致して日本軍と戦うことを約しました(国共合作

<日中戦争:15年間
 1931年~1937年:1931年9月柳条湖事件(張作霖の爆殺)を機に関東軍が北支に侵入し、満州事変が勃発しました。1932年3月には宣統帝を担ぎ出して満州国を樹立しました
 1937年~1945年:1937年7月の盧溝橋事件を契機として日中が全面戦争に突入しました。同年8月に上海事変、同年12月には中華民国の首都、南京を攻略しました。以降日本は中国各地で国共合作成った国民党軍、中国共産党軍(八路軍)と泥沼の様な戦争を続けることを余儀なくされました
 1945年8月、日本の無条件降伏

(参考) 日中戦争における中国側発表の犠牲者数
*約130万人/軍人:1946年、中華民国国防部発表
*約440万人/軍民合計:1947年、中華民国行政賠償委員会
*約1300万人/軍民合計:1947年、国民党行政賠償委員会
*約2100万人/軍民合計:1985年、共産党抗日勝利40周年
*約3500万人/軍民合計:1995年、共産党抗日勝利50周年で江沢民国家主席がが発表

(参考) 日中戦争時、日本が犯した非人道的犯罪として中国の歴史に記録されていること(日本側の記録には無いか、あるいは犠牲者の数字などがかなり違うことに注意する必要があります);
*生きている人間を使った細菌実験:731部隊により行われた細菌兵器開発の為の生体実験。責任者は戦後米軍への情報提供を条件に戦犯には問われていません
*平頂山事件:1932年遼寧省北部の撫順炭鉱守備隊が行った殺害事件。ゲリラ兵に協力していると見做した無抵抗の村民を3千人殺害したとされています(ベトナム戦争における“ソンミ村事件”と似ています)
*南京大虐殺(中国側資料の表現):1937年、南京に於ける国民党軍掃討の戦闘で多くの死亡者が出ました。30万人の捕虜及び民間人が殺害されたとされています
*重慶無差別爆撃(中国側資料の表現):南京から重慶に拠点を移した国民党軍に対して、1938年~43年に亘って断続的に218回実施された戦略爆撃。1万人以上の犠牲者を出したとされています(東京裁判)
*三光作戦(中国側資料の表現):1940年以降、北支方面軍がゲリラ作戦を多用する共産党軍(八路軍)を討伐するために、これに協力する村民をまとめて殺害したとされる作戦。三光とは、“殺し尽し”、“焼き尽し”、“奪い尽す”という意味です。日本側にはこうした作戦の記録はありません
*万人抗(中国側資料の表現):満州各地の鉱山周辺に多くの人骨が埋められているとされるところ。鉱山で過酷な労働を強いられた中国人労働者の死骸が埋められた所とされ、中には生きたまま埋められた人もあるとされています

<日中戦争終了後の内戦>
 1946年~1949年:1946年6月、蒋介石は国民党軍を動員して共産軍に対して全面的に攻撃を開始しました。最初は国民党軍が優勢であったものの、次第に農民の味方を得た共産軍が優勢となっていきました。1949年10月、全土を掌握した共産軍は中華人民共和国(以下“中共”、又は“中国”)を樹立しました。1949年12月、国民党軍は全軍台湾に撤退し台北を臨時首都としました
*犠牲者数:中共軍/150万人、国民党軍/25万人と言われています

<朝鮮戦争介入>
 1948年8月、李承晩が大韓民国(以下“韓国”)を樹立、一方、金日成は同年9月、朝鮮民主主義人民共和国(以下“北朝鮮”)を樹立しました
1950年6月25日、北朝鮮は宣戦布告無しに38度線を突破して韓国に侵攻を開始しました。開戦当時、北朝鮮軍は圧倒的に優位な兵員数、火力をもっており、日本に駐留する連合国軍(ソ連、中国を除く)で結成された国連軍(正確には多国籍軍)の投入をもってしても北朝鮮軍の優位は変わらず、韓国軍と国連軍は次第に釜山付近に追い詰められていきました
1950年9月15日、マッカーサーは海兵隊を中心とする米軍部隊と韓国軍部隊を仁川に上陸させました。これに連動して釜山方面に追い詰められていた国連軍、韓国軍は反撃を開始し形勢は一気に逆転しました。9月28にはソウルを奪還し、更に10月には38度線を越えて北朝鮮に侵攻を開始しました。10月20日には平城を占領し、更に10月26には中国との国境(鴨緑江)に達しました。

北朝鮮、ソ連の要請に基づき、中国は1950年10月5日、彭徳懐を司令官とする義勇軍の派遣を決定しました。この義勇軍は後方待機を含めると100万人の大部隊でした。10月19から隠密裏に鴨緑江を渡河して侵攻を開始しました。11月1から大規模な攻勢を開始した結果、国連軍、韓国軍は懸命の戦いをしつつも撤退に次ぐ後退を余儀なくされました。この一連の戦闘で国連軍の死傷者数は約1万3千人、中国義勇軍の死傷者数はその数倍に及んだと言われています。12月5、中国・北朝鮮軍は平城を奪還、1951年1月4日には再度ソウルも奪還しました。

当初ソ連のジェット戦闘機ミグ15が投入され、第二次大戦時の航空機が主力の米軍から制空権を奪いましたが、その後米軍はF-86ジェット戦闘機を投入し、制空権を奪還することができました。航空兵力の支援を受けて1951年2月11、連合軍は再び北進を開始しました。その後両軍の間で一進一退の激戦が続き、38度線付近の高地で膠着状態に陥りました。原爆投下、等を含む戦争の継続を主張したマッカーサーは4月11日、トルーマン大統領により解任されました。

1951年7月から開城において休戦会談が開始されました。双方有利な条件での停戦を要求する為、交渉は難航し、1953年7月27に至ってようやく休戦協定が成立した。
* 正式に発表されたものはないものの、中国義勇軍の犠牲者数は50万人に達したと言われていいます。

<台湾海峡危機>
 1954年9月:中共軍による金門島砲撃
 1955年1月:中共軍による江山島攻撃と米軍支援の下での国民党軍の大陳島撤退
 1958年8月:中共軍による金門島砲撃と空中戦に勝った国民党軍による厦門空爆
⑫ 1965年:偶発的に小規模な海戦が発生

<中国・インド国境紛争>
開戦の背景:1950年、中共軍がチベットに侵攻しこれを支配しました
1954年、周恩来首相とネルー首相との会談で平和五原則(①領土・主権の相互尊重、②相互不可侵、③相互内政不干渉、④平等互恵、⑤平和共存)について合意していましたが、中国は弱体化していた清の時代の国境を認めておらず、インドが警戒感を抱いていない時期を狙って国境を画定しようとしていました。この時期インドはパキスタンとの国境紛争を抱えておりましたが、中国はこのパキスタンを支援しており、フルシチョフのスターリン批判以降中国と対立していたソ連はインドを支援していました。

戦争の推移:1959年9月に最初の武力衝突が発生し、1962年11月には大規模な衝突に発展しました。中共側戦力8万人(死傷者約2400人)、インド側戦力1万人~1万3千人(死傷者約2400人、行方不明者約1700人、捕虜約4000人)で戦い、中国が勝利をえて一方的に停戦を行いました。現在もアクサイチンを実効支配しています。

紛争後の経緯:上記紛争以降中国・インド間には直接的な戦闘は行われていませんが、中国側勝利の影響を受け、パキスタンの武装勢力がインド支配地域に侵入し、第二次印パ戦争が勃発しました。インドはこれらの紛争を契機として核弾頭搭載可能な中距離ミサイルを開発配備し、現在に至っています。

<中国・ソ連国境紛争>
開戦の背景:中ソ間の長い国境線は、強大なロシア帝国と、弱体化した清国との間で結ばれた条約(アイグン条約、北京条約)はあり、また曖昧な部分が多くありました。
1956年2月、ソ連のフルシチョフ首相が第20回党大会に於いてスターリン批判を行った結果、中ソの政治的な関係は悪化し領土に関わる緊張が高まりました。1960年代末には長い国境線を挟んで両側に大兵力が対峙(ロシア側/65万8千人、中国側/81万4千人)し小規模な衝突を繰り返していました。

戦争の推移:1969年3月、ウスリー川(アムール川/黒竜江の支流)の中州(ダマンスキー島/珍宝等)で武力衝突が発生、同年7月にはアムール川の中州(ゴルジンスキー島/八岔島)でも武力衝突が発生しました。8月には新疆ウィグル地区で武力衝突が発生し、両国は核兵器使用の準備を始めました

紛争後の経緯:1969年9月、ホーチミン首相の葬儀の帰途北京に立ち寄ったコスイギン首相と周恩来首相が会談した結果、軍事的緊張は緩和されたものの、国境での軍事力の対峙はその後も続いていました。
1980年代後半、両国は秘かに国境交渉を再開しました。1989年、ゴルバチョフ大統領が訪中して中ソ関係が正常化した後全面的な国境見直しが始まりました。1991年5月(ソ連邦崩壊直前)、一部係争地を除き中ソ東部国境協定(ソ連邦崩壊後中ロ東部国境協定)が結ばれました(1992年に批准;ダマンスキー島/珍宝等は中国に帰属することが確認されました)。1994年には中ロ西部国境協定が結ばれました(1995年に批准)。ソ連崩壊後に独立した中央アジア諸国と中国との間の国境協定も個別に結ばれてゆきました。中ロ東部国境協定で棚上げにされていたアルグン川の島とアムール川・ウスリー川の合流点の二つの島の帰属については、2004年10月、プーチン大統領と胡錦濤主席による政治決着で、係争地を二等分する形で政治決着が図られ、最終的な中ロ国境協定が締結(2005年に批准)されました

<中国・ベトナム間の領土に関わる戦争>
 1974年1月 パラセル諸島(西沙諸島)の戦い
開戦の背景:第二次世界大戦終了後、仏領インドシナでフランスとの間で独立戦争が起こりました(第一次インドシナ戦争:1946年~1949年)。独立後、ベトナム共和国(以降“南ベトナム”)と中国との間でパラセル諸島(西沙諸島)帰属の問題が発生していました。中国が同諸島の東部を実効支配し、1971年には多数の施設を建築していました。一方、南ベトナムは西部を実効支配しており軍事的な緊張は徐々に高まっていきました。
戦争の推移:1974年1月15日、哨戒中の南ベトナム軍艦が、実効支配している同諸島西部の永楽群島の島(甘泉島/ロバーツ島)に中国国旗が立てられ、付近の海域に大型の中国漁船2隻が停泊しているのを発見し退去を命ずると共に威嚇射撃を行いました。1月17日、18日には両国が増援部隊を派遣して小競り合いを繰り返していましたが、1月19日に至って南ベトナム艦隊の発砲から本格的な海戦に発展しました。1時間足らずの交戦で南ベトナム艦船は大きな損害を受けて敗退しました。午後1時30分には永楽島に4個中隊が上陸し占領、1月20には他の3つの島にも上陸し、同諸島全体が完全に中国の実効支配化に置かれることになりました。
中国の勝因/南ベトナムの敗因:地理的に中国の方が同諸島に近かったこと、速射砲を備えた中国軍艦船の方が戦闘力が高かったこと、陸軍兵力が圧倒的に凌駕していたこと(中国:4個中隊、ベトナム:100~200人)があげられます。また前年パリ協定に基づき米軍がベトナムから撤退し、南ベトナム自身も北ベトナムの攻勢に晒されている時期であり戦意の面でも相当劣勢にあったと考えられます

* パリ協定(ベトナム和平):1973年1月27日に調印。この協定に沿って3月29日には米軍はベトナムから完全に撤退しました
* ベトナムの統一1976年4月、北ベトナムの攻勢によりサイゴンが陥落、南北統一が実現しました

 1979年2月~3月 中越戦争
開戦の背景:大量虐殺による恐怖政治を布いていたポルポト政権を倒すため、ベトナムは亡命していたヘン・サムリンを支援しカンボジアに侵攻、1979年1月プノンペンを解放しました。ポルポト政権を支援していた中国は1979年2月、ベトナムとの開戦を決断しました。当時の中国は鄧小平、華国鋒政権であり、ポルポト政権支援以外に、文化大革命の不満を外に向ける必要があったこと、ベトナム戦争で支援してきた中国への裏切り行為(中国の反ソ政策に同調しないこと)やベトナムによる旧南ベトナムの華僑資本家層の圧迫、なども開戦決断の背景にあったと考えられています;

中国軍侵入ルート

戦争の推移:約60万の中国地上軍が北部国境から侵入。この時期ベトナム軍主力はカンボジアにあり、北部には約3万人程度の民兵(しかし正規軍に匹敵する精鋭)しか居なかった為徐々に後退する作戦をとりました。その結果、中国軍は北部5省を占領することとなりました。その後、ベトナム軍主力が合流を開始するとともに戦局は逆転し、最終的に中国軍は国境外に撤退しました。撤退に際して非人道的な焦土作戦を行い、多数の民間人が犠牲になったと言われています。両国の損害については確たる資料は無いものの、双方に数万人規模の犠牲者があったとされています。中国は国内では勝利したと宣伝していますが、ベトナム懲罰の目的を達せずに国境外に撤退していることから、実質中国は敗退したと考えるのが自然であると思われます

ベトナムの勝因:ベトナム戦争中にソ連から供与された兵器及び米軍から獲得した近代的な兵器を保有しており、更に厳しいベトナム戦争を勝ち抜いてきた豊富な実戦経験があったこと。
中国の敗因:旧式の兵器しか無かったこと、及び軍制に弱点(文化大革命で軍隊に階級が無くなった)があったため。(その後、軍の近代化が中国の最優先の国家目標となりました)

 1984年4月~7月 中越国境地域のベトナム側領域での戦闘
開戦の背景:中越戦争後、もともと国境が確定していなかった要衝である「老山・者陰山」一帯にベトナム軍が侵攻し、恒久的な陣地の構築を始めました。これに対して中越戦争での敗退で威信が低下していた中国は、軍制改革の効果を実戦で確認する場としてこの要衝の占領を計画しました

戦争の推移:第一次戦闘(4月2日~28日)で中国軍は要衝をほぼ制圧しました。第二次戦闘(6月12日~7月10日)ではベトナム軍が再占拠を目指して猛攻撃を加え中国軍中隊の全滅などの戦果を挙げましたが、中国軍も反撃し、双方歩兵による突撃を繰り返し大量の死者を出して戦闘は終止しました。第三次戦闘(7月12日~14日)では、ベトナム軍は6個連隊規模で白兵戦を挑みましたが、中国軍は徹底的な砲撃でこれに対抗し激戦の末兵員が尽きたベトナム軍が戦闘を中止し大規模な戦闘は終結しました

中国の勝因:第一次戦闘で大兵力を集中して要衝を抑え守りを固めていたこと。ただベトナム軍の士気が高いことと、中国側は大規模な戦闘における兵站に問題があることが判明し、その後の軍事的冒険を行わなかったこと
ベトナムの敗因:第一次戦闘で敗退し、高地に築かれてしまった中国側の堅固な陣地に、不利な低地から白兵戦を挑んだこと。

 1988年3月14日 スプラトリー諸島(南沙諸島)海戦
両国で領有権を争っていたスプラトリー諸島(南沙諸島)のジョンソン南礁(赤瓜礁)で戦闘が発生しました。中国側はフリゲート艦3隻、ベトナム側は戦車揚陸艦1隻と輸送艦2隻、火力に勝る中国が勝利しました。中国軍は空軍の支援が得られなかった為、海軍はすぐに中国本土に撤退しスプラトリー諸島全体は支配できず6個の岩礁や珊瑚礁を手に入れるに留まりました。ベトナムは29の島や暗礁を実効支配しています

-領土問題に対する中国の姿勢-

中ロの国境紛争が解決してから、中国は経済成長を上回る軍事力の増強を図ってきています。特に装備の近代化と自主開発に力を入れており、西太平洋に於いて米国と覇権を争うまでになりました。

東シナ海・南シナ海_主張の違い
東シナ海・南シナ海_主張の違い

これまでの中国の歴史を分析すると;
1.勝てると判断すれば、国際的な支持を得られない場合でも大胆に軍事力を行使している;
 1974年、南ベトナムとの衝突後にパラセル諸島(西沙諸島)全体を実効支配
 1988年、ベトナムとの海戦後にスプラトリー諸島(南沙諸島)の一部を実効支配

 スプラトリー諸島(南沙諸島)を構成している多くの島、岩礁、砂州は、中国、ベトナムの他に台湾、フィリピン、マレーシアの諸国も一部実効支配を行っています。また、ブルネイも実効支配はしていないものの、一部の島の領有を主張しています

2.軍事バランスが崩れた時を狙って抜け目なくつけ入ってくる;
 1991年のソ連邦崩壊後、米国とフィリピンの相互防衛条約が解消されると同時に米軍はクラーク空軍基地から撤収し、1992年にはスービック海軍基地からも撤収しました。その結果、この地域での米軍のプレゼンスは著しく低下しました。1995年に入って中国は、それまでフィリピンが実効支配していたミスチーフ礁(美済礁)に恒久的な建造物を作り実効支配を始めました
 2012年、中国とフィリピンが領有権を争っていたスカボロ―礁(フィリピンの排他的経済水域内にあり、スービック海軍基地があった頃米軍が射撃場にしていました)で中国漁民の違法操業を巡って両国の監視船が対峙する紛争が発生しました。2013年には、中国がここに軍事基地を建設し実効支配を固めています

 ボルネオ島の北西に位置するナトゥナ諸島は現在インドネシアが実効支配していますが、一部の島々が中国が領有を主張している“九段線”の内側に入っています。これまで南シナ海の領有権問題には中立の姿勢をとってきましたが、最近中国漁船の違法操業を巡って紛争が発生しており、今後中国の出方によっては両国の緊張が高まるものと思われます

3.領土問題に関しては、相手が大国であっても戦争をも辞さずに自国の主張を貫き通している;
 中国・インド国境紛争:1959年~現在
 中国・ソ連(ロシア)国境紛争:1956年~2005年
 中国・ベトナム国境紛争:1979年~現在

4.政治と国防が一体化し、長期的な戦略を着実に実行している;
 国民に対する歴史教育を国家主導で一元的に実施し、領土に関わる戦闘や主張、またこれに伴う莫大な国防費について国民のコンセンサスを得ている
 国民へのアナウンスとは別に、戦争を通じて得た苦い経験を軍の改革に生かしている(朝鮮戦争や中越戦争時の精神主義、白兵主義から装備の近代化への動き;中越戦争を通じての兵站戦略の重要性認識と、軍制の改革実施)
 周政権になってから海洋進出の意図を露わにしています(“一帯一路”戦略の“一路”の部分)が、この為には南シナ海、東シナ海の制空権、制海権を確立することが必要です。未だ道半ばですが、南シナ海各諸島での実効支配の拡大と軍事基地化、海軍力の増強(イージス艦、ミサイル装備の艦艇)、空軍力の増強(ステルス戦闘機、航空母艦)、即応体制の確立(防空識別圏の設定、拡大)、などはこの政策に沿った一連の施策と考えられます
 武器の供給を外国に頼ることは、戦争遂行能力に大きく影響することから、これからの戦争に必須となる武器については国産を目指しています(ステルス戦闘機、イージス艦、ミサイル装備の艦艇、航空母艦、など)
 近代戦は情報処理の技術が必須となること、また近代兵器の開発には膨大なノウハウが詰め込まれていることから、先進国からこれらの機密情報を入手するためにインターネットを使ったスパイ活動を強化しています
 強大となった経済力を政治的(→軍事的)に利用するために、発展途上国を中心に経済援助やインフラ整備支援を積極的に行っています。中国が主導したアジアインフラ投資銀行の設立もこの戦略に沿ったものと考えられます
 現在の中国は異民族統治の問題(チベット族、ウィグル族)、貧富の差の拡大、香港における一国二制度の綻び、など国内に大きな矛盾を抱えています。こうしたことはともすれば中央政府に対する不満となる可能性を孕んでおり、これを抑止する為の手段として国際的な紛争に国民の目を向けさせていると考えられます
 戦争により一気に解決できない領土問題に関しては、軍事上の実力の範囲で既成事実を積み上げていく戦略をとっています(南シナ海での実効支配拡大、東シナ海での天然ガス開発、漁船による領海侵犯、軍事プレゼンスの段階的拡大)

-尖閣諸島防衛の基本戦略-

如上を踏まえた上で尖閣諸島防衛の基本戦略を考えてみたいと思います;
1.尖閣諸島問題は南シナ海問題と同等に扱えない事情があります;
中国と紛争を起こしている南シナ海の諸国と違って、日本は中国との間で過去に15年戦争を戦い、多くの惨禍を与えてしまった事実があります。途方もない犠牲者数や人倫に悖る残虐な行為が、日本側の検証では多くが誇張されたものであったとしても、国際的にこれを認めさせる手段はありません。また中国国民にとって上記犠牲者数や残虐行為は事実そのものであって、領土問題で日中間に戦争が起きれば、中国国民の間に“熱狂”を引き起こすことは容易に想像し得ることだと思います。下記写真は瀋陽、長春を旅行した機会に訪れた戦争記念館です。日本兵の残虐行為などが数多く展示してあり、小学生と思われる団体が熱心に見学をしておりました;

満州事変記念館@瀋陽
満州事変記念館@瀋陽
DSC_0237
日中戦争博物館@長春

従って、仮に日米安保条約が解消された状態で、中国との全面戦争に入ったとすれば、中国が核兵器を使って日本の都市を攻撃することに道義的責任を感じる可能性は低いとも考えられます。日本にとって尖閣諸島帰属の問題で規模の大きい戦争を起こすことは絶対に避けなければならないと思います

2.日米安保条約の核の傘の下で、尖閣諸島の防衛を日米で行うことが明らかな場合、中国が核使用を含む全面戦争を行うことはあり得るか;
朝鮮戦争時に中国が“義勇軍”という形で参戦したこと、また中国・インド国境紛争、中国・ソ連国境紛争においては戦闘を国境付近に止めたこと、などで分かる様に、自国が核攻撃を受けるリスクを伴う全面戦争は行なわないと考えられます

3.中国が尖閣諸島のみの実効支配を狙って上陸し占拠することはあり得るか;
既に2010年9月に、尖閣諸島周辺の領海に中国漁船が侵入し、これを排除しようとした海上保安庁の巡視船に体当たりしたため、漁船を拿捕すると共に船長を逮捕した事件が発生しています。また2016年6月には中国公船(中国海警局所属)3隻が領海に侵入しています。西沙諸島、南沙諸島の例を見れば明らかな様に哨戒・警備のスキを作れば、今すぐにでも上陸、占拠はあり得る事態だと考えられます。

4.尖閣諸島の実効支配を続けるにはどういう戦略をとればいいのか;
(1) まず哨戒・警備のスキを作らないことが大切なことですが、これは現在最新型の巡視船の追加配備を始めており、これを尖閣諸島周辺に配備される中国公船(中国海警局所属)の数を凌駕するレベルにまで充実させることが必要だと思います
 この段階で、尖閣諸島への自衛隊の駐留や自衛隊艦船の派遣といった攻勢に出ることは、中国側の攻勢に根拠を与えることになり得るので、厳に慎むべきだと考えます。

(2) 巡視船の哨戒・警備のスキをつかれるか、あるいは巡視船の警備を実力で突破し、上陸、占拠が行われた場合、これを急速に(中国からの応援兵力が到着する前に)奪還することが必要です。またこの機会を捉え、自衛隊員の駐留継続など恒久的な措置を行なうことも選択肢の一つになると考えられます。こうした対応を可能とするには、下記の様な戦力を充実させることが必要と考えます;
 占拠された島嶼を急速に奪還するための兵力:強襲揚陸艦オスプレイ奪還用特殊作戦部隊
 奪還及び奪還後、実効支配を継続するに必要な制空権確保の為の兵力:ステルス戦闘機F35)、イージス艦ミサイル護衛艦早期警戒管制機
 奪還及び奪還後、実効支配を継続するに必要な制海権確保の為の兵力:潜水艦対潜哨戒機P1)、ミサイル護衛艦早期警戒管制機
* 日米安保条約で共同で作戦に当たることが、戦争を局地に限定する為の必須条件ですが、については米国に頼らず日本が単独で行う必要があります。
 中国の反撃を挫くためには、戦闘の初期段階で制空権、制海権を確保することが極めて重要ですが、これには中国よりも技術的にレベルの高いステルス戦闘機(当面F35、可能であればF22/米国製、又は日本独自開発のFSX/先進技術実証機)、潜水艦(日本製)の配備充実させることが必要であると思います。また、ミサイルの性能向上も重要なテーマであると考えられます。
 島嶼奪還、防衛に関わる日米合同訓練を積極的に行い、中国の実力行使を躊躇わせることも重要であると考えます

(3) 以下の外交的努力は、中国の実力行使を躊躇わせる効果があり、極めて重要なことと考えます;
 中国の攻勢に悩んでいる南シナ海に面する国々と経済協力、インフラ投資などを通じて友好関係を築くと同時に、制海権、制空権に関わる兵器の譲渡、輸出を行うこと。但し戦争に巻き込まれるリスクのある相互防衛条約は結ばない
 ロシアとの北方領土交渉を進展させ、経済協力関係を強化することによって、ロシアと中国の距離を遠ざけること
 上記以外の中央アジア諸国、欧州、アフリカ、中南米諸国との連携を強め、中国側攻勢によって発生した領土紛争に対して日本の応援団を増やすこと

以上