-はじめに-
最近の国際情勢を概観すると、アジア太平洋地域では、経済力と軍事力を強化した中国の南シナ海の島々の軍事基地化、一帯一路政策の推進など、太平洋戦争終結後、西太平洋地域の秩序を主導してきた米国との間で緊張感が高まってきています
また、ヨーロッパ地域でも、ソ連邦崩壊後、東欧諸国が雪崩を打ってEUに加盟した結果、NATOに対峙していたワルシャワ条約機構が崩壊しヨーロッパ大陸における戦争の危機は無くなったかに見えましたが、経済力、軍事力を高めたロシアが、ウクライナへの軍事介入、クリミヤ半島の強引なロシアへの編入によって、再びロシアとNATO諸国の間の緊張感が高まっています
一方、中東地域においても、イラク戦争終結後、政治的な秩序を回復することに失敗した米国は、オバマ政権以降、中東への積極的関与を弱めてきました。これが、ISの台頭、シリア内戦を招き、これに千年以上に亘る長い歴史のあるスンニ派とシーア派の対立、3千万人以上の人口を有しながら国家の無いクルド人の国家樹立の野心、黒海艦隊を有するロシアの地中海への出口の確保、などの諸要因が複雑に絡み、多くの無辜の市民を巻き込む悲惨な戦争状態が続いています
これらは、現象から見れば、悪であるはずの少数の覇権国家による世界秩序が崩れた結果であると見ることもできます。しかし第二次世界大戦後、朝鮮戦争、ベトナム戦争、カンボジア、ラオスにおける戦争、中南米各国における戦争など、覇権国家である米ソによる代理戦争が起こり、我々の世代は覇権国家の存在そのものが、これらの戦争の原因であると教育され、そう信じて青春時代を過ごしてきました。
この矛盾をどう理解すればいいのでしょうか、米国、中国、ロシアという覇権国家のはざまで、東シナ海・南シナ海、北朝鮮の核・ミサイル開発、北方領土問題への対応を迫られている日本は、「覇権国家」に対してどう対応すべきかを考えるにあたって「覇権国家」に対する正しい理解が欠かせないと思われます
日中戦争、太平洋戦争と続く15年戦争で、310万人の日本人が亡くなりました。また、中国をはじめとするアジアの国々を侵略した結果、これ以上の尊い人命を奪ってしまいました。これらの過ちは、全て「軍国主義」によるものだと、我々は教育を受けてきました。戦後、憲法9条に代表される平和主義の下、経済を優先し軍事力を抑制してきたはずが、平成30年度の防衛費概算要求は6兆円を超える額となっており、年々増加の一途をたどっております。勿論、これは日本の防衛の為に必要であるということになってはいますが、軍事費の絶対値でいえば、極めて強力な軍事力を保持するようになったと言わねばなりません。今後、東シナ海・南シナ海、北朝鮮の核・ミサイル開発など、国際的な緊張が続く中で、軍事費は更に増大することが予想されます。世界的にみても強力な軍事力を持つに至った日本が、過去の軍国主義国家になる心配はないのか、あるいは「軍国主義」と軍事力との関係はどうなのか、軍国主義とは一体何なのか(何でもかんでも軍国主義のせいにしていないか)、などについて詳しく調べていく必要があると考えます
戦前、戦中において、幼い頃から徹底して「愛国心」を叩き込まれ、結果として多くの人々が戦争に駆り出されていったという歴史的事実があります。これらに対する反省から、戦後、教育の現場では愛国心に関わる教育が一切排除されてきました。しかし、国を愛する気持ちが悪であるはずがありません。少なくとも外交の分野で外国とわたりあう人々、防衛の最前線で軍事的な緊張のある中で仕事をしている人々のバックボーンには「愛国心」が無ければならないことは自明のことです。また、昨今の国会議員の二重国籍問題も、国籍と一体となっている「愛国心」が無ければ政治の舵取りは任せられないということから来ているものと思われます。「愛国心」とは一体何か、「愛国心」と国歌との関係、国際的な緊張が高まる中で、議論を深めていく必要があると考えます。
覇権国家
1.覇権国家とは
覇権国家とは、国際関係において「覇権」を目指している「国家」ということになります
「覇権」を表す英語は”Hegemony”、この語源を英語版Wikipedia で調べてみると;「Hegemony is the political, economic, or military predominance or control of one state over others. In ancient Greece, hegemony denoted the politico–military dominance of a city-state over other city-states. The dominant state is known as the hegemon.」とあり、要約すれば、ギリシャ時代「ある都市国家が、他の都市国家に対して、政治的、経済的、軍事的に支配している場合、この都市国家のことを「覇権国家」(Hegemon)と呼ぶ」ということになります
一方、これに対応する「覇権」という日本語は、中国の儒家の政治思想である「覇道」から来ていると思われます。これを世界大百科事典で調べてみると;
「春秋戦国時代の覇者の行った統治方式で,斉の桓公,晋の文公は覇道の代表的な実行者とされる。覇道を王道と対比させて明確に説いたのは孟子で,〈力を以て仁を仮(か)る者は覇,徳を以て仁を行う者は王〉という。仁政を装って権力政治を行うのが覇者である。ところが漢代になると,〈王を図りて成らざるも,その弊は以て覇たるべし〉といい,王道と覇道を等質とし,上下の段階の違いにすぎないと考えるようになる」
両者を比較してみると、文明発祥の地として共通するギリシャと中国で殆ど同じ言葉があることに驚きますが、統治される庶民から見れば、平和をもたらしてくれる権力は有り難いという一面と、経済的に搾取され、政治的・軍事的に抑圧されるという、有り難くない面があることも見て取れます
巨大な版図を有し、数百年に亘って多くの民族を統治したローマ帝国は、パックス・ロマーナ(Pax Romana)と言われる「ローマの平和」をもたらしましたが、統治の後半には各地で反乱が起こり、軍事力で抑え込もうとしてもうまくいかず、結局瓦解してゆきました。ペルシャ帝国、イスラム帝国、モンゴル帝国、オスマントルコ帝国、大英帝国、いずれも同じ運命を辿っています。
満州事変から始まった、日本の「大東亜共栄圏」構想も、理念としては同じようなものと考えられます。第二次大戦後の米国とソ連も、上記定義に基づけば「覇権国家」であることは紛れもない事実であると思われます
2.帝国主義とは
前節で述べたように、紀元前からの長い歴史の中で、数多くの覇権国家としての「xx帝国」が生まれ、消えて行きましたが、ここで言う「帝国主義」の帝国は、覇権国家と言い換えることはできません(勿論、覇権国家の一つの形態とは言えるかもしれません)
「帝国主義」という言葉は、1917年、に発刊されたレーニンの「帝国主義論」に由来しています。極く簡単に要約すれば、「産業革命以降、発展した資本主義が、最終的な段階で『帝国主義』に移行し、その矛盾が極大化した後に、必然的に共産主義に移行する」ということです
もう少し具体的に言えば;「①生産と資本の集積が市場の独占を生みだす ⇒ ②銀行資本と産業資本の融合により金融資本が巨大化し、一国の政治と経済を支配するようになる ⇒ ③商品の輸出にかわって資本輸出が重要になる ⇒ ④世界を分割する資本家の国際的独占体が形成される ⇒ ⑤資本主義列強による地球の領土的分割が完了する:これが資本主義の最高段階でこれを帝国主義と呼ぶ」ということになります
3.二大覇権国家の対峙(冷戦)
日露戦争(1904年~1905年)、第一次世界大戦(1914年~1919年)によって疲弊したロシア帝国は、1917年の2月革命、1918年の10月革命で終焉を迎え、初めての社会主義(共産主義の第一段階)国であるソビエト政府(ロシア社会主義連邦ソビエト共和国)が生まれました。周辺の列強(日本、米国、英国、フランス、イタリア、など)からの軍事的干渉(シベリア出兵)を受けたものの、これを打ち破り確固たる社会主義国家としての地位を確立しました(1922年以降ソビエト社会主義共和国連邦/以降『ソ連』と呼びます)
計画経済で力を蓄えてきたソ連は、第二次世界大戦(1939年~1945年)当初ポーランド分割でナチスドイツと組みましたが、1941年ドイツの奇襲攻撃から熾烈な攻防(対独戦のみのソ連軍の死者は1100万人以上と言われています)が行われ、最終的に勝利した結果、ソ連は占領した国々の体制を社会主義化し、巨大な社会主義国のブロックを形成し、自由主義(下記)諸国と対峙することとなりました。ソ連は、第二次大戦を通じて築き上げた強大な軍事力と、社会主義(共産主義)という政治・経済のシステムを通じて他国を支配している実態は、まさに立派な!「覇権国家」になったと言えると思います
一方、米国はその強大な軍事力と経済力で、第一次世界大戦、第二次世界大戦を勝ち抜き、資本主義の欠点を修正しつつ国民の自由な政治、生産活動を保証する自由主義の旗手として社会主義国のブロックに対峙する存在となりました。強大な軍事力と併せ、巨大な経済力によって他国を実質的に影響下に置き、時として「民主化」の名の基に他国の政治に干渉を行う状況は、「覇権国家」以外の何ものでもないと思います
この二大ブロックの対立は第二次大戦が終結すると直ぐに顕在化(1946年3月、チャーチルによる「鉄のカーテン」演説で有名になった)し、その後半世紀に亘る「冷戦」が続くことになりました。この二大覇権国家同士の直接の対決はキューバ危機(1962年10月)のみにとどまり、独立運動や民主化運動にこの二大覇権国家が直接、間接に関与して世界各国で戦争が続いたことから「冷戦」とネイミングされたものと思われます
4.ソ連の崩壊と米国一強の時代
米ソの軍拡競争の結果、ソ連の経済が破綻するなかで、1991年ソ連が崩壊し巨大な社会主義国のブロックは、ロシア連邦とその他の国々に分解しました。経済力の無くなった国は軍事力のみで他の国をコントロールすることもできず、ロシア連邦は覇権国家としての地位を失い、社会主義のブロックを構成していた幾つかの国々はEUの経済ブロックに組み込まれ、NATOに加盟するなど、政治、経済、軍事全てにおいて自由主義ブロックの優位性が明らかとなると共に、米国が名実共に唯一の超大国となり、単独覇権の時代が本格的に始まりました
5.中国、ロシア連邦の覇権国家への変容
世界唯一の覇権国家であった米国は、2001年9月11日の世界貿易センタービル攻撃(約3000人が死亡)を受けて始めたアフガニスタン侵攻(2001年~2014年)、第二次イラク戦争(2003年3月~)によってイスラム過激派との泥沼の戦争を続け、政治的、軍事的な威信を失うと共に、2008年9月に始まったリーマン・ショックにより経済的に大きな痛手を受けることになりました。
一方、1966年から11年間に亘って続いた「文化大革命」によって、政治的、経済的に大きな傷を受けた中国は、その後、鄧小平指導の下に改革開放政策を始め、経済的な発展を開始しました。1986年には自由主義経済の象徴であるGATT(General Agreement on Tariffs and Trade/関税と貿易に関する一般協定)加盟を申請しましたが、なかなか加盟を認められませんでした。申請から15年後、GATTの後継組織であるWTO(World Trade Organization/世界貿易機関)加盟を実現しました。その後、リーマン・ショックも無事乗り切り、好調な輸出を背景に経済の急速な発展を実現しました。更に、経済発展に合わせて、軍事力の強化に邁進すると共に、輸出で得られた潤沢な外貨をアジア、アフリカへの投資、援助に振り向けることによって、国際政治においても大きな発言力を持つに至りました。中国主導で2013年に設立された「アジア開発投資銀行」はその象徴でもあります。今や、南シナ海の軍事基地化、一帯一路政策の推進、など「覇権国家」としての野心をあからさまにしています
1991年のソ連崩壊後、ソ連型計画経済から自由市場経済への移行は困難を極めましたが、もともと広い国土に分布する豊富な石油、天然ガス、石炭、貴金属、といった天然資源に恵まれていること、及び世界有数の穀物生産・輸出国であることから、徐々に経済発展を開始し、2000年以降は世界的な石油価格の高騰により、相応の経済規模を達成するようになりました。もともとソ連崩壊後も強大な軍事力と近代的な軍事技術開発能力を継承していたロシアは、ウクライナのNATO加入問題を契機に再び「覇権国家」の道を歩み始めました
6.覇権国家の鼎立と日本
日本は、三つの覇権国家と過去から現在まで地政学的に大きな影響を与え合って来ました。この関係を無視して、「平和国家に徹する」、「スイスのように政治的な中立を目指す」などというのどかな考え方は、以下の考察を行ってみれば、許されるはずもないことは理解して頂けるのではないでしょうか;
ロシアとは、日露戦争の結果、日本は南樺太、千島列島などロシア領土の一部の割譲と南満州鉄道の権益を奪取しました。また日本は、ロシア革命後に米英などと協調してシベリア出兵を行っています。1939年にはソ満国境のノモンハンで、双方共に2万人以上の死者を出す大規模な軍事衝突が起こっています。また、第二次世界大戦の終戦直前にソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄して参戦し、終戦直前の日本に甚大な人的被害を与えると共に、南千島を占領し、未だにこれを継続しています。このように、ロシアと日本の間には、力によって問題を解決してきた100年以上の長い歴史があります
現在、ロシアの太平洋艦隊や第11航空群にとって、日本海や宗谷海峡、南千島は戦略的に極めて重要な意味を持っています。対立してきた歴史からくる両国民の微妙な国民感情や日米安保条約で保証されている米国の利害を勘案すると、北方領土問題の解決は容易ではありません
中国とは、1894年の日清戦争以降、中国に対し欧米列強と正に帝国主義的な侵略を続けていましたが、1931年の満州事変以降の15年間の日中戦争では、日本は中国国民に癒すことの出来ない大きな爪痕をのこしました。中国の大都市を訪ねてみれば分かることですが、日本兵の残虐な行為(相当誇張されていることは事実ですが)を大々的に展示する博物館が必ずあり、そこで授業の一環で見学している小中学生の一団に出会うことができます。戦後70年以上を経ても両国間の負の歴史はそう簡単に消し去ることはできません
また、中国側から太平洋を見れば分かるように、覇権国家を目指す中国の太平洋への出口を塞ぐように、九州から薩南諸島、沖縄諸島が台湾まで連なっており、尖閣列島問題や、東シナ海大陸棚天然ガス開発の問題の解決は容易ではありません
米国とは、「太平の眠りを醒ます蒸気船(黒船)、、、」が、日本の開国、明治維新の直接的な契機となったことから、必ずしも悪くはなかったのですが、日露戦争、第一次世界大戦を経て、身の丈以上に軍事強国となった日本は、それに見合った経済力、政治力を得るべくアジアでの覇権国家を目指した結果、太平洋の覇権国家となっていた米国と衝突し、第二次世界大戦で完膚なきまでに粉砕されてしまいました。惨めな敗戦からの独立、領土の返還、飛躍的な経済発展は、戦後の米国との緊密な政治、経済関係、とりわけ日米安保条約なくしてあり得ないことは自明のことです。
7.米中戦争の可能性
2016年の7月、国連海洋法条約に基づくオランダ・ハーグの仲裁裁判所は、「南シナ海での中国の海洋進出に国際法上の根拠がない」と認定しました。しかし、中国はこの判決を無視して人工島造成など実効支配を日に日に強めています
これに対し、南シナ海の自由航行を確保すべく、米軍は「航行の自由作戦」を実施し、米中の軍事力が極めて近距離で接触する状況が日常的に生じています。今のところ双方は節度をもって対応し、本格的な対決には至っていませんが。中国の南シナ海の島々の軍事基地化がさらに進展し、緊張が高まれば、近い将来この地域で偶発的な戦闘が起こる可能性を否定できません
2016年11月に発刊された「米中もし戦わば — 戦争の地政学(著者:ピーター・ナバロ/トランプ政権・首席補佐官)」によれば、既成の大国(⇒ペロポネソス戦争におけるスパルタ⇔現在の米国)と台頭する新興国(⇒同戦争におけるギリシャ⇔現在の中国)が戦争に至る確率は70%以上(世界史をひも解くと、覇権国家が対峙した15例のうち11例で実際の戦争が起こっていることが根拠)と言っています。また、全ての大国は「覇権」を求めるとも言っており、その根拠は、取り締まる者のいない世界では、できる限り強大な国になりたいという強い動機が存在するからだと言っています。
因みに、国際情勢を鑑みれば、第二次大戦後、国際紛争を平和的に解決する仕組みとして設置された国連の安全保障理事会は、常任理事国の拒否権行使によって、世界で起こる殆どの紛争に対して、警察機能を発揮できていません。だからといって、この本は米中戦争が不可避だと言っている訳ではなく、こうした中国の脅威を直視し、米国が政治、経済、軍事の面で採るべき選択肢を具体的に提案しているだけです
8.日本の進むべき道筋(私見)
核大国であるロシア、中国と緊張が高まった時、米国の核の傘は、大きな抑止力(日本国民にとっての『安心』)を提供していることは疑う余地がありません。
しかし、1971年のニクソン・ショック(日本の頭越しに突如米中国交回復を行った)を思い出していただければ分かる通り、日米関係が如何に良好であっても、米国の利害の為には、日本が「蚊帳の外」になってしまう覚悟は常に持っていなければなりません。また、軍事的にも米国が起こした戦争の『巻き添え』になるリスクも常に存在します
こうした環境下で、日本が被害者とならないためには、以下の対応が必要であると私は思います;
① 政治、経済面では、ロシア、中国との交流を深め、緊張関係が発生すれば、ロシア、中国の国民にとっても、政治的、経済的につらい結果をもたらす様な状況を作り出すこと。
② 軍事的には、ロシア、中国の攻撃能力と日本の防御能力とのバランスに関して、常に比較優位を保つこと。つまり、相手の国土に直接脅威を与えるような強力な攻撃力を持たない代わりに、相手の攻撃を無力化させることによって、相手の攻撃意欲を挫くことが必要になります。具体的には以下の通りです;
* 敵からの核ミサイル攻撃に対して迎撃ミサイルによる撃墜の能力を飛躍的に高めること。因みに、現在イージス艦の迎撃ミサイル(SM-3)で打ち損じたミサイルはパトリオットミサイル(PAC-3)で撃墜する体制になっていますが、これを3重にすることによって防御能力は飛躍的に向上します。
仮にそれぞれのミサイルの撃墜確率が90%であると仮定すれば、3重のミサイル防衛網を破って着弾する確率は;
10% x 10% x 10% ⇒ 0.1 x 0.1 x 0.1 = 0.001 ⇒ 着弾確率は 0.1%
つまり千発に1発しか着弾しないことになります。これに、ターゲットとなり得る大都市において地下街、地下鉄を利用した待避壕(核シェルターにもなる)と退避訓練を行うことにより、民間人の人的被害を極小化することが必要になります
* 周囲を海に囲まれ、多くの島嶼をかかえる日本は、これ等の領土を侵略から守るために日本の広い領海の制海権、制空権を確保する必要があります。この為には、索敵能力の向上(高性能レーダー、偵察衛星、偵察機、偵察ヘリ、潜水艦)と、耐空、対艦ミサイルの能力向上、遠隔の領土に侵入した敵に対する打撃能力の向上(陸上兵力の急速展開に必要な装備の保有)、サイバー攻撃に対する防御能力の向上、などを着実に実施する必要があります
これらの防御能力は、技術力、工業力の水準に直接依存しまが、幸いなことに日本は技術力、工業力については他国に引けを取ることはないと思われます
軍国主義
1.軍国主義とは;
辞書には色々な定義が書かれていますが、要約すると以下の様に定義することができると思われます;
① 戦争を外交の主たる手段と考え,外交問題を解決する手段として軍事力を最優先すること
② 戦争は避けられものではなく、戦争の遂行は国民全てにとって神聖な使命である
③ 戦争遂行のために、国民全員に対し、自己犠牲や国家に対する忠誠を美徳とし,勇気や冒険をたたえ,体力の鍛錬を推奨する
④ 上記の結果、常に軍人が最高の社会的地位を占め,教育,文化,イデオロギー,風俗習慣などが軍事優先となり、国家全体が「兵営」の様な観を呈する
確かに、戦前、戦中の日本や、ドイツは、正に上記定義の様な軍国主義国家であったことは紛れもない事実であると思われます
しかし、ドイツや日本の様な「軍国主義国家」と戦争をすることになった、連合国側ではどうだったでしょうか? 上記①~④について検証してみると;
① 外交問題で解決できなかったために、最後の手段として戦争が選択された
② (避けられなかった)戦争の遂行は、国民全てにとっての使命であった(宗教的理由で徴兵を忌避することを許すかどうかの問題はある)
③ 全く同じ様なことが行われていたと思われます
④ 戦争を勝ち抜くために軍事優先の国内体制を整えたものの、軍人が最高の社会的地位を占めることは無かった
つまり、軍国主義かそうでないかを決めるポイントは、「軍事が政治(特に外交)や経済のかじ取りをしたか、しないか」ということになるのではないでしょうか
2.日本の軍国主義
言うまでもない事ですが、日本の軍国主義に関わる象徴的な出来事として、515事件(1932年5月15日)と226事件(1936年2月26日)があります。前者では、軍人によって政府の要人や経済人が暗殺されました。また後者の事件では、大隊規模の軍隊によって政府の要人の暗殺に加え、警察の制圧、マスコミ(朝日新聞)の制圧が行われました。いずれも事件が終結した後、首謀者は断罪されましたが、軍隊という強大な実力組織が、政治による統制がきかなくなり、軍組織内の規律が失われると、国全体が制御不能になることを予見させる出来事でした。
これらの事件に先立つ1921年、「バーデンバーデンの密約」という重要な出来事があります。1921年という年は、ヨーロッパを主戦場として戦われた第一次世界大戦(1914年~1919年)が終った直後の時期に当たり、悲惨な戦争の傷跡を随所に見ることができました。また明治以降、常に日本の最大の脅威であり続けたロシアが1917年の革命を経て、ソ連という新しい社会主義国に生まれ変わろうとしていた時期にもあたっていました。
丁度この時期に駐在武官としてヨーロッパにいた3人の優秀な中堅将校(永田鉄山少佐、小畑敏四郎少佐、岡村寧次少佐;3人共陸士16期生で日露戦争の従軍経験がない最初の世代)が、ミュンヘン西南のボーデン湖の近くにあるバーデンバーデンという温泉郷に集まり、①長州派閥を打破して軍人事の刷新を行う、②国家総動員体制を確立する、という誓いを立てました
これらの3人の将校は、優秀であるのみならず人望もあったこともあり、多くの少壮将校がこれに続いて、政治革新運動に関与していく流れが出来て行きました。また、1929年の世界恐慌以降、大不況に見舞われた日本の政治は混乱を極めていました。これらが、最終的に515事件、226事件、柳条湖事件→満州事変、満州国建国、盧溝橋事件→日華事変、と続く軍人による政治主導が終戦まで継続することになりました
この間、気骨のある政治家であった斉藤隆夫(1870年~1949年)が、226事件直後の粛軍演説(1936年5月)、や日華事変の泥沼化が明らかとなった時期の反軍演説(1940年1月)などで正論を述べていました(言論統制の厳しい当時にあっても、実に勇気ある発言をしているので、お時間のある時にご一読をお薦めします)が、軍人による政治主導の流れを変えることはできませんでした、一方、政治に対するチェック機能を果たすべきマスコミは、軍人による独断専行をむしろ称賛し、国民を戦争に向かって煽る記事を流し続けました。また、知性を代表する小説家達もこの流れに公然と逆らう人は残念ながら殆ど歴史には残りませんでした
ペンは剣よりも強し(イギリスの政治家・小説家ブルワー・リットンの戯曲『リシュリュー』にある「The pen is mightier than the sword.」の訳)とは言いますが、この時代の新聞記者たちは、特高の恐怖の前で、保身を優先せざるを得なかったということでしょうか。それとも本心から書かれた記事が正しいと思っていたのでしょうか。
ただ、膨大な犠牲を強いられた日露戦争のさ中に、戦場に赴いた弟の生還を願って書かれた与謝野晶子の反戦の歌「君死にたまふことなかれ」(1904年雑誌『明星』に掲載されました)があった事は忘れてはならないと思います(⇔明治、大正の戦争と、昭和の戦争の違い)
こうして日本の軍国主義の流れをつぶさに眺めてみると、明治維新及びその後の日本が、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦の戦勝を通じて急速に軍事大国に成長していったこと。明治維新以降の難しい時代に政治と軍を指導統制していた経験豊かな薩長の軍閥が、純粋培養で育てられ成績優秀ではあるものの、戦争の実相をしらない若手将校に取って代わり、政治に関与を始めたこと。マスコミに煽られた大衆がこれを後押ししたこと。普通選挙で選ばれた政治家が大衆に迎合したこと。など、全てが日本の軍国主義化に関わったものと考えられます
ともすれば、A級戦犯として裁かれた高級軍人のみが、軍国主義の責任者であると簡単に整理することは、歴史を今に生かすことにはなりません
3.日本陸軍の実態
日中戦争、及び太平洋戦争開始後のマレー・シンガポール攻略作戦、フィリピン攻略作戦においては、日本軍による残虐な行為、略奪行為が行われたことは紛れもない事実です。これらの残虐行為が、軍国主義の故であると考える人がいるかもしれませんが、これは間違いです
民間人への暴行・凌辱・殺人や略奪については、陸軍刑法第86条~89条で明確に規定されている様に、重罪として処罰されることになっていました。
また、捕虜に対する暴行・凌辱・殺人は、日本も署名している「1929年・捕虜取り扱いに関する条約(通称ジュネーブ条約)」に明確に違反している行為であり、日本軍にとってもあってはならない行為でした。
因みに、日露戦争におけるロシア人捕虜の取り扱いや、第一次世界大戦におけるドイツ人捕虜の取り扱いは、当時の国際法に則っており、模範的なものでした。また、旅順での激しい戦いが終わった後、水師営での降伏会見で乃木希典司令官が敗軍の将を丁重に扱う模様は、外国人従軍記者により広く世界に伝えられ称賛されました
こうした許されざる行為は、何故行われたのでしょうか。これに対する答えは、実際に下士官として従軍した経験を綴った「私の中の日本軍;(著者:山本七平から)」に詳しく書かれています(詳しくは、私の読書メモをご覧ください)
この中で、特筆すべき点は;
① 日本軍の戦略・戦術には「兵站」の重要性が考慮されておらず、敵を追って進出した地域での兵士の食料の調達は、略奪に頼る以外に方法がない場合が屡々起こった(当時の日本軍は、飯盒炊爨が原則となっていたので、天候が悪かったり、燃料となるものが現地で調達できなかった場合は当然略奪しか選択肢が無かった)
② 陸軍刑法を遵守するためには、厳正な軍紀の適用が不可欠であることは当然の事ですが、前線にあって実際に罪を犯す可能性のある下士官、兵卒には軍紀が全く行き届かず、あるのは古参兵と新兵の上下関係だけであったとのことです。こうした無法状態の中で、戦闘における極度の緊張が解けた時、本能のままに民間人への暴行・凌辱・殺人や略奪、捕虜に対する暴行・凌辱・殺人が行われていたと考えられます
③ あまりに酷い軍紀の乱れに、何度も通達が出されていますが、全く効果が無かったとのこと
こうした軍紀が乱れた状態で戦われた戦争の経験者は、被害者であると同時に加害者でもあった訳で、敗戦後、戦争の体験を周囲に語らなかった一つの原因になっているとも考えられます。当然の事ですが、軍紀が守られない軍隊は野獣の集合であって軍隊ではありません
4.日本軍の戦死者が何故かくも多かったのか
多くの戦線において日本の敗色が濃厚となったころから、多くの将兵が死ななくてもいい命を落としました。その原因として以下が考えられます;
① 「兵站」が考慮されていない作戦で、弾薬や食料が尽きた後に玉砕
② 制海権が失われた島嶼地域の防衛に当たらせ、退路が断たれ玉砕
③ 食料の供給や、移動の手段を考慮せずに大軍を動かした結果、飢えや疫病で大量死を招いた
これらはいずれも、兵站や退路を考えない杜撰な作戦の為に多くの兵士の命を失ったことになり、責任の多くは生き残った者の多い作戦参謀にあったと考えられます
また、
④ 陸軍刑法第40条に、司令官の判断で撤退や降伏をすれば死刑と規定されていたことで、激戦・敢闘の末戦闘の継続が意味を持たなくなった後でも、玉砕攻撃によって無駄な死を招いたこと
⑤ 陸士出身の将校や、激戦に巻き込まれた沖縄戦の一般市民、終戦直前に怒涛のように侵入してきたソ連軍に蹂躙された地区の一般市民は「戦陣訓」にある「生きて虜囚の辱めを受けるな」によって死を選択した可能性もあります
これらとは別に、
⑥ 1943年のアッツ島玉砕に始まる玉砕攻撃、1944年から始まる特攻攻撃を、作戦の失敗とは報道せず、英雄的な戦いとして報道し、劣勢になった戦局では玉砕を選ぶ風潮が生まれてしまった
5.まとめ(私見)
今や、防衛費だけ見れば世界の8番目に位置し、最新鋭の防衛装備を有する軍事大国日本が、悲惨な歴史を繰り返さないためには、以下の様な対応が必要であると私は考えています(自衛隊法法参照);
① 政治による自衛隊の統制を厳格に行うこと(但し、軍事知識に乏しい政治家が無謀な判断をしない様に、軍事行動が行われる時には、自衛隊制服組の判断を大切にすること) — 自衛隊法第7条~9条に明確に規定されています
② 自衛隊員は規律を遵守すること — 同法第56条、57条、59条に明確に規定されています
③ 自衛隊内で政治に関わることを一切禁止すること(自衛隊法にも明確に記述されており、当たり前の事ですが、) — 同法第61条に明確に規定されています
④ 戦闘行為が発生した場合、メディアによる報道は、真実を伝えることに徹し、自身の意見で世論を操作することが無いように心がけること
⑤ 国民一人ひとりが、確かな報道を基に自身の国土防衛に関する考え方を持ち、これを国政選挙の投票に反映させること
⑥ 国政選挙において、政党はその綱領において、日本の防衛に対す考え方を明確にしておくこと
愛国心
1.「愛国心」とは
愛国心と言っても、国によって、人によって、その意味が少しづつ違います。従って、幾つかのタイプに整理して考えてみたいと思います;
① 国土(地理的な意味での国土)を愛し、国土に忠誠を誓うこと
② 民族を愛し、民族に忠誠を誓うこと。国土が分割されていたり、国土が無かったとしても、その忠誠は変わりません
③ 宗教に忠誠を誓うこと。宗派別に考えた方がいい宗教もあります
④ 統治者に忠誠を誓うこと
⑤ 政治体制あるいはそれを代表する党派に忠誠を誓うこと
これらの分類に基づき、世界の代表的な国々の愛国心を点検してみると;
米国:移民によって成り立っている為、典型的な①のタイプになります。太平洋戦争が始まった時、日本人は敵国であると同時に多民族国家米国に忠誠を尽くさない可能性を考え、日本人のみを隔離した暗い歴史があります
仏国:現在のフランスの国土には、歴史的に国境を接するイタリア系の民族、スペイン系の民族が多く混じっており、更に第二次世界大戦後は旧植民地から移民を多く迎えた為、多民族国家といってもいい状態になっています。従って、愛国心のタイプとしては①となります。ナポレオンによる統治の時代から、フランス国民のアイデンティティーは民族ではなく正しいフランス語を話せることされており、フランス語の教育に力を入れています。ただ、最近はイスラム圏からの移民2世に、イスラム教に忠誠を誓う③のタイプの国民がおり、テロなどの問題が頻発しています
英国:大英帝国の時代から、君臨する英国王(女王)に忠誠を誓う④のタイプに分類できますが、18世紀にアメリカが、19世紀には南アフリカが完全な形で独立しました。未だに英連邦に残っている国々もありますが、これらの国々の国旗には英国の国旗のデザインが入っており、英国王(女王)に忠誠を誓う象徴になっています。一方、英国の正式名称は「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」であり、英国国教会とは違うカトリックを信じる北アイルランドの人々は、歴史的に英国王(女王)に忠誠を誓っているとは言えないと思われます。また、グレートブリテン島にいるウェールズ人や、スコットランド人は、歴史的に被征服民族であるゲール人を祖先に持っており、やはり英国王(女王)に忠誠を誓っているとは言えないと思われます。また、最近はフランスと同様に、イスラム圏からの移民2世に、イスラム教に忠誠を誓う③のタイプの国民がおり、テロなどの問題が頻発しています
中国:現在の中国は、漢族が多いとはいえ、多くの民族や宗教の違う国民で構成されており、中国共産党に忠誠を誓う⑤のタイプになります。しかし、イスラム教を信じるウィグル人の多い新疆ウィグル自治区やチベット仏教を信じるチベット人の多いチベット自治区は、必ずしも中国共産党に忠誠を誓っているとは思えません
ロシア:ソ連時代は中国と同じ共産党に忠誠を誓う⑤のタイプでしたが、ソ連崩壊後は、主だった民族は独立し、ロシア正教も復活したところから、①&②のタイプの忠誠心を求めていると思われます
中東諸国:国境が、列強の植民地の区分の名残をとどめています。王族の支配が続いている国や、そこからの独立を果たした国がありますが、いずれもイスラム教が国教であり、イスラム教の宗派に忠誠を誓う③のタイプに分類できると思われます
クルド族:イスラム教ではあるものの、民族としての国家を持たない為、忠誠心としては②のタイプになります
ポーランド、フィンランド、エストニア:歴史的に常に周りの強国の侵略を受けており、国土及び民族に対する強い忠誠心を持っています。つまり、忠誠心のタイプとしては①&②になると思われます
日本:日本は島国であり、二度にわたる元寇(1274年の「文永の役」、1281年の「弘安の役」)を除き、徳川時代まで外国の干渉を受ける機会が皆無であった為、忠誠心は、平安時代までは天皇に向けられていたと思われますが、実際は貴族や位の高い武士に限られていたものと思われます。鎌倉時代に入ってからは、武士団の長が領地を安堵してもらう代わりに武士たちは幕府に武力を提供するという関係性を持つようになり、一般の武士の忠誠の対象は、武士団を統括する長に向けられていたと思われます。元寇において武士団が命がけで戦ったのは、当時の執権「北条時宗」に先祖伝来の所領を安堵してもらう為だったと言われています(「一所懸命」はこの事を言っています)。戦国時代にあっても、武士団の規模は大きくなるものの、忠誠心の対象は戦国大名という武士団の長に向けられていました。徳川幕府の3百余藩による統治も、徳川家の親藩を覗けば基本的にそれを立脚しています
徳川幕府時代の藩単位の国家観が、日本国という国家観に大きく変貌するのは、明治維新の志士たちが、植民地化が進みつつあった中国を観、列強が跋扈する世界を観て、藩という小さな枠組みでは列強の植民地化を防げないと考えたからでした。しかし、明治維新が成った後も暫くは、藩単位の国家観から抜けきれず、武士の特権にしがみつこうとした、武士団の反乱が相次ぎました(佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、西南戦争)。最後の西南戦争を勝利した1977年(明治10年)になってようやく、明治天皇を頂点とする国家体制が出来上がりましたが、この新しい日本国に対する忠誠心を日本の国民に植え付けていくのは、そう簡単なことではありませんでした
その後、殖産興業、富国強兵に邁進し、欧米列強と鎬を削りながら、幕末に列強との間で結ばれた不平等条約を徐々に改定しアジアの強国にのし上がっていく内に、自然な形で日本という国土を愛し、日本民族を誇りに思う愛国心が芽生えていったものと思われます。
しかし、1890年代に入って日清戦争を戦い、1900年初頭には日露戦争を戦う中で、死を賭して戦う勇気と、日本という国家に対する忠誠心が結び付けられて行きました。
一方、これ等の戦争に勝利した結果、台湾、南樺太、南千島が日本の領土に加えられました。また、1910年には朝鮮併合が行われ、日本人以外の民族を日本という国家に抱え込むことになり、大日本帝国という多民族の国家に対する忠誠心が必要となり、天皇という統治者に忠誠を誓う大英帝国型の愛国心を植えつけるべく、教育制度や法規制などの上からの改革が進められることとなりました
更に1932年には、満州国が誕生し、日本人、中国人(台湾人、漢族、満州族)、朝鮮人、蒙古人、ロシア人で構成される満州国が、大日本帝国のいわば傀儡国家として加わることとなりました。この広大な満州国を実質的に統治するために、「五属協和(「五色の虹-満州建国大学・卒業生たちの戦後」を読んでを参照)」、「八紘一宇」などの空想的な国家観、世界観を作り出し、天皇という統治者に対する忠誠心を植え付けようとしましたが、結局目的を達することができませんでした。特に、統治がうまくいかなかった朝鮮では、「皇民化政策」や「創氏改名」の強要まで行われましたが、朝鮮人としての誇りを傷つけるだけに終わりました
1937年の盧溝橋事件、第二次上海事変で始まった日華事変(日中戦争の後半)は、果てしない泥沼の戦いとなり、敵地での死に物狂いの殺し合いは「愛国心」とは全く無縁の精神状態で行われていました。また、1941年に始まった第二次世界大戦においては、当初は華々しい戦勝が続き、戦場から遠く離れた日本国内では大いに「愛国心」が盛り上がりましたが、開戦から約半年後のミッドウェー海戦に敗北してからは劣勢に立たされ、撃沈される船の中で、撃墜される航空機の中で、弾薬、食料がつき無謀な突撃を行う中で、軍人達は、無謀な作戦を恨むことはあれ、「愛国心」で戦う者は少なかったものと思います。ただ、大空襲に晒される直前までの日本国内の多くの一般人や、ソ連が参戦するまでの満州における多くの一般人は、国家をあげての「愛国心」教育のお陰で、強い「愛国心」があれば戦争に負けることは無いと信じていた人が少なからずいたのかもしれません
1945年の敗戦と同時に、無謀な戦争遂行のために「作られた愛国心」は煙のように消え去りました。武装解除され最初に日本に帰還した日本兵、数か月から1年以上海外に抑留された後引揚げてきた一般人、長期間シベリア抑留を耐え抜き帰国を果たした日本兵、戦犯として裁かれ刑期を終えて帰国した日本兵、いずれの日本人も祖国の土を踏んだ時涙を流したと思われます。つまり、この涙で象徴される安堵感が、焦土と化した日本を復旧させる原動力となったものであり、その後の日本の「愛国心」のベースとなっていったものと思われます
2.国歌の歌詞に表現されている「愛国心」
国歌は近代西ヨーロッパに生まれ、幕末の頃には外交儀礼上欠かせないものになっていました。現在に至るも外交儀礼上は必須のものになっていますが、国内においても、多くの国民が参加する祝賀行事になどには国歌が演奏され、参加者は全員起立したり、軍人、あるいはそれに類する立場の人は、胸に片手を当て忠誠を表すポーズを取ったりします
また、オリンピックなどの国際スポーツ大会でも、表彰式では優勝者を讃えて国歌を演奏することはご承知の通りです。こうした場面をよく見てみると、国歌を実際に歌っている人と、歌わない人が居ることに気が付きます。オリンピックで勝つために国籍を変えて代表になった選手などは、例外なく歌っていない様に見えます。日本でも最近は歌わない(多分、覚えていないので歌えない!)スポーツ選手も多くなっています
国歌を歌うことの是非は、ここでは論じないこととして、どの国でも、国歌には国の歴史や、愛国心の源が歌い込まれていることが多いので、以下に代表的な国の国歌の成り立ちを紹介したいと思います、対応する歌詞は長くなるので割愛し別紙(国歌に見る「愛国心」)に纏めてあります。時間のある人はご覧になってください;
国歌に見る「愛国心」
① 日本の国歌:「君が代」
「君が代」の元になった歌詞は、「古今和歌集」の短歌(読人しらず)の一つです。1880年に曲が付けられて以降、日本の国歌として使用され、1999年になって国歌として法制化されました(国旗及び国家に関する法律)。この歌詞からは軍国主義は汲み取れませんが、天皇を神聖化した戦前、戦中の記憶を思い出させるとして、終戦の機会に国歌を変えるべきであったという人もいます
主題:天皇の代が永久に続くことを願うこと → 天皇に対する忠誠心を鼓舞する
② イギリスの国歌:「God Save the Queen」
曲のルーツははっきりしていませんが、現在知られているメロディーに最も近い編曲は1745年頃、当時有名な作曲家であったトマス・アーン(Thomas Augustine Anne)によって行われたことが知られています。当時、名誉革命後の反革命勢力との争いがあり、祖国の勝利への強い願いが込められています
主題:女王(王)に神のご加護を願うこと → 女王(王)に対する忠誠心を鼓舞する
③ アメリカ合衆国の国歌:「星条旗よ永遠なれ」
1812年の米英戦争に於いて、優勢であった英国軍に包囲され、集中砲火を浴びながら守り抜いていたボルティモア港「マクヘンリー砦」に翻っていた星条旗に感銘を受けたフランシス・スコット・キーが書き上げた詩「マクヘンリー砦の防衛(The Defence of Fort McHenry)」が元になっています
主題:祖国防衛の為に戦う勇者の象徴として国旗を謳いこんだ → 愛国心を鼓舞する
* 太平洋戦争末期、米軍に大きな犠牲を強いた硫黄島攻防戦(1945年2月)で大きな犠牲をはらって「摺鉢山」を制した海兵隊員が、頂上に星条旗を立てた時の写真が新聞に掲載され、愛国心を鼓舞したことはよく知られています
④ フランスの国歌:「ラ・マルセイエーズ」
1789年のフランス革命後、王政を布いている周辺の国々から干渉を受けたことはよく知られています。1792年にフランス革命政府がオーストリアに宣戦布告をした知らせがストラスブール(現在の独仏国境に近いライン川沿いの都市)に届いた時、当地に駐屯していたライン方面軍の工兵大尉ルージェ・ド・リールが出征する部隊の士気を鼓舞するために、一夜にして作曲した「ライン軍の為の軍歌」がフランス国家の元になっています。1995年には国歌として採用されました
主題:国を侵略する者と戦う兵士を鼓舞する → 愛国心を鼓舞する
⑤ ロシアの国歌:「ロシア連邦国歌」
1922年に成立したソ連では、フランスの市民革命・パリ・コミューンの時代(1871年)につくられた「インターナショナル」が採用されました。その後、レーニンが率いるボルシェビキ党の党歌を流用し、児童文学者のセルゲイ・ミハルコスの詩を元に「ソビエト連邦国歌」が作られました。1991年のソ連崩壊後誕生したロシアでは、新たにミハエル・グリンカ作曲による「愛国者の歌」が国家として採用されましたが、これには歌詞が無く評判は芳しくありませんでした。2000年に大統領に就任したプーチンは、旧ソ連時代の「ソビエト連邦国歌」のメロディーを復活させ、セルゲイ・ミハルコスに新たな歌詞を作らせて「ロシア連邦国歌」としました。2001年には正式に国歌として定められました
主題:広大な国土と優秀な民族であることの誇り → 愛国心を鼓舞する
インターナショナル
主題:国際共産主義(共産主義を世界に広めること)
* 日本でも60年安保闘争、70年安保闘争の折、全学連各派の集会が行われる時によく歌われました
⑥ 中国の国歌:「義勇軍進行曲」
最初の中国の国歌は、清朝崩壊寸前の1911年に制定されましたが、すぐに辛亥革命によって中華民国が誕生(1912年)し、孫文の提唱した三民主義思想に基づき作詞された「中華民国国歌」が正式決定されました。この国歌は今も台湾(中華民国)の国歌として使われています(ただ、オリンピックなど国際試合で演奏されているのは中華人民共和国の一つの中国政策を慮って、「国旗歌」が演奏されています)
1949年に建国された中華人民共和国では、抗日映画である「風雲児女」の主題歌「義勇軍進行曲」(作詞者:田漢;進行曲とは行進曲の意味です)が人民会議で決定されました
しかし、文化大革命の期間(1966年~1976年)は、作詞者である田漢が迫害され、その影響で義勇軍進行曲の歌詞は歌われなくなり、メロディーの演奏のみが行われていました。その間、事実上の国歌として歌われたのは、毛沢東を讃美する「東方紅」でした
文化大革命終結後は、義勇軍進行曲が復活したものの、当初は毛沢東や中国共産党を讃美する歌詞で歌われましたが、1982年の全国人民代表大会第5回大会において田漢の歌詞が再び国歌として決定されました。その後2004年には憲法に正式な国歌であることが明記されました
主題:長く苦しかった抗日戦争を戦い抜いた勇気を讃える → 愛国心を鼓舞する
⑦ 韓国の国歌;
作詞者不明で20世紀初頭から「蛍の光」のメロディーに乗せて歌われていました。1948年の大韓民国建国後、作曲家・安益泰(1905年~1965年)の作曲による「韓国幻想曲」の最終楽章として発表されたメロディーに乗せて歌われるようになりました
主題:国土を愛し、民族の誇りを愛でる → 民族の矜持を鼓舞する
⑧ ポーランドの国歌:「ドンブロフスキ将軍のマズルカ」
ポーランドは、18世紀後半以降、周囲の列強(プロイセン、ロシア、オーストリア)により侵食されてゆきましたが、1795年の第三次分割により全ての領土を失ってしまいました。1797年にイタリアに亡命したドンブロフスキ将軍がポーランド軍団を結成しましたが、この時の軍歌「ドンブロフスキ将軍のマズルカ」が国家となりました
主題:侵略者を打ち破る勇気 →愛国心を鼓舞する
⑨ フィンランドの国歌:「我らの地」
1948年、ドイツ人移民であるフレドリク・パーシウスが作曲したメロディーに、ユーハン・ルードウィーグ・ルーネベリが作詞した「我らの地」が国家として採用されましたが、明確に法制化されてはいません
また、フィンランドでは国民的英雄であるシベリウスによって作曲された交響詩「フィンランディア」も第二の国歌として使われています
主題:祖国、民族に対する愛
⑩ エストニアの国歌:「我が故国、我が誇りと喜び」
エストニア国歌は、1848年にフレドリク・パーシウスによって作曲され、1869年にヨハン・ヴォルデマル・ヤンセンによって歌詞が書かれています。 この歌は、1869年のグランド・ソング・フェスティバルで合唱曲として歌われたところ、瞬く間にエストニアのナショナリズムのシンボルのようになりました。エストニアの独立戦争の後、1920年に公式にエストニア国歌として採用されています
第二次世界大戦末期の1944年にソ連に併合されてからは禁止され、 1945~1990年の期間は別の曲が国歌とされていました
ソ連邦崩壊直前の1990年には、エストニア共和国の国歌として復権しています
なお、メロディ-はフィンランド国歌とほぼ同じものです(民族的にはフィンランドと近い関係にあり、言語も非常に近い関係にあります)
主題:祖国、民族に対する愛
3.日本の「愛国心」のあるべき姿(私見)
日本の近代史を俯瞰すると、他国を侵略したことはあっても、侵略されたことはありません。他国を侵略することは、侵略される国の「愛国心」を刺激し、必然的に厳しい戦いを強いられることになります。この戦いに勝つための「強兵」を養うために、神がかった「愛国心」像を作り上げ、国民全員が幼い頃から教育されました。不幸にも、マスコミもその片棒を担いだことは紛れもない歴史の真実です。
幸い終戦後の日本は、国土や美しい日本の自然を愛することをベースとした「愛国心」を多くの人が共有しています。他国を侵略する必要が無ければこれで充分であるし、また他国から侵略されれば、この素朴な「愛国心」が強大な力を発揮して侵略者を撃退することは間違いないと私は信じています
最近、メルギブソン監督の「ハクソー・リッジ」という映画を観ました。激しかった沖縄戦の中でも、最大の激戦となった浦添城址南東の高田高地での戦闘で、非武装のまま衛生兵として活躍し、日本兵を含む多くの命を救ったデズモンド・T・ドスの実体験を描いた映画です(詳しくは、私の感想メモ「ハクソー・リッジを観て」をご覧ください)。当時の米国軍人の愛国心とはどういうものか、特に米国本土以外の外国で戦う米国軍人が、死を賭して戦う勇気がどこから生まれてくるのかが私の知りたいところでした
沖縄戦に先立つ硫黄島の戦闘では、日本では日本兵2万人の玉砕のみで語られることが多いのですが、この戦闘で米軍側も6千人以上の戦死者と、それを遥かに上回る戦傷者を出しています。この戦闘の最前線に立ち、多くの犠牲者を出したのは、米軍の中でも最も勇敢であると言われている海兵隊です。かれらの仲間同士の間で交わされる「センパーファイ/Semper Fi」という合言葉は、最近の映画やドラマなどでもよく出てきますが、これはラテン語の”Semper fidelis”から来ていて、「常に忠義・忠誠・忠実であれ」という意味を持っています。
多くの米国人にとっては、自由選挙で国民に選ばれた大統領や、議員達が決定した国策を忠実に遂行することが国民の義務と考えていると思われます。米国軍人にとっては、これは米国に忠誠を誓うこと、忠実に上官の命令に従うことに繋がっているものと考えられます
第二次世界大戦で国策の誤りで310万人に死者を出した日本には、日本の国土を侵略された場合以外には、こうした忠誠を国民や自衛隊員に期待することはできないと私は思います。
ただ、昨年法改正が行われた「新安保法制」では、自衛隊員が海外に於いて生命の危険に晒されることや、武器を取って戦うことが必要になる場面が想定されます。愛する国土の防衛とは異なる、在外邦人の救出、米軍等の友軍の支援、危機に瀕している外国人救出、など外地における新たな危険任務を、何を拠り所に遂行すればいいのでしょうか。「派遣される自衛隊員を志願制にするか?」、「国の名誉のために戦うことも自衛隊員の任務に加えるか?」など、いずれにしても、「戦闘があったかなかったか」、「日報を隠したか隠さなかったか」などを議論するより前に、こうした根本的な問題を国会で綿密に議論すべきではなかったかと私は思います
以上