はじめに
約2年前(2023年)に義兄・義姉が相次いで77歳の若さで亡くなり、昨年(2025年後半)は私の実兄が84歳で、妻の実兄が77歳でこの世を去りました。一方、私自身も、2022年に前立腺がんと腎臓がんが見つかり、治療後現在も尚経過観察を実施しています。如何に鈍感な!私でも、流石に自身の人生の終末を意識するようになりました。そこで、大好きな世界の歴史を絡めて(緑色で表記)、私のとても波乱万丈とは言えない!平凡な人生行路を辿ってみることにしました
見出しの写真は、JAL入社以来50年以上続けていて私の生き甲斐の一つになっているスキーの滑降写真です。私の後ろを滑っている人は、入社以来私のスキーの恩師の方々です
<徹・生誕の記録>
1927年 徹の母・竹田眞砂子(14歳)は、父母が相次いで死去の後、満州に居住していた兄の許に渡りました
1931年09月 満州事変勃発
1932年03月 満州国建国

*満州国について余り詳しくない方は、私のブログ「満州国」その”うたかたの夢”ご覧になってください
1933年10月 父・荒井忠作 満州航空入社
1937年02月 父・荒井忠作と母・竹田眞砂子結婚

1937年07月 盧溝橋事件を発端として日中戦争が始まる
1938年08月 長女・悠紀子誕生 ⇒ 1941年7月死去
1941年04月 兄・荒井威雄誕生
1941年12月 真珠湾攻撃 ⇒ 日本はアメリカ、イギリスに対し宣戦布告、以後4年にわたる太平洋戦争が始まる

1944年04月 次女・昭子誕生 ⇒ 1ヶ月足らずで死去
1945年04月 徹、誕生(@満州)
*生誕から敗戦、引揚を経て長野における引揚者住宅での苦難の生活については、私のブログ「生い立ちの記」をご覧になってください
<敗戦後の苦難の時代>
1945年08月 日本の敗戦
1946年07月 荒井一家、満州からの引揚(奉天/現在の瀋陽 ⇒ 葫蘆(ころ)島 ⇒ 舞鶴 ⇒ 長野県長野市(父の実家 ⇒ 引揚者住宅@居町)

1948年07月 三女・真理子誕生
1953年03月 ソ連共産党中央員会書記長・スターリン死去
1954年05月 フランスがディエンビエンフーの戦いで北ベトナム人民軍に大敗し、ジュネーブ協定によって最終的にインドシナ半島から撤退。その後、アメリカは南ベトナムへの財政的・軍事的支援を開始した( ⇒ 20年近くに亙るベトナム戦争への米軍の関与に繋がる)
<高度成長時代;徹の学生時代>
1952年04月 徹、保谷第二小学校入学

1956年07月 この時発表された経済白書の結語の一節に「もはや戦後ではない」と書かれていた。朝鮮戦争の特需などにより高度成長を遂げ前年のGDPが戦前の水準を超えた
*荒井徹、都営住宅での平和な日々;

*徹の小学生時代、兄・威雄と夏休み中に数週間父の実家(長野県長野市北石堂町)でお世話になっていました。近くの
裾花川(犀川の支流)で魚取りをしたり、従姉の蔵書をお借りして読書に耽ったりしていました
従妹の蔵書の中でもユダヤ人虐殺に関連するヴィクトール・E・フランクルの著作「夜と霧」に大きな衝撃を受けた記憶が残っています。また、従妹の夫は、若いころ画家を志していたこともあり、多くの素晴らしい絵があり、上の絵は、生前従妹に頼み込んで譲って貰ったものです。絵の背景にある山は、裾花川のそばにある旭山だったと記憶しています
*1956年 この頃から徹(11歳)は、電気工作が好き(自称“電気少年”)で、毎月こづかいを貰うと秋葉原電気街に出掛けて電気部品を買い、ラジオ・アンプなどを組み立てていました。
1958年03月 徹、保谷第二小学校卒業 ⇒ 写真集(小学生時代の思い出)、(写真集の中で紹介された校歌)
1958年04月 荒井徹、学芸大学付属小金井中学校入学

*都営住宅での幸せな毎日;


1959年4月、徹(14歳)は父に頼んでテレビの製作キットを購入して貰いました(確か5万円ちょっとの値段だっとと記憶しています)。組み上がったテレビで最初に見たのは「4月10日の 皇太子殿下と正田美智子さん結婚式のパレード」でした
1960年、徹(15歳)は、読んでいた雑誌が「CQハムラジオ」だったこともあり、電話級アマチュア無線技士の免許を取得しアマチュア無線局を開局しました。運輸省から貰ったコールサインは JA1LZU でした(依然として徹は“電気少年”!)
1961年03月 荒井徹、学芸大学付属小金井中学校卒業 ⇒ 写真集(中学生時代の思い出)、(校歌/3番のみ)
1961年04月 徹(16歳)、学芸大学付属高校入学

*入学と同時にバレーボール部に入部しました。その後50歳なるまで、下手ながらもバレーボールを続けることになりました
*1962年の頃、「電気研究部」を創部し、初代の部長になりました。その頃始まったクラブ局の免許を取得すべく部員を増やすことに努力(女性部員も2名獲得)し、クラブ局の免許(コールサインは JA1YCE でした)を取得しました(最後の!“電気少年”の時代)
1962年10月 キューバ危機
*ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設していることが発覚、米国がカリブ海でキューバの海上臨検を実施し、米ソ間の緊張が高まり、核戦争寸前まで達した一連の出来事。ケネディ大統領とフルシチョフソ連共産党第一書記との話し合いで最終的にソ連が核ミサイルを撤去してこの危機は終わりました
1963年11月 ケネディ大統領暗殺
*徹がこの暗殺の報に接したのは、大学受験準備の為に公開模擬試験を受けに行く当日の朝でした。徹は、当時ケネディ大統領を尊敬していた為、非常に大きなショックを受けました
*ケネディ大統領が、徹を含め多くの若者の心を掴んだのは、類いまれな倫理観に基づいたその政治姿勢であったと思われます
参考:1961年1月の「大統領就任演説」、1963年6月のアメリカン大学で行われた「平和のための戦略」
1964年03月 徹、学芸大学付属高校卒業 ⇒ 写真集(高校生時代の思い出)
1964年04月 徹、駿台高等予備校入学

1964年10月 東京オリンピック

*東京オリンピックの歌
1965年03月 徹、駿台高等予備校卒業
1965年04月 徹(20歳)、東京大学理科一類入学

*入学早々、バレーボール部と釣友会に入りました。教養学部時代、バレー部では井の頭線沿いの屋外のコートで練習しましたが、最初の頃はスライディング・レシーブをすると、うまく滑れないで顎に擦り傷を負う始末でした。進学校でありながらバレーボール強豪校出身の仲間(開成高校、小石川高校)に劣等感を抱いたものでした
*教養学部時代の写真集:(クラスの仲間と)、(釣友会)
1967年04月 徹(22歳)、東京大学工学部・航空学科進学
1968年~69年 東大闘争(学部生・大学院生と大学当局の間で、医学部処分問題や大学運営
の民主化などの課題を巡り争われました;航空学科の学生の一部もこの闘争に参加し航空学科のビルを封鎖しました
*徹もこの闘争に加わりました。恐らく同世代の学生は、高校までの学校教育の影響を強く受け「社会主義に対する親和性」が高かったこと、またベトナム戦争に触発された「反戦・平和の運動」に加わりたいという意識があったこと、などが政治活動に参画した動機になっていたと思われます
*この闘争中に集会などで参加者全員で歌った歌:(インターナショナル)、(ワルシャワ労働者の歌)、(国際学連の歌)
*1968年08月、荒井徹、航空学科卒業旅行:(写真集)
1969年01月 徹(23歳)、駒場寮奪還闘争(当時民青に占拠されていた)に参加し、頭部を負傷し東大闘争から脱落
1969年01月 東京大学・安田講堂に警官隊突入 ⇒ 東大闘争は実質的に終焉

1969年05月 父・忠作、荒井宅を埼玉県新座市あたご3-1-2に新築。父、サラリーマンの夢が叶う

1969年06月 徹、東京大学工学部・航空学科卒業
1969年07月 徹、東京大学工学系大学院修士課程(航空学専攻)進学
1970年03月 大阪万博開催(~9月)

*大阪万博の歌「世界の国からこんにちわ」
1970年11月 三島事件(防衛庁に押し入り最終的に三島由紀夫は割腹自殺)
1971年02月 父・荒井忠作死去(享年61歳)
1971年06月 徹(26歳)、東京大学工学系大学院修士課程(航空学専攻)卒業
<徹・猛烈サラリーマンの時代>
1971年07月 徹(26歳)、日本航空入社、整備訓練所配属
*早速バレー部に入部しました。高校時代と違って、大変上手な部員もいれば、会社に入ってからバレーボールを始めた部員も居て、居心地のいいクラブ活動が出来ました。また、国際航空会社だけあって時折インターライン・バレーボール大会もあり、へたくそ!な私の英語も、海外遠征の際には多少役に立ったこともありました
*スキーは全くの初心者でしたが、憧れのスキー部にも入部し、その後の楽しいスキー人生の始まりになりました
1972年01月 徹、ライン整備工場第一点検整備課配属

1973年06月 徹(28歳)・佐藤秀子(22歳)結婚 ⇒ 結婚式の写真集;結婚式の動画
*結婚式会場は神田一ツ橋の学士会館、ここは徹と秀子が初めて出会った場所

1973年10月 一次オイルショック
*第4次中東戦争勃発後、中東の産油国が原油価格を大幅に引き上げたことにより世界経済は大混乱に陥りました。日本も物価の急激な上昇により大きな混乱が発生しました
1973年01月 パリ和平協定が締結され、ベトナム戦争は終結
1973年11月 徹、ライン整備工場工務課配属
1974年09月 母・眞砂子とハワイ旅行

1975年04月 北ベトナム軍が南ベトナムの首都サイゴン(現在のホーチミン市)を陥落させ、米軍はベトナムから撤退しました。南ベトナム軍・政府関係の高官及びその家族は、先を争って米軍の艦船、航空機に押しかけ米国への亡命を目指しました

1975年05月 長女・清香誕生
1977年10月 長男・健一郎誕生
1978年03月 徹(32歳)、成田整備工場工務課配属(成田へ「金帰月来」の勤務)
*「金帰月来」とは:月曜日早朝に自宅から出勤 ⇒ 成田の独身寮滞在 ⇒ 金曜日終業後に自宅に帰還する
*工務課時代の業績:運航整備士人員計画にコンピューターシステム導入;国際線整備部門の成田展開計画策定;成田運航整備部門の整備シフト改定(固定シフト化)
1978年05月 成田空港開港
*成田空港開港時、国際線機材は往路・羽田空港出発後、復路は成田空港到着となります。また、開港当日出発予定の無い国際線機材は、翌日以降の運航に必要となるので成田空港にフェリー(乗客を載せないで飛行する事)する必要があります。また、それぞれ羽田空港・成田空港で運航整備に必要な整備士(新しい固定シフトで勤務)や地上機材を過不足なく配置する必要があり、追加的に必要となる整備士は重整備を一週間計画から外し応援に回すことになります。これらの計画は全て成田整備工場工務課がリーダーとなって計画立案、実行しました。結果として遅延や欠航もなく完遂できた時は充実感で一杯になったことを思い出します

1979年01月 次男・怜志誕生
1979年01月 第二次オイルショック
*イラン革命(パーレヴィー王朝滅亡)により、イラン産原油生産が激減したために石油価格が暴騰し、世界の経済に大きな影響を与えました。日本経済への影響は、第一次オイルショックに学んだ結果それ程大きなものではありませんでした
1979年06月 徹(34歳)、整備部配属(自宅からの勤務に復帰)
*整備部時代の主たる業務:中長期の航空機整備計画の他、毎月機材(航空機のこと)会議を主催し、整備計画、乗員(運航・客室)計画、空港の地上要員計画、などの整合を行っていました
1983年10月 徹(38歳)、羽田整備工場工務課配属
*重整備(10日~数ヶ月にわたる大きな整備)計画と重整備に必要となる引当機計画を、機材計画・乗員計画、空港地上要員計画を調整し策定します
1985年08月 JAL123便墜落事故

* JAL123便事故に伴う諸作業に1年以上忙殺されました。
また、下記事故調査報告書にある通り、ボーイング社による修理ミスを見抜けなかったJAL整備陣の一員としての自戒の念はその後長期間続きました
参考:事故原因に関わる徹のブログ「航空機の発達と規制の歴史」
*事故調査委員会による事故調査報告書の解説
1986年06月 徹(41歳)、成田整備工場企画グループ課長就任(昇格;成田へ「金帰月来」の勤務)
1988年03月 徹、整備企画室整備計画部 整備計画グループ課長就任(自宅からの勤務に復帰)

1988年03月 徹の母・荒井眞砂子死去(享年72歳)
*亡くなる1年前の母と徹の写真:
1989年、アフガニスタン紛争 (1978年~)終結
*ブレジネフ政権時代から始まった長期間にわたる侵攻となりましたが、ソ連は山間地区での消耗戦を強いられ戦死者は1万5千人以上(アフガニスタン2百万人以上)に達し、その後のソ連崩壊のきっかけとなりました
*1990年以降、日本国として政府専用機の導入プロジェクトが開始されました。徹は整
備企画室の立場でこのプロジェクトに関わりましたが、日本航空に入社していた妹も財務部で防衛庁との交渉を行っていました。1992年、無事747-400による政府専用機の運用が始まりました
1990年01月 バブル景気の崩壊
*資産価格の著しい低下(資産デフレ)により企業の経営状況が悪化(バランスシートの悪化)しました。この結果、過剰な融資を行っている金融機関の内、不良債権隠しや先送りを行っていた証券会社や銀行は経営の危機に瀕することになりました
*1997年11月3日・三洋証券破綻、11月17日・北海道拓殖銀行破綻、11月24日・山一證券破綻 ⇒「社長会見」
1990年08月 徹(45歳)、GLP(Global Leadership Program)という5週間にわたる経営学履修コースに参加
*このコースの目的:国際企業に所属する役員、部長クラスの社員(徹はこの時点でまだその地位になっていなかった!)をグローバル人材に育てる教育・訓練を行う
*上記目的を果たすため、日本・米国・及び欧州の先進国から均等に参加者を選び、使用言語は英語でした
*教授陣は国際経営にに関わる一流の人材を集めた(GLP教授陣)
*この教育・訓練に関し、会社がGLP本部に支払った金額は5万5千ドル、当時の為替レートを適用すれば、日本円で約800万円に相当します
*参加者には一か月ほど前に事前学習の為の膨大な資料が送られてきました。この資料を読み込む為に、課長業務は午前中のみで済ませ、午後はこの事前資料を読み込むことに没頭しました ⇒ 結果として自慢だった視力は極端に低下してしまいました!
*5週間のコースは、「国際経営の為の基礎知識の習得」、「野外訓練等による国際人として必要な人格の形成」、「ソ連、インド(2チーム)、中国、ブラジルの5チームに分かれて、その国に出かけ、要人に面会した上で参入する企業の選択、戦略の立案などの模擬研究を行う」、「チーム毎に研究発表を行う」
*追加説明 ⇒ 「GLPのプログラム概要」、徹の所属した「INDIA_B」チームの「Final Presentation」
*GLPコース終了時に貰ったお土産(ベルリンの壁の破片)

1990年10月 東西ドイツ統一
*1989年11月9日の東・西ドイツの若者が中心で実行されたベルリンの壁の崩壊がきっかけとなった。右写真は、ブランデンブルグ門の前のベルリンの壁に登った東・西ドイツの若者達
1990年12月 徹(45歳)、経営企画室・機材グループ課長(兼)基礎技術部担当課長就任
*経営企画室時代の業務:路線便数計画に合わせた機材計画(航空機の購入・退役計画)の立案
*経営企画室時代の主たる業績:日本経済の長期低迷に合わせ、747-400の購入計画の大量キャンセル、777-300の大量導入、767の増機(但し、エンジン型式の変更/Pratt & Whitney社製 ⇒ General Electric社製)、737-400の新規導入(←国内線の小型化)
1991年08月 バルト三国独立宣言
1991年10月 徹・秀子、自宅を新築

*父・忠作がサラリーマン人生の集大成として新築した殖産住宅の木造建築は、未だ22年しか経ってなく十分使用に耐えるものだったのですが、3人の子供が思春期に達する年頃となり、一人一部屋を確保してあげたいという親心と、徹・秀子の夢(広い居間、使いやすいキッチン、屋上菜園、二階にジェットバスとサウナ、など)を実現する為には新築する必要がありました

しかし父の建てた家が解体用特殊車両で無残に壊されていく時は、流石に万感胸に迫る思いが迫ってきました
1991年末 ソ連邦の崩壊

1991年12月 徹(46歳)、経営企画室・機材グループ次長(兼)基礎技術部担当次長就任(昇格)
1992年06月 徹、経営企画室機材・機材生産グループ次長(組織改正)
1994年06月 徹(49歳)、日本アジア航空株式会社(以下「JAA」と表記)台湾支社管理部長就任(昇格;単身赴任)
*台湾支社時代の業績:間接業務のIT化推進、台湾人客室乗務員の二重課税問題への取組
*二重課税問題とは:JAA設立時には日本・台湾間に「租税条約」が無かったため、台湾人客室乗務員の所得税は日本と台湾で二重に課税されており、日本での課税分は会社が納めていました。その後「租税条約」が成立したあと、日本での課税分はJAA社に還付されました。この事実を知った客室乗務員は、還付された租税分は客室乗務員本人に還付されるべきだと主張し、裁判となりました。徹の任期中は結審しませんでしたが、後任の時代に客室乗務員側に譲歩することで解決が図られました
1994年09月 関西国際空港開港
1995年01月 阪神淡路大震災:神戸市垂水区沖の明石海峡付近が震源とするマグニチュード7.3の地震が発生。近畿圏の広域で揺れが観測され、神戸市や淡路島の一部では震度7に相当する激しい揺れが発生しました。 死者6,434名
1996年12月 徹(51歳)、経営企画室B737新会社設立準備室長就任(東京勤務に復帰)
*新会社設立の理由:経営企画室時代に採算が合わないとしてB737-400の導入を反対したものの、国内営業担当役員の強い希望(JALが国内線のローカル線に進出したため)から導入が決まりました。しかし、B737-400投入路線の赤字が経営上無視できなくなり、B737-400路線のみを運航する低コストの新会社を設立することになりました
1997年04月 徹、JALエクスプレス社(JEX)設立、代表取締役常務就任
*運航コスト削減の為に行った改革:外人パイロットの採用(←給与削減)、プロパーの客室乗務員(スカイキャスト)の採用(←給与削減)、運航・客室乗務員の勤務時間の延長(←人員効率の向上)
1998年04月 JEX本社大阪移転に伴い、徹、大阪赴任(単身赴任)
1998年07月 JALエクスプレス便・初就航
1999年05月 徹(54歳)、整備企画部長就任(東京勤務に復帰)
*整備企画部での業績:整備部門にカンパニー制の導入
*カンパニー制とは:「カンパニー制とは」、「整備カンパニーの戦略」
2000年04月 徹、整備本部副本部長(昇格)兼、成田整備事業部長就任
2001年09月11日 アメリカ同時多発テロ事件発生;

<事件の経過>
*午前08時46分(東部夏時間)に、アメリカ合衆国ニューヨーク市マンハッタンのワールドトレードセンター(WTC)の北塔(WTC1)に、アメリカン航空11便が突入
*午前9時3分に、ユナイテッド航空175便が南塔(WTC2)に突入
*午前9時37分に、アメリカ軍のペンタゴン本部にアメリカン航空77便が突入
*午前10時3分に、ユナイテッド航空93便がペンシルベニア州シャンクスビル近くの農地に墜落(乗客がテロリストに立ち向かったため、目的地であるワシントンD.C.への攻撃を防いだ)
<テロリストグループ>
*アフガニスタンを拠点とする過激派イスラム組織「アルカイダ」が実行(指導者のウサマ・ビン・ラディンは、アメリカ政府による報復攻撃で2001年5月に死亡
<犠牲者と被害>
*死者2,977人(内、246人が4機の航空機に搭乗していた乗員・乗客、19人がテロリスト、411人が救助活動に従事していた消防士、72人が警察官
*WTCのビルは完全に崩壊し、周辺の建物も大きな被害を受けた
2002年06月 徹(57歳)、日本航空退社
2002年06月 徹、ジャル航空機整備東京 代表取締役社長就任
*ジャル航空機整備東京時代の業績:認定事業場の資格取得
*任期中(2002年~2005)に会社の新聞に載せた「新年号の巻頭言」
*年始式の挨拶:「2003年を迎えて」、「2005年を迎えて」
*下の写真は、毎年数回に分けて行われていた「新入社員の御巣鷹山慰霊登山」時の集合写真。新入社員はこの登山によって整備士としての責任を実感することになったと思われる;

2003年01月 長女・清香、服部光洋と結婚
2003年09月 徹(58歳)、独立行政法人・原子力安全基盤機構・監事就任
*原子力安全基盤機構での業績:航空安全にかかわる知識を、原子力規制の参考として提供
*東日本大震災(下記参照)における福島原子力発電所の事故を原子力規制の中枢で体験
2005年01月 秀子(54歳)、軽度の脳梗塞を発症し1ヶ月入院
2005年02月 中部国際空港開港
2007年10月 徹、日本航空定年退職に伴うご褒美!となっている夫婦での卒業旅行に出かける:「旅行中の写真」
*ご褒美!の内容:日本航空の路線を使用する時は無料、且つ First class 席の予約が可能
*旅行先:ハンガリー、オーストリア、ドイツ
2009年08月 徹(64歳)、桜美林大学・特任教授就任
*講義内容:エアラインの営業戦略、エアラインの乗員(パイロット)養成・乗員計画、エアラインの整備ビジネス
*講義内容を整理したものは以下のブログに纏めてあります:「エアライン・ビジネスについて」、「航空機の安全運航を守る仕組み」

2010年04月 徹、独立行政法人・原子力安全基盤機構・監事としての定年に伴い「顧問」就任
2011年03月 東日本大震災:三陸沖(牡鹿半島の東南東130km付近)を震源とするマグニチュード9.0の地震が発生。死者15,844名、行方不明者3,394名。大津波による被害が甚大であった

*大きな津波被害に興味を抱き、2011年8月初旬、3泊4日の日程で個人的に被害状況と復興状況の調査に行ってきました。その時の調査報告は2018年3月の私のブログ「災害のリスクについて考えてみました」に掲載しています
2011年07月 長男・健一郎・小川江里香結婚
2014年03月 徹(68歳)、独立行政法人・原子力安全基盤機構が原子力規制庁に統合されたことに伴い退任
2015年08月 徹・秀子、中国への歴史旅
*上海に赴任していた長女・清香を頼り、予てより調査したいと考えていた「大連、旅順、長春、瀋陽」の各都市と;「徹が生まれた瀋陽の住居跡」、満州からの引揚の際中国からの出発地となった「葫蘆島」を訪ねた
*写真のスライドショー、動画は以下を参照:「大連の旅」、「旅順の旅」、「長春の旅」、「瀋陽の旅(徹の生誕地を含む)」、「葫蘆島の旅」
2016年03月 徹(70歳)、桜美林大学・特任教授定年に伴い退任


2016年04月以降、徹(70歳~)は次男・怜志の薦めでブログを始めました。以降、現在まで続けている寄稿の全ては「退職サラリーマンの遠吠え」からご覧になれます
*退職後、JALスキー部OB会に入会し、現在までスキーを続けています(下記のガン治療後はスキーができていません)
2019年04月07日 妹・近藤真理子死去(享年70歳)
2020年02月 新型コロナウイルス感染拡大 ⇒4月緊急事態宣言発令
2022年9月、徹(77歳)、腎臓がん治療の為「右腎臓部分切除手術」を実施、現在も経過観察実施中
2022年12月6日~2023年1月30日、前立腺がん治療の為「リニアック治療(高エネルギーX治療)実施。その後2025年8月までホルモン治療実施、現在も経過観察実施中
2023年06月17日 義姉・和子、死去(享年77歳)
2023年08月27日 妻・秀子の長兄・佐藤浩一、死去(享年77歳)
2025年1月、能登半島地震:石川県能登地方を震源とするマグニチュード7.6の地震が発生、輪島市と志賀町で震度7を観測。死者508人、負傷者1,266人、住宅全壊6,096棟などの被害が確認されています
2025年08月28日 兄・威雄、死去(享年84歳)
2025年12月28日 妻・秀子の次兄・佐藤貞二、死去(享年77歳)
以降、生きている限り投稿を継続します!