731部隊とは

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今年(2025年)を「抗日戦争勝利80年」の記念の年と位置づける中国共産党・政府の方針を反映し、旧日本軍の秘密機関「731部隊」を描いた中国映画「731」が9月18日に公開されました(見出しの画像はその映画のポスターです)。公開初日は中国全土の映画館を席巻する勢いで上映され、一日あたりの上映回数の最高記録を樹立しました。ただ、時代考証など映画の出来栄え自体は評価が低く、9月末には入場者数は急速に失速した様です
ただ、満州に拠点を置いた関東軍指揮下の731部隊は、日本軍が日中戦争中に犯した最大とも言える戦争犯罪の当事者であるものの、戦後の歴史教育ではあまり重要視されず、私(荒井)自身も実態についてよく分からず2021年に投稿したブログ「日本の戦争の時代についての一考察」においても敢えて触れませんでした
そこで今回、SNSの情報や生成AIを駆使しての調査、常石敬一氏の著作「七三一部隊(生物兵器犯罪の真実)」、及び中国での証言を翻訳して纏めた「証言・人体実験」を読み込んで、以下に纏めてみました

ただ、731部隊の当事者や陸軍・政府関係者は、その犯罪性を認識しており、敗戦直後から国を挙げて徹底的な証拠隠滅を図ったことから、実験結果を含めたデータは極めて限定的であることはご承知おき頂きたいと思います
いずれにしても、731部隊の活動は、ナチスの人体実験と並ぶ重大な戦争犯罪とされており。日本国内では長らく「存在自体が否定」されてきたと思われますが、近年は証言・文書・遺構の発掘により、実態が徐々に明らかになりつつあります。更に、国際的にも「人体実験・生物兵器開発の最悪の事例」として研究対象となっています
*2023年8月21日・旧日本軍「731部隊」職員表など公式文書見つかる

尚、以下の記事で青色の文字で斜体で書かれている記事は私(荒井)本人の意見です

731部隊の活動及びその歴史的な経緯

<731部隊の設立~終戦までの活動の時系列での整理(重要部分は赤字
1914年~1918年 第一次世界大戦
初めて化学兵器が使用された
1925年 ジュネーブ議定書化学兵器、生物兵器(細菌兵器を含む)が禁止されました。132カ国が参加しましたが、日本は参加したものの署名はしませんでした
*後の731部隊長となる石井四郎(以下“石井”と表示)は条約で禁止しなければならないほど細菌兵器が脅威であり有効であるなら、これを開発する必要があると考えました。その後、石井は2年間の長期に渡り海外を視察し、帰国後に列強が細菌戦の準備を行っているので、日本もその準備をしなければ、大きな困難に直面すると陸軍省や参謀本部幹部らに説いて回りました

1931年 柳条湖事件(関東軍が南満洲鉄道の線路を爆破し張作霖を爆殺した事件)から満州事変が始まる
1932年
 日本の傀儡政権である満州国建国(1932年~1945年)
*1932年、石井は関東軍参謀本部・作戦主任参謀の遠藤三郎との親交を通じて関東軍の参謀本部で石井の意見は支持を得るようになっていました
1936年4月23日 板垣征四郎関東軍参謀長が梅津美治郎陸軍次官に「在満兵備充実ニ関スル意見を提出。この意見書の中に「関東軍防疫部ノ新設」があり、これが731部隊の母体となりました
*具体的には、公式文書に「昭和11年度(1936年)に於いて関東軍にて臨時編成しある病馬廠を改編して傷病馬の収療、防疫、細菌戦対策の研究機関たらしむる如く関東軍獣防疫廠を新設す 又在満部隊の増加等に伴い昭和13年(1938年)度以降其一部を拡充す 関東軍獣防疫廠の駐屯地は寛城子(中国吉林省長春市に位置する地域)附近とす」とあります


1937年
 盧溝橋事件発生、日中間の全面戦争突入(~1945年)
1939年5月 ノモンハン事件(~9月)
1940年7月 軍令陸甲第14号により、関東軍防疫部は「関東軍防疫給水部」に改編されました。そのうちの本部が「関東軍防疫給水部本部(通称:満洲第731部隊)」です。731部隊を含む関東軍防疫給水部全体での所属人員は、1940年7月の改編時で軍人1235人(内将校264人)と軍属2005人に増加し、東京帝国大学に匹敵する年間200万円(1942年度)の研究費が与えられていました

1945年8月8日 ソ連が参戦
*731部隊は、8月9日から撤退準備を始めました。人体実験の証拠を隠すことが第一の課題となり、ハルピンの本館内側の監獄に実験目的で収容されていた「得移扱(下記①、②参照)」の人々の殺害が行われ、次いで建物の破壊が関東軍工兵隊の手で行われました。この時の爆破に伴う煙はハルビン市内からも見えたと言われています
1945年8月15日 天皇陛下による終戦宣言
1945年9月2日 東京湾停泊中のミズーリ号上で降伏文書に署名
厚生労働省の集計によれば、終戦直前における所属人員は3560人(軍人1344人、軍属2208人、不明8人)でした
*ソ連国境から遠い本部ハルピンの731部隊と大連の支部の隊員はソ連軍の捕虜にはならず日本本土に帰ることが出来ました

1949年12月25日~30日 ハバロフスクに於いて戦犯裁判が行われました
*被告(合計12名):関東軍司令官・山田乙三、関東軍軍医部長・梶塚隆二、関東軍獣医部長・高橋隆篤、他
被告全員が有罪、強制労働収容所で刑期2年~25年大半が刑期満了以前に帰国しました

元軍医少佐・柄沢十三夫は、帰国を許された後自白したことを悔いて自殺しました

*公判書類から分かった事;
① 中国人を731部隊で人体実験の対象を得移扱と称していました
「得移扱」とする対象;スパイ(死刑又は無期の重罪対象)、謀略・諜報活動を行なっていて逆利用できない者、不起訴又は軽い刑であるが更生の見込みのない者
③ 「得移扱」を送り出す側であった大連憲兵隊では「大東亜戦争に協力せよ」との日系新聞の社説に対し反論を投稿した中国人を「反満抗日者」として731部隊に送っていました
④ 1940年7月に細菌をハルビンから上海に輸送する「関東軍野戦司令部命令書」も公判書類に含まれていました

1956年6月 中国に於いて731部隊に関わる戦犯裁判が行われました(下記写真、データは、中国での証言を翻訳して纏めた「証言・人体実験」よりコピー)

*731部隊で逮捕された隊員は、尋問を受け詳細な調書が取られています。また、逮捕された憲兵隊員からの証言から、間諜(スパイ)として拘束した中国人の逮捕日・氏名・年齢・職業に関わるデータも残っており、このデータから中国人逮捕者の内、「得移扱」とされた者も特定できます

50年代後半~60年代初めにかけて、米国が戦後すぐに731部隊から押収したはずの実験ノートなど詳細を記録した文書は、文書管理者が返還したとされています
*これらの文書について日本の報道機関が国立図書館に問い合わせたところ、それらの文書は厚生省を経て防衛庁に送られたとの事
*これに対し、防衛庁は「知らない」という返答をしています
日本政府はその後も、これらの文書及びその内容について自ら調べようともしていないと思われます

石井四郎・陸軍軍医の経歴
(731部隊を作った医師の終戦までの軌跡)

石井は、兵器としての細菌の存在に目をつけ、細菌兵器を開発しました。彼はその功績を認められ1942年には軍医としての最高の位である軍医中将まで昇進しました

石井は、1920年京都大学医学部を卒業し陸軍軍医となり、4年後には陸軍から京都大学・大学院に「細菌学、血清学、予防医学、病理学」の研究のために派遣されました
指導教官によれば、彼は実験中に大失敗をしており、実験者としては失格の烙印を押されていました。その後、1927年に「グラム陽性双球菌ニ就イテの研究」で医学博士の学位を得ています

1932年石井は細菌培養缶濾水機石井式濾水機/川の汚水を浄化し安全な飲料水に濾過する目的で開発した濾過装置)を発明し特許を得ています。細菌培養缶は密閉した容器で細菌の培養を行う為、感染の危険を少なくして細菌の大量培養が可能となり、これが生物兵器用の病原体作りの為に使用されました

1945年8月、ソ連軍が中国東北部に進軍してきましたが、石井はその情報をハルビン市内の隊長宿舎で聞き、直ちに東京と連絡を取り731部隊の建物の破壊と部隊員及びその家族の日本への逃避を指揮しました
その後、9月中は金沢の陸軍病院で731部隊員の恩給計算の資料作りをした後、米軍の戦犯追及を避ける為、陸軍参謀・服部卓四郎の指示で身を隠しましたが、1945年末になって彼の指示で米軍に出頭しました
*敗戦後直ぐに米軍による731部隊の調査が始まりましたが、人体実験を暴くことが出来ず、やむなく731部隊の関係者に、「研究上の情報を提供すれば戦犯免責を与える」という条件で、1945年末、米軍調査担当者と731部隊関係者が「鎌倉会談」と呼ぶ会合が開かれ、米軍は731部隊の活動の証言を得ました

1946年5月、米軍による731部隊についてのレポート(トンプソン・レポート)が纏められました。このレポートの中で石井の尋問記録が載せられていますが、人体実験については解明されていません。解明されたのは「731部隊の組織」、開発された「細菌爆弾の構造」、「航空機から細菌、その他を雨の様にばらまく“雨下”」のデータのみでした

1946年末、ソ連によるハバロフスク裁判で、石井たちを人体実験の罪で軍事裁判にかける為に引き渡しを求めてきました。驚いた米軍担当者が石井たちを再尋問したところ、“暗黙裡”に認めたようです。
その後、ソ連からの引き渡し要求を退け、再度戦犯免責を与えるとともに、本国から生物兵器専門家を呼び寄せ、石井たちから情報収集を行いました
これらを基に1947年6月には「フェル・レポート」が、12月には「ヒル&ヴィクター・レポート」が纏められました。いずれも人体実験の調査結果を述べたものです

石井は、戦犯免除後軍籍を離れ、一般社会で生活。公職追放期間中は千葉県印旛郡や東京都で医療器具や浄水装置の研究を行っていたとされています
一部資料によれば、防疫研究所(のちの国立感染症研究所)への助言も行っていたとも言われています。また、1950年代には千葉県や東京都で、医療関連企業の顧問的な活動(石井式濾過装置など)をしていたとされています
公的には目立った活動を避け、「病理学者」「細菌学者」として静かな余生を送っていた様です
1959年10月 石井四郎咽頭癌で死去

実際に行われた人道に反する行為

<人体実験>
1.感染実験
ペスト菌炭疽菌チフス菌赤痢菌コレラ菌などの病原体を、「得移扱」の被験者に注射・吸引・経口投与を行う
その後の発症経過、苦痛の様子、死亡までの時間を詳細に記録。またワクチンの開発も行った
*ワクチンの効果を確認する為の実験を行った雇員・田村良雄の証言;
「課長少佐Sの命令により、生体防御力及び毒力試験の目的を以て、1942年10月中旬の試験第一日に監禁していた5名の中国の愛国者の採血を行い免疫価を測定しました。次日に4種のペスト菌予防注射液(加温ワクチン、混合ワクチン、エンベロープワクチン、生菌ワクチン)を4名の中国愛国者に注射し、一週間後に再度注射しました。注射1ヶ月後に0.05ミリグラムを含有するペスト菌液1㏄を5名の中国愛国者に注射しました。この注射により5名の被実験の中国愛国者を重症ペストに罹患させ、内3名を殺害し、2名を該隊診療部の生体実験に提供し殺害しました
この様なプロセスは、結核のワクチンであるBCGや、抗生物質のペニシリンなどでも繰り返された。BCGの場合は、中国の子供たちを使って人体実験を行った。子供たちは、BCGを受けた数か月後に結核菌を接種され、ワクチンの効き目を確かめる実験台としました」

2.凍傷実験
得移扱」の被験者の四肢を氷水に浸し、凍傷を起こさせる。そのまま放置し、組織が壊死する過程を観察。その後、熱湯・火・衝撃などさまざまな方法で解凍を試み、「最も効率よく治療できる方法」を測定した。以下の写真は、常石敬の著作「七三一部隊(生物兵器犯罪の真実)」より転載しました

3.臓器観察と摘出
* 病原体に感染した状態の臓器を摘出するため、「得移扱」の被験者が生きている状態で解剖が行われたケースも証言されています。摘出された臓器はホルマリン漬けにされ、経過観察のサンプルとして保管されました

4.弾丸・爆弾実験
* 爆発物や毒物の威力を測定するため、「得移扱」の被験者を実験対象として、至近距離で爆薬を用いた被害データを収集

5.人体実験を直接実施した軍医「湯浅謙」の証言
① かれの経歴については、Wikipediaの「湯浅謙」をご覧ください
② 常石敬一氏の著作「七三一部隊(生物兵器犯罪の真実)に書かれている証言
*湯浅は、軍医として中国に居た3年半の間に、14人の中国人を生きたまま解剖し、また手術の練習台として殺した
* 1942年12月、湯浅は、太源監獄で次のような手術演習を経験している
証言内容;
「山西省を占領していた陸軍第一軍の軍医約40名を集めたある日の講習会でのことだった。軍医たちはいつもの防疫給水部の講堂でなく太源監獄に集合するよう命令された。集まった軍医たちの前に陸軍省法務部の白い肩章をつけた男が二人出てきた。その後、引き出されて来た中国人の男を坐らせた。白い肩章の男たちは、やにわに拳銃でパパーンと4、5発中国人の腹を撃った。後手にゆわかれていた男たちは、前方に身をくずした。これは、身体に入った弾丸をどれだけ手早く取り去ることが出来るかを競うゲームと言うべきものの始まりだった。出血して悶えている中国人を5~10人の軍医が別室に運び、弾丸を手早く抜き取る手術を始めた。湯浅は手術中に更に拳銃の発射音聞いているので、さらに2人の中国人が撃たれ、「手術演習」の犠牲になったことを知った。弾丸を取り出す手術にあぶれた軍医たちは、中国人の四肢の切断や気管切開をした。参加した軍医の何人かが、“別に珍しいことでもなく、しょっちゅうのことだ”とささやき合うのを聞いて、この種の“手術”は自分の陸軍病院だけでなく、あちこちの部隊でもやっていることを知った」

③ 湯浅謙の戦後の経歴;
*1945年8月、日本への帰国ではなく、国民党軍の軍医となる道を選び、1945年の中国革命による新中国の成立後は、共産党政権の医師として働いた
*敗戦後も中国に残ったことについて湯浅謙は、「私は3人の中国人を、自身の手術演習で殺していた。そこで、医者として残った」と回想している
湯浅謙が関わった人体実験で殺された人は全部で14人
*1951年に中国軍の捕虜となり、翌年末に山西省太源の戦犯管理所(終戦までは日本軍の捕虜収容所・太源監獄)に収監されました

*1956年6月 起訴免除となり釈放日本へ帰国
*1956年7月 肺結核の治療のため、東京赤十字病院に入院
*1957年3月 慈恵医大の内科で再研修
*1958年7月 中国帰還者連絡会に参加。白十字病院で初めて証言する。以降、反戦・平和、原水禁、日中友好運動などに積極的に参加する
*1958年3月 民医連・西荻窪診療所に勤務、所長となる
*1976年 西荻窪診療所所長を退任、勤務医となる
*1988年秋 帰国後はじめて太原へ謝罪の旅
*1991年10月 4回目の訪中。潞安を訪問。
*2010年11月 心不全のため死去。享年94歳

6.人体実験によって殺害された犠牲者の数
生成AI(ChatGPT、Copilot、Jemini)で調べた所、いずれも正確な人数は、現在も確定していません。これは、戦後に多くの資料が破棄されたこと、関係者の証言が限られていること、記録の多くがソ連や中国など複数の国に分散していることが理由です
ただ各生成AIの回答では、概数としては、人体実験によって殺害された犠牲者の数は、3,000人前後ということで共通しています

また、中国側の推定では細菌戦などを含めると、731部隊が関わる総犠牲者数は、
10万〜30万人規模とされています

生物兵器の実戦使用の記録

以下は、主として生成AI(ChatGPT、Copilot)を使ってデータを集め、筆者(荒井)が編集したものです
<実戦使用の記録>
731部隊(およびその関連部隊)では、中国で複数回、細菌兵器の実地使用(散布・汚染・感染工作)を行ったとする十分な史料証拠が残っており、代表的な事例は以下の通り;
① 伝染性ノミ(ペスト菌)の空中散布
1939年~1941年、満洲・中国本土でペスト菌に感染させたノミを飛行機から撒布する実験・攻撃が行われた記録があります。代表的な標的として寧波、湖南省長沙近辺への散布が報告され、多数の死者が出たと報告されています
② 井戸・飲食物への細菌混入
南京などで、井戸や家屋、食物にコレラ・チフス・パラチフスなどの細菌を入れる工作が行われ、結果として局所的な感染発生があったとする証言・報告があります。これらは“効果確認”を目的とした実験の一部だったとされています
<参考>
常石敬一氏の著作「七三一部隊(生物兵器犯罪の真実)」掲載のデータ

③ 各種細菌爆弾・撒布装置の開発と実地試験
ペスト菌、炭疽菌、コレラ菌、腸チフス菌、パラチフス菌、鼻疽菌、等を戦術的に使うためのばらまき方法(爆弾、容器、動物を用いる手法)を研究・量産し、満洲・中国各地で実地試験を行ったという記録が残っています。報告書や押収文書には、生産能力や試作型の設計図が含まれています
<参考>
常石敬一氏の著作「七三一部隊(生物兵器犯罪の真実)」掲載のデータ

上記の「マルタ」とは、実験の犠牲となる得移扱」の捕虜のことです
ベスト弾の瀬戸物の破片で死亡することの無い様に臀部以外の身体は布団にくるまれていました。爆弾が破裂した後、被験者は担架で部隊に運ばれ、どのような傷であれば感染が起こるか、何日間で発病するか、そしてどの様に死んでいくかを観察された多くの場合、全員が感染し数週間以内に死亡している

<被害規模及びその評価>
死亡者数の推定は研究者により幅(数千人〜数十万人)があるため確定は難しい。中国での刊行物の資料や米国公文書の未公表文書解読が進み、被害の全体像は年々明らかになっているものの、正確な死亡者数は資料の欠落と終戦後の隠蔽で不確定な部分が多く、またどのケースで何人が亡くなったか、疾病流行の直接的原因が散布によるのか自然発生かの切り分けなど、史料・疫学的検証が必要で、学術上の争点が未だに残っている部分があります。更に、戦後すぐに大量の証拠隠滅が行われたこと、また米国による加害者の免責と引換のデータ取得で証言の信憑性に問題があったことも重要です

731部隊に参加した医師の経歴

731部隊には多くの医師が参加していますが、指導的な役割を担った医師について生成AIで調べてみました
ChatGPTによれば、終戦時に石井が 組織的焼却・証拠隠滅 を命じたため、731部隊に参加した医師(軍医)全員の氏名を完全に網羅した公的リストは現存していませんただ、裁判記録・証言・回想録・防衛省旧陸軍名簿などから、主だった医師・研究責任者(⇔細菌学を担当した軍医)は判明しています。概要は以下の通りです;
参加した軍医の人数(概数);
731部隊全体の人員は 約3,000名、この数には 日本、満州、中国、朝鮮から徴用された労務者・技師・警備兵を含みます。この内、日本人職員(技術者・医官)は600人~700人であり、 生物研究・解剖・培養を担当しました。この中の軍医・医師(細菌学者・病理学者) 約150人~200人と言われています
< 出身大学の傾向>
当時の軍医はほぼ 帝国大学(旧帝大)と医官学校 出身です。大学出身者数の傾向は;
京都帝国大学 :最多、 石井の母校、彼の学閥が形成された。初代731部隊長が京大出身だったため、京大人脈が指揮中枢に集中した
*東京帝国大学(東大): 多い 、病理学・衛生学分野で供給
*大阪帝国大学: やや多い 、新設医学部からの若手研究者
*満州医科大学 :現地供給 臨床医・研究補助者
*主要な軍医・研究責任者の役職、出身大学、その他の情報

主要な軍医・研究責任者に税金で学費の大半が賄われる帝国大学の出身者が多いこと、また人を助けるはずの医学の研究をする為に、軍の命令とは言え医師が「ヒポクラテスの誓い」を破り人を殺すことを厭わないことは、どうしても理解できません

おわりに

731部隊に関わる負の歴史については、調べれば調べるほど辛い気持ちになります。特に人体実験が帝国陸軍の命令を基に行われたとしても、人の命を救うはずの医師が、自ら生きている人間に細菌を植え付け、生きている人間を解剖し死に至らしめたことは信じがたい事だと思います。我々が学生時代に学んだ人体実験「エドワード・ジェンナーの種痘の人体実験」が許される限界だと思います(これに似た人体実験?は現在のワクチン開発の最終的な臨床試験で、生命に重大な危険が無い範囲で、被験者の承諾を基に行われています)
戦時中に国家が、こうした言訳のできない人道に反する罪を犯したことは、近隣の東南アジア諸国、とりわけ中国との外交関係を未来に亘って正常に維持していく為には、日本の歴史上の過ちを国民一人一人が常にリマインドする必要があると思います

また、731部隊の蛮行以外に、中国人に対しては以下の様な取り返しのつかないつかない傷を残しています;
* 盧溝橋事件以降の日中戦争によって失われた命(生成AIのデータ)

中国人の死者数が如何に膨大であったが分かると思います
*2015年に、私共家族のルーツである満州国の歴史旅をした折「偽満皇宮・博物院“偽満”とは偽の満州国、つまり日本の傀儡政権を意味します)を訪ねましたが、この博物館では以下の様な写真が沢山展示されていました。この博物館を出た後で中国人家族に中国語で真顔で怒鳴られて恐怖を感じた記憶があります。後で案内してくれた中国人のガイドに聞いたところ、日本人に対する怒りを叫んでいたそうです               

* 歴代総理の歴史認識(歴代首相の戦後50年~80年の談話);
政府は、戦後50年(1595年)の村山富市首相から戦後80年(2025年)となる石破茂首相まで10年ごとに首相談話を公表しています。この談話の中で最も重要な部分は、先の大戦で日本が近隣諸国に対して犯した過ちをお詫びすることと、国民が日本の負の歴史を正しく学ぶことの重要性だと思います

今後も重要な資料等が見つかることがあるかも知れませんので、本ブログに関するFollow_Upを着実に行っていきたいと思います。

以上