生い立ちの記(生誕・抑留・引揚・困窮生活)

以下は、私が中学一年の夏休みの宿題で書いた「生い立ちの記」(原稿用紙50枚がノルマだった)の最初の部分です。平仮名が多く文章が稚拙なのは、私が理系の人間で国語嫌いであったということで許していただくとして、内容については全て両親から聞き取ったもので、実体験に基づいているものです;

生い立ちの記

中学一年A組 荒井 徹

満州での誕生と終戦

昭和20年4月2日、満州の奉天市で次男として私は生まれた。父は満州航空に勤めており、わりあいと生活は楽だった。それから五ヶ月くらいはこのように平和に暮らしていた。所が、それからがいけない。8月15日、大東亜戦争が終わって日本中がうれしいやら、かなしいやらでわいわい言っている時、こちら満州はソ連軍が入って大混乱おちいっていた。私達は、といっても父は会社の関係で入らないが、営口(えいこう)へそかいしていた。それから半月位で又奉天へ帰って来た。それからの生活は非常に苦しかった。父は終戦して少したってからソ連に飛行場をとられ、社員は解散となったので、ブローカーをして生活をした。しかし、それも父は商売がへただったのでうまく行かず、着物、母の「かたみ」の指輪などを売って暮らしをたてていた。

生誕の家
生誕の家

もうそのころになると、ここはあぶなくなってきた。昼はその日の生活を立てるために、二足三文になった高価な着物等を売り、中国人が買っていく。夜になると武器をすてさせた無抵抗な私達のところへ、武器をもった強盗が入ってくる。私達は何軒かで集団をつくり、そのまわりに鉄条網をはりめぐらせし、雨戸はくぎでうちつけ、かんたんに出入りできないようにした。男は一日中服を着替えず、強盗のみはりに務めた。もし私達の所へ入ってきたら、ドラを鳴らしてさわぎおっぱらうようにした。さいわい私達の所には一度しか入らず、たいしたことにはならなかった(しかし、ひとりの死者がでたが)。

内地への帰還

その恐怖の一年間が過ぎていよいよ帰国の日が来た。国民政府が満州を占領し、すぐ私達を帰してくれたくれたのだ。そのつぎの朝から苦しい帰国までの日がつづく。7月1日の4時、藤浪町町ぐるみマーチョ(馬車)でいっせいに自宅を出発。北奉天まで行った。そこから貨物列車で錦県(きんけん)まで行った。その道中は非常に苦しいものだった。なにしろ馬や牛が乗る貨物列車なのだから、家の近所のおばあさんが病気の体で来たため死んでいった。さて、その長い苦しい列車の時間が終わって錦県駅について、それから徒歩で宿舎まで行く。それはとても苦しい。母は背に満一歳の私をおぶり、前に大きいリュックサックをしょっていた。満五歳の兄は私のおしめをせおっていた。父は隊長だったので、リュックサック一つをせおってみんなの世話をしていた。やっと宿舎について。そこは兵舎であった。そこで約一週間、3万人位が自炊をして暮らしたのだ。入るときはDDTを全身にまいた。おかげで、はえ、南京虫、のみ、などにはなやまされなかった。入ってから間もなく母が心臓病で苦しみだした。それはあまりにひどい過労のためであった。さいわいいっしょに来た医者にみてもらい注射をしたら落ち着いた。

やっと兵舎生活が終わって、貨物列車に乗って、しかもその貨物列車が中国人に略奪されるので戸を全部しめてある。放尿はなかなかできない。三時間位でコロ島についた。そこからいよいよ7月20日、アメリカ貨物船リバティ型に乗って一路舞鶴に向かって出発した。船上でも色々と苦しい事がつづいた。なにしろ貨物船なのでねる所がない。その上いっぱいつめこんだので全員が横になれない。私達は横になったが、父はずっとよりかかったままだった。食べものはコーリャンにやさい少々、サバの肉少々が入った、おかゆとは言えぬぞう水と言ったほうが正しい。そのため栄養失調で三人位死んだ。その時は本土までもっていくとくさるので水葬をした。船はそのまわりを ぼおーー ぼおーー と、きてきをならしてまわる。乗船者は水葬者を見送る。それで水葬は終わる。なにしろ暑いのですこしもじっとしていられない位だ。わたしのおしめは海水で洗った。こういう事が三日間続いた。やっと日本についた。

記念碑@葫蘆島
記念碑@葫蘆島
葫蘆島の港
葫蘆島の港

腸チフス罹患

舞鶴で一泊して、いよいよ父母の実家のある長野に向かう。宿泊所では久しぶりの風呂に入って旅のあかを落とした。つぎの朝はさっそく駅へ向かった。途中、新しいトマトがたくさん有り、帰国の苦しい旅で新鮮な野菜にうえていたのでさっそく買ってかぶりついた。舞鶴駅から名古屋に向かって汽車は出発した。名古屋駅ではもう一度風呂へ入り、一泊して朝、いよいよたい望の長野へ向かった。長野駅についてから父の実家に行った。そこでは便りが全々とどかないので、行った時は非常におどろいただろう。

私達はほかに住む家が無いので、一応そこで落ちつくことになった。と、半年ばかりして私の兄が元気がなくなってきた。ちょっと遊びにいっては、すぐもどってきてごろごろ横になる。きっとだるいのだろう。母はなにか悪い病気の前ぶれではないかと心配した。間もなくそれがほんとうになった。兄は急に高い熱が出たのだ。医者に診察してもらった所、それは腸チブスとわかった。すぐ入院だ。しかしほんとうは市の病院へ入るのだが、そこへ行くと設備も医者も悪いので死んでしまうおそれがあるので、無理して日赤に入院させた。兄の病態は思ったより悪かった。母は看護のため病院にいた。私はまだ乳をのんでいたので、のむ時だけ母に待合室に来てもらってのんだ。所が、どこから感染したか私にもうつってしまったらしい。兄の発病後一週間ぐらいで私は発熱した。すぐ日赤で診察した所、案のじょう腸チブスであった。すぐ私は兄のとなりの所に入院した。なにしろ私は満一年と五ヶ月ぐらいしかなっていないし、兄の病態は非常に重いので、母はどちらかは取られるとかくごしていたらしい。私はまだ小さい時だったので良かったが、兄はもう五才であったので、毎日太いリンゲルをやり、ほかにも注射をたくさんやったので苦しかっただろう。それから一ヶ月ぐらいで私達は奇跡的に助かった。私は兄より一週間ぐらいしてから退院した。兄はあまり重かったのでこしがぬけてたてなかったという。母は毎日大きなにんにくをたべていたのでうつらずにすんだ。その時こそはにんにくのききめをはっきり知った。私達は金が一文もないので、父が事務長にだんぱんに行って引あげ者のことを話し、入院費はただにしてもらった。兄の退院後は、栄養を取らなければいけないので、父母達は配給のとうもろこしの粉等を食べ、兄にはその頃食べたこともない白米を食べさせた。そのような父母の苦労で私達の病気もすっかり良くなって、兄は学校へ行くようになった。

引揚者住宅入居

それから二ヶ月、引揚者のアパートのある長野市居町に引っこすことになった。私達は一年間世話になった父の実家に厚く礼をいってうつった。そこではアパートはいかれてるながらも、まずしいながらも、親子そろった楽しい生活がはじまった。父もやっと職業が見つかった。工業学校の恩師に世話をしてもらって、フォノモーター作りを始めたのだ。だが依然として生活は苦しかった。兄は引っこしたらすぐに鍋屋田(なべやた)小学校に転校した。

昭和二十三年七月六日、妹が生まれた。目方は八百匁ぐらいで重い方だそうだ。

良くおぼえていない。多分四才ぐらいだろう。夏のある晴れた日、兄は野球かなんかしていた。私は下の魚屋の子供等といっしょに、どこだかわからないが、まわりはたんぼで真中にはすの生えている池がある、こんな遠い所へは一度も来たことがないのでうれしさに飛びまわった。私達はとんぼをとりに来たのだった。収穫がどの位あったかはおぼえていない。

もうもうとほこりがたっている。ここは私の前のアパートの廊下である。私は同じとし位の友達とパッチン(「めんこ」のこと)をやっているのだ。私は生まれつき勝負事が弱く、いつでもまけてしまう。それでもこりずに何回でもやるのである。

私のいつも遊ぶ所は居町公園である。そこは私のいる居町アパートに近く、木もたくさん植わってい、私の絶好の遊び場所だった。と言うのは、私が木登りがとても好きだったからだ。しかし、それもやめなくてはならない時が来た。それは私が公園のある桜木に登っていた所、ふとしたはずみに五メートルぐらいの所から落ちたのだ。私は腰がぬけたらしくたてなくなってしまった。ぼーとしてしばらくそこにすわったままでいると、運悪く父の知り合いの人が通った。その人はすぐ母に知らせたらしく、私がしばらくして立ってぶらぶらしていると、母が青くなって飛んで来た。それからは母に木登りはやめなさいと言われ、自分でも少々こわくなったのであまり登らなくなった。又、その横の川では良く落っこちて母にしかられたりした。

そのころ父は、フォノモーター製作がうまくいかなくなって、ついにつぶれてしまった。昭和二十五年の春、父は職業をさがしに東京に行った。さいわい友人が東京の武蔵野市にいたので、そこの庭にバラックを立て自炊してくらしていた。職業の方は、父の友人の紹介でビクターオート株式会社という会社に入社して私達に仕送りするようになった。私達の所へは月に一回帰って来た。

 

高齢スキーヤーの必須安全対策

高齢スキーヤーの一般的なウィークポイント;
①転倒は著しく体力を消耗させる
②転倒による頭部の打撃は脳出血を起こしやすい
③筋力が弱い⇒バランスを崩すと転倒する、平地で転倒すると介助がないと起き上がれない
④衝突は大事に至りやすい
⑤注意力が散漫になる

如上を踏まえると、高齢スキーヤーは以下の安全対策が必須となる;
1.必ずヘルメットを着用する(頭部の保温効果が大きく脳卒中のリスクが下がる)
2.バランスを確保しやすいスピードを保つ⇒高速滑走厳禁、急斜面・こぶ斜面滑降厳禁
3.バランスを確保しやすい滑降姿勢を保つ⇒腿を立て、上半身のみによる重心移動を容易にする
4.滑降しやすい雪質を選ぶ⇒悪雪(湿雪、アイスバーン)滑降厳禁
5.疲れを感じる前にあがる
6.必ずグループで行動する

“死”について

高校時代の友人と「死」をテーマにした対話の抜粋

私の父親は私が大学院生の頃に61歳で亡くなりました。胃がんが分かってから約半年しか生きられなかったのですが、がん告知を受けなかった為、生への希望を持ち続けて闘ったので本当に壮絶な死であったと思います。私はすぐ傍で毎日看病していたので、こういう死に方はしたくないと思いました。
母親はもともと心臓が悪く3回も救急車で緊急入院をするほどだったのですが、72歳になってやっと手術をする決心をしました。ところが、その手術日の前日に突如発作を起こして亡くなってしまいました。母親も病弱の期間が数十年続いていたのですが、生に対する執着はかなりのものであったように思います。
結局、私の場合両親の死から自分の死に対する心構えを学ぶことが出来ませんでした。

以下は浅学な私の屁理屈以外の何物でもないと思いますが、自身の死への対し方について幾つかのパターンに分類してみました;

A.自分の死を受け入れられないタイプ;
秦の始皇帝が不老長寿の薬を求めたのも、大きな墳墓を作ろうとするのも皆このタイプに分類できると思います。また、死の恐怖から逃れるために遊びに熱中する人も同じタイプではないかと思われます。こうした人は恐らく“宴の後”のつらさをいつも経験しているのかもしれません。

B.自分の死を受け入れることが出来るタイプ;
1.死は全くの無に帰することを受け入れられるタイプ;
織田信長は恐らくこのタイプだったのではないかと思います。桶狭間の戦いの前の幸若舞“敦盛”のイメージですね。般若心経が言っているのも結局こういうことかな。私にはちょっと無理な感じです

2.死後の世界を信じられるタイプ;
宗教、特に新興宗教を信じる人はこのタイプになるとおもいます。先日私の従姉夫妻が相次いで亡くなったのですが、彼らの宗派は浄土宗なので、お寺さんが遺族に言っていたことは死=浄土ということでした。仏教の宗派が数多くある中で、浄土真宗と日蓮宗系が未だにアクティブな宗教として機能しているのもこのシンプルさがあるからだと思います。また自爆を厭わないイスラム教のテロリストもこのタイプでしょう。でも私にはこれもちょっと無理な感じです

3.肉体は朽ち果てても人々の心の中に生き続けることで死を受け入れるタイプ;
肉親を失った直後、こうしたことで喪失感を乗り越える人は多いと思います。実は私も親が亡くなった後はこれを信じようと努力していました

4.親から子、孫にDNAが引き継がれることで、自分の命が続くと信じられるタイプ;
まだ溌剌として働いていた若い頃には、子供との関係において中々こういう感覚は得られなかったのですが、老齢に至り孫と遊んでいる時などふと自分は何時死んでもいいなと思う瞬間があります。武士の世界では家を守ることが一番で、自分の命は家の為にあるということでしょうが、恐らくこれも同じような感覚なのだと思います。最近、特攻隊に係る本をよく読むのですが、彼らの遺書にあるのは、国という命を繋ぐため、あるいは残してきた親兄弟の命の為に死ぬという感覚がある様に感じました。今の私はこの感覚に近づこうとしているのかもしれません。