「麻山事件」を読んで

中村雪子 著 / 草思社

-著者(中村雪子氏)紹介-

1923年長野県に生まれる。長野県立岡谷高等女学校卒業。1939年渡満、1946年引揚。1959年より名古屋女性史研究会、1979年より東海近代史研究会所属。「麻山事件」に関しては13年の歳月をかけて生存者から聞き取りを行い、1983年にこの本を上梓した。

-麻山(マサン)事件とは-

1945年8月9日、突如ソ満国境を越えて侵入してきたソ連軍に追われ逃避行途上にあった「哈達河(ハタホ)開拓団」の一団が8月12日麻山付近でソ連軍の包囲攻撃を受け、婦女子四百数十名が自決した事件。この時介錯は十数名の男子団員により小銃を用いて行われた。介錯を行った男子団員は、その後ソ連軍陣地に切り込みを行ったが圧倒的なソ連軍の前で目的を果たさず、一部団員が生きて日本に帰ることになった事件。

-はじめに-

私たち家族は満州からの引揚者です。幼い頃、中国残留孤児帰国の報道を見ながら母が涙を流していた事を今でも思い出します。私たち家族は終戦時奉天(現在の瀋陽)に住んで居た為、凡そ一年後に家族一緒に引揚げることができました(詳しくは当ブログの“生い立ちの記”参照)。しかし、満州北部に住んでいた(主に「満蒙開拓団」)の人達は、8月9日のソ連軍の侵攻と8月15日のポツダム宣言受諾との間の時間のズレから我々以上の苦難を味わった事は両親からそれとなく聞いていました。歴史を辿る勉強を続けている内に、最近本書に出会い、読み進む内に“母の涙”の本当の理由が分かってきました。終戦時、在外邦人は凡そ650万人(武装解除されたた軍人も含む)居たと言われますが、私の親も含め戦中・戦後の多くの悲惨な体験は語られないことが多いといいます。恐らく外地に居た人々が、結果として国策に協力していたことへの罪悪感や、引き上げ後内地の人々から受けた心無い言葉、あるいは人倫に悖る余りにも悲惨な体験、などが語ることを躊躇わせたからかも知れません。もうすぐ戦争を体験してきた人々が全て鬼籍に入ってしまう今、奇しくも「憲法改正」や「集団的自衛権」の議論が盛んに行われています。読むことがどんなに辛くても、こうした悲惨な歴史的な事実も正しく知っておく必要があると思います。

-満蒙開拓団について-

1929年、ニューヨーク株式市場の大暴落に端を発した世界恐慌により日本にも深刻な不況が襲い大量に都市労働者が失業しました。またその後2年間、北部日本を襲った冷害ににより農民の極度の窮乏が進みました(年若い農家の娘が売春窟に売られるなど)。こうした厳しい社会情勢を背景にして、国際的な反発を顧みず1932年に満州国が建国されました。建国とともに、加藤完治らの提唱する満州移民(満蒙開拓団)が脚光を浴びて登場してきました。同じ年の10月には、在郷軍人を中心として編成された武装移民団433名が満州に入植しました。

1936年には関東軍主催の第二回移民会議によって「満州農業移民百万戸移住計画(20年間に百万戸、一戸当たり5人として五百万人を入植させるという途方もない計画)」が決議され、広田内閣によって重要国策として決定されました。関東軍が主導したことで分かる様に、五百万人の日本人の移住(満州国人口の1割)によって、国防上の生命線を守るという強い軍事目的がこの計画の裏にはありました。これだけの大規模な移民を実現するためには、それまでの希望者ベースの開拓民募集という方法から、町村単位で一定戸数を集め、満州にその分村を建設させるという「分村移民」が原則となりました。また、不要、不急産業の転・廃業による「職業開拓民」や、高等小学校卒業生を郡、府県単位にまとめた「郷土部隊」、の様な仕組みも取り入れられました。因みに私の両親の出身地である長野県が最も多く開拓民となって満州に移住しました。開拓団が移住した場所は以下の地図(本の見開きページ)をご覧ください;

開拓団の入植地区とソ連侵攻後の避難経路
開拓団の入植地区とソ連侵攻後の避難経路

こうして入植した「満蒙開拓団」は、日本とは全く異なる気候や土壌に悩まされながらも、土着農民の農具を取り入れたり、様々な工夫を行うことにより一定程度の農業生産性を上げるようになっていきました。また、これだけの大規模な移民では土着農民の農地を侵食することも発生し、当初は軋轢が起こったものの土地買い取り制度の導入などによって一応の住み分けは出来るようになっていきました。一戸当たりの農地面積が非常に広かった(10~20町歩)ことから小作制度(小作人:満州人、朝鮮人)も取り入れられました。

-哈達河(ハタホ)開拓団-

麻山事件を起こした開拓団は1935年以降、以下の地図にある様に、満州北東部の虎林線(林口と虎頭を結ぶ鉄道)の真ん中あたりににある東海駅近くに展開していました。

虎林線沿線図
虎林線・沿線図

また、この開拓団部落の見取り図は以下の通りです;

哈達河開拓団部落
哈達河開拓団部落

入植2年後の1937年における哈達河開拓団の概要は以下の通りです;
所在地:満州国東安省鶏寧県
在籍者:178名(出身都道府県/岩手、宮城、福島、新潟、長野、山梨、栃木、埼玉、茨城、東京、千葉、神奈川、静岡、徳島、高知、香川、佐賀、長崎、熊本、宮崎、大分、鹿児島;尚、逃避行を始める1945年8月には少なくとも1300人以上に膨れ上がっていたと思われる)
団長:貝沼洋二(麻山にて自決。東京出身、北海道大学卒、開拓団経営を学び哈達河開拓団結成時から団長。公平無私、古武士の様な風格を持っていた)
幹部:農事指導員、警備指導員、畜産指導員、保険指導員
その他麻山事件に関わる特記すべき構成員;
1.笛田道雄:生還し麻山事件の詳細を証言した。1935年、哈達河開拓団の先遣隊として渡満。北海道八雲出身
2.遠藤久義:生還し麻山事件の詳細を証言した。長野県小県郡浦里村(現在の上田市)出身
3.福地靖:保険指導員(医師)。逃避行中に行方不明。麻山事件発生時、後続部隊におり部隊員に逃避行を勧めた。

-ソ連軍侵攻前の状況-

1943年西太平洋から始まった米軍の反攻により日本が徐々に敗戦に向かっている情報は、戦災の及ばなかった満州にも確実に伝わっていました。特に新聞などを通じて英雄的に語られている“玉砕”などの情報(アッツ島玉砕/1943年5月、サイパン島玉砕戦/1944年6月、硫黄島玉砕/1945年2月、沖縄戦/1945年3月~6月)や、帝国軍人必携の「戦陣訓」にある、“生きて虜囚の辱めを受けるな”の一節は、開拓団の婦女子に至るまで周知のことであったと思われる。一方この様な厳しい戦況にあっても一般の在満邦人は、精強な関東軍がおり、日ソ不可侵条約で守られている満州には当面戦火は及ばないと考えていました。

しかし実際は、南方の戦線に兵力を割愛してきた関東軍は兵員数、装備共に相当弱体化しておりました。また日ソ不可侵条約についても日本のあずかりしらぬヤルタ協定(1945年2月)により日本への参戦を約束していたソ連は、条約の延長交渉(1946年4月に期限を迎える)に応じていませんでした。1946年5月のドイツ降伏前後からソ満国境に膨大な兵力を移動させている情報は関東軍もキャッチしており、ソ連軍との戦争が時間の問題であったことは軍関係者にとっては周知の事実だったようです。因みに、関東軍は1945年に入ったころからソ連軍の侵攻に備えて「一部兵力による北満での玉砕的敢闘」を前提に、主力は後退して「新京(長春)-図們-大連」を結ぶ三角地帯(最初の図面で黄色の線で囲った部分)」の山岳部で長期持久戦を行うという作戦計画を秘かに立て、既に北満からの兵力撤退を開始していました。7月に入るとこの計画に沿って全満州から大半の男性を招集(所謂「根こそぎ動員」)しました。この結果開拓団の男性は殆ど招集され、開拓部落に残ったのは婦女子と体力の無い男性のみとなっていました。すなわちソ連軍侵攻の開始前から、開拓団の人々はいわば“棄民”になっていたと言えると思います。これは軍人と行動を共にしたことによる悲劇であったサイパンや沖縄とは事情が異なるということができます。

-ソ連軍の侵攻と開拓団の逃避行-

1945年8月9日午前零時、ソ連軍は圧倒的な兵力(兵員:約160万人、火砲、等:2万6千、戦車・自走車:5千5百両、航空機:約3千4百機)を投入して6方面から満州に侵攻を開始しました。既に関東軍の防空体制が皆無となっていた為、侵攻と同時に航空機による都市爆撃(新京/長春)、鉄道沿線の機銃による波状攻撃が始まっていました。その為県から鶏寧への引揚命令が出ましたが、逃避行に力を貸すはずの鉄道は、国境の東安方面に向かう路線が関東軍の命令により平陽駅で止められ(虎林線・沿線図参照)、哈達河開拓団部落の人は利用できませんでした。しかも、殆どの開拓団家族には男手がなく、また多くの乳幼児(5人程度は普通)を抱え、徒歩以外の移動手段は馬車のみという想像を絶する逃避行が始まりました

鉄道沿線に沿って逃避行を続ける開拓団家族に対して、航空機による容赦ない機銃掃射があり、この段階で多くの人が命を落としました。やっと辿り着いた鶏寧の街も多くの建物は爆撃により燃え盛っていました。8月11日午後から豪雨が続き、逃避する道路は満州名物の“泥濘”となり、頼みの綱の馬車は使い物にならなくなりました。また北満の夜の雨は8月であっても骨身に染みるほどで、馬車を失った家族は雨除けの衣類とてない状況となり体力の無い乳飲み子から先に命を落としてゆき、遺体は路傍に置いていかざるを得ませんでした。この頃、撤退する関東軍が逃避行を続ける開拓団を追い越してゆき、逃避する開拓団が最後尾になる状況が現出していました。

8月12日の午後、麻山付近で前方に強力な火力を持ったソ連軍が出現、後方からも機械化部隊が接近しており、正に挟み撃ちの状況になってしまいました。ここで関東軍から「・・・開拓団の男子は速やかに前進し軍に協力すること。・・・婦女子は直ちに退避せよ」との指示がありました。この時、逃避行を続けている哈達河開拓団は三つの集団に分かれており、先頭集団には遠藤久義など6~7名の男子と60~70名の婦女子が加わっていました。中央集団には貝沼洋二団長の他婦女子中心の400名余がおり、「麻山谷」と呼ばれる600坪ほどの窪地に退避していました。そこから1キロメートル程後方の高粱畑に笛田道雄福地靖のいる後尾集団がいました。

-麻山事件-

先頭集団は、周辺の山に布陣したソ連軍から突然猛烈な銃・砲撃を受けました。トウモロコシ畑には逃げ惑う婦女子の悲痛な叫びと断末魔のうめき声が満ち溢れ、この中で多くの死傷者が発生しました。最後の時を迎えたことを悟った男子団員が、生き残っている婦女子の「処置(苦しまない様に殺害すること)」を行った後、遠藤久義ほか1名は、戦場から脱出し、麻山谷の貝沼洋二団長に婦女子全員自決の報告を行いました。

この時点で、前方に展開していた関東軍はソ連軍との戦闘に負けて牡丹江に向けて撤退を始めていました(後方の敵からの攻撃を避けるため、麻山付近で山中に入る)。貝沼洋二団長は、後退してくる関東軍に対して、「せめて一個小隊の兵でもよい、安全地帯まで護衛をつけてもらえないだろうか」と懇願したが、拒絶されてしまいました。

こうした状況から、中央集団貝沼洋二団長は、全員まとまってこの危機を脱することは不可能と判断し、一緒にいた開拓団員全員に向かって二つの対処案を提示しました;
1.バラバラになって脱出する
2.生きるも死ぬも最後まで行動を共にする
嗚咽と慟哭が津波の様に広がるなか、まず女性の方から「私たちを殺してください」、男性たちから「自決だ」、「日本人らしく死のう」、「沖縄の例にならえ」、「死んで護国の鬼となるんだ」の言葉が発せられました。団員たちはそれまで肌身離さず携行していた写真などを燃やし、子供たちには晴れ着を着せ、大人たちは新しい下着に着替え、白鉢巻、白襷をしめ、同じ部落の者同士が円陣を組んで水盃を交わしました。貝沼洋二団長は男性団員による斬込み隊に後事を託し、最初全員の前でピストルで自決を遂げました。残りの婦女子も後を追い銃による覚悟の自決(銃を携行している男子団員による“処置”)を遂げました(但し3日後に7歳~10歳の子供7人は現地の人に助け出され生還しました)。

後尾集団では前方から聞こえる銃・砲撃の音などで異変を察知し偵察を行ったところ、中央集団の貝沼洋二団長と婦女子全員自決の事実を知ることとなりました。男性隊員たちは、「サイパンにならえ、沖縄に続くんだ、、」と絶望的な興奮に陥り、女性たちも自決を心に言い聞かせていた時、一人沈黙を保っていた福地医師が立ち上がり以下の様に語りだしました;
我々は既に敵の手中に落ちた。斬り込むもよいし、自決もよいが、勝つ見通しの無い戦いをするのが果してこの際とるべき最良の道であろうか。我々は哈達崗の大地で林口防衛の任務を命ぜられている。死中にだって活路はある筈だ。生きてことの仔細を中央に連絡すべき義務もある。生き抜く努力をすべきではないのか」、また地図と磁石を取り出し、「この裏手の山々の尾根を西に伝って行くと林口の裏手に出る、、、」、福地医師のこの言葉に男たちは、「だが、この大勢の婦女子が、この山中の行軍に従い歩くことができるかどうか。足手まといにならないかどうか」と発言した。これに対し女性たちから、「私たちを連れて行って下さい。決して男の人たちの足手まといにはなりません」。こうして後尾集団の大半が山中の行軍を選択しました。

一方、同じ後尾集団に居た笛田道夫が所属する武蔵野部落の一団は、中央集団自決の報に接し女性たちの方から、「私たちはここまで連れてきてもらっただけで充分です」。「笛田さんは心おきなく林口防衛の任務についてください」、「ご縁があればまたあの世で会いましょう」、「ありがとうございました」、「元気で頑張ってください」と言って山中の行軍を選択せず自決(24名)の道を選びました。

後尾集団で山中の行軍を選んだ150名~155名は、8月15日の終戦も知らないままに40日にわたって山中を彷徨しました。この行軍は悲惨を極め、引揚者として祖国の土を踏むことが出来た人は20名~25名、中国に残留し中国人と結婚、乃至養子となったものが約10名。福地靖医師は山中に入って4日目に行方不明となっていました。行軍を選択した人達は、長い行軍の途中でソ連軍の機銃掃射、飢え、愛する者の無残な死(あるいは“処置”)、やむにやまれず遺体から衣服、靴を剥ぎ取り着用するなど地獄の体験をすることとなり、からくも生き残った人達にも終生消えない心の傷を残すこととなりました。また山中彷徨の際、関東軍(撤退と称していたものの実際は統制を失った敗残兵)と出会う機会もありましたが、彼らの庇護を受けることは一切ありませんでした。

-その後、、、-

8月15日以降もソ連軍占領地域では、略奪、暴行、凌辱、が相次ぎ、この中で殺害されたり、自決する人が数多く出ました。
一方中国軍占領地域では、終戦直前の8月14日、蒋介石の以下の命令(重慶からのラジオ放送)が軍当局や各地の治安維持会の日本人に対する態度に大きな影響を与えました;
「暴を以て暴に報ゆるなかれ。我々は日本軍閥を敵とするが日本人民は決して敵と認めない

10月中旬~引揚が始まる翌年5月までの厳冬の期間で病没した人は13万人を数え、終戦以降全満州での病没者数17万人の実に76%に及びました。

生き残った遠藤久義は引揚前に麻山の地を訪れ、自身が“処置”を行った人の遺骨を収集し日本に持ち帰りました。

応召中の弟(シベリア抑留中に病没)の妻子6名を麻山で失ったことを知った薮崎順太郎は、1949年「参議院・在外同胞引揚委員会」に実情調査を提訴しました。この提訴内容を毎日新聞が以下の様な記事にしました;
「・・・牡丹江に向け徹夜で行軍、12日頃麻山に達したとき満州治安軍の反乱部隊が襲来、前方にソ連戦車隊があり進退きわまる状況になった団長貝沼洋二氏(東京出身)は最悪の事態に陥ったと推定し団員の壮年男子十数名と協議し“婦女子を敵の手で辱められるより自決せよ”と同日午後四時半ごろから数時間にわたって男子数十名が銃剣をもって女子供を突き殺した”。これら壮年男子はその過半が新京、ハルビンへ逃れあるいはシベリアで収容されて帰還している」

-私の読後感

戦争での死や苦しみは、それを体験した者にしかその真実は語れないことを痛感しました。13年間に亘って生き残った人達から証言を集め本書に纏めた著者に対して敬意を払いたいと思います。一方、終戦まで軍の追従記事を書いていた新聞が、一転して戦争中に起きた常識では考えられない色々な出来事(自決、婦女子の“処置”、特攻隊、虐殺事件、、)に、短絡的に加害者を当て嵌めて行くことは、正しい歴史観に基づいているとは思えません。

この事件を振り返ってみると、悲劇的な結末を生んだ背景には以下の様な状況があったと考えられます;
*軍の最大の使命が国民の生命の保護にある事を忘れていた事
*「戦陣訓」の一節:“生きて虜囚の辱めをうけるな”が国民一般にも徹底されていた事
*「アッツ島玉砕」、「サイパン島玉砕」、「硫黄島玉砕」、「沖縄戦の悲劇」、「特攻隊」、、等を報道機関は英雄的に伝えていたこと

振り返って現在にこの教訓が生かされているかどうか、きちんと検証することがこの事件で亡くなった多くの方への供養になると思いました。

以上