憲法についての私の見解


-先の戦争に関わる私の歴史観-

 我々の世代は、先の戦争で悲惨な体験をしてきた両親や、小・中学校の先生から徹底的な平和教育を受けてきました。その中心的な役割を担ってきたのが所謂日本の平和憲法です。また我々の世代の多感期にあっては、世界情勢が激変し小・中学校時代に受けてきたこうした平和教育と現実政治とのギャップに日々悩んできたことがあります。従って我々は他の世代の人々に対して、現行憲法についての歴史や問題点を論じ、発信する資格があると思っています。

満州事変から太平洋戦争に至る歴史をつぶさに学ぶにつれて、「軍国主義」がこの戦争の唯一の原因であり、この軍国主義を永久に葬るために「平和憲法」があるという考えは余りに単純な考えであることが分かってきました。軍民合わせて310万人もの死者を出した先の戦争の責任は、軍部や軍国主義者だけでなく、被害者であるはずの国民一人一人にもその責任があると考える方が自然です。先の戦争の当事者であった国々(連合国だけでなく、枢軸国も)は、まがりなりにも民主的な体制を整えており、戦争を始める前には国民の大多数が開戦を支持していたことは歴史的な事実です。民主主義のリーダーを標榜する米国ですら9.11同時多発テロ以降アフガニスタン、イラクとの泥沼の戦争に突き進んでいった時も、始める時点では国民の大多数の支持が得られていました。ある人はマスコミが悪いと言いますが、マスコミの論調に同調してしまうということは、とりもなおさず自身の判断力が劣っていたということを告白している様なものです。客観的な情報を集める努力を惜しまず、これらを基に自身の責任で判断していくことが民主国家の国民として求められていることだと私は考えます。

昨今、最も沸騰した議論が行われた政治的課題は「新安保法制」だと思います。この議論の中で一部の党派が、新安保法制は「戦争法案」だというスローガンで大衆を扇動しておりましたが、政治手法としては先の戦争で行われていた政治的プロパガンダと同質であるだけでなく、日本人が陥りやすい短絡的な思考を助長するという意味で大変危険に感じました。また、憲法学者を集めて意見を聞いた結果、「新安保法制」は憲法違反であるという意見が多かったことで、マスコミがキャンペーンを張り国会周辺が騒がしくなったのは、2.26事件以降の戦前・戦中のマスコミの姿勢とこれに踊らされて好戦的となった一般大衆を彷彿とさせ大変危険に感じました。

-現行憲法を素直に読むと-

 そもそも憲法の様な最も基本的な法律が、学者の解釈を必要とするほど難しくていいのでしょうか。ましてや、憲法条文の解釈を学者や政治家に委ねていて民主国家の国民といえるのでしょうか。我々一人一人が自身で憲法を読み、もっとシンプルに理解する必要があると思います。以下は現行憲法についての私の見解です;

憲法前文には以下の様な国際関係に関わる認識が書かれています;

「・・・日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。 ・・・」

また憲法9条には以下の様に「戦争の放棄」と「戦力の不保持、交戦権の放棄」が明確に書かれています;

「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久に放棄する

第2項;

「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない国の交戦権は、これを認めない

この条文を見て現在の陸・海・空の自衛隊が合憲と言えるでしょうか。私はこの条文を改正しない限り自衛隊の存在そのものが違憲であると思います

現行憲法は、GHQ支配下のもと所謂「マッカーサー草案」をベースに日本側の専門家と検討を重ねたうえで、1946年11月に公布され、翌年5月3日に施行されました。この時点では、交戦国である連合国軍、及び戦争によって過酷な被害を被った東南アジアの国々にとって、直接憎しみの対象となる日本軍を“永久に”葬ることが、この条文の目的であったことは間違いないと思います。また、1945年10月24日に誕生した「国際連合」による集団的安全保障により戦力を持たない国の正義は守られるという期待があったものとも考えられます。

国連憲章第51条には「集団的安全保障」について以下の様に規定されています;

「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。・・・」

(注)日本は1952年に国連加盟を申請したものの、冷戦下にあってソ連を中心とする社会主義国の反対にあい加盟できなかった。加盟できたのは1956年日ソ国交回復の後であった。

新憲法に関わる国会討論の場で、1946年6月26日に当時の吉田茂首相は;

「戦争放棄に関する本案の規定は、直接に自衛権を否定はして居りませんが、第9条第2項に於いて一切の軍備と交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、又交戦権も放棄したものであります」

と、明確に述べています。

-冷戦下に於ける「自衛権」の拡大解釈への道-

しかし国際情勢が激変する中で、吉田茂首相は1950年1月28日の国会答弁で;

「いやしくも国が独立を回復する以上は、自衛権の存在することは明らかであって、その自衛権が、ただ武力によらざる自衛権を日本は持つということは、これは明瞭であります(原文のママ)」

と述べており、自衛権に関わるニュアンスの違いが表れています。

終戦後1950年までの5年間に日本を取り巻く国際情勢が大きく変わりました。ドイツの分割統治に代表されるようにソ連邦を盟主とする社会主義諸国とアメリカを盟主とする自由主義諸国との間に「冷戦」が始まり、アジアでは大戦後の秩序を変える為の戦争が始まっていました。

因みに、中国本土では1946年6月、毛沢東に指導された中国共産党軍と蒋介石に率いられた国民党軍との間に内戦が再発し1949年には国民党軍を台湾に追いやり中華人民共和国が成立しました(同年10月1日)、

またベトナムでは日本の降伏後フランスの植民地に戻ったものの、すぐにホーチミンに指導された共産軍(ベトミン)が独立戦争を始め、1954年5月ディエンビエンフーの戦いでフランスには勝利したものの、米軍が支援する南ベトナムとの間で1970年まで続く長い戦争が始まっておりました。

一方朝鮮半島では1950年6月に金日成に指導された北朝鮮軍が突然38度線を突破し、破竹の勢いで韓国軍を圧倒して釜山に迫る状況になりましたが、その年の9月米軍を中心とする国連軍が仁川上陸作戦を決行し体勢を逆転させました。しかし北朝鮮軍が劣勢に落ち入ると、成立したばかりの中華人民共和国軍(義勇軍と称していた)が突如参戦し、戦局は38度線を境に膠着状態になりました。1953年7月休戦協定が成立したものの現在に至るまで緊張状態が続いています。

こうした緊迫したアジア情勢の中で、GHQの命令で新憲法の「戦力の不保持」の概念に抵触する可能性のある「警察予備隊」を設立(1950年8月)し、更にこれを明らかに武装組織と見做しうる「保安隊」に改変しました(1952年10月)。これらの隊員には旧日本軍の将兵が多く雇用されていました。

【日本の主権回復】

1951年9月サンフランシスコに於いて連合国との間に平和条約の調印が行われ、翌年4月に発効し日本の主権は回復しました。しかし冷戦の影響でソ連を中心とする社会主義の諸国はこの条約に署名をしていません。また、米国との間には平和条約調印と同時に二国間で「日米安全保障条約(以下“安保条約”)」が締結され、米国が日本の防衛の責任を負うことと、米軍の日本駐留を認めることが決められました。

一般にはあまり知られていないことですが、1954年3月には「日米相互防衛援助条約」が締結され、日本は自国の防衛力を強化していく義務が課せられました。これに伴い、同年6月「保安隊」は陸・海・空の「自衛隊」に改組されることになりました。

憲法を改正することなく実質的に軍隊と変わらない「自衛隊」を保持することは、当然国会での議論を呼び、1954年12月22日衆議院予算委員会で大村精一防衛庁長官が概略以下の様な趣旨の発言をしています;

* 憲法は自衛権を否定していない

* 憲法は戦争を放棄しているが、自衛の為の“抗争”は放棄していない

* 「戦争、武力による威嚇、武力の行使」を放棄しているのは「国際紛争を解決する手段としてはということ。他国から武力攻撃があった場合、武力攻撃そのものを阻止することは、自己防衛そのものであって、国際紛争を解決することとは本質的に異なる。従って自国に対して武力攻撃が加えられた場合、国土を防衛する手段として武力を行使することは憲法に違反しない

しかし、「国際紛争を解決する為」以外の目的で「他国からの武力攻撃」を受けることは常識的にあり得るでしょうか。これはどう考えても私には詭弁としか思えません。

砂川事件

1957年7月立川基地内に基地拡張反対派が立ち入ったとして、安保条約に基づく刑事特別法違反の疑いで7人が逮捕されました。被告人は安保条約そのものが憲法違反であるとして無罪を主張、一審の東京地裁では被告人の主張を認め全員無罪の判決を下しています。しかし1959年12月、最高裁では以下の判断のもと地裁判決を破棄し、差し戻しました(差し戻し審判決:罰金2千円);

* 憲法9条は安保条約を禁ずるものではない

* 裁判所が条約について「違憲審査権」を行使するのは明白に違憲であるものに限る

* 米軍の駐留は、憲法前文、第9条、第98条第2項(条約の遵守義務)に適合する

この最高裁判決では、自衛隊の存在が合憲か違憲かの判断はしていません。また、安保条約に基づく集団的安全保障は合憲であるという判断を行っています

-国内於ける保革の対立-

アジア諸国の自由主義と社会主義の対立の構図は、国内の「保守」対「革新」の対立にも色濃く反映していました。保守陣営による安保条約体制維持に対する革新陣営による安保条約破棄闘争と反戦運動は、正にこの構図そのものでした。

60年安保闘争

1959年~60年、安保条約に反対する労働者、学生、市民が参加して大規模な反対運動が起こりました。30万人以上が国会を囲み、激しいデモと警官隊との衝突により学生1名の死者(樺美智子さん)を出しました。私の中学時代の出来事ですが、この時の記憶は鮮烈です。しかし新しい安保条約は国会で批准され、岸首相は安保条約の成立を機会に辞任致しました。

この安保闘争では、1955年7月の日本共産党第6回全国協議会(通称“六全協‘)で暴力革命を放棄した共産党から分かれ、1958年に結成された共産主義者同盟(通称“ブント”)のメンバーが全学連を牽引し激しい闘争を繰り広げましたが、安保闘争が終息すると多数の党派に分裂し、この後の過激な学生運動に引き継がれてゆきます。

60年安保闘争
60年安保闘争

ベトナム反戦運動

1965年2月に始まった米軍の“北爆”を契機として、60年安保闘争に参加した知識人(小田実、鶴見俊介、他)を中心メンバーとして組織された無党派の反戦運動です。“ベトナムに平和を! 市民連合(ベ平連)”と称するこのムーブメントは、反戦を旗印に国内外で活発な運動を繰り広げましたが、1973年のパリ和平協定締結に続く米軍のベトナム撤退(1974年)を受け解散しました。

ベ平連のデモ
ベ平連のデモ

70年安保闘争

1960年に締結された新安保条約は期限が10年で、1年前の通告で一方的に破棄できると定めてあり、70年安保闘争とは締結後10年を迎える1970年に安保条約を破棄通告させようした闘争でした。この闘争は大学改革を目指した学生運動(全学連)と結合し、大学封鎖等の戦術が全国の大学に広がってゆきましたが、労働者、市民のレベルには共感が広がらず、70年の期限が迫るにつれ、60年安保後に生まれた“ブント”系の過激な党派(核マル派、中核派、赤軍派、等)に次第にイニシアティブを握られるようになり、条約破棄の通知期限である1970年を過ぎてこの闘争は目標を失い自動消滅致しました。この前後から、より過激になった“ブント”系党派間の争い(内ゲバ)は多くの死者を出す程の激しさとなりました。特に核マル派と中核派の間に起った凄惨な内ゲバはその後も長く続き、その血なまぐさい暴力は一般の人には耐え難いものでした。また赤軍派は1970年の「よど号ハイジャック事件」、1972年2月の「浅間山荘事件」、1972年5月の「テルアビブ空港乱射事件」、1973年の「ドバイ日航機ハイジャック事件」等の一連の大事件を引き起こし、大衆運動からは完全に遊離して行きました。マスコミにも大きく取り上げられたこれらの過激な活動が、結果として終戦後ずっと続いてきた先駆的な学生運動の系譜も完全に断ち切られてしまうことになりました。その後現在に至るまで続く政治に無関心な若者群は、この時代の過激な学生運動の挫折の結果かもしれません。

70年安保闘争_安田講堂の攻防
70年安保闘争_安田講堂の攻防

結局これらの闘争や反戦運動は自民党政権の打倒社会主義的な体制への変革を目指した活動が主になり、結果として自衛隊の違憲性については殆ど語られないままに終りました。

70年安保以降、日本は驚異的な経済発展が続き経済大国になると共に、大きな異論もないままに日本の防衛力は世界の五指に入るまで強化され、平和憲法の精神とは裏腹な強い“軍事力”を持つにいたりました。

-国際情勢の変化に伴う自衛隊任務の変質-

 一方1990年以降の世界は社会主義体制の脆弱化及びそれに続くソ連の崩壊により、それまで国際関係を決めていた冷戦構造が終焉しましたが、イスラム教過激主義の蔓延、国連安全保障理事会でのロシア、中国の拒否権の発動により中東地域、北アフリカ、東ヨーロッパでいつ終わるとも知れない戦乱が続くようになりました。

以下の歴史は、強い“軍事力”を持ってしまった日本が、平和憲法が求める「専守防衛」の枠から外れていく歴史的過程です;

湾岸戦争

1990年8月イラク軍が突如クウェート侵攻し占領後にイラクへの編入を宣言しました。1991年、米軍を中心とした多国籍軍がイラクを攻撃しクウェートを解放しました。日本は自衛隊の派遣はせず、130億ドルもの戦費等の負担を行ったものの、国際社会からは評価されませんでした。“Show the Flag”つまり軍隊の派遣無くして同盟軍とは見做されない現実を味わいました。ただ、1991年4月多国籍軍とイラク軍との間の停戦が発効すると、日本はペルシャ湾での機雷の撤去及び処置(掃海任務)を行うことになりましたが、これはあくまで日本の船舶の安全航行の為の通常業務と位置付けられていました。

PKO任務に伴う自衛隊の海外派遣

国連による平和維持活動に参加する為、1992年の国会(通称“PKO国会”)で「国際連合平和維持活動に対する協力に関する法律/通称“国際平和協力法”乃至“PKO”」を制定しました。以後、南スーダン、東チモール、ハイチ、ゴラン高原等、政情不安が続く(⇔危険の伴う)国々に自衛隊が派遣されており、最早海外に於ける日本の自衛隊のプレゼンスは先進諸国の「軍隊」と何ら変わりがない状態になっています

アフガニスタン侵攻

2001年9月11日(以降“9.11”)、ウサーマ・ビン・ラーディンに率いられたアルカイダにより米国の東部中心都市で同時多発テロが実行され、3,000人以上の死者が出ました。アフガニスタンの90%を実効支配していたタリバン政権にアルカイダのテロ実行犯の引き渡しを求めたものの応じなかった為、同年10月米軍を中心とした有志連合はアフガニスタンの北部同盟と協調して攻撃しタリバン政権を崩壊させました。この侵攻の前には国連安全保障理事会で「このテロ行為は全国家、全人類へ挑戦」という決議(1337号)を得ており、有志連合は国連憲章51条が認めている“集団的自衛権”の発動という立場をとっていましたが、この安保理事会決議には武力行使を行うとは書いていないので“集団的自衛権”発動とは見做せないという意見もありました。

同時多発テロ
同時多発テロ

日本は湾岸戦争を教訓(Show the Flag)に、2001年10月に「テロ対策特別措置法(“テロ特措法”)/2年間の時限立法;その後“新テロ措置法”として継続されましたが2007年に失効」を制定し、海上自衛隊の艦船をインド洋に派遣し、給油活動及びイージス艦によるレーダー支援を行いました。

イラク戦争(第二次湾岸戦争)】

湾岸戦争終結時にイラクに課せられた“大量破壊兵器”廃棄義務違反を理由として2003年3月、米軍を中心とする有志連合がイラクに侵攻しました。正規軍同士の戦闘はこの年に終わったものの、治安維持に向けた作戦に失敗しその後も泥沼化した戦闘が続きました。米軍の全面撤収は2011年末に一応実現したもののシーア派による政権運営が破綻し、イスラム最過激派であるISIS(又はISIL)による地域の支配を許し、現在も激しい戦闘が続いています。また、ISISの浸透は、シリア、北アフリカにも及んでおり、これらの国々からヨーロッパの国々に避難民が押し寄せ、結果としてEU内での左右の対立が深まり戦後営々として築かれてきた民族、宗教の融和は危機に瀕しています。

日本は2003年12月~2009年2月まで自衛隊を派遣しています。これは「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動実施に関する特別措置法(イラク特措法)/4年間の時限立法;2007年年に2年間の延長を行った」に基づくもので、自衛隊の人員規模は約1,000人に達する大規模な派遣(陸上自衛隊はサマーワを基地として約550人、航空自衛隊は輸送任務に約200人、海上自衛隊は輸送艦1隻、護衛艦1隻の乗組員約330人)となりました。国会での論議では自衛隊の活動が戦闘地域か、非戦闘地域かで紛糾したことは記憶に新しいところです。

上記の通り国会での議論を経てここ15年以上に亘って実質的に自衛隊の海外派遣が行われきており、自衛隊の存在に関わる違憲性はともかくとして、その任務を「専守防衛」として最後の歯止めをかけてきたことが、厳しい国際情勢の中でたとえ時限立法とはいえ崩れ去っていったことが分かります。

-新安保法制-

 衆議院で絶対多数を得た第二次安倍内閣では、2015年上記の体制を更に進め、自衛隊の任務を更に拡大した上で恒久法として以下の法律群(新安保法制)を制定しました;

1.国際平和支援法案:自衛隊の海外での他国軍の後方支援

2.自衛隊法改正:在外邦人の救出

3.武力攻撃事態法改正:集団的自衛権行使の要件明記

4.PKO協力法改正:PKO以外の復興支援、及び駆けつけ警護を可能とする

5.重要影響事態法:日本周辺以外での他国軍の後方支援

6.船舶検査活動法改正:重要影響事態における日本周辺以外での船舶検査の実施

7.米軍等行動円滑化法:集団的自衛権を行使する際の他国軍への役務提供追加

8.特定公共施設利用法改正:日本が攻撃された場合、米軍以外の軍にも港湾や飛行場を提供可能にする

9.海上輸送規制法改正:集団的自衛権を行使する際、外国軍用品の海上輸送規制を可能とする

10.捕虜取り扱い法改正:集団的自衛権を行使する際の捕虜の取り扱いを追加

11.国家安全保障会議(NSC)設置法改正:NSCの審議事項に集団的自衛権を行使する事態を追加

冷戦の終結とEUの東欧諸国への拡大で、一時世界は平和に向かって進むかに見えましたが、9.11テロ以降始まった中東での戦争で米国は疲弊し「世界の警察官」としての実力と威信を失う一方で、経済的な成長を遂げた中国が急速に軍事力を拡大し、東シナ海、南シナ海での新たな緊張を生み出しています。また欧州においてもロシアがウクライナに於いて領土的な野心を露わにしている状況が現出しています。シリアでの悲惨な状況を見るまでもなく、今の国際情勢は、最早米国中心の秩序も、国連中心の秩序も期待できない状況になっています。

新安保法制全体を俯瞰すると、もはや自衛隊の違憲性などは何処へやら、集団的自衛権の枠内(国連憲章の枠内ではなく)であれば、起こりうる国際紛争に立法措置無しで自衛隊を運用できるようになると思われます。であれば憲法9条は何の歯止めにもなっていないのではないでしょうか。

一方大統領選挙戦の論戦で見えてくる米国民の意識の変化は、モンロー主義(孤立主義的な外交方針)への回帰も伺えます。安保条約を頼りにしているだけで本当に日本は米国に守ってもらえるのか。また逆に米軍が引き起こす戦争に巻き込まれることにはならないのか。

-自衛隊を国防軍へ-

 如上を踏まえた上で、私の考えは憲法9条を改正し他の国々と同じように国防軍として認めた上で、この実力集団を如何にして戦争の抑止に役立てるかという議論こそ必要なのではないかと思います。

陸上自衛隊
陸上自衛隊
海上自衛隊
海上自衛隊
航空自衛隊
航空自衛隊

-沖縄基地問題の本質-

 本来国際間の条約では一方的に庇護されることはあり得ません。何かを頼れば、何かを譲らねばなりません。沖縄の基地問題もそこに原因があるものと思います。国防軍を持った上で対等の立場で米国との間の安全保障条約を作り直すことが必要です。1902年に結ばれた日英同盟が日露戦争の勝因の一つになっていますが、彼我に大きな国力の違いがあったものの、条約は平等で双務的な内容でした。

-解釈が必要な憲法は道を誤る-

明治憲法(大日本帝国憲法)では「統帥権」が天皇あり;

第11条:“天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス”

これが軍部の独走を許し、敗戦に至ったとよく言われますが、天皇を輔弼する国務大臣にも軍事費(兵員数、装備、等)や外交に関わる決済権限があり;

第55条:“國務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス。凡テ法律勅令其ノ他國務ニ關ル詔勅ハ國務大臣ノ副署ヲ要ス” 

また、帝国議会でも民選の衆議院議員によってチェックをする機能があり、同じ立憲君主国である英国の様に、天皇を頂点とする統治機構でも最善の決断ができるはずでした(現に衆議院議員・斉藤隆夫によって帝国議会で反軍演説が行われている)。しかし、実際には軍事に関しては「統帥権」を盾に取り、実力部隊をもった軍部に全ての判断を委ねる結果となりました。そもそも「統帥権」の定義、運用の基準等が具体性に欠けていたことが軍部の専横を許した訳ですが、国家存亡の危機を乗り切った仲間である明治の元勲達が政治・軍事を牛耳っていた明治時代にはこれで充分であったかもしれませんが、これらの指導者が世代交代した後はうまく機能しませんでした。

-結論-

 このような日本の歴史を踏まえ、憲法改正に当たっては、シンプルで、且つ曲解を生まないような条文にすべきであると考えます。また、改正すべきは9条だけではなく、96条(改正の発議に国会議員の三分の二の賛成を要する)も含めるべきだと考えます。何故なら、憲法は宗教の経典ではないので、改正の為のハードルを徒に高くすることは国民の利益にならないからです。憲法をめぐる国民の意思は国民投票のみによって示されるべきであり、真の平和は、現在の国民の意思によってこそ築かれるべきだと私は考えます

以上