はじめに
3年前の3月に同じタイトルのブログ(“死”について)を書きました。この時は偶々、私の高校時代の親友と「死」についてメールのやり取りをする機会があり、その時の私の「死に対する考え方」を書いてみたものです
それから3年余りの年月を経た今年の4月、1年ほどの闘病生活の後に私の最も近い肉親の一人である妹が亡くなりました。私より3年も若い死は、数十年前の親の早すぎる死に接して感じた不条理を改めて蘇らせることになりました。人間である以上死は避けられないものですが、やはり死は特別なものです
また、避けられない死を前にして、妹の家族が行った数か月に亘る献身的な「看取り」と、死にゆく妹の穏かなさまは、日ごろ死から遠ざかっていた私に大きなショックを与えてくれました
以後、数か月間「死に係る」本を読み、知りえた知識を纏めてみました
最初のニュートン別冊の記事紹介は、主に医学、生理学の見地から死を捉えたものです。雑誌ニュートンの記事にはいつも感心しますが、イラストをうまく使って難しい内容を分かり易く説明しています。記事の全てではなく、生物としての人間の死に関して、どこまで科学的に研究がすすんでいるかを中心に概要を纏めてみました
次はシェリー・ケーガンの講義録の紹介です。この講義は、私の最も苦手とする哲学、倫理学の知識を駆使して、死とは何かについて解説しているものです。論理的な正確さを貫いている為に理解するのに非常に時間がかかりましたが、苦労して読み終えてみるとそれなりに私たちの生き方に対する、何か指針の様なものを与えてくれるような気がしました。内容が多岐にわたりますが、最後の方に多くの紙面を割いて「死に直面しながら生きる」、「自殺」というテーマを扱っています。これは、この講義が、世界中から若き俊英が集まっているイェール大学の学生を対象としていることから、これらの学生に悔いのない人生を送ってもらうことを願ってのことだろうと思いました
尚、筆者のシェリー・ケーガンは魂の存在(⇒人間の魂は永遠)を完全に否定していますので、魂の存在を信じている方は、この段落はスキップしたほういいと思います
三つ目の段落は、私が50年近く前の父の死以降、折に触れ読み返し、心の支えにしてきた「般若心境」の死生観についての簡単な紹介(受け売り?)です。「般若心境」は禅宗系の宗派では必ずと言っていいほど読経の対象になっていますが、日本ではほかにも多くの宗派が存在します。これらの宗派の死生観については勉強していませんので触れていません
最後の段落は、看取りの問題です。亡くなっていく本人が、ともすれば過剰な延命処置を行ってしまう病院での死よりも、自宅での安らかな死を願いつつも、希望通りにならない実態と解決の方向性について書かれている本の紹介です
死とは何か -- 雑誌「Newton」別冊から
この本では、主として「人間」が生物としての「死」を迎えるときの細胞レベルの変化(心の問題は別)を、最新の科学的知見をもとに解説しています;
1.老化のしくみ; --- 割愛します
2.生と死の境界線
(A)生と死;
通常のイメージでは、心停止となった時と考えがちですが、もし血液と酸素を適切な方法で循環させれば、他の臓器や脳は、まだ“生きて”いられます。そう考えると、死は瞬間的に訪れるものではなく「過程」だということができます
(B)心停止;
心拍と呼吸が止まっても、完全なる死ではありません。突然、人が倒れて意識を失った時、その人は、心停止ではなく、心臓のリズムが無秩序になって、血液が全身に送られなくなった状態(心室細動)である可能性もあります。この状態で最も影響を受けやすい臓器は「脳」です。僅か30秒ほどでも脳に何らかの後遺症が残る可能性があると言われています。脳に続いて「脊髄」、次に血中の老廃物を取り除く「腎臓」の一部、という順序で甚大な影響を受けるといわれています
現在、死亡の判定は、医師(歯科医も含む)が「心拍の停止」、「呼吸の停止」、「瞳孔反応の喪失」の3つ(死の三兆候)が揃う、ことで行っています。瞳孔が光に反応しなくなったときは、脳幹が担う様々な反射反応が全て消失することにほぼ一致しているからです
(C)植物状態;
心停止後に一命をとりとめても、脳に後遺症が残ることがあります。脳の各部分(下のイラスト参照)が低酸素状態になることによって、意識や体の各部分の機能に影響が出て来ます。「大脳皮質」(大脳の表面)と、それに連携している「視床」が機能を失うと、意識が持てなくなり昏睡状態に陥ることになります。しかし1~2ヶ月ほどで、目が開くようになったり、覚醒と睡眠のリズムが戻ってきたりする場合があります。この状態を植物状態と言います
植物状態では、低酸素に比較的強い「脳幹(呼吸など生命維持に不可欠な機能を担っている)」がある程度機能しています。植物状態は、3ヶ月以上続く意識障害の一種で、診断の基準は「目が開いていても意思疎通は行えないこと、排泄をコントロールできないこと、自発的に呼吸でき、目を開けている時間と閉じている時間もある」ことです。従って、死の三兆候は満たしていないので死から遠い状態にあるといえます。植物状態から6ヶ月間は回復する可能性はあり、目覚めが早いほどその後の治りも良い言われています。8年~10年という長期間を経て回復したケースも報告されています(青森大学・片山容一博士)
健常者と植物状態の患者、昏睡状態の患者の脳波を比べる(下のイラスト参照)と、植物状態の患者の脳波は、覚醒時、睡眠時ともに健常者ほどではないものの、脳が活動していることが分かります。しかし、外部からの刺激に正常に応答できないことから、意識は無いと考えられます。昏睡状態の患者の脳波は、ある程度活動していることは分かりますが、健常者の脳波とは形がかなり異なっています
2006年、植物状態と診断された患者にも意識があるという可能性が実験結果で報告されました。ケンブリッジ大学のエイドリアン・オーウェン博士らは、交通事故で植物状態にある患者の脳の活動を「fMRI(脳の各部分の活動の活発度を、脳を傷つけることなく測定できる装置)」で調査しました。この患者に「テニスをしている状態を思い浮かべてください」と呼びかけると、患者の脳は、同じことを言われた健常者と非常によく似た活動を示すことが分かりました。このことは、植物状態と診断された患者の中には、健常者と同等に外部の言葉を理解し、正常な応答ができる(⇔意識がある)患者が存在する可能性があることを示唆しています。植物状態の患者の意識については。今後さらに詳しく調べる必要があると思われます
(D)閉じこめ症候群;
全身が麻痺して声も出せず、意思を伝えることが出来なくなっているものの、周囲の様子を目や耳などで把握でき、思考も可能であった場合、通常の方法ではコミュニケーションができないので、一見、植物状態と見分けがつかなくなります。この状態のことを「閉じこめ症候群(Locked-in Syndrome)」といいます。難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)も症状がすすむと、同じような状況になります。閉じこめ症候群は、覚醒していて、自己や外の世界を認識できるという点を考えると、健常者の意識状態とほぼ同じといえます。閉じこめ症候群の患者の脳の損傷部分と、意識や感覚が正常である理由は以下のイラストをご覧になるとお分りになると思います;
(G)脳死
植物状態や閉じこめ症候群と違って、呼吸や意識が無く、脳が機能を取り戻す見込みのない状態が脳死といわれます。脳死の判定基準は、「脳幹」の機能が停止していることが重要視されます。脳幹の機能停止を確かめる7つの方法は、以下のイラストを参照してください;
自発呼吸が止まっても、人工呼吸器を付ければ、心臓が動いている間は血液と酸素の循環は保てます。また、食事が取れなくても、点滴で水分や栄養を補給することは可能です。つまり脳が機能を失っても、身体は生かし続けることができるので、臓器移植によってほかの人の命を繋ぐことが可能となる訳です
しかし、脳以外は生きていることから、ある統計調査によれば、「脳死は人の死として妥当だと思う」という回答者の割合は、米、英、仏、独では60%~71%であるのに対し、日本では43%だそうです
(H)臓器・細胞の死;
脳を細胞のスケールで見ると、脳の神経細胞(ニューロン)は、活動するためのエネルギーとなるATP(アデノシン三リン酸)を、ブドウ糖(グルコース)と酸素を使って作り出しています。神経細胞に酸素の足りない状況が続くと、ATPが枯渇し、神経細胞が死んでしまいます。神経細胞が酸素不足になって死に瀕するまでのタイムリミットは、動物実験によれば3~4分と言われていいます。神経細胞は、低温では活動が抑えられるため、ATPが枯渇するまでの時間を稼ぐことが出来ます。特に心臓の異常による脳損傷に関しては、脳の温度を1~2度下げる低体温療法がおこなわれています
皮膚の細胞や腸の細胞は、日々死んで新しい細胞に入れ替わっています。死んだ皮膚の細胞は垢として、死んだ腸の細胞は糞便として体外に捨てられています。また、尿を通しても死んだ細胞が排泄されています。細胞のスケールで考えれば、命ある人体には、生と死が混在しているということが出来ます
現在行われている臓器移植で、移植が成功する(5年後に生着している)確率、移植希望者数は、以下の通りです(生着率、移植希望者登録者数は「2017年の日本臓器移植ネットワーク」のデータから引用しています);
① 心臓:生着率/91.6%、移植希望登録者数/728人
② 肺:生着率/71.2%、移植希望登録者数/349人
③ 肝臓:生着率/81.6%、移植希望登録者数/335人
④ 腎臓:生着率/76.8%、移植希望登録者数/207人
⑤ 腎臓 :生着率/77.4%、移植希望登録者数/1万2千人
⑥ 小腸:生着率/62.3%(拒絶反応が大きい)、移植希望登録者数/ごく僅か
上記以外にも、骨、血管、皮膚、などの移植も行われています
元の身体が死んでも生き続けている細胞を「不死化細胞」と言います。最も有名なものに、ヘンリエッタ・ラックス(1920年~51年)という米国の女性の子宮頸がんに由来する細胞株(下記の写真参照)があります。この細胞は、女性の名と姓の2文字をとって「HeLa細胞」と呼ばれており、彼女が死んだ後も、細胞分裂を繰り返して今も生きています(細胞レベルでは「不死」が可能!);
(I)臨終直前の回復;
亡くなる前に、既に亡くなっている人を見るなど、あり得ない物事を見たり感じたりする幻覚体験(所謂「お迎え」)は多いといいます。日本では4割強、英国での調査では6割ほどの人が経験していたとの報告もあります。また、終末期の緩和ケアの現場では、臨終の前に一時的に体調がよくなったり、ぼんやりしていた意識がはっきりするなどの現象も報告されています。2010年~14年にかけて、患者を看取った介護者からの回答によると、2~3割に一時的な体調改善や覚醒が見られたと報告されていますが、脳科学や生理学ではこの原因を突き止めることが出来ていません
(J)臨死体験;
死線をさまよった際に「臨死体験」を報告する人もいます。因みに、心停止から回復した患者のうち5~6人に1人が臨死体験を報告するといいます。その体験は、個々に違ってもよさそうなものですが、光を見たり、苦しみを感じなかったり、などの共通性も見られるようです
脳研究の為の「生前同意登録」システムの創始者である豊倉康夫医師が33歳の時、急性アレルギーによるショックで一時的に呼吸停止になった際、覚醒した時に「臨死体験」の報告を行っています(極楽の花園をさまよい、天上の光を浴び、何とも言えない恍惚感を感じた)。豊倉医師の死後、その脳の解剖検証を行ったところ、呼吸停止による脳虚血で生じたと思われる僅かな損傷を発見しましたが、臨死体験がこの脳の損傷で説明できるかどうかは検証できていません
(K)死の間際にみられる「最後の脳信号」;
2018年2月、脳死患者9名の家族の同意のもと、生命維持装置を外した後の脳内の活動が記録され、医学誌に報告されました(下記のグラフ参照);
血液の循環が停止すると、脳内の酸素濃度が下がっていき、脳波も平たんになっていき、最終的に神経細胞には「ターミナル(週末)拡延性脱分極」として知られる現象が観測されました。これは神経細胞への酸素供給が絶たれ、ATPが枯渇、細胞の内外のイオンのバランスが崩れて元に戻せなくなった状態です。「拡延性脱分極」の専門家であるドイツのシャリテ大学病院神経科教授・イェンス・ドレアー博士は、「拡延性脱分極」が死に繋がる最終的な変化(本当の終わり)の開始である可能性があると言っています
(L)生死の境;
千葉大学付属法医学研究教育センターの岩瀬博太郎博士は、「死の三兆候」はあくまで経験的にこの状態になると、もう二度と蘇生しないというだけだと言っています。脳死判定は「脳が何割損傷したときに意識が完全に失われるといった明確な判断基準」が無いので、現在は、あくまで医師の判断によって行われることになっています。因みに、心肺蘇生を施されている人や、心臓移植中で「仮死状態」の患者などでは「死の三兆候」が見られたあとでも蘇生する例があります。従って、医師の「死の三兆候」の確認は、心肺が停止してから数十分時間をあけてから行われるのが一般的です。
(M)高齢者が死に向かう体にはどんな変化が起きるのか?
高齢者の死期について研究している東京有明医療大学教授・川上嘉明博士は、「高齢者が亡くなるまでにたどる体の変化はゆっくりしているため、死期を正確に判断するのは非常に困難」と言っています。河上博士は、老人ホームなどで亡くなった高齢者の亡くなるまでの過去5年間のBMI(定義については肥満指数(BMI)についての”はてな?”をご覧になってください)、食事量、水分摂取量の調査を行っています(下記のグラフ参照);
川上博士によれば、この結果はあくまで平均値なので、必ずしも全ての人がこの経過を辿るという訳ではないと言っています
3.寿命の不思議
(A)細胞の2種類の死;
私たちの身体は、受精卵になった時には1個であった細胞が、細胞分裂を繰り返して最終的に成人の身体は37兆個以上の細胞で構成されています。これらの細胞の死に方は「壊死(外傷や栄養不足による事故死)」と「自死」に分けられます。私たちの身体では、毎日3千億個から4千億個の細胞(約200グラムに相当)が死に、代わりに新しい細胞が生まれています。身体を構成している各種の細胞別の寿命については以下のイラストを参照してください;
(B)細胞の自死;
細胞の自死の仕組みは2種類に分けられます。第一のタイプは、脳の神経細胞や、心臓の心筋細胞のように生まれてから死ぬまで殆ど入れ替わることのない細胞で、細胞分裂をしない代わりに100年近い寿命を持っています。もう一つは、皮膚の細胞のように頻繁に入れ替わる細胞で、人の皮膚は約4週間で入れ替わります。第二のタイプの細胞の寿命は分裂の回数によって決まってきます
第一のタイプだけで出来ている生物の代表は成虫となった昆虫です。昆虫は、新たに分裂する細胞を持っていないので身体が傷ついても修復はできません。第二のタイプの生物にプラナリアがあります、再生能力が高く、切っても切っても再生することが出来ます。ただ、再生回数には限度があります
人間の第二のタイプの細胞死は、「アポトーシス」といい、かなり研究が進んでいます。アポトーシスとはギリシャ語で「葉や花が散る」という意味です。
アポトーシスの引き金になるのは、細胞の老化やホルモン、ウィルス、放射線、などの様々な刺激です。刺激を受けた細胞は、「ガスパーゼ」という酵素を活性化させ、細胞内にあるタンパク質を切り刻みます。タンパク質が破壊されると、その中にあるDNAを分解する酵素が働きだし、DNAが断片化されてしまい、細胞が正常な機能を失います。この時点で確実な細胞死が約束されてしまいます。この細胞は最終的に小さな袋に分けられ、2~3時間のうちに隣り合う細胞や「マクロファージ(白血球の一種で免疫機能の中心的役割を担っています)に取り込まれていきます。取り込まれた細胞の成分はリサイクルされて新しい細胞の材料になると考えられています)。アポトーシスは、老化したり異常になった細胞を早めに取り除き、身体を正常な状態に維持していますので、「生命を保つための死」とも言われています
人間の第一のタイプの細胞死は「アポビオーシス」といい、「寿命がつきる」という意味です
アポトーシスとの違いは「DNAが比較的大きく断片化されること」と「最終的に小袋に分けられず、ただ収縮するだけ」という点にあります。取り換えのきかない脳の神経細胞が死ぬことは、個体の死に繋がります。アポビオーシスで死んだ細胞はゆっくりとマクロファージに取り込まれたり、そのまま放置されたりします
(C)がんと細胞死;
がんとは、細胞が異常に分裂・増殖することで、正常な細胞や臓器がおかされ、死に至ることがある疾患です。私たちの身体では、生まれた時からがん細胞が発生していますが、普通はアポトーシスで自死する為にがんになることはありません。しかし、細胞にはアポトーシスを起こすガスパーゼの他に、ガスパーゼの働きを抑制する「IAPタンパク質(アポトーシス抑制タンパク質)」があり、これが多すぎると自死できない状況になります。がんの異常な分裂・増殖はIAPタンパク質が多すぎることによって始まることが分かってきました。現在、IAPタンパク質の働きを妨げる新しいがん治療薬の実現を目指して研究が行われています
(D)アルツハイマー症と細胞死;
高齢化によって大きな社会問題になっているアルツハイマー症は、大脳の神経細胞が急激に死んで減ってしまうことによって発症します。現在、その治療に使われている主な薬は神経細胞の死を止める薬ではなく、残った細胞同士の繋がりを維持するための薬です。神経細胞の死を止める新薬を開発するには「アポビオーシス」の仕組みを解明しなければなりませんが、実験材料となるべき神経細胞が増殖しない為に、研究が進んでいないのが現状です
(E)無性生殖と有性生殖;
無性生物である大腸菌は、遺伝子のセットを一つだけ持っている「1倍体生物」です。増殖するときは、予め遺伝子のセットを一つコピーしておき、分裂するときに1セットずつ分配します。分裂した二つの細胞の遺伝子セットは元の細胞と全く同じになります(これを無性生殖と言います)。大腸菌は栄養がある限り、分裂することができ分裂の限界は無く、自死の遺伝子も持っていないので、いわば「不死」です
生命誕生から20億年たってから「自死」の仕組みを持つ生物が現れました。それは1倍体生物生物と異なる遺伝子セットを二つ持つ「2倍体生物」でした。人間もこの2倍体生物の一員です
2倍体生物は、分裂だけで個体を増やすことは殆どありません。雄と雌が協力して、それぞれが持つ遺伝子を混ぜて新しい1セット分の遺伝子を「生殖細胞」に収め、この細胞が増殖することによって、他の誰とも違う遺伝子セットを持つ個体(子供)が生まれます(これを有性生殖と言います)。この結果、遺伝子のバリエーションが豊富になり、環境に激変があった場合に種が全滅してしまう可能性を低くすることが出来るようになります。一方、遺伝子の異常な組み合わせがが出現してしまうというマイナスの可能性もはらんでいます。2倍体生物は、片方の遺伝子セットに異常があったとしてももう片方が正常であれば、成長できることもあり、異常のある遺伝子が、そのまま生殖細胞に含まれて子孫に引き継がれる可能性も出てきます。異常のある遺伝子が消えずに子孫に蓄積していってしまうと、いつか正常な個体を作れなくなり、種の絶滅に繋がる可能性も出てきます。有性生殖でおかしな遺伝子の組み合わせが出来てしまった時、それを消滅させる仕組み ⇒ 「死のプログラム」を持った生物が現れ、その生物が長い地球の歴史の中で生き残り、繁栄してきていると考えることが出来ます
(F)寿命の長さ;
遺伝学に詳しい東京大学定量生命科学研究所教授の小林武彦博士は、「複雑な組織を維持するのはかなり大変で、有性生殖を行う生物は、ある程度老化すると、組織を保てなくなり、死んでしまうのでしょうと言っています。また、仮に親がずっと生き残ってしまう種がいたとすると、子供と餌の取り合いが起こり、いずれ餌が枯渇してしまうことになります。環境の変化によって簡単に淘汰されない程度に適応能力を持ち、子孫を生んだ後いずれ死んでしまう生物の方が、結果的に繁栄できたのだろう」と言っています。
(G)寿命の限界;
人類史上、正確な記録が残っている範囲で最も長生きした人物は、フランス人女性のジャンヌ=ルイーズ・カルマン氏で、122年(1875年~1997年)に及ぶ生涯を送りました。小林武彦博士は、人間の寿命は、環境と寿命が3:1の割合で関係していると言っています。また、同博士は「日本人の寿命(男性/81.09さい歳、女性/87.26歳;2017年の統計)は、人間としての生理学的な限界のかなり近い所にある」とも言っています
人間の生理的な寿命とは、「身体の器官とそれを構成する細胞が正常に活動できる限界」ということが出来ます。私たちの身体の大部分は古い細胞を新しい細胞に入れ替えることで常にフレッシュな状態に保たれています。しかし、老化とともに細胞の入れ替わりが少しずつ遅れてしまいます。この原因は、細胞増殖の要となる「幹細胞」が老化する為です。細胞の老化は、様々な要因によってDNAが損傷することなどによって進みます。DNAには損傷を修復する機能が備わっていますが、損傷が多すぎたり、修復能力が低下したりするとDNAに損傷が残ってしまいます
近年、「長寿遺伝子」と呼ばれる細胞の老化を遅らせる働きを持つ遺伝子の存在が注目されています。中でも有名なのは「サーチュイン(Sirtuin)」という総称を持つ遺伝子群です。この遺伝子はDNAの安定化に係る遺伝子ですが、まだ動物実験の段階にあり、人間に使える薬になるにはまだ長い研究が必要と思われます
シェリー・ケーガン著:「死」とは何か
筆者は「シェリー・ケーガン/Shelly Kagan」:イェール大学教授、道徳哲学、規範倫理学が専門、着任以来続けられている「死」をテーマにした大学での講義は、常に指折りの人気授業になっており、本書はその講義を纏めたもの
本書は、恐らく講義(講義風景:DEATH)の録音を英語で起こし、それを翻訳したものなので、以前に纏めた(Life Shift)と比べて時として説明が冗長で論旨が分かりにくいところもありましたが、難しい哲学や倫理学を若い学生向けに平易な言葉で説明していることには好感が持てます
翻訳者は「柴田裕之/しばたやすし」:早稲田大学、Earlham College(1847年にクェーカー教徒系の団体が設立)卒業
筆者は講義の最後に、本講義の狙いについて以下の様に語っています;
たいていの人は、どうしても死について考えたくないと思っている。また、魂の存在を前提として、私たちは永遠に生き続ける可能性があると信じている。しかし、それは、死が一巻の終わりであるという考え方にどうしても耐えられないからだ。筆者は、これらすべてを否定しています。不死は災いであり、恵みではない。死について考えるとき、死を深淵な謎と見なし、恐ろしくて面と向かえず、圧倒的にぞっとするものと捉えるのは適切ではない。死を恐れるのは不適切な対応だ。だから私は本講義を通じて、生と死にまつわる事実について自ら考えるように促してきた。さらに、恐れたり幻想を抱いたりせずに死に向き合うように促してきた
また、翻訳を行った柴田裕之氏は、現在の日本が抱えている以下の様な深刻な問題について、本書が何らかの助けになるのではないか考えています;
高齢化が大きな社会問題になりつつある現在、病気になる可能性や余命を遺伝子検査などで統計的に予測できる時代に入りつつある。臓器移植、植物状態、脳死、延命措置、尊厳死、安楽死、自殺、リビングウィル(終末期医療における事前指示書)、老前整理、終活、遺言、死に関連した話題に事欠かない。人生をどう生き、どう終えるかを考えるのが当たり前になるかもしれない
本書の9回の講義の内容は、死に係る多くの論点、及びこれらの論点に係るギリシャ・ローマ時代から現代に至るまでの数多くの哲学者や文学者の主張を引用しつつ、それに係る筆者の意見を網羅していますので膨大になっています。従って、各回の講義毎に私なりに要点をまとめたものをこのブログの最後に付録として追加しています。また、更に各講義の詳しい内容について個別に知りたい方は私のレジュメ(Death_résumé/Word A4で35ページ)をご覧になってください。これをみても何を言っているかわからん!?という方は、本書を購入(1850円)して読んでみることをお薦めします
「般若心経」の死生観
私たち日本人にとって、最も身近にある宗教は言うまでもなく「仏教」です。しかし、多くの日本人にとって仏教は「葬儀」や「法事」で触れることはあっても、日常の生活の中で、仏教的な環境に置かれる機会は非常に少ないのではないでしょうか。一方、キリスト教にあっては日曜日の礼拝、イスラム教にあっては1日5回のメッカに向かっての礼拝を守っている人も多くいるようで、宗教に対する姿勢にかなり隔たりがあるような気がします
私も、大学院修士課程2年の後半、父の死に向き合わざるを得ない状況になるまでは、全くと言っていいほど宗教には無縁な生活をしていました。その頃、自宅にあった小さな小さな仏壇には、戦前に満州で亡くなった私の姉2人の小さな白木の位牌があるのみでしたが、父が入院した後、朝晩この仏壇に向かって母が一心に祈る姿を見ていました。しかし、私自身は父の治癒を仏壇に向かって祈ることはありませんでした
翌年の2月に父が亡くなってから、大きな喪失感と病弱の母をこれから支えていかねばならないという責任感で、暫し何も手につかなかったことを覚えています。そこで朝晩、仏壇に向かって「般若心経」を声を出して読むことで、心の平衡を取り戻していったことが思い出されます。母の死も、ほぼ回復を約束されていた手術の直前に急死したこともあって、心の痛手は小さくなく、この時も「般若心経」を声を出して読むことで、乗り越えていきました
「般若心経」が求めている境地は、「人間の一生は「無」から生まれ「無」に帰っていく、生きていることは「苦」(生老病死)の連続である」ということですが、もう少し詳しく知りたい方は(「般若心経_現代語訳)をご覧になってみてください
「般若心経」については、根本の教理は変わらないものの、色々な解釈があります。父が亡くなって以降、色々勉強した中で、私は以下の二つの解釈が心に響くような気がしましたので紹介いたします;
1.著名な分子生物学・生命科学の研究者である柳澤桂子氏が、30年以上に亘って激しい痛みとしびれを伴う原因不明の病(後に「周期性嘔吐症候群」と診断されました)に苦しんでいた時に「般若心経」と出会い救われたと回想しています。科学者であることから「人間も含め物質は全て原子からできており、一面の原子の飛び交っている宇宙の中で、私たちはところどころ原子が密になっているだけの存在」という認識から出発している所に特徴があります。理系の人間にとっては理解しやすいかもしれません。詳しくは(般若心経_柳澤桂子訳)をご覧になってください
2.私が、折に触れ手にして読んでいる「臨済宗・建長寺派 崇禅寺の日課経典」に「般若心経和讃」というお経が入っています。これは文字通り日本語訳なのですが、庶民を対象にしたお経であることから、日常の庶民の悲しみ、苦しみをどう乗り越えていくかを七五調で具体的に説教しているところが素晴らしいと思います。是非一度ご覧になってみて下さい:般若心経和讃_臨済宗建長寺派・崇禅寺・日課経典
Follow_Up:死生観の変遷_Sep’19・Wedge
看取りについて
A.看取りに関する二冊の本;
冒頭でも述べた様に、妹の死とその家族の「看取り」を間近で経験する機会があり、既に老境に入っている私たち夫婦にはその覚悟が無いことに気が付きました。そこで、まず看取りの実態を知る必要を感じて読んだのが以下の2冊の本です(上の写真参照);
1.「死を生きた人びと」
筆者の小堀鷗一郎(こぼりおういちろう)医師は、国立の医療機関で40年間、外科の勤務医として勤めた後、私の住んでいる所にほど近く、私の母も亡くなる前に世話になったことがある「堀之内病院」に赴任しました。2005年になって退職する同僚に依頼されて「寝たきりの患者2名」の訪問医療を引き継ぐことになったことがきっかけで「在宅医療」の世界に入ることになったそうです
2000年4月に、国が「介護保険制度」を創設し、高齢者の終末期医療の場を病院から自宅に移行させる方針を決定して以降、現在では、堀之内病院でも専属医師4名、看護師2名による地域医療センターが創設され、充実した体制が整えられています(以下の表参照);
筆者は、これまで355人の看取りに係り、現在の問題点について以下の様な指摘を行っています;
① 今の日本では、患者の望む最期を実現することは非常に難しい。「死は敗北」とばかりにひたすら延命する医者、目前に迫る死期を認識しない親族や患者が多い
②行政と社会は、 病院以外での死を「例外」と見做し、老いを「予防」しようとする
③ 「病院死」が一般化するにつれ、自分や家族がいずれ死ぬという実感が無くなってしまっている
筆者は、日々の往診の際に患者と語り合ううちに、患者の7割は自宅での死を求めるようになる(現在の日本では8割が病院で死亡している)と言っています
ご存知の方が多いと思いますが、医師の居ない状態で亡くなると、不審死として警察が介入し、本人や家族が希望しない解剖による検死が行われる可能性があります。これを避けるためにも、また痛みなどの緩和措置を適時、適切に行ってもらうためにも。在宅死を希望する場合は、医師の訪問看護を前提にする必要があると言っています
2.「死にゆく人の心によりそう」
筆者の玉置妙憂(たまおきみょうゆう)氏は消化器外科の看護師をしていましたが、在宅死を希望した夫の看取りを2年間行いました。夫の「自然死」という死に様があまりに美しかったことから、49日の納骨が終わった段階で出家を決意、真言宗・高野山で200日に亘る厳しい出家のための修行を経て僧侶となりました。その後、看護師の仕事を続ける傍ら、死期の近い患者やその家族の間に入って、精神的なケアを行う「臨床宗教師」として多くの看取りを実践してきました。以下は、看取りの実践を行う過程で得た「死に向うプロセス」に関する観察記録です
<死に向かうとき、心と体はどう変わるのか>
① 死の3ヶ月前から起こること:㋑外界に興味が無くなり、内に興味が向く;㋺食欲が落ちて食べなくなる⇒痩せる;㋩眠くなり、夢を見ながらうつらうつらする
② 死の1ヶ月前から起こること:㋑血圧・心拍数・呼吸数・体温などが不安定になる;㋺痰が増えるが暫くすると元に戻る;㋩夢かうつつか分からない不思議な幻覚を見る
③ 死の数日前から起こること:㋑ 急に体調が良くなる;㋺ 血圧・心拍数・呼吸数・体温などが更に不安定になる
④ 死の24時間前頃から起こること:㋑ 尿が出なくなる;㋺ 下顎呼吸になる;㋩尿と便がバッ出る; ㋥目が半開きになり、涙がでる; ㋭息を吸って、止まる
<大切な人の死を看取る人の心に起こること>
① 何もすることが無いと不安になる: することが無くなって手持ち無沙汰になる; 「食べたくない」と言われて心配になる
② 「まだ大丈夫」と「もうダメかも」の間で心が揺れる: 自分の希望のために、不必要なことをしてしまう; お酒やタバコが欲しいと言われても拒んでしまう
③ 別の世界に行きつつあることを理解できない: 奇妙なことを言われて否定してしまう ⇒ 同じ空間にいるだけでいい
④ できることは全てしても後悔する:⇒ 起こったことはすべて「よかったこと」
<上記以外で心に残ったポイント>
* 余命を告げられた時に、本人がそれを受容するまでに、否認⇒怒り⇒取引⇒抑うつ⇒受容というプロセスを辿る
* 「スピリチュアル・ペイン」とは終末期特有の心の痛みからくることで、看護する人に「なぜ死ぬのだろうか?」、「どれくらい生きていられるのだろうか?」、「私の人生は、何だったのだろうか?」と聞いてきます。看護する人には答えようのない問題ですが、「何をバカなことを言ってるの」などと言って逃げたり、諭したりするのではなく、死にゆく人の言葉に耳を傾けてあげることが大切
Follow_Up:多死社会の難題_Sep’19・Wedge
Follow_Up:地域を支える総合医_Sep’19・Wedge
Follow_Up:孤独死・年間3万人の衝撃_Sep’19・Wedge
B.「病床六尺」を読んで;
看取られる側の死に至る迄のプロセスについては、当然のことながら亡くなってしまえば書いて残すことが出来ないので、中々いい本が見つからなかったのですが、何かの拍子に学生時代に読んだ正岡子規の「病床六尺」を思い出しました。家の中を探してみましたが、見つからなかったので、ネットで購入できるか探してるうちに、電子化された病状六尺の全文がネットから手に入れることができると分かり(恐らく短編であり著作権が切れている為と思われます)読み返してみました
内容はご存知の方も多いと思いますが、1902年5月5日~同年9月17日までの136日間、127回に亘って日刊新聞「日本」に掲載された、評論を中心としたエッセーです。最終稿が投稿されて二日後に亡くなりました。日刊新聞「日本」といえば、今年、終戦記念に因むNHKの特集番組で、国粋主義を標榜する編集で国論を動かし、日本を軍国主義に導いていったメディアとして紹介されましたが、このエッセー自体はそうした内容は皆無です。ここでは、死を間近しながら、舌鋒鋭い評論の部分は割愛することとし、当時「死病」であった結核菌による脊椎カリエス(私の父の姉もこの病で20代前半に無くなっています)で、死の恐怖と極度の痛みに苦しみながら、どのように過ごし、亡くなっていったかに注目したいと思います;
*最初の投稿で、「苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤(鎮痛剤?)、僅かに一条の活路を死路のうちに求めて安楽を貪るはかなさ、それでも生きて居ればいいたい事はいいたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限って居れど、それさえ苦しんでいる時も多いが、読めば腹の立つこと、癪に障る事、たまには何となく嬉しくてために病苦を忘るるような事がないでもない」 ⇒ 精神的、肉体的に厳しい状況になっていても、評論という創作活動を行うことで、絶望しないで生きることが出来るということか、、、
* 21回目の投稿で、「余は今まで禅宗のいわゆる悟りということを誤解していた。悟りということは如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違いで、悟りということは如何なる場合にも平気で生きていることであった」 ⇒ 死期が迫っている自覚があるなかで、創作活動を続けることが出来たのはこうした悟りに達していたからか、、、
* 病状が厳しくなった39回目の投稿で、「死ぬることが出来ればそれは何より望むところである。しかし死ぬる事も出来ねば殺してくれるものもない」 ⇒ 自死をする体力も失ったということかもしれない
* 看護に触れている66回目の投稿で、「おんなの務むべき家事は沢山あるが、病人ができた暁にはその家事のうちでも緩急を考えて先ず急なものだけをやって置いて、急がない事は後回しにするようにしなくては病人の介抱など出来るはずがない、、、うんうんと唸っている病人を棄てておいて隅から隅まで拭き掃除をしたところで、それで女の義務を尽くしたという訳でもあるまい」 ⇒ 献身的な介護をしていた妹の「律」に向かって言っているとすれば、現代では許されないコメントかもしれない
* 病状が進んだ86回目の投稿で、「このごろはモルヒネを飲んでから写生をやるのが何よりの楽しみになっている」 ⇒ 現在の緩和治療では、痛みに応じて多くの種類の鎮痛剤(モルヒネを含む多くのオピオイド系鎮痛剤)を処方できる
* 127回目の最終稿を送った翌日の9月17日、死が目前に迫ったことを覚り、以下の辞世の句を自身で唐紙に書きつけ、19日未明に息を引き取りました。享年36歳でした;
⇒ 「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」
⇒ 「痰一斗糸瓜の水も間にあわず」
⇒ 「をととひのへちまの水も取らざりき」
(注)糸瓜は「へちま」のこと。ヘチマの蔓を切って液をとり、飲むと痰が切れ、咳をとめるのにいいとされ、子規の家でも庭にヘチマを育てていた。子規の命日を「糸瓜忌」というのは、この辞世の句が由来です
おわりに
およそ4ヶ月のあいだ、死の問題に取り組んで来ましたが、「自身の死に関して覚悟ができたか」と問われれば”否”と言わざるを得ません。雑誌”Newton”が教える「生物としての生と死」は否定しようがない真実です、またシェリー・ケーガン教授が教える最新の哲学、倫理学から理論的に導かれる「人間の生と死の実相と、それを前提とした正しい生き方」も、ごく一部を除けが納得ができます。
一方、私が50年近くに亘って馴染んできた「般若心経」の死生観については、頭の中ではある程度理解ができるものの、死を超越する悟りの境地(子規の境地?)には程遠い状態です。しかし、この先に何かがあるような感覚は持っています
また、「看取り」の問題は、今回の勉強で自身の心の準備とは別に、在宅死を望むのであれば、家族の理解を得るため準備しておくべきことや、在宅医療のサービスを受けるために必要な準備があることが分かりました
私の死に対する準備が整うまで、「死神さん、ちょっと待って!」というのが今の心境です
付録 -- “シェリー・ケーガン著:「死」とは何か” 各講義の要点
第1講:「死」について考える
本書では、私たちの生き方は、「やがて死ぬ」という事実にどの様な影響を受けて然るべきか? 「必ず死ぬ」という運命に絶望するべきなのか? 「死」を恐れるべきか? 「自殺」の合理性と道徳性、などについて論理的な検討を行う
本書は哲学の本なので、宗教的な権威に訴えず、「死」に関して知り得ることや、理解しうることについて、論理的思考力を使って、注意深く考えることに徹する
「死」が終わりであることが筆者が依って立つ前提となる
第2講:死の本質
人間の機能を、心臓を動かしたり、呼吸をしたり、歩いたりする身体の機能「身体機能(B機能)」と、高次の様々な認知機能を「人格機能(P機能)」とすれば、生まれてから暫くは「B機能」のみ、その後、意思疎通をしたり、理性や創造性を発揮し始め「P機能」を持つこととなる。そして、かなり長い時間が経ってから両機能が停止するが、その状態は議論の余地なく「死体」となる。しかし、「B機能」と「P機能」が同時に停止するとは限らない
「人格説」を取れば、人格を失った時点で死んでいるので「心臓移植」は問題ないと言えるが、「身体説」をとれば生きている人間から心臓を取れば確実に死に至るので「殺人」ということになり、道徳的に許されないことになる
生死の境は実は曖昧。眠っているときにP機能をはたしていないとしても、起こせばP機能を発揮できるので、新たな生きている定義として、「実際にP機能を実行していなくても、それでもP機能果たせる能力を持っている」とすればどうか。こうすれば、P機能を果たせなくなるということは、P機能を果たす能力を支える「脳の認知機能」が壊れ働かなくなった状態と説明することが出来る
死とは何か -- 筆者の哲学的回答;
哲学の観点に立つと、ここでは何一つ謎めいたことは起こっていない。身体が作動し、それから壊れる。「死」とはただそれだけのことだ
第3講:当事者意識と孤独感 -- 死をめぐる二つの主張
主張①:誰もがみな、“自分が死ぬ”ことを本気で信じていない;
根拠_A:病気になり「死」の直前までの状況は想像できるが、死後の状況までは想像できない ⇔ 自分が思い描いたり、想像したりできないような可能性は信じられない
根拠_B:「自分がいつか死ぬ」とは本当は信じていないから;
私たちはみな自分の身体が最終的には機能しなくなると、確かに認めている。何故なら、生命保険に入るのは、自分が特定の期間内に自分の身体が死ぬ可能性があると信じていて、残された家族が暮らしていけるようにしたいと願っているからだろう。また、遺言状を書くのも同じ理由だろう
主張②:死ぬときは結局独り;
「独りで死ぬ」ならば、それは必然か、偶然か;
この主張に関しては、ただ「正しい」ことが判明するだけでは納得するには不十分だ。私たちが探し求めているのは恐らく、死に関する「必然的真理」なのだろう
死を取り巻く「孤独感」;
「死ぬときは結局独り」という主張は、私たちが死ぬときの心理状態が「孤独」に類似しているということかもしれない。死の床に就いたその人は、他の人々に囲まれているかもしれない。にもかかわらず、その人は他者から引き離され、遠く疎外されているように感じている。その人は、大勢の人の中にいてさえ、孤独感を覚える。これこそが、人が言わんとしていた種類の「独りでいる」ことなのかもしれない
筆者の結論:「私たちはみな独りで死ぬ」と人は良く言うけれど、その主張はただの戯言だと思う
第4講:死は何故悪いのか
死はどうして、どんなふうに悪いのか;
殆どの人は「死は悪い」と信じていると筆者は思っている。しかし、死が本当に一巻の終わりであるなら、死は本人にとって悪いものであるはずがないように思える。何故なら、死んでしまって本人が存在していないのであれば、何一つ本人にとって悪いはずがないということは妥当な事ではないだろうか
死は何より、「残された人にとって、悪い」もの?;
残された人にとって、死者との交流する機会をすべて失うことになり、それが死の最悪の点である。しかし、それは「死のどこが悪いのか」という点に関しては、その核心にあるとは思えない
「死ぬプロセス」や「悲しい思い」こそが「悪い」?;
自分がいずれ死ぬと考えたときに、恐れや不安、心配、後悔、その他、を感じるのは、「死そのものが自分にとって悪い」という考えが先にあってこそ筋が通る。言い換えれば、恐怖や胸騒ぎでどうしようもなくなるのは、待ち受けているもの、予期しているもの自体が悪い時に限られる
死の本質は何か;
人間の機能を、心臓を動かしたり、呼吸をしたり、歩いたりする身体の機能「身体機能(B機能)」と、高次の様々な認知機能を「人格機能(P機能)」
「人格説」を取れば、人格を失った時点で死んでいるので「心臓移植」は問題ないと言えるが、「身体説」をとれば生きている人間から心臓を取れば確実に死に至るので「殺人」ということになり、道徳的に許されないことになる
哲学の観点に立つと、ここでは何一つ謎めいたことは起こっていない。身体が作動し、それから壊れる。「死」とはただそれだけのことだ
「死が悪いことか」という問題;
昔から多くの哲学者が理論を展開してきたが、筆者の結論は;
「剥奪説」こそが、進むべき正しい道に思える。この説は死にまつわる最悪の点を実際にはっきり捉えているように見える。死のどこが悪いのかといえば、それは、死んだら人生における良いことを享受できなくなる点で、それが最も肝心だ。死が私達にとって悪いのは、私たちが死んでさえいなければ人生がもたらしてくれただろうものを享受できないからにほかならない
第5講:不死 -- 可能だとしたら、あなたは「不死」を手に入れたいか?
死は人生における良いことを剥奪するから悪いのであるなら、最も望ましいのは永遠に生きることなのだろうか?
天国での永遠の時を約束する宗教でさえ、詳細については非常に遠慮がちであることは際立っている。何故なら、実際に詳細を埋めようとすると、この素晴らしい「永遠の存在」は、結局それほど素晴らしくは見えなくなることが懸念されるからだ。例えば、私たち全員が天使になり、永遠に賛美歌を歌って過ごすことになると想像してみれば、天国はそれほど素晴らしくは見えないことが懸念される
筆者は、「永遠にやりたいと思えるようなことを考え付くのは不可能だと思っている。また、自分が永遠に続けたいと願うような人生は一つとして思いつかない」と思う。
「不死」は実は、是非そこから逃れたくなるような悪夢となるだろう
第6講:死が教える「人生の価値」の測り方
人生の価値;
快楽主義について:快楽主義の見方は、哲学が生まれたときから既にあり、哲学者の間で人気が高い。しかし、筆者はそれが間違えに思えてならない。最良の人生には、快感を手に入れて痛みを避けること以上のものがあるように思える。単純な快感ではなく、実際には、「友情を育み」、「語り合い」、「睦み合い」、「愛し合う」といった人間が真に切望する最高級の快感があるはずだ
人生に何が起きているかという問いとは別に。「生きていること自体の恩恵」というものがある。現に生きているというだけの事実が、人生に更なる価値を与えるという主張で、これを「価値ある器説」という
「生きていることそのものには信じられないほどの価値があるので、人生の中身がどれほど身の毛がよだつものでも、総計はいつもプラスになる」と考える人もいる。筆者としては、この様な考え方は夢物語であり、荒唐無稽で信じがたく、どうしても信じる気になれない
第7講:私たちが死ぬまでに考えておくべき、「死」にまつわる6つの問題
人生の送り方;
1.「死は絶対に避けられない」という事実を巡る考察
2.なぜ「寿命」は、平等に与えられないのか
3.「自分に残された時間」を誰も知りえない問題
4.人生の「形」が幸福度に与える影響;
イェール大学の学生で、この疑問に直面しなければならなかった学生がいた。この学生は一年生の時に癌の診断を受け、医師から回復の見込みがなく、あと2年しか生きられないことを告げられたた。彼は残されたあと2年で何をするべきかと考え、自分の目標は「学位をとり卒業すること」と定めた。その一環として4年生の後期に、私の「Death」の講座を選択し出席していた。しかし、春休みを迎える頃には病状が悪化し、医師に学業の継続は無理と言われた。その学期に彼が取っていた講座の教員は、大学の管理部門から「学期のその時点までの実績に基づいて、彼にどの様な成績を与えるつもりがあるか」と問い合わせが来た。つまり、かれが卒業可能となるだけの単位が取れるかの確認であった。結果として、彼は十分な単位が取れており卒業可能であることがわかった。そこでイェール大学は、見上げたものだが、管理部門の職員を死の床に派遣し、彼が亡くなる前に学位を授与した
5.突発的に起こりうる死との向き合い方;
6.生と死の組み合わせによる相互作用;
筆者は、単に合計を求めるだけでは足りないと考える。人生の境遇を全体として評価するには人生の良さと死の悪さを、ただ合計する以上のことが重要だ。それは、「生」と「死」の間にある「相互作用効果」だ、この相互作用によって人生の価値がプラスになったりマイナスになったりする
第8講:死に直面しながら生きる
死にまつわる事実を認めるものの、「どう生きるべきか」についてまだ自問していない人に対しては、この後でこの人たちの疑問に答えていきたい
死にまつわる事実については、考えるべきときと場がある。自分が死ぬべき運命にあるという事実を、常に目の前に置いておくべきかという人が居たら、その人は間違っているとおもう。しかし、死ぬべき運命と死の本質について決して考えるべきではない、という人が居たら、やはりその人も間違っていると思う
死に対するごくありふれた反応の一つに、「非常に強い恐怖」がある。ただ、筆者が知りたいのは、死に対する恐れは「適切な応答かどうか」、また「理にかなった感情かどうか」だ。恐れの3条件;①恐れているものが、何か「悪い」ものである;②身に降りかかってくる可能性がそれなりにある;③不確定要素がある
恐れの中身;
①死に伴う痛みが恐ろしい;
②死そのものが恐ろしい:誰かが「死を恐れている」という時に、本当は「死ぬプロセス」を恐れている場合もあるかもしれないが、殆どの人は「死んでいるところ(⇔死んだらどのようになるか)」を恐れているように思う。しかし、それはこの恐れが適切であるための条件は満たしていないと筆者は考える
何故なら、死んでしまえばどんな種類の経験もできない(⇔第3講で考察済み)。死んだとき、何らかの経験はするが、それは通常の経験とは違うので想像はできないはず。死んだらもう、いかなる経験も存在しないのだ
③予想外に早く死ぬかもしれないのが恐ろしい:若者が実際に死ぬ可能性は、統計的にみれば極端に低い。その可能性があまりに低いので若者が本気で恐れるのは全く適切には思えない。歳をとるにつれ、特定の期間内に死ぬ可能性は着実に高まるものの、この場合でも「間もなく死ぬという恐れ」は不釣り合いなまでに大きくなりやすい。死が間もなく訪れかねないのを恐れるのは、とても病気が重い人や、とても高齢の人であれば理に適っている。死はまったく逆らいようのないものだから、私は恐ろしくて仕方がない」という人が居るのは本当だと思うけれど、死を極端に恐れる気持ちは適切な感情では無いと思わざるを得ない。事実を見る限り、それは筋が通らないのだ
死ぬか死なないか以前に、人生を台無しにしないこと:私たちが死を免れないのなら、人生を台無しにする危険は大きい。(不死でなければ)死がすぐに来てしまい、やり直しを試みる時間はとても短いことを常に念頭に置いていなければならない
業績や作品は永久に不滅か;
死と向かい合いながら生きるための戦略について考えるにあたって、この種類の不滅性を追求するに値するかどうかを問うことだ。つまり、自分の作品や業績を通して生き続ける、あるいは子供を通して生き続けるということは、文字通り生き続けるのとは違うからだ。それは「半不滅性」あるいは「準不滅性」だろう
「半不滅性」を主張する第一のタイプ:「自分の一部が子供のから孫、、、に引き継がれるから」、あるいは、ドイツの哲学者ショーペンハウアー(1788年~1860年)が言っている「自分の身体を構成している原子は、死んでも存在し続け、何か別のものに再利用される」という考えについては、筆者は同意できない。
「半不滅性」を主張する第二のタイプ:亡くなっても、「その人の実績が残り続ける」。筆者は、この第二のタイプに価値があるという考えに惹かれている
人生の価値をできる限り高めるための戦略とは;
これまで語ってきた人生戦略の根底にある信念は、「人生は良いもの、あるいは良いものとなりうるので、じぶんの人生をできる限り価値あるものにしようとするのは理にかなっている」ということだ。
死と仏教、キリスト教と生き方の関係;
これまでの議論を単純化し、一般化すれば、「人生は良いもの、あるいは良いものとなりうるので、じぶんの人生をできる限り価値あるものにしようとするのは理にかなっている」という基本的な見解(第一の見解)は、おおざっぱに言えば西洋的な見解だ。一方、「人生は、本当は大切に受け入れる価値がある、潜在的に価値に満ちた貴重な贈り物ではない」というのは、おそらく東洋的な見解(第二の見解)だ。この有名な例が仏教にみられる。仏教徒は、人生の本質は、「喪失と苦しみ」と言っている。仏教徒はこうした良いものへの愛着から自分を解放し、それらを失った時の痛手最小限になるようにしようとする。筆者は、仏教に途方もなく深い敬意を抱いている。ただ、筆者は西洋の生まれであり、「創世記」の産物だ。「創世記」では神は世界を眺め、それが良いものであると判断を下す。少なくとも筆者は、人生がネガティブなものだと認めることで喪失を最小化する戦略は受け入れられないとしている。だとすれば、筆者にとって、ひょっとすると私たち殆どにとって、もっと楽観的な戦略から選ぶのが妥当であると思われる
第9講:自殺
自殺を「自己利益」の問題と「道徳性」の問題に分けて考える
「自己利益」の面から考えれば、「癌の様な最終的に死に至る消耗性疾患の末期の人を想像すれば、痛みがひどく、苦しむこと以外ほとんど何もできないかもしれない。色々な楽しみも無くなり、ただ痛みの為に取り乱し、痛みがやむことを願うばかりになる。また、アルツハイマー症やALS(筋萎縮性側索硬化症)の様な変性疾患にかかって、人生に価値を持たせるようなことが徐々にできなくなり、自分の身の回りの最低限のことさえままならなくなる。これらのような場合は、自殺することが理に適っている」と筆者は考える
ただ、変性疾患の場合、身体のコントロールはできなくなるものの、頭脳は何の問題もなく働き続ける間は、家族やそのほかの人がサポートしてくれれば、生き続ける価値があると考えられる。ただ最終的に人生を送る価値がなくなる時が来ることは想像し得る。しかしこうなれば、自殺する能力もなくなる可能性もある。分かってもらえると思うが、ここで自殺は安楽死の問題に変わる
明晰な思考ができない状況で下した判断は信頼に値しない。信頼に値しないなら、結局自殺が合理的な判断になることなど決して無いように思える
自殺するという判断は慌てて下してはいけない。医師とよく話し合い、自分の愛する人々と十分話し合うべきだ。その結果下した判断は、どんな判断であれ理に適ったものとして信頼するに値するのではないだろうか
現実の自殺の事例は、実にこの肝心な条件を満たしていないことが多いと筆者は考えている。多くの自殺のケースでは、以前の人生と比べたり、夢見ていた人生と比べたり、周りの人の人生と比べたりして、今の人生は生きる価値が無いと思い込む。しかし、期待した人生ほど生きる価値が無かったとしても、やはり存在しないよりは良いのだ
「道徳性」の面から考える;自殺は合理的な選択であり得るとしても、自殺がなお不道徳であり得る。ただ、道徳性と合理性という二つの概念を切り離せるかどうかについては、哲学では大論争になっている
この問題に対する最も優れた回答は、イギリスの哲学者デイヴィッド・ヒューム(1711年~1776年)が行っている:「少なくとも、自殺が神の意思に背くという考えには説得力があると思う人がいたら、誰かの命を救うのは神の意思に背くというのも、なぜ説得力があると思わないのだろうか?神はその人を死なせるつもりだったのかもしれないではないか!」
例えば、もし皆さんが医師で、誰かが心肺停止の状態になっていたら、直ちに心肺蘇生法を施せるのに、「ああ私はこんなことをしてはいけない。この人が死ぬのは神に意思だから、この人の命を救うのは、神の思し召しを妨害していることになります」などと言うだろうか?そんな人はいない。であれば、「自殺は神の思し召しに反する」ということもあり得ないということになる
「命はとても素晴らしい贈り物であり、この与えられた贈り物を大切にし、恩返しをしなければならない。だから私たちは生き続ける義務があり、自殺は道徳に反する」という意見がある。筆者は、この主張にも説得力が無いと考えている。何故なら、恩義とは一体何を意味するかに注意を払う必要があるからだ。しかし、恩義とはいっても、与えられた本人が有難いとは思わないこともあるはず。そんな場合、恩義に報いることに道徳的な必要性はないはず。「たとえ汝の人生が悲惨な状況になり、死んだほうがましだとしても生き続けよ。もし自殺をすれば、永久に地獄に落とすぞ」と神が言われたとしたら、恐らく自殺しないほうが賢明だが、そこには道徳的な必要性は無いはずである。従って、感謝の念に訴えることに基づいて自殺に反対する主張はうまくいくはずがない
全ての「道徳論」に共通する考え方として、自分の行動の結果がどうなるかを問うことは、いつも道徳的に重要である。
自分自身は?:自殺が自己利益の観点から合理的なものとして受け入れられるケースでは、自殺をすれば、そうしない限り被らなければならないだろう苦しみから解き放たれると仮定すれば、自殺をする判断が実は道徳的に支持されるようにも思える。道徳性の観点からは、自殺をしようとしている本人だけでなく、全ての人にもたらされる結果を考えねばならない。これに関連する最も重要な人は家族、愛する人、友人など本人のことを最も直接的に知り、気にかけている人々だ。これらに人々に関しては、自殺が大きな嘆きや苦しみをもたらすので、自殺の結果は一般的に悪いと主張するのが妥当と思われる。
しかし、行動の結果はたいてい良いものと悪いものが混ざり合っている。従って。自殺者の家族や友人や愛する人に嘆きや痛みをもたらすというネガティブな結果があるとしても、もしその自殺者が死んだほうが本当にましなら、本人の受ける恩恵の方が勝るかもしれない。
①功利主義的立場:万人の幸福を同等に扱いながら、「正しいか誤りかは万人にどれだけ多くの幸福を生み出せるかの問題である」とする道徳の主義だ。この立場に立てば、誰かの死によってあまりにも大きな悪影響を受ける人々がいて、本人が生き続ける代償よりも、その人々への害の方が大きい場合、自殺しない方が良い。しかし、自分は死んだほうがましで、他者への影響がその事実を凌ぐほどに大きくない場合は、自殺が正当化される。
②義務論的な立場:自分の行動の良し悪しを結果だけでなく、他の事柄にも目を向けなければならないと考えること。
思考実験:臓器移植を行う場合、一人の健康な人を殺してその臓器を5人の患者を生かすために使ったとした場合、功利主義に立てば許されるように見えるが、直感的に罪のない人を殺すのは間違いであることが分かる。人には殺されない権利があり、罪のない人を害することを義務論が禁じているのは、大抵の人が受け入れる。
しからば、「私という罪のない人間」を殺す反道徳的行為にならないか? 私が死んだほうがましな場合には、自殺しても自分を全体として害するわけではなく、自分に恩恵を与えていることになる。だから、全体として害してはならないという禁止に反してはいない。これが正しいなら、義務論の観点から考えても、自殺は特定のケースでは道徳的に正当と言える
自殺の道徳性に関する筆者の結論;
功利主義の立場を受け入れようと、義務論的な立場を受け入れようと、自殺は常に正当であるわけではないが、正当な場合もある。自殺しようとする人に出会った場合、その人がよく考え、妥当な理由を持ち、必要な情報も得ていて、自分の意思で行動していることが確信出来たら、その人が自殺することは正当であり、本人の思うようにさせることも正当だと思える
以上