はじめに
韓国に文在寅大統領が就任してから、日韓関係は以下の事例をきっかけとして急速に悪化してきました;
* 長い間紛争の種になっていた従軍慰安婦問題を、最終的に解決することになっていた朴槿恵大統領との間の「日韓合意」が、実質的に破棄(「和解・癒やし財団」の解散)されてしまいました
* 戦時中の「徴用工」に係る問題については、1965年に調印された「日韓基本条約」と5億ドル(当時1ドル=約360円)に上る「経済協力金」で解決済みとなっていた個別の徴用工に対する賠償金に関し、韓国最高裁で当時の日本企業に対する支払いを命ずる判決がでました
* 日本の能登半島沖(日本のEEZ内)で韓国漁船の救助活動をしていたとされる韓国海軍艦艇から海上自衛隊の哨戒機が火器管制レーダーの照射を受けました。また昨年から、突如として国際法に基づいて海上自衛隊の艦船に掲げられる晴天旭日旗を下ろすよう求められるという問題も起き、日韓の対北朝鮮防衛に係る同盟関係に亀裂が発生しています
こうした背景からと思われますが、最近日本国内においては嫌韓感情の高まり、韓国においても反日感情が高まっていることはほぼ間違いの無いことだと思われます。
一般の日本人には、長い時間をかけてようやく合意が成った条約や国際協定が、国内政治の風向きが変わったことによって簡単に踏みにじられることや、一般の日本人の歴史認識をなじられ続けることに我慢がならないことと思う人は少なくないと思われます
一方、日本には、現在50万人近くの在日朝鮮人(韓国籍+北朝鮮籍)が住んでおり、更に日本に帰化した朝鮮人、婚姻によって日本人姓を名乗っている人も相当数在住していることは間違いありません。また、特に芸能やスポーツの分野では、朝鮮をルーツにしている人が非常に多く活躍していると言われています。これらの人々が現在肩身の狭い生活をしていることは想像に難くありません
また、現在各種のSNSを通じて憶測記事や、徒に嫌韓感情をあおる記事がインターネット上に溢れています。こうした状況は、日中戦争や太平洋戦争が始まる前に日本のマスメディアが“中国人を蔑む記事”や、“鬼畜米英云々の記事”で大衆を煽った状況を思い出させます
私自身、小学校低学年の頃、朝鮮籍だったと思われる同級生を、みんなで「朝鮮人は可哀そう」とはやし立てていたところ、この朝鮮籍の同級生の兄か親戚と思われる上級生にこっぴどく殴られたという恥ずかしい体験があります
いま一番必要なことは、こうした状況になった背景を含め、できるだけ正確な情報を得る努力を行い、不正確な情報に付和雷同しないようにすることではないでしょうか。以下に、私自身の頭の整理の為に勉強したことを率直に書いてみたいと思います
日韓愛憎?の歴史・クイックレビュー
① 白村江の戦い(663年)
660年、唐・新羅の連合軍との戦いによって百済は滅亡しましたが、百済の遺臣鬼室副信(きひつふくしん)は百済再興を目ざして挙兵するとともに使者を日本に派遣して救援を求めました
大和朝廷は直ちにそれに応じ、661年斉明天皇みずから西征し筑紫に到着しました。しかし、同年7月天皇が崩御したため渡海は延期されました。その後、斉明天皇の後を引き継いだ中大兄皇子(大化の改新の主役、後の天智天皇)は、翌年正月、阿曇比邏夫連(あずみひらぶむらに)らを船師(船頭)170艘を使って渡海させ、鬼室副信らを救援しました。
さらに663年には、2万7千人の増援軍を派遣しました。これに対して新羅は唐に増援軍を求めた結果、唐から7千人が派遣されました
大和の軍船が、百済の遺臣らの籠る周留城をめざして、錦江下流の白村江の河口に乗りこんだとき、そこには唐と新羅の連合水軍170艘が待ち構えていました。8月27日、両軍の戦端がひらかれ翌28日には勝敗が決しました。大和の水軍は、待ちうけた唐と新羅の連合軍に挟み打ちになり、朝鮮の三国史記の記述によれば、「船は火災につつまれて次々と沈没、海に呑まれる兵士は数知れず、炎は天を焦がし、海の水は朱に染まった」という惨状でした
敗戦の悲報は翌月には早くも那の津(博多港)の本営にもたらされました。半信半疑で、誤報であれかしと一縷の望みをつなぐ人々の前に、やがて散り散りになった敗残兵と亡命の百済人たちが、那の津の海に引き上げてきました
② 蒙古来襲(文永の役:1274年、弘安の役:1281年)
元の日本遠征軍は、蒙古人・高麗人・漢人・女真人(満州人)により組織されていた連合軍でした
日蓮上人の遺文を集めた「遺文録」には、「去文永十一年(太歳甲戊)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者カタメテ有シ、総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)、、、」とあり、無差別に島民を惨殺していたことが分かります。壱岐・対馬を襲った遠征軍は、そのルートから考えて高麗人が多かったことは疑いの無いことです
③ 倭寇の跋扈(13~16世紀)
倭寇は、朝鮮、中国の海岸で活動した海賊で、主として九州沿岸の日本人であったといわれています。倭寇の活動期は、13~14世紀の前期と、15世紀後半から16世紀の後期に分けられます。倭寇は海賊行為だけではなく、明の海禁政策(海上貿易の禁止)の中で貿易の利益をあげようという、中国商人と日本商人の私貿易、密貿易の側面もありました。前期と後期の間の期間は足利幕府と明との間で勘合貿易(両政府の交易許可証を使った正式な貿易)が行われた為、倭寇の活動は抑止されていました
④ 応永の外寇(1419年)
室町時代の応永26年に起きた李氏朝鮮の世宗による対馬侵略を指しています。227隻の船に1万7千人余の兵士を乗せ対馬に上陸したものの、宗定茂以下600人程度の武士の奮戦により百数十人が戦死(崖に追い詰められて墜死を含む)しました。更に逃走しようとした船に火をかけられて李氏朝鮮軍は大敗を喫しました
⑤ 秀吉による朝鮮征伐(文禄の役:1592年~3年、慶長の役1597年~8年)
秀吉が国内を統一した後、更に明に領土を広げようとして行われた戦争で、日本軍約15万人、明・朝鮮連合軍の約25万人が戦った大規模な戦争です。遠征軍は朝鮮全土に及び、戦国時代で培われた秀吉軍の高度な戦争技術を勘案すると、明・朝鮮連合軍には多くの死傷者が出たものと思われますが、正確な数は分かりません
京都の豊国神社(豊臣秀吉を祀る神社)の耳塚(殺した明軍、朝鮮軍からそぎ落とし持ち帰った耳、鼻を供養してある)には2万人分が収められているそうです。この耳塚には、今でも多くの韓国人が訪れています
この戦争は、秀吉の死で終わりましたが、戦争に参加した武将たちは、戦利品の代わりに高度な技術を持った陶工を連れ帰りました。これらの陶工が伊万里焼(佐賀県/鍋島藩)、薩摩焼(鹿児島県/薩摩藩)として世界に誇る日本の陶芸技術を今に伝えています。司馬遼太郎の作品に日本に連れてこられた陶工の哀しみが書かれています
⑥ 朝鮮通信使(1375年~1811年)
朝鮮通信使は、室町時代に始まり、足利将軍からの国書を持った使者の派遣に対する高麗王朝の返礼の意味を持った使者の派遣でした。安土桃山時代にも李氏朝鮮から秀吉に向けて2回使者が派遣されたものの、文禄・慶長の役で国交断絶の状態となった為行われなくなりました。徳川時代に入って李朝朝鮮との間で再開され、1607年の第1回から1811年まで全12回行われました。第1回~第3回目までは、文禄・慶長の役後の日朝国交回復の目的を帯びており、朝鮮人の捕虜の返還などがお行なわれました。その後も、通信使は将軍の代替わりや世継ぎの誕生に際して、朝鮮側から祝賀使節として派遣されるようになりました
規模は随員などを含めて400~500人で、これに対馬藩からの案内や警護の為の1500人ほどが加わる大規模なものでした。尚、幕府からの返礼使は対馬藩が代行しています
2017年11月には、日韓の団体が共同で申請していた「朝鮮通信使に関する記録」がユネスコの「世界の記憶」に選ばれています
⑦ 日朝修好条規(1876年)、日清戦争(1894年~5年)
ロシアからの脅威の防壁として朝鮮を重視していた明治日本は、鎖国している李朝朝鮮を開国させようと交渉したものの拒絶された為、1875年軍艦をソウルに近い江華島に派遣し挑発を行ったところ、狙い通り朝鮮軍が砲撃してきました。明治政府は開戦をちらつかせつつ責任を追及した結果、李朝朝鮮との間で不平等条約である日朝修好条規を締結し、開国させることに成功しました
その後、朝鮮の宗主国を自認する清国との対立が激化し、1894年日清戦争が勃発し日本が勝利します。1895年の 日清講和条約(下関条約)で朝鮮は宗主国であった清国から離れ、独立国となりました。しかし、ロシアを中心とした三国干渉で日本が遼東半島を清に返還すると、朝鮮の政府内部にロシアと結んで日本の影響力を排除しようとする親露派が形成され、その中心が閔妃(ミンビ/李朝朝鮮の女帝)でした。その動きを危ぶんだ日本の公使三浦梧楼は、1895年10月、公使館員等を王宮に侵入させ、閔妃らを殺害してしまいました(乙未事変)
その後、日韓協約_第1次~第3次を通じて日本は財政、外交、内政の実権を握るとともに軍隊の解散を行って保護国化を完成させました。これに対して朝鮮内では軍隊の反乱が起こるなど反日運動が盛り上がりましたが、初代総監(第2次日韓協約に基づく軍事を含む統治組織である総監府の長)となっていた伊藤博文がこの反日運動を抑え込みました
1909年、この反日運動に参加していた安重根はハルピンの駅頭で伊藤博文を暗殺しました。安重根は韓国では英雄として尊敬されています
⑧ 韓国併合(1910年)
併合を実行する前に、列強からの干渉を受けないようにするため、イギリスとは1905年の第2次日英同盟でイギリスのインド支配を認める代わりに日本の韓国支配の承認を受けていました。アメリカとは1905年、桂=タフト協定でアメリカのフィリピン支配と日本の朝鮮支配を相互に承認しました。ロシアとは、1907年の日露協約で満州の分割及びロシアの外モンゴル支配と日本の朝鮮に対する権益の相互承認を行っていました。
1910年8月、韓国の李完用首相に「韓国併合に関する条約」の調印をせまり、ただひとりの閣僚が反対したのみで、閣議は条約調印を承認しました。この条約は、1910年8月29日に公布されています。
⑨ 第一次世界大戦と韓国の独立運動
韓国併合以降、日本による統治に反発した農民達は満州やロシアの沿海州に大挙移住し、同地域で新韓村などの朝鮮人村落が形成されていきました。朝鮮半島内での抗日運動は、朝鮮総督府による厳しい取り締まりにより運動が困難になると、独立運動家達は満州やロシアを独立運動の基地とするようになりました。
その後、第一次世界大戦(1914年~18年)のベルサイユ講和会議の前に、米国のウィルソン大統領は、民族自決主義を盛り込んだ国際政治に係る新しい方針を議会に提出しましたが、これを受けて、植民地となっている国々で民族運動が一気に高まりました
1919年3月1日、学生と青年達は京城府のタプコル公園で朝鮮独立宣言(ぜひ一度は目を通すことをお勧めします)の朗読を行い、その後数万人の群衆と共に「大韓独立万歳」を叫びながらデモ行進を行いました。これを発端として、三一運動が始まりました。三一運動は、総督府の警察と軍隊の投入による治安維持活動が強化される中でも、朝鮮半島全体に広がり、数ヶ月に渡って示威行動が行われ続けました。3月~5月にかけてデモに参加した人数は205万人、デモの発生回数は1542回にのぼったとされています。しかし、その後総督府が憲兵や巡査、軍隊を増強して武力による弾圧を行った結果、運動は次第に終息していくこととなりました
⑩ 関東大震災時の朝鮮人虐殺事件(1923年)
1923年9月1日の関東大震災によって壊滅的な被害を受け、民心と社会秩序が著しい混乱に陥った状況下で内務省は戒厳令を発し、各地の警察署に治安維持に最善を尽くすことを指示しました。しかし、その時に内務省が各地の警察署に下達した指示の中に「混乱に乗じた朝鮮人が凶悪犯罪、暴動などを画策しているので注意すること」という内容が入っていました。この内容は行政機関や新聞、民衆を通して広まり、朝鮮人や、朝鮮人と間違われた中国人、日本人の聾唖者が殺傷される被害が発生しました。正確な数字は残っていませんが、一説には数千人にのぼるとも言われています
⑪ 創氏改名
1939年、朝鮮総督府は、本籍地を朝鮮とする朝鮮人に対し、新たに「氏」を創設させ、また「名」を改めることを許可する政策を施行しました
儒教文化の下にある韓国では、女性は結婚後も他所者として夫や子供の「姓」には加われませんでしたが、個人が申請した新たな「氏」において夫婦一致させることが義務付けられました。約8割の人が日本風の「姓」で「氏」を創設しましたが、金や朴など従来の「姓」を夫婦の「氏」とすることも出来ました。希望する「氏」を許可期間中に届け出なかった場合は、自動的に従来の「姓」が一家の「氏」となりました
尚、台湾においても創氏改名にあたる「改姓名」が実施されましたが、約2%しか改名が行われませんでした
⑫ 日中戦争~第二次大戦(1936年~1945年)
(a) 徴兵制:日中戦争が進行中の1938年から志願兵制度を導入、対米戦争が敗色濃厚となった1944年からは徴兵制が実施されました。徴兵制で動員された朝鮮人は21万人5千人に達し、戦死・行方不明者は2万2千人人以上にのぼるとされています。この中には特攻隊に志願して戦死した方もいます(ネット情報によれば朝鮮人の特攻による死者は17人とされています)。鹿屋や知覧の特攻隊記念館には特攻で戦死した方の写真、遺書などが展示されていますが、私が見学に行ったときには、遺族の方の希望だと思いますが、朝鮮人の特攻隊員の写真は、剥がされていました
(b) 徴用工:徴用工とは、戦時下で労働力の確保が難しくなった段階で、軍需産業を中心に半ば強制的に(強制性については異論もあります)徴用された労働者をいいます。強制労働とは違って賃金は支払われていましたが、派遣された場所によっては過酷な労働を強いられていたこともあったようです。勿論、徴用工は朝鮮人だけでなく日本人もいました(勤労動員、学徒動員、など)
戦争末期、松代の象山の地下に巨大な大本営を建設する際にも2600人の朝鮮人徴用工が土木工事に従事しました。突貫工事の為多くの死傷者が出ましたが、記録が廃棄されていたため実数は分かっていません。一説には100人~300人が亡くなったと言われています
尚、この問題は、文在寅政権になってから日韓間の軋轢の種になっていますが、韓国政府は日韓基本条約に基づき、過去に2度、元徴用工に個人補償を実施しています。朴正熙政権は2年間で8万4千人余りに現金を支給。盧武鉉政権も2008年以降に追加の支払いを実施しています(2019年7月24日追記:文政権・資産売却を静観_元徴用工問題も対決姿勢)
Follow_Up:月刊文芸春秋11月号に徹底討論・徴用工_橋下徹・舛添要一という対談が掲載されていました。徴用工問題に対するより精密な理解をする為に大変有益に議論が展開されています
(c) 従軍慰安婦:従軍慰安婦とは、戦地の軍人を相手に売春する女性であり、現代では、それを批判する人々の視点から「かつて戦地で将兵の性の相手をさせられた女性」との意味で用いられる用語です。戦時中、兵士の性的な欲求を長期間抑止すると、戦地における強姦や殺人などの戦争犯罪が発生する恐れがあること(注1)、また性病の罹患による戦力低下の恐れがあること、などのため軍が非公式にある程度管理に関与する性処理を目的として施設が設けられていましたが、こうしたことは各国の軍隊でも珍しくないことでした。勿論そこで働いている慰安婦には日本人も多くおり対価も支払われていました。朝鮮戦争においても、連合軍や韓国軍の兵士の為にそうした施設が設けられており、米軍・国連慰安婦と呼ばれていました。
平時における倫理的な常識からすれば、決して容認できないことは言うまでもありませんが、これが日韓で政治問題化した背景には、朝鮮人の年若い女性が強制、乃至拉致されて慰安婦にされたということでした。しかし、この強制性の有無については日韓で意見が異なっています(注2)
(注1)「ライダイハン」問題:ベトナム戦争に派遣された韓国軍兵士による現地女性への性的暴行などで生まれた混血児(ベトナム語で“ライダイハン”と呼びます)が沢山いることはよく知られていました。この問題を追及しているイギリスの民間団体「ライダイハンのための正義」は、この混血児の数は1万人以上に達するとしています。1975年にベトナム戦争終結後、共産党政権下で“ライダイハン”は「敵国の子」として迫害され、差別されてきました。同団体は韓国政府に公式な謝罪を求めていますが、現在までのところ韓国政府はこれに応じていません
(注2)「強制性」については日本のメディアが主として新聞記事を通じて報道したことがきっかけになっています。これらの記事の信憑性については、2014年に朝日新聞が第三者委員会を設置し、調査結果を報告しています(詳しく知りたい方は、慰安婦報道に関する第三者委員会報告書をご覧ください)
(d) 被ばく:広島、長崎に原爆が投下されたときに在住して被ばくした朝鮮人は約7万人、内爆死された方が約4万人とされています(被爆者援護法裁判のパンフレットより)
⑬ 終戦後満州、朝鮮に残された日本人に対する迫害
1945年8月の終戦時、敗戦国民となって満州、朝鮮に取り残された日本人は161万人も居ました。在留日本人の引き上げについては、多くの体験談や小説で書かれているように大変な困難を伴いました。中でも戦勝国となった国(ソ連、中国だけでなく朝鮮も含む)の人々から受けた暴行、凌辱は敗戦国民であるが故に告発されることもなく、帰国してからも内地の人に語ることもできない深い心の傷として残されています。引き揚げてきた女性の内、強姦によって妊娠してしまった女性は、故郷に帰る前に舞鶴など引揚船の到着港で密かに堕胎の手術を行っていたことが、最近になってテレビのドキュメンタリー番組で放送されています。
参考:母方親族の戦争体験;「麻山事件」を読んで
⑭ 朝鮮戦争(1950年~53年)
(a) 朝鮮人にとって同胞同士が殺しあう悲惨な歴史
韓国軍、北朝鮮軍、民間人併せて約350万人が死亡したと言われており、1953年の休戦によって戦火は収まりましたが、北緯38度線の休戦ラインによって南北に引き裂かれた家族、親戚が大勢おり、韓国、北朝鮮国民の悲惨さは筆舌に尽くせないものがあります
朝鮮戦争の全体像を知るには以下の本が有用です;
「朝鮮戦争の謎と真実」はソ連邦崩壊後、機密文書が公開され、その中に開戦に係る金日成とスターリン間の往復書簡、と金日成と毛沢東間の往復書簡が多く含まれており、戦争がどのように準備され、開始されたかかが良く分かります。毛沢東が戦争開始に消極的だった理由が日本の参戦の可能性にあったという中々興味深い話も入っています
また「朝鮮戦争」は、マッカーサーの後任で連合国最高司令官になったマシュウ・B・リッジウェイの回顧録で、如何に朝鮮戦争という激しい戦いが行われたかを、最高司令官の冷静な視点で語られています
(b) 朝鮮特需
朝鮮民族にとって悲惨な戦争が行われている一方で、米軍を主体とした連合軍からの軍事特需は36億ドルに達したと言われており、未だ敗戦後の荒廃(生産の極度の低下と悪性インフレ)の中にあった日本にとっては復興のカンフル剤となりました。因みに国民総生産、個人消費は、戦争が始まった1951年度には既に太平洋戦争前の水準を超え、その後の日本の急速な経済成長がここから始まったと言えます。見方を変えれば、朝鮮民族の犠牲を基に戦後の日本の経済復興が行われたと言えなくもありません
尚、余り知られていないことですが、朝鮮戦争当時、連合国軍の要請(事実上の命令)を受けて、元海軍軍人や民間船員など8千人以上が国連軍の掃海作戦(海中に敷設された機雷の除去)に参加させられ、開戦からの半年の間に56名が戦死?しています。
⑮ 李承晩ライン、竹島の実効支配
サンフランシスコ平和条約(1951年9月署名、1952年4月発効)により日本は主権を回復しました。初代大統領・李承晩は、この条約により、戦後アメリカが日本漁業の操業区域として設定した「マッカーサー・ライン」が無効化されることを見越して1952年1月の大統領令「大韓民国隣接海洋の主権に対する大統領の宣言」を発し海洋境界線を独断で設定しました。この境界線のことを李承晩ラインといいます
アメリカは1952年2月、韓国政府に対して李承晩ラインを認めないと通告したものの、韓国政府はこれを無視しました。
尚、この李承晩ラインの韓国側にサンフランシスコ平和条約でも日本領とされている「竹島」が入っており、その後の韓国による実効支配のもとになっています。
当時、未だ海上自衛隊はもとより海上保安庁も発足していなかった日本は、この海域内で漁業を行った漁民が臨検、拿捕・接収、銃撃を受けても為す術はありませんでした。日韓基本条約、日韓漁業協定の締結(1965年)により、李承晩ラインが廃止されるまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は3929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人にのぼりました。抑留者は6畳ほどの板の間に30人も押し込まれ、僅かな食料と30人が桶1杯の水で1日を過ごさなければならないなどの劣悪な抑留生活を強いられたと言われています
⑯ 日韓基本条約、経済協力協定
サンフランシスコ平和条約に参加していない韓国との国交回復は、1951年の第1回交渉から14年間に及ぶ長い交渉となりました。
日本は、⑦で述べた韓国併合の際の韓国議会の承認を経た「韓国併合に関する条約」が国際法上有効な条約であり、植民地支配ではなく合法的な併合であることから賠償は不要であるとの立場をとり交渉は難航しました。最終的には韓国の朴正煕大統領が、賠償なのか支援なのかは問わず、日本からの無償三億ドル・有償二億ドルの提供を受けると言うことで曖昧な妥協を行い、1965年6月に交渉は決着しました。
(a) 日韓基本関係条約のポイント;
第二条 1910年8月22日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される
第三条 大韓民国政府は、国際連合総会決議第195号に明らかにされているとおりの朝鮮にある唯一の合法的な政府であることが確認される
第四条 両締約国は、その貿易、海運その他の通商の関係を安定した、かつ、友好的な基礎の上に置くために、条約または協定を締結するための交渉を実行可能な限りすみやかに開始するものとする
(b) 経済協力協定のポイント;
第二条の1:両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、1951年9月8日にサンフランシスコ市で署名された日本国との平和条約第4条(a)に規定されたもの(日本の在外資産の請求権放棄)を含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する
⑰ 金大中拉致事件(1973年)
1973年8月8日、韓国の民主活動家、政治家で、のちに15代大統領となる金大中が、韓国中央情報部 (KCIA) により千代田区のホテルグランドパレス2212号室から拉致されたあとソウルで軟禁状態に置かれ、5日後にソウル市内の自宅前で発見された事件です。
ここで日本の警察は、拉致された部屋から在日韓国大使館の金東雲一等書記官の指紋が検出され、事件に関与していたとして韓国側に任意出頭を求めましたが拒否されました。その後、韓国政府は「金書記官が帰国したことを認めましたが、事件には無関係」との態度を貫き通しました。
このまま膠着状態が続けば、両国関係は深刻な外交的亀裂を生じる可能性もあり、事件発生直後は、極力政治レベルの問題にしないように対処しつつ、その後暫くして日本政府は「お互い独立国家として、長期の友好関係を考慮する必要がある」として、事態打開のために、高度の政治判断により曖昧なままに決着させることにしました
⑱ 慰安婦問題に関する日韓合意(2015年)
2015年12月28日にソウルの外交部で行われた岸田文雄外務大臣と韓国の尹炳世外交部長官による外相会談後の共同記者発表(日韓両国はこの合意の際に公式な文書を交わさないこととしました)で以下について合意したことを発表しました;
①両外相は「日韓間の慰安婦問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する」
② 韓国政府が元慰安婦支援のため設立する財団に日本政府が10億円を拠出し、両国が協力していくことを確認
③日韓両政府が今後国際連合など国際社会の場で慰安婦問題を巡って双方が非難し合うのを控える
④ソウルの在韓日本国大使館前に設置されている慰安婦像について「日本政府が大使館の安寧・威厳の維持の観点から懸念していることを認知し、韓国政府としても可能な対応方向について関連団体との協議を行うことなどを通じて適切に解決されるよう努力する」と表明。
共同記者発表に於ける岸田外相の発言「当時の軍の関与のもとに多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、日本政府は責任を痛感している」。安倍晋三首相も日本国の首相として「改めて慰安婦としてあまたの苦痛を経験され心身にわたり癒やしがたい傷を負われた全ての方々に心からおわびと反省の気持ちを表明する」
共同記者発表に於ける尹長官は「両国が受け入れうる合意に達することができた。これまで至難だった交渉にピリオドを打ち、この場で交渉の妥結宣言ができることを大変うれしく思う」と発言、これを受け岸田外相もソウル日本大使館前の慰安婦像の扱いについて「適切に移転がなされるものだと認識している」として慰安婦問題に「終止符を打った」と語った
第二次大戦後の韓国の政治状況
韓国の政治の特異な点は、初代の李承晩大統領から第18代の朴槿恵大統領に至るまで、殆どの大統領は、任期中、あるいは退任後に政敵により失脚、乃至重罪を課せられています。詳しくは、以下をご覧ください;
㋑ 李承晩(第1代~第3代) 1948年~1960年
第二次大戦後、独立運動に参加。アメリカの支援を受けて大韓民国を設立しました。不正選挙を行い、革命で失脚後にハワイ亡命。その後、母国に戻れずハワイで客死
㋺ 尹潽善(第4代) 1960年~1962年
ソウル市長を歴任後、李承晩政権後に大統領に就任するものの、クーデターにより大統領辞任。その後は野党の総裁として活動するも、軍法会議にかけられ、「憲法の秩序を乱した活動」として懲役3年の実刑判決を受けました
㋩ 朴正煕(第5代~第9代)1963年~1979年
日本統治下の朝鮮に生まれ、創氏改名で高木正雄と名乗りました。後に軍人になり、満州国陸軍士官学校に志願入隊しました。卒業後は成績優秀者が選抜される日本の陸軍士官学校への留学生となり、第57期生として日本式の士官教育を受けました。帰国後は満州軍第8団(連隊)副官として八路軍や対日参戦したソ連軍との戦闘に加わり、内モンゴル自治区で終戦を迎えました。
第二次世界大戦後、中国の北京に設置されていた大韓民国臨時政府(朝鮮系住民による独立組織)に加わり、朝鮮半島の南北分離時には南部の大韓民国を支持して国防警備隊の大尉となりました。国防警備隊が韓国国軍に再編された後も従軍を続け、朝鮮戦争終結時には陸軍大佐にまで昇進、1959年には陸軍少将・第2軍副司令官の重職に就きました
内戦を終えた韓国内では議会の混乱によって復興や工業化などが進まず、また軍内の腐敗も深刻化していた為、軍の将官・将校・士官らの改革派を率いてクーデターを決行し軍事政権(国家再建最高会議)を成立させました(5.16軍事クーデター)
その後、形式的な民政移行が行われた後も実権を握り続け、自身の政党である民主共和党の大統領に就任しました。就任後は、日本の佐藤栄作内閣総理大臣との間で日韓基本条約を締結して日韓両国の国交を正常化するとともに、アメリカのジョンソン大統領の要請を受けて1964年にベトナム戦争に韓国軍を派兵しました。日米両国の経済支援を得て「漢江の奇跡」と呼ばれる高度経済成長を達成しました。1979年韓国中央情報部の部長の金載圭によって暗殺されました。朴槿恵韓国大統領の実父。長男(朴槿恵の弟)は麻薬により数回逮捕歴があります。
㋥ 崔圭夏(第10代)1979年~1980年
朴正煕大統領の暗殺により、首相であった崔圭夏が大統領代行に就任しまし、その後そのまま大統領に就任しました。
しかし、朴正煕大統領の暗殺後、「ソウルの春」と呼ばれる民主化ムードが続いていましたが、軍部では維新体制の転換を目指す上層部と、朴正煕に引き立てられた中堅幹部勢力(一心会)との対立が表面化していました。1979年12月12日、保安司令官全斗煥陸軍少将が、戒厳司令官の鄭昇和陸軍参謀総長を逮捕し、軍の実権を掌握しました(粛軍クーデター)。全斗煥が率いる新軍部は1980年5月17日、全国に戒厳令を布告し、野党指導者の金泳三、金大中や、旧軍部を代弁する金鍾泌を逮捕・軟禁しました(5.17非常戒厳令拡大措置)
光州事件:このクーデターに抗議して学生デモが起きましたが、戒厳軍の暴行が激しかったため、これに怒った市民が参加しデモ参加者は約20万人にまで増え、木浦をはじめ全羅南道一帯に拡がりました。市民軍は武器庫を襲うと、銃撃戦の末に全羅南道道庁を占領する事態にまでに過激化しましたが、5月27日に政府によって鎮圧されました。この時の犠牲者は193人に上ると言われています
結局、こうした政治情勢のなかで崔圭夏は主導権を握れないまま辞任しました
㋭全斗煥(第11代、第12代)1980年~1988年
日本の陸軍士官学校に入学した軍人出身。在任中は暗殺未遂事件(ラングーン爆弾テロ事件)に遭い、北朝鮮による大韓航空機爆破事件も発生するなど、北朝鮮との関係が緊張した時代でした。言論統制や戒厳令を発令するなど強権的な面があり、ライバル関係にあった後の金大中大統領に死刑判決を出すなどしました。しかし退任後は民主化デモの鎮圧・市民の虐殺(光州事件)、不正蓄財の罪で死刑判決を受けたものの、かつてのライバルであった金大中大統領に恩赦されました。
尚、特筆すべきことは、全斗煥は、韓国の歴代大統領としては初めて、朝鮮半島が日本の領土となったことは、自分の国(当時の大韓帝国)にも責任があったと認め、当時日本でも大きく報道されました。また、1981年8月15日の光復節記念式典の演説では、「我々は国を失った民族の恥辱をめぐり、日本の帝国主義を責めるべきではなく、当時の情勢、国内的な団結、国力の弱さなど、我々自らの責任を厳しく自責する姿勢が必要である」と主張しています
㋬ 盧泰愚(第13代)1988年~1993年
軍人出身で、陸軍士官学校で全斗煥と同期。大統領在任中は前大統領の全斗煥の不正を追求するも、退任後は過去のクーデターに関連したとされ、更に不正蓄財などにより懲役17年の実刑判決を受けました
㋣ 金泳三(第14代) 1993年~1998年
30年以上続いていた軍事政権を終わらせ、献金を一切受け取らないなど不正の撤廃を徹底、日本に対しては強気の姿勢で発言して国民に人気がありました。大統領の任期終盤にはアジア通貨危機が発生し、IMF支援を要請するなど経済が混乱しました。また次男があっせん収賄と脱税で逮捕されたこともあり国民からの人気が低迷しました
㋠ 金大中(第15代) 1998年~2003年
野党の有力政治家として朴正煕大統領から狙われ、民主化運動に取り組んでいる東京滞在中、ホテルから拉致される(金大中事件)など、活動が制約されました。その後も民主化の流れのなかで死刑判決を受けてアメリカに出国するなどしたものの、全斗煥大統領から政治活動再開を許されて帰国。
大統領就任後は経済立て直しに力を入れ、サムスンやヒュンダイなどを世界的企業にするなどの成果を上げました。北朝鮮との対話政策を進めて、ノーベル平和賞を受賞しました。尚、息子3人は共に賄賂で逮捕されています。
㋷ 盧武鉉(第16代) 2003年~2008年
韓国では初の第二次大戦以降に生まれた大統領で、日本の統治時代も未経験の世代。貧農の生まれながらも弁護士として成功し、政界に進出。全斗煥への不正追求で、一気に有力政治家になりました。大統領就任後は支持率が伸び悩み、対日政策においても強硬路線を通しました。退任後は親族や側近が不正疑惑で相次いで逮捕され、自身も捜査対象になった最中、自宅の裏山のミミズク岩と呼ばれる崖から投身自殺しています。
㋦ 李明博(第17代)2008年~2013年
大阪市の平野区で韓国人の両親のもとに生まれ日本名を月山明博といい、帰国後は苦学の後に大学を卒業しました。学生による民主化運動に関わって就職に困ったなかで、社員数十人だった「現代建設」に入社。27年後の退職時には社員数16万人の大企業に育て上げた実績があり、「立身出世」の人物として高い人気がありました。ソウル市長を歴任後、大統領に就任し、日本に対して強硬路線(竹島上陸・天皇への謝罪要求)を通しました
退任後は収賄により国会議員の実兄があっせん収賄で逮捕され、自身も土地の不正購入などの疑惑があり、李明博の長男も捜査対象になりました。また、国家情報院からの裏金上納、世論操作などの疑惑も上がっています。2018年3月、ソウル中央地裁は李明博元大統領に対する逮捕状を発行しました
㋸ 朴槿恵(第18代) 2013年~2017年
朴正煕元大統領の長女で1952年生まれ。韓国初の女性大統領。両親ともに暗殺されています。2015年年12月28日の日韓外相会談で日韓間の慰安婦問題の最終的かつ不可逆的な解決を確認しました。その後、民間人への機密漏洩問題などで弾劾訴追され、2017年3月大統領を罷免されました。その後、2018年8月24月、ソウル高裁で懲役24年の実刑判決を受けています
「お詫び」の歴史
1965年の日韓基本条約・經濟協力協定締結後も、歴代首相、天皇・皇太子は以下の様に韓国への「お詫び」を繰り返しています(中国、その他の東南アジア諸国への“お詫び”を除く);
① 1984年9月、全斗煥大統領が国賓として初訪日した際の歓迎の宮中晩餐会に於ける 昭和天皇の発言 「、、今世紀の一時期において、両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならないと思います」
② 1984年9月、全斗煥大統領歓迎の首相主催の晩餐会における曽根康弘首相の発言「、、貴国および貴国民に多大な困難をもたらした、、、深い遺憾の念を覚える、、、」
③ 1990年5月、盧泰愚大統領が国賓として初訪日した際の歓迎の宮中晩餐会で、平成天皇は、①の昭和天皇の言葉を引用しつつ「我が国によってもたらされたこの不幸な時期に、貴国の人々が味わわれた苦しみを思い、私は痛惜の念を禁じえません」と発言しています
④ 1990年5月、盧泰愚大統領歓迎の首相主催の晩餐会で、海部俊樹首相の発言「私は、大統領閣下をお迎えしたこの機会に、過去の一時期,朝鮮半島の方々が我が国の行為により耐え難い苦しみと悲しみを体験されたことについて謙虚に反省し、率直にお詫びの気持を申し述べたいと存じます」
⑤ 1992年1月、盧泰愚大統領の2度目の訪日時の晩餐会に於いて、 宮澤喜一首相の発言は「私たち日本国民は,まずなによりも,過去の一時期,貴国国民が我が国の行為によって耐え難い苦しみと悲しみを体験された事実を想起し、反省する気持ちを忘ないようにしなければなりません。私は、総理として改めて貴国国民に対して反省とお詫びの気持ちを申し述べたいと思います」と発言しています
また翌日、「我が国と貴国との関係で忘れてはならないのは、数千年にわたる交流のなかで、歴史上の一時期に,我が国が加害者であり、貴国がその被害者だったという事実であります。私は、この間、朝鮮半島の方々が我が国の行為により耐え難い苦しみと悲しみを体験されたことについて、ここに改めて、心からの反省の意とお詫びの気持ちを表明いたします。最近、いわゆる従軍慰安婦の問題が取り上げられていますが,私は、このようなことは実に心の痛むことであり,誠に申し訳なく思っております」
*1993年8月、従軍慰安婦に関する河野談話(当時官房長官):いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる
⑥ 1993年11月、細川護煕総理が訪韓し、金泳三大統領との首脳会談を行った際の発言は「わが国の植民地支配によって朝鮮半島の人々が母国語教育の機会を奪われたり、姓名を日本式に改名させられたり、従軍慰安婦、徴用など耐え難い苦しみと悲しみを経験されたことに加害者として心から反省し、深く陳謝したい」 その結果として、この年両国間で「未来志向の日韓フォーラム」が創設された
⑦ 1995年7月、村山富市首相の発言は「いわゆる従軍慰安婦の問題もそのひとつです。この問題は、旧日本軍が関与して多くの女性の名誉と尊厳を深く傷つけたものであり、とうてい許されるものではありません。私は、従軍慰安婦として心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対して、深くおわびを申し上げたいと思います」
* 1995年8月、村山内閣総理大臣談話“戦後50周年の終戦記念日にあたって”:植民地支配とアジア諸国への侵略に対しお詫びする内容
⑧ 1996年6月、橋本龍太郎首相の初の訪韓における日韓共同記者会見における発言は「例えば創氏改名といったこと。我々が全く学校の教育の中では知ることのなかったことでありましたし、そうしたことがいかに多くのお国の方々の心を傷つけたかは想像に余りあるものがあります、、、また、今、従軍慰安婦の問題に触れられましたが、私はこの問題ほど女性の名誉と尊厳を傷つけた 問題はないと思います。そして、心からおわびと反省の言葉を申し上げたいと思います」
⑨ 1996年年10月、金大中大統領が国賓として訪日した際、歓迎宮中晩餐会に於ける平成天皇の発言は「このような密接な交流の歴史のある反面、一時期、わが国が朝鮮半島の人々に大きな苦しみをもたらした時代がありました。そのことに対する深い悲しみは、常に、私の記憶にとどめられております」
* 1998年年7月15日のオランダ王国のコック首相に対する橋本龍太郎首相の書簡「我が国政府は、いわゆる従軍慰安婦問題に関して、道義的な責任を痛感しており、国民的な償いの気持ちを表すための事業を行っている「女性のためのアジア平和国民基金」と協力しつつ、この問題に対し誠実に対応してきております。私は、いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題と認識しており、数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての元慰安婦の方々に対し心からのおわびと反省の気持ちを抱いていることを貴首相にお伝えしたいと思います」「我々は、過去の重みからも未来への責任からも逃げるわけにはまいりません。我が国としては、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えながら、2000年には交流400周年を迎える貴国との友好関係を更に増進することに全力を傾けてまいりたいと思います」
⑩ 1998年年10月、 小渕恵三首相と金大中大統領との間で交わされた日韓共同宣言 “21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ”「両首脳は、日韓両国が21世紀の確固たる善隣友好協力関係を構築していくためには、両国が過去を直視し相互理解と信頼に基づいた関係を発展させていくことが重要であることにつき意見の一致をみた。小渕総理大臣は、今世紀の日韓両国関係を回顧し、我が国が過去の一時期韓国国民に対し植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのお詫びを述べた。金大中大統領は、かかる小渕総理大臣の歴史認識の表明を真摯に受けとめ、これを評価すると同時に、両国が過去の不幸な歴史を乗り越えて和解と善隣友好協力に基づいた未来志向的な関係を発展させるためにお互いに努力することが時代の要請である旨表明した」
⑪ 2001年10月、小泉純一郎首相の発言「日本の植民地支配により韓国国民に多大な損害と苦痛を与えたことに心からの反省とおわびの気持ちを持った」。「いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題でございました。私は、日本国の内閣総理大臣として改めて、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを申し上げます。 我々は、過去の重みからも未来への責任からも逃げるわけにはまいりません。わが国としては、道義的な責任を痛感しつつ、おわびと反省の気持ちを踏まえ、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、いわれなき暴力など女性の名誉と尊厳に関わる諸問題にも積極的に取り組んでいかなければならないと考えております、、、」
* 2002年年9月、小泉談話:日本側は、過去の植民地支配によって、朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えたという歴史の事実を謙虚に受け止め、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明する」
⑫ 2007年年4月、 日米首脳会談後の記者会見に於ける安倍晋三首相の発言「慰安婦の問題について昨日、議会においてもお話をした。自分は、辛酸をなめられた元慰安婦の方々に、人間として、また総理として心から同情するとともに、そうした極めて苦しい状況におかれたことについて申し訳ないという気持ちでいっぱいである、20世紀は人権侵害の多かった世紀であり、21世紀が人権侵害のない素晴らしい世紀になるよう、日本としても貢献したいと考えている、と述べた。またこのような話を本日、ブッシュ大統領にも話した」
⑬ 2012年12月、岸田文雄外務大臣と韓国の尹炳世外交部長官による外相会談後の共同記者発表を受け、同日夜、安倍首相と朴槿恵大統領は約15分間の首脳電話会談を行い、両首脳は慰安婦問題をめぐる対応に関し合意に至ったことを確認し評価しました
安倍首相の発言「日本国の内閣総理大臣として改めて、慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒やしがたい傷を負われた全ての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを表明する、また、慰安婦問題を含めた日韓間の財産・請求権の問題は1965年の日韓請求権・経済協力協定で最終的かつ完全に解決済みとの我が国の立場に変わりはないが、今回の合意により慰安婦問題が『最終的かつ不可逆的に』解決されることを歓迎する」
朴大統領の発言「今次外相会談によって慰安婦問題に関し最終合意がなされたことを評価するとしたうえで新しい韓日関係を築くために互いに努力していきたい」
条約・国際協定と憲法との関係
慰安婦問題や徴用工問題に対し、日本政府は一貫して、日韓間で合意した合意事項を一方的に破るのは国際法違反で不当なことと表明していますが、以下の条文をご覧になれば、この主張は妥当ではないかと思われます
日本国憲法;
第73条 内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行う
2 外交関係を処理すること
3 条約を締結すること。但し、事前に、時宜によっては事後に、国会の承認を経ることを必要とする
第98条 この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない
2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする
大韓民国憲法;
第6条 ① この憲法に基づいて締結、公布された条約及び一般的に承認された国際法規は、国内法と同等の効力を有する。
② 外国人は、国際法及び条約が定めるところにより、その地位が保障される
第73条 大統領は、条約を締結し、批准し、外交使節を信任し、接受し、又は派遣し、宣戦布告及び講和を行う
国際法では;
国際間の条約、協定等に係る国際法については、それまで慣習法として発展してきたものを、内容をより明確化し,現実に合せるべく国連国際法委員会が作成した草案を基に1968年と1969年に開かれた国連条約法会議が審議の結果採択されたものです。日本は1981年7月にこの条約に加盟しました。一方韓国は1977年4月にはこの条約を批准しています(詳しくは条約法に関するウィーン条約をご覧ください)
この条約の第二条(用語)、第1項(b)に“「批准」、「受諾」、「承認」及び「加入」とは、それぞれ、そのように呼ばれる国際法の行為をいい、条約に拘束されることについての国の同意は、これらの行為により国際的に確定的なものとされる”と記述されており、二国間の条約や協定は相手国の同意がない限り簡単に踏みにじることはできないと解することが至当である言えると思います
こうした明文法が無かった時代にあっても、一旦、国同士で締結された条約は、仮にそれが不平等であってもそれを解消したり、改正するには相当難しい交渉が必要になります。因みに、幕末の1858年に結ばれた「安政の五か国条約(対アメリカ・イギリス・フランス・オランダ・ロシア)」は、領事裁判権(治外法権)を認めていること、関税自主権が無いこと、などの点で不平等な条約ですが、領事裁判権が撤廃されたのは1894年、関税自主権を獲得したのは1911年であり非常に長い時間を要しました
緊張する日韓関係を解くカギは?
韓国人の心の中では;
「日韓愛憎?の歴史・クイックレビュー」の中の;③倭寇の跋扈、④秀吉による朝鮮征伐、⑥日朝修好条規・日清戦争、⑦韓国併合、⑧第一次世界大戦と韓国の独立運動、⑨関東大震災時の朝鮮人虐殺事件、⑩創氏改名、⑪日中戦争~第二次大戦、
の項で述べた様に、日本人が朝鮮人を迫害し、誇りを傷つけてきた歴史を、親からの言い伝えや教育の場で教えられてきていれば(誇張されていることもあるかもしれません)、日本人を憎んでいる人たちが多くいても不思議はありません
一方、日本人の心の中では;
明治維新以降、列強の仲間入りをする過程で朝鮮を近代化する助けを行った意識がある一方、敗戦後の苦しい時期に、「日韓愛憎?の歴史・クイックレビュー」の中の;⑫終戦後満州、朝鮮に残された日本人に対する迫害、⑭李承晩ライン、竹島の実効支配
などの歴史に絡んだ日本人にとっては、日本人の倫理観の中心にある「惻隠の情」に欠けるずるい人と思う人が多くいることも事実です
また、韓国内の政治情勢の中で注目しておくべきことは;
日本統治時代の、「三一独立運動」(ref:⑧第一次世界大戦と韓国の独立運動)と戦後の、「光州事件」(ref:㋥崔圭夏)で示された民衆運動のエネルギーの大きさです。ごく最近の「蝋燭デモ」で朴槿恵大統領が任期途中で政権を追われ懲役24年の判決を受けていること、万景峰号事件における大衆の怒りの盛り上がりにも同じようなパワーを感じます。これらの朝鮮人の平均的「性情」が、強力な統制を行った軍人大統領の時代が終わった後、韓国政治がポピュリズムに流れている原因の様に思われます
これまで何度も行われてきた「お詫び」については;
「お詫び」の歴史の項をご覧になれば分かると思いますが、首相や皇室による「お詫び」は、韓国以外の国々(中国、東南アジア諸国、オランダ、など)には国民同士の融和に一定程度の効果があったことは間違いの無いことですが、韓国に対しては憎しみ、怨みがベースになっている以上、国民同士の融和にはあまり効果が無かったように思われます
そもそも、戦争によって発生した戦争犯罪であれば、罪を犯した人に対する懲罰(戦犯裁判)と、国家の賠償(賠償金、領土の割譲、など)で解決されるべきものであり、当事者でない後世の国民が負うべきものでないのは世界の常識です。同じ様に、帝国主義時代における植民地の人々に対する贖罪も、開発援助や移民のを受け入れ、などによって行うことが、当時列強国として植民地経営を行っていた欧米諸国の常識です
ただ、国が犯した犯罪について、たとえそれが遠い過去のことであっても、国民一人一人が歴史を学び、被害者に対しての哀悼の念を持ち続け、二度と同じ過ちを犯さない様に政治に関与していく義務はあると思います
これらを勘案すると、日韓関係で今必要なことは、以下に集約できるのではないでしょうか(私見);
A.時間をかけること。民衆のエネルギーが高まったときは、時間をかけて収まるのを待つしかありません。性急に経済制裁などの発動は行わず、遅くとも2025年には文在寅大統領の任期が終わるので、それを待つ位の忍耐力が必要
B.正しいことは言い続けること。「日韓基本条約」で韓国が請求権を放棄している徴用工問題は国際司法裁判所への提訴を視野に、着々と準備を進めること。またレーダー照射事件については、韓国の対応は「金大中拉致事件」と同じ経過をたどっていますので、米・英・仏・豪などの西太平洋の同盟国、準同盟国との間で情報の共有を図っておくことが有用と思われます
C.慰安婦問題は、ベトナム、イギリスと協調して「ライダイハン」問題の顕在化の努力を行い、韓国内世論の鎮静化を図ること。また、慰安婦問題のユニセフ「記憶遺産」登録を、あらゆる手段をもって阻止すること
D.日本国内の「嫌韓」世論の盛り上がりを極力抑止すること。SNSによる「嫌韓」のバカ騒ぎは、日韓を除く第三国の顰蹙を買うだけと思われます
Follow_Up:2019年8月22日、韓国「GSOMIA」破棄を通告
* GSOMIAとは:Generel Security of Military Information Agreemen(軍事情報包括保護協定)
* 日韓対立、安保に波及 対北朝鮮連携に不安
* 文政権・米説得聞かず反日世論あおる_保守勢力は批判
* 米国務長官、韓国の日韓軍事協定破棄に「失望した」
以上