パレスチナ問題についての一考察

―はじめに―

現在のパレスチナの状況は、昨年(2023年)10月7日のハマスによるイスラエル奇襲が発端となっています
当日、約2,900人のハマス戦闘員がイスラエル側に侵入し、付近の住民を含めユダヤ人1139人を殺害すると共に人質251人がガザ地区に連行され、トンネルなどに拘束されました(イスラエル軍からの情報によれば、2024年8月現在111人は今もガザで拘束されており、 39人は既に死亡しているとのこと)

上の画像は、翌8日、パレスチナ自治区ガザから発射された2千発を超えるロケット弾を、イスラエルの防空システム「アイアンドーム」で迎撃している状況です
この奇襲は、欧米先進国のハマスに対する非難を呼ぶと共に、それまで進んでいたイスラエルと中東アラブ主要国との雪解けムードに水を差す結果となりました。またイスラエルの報復攻撃によってガザ地区住民に多くの死傷者を出す結果となりました(8月下旬の時点で子供を含む死者が4万人を超えています)
米国、エジプト、カタールによる停戦の仲介が精力的に行われているものの、ハマスをバックアップしているイランを訪問中であったハマス指導者イスマイル・ハニヤ氏の暗殺が行われたことから、イラン・イスラエル間の大規模な戦争の危機も考えられる状況になってきました

我々日本人にとって、有史以来世界史の中心になってきた中東地区の政治状況を理解するのは中々難しい事ではありますが、浅学を顧みず勉強してみた結果を以下にご紹介したいと思います

目次

* 基礎的な知識
パレスチナ地域をめぐる帝国、王国の興亡_Quick Review
ユダヤ人受難の歴史
イスラエルの独立とパレスチナ人受難の歴史
おわりに(パレスチナ戦争に関する私見)
(注)下線のある章にはクリックすることによりジャンプできます

基礎的な知識

0.ユダヤ人、ヘブライ人、イスラエル人の違いとは;
結論先に言うと全て同じ民族を指しています
*ユダヤ人:“バビロン捕囚
(後述します)”以降の呼び名。イスラエルを構成する12部族のユダ族が由来です
*ヘブライ人:他民族からの呼び名。特にエジプトの奴隷時代にそう呼ばれていた
*イスラエル人:イスラエルという国に住んでいる自らの呼び名です。神から与えられた名で、宗教的な意味を含む
「イスラエル」の宗教的な意味とは;
イスラエルという国名は、旧約聖書に登場するヤコブ(Jacob)という人物に由来しています。ヤコブは神と格闘し、その後神から「イスラエル(Israel)」という名前を授けられました。この名前はブライ語で「神と闘う者」または「神に勝つ者」という意味があります
ヤコブには12人の子供がいて、彼らの子孫がイスラエルの12部族の祖先となりました。このため、イスラエルという名前は神の子孫とその国を指すようになりました
尚、十字軍の侵攻によって生まれたイスラエルという国(後述)の人々は、必ずしもユダヤ人ばかりとは限りません。十字軍は中世において、ヨーロッパのキリスト教徒が聖地エルサレムをイスラム教徒から奪還するために行った遠征です。その過程で、現地の住民や他の地域からの移住者が混ざり合いました。
イスラエルのユダヤ人の歴史は、十字軍よりもはるかに古く、紀元前千年頃にダビデ王がエルサレムを首都としたユダ王国(後述)にまで遡ります
以降、特に説明をせずに、参照した資料で使われている名称をそのまま使用しています

1.アラブ人とは;
主にアラビア半島や西アジア、北アフリカなどの国々に居住し、アラビア語を話しアラブ文化を受容している人々を指します。7世紀にムハンマド(マホメット)によってイスラム教が開かれ、今もなお中東・北アフリカの多くの国々はイスラム教を国教としています(下図参照)

*上記の国々はアラブ人が大多数を占めています。因みに、これらの国々の人口の概数は以下の通りです;サウジアラビア(約3,500万人)、イラク(約4,000万人)、エジプト(約1億人)、シリア(約1,800万人)、ヨルダン(約1,000万人)、レバノン(約600万人)、バーレーン(約170万人)、クウェート(約450万人)、オマーン(約500万人)、カタール(約280万人)、UAE/アラブ首長国連邦(約1,000万人)、モロッコ(約3,600万人)、アルジェリア(約4,400万人)、チュニジア(約1,200万人)、リビア(約700万人)、スーダン(約4,500万人)
*パレスチナ問題では度々イラントルコが登場しますが、イラン人、トルコ人の大多数はアラブ人ではありません
(参考)スーダンとソマリアに挟まれた国の南部はエチオピアです。キリスト教徒が2/3、イスラム教徒が1/3の人口構成です。一方、北部の紅海沿いの国はエリトリアで、1993年にエチオピアから独立しました。キリスト教徒とイスラム教徒人口が半々の人口構成です

2.イスラム教の二大宗派とは;
ムハンマド(マホメット)によって開かれたイスラム教は、現在スンニ派シーア派に分かれており過去から争いが絶えません。ただ、イスラエルを敵視している点は両派とも変わりはありません。同じ国にこの2つの宗派が混在している国も多くあります
スンニー派住民の割合;

シーア派住民の割合;

3.パレスチナ人とは;
パレスチナ人とは、主にパレスチナ地域に住むアラブ人を指します。彼らは独立した民族として認識されており、歴史的にはこの地域に長く住んでいた人々です。パレスチナ人の多くはイスラム教スンニ派を信仰していますが、キリスト教徒も存在します
パレスチナ人の起源は、東ローマ帝国時代のヘブライ人サマリア人(下記注参照)などがアラブ人の征服によって次第にイスラム教に改宗し、言語的にアラブ化したことにあります。現在、パレスチナ人はパレスチナ地域だけでなく、以下の国々にも移住しています;
①パレスチナ(約400万人)、②ヨルダン(約300万人)、③イスラエル(約132万人)、④チリ(45〜50万人)、⑤シリア(約44万人)⑥レバノン(約41万人)エジプト(約7万人)アメリカ合衆国(約7万人)、⑨ホンジュラス(約5万人)、⑩クウェート(約5万人)、⑪ブラジル(約5万人)、⑫イエメン(約2万人)、⑬カナダ(約2万人)、⑭オーストラリア(約2万人)、⑮コロンビア(約1万人)、⑯グアテマラ(約1400人)
(注)サマリア人とは:ホロン(テルアビブ近郊)とシェケム(ヨルダン川西岸地区のナーブルス/Nablus近郊)を中心に住む人々。北イスラエル10部族のうちエフライム族・マナセ族に加え、レビ族の末裔を自任している人々

4.パレスチナ問題に登場する国家ではない主な政治・軍事集団;
① ファタハ:主にパレスチナのヨルダン川西岸地区を拠点としています。この地域には約309万人のパレスチナ人が住んでおり、ファタハはその中で大きな影響力を持っています。尚、ファタハの正確な人口は公表されていません
ファタハは、1957年にヤーセル・アラファト(1929年8月~2004年11月)によって設立されたパレスチナの政党です。その名称は「パレスチナ民族解放運動」(Harakat at-Tahrir al-Watani al-Filastini)のアラビア語の頭文字を逆に並べたもので、「征服」や「勝利」を意味します
ファタハは、パレスチナ解放機構(PLO/Palestine Liberation Organizationの主要な構成組織であり、イスラエルに対する武装闘争を行ってきました。1967年の第三次中東戦争後にPLOに加入し、アラファトがPLOの議長に就任しました。その後、ファタハはレバノンに本拠を移し、1980年代には穏健路線に転換しました。
2006年のパレスチナ評議会選挙ではハマスに敗れましたが、現在もマフムード・アッバースがパレスチナ自治政府の大統領としてファタハを率いています

②ハマス:1987年、パレスチナ住民の反イスラエル闘争(インティファーダ:後述します)が広がった際に結成されたスンニ派イスラム武装組織ガザ地区で活動する戦闘員は約3万人(この数は2023年10月7日の軍事衝突が始まる前の段階での推定)とされています。2006年にはパレスチナ評議会選挙で勝利し、その後ガザ地区を武力制圧し、2007年からガザ地区を実効支配しています
尚、ガザ地区には約230万人のパレスチナ人が住んでおり、世界で最も人口密度が高い場所の一つになっています。ガザ地区はイスラエルが設置した壁やフェンスに囲まれており、移動の自由が無いことから「天井のない監獄」と呼ばれており、住民の約8割が国際支援を頼りに生活している状況です
③イスラム聖戦:1979年のイラン革命に影響を受けて設立されたスンニ派の軍事組織です。ガザにおいては同地区を実効支配する「ハマス」に次ぐ規模を持ち、武力でイスラエルを打倒し、イスラム国家を樹立することを目指しています。ガザ地区における戦闘員数は、正確な数を把握するのが難しいのですが、数千人規模とされています。最近の報道によると、イスラエル軍はガザ地区で600人以上の戦闘員を拘束したと発表しています
*2019年11月、ガザ地区からのロケット弾発射に対する報復としてイスラエル軍によりバハ・アブー・アル=アタ司令官の自宅が攻撃を受け、司令官とその妻が死亡しました


④フーシ派:
イランからの支援を受けたシーア派の反政府武装組織で、イエメン政府と約20年間戦い続け、主にイエメンの北西部と首都サヌアを実効支配しており、サウジアラビアのアシール地方南部にも活動地域があります。フーシ派の戦闘員の数は、2022年の推定で最大約20万人とされています
*今回のハマス・イスラエル戦争において、ミサイルでイスラエルへの攻撃を行うと共に、紅海の出口付近で一般商船の拿捕、米軍への攻撃などを行っています

2024年8月24日_フーシ派、紅海で石油タンカーを攻撃したとする映像公開・原油15万トン積載

⑤ヒズボラ:ヒズボラは1982年に結成されたシーア派イスラム主義の政治・武装組織です。イランとシリアからの支援を受けており、レバノン南部やベイルートを拠点に活動しています。
彼らは、イスラエルの殲滅やレバノンでのイスラム共和制の樹立を掲げており、主な居住地は、レバノンの南部とベイルートの南部郊外です。特にレバノン南部のナバティエ県やベッカー県に強い影響力を持っています。
ヒズボラの正確な人口は公表されていませんが、戦闘員の数は数万人と推定されています。また、ヒズボラはレバノン国内で広範な支持基盤を持っており、特にシーア派コミュニティからの支持が強いと言われています
*今回のハマス・イスラエル戦争においては、度々ミサイルでイスラエルを攻撃しています
FollowUp:2024年9月24日「イスラエルのレバノン空爆、最大規模 死者550人以上に

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パレスチナ地域をめぐる帝国、王国の興亡_Quick Review

パレスチナ地域は紀元前から多くの帝国、王国の興亡があり、これらを簡単に説明するのは容易ではありません。従って筆者が高校時代の世界史の授業で使われた吉川弘文館の「世界史地図」からの抜粋、及びネット上に掲載されている歴史地図を以下の様に年代順に並べ、視覚的に歴史の大雑把な流れを理解してもらうことにしました

紀元前10世紀頃にはイスラエル王国とユダ王国が存在していました

紀元前722年、アッシリア帝国が北のイスラエル王国を征服しました

紀元前587年、バビロニア帝国が南のユダ王国を征服しました

紀元前539年、アケメネス朝ペルシアがバビロニアを征服し、パレスチナ地域を支配しました

紀元前332年、アレクサンダー大王がペルシアを征服しました

紀元前63年、ローマ帝国がパレスチナを支配しました

7世紀、イスラム帝国(ウマイヤ朝、アッバース朝)が支配しました

11世紀、十字軍が一時的にエルサレム王国を建国しました

12世紀末、アイユーブ朝(スンニ派のイスラム王国)が十字軍を排除し、イスラム支配を回復しました

16世紀、 オスマントルコ帝国がパレスチナを含む中東、北アフリカを支配し、この状態が第一次世界大戦まで続くことになりました

1917年、 第一次世界大戦の結果、イギリスがパレスチナとトランスヨルダンを委任統治することになりました

1948年、イスラエル国が建国され、現在に至っています
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ユダヤ人受難の歴史

紀元前12世紀頃の出エジプト記;
出エジプト記/the Exodus」はユダヤ教のヤハウェ神旧約聖書に登場するユダヤ教の唯一神であり、万物の創造者とされています)によるユダヤ民族に対する救済であり、ユダヤ教の成立の最も重要な契機とされていますが、同時代の他の歴史資料には見られません。ただ、パレスチナの遊牧民が豊かなエジプトに移住し、建築労働などに従事していたことはメソポタミア側の資料に出てくることが知られており、全くの虚構であるとは言えません。ヘブライ人の一部がエジプトで奴隷とされたこと、彼らがパレスチナに戻り、その経験がイスラエル人全体の民族的体験に拡大されたことは十分に考えられます
旧約聖書には、ヘブライ人は「ピトムとラメセス」の町の建設に従事したとあり、これはエジプト新王国のラムセス2世(新王国第19王朝のファラオ/在位:紀元前1279年頃 – 紀元前1213年頃)が建設した「ラメセスの家」のことと考えられます

出エジプト記」は、旧約聖書の中の2番目の書(因みに有名な1番目の書は「創世記」)で、モーセがエジプトで奴隷となっていたヘブライ人を率いて、約束の地カナン(現在のパレスティナ地方)へと導く物語が描かれています。旧約聖書はユダヤ教、キリスト教、イスラム教において重要な聖典とされており、神と人間の契約、信仰、解放といった普遍的なテーマが扱われています。この物語の中では預言者「モーセ」がユダヤ人を率いて紅海を割って渡り無事に脱出した後シナイ山で神から「十戒」を受け取り、イスラエル人と神との契約が結ばれます。このエピソードは大変ドラマティックなので、ハリウッドで映画化されており、私も幼い頃この映画「十戒」を見て大変感動したことを思い出します。因みにモーセ役は、確か?「チャールトン・ヘストン」、ラムセス2世役は「ユル・ブリンナー」が演じていたと思います

古代ローマ時代のユダヤ人迫害
古代ローマは紀元前753年に建国され、紀元後476年に滅びました。紀元前1世紀から紀元後3世紀まではローマ帝国の最盛期と見なされています。古代ローマ時代とは王政ローマ期(紀元前753年~紀元前509年)を指しますが。この時代ローマ帝国の支配下で、ユダヤ人は何度も反乱を起こし、その結果、パレスチナからの追放や、ローマ帝国各地への分散(ディアスポラ)を経験しました
ディアスポラとは:ギリシャ語で「散らされたもの」という意味を持つ言葉です。歴史的には、故郷を離れて世界各地に散らばった人々やそのコミュニティを指す言葉として用いられて、特にユダヤ人のディアスポラが有名で古代イスラエル王国の滅亡後、ユダヤ人たちはバビロン捕囚(下記参照)などを経て、世界各地に散らばっていきました。このユダヤ人のディアスポラは、長い歴史の中で宗教的迫害や政治的な動乱など様々な要因によって繰り返され、現代に至るまで世界各地にユダヤ人コミュニティが存在しています
ユダヤ人のディアスポラの特徴としては以下が挙げられます
① 故郷・イスラエルの地への強い思い
② 離散先でも独自の文化や伝統を守り続ける
(⇔他民族と同化しない?)
③ 迫害を受けた結果としてのユダヤ人コミュニティー内の強い結束力

紀元前5世紀 のバビロンの捕囚
新バビロニアの王ネブカドネザル2世により、ユダ王国のユダヤ人たちがバビロンを始めとしたバビロニア地方へ捕虜として連行され、移住させられた史実を指していますネブカドネザル2世は、ユダ王国の首都エルサレムを含む多くの都市を征服しました。彼は生き残った人々の大半をバビロンに強制移住させました。 最初の捕囚は紀元前597年、その後紀元前587年(又は586年)、紀元前582年(又は581年)、最後の捕囚は紀元前578年に行われたとされています
その後これらの捕囚となったユダヤ人はアケメネス朝ペルシャの初代の王キュロス2世による勅命(紀元前538年)によって解放され、イスラエルに戻ってエルサレムで神殿を建て直すことを許されました

中世ヨーロッパにおけるユダヤ人迫害
1.1096年の第一次十字軍中に、多くのユダヤ人が殺害された「十字軍の虐殺」がありました。特に「民衆十字軍」と呼ばれる一団が、ヨーロッパ各地を通過する際にユダヤ人コミュニティを襲撃し、多くのユダヤ人を殺害しました。虐殺の正確な人数を特定するのは難しいですが、歴史家たちは数千人から数万人に及ぶと推定しています
こうした迫害が起こった背景は以下が考えられます;
宗教的要因:十字軍は、キリスト教の聖地エルサレムをイスラム教徒から奪還することを目的としており、この宗教的熱狂は、異教徒と見なされたユダヤ人に対する敵意を煽ることになりました。多くの十字軍参加者は、ユダヤ人を「キリストの殺害者」として非難し、彼らに対する暴力を正当化しました
経済的要因:ユダヤ人は中世ヨーロッパで商業や金融業に従事しており、しばしば富裕層と見なされていました。十字軍の遠征には多額の資金が必要であり、ユダヤ人の財産を略奪することで資金を調達しようとする動きがありました
社会的要因:中世ヨーロッパでは、ユダヤ人はしばしば社会の周縁に追いやられ、差別や迫害を受けていました。十字軍の遠征は、このような社会的緊張を一層悪化させ、ユダヤ人に対する暴力行為が頻発しました

2. 1492年、スペインのカトリック君主フェルナンドとイサベルによってスペインからユダヤ人が追放されました
3.ポルトガルでも1497年にユダヤ人が強制的に改宗させられ、逃亡した者は処罰されました

近代ヨーロッパにおけるユダヤ人迫害
1.ロシア帝国によるユダヤ人迫害
 19世紀末から20世紀初頭にかけて、ロシア帝国やその周辺地域でポグロム(Pogrom/ロシア語/破壊、暴動)と呼ばれるユダヤ人のコミュニティーに対する暴力的な襲撃が頻繁に発生しまし、多くの人々が殺害されたり、財産を奪われたりしました。その他に;
皇帝エリザヴェータ(在位1741-1762)の時代には、ウクライナ、ロシアからのユダヤ人全員を追放し、以後入国も禁止しました
皇帝ニコライ1世(在位:1825年 – 1855年)は、ユダヤ人対策を強化しました。ユダヤ人に対してロシアの学校に通学するか、ロシア語で授業をすることを強要したものの、ロシア帝国公認の学校に通うユダヤ人生徒数は数千人にとどまった為、皇帝はユダヤ人への不信感をつのらせ、密輸入やスパイ容疑をかけられたユダヤ人は定住地域の境界線から50km以内の町や村からの強制退去を命じました。1827年にはユダヤ人徴兵法が成立させ、それまで人頭税で兵役を免除されていたユダヤ人にも兵役が義務づけられ、7歳以上のユダヤ人の子供を軍事教練に送りこむと同時にキリスト教に改宗させました
皇帝ニコライ2世(在位1894 – 1917年)は、1882年の臨時条例よりもユダヤ定住地域をさらに狭めて、ロシア人農民がユダヤ人から搾取されないようにユダヤ人の田園地帯・キエフ・ヤルタ(皇帝離宮がある)などでの居住を禁止すると共に、定住地域外では、ユダヤ人がロシア風を名乗る改名を禁止し、ユダヤ商店ではユダヤ人であると分かるように店舗に明示することが義務づけました。また、1887年から学校でのユダヤ人定員が制限されました

Follow_Up:2024年10月3日「イスラエルの強硬姿勢の源流ホロコーストともう一つの「虐殺」とは_朝日新聞デジタル

2.ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害
 1933年から1945年にかけて、ナチス・ドイツによるホロコーストが最も悲惨なユダヤ人迫害の一つです。約600万人のユダヤ人が虐殺されました
*アンネの日記:チスドイツによる占領下のオランダ、アムステルダムが舞台となっています。国家社会主義ドイツ労働者党によるユダヤ人狩りを避けるために、咳も出せないほど音に敏感だった隠れ家に潜んだ8人のユダヤ人達の生活を下の写真にある少女・アンネ・フランクが活写したもの。密告によりナチス・ドイツのゲシュタポに捕まるまで、執筆期間は1942年6月12日から1944年8月1日まで記録されており、彼女の死後、生き残った父オットー・フランクの尽力によって出版され、世界的ベストセラーになりました


*夜と霧:
精神科医であった
ヴィクトール・E・フランクルのドイツ強制収容所の体験記録ですが、余りにも有名な書なので読んだことがある人は多いと思いますが、私は少年時代夏休み中父の実家に行ったときに従姉の本棚からこの本を見つけて読みました。この時の衝撃は忘れられません
ユダヤ人狩りはドイツ内だけでなく、ナチスドイツが占領した国々でも行われ、下図にある強制収容所に送り込まれした

Poland/ Germany: Jewish men, women and children surrender to Nazi soldiers during the Warsaw Ghetto Uprising, May 1943. (Photo by: Pictures from History/Universal Images Group via Getty Images)

収容されたユダヤ人の運命は「死」

*我が闘争:ナチス党を創立したアドルフ・ヒトラーは、 1923年11月9日にクーデター(ミュンヘン一揆)を企てましたが失敗に終わり、逮捕・投獄されました。この書はその獄中で執筆を開始しました。この書でヒトラーは、自身の思想やナチズムの理念を体系的にまとめています。主な内容としては;
ヒトラーの生い立ちと政治思想の形成(アーリア人優越論)幼少期からナチ党結成までの経緯ヴェルサイユ条約批判反ユダヤ主義(ユダヤ人に対する憎悪反共産主義民族主義など、ヒトラーの思想形成過程が描かれています
この書が、ナチス党が政権を取りヨーロッパの国々を占領した後のユダヤ人の拘束と、虐殺に繋がったことは明らかです
尚、この書にはユダヤ人に対する憎悪程ではありませんが、日本文化を軽蔑している箇所があります。太平洋戦争開戦の重要なきっかけとなった日独伊三国同盟(1940年9月27日締結)を強力に推進した外務大臣・松岡洋介や陸軍幹部(⇔海軍はこの条約に反対していた)がこの書を読んでいたのか不思議と思わざるを得ません(筆者個人の意見)
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イスラエルの独立とパレスチナ人受難の歴史

第一次世界大戦(1914年~1921年)中のイギリスは、強大な敵であるオスマントルコ帝国との戦いを有利に進める為に、1915年に帝国内のアラブ人に対して独立を支持することを約束しました(マクマホン協定)。一方、1917年には裕福なユダヤ人から莫大な戦費を賄うための財政支援を受けるために、イギリス外相バルフォアがパレスチナにユダヤ民族国家の建設を認めることを約束しました(バルフォア宣言)、この矛盾する約束を行っていたことが、1948年のイスラエル独立ともに、イスラエルとアラブ諸国との間の熾烈な戦争を招くことになりました
*ハリウッドの大作映画「アラビアのロレンス」は、イギリス軍から派遣されたロレンスが、アラブ世界の盟主であるサウド王と協力してトルコ帝国軍を打ち破る成果を挙げたものの、イギリスの裏切りにあって失意の内にアラビアから去っていく物語です

戦争の結果、オスマントルコ帝国は敗北し、1920年に連合国 との間でセーヴル条約)を結びました。この条約により、帝国の領土は大幅に削られることとなりました
(注)この条約では、帝国内の領土であったイラクパレスチナ・シリア全域アラビア半島の放棄イスタンブールと隣接地以外のギリシアへの割譲、治外法権の存続、財政の連合国共同管理などが定められています
この条約により、帝国の領土は大幅に削減され、最終的には1922年にオスマン帝国は崩壊し、トルコ共和国が成立しました。ケマル・アタテュルク率いるアンカラ政府受諾を拒否し、ギリシア・トルコ戦争の勝利後、1923年にローザンヌ条約を結び、セーヴル条約 を破棄しました

第二次世界大戦後、国際連合総会は1947年11月29日にパレスチナをユダヤ人国家とアラブ人国家に分割する「国連決議181号」を採択しました。この決議は、パレスチナ地域の56%をユダヤ人国家に、43%をアラブ人国家に割り当てる内容でした
この分割案は、イギリスの委任統治を終わらせ、エルサレムを特別な国際管理地区とする内容ですが、ユダヤ人側はこの案を受け入れたものの、アラブ諸国およびパレスチナ側の指導者たちは拒否しました。その結果、地域内での緊張が高まり、以下の中東戦争が勃発しました
*以下を見ると分かるのですが、第一次~第四次中東戦争を経るうちにイスラエルの占領地が徐々に増えていくことになります

第一次~第四次中東戦争とレバノン内戦;
第一次中東戦争(1948年5月~1949年3月);
参戦国: イスラエルエジプト・ヨルダン・シリア・レバノン・イラク・サウジアラビア・イエメン
勝敗: イスラエルの勝利
死傷者数: イスラエル側6,373人が戦死。アラブ側ではエジプト約2,000人、シリア約1,000人、その他の国も含めて多数

第二次中東戦争
1956年10月~11月);
参戦国: イスラエル・イギリス・フランスエジプト
勝敗: イスラエル、イギリス、フランスの勝利
死傷者数: イスラエル側で231人が戦死エジプト側では約1,000人が戦死

第三次中東戦争(1967年6月);
参戦国: イスラエル 対 エジプト・シリア・ヨルダン・イラク
勝敗: イスラエルの勝利
死傷者数: イスラエル側で776人が戦死。アラブ側ではエジプト約11,000人、シリア約1,000人、ヨルダン約700人
この戦争はイスラエル側の圧倒的勝利に終わり、イスラム教の聖地でもあるエルサレムを含むヨルダン川西岸地区ガザ地区だけでなく、エジプト領のシナイ半島シリア領のゴラン高原をも占領しました
イスラエル軍は、以後テロリストや武装グループとの戦闘、治安維持活動、または反政府活動を行うパレスチナ人に対する抑圧的な作戦を行っています。これらの作戦は屡々パレスチナ人との間での衝突を引き起こし、暴力の連鎖を生んでいます
ヨルダン川西岸地区は、国際的にはパレスチナの一部として認識されていますが、イスラエルはこの地域にユダヤ人の入植地を建設しています
2023年~2024年にかけて、イスラエル軍の活動はエスカレートしており、特に入植地周辺やパレスチナ人居住区での家屋の破壊、住民の拘束を行うことからパレスチナ人との衝突が増加しています

第四次中東戦争(1973年10月);
参戦国: イスラエルエジプト・シリア
勝敗: イスラエルの勝利
死傷者数: イスラエル側で約2,800人が戦死、8,000人が負傷エジプトとシリア側では約15,000人が戦死、30,000人が負傷
* この時アラブの石油輸出国は、原油の生産量を減らすとともに、イスラエルを支持する国々への輸出禁止を決定しました。 1974年には原油価格が4倍に上昇し、石油輸入国に大きな打撃(日本における「第一次オイルショック」)を与えました
この戦争の後、エジプトとイスラエルの関係は大きく変わりました。この戦争はエジプトとシリアがイスラエルに対して奇襲を仕掛けたもので、シナイ半島やゴラン高原の奪還を目指していました

戦争後、エジプトとイスラエルは和平交渉を進め、1978年にキャンプ・デービッド合意が成立しました。この合意に基づき、1979年にエジプトとイスラエルは平和条約を締結し、1982年までにイスラエルはシナイ半島をエジプトに返還しました
この和平条約が中東における重要な転換点となり、エジプトはアラブ諸国の中で初めてイスラエルを公式に認めた国となりました。シナイ半島の返還はエジプトにとって大きな勝利であり、地域の安定に寄与することとなりました

レバノン内戦(1975年~1990年)
この内戦は、レバノン国内の様々な宗教・政治勢力間の対立が原因で発生し、イスラエルやシリアなどの周辺国も関与し、1982年から1985年にかけてのイスラエル軍も介入しました;
参戦国: イスラエル レバノン(PLO)
勝敗: イスラエルの勝利
死傷者数: イスラエル側で368人が戦死レバノン側ではPLOの戦死者数は不明だが、レバノン市民も含めて多数死亡(推定で12万人~15万人が死亡)したと言われています

第一次~第四次中東戦争、レバノン内戦後のパレスチナ紛争
1.エルサレムの帰属に関わる紛争;

アルアクサ・モスクと嘆きの壁

エルサレムはユダヤ教キリスト教イスラム教の聖が集中しているため、宗教的・政治的な対立が絶えません。特に、エルサレム旧市街の「アルアクサ・モスク」を巡る衝突が頻発しています。2022年には、イスラエル警察とパレスチナ人の間で激しい衝突が発生し、多くの負傷者が出ました。このような衝突は、宗教的な祝日や政治的なイベントが重なる時期に特に激化します。
尚、エルサレムの帰属問題も依然として解決されていません。イスラエルはエルサレムを永遠の首都」と宣言していますが、多くの国際社会はこれを認めておらず、大使館をテルアビブに置いています(⇒ただ米国のみは、2018年トランプ大統領が米国大使館をテルアビブからエルサレムに移動させました)。この問題は中東和平交渉の大きな障害となっています

2.インティファーダとオスロ合意;
アラビア語( اِنْتِفَاضَة, ʾintifāḍa)で「揺れ」や「蜂起」を意味し、現代では主に民衆蜂起を指します。特に、パレスチナにおけるイスラエルの軍事占領に対する抵抗運動として知られています;
*第一次インティファーダ(1987年~1993年):
ガザ地区での交通事故をきっかけに始まりました。多くのパレスチナ人が参加し、イスラエルの占領に対する抗議活動が広がりました

オスロ協定;
1993年にイスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)の間で同意された一連の協定です。 この合意は、ノルウェーの首都オスロで主に協議されたことから「オスロ合意」とも呼ばれています。具体的には以下の二点が合意内容とされています;
イスラエルを国家として、PLOをパレスチナの自治政府として相互に承認する
② イスラエルが占領した地域から暫定的に撤退し5年間にわたって自治政府による自治を認め、その間に後の詳細を協議する

⇒ 残念ながら現在まで実質的な進展はありません

*第二次インティファーダ(2000年-2005年):
イスラエルの政治家アリエル・シャロンがアル・アクサ・モスクを訪れたことが引き金となり、暴力的な抗議活動が再燃しました

*Follow Up_2024年8月29日_イスラエル、ヨルダン川西岸で大規模作戦・10人死亡

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おわりに(パレスチナ戦争に関する私見)

ここまで縷々述べてきたように、3千年に亙る巨大帝国・王国の興亡の中で生き延びてきたユダヤ人とアラブ人の歴史は、モンゴル帝国の2回の侵略しか経験のない島国日本人には到底理解できないことは自明のことです。また、明治維新以降、連戦連勝の侵略戦争を経験はしましたが、終戦後のGHQに対する極めて従順な日本人のMindset(思考回路?)からは、パレスティナ人の不屈の抵抗精神や、2千年を経てやっと獲得した国家を守る気概は到底理解することはできないと思います

昨年(2,023年)10月7日に始まった今回のイスラエル・パレスティナ戦争において、ハマスの急襲によって1139人が殺害され、251人が拉致された事による怒りは、大日本帝国が傀儡政権である満州国を設立したあと、中国軍との緊張が高まる中で発生した「通州事件」により国民の怒りが爆発し、日中戦争を抑止しようとする人々の声を消し去り日中戦争を開始するに至った状況に似ている様な気がします。累々と横たわる同胞ユダヤ人の遺体の報道写真を見たイスラエル国民の怒りがイスラエル軍の情け容赦のない ガザ地区侵攻となったものと想像できます

一方、世界で最も人口密度が高いガザ地区(あの狭い地区に約230万人のパレスチナ人が住んでいる)での戦闘は、ハマスと一般住民の区別がつかないことから2024年8月現在で4万人を超える犠牲者が出ており、人道問題になっています
イスラエル側にしてみれば、ハマスが降伏をしない限り攻撃するというやり方は、第二次世界大戦で敗戦濃厚な時期のドイツや日本で、大都市のじゅうたん爆撃で多くの一般人が亡くなったことを思い出させます

パレスティナ人には、周りを取り巻く多くのアラブ人やイスラム教徒の同胞がいます。一方イスラエル人には先進国中心に多くのユダヤ人コミュニティーがあり、これらの国々からのサポートがあります。従って、この戦争は一方が決定的な勝利を収める結果は無いと私は思います

現在、米国、エジプト、カタール中心で行われている停戦協議をきっかけに「オスロ合意」をベースにイスラエルとパレスチナ2国家共存の仕組みを具体化することを目指すべきと私は信じています。
イスラエル側が停戦条件にしている「エジプトとガザ地区の境界(フィラデルフィ回廊)にイスラエル軍を駐留させること」をハマス側が強力に反対しているのは、イランなどからの武器の供給が絶たれることにあると思われます。イスラエル側としても武器は外部から提供される限りいずれ同じような侵攻があると考えていると思われます。であれば、国連軍によるこの地区の駐留も考えてもいいと思います
また、遠い将来になるかも知れませんが、ガザ地区と穏健化したヨルダン川西岸地区間のアラブ人の間の交流を行うための陸上の回廊を設けること、及びヨルダン川西岸地区へのイスラエル人の入植をやめることも必要であると考えています、、、、、

Follow_Up:2024年10月1日「イスラエル軍 レバノン南部で“限定的な地上作戦を開始した” _ NHK

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以上