尖閣諸島問題を考える

-はじめに-

現在日中関係の最大の問題は尖閣諸島帰属の問題です。日本側の主張と中国側の主張とが真っ向から対立し、特に石原都知事時代に都がこの諸島を購入してから、両国の緊張関係は明らかに高まっていることは論を待たないことだと思います。
両国が歩み寄る気配もなく、緊張が徐々に高まっていく現在の状況は、第二次大戦後70年以上を平和に暮らしてきた日本人にとって、正に戦後最大の異常事態といっても過言ではないと思います

言うまでもない事ですが、この緊張関係を回避する特効薬は、「尖閣諸島の領有権を放棄する」ことです。しかしこの策は、排他的経済水域(200海里以内)や軍事的なプレゼンスの問題を別にしても、日本人のナショナリズムを刺激して国論を過激に走らせ、更に大きな戦争のリスクを抱える要因にもなりかねません

とすれば、最善の策は「現在の実効支配の状況を維持する」ことになります。しかし、この状態は、常に色々な形で中国側からチャレンジされることを想定し、対処しなければなりません。これは、今まで国防を全て米国に頼ってきたこの国が、自身の意思と力で自国の領土を防衛するということを意味します
米国の今の政権は、尖閣諸島の防衛は日米安保条約の範囲内である(実効支配が続いている限り)と明言している一方で、尖閣諸島帰属の問題には米国は関与しないと言っています。言い換えれば日本に尖閣諸島を防衛する確固たる意思が無ければ米軍のサポートも得られないということです

であれば、日本自身が;
* 中国の現代史(特に戦争の歴史)
* 領土問題に対する中国の姿勢
をきちんと学習し、理解しておかねば異常事態に対する戦略が立てられません。
以下は、私自身が考えた“尖閣諸島防衛の基本戦略”です;

-中国の現代史(特に戦争の歴史)-

辛亥革命以降の中国は、以下の様に絶え間ない戦争を行ってきました;
<国共合作までの内戦>
 辛亥革命/1911年~12年:1911年10月武昌蜂起により中華民国樹立。1911年1月中華民国樹立、初代大総統に孫文が就任。1912年2月清国・宣統帝廃位。袁世凱臨時大総統就任。1916年の袁世凱病死後は軍閥の群雄割拠の時代になりました。
 南京政府樹立:1927年、蒋介石は南京に政府を樹立し共産党軍の排除を始め、1930年12月からは7次に亘る大規模な共産党軍掃討戦を行いました
 瑞金臨時政府樹立:1931年、毛沢東は江西省瑞金に臨時政府を樹立しました。1934年10月、瑞金を攻撃された共産党軍は6万5千人の犠牲者を出して延安に逃れました(長征
 西安事件:1936年12月、張学良に拉致された蒋介石は、共産軍との戦闘を止め、一致して日本軍と戦うことを約しました(国共合作

<日中戦争:15年間
 1931年~1937年:1931年9月柳条湖事件(張作霖の爆殺)を機に関東軍が北支に侵入し、満州事変が勃発しました。1932年3月には宣統帝を担ぎ出して満州国を樹立しました
 1937年~1945年:1937年7月の盧溝橋事件を契機として日中が全面戦争に突入しました。同年8月に上海事変、同年12月には中華民国の首都、南京を攻略しました。以降日本は中国各地で国共合作成った国民党軍、中国共産党軍(八路軍)と泥沼の様な戦争を続けることを余儀なくされました
 1945年8月、日本の無条件降伏

(参考) 日中戦争における中国側発表の犠牲者数
*約130万人/軍人:1946年、中華民国国防部発表
*約440万人/軍民合計:1947年、中華民国行政賠償委員会
*約1300万人/軍民合計:1947年、国民党行政賠償委員会
*約2100万人/軍民合計:1985年、共産党抗日勝利40周年
*約3500万人/軍民合計:1995年、共産党抗日勝利50周年で江沢民国家主席がが発表

(参考) 日中戦争時、日本が犯した非人道的犯罪として中国の歴史に記録されていること(日本側の記録には無いか、あるいは犠牲者の数字などがかなり違うことに注意する必要があります);
*生きている人間を使った細菌実験:731部隊により行われた細菌兵器開発の為の生体実験。責任者は戦後米軍への情報提供を条件に戦犯には問われていません
*平頂山事件:1932年遼寧省北部の撫順炭鉱守備隊が行った殺害事件。ゲリラ兵に協力していると見做した無抵抗の村民を3千人殺害したとされています(ベトナム戦争における“ソンミ村事件”と似ています)
*南京大虐殺(中国側資料の表現):1937年、南京に於ける国民党軍掃討の戦闘で多くの死亡者が出ました。30万人の捕虜及び民間人が殺害されたとされています
*重慶無差別爆撃(中国側資料の表現):南京から重慶に拠点を移した国民党軍に対して、1938年~43年に亘って断続的に218回実施された戦略爆撃。1万人以上の犠牲者を出したとされています(東京裁判)
*三光作戦(中国側資料の表現):1940年以降、北支方面軍がゲリラ作戦を多用する共産党軍(八路軍)を討伐するために、これに協力する村民をまとめて殺害したとされる作戦。三光とは、“殺し尽し”、“焼き尽し”、“奪い尽す”という意味です。日本側にはこうした作戦の記録はありません
*万人抗(中国側資料の表現):満州各地の鉱山周辺に多くの人骨が埋められているとされるところ。鉱山で過酷な労働を強いられた中国人労働者の死骸が埋められた所とされ、中には生きたまま埋められた人もあるとされています

<日中戦争終了後の内戦>
 1946年~1949年:1946年6月、蒋介石は国民党軍を動員して共産軍に対して全面的に攻撃を開始しました。最初は国民党軍が優勢であったものの、次第に農民の味方を得た共産軍が優勢となっていきました。1949年10月、全土を掌握した共産軍は中華人民共和国(以下“中共”、又は“中国”)を樹立しました。1949年12月、国民党軍は全軍台湾に撤退し台北を臨時首都としました
*犠牲者数:中共軍/150万人、国民党軍/25万人と言われています

<朝鮮戦争介入>
 1948年8月、李承晩が大韓民国(以下“韓国”)を樹立、一方、金日成は同年9月、朝鮮民主主義人民共和国(以下“北朝鮮”)を樹立しました
1950年6月25日、北朝鮮は宣戦布告無しに38度線を突破して韓国に侵攻を開始しました。開戦当時、北朝鮮軍は圧倒的に優位な兵員数、火力をもっており、日本に駐留する連合国軍(ソ連、中国を除く)で結成された国連軍(正確には多国籍軍)の投入をもってしても北朝鮮軍の優位は変わらず、韓国軍と国連軍は次第に釜山付近に追い詰められていきました
1950年9月15日、マッカーサーは海兵隊を中心とする米軍部隊と韓国軍部隊を仁川に上陸させました。これに連動して釜山方面に追い詰められていた国連軍、韓国軍は反撃を開始し形勢は一気に逆転しました。9月28にはソウルを奪還し、更に10月には38度線を越えて北朝鮮に侵攻を開始しました。10月20日には平城を占領し、更に10月26には中国との国境(鴨緑江)に達しました。

北朝鮮、ソ連の要請に基づき、中国は1950年10月5日、彭徳懐を司令官とする義勇軍の派遣を決定しました。この義勇軍は後方待機を含めると100万人の大部隊でした。10月19から隠密裏に鴨緑江を渡河して侵攻を開始しました。11月1から大規模な攻勢を開始した結果、国連軍、韓国軍は懸命の戦いをしつつも撤退に次ぐ後退を余儀なくされました。この一連の戦闘で国連軍の死傷者数は約1万3千人、中国義勇軍の死傷者数はその数倍に及んだと言われています。12月5、中国・北朝鮮軍は平城を奪還、1951年1月4日には再度ソウルも奪還しました。

当初ソ連のジェット戦闘機ミグ15が投入され、第二次大戦時の航空機が主力の米軍から制空権を奪いましたが、その後米軍はF-86ジェット戦闘機を投入し、制空権を奪還することができました。航空兵力の支援を受けて1951年2月11、連合軍は再び北進を開始しました。その後両軍の間で一進一退の激戦が続き、38度線付近の高地で膠着状態に陥りました。原爆投下、等を含む戦争の継続を主張したマッカーサーは4月11日、トルーマン大統領により解任されました。

1951年7月から開城において休戦会談が開始されました。双方有利な条件での停戦を要求する為、交渉は難航し、1953年7月27に至ってようやく休戦協定が成立した。
* 正式に発表されたものはないものの、中国義勇軍の犠牲者数は50万人に達したと言われていいます。

<台湾海峡危機>
 1954年9月:中共軍による金門島砲撃
 1955年1月:中共軍による江山島攻撃と米軍支援の下での国民党軍の大陳島撤退
 1958年8月:中共軍による金門島砲撃と空中戦に勝った国民党軍による厦門空爆
⑫ 1965年:偶発的に小規模な海戦が発生

<中国・インド国境紛争>
開戦の背景:1950年、中共軍がチベットに侵攻しこれを支配しました
1954年、周恩来首相とネルー首相との会談で平和五原則(①領土・主権の相互尊重、②相互不可侵、③相互内政不干渉、④平等互恵、⑤平和共存)について合意していましたが、中国は弱体化していた清の時代の国境を認めておらず、インドが警戒感を抱いていない時期を狙って国境を画定しようとしていました。この時期インドはパキスタンとの国境紛争を抱えておりましたが、中国はこのパキスタンを支援しており、フルシチョフのスターリン批判以降中国と対立していたソ連はインドを支援していました。

戦争の推移:1959年9月に最初の武力衝突が発生し、1962年11月には大規模な衝突に発展しました。中共側戦力8万人(死傷者約2400人)、インド側戦力1万人~1万3千人(死傷者約2400人、行方不明者約1700人、捕虜約4000人)で戦い、中国が勝利をえて一方的に停戦を行いました。現在もアクサイチンを実効支配しています。

紛争後の経緯:上記紛争以降中国・インド間には直接的な戦闘は行われていませんが、中国側勝利の影響を受け、パキスタンの武装勢力がインド支配地域に侵入し、第二次印パ戦争が勃発しました。インドはこれらの紛争を契機として核弾頭搭載可能な中距離ミサイルを開発配備し、現在に至っています。

<中国・ソ連国境紛争>
開戦の背景:中ソ間の長い国境線は、強大なロシア帝国と、弱体化した清国との間で結ばれた条約(アイグン条約、北京条約)はあり、また曖昧な部分が多くありました。
1956年2月、ソ連のフルシチョフ首相が第20回党大会に於いてスターリン批判を行った結果、中ソの政治的な関係は悪化し領土に関わる緊張が高まりました。1960年代末には長い国境線を挟んで両側に大兵力が対峙(ロシア側/65万8千人、中国側/81万4千人)し小規模な衝突を繰り返していました。

戦争の推移:1969年3月、ウスリー川(アムール川/黒竜江の支流)の中州(ダマンスキー島/珍宝等)で武力衝突が発生、同年7月にはアムール川の中州(ゴルジンスキー島/八岔島)でも武力衝突が発生しました。8月には新疆ウィグル地区で武力衝突が発生し、両国は核兵器使用の準備を始めました

紛争後の経緯:1969年9月、ホーチミン首相の葬儀の帰途北京に立ち寄ったコスイギン首相と周恩来首相が会談した結果、軍事的緊張は緩和されたものの、国境での軍事力の対峙はその後も続いていました。
1980年代後半、両国は秘かに国境交渉を再開しました。1989年、ゴルバチョフ大統領が訪中して中ソ関係が正常化した後全面的な国境見直しが始まりました。1991年5月(ソ連邦崩壊直前)、一部係争地を除き中ソ東部国境協定(ソ連邦崩壊後中ロ東部国境協定)が結ばれました(1992年に批准;ダマンスキー島/珍宝等は中国に帰属することが確認されました)。1994年には中ロ西部国境協定が結ばれました(1995年に批准)。ソ連崩壊後に独立した中央アジア諸国と中国との間の国境協定も個別に結ばれてゆきました。中ロ東部国境協定で棚上げにされていたアルグン川の島とアムール川・ウスリー川の合流点の二つの島の帰属については、2004年10月、プーチン大統領と胡錦濤主席による政治決着で、係争地を二等分する形で政治決着が図られ、最終的な中ロ国境協定が締結(2005年に批准)されました

<中国・ベトナム間の領土に関わる戦争>
 1974年1月 パラセル諸島(西沙諸島)の戦い
開戦の背景:第二次世界大戦終了後、仏領インドシナでフランスとの間で独立戦争が起こりました(第一次インドシナ戦争:1946年~1949年)。独立後、ベトナム共和国(以降“南ベトナム”)と中国との間でパラセル諸島(西沙諸島)帰属の問題が発生していました。中国が同諸島の東部を実効支配し、1971年には多数の施設を建築していました。一方、南ベトナムは西部を実効支配しており軍事的な緊張は徐々に高まっていきました。
戦争の推移:1974年1月15日、哨戒中の南ベトナム軍艦が、実効支配している同諸島西部の永楽群島の島(甘泉島/ロバーツ島)に中国国旗が立てられ、付近の海域に大型の中国漁船2隻が停泊しているのを発見し退去を命ずると共に威嚇射撃を行いました。1月17日、18日には両国が増援部隊を派遣して小競り合いを繰り返していましたが、1月19日に至って南ベトナム艦隊の発砲から本格的な海戦に発展しました。1時間足らずの交戦で南ベトナム艦船は大きな損害を受けて敗退しました。午後1時30分には永楽島に4個中隊が上陸し占領、1月20には他の3つの島にも上陸し、同諸島全体が完全に中国の実効支配化に置かれることになりました。
中国の勝因/南ベトナムの敗因:地理的に中国の方が同諸島に近かったこと、速射砲を備えた中国軍艦船の方が戦闘力が高かったこと、陸軍兵力が圧倒的に凌駕していたこと(中国:4個中隊、ベトナム:100~200人)があげられます。また前年パリ協定に基づき米軍がベトナムから撤退し、南ベトナム自身も北ベトナムの攻勢に晒されている時期であり戦意の面でも相当劣勢にあったと考えられます

* パリ協定(ベトナム和平):1973年1月27日に調印。この協定に沿って3月29日には米軍はベトナムから完全に撤退しました
* ベトナムの統一1976年4月、北ベトナムの攻勢によりサイゴンが陥落、南北統一が実現しました

 1979年2月~3月 中越戦争
開戦の背景:大量虐殺による恐怖政治を布いていたポルポト政権を倒すため、ベトナムは亡命していたヘン・サムリンを支援しカンボジアに侵攻、1979年1月プノンペンを解放しました。ポルポト政権を支援していた中国は1979年2月、ベトナムとの開戦を決断しました。当時の中国は鄧小平、華国鋒政権であり、ポルポト政権支援以外に、文化大革命の不満を外に向ける必要があったこと、ベトナム戦争で支援してきた中国への裏切り行為(中国の反ソ政策に同調しないこと)やベトナムによる旧南ベトナムの華僑資本家層の圧迫、なども開戦決断の背景にあったと考えられています;

中国軍侵入ルート

戦争の推移:約60万の中国地上軍が北部国境から侵入。この時期ベトナム軍主力はカンボジアにあり、北部には約3万人程度の民兵(しかし正規軍に匹敵する精鋭)しか居なかった為徐々に後退する作戦をとりました。その結果、中国軍は北部5省を占領することとなりました。その後、ベトナム軍主力が合流を開始するとともに戦局は逆転し、最終的に中国軍は国境外に撤退しました。撤退に際して非人道的な焦土作戦を行い、多数の民間人が犠牲になったと言われています。両国の損害については確たる資料は無いものの、双方に数万人規模の犠牲者があったとされています。中国は国内では勝利したと宣伝していますが、ベトナム懲罰の目的を達せずに国境外に撤退していることから、実質中国は敗退したと考えるのが自然であると思われます

ベトナムの勝因:ベトナム戦争中にソ連から供与された兵器及び米軍から獲得した近代的な兵器を保有しており、更に厳しいベトナム戦争を勝ち抜いてきた豊富な実戦経験があったこと。
中国の敗因:旧式の兵器しか無かったこと、及び軍制に弱点(文化大革命で軍隊に階級が無くなった)があったため。(その後、軍の近代化が中国の最優先の国家目標となりました)

 1984年4月~7月 中越国境地域のベトナム側領域での戦闘
開戦の背景:中越戦争後、もともと国境が確定していなかった要衝である「老山・者陰山」一帯にベトナム軍が侵攻し、恒久的な陣地の構築を始めました。これに対して中越戦争での敗退で威信が低下していた中国は、軍制改革の効果を実戦で確認する場としてこの要衝の占領を計画しました

戦争の推移:第一次戦闘(4月2日~28日)で中国軍は要衝をほぼ制圧しました。第二次戦闘(6月12日~7月10日)ではベトナム軍が再占拠を目指して猛攻撃を加え中国軍中隊の全滅などの戦果を挙げましたが、中国軍も反撃し、双方歩兵による突撃を繰り返し大量の死者を出して戦闘は終止しました。第三次戦闘(7月12日~14日)では、ベトナム軍は6個連隊規模で白兵戦を挑みましたが、中国軍は徹底的な砲撃でこれに対抗し激戦の末兵員が尽きたベトナム軍が戦闘を中止し大規模な戦闘は終結しました

中国の勝因:第一次戦闘で大兵力を集中して要衝を抑え守りを固めていたこと。ただベトナム軍の士気が高いことと、中国側は大規模な戦闘における兵站に問題があることが判明し、その後の軍事的冒険を行わなかったこと
ベトナムの敗因:第一次戦闘で敗退し、高地に築かれてしまった中国側の堅固な陣地に、不利な低地から白兵戦を挑んだこと。

 1988年3月14日 スプラトリー諸島(南沙諸島)海戦
両国で領有権を争っていたスプラトリー諸島(南沙諸島)のジョンソン南礁(赤瓜礁)で戦闘が発生しました。中国側はフリゲート艦3隻、ベトナム側は戦車揚陸艦1隻と輸送艦2隻、火力に勝る中国が勝利しました。中国軍は空軍の支援が得られなかった為、海軍はすぐに中国本土に撤退しスプラトリー諸島全体は支配できず6個の岩礁や珊瑚礁を手に入れるに留まりました。ベトナムは29の島や暗礁を実効支配しています

-領土問題に対する中国の姿勢-

中ロの国境紛争が解決してから、中国は経済成長を上回る軍事力の増強を図ってきています。特に装備の近代化と自主開発に力を入れており、西太平洋に於いて米国と覇権を争うまでになりました。

東シナ海・南シナ海_主張の違い
東シナ海・南シナ海_主張の違い

これまでの中国の歴史を分析すると;
1.勝てると判断すれば、国際的な支持を得られない場合でも大胆に軍事力を行使している;
 1974年、南ベトナムとの衝突後にパラセル諸島(西沙諸島)全体を実効支配
 1988年、ベトナムとの海戦後にスプラトリー諸島(南沙諸島)の一部を実効支配

 スプラトリー諸島(南沙諸島)を構成している多くの島、岩礁、砂州は、中国、ベトナムの他に台湾、フィリピン、マレーシアの諸国も一部実効支配を行っています。また、ブルネイも実効支配はしていないものの、一部の島の領有を主張しています

2.軍事バランスが崩れた時を狙って抜け目なくつけ入ってくる;
 1991年のソ連邦崩壊後、米国とフィリピンの相互防衛条約が解消されると同時に米軍はクラーク空軍基地から撤収し、1992年にはスービック海軍基地からも撤収しました。その結果、この地域での米軍のプレゼンスは著しく低下しました。1995年に入って中国は、それまでフィリピンが実効支配していたミスチーフ礁(美済礁)に恒久的な建造物を作り実効支配を始めました
 2012年、中国とフィリピンが領有権を争っていたスカボロ―礁(フィリピンの排他的経済水域内にあり、スービック海軍基地があった頃米軍が射撃場にしていました)で中国漁民の違法操業を巡って両国の監視船が対峙する紛争が発生しました。2013年には、中国がここに軍事基地を建設し実効支配を固めています

 ボルネオ島の北西に位置するナトゥナ諸島は現在インドネシアが実効支配していますが、一部の島々が中国が領有を主張している“九段線”の内側に入っています。これまで南シナ海の領有権問題には中立の姿勢をとってきましたが、最近中国漁船の違法操業を巡って紛争が発生しており、今後中国の出方によっては両国の緊張が高まるものと思われます

3.領土問題に関しては、相手が大国であっても戦争をも辞さずに自国の主張を貫き通している;
 中国・インド国境紛争:1959年~現在
 中国・ソ連(ロシア)国境紛争:1956年~2005年
 中国・ベトナム国境紛争:1979年~現在

4.政治と国防が一体化し、長期的な戦略を着実に実行している;
 国民に対する歴史教育を国家主導で一元的に実施し、領土に関わる戦闘や主張、またこれに伴う莫大な国防費について国民のコンセンサスを得ている
 国民へのアナウンスとは別に、戦争を通じて得た苦い経験を軍の改革に生かしている(朝鮮戦争や中越戦争時の精神主義、白兵主義から装備の近代化への動き;中越戦争を通じての兵站戦略の重要性認識と、軍制の改革実施)
 周政権になってから海洋進出の意図を露わにしています(“一帯一路”戦略の“一路”の部分)が、この為には南シナ海、東シナ海の制空権、制海権を確立することが必要です。未だ道半ばですが、南シナ海各諸島での実効支配の拡大と軍事基地化、海軍力の増強(イージス艦、ミサイル装備の艦艇)、空軍力の増強(ステルス戦闘機、航空母艦)、即応体制の確立(防空識別圏の設定、拡大)、などはこの政策に沿った一連の施策と考えられます
 武器の供給を外国に頼ることは、戦争遂行能力に大きく影響することから、これからの戦争に必須となる武器については国産を目指しています(ステルス戦闘機、イージス艦、ミサイル装備の艦艇、航空母艦、など)
 近代戦は情報処理の技術が必須となること、また近代兵器の開発には膨大なノウハウが詰め込まれていることから、先進国からこれらの機密情報を入手するためにインターネットを使ったスパイ活動を強化しています
 強大となった経済力を政治的(→軍事的)に利用するために、発展途上国を中心に経済援助やインフラ整備支援を積極的に行っています。中国が主導したアジアインフラ投資銀行の設立もこの戦略に沿ったものと考えられます
 現在の中国は異民族統治の問題(チベット族、ウィグル族)、貧富の差の拡大、香港における一国二制度の綻び、など国内に大きな矛盾を抱えています。こうしたことはともすれば中央政府に対する不満となる可能性を孕んでおり、これを抑止する為の手段として国際的な紛争に国民の目を向けさせていると考えられます
 戦争により一気に解決できない領土問題に関しては、軍事上の実力の範囲で既成事実を積み上げていく戦略をとっています(南シナ海での実効支配拡大、東シナ海での天然ガス開発、漁船による領海侵犯、軍事プレゼンスの段階的拡大)

-尖閣諸島防衛の基本戦略-

如上を踏まえた上で尖閣諸島防衛の基本戦略を考えてみたいと思います;
1.尖閣諸島問題は南シナ海問題と同等に扱えない事情があります;
中国と紛争を起こしている南シナ海の諸国と違って、日本は中国との間で過去に15年戦争を戦い、多くの惨禍を与えてしまった事実があります。途方もない犠牲者数や人倫に悖る残虐な行為が、日本側の検証では多くが誇張されたものであったとしても、国際的にこれを認めさせる手段はありません。また中国国民にとって上記犠牲者数や残虐行為は事実そのものであって、領土問題で日中間に戦争が起きれば、中国国民の間に“熱狂”を引き起こすことは容易に想像し得ることだと思います。下記写真は瀋陽、長春を旅行した機会に訪れた戦争記念館です。日本兵の残虐行為などが数多く展示してあり、小学生と思われる団体が熱心に見学をしておりました;

満州事変記念館@瀋陽
満州事変記念館@瀋陽
DSC_0237
日中戦争博物館@長春

従って、仮に日米安保条約が解消された状態で、中国との全面戦争に入ったとすれば、中国が核兵器を使って日本の都市を攻撃することに道義的責任を感じる可能性は低いとも考えられます。日本にとって尖閣諸島帰属の問題で規模の大きい戦争を起こすことは絶対に避けなければならないと思います

2.日米安保条約の核の傘の下で、尖閣諸島の防衛を日米で行うことが明らかな場合、中国が核使用を含む全面戦争を行うことはあり得るか;
朝鮮戦争時に中国が“義勇軍”という形で参戦したこと、また中国・インド国境紛争、中国・ソ連国境紛争においては戦闘を国境付近に止めたこと、などで分かる様に、自国が核攻撃を受けるリスクを伴う全面戦争は行なわないと考えられます

3.中国が尖閣諸島のみの実効支配を狙って上陸し占拠することはあり得るか;
既に2010年9月に、尖閣諸島周辺の領海に中国漁船が侵入し、これを排除しようとした海上保安庁の巡視船に体当たりしたため、漁船を拿捕すると共に船長を逮捕した事件が発生しています。また2016年6月には中国公船(中国海警局所属)3隻が領海に侵入しています。西沙諸島、南沙諸島の例を見れば明らかな様に哨戒・警備のスキを作れば、今すぐにでも上陸、占拠はあり得る事態だと考えられます。

4.尖閣諸島の実効支配を続けるにはどういう戦略をとればいいのか;
(1) まず哨戒・警備のスキを作らないことが大切なことですが、これは現在最新型の巡視船の追加配備を始めており、これを尖閣諸島周辺に配備される中国公船(中国海警局所属)の数を凌駕するレベルにまで充実させることが必要だと思います
 この段階で、尖閣諸島への自衛隊の駐留や自衛隊艦船の派遣といった攻勢に出ることは、中国側の攻勢に根拠を与えることになり得るので、厳に慎むべきだと考えます。

(2) 巡視船の哨戒・警備のスキをつかれるか、あるいは巡視船の警備を実力で突破し、上陸、占拠が行われた場合、これを急速に(中国からの応援兵力が到着する前に)奪還することが必要です。またこの機会を捉え、自衛隊員の駐留継続など恒久的な措置を行なうことも選択肢の一つになると考えられます。こうした対応を可能とするには、下記の様な戦力を充実させることが必要と考えます;
 占拠された島嶼を急速に奪還するための兵力:強襲揚陸艦オスプレイ奪還用特殊作戦部隊
 奪還及び奪還後、実効支配を継続するに必要な制空権確保の為の兵力:ステルス戦闘機F35)、イージス艦ミサイル護衛艦早期警戒管制機
 奪還及び奪還後、実効支配を継続するに必要な制海権確保の為の兵力:潜水艦対潜哨戒機P1)、ミサイル護衛艦早期警戒管制機
* 日米安保条約で共同で作戦に当たることが、戦争を局地に限定する為の必須条件ですが、については米国に頼らず日本が単独で行う必要があります。
 中国の反撃を挫くためには、戦闘の初期段階で制空権、制海権を確保することが極めて重要ですが、これには中国よりも技術的にレベルの高いステルス戦闘機(当面F35、可能であればF22/米国製、又は日本独自開発のFSX/先進技術実証機)、潜水艦(日本製)の配備充実させることが必要であると思います。また、ミサイルの性能向上も重要なテーマであると考えられます。
 島嶼奪還、防衛に関わる日米合同訓練を積極的に行い、中国の実力行使を躊躇わせることも重要であると考えます

(3) 以下の外交的努力は、中国の実力行使を躊躇わせる効果があり、極めて重要なことと考えます;
 中国の攻勢に悩んでいる南シナ海に面する国々と経済協力、インフラ投資などを通じて友好関係を築くと同時に、制海権、制空権に関わる兵器の譲渡、輸出を行うこと。但し戦争に巻き込まれるリスクのある相互防衛条約は結ばない
 ロシアとの北方領土交渉を進展させ、経済協力関係を強化することによって、ロシアと中国の距離を遠ざけること
 上記以外の中央アジア諸国、欧州、アフリカ、中南米諸国との連携を強め、中国側攻勢によって発生した領土紛争に対して日本の応援団を増やすこと

以上

「五色の虹-満州建国大学・卒業生たちの戦後」を読んで

-はじめに-

長野県出身の親しい友人の一人から標記の本を紹介されました。私が満州生まれであることを承知していたためと思われます。恥ずかしながら“建国大学”について全く知識を持たなかった私としては、内容すべてが非常に新鮮でした。教科書では教えてくれない“隠れた満州史”を学ぶ良い書物だと思い私のブログで概要を紹介することにしました。

-著者、出版社、他-

著者/三浦英司略歴:1974年神奈川県生まれ。京都大学大学院卒業後朝日新聞入社、東京社会部・南三陸支局長、ヨハネスブルグ支局長、
本書で2015年・第13回開高健ノンフィクション賞受賞
出版社:集英社、

-満州建国大学とは-

<設立の経緯>
満州国建国の中心人物である石原莞爾が、1937年に満州国に以下の構想の大学設立を提唱(当初は“アジア大学”と称していた)した;
①建国精神の一つである“民族協和”を中心とすること、
②日本の既成の大学の真似をしないこと、
③各民族の学生が共に学び、食事をし、各民族語でケンカができるようにすること
④学生は満州国内だけでなく、広く中国本土、インド、東南アジアからも募集すること、
⑤思想を学び、批判し、克服すべき研究素材として、各地の先覚者、民族革命家を招聘すること

その後、石原莞爾の命を受けた辻政信が「建国大学」設立計画を推進した。1938年創立され、1945年終戦とともに消滅した。設立の目的は、満州国の国家運営を担わせる為のエリートの養成と“五族協和”を実現することにあった。

<学生について>
学生は、日本、中国、朝鮮、モンゴル、ロシアの五族から選抜。一学年150人の内、日本人学生の割合は50%以下に抑えた。学費免除、且つ給与(5/月)も支払われる為、日本、台湾、朝鮮、満州から貧富の差を問わず多くの優秀な人材が集まった。

<カリキュラム、学生生活、等>
6年間の学生生活は、二十数人単位の寮に振分けられ、生活のすべてが異民族と一緒の共同生活を行なわせた。公用語は日本語、中国語であるが、他に英語、仏語、独語、露語、モンゴル語も自由に選択できた。

カリキュラムは学問、勤労実習、軍事訓練を三つの柱としていたが、もっとも特徴的なことは、学内で完全な言論の自由が与えられていたことである(日本政府を公然と批判する自由を与え、学内の図書館では共産主義や中国革命家関連の書籍など日本で発禁になっている書籍も自由に閲覧できた)。毎晩寮内で「座談会」が開かれ、民族問題や政治問題についても自由に討論が行われていた(朝鮮人や中国人学生から日本政府に対する激しい非難が連日のように日本人学生に浴びせられ、日本人学生も政府が掲げる理想が如何に矛盾に満ちたものであるかを身をもって知ることができたという)。

<敗戦後>
1945年8月敗戦と同時に殆どの資料は焼却処分された。また学生の多くは戦後自国で迫害、弾圧された(韓国のみは例外:後述)。日本人学生はシベリア抑留の後、生存者は日本に引き上げたが、満州国が設立した最高学府の出身者という「侵略者」のイメージと、捕虜となって赤化教育を受けた「共産主義者」というレッテルに苛まれ満足な職に就くことができなかった人が多かった。

こうした中で苦労して建国大学同窓会名簿(1400人分)が作られ、同窓生達は国境を越えてコミュニケーションを図っていた。2010年6月東京で最後の同窓会が開かれ、120人が参加した。著者もこの会に陪席した。

満州国の地図
満州国の地図

-建国大学出身者についての実地調査-

<宮野泰>:建国大学六期生、新潟県新発田市で農業に従事
著者が最初に出会い、建国大学に関して長期にわたる取材をするきっかけになった人物。

<藤森孝一>:建国大学二期生、長野県諏訪市で1921年生誕、両親は農業
1938年建国大学応募、長野県で1万5千人人が応募し、合格者2人の内の1人。
1939年1月~1942年2月までの膨大な日記(A3/1500枚)を残している。
日記に記された印象的な文章
*「・・・日本の朝鮮に対する政策は間違っていたと思う。日本は英米等の植民地政策を真似ただけに過ぎない。すなわち日本の利益のために朝鮮を犠牲にしたのだ。・・・彼らは独立したいのだ・・・満州はこの真似をさせてはいけない。今のところは朝鮮と同じではないか。日支事変を“聖戦”だと言っているが、聖戦の意義がなくなってしまいはしないか
*「昼食後南湖へ魚釣を見に行く。帰りに満人の部落を通った。実に粗末な家。・・・百姓たちは畑を一生懸命耕していた。振り返ってみると、新京の立派な建物が青空にそびえている。・・・建大(建国大学)の敷地を通って帰る。藤田先生も言われた通り、コーリャンの粥をすすっている農民たちを追い払って建大を建てたのだ。考えさせられることがあまりに多い」

インタビューでの印象的な言葉
*“座談会”に関する話題で、「・・・我々はいつも中国人学生の厳しい批判に晒されるわけです。“日本は民族協和を掲げながら、一方で中国人民を殺している、民族協和も建国大学も侵略戦争をカモフラージュする単なる道具に過ぎないのではないか”とね。・・・」ある夜、崔という朝鮮人学生に“日本は朝鮮で何をやっているか知っているのか”と問い詰められました。殴り合いのようになり、その後しばらくして仲直りのような状態になったとき、私がふと、“お前はなんで建国大学にはいったのか”と聞いたのです。すると彼は“俺は建国大学には自由があると思ったんだ。朝鮮にいては息が詰まるからな”なんて言いながら泣き出したのです。・・・頭のいい連中ですからね。だからこそ私たちは真剣に悩んだんです。・・・5年間も一緒に生活していて、お互い何を考えているのかが分かるようになっていた。互いの痛みがわかるようになると、人間は大きく変わっていくのです・・・」

<先川祐次>:一期生、戦後西日本新聞、ワシントン支局長
インタビューでの印象的な言葉
*「新しい国造りに星雲の志を燃やす日本人学生」、「すべては日本の大陸進出を美化するまやかしだと反発する中国人学生」、「満州の国造りを成功させることが朝鮮独立への道につながると現実路線を敷く朝鮮人学生」、「少数民族が被支配の立場から脱却できると希望を燃やす台湾人学生やモンゴル人学生」、「共産革命を逃れて安住の地ができ、陽気にはしゃぐロシア人学生」は夜の自由時間は議論に明け暮れた

<百々和>:一期生、1956年に帰国。取材当時神戸の特別養護老人ホームにいた
終戦時点で中国山西省にいた為、強制的に国民党軍に組み入れられ、終戦後4年間、戦闘員として中国共産党と戦わされた山西省旧日本軍残留問題)後、共産軍の捕虜になった。捕虜生活は労働、スポーツ、文化活動であったが、その中で百々が演出した演劇が反革命的であるとして監獄に入れられた。監獄内では告白と反省、自己批判と仲間による相互批判が繰り返された。1956年9月帰国。帰国後38歳で神戸大学大学院に入学。経済学博士課程を卒業後、講師などを務め、53歳で神戸大学教授になる。
*山西省旧日本軍残留問題を扱った映画「蟻の兵隊」(監督;池谷薫)の一人としてスクリーンの中央に収まっている。

インタビューでの印象的な言葉
*日本に帰れるかどうか決める裁判(戦犯であるか否かの裁判)で、百々が一切の弁明や釈明を拒んだ理由を問われて、「・・・でも、それはかつての日本人であれば誰もが持ち合わせていた気質だったんだよ。民族として最も大事にしていた美徳の一つだったといえるかもしれない。あの頃の日本人にとっては“潔さ”は“美しさ”とそれほど変わらない意味だった。そして“美しく”あることは“生きる”ことよりも、遥かに尊い事だった。それらをより強く意識していたのが建大生だったのかもしれない。・・・」また、「・・・建国大学が学生に求めていたことは“時代のリーダー”たれということだった。それは“いざというときは責任を取る”ということだ。・・・それは易しいように見えて実は難しく、とても勇気のいる行為なんだ。何かあったときには必ず自ら責任を取ること。建大生はその点においては、徹底的にたたき込まれていた」

<森崎湊>:四期生、映画監督・森崎東の弟
入学3年目の1944年4月に建国大学を自主退学し、特攻隊を志願して三重海軍航空隊に入隊した。そして敗戦翌日の1945年8月16日夜、近くの砂浜で割腹自殺を図った。玉音放送が流れたとき、航空隊内にはあくまで決戦すべきという声が渦巻いていたが、森崎の自決により、航空隊内の決戦論は沈静化し解散復員が実施された

遺族が16歳~20歳の日記を刊行(題名:遺書)。この日記にある印象的な言葉
*「・・・一期、二期生の中で20余名の抗日学生が出た・・・中国人の自覚と矜持の強烈な者ほど、実は我々の同志たるべきものなのではないか。中国の同胞たちが日本軍の力の前にたたかれているのを彼らが見るとき、いかばかりの苦痛を感ずるであろうか。満州も中国もとりかえしたく思うだろう。尊敬する憂国の士は一意救国のため反満・抗日を叫んで血を流している。今まで日本が中国に対し何をおこなってきたかを彼らはよく知っている

<楊増志>:一期生、大連在住
インタビューでの印象的な言葉
*「入学3年目から中国人だけで“勉強会”を始めた。マルクス、レーニン、孫文(三民主義)、蒋介石(中国の命運)、毛沢東(新民主主義論)を仲間で読みまわした。その後、この活動を新京の各大学に広げてゆき、“東北抗戦機構”というネットワークを作り、メンバーの一部を北京、重慶(国民党軍)に送り情報を集めた。独軍のソ連侵攻に合わせ、三国同盟に基づき日本がソ連に侵攻する機会に蜂起する計画を立てたが、1941年12月に「治安維持法」で逮捕された」
*「憲兵隊から厳しい拷問を受けたが口を割らなかった。建国大学の日本人メンバーから差し入れがあり、心の底から日本を呪い、一方で彼らにもう一度会いたいと思った」
*「判決は無期懲役:2人(本人を含む)、懲役15年:1人、同13年:3人、同10年:9人であった」
*「終戦の翌日に釈放された。半年間“水攻め”されたことによる後遺症で療養した後、国民党が実施していた中国東北部の水田の管理の仕事についた。アメリカ政府からの資金援助を受け、満州に残留していた日本人技術者30人を使い、土地の改良や品種の選定を行った。そこでは日本人以外に朝鮮人や中国人を使っていたが、建国大学での経験で民族の特性(中国人は利で動く、朝鮮人は情で動く、日本人は義で動く)を知っていたので、彼らを使うことは難しくなかった。中でも日本人を使うことが一番簡単だった。彼らはポストさえ与えておけば忠実によく働いてくれた」
*「数年後、長春市の議員になった。1947年共産軍は、長春包囲戦(市全体を共産党軍が封鎖)により兵糧攻めを行った。150日間の間に30万人の市民が餓死(長春市の人口の三分の二)した。楊は3丁の銃を共産党軍に渡すことにより家族を含めて包囲の外に出ることができた」
ここまで話した所で電話が入り話は続けられなくなり(当局に監視されており、長春包囲戦について語り出したことが原因か)、インタビューは終わった

<ダニシャム・ウルジン>:三期生
父親(ウルジン)は満州国軍の著名なモンゴル人司令官(ウルジン将軍)、ロシア革命が起きた時には帝政ロシアの職業軍人、赤軍との戦いに敗れて中国北部に逃れた。その後満州国軍に入り、ノモンハン事件にも参戦
1945年8月9日の新京空襲で、教職員や日本人学生は応戦準備態勢、中国人学生は兵器廠に勤労奉仕に行く方針が決まったが、敗戦の報が伝わった後自由行動となった。その後はソ連兵と日本人の通訳の仕事に就いた(日本人が建設した施設・設備の接収の際に通訳が必要になった)。ソ連兵撤退後、一時中国政府の合作所の職員として事務作業に従事したが、共産党政権になってそれも奪われ。その後貧しい生活を続けたが、モンゴル国出身の妻のツテで現在居住しているウランバートルに来ることができた。

<金載珍>:五期生、建国大学の韓国人同窓会会長、大邱在住。慶北大学校で経済学を教えていた
唯一韓国だけは、独立後優れた頭脳を持つ建国大学の出身者たちを積極的に登用した1970年代、80年代には政府や軍、警察、大学、主要銀行などにおける主要ポストを建国大学出身者が握り、政財界にはサークルのようなものが結成されていた

<姜英勲>:三期生、昌城で生誕、農学校を中退して広島の高田中学に転入、その後建国大学入学。在学中、学徒出陣を選択、秋田県内の陸軍演習場で終戦を迎えた
インタビューでの印象的な言葉
*「*故郷の村は中国との国境付近にあるため、ソ連の主導による共産化が進行しており、貧農の若者には戦闘訓練が実施されていた。村の水力発電機がソ連兵によって村外に持ち出されることをきっかけに村の共産化に激しい抵抗を感ずるようになった。周囲から“反革命分子”と見做されるようになり、当局から出頭命令を受けたその夜、5人の友人を引き連れて漁船で38度線を越えた」
*「1946年4月ソウルに到着すると、韓国軍が幹部将校育成を目的に設立していた軍事英語学校(後の陸軍士官学校)に入学。建国大学の出身であり、その語学力や日本における軍隊の経験から、創設後間もない韓国軍の中で確実に出世の階段を上り、4年後には早くも陸軍本部の人事局長になった」
*「1950年6月、朝鮮戦争が始まると中部戦線の第二軍団参謀長となった。開始時の兵力は圧倒的に劣勢だったが、開戦2日後に国連決議で米軍の支援が確実になったため兵力の温存を図った。80日後、米軍の仁川上陸後は形勢が逆転した。中国の参戦で38度線で戦線が膠着し、1953年7月休戦に入った」
*「1961年、朴正熙少将(後の大統領)の軍事クーデターでは士官学校校長になっていたが、クーデター支持でソウル市内を正装で行進した生徒に向かって、“軍は政治に介入してはならない。軍は中立でなければならない”と戒めたところ、その言動が軍事政権下で“反革命分子”とされ4ヶ月投獄されるとともに、陸軍中将のまま退役に追い込まれた。その後亡命同然の状態でアメリカに渡り、大学の研究者として16年間の生活を送った」
*「1988年、士官学校校長時代の教え子であった盧泰愚大統領の下で首相に就任した」

*建国大学についての評価を著者に問われて、「満州国は日本がねつ造した傀儡国家である。日本人学生は、“いかに日本が満州をリードして五族協和を実現させるか”について熱くなっていた。中国人学生は、“満州はもともと中国なのに、なぜ日本が中心になって満州国を作るのか”という批判が常に先に立っていた。朝鮮人学生は、“最も純真な意味で五族協和を目指していた”。もともと満州には朝鮮民族がたくさん住んでいたし、かつては朝鮮民族の土地でもあったから・・・」
*終戦後北朝鮮に行き、韓国にスパイとして送り込まれた(上陸後すぐに逮捕された)三期生の“K”について聞かれて、「「私は何もしてやれなかった」

<李水清>:一期生、台北在住、「台湾の怪物」と呼ばれていた。
孤児で貧しく、正規の学歴が無い中で1万人以上の中から選ばれた3人の一人に入った秀才。多くの卒業生は、すべての能力で李に敵うものはいないと言っている。
建国大学卒業後、志願して満州辺境の青年訓練所に赴任した。赴任半年後に日本は敗戦、建国大学の同級生の家を訪ねつつ半年後に台湾にたどり着いた。
図らずも1947年の二・二八事件(大規模な反政府暴動;日本統治時代の知識人が多数殺害された)に連座し二年半の間監獄に繋がれた。その後事業に成功し、台湾を代表する一大製紙企業を築き上げた。

<戸泉如二>:四期生、通称ジョージ。1923年レニングラードにて生誕。日本人の父(西本願寺の僧侶⇒満鉄⇒建国大学教授)と母(ロシア人)との間の混血児。哈爾濱中学卒業、日本語・ロシア語・中国語を母国語と同じように操れた。
1943年学徒動員で出征、終戦時は中支・武昌の飛行隊所属。敗戦後は親を探して中国内を転々としている内に、1947年夏奉天付近で国府軍に逮捕されたが半年後に釈放。その後、上海を経由して、フィリピン、オーストラリア、イタリア、オランダ、スリナム(南米)と渡り歩き、最終的にそこで貿易と水産の事業で成功した。
スリナムで味の素のセールスマンに出会ったことで両親との連絡がつけられるようになった。2001年心筋梗塞で死去

<ゲオルグ・スミルノフ>:建国大学六期生、ハイラル(中国東北部)出身。ハイラル第三高等学校で日本語と英語を学んだ。
1945年6月新京郊外で勤労奉仕をしている時にソ連軍の空襲を経験し、すぐに大学を飛び出してハイラルに帰った。その後モンゴルの小さな部落のハケに移った。8月ハイラルの様子を見に行くと、彼の親友のロシア人同期生“A”はスパイという密告で家族共々射殺されていた
1954年中国からソ連に行く様通告を受け。国境で荷物は全て中国人官吏に没収され、ソ連に入ると北方の収容所(常時銃を持ったソ連兵の監視があった)に送られた。その収容所ではエストニアやラトビアの人もぼろ服をまとって生活していた。食料は全て配給制のわずかなパンと水であった。過酷な収容所生活の中で、ロシア人の建国大学の先輩に出会い、週に一度程度は会って大学時代の楽しいことを話す機会を持ったが、彼も急に居なくなった。10年ほど収容所生活を送った後、優秀な建築技術者であった弟の尽力でアルマトイに戻ることができた。但し共産党への入党が条件であった。その後キリスト協会の経理担当者としての仕事を得、2003年にこの教会でのパーティーで日本人大使と話す機会があり、これをきっかけに日本の同級生との連絡がつくようになった。

著者は、満州国に関わる日本を代表する研究者である「京都大学人文科学研究所教授の山室信一氏」とのインタビューも行っているが、満州国、及び建国大学についての見解を求めたところ、以下の様に答えている;
1895年以降、日本は台湾を領有し、朝鮮を併合し、満州などを支配した。これらが一体となって構成されていたのが近代日本の姿だったのに、日本列島だけの“日本列島史”に執着するあまり、植民地に対する反省や総括をこれまで十分にしてこなかった。日本人の植民地認識は近代日本認識におけるある種の忘れ物なんです。そして、そんな日本という特殊な国の歴史の中で、台湾、朝鮮、満州という問題が極度に集約されていたのが建国大学という教育機関だったというのが私の認識であり、位置づけでもあります。政府が掲げる矛盾に満ちた“五族協和”を強引に実践する過程において、当時の日本人学生たちは初めて自分たちがやっていることのおかしさに気づくんです。そういうことを気づける空間は当時の日本にはほとんどなかったし、だからそれを満州で“実践”できていた意味は、当時としては我々が考える以上に大きいことであった。・・・私は満州国を研究していて強く思うのは、そこには善意でやっていた人が実に多かったということなのです。それがどうして歴史の中で曲がっていくのだろうか、その失敗を私たちは歴史の中から学び直さなければならない。・・・石原莞爾についても・・・やはり悩みながら、そして失敗していった人だと思います。・・・日本が過去の歴史を正しく把握することができなかった理由の一つに、多くの当事者たちがこれまで公の場で思うように発言できなかったという事実があります。終戦直後から1980年代にかけて、満州における加害的な事実が洪水のように報道されたことにより、建大生を含めたかつての当事者たちが沈黙せざるを得ない状況に追い込まれてしまった。・・・」

-私の読後感-

私を含めて1945年8月15日以前に台湾、朝鮮、満州で生まれた者は全て戸籍謄本にその痕跡が残っています。また若い頃、外国旅行をした時に入国審査書類の“Birth Place”を記入する時に困った記憶のある人も多いと思います。まぼろしに終わった満州国、教科書では何も学べない“自分の生まれた国”についての知識。この書は、老い先短い私にも、まだまだ勉強しなければならないことが沢山ある事を教えてくれました。

以上

「麻山事件」を読んで

-著者(中村雪子氏)紹介-

1923年長野県に生まれる。長野県立岡谷高等女学校卒業。1939年渡満、1946年引揚。1959年より名古屋女性史研究会、1979年より東海近代史研究会所属。「麻山事件」に関しては13年の歳月をかけて生存者から聞き取りを行い、1983年にこの本を上梓した。

-麻山(マサン)事件とは-

1945年8月9日、突如ソ満国境を越えて侵入してきたソ連軍に追われ逃避行途上にあった「哈達河(ハタホ)開拓団」の一団が8月12日麻山付近でソ連軍の包囲攻撃を受け、婦女子四百数十名が自決した事件。この時介錯は十数名の男子団員により小銃を用いて行われた。介錯を行った男子団員は、その後ソ連軍陣地に切り込みを行ったが圧倒的なソ連軍の前で目的を果たさず、一部団員が生きて日本に帰ることになった事件。

-はじめに-

私たち家族は満州からの引揚者です。幼い頃、中国残留孤児帰国の報道を見ながら母が涙を流していた事を今でも思い出します。私たち家族は終戦時奉天(現在の瀋陽)に住んで居た為、凡そ一年後に家族一緒に引揚げることができました(詳しくは当ブログの“生い立ちの記”参照)。しかし、満州北部に住んでいた(主に「満蒙開拓団」)の人達は、8月9日のソ連軍の侵攻と8月15日のポツダム宣言受諾との間の時間のズレから我々以上の苦難を味わった事は両親からそれとなく聞いていました。歴史を辿る勉強を続けている内に、最近本書に出会い、読み進む内に“母の涙”の本当の理由が分かってきました。終戦時、在外邦人は凡そ650万人(武装解除されたた軍人も含む)居たと言われますが、私の親も含め戦中・戦後の多くの悲惨な体験は語られないことが多いといいます。恐らく外地に居た人々が、結果として国策に協力していたことへの罪悪感や、引き上げ後内地の人々から受けた心無い言葉、あるいは人倫に悖る余りにも悲惨な体験、などが語ることを躊躇わせたからかも知れません。もうすぐ戦争を体験してきた人々が全て鬼籍に入ってしまう今、奇しくも「憲法改正」や「集団的自衛権」の議論が盛んに行われています。読むことがどんなに辛くても、こうした悲惨な歴史的な事実も正しく知っておく必要があると思います。

-満蒙開拓団について-

1929年、ニューヨーク株式市場の大暴落に端を発した世界恐慌により日本にも深刻な不況が襲い大量に都市労働者が失業しました。またその後2年間、北部日本を襲った冷害ににより農民の極度の窮乏が進みました(年若い農家の娘が売春窟に売られるなど)。こうした厳しい社会情勢を背景にして、国際的な反発を顧みず1932年に満州国が建国されました。建国とともに、加藤完治らの提唱する満州移民(満蒙開拓団)が脚光を浴びて登場してきました。同じ年の10月には、在郷軍人を中心として編成された武装移民団433名が満州に入植しました。

1936年には関東軍主催の第二回移民会議によって「満州農業移民百万戸移住計画(20年間に百万戸、一戸当たり5人として五百万人を入植させるという途方もない計画)」が決議され、広田内閣によって重要国策として決定されました。関東軍が主導したことで分かる様に、五百万人の日本人の移住(満州国人口の1割)によって、国防上の生命線を守るという強い軍事目的がこの計画の裏にはありました。これだけの大規模な移民を実現するためには、それまでの希望者ベースの開拓民募集という方法から、町村単位で一定戸数を集め、満州にその分村を建設させるという「分村移民」が原則となりました。また、不要、不急産業の転・廃業による「職業開拓民」や、高等小学校卒業生を郡、府県単位にまとめた「郷土部隊」、の様な仕組みも取り入れられました。因みに私の両親の出身地である長野県が最も多く開拓民となって満州に移住しました。開拓団が移住した場所は以下の地図(本の見開きページ)をご覧ください;

開拓団の入植地区とソ連侵攻後の避難経路
開拓団の入植地区とソ連侵攻後の避難経路

こうして入植した「満蒙開拓団」は、日本とは全く異なる気候や土壌に悩まされながらも、土着農民の農具を取り入れたり、様々な工夫を行うことにより一定程度の農業生産性を上げるようになっていきました。また、これだけの大規模な移民では土着農民の農地を侵食することも発生し、当初は軋轢が起こったものの土地買い取り制度の導入などによって一応の住み分けは出来るようになっていきました。一戸当たりの農地面積が非常に広かった(10~20町歩)ことから小作制度(小作人:満州人、朝鮮人)も取り入れられました。

-哈達河(ハタホ)開拓団-

麻山事件を起こした開拓団は1935年以降、以下の地図にある様に、満州北東部の虎林線(林口と虎頭を結ぶ鉄道)の真ん中あたりににある東海駅近くに展開していました。

虎林線沿線図
虎林線・沿線図

また、この開拓団部落の見取り図は以下の通りです;

哈達河開拓団部落
哈達河開拓団部落

入植2年後の1937年における哈達河開拓団の概要は以下の通りです;
所在地:満州国東安省鶏寧県
在籍者:178名(出身都道府県/岩手、宮城、福島、新潟、長野、山梨、栃木、埼玉、茨城、東京、千葉、神奈川、静岡、徳島、高知、香川、佐賀、長崎、熊本、宮崎、大分、鹿児島;尚、逃避行を始める1945年8月には少なくとも1300人以上に膨れ上がっていたと思われる)
団長:貝沼洋二(麻山にて自決。東京出身、北海道大学卒、開拓団経営を学び哈達河開拓団結成時から団長。公平無私、古武士の様な風格を持っていた)
幹部:農事指導員、警備指導員、畜産指導員、保険指導員
その他麻山事件に関わる特記すべき構成員;
1.笛田道雄:生還し麻山事件の詳細を証言した。1935年、哈達河開拓団の先遣隊として渡満。北海道八雲出身
2.遠藤久義:生還し麻山事件の詳細を証言した。長野県小県郡浦里村(現在の上田市)出身
3.福地靖:保険指導員(医師)。逃避行中に行方不明。麻山事件発生時、後続部隊におり部隊員に逃避行を勧めた。

-ソ連軍侵攻前の状況-

1943年西太平洋から始まった米軍の反攻により日本が徐々に敗戦に向かっている情報は、戦災の及ばなかった満州にも確実に伝わっていました。特に新聞などを通じて英雄的に語られている“玉砕”などの情報(アッツ島玉砕/1943年5月、サイパン島玉砕戦/1944年6月、硫黄島玉砕/1945年2月、沖縄戦/1945年3月~6月)や、帝国軍人必携の「戦陣訓」にある、“生きて虜囚の辱めを受けるな”の一節は、開拓団の婦女子に至るまで周知のことであったと思われる。一方この様な厳しい戦況にあっても一般の在満邦人は、精強な関東軍がおり、日ソ不可侵条約で守られている満州には当面戦火は及ばないと考えていました。

しかし実際は、南方の戦線に兵力を割愛してきた関東軍は兵員数、装備共に相当弱体化しておりました。また日ソ不可侵条約についても日本のあずかりしらぬヤルタ協定(1945年2月)により日本への参戦を約束していたソ連は、条約の延長交渉(1946年4月に期限を迎える)に応じていませんでした。1946年5月のドイツ降伏前後からソ満国境に膨大な兵力を移動させている情報は関東軍もキャッチしており、ソ連軍との戦争が時間の問題であったことは軍関係者にとっては周知の事実だったようです。因みに、関東軍は1945年に入ったころからソ連軍の侵攻に備えて「一部兵力による北満での玉砕的敢闘」を前提に、主力は後退して「新京(長春)-図們-大連」を結ぶ三角地帯(最初の図面で黄色の線で囲った部分)」の山岳部で長期持久戦を行うという作戦計画を秘かに立て、既に北満からの兵力撤退を開始していました。7月に入るとこの計画に沿って全満州から大半の男性を招集(所謂「根こそぎ動員」)しました。この結果開拓団の男性は殆ど招集され、開拓部落に残ったのは婦女子と体力の無い男性のみとなっていました。すなわちソ連軍侵攻の開始前から、開拓団の人々はいわば“棄民”になっていたと言えると思います。これは軍人と行動を共にしたことによる悲劇であったサイパンや沖縄とは事情が異なるということができます。

-ソ連軍の侵攻と開拓団の逃避行-

1945年8月9日午前零時、ソ連軍は圧倒的な兵力(兵員:約160万人、火砲、等:2万6千、戦車・自走車:5千5百両、航空機:約3千4百機)を投入して6方面から満州に侵攻を開始しました。既に関東軍の防空体制が皆無となっていた為、侵攻と同時に航空機による都市爆撃(新京/長春)、鉄道沿線の機銃による波状攻撃が始まっていました。その為県から鶏寧への引揚命令が出ましたが、逃避行に力を貸すはずの鉄道は、国境の東安方面に向かう路線が関東軍の命令により平陽駅で止められ(虎林線・沿線図参照)、哈達河開拓団部落の人は利用できませんでした。しかも、殆どの開拓団家族には男手がなく、また多くの乳幼児(5人程度は普通)を抱え、徒歩以外の移動手段は馬車のみという想像を絶する逃避行が始まりました

鉄道沿線に沿って逃避行を続ける開拓団家族に対して、航空機による容赦ない機銃掃射があり、この段階で多くの人が命を落としました。やっと辿り着いた鶏寧の街も多くの建物は爆撃により燃え盛っていました。8月11日午後から豪雨が続き、逃避する道路は満州名物の“泥濘”となり、頼みの綱の馬車は使い物にならなくなりました。また北満の夜の雨は8月であっても骨身に染みるほどで、馬車を失った家族は雨除けの衣類とてない状況となり体力の無い乳飲み子から先に命を落としてゆき、遺体は路傍に置いていかざるを得ませんでした。この頃、撤退する関東軍が逃避行を続ける開拓団を追い越してゆき、逃避する開拓団が最後尾になる状況が現出していました。

8月12日の午後、麻山付近で前方に強力な火力を持ったソ連軍が出現、後方からも機械化部隊が接近しており、正に挟み撃ちの状況になってしまいました。ここで関東軍から「・・・開拓団の男子は速やかに前進し軍に協力すること。・・・婦女子は直ちに退避せよ」との指示がありました。この時、逃避行を続けている哈達河開拓団は三つの集団に分かれており、先頭集団には遠藤久義など6~7名の男子と60~70名の婦女子が加わっていました。中央集団には貝沼洋二団長の他婦女子中心の400名余がおり、「麻山谷」と呼ばれる600坪ほどの窪地に退避していました。そこから1キロメートル程後方の高粱畑に笛田道雄福地靖のいる後尾集団がいました。

-麻山事件-

先頭集団は、周辺の山に布陣したソ連軍から突然猛烈な銃・砲撃を受けました。トウモロコシ畑には逃げ惑う婦女子の悲痛な叫びと断末魔のうめき声が満ち溢れ、この中で多くの死傷者が発生しました。最後の時を迎えたことを悟った男子団員が、生き残っている婦女子の「処置(苦しまない様に殺害すること)」を行った後、遠藤久義ほか1名は、戦場から脱出し、麻山谷の貝沼洋二団長に婦女子全員自決の報告を行いました。

この時点で、前方に展開していた関東軍はソ連軍との戦闘に負けて牡丹江に向けて撤退を始めていました(後方の敵からの攻撃を避けるため、麻山付近で山中に入る)。貝沼洋二団長は、後退してくる関東軍に対して、「せめて一個小隊の兵でもよい、安全地帯まで護衛をつけてもらえないだろうか」と懇願したが、拒絶されてしまいました。

こうした状況から、中央集団貝沼洋二団長は、全員まとまってこの危機を脱することは不可能と判断し、一緒にいた開拓団員全員に向かって二つの対処案を提示しました;
1.バラバラになって脱出する
2.生きるも死ぬも最後まで行動を共にする
嗚咽と慟哭が津波の様に広がるなか、まず女性の方から「私たちを殺してください」、男性たちから「自決だ」、「日本人らしく死のう」、「沖縄の例にならえ」、「死んで護国の鬼となるんだ」の言葉が発せられました。団員たちはそれまで肌身離さず携行していた写真などを燃やし、子供たちには晴れ着を着せ、大人たちは新しい下着に着替え、白鉢巻、白襷をしめ、同じ部落の者同士が円陣を組んで水盃を交わしました。貝沼洋二団長は男性団員による斬込み隊に後事を託し、最初全員の前でピストルで自決を遂げました。残りの婦女子も後を追い銃による覚悟の自決(銃を携行している男子団員による“処置”)を遂げました(但し3日後に7歳~10歳の子供7人は現地の人に助け出され生還しました)。

後尾集団では前方から聞こえる銃・砲撃の音などで異変を察知し偵察を行ったところ、中央集団の貝沼洋二団長と婦女子全員自決の事実を知ることとなりました。男性隊員たちは、「サイパンにならえ、沖縄に続くんだ、、」と絶望的な興奮に陥り、女性たちも自決を心に言い聞かせていた時、一人沈黙を保っていた福地医師が立ち上がり以下の様に語りだしました;
我々は既に敵の手中に落ちた。斬り込むもよいし、自決もよいが、勝つ見通しの無い戦いをするのが果してこの際とるべき最良の道であろうか。我々は哈達崗の大地で林口防衛の任務を命ぜられている。死中にだって活路はある筈だ。生きてことの仔細を中央に連絡すべき義務もある。生き抜く努力をすべきではないのか」、また地図と磁石を取り出し、「この裏手の山々の尾根を西に伝って行くと林口の裏手に出る、、、」、福地医師のこの言葉に男たちは、「だが、この大勢の婦女子が、この山中の行軍に従い歩くことができるかどうか。足手まといにならないかどうか」と発言した。これに対し女性たちから、「私たちを連れて行って下さい。決して男の人たちの足手まといにはなりません」。こうして後尾集団の大半が山中の行軍を選択しました。

一方、同じ後尾集団に居た笛田道夫が所属する武蔵野部落の一団は、中央集団自決の報に接し女性たちの方から、「私たちはここまで連れてきてもらっただけで充分です」。「笛田さんは心おきなく林口防衛の任務についてください」、「ご縁があればまたあの世で会いましょう」、「ありがとうございました」、「元気で頑張ってください」と言って山中の行軍を選択せず自決(24名)の道を選びました。

後尾集団で山中の行軍を選んだ150名~155名は、8月15日の終戦も知らないままに40日にわたって山中を彷徨しました。この行軍は悲惨を極め、引揚者として祖国の土を踏むことが出来た人は20名~25名、中国に残留し中国人と結婚、乃至養子となったものが約10名。福地靖医師は山中に入って4日目に行方不明となっていました。行軍を選択した人達は、長い行軍の途中でソ連軍の機銃掃射、飢え、愛する者の無残な死(あるいは“処置”)、やむにやまれず遺体から衣服、靴を剥ぎ取り着用するなど地獄の体験をすることとなり、からくも生き残った人達にも終生消えない心の傷を残すこととなりました。また山中彷徨の際、関東軍(撤退と称していたものの実際は統制を失った敗残兵)と出会う機会もありましたが、彼らの庇護を受けることは一切ありませんでした。

-その後、、、-

8月15日以降もソ連軍占領地域では、略奪、暴行、凌辱、が相次ぎ、この中で殺害されたり、自決する人が数多く出ました。
一方中国軍占領地域では、終戦直前の8月14日、蒋介石の以下の命令(重慶からのラジオ放送)が軍当局や各地の治安維持会の日本人に対する態度に大きな影響を与えました;
「暴を以て暴に報ゆるなかれ。我々は日本軍閥を敵とするが日本人民は決して敵と認めない

10月中旬~引揚が始まる翌年5月までの厳冬の期間で病没した人は13万人を数え、終戦以降全満州での病没者数17万人の実に76%に及びました。

生き残った遠藤久義は引揚前に麻山の地を訪れ、自身が“処置”を行った人の遺骨を収集し日本に持ち帰りました。

応召中の弟(シベリア抑留中に病没)の妻子6名を麻山で失ったことを知った薮崎順太郎は、1949年「参議院・在外同胞引揚委員会」に実情調査を提訴しました。この提訴内容を毎日新聞が以下の様な記事にしました;
「・・・牡丹江に向け徹夜で行軍、12日頃麻山に達したとき満州治安軍の反乱部隊が襲来、前方にソ連戦車隊があり進退きわまる状況になった団長貝沼洋二氏(東京出身)は最悪の事態に陥ったと推定し団員の壮年男子十数名と協議し“婦女子を敵の手で辱められるより自決せよ”と同日午後四時半ごろから数時間にわたって男子数十名が銃剣をもって女子供を突き殺した”。これら壮年男子はその過半が新京、ハルビンへ逃れあるいはシベリアで収容されて帰還している」

-私の読後感

戦争での死や苦しみは、それを体験した者にしかその真実は語れないことを痛感しました。13年間に亘って生き残った人達から証言を集め本書に纏めた著者に対して敬意を払いたいと思います。一方、終戦まで軍の追従記事を書いていた新聞が、一転して戦争中に起きた常識では考えられない色々な出来事(自決、婦女子の“処置”、特攻隊、虐殺事件、、)に、短絡的に加害者を当て嵌めて行くことは、正しい歴史観に基づいているとは思えません。

この事件を振り返ってみると、悲劇的な結末を生んだ背景には以下の様な状況があったと考えられます;
*軍の最大の使命が国民の生命の保護にある事を忘れていた事
*「戦陣訓」の一節:“生きて虜囚の辱めをうけるな”が国民一般にも徹底されていた事
*「アッツ島玉砕」、「サイパン島玉砕」、「硫黄島玉砕」、「沖縄戦の悲劇」、「特攻隊」、、等を報道機関は英雄的に伝えていたこと

振り返って現在にこの教訓が生かされているかどうか、きちんと検証することがこの事件で亡くなった多くの方への供養になると思いました。

以上

憲法についての私の見解

-先の戦争に関わる私の歴史観-

 我々の世代は、先の戦争で悲惨な体験をしてきた両親や、小・中学校の先生から徹底的な平和教育を受けてきました。その中心的な役割を担ってきたのが所謂日本の平和憲法です。また我々の世代の多感期にあっては、世界情勢が激変し小・中学校時代に受けてきたこうした平和教育と現実政治とのギャップに日々悩んできたことがあります。従って我々は他の世代の人々に対して、現行憲法についての歴史や問題点を論じ、発信する資格があると思っています。

満州事変から太平洋戦争に至る歴史をつぶさに学ぶにつれて、「軍国主義」がこの戦争の唯一の原因であり、この軍国主義を永久に葬るために「平和憲法」があるという考えは余りに単純な考えであることが分かってきました。軍民合わせて310万人もの死者を出した先の戦争の責任は、軍部や軍国主義者だけでなく、被害者であるはずの国民一人一人にもその責任があると考える方が自然です。先の戦争の当事者であった国々(連合国だけでなく、枢軸国も)は、まがりなりにも民主的な体制を整えており、戦争を始める前には国民の大多数が開戦を支持していたことは歴史的な事実です。民主主義のリーダーを標榜する米国ですら9.11同時多発テロ以降アフガニスタン、イラクとの泥沼の戦争に突き進んでいった時も、始める時点では国民の大多数の支持が得られていました。ある人はマスコミが悪いと言いますが、マスコミの論調に同調してしまうということは、とりもなおさず自身の判断力が劣っていたということを告白している様なものです。客観的な情報を集める努力を惜しまず、これらを基に自身の責任で判断していくことが民主国家の国民として求められていることだと私は考えます。

昨今、最も沸騰した議論が行われた政治的課題は「新安保法制」だと思います。この議論の中で一部の党派が、新安保法制は「戦争法案」だというスローガンで大衆を扇動しておりましたが、政治手法としては先の戦争で行われていた政治的プロパガンダと同質であるだけでなく、日本人が陥りやすい短絡的な思考を助長するという意味で大変危険に感じました。また、憲法学者を集めて意見を聞いた結果、「新安保法制」は憲法違反であるという意見が多かったことで、マスコミがキャンペーンを張り国会周辺が騒がしくなったのは、2.26事件以降の戦前・戦中のマスコミの姿勢とこれに踊らされて好戦的となった一般大衆を彷彿とさせ大変危険に感じました。

-現行憲法を素直に読むと-

 そもそも憲法の様な最も基本的な法律が、学者の解釈を必要とするほど難しくていいのでしょうか。ましてや、憲法条文の解釈を学者や政治家に委ねていて民主国家の国民といえるのでしょうか。我々一人一人が自身で憲法を読み、もっとシンプルに理解する必要があると思います。以下は現行憲法についての私の見解です;

憲法前文には以下の様な国際関係に関わる認識が書かれています;

「・・・日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。 ・・・」

また憲法9条には以下の様に「戦争の放棄」と「戦力の不保持、交戦権の放棄」が明確に書かれています;

「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久に放棄する

第2項;

「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない国の交戦権は、これを認めない

この条文を見て現在の陸・海・空の自衛隊が合憲と言えるでしょうか。私はこの条文を改正しない限り自衛隊の存在そのものが違憲であると思います

現行憲法は、GHQ支配下のもと所謂「マッカーサー草案」をベースに日本側の専門家と検討を重ねたうえで、1946年11月に公布され、翌年5月3日に施行されました。この時点では、交戦国である連合国軍、及び戦争によって過酷な被害を被った東南アジアの国々にとって、直接憎しみの対象となる日本軍を“永久に”葬ることが、この条文の目的であったことは間違いないと思います。また、1945年10月24日に誕生した「国際連合」による集団的安全保障により戦力を持たない国の正義は守られるという期待があったものとも考えられます。

国連憲章第51条には「集団的安全保障」について以下の様に規定されています;

「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。・・・」

(注)日本は1952年に国連加盟を申請したものの、冷戦下にあってソ連を中心とする社会主義国の反対にあい加盟できなかった。加盟できたのは1956年日ソ国交回復の後であった。

新憲法に関わる国会討論の場で、1946年6月26日に当時の吉田茂首相は;

「戦争放棄に関する本案の規定は、直接に自衛権を否定はして居りませんが、第9条第2項に於いて一切の軍備と交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、又交戦権も放棄したものであります」

と、明確に述べています。

-冷戦下に於ける「自衛権」の拡大解釈への道-

しかし国際情勢が激変する中で、吉田茂首相は1950年1月28日の国会答弁で;

「いやしくも国が独立を回復する以上は、自衛権の存在することは明らかであって、その自衛権が、ただ武力によらざる自衛権を日本は持つということは、これは明瞭であります(原文のママ)」

と述べており、自衛権に関わるニュアンスの違いが表れています。

終戦後1950年までの5年間に日本を取り巻く国際情勢が大きく変わりました。ドイツの分割統治に代表されるようにソ連邦を盟主とする社会主義諸国とアメリカを盟主とする自由主義諸国との間に「冷戦」が始まり、アジアでは大戦後の秩序を変える為の戦争が始まっていました。

因みに、中国本土では1946年6月、毛沢東に指導された中国共産党軍と蒋介石に率いられた国民党軍との間に内戦が再発し1949年には国民党軍を台湾に追いやり中華人民共和国が成立しました(同年10月1日)、

またベトナムでは日本の降伏後フランスの植民地に戻ったものの、すぐにホーチミンに指導された共産軍(ベトミン)が独立戦争を始め、1954年5月ディエンビエンフーの戦いでフランスには勝利したものの、米軍が支援する南ベトナムとの間で1970年まで続く長い戦争が始まっておりました。

一方朝鮮半島では1950年6月に金日成に指導された北朝鮮軍が突然38度線を突破し、破竹の勢いで韓国軍を圧倒して釜山に迫る状況になりましたが、その年の9月米軍を中心とする国連軍が仁川上陸作戦を決行し体勢を逆転させました。しかし北朝鮮軍が劣勢に落ち入ると、成立したばかりの中華人民共和国軍(義勇軍と称していた)が突如参戦し、戦局は38度線を境に膠着状態になりました。1953年7月休戦協定が成立したものの現在に至るまで緊張状態が続いています。

こうした緊迫したアジア情勢の中で、GHQの命令で新憲法の「戦力の不保持」の概念に抵触する可能性のある「警察予備隊」を設立(1950年8月)し、更にこれを明らかに武装組織と見做しうる「保安隊」に改変しました(1952年10月)。これらの隊員には旧日本軍の将兵が多く雇用されていました。

【日本の主権回復】

1951年9月サンフランシスコに於いて連合国との間に平和条約の調印が行われ、翌年4月に発効し日本の主権は回復しました。しかし冷戦の影響でソ連を中心とする社会主義の諸国はこの条約に署名をしていません。また、米国との間には平和条約調印と同時に二国間で「日米安全保障条約(以下“安保条約”)」が締結され、米国が日本の防衛の責任を負うことと、米軍の日本駐留を認めることが決められました。

一般にはあまり知られていないことですが、1954年3月には「日米相互防衛援助条約」が締結され、日本は自国の防衛力を強化していく義務が課せられました。これに伴い、同年6月「保安隊」は陸・海・空の「自衛隊」に改組されることになりました。

憲法を改正することなく実質的に軍隊と変わらない「自衛隊」を保持することは、当然国会での議論を呼び、1954年12月22日衆議院予算委員会で大村精一防衛庁長官が概略以下の様な趣旨の発言をしています;

* 憲法は自衛権を否定していない

* 憲法は戦争を放棄しているが、自衛の為の“抗争”は放棄していない

* 「戦争、武力による威嚇、武力の行使」を放棄しているのは「国際紛争を解決する手段としてはということ。他国から武力攻撃があった場合、武力攻撃そのものを阻止することは、自己防衛そのものであって、国際紛争を解決することとは本質的に異なる。従って自国に対して武力攻撃が加えられた場合、国土を防衛する手段として武力を行使することは憲法に違反しない

しかし、「国際紛争を解決する為」以外の目的で「他国からの武力攻撃」を受けることは常識的にあり得るでしょうか。これはどう考えても私には詭弁としか思えません。

砂川事件

1957年7月立川基地内に基地拡張反対派が立ち入ったとして、安保条約に基づく刑事特別法違反の疑いで7人が逮捕されました。被告人は安保条約そのものが憲法違反であるとして無罪を主張、一審の東京地裁では被告人の主張を認め全員無罪の判決を下しています。しかし1959年12月、最高裁では以下の判断のもと地裁判決を破棄し、差し戻しました(差し戻し審判決:罰金2千円);

* 憲法9条は安保条約を禁ずるものではない

* 裁判所が条約について「違憲審査権」を行使するのは明白に違憲であるものに限る

* 米軍の駐留は、憲法前文、第9条、第98条第2項(条約の遵守義務)に適合する

この最高裁判決では、自衛隊の存在が合憲か違憲かの判断はしていません。また、安保条約に基づく集団的安全保障は合憲であるという判断を行っています

-国内於ける保革の対立-

アジア諸国の自由主義と社会主義の対立の構図は、国内の「保守」対「革新」の対立にも色濃く反映していました。保守陣営による安保条約体制維持に対する革新陣営による安保条約破棄闘争と反戦運動は、正にこの構図そのものでした。

60年安保闘争

1959年~60年、安保条約に反対する労働者、学生、市民が参加して大規模な反対運動が起こりました。30万人以上が国会を囲み、激しいデモと警官隊との衝突により学生1名の死者(樺美智子さん)を出しました。私の中学時代の出来事ですが、この時の記憶は鮮烈です。しかし新しい安保条約は国会で批准され、岸首相は安保条約の成立を機会に辞任致しました。

この安保闘争では、1955年7月の日本共産党第6回全国協議会(通称“六全協‘)で暴力革命を放棄した共産党から分かれ、1958年に結成された共産主義者同盟(通称“ブント”)のメンバーが全学連を牽引し激しい闘争を繰り広げましたが、安保闘争が終息すると多数の党派に分裂し、この後の過激な学生運動に引き継がれてゆきます。

60年安保闘争
60年安保闘争

ベトナム反戦運動

1965年2月に始まった米軍の“北爆”を契機として、60年安保闘争に参加した知識人(小田実、鶴見俊介、他)を中心メンバーとして組織された無党派の反戦運動です。“ベトナムに平和を! 市民連合(ベ平連)”と称するこのムーブメントは、反戦を旗印に国内外で活発な運動を繰り広げましたが、1973年のパリ和平協定締結に続く米軍のベトナム撤退(1974年)を受け解散しました。

ベ平連のデモ
ベ平連のデモ

70年安保闘争

1960年に締結された新安保条約は期限が10年で、1年前の通告で一方的に破棄できると定めてあり、70年安保闘争とは締結後10年を迎える1970年に安保条約を破棄通告させようした闘争でした。この闘争は大学改革を目指した学生運動(全学連)と結合し、大学封鎖等の戦術が全国の大学に広がってゆきましたが、労働者、市民のレベルには共感が広がらず、70年の期限が迫るにつれ、60年安保後に生まれた“ブント”系の過激な党派(核マル派、中核派、赤軍派、等)に次第にイニシアティブを握られるようになり、条約破棄の通知期限である1970年を過ぎてこの闘争は目標を失い自動消滅致しました。この前後から、より過激になった“ブント”系党派間の争い(内ゲバ)は多くの死者を出す程の激しさとなりました。特に核マル派と中核派の間に起った凄惨な内ゲバはその後も長く続き、その血なまぐさい暴力は一般の人には耐え難いものでした。また赤軍派は1970年の「よど号ハイジャック事件」、1972年2月の「浅間山荘事件」、1972年5月の「テルアビブ空港乱射事件」、1973年の「ドバイ日航機ハイジャック事件」等の一連の大事件を引き起こし、大衆運動からは完全に遊離して行きました。マスコミにも大きく取り上げられたこれらの過激な活動が、結果として終戦後ずっと続いてきた先駆的な学生運動の系譜も完全に断ち切られてしまうことになりました。その後現在に至るまで続く政治に無関心な若者群は、この時代の過激な学生運動の挫折の結果かもしれません。

70年安保闘争_安田講堂の攻防
70年安保闘争_安田講堂の攻防

結局これらの闘争や反戦運動は自民党政権の打倒社会主義的な体制への変革を目指した活動が主になり、結果として自衛隊の違憲性については殆ど語られないままに終りました。

70年安保以降、日本は驚異的な経済発展が続き経済大国になると共に、大きな異論もないままに日本の防衛力は世界の五指に入るまで強化され、平和憲法の精神とは裏腹な強い“軍事力”を持つにいたりました。

-国際情勢の変化に伴う自衛隊任務の変質-

 一方1990年以降の世界は社会主義体制の脆弱化及びそれに続くソ連の崩壊により、それまで国際関係を決めていた冷戦構造が終焉しましたが、イスラム教過激主義の蔓延、国連安全保障理事会でのロシア、中国の拒否権の発動により中東地域、北アフリカ、東ヨーロッパでいつ終わるとも知れない戦乱が続くようになりました。

以下の歴史は、強い“軍事力”を持ってしまった日本が、平和憲法が求める「専守防衛」の枠から外れていく歴史的過程です;

湾岸戦争

1990年8月イラク軍が突如クウェート侵攻し占領後にイラクへの編入を宣言しました。1991年、米軍を中心とした多国籍軍がイラクを攻撃しクウェートを解放しました。日本は自衛隊の派遣はせず、130億ドルもの戦費等の負担を行ったものの、国際社会からは評価されませんでした。“Show the Flag”つまり軍隊の派遣無くして同盟軍とは見做されない現実を味わいました。ただ、1991年4月多国籍軍とイラク軍との間の停戦が発効すると、日本はペルシャ湾での機雷の撤去及び処置(掃海任務)を行うことになりましたが、これはあくまで日本の船舶の安全航行の為の通常業務と位置付けられていました。

PKO任務に伴う自衛隊の海外派遣

国連による平和維持活動に参加する為、1992年の国会(通称“PKO国会”)で「国際連合平和維持活動に対する協力に関する法律/通称“国際平和協力法”乃至“PKO”」を制定しました。以後、南スーダン、東チモール、ハイチ、ゴラン高原等、政情不安が続く(⇔危険の伴う)国々に自衛隊が派遣されており、最早海外に於ける日本の自衛隊のプレゼンスは先進諸国の「軍隊」と何ら変わりがない状態になっています

アフガニスタン侵攻

2001年9月11日(以降“9.11”)、ウサーマ・ビン・ラーディンに率いられたアルカイダにより米国の東部中心都市で同時多発テロが実行され、3,000人以上の死者が出ました。アフガニスタンの90%を実効支配していたタリバン政権にアルカイダのテロ実行犯の引き渡しを求めたものの応じなかった為、同年10月米軍を中心とした有志連合はアフガニスタンの北部同盟と協調して攻撃しタリバン政権を崩壊させました。この侵攻の前には国連安全保障理事会で「このテロ行為は全国家、全人類へ挑戦」という決議(1337号)を得ており、有志連合は国連憲章51条が認めている“集団的自衛権”の発動という立場をとっていましたが、この安保理事会決議には武力行使を行うとは書いていないので“集団的自衛権”発動とは見做せないという意見もありました。

同時多発テロ
同時多発テロ

日本は湾岸戦争を教訓(Show the Flag)に、2001年10月に「テロ対策特別措置法(“テロ特措法”)/2年間の時限立法;その後“新テロ措置法”として継続されましたが2007年に失効」を制定し、海上自衛隊の艦船をインド洋に派遣し、給油活動及びイージス艦によるレーダー支援を行いました。

イラク戦争(第二次湾岸戦争)】

湾岸戦争終結時にイラクに課せられた“大量破壊兵器”廃棄義務違反を理由として2003年3月、米軍を中心とする有志連合がイラクに侵攻しました。正規軍同士の戦闘はこの年に終わったものの、治安維持に向けた作戦に失敗しその後も泥沼化した戦闘が続きました。米軍の全面撤収は2011年末に一応実現したもののシーア派による政権運営が破綻し、イスラム最過激派であるISIS(又はISIL)による地域の支配を許し、現在も激しい戦闘が続いています。また、ISISの浸透は、シリア、北アフリカにも及んでおり、これらの国々からヨーロッパの国々に避難民が押し寄せ、結果としてEU内での左右の対立が深まり戦後営々として築かれてきた民族、宗教の融和は危機に瀕しています。

日本は2003年12月~2009年2月まで自衛隊を派遣しています。これは「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動実施に関する特別措置法(イラク特措法)/4年間の時限立法;2007年年に2年間の延長を行った」に基づくもので、自衛隊の人員規模は約1,000人に達する大規模な派遣(陸上自衛隊はサマーワを基地として約550人、航空自衛隊は輸送任務に約200人、海上自衛隊は輸送艦1隻、護衛艦1隻の乗組員約330人)となりました。国会での論議では自衛隊の活動が戦闘地域か、非戦闘地域かで紛糾したことは記憶に新しいところです。

上記の通り国会での議論を経てここ15年以上に亘って実質的に自衛隊の海外派遣が行われきており、自衛隊の存在に関わる違憲性はともかくとして、その任務を「専守防衛」として最後の歯止めをかけてきたことが、厳しい国際情勢の中でたとえ時限立法とはいえ崩れ去っていったことが分かります。

-新安保法制-

 衆議院で絶対多数を得た第二次安倍内閣では、2015年上記の体制を更に進め、自衛隊の任務を更に拡大した上で恒久法として以下の法律群(新安保法制)を制定しました;

1.国際平和支援法案:自衛隊の海外での他国軍の後方支援

2.自衛隊法改正:在外邦人の救出

3.武力攻撃事態法改正:集団的自衛権行使の要件明記

4.PKO協力法改正:PKO以外の復興支援、及び駆けつけ警護を可能とする

5.重要影響事態法:日本周辺以外での他国軍の後方支援

6.船舶検査活動法改正:重要影響事態における日本周辺以外での船舶検査の実施

7.米軍等行動円滑化法:集団的自衛権を行使する際の他国軍への役務提供追加

8.特定公共施設利用法改正:日本が攻撃された場合、米軍以外の軍にも港湾や飛行場を提供可能にする

9.海上輸送規制法改正:集団的自衛権を行使する際、外国軍用品の海上輸送規制を可能とする

10.捕虜取り扱い法改正:集団的自衛権を行使する際の捕虜の取り扱いを追加

11.国家安全保障会議(NSC)設置法改正:NSCの審議事項に集団的自衛権を行使する事態を追加

冷戦の終結とEUの東欧諸国への拡大で、一時世界は平和に向かって進むかに見えましたが、9.11テロ以降始まった中東での戦争で米国は疲弊し「世界の警察官」としての実力と威信を失う一方で、経済的な成長を遂げた中国が急速に軍事力を拡大し、東シナ海、南シナ海での新たな緊張を生み出しています。また欧州においてもロシアがウクライナに於いて領土的な野心を露わにしている状況が現出しています。シリアでの悲惨な状況を見るまでもなく、今の国際情勢は、最早米国中心の秩序も、国連中心の秩序も期待できない状況になっています。

新安保法制全体を俯瞰すると、もはや自衛隊の違憲性などは何処へやら、集団的自衛権の枠内(国連憲章の枠内ではなく)であれば、起こりうる国際紛争に立法措置無しで自衛隊を運用できるようになると思われます。であれば憲法9条は何の歯止めにもなっていないのではないでしょうか。

一方大統領選挙戦の論戦で見えてくる米国民の意識の変化は、モンロー主義(孤立主義的な外交方針)への回帰も伺えます。安保条約を頼りにしているだけで本当に日本は米国に守ってもらえるのか。また逆に米軍が引き起こす戦争に巻き込まれることにはならないのか。

-自衛隊を国防軍へ-

 如上を踏まえた上で、私の考えは憲法9条を改正し他の国々と同じように国防軍として認めた上で、この実力集団を如何にして戦争の抑止に役立てるかという議論こそ必要なのではないかと思います。

陸上自衛隊
陸上自衛隊
海上自衛隊
海上自衛隊
航空自衛隊
航空自衛隊

-沖縄基地問題の本質-

 本来国際間の条約では一方的に庇護されることはあり得ません。何かを頼れば、何かを譲らねばなりません。沖縄の基地問題もそこに原因があるものと思います。国防軍を持った上で対等の立場で米国との間の安全保障条約を作り直すことが必要です。1902年に結ばれた日英同盟が日露戦争の勝因の一つになっていますが、彼我に大きな国力の違いがあったものの、条約は平等で双務的な内容でした。

-解釈が必要な憲法は道を誤る-

明治憲法(大日本帝国憲法)では「統帥権」が天皇あり;

第11条:“天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス”

これが軍部の独走を許し、敗戦に至ったとよく言われますが、天皇を輔弼する国務大臣にも軍事費(兵員数、装備、等)や外交に関わる決済権限があり;

第55条:“國務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス。凡テ法律勅令其ノ他國務ニ關ル詔勅ハ國務大臣ノ副署ヲ要ス” 

また、帝国議会でも民選の衆議院議員によってチェックをする機能があり、同じ立憲君主国である英国の様に、天皇を頂点とする統治機構でも最善の決断ができるはずでした(現に衆議院議員・斉藤隆夫によって帝国議会で反軍演説が行われている)。しかし、実際には軍事に関しては「統帥権」を盾に取り、実力部隊をもった軍部に全ての判断を委ねる結果となりました。そもそも「統帥権」の定義、運用の基準等が具体性に欠けていたことが軍部の専横を許した訳ですが、国家存亡の危機を乗り切った仲間である明治の元勲達が政治・軍事を牛耳っていた明治時代にはこれで充分であったかもしれませんが、これらの指導者が世代交代した後はうまく機能しませんでした。

-結論-

 このような日本の歴史を踏まえ、憲法改正に当たっては、シンプルで、且つ曲解を生まないような条文にすべきであると考えます。また、改正すべきは9条だけではなく、96条(改正の発議に国会議員の三分の二の賛成を要する)も含めるべきだと考えます。何故なら、憲法は宗教の経典ではないので、改正の為のハードルを徒に高くすることは国民の利益にならないからです。憲法をめぐる国民の意思は国民投票のみによって示されるべきであり、真の平和は、現在の国民の意思によってこそ築かれるべきだと私は考えます

以上