北朝鮮危機について

-はじめに-

トランプ大統領が生まれてから、北朝鮮の核開発と大陸間弾道ミサイルの開発を巡って急激に緊張が高まってきました。米国と北朝鮮の公式の言い分だけを聞いていると、今にも戦争が始まってもおかしくないような状況になっています
新聞、テレビなどのマスコミは、国際政治の専門家や軍事評論家などを招いて熱心に分析を行ってみせますが、どうも対岸の火事のような扱いをしているように思えてなりません。また、そうした「空気」が影響していると思われますが、国民全体としても、ウクライナやシリアの内戦をテレビで見ている様な、現実感の無い遠い出来事としてとらえているふしがあります

しかし、北朝鮮はミサイルという飛び道具(米国が恐れる大陸間弾道ミサイルと違って日本に届く中距離ミサイルは既に実戦配備されている)と原子爆弾や化学・生物兵器という大量破壊兵器を既に保有しています

中距離弾道ミサイル_同時発射実験
移動式中距離弾道ミサイル(固体燃料)_同時発射実験

一方、日本は、米国との同盟国として北朝鮮に明確に敵対している状況にあることと、1910年から終戦まで35年間に亘って日本が植民地支配を行なってきたことに対する朝鮮人の人々に共通する怨念などを考慮すると、戦端が開かれたあと最初の攻撃目標に日本の都市や米軍基地が選ばれる蓋然性は、決して低くはないと私は思っています

在日米軍基地・配置図
在日米軍基地・配置図

国際社会による経済制裁や、6ヶ国協議による謂わば「飴とムチ」政策の中で、北朝鮮が着々と進めてきた核開発やミサイル開発は、彼らの体制の維持の為の必須条件となっているため、最早止めようもないという認識が一般化しつつあります
一方、米国にとっても、これまでと違って大陸間弾道ミサイルの開発が最終段階となって、これと原子爆弾がセットになった場合、真珠湾攻撃以来の米国への直接攻撃という大きなリスクを抱えることとなり、少なくとも核兵器の放棄という果実が得られない限り、今までの様な妥協は許されない状況になっています

しかし、今回の危機の当事者である米国、韓国、北朝鮮、中国は、過去の悲惨な朝鮮戦争の当事者でもあり、開戦の決断に対する国民の心理的なハードルは極めて高いことも確かです。また、クリミヤ半島の併合、ウクライナ内戦、シリア内戦の当事者であるロシアも北朝鮮と国境を接し、経済的なつながりも持っていますので、世界の覇権を競うこの三つの軍事大国が激突する構図は避けたいと思っていることに加え、地政学的に北朝鮮という国が、この三つの国の間の緩衝国として必要であるという点で共通認識を持っていると考えられますので、以前の朝鮮戦争の様な全面戦争に発展する可能性はかなり低いと考えられます

ただ、金日成がスターリンや毛沢東の反対を押し切って朝鮮戦争を始めた経緯(下記の注参照)や、金正恩が父である金正日ではなく金日成の統治スタイルの継承を目指している現況を勘案すると、開戦のリスクはゼロではないと思われます
(注)ソ連邦の崩壊後に、金日成がスターリンや毛沢東と交わした極秘電文が公開されています。詳しくは以下の書籍をご覧ください:「朝鮮戦争の謎と真実」/草思社;A・V・トルクノフ著;下斗米伸夫・金成浩訳)

-朝鮮戦争のクイック・レビュー-

ソウルに突入する北朝鮮軍戦車隊
ソウルに突入する北朝鮮軍戦車隊

上の写真は、1950年6月25日、突如北朝鮮軍が38度線を突破して韓国に侵入してきたときのソウルの様子を写した写真です。その後、北朝鮮軍は破竹の勢いで釜山まで進軍し、ほぼ韓国全土を掌握しかけました。しかし、同年9月15日、米軍を主力とする国連軍が仁川に上陸し、北朝鮮軍を圧倒して38度線を越えて北朝鮮を中国国境近くまで追い詰めましたが、建国したばかりの中国の義勇軍が鴨緑江を越えて北朝鮮に侵入して国連軍を押し返し、38度線で膠着状態に陥りました。1953年7月27日、38度線上にある板門店で休戦協定を結んだ後、現在に至っています
一説によれば、この戦争で軍人及び民間人の犠牲者(死者のみ)は、韓国240万人、北朝鮮290万人、中国90万人、米国15万人と言われており、太平洋戦争における日本人の死者数310万人と比べてみてもその死者数は桁違いと言わざるを得ません。しかも同じ民族同志の殺し合いという意味で朝鮮民族にとってその悲惨さは計り知れません
その後、青瓦台襲撃未遂事件/1968年、ラングーン爆破テロ事件/1983年、大韓航空機撃墜事件/1987年、延坪島砲撃事件/2010年、ついこの間の金正男暗殺事件、などなど北朝鮮が仕掛けた事件が数多く発生しているものの、米ソの冷戦、及びこれに続く中国の覇権国家としての台頭という国際情勢の中でギリギリのバランスを保ち、全面戦争に至らないで現在まで65年以上にわたって休戦状態が続いています

敗戦後の日本は、この朝鮮戦争によって米軍の後方基地としての役割から経済復興の足掛かりをつかみ、その後の奇跡的な経済発展の出発点となりました。また、日本に駐留する米軍が朝鮮に出兵することに伴う日本の防衛・治安維持を担うために、1950年7万5千人規模の警察予備隊が発足しました。1952年にはこれが保安隊に改組され、更に2年後の1954年には現在の自衛隊になり、実質的に再軍備がなったことになります。
また、敗戦後の日本は周辺海域に残る機雷除去のために旧海軍の部隊が掃海業務を行っておりましたが、朝鮮戦争勃発後、米軍の艦船に蝕雷(機雷に触れること)による被害が出た為に、マッカーサーの命令で1200名規模の特別掃海隊が組織され、朝鮮海域に派遣されました。この部隊が、元山(現北朝鮮)付近の海域で掃海業務を行っている際に、蝕雷により戦後初の戦死者を出しましたが、憲法9条の建前上この事実はあまり知られないままに歴史のベールに包まれてしまいました

-法体系上留意すべきこと-

日本は、きちんとした「法治国家」であることは異論のない所です。現在の日本の憲法の下で、日本が宣戦布告をしたり、先制攻撃を仕掛けることはあり得ないとしても、不意に北朝鮮から攻撃を受けたとき、あるいは同盟国である米国が北朝鮮との間で戦端を開いた時、日本の法制度ではどのように戦争を始めるのでしょうか、以下に、そのあたりを素人なりに解明してみたいと思います

日本の憲法では、その前文、及び第9条に「戦争の放棄」を謳っています。しかし、内閣法制局の憲法解釈で「自衛権」の存在は認められており、それを根拠に自衛隊という戦力を保持しています(詳しくは私のブログ:憲法についての私の見解 を参照)
この自衛権の発動の手順は、以下の自衛隊法に規定されています;

第七十六条  内閣総理大臣は、次に掲げる事態に際して、我が国を防衛するため必要があると認める場合には、自衛隊の全部又は一部の出動を命ずることができる。この場合においては「武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律(平成十五年法律第七十九号)」第九条の定めるところにより、国会の承認を得なければならない
 我が国に対する外部からの武力攻撃が発生した事態又は我が国に対する外部からの武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至つた事態
二  我が国と密接な関係にある他国(本件の場合、米国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態

ここで大切なポイントは、戦争を始めることにつき改めて国民の意思を確認する機会はありません。政権を担っている政党、及びその政党を率いる総裁(=首相)に判断を委ねることになります(勿論、国会でのチェックは入りますが)

また、現憲法が成立した当時、この様な形での自衛権の行使は想定されていなかったため、一般に戦争を遂行する際当然必要となる「交戦権」は、以下の通り明確に否定されたままになっています;

第九条  国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。
第二項  陸海空軍その他の戦力の保持は許されない。国の交戦権は認められない

一般に「交戦権」とは明確な定義は無いものの、「交戦国が国際法上有する種々の権利の総称であって、相手国兵力の殺傷と破壊相手国の領土の占領などの権能を含むものである」とされております。従って、日本の領土に北朝鮮軍が侵入した場合に、これを日本の領土外に撃退するまでの戦闘行為であれば、今の自衛権の定義の範囲で対応可能と思われますが、ミサイルによる攻撃があった場合に、敵ミサイル基地の攻撃を行うことや、公海上で敵部隊が日本に接近中にある時に、敵部隊に対する攻撃を行うこと、また攻撃をやめない敵国の領土に侵入して攻撃を行うことが現行憲法上可能かどうかは、恐らく議論が分かれるところだと思います

-日本が甘受せざるを得ないリスク-

たとえ北朝鮮から攻撃を受ける蓋然性が低いといっても、もし攻撃を受けた場合のリスクについて国民すべてが正確に認識しておく必要があると私は考えます。以下に、戦端が開かれた後、直ちに発生するリスクについて概説してみたいと思います

<ミサイル防衛上のリスク>
日本が保有する弾道ミサイル迎撃システム(海上に於けるSAM3と陸上におけるパトリオット3による2段階の迎撃)も、命中する確率は100%ではないことと、保有するミサイルの数には限りがあるため、打ち漏らして着弾するリスクは存在します。特に北朝鮮が公言しているミサイルの「飽和攻撃」(沢山のミサイルを同時に一か所に集中する攻撃)が実施された場合、一定の数は打ち漏らしてしまうことは紛れもない現実として受け入れねばなりません

<原子爆弾が使用されるリスク>
原始爆弾がミサイルに搭載できるほど小型化されたという確証は得られていませんが、もし開発完了しているとすれば、同胞である韓国に対して使うよりは、日本にある米軍基地、あるいは日本の大都市に対して使うと考える方が自然です。中でも植民地時代に受けた屈辱や、米軍からの報復核攻撃のリスクを勘案すると、日本の大都市が最初に核攻撃を受ける蓋然性が高いと私は考えています

<化学兵器、生物兵器が使用されるリスク>
化学・生物兵器は、第一次大戦で最初に使用され、極めて非人道的な兵器として知られていますが、コストの安い大量破壊兵器として現在もなおイラクやシリアで実際に使われてきました。北朝鮮は、1997年に発効した「化学兵器禁止条約」に加盟していない数少ない国であり、また、化学兵器、生物兵器をミサイルの弾頭に搭載する技術は保有していると言われています;

サリンガス弾頭
サリンガス弾頭

上の写真にある弾頭の中には、小さな球形のカプセルが詰まっていますがこのカプセルの中に化学物質や細菌が仕込まれ、着弾と同時に広範囲にバラまかれて、人的被害を拡大する仕掛けになっています。
化学兵器は、マレーシアで金正男暗殺(VXガスを使用)に使われたことで分かる通り、北朝鮮にとって使用に係る心理的な障害は皆無であると考えられます。また、人的被害を与えることが目的の兵器なので、使うとすれば人口が密集する大都市が対象となることは当然考えられることです

<北朝鮮の特殊部隊が潜入し、日本国内で破壊活動を行うリスク>
北朝鮮には相当数の特殊部隊が存在していることは周知の事実です。そしてこれらの特殊部隊は極めて危険な任務についても、目的を達するまで戦い通す実力を備えていることは、臨戦態勢に近い状態であった韓国に侵入して起こした「青瓦台襲撃未遂事件」などをみても明らかな事です
一方、日本は「日本人拉致事件」の被害者数を見れば明らかな様に、海からの侵入に対して、無防備な状態に置かれています。北朝鮮が数多く所有している潜水艦を使って少数の特殊部隊を送り込むことは、戦時体制に入れば易しいとは言えないまでも、極めて困難とは言えないと私は思っています
送り込まれる特殊部隊が少数であることを考えると、比較的過疎地にあって発見されにくく、侵入が容易で、防御が手薄な原子力発電所や水力発電所が攻撃対象に選ばれる可能性が考えられます。最も危険な攻撃方法は、原子力発電所にあっては大量の核燃料を保管しているプールの爆破(→水が抜けると燃料溶融が起こる)、水力発電所にあってはダムの爆破(→下流の村落が水害に見舞われる)が考えられます

<韓国に滞在中の日本人が犠牲となるリスク>
1995~96年にかけて第三次台湾海峡危機がありました。当時蒋介石、蒋経国時代(蒋介石と共に大陸から台湾にわたってきた中国人による台湾支配の時代)が終わって、台湾人の李登輝が民選(選挙による)によって総統に選ばれるタイミングに当たっていていました。中国は、台湾の独立は許さないとの立場で強力な軍事的圧力(福建省内の軍隊の移動、台湾海峡を越えるミサイル実験)をかけ、これに対応して米軍は台湾海峡に向け原子力空母を移動させるという、現在の北朝鮮危機と同じ様な状況になっていました
丁度この時期、私は日本アジア航空の社員として台湾に駐在しており、台湾在住の日本人約2万人を有事の際、どのように帰国、乃至台湾外に避難させるかというプロジェクトに関わっていました。この時の体験は以下の通りです;

米国は、台湾在住の米国民間人を全て陸上輸送(完全な制空権が無いという前提)で東岸(台湾海峡の反対側;台北の場合は「花連」に集まる)に集め、そこで待っている米軍の艦艇に乗せて避難させるという計画でした
一方、日本には戦闘状態に入っている空域を飛ぶ民間機は考えられないこと、自衛隊も憲法の制約(当時は勿論「新安保法制」は無かった!)で来ることは不可能であったため、自前で避難させる手段は無く、残るは米軍の情け!というありさまでした
実は、1990年8月、イラクによるクウェート侵攻があった時、日本人214人が取り残されて帰還を許されず「人間の盾」として使われた歴史があります(日本人を含む人質全員の解放はこの年の12月になります)。この時、米国民は全て迅速に避難していて人質には取られませんでした

今回のケースでは、韓国在住の日本人は7万人に達すると言われており、避難計画は相当困難であると考えられます。プラスの要素としては、新安保法制の一環で自衛隊法が改正され、同法第八十四条の三、で、在外邦人保護のために自衛隊の航空機や艦艇を送ることができることとなりました。しかし、実際に自衛隊を派遣するためには当該国の許可が必要とであり、有事の際、韓国が許可するかどうかは今のところ不明です

-現在のリスク管理の状況-

もし米国と北朝鮮が戦端を開けば、日本人一人ひとりに、好むと好まざるとに関わらず、如上のリスクが降りかかります。国及び地方自治体の関係機関は、国民に被害が及ばない様に、またリスクを極小化するように活動することは当然ですが、現在まで公表されている政府の対応は以下の通りです;

1.最も緊急を要する情報は、ミサイル発射の情報と着弾予想地点の情報です。これは(J-ALERT)というシステムで一般国民に瞬時に伝達される仕組みが構築されています
2.武力攻撃やテロが実際に発生した場合、国民一人ひとりが自身の身を守るために実施すべきことは、内閣官房・国民保護ポータルサイト武力攻撃やテロなどから身を守るために)に纏められています。大変参考になる内容ですので、是非一読されておくことをお勧めします
尚、マスコミでも広く取り上げられておりますが、J-ALERTの情報を受けて、現在自分にいるところに実際に着弾する可能性があると考えられる場合の自身のとるべき行動については「弾道ミサイル落下時の行動について」でパンフレット1枚に簡単にまとめられておりますので、これも是非一読されることをお勧めします

上記政府の対応で、北朝鮮から攻撃があった場合に取るべき行動についてはカバーされていると思いますが、原子爆弾が投下された場合の行動については、日本が唯一の被爆国であり、且つ福島原子力事故にによる混乱の記憶も生々しい事から、もう少し詳しい説明が必要であると思われます。以下は、原子爆弾や放射線についての常識ですので、知っておいて損は無いと思います
尚、以下について説明がわからない部分があれば、以前投稿した私のブログ(原子力の安全_放射能の恐怖?)をご覧になっていただければ幸いです;

3.原子爆弾による主な直接的な被害は、爆弾炸裂と同時に放たれる電磁波粒子線衝撃波によって発生します。
電磁波とは、波長の短い(=エネルギーが大きい)順に、ガンマ線エックス線紫外線可視光線(普通の光のこと)、赤外線、テレビ・ラジオなどの電波のことです。また、電磁波は光の速度(30万キロメートル/1秒)で到達しますので、ピカッと原子爆弾が炸裂した時の火の玉を見た時には既に自身の体は被曝していると考えていいと思います。。政府の発行するパンフレットでミサイル発射の情報が入ったらすぐに求められている「できる限り頑丈な建物や地下街に避難する」、「物陰に身を隠す、、」とい行動は、この理屈からきています
電磁波のうちガンマ線エックス線はエネルギーが大きく(=人体への影響が大きい)、且つ透過力が強いので、爆心地から離れていても注意が必要です
波長の長い電磁波である赤外線は「熱線」と同じですから、爆裂に伴う強烈な赤外線を受ければ、木材などの発火性の高い建物は、瞬時に発火します。ここから木造住宅に隠れるのは薦められないことが分かります

* 粒子線とは、核分裂の際に生まれる様々な原子の高速の飛翔を意味します。従って、粒子線の速度は様々ですが、電磁波より遅い速度になります。尚、電子の粒子線はベータ線、ヘリウムの原子核の粒子線はアルファ線という放射線でご存知の方が多いと思います。これ以外で恐ろしい粒子線は「中性子線」です。中性子は電気的に中性なので、他の粒子と違って電気的な反発を受けることが無いので透過力が非常に強く遺伝子を破壊する力も大きいので、爆心地から離れていても注意が必要です。中性子線による被害例としては、1999年の東海村JCO臨界事故があります。二人の方が亡くなりましたが、この被害の特徴は即死はしないものの、数十日にわたって徐々に体内の臓器が機能を失って死に至るという経過を辿ります。中性子線を防ぐには水素原子と衝突させることが一番で、原子炉の中で多くの水(酸素原子と水素原子が結び付いた分子です)が使われるているのはその理由からです。また原子炉の建屋に厚いコンクリートが使われるのも、コンクリートには30%程度の水が含まれているからです。政府パンフレットの言う、「できる限り頑丈な建物や地下街に避難する」という表現はこの理屈からきています。ただ、丈夫な建物とは、コンクリート製の重厚な建物のことで、最近の高層ビルに多い鉄骨とガラスで出来ているような建物は含まれません。地下街はコンクリートに囲まれており、且つ水分を多く含む土砂がまわりを覆っているので中性子線を遮る効果が大きいと考えられます(⇔原子爆弾の被害を防ぐ目的でつくられる核シェルターは地下街と同じ構造です)

衝撃波とは、爆風とも言われますが、爆裂によって生じた強烈な音波のことです。従って伝播速度は電磁波や、粒子線よりずっと遅く空気中では330メートル/1秒の速度で進みます。中学校の頃の理科で学んだと思いますが、雷の稲光と音の時間差で雷の発生場所からの距離が分かる様に、原子爆弾の場合も、炸裂によって生じた「ピカッ」と「ドン」の時間差で、大体爆心までの距離が分かります
音波といっても、その破壊力は凄まじく、近くで浴びれば、人体もバラバラになってしまうほどです。ごく最近、米軍がアフガニスタンのISの地下基地攻撃に使った「大規模爆風爆弾(MOAB)」はこの衝撃波の破壊力を利用したものです。政府の発行しているパンフレットで言っている、「部屋の中に入る場合、窓から離れるか、 窓のない部屋に移動する」、「物陰に身を隠す、、」という表現はこの理屈からきています、尚、部屋の外であってもガラスの面積の多い最近の高層ビルでは、衝撃波によって破壊されたガラスの破片で大怪我や死者が出ることに注意しなければなりません。因みに、1974年の三菱重工東京本社ビル爆破事件では、爆破によってビルから落ちてきたガラスの破片で通行人にまで死者がでました

* 尚、上記に様に恐ろしい電磁波粒子線衝撃波は、当たり前の事ですが爆発が起こった場所から「球状(ボールの様に)」に広がってゆきます。従って、電磁波、粒子線、衝撃波の強度(=殺傷力)は、遠くになればなるほど弱まっていきます。その弱まり方は、球の表面積(表面積=4x円周率x中心からの距離の2乗)に反比例すると考えられます。従って、例えば爆心地から1キロメートルの電磁波、粒子線、衝撃波の強度をとすれば、10キロメートル離れたところの強度は理論的には100分の1になることになります。原子爆弾の直接の被害は爆心地からの距離によって著しく異なるのはこのような理屈によるものです。

4.上記の様な直接の被害のほかに、原子爆弾の核分裂により生成された所謂「死の灰」による被害も注意しなければなりません。広島、長崎に原子爆弾が投下された後、被害地に立ち入って被害者の捜索、救出などに携わった方々が、この「死の灰」から発生している放射線を浴びた(外部被曝)ため、あるいはこの「死の灰」を体内に取り込んでしまった(内部被曝)ために、放射線障害を起こしました。当時被害に会われた方々は、原子爆弾や放射線についての知識が全くなかった訳ですから当然と言えば当然です。しかし、原爆投下から70年以上が経過し、多くの知見が積み重ねられた来たため、「死の灰」による被害を極小化することは十分可能な事です
福島事故の際、ネット情報に踊らされて傷薬に使われる「ヨードチンキ」を飲んだ人います。確かに「死の灰」に含まれる放射性ヨウ素(ヨウ素131、133)は子供の体内に中入ると、甲状腺に取り込まれて甲状腺がんを引き起こすリスクがありますが、大人の場合はそのリスクは低く、あまり心配する必要はありません。またヨウ素製剤を使うのはいいのですが、「ヨードチンキ」は体内に入れば毒になります

* 「死の灰は風によって運ばれますので、風向きによっては爆心地から離れたところでも降り注いでくることになります。例えば、福島事故では水素爆発によってまき散らされた放射性物質を含んだチリが、南東の風によって流され、且つ地形の影響を受けながら下記写真の地域に降り注ぎました。多く降りそいだ赤い地域は、長期間立ち入り禁止区域に指定されたことはご承知の通りです;

福島原子力事故・被害地域
福島原子力事故・被害地域

つまり、「死の灰」による被害を受けないためには、爆心地付近に立ち入らないことは当然の事として、「死の灰」が降る地域の情報は、福島事故の教訓を踏まえて政府により迅速な情報提供が為されるとは思いますが、情報が遅かった場合、爆心地に比較的近い人は、自己防衛の為にも風向きに注意を払うことが賢明であると私は思います

* 不幸にも「死の灰が降る環境に身を晒してしまった場合、内部被曝を避けるために口や鼻を覆うことがまず必要になります。また自宅であれば、できる限り早めに衣服を脱いで汚染されていない服に着替えること、シャワーを浴びて完璧に身体全体を洗浄すること重要です。因みに、原子力発電所で作業を行っている労働者も全く同じことを行っていますで、外部被曝であればそれ程心配する必要はありません
一方、いくら口や鼻を覆ったとしても呼吸をしている以上僅かでも体内に入ってしまう(内部被曝)ことは避けられません。体内に入った放射性物質の量は勿論、ストロンチウム90のように、半減期が長く生理的に体内の組織に取り込まれる様な微量であっても危険なものもありますので、できるだけ早期に「ホールボディー・カウンター」を備えている医療機関に行って、体内に入った放射性物資の検査をすることをお勧めします

いずれにしても、ネットからの流言飛語に惑わされることなく、政府からの情報を漏らさず受け取る体制を整え(テレビ、ラジオ、スマホ/携帯電話などの通信手段の確保は非常に大切)、自身の知識を総動員して、冷静に対応することが重要です

以上

 

エネルギーと環境と原子力と暮らし方

、-はじめに-

私はサラリーマン生活の最後の10年間ほどは縁あって原子力業界で仕事をしておりました。2011年には東日本大震災に伴う深刻な原子力事故を内側から体験し、事故後の全原発の停止と、これに伴うエネルギー危機を経験する中で、エネルギー問題が将来の日本の最大の政治課題であることを痛感いたしました

人類はその長い歴史の中で“火”というエネルギーの活用を始めたことで、全生物の頂点に立つことができました。産業革命以降の人類の歴史は、水力という形を変えた太陽エネルギーの活用の他に、化石燃料という有史以前の太陽エネルギーの蓄積を消費しつつ、先進国を中心に経済規模の飛躍的な発展を実現してきました。第二次大戦以降は、これに原子の“火”という巨大なエネルギー源が加わりました

しかし、核分裂反応を利用する現在の原子力発電については、米国に於ける1979年の“スリーマイル島の原子力事故”、欧州に於ける1986年の“チェルノブイリ原子力事故”、また日本に於ける2011年の福島原子力事故があり、原子力発電の安全性にについて疑問を呈する人が増えてきました

一方、こうした現状の中で、本年11月には米中を含む主要先進国が参加したパリ協定が発効し、日本も遅ればせながらこの協定に参加することが決まりました。この協定に参加することにより、今後化石燃料によるエネルギーの使用には厳しい制約が課せられることになります

温暖化の主因が炭酸ガス放出量の増大にあることには多少の議論はあるものの、海水面の上昇により水没の危機に瀕している島嶼国が現実に存在していること、乾燥地帯では砂漠化の進行が早まっていること、また異常気象(スーパー台風、異常高温、異常低温、水害、など)の多発という地球規模の環境の変化の主因が、炭酸ガスを中心とする温暖化ガス放出によるものであることは、多くの国々が認めることとなり、その削減について協力していくことになったという事でしょう

この結果、GDPの規模で世界第3位、炭酸ガスの排出量で世界の4%を占めている日本としては、好むと好まざるとに関わらず温暖化の問題について自国の事だけでなく世界をリードしていく責任があるのではないでしょうか

従って、福島原子力事故以降、原子力発電の停止に伴うエネルギーの不足分を化石燃料による発電に切り替えて凌いできた日本は、今後他の国以上にエネルギー問題に正面から取り組んでいかねばならない状況になっていることは間違いないと思われます(日経記事:震災後LNG輸入量急増

以下に日本が直面するエネルギーの問題を俯瞰してみたいと思います。尚、如上より明らかな様に、原子力発電に関わる議論を抜きにしてこのテーマを扱うことはできませんので、「とにかく原子力は嫌だ」という方は、この辺で読むのを止めた方がいいかもしれません!

―エネルギーと暮らし-

エネルギーの問題は、近・現代史において国家の重大な意思決定に深く関わってきました;
ご承知の方が多いと思いますが、太平洋戦争に突入する直接の引き金になったのは米国の禁油通告でした。石油を絶たれた日本が、日中戦争を継続しつつ生き残るためにはオランダ領インドシナの石油(パレンバン)を確保する必要があり、ハワイ奇襲作戦とインドシナ電撃侵攻作戦によって先の大戦の口火を切ってしまいました

第二次大戦後、英仏に代わって米国が中東政治に深く関わったのは、石油を大量に消費する米国が中東の石油を必要としたためです。最近になって自国のシェール石油産出量が増加し自給できる体制になった途端、中東への関与が抑制的になってきたのはご承知の通りです。

日本が徐々に憲法解釈を変更して自衛隊の海外派遣をする様になった主たる原因は、中東の石油が日本のエネルギー需要の大半を賄っており、その生産維持と輸送ルートの確保を全面的に他国任せにすることができなかったからにあります

エネルギーの問題は、歴史的に日本の産業構造の大きな変革に関わってきました;
戦後の日本は、重厚長大型の産業を育てることによって驚異的な復興を果たしてきました。この間、必要となる膨大なエネルギー需要を賄う為に、最初は水力と石炭という自前のエネルギー源を求めて、日本各地で大規模な電源開発(佐久間ダム、黒部第四ダムなど)と炭鉱開発を行ってきました。

その後、更に成長を継続していく過程で、更なる水力電源や炭鉱の開発が限界を迎えたことから、水力や石炭に代わるエネルギー源として石油輸入を急速に拡大して行きました。こうしたエネルギー革命が進行する中で、効率の悪い石炭産業が衰退して行き、日本各地の炭鉱閉鎖に伴う痛みを伴う労働市場の大変革を余儀なくされてきました。

1973年、第四次中東戦争を契機として石油価格が急騰しました。これを第一次オイルショックといいますが、この時は消費者物価が23%も急上昇(狂乱物価)し、国民の生活に大きな影響を与えることになりました

狂乱物価・トイレットペーパー騒動
狂乱物価・トイレットペーパー騒動

また1979年にはイラン革命を契機として再び石油価格が急騰しました(第二次オイルショック)。特に日本はイランにから相当量の輸入を行っており非常に影響が大きいものでした

こうした厳しい試練を経て、日本の産業は世界最先端の省エネ技術を磨くこととなりましたが、一方に於いて、国策として石油備蓄の充実と、国際情勢に左右されない安定的なエネルギー源となる原子力発電の充実を図っていくことになりました;

<参考> 日本の電源構成_経産省エネルギ-庁
<Follow-up>
* 2018年7月3日に第5次エネルギー基本計画が閣議決定されました。詳しい内容は第5次エネルギー基本計画(案)をご覧ください。

“モノづくり日本”を続けるには、安定的なエネルギー確保が必要です;
日本人はモノ作りを得意とし、作ったものを海外に売ることによって繁栄してきた国です。如何に省エネ技術に長けたとしても、物を作るにはやはり沢山のエネルギーが必要となります。エネルギー供給の危機は、直ちに工業生産額の減少に繋がります。また、供給不安が無くてもエネルギー価格の上昇は直ちに製品価格の上昇、輸出競争力の減退に繋がります。日本が今後も繫栄していく為には、エネルギーを、量的にも価格的にも安定的に確保する体制が必要なことは言うまでもありません

エネルギーの問題は我々の暮らしに直接関わっています;
照明、冷暖房、炊事・洗濯・掃除などの家事は、今や殆どの家庭で電化製品が使われています。
エピソード:戦後10年位までは、殆どの家庭で蝋燭を買い置きしていたのではないでしょうか。当時、停電は日常的に経験できることでした。停電しても照明以外は電気を必要としていなかったということもできます!

輸送機関(航空機、鉄道、バス、自家用車、等)は殆ど全て(徒歩の移動や昔ながらのリアカーによる輸送は別ですが!)エネルギー無くして稼働させることはできません。またこれら輸送機関は人の移動だけでなく、毎日の生活に直結している物流を担っており、エネルギー不足により物流が滞れば毎日の生活が、即危機に見舞われます
これらは何となくエネルギーに依存していることは実感できますが、これ以外にも、温室栽培の農産物利用、水産品の利用(漁船は石油無くして動かせません)、加工食品の利用、プラスティック等の石油由来の加工品利用、これらは全てエネルギーが途切れれば利用はできません。

今や、交通安全のインフラの一つである交差点の信号機やスマホで代表されるネットワークのシステムもエネルギー無くして利用は不可能です(災害発生時の一時的な停電で実感は出来ますが!)

こうしてみると、所謂文化的な生活や都市での生活は、好むと好まざるとに関わらず多くのエネルギーを消費することが前提となっている事がわかると思います。従って、エネルギー需給の問題は、誰かに任せておいてよい問題ではなく、国民一人一人が自分の問題として考えるべき問題ではないでしょうか

-エネルギーと温暖化-

パリ協定の内容は概略以下の通りとなっています;
目標:産業革命前からの気温情報を2℃よりも十分低く抑える(努力目標は1.5℃以内)
② 21世紀後半に人為的な温暖化ガスの排出量と森林などの吸収量を均衡させる
③ 全ての国に温暖化ガスの削減目標の作成と国連への提出、5年毎の見直しを義務付けると共に、世界全体で進捗を5年毎に検証する
④ 被害を軽減させる為に世界全体の目標を設定する
⑤ 先進国には途上国への資金の拠出を義務付けると共に、それ以外の国には自主的な拠出を推奨する
⑥ 日本はEUや、島嶼国、アフリカなど約百ヶ国からなる「野心連合」に加わりました。同連合は産業革命前からの気温上昇を1.5℃以内に抑えることを協定に盛り込むよう働きかけました

日本の目標;
2015年6月:サミットに於いて「国内の温暖化ガス排出量を2030年までに2013年対比26%削減する」という目標を表明(日経記事:サミットで温暖化ガス26%削減を表明)しました
目標値の内訳:電源構成の見直しと省エネルギーの強化で21.9%削減、二酸化炭素を吸収する森林整備などで2.6%削減、代替フロン対策で1.5%削減
2030年度の望ましい電源構成;
①古くなった原発の活用を延伸し、原子力の比率を20~22%とする
②再生可能エネルギーの比率:22%~24%
③石炭火力発電の比率:30% ⇒ 26%
③LNG火力発電の比率:43% ⇒ 26%

2016年5月:閣議で「2050年までに温暖化ガスの排出量を、現在に比べ80%とする」と決定

日本は、他の国々に比べ足元で既に省エネ技術が織り込まれているエネルギー消費量であり、省エネによる削減の余地が少ないという事に注意をする必要があります。また、日本が国際的に約束した削減量を実現する為に、国としては原子力発電の比率を20%以上としていますので、原子力発電を認めない人々はこれをどう捉えればいいのでしょうか?

<参考>
*米国の目標:「2025年までに2005年対比26%~28%削減」
*EUの目標:「2030年までに1990年対比40%削減」
*温暖化についてはアメリカ元副大統領の“アル・ゴア”の著書「不都合な真実」(2007年日本語翻訳版出版)と、これを基にした映画で生々しい現状が世界的に知られるようになりました。現在最新の温暖化に関する情報をご覧になりたい方はWWFジャパンのサイトをご覧ください

-日本における再生可能エネルギー利用の現状-

経産省・資源エネルギー庁の「エネルギー白書2016」をご覧になると分かるのですが、2011年の福島原子力事故以降、再生可能エネルギーに転換すべく補助金や、電力料金・燃料料金などの上乗せなどの施策を取ってきましたが、未だエネルギー供給に占める割合は水力発電を除けば微々たるものです(2014年度時点で4.4%)。2030年までに達成しなければならない再生可能エネルギーの比率(22%~24%)を達成するには、以下の様な問題点を着実に克服していかねばなりません(日経記事:経産省が想定した電源構成);

Follow_Up;2022年9月_再生エネ廃棄・砂上の送電網_停電リスク軽視のツケ
*太陽光発電・風力発電の開発が急ピッチで進められる一方で、地域電力会社で発生した余剰電力を、電力不足が発生した他地域電力会社に融通できないで廃棄する事態が発生する様になってきました。地域電力会社間の送電網の整備を加速する必要が出てきました
Follow_Up;2022年9月_カリフォルニア州の熱波・再生エネ拡大の限界露呈

1.水力発電;
既に適地は開発済みであること、地質調査、環境調査、用地買収、水没地域住民に対する保証、長期に亘る工事期間、膨大な投資額、などを勘案すると新しい立地はほぼ不可能な状況にあります
因みに、発電用ダムの建設は1963年に完成した黒部第四ダムが最後となりました。また、八ッ場ダム(発電用ではない)に至っては1967年に建設を決定してから現在に至る(50年経過!)も完成していません
Follow_Up:八ッ場ダムは、2020年4月1日より運用を開始しました

八ッ場ダム

ただ、農業用水路などを利用する小規模の発電は、地産地消のレベルで今後導入が進む可能性があり、地方創生などの施策を進める中で着実に浸透を図っていく必要があると思われます(日経記事:安積疎水で水車発電

2.地熱発電;
地熱発電は火山国である我が国にとって地の利を得たエネルギー資源です。水力発電と同じく規模が大きく24時間一定の電力を発生させることができ、ベース電源として可能な範囲で開発を進める必要があります

地熱発電の仕組み
八丁原地熱発電所と地熱発電の仕組み

ただ、立地地域が国立公園や温泉地などに偏るため、規制緩和と併せ、景観維持や温泉湧出量への影響の評価が必要であり、建設開始までにかなりの時間がかかることを考慮しなければなりません

地熱発電立地地域
地熱発電立地地域

因みに、我が国における地熱資源量は約2000万KWと言われておりますが、そのうち80%以上(1600万KW)が国立公園の特別保護区域・特別地域内にあり、現在は開発出来ないことになっています。残りの400万KWの資源量の内53万KWは既に開発済みになっています

Follow_Up:2020年2月16日の日経新聞の記事/開発進まぬ日本の地熱 発電能力、10年で1%増 長期の環境アセスなど壁

3.風力発電;
風力発電は欧州などでは急速に開発が進んでいます。これに刺激されたものか、わが国でも近頃開発計画が目白押しです(日経記事:風力増強・原発10基分に

風力発電・石油備蓄@青森県
風力発電・石油備蓄@青森県

しかし、風力発電が我が国においてベース電源になり得るかどうかについては私は疑問に思っています。高校時代の地理で学んだことですが、西ヨーロッパは“西岸海洋性気候帯”に属しています。この気候帯では海からの穏やかな偏西風が地上付近で常に吹いており、風力の利用に適しています(オランダなどは昔からこの風を使って沢山の風車で干拓地の排水などを行っていました)。一方、日本ではアジア大陸の山岳地帯を越えた偏西風は高空のジェット気流となる為に地上近くの安定した西風にはなりません、また日本は“モンスーン気候帯”に属しており、台風の襲来など気象の変動が激しく風も一定しません。従って、発電機の数や能力を増強させても、利用可能な電力量は欧州などと比べて少なくなり、経済性も劣る可能性が考えられます
Follow_Up:2022年1月17日_日経新聞:洋上風力入札・三菱商事が圧勝_AmazonやGEが後押し

また、風力発電の立地が増えるにつれ、超低周波の音波(耳では聞こえないものの、ガラス窓の振動や健康への影響が考えられる)の被害や、野性鳥類の衝突といった環境問題も無視できくなる可能性があります。また、風車が林立する景観は自然景観の保護の観点から如何か、という考え方もあります

発電量の変動が大きい問題については、“エネルギーを溜めることの問題点”の項で詳しく説明します

4.太陽エネルギーの直接利用
①太陽光発電
大規模太陽光発電の立地を促進するためには、電力事業者の買取価格を高く設定する必要があります。しかし先行するドイツなどで問題となっている様に、買取価格を高くすると発電量が大きくなるにつれて国民負担の増大と、産業競争力の低下を招くことになります。現在日本でも一時ほど普及が進まないのは、電力会社の買取価格が下がっている為です(日経記事:太陽光パネル底なし不況);

大規模な太陽光発電
大規模な太陽光発電

また、太陽光エネルギーはエネルギー密度が低い為に広大な面積を必要とします。緑豊かな日本の景観にマッチするかどうかに疑問がのこります。因みに、1キロワットの発電能力を持つ太陽光発電素子を設置するために必要となる土地面積は約10㎡と言われておりますので、1万キロワットの太陽光発電を行うには約千㎡の土地面積が必要となります。この発電能力は晴れた日の日中の発電能力ですから、実際に利用できる電力量はもっとずっと小さくなります(一般に太陽光発電の稼働率は年間千時間程度であり、24時間常に稼働できるベース電源に比べれば10%程度の稼働しか達成できないことになります)
日本は中緯度にあって水も豊かであり植物の生育には適しているものの、晴天率はそれほど高くはありません。肥沃な農地や豊かな森林を伐採してまで事業用として太陽光発電設備の設置を推進することには私は疑問を持っています

発電量の変動が大きい問題については、、“エネルギーを溜めることの問題点”の項で詳しく説明しますが、個人の住居で太陽光発電を導入し、冷暖房や温水のエネルギー源として使用することの他、電力余剰がある時にエネルギー使用を集中させるなど、個人個人のエネルギーマネージメントを促す効果があることを勘案すると、今後も補助金等により普及を促進することは理にかなっていると思われます
また、企業単位で導入しエネルギーマネージメントを行なえば、事業用電力の効率的利用に繋がる可能性があります
Follow_Up:2019年11月18日日経記事:太陽光発電買い取り終了、通知遅れ家庭混乱 大手電力に批判の声

②人工光合成
植物の行う光合成は極めて効率がいいことは確かですが、光を人間が利用できるエネルギー生産のみに着目すると1%程度の効率といわれています。最近研究が進んでいる“人工光合成”は未だ実験室レベルではありますが技術開発が進みつつあり、植物の光合成よりも効率よくエネルギーに変換できる物質を作り出すことに成功しています(日経記事:人工光合成の研究)。この技術が、政府が約束している温暖化対策に間に合うかと言えば、もうちょっと先の話の様に思われます

5.バイオマスの活用
①バイオマス発電、等
既に日本各地の主として森林地帯で林業の副産物である間伐材、廃材、などを燃焼させて発電や地域暖房に活用され始めておりますが、大規模化を測ろうとすると製紙業との競合が起こりうまくいきません。地方創生との関連で林業との調和を図っていくことが理に適っていると思われます
最近、薪ストーブやおがくずチップによる暖房が、豊かで快適な生活のシンボルとしてメディアにも登場しますが、これも林業との調和を図ってこそ意味のあるエネルギー活用の方法なのかなと思われます
Follow_Up:北海道河東郡鹿追町・バイオマスタウン構想

②バイオマス燃料(アルコール発酵)
既にトウモロコシなどの穀物のアルコール発酵で量的にも価格面でも実用化されており、環境問題が大きく取り沙汰された時期にガソリンやジェット燃料に混ぜての利用が進みました。しかし食物生産との競合関係が明らかとなり(トウモロコシを主食とする貧しい国々の食費の高騰、結果としての飢餓の発生)、大規模化には限界があると考えられています

③藻類、微生物などの活用
倫理的な問題が発生する可能性のある食用穀物のエネルギー利用に代わって、最近は成長が早く、高密度の生産が可能な藻類や微生物などによるエネルギー生産の研究が盛んになっています。未だ実験段階で生産コストもかなり高いのですが、温暖化に関わる企業責任を果たす為、航空機メーカー、航空会社などはこうした燃料の導入(現在のままで推移すると、2050年には航空機のエンジンが排出する炭酸ガスが、全世界の排出量の3%に達すると言われています)に積極的に関わっています;
航空機メーカー:航空機メーカー3社・バイオ燃料開発協力
日本航空:ゴミ由来の燃料実用化へ実証設備
全日空:バイオ燃料を実用化_ユーグレナ
Jパワー:藻から燃料油一貫生産

―エネルギーを溜めることの問題点-

既に述べてきた様に、水力発電、地熱発電、火力発電、原子力発電などは24時間稼働が可能であり、極めて安定的な電力供給が可能ですが、これから再生可能エネルギーの主役となるべき風力発電、太陽光発電は、電力供給能力が大きく変動します。一方、電力需要も季節により、時間帯により大きく変動します;

1日の電力需要_概念図
1日の電力需要_概念図

上図を見れば、現在はベース電力にもなり得る化石燃料によって発電の出力を調整して需要の変動に対応していることが分かります。この部分を供給側で変動の大きい風力発電、太陽光発電に振り替えると、どの様な事が起こるか想像できると思います。化石燃料の設備稼働を極端に犠牲にして余力を持たせるか、あるいは風力発電、太陽光発電の電気を一時的に溜めておくか、しか方法がありません

<Follow-up>
* 2018年10月13日の日経新聞に以下の様な記事が出ていました:181013_九電・きょう太陽光制御_発電業者に停止要請181013_太陽光普及・壁浮き彫り 送電網や蓄電池_対策急務

揚水発電とその仕組み
揚水発電とその仕組み

現在ピーク供給力の一部を担っている“揚水式発電”、“調整池式水力発電”、“貯水池式水力発電”の能力を拡充することも考えられますが、これが可能であれば現在でも化石燃料による供給調整にとって代わることができるはずですが、発電効率が極めて低いこと(約10%程度にしかならない←発電ロスに加え、揚水時のエネルギーロスが大きい)、立地に適した場所が少ないこと(調整池、貯水池の為に広大な面積が必要)、漏水等の環境破壊の恐れがあること、などの問題があり現在以上の立地は相当困難であると考えられています

Follow_Up:2023年1月:揚水発電維持へ経産省が投資支援_再エネ安定供給狙う

蓄電器で電気を溜める方法
しからば、リチウムイオン電池など最新のバッテリー技術を使えば大量の電力を保存できるのではないかと考え付きますが、実は大量の電気エネルギーを溜めるという事は性能が良ければよい程危険が大きいものです。最近突然発火して発売停止になったサムスンの最新スマホを例にとると、内蔵されているリチウムイオン電池の電気容量は3.5アンペア・アワー(3.5アンペアの電流を1時間流すことができる能力があります)、出力電圧は3.7ボルト程度のものでした。しかし、リチウムイオン電池は内部抵抗が低い(性能がいい!と同義です)のでプラスとマイナスの電極が短絡すると、この電気エネルギーが一気に放出されて熱に代わることになります。このエネルギーの大きさは;

3.5アンペア x 3.7ボルト = 約13ワット・アワー ⇒ 約11キロカロリー

となります。これは1リットルの水を沸騰させることができるエネルギーで、金属などであれば比熱が小さいので、一瞬の内に高温になり発火することになります

現在、最も大きい電力量を溜めることができる事業用のバッテリーは、日本ガイシ(株)が開発したNAS電池です。この電池の容量は300万キロワット・アワーに達します(NAS電池の性能)。このエネルギーの大きさを、ちょっと例えは悪いのですが、TNT火薬の発生するエネルギーに換算してみると、なんと2581トンに相当します。勿論火薬ではないので爆発的にはならないとは思いますが、何らかの理由でプラス極とマイナス極が短絡すると、大きなエネルギーが一気に放出され災害に結びつく可能性を否定できません

いずれにしても大規模な電池で、大きな需要の変動を埋めることは当面可能性が低いと考えねばなりません。勿論家庭で太陽光発電と併せて使う電池として、また企業単位で風力発電や太陽光発電と組み合わせて使う分には十分実用に足る性能が実現しており、多くのメーカーが参入しています(日経記事:企業の温暖化対策

Follow_Up:2022年になって、再生エネルギーを貯める手段については色々なアイデアが出てきました;詳しくは以下の日経記事をご覧になって下さい:再エネ蓄電を低コストに_住友重機出資の英新興など実用化へ、空気や重力使い半減

-原子力エネルギーの未来―

現在原子力発電の安全性に疑問を持っている国民が多い中で、国として原子力発電の稼働を前提としてパリ条約に対応していくことを決断した理由は理解して頂けたと思いますが、可能であればできるだけ早く将来持続可能なエネルギーに切り替えていく必要があることは言うまでもありまません。40年を超える原発の再稼働は、新しい持続可能なエネルギーが実用可能になるまでの時間稼ぎという事もできると私は思っています

一方、膨大な温暖化ガスの排出国である中国インドがパリ条約に参加しましたが、この国々は目標達成の為に多くの原子力発電所の建設を計画していることはご承知の通りです。日本は米国やフランスと並んで原子力発電所の建設や運用に関しては間違いなく先進国です。先進国の責任として事故の教訓を生かし、これらの国々の技術面のリーダーとして活躍することはむしろ義務であると考えられます。事故が起これば放射線の被害は軽々と国境を越えてゆきます。日本だけが脱原発を実現すればよいという考えは間違いだと思います

尚、当面原子力発電を継続することとなれば、放射性廃棄物処理の問題が気になると思っておられる方が多いと思います。現在、高レベル放射性廃棄物を地下深く埋設することを、場所を含めて決めている国はフィンランドのみです。フランスは実験段階ですが取り組みを強化しているようです。米国では一旦ユッカマウンテンに埋設することに決めたのですが、住民の反対により取り止めとなりました。日本も北海道で研究は進めているものの、埋設実現までは未だ長い道のりがあると思われます。また、六ヶ所村の廃棄物処理施設でのガラス固化の技術も未だ確立されていません。お先真っ暗の様ですが原子力発電所の再稼働が、持続可能なエネルギーが実用可能になるまでの時間稼ぎという位置づけであれば、当面現在の技術で原子炉施設内に廃棄物を格納することも可能だと考えられます。近い将来の実現は難しいのですが、私個人としては高速炉などを使って半減期の長い放射性廃棄物を減らす研究に期待することにしたいと思っています

持続可能なエネルギーの本命は、核融合炉の開発だと思いますが、これは今世紀中に実現することは難しいと言われています。既存の技術の延長で比較的近い将来可能と考えられるものに、高温ガス炉活用による水素社会の実現があります。水素をエネルギー源とする社会はすぐそこまで来ていますが、現在は水素を作り出すには炭酸ガスも発生させてしまいます。高温ガス炉が実用化すれば、温暖化ガスの発生無しに直接水素を取り出すことが可能になります

原子力発電に依存しない社会を築くためには、国家や企業だけでなく個人個人のレベルでも省エネ化の取り組みを強化することも大変重要なことです。太陽光発電と電池の組み合わせによる電力の自給化は、お金はかかるものの、技術上のハードルは殆どありません。私はお金がないのでこのシステムは、多分死ぬまで導入できませんが、せめて自分が輩出している温暖化ガスを把握しその排出量の削減に地道に取り組んでみたいと思っています。因みに、拙宅での昨年一年間の炭酸ガス排出量を計算してみました;

ガソリン消費量:810リットル、都市ガス:1,654㎥、電気:11,633KWH ⇒ なんと拙宅の炭酸ガス放出量は11.9トンでした!

私も温暖化ガス排出に関しては加害者であると実感できました。皆さんも炭酸ガス排出量計算サイトで自宅で排出している炭酸ガスを計算してみたら如何でしょうか?

以上

 

各党の憲法改正草案をチェックする

-はじめに-

7月に行なわれた参議院議員選挙に於いて野党側(及び一部のマスメディア)は、あたかも憲法改正の是非を問う最後の戦いの様な熱狂ぶりでしたが、結果は与党の圧勝に終わりました。当たり前の事ですが、衆参両院で三分の二の絶対多数を得て憲法改正の発議はできても、国民投票で有効投票数の二分の一以上の賛成が得られなければ改正は出来ません。
仮に今回の選挙の結果、衆参両院での審議を経て憲法改正の手続きに入ったとしても、国民が憲法改正の内容を十分に理解し、憲法改正に相応しい高い投票率を実現して、国民主権の究極的な手段である有権者一人一人の投票による多数決で憲法改正の是非を問うことが悪い事とは決して思えません

考えてみれば、今の憲法は明治憲法を修正する形で帝国議会の承認を得て1946年11月3日に公布されており、国民投票による是非の判断を行っていません。色々な事情があったと思いますが連合国による占領下にあり、国民も生きるのに精一杯で憲法の是非を判断する状況になかったことは確かです。ただ戦争の惨禍を身に染みて体験している当時の国民にとって、この憲法の“理想の平和主義”に明るい未来を感じていたことは想像に難くありません。
その後70年を経て世界情勢も大きく変わり(当ブログの「憲法についての私の見解」参照)、日本の経済力の伸展に合わせ、国際的な立場も大きく変わりました。また、国民の方も世代交代が進み、現在日本の国を支えている大多数の人々は、未だに現憲法の是非を直接判断する機会に恵まれていません

憲法改正の発議すら阻止したいと考える人々(一部のマスメディアを含む)は何を恐れているのでしょうか?
改正を発議されれば国民投票で負ける可能性が高いと思っているのかもしれません。その考え方の中には国民を“愚民”と考える思い上がった思想が隠されているとすれば大きな問題です。野党側の一部応援団が掲げた過激なスローガンには、“愚民”を教導するには“嘘でも分かり易い方がいい”という考え方のものが散見されました。確かに、国民一人一人をみれば、憲法を読んだことも無い人、全く関心の無い人も多く居ることは事実だと思います。しかし民主主義はこれらの人々を含めて民意を問い、民意に従うのが大原則のはずです。

政治家は国会に於いて憲法改正案を真剣に議論し、マスメディアはその議論の内容を正確に分かり易く報道することが憲法改正の民意を問う為に絶対必要なことと思います。マスメディアによっては“社説”に代表されるようなメディア自身の意見を入れたがりますが、これらは所詮一部の論説委員の考え方に過ぎません。ましてや、テレビの報道番組のMCなどは自身の意見を述べるなど僭越なことは厳に慎むべきだと思います。憲法の様に大切な案件の民意を問う時は、出来るだけ多くに人々が自身の意見を持てるように国会議員、マスメディアは努力すべきと思います。

2007年に成立した「国民投票法」により、憲法改正を発議するにはその前に衆参両院の「憲法審査会」での審議が必要になります。既に幾つかの政党では「憲法改正草案」が出ていますので、これから始まるかもしれない憲法審議会での議論の前に、現憲法との比較により、各政党の憲法改正草案を考えてみようと思います

-比較する改正案と主たる争点について-

改正案を比較する政党は、衆参両院への選出議員数を考慮して、自民党民主党(民進党としては未だ改正案を作っていない。また改正条項を明示するのではなく、憲法全体の考え方や枠組みをまとめた“提言”という形をとっている)、共産党公明党おおさか維新の会としました。尚、共産党については最新の「日本共産党綱領」で憲法について言及している部分、公明党については、ネット上に公開されている憲法に関わる党としての考え方を比較の対象としました。

比較した結果、大きな争点として考えられることは以下の通りです(私見);
1.現憲法の“前文”について:① 変更するか否か、② 先の戦争に対する反省を入れるか否か、③ “平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、、”の取り扱い、など
2.天皇を“元首”として位置づけることの是非
3.憲法9条について:① 変更するか否か、② “戦争の放棄”を謳うか否か、③ 自衛隊(国防軍)の存在を明記するか否か、④ “国防軍”の審判所(軍事裁判)の設置
4.憲法に、国民に対する倫理的な義務を課すことの是非。例えば、① 国と郷土に誇りと気概を持つこと、② 国旗、国歌を敬うこと、③ 家族は互いに助け合うこと、④ 憲法を尊重すること
5.基本的人権に新しい権利(環境権個人情報知的財産権、犯罪被害者及びその家族の人権、など)を加えることの是非
6.地方自治制度の改革:道州制の導入、など
7.緊急事態について:① 導入すべきか否か、② 統制の有り方(内閣総理大臣の権限)、③ 基本的人権の制限、など
8.憲法裁判所の設置について
9.憲法改正発議の手続きについて

更に詳しい検討を行う方は、以下の各党の考え方をご覧ください

自民党憲法改正草案(2012年4月27日)-

前文
<改正草案>
「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴いただく国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。
日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。
我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。
日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。」

<現憲法>
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

<改正草案と現憲法の比較、及び論点>
国民主権を謳っている点は同じ
改正草案では、国民主権とは別に「国家元首」として天皇を位置付けているのに対し、現憲法では天皇の位置付けには言及していない
③ 改正草案では先の戦争に対しての評価は無いが、現憲法では“政府が主導した戦争”に対する反省が書かれており、他の国の憲法に照らしても大変ユニークな部分と考えられる。また、国民の間で先の戦争に対する歴史的な評価が分かれており重要な争点の一つになると考えられます
④ 改正草案では「国と郷土を誇りと気概を持って自ら守」ということがはっきり書かれているのに対し、現憲法では「諸国民の公正と信義に信頼して、、、」との表現になっており、国際的な安全保障体制が機能していない現在、軍事的な強国、あるいはこれらの国が支援している他の国の侵略にどう対応するかが判断できないと考えられます
⑤ 改正草案では現憲法に無い「環境の保護」、「教育・文化の振興」という先進国としての役割が書かれている
⑥ 文章の格調は圧倒的に!現憲法の方が高い

第一章 天皇
<改正草案と現憲法の比較、及び論点>
* 第一条(天皇) :改正草案では天皇を「元首」として明確に位置付けている。象徴天皇である位置づけは変わらない
* 第三条(改正草案では“国旗及び国家”となっている): 改正草案では現憲法に無い「国旗」を“日章旗”、「国歌」を“君が代”と指定し、国民に尊重することを求めている
⇒ 改正草案・第24条、第102条のコメント参照
* 第四条( 改正草案では“元号”となっている):改正草案では、現憲法に無い皇位継承の時点での「元号」の制定を定めている
⇒ 既成事実になっている
* 第六条(天皇の国事行為等):改正草案では、天皇の行う国事行為に「国、地方自治体、その他公共団体主催の式典への出席、及びその他の公的な行為」を加えている
⇒ 既成事実になっている

第二章 安全保障(現憲法では“戦争の放棄”)
<改正草案と現憲法の比較、及び論点>
第二章のタイトルが現憲法では「戦争の放棄」となっており、大きな変更点と捉えることも可能であるものの、以下の第9条の変更を前提とすればやむを得ないものと考えらます
第9条は以下の様に大幅な変更となっています;
 実質的に変更の無い部分は、条件付きの“戦争の放棄”」を謳った部分です
イ) 改正草案:「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない」;
この規定は、「自衛権の発動を妨げるものではない
⇒ 今まで憲法解釈で許してきた「自衛権」を明確に記述しています

ロ) 現憲法:「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争と、武力による威嚇又は国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」;
この目的を達成する為、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない国の交戦権は、これを認めない
⇒  このままでは、自衛の為の軍隊を持つこと、自衛のための交戦も認められないという解釈が自然

現憲法には無く、自衛権を認めたことにより憲法草案に新たに追加された項目は
イ) 「わが国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する」
ロ) 「国防軍は、前項の任務を遂行する際は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する
ハ) 「国防軍は、前項の任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び公の秩序を維持し、または国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる」
⇒ 昨年制定された「新安保法制」、及び“国内の治安出動での国防軍の出動をイメージしていると思われ、議論を呼ぶ可能性が高いと考えられます

ニ) 上記に定めるもののほか、「国防軍の組織、統制及び機密の保持に関する事項は、法律で定める」
ホ) 「国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う罪又は国防軍の機密に関する罪を犯した場合の裁判を行うため、法律の定めるところにより、国防軍の審判所を置く。この場合においては、被告人が裁判所へ上訴する権利は、保証されなければならない」
⇒ 戦前、戦中の所謂“軍事裁判に関わる暗いイメージ”を彷彿とさせる部分であり、議論を呼び起こす可能性が高いと考えられます。ただ、国防軍による交戦を認める前提に立てば、戦争状態にある国及び軍人を危機に陥れる可能性のある“反逆の行為”に対する何らかの処罰は必要になると考えられます。裁判所への上訴の権利を保障しているのは、この規定が拡大解釈されて、「反戦論者」や「政治犯」が国防軍の審判所に於いて一方的に裁かれるリスクを回避する為と考えられます

ヘ) 「国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない」
⇒ 一見当たり前の様に見えるこの条項は、“諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した”としている現憲法に於いて曖昧であった、領土、領海及び領空の侵犯に対して、国及び国民に反撃する義務を与えている点で、領土紛争の存在している近隣諸国との緊張状態を加速する可能性がある事を十分に議論する必要があると考えられます

第三章 国民の権利及び義務
<改正草案と現憲法の比較、及び論点>
以下の部分以外は、若干の文言の追加、訂正であり、論点にはならないと思われます
* 第12条(国民の権利);
現憲法では、国民の自由及び権利認めると共に「これを乱用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」としているのに対し、憲法草案ではこの部分を「これを乱用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公に秩序に反してはならない」と変更してあります
⇒ 戦後、言論の自由を根拠として大衆を巻き込んだ政治運動が盛んになりましたが、これらの活動が治安維持の責任を持つ警察との暴力的な衝突に発展したことを受けて、1952年には破壊活動防止法が制定されましたが、戦前・戦中の治安維持法を想起させたこともあって当時国会内外で大変な議論が巻き起こりました。また60年代以降 安保闘争や反戦デモが過激化し、これを予防的にを封じ込めるために刑法に、「凶器準備集合罪」や「凶器準備結集罪」という罪名が追加されました。憲法草案はこうした法律に憲法上の根拠を与える意味を持っていると考えられます

* 第13条(人としての尊重等):この中でも、憲法草案では現憲法に無い「、、公益及び公の秩序に反しない限り、、」の文言を付加しています

第14条(法の下の平等):現憲法に無い「障害の有無による差別」を禁止する文言を付加しています。尚、第44条(議員及び選挙人の資格)の条文にも同じ文言が追加されています
第15条(公務員の選定及び罷免に関する権利等):現憲法では選挙権を「成年者による」としか書いてありませんが、憲法草案では「日本国籍を有する成年者による」と選挙権を限定しています。尚、改正草案の第94条で地方自治体の議員・首長の選挙権についても同様の国籍条項を付加しています
⇒ 約50万人の永住を認められている韓国・朝鮮籍の人達には選挙権を認めないことを憲法上明確にする意味があります

* 第19条(思想及び良心の自由):憲法草案では現憲法に無い「何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してはならない」の文言を付加しています
第20条(信教の自由):現憲法でも国及びその機関が宗教活動を行うことを禁じていますが、憲法草案では「ただし、社会的儀礼又は習俗的範囲を越えないものについては、この限りでない」の文言を付加しています
⇒ 既に総理大臣の他、国務大臣、国会議員の一部が行っている“靖国神社”、“伊勢神宮”、“出雲大社”などの恒例行事への参拝を憲法違反でないことを明確にする意味があります

第21条(表現の自由):現憲法で「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」を保証していますが、憲法草案では、「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」の文言を付加しています
⇒ “公益及び公の秩序”という判断基準は極めて曖昧であり、これも戦前・戦中の治安維持法を想起させることから、十分に議論する必要があると考えられます。ただ、戦後の歴史に於いて“赤軍派による破壊活動”や“オウム真理教による大量殺人事件”を抑止できなかったこと、及び今後心配される“テロ活動”をどの様に抑止するかを考えると、必要ないと断ずることは難しいと考えられます

また、この21条には「国は、国政上の行為につき国民に説明する責務を負う」の文言を付加しています
⇒ 一見当たり前の様に見えますが、勘ぐればこの文言を付加することによって、マスメディアを通じて、国政上の諸問題について(マスメディアによる取捨選択や歪曲無しに)国民に直接伝える手段を持ちたいという意図があるかもしれません。例えば、有名な“フランクリン・ルーズベルト大統領の炉辺談話”などと同じような政治的効果を狙っているのかもしれません

* 第24条(家族、婚姻等に関する基本原則):憲法草案では冒頭に「家族は、社会の自然且つ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わねばならない」という文言を付加しています
⇒ この様ないわば倫理的な問題を憲法に持ち込むことは、議論を呼ぶこと可能性があります。また、現憲法にも改正草案にも「婚姻は、両性の合意に基づいて成立し、、」となっており、この部分の変更はありませんが、近年先進国ではマイノリティーである“LGBT”の権利も認める方向にあり、同性間の婚姻の問題も議論になる可能性があると考えられます

* 第25条(生存権等):改正草案には以下の条文が付加されています;
「国は、国民と協力して、国民が良好な環境を享受することが出来る様にその保全に努めなければならない」
「国は、国外に於いて緊急事態が生じたときは、在外国民の保護に努めなければならない」
⇒ 新安保法制でも議論された在外邦人の保護に憲法上の根拠を与える条文になります。現在在外邦人の数は130万人以上であり、戦争状態、あるいは治安のコントロールを失った国に滞在している邦人に対して救援の手を差し伸べることは人道的な観点からも必要と考えられます

「国は、犯罪被害者及びその家族の人権及び処遇に配慮しなければならない」

* 第28条(勤労者の団結権等):改正草案には以下の条文が付加されています;
「公務員については、全体の奉仕者であることに鑑み、法律の定めるところにより、“団結権、団体交渉権”の権利の全部又は一部を制限することができる。この場合においては、公務員の勤労条件を改善するため、必要な措置が講じられなければならない」
⇒ 戦後労働争議が盛んだった頃、公務員の労働基本権の制限については度々裁判で争われており、この条文に近い判例が出ています
* 第29条(財産権):改正草案には「知的財産権については、国民の知的創造力の向上に資するように配慮しなければならない」という文言が付加されています
⇒ 現憲法が成立する頃と違い、現在では当然のことと考えられます

第四章 国会 
<改正草案と現憲法の比較、及び論点>
以下の部分以外は、若干の文言の追加、訂正であり、論点にはならないと思われます
* 第47条(選挙に関する事項):改正草案には「各選挙区は、人口を基本とし、行政区画、地勢等を総合的に勘案して定めなければならない」という文言が付加されています
⇒ 人口の大都市集中が加速化する中で、各選挙区の人口当たりの議員定数の不平等について憲法違反である旨の最高裁判決が何度も出ており、この規定は必要と考えられます
* 第54条(衆議院の解散と衆議院議員の総選挙、特別国会及び参議院の緊急集会):冒頭に「衆議院の解散は、内閣総理大臣が決定する」という文言が付加されています
* 第56条(表決及び定足数):「両議院の議決は、各々その総議員の三分の一以上の出席がなければすることができない」という文言が付加されています
* 第63条(内閣総理大臣等の議院出席の権利及び義務):出席義務に、「職務上の遂行上特に必要がある場合は、この限りでない」という但し書きが付加されている
⇒ 重要な外交日程と国会での審議日程が重なる場合、その重要度に応じてどちらを優先するか決められるようにする根拠を提供することになります
* 第64条の二(政党):憲法草案では第54条に、第二項として以下を加えました;
「国は、政党が議会制民主主義に不可欠の存在であることに鑑み、その活動の公正の確保及びその健全な発展に努めなければならない」
「政党の政治活動の自由は、保障する」
①、②に定めるもののほか、「政党に関する事項は、法律で定める」

第五章 内閣 
<改正草案と現憲法の比較、及び論点>
以下の部分以外は、若干の文言の追加、訂正であり、論点にはならないと思われます
* 第66条(内閣の構成及び国会に対する責任):現憲法で内閣総理大臣及びすべての国務大臣は「文民」でなければならないとしていますが、改正草案では「現役の軍人であってはならない」と文言を変更している
⇒ 敗戦前の日本では、陸軍大臣、海軍大臣は現役軍人が勤めており、これが軍主導の政治運営を導いたという考え方もあり、現憲法の「文民」の解釈については紆余曲折がありましたが、現在では現役の自衛官でなければよいという事になっています

* 第70条(内閣総理大臣が欠けた時の内閣の総辞職等):現憲法にはない「内閣総理大臣が欠けたとき、その他これに準ずる場合として法律で定めるときは、内閣総理大臣があらかじめ指定した国務大臣が、臨時に、その職務を行う」という文言が付加されています
⇒ 第72条に国防軍の最高指揮官と決められており、有事にあってはこの職務を瞬時に代行することが必要となるため、当然の条文と考えられます
* 第72条(内閣総理大臣の職務):改正草案に新たに「内閣総理大臣は、最高指揮官として、国防軍を統括する」という文言が付加されています
⇒ いずれの国も国防軍を統括するのは国の最高権力を握っている人となっているので、当然の条文と考えられます

第六章 司法 
<改正草案と現憲法の比較、及び論点>
若干の文言の追加、訂正であり、論点にはならないと思われます

第七章 財政 
<改正草案と現憲法の比較、及び論点>
以下の部分以外は、若干の文言の追加、訂正であり、論点にはならないと思われます
* 第83条(財政の基本原則):改正草案には「財政の健全性は、法律の定めるところにより、確保されなければならない」という文言が付加されています。尚、この文言については地方自治体財政の基本原則にも加えられています ⇒ 法律で具体的な基準が決められない限り、この条文は精神条項になってしまうのではないかと考えられます
* 第86条(予算):改正草案には以下の条文が付加されていますが、これらは 現在既に運用として行われています;
内閣は、毎会計年度中において、予算を補正するための予算案を提出することができる
予算案の議決が得られないときは、暫定期間に係る予算案を提出しなければならない
毎会計年度の予算は、法律の定めるところにより、国会の議決を経て、翌年度以降においても支出することができる
* 第91条(決算の承認等):現憲法で、国の収支決算については、会計検査院が検査を行った後に国会に提出することを義務付けているものの、検査結果の取り扱いについてはなにも決められていません。改正草案では、「検査結果の内容を予算案に反映させ、国会に対し、その結果について報告しなければならない」という条項を付加しています
⇒ ビジネスの基本である“PDCA”(Plan→Do→Check→Action)の考え方に立てば、会計検査院の厳しい検査が財政健全化に役立つ可能性も考えられます

第八章 地方自治 
<改正草案と現憲法の比較、及び論点>
* 現憲法の第92条~第95条:改正草案では、新たに以下の条項が付加されています;
① 地方自治は、住民の参画を基本とし、住民に身近な行政を自主的、自律的かつ総合的に実施することを旨として行う
② 住民は、その属する地方自治体の役務の提供を等しく受ける権利を有し、その負担を公平に分担する義務を負う
③ 地方自治体は、基礎地方自治体及びこれを包括する広域地方自治体とすることを基本とし、その種類は法律で定める
道州制を全国に導入することを視野に入れていることが窺えます
④ 国及び地方自治体は、法律の定める役割分担を踏まえ、協力しなければならない。地方自治体は、相互に協力しなければならない
⑤ 地方自治体の経費は、条例の定めるところにより課する地方税その他の自主的な財源をもって充てることを基本とする
⑥ 国は、地方自治体の自主的な財源だけでは地方自治体の行うべき役務の提供ができないときは、法律の定めるところにより、必要な財政上の措置を講じなければならない

第九章 緊急事態 
<改正草案の論点>
* 現憲法にはこの章は存在しません。以下は、憲法草案で新たに加えられた条文となります
* 第98条(緊急事態の宣言)
内閣総理大臣は、わが国に対する外部からの武力攻撃内乱等による社会的秩序の混乱地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる
緊急事態の宣言は、法律の定めるところにより、事前又は事後に国会の承認を得なければならない
内閣総理大臣は、前項の場合において不承認の議決があったとき、又は事態の推移により当該宣言を継続する必要がないと認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、当該宣言を速やかに解除しなければならない。また、百日を超えて緊急事態の宣言を継続しようとするときは、百日を超えるごとに、事前に国会の承認を得なければならない
②、③の国会の承認に際して、両院で異なった議決をした場合、法律の定めるところにより、両院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は参議院が、衆議院の議決した案を受けた後、国会休会中の期間を除いて5日以内に、議決しないときは、衆議院の議決を国会の議決とする(第60条二項の規定の準用)
* 第99条(緊急事態の宣言の効果)
① 緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分をを行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる
② 前項の政令の制定及び処分については、法律の定めるところにより、事後に国会の承認を得なければならない
③ 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に関わる事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない。この場合においても第14条(法の下の平等)、第18条(身体の拘束及び苦役からの自由)、第19条(思想及び良心の自由)、第21条(信教の自由)、その他の基本的人権に関する規定は、最大限尊重されなければならない
④ 緊急事態の宣言が発せられた場合においては、法律の定めるところにより、その宣言が効力を有する期間、衆議院は解散されないものとし、両議院の議員任期及びその選挙期日の特例を設けることができる
⇒ 緊急事態が発生した時に、国の最高権力者が既存の法律をオーバーライドする命令を発することができる仕組みは、他の国においても“非常事態宣言”、“戒厳令”などの形で取り入れられており、この様な条文を憲法に組み込むことは不自然なことではないと考えられます。ただ、わが国においては戦時下に於ける人権侵害、厳しい統制経済などの暗い歴史があったことから、法律をオーバーライドする命令を発する事態はどのようなことが考慮されるべきか十分に議論を尽くす必要があると考えられます;
* 外部からの武力攻撃:現在考えられるケースは、「中国が一方的に尖閣列島に上陸を試みた場合」、「北朝鮮がミサイル攻撃を仕掛けてきた場合」、「中国が台湾海峡を渡って大規模に侵攻してきた場合」、等ですが、漁船、その他の船舶に対する航行禁止などの強制命令、ミサイル着弾の可能性がある地域住民に対する避難命令、空域・航路の大規模な規制、などは相当の強制力をもって実行する必要があると考えられます
内乱等による社会的秩序の混乱:日本では未だ発生していませんが、大規模なテロ攻撃があった場合、捜査やテロ集団の排除などで一般市民に対して既存の法律の枠を超えた規制を行う可能性が考えられます
地震等による大規模な自然災害:多くの人命が失なわれた“阪神・淡路大震災”、“東日本大震災”の経験を踏まえると、救助活動、消火活動、補給体制、交通網の整備、など既存の謂わば“縄張り”を越えた総合的な取り組みが必要だった考えられます。例えばいつ起きてもおかしくないと言われている東南海大地震に対し、内閣総理大臣を指揮官とする自衛隊の命令系統の積極的な活用など、検討する必要があるのではないでしょうか
その他の法律で定める緊急事態:東日本大震災により発生した“福島原子力事故”の失敗の教訓(内閣総理大臣の役割、事業者の役割、専門家の定義と役割、など)を生かす必要があると思われます

第十章 改正 
<改正草案と現憲法の比較、及び論点>
第百条(現憲法では第96条となっています);
現憲法:各議員の総議員の三分の二以上の賛成で、国会がこれを発議し、国民投票又は国会の定める選挙の際に行われる投票において、過半数の賛成を必要とする
改正草案:衆議院又は参議院の議院の発議により、両議院のそれぞれの総議員の過半数の賛成で国会が議決し、法律の定めるところにより行われる国民投票において有効投票数の過半数の賛成を必要とする

第十一章 最高法規(現憲法では“第十章”となっています)
<改正草案と現憲法の比較、及び論点>
以下の部分以外は、若干の文言の追加、訂正であり、論点にはならないと思われます
現憲法の第97条:「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」は憲法草案では削除されています
⇒ 過去に於いて基本的人権が踏みにじられた歴史がある事は事実であるものの、残すととすれば前文の方が相応しいかもしれません

現憲法の99条:「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」に替わって、
改正草案・第102条:「全ての国民は、この憲法を尊重しなければならない」、「国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う」
⇒ 13世紀イギリス国王の権利を制限した“マグナカルタ”が憲法の役割の基本とすれば、国民に尊重義務を課すことの是非について議論になることが考えられます

付則(現憲法では“第十一章 補足”となっています) 
論点にはならないと思われます

民主党憲法提言(2005年10月31日)-

民主党が発行した憲法に関する最新の文書は、2013年6月に発効された参議院選挙向けのマニフェストですが、たった半ぺージ程度のものなので、ここでは2005年に出された表記提言を基に検討したいと思います。尚、維新の会との合併を経て生まれた民進党の憲法に関わる文書は現在発行されていません

民主党憲法提言では、自民党憲法草案の様な条文ごとの具体的な条文ごとの改正案は作られていないので、提言の中の重要部分を適宜抽出して分類、記述してみたいと思います。尚、抽象的な表現(例えば“未来志向の憲法”など)は省くこととします

新しい憲法の構成
* 憲法とは、主権者である国民が、国家機構等に公権力を委ねるとともに、その限界を設け、これをミスからの監視下に置き、コントロールするための基本ルール
* 憲法は、世界に対して国のあり方を示す一種の「宣言」としての意味合いを持ち、① 日本国民の「精神」あるいは「意思」を謳った部分と、② 人間の自立を支え、社会の安定を確保する国の活動を律する「枠組み」あるいは「ルール」を謳った部分とで構成される

新しい憲法が目指す五つの基本目標
自立と共生を基礎とする国民が、自ら参画し責任を負う新たな国民主権社会を構築する
② 世界人権宣言及び国際人権規約をはじめとする普遍的な人権保障を確立し、併せて環境権知る権利生命倫理などの「新しい権利」を確立すること
③ 日本から世界対するメッセージとしての「環境国家」への道を示すとともに、国際社会と協働する「平和創造国家」日本を再構築すること
活気に満ち主体性を持った国の統治機構の確立と、民の自立力と協働の力に基礎を置いた「分権国家」を創出すること
⑤ 日本の伝統と文化の尊重とその可能性を追求し、併せて個人、家族、コミュニティー、地方自治体、国家、国際社会の適切な関係の樹立、すなわち重層的な共同体的価値意識の形成を促進すること
これらは憲法前文に入れるイメージかもしれません。全体として定義がはっきりしない言葉が羅列されている印象を受けますが、特にアンダーラインを引いた部分が具体的にどういうことを言わんとしているか分かりません。憲法の条文には誰でも誤解なく理解できる文章とするのが適切なのではないでしょうか

憲法の「空洞化」を阻止し、「法の支配」を取り戻す
憲法解釈が時の政権によって平然として変更され、「憲法の空洞化」が叫ばれるようになっている。この傾向に歯止めをかけて、憲法を鍛えなおし「法の支配」を取り戻す
⇒ 憲法解釈が変更されたところは、具体的には第9条の自衛権に関わる部分と思われますが、これは空洞化ではなく憲法違反、又は憲法の拡大解釈と表現すべきであって、空洞化とは言わないのではないでしょうか、また憲法を鍛えなおすとどうして法の支配が取り戻せるのか理解に苦しむところです

内閣総理大臣主導の政府運営の実現
① 憲法第5章(内閣)における主体を「内閣総理大臣」とするとともに、第65条における「行政権」を「執政権」に切り替え、首長としての内閣総理大臣の地位と行政を指揮監督する首相(内閣総理大臣)の権限を明確にする
⇒ 解釈が難しい文章ですが、言葉の意味としては、「執政権」とは「国家目標を定め、目標を達成するための計画を策定し、計画の実現のためのに政策を決定し、政策を実施するための行政各部へ指揮監督を行うこと」であり、「行政権」とは「法律を具体的に執行したり、政策を実施すること」となるようです。現憲法では両方を区別することなく第5章(内閣)第65条~第75条に両方の権限が網羅されています
②政治主導・内閣主導の政治を実現するため、内閣法や国家行政組織など憲法付属法の見直しを行い、政治任用を柔軟なものにし、首相の行政組織権を明確なものにする
⇒ 憲法を変えなくてもできるのではないか、憲法を変え必要があるあれば何処を変えればよいのか不明確です
③ 現行の政官癒着構造を断ち切り、個々の議員と官僚の接触を禁止するなどの「政官関係のありかた」についてさらに検討し、その規定を明確にする
⇒ ②と同様

議会の機能強化と政府・行政監視機能の充実
① 行政府の活動に関する評価機能をも併せ持った「行政監視院」を設置するなど、専門的な行政監視機構を整備する。政府から独立した第三者機関とするのか、議会の下に設置するかについては、更に検討を要する
② 憲法上の規定があいまいなまま行政府が所管しているいわゆる独立行政委員会(人事院、公正取引委員会、国家公安委員会、公害等調整委員会、司法試験管理委員会など)については、その準司法的機関としての性格を踏まえ、内閣とは別の位置づけを明確にする。その上で、それらに対する議会による同意と監視の機能を整備する。
③ 国政調査権を少数でも行使可能なものにし、議会によるチェック機能を強化する
⇒ 現憲法第62条に両議院に権限があることが謳われており、憲法の改正を行わなくても国会法の改正で対応可能と考えられる
④ 二院制を維持しつつ、その役割を明確にし、議会の活性化につなげる。例えば、予算は衆議院、行政監視は参議院といった役割分担を明確にするとともに、各院の選挙制度についても再検討する
⇒ 憲法第四章(国会)の大規模な改正が必要になります
⑤ 政党については、議会制民主主義を支える重要な役割に鑑み、憲法上に位置付けることを踏まえながら、必要な法整備を図る
⇒ 自民党改正草案に具体的な改正案が入っています
⑥ 選挙制度については、政治家や政党の利害関係に左右されないよう、その基本的枠組みについて憲法上に規定を設ける
⇒ 自民党改正草案に具体的な改正案が入っています

違憲審査機能の強化及び憲法秩序維持機能の拡充
① 新たに憲法裁判所を設置するなど違憲審査機能の拡充を図る
② 行政訴訟法制の大胆な見直しを進めると同時に、憲法に幅広い国民の訴訟権を明示する
国家緊急権を憲法上に明示し、非常事態においても、国民主権や基本的人権の尊重などが犯されることなく、その憲法秩序が確保されるよう、その仕組みを明確にしておく
⇒ 自民党改正草案に具体的な改正案が入っています

公会計、財政に関する諸規定の整備・導入
① 責任の所在があいまいな現行の国の財政処理の権限については、国会の議決の基づいて、内閣総理大臣が行使することを明確にする
⇒ 現在の予算、決算に関わる憲法の規定で何が不足しているのか不明確です
② 内閣総理大臣に、国の財政状況、現在及び将来の国民に与える影響の予測について、国会への報告を義務付ける。また、予算については、複数年度にわたる財政計画を国会に報告し、承認を得る
③ 会計検査院(または新たに設置された行政監視院等)の報告を受けた国会は内閣に対して勧告を行い、内閣はこの勧告に応じて必要な措置を講ずることを明記する
⇒ 自民党改正草案に、前年度決算に関わる会計検査院の検査結果を、次年度の予算に反映させることを義務付ける条文があります

国民投票制度の検討
* 議会政治を補完するものとして、国民の意見を直接問う国民投票制度の拡充を検討する

人間の尊厳を尊重する
① 自分の生命に関わる権利の尊重:人体とその一部の利用は無償に限ること;プライバシー保護、生殖医療・遺伝子技術濫用の禁止自己の生命に関わる自己決定権の検討、など
② あらゆる暴力からの保護:ドメスティックバイオレンス、ハラスメント、人身売買
③ 犯罪被害者の人権保護 ⇒ 自民党改正草案にあります
④ 子どもの権利と発達の保障
⑤ 外国人の人権の保障 ⇒ 自民党改正草案にあります
⑥ 信教の自由、政教分離の原則の厳格な維持 ⇒ 現憲法にあります
⑦ あらゆる差別をなくす規定の検討
⑧ 人権保障のための独立性の高い第三者機関の設置

共同の責務を果たす社会に向かう(国民の義務という概念に変えて「共同の責務」という考え方の導入)
① 地球環境保全・環境優先
② 自然環境の維持向上
③ 未来への責任を果たす
④ 公共のための財産権の制約(土地資源/自然景観、自然エネルギーを正当な補償の下に制約する)
⑤ 曖昧な公共の福祉を再定義する(←公共の福祉の名目で一律に人権を制約すべきでないこと)

情報社会と価値意識の変化に対応する「新しい人権」を確立する
① 情報アクセス権の確立(←国民の知る権利)
② 情報社会に対応するプライバシー権の確立 ⇒ 自民党改正草案にあります
③ 情報リテラシーの確保(←生涯学習)
④ 勤労の権利を再定義し、国や社会の責務を明確にする(←自由な労働市場の確保、職業訓練機会の保障、無償労働参加への保障、など)
⑤ 知的財産権の明確化 ⇒ 自民党改正草案にあります

国際人権保障の確立
① 「国際人権規範」(←国連人権委員会)の尊重を明確に謳う
② 「国際人権規範」に対応する国内措置を義務付ける

多様性に満ちた分権社会の実現
① 「補完性の原理」(公的部門負うべき責務は、もっとも市民に身近な公共団体が執行する/コミュニティー基礎自治体→広域自治体→国)を実現する
中央政府は外交・安全保障、全国的な治安維持、社会保障制度を担当その他は基礎自治体、広域自治体に権限を配分する。自治権侵害の司法的救済は「憲法裁判所」が「補完性の原理」を裁判規範として審査する
③ 自治体の立法権限を強化する
④ 住民自治に根差す多様な自治体のあり方を認める:現在の“二元代表制”(首長と議員が両方とも直接選挙で選出される仕組み)だけでなく、“議院内閣制”、“執行委員会制”、“支配人制”などの多様な組織形態を認めること、及び住民投票制度の積極的活用、など
⑤ 財政自治権・課税自主権・新たな財政調整制度を確立する(現在の地方交付税制度に代えて)

より確かな安全保障の枠組みを形成するために
1.基本的考え
① 平和主義を憲法の根本規範とし、平和を享受する日本から「平和創造国家」へ転換する
② 内閣法制局による憲法解釈に頼ることなく、「制約された自衛権」、「国際貢献のための枠組み」を明確化する。また国際社会が求めている「人間の安全保障」についても積極的な役割を明確化する

2.安全保障にかかわる四原則
① 戦後培ってきた「平和主義」に徹する。国際平和を脅かすものに対しては国連主導の国際活動と協調する
② 国連憲章上の「制約された自衛権」について明確にする。自衛権の行使を、国連憲章51条に記された「国連の集団安全保障活動が作動するまでの、緊急避難的な活動」に限定する
⇒ 戦後、国連による集団安全保障活動が殆ど実行できなかった(←常任理事国の拒否権発動)歴史をどう考えるのか明らかにする必要があります
③ 参加すべき国連の集団安全保障を明確にする:国連多国籍軍の活動、国連平和維持活動への参加を可能にする
シビリアンコントロールの考えを明確にする:指揮権、及び緊急時の指揮権発動手続き、国会による承認手続き、などを明確化する
⇒ 自民党改正草案にあります

3.安全保障に関わる二条件
① 武力行使につぃては最大限抑制的であること:国連安全保障活動や武力行使に関わるガイドラインを定める
② 憲法付属法として「安全保障基本法(仮称)」を定める:上記のガイドラインの他、「人間の安全保障」、シビリアンコントロール、国連待機部隊の組織整備、緊急事態に関わる行動原理、などの規定を整備する

日本共産党綱領(2004年1月17日)-

日本共産党には、1946年に出された社会主義革命を前提とした過激な憲法改正草案がありますが、その後、暴力革命の否定など数度にわたる綱領の大幅な変更があり、この改正草案は意味をなさなくなっています。しかし、2004年に漸進的な革命を前提とした現在の綱領が作成され、現在はこの綱領に基づいて政党活動を行っていますので、現在の憲法論議のベースになっている考え方を、この綱領から抜粋してみたいと思います

目指す政治形態について
日本社会が必要としている変革は、社会主義革命ではなく、対米従属、大企業・財界の横暴な支配を打破し真の独立の確保と政治・経済の民主主義的な改革の実現を内容とする「民主主義革命」である。民主主義革命への道は;
① さしあたって、一致できる目標の範囲で統一戦線を形成し、統一戦線の政府を作るために力を尽くす
② 統一戦線の勢力が、国民多数の支持を得て、過半数を占めた時に民主連合政府を作る
③ 最終的には社会主義的変革が課題となる。この変革の中心は、主要な生産手段の社会化(統制経済は否定される)であるが、生活手段については、私有財産が保障される。

安全保障、外交について
日米安保条約を廃棄し、非同盟国の道を歩む
② 自衛隊は海外派兵を止めることなどにより縮減させる。最終的には憲法9条の完全実施により自衛隊は解消する

憲法について
現行憲法の前文を含む全項目を守る
② 国会を最高機関とする議会制民主主義体制を堅持する
③ 18歳選挙権の実現。現在の選挙制度、行政機構、司法制度は改革を行う
④ 住民が主人公の地方自治を確立する
⑤ 基本的人権の抑圧の企ての排除、労働基本権の全面的擁護、思想・信条の違いによる差別の排除を行う
⑥ 男女の平等、女性の社会的進出、法的な地位を高めることを実現する
⑦ 憲法の平和と民主主義の理念を生かした教育制度・行政の改革を行う
⑧ 科学、技術、文化、芸術、スポーツの発展を図る
⑨ 信教の自由、政教分離を徹底する
⑩ 汚職・腐敗・利権の政治を根絶するために企業・団体献金を禁止する
⑪ 天皇の世襲制、国民統合の象徴という部分は、民主主義、人間の平等の原則から受け入れられない。天皇制の存廃は、将来、情勢が熟した時に、国民の総意によって解決すべきである

公明党の憲法改正に関わるスタンス(2016年)-

公明党については、現在は独自の憲法改正案を持っていません。自民党との連立政権の合意事項の中で、国会の「憲法審査会」でしっかり議論をすることとしていますので、ネット上に公開されている幾つかの原則を列記することとします

1.現憲法の枠組みは維持し、時代の進展に伴って提起されている以下の理念を追加する;
環境権
プライバシー権
地方自治の拡充

2.憲法9条について;
戦争放棄を定めた第1項、戦力の不保持を定めた第2項は維持すると同時に、自衛のための最小限度の実力組織としての自衛隊の存在を明記する。国際貢献のあり方についても改正議論の中で検討していく

3.憲法改正手続きを定めた憲法第96条については、この条文単独での改正を目指すのではなく、他の改正案を含めた全体で議論することが望ましい

おおさか維新の会憲法改正原案(2016年3月24日)-

大阪維新の会は、現憲法の条文に沿って改正原案(追加、修正)を作っているので、以下に列記します(→以下の条文以外は現憲法を変えない)

* 憲法第26条(教育を受ける権利、教育の義務及び学校教育の無償)
① 現憲法の「すべての国民は、法律の定めるところにより、その“能力”に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」という条文を、改正原案では、「、、、、その“適性”に応じて、、、、有し、“経済的理由によって教育を受ける機会を奪われない”」と修正しています
② 改正原案では、「法律に定める学校における教育は、すべて公の性質を有するものであり、幼児期の教育から高等教育に至るまで、法律の定めるところにより、無償とする」という条項を追加しています

第五章の二 憲法裁判所(新設)
憲法裁判所は、一切の法律、命令、条例、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する第一審にして終審の裁判所である
内閣総理大臣またはいずれかの議員の総議員の四分の一以上の議員で、憲法に適合するか否かの訴えを提起することができる
通常の裁判所は、取り扱っている事件について、当事者からの申し立て、又は職権により憲法裁判所に判断を求めることができる
憲法により権限を定められている機関は、その権限の存否又はその行使に関する紛争について憲法裁判所に訴えを提起することができる
⑤ 憲法裁判所の判決で憲法に適合しないとされた法律、命令、条例、規則又は処分は、判決により定められた日に、効力を失う
⑥ 憲法裁判所の判決は、すべての公権力を拘束する
⑦ 憲法裁判所の12人の裁判官は、衆議院参議院最高裁判所それぞれ4人を任命する
⑧ 憲法裁判所の裁判官は、識見が高く、法律の素養のある者の中から任命されなければならない
憲法裁判所の長は、12人の裁判官の互選した者について、天皇が任命する
⑩ 憲法裁判所の裁判官の任期は6年とし、再任されることはできない
⑪ 憲法裁判所の裁判官は、良心に従い独立してその職権を行い、この憲法および法律にのみ拘束される
⑫ 憲法裁判所の裁判官は、裁判により、心身の故障のために職務を執ることが出来ないと決定された場合を除いては、公の弾劾によらなければ罷免されない。憲法裁判所の裁判官の懲戒処分は、行政機関がこれを行うことは出来ない
⑬ 憲法裁判所の裁判は、公開法廷で行なう
⑭ 憲法裁判所は、訴訟に関する手続き並びに内部規律及び事務処理に関する事項について、規則を定める権限を有する

第八章 地域主権(現憲法の“第八章 地方自治”に相当する)
① 自治体は、基礎自治体及びこれを包括する広域自治体としての道州とする
② 自治体の組織及び運営については、団体自らの意思と責任の下でなされる(団体自治の原則)
③ 国、道州及び基礎自治体の役割分担は、“補完性の原則(民主党提言参照)”に基づく。国は国家としての存立関わる事務その他の国が本来果たすべき役割を担うものとする
④ 自治体の組織及び運営は、自治体の条例で定める
⑤ 道州内における基礎自治体の種類、区域その他の基本事項は、道州条例で定める
⑥ 自治体には、条例その他重要事項を議決する立法機関として、議会を設置する
⑦ 自治体には、その自治体を代表する執行機関として、道州にあっては知事、基礎自治体にあってはを設置する
⑧ 議会の議員、知事又は長及び自治体の条例で定めるその他の公務員は、その自治体の住民であって日本国籍を有する者が、直接これを選挙する
⑨ 自治体は、その財産を管理し、事務を処理し、行政を執行する権能を有し、この憲法に特別の定めがある場合を除き、法律の範囲内で条例を制定することができる
⑩ ③の規定による国が担う役割に関わる事項以外の、法律で定める“道州所管事項”については、法律に優位した条例(優先条例)を制定することができる
⑪ 自治体は、その自治体の地方税の賦課徴収に関する権限を有する
⑫ 自治体が地方税その他の自主的な財源ではその経費を賄えず、財政力に著しい不均衡が生ずる場合には、道州にあっては道州相互間で、自治体にあってはその基礎自治体を包括する道州内で、財政調整を行う
⑬ 国、道州及び基礎自治体の相互間における権限の存否又はその行使に関する紛争についての訴訟その他法律で定める事項は、憲法裁判所で処理するものとする

以上

ステルス戦闘機とは

-はじめに-

上記の写真は、2016年4月22日に初飛行を果たした国産の“先端技術実証機”が名古屋空港を離陸する時の姿です。航空自衛隊の主力戦闘機であるF15JやF2支援戦闘機(地上及び海上支援)の後継機としてステルス性の高い(敵レーダーに発見されにくい)航空機が求められていることから、日本のこの分野での技術基盤を確立する為に開発されてきた航空機です。機体は三菱重工、エンジンは石川島播磨重工が開発を担当しました。
新聞等に登場する第?世代の戦闘機という表現は、定義がやや曖昧ですが、ステルス性電子装備、戦闘能力などの面で、どれだけ能力が高いかでランク付けがされています。現在、米軍や航空自衛隊で主力の戦闘機として活躍している、F15、F/A18、などは第4世代、F2やF15改良型、F/A18改良型は第4.5世代、米軍しか保有していないF22、自由主義陣営の航空先進国で共同開発したF35第5世代の航空機とされています。因みに今年から日本にが導入されるF35は、ベトナム戦争のころ大活躍したF4(ファントム)を更新する機材として導入されます

F35A_自衛隊
F35A_自衛隊

先週の新聞に、ボーイング社が航空自衛隊の次期戦闘機の共同開発を提案してきたという記事が出ていました。F35の例でも分かる様に、第5世代戦闘機の開発には巨額の投資が必要で、米国ですら共同開発を選択せざるをえなかったほどです。ご存知の方も多いと思いますが、日本はF35導入を決める前に、今もなお最強の戦闘機であるF22の導入を打診したことがありましたが、米国議会の反対にあって導入ができませんでした。基幹技術の海外流出には、国の生存が関わっているのでやむを得ない事かな、というのが私の感想です。因みに、現在韓国が戦闘機の開発を行っていますが、要となる装備品の提供を米国に拒否され、当初目指していた性能は出せなくなっている様です

振り返ってみれば、自衛隊のF1支援戦闘機の後継機で日本は自主開発を目指しましたが、日米の貿易摩擦の影響で、要となるエンジンの提供が得られず、F16をベースとした日米共同開発となってしまった歴史があります。今回の“先端技術実証機”の開発では、機体とエンジンを全て自主開発しているので、量産型機の自主開発が可能かとも考えられますが、巨額の投資が必要なこと(特に日本では自主開発しても輸出することが極めて難しい事情も重なります)、電子装備品で一部米国に頼らねばならない可能性もあり、米国との共同開発が最適の選択だと私は考えます。尚、“先端技術実証機”のステルス性、エンジンの先端性が、F22と同レベルか凌いでいれば、F22の導入が米国議会で承認される可能性も考えられます。ロシアが開発中の第5世代戦闘機“T50”の開発配備状況、米国の主力戦闘機であるF15、F/A18の後継機の検討状況によっては、F22の導入に道が開けるかもしれません

第5世代の戦闘機の導入は、自主開発にしろ、F22の導入にしろ巨額の資金が必要となることは言うまでもありません。今後この計画が具体化するにつれ、導入資金額を単純に福祉予算や災害復旧予算と比較する議論も昔と同様盛んになると思われます。しかし私は、「専守防衛」を国是にしている日本には絶対に必要な防衛装備であると考えています。何故なら、装備の劣る仮想敵の侵略の意図を挫くことができると同時に、仮に理不尽な敵の侵略があった場合でも、数で劣る自衛隊員の命の損耗を回避することによって戦力の維持が可能になるためです

最近は少しましになりましたが、日本で防衛に関する議論をする時に、具体的な数字の議論を避ける傾向があります。確かに防衛装備というものは、如何に敵に勝る攻撃力があるか(⇔殺傷能力が高いか)議論するわけですから、70年以上平和に暮らしてきた日本人にとっては相当違和感のある話である事は確かです。しかし、巨額の税金を投じる以上、その投資効果について国民一人一人が避けずに議論することが必要であると考えます

先の大戦の初めの頃、「ゼロ戦」は無敵を誇り、パイロットの損耗率は殆どゼロだったと言われています。これは「ゼロ戦」の速度航続距離旋回性能が卓越していたからです。日本が無残な敗戦に至る過程で、米軍のレーダーによる索敵能力の向上、米軍戦闘機の性能向上があったことで、「ゼロ戦」の卓越性が失われ、“優秀なパイロットの損耗制空権の喪失”という負の連鎖がありました
現在の戦闘機にこれを当て嵌めれば、「ステルス性能」と「飛行性能」が卓越性のカギを握っています。偶々、現役時代から愛読している“Aviationweek & Space Technology” の2016年7月4~7日号に、「ステルス性能」と「飛行性能」について、F22とF35の比較が出ていましたので紹介いたします。尚、出来るだけ平易な日本語にするため、若干の意訳を交えたことを予めお許し頂ければ幸いです

-ステルス性能の基礎知識- 

ステルス性能とは;
ステルス性能とは:敵レーダーに発見されにくい性能
レーダーによる探知とは:電波を発射し、目標物から反射してくる電波をキャッチして、目標物の速度、進行方向、大きさ、などを探知すること
レーダーからの反射波は、レーダーの送信機や受信機の内部で発生するノイズやクラッターの影響を受けるので、反射波の信号強度がこれらよりも大きくないと目標物を発見できません
レーダーのクラッター(Clutter)とは:目標物以外の地面、海面、雲、雨などからのの反射波

ステルス性能を表す尺度  : 「“RCS”/Radar Cross Section」といい、形、大きさ、電波の反射率、などに違いがある目標物を、標準となる金属製の球の断面の反射波と比較して標準化した指数です
RCSによるステルス性能の比較
**人間のRCSは1㎡
**第4世代航空機:10~15㎡
**第4.5世代航空機:1~3㎡
**第5世代航空機:ゴルフボールの断面(0.0014㎡)以下

*2014年から配備を始めたロシアの最新鋭機(SU35)が装備しているレーダーは400km先のRCS:3㎡の目標物を探知できるとされており、これを上記に当てはめると、SU35が探知可能となる距離は概略以下の通りです;
**第4世代航空機:540~600km先から探知可能
**第4.5世代航空機:300~400km先から探知可能
**第5世代航空機/F35:58km先から探知可能
**第5世代航空機/F22:36km先から探知可能

従って、F35、F22が装備している空対空ミサイルAIM120は100km以上の距離から発射できるので、SU35に発見されない間に発見し撃墜することが可能となります。また、ロシアの最新鋭の地対空ミサイル(S-400;射程380km)とセットになっているレーダーの能力はRCS:4㎡の目標を250km先から探知可能とされており、F35、F22は地上からの攻撃に対しても十分なステルス性能を持っているという事が出来ます(ロシアのデータはいずれも米軍専門家による推定値)

RCSの値は、レーダー波の周波数、目標物は形状、見る角度などで異なります。
**レーダー波の周波数については、現在の火器管制レーダー(索敵、ミサイルの目標追尾、など)で使用されている周波数がXバンド(8~12ギガヘルツ)帯なのでこの周波数帯が一番重要となりますが、他の周波数帯でのステルス性も重要です
**目標物を見る角度は、実際の航空機の飛行高度、レーダーの運用条件などを考えると、水平方向:±45°、上下方向:±15°が重要になります

-ステルス性能を向上させる手段-

ステルス性能を向上させるには、 レーダー波の反射波を敵レーダーに向かわせない形状にすることと、 レーダー波を吸収させること の二つの方法があります。通常①の方法の寄与率が90%、②の方法の寄与率が10%と言われています

レーダー波の反射波を敵レーダーに向かわせない形状
レーダー波が入射する方向と反射する方向との関係は、ビリヤードのボールが、縁で撥ねかえる様子(入射角と反射角が等しい)を想像すればいいと思います。つまり直角に当たらない限り入射した方向には反射しないということです
従って、エンジンの空気取り入れ口コックピットレーダー波が反射を繰り返す様な複雑な構造は、レーダー波の入射方向に反射してしまう可能性が高くなります
エンジンの空気取り入れ口の反射を防ぐ方法には、網状のシールドの設置取り入れ口内部にブロッカー設置蛇の様に曲がりくねった空気取り入れ口の構造などがあります
第4世代機までは、装備されている武器類(爆弾、ミサイル)、補助燃料タンクなどはパイロンと言われる構造で主翼や胴体に吊るされていますが、これらはステルス性能に悪影響を与えますので、第5世代機では胴体内に格納することにしています(→結果として機体のサイズが大きくなる)。
ミサイルは丸い胴体で、尾部に十字型の安定翼があり且つ前部には目標を追尾するレーダーが装備されている為、レーダーを反射しやすい形状になっています
翼の前縁(Leading Edge)や後縁(Trailing Edge)、翼端(Wing Tip)はどうしてもレーダーの入射方向に反射してしまう部分ができるので、空気力学的な性能を犠牲にしても可能な限りナイフのように鋭い形状にします

F22:ナイフの様な翼前縁部
F22:ナイフの様な翼前縁部

胴体の面、動翼の面、翼の前縁・後縁、割れ目、などからの反射波が出来るだけ限られた角度に集中するように全体のデザインを調整します

② レーダー波を吸収させる方法;
レーダー波は電磁波(一般的には“電波”と呼んでいます)なので、金属などの導電体に当たるとそこに高周波電流が流れます(←ラジオやテレビのアンテナはこの原理で電波の信号を受け取っています)。この電気エネルギーを熱に変えてレーダー波のエネルギーを吸収させる導電体のことを“RAM(Radar Absorbent Material)”と言います
コックピットのキャノピー(操縦席を覆う風防)には極薄(数ナノメートル程度)の導電性の金属膜(金、または“酸化インジウム・スズ”)で覆われています。“酸化インジウム・スズ”とは、酸化インジウムに数パーセントの酸化スズを混ぜたもので、液晶パネルや有機ELパネルに使われている材料です
機体の外装面上をレーダー波が通過すると、外装面に高周波電流が流れます。この電流が外装面(RAMで覆われている)の材料の繋ぎ目などで遮断されると、これが電波として再び放射されます(高周波電流の流れる距離が長ければ熱になって減衰する為に電波の再放出を防ぐことができます)。従って、こうした場所(例えば武器庫や降着装置のドア類、アアクセスパネルなど外板との繋ぎめ)には導電性のテープを張る、あるいは導電性物質の詰め物をして高周波電流が長い距離流れるようにする必要があります

上:F22 下:F35
上:F22 下:F35

-F35とF22の性能の比較-

*F35A:日本が今年導入するタイプ。他にF35B(垂直離着陸可能)、F35C(航空母艦の艦載機)のタイプがあります
*F22A:実戦配備済みのタイプ
F35はF22と比べてコストを下げる為に設計上かなりの妥協を行っています

両機のステルス性能、戦闘能力、価格の違いは以下の通りです;
① 有視界を超える遠距離での戦闘能力
**RCS:F22A/0.0002㎡ ⇔ F35A/0.0013㎡
**装備レーダーRCS 1.0㎡ の目標物を探知できる距離:F22A/240km ⇔ F35A/207km

② 有視界での戦闘能力;
**翼面荷重(小さい程俊敏に動ける):F22A/317kg/㎡ ⇔ F35A/420kg/㎡
**エンジン推力の方向制御(可能であれば予測が難しい運動が可能):F22A/可能 ⇔ F35A/不可能
**迎え角の限界(大きい程運動能力が高い):F22A/限界無し(垂直に上昇できる⇔機体重量より推力が大きい) ⇔ F35A/50°まで
**Distributed Aperture System(最新の電子工学分散開口システム;6つの赤外線カメラで捉えた映像を合成して前後・左右・上下の死角をなくすことができる):F22A/無し ⇔ F35A/有り

③ 空対空ミサイルの内臓数(機体内に内蔵);
**AIM120(長距離用):F22A/6基 ⇔ F35A/4基(6基に改造可能)
**AIM9(短距離用/サイドワインダー):F22A/2基 ⇔ F35A/無し

④ 地上攻撃用兵器の搭載能力
**大型爆弾搭載能力;F22A/1,000ポンド爆弾2基 ⇔ F35A/2,000ポンド爆弾2基)
**電子光学照準システム:F22A/無し ⇔ F35A/有り

⑤ 飛行性能
**最高速度(アフターバーナー無し):F22A/マッハ1.7 ⇔ F35A/マッハ1未満
**最高速度(アフターバーナー):F22A/マッハ2以上 ⇔ F35A/マッハ1.6
**最高到達高度:F22A/65,000フィート ⇔ F35A/50,000フィート
**作戦遂行半径:F22A/約1,200km ⇔ F35A/1,300km

⑥ コスト
**1機当り調達コスト(110円/USD):F22A/250億円 ⇔ F35A/110億円(自衛隊機の場合、日本で生産される為ライセンス料が加算されてかなり高額になる)
**飛行時間当たりの運航コスト(110円/USD):F22A/600万円 ⇔ F35A/350万円

以上

尖閣諸島問題を考える

-はじめに-

現在日中関係の最大の問題は尖閣諸島帰属の問題です。日本側の主張と中国側の主張とが真っ向から対立し、特に石原都知事時代に都がこの諸島を購入してから、両国の緊張関係は明らかに高まっていることは論を待たないことだと思います。
両国が歩み寄る気配もなく、緊張が徐々に高まっていく現在の状況は、第二次大戦後70年以上を平和に暮らしてきた日本人にとって、正に戦後最大の異常事態といっても過言ではないと思います

言うまでもない事ですが、この緊張関係を回避する特効薬は、「尖閣諸島の領有権を放棄する」ことです。しかしこの策は、排他的経済水域(200海里以内)や軍事的なプレゼンスの問題を別にしても、日本人のナショナリズムを刺激して国論を過激に走らせ、更に大きな戦争のリスクを抱える要因にもなりかねません

とすれば、最善の策は「現在の実効支配の状況を維持する」ことになります。しかし、この状態は、常に色々な形で中国側からチャレンジされることを想定し、対処しなければなりません。これは、今まで国防を全て米国に頼ってきたこの国が、自身の意思と力で自国の領土を防衛するということを意味します
米国の今の政権は、尖閣諸島の防衛は日米安保条約の範囲内である(実効支配が続いている限り)と明言している一方で、尖閣諸島帰属の問題には米国は関与しないと言っています。言い換えれば日本に尖閣諸島を防衛する確固たる意思が無ければ米軍のサポートも得られないということです

であれば、日本自身が;
* 中国の現代史(特に戦争の歴史)
* 領土問題に対する中国の姿勢
をきちんと学習し、理解しておかねば異常事態に対する戦略が立てられません。
以下は、私自身が考えた“尖閣諸島防衛の基本戦略”です;

-中国の現代史(特に戦争の歴史)-

辛亥革命以降の中国は、以下の様に絶え間ない戦争を行ってきました;
<国共合作までの内戦>
 辛亥革命/1911年~12年:1911年10月武昌蜂起により中華民国樹立。1911年1月中華民国樹立、初代大総統に孫文が就任。1912年2月清国・宣統帝廃位。袁世凱臨時大総統就任。1916年の袁世凱病死後は軍閥の群雄割拠の時代になりました。
 南京政府樹立:1927年、蒋介石は南京に政府を樹立し共産党軍の排除を始め、1930年12月からは7次に亘る大規模な共産党軍掃討戦を行いました
 瑞金臨時政府樹立:1931年、毛沢東は江西省瑞金に臨時政府を樹立しました。1934年10月、瑞金を攻撃された共産党軍は6万5千人の犠牲者を出して延安に逃れました(長征
 西安事件:1936年12月、張学良に拉致された蒋介石は、共産軍との戦闘を止め、一致して日本軍と戦うことを約しました(国共合作

<日中戦争:15年間
 1931年~1937年:1931年9月柳条湖事件(張作霖の爆殺)を機に関東軍が北支に侵入し、満州事変が勃発しました。1932年3月には宣統帝を担ぎ出して満州国を樹立しました
 1937年~1945年:1937年7月の盧溝橋事件を契機として日中が全面戦争に突入しました。同年8月に上海事変、同年12月には中華民国の首都、南京を攻略しました。以降日本は中国各地で国共合作成った国民党軍、中国共産党軍(八路軍)と泥沼の様な戦争を続けることを余儀なくされました
 1945年8月、日本の無条件降伏

(参考) 日中戦争における中国側発表の犠牲者数
*約130万人/軍人:1946年、中華民国国防部発表
*約440万人/軍民合計:1947年、中華民国行政賠償委員会
*約1300万人/軍民合計:1947年、国民党行政賠償委員会
*約2100万人/軍民合計:1985年、共産党抗日勝利40周年
*約3500万人/軍民合計:1995年、共産党抗日勝利50周年で江沢民国家主席がが発表

(参考) 日中戦争時、日本が犯した非人道的犯罪として中国の歴史に記録されていること(日本側の記録には無いか、あるいは犠牲者の数字などがかなり違うことに注意する必要があります);
*生きている人間を使った細菌実験:731部隊により行われた細菌兵器開発の為の生体実験。責任者は戦後米軍への情報提供を条件に戦犯には問われていません
*平頂山事件:1932年遼寧省北部の撫順炭鉱守備隊が行った殺害事件。ゲリラ兵に協力していると見做した無抵抗の村民を3千人殺害したとされています(ベトナム戦争における“ソンミ村事件”と似ています)
*南京大虐殺(中国側資料の表現):1937年、南京に於ける国民党軍掃討の戦闘で多くの死亡者が出ました。30万人の捕虜及び民間人が殺害されたとされています
*重慶無差別爆撃(中国側資料の表現):南京から重慶に拠点を移した国民党軍に対して、1938年~43年に亘って断続的に218回実施された戦略爆撃。1万人以上の犠牲者を出したとされています(東京裁判)
*三光作戦(中国側資料の表現):1940年以降、北支方面軍がゲリラ作戦を多用する共産党軍(八路軍)を討伐するために、これに協力する村民をまとめて殺害したとされる作戦。三光とは、“殺し尽し”、“焼き尽し”、“奪い尽す”という意味です。日本側にはこうした作戦の記録はありません
*万人抗(中国側資料の表現):満州各地の鉱山周辺に多くの人骨が埋められているとされるところ。鉱山で過酷な労働を強いられた中国人労働者の死骸が埋められた所とされ、中には生きたまま埋められた人もあるとされています

<日中戦争終了後の内戦>
 1946年~1949年:1946年6月、蒋介石は国民党軍を動員して共産軍に対して全面的に攻撃を開始しました。最初は国民党軍が優勢であったものの、次第に農民の味方を得た共産軍が優勢となっていきました。1949年10月、全土を掌握した共産軍は中華人民共和国(以下“中共”、又は“中国”)を樹立しました。1949年12月、国民党軍は全軍台湾に撤退し台北を臨時首都としました
*犠牲者数:中共軍/150万人、国民党軍/25万人と言われています

<朝鮮戦争介入>
 1948年8月、李承晩が大韓民国(以下“韓国”)を樹立、一方、金日成は同年9月、朝鮮民主主義人民共和国(以下“北朝鮮”)を樹立しました
1950年6月25日、北朝鮮は宣戦布告無しに38度線を突破して韓国に侵攻を開始しました。開戦当時、北朝鮮軍は圧倒的に優位な兵員数、火力をもっており、日本に駐留する連合国軍(ソ連、中国を除く)で結成された国連軍(正確には多国籍軍)の投入をもってしても北朝鮮軍の優位は変わらず、韓国軍と国連軍は次第に釜山付近に追い詰められていきました
1950年9月15日、マッカーサーは海兵隊を中心とする米軍部隊と韓国軍部隊を仁川に上陸させました。これに連動して釜山方面に追い詰められていた国連軍、韓国軍は反撃を開始し形勢は一気に逆転しました。9月28にはソウルを奪還し、更に10月には38度線を越えて北朝鮮に侵攻を開始しました。10月20日には平城を占領し、更に10月26には中国との国境(鴨緑江)に達しました。

北朝鮮、ソ連の要請に基づき、中国は1950年10月5日、彭徳懐を司令官とする義勇軍の派遣を決定しました。この義勇軍は後方待機を含めると100万人の大部隊でした。10月19から隠密裏に鴨緑江を渡河して侵攻を開始しました。11月1から大規模な攻勢を開始した結果、国連軍、韓国軍は懸命の戦いをしつつも撤退に次ぐ後退を余儀なくされました。この一連の戦闘で国連軍の死傷者数は約1万3千人、中国義勇軍の死傷者数はその数倍に及んだと言われています。12月5、中国・北朝鮮軍は平城を奪還、1951年1月4日には再度ソウルも奪還しました。

当初ソ連のジェット戦闘機ミグ15が投入され、第二次大戦時の航空機が主力の米軍から制空権を奪いましたが、その後米軍はF-86ジェット戦闘機を投入し、制空権を奪還することができました。航空兵力の支援を受けて1951年2月11、連合軍は再び北進を開始しました。その後両軍の間で一進一退の激戦が続き、38度線付近の高地で膠着状態に陥りました。原爆投下、等を含む戦争の継続を主張したマッカーサーは4月11日、トルーマン大統領により解任されました。

1951年7月から開城において休戦会談が開始されました。双方有利な条件での停戦を要求する為、交渉は難航し、1953年7月27に至ってようやく休戦協定が成立した。
* 正式に発表されたものはないものの、中国義勇軍の犠牲者数は50万人に達したと言われていいます。

<台湾海峡危機>
 1954年9月:中共軍による金門島砲撃
 1955年1月:中共軍による江山島攻撃と米軍支援の下での国民党軍の大陳島撤退
 1958年8月:中共軍による金門島砲撃と空中戦に勝った国民党軍による厦門空爆
⑫ 1965年:偶発的に小規模な海戦が発生

<中国・インド国境紛争>
開戦の背景:1950年、中共軍がチベットに侵攻しこれを支配しました
1954年、周恩来首相とネルー首相との会談で平和五原則(①領土・主権の相互尊重、②相互不可侵、③相互内政不干渉、④平等互恵、⑤平和共存)について合意していましたが、中国は弱体化していた清の時代の国境を認めておらず、インドが警戒感を抱いていない時期を狙って国境を画定しようとしていました。この時期インドはパキスタンとの国境紛争を抱えておりましたが、中国はこのパキスタンを支援しており、フルシチョフのスターリン批判以降中国と対立していたソ連はインドを支援していました。

戦争の推移:1959年9月に最初の武力衝突が発生し、1962年11月には大規模な衝突に発展しました。中共側戦力8万人(死傷者約2400人)、インド側戦力1万人~1万3千人(死傷者約2400人、行方不明者約1700人、捕虜約4000人)で戦い、中国が勝利をえて一方的に停戦を行いました。現在もアクサイチンを実効支配しています。

紛争後の経緯:上記紛争以降中国・インド間には直接的な戦闘は行われていませんが、中国側勝利の影響を受け、パキスタンの武装勢力がインド支配地域に侵入し、第二次印パ戦争が勃発しました。インドはこれらの紛争を契機として核弾頭搭載可能な中距離ミサイルを開発配備し、現在に至っています。

<中国・ソ連国境紛争>
開戦の背景:中ソ間の長い国境線は、強大なロシア帝国と、弱体化した清国との間で結ばれた条約(アイグン条約、北京条約)はあり、また曖昧な部分が多くありました。
1956年2月、ソ連のフルシチョフ首相が第20回党大会に於いてスターリン批判を行った結果、中ソの政治的な関係は悪化し領土に関わる緊張が高まりました。1960年代末には長い国境線を挟んで両側に大兵力が対峙(ロシア側/65万8千人、中国側/81万4千人)し小規模な衝突を繰り返していました。

戦争の推移:1969年3月、ウスリー川(アムール川/黒竜江の支流)の中州(ダマンスキー島/珍宝等)で武力衝突が発生、同年7月にはアムール川の中州(ゴルジンスキー島/八岔島)でも武力衝突が発生しました。8月には新疆ウィグル地区で武力衝突が発生し、両国は核兵器使用の準備を始めました

紛争後の経緯:1969年9月、ホーチミン首相の葬儀の帰途北京に立ち寄ったコスイギン首相と周恩来首相が会談した結果、軍事的緊張は緩和されたものの、国境での軍事力の対峙はその後も続いていました。
1980年代後半、両国は秘かに国境交渉を再開しました。1989年、ゴルバチョフ大統領が訪中して中ソ関係が正常化した後全面的な国境見直しが始まりました。1991年5月(ソ連邦崩壊直前)、一部係争地を除き中ソ東部国境協定(ソ連邦崩壊後中ロ東部国境協定)が結ばれました(1992年に批准;ダマンスキー島/珍宝等は中国に帰属することが確認されました)。1994年には中ロ西部国境協定が結ばれました(1995年に批准)。ソ連崩壊後に独立した中央アジア諸国と中国との間の国境協定も個別に結ばれてゆきました。中ロ東部国境協定で棚上げにされていたアルグン川の島とアムール川・ウスリー川の合流点の二つの島の帰属については、2004年10月、プーチン大統領と胡錦濤主席による政治決着で、係争地を二等分する形で政治決着が図られ、最終的な中ロ国境協定が締結(2005年に批准)されました

<中国・ベトナム間の領土に関わる戦争>
 1974年1月 パラセル諸島(西沙諸島)の戦い
開戦の背景:第二次世界大戦終了後、仏領インドシナでフランスとの間で独立戦争が起こりました(第一次インドシナ戦争:1946年~1949年)。独立後、ベトナム共和国(以降“南ベトナム”)と中国との間でパラセル諸島(西沙諸島)帰属の問題が発生していました。中国が同諸島の東部を実効支配し、1971年には多数の施設を建築していました。一方、南ベトナムは西部を実効支配しており軍事的な緊張は徐々に高まっていきました。
戦争の推移:1974年1月15日、哨戒中の南ベトナム軍艦が、実効支配している同諸島西部の永楽群島の島(甘泉島/ロバーツ島)に中国国旗が立てられ、付近の海域に大型の中国漁船2隻が停泊しているのを発見し退去を命ずると共に威嚇射撃を行いました。1月17日、18日には両国が増援部隊を派遣して小競り合いを繰り返していましたが、1月19日に至って南ベトナム艦隊の発砲から本格的な海戦に発展しました。1時間足らずの交戦で南ベトナム艦船は大きな損害を受けて敗退しました。午後1時30分には永楽島に4個中隊が上陸し占領、1月20には他の3つの島にも上陸し、同諸島全体が完全に中国の実効支配化に置かれることになりました。
中国の勝因/南ベトナムの敗因:地理的に中国の方が同諸島に近かったこと、速射砲を備えた中国軍艦船の方が戦闘力が高かったこと、陸軍兵力が圧倒的に凌駕していたこと(中国:4個中隊、ベトナム:100~200人)があげられます。また前年パリ協定に基づき米軍がベトナムから撤退し、南ベトナム自身も北ベトナムの攻勢に晒されている時期であり戦意の面でも相当劣勢にあったと考えられます

* パリ協定(ベトナム和平):1973年1月27日に調印。この協定に沿って3月29日には米軍はベトナムから完全に撤退しました
* ベトナムの統一1976年4月、北ベトナムの攻勢によりサイゴンが陥落、南北統一が実現しました

 1979年2月~3月 中越戦争
開戦の背景:大量虐殺による恐怖政治を布いていたポルポト政権を倒すため、ベトナムは亡命していたヘン・サムリンを支援しカンボジアに侵攻、1979年1月プノンペンを解放しました。ポルポト政権を支援していた中国は1979年2月、ベトナムとの開戦を決断しました。当時の中国は鄧小平、華国鋒政権であり、ポルポト政権支援以外に、文化大革命の不満を外に向ける必要があったこと、ベトナム戦争で支援してきた中国への裏切り行為(中国の反ソ政策に同調しないこと)やベトナムによる旧南ベトナムの華僑資本家層の圧迫、なども開戦決断の背景にあったと考えられています;

中国軍侵入ルート

戦争の推移:約60万の中国地上軍が北部国境から侵入。この時期ベトナム軍主力はカンボジアにあり、北部には約3万人程度の民兵(しかし正規軍に匹敵する精鋭)しか居なかった為徐々に後退する作戦をとりました。その結果、中国軍は北部5省を占領することとなりました。その後、ベトナム軍主力が合流を開始するとともに戦局は逆転し、最終的に中国軍は国境外に撤退しました。撤退に際して非人道的な焦土作戦を行い、多数の民間人が犠牲になったと言われています。両国の損害については確たる資料は無いものの、双方に数万人規模の犠牲者があったとされています。中国は国内では勝利したと宣伝していますが、ベトナム懲罰の目的を達せずに国境外に撤退していることから、実質中国は敗退したと考えるのが自然であると思われます

ベトナムの勝因:ベトナム戦争中にソ連から供与された兵器及び米軍から獲得した近代的な兵器を保有しており、更に厳しいベトナム戦争を勝ち抜いてきた豊富な実戦経験があったこと。
中国の敗因:旧式の兵器しか無かったこと、及び軍制に弱点(文化大革命で軍隊に階級が無くなった)があったため。(その後、軍の近代化が中国の最優先の国家目標となりました)

 1984年4月~7月 中越国境地域のベトナム側領域での戦闘
開戦の背景:中越戦争後、もともと国境が確定していなかった要衝である「老山・者陰山」一帯にベトナム軍が侵攻し、恒久的な陣地の構築を始めました。これに対して中越戦争での敗退で威信が低下していた中国は、軍制改革の効果を実戦で確認する場としてこの要衝の占領を計画しました

戦争の推移:第一次戦闘(4月2日~28日)で中国軍は要衝をほぼ制圧しました。第二次戦闘(6月12日~7月10日)ではベトナム軍が再占拠を目指して猛攻撃を加え中国軍中隊の全滅などの戦果を挙げましたが、中国軍も反撃し、双方歩兵による突撃を繰り返し大量の死者を出して戦闘は終止しました。第三次戦闘(7月12日~14日)では、ベトナム軍は6個連隊規模で白兵戦を挑みましたが、中国軍は徹底的な砲撃でこれに対抗し激戦の末兵員が尽きたベトナム軍が戦闘を中止し大規模な戦闘は終結しました

中国の勝因:第一次戦闘で大兵力を集中して要衝を抑え守りを固めていたこと。ただベトナム軍の士気が高いことと、中国側は大規模な戦闘における兵站に問題があることが判明し、その後の軍事的冒険を行わなかったこと
ベトナムの敗因:第一次戦闘で敗退し、高地に築かれてしまった中国側の堅固な陣地に、不利な低地から白兵戦を挑んだこと。

 1988年3月14日 スプラトリー諸島(南沙諸島)海戦
両国で領有権を争っていたスプラトリー諸島(南沙諸島)のジョンソン南礁(赤瓜礁)で戦闘が発生しました。中国側はフリゲート艦3隻、ベトナム側は戦車揚陸艦1隻と輸送艦2隻、火力に勝る中国が勝利しました。中国軍は空軍の支援が得られなかった為、海軍はすぐに中国本土に撤退しスプラトリー諸島全体は支配できず6個の岩礁や珊瑚礁を手に入れるに留まりました。ベトナムは29の島や暗礁を実効支配しています

-領土問題に対する中国の姿勢-

中ロの国境紛争が解決してから、中国は経済成長を上回る軍事力の増強を図ってきています。特に装備の近代化と自主開発に力を入れており、西太平洋に於いて米国と覇権を争うまでになりました。

東シナ海・南シナ海_主張の違い
東シナ海・南シナ海_主張の違い

これまでの中国の歴史を分析すると;
1.勝てると判断すれば、国際的な支持を得られない場合でも大胆に軍事力を行使している;
 1974年、南ベトナムとの衝突後にパラセル諸島(西沙諸島)全体を実効支配
 1988年、ベトナムとの海戦後にスプラトリー諸島(南沙諸島)の一部を実効支配

 スプラトリー諸島(南沙諸島)を構成している多くの島、岩礁、砂州は、中国、ベトナムの他に台湾、フィリピン、マレーシアの諸国も一部実効支配を行っています。また、ブルネイも実効支配はしていないものの、一部の島の領有を主張しています

2.軍事バランスが崩れた時を狙って抜け目なくつけ入ってくる;
 1991年のソ連邦崩壊後、米国とフィリピンの相互防衛条約が解消されると同時に米軍はクラーク空軍基地から撤収し、1992年にはスービック海軍基地からも撤収しました。その結果、この地域での米軍のプレゼンスは著しく低下しました。1995年に入って中国は、それまでフィリピンが実効支配していたミスチーフ礁(美済礁)に恒久的な建造物を作り実効支配を始めました
 2012年、中国とフィリピンが領有権を争っていたスカボロ―礁(フィリピンの排他的経済水域内にあり、スービック海軍基地があった頃米軍が射撃場にしていました)で中国漁民の違法操業を巡って両国の監視船が対峙する紛争が発生しました。2013年には、中国がここに軍事基地を建設し実効支配を固めています

 ボルネオ島の北西に位置するナトゥナ諸島は現在インドネシアが実効支配していますが、一部の島々が中国が領有を主張している“九段線”の内側に入っています。これまで南シナ海の領有権問題には中立の姿勢をとってきましたが、最近中国漁船の違法操業を巡って紛争が発生しており、今後中国の出方によっては両国の緊張が高まるものと思われます

3.領土問題に関しては、相手が大国であっても戦争をも辞さずに自国の主張を貫き通している;
 中国・インド国境紛争:1959年~現在
 中国・ソ連(ロシア)国境紛争:1956年~2005年
 中国・ベトナム国境紛争:1979年~現在

4.政治と国防が一体化し、長期的な戦略を着実に実行している;
 国民に対する歴史教育を国家主導で一元的に実施し、領土に関わる戦闘や主張、またこれに伴う莫大な国防費について国民のコンセンサスを得ている
 国民へのアナウンスとは別に、戦争を通じて得た苦い経験を軍の改革に生かしている(朝鮮戦争や中越戦争時の精神主義、白兵主義から装備の近代化への動き;中越戦争を通じての兵站戦略の重要性認識と、軍制の改革実施)
 周政権になってから海洋進出の意図を露わにしています(“一帯一路”戦略の“一路”の部分)が、この為には南シナ海、東シナ海の制空権、制海権を確立することが必要です。未だ道半ばですが、南シナ海各諸島での実効支配の拡大と軍事基地化、海軍力の増強(イージス艦、ミサイル装備の艦艇)、空軍力の増強(ステルス戦闘機、航空母艦)、即応体制の確立(防空識別圏の設定、拡大)、などはこの政策に沿った一連の施策と考えられます
 武器の供給を外国に頼ることは、戦争遂行能力に大きく影響することから、これからの戦争に必須となる武器については国産を目指しています(ステルス戦闘機、イージス艦、ミサイル装備の艦艇、航空母艦、など)
 近代戦は情報処理の技術が必須となること、また近代兵器の開発には膨大なノウハウが詰め込まれていることから、先進国からこれらの機密情報を入手するためにインターネットを使ったスパイ活動を強化しています
 強大となった経済力を政治的(→軍事的)に利用するために、発展途上国を中心に経済援助やインフラ整備支援を積極的に行っています。中国が主導したアジアインフラ投資銀行の設立もこの戦略に沿ったものと考えられます
 現在の中国は異民族統治の問題(チベット族、ウィグル族)、貧富の差の拡大、香港における一国二制度の綻び、など国内に大きな矛盾を抱えています。こうしたことはともすれば中央政府に対する不満となる可能性を孕んでおり、これを抑止する為の手段として国際的な紛争に国民の目を向けさせていると考えられます
 戦争により一気に解決できない領土問題に関しては、軍事上の実力の範囲で既成事実を積み上げていく戦略をとっています(南シナ海での実効支配拡大、東シナ海での天然ガス開発、漁船による領海侵犯、軍事プレゼンスの段階的拡大)

-尖閣諸島防衛の基本戦略-

如上を踏まえた上で尖閣諸島防衛の基本戦略を考えてみたいと思います;
1.尖閣諸島問題は南シナ海問題と同等に扱えない事情があります;
中国と紛争を起こしている南シナ海の諸国と違って、日本は中国との間で過去に15年戦争を戦い、多くの惨禍を与えてしまった事実があります。途方もない犠牲者数や人倫に悖る残虐な行為が、日本側の検証では多くが誇張されたものであったとしても、国際的にこれを認めさせる手段はありません。また中国国民にとって上記犠牲者数や残虐行為は事実そのものであって、領土問題で日中間に戦争が起きれば、中国国民の間に“熱狂”を引き起こすことは容易に想像し得ることだと思います。下記写真は瀋陽、長春を旅行した機会に訪れた戦争記念館です。日本兵の残虐行為などが数多く展示してあり、小学生と思われる団体が熱心に見学をしておりました;

満州事変記念館@瀋陽
満州事変記念館@瀋陽
DSC_0237
日中戦争博物館@長春

従って、仮に日米安保条約が解消された状態で、中国との全面戦争に入ったとすれば、中国が核兵器を使って日本の都市を攻撃することに道義的責任を感じる可能性は低いとも考えられます。日本にとって尖閣諸島帰属の問題で規模の大きい戦争を起こすことは絶対に避けなければならないと思います

2.日米安保条約の核の傘の下で、尖閣諸島の防衛を日米で行うことが明らかな場合、中国が核使用を含む全面戦争を行うことはあり得るか;
朝鮮戦争時に中国が“義勇軍”という形で参戦したこと、また中国・インド国境紛争、中国・ソ連国境紛争においては戦闘を国境付近に止めたこと、などで分かる様に、自国が核攻撃を受けるリスクを伴う全面戦争は行なわないと考えられます

3.中国が尖閣諸島のみの実効支配を狙って上陸し占拠することはあり得るか;
既に2010年9月に、尖閣諸島周辺の領海に中国漁船が侵入し、これを排除しようとした海上保安庁の巡視船に体当たりしたため、漁船を拿捕すると共に船長を逮捕した事件が発生しています。また2016年6月には中国公船(中国海警局所属)3隻が領海に侵入しています。西沙諸島、南沙諸島の例を見れば明らかな様に哨戒・警備のスキを作れば、今すぐにでも上陸、占拠はあり得る事態だと考えられます。

4.尖閣諸島の実効支配を続けるにはどういう戦略をとればいいのか;
(1) まず哨戒・警備のスキを作らないことが大切なことですが、これは現在最新型の巡視船の追加配備を始めており、これを尖閣諸島周辺に配備される中国公船(中国海警局所属)の数を凌駕するレベルにまで充実させることが必要だと思います
 この段階で、尖閣諸島への自衛隊の駐留や自衛隊艦船の派遣といった攻勢に出ることは、中国側の攻勢に根拠を与えることになり得るので、厳に慎むべきだと考えます。

(2) 巡視船の哨戒・警備のスキをつかれるか、あるいは巡視船の警備を実力で突破し、上陸、占拠が行われた場合、これを急速に(中国からの応援兵力が到着する前に)奪還することが必要です。またこの機会を捉え、自衛隊員の駐留継続など恒久的な措置を行なうことも選択肢の一つになると考えられます。こうした対応を可能とするには、下記の様な戦力を充実させることが必要と考えます;
 占拠された島嶼を急速に奪還するための兵力:強襲揚陸艦オスプレイ奪還用特殊作戦部隊
 奪還及び奪還後、実効支配を継続するに必要な制空権確保の為の兵力:ステルス戦闘機F35)、イージス艦ミサイル護衛艦早期警戒管制機
 奪還及び奪還後、実効支配を継続するに必要な制海権確保の為の兵力:潜水艦対潜哨戒機P1)、ミサイル護衛艦早期警戒管制機
* 日米安保条約で共同で作戦に当たることが、戦争を局地に限定する為の必須条件ですが、については米国に頼らず日本が単独で行う必要があります。
 中国の反撃を挫くためには、戦闘の初期段階で制空権、制海権を確保することが極めて重要ですが、これには中国よりも技術的にレベルの高いステルス戦闘機(当面F35、可能であればF22/米国製、又は日本独自開発のFSX/先進技術実証機)、潜水艦(日本製)の配備充実させることが必要であると思います。また、ミサイルの性能向上も重要なテーマであると考えられます。
 島嶼奪還、防衛に関わる日米合同訓練を積極的に行い、中国の実力行使を躊躇わせることも重要であると考えます

(3) 以下の外交的努力は、中国の実力行使を躊躇わせる効果があり、極めて重要なことと考えます;
 中国の攻勢に悩んでいる南シナ海に面する国々と経済協力、インフラ投資などを通じて友好関係を築くと同時に、制海権、制空権に関わる兵器の譲渡、輸出を行うこと。但し戦争に巻き込まれるリスクのある相互防衛条約は結ばない
 ロシアとの北方領土交渉を進展させ、経済協力関係を強化することによって、ロシアと中国の距離を遠ざけること
 上記以外の中央アジア諸国、欧州、アフリカ、中南米諸国との連携を強め、中国側攻勢によって発生した領土紛争に対して日本の応援団を増やすこと

以上

「五色の虹-満州建国大学・卒業生たちの戦後」を読んで

-はじめに-

長野県出身の親しい友人の一人から標記の本を紹介されました。私が満州生まれであることを承知していたためと思われます。恥ずかしながら“建国大学”について全く知識を持たなかった私としては、内容すべてが非常に新鮮でした。教科書では教えてくれない“隠れた満州史”を学ぶ良い書物だと思い私のブログで概要を紹介することにしました。

-著者、出版社、他-

著者/三浦英司略歴:1974年神奈川県生まれ。京都大学大学院卒業後朝日新聞入社、東京社会部・南三陸支局長、ヨハネスブルグ支局長、
本書で2015年・第13回開高健ノンフィクション賞受賞
出版社:集英社、

-満州建国大学とは-

<設立の経緯>
満州国建国の中心人物である石原莞爾が、1937年に満州国に以下の構想の大学設立を提唱(当初は“アジア大学”と称していた)した;
①建国精神の一つである“民族協和”を中心とすること、
②日本の既成の大学の真似をしないこと、
③各民族の学生が共に学び、食事をし、各民族語でケンカができるようにすること
④学生は満州国内だけでなく、広く中国本土、インド、東南アジアからも募集すること、
⑤思想を学び、批判し、克服すべき研究素材として、各地の先覚者、民族革命家を招聘すること

その後、石原莞爾の命を受けた辻政信が「建国大学」設立計画を推進した。1938年創立され、1945年終戦とともに消滅した。設立の目的は、満州国の国家運営を担わせる為のエリートの養成と“五族協和”を実現することにあった。

<学生について>
学生は、日本、中国、朝鮮、モンゴル、ロシアの五族から選抜。一学年150人の内、日本人学生の割合は50%以下に抑えた。学費免除、且つ給与(5/月)も支払われる為、日本、台湾、朝鮮、満州から貧富の差を問わず多くの優秀な人材が集まった。

<カリキュラム、学生生活、等>
6年間の学生生活は、二十数人単位の寮に振分けられ、生活のすべてが異民族と一緒の共同生活を行なわせた。公用語は日本語、中国語であるが、他に英語、仏語、独語、露語、モンゴル語も自由に選択できた。

カリキュラムは学問、勤労実習、軍事訓練を三つの柱としていたが、もっとも特徴的なことは、学内で完全な言論の自由が与えられていたことである(日本政府を公然と批判する自由を与え、学内の図書館では共産主義や中国革命家関連の書籍など日本で発禁になっている書籍も自由に閲覧できた)。毎晩寮内で「座談会」が開かれ、民族問題や政治問題についても自由に討論が行われていた(朝鮮人や中国人学生から日本政府に対する激しい非難が連日のように日本人学生に浴びせられ、日本人学生も政府が掲げる理想が如何に矛盾に満ちたものであるかを身をもって知ることができたという)。

<敗戦後>
1945年8月敗戦と同時に殆どの資料は焼却処分された。また学生の多くは戦後自国で迫害、弾圧された(韓国のみは例外:後述)。日本人学生はシベリア抑留の後、生存者は日本に引き上げたが、満州国が設立した最高学府の出身者という「侵略者」のイメージと、捕虜となって赤化教育を受けた「共産主義者」というレッテルに苛まれ満足な職に就くことができなかった人が多かった。

こうした中で苦労して建国大学同窓会名簿(1400人分)が作られ、同窓生達は国境を越えてコミュニケーションを図っていた。2010年6月東京で最後の同窓会が開かれ、120人が参加した。著者もこの会に陪席した。

満州国の地図
満州国の地図

-建国大学出身者についての実地調査-

<宮野泰>:建国大学六期生、新潟県新発田市で農業に従事
著者が最初に出会い、建国大学に関して長期にわたる取材をするきっかけになった人物。

<藤森孝一>:建国大学二期生、長野県諏訪市で1921年生誕、両親は農業
1938年建国大学応募、長野県で1万5千人人が応募し、合格者2人の内の1人。
1939年1月~1942年2月までの膨大な日記(A3/1500枚)を残している。
日記に記された印象的な文章
*「・・・日本の朝鮮に対する政策は間違っていたと思う。日本は英米等の植民地政策を真似ただけに過ぎない。すなわち日本の利益のために朝鮮を犠牲にしたのだ。・・・彼らは独立したいのだ・・・満州はこの真似をさせてはいけない。今のところは朝鮮と同じではないか。日支事変を“聖戦”だと言っているが、聖戦の意義がなくなってしまいはしないか
*「昼食後南湖へ魚釣を見に行く。帰りに満人の部落を通った。実に粗末な家。・・・百姓たちは畑を一生懸命耕していた。振り返ってみると、新京の立派な建物が青空にそびえている。・・・建大(建国大学)の敷地を通って帰る。藤田先生も言われた通り、コーリャンの粥をすすっている農民たちを追い払って建大を建てたのだ。考えさせられることがあまりに多い」

インタビューでの印象的な言葉
*“座談会”に関する話題で、「・・・我々はいつも中国人学生の厳しい批判に晒されるわけです。“日本は民族協和を掲げながら、一方で中国人民を殺している、民族協和も建国大学も侵略戦争をカモフラージュする単なる道具に過ぎないのではないか”とね。・・・」ある夜、崔という朝鮮人学生に“日本は朝鮮で何をやっているか知っているのか”と問い詰められました。殴り合いのようになり、その後しばらくして仲直りのような状態になったとき、私がふと、“お前はなんで建国大学にはいったのか”と聞いたのです。すると彼は“俺は建国大学には自由があると思ったんだ。朝鮮にいては息が詰まるからな”なんて言いながら泣き出したのです。・・・頭のいい連中ですからね。だからこそ私たちは真剣に悩んだんです。・・・5年間も一緒に生活していて、お互い何を考えているのかが分かるようになっていた。互いの痛みがわかるようになると、人間は大きく変わっていくのです・・・」

<先川祐次>:一期生、戦後西日本新聞、ワシントン支局長
インタビューでの印象的な言葉
*「新しい国造りに星雲の志を燃やす日本人学生」、「すべては日本の大陸進出を美化するまやかしだと反発する中国人学生」、「満州の国造りを成功させることが朝鮮独立への道につながると現実路線を敷く朝鮮人学生」、「少数民族が被支配の立場から脱却できると希望を燃やす台湾人学生やモンゴル人学生」、「共産革命を逃れて安住の地ができ、陽気にはしゃぐロシア人学生」は夜の自由時間は議論に明け暮れた

<百々和>:一期生、1956年に帰国。取材当時神戸の特別養護老人ホームにいた
終戦時点で中国山西省にいた為、強制的に国民党軍に組み入れられ、終戦後4年間、戦闘員として中国共産党と戦わされた山西省旧日本軍残留問題)後、共産軍の捕虜になった。捕虜生活は労働、スポーツ、文化活動であったが、その中で百々が演出した演劇が反革命的であるとして監獄に入れられた。監獄内では告白と反省、自己批判と仲間による相互批判が繰り返された。1956年9月帰国。帰国後38歳で神戸大学大学院に入学。経済学博士課程を卒業後、講師などを務め、53歳で神戸大学教授になる。
*山西省旧日本軍残留問題を扱った映画「蟻の兵隊」(監督;池谷薫)の一人としてスクリーンの中央に収まっている。

インタビューでの印象的な言葉
*日本に帰れるかどうか決める裁判(戦犯であるか否かの裁判)で、百々が一切の弁明や釈明を拒んだ理由を問われて、「・・・でも、それはかつての日本人であれば誰もが持ち合わせていた気質だったんだよ。民族として最も大事にしていた美徳の一つだったといえるかもしれない。あの頃の日本人にとっては“潔さ”は“美しさ”とそれほど変わらない意味だった。そして“美しく”あることは“生きる”ことよりも、遥かに尊い事だった。それらをより強く意識していたのが建大生だったのかもしれない。・・・」また、「・・・建国大学が学生に求めていたことは“時代のリーダー”たれということだった。それは“いざというときは責任を取る”ということだ。・・・それは易しいように見えて実は難しく、とても勇気のいる行為なんだ。何かあったときには必ず自ら責任を取ること。建大生はその点においては、徹底的にたたき込まれていた」

<森崎湊>:四期生、映画監督・森崎東の弟
入学3年目の1944年4月に建国大学を自主退学し、特攻隊を志願して三重海軍航空隊に入隊した。そして敗戦翌日の1945年8月16日夜、近くの砂浜で割腹自殺を図った。玉音放送が流れたとき、航空隊内にはあくまで決戦すべきという声が渦巻いていたが、森崎の自決により、航空隊内の決戦論は沈静化し解散復員が実施された

遺族が16歳~20歳の日記を刊行(題名:遺書)。この日記にある印象的な言葉
*「・・・一期、二期生の中で20余名の抗日学生が出た・・・中国人の自覚と矜持の強烈な者ほど、実は我々の同志たるべきものなのではないか。中国の同胞たちが日本軍の力の前にたたかれているのを彼らが見るとき、いかばかりの苦痛を感ずるであろうか。満州も中国もとりかえしたく思うだろう。尊敬する憂国の士は一意救国のため反満・抗日を叫んで血を流している。今まで日本が中国に対し何をおこなってきたかを彼らはよく知っている

<楊増志>:一期生、大連在住
インタビューでの印象的な言葉
*「入学3年目から中国人だけで“勉強会”を始めた。マルクス、レーニン、孫文(三民主義)、蒋介石(中国の命運)、毛沢東(新民主主義論)を仲間で読みまわした。その後、この活動を新京の各大学に広げてゆき、“東北抗戦機構”というネットワークを作り、メンバーの一部を北京、重慶(国民党軍)に送り情報を集めた。独軍のソ連侵攻に合わせ、三国同盟に基づき日本がソ連に侵攻する機会に蜂起する計画を立てたが、1941年12月に「治安維持法」で逮捕された」
*「憲兵隊から厳しい拷問を受けたが口を割らなかった。建国大学の日本人メンバーから差し入れがあり、心の底から日本を呪い、一方で彼らにもう一度会いたいと思った」
*「判決は無期懲役:2人(本人を含む)、懲役15年:1人、同13年:3人、同10年:9人であった」
*「終戦の翌日に釈放された。半年間“水攻め”されたことによる後遺症で療養した後、国民党が実施していた中国東北部の水田の管理の仕事についた。アメリカ政府からの資金援助を受け、満州に残留していた日本人技術者30人を使い、土地の改良や品種の選定を行った。そこでは日本人以外に朝鮮人や中国人を使っていたが、建国大学での経験で民族の特性(中国人は利で動く、朝鮮人は情で動く、日本人は義で動く)を知っていたので、彼らを使うことは難しくなかった。中でも日本人を使うことが一番簡単だった。彼らはポストさえ与えておけば忠実によく働いてくれた」
*「数年後、長春市の議員になった。1947年共産軍は、長春包囲戦(市全体を共産党軍が封鎖)により兵糧攻めを行った。150日間の間に30万人の市民が餓死(長春市の人口の三分の二)した。楊は3丁の銃を共産党軍に渡すことにより家族を含めて包囲の外に出ることができた」
ここまで話した所で電話が入り話は続けられなくなり(当局に監視されており、長春包囲戦について語り出したことが原因か)、インタビューは終わった

<ダニシャム・ウルジン>:三期生
父親(ウルジン)は満州国軍の著名なモンゴル人司令官(ウルジン将軍)、ロシア革命が起きた時には帝政ロシアの職業軍人、赤軍との戦いに敗れて中国北部に逃れた。その後満州国軍に入り、ノモンハン事件にも参戦
1945年8月9日の新京空襲で、教職員や日本人学生は応戦準備態勢、中国人学生は兵器廠に勤労奉仕に行く方針が決まったが、敗戦の報が伝わった後自由行動となった。その後はソ連兵と日本人の通訳の仕事に就いた(日本人が建設した施設・設備の接収の際に通訳が必要になった)。ソ連兵撤退後、一時中国政府の合作所の職員として事務作業に従事したが、共産党政権になってそれも奪われ。その後貧しい生活を続けたが、モンゴル国出身の妻のツテで現在居住しているウランバートルに来ることができた。

<金載珍>:五期生、建国大学の韓国人同窓会会長、大邱在住。慶北大学校で経済学を教えていた
唯一韓国だけは、独立後優れた頭脳を持つ建国大学の出身者たちを積極的に登用した1970年代、80年代には政府や軍、警察、大学、主要銀行などにおける主要ポストを建国大学出身者が握り、政財界にはサークルのようなものが結成されていた

<姜英勲>:三期生、昌城で生誕、農学校を中退して広島の高田中学に転入、その後建国大学入学。在学中、学徒出陣を選択、秋田県内の陸軍演習場で終戦を迎えた
インタビューでの印象的な言葉
*「*故郷の村は中国との国境付近にあるため、ソ連の主導による共産化が進行しており、貧農の若者には戦闘訓練が実施されていた。村の水力発電機がソ連兵によって村外に持ち出されることをきっかけに村の共産化に激しい抵抗を感ずるようになった。周囲から“反革命分子”と見做されるようになり、当局から出頭命令を受けたその夜、5人の友人を引き連れて漁船で38度線を越えた」
*「1946年4月ソウルに到着すると、韓国軍が幹部将校育成を目的に設立していた軍事英語学校(後の陸軍士官学校)に入学。建国大学の出身であり、その語学力や日本における軍隊の経験から、創設後間もない韓国軍の中で確実に出世の階段を上り、4年後には早くも陸軍本部の人事局長になった」
*「1950年6月、朝鮮戦争が始まると中部戦線の第二軍団参謀長となった。開始時の兵力は圧倒的に劣勢だったが、開戦2日後に国連決議で米軍の支援が確実になったため兵力の温存を図った。80日後、米軍の仁川上陸後は形勢が逆転した。中国の参戦で38度線で戦線が膠着し、1953年7月休戦に入った」
*「1961年、朴正熙少将(後の大統領)の軍事クーデターでは士官学校校長になっていたが、クーデター支持でソウル市内を正装で行進した生徒に向かって、“軍は政治に介入してはならない。軍は中立でなければならない”と戒めたところ、その言動が軍事政権下で“反革命分子”とされ4ヶ月投獄されるとともに、陸軍中将のまま退役に追い込まれた。その後亡命同然の状態でアメリカに渡り、大学の研究者として16年間の生活を送った」
*「1988年、士官学校校長時代の教え子であった盧泰愚大統領の下で首相に就任した」

*建国大学についての評価を著者に問われて、「満州国は日本がねつ造した傀儡国家である。日本人学生は、“いかに日本が満州をリードして五族協和を実現させるか”について熱くなっていた。中国人学生は、“満州はもともと中国なのに、なぜ日本が中心になって満州国を作るのか”という批判が常に先に立っていた。朝鮮人学生は、“最も純真な意味で五族協和を目指していた”。もともと満州には朝鮮民族がたくさん住んでいたし、かつては朝鮮民族の土地でもあったから・・・」
*終戦後北朝鮮に行き、韓国にスパイとして送り込まれた(上陸後すぐに逮捕された)三期生の“K”について聞かれて、「「私は何もしてやれなかった」

<李水清>:一期生、台北在住、「台湾の怪物」と呼ばれていた。
孤児で貧しく、正規の学歴が無い中で1万人以上の中から選ばれた3人の一人に入った秀才。多くの卒業生は、すべての能力で李に敵うものはいないと言っている。
建国大学卒業後、志願して満州辺境の青年訓練所に赴任した。赴任半年後に日本は敗戦、建国大学の同級生の家を訪ねつつ半年後に台湾にたどり着いた。
図らずも1947年の二・二八事件(大規模な反政府暴動;日本統治時代の知識人が多数殺害された)に連座し二年半の間監獄に繋がれた。その後事業に成功し、台湾を代表する一大製紙企業を築き上げた。

<戸泉如二>:四期生、通称ジョージ。1923年レニングラードにて生誕。日本人の父(西本願寺の僧侶⇒満鉄⇒建国大学教授)と母(ロシア人)との間の混血児。哈爾濱中学卒業、日本語・ロシア語・中国語を母国語と同じように操れた。
1943年学徒動員で出征、終戦時は中支・武昌の飛行隊所属。敗戦後は親を探して中国内を転々としている内に、1947年夏奉天付近で国府軍に逮捕されたが半年後に釈放。その後、上海を経由して、フィリピン、オーストラリア、イタリア、オランダ、スリナム(南米)と渡り歩き、最終的にそこで貿易と水産の事業で成功した。
スリナムで味の素のセールスマンに出会ったことで両親との連絡がつけられるようになった。2001年心筋梗塞で死去

<ゲオルグ・スミルノフ>:建国大学六期生、ハイラル(中国東北部)出身。ハイラル第三高等学校で日本語と英語を学んだ。
1945年6月新京郊外で勤労奉仕をしている時にソ連軍の空襲を経験し、すぐに大学を飛び出してハイラルに帰った。その後モンゴルの小さな部落のハケに移った。8月ハイラルの様子を見に行くと、彼の親友のロシア人同期生“A”はスパイという密告で家族共々射殺されていた
1954年中国からソ連に行く様通告を受け。国境で荷物は全て中国人官吏に没収され、ソ連に入ると北方の収容所(常時銃を持ったソ連兵の監視があった)に送られた。その収容所ではエストニアやラトビアの人もぼろ服をまとって生活していた。食料は全て配給制のわずかなパンと水であった。過酷な収容所生活の中で、ロシア人の建国大学の先輩に出会い、週に一度程度は会って大学時代の楽しいことを話す機会を持ったが、彼も急に居なくなった。10年ほど収容所生活を送った後、優秀な建築技術者であった弟の尽力でアルマトイに戻ることができた。但し共産党への入党が条件であった。その後キリスト協会の経理担当者としての仕事を得、2003年にこの教会でのパーティーで日本人大使と話す機会があり、これをきっかけに日本の同級生との連絡がつくようになった。

著者は、満州国に関わる日本を代表する研究者である「京都大学人文科学研究所教授の山室信一氏」とのインタビューも行っているが、満州国、及び建国大学についての見解を求めたところ、以下の様に答えている;
1895年以降、日本は台湾を領有し、朝鮮を併合し、満州などを支配した。これらが一体となって構成されていたのが近代日本の姿だったのに、日本列島だけの“日本列島史”に執着するあまり、植民地に対する反省や総括をこれまで十分にしてこなかった。日本人の植民地認識は近代日本認識におけるある種の忘れ物なんです。そして、そんな日本という特殊な国の歴史の中で、台湾、朝鮮、満州という問題が極度に集約されていたのが建国大学という教育機関だったというのが私の認識であり、位置づけでもあります。政府が掲げる矛盾に満ちた“五族協和”を強引に実践する過程において、当時の日本人学生たちは初めて自分たちがやっていることのおかしさに気づくんです。そういうことを気づける空間は当時の日本にはほとんどなかったし、だからそれを満州で“実践”できていた意味は、当時としては我々が考える以上に大きいことであった。・・・私は満州国を研究していて強く思うのは、そこには善意でやっていた人が実に多かったということなのです。それがどうして歴史の中で曲がっていくのだろうか、その失敗を私たちは歴史の中から学び直さなければならない。・・・石原莞爾についても・・・やはり悩みながら、そして失敗していった人だと思います。・・・日本が過去の歴史を正しく把握することができなかった理由の一つに、多くの当事者たちがこれまで公の場で思うように発言できなかったという事実があります。終戦直後から1980年代にかけて、満州における加害的な事実が洪水のように報道されたことにより、建大生を含めたかつての当事者たちが沈黙せざるを得ない状況に追い込まれてしまった。・・・」

-私の読後感-

私を含めて1945年8月15日以前に台湾、朝鮮、満州で生まれた者は全て戸籍謄本にその痕跡が残っています。また若い頃、外国旅行をした時に入国審査書類の“Birth Place”を記入する時に困った記憶のある人も多いと思います。まぼろしに終わった満州国、教科書では何も学べない“自分の生まれた国”についての知識。この書は、老い先短い私にも、まだまだ勉強しなければならないことが沢山ある事を教えてくれました。

以上

「麻山事件」を読んで

-著者(中村雪子氏)紹介-

1923年長野県に生まれる。長野県立岡谷高等女学校卒業。1939年渡満、1946年引揚。1959年より名古屋女性史研究会、1979年より東海近代史研究会所属。「麻山事件」に関しては13年の歳月をかけて生存者から聞き取りを行い、1983年にこの本を上梓した。

-麻山(マサン)事件とは-

1945年8月9日、突如ソ満国境を越えて侵入してきたソ連軍に追われ逃避行途上にあった「哈達河(ハタホ)開拓団」の一団が8月12日麻山付近でソ連軍の包囲攻撃を受け、婦女子四百数十名が自決した事件。この時介錯は十数名の男子団員により小銃を用いて行われた。介錯を行った男子団員は、その後ソ連軍陣地に切り込みを行ったが圧倒的なソ連軍の前で目的を果たさず、一部団員が生きて日本に帰ることになった事件。

-はじめに-

私たち家族は満州からの引揚者です。幼い頃、中国残留孤児帰国の報道を見ながら母が涙を流していた事を今でも思い出します。私たち家族は終戦時奉天(現在の瀋陽)に住んで居た為、凡そ一年後に家族一緒に引揚げることができました(詳しくは当ブログの“生い立ちの記”参照)。しかし、満州北部に住んでいた(主に「満蒙開拓団」)の人達は、8月9日のソ連軍の侵攻と8月15日のポツダム宣言受諾との間の時間のズレから我々以上の苦難を味わった事は両親からそれとなく聞いていました。歴史を辿る勉強を続けている内に、最近本書に出会い、読み進む内に“母の涙”の本当の理由が分かってきました。終戦時、在外邦人は凡そ650万人(武装解除されたた軍人も含む)居たと言われますが、私の親も含め戦中・戦後の多くの悲惨な体験は語られないことが多いといいます。恐らく外地に居た人々が、結果として国策に協力していたことへの罪悪感や、引き上げ後内地の人々から受けた心無い言葉、あるいは人倫に悖る余りにも悲惨な体験、などが語ることを躊躇わせたからかも知れません。もうすぐ戦争を体験してきた人々が全て鬼籍に入ってしまう今、奇しくも「憲法改正」や「集団的自衛権」の議論が盛んに行われています。読むことがどんなに辛くても、こうした悲惨な歴史的な事実も正しく知っておく必要があると思います。

-満蒙開拓団について-

1929年、ニューヨーク株式市場の大暴落に端を発した世界恐慌により日本にも深刻な不況が襲い大量に都市労働者が失業しました。またその後2年間、北部日本を襲った冷害ににより農民の極度の窮乏が進みました(年若い農家の娘が売春窟に売られるなど)。こうした厳しい社会情勢を背景にして、国際的な反発を顧みず1932年に満州国が建国されました。建国とともに、加藤完治らの提唱する満州移民(満蒙開拓団)が脚光を浴びて登場してきました。同じ年の10月には、在郷軍人を中心として編成された武装移民団433名が満州に入植しました。

1936年には関東軍主催の第二回移民会議によって「満州農業移民百万戸移住計画(20年間に百万戸、一戸当たり5人として五百万人を入植させるという途方もない計画)」が決議され、広田内閣によって重要国策として決定されました。関東軍が主導したことで分かる様に、五百万人の日本人の移住(満州国人口の1割)によって、国防上の生命線を守るという強い軍事目的がこの計画の裏にはありました。これだけの大規模な移民を実現するためには、それまでの希望者ベースの開拓民募集という方法から、町村単位で一定戸数を集め、満州にその分村を建設させるという「分村移民」が原則となりました。また、不要、不急産業の転・廃業による「職業開拓民」や、高等小学校卒業生を郡、府県単位にまとめた「郷土部隊」、の様な仕組みも取り入れられました。因みに私の両親の出身地である長野県が最も多く開拓民となって満州に移住しました。開拓団が移住した場所は以下の地図(本の見開きページ)をご覧ください;

開拓団の入植地区とソ連侵攻後の避難経路
開拓団の入植地区とソ連侵攻後の避難経路

こうして入植した「満蒙開拓団」は、日本とは全く異なる気候や土壌に悩まされながらも、土着農民の農具を取り入れたり、様々な工夫を行うことにより一定程度の農業生産性を上げるようになっていきました。また、これだけの大規模な移民では土着農民の農地を侵食することも発生し、当初は軋轢が起こったものの土地買い取り制度の導入などによって一応の住み分けは出来るようになっていきました。一戸当たりの農地面積が非常に広かった(10~20町歩)ことから小作制度(小作人:満州人、朝鮮人)も取り入れられました。

-哈達河(ハタホ)開拓団-

麻山事件を起こした開拓団は1935年以降、以下の地図にある様に、満州北東部の虎林線(林口と虎頭を結ぶ鉄道)の真ん中あたりににある東海駅近くに展開していました。

虎林線沿線図
虎林線・沿線図

また、この開拓団部落の見取り図は以下の通りです;

哈達河開拓団部落
哈達河開拓団部落

入植2年後の1937年における哈達河開拓団の概要は以下の通りです;
所在地:満州国東安省鶏寧県
在籍者:178名(出身都道府県/岩手、宮城、福島、新潟、長野、山梨、栃木、埼玉、茨城、東京、千葉、神奈川、静岡、徳島、高知、香川、佐賀、長崎、熊本、宮崎、大分、鹿児島;尚、逃避行を始める1945年8月には少なくとも1300人以上に膨れ上がっていたと思われる)
団長:貝沼洋二(麻山にて自決。東京出身、北海道大学卒、開拓団経営を学び哈達河開拓団結成時から団長。公平無私、古武士の様な風格を持っていた)
幹部:農事指導員、警備指導員、畜産指導員、保険指導員
その他麻山事件に関わる特記すべき構成員;
1.笛田道雄:生還し麻山事件の詳細を証言した。1935年、哈達河開拓団の先遣隊として渡満。北海道八雲出身
2.遠藤久義:生還し麻山事件の詳細を証言した。長野県小県郡浦里村(現在の上田市)出身
3.福地靖:保険指導員(医師)。逃避行中に行方不明。麻山事件発生時、後続部隊におり部隊員に逃避行を勧めた。

-ソ連軍侵攻前の状況-

1943年西太平洋から始まった米軍の反攻により日本が徐々に敗戦に向かっている情報は、戦災の及ばなかった満州にも確実に伝わっていました。特に新聞などを通じて英雄的に語られている“玉砕”などの情報(アッツ島玉砕/1943年5月、サイパン島玉砕戦/1944年6月、硫黄島玉砕/1945年2月、沖縄戦/1945年3月~6月)や、帝国軍人必携の「戦陣訓」にある、“生きて虜囚の辱めを受けるな”の一節は、開拓団の婦女子に至るまで周知のことであったと思われる。一方この様な厳しい戦況にあっても一般の在満邦人は、精強な関東軍がおり、日ソ不可侵条約で守られている満州には当面戦火は及ばないと考えていました。

しかし実際は、南方の戦線に兵力を割愛してきた関東軍は兵員数、装備共に相当弱体化しておりました。また日ソ不可侵条約についても日本のあずかりしらぬヤルタ協定(1945年2月)により日本への参戦を約束していたソ連は、条約の延長交渉(1946年4月に期限を迎える)に応じていませんでした。1946年5月のドイツ降伏前後からソ満国境に膨大な兵力を移動させている情報は関東軍もキャッチしており、ソ連軍との戦争が時間の問題であったことは軍関係者にとっては周知の事実だったようです。因みに、関東軍は1945年に入ったころからソ連軍の侵攻に備えて「一部兵力による北満での玉砕的敢闘」を前提に、主力は後退して「新京(長春)-図們-大連」を結ぶ三角地帯(最初の図面で黄色の線で囲った部分)」の山岳部で長期持久戦を行うという作戦計画を秘かに立て、既に北満からの兵力撤退を開始していました。7月に入るとこの計画に沿って全満州から大半の男性を招集(所謂「根こそぎ動員」)しました。この結果開拓団の男性は殆ど招集され、開拓部落に残ったのは婦女子と体力の無い男性のみとなっていました。すなわちソ連軍侵攻の開始前から、開拓団の人々はいわば“棄民”になっていたと言えると思います。これは軍人と行動を共にしたことによる悲劇であったサイパンや沖縄とは事情が異なるということができます。

-ソ連軍の侵攻と開拓団の逃避行-

1945年8月9日午前零時、ソ連軍は圧倒的な兵力(兵員:約160万人、火砲、等:2万6千、戦車・自走車:5千5百両、航空機:約3千4百機)を投入して6方面から満州に侵攻を開始しました。既に関東軍の防空体制が皆無となっていた為、侵攻と同時に航空機による都市爆撃(新京/長春)、鉄道沿線の機銃による波状攻撃が始まっていました。その為県から鶏寧への引揚命令が出ましたが、逃避行に力を貸すはずの鉄道は、国境の東安方面に向かう路線が関東軍の命令により平陽駅で止められ(虎林線・沿線図参照)、哈達河開拓団部落の人は利用できませんでした。しかも、殆どの開拓団家族には男手がなく、また多くの乳幼児(5人程度は普通)を抱え、徒歩以外の移動手段は馬車のみという想像を絶する逃避行が始まりました

鉄道沿線に沿って逃避行を続ける開拓団家族に対して、航空機による容赦ない機銃掃射があり、この段階で多くの人が命を落としました。やっと辿り着いた鶏寧の街も多くの建物は爆撃により燃え盛っていました。8月11日午後から豪雨が続き、逃避する道路は満州名物の“泥濘”となり、頼みの綱の馬車は使い物にならなくなりました。また北満の夜の雨は8月であっても骨身に染みるほどで、馬車を失った家族は雨除けの衣類とてない状況となり体力の無い乳飲み子から先に命を落としてゆき、遺体は路傍に置いていかざるを得ませんでした。この頃、撤退する関東軍が逃避行を続ける開拓団を追い越してゆき、逃避する開拓団が最後尾になる状況が現出していました。

8月12日の午後、麻山付近で前方に強力な火力を持ったソ連軍が出現、後方からも機械化部隊が接近しており、正に挟み撃ちの状況になってしまいました。ここで関東軍から「・・・開拓団の男子は速やかに前進し軍に協力すること。・・・婦女子は直ちに退避せよ」との指示がありました。この時、逃避行を続けている哈達河開拓団は三つの集団に分かれており、先頭集団には遠藤久義など6~7名の男子と60~70名の婦女子が加わっていました。中央集団には貝沼洋二団長の他婦女子中心の400名余がおり、「麻山谷」と呼ばれる600坪ほどの窪地に退避していました。そこから1キロメートル程後方の高粱畑に笛田道雄福地靖のいる後尾集団がいました。

-麻山事件-

先頭集団は、周辺の山に布陣したソ連軍から突然猛烈な銃・砲撃を受けました。トウモロコシ畑には逃げ惑う婦女子の悲痛な叫びと断末魔のうめき声が満ち溢れ、この中で多くの死傷者が発生しました。最後の時を迎えたことを悟った男子団員が、生き残っている婦女子の「処置(苦しまない様に殺害すること)」を行った後、遠藤久義ほか1名は、戦場から脱出し、麻山谷の貝沼洋二団長に婦女子全員自決の報告を行いました。

この時点で、前方に展開していた関東軍はソ連軍との戦闘に負けて牡丹江に向けて撤退を始めていました(後方の敵からの攻撃を避けるため、麻山付近で山中に入る)。貝沼洋二団長は、後退してくる関東軍に対して、「せめて一個小隊の兵でもよい、安全地帯まで護衛をつけてもらえないだろうか」と懇願したが、拒絶されてしまいました。

こうした状況から、中央集団貝沼洋二団長は、全員まとまってこの危機を脱することは不可能と判断し、一緒にいた開拓団員全員に向かって二つの対処案を提示しました;
1.バラバラになって脱出する
2.生きるも死ぬも最後まで行動を共にする
嗚咽と慟哭が津波の様に広がるなか、まず女性の方から「私たちを殺してください」、男性たちから「自決だ」、「日本人らしく死のう」、「沖縄の例にならえ」、「死んで護国の鬼となるんだ」の言葉が発せられました。団員たちはそれまで肌身離さず携行していた写真などを燃やし、子供たちには晴れ着を着せ、大人たちは新しい下着に着替え、白鉢巻、白襷をしめ、同じ部落の者同士が円陣を組んで水盃を交わしました。貝沼洋二団長は男性団員による斬込み隊に後事を託し、最初全員の前でピストルで自決を遂げました。残りの婦女子も後を追い銃による覚悟の自決(銃を携行している男子団員による“処置”)を遂げました(但し3日後に7歳~10歳の子供7人は現地の人に助け出され生還しました)。

後尾集団では前方から聞こえる銃・砲撃の音などで異変を察知し偵察を行ったところ、中央集団の貝沼洋二団長と婦女子全員自決の事実を知ることとなりました。男性隊員たちは、「サイパンにならえ、沖縄に続くんだ、、」と絶望的な興奮に陥り、女性たちも自決を心に言い聞かせていた時、一人沈黙を保っていた福地医師が立ち上がり以下の様に語りだしました;
我々は既に敵の手中に落ちた。斬り込むもよいし、自決もよいが、勝つ見通しの無い戦いをするのが果してこの際とるべき最良の道であろうか。我々は哈達崗の大地で林口防衛の任務を命ぜられている。死中にだって活路はある筈だ。生きてことの仔細を中央に連絡すべき義務もある。生き抜く努力をすべきではないのか」、また地図と磁石を取り出し、「この裏手の山々の尾根を西に伝って行くと林口の裏手に出る、、、」、福地医師のこの言葉に男たちは、「だが、この大勢の婦女子が、この山中の行軍に従い歩くことができるかどうか。足手まといにならないかどうか」と発言した。これに対し女性たちから、「私たちを連れて行って下さい。決して男の人たちの足手まといにはなりません」。こうして後尾集団の大半が山中の行軍を選択しました。

一方、同じ後尾集団に居た笛田道夫が所属する武蔵野部落の一団は、中央集団自決の報に接し女性たちの方から、「私たちはここまで連れてきてもらっただけで充分です」。「笛田さんは心おきなく林口防衛の任務についてください」、「ご縁があればまたあの世で会いましょう」、「ありがとうございました」、「元気で頑張ってください」と言って山中の行軍を選択せず自決(24名)の道を選びました。

後尾集団で山中の行軍を選んだ150名~155名は、8月15日の終戦も知らないままに40日にわたって山中を彷徨しました。この行軍は悲惨を極め、引揚者として祖国の土を踏むことが出来た人は20名~25名、中国に残留し中国人と結婚、乃至養子となったものが約10名。福地靖医師は山中に入って4日目に行方不明となっていました。行軍を選択した人達は、長い行軍の途中でソ連軍の機銃掃射、飢え、愛する者の無残な死(あるいは“処置”)、やむにやまれず遺体から衣服、靴を剥ぎ取り着用するなど地獄の体験をすることとなり、からくも生き残った人達にも終生消えない心の傷を残すこととなりました。また山中彷徨の際、関東軍(撤退と称していたものの実際は統制を失った敗残兵)と出会う機会もありましたが、彼らの庇護を受けることは一切ありませんでした。

-その後、、、-

8月15日以降もソ連軍占領地域では、略奪、暴行、凌辱、が相次ぎ、この中で殺害されたり、自決する人が数多く出ました。
一方中国軍占領地域では、終戦直前の8月14日、蒋介石の以下の命令(重慶からのラジオ放送)が軍当局や各地の治安維持会の日本人に対する態度に大きな影響を与えました;
「暴を以て暴に報ゆるなかれ。我々は日本軍閥を敵とするが日本人民は決して敵と認めない

10月中旬~引揚が始まる翌年5月までの厳冬の期間で病没した人は13万人を数え、終戦以降全満州での病没者数17万人の実に76%に及びました。

生き残った遠藤久義は引揚前に麻山の地を訪れ、自身が“処置”を行った人の遺骨を収集し日本に持ち帰りました。

応召中の弟(シベリア抑留中に病没)の妻子6名を麻山で失ったことを知った薮崎順太郎は、1949年「参議院・在外同胞引揚委員会」に実情調査を提訴しました。この提訴内容を毎日新聞が以下の様な記事にしました;
「・・・牡丹江に向け徹夜で行軍、12日頃麻山に達したとき満州治安軍の反乱部隊が襲来、前方にソ連戦車隊があり進退きわまる状況になった団長貝沼洋二氏(東京出身)は最悪の事態に陥ったと推定し団員の壮年男子十数名と協議し“婦女子を敵の手で辱められるより自決せよ”と同日午後四時半ごろから数時間にわたって男子数十名が銃剣をもって女子供を突き殺した”。これら壮年男子はその過半が新京、ハルビンへ逃れあるいはシベリアで収容されて帰還している」

-私の読後感

戦争での死や苦しみは、それを体験した者にしかその真実は語れないことを痛感しました。13年間に亘って生き残った人達から証言を集め本書に纏めた著者に対して敬意を払いたいと思います。一方、終戦まで軍の追従記事を書いていた新聞が、一転して戦争中に起きた常識では考えられない色々な出来事(自決、婦女子の“処置”、特攻隊、虐殺事件、、)に、短絡的に加害者を当て嵌めて行くことは、正しい歴史観に基づいているとは思えません。

この事件を振り返ってみると、悲劇的な結末を生んだ背景には以下の様な状況があったと考えられます;
*軍の最大の使命が国民の生命の保護にある事を忘れていた事
*「戦陣訓」の一節:“生きて虜囚の辱めをうけるな”が国民一般にも徹底されていた事
*「アッツ島玉砕」、「サイパン島玉砕」、「硫黄島玉砕」、「沖縄戦の悲劇」、「特攻隊」、、等を報道機関は英雄的に伝えていたこと

振り返って現在にこの教訓が生かされているかどうか、きちんと検証することがこの事件で亡くなった多くの方への供養になると思いました。

以上

憲法についての私の見解

-先の戦争に関わる私の歴史観-

 我々の世代は、先の戦争で悲惨な体験をしてきた両親や、小・中学校の先生から徹底的な平和教育を受けてきました。その中心的な役割を担ってきたのが所謂日本の平和憲法です。また我々の世代の多感期にあっては、世界情勢が激変し小・中学校時代に受けてきたこうした平和教育と現実政治とのギャップに日々悩んできたことがあります。従って我々は他の世代の人々に対して、現行憲法についての歴史や問題点を論じ、発信する資格があると思っています。

満州事変から太平洋戦争に至る歴史をつぶさに学ぶにつれて、「軍国主義」がこの戦争の唯一の原因であり、この軍国主義を永久に葬るために「平和憲法」があるという考えは余りに単純な考えであることが分かってきました。軍民合わせて310万人もの死者を出した先の戦争の責任は、軍部や軍国主義者だけでなく、被害者であるはずの国民一人一人にもその責任があると考える方が自然です。先の戦争の当事者であった国々(連合国だけでなく、枢軸国も)は、まがりなりにも民主的な体制を整えており、戦争を始める前には国民の大多数が開戦を支持していたことは歴史的な事実です。民主主義のリーダーを標榜する米国ですら9.11同時多発テロ以降アフガニスタン、イラクとの泥沼の戦争に突き進んでいった時も、始める時点では国民の大多数の支持が得られていました。ある人はマスコミが悪いと言いますが、マスコミの論調に同調してしまうということは、とりもなおさず自身の判断力が劣っていたということを告白している様なものです。客観的な情報を集める努力を惜しまず、これらを基に自身の責任で判断していくことが民主国家の国民として求められていることだと私は考えます。

昨今、最も沸騰した議論が行われた政治的課題は「新安保法制」だと思います。この議論の中で一部の党派が、新安保法制は「戦争法案」だというスローガンで大衆を扇動しておりましたが、政治手法としては先の戦争で行われていた政治的プロパガンダと同質であるだけでなく、日本人が陥りやすい短絡的な思考を助長するという意味で大変危険に感じました。また、憲法学者を集めて意見を聞いた結果、「新安保法制」は憲法違反であるという意見が多かったことで、マスコミがキャンペーンを張り国会周辺が騒がしくなったのは、2.26事件以降の戦前・戦中のマスコミの姿勢とこれに踊らされて好戦的となった一般大衆を彷彿とさせ大変危険に感じました。

-現行憲法を素直に読むと-

 そもそも憲法の様な最も基本的な法律が、学者の解釈を必要とするほど難しくていいのでしょうか。ましてや、憲法条文の解釈を学者や政治家に委ねていて民主国家の国民といえるのでしょうか。我々一人一人が自身で憲法を読み、もっとシンプルに理解する必要があると思います。以下は現行憲法についての私の見解です;

憲法前文には以下の様な国際関係に関わる認識が書かれています;

「・・・日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。 ・・・」

また憲法9条には以下の様に「戦争の放棄」と「戦力の不保持、交戦権の放棄」が明確に書かれています;

「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久に放棄する

第2項;

「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない国の交戦権は、これを認めない

この条文を見て現在の陸・海・空の自衛隊が合憲と言えるでしょうか。私はこの条文を改正しない限り自衛隊の存在そのものが違憲であると思います

現行憲法は、GHQ支配下のもと所謂「マッカーサー草案」をベースに日本側の専門家と検討を重ねたうえで、1946年11月に公布され、翌年5月3日に施行されました。この時点では、交戦国である連合国軍、及び戦争によって過酷な被害を被った東南アジアの国々にとって、直接憎しみの対象となる日本軍を“永久に”葬ることが、この条文の目的であったことは間違いないと思います。また、1945年10月24日に誕生した「国際連合」による集団的安全保障により戦力を持たない国の正義は守られるという期待があったものとも考えられます。

国連憲章第51条には「集団的安全保障」について以下の様に規定されています;

「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。・・・」

(注)日本は1952年に国連加盟を申請したものの、冷戦下にあってソ連を中心とする社会主義国の反対にあい加盟できなかった。加盟できたのは1956年日ソ国交回復の後であった。

新憲法に関わる国会討論の場で、1946年6月26日に当時の吉田茂首相は;

「戦争放棄に関する本案の規定は、直接に自衛権を否定はして居りませんが、第9条第2項に於いて一切の軍備と交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、又交戦権も放棄したものであります」

と、明確に述べています。

-冷戦下に於ける「自衛権」の拡大解釈への道-

しかし国際情勢が激変する中で、吉田茂首相は1950年1月28日の国会答弁で;

「いやしくも国が独立を回復する以上は、自衛権の存在することは明らかであって、その自衛権が、ただ武力によらざる自衛権を日本は持つということは、これは明瞭であります(原文のママ)」

と述べており、自衛権に関わるニュアンスの違いが表れています。

終戦後1950年までの5年間に日本を取り巻く国際情勢が大きく変わりました。ドイツの分割統治に代表されるようにソ連邦を盟主とする社会主義諸国とアメリカを盟主とする自由主義諸国との間に「冷戦」が始まり、アジアでは大戦後の秩序を変える為の戦争が始まっていました。

因みに、中国本土では1946年6月、毛沢東に指導された中国共産党軍と蒋介石に率いられた国民党軍との間に内戦が再発し1949年には国民党軍を台湾に追いやり中華人民共和国が成立しました(同年10月1日)、

またベトナムでは日本の降伏後フランスの植民地に戻ったものの、すぐにホーチミンに指導された共産軍(ベトミン)が独立戦争を始め、1954年5月ディエンビエンフーの戦いでフランスには勝利したものの、米軍が支援する南ベトナムとの間で1970年まで続く長い戦争が始まっておりました。

一方朝鮮半島では1950年6月に金日成に指導された北朝鮮軍が突然38度線を突破し、破竹の勢いで韓国軍を圧倒して釜山に迫る状況になりましたが、その年の9月米軍を中心とする国連軍が仁川上陸作戦を決行し体勢を逆転させました。しかし北朝鮮軍が劣勢に落ち入ると、成立したばかりの中華人民共和国軍(義勇軍と称していた)が突如参戦し、戦局は38度線を境に膠着状態になりました。1953年7月休戦協定が成立したものの現在に至るまで緊張状態が続いています。

こうした緊迫したアジア情勢の中で、GHQの命令で新憲法の「戦力の不保持」の概念に抵触する可能性のある「警察予備隊」を設立(1950年8月)し、更にこれを明らかに武装組織と見做しうる「保安隊」に改変しました(1952年10月)。これらの隊員には旧日本軍の将兵が多く雇用されていました。

【日本の主権回復】

1951年9月サンフランシスコに於いて連合国との間に平和条約の調印が行われ、翌年4月に発効し日本の主権は回復しました。しかし冷戦の影響でソ連を中心とする社会主義の諸国はこの条約に署名をしていません。また、米国との間には平和条約調印と同時に二国間で「日米安全保障条約(以下“安保条約”)」が締結され、米国が日本の防衛の責任を負うことと、米軍の日本駐留を認めることが決められました。

一般にはあまり知られていないことですが、1954年3月には「日米相互防衛援助条約」が締結され、日本は自国の防衛力を強化していく義務が課せられました。これに伴い、同年6月「保安隊」は陸・海・空の「自衛隊」に改組されることになりました。

憲法を改正することなく実質的に軍隊と変わらない「自衛隊」を保持することは、当然国会での議論を呼び、1954年12月22日衆議院予算委員会で大村精一防衛庁長官が概略以下の様な趣旨の発言をしています;

* 憲法は自衛権を否定していない

* 憲法は戦争を放棄しているが、自衛の為の“抗争”は放棄していない

* 「戦争、武力による威嚇、武力の行使」を放棄しているのは「国際紛争を解決する手段としてはということ。他国から武力攻撃があった場合、武力攻撃そのものを阻止することは、自己防衛そのものであって、国際紛争を解決することとは本質的に異なる。従って自国に対して武力攻撃が加えられた場合、国土を防衛する手段として武力を行使することは憲法に違反しない

しかし、「国際紛争を解決する為」以外の目的で「他国からの武力攻撃」を受けることは常識的にあり得るでしょうか。これはどう考えても私には詭弁としか思えません。

砂川事件

1957年7月立川基地内に基地拡張反対派が立ち入ったとして、安保条約に基づく刑事特別法違反の疑いで7人が逮捕されました。被告人は安保条約そのものが憲法違反であるとして無罪を主張、一審の東京地裁では被告人の主張を認め全員無罪の判決を下しています。しかし1959年12月、最高裁では以下の判断のもと地裁判決を破棄し、差し戻しました(差し戻し審判決:罰金2千円);

* 憲法9条は安保条約を禁ずるものではない

* 裁判所が条約について「違憲審査権」を行使するのは明白に違憲であるものに限る

* 米軍の駐留は、憲法前文、第9条、第98条第2項(条約の遵守義務)に適合する

この最高裁判決では、自衛隊の存在が合憲か違憲かの判断はしていません。また、安保条約に基づく集団的安全保障は合憲であるという判断を行っています

-国内於ける保革の対立-

アジア諸国の自由主義と社会主義の対立の構図は、国内の「保守」対「革新」の対立にも色濃く反映していました。保守陣営による安保条約体制維持に対する革新陣営による安保条約破棄闘争と反戦運動は、正にこの構図そのものでした。

60年安保闘争

1959年~60年、安保条約に反対する労働者、学生、市民が参加して大規模な反対運動が起こりました。30万人以上が国会を囲み、激しいデモと警官隊との衝突により学生1名の死者(樺美智子さん)を出しました。私の中学時代の出来事ですが、この時の記憶は鮮烈です。しかし新しい安保条約は国会で批准され、岸首相は安保条約の成立を機会に辞任致しました。

この安保闘争では、1955年7月の日本共産党第6回全国協議会(通称“六全協‘)で暴力革命を放棄した共産党から分かれ、1958年に結成された共産主義者同盟(通称“ブント”)のメンバーが全学連を牽引し激しい闘争を繰り広げましたが、安保闘争が終息すると多数の党派に分裂し、この後の過激な学生運動に引き継がれてゆきます。

60年安保闘争
60年安保闘争

ベトナム反戦運動

1965年2月に始まった米軍の“北爆”を契機として、60年安保闘争に参加した知識人(小田実、鶴見俊介、他)を中心メンバーとして組織された無党派の反戦運動です。“ベトナムに平和を! 市民連合(ベ平連)”と称するこのムーブメントは、反戦を旗印に国内外で活発な運動を繰り広げましたが、1973年のパリ和平協定締結に続く米軍のベトナム撤退(1974年)を受け解散しました。

ベ平連のデモ
ベ平連のデモ

70年安保闘争

1960年に締結された新安保条約は期限が10年で、1年前の通告で一方的に破棄できると定めてあり、70年安保闘争とは締結後10年を迎える1970年に安保条約を破棄通告させようした闘争でした。この闘争は大学改革を目指した学生運動(全学連)と結合し、大学封鎖等の戦術が全国の大学に広がってゆきましたが、労働者、市民のレベルには共感が広がらず、70年の期限が迫るにつれ、60年安保後に生まれた“ブント”系の過激な党派(核マル派、中核派、赤軍派、等)に次第にイニシアティブを握られるようになり、条約破棄の通知期限である1970年を過ぎてこの闘争は目標を失い自動消滅致しました。この前後から、より過激になった“ブント”系党派間の争い(内ゲバ)は多くの死者を出す程の激しさとなりました。特に核マル派と中核派の間に起った凄惨な内ゲバはその後も長く続き、その血なまぐさい暴力は一般の人には耐え難いものでした。また赤軍派は1970年の「よど号ハイジャック事件」、1972年2月の「浅間山荘事件」、1972年5月の「テルアビブ空港乱射事件」、1973年の「ドバイ日航機ハイジャック事件」等の一連の大事件を引き起こし、大衆運動からは完全に遊離して行きました。マスコミにも大きく取り上げられたこれらの過激な活動が、結果として終戦後ずっと続いてきた先駆的な学生運動の系譜も完全に断ち切られてしまうことになりました。その後現在に至るまで続く政治に無関心な若者群は、この時代の過激な学生運動の挫折の結果かもしれません。

70年安保闘争_安田講堂の攻防
70年安保闘争_安田講堂の攻防

結局これらの闘争や反戦運動は自民党政権の打倒社会主義的な体制への変革を目指した活動が主になり、結果として自衛隊の違憲性については殆ど語られないままに終りました。

70年安保以降、日本は驚異的な経済発展が続き経済大国になると共に、大きな異論もないままに日本の防衛力は世界の五指に入るまで強化され、平和憲法の精神とは裏腹な強い“軍事力”を持つにいたりました。

-国際情勢の変化に伴う自衛隊任務の変質-

 一方1990年以降の世界は社会主義体制の脆弱化及びそれに続くソ連の崩壊により、それまで国際関係を決めていた冷戦構造が終焉しましたが、イスラム教過激主義の蔓延、国連安全保障理事会でのロシア、中国の拒否権の発動により中東地域、北アフリカ、東ヨーロッパでいつ終わるとも知れない戦乱が続くようになりました。

以下の歴史は、強い“軍事力”を持ってしまった日本が、平和憲法が求める「専守防衛」の枠から外れていく歴史的過程です;

湾岸戦争

1990年8月イラク軍が突如クウェート侵攻し占領後にイラクへの編入を宣言しました。1991年、米軍を中心とした多国籍軍がイラクを攻撃しクウェートを解放しました。日本は自衛隊の派遣はせず、130億ドルもの戦費等の負担を行ったものの、国際社会からは評価されませんでした。“Show the Flag”つまり軍隊の派遣無くして同盟軍とは見做されない現実を味わいました。ただ、1991年4月多国籍軍とイラク軍との間の停戦が発効すると、日本はペルシャ湾での機雷の撤去及び処置(掃海任務)を行うことになりましたが、これはあくまで日本の船舶の安全航行の為の通常業務と位置付けられていました。

PKO任務に伴う自衛隊の海外派遣

国連による平和維持活動に参加する為、1992年の国会(通称“PKO国会”)で「国際連合平和維持活動に対する協力に関する法律/通称“国際平和協力法”乃至“PKO”」を制定しました。以後、南スーダン、東チモール、ハイチ、ゴラン高原等、政情不安が続く(⇔危険の伴う)国々に自衛隊が派遣されており、最早海外に於ける日本の自衛隊のプレゼンスは先進諸国の「軍隊」と何ら変わりがない状態になっています

アフガニスタン侵攻

2001年9月11日(以降“9.11”)、ウサーマ・ビン・ラーディンに率いられたアルカイダにより米国の東部中心都市で同時多発テロが実行され、3,000人以上の死者が出ました。アフガニスタンの90%を実効支配していたタリバン政権にアルカイダのテロ実行犯の引き渡しを求めたものの応じなかった為、同年10月米軍を中心とした有志連合はアフガニスタンの北部同盟と協調して攻撃しタリバン政権を崩壊させました。この侵攻の前には国連安全保障理事会で「このテロ行為は全国家、全人類へ挑戦」という決議(1337号)を得ており、有志連合は国連憲章51条が認めている“集団的自衛権”の発動という立場をとっていましたが、この安保理事会決議には武力行使を行うとは書いていないので“集団的自衛権”発動とは見做せないという意見もありました。

同時多発テロ
同時多発テロ

日本は湾岸戦争を教訓(Show the Flag)に、2001年10月に「テロ対策特別措置法(“テロ特措法”)/2年間の時限立法;その後“新テロ措置法”として継続されましたが2007年に失効」を制定し、海上自衛隊の艦船をインド洋に派遣し、給油活動及びイージス艦によるレーダー支援を行いました。

イラク戦争(第二次湾岸戦争)】

湾岸戦争終結時にイラクに課せられた“大量破壊兵器”廃棄義務違反を理由として2003年3月、米軍を中心とする有志連合がイラクに侵攻しました。正規軍同士の戦闘はこの年に終わったものの、治安維持に向けた作戦に失敗しその後も泥沼化した戦闘が続きました。米軍の全面撤収は2011年末に一応実現したもののシーア派による政権運営が破綻し、イスラム最過激派であるISIS(又はISIL)による地域の支配を許し、現在も激しい戦闘が続いています。また、ISISの浸透は、シリア、北アフリカにも及んでおり、これらの国々からヨーロッパの国々に避難民が押し寄せ、結果としてEU内での左右の対立が深まり戦後営々として築かれてきた民族、宗教の融和は危機に瀕しています。

日本は2003年12月~2009年2月まで自衛隊を派遣しています。これは「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動実施に関する特別措置法(イラク特措法)/4年間の時限立法;2007年年に2年間の延長を行った」に基づくもので、自衛隊の人員規模は約1,000人に達する大規模な派遣(陸上自衛隊はサマーワを基地として約550人、航空自衛隊は輸送任務に約200人、海上自衛隊は輸送艦1隻、護衛艦1隻の乗組員約330人)となりました。国会での論議では自衛隊の活動が戦闘地域か、非戦闘地域かで紛糾したことは記憶に新しいところです。

上記の通り国会での議論を経てここ15年以上に亘って実質的に自衛隊の海外派遣が行われきており、自衛隊の存在に関わる違憲性はともかくとして、その任務を「専守防衛」として最後の歯止めをかけてきたことが、厳しい国際情勢の中でたとえ時限立法とはいえ崩れ去っていったことが分かります。

-新安保法制-

 衆議院で絶対多数を得た第二次安倍内閣では、2015年上記の体制を更に進め、自衛隊の任務を更に拡大した上で恒久法として以下の法律群(新安保法制)を制定しました;

1.国際平和支援法案:自衛隊の海外での他国軍の後方支援

2.自衛隊法改正:在外邦人の救出

3.武力攻撃事態法改正:集団的自衛権行使の要件明記

4.PKO協力法改正:PKO以外の復興支援、及び駆けつけ警護を可能とする

5.重要影響事態法:日本周辺以外での他国軍の後方支援

6.船舶検査活動法改正:重要影響事態における日本周辺以外での船舶検査の実施

7.米軍等行動円滑化法:集団的自衛権を行使する際の他国軍への役務提供追加

8.特定公共施設利用法改正:日本が攻撃された場合、米軍以外の軍にも港湾や飛行場を提供可能にする

9.海上輸送規制法改正:集団的自衛権を行使する際、外国軍用品の海上輸送規制を可能とする

10.捕虜取り扱い法改正:集団的自衛権を行使する際の捕虜の取り扱いを追加

11.国家安全保障会議(NSC)設置法改正:NSCの審議事項に集団的自衛権を行使する事態を追加

冷戦の終結とEUの東欧諸国への拡大で、一時世界は平和に向かって進むかに見えましたが、9.11テロ以降始まった中東での戦争で米国は疲弊し「世界の警察官」としての実力と威信を失う一方で、経済的な成長を遂げた中国が急速に軍事力を拡大し、東シナ海、南シナ海での新たな緊張を生み出しています。また欧州においてもロシアがウクライナに於いて領土的な野心を露わにしている状況が現出しています。シリアでの悲惨な状況を見るまでもなく、今の国際情勢は、最早米国中心の秩序も、国連中心の秩序も期待できない状況になっています。

新安保法制全体を俯瞰すると、もはや自衛隊の違憲性などは何処へやら、集団的自衛権の枠内(国連憲章の枠内ではなく)であれば、起こりうる国際紛争に立法措置無しで自衛隊を運用できるようになると思われます。であれば憲法9条は何の歯止めにもなっていないのではないでしょうか。

一方大統領選挙戦の論戦で見えてくる米国民の意識の変化は、モンロー主義(孤立主義的な外交方針)への回帰も伺えます。安保条約を頼りにしているだけで本当に日本は米国に守ってもらえるのか。また逆に米軍が引き起こす戦争に巻き込まれることにはならないのか。

-自衛隊を国防軍へ-

 如上を踏まえた上で、私の考えは憲法9条を改正し他の国々と同じように国防軍として認めた上で、この実力集団を如何にして戦争の抑止に役立てるかという議論こそ必要なのではないかと思います。

陸上自衛隊
陸上自衛隊
海上自衛隊
海上自衛隊
航空自衛隊
航空自衛隊

-沖縄基地問題の本質-

 本来国際間の条約では一方的に庇護されることはあり得ません。何かを頼れば、何かを譲らねばなりません。沖縄の基地問題もそこに原因があるものと思います。国防軍を持った上で対等の立場で米国との間の安全保障条約を作り直すことが必要です。1902年に結ばれた日英同盟が日露戦争の勝因の一つになっていますが、彼我に大きな国力の違いがあったものの、条約は平等で双務的な内容でした。

-解釈が必要な憲法は道を誤る-

明治憲法(大日本帝国憲法)では「統帥権」が天皇あり;

第11条:“天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス”

これが軍部の独走を許し、敗戦に至ったとよく言われますが、天皇を輔弼する国務大臣にも軍事費(兵員数、装備、等)や外交に関わる決済権限があり;

第55条:“國務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス。凡テ法律勅令其ノ他國務ニ關ル詔勅ハ國務大臣ノ副署ヲ要ス” 

また、帝国議会でも民選の衆議院議員によってチェックをする機能があり、同じ立憲君主国である英国の様に、天皇を頂点とする統治機構でも最善の決断ができるはずでした(現に衆議院議員・斉藤隆夫によって帝国議会で反軍演説が行われている)。しかし、実際には軍事に関しては「統帥権」を盾に取り、実力部隊をもった軍部に全ての判断を委ねる結果となりました。そもそも「統帥権」の定義、運用の基準等が具体性に欠けていたことが軍部の専横を許した訳ですが、国家存亡の危機を乗り切った仲間である明治の元勲達が政治・軍事を牛耳っていた明治時代にはこれで充分であったかもしれませんが、これらの指導者が世代交代した後はうまく機能しませんでした。

-結論-

 このような日本の歴史を踏まえ、憲法改正に当たっては、シンプルで、且つ曲解を生まないような条文にすべきであると考えます。また、改正すべきは9条だけではなく、96条(改正の発議に国会議員の三分の二の賛成を要する)も含めるべきだと考えます。何故なら、憲法は宗教の経典ではないので、改正の為のハードルを徒に高くすることは国民の利益にならないからです。憲法をめぐる国民の意思は国民投票のみによって示されるべきであり、真の平和は、現在の国民の意思によってこそ築かれるべきだと私は考えます

以上