「満州国」その”うたかたの夢”

―はじめに―

今年に入って、やや長文のブログ「日本の戦争の時代についての一考察」を纏めました(2021年2月)。その後、3月末に兄と私にとって恐らく最後となる両親の法事(父:50回忌、母:33回忌)を行うことになって、父母の遺品の数々(写真、日記類、葬儀や法事の記録、など)が整理をしないままに放置されていたことに気が付きました。既に私共第一世代は高齢化し、いつ死ぬかも分からず(既に妹は一昨年死去)、親戚関係の主役は、第二、第三世代に移りつつあります

そこで、父母の遺品の数々と私共第一世代の記憶を繋ぎ合わせ、厳しい戦争の時代を生き抜いてきた父母の生き様、及び私共第一世代を含めてお世話になってきた親戚関係を整理し、第二、第三世代に引き継ぎたいと考え、「ファミリー・ヒストリー」的な記録(ウェッブベースの記録)を残すことにしました
残念なことに私共第一世代の記憶は認知症一歩手前!まで衰えていて頼りなく、また残された古い写真も、きちんと整理していなかったツケが来て一本のヒストリーに纏めるには相当手間が掛かりました。漸く最近になって纏め作業が一段落し、今後新しいヒストリーを加えて補完すればいい所まで漕ぎつけました

この「ファミリー・ヒストリー」を纏めていくに当たって気付いたことは、父母が生きた時代の「満州国」について私自身余りにも無知であったことでした。満州国については、ブログ「日本の戦争の時代についての一考察」を纏める過程で歴史的・政治的な事実関係については理解した積りです。また、終戦直前、ソ連の大軍が宣戦布告無しに攻め込んできたため、満州在留邦人が塗炭の苦しみを味わったことは以前書いたブログ「生い立ちの記(生誕・抑留・引揚・困窮生活)」、「母方親族の戦争体験」、「麻山事件を読んで」で理解した積りです。また、我々の世代が戦後の民主教育で叩き込まれた満州国支配の犯罪性については「〝五色の虹-満州建国大学・卒業生たちの戦後”を読んで」である程度は分かった積りになっていました

しかし、私の父母・親戚は勿論、多くの日本人(軍人・軍属を除く)が、別に強制されることもなく満州を目指し、苦労をものともせずに頑張った動機は何か、また命からがら引揚げて来たにも拘わらず、何故望郷の想いで満州を語るのか、調べてみたのが以下の内容です

なかにし礼は、1999年『長崎ぶらぶら節』で直木賞を受賞した後、「週刊新潮」で家族の北満からの苦難の引揚げを書いた「赤い月」を連載し、その後の単行本は百万部の売り上げを記録しました。恐らく読者の多くは父母、親戚、あるいは自身の若い頃に満州体験があった人だと想像しています
彼は小説を書き始める前は超売れっ子の昭和歌謡の作詞家でした。彼の作詞で大ヒットした以下の曲は、失恋の歌の様に聞こえますが、この歌の「なかにし礼本人、失恋の相手は、彼が愛した「満州国」を表しているのだそうです(本人談)

*黛ジュン「恋のハレルヤ」

弘田三枝子「人形の家」

以下はこのブログを書く時に参考にした資料です;
 変容する世界の航空界・その4「日本の航空100年」 — ネット情報
 満州航空の全貌 著者:前間孝則 発行所:草思社
 満州航空最後の機長・空飛ぶ馭者 著者:下里猛 発行所:並木書房
 歴史群像シリーズ84「満州帝国」北辺に消えた〝王道楽土“の全貌 発行所:学習研究社
 偽「満州国」明信片(絵葉書)研究(中国に旅行した時に入手;中国人向けの内容
⑥ 満鉄に於ける鉄道業の展開(ネット上に掲載) 著者:林采成

-日本の領土拡張の歴史(Quick Review)-

1.日清戦争(1894年~1895年)後の下関条約では以下を獲得;
台湾および澎湖諸島の日本への割譲
遼東半島の日本への割譲 ⇒ フランス、ドイツ、ロシアの三国干渉により清に返還)
朝鮮の独立 ⇒ 朝鮮は清の冊封体制(清との君臣関係)下から脱し大韓帝国となる
④日本へ2億両の賠償金支払い(当時の日本の国家予算の3倍以上)

2.日露戦争(1904年~1905年)後のポーツマス条約では以下を獲得;
⑤日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める ⇒ 1910年朝鮮併合
⑥日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する
南樺太(北緯50度以南)の領土を日本に譲渡
東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本に譲渡
関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本に譲渡
⑩沿海州(ソ連のオホーツク海沿いの州)沿岸の漁業権を日本人に付与

3.第一次世界大戦(1914年~1918年)後のベルサイユ条約では以下を獲得;
⑪中国の山東半島のドイツが保有していた権益を入手
⑫赤道以北の南洋諸島(パラオ、マーシャル諸島、など)の委任統治
国際連盟の設置とその常任理事国としての地位

4.満州国の建国(1932年)
国王は清朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀であるものの、統治の実権は日本にあり、統治している地域は東北三省(遼寧省・吉林省・黒龍江省)と熱河省

見出しにある簡略化された地図で、上記で取得した中国に関わる領土、及び日本が実質的に統治するエリア全体が概観できます

-広大な満州国の統治-

日本が実質的に統治する広大な満州国のエリアは、当時満州人(ツングース系民族;「清」帝国を築いたのはツングース系の女真族)が多く住み、漢人にとっては謂わば「化外の地(けがいの地;国家の統治の及ばない地方)」とされており、人の往来、物流、鉱物資源の開発、などを行うためには、「治安の確保」、「インフラの整備」、「人材の確保」が緊急の課題となりました

治安の確保」については、「関東軍」が対応し、「インフラの整備」については「南満州鉄道(通称”満鉄”)」がその重大な役割を担うことになりました。また、「人材の確保」については治安の確保の他、賃金及び住環境の整備を行うことにより、満州国経済の発展につれ、日本人、朝鮮人、漢人、が大量に満州国に流入してきました

ネット情報(ウィキペディア)によれば、日露戦争後の1908年の時点で、満州の人口は1583万人でしたが、満州国建国翌年の1933年には2929万人、満州国建国後3年目には4300万人になっていました。1940年の満州国国務院の国勢調査では4223万人ですが、その内訳は以下の通りです;

民族別人口構成は(カッコ内は全人口の構成率);
満洲人(漢族+満洲族)     38,885,562人 ( 94.65%
日本人(朝鮮族131万人を含む)   2,128,582人  (  5.18%
その他外国人(白系ロシア人他)         66,783人  (  0.16%

また、主要都市の人口は(カッコ内は日本人の人口);
奉天(現在の瀋陽)                             : 1,003,716人 ( 170,580人
哈爾浜 (ハルピン)                            :     558,829人 ( 51,650人
新京(満州国の首都;現在の長春):    490,253人 (129,321人
大連                                                           :     338,872人 ( 84,794人
安東                                                           :     246,129人 ( 43,358人
営口                                                           :      176,917人   ( 8,320人
吉林                                                           :      145,035人(  17,941人
斉斉哈爾 (チチハル)                          :    118,708人  ( 14,290人

この広大なエリアを統治するに当たって、治安は関東軍が担当し、陸上輸送及びインフラ構築、整備、文化、機密任務を担ったのは南満州鉄道株式会社(通称満鉄)、航空輸送及びその他の機密任務を担ったのは私の父が入社した満州航空株式会社(通称満航)でした

-満州国に於ける関東軍の歴史(Quick Rview)-

日露戦争後のポーツマス条約でロシア帝国から獲得した租借地、関東州と南満州鉄道の付属地の守備をしていた関東都督府陸軍部(1906年設置)が関東軍の前身です。第一次世界大戦後(1919年)、関東都督府が関東庁に改組されると同時に、台湾軍・朝鮮軍・支那駐屯軍などと同じ権限を持った関東軍として独立し、司令部を関東州の旅順市に設置しました関東軍の当初の編制は独立守備隊6個大隊(約6千人か)を指揮下に置き、此れとは別に日本内地から2年交代で派遣される駐剳(ちゅうさつ:官吏や軍人が「駐留」すること)1個師団(約2万5千人位)もその指揮下に置いていました

1931年、関東軍の石原莞爾作戦課長らは柳条湖事件を起こして軍閥の張学良の勢力を満州から駆逐し、翌1932年、満州国を建国しました
また、関東軍司令官は駐満州国大使を兼任するとともに、満州国軍と共に満州国防衛の任に当たり、一連の満蒙国境紛争に当たっては多数の犠牲を払いながら、満州国の主張する国境線を守備する任務を遂行していました
1934年、関東軍司令部は満州国の首都新京(長春)に移りました

ソ連との国境紛争を通じてソ連軍の脅威が認識されたことや、ヨーロッパ戦線の推移などにより関東軍は漸次増強され、1936年には、関東軍の編制は4個師団及び独立守備隊5個大隊となっています。1937年の日中戦争勃発後は、続々と中国本土にもその兵力を投入しました。
また、1939年5月~9月、満州国とモンゴルとの国境線をめぐって日本とソ連の間で大規模な戦争(ノモンハン事件;両国合わせて数万人の死傷者が出ました)が発生しました

ノモンハン事件現場

こうした事から、太平洋戦争が始まる1941年には14個師団にまで増強されました。また、日本陸軍は同年勃発した独ソ戦にあわせて関東軍特種演習と称した準戦時動員を行った結果、同年から一時的に関東軍は兵力74万人以上に達しました。「精強百万関東軍」「無敵関東軍」などと言われていたのはこの時期です

太平洋戦争の戦況が悪化した1943年以降、日ソ中立条約(1941年4月締結)により、ソ連との国境に戦力を割く必要性が減少したことから、激戦が続く中国、東南アジア方面に戦力を提供していきました
1945年になると、戦力の埋め合わせとして満州在留邦人を対象に25万人の動員(所謂「根こそぎ動員」)を行い、数の上では78万人に達しましたが、これらの追加兵員は練度・士気が劣っている上に、装備も著しく貧弱であった為、前線に配置されていた兵員は犬死を余儀なくされたと言われています

1945年8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍がソ満国境を越えて侵入してきた時、参謀本部の方針により、関東軍主力は大連~新京のラインまで後退していた為、1945年8月15日の終戦を迎えた時には関東軍の多くの部隊は戦わずして武装解除となりました。ソ連軍に降伏した多くの関東軍兵士は、シベリアに抑留され過酷な労働と寒さにより多くの死者を出しています。また、「何も知らされずにソ満国境付近に残されていた開拓殖民を見捨てて逃げ出した関東軍」という汚名を着ることになりました。詳しくは私のブログ「“麻山事件”を読んで」、「母方親族の戦争体験」をご覧ください

-満州国に於ける満鉄の役割-

日露戦争終結後、ポーツマス条約で得た東清鉄道南満州支線(長春=旅順間鉄道)の運営及びその他付属事業を経営する目的で、1906年に設立された半官半民の国策会社で、正式には。南満州鉄道株式会社(以下”満鉄“)といいます

満鉄本社、ロゴ&ロゴ入り「切子」の小杯


上の写真は2015年に満鉄博物館となっていた旧満鉄本社を訪れた時の写真です。左側の写真は中国人民にとって犯罪的であったとされている満鉄を紹介している説明文です。右の写真は初代満鉄総裁である後藤新平も使用したとされる総裁室の机です

<付属事業>
満鉄は単なる鉄道事業ではなく、児玉源太郎がイギリスの東インド会社を研究させた上で献策した「日本の植民地経営を具体化していくための組織」として設計されました
従って、満鉄の付属事業は、「農産物の取扱、牧畜業」、「炭鉱開発/撫順、煙台」、「製鉄/鞍山」、「ホテル業/ヤマトホテル(大連、旅順、奉天など)」、航空会社(満州航空/後述)」、など多方面に亘っていました

撫順炭鉱・露天掘り
鞍山製鉄所、大連ヤマトホテル

また同時に、鉄道付属地の一般行政分野となる「水道、電力、ガス供給」、「土木・建築」、「教育(学校、図書館)」、「衛生(病院)」、「娯楽施設」などのインフラ整備事業も担い、徴税権も行使していました

満洲医科大学⇒中国医科大学

上の写真にある満洲医科大学の医師(教員)、看護師は、中国側から終戦後も医療・教育活動の継続を求められ満州に残りましたが、米軍の航空機で日本に帰還する機会があった時に、医学生からの自発的カンパによって航空運賃が賄われたという感動的な記録が残っており、日本人の教員と中国人の学生とは政治とは別の熱い師弟関係にあったことが窺えます

旅順・工科大学、奉天(瀋陽)高等女学校

1937年になり満洲全域が日本(満州国)の勢力下に入ると、鉄道付属地に限られた軍事・行政権は必要なくなり付属地行政の大部分は満洲国政府に移管され、大量の教員を中心とする満鉄職員は満州国に移籍しました

<満鉄調査部>
初代の満鉄総裁である後藤新平は、台湾総督府民政長官時代にも旧慣調査その国の法制および農工商経済に関する旧慣習の調査を行う事)などを行って台湾の植民地経営に活用した経験を活かし、満鉄でも創立2年目の1907年に満鉄調査部を設置しました。当時の日本が生み出した最高のシンクタンクの一つと言われています。日露戦争後、政情不安の状況にあった満州では企業活動を展開する為には不可欠な調査活動だったと考えられます。スタッフは100名前後で「旧慣調査」、「経済調査」、「ロシア調査」の他、「監査班」と「統計班」がありました。
また、インフォーマルな情報活動も、満鉄が各地に設けた満鉄公所においてさかんに行われており、ここでは日本人のみならず中国人も多く働いていました
満鉄公所とは;
満鉄が設置したインフォーマルな情報収集活動のための機関・施設であり、公式機関である領事館とは別に、非公式の折衝や秘密の情報調査活動を行っていました。以下の奉天領事館から外務大臣に出された要望書にあるように、本来こうした活動の中心になるべき外務省直轄の領事館と屡々軋轢があったことが窺えます;

奉天満鉄公所と奉天領事館から外相宛の要望書

<鉄道事業>
1907年の満鉄創業時、日本政府はむしろ石炭輸送以外に経済性はほとんど期待できないと考え、6%の配当を保証する為の補助金制度を設けていたほどでした。しか し,ロシアとの戦争が再び起こる事を想定していた為に、満鉄は営業開始とともに輸送力強化に取り組むことになりました
営業開始時,路線は大連=猛家屯/6952キロ,安奉線/296キロなど,合計 1万1508キロでしたが,その内、安奉線は軌道幅762mmの軽便鉄道であり、その他の路線も1067mmの狭軌であたため、その輸送能力が 脆弱であるばかりでなく、多くの事故が発生していました

そのため標準軌/1435mm(新幹線と同じ軌道幅)へ改修し、大連=長安(新京)路線を複線化するという日本政府の決定に従 っ て、1907 年5月に安奉線を除いた本線および支線の拡軌工事に着手し、応急措置として在来の狭軌の外側に一本、あるいは二本のレールを追加した狭軌・広軌併用運転法行って列車運転を休止させること無く、1908年5月に全線で標準軌の列車運行を開通をさせました
一方、安奉線については清国政府との交渉が まとまらなかった(日露戦争時に軍需輸送に使われていた)ため着工が遅れましたが、日本政府の決定によって、1909年から工事が始められ、1911年11月に完成しました
この標準軌化工事によって既存の車両は利用不可能となり、標準軌車両を米国より大量に購入しました(機関車/205両、客車/95 両、貨車/2190 両)
その後車両を増やし、1926年には、機関車/428 両、客 車/440 両、貨車/6811 両に達しました。また、交通量の多い幹線は、複線化工事を行い、満州国建国後2年目の1934年には全線の複線化工事を完了させました

輸送量については、1907年の旅客輸送量/226百万人キロ、貨物輸送量/397百万トンキロから年々増加し、世界大恐慌の影響で一時低下したものの、1939年には旅客輸送量/3013百万人キロ(13.3倍)、貨物輸送量/9344 百万 トンキロ(27.7倍)に達していました
大きな伸びを見せた貨物輸送の主役は石炭と大豆三品(大豆、大豆油、豆粕)でした。
一方,旅客輸送においては、車両の居住性改善、速度向上などを通じて旅客サービス向上を行い旅客需要の掘り起こしを行っています。例えば大連=新京(長春)線の急行列車の 場合、1924 年に13時間運転を実施、1926年には12時間30 分、1930年11時間30 分、1933年10時間30分へと時間短縮 を行 い、1934年11月には急行列車のほかに超高速の流線型の特急列車「アジア号」を使って8 時間30分/平均時速82.5キロ)の運航を開始しました。同じ時期に釜 山=奉天間の急行列車「ひかり号」を新京(長春)に まで 延 長 運転 しました(参考動画:満鉄特急・アジア号

また、生産性向上の諸施策(車両整備日数の短縮、整備士の技量向上、整備設備の改善、など)を行うと共に、路線運営の効率化を行った結果、満鉄社線の労働生産性、及び資本生産性は朝鮮国鉄、日本国鉄よりも高くなりました

1933年2月には、それまでの満鉄線(下記路線図の赤色の路線)の他に、満州国政府より同国国有鉄道の路線(下記路線図の青色の路線)運営と新線建設が満鉄に委託され、更に同年9月から朝鮮総督府の北鮮線(下記路線図の緑色の路線)が満鉄に委託されました
尚、1935年3月23日に満州国とソ連との間で締結された「北満鉄道讓渡協定」によって、満州国とソ連の共同経営であった北満鉄道を満州国が買収し、この路線(下記路線図の青色の路線の内「ハルビン=満洲里」、「ハルビン=綏芬河」、「ハルビン=新京」も満鉄に移管されました

満州国の鉄道路線

一方で、鉄道網が全満洲に拡大された為、鉄道の生産性は一気に低下し、収益性も悪化しました。生産性の低い路線を多く抱えることになったためやむを得ないとも言えます

-満州国に於けるの満航役割-

<航空輸送の曙>
第一次世界大戦において、欧州戦線では航空機による偵察、爆撃が作戦上重要な位置を占めることが分かってきました。そこで、1919年、日本の陸軍、海軍は、それぞれ当時の航空先進国であったフランス及びイギリスの指導を受けて、航空機の装備を整え始めました

一方、民間による航空輸送についても;
①1922年11月、「日本航空輸送研究所」が大阪=徳島、大阪=高松路線で、水上機(伊藤式カーティス飛行艇)による定期輸送を開始
②1923年1月、朝日新聞社による「東西定期航空会」が東京=大阪路線で、陸上機(中島5型)による定期輸送を開始③1923年4月、「日本航空株式会社後の日本航空とは別)」が大阪=別府路線で、水上機(川西式水上機)による定期輸送を開始

これらの三社は、軍用機の払い下げ、軍の現役操縦者の割愛を得て次第に路線を伸ばしていきますが、規模も小さく、海外(中国)路線への進出も叶わなかった為、各社は累積赤字を積み上げていく状況となり、航空局は各社に奨励金を出して支援を行っていました
一方、民間航空輸送の安全性確保について最も重要な航空法については、1921年4月帝国議会の承認を経て公布されました。これによって、軍用航空と民間航空とが法規上からも完全に分離されることになりました。また、1922年6月には、国際航空条約が帝国議会で批准されました。しかし、日本に於ける航空輸送は未だ開始されたばかりで未発達であった為、航空法が実際に施行されたのは、1927年6月になってからでした

航空局が最も重視した政策は安全運航の要となる乗員の養成でした。当時の民間養成機関の実情は極めて貧弱であったので、航空局は毎年民間人70人~150人の志願者から10人前後を選抜し、それぞれ半数ずつを陸海軍に委託して10ヶ月間程度の操縦教育を受けさせて養成していく方式をとりました。その養成者数は1920年から28年までの9年間で86人に達し、定期航空輸送の中堅乗員層を形成していくことになりました。同様の方法で航空機関士の養成も行われれました(私の父はこの航空局委託航空機関士養成課程の4期生として卒業し満州航空に就職しました

<日本航空輸送株式会社の設立>
定期航空輸送を開始していた民間三社は、どれも小規模企業で将来的な発展が見いだせない状況であった為、政府は国策の航空会社設立の方針を決め、1927年8月「航空輸送会社設立準備調査委員会」を設け、委員会会長に渋沢栄一子爵副会長に井上準之助を充て、9月航空輸送会社設立について諮問しました。同年11月、委員会は以下の答申を行いました;
「航空輸送会社企業目論見ニ関スル件:右企業目論見ハ適当ナリト認ム。但シ航空輸送会社ノ設立ハ我国創始ノ事柄ニ属スルヲ以テ其ノ営業収入及ビ支出計算ハ共ニ多少未知ノ事実ニ基ケル点アルハ己ムヲ得ザル所ナリ依テ会社ノ事業開始後ノ
営業実績ニ徴シ到底予期ノ業績ヲ挙グルコト困難ナルニ於テハ政府ハ会社ノ維持ニ付相当考慮ヲ払フ要アルモノト認ム

渋沢栄一と伊藤準之助

1928年4月の臨時帝国議会で、航空輸送補助金1,997万円の予算が可決され、同年7月航空輸送を運営する会社の発起人総会が開かれ、渋沢栄一子爵を委員長に創立準備に着手しました
公開株式公募には応募数が140倍あったというこの人気は、発起人が渋沢栄一を始めとする当時わが国一流の実業家を網羅したこと加え、当時の国民の大きな期待がみてとれます。これを受けて、1928年10月、完全独占運航の民間商業航空会社「日本航空輸送株式会社以下日本航空輸送と略称)」が設立されました

日本航空輸送の活動は始まったものの、需要はごく低く、まもなく同社は非常な経営難に陥り、総収入の9割を政府からの補助金に頼る経営内容に傾いていきました
しかし日華事変の後、1932年に満州国が成立して以降、環境が激変し、内地-大陸間の輸送需要が急増して運航回数が急激に増大し、路線も東京あるいは福岡から新京、青島、北京、上海、台北、広東などへ新路線が開設されていきました。これら路線の実態は軍用便であったものの、余席がある場合には一般民間貨客の輸送が許されました。軍は一般利用者分を除く全運航経費を支払ったので、その運航形態は日本航空輸送会社にとって甚だ有利であり、経営内容は次第に好転して行きました。また、満州国における路線運営を一元的に運営する方が効率的であることから、同年9月「満州航空株式会社」が設立されました

<満州航空株式会社>
設立時の会社概要;
社名:
満州航空株式会社(通称「満航」)
資本金:385万円満州国:100万円/満鉄/250万円/住友合資会社/35万円)
本社所在地 :満州国奉天市

満州航空本社@奉天(瀋陽)と会社ロゴ

*創立時の従業員数は、日本航空輸送からの転入が55人、新規採用が20人でした。操縦士は8人でしたが、内7人は日本航空輸送からの移籍でした。創立から9ヶ月後の1933年6月末時点で411名(満州人も含む)に増加し、操縦士・機関士は43名、また軍籍にある将校は30名でした(因みに私の父は、1933年10月、23歳でこの満航に入社しています
尚、円形の会社ロゴは満州国の国旗で使われている5色の色と同じで「五族協和」を表しており、五族とは「日本人、朝鮮人、満州人、蒙古人、漢人」を意味します;

業務内容;
① 旅客、貨物定期輸送、郵便輸送
② 軍事定期輸送
③ チャーター便の運航
④ 航空機整備
⑤  測量・調査(空中写真、測図、資源調査)
航空機製造(航空工廠)
*1938年6月、⑥の製造部門は、日本政府の監督下にあった「満洲重工業開発株式会社」の命令により、「満州飛行機製造株式会社として独立しました。主力工場はハルビン(哈尔滨)にありました。この会社は1941年~1945年にかけて、2196機の機体の生産(うち798機は戦闘機)と、2,168基の航空機用エンジンも生産しました。また、満洲国軍飛行隊日本帝国陸軍飛行戦隊様々な航空機の修理事業も行っていました

路線運営;
1936年末時点の定期航路の総延長は 9千キロで、政治経済の中心地はほとんど網羅していました;

満州航空の定期航路

尚、満州航空は、新京(長春)とベルリンを結ぶ長距離定期航空路線開設の為系列会社として「国際航空株式会社」を設立しましたが、その後1938年に日本航空輸送と合併し、新社名は大日本航空株式会社となりました

使用航空機;
① MT-1 ( 満州航空の工場で開発、製造を行なった旅客機)
② 三菱 MC-20
③ 中島飛行機 AT-2④ ユンカース Ju86、ユンカース Ju160
⑤ ハインケル He116
⑥ メッサーシュミット Bf108B 「タイフーン」⑦ フォッカー スーパーユニバーサル(ライセンス生産も実施)
⑧ デ・ハビランド・プスモス
⑨ ロッキード・スーパーエレクトラ
民間航空にしては多種多様な航空機を運用していることに驚きますが、上述した業務内容が極めて多岐にわたっていることと、航空機の名称からも分かると思いますが、航空機の先進国である米国、英国、ドイツから輸入、乃至ライセンス生産していることから、技術を学ぶ目的も大きかったと推測できます

因みに下の写真は、1936年、入社3年目の父が、奉天航空工廠発動機試運転場において「(ことぶき)」第334号の600時間耐久運転時に撮影されたものです;

」というエンジンは、中島航空機が1929年に開発を開始し、1931年に「寿一型」として正式採用され、その後発展型が順次開発されました。このエンジンは満航で使われていた「フォッカー・スーパーユニバーサル」に装着され、その後の発展型は「九六式艦上戦闘機」、「九七式戦闘機」、などに装着されています
この時、父は信頼性向上の為の研究、改修を行っていたことが亡くなった折の友人の弔辞に書かれてありました。当時、航空機の開発は急速なピッチで進められており、マニュアルなどの準備が整わない中で、信頼性向上の為の研究、改修は現場の技術者の努力に負う事が大きかったと言われています

-渡満した日本人が何故満州を愛してやまないのかについて-

関東軍は軍隊であり、本人の好むと好まざるとに関わらず任地の移動を繰り返しているので、恐らく終戦直前のソ連軍の進入以前は、満州は比較的楽な任地である程度の認識であったと思われます
ここでは、自らの意思で満州に渡った人々の心の内に分け入ってみたいと思います

1.何故満州を目指したか?
 一般に日本人にとって、当時の満州は「馬賊騎馬の機動力を生かして荒し回る賊で清末から満洲周辺で活動していた)や匪賊非正規武装集団)が跋扈する無法地帯」と言われていました。丁度、アメリカに於ける「西部開拓時代」の状況に似ていると言ってもいいかもしれません

アメリカの様に金鉱発見の様な華々しいきっかけはありませんでしたが、渡満を決心する際にお金に纏わる動機はあったと思います。 1929年米国に始まった世界恐慌で、日本の産業は大打撃を受け、日本国内には当時経済的に困窮する人々が多かったことは間違いありません
一方、満州には埋蔵豊富な資源(石炭、鉄鋼)があり、日本政府が満鉄を通じて満州にインフラ整備のための莫大な投資を継続的に行っていました( ← 「鉄道敷設、鉄道関連土木工事」、「炭鉱開発」、「鉄鉱石採掘、製鉄業」、「多くの拠点都市の街づくり」、「病院建設」、「学校建設」、他。この結果、満州には大きな雇用の機会が存在していました

 ② 満州は日本人の力で「五族協和」を実現し「王道楽土」にするんだという理想が当時確かに存在していました
馬賊匪賊が跋扈する未開の地に、法の秩序を齎し(警察官)、無学の人々に教育を施し(教員)、疫病の蔓延する地に近代医療の恩恵を与え(医師)、鉄道や航空機による人流、物流の革命を起こす(満鉄職員、満航職員)、荒蕪地を豊かな農地に変える(開拓農民)、などを志し理想に燃えて渡満した人も少なからず居たことは確かだと思います
*母の長兄は訓導(現在の教諭)として1931年に満州に赴任し、引揚まで各地(奉天、遼陽、連山関、本渓湖)の学校で教鞭を取っていました
*当時の満州は衛生状態が非常に悪く疫病に罹る人が多かったと言われています。私の姉も赤痢に罹って4歳で亡くなりました

これらのポスターは政府主導で満州への日本人移民を促すために作られたことは確かですが、「五族協和」、「王道楽土」という言葉は日本人の考え付いたものではなく、以下の様な中国の歴史に由来する言葉です;
五族協和」というスローガンは、1911年の辛亥革命の後「中華民国」が建国されましたが、この革命を主導した孫文が臨時大統領となった時に掲げたスローガンを真似ています。この時の「五族」は、「漢族、満洲族、蒙古族、回族(ウイグル族などのイスラム系民族)、チベット(西蔵)族」を意味しましたが、満州国での五族とは前述の通り「日本人、朝鮮人、満州人、蒙古人、漢人」を意味します

王道楽土」という言葉の「王道」とは、儒教に基づく政治思想で、中国古代の「周公(周王朝を創始した武王の弟)」が行った理想の道徳政治を意味します。これに対する反対概念は「覇道はどう)」ですが、これは春秋時代の覇者の行なった武力による権力政治のことを意味しています。満州に於いて日本は「覇道」ではなく「王道」を行って「楽土」を築こうという意味になり、中国人にも分かり易いスローガンになっていたと考えられます

③  満州国建国後、満州国国民の国民所得は急速に向上し、満州で働いていた人々の経済的充足感大きく、日本人のみならず、漢人の大量の流入に繋がったものと思われます(前述の「人口の推移参照」);満州国の国民所得の推移_山本有造(京都大学人文科学研究所)

④  「民族協和」は一般市民の間ではある程度受け入れられていたと考えられます。満州国に於ける民族構成で90%以上を占める中国人(漢人+満州人)と日本人との関係は、確かに支配される側と支配する側であり、相応の緊張関係はあったと思われます(特に高学歴の中国人:詳しく知りたい方は、私のブログ「五色の虹-満州建国大学・卒業生たちの戦後」を読んで」を参照してみてください)
しかし、日本人が遠い昔から中国の文化の影響を受けていたことは、日本人なら誰でも知っていることでしたし、また当時の教養人は学校教育で漢文を勉強し、漢詩に通じていた人も少なからずいましたので、中国人を見下したり、侮辱したりする人は無学の人に限られていたと考えられます
終戦後の引揚の厳しい状況下で中国人に引き取られた日本人残留孤児の総数は、厚生労働省の記録によれば約2800人と言われており、満州に於いて日本人に対する中国人の善意は、間違いなく存在していたと考えられます

2.苦難の引揚げ経験を経て、なお満州への愛が変わらないのは何故か?
なかにし礼氏に限らず、私の周りにも満州時代を懐かしむ人が多く存在します。そうした人々との思い出話や、写真、などから判断すると満州への愛を育んだものは以下の様なものと考えられます;
① 満州の新しい国づくり、街づくりに参加した人々にとって、欧米先進国に引けを取らない立派なインフラを作り上げたという誇り

新しい理想の国造りをする必要があった為、日本に居ては経験する機会の少ない「挑戦的な仕事」に恵まれたこと。また、あの広大な満州に行った日本人はたった2百万人程度だったので、多くの中国人を使って「大きな仕事をする機会に恵まれたこと

③ 狭い日本では経験のできない雄大な景色に対する郷愁

④ 多くの異民族に囲まれた環境下での、少数の日本人社会に於ける濃密な人間関係
因みに、私の父が所属した満航(本社は奉天)には、1938年に兄弟会社として生まれた「満州飛行機製造株式会社(主力工場はハルビン/哈尔滨)がありましたが、この二つの会社の人間関係は非常に濃密で、戦後7年を経て日本に幾つかの航空会社が立ち上がりましたが、「満航会」と称して年に一度多くの人が会社の枠を越えて集まり旧交を温めていました。父が亡くなった後、母を連れて私も参加していました
恐らく大所帯の、満鉄の関係者の人間関係も戦後の国鉄私鉄に引き継がれていったのではないでしょうか

―あとがき-

私は1994年から2年半ほど台湾に駐在していました。この時に、台湾人との交流で得た印象は、彼らは極めて親日的であるという事でした。私の上司であった人は世界各地での駐在の経験がありましたが、台湾ほど日本人がリラックスして生活できる国はないと言っておりました
当時、2千2百万人と言われていた台湾人の構成は、主として隣接する福建省から入植してきた中国人(大半が漢人)と、南方から入ってきた少数民族大まかにいって9種類の民族があり、最大の民族「阿美族」でも人口は約20万人でした)に加え、外省人と言われていた蒋介石率いる中華民国軍1949年12月、国共内戦に敗れて台湾に逃れてきた軍人、軍属が多数を占めていましたの子孫が約2百万人居ました
外省人は、台湾に侵入してきてから「大陸反攻」を行う為に全土に戒厳令を布くと共に、反共的で反日的な教育を徹底していましたが、外省人以外の台湾人は、恐らく日本統治時代を生きた親からの昔語り日本の統治は終戦まで約50年間続き、台湾に近代的インフラを整備し、教育制度も充実していた)や、支配層を独占し強圧的な政治を行っていた外省人への反発から親日的であったのだと思われます

一方、満州国は儚くも凡そ13年間で終焉を迎えました。しかしその統治の間に築かれたインフラは、今回写真類を転載した参考資料「偽「満州国」明信片絵葉書研究(私が中国に旅行した時に購入)」を見ると台湾にも増して素晴らしいものがあり、中には現在の中国でもは使われている建物もあり吃驚します;

しかし、表紙だけでなく絵葉書のタイトルにも全て「(偽の簡体字)」の字が接頭語!で付加されています
色々な解釈もあると思いますが、台湾同様、当時の満州国の統治は悪くなかったと思う中国人(4千万人近くいました)が少なからず存在するのではないか? それが故に、満州国の統治の間に作られたものは全て「」を付け、日本による犯罪的な統治を強調しているのではないか? と私は感じました

偶々、このブログを完成する直前に「日本語版NewsWeek」に以下の様な記事が載っていました。著者は、現在の中国「内蒙古自治区」のモンゴル人の知識人(静岡大学教授)です;

現在の中国が、孫文が掲げた「五属協和」の精神を踏みにじり、チベット人、モンゴル人、ウィグル人の人権侵害を引き起こしています。今の中国は、古色蒼然たる漢民族による「中華思想」の時代に戻ろうとしているのではないか、、、GDPの規模で世界第二の大国となり、軍事力でも米国に肉薄する軍事国家となった中国が、この様な時代錯誤の認識を基に、世界の各地で軋轢を起こしているのは心配でなりません

以上

日本の戦争の時代についての一考察

始めに

恒例となっている週一回の本屋渉猟で、最近、見出し写真の本を見つけ購入しました。この写真を見れば、多少でも歴史に興味のある方であれば「ミズーリ号上での降伏文書の署名式」であることはお判りのことと思います。明治以降の日本の歴史の中で、最も屈辱的な瞬間であったことは、ほぼ全ての国民にとって異論のない所だと思います
初版が2020年4月で第6刷発行が6月であることから、思いもよらぬ売れ行きだったのかもしれません。立ち読みで目次をパラパラ捲っていくと、学校で習ってきたこと、本で読んだことがあること、友人と議論したこと、などがズラリと並んでおり、それが「加瀬俊一」という外交官の活動と一本で繋がっていることが分かり、早速購入して一気に読み込んでみました。

今まで日本の戦争の時代についての、著作、映画、テレビ番組などは、相当程度チェックしてきた積りでしたが、この書の様に日本が経験した約15年間(1931年~1945年)の日本が関わった多くの戦争を、全体として繋げてみる機会が無かったので、この書を読むことによって、何か新しい歴史の見方や、現代の政治に生かせる教訓などが朧げに見えて来た様な気がします。そうした新しい気付きについて、恥ずかしながら以下にご紹介したいと思います。

尚、この本(開戦と終戦をアメリカに発した男」は加瀬俊一(としかず)という極めて有能な外交官が、歴史に名を残している東郷茂徳、広田弘毅、重光葵、吉田茂、松岡洋右、といった個性豊かな外交官の直属の部下として外交の実務面で、ほぼ一貫して「日本の戦争の時代」に関わり、それにより得られた各種の情報(裏話も含む)が詰まっています

15年戦争当時の主な外交官

最後の段落「開戦と終戦をアメリカに発した男_読書メモ」には、読書中に残した私のメモ(上記外交官の考え方、活躍の様子などが中心)に、時代を動かしたと考えられる内外の歴史上の出来事を、私の理解のために時系列で補完したものです。結果として前半の部との重複がかなり出てしまいましたが、私とは違った目で日本の戦争の時代を俯瞰するのに役に立つと思いますので、時間のある方は斜め読みでもご覧になっていただければ幸甚です

日本の針路に関わる重要な事象

1914年、オーストリア・ハンガリー帝国の都市・サラエボ(当時)での一発の銃弾で始まった第一次世界大戦(1914年~1919年)では、日本は戦勝国となり、パリ平和会議の結果結ばれたベルサイユ平和条約(1919年6月28日)では、日本は山東半島の旧ドイツ権益を継承し、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権を得ました。また、1920年1月に発足した国際連盟では常任理事国(イギリス、日本、フランス、イタリア)にも選任されています。以下は、それ以降の日本が関わる重要な事象を時系列に並べ、できるだけ客観的に記述したものです;

1.ワシントン会議(1921年11月12日~1922年2月6日)
1922にはワシントン会議が開催されました。全権大使は後の外務大臣、総理大臣となる幣原(しではら)喜重郎で、主力艦保有率を米:英:日本:フランス:イタリア=5:5:3:1.67:1.67とするワシントン海軍軍縮条約が締結されました
また、中華民国の領土保全、門戸開放、新たな勢力範囲設定を禁止する九カ国条約が締結され、日本は山東還付条約で山東省、及び山東鉄道を中華民国に還付することとし、山東半島や漢口の駐屯兵も自主的に撤兵することになりました。更に、日露戦争を勝利に導く大きな力になった「日英同盟」は、イギリスにとりロシア帝国とドイツ帝国が消滅したため無用になると同時に、英米関係にも好ましくなくなったため、解消されましたたワシントン軍縮会議
幣原喜重郎は米英との協調外交を主張しており、日本の軍事力を強く警戒していた米英に譲歩した結果になった為、この条約は海軍の不満のもととなりました

2.世界恐慌
1929年10月24日、ニューヨーク市場で株価が大暴落し、世界的な大恐慌に発展しました。この経済恐慌は日本にも波及し、日本の多くの産業分野が連鎖的な不況に苦しむ状況になりました
1930年、浜口雄幸(おさち)首相、井上準之助蔵相はこの経済状況の中で「金解禁」を強行したため、円の為替相場が暴騰し輸出産業は壊滅的打撃を被ってしまいました
更に東北・北海道の農家にとっては、「生糸価格の暴落」、「米価の大幅な下落」、「不況による都市労働者の帰農」に加え、1931年には大凶作が重なり、農家は「飢餓水準」の苦境に陥りました。この結果、欠食児童女子の身売りなど、深刻な社会問題が発生しました。陸軍・海軍の兵士には農村出身者が多く、こうした農村の疲弊に悩む兵士達を統率する将校たちの政治不信を生む原因の一つとなっていきました

3.第一次ロンドン軍縮会議(1930年1月21日~4月22日)
ワシントン会議では主力艦のみの規制であった為、各国(米英日)とも、巡洋艦以下の補助艦について高性能化や建造数を競う結果となった為、補助艦を含む建造制限を設けることとなりました
海軍は対米7割を主張するものの、首席全権大使の若槻禮次郎(元総理)は、日露戦争の際に発行した国債の借換え時期を控え、放漫財政縮減を行う必要があった為、米英との協調を維持しつつ、軍縮による軍事費の削減を実現することに対し積極的でした。最終的に米・英対日本は 10:6.975の比率で決着した為、海軍を中心とし不満が高まり、この後、海軍内に「条約派」と「艦隊派」の抗争を生む原因となりました

艦隊派」の不満の根拠となったのは以下の考え方です;
「帝国憲法に規定されている軍の統帥権は天皇にあり、陸軍・海軍は天皇に直属する組織なので外務大臣の様な文民が軍に関わる条約に関与すべきでない」
<参考:大日本帝國憲法>
第一章 天皇
第十一條 天皇ハ陸海軍ヲ統帥
第十二條 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第十三條 天皇ハ戰ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ條約ヲ締結ス
第十四條 天皇ハ戒嚴ヲ宣告ス。戒嚴ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム

4,柳条湖事件~満州事変~満州国建国(1931年9月18日~1933年5月31日)
1931年9月18日、瀋陽市近郊の柳条湖付近で、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破しました。関東軍はこれを国民政府軍による犯行と発表することで、満州における軍事展開およびその占領の口実として利用しました。
関東軍は、朝鮮師団(当時日本領であった朝鮮に駐在する師団:師団長/林銑十郎中将の越境による援軍を得て、戦闘そのものは約6か月で終結し、1932年3月1日には「満州国」が建国されました

抗日記念館で購入した写真集_題字は江沢民が書いた。「柳条湖事件を忘れるな」という意味

その後、1933年1月~3月、隣接する熱河省に軍を進出させ(熱河作戦)、満州国に編入し、さらに山海関をこえて中国本土にも侵攻しました。国民政府の蔣介石は、国内での中共との内戦を重視し、日本軍との妥協を図り、同年5月31日、塘沽停戦協定の締結に応じました。これにより日本軍は万里の長城まで後退し、熱河省を含む満州国を中国国民政府が承認するという結果となりました。
日本はさらに華北一帯を実効支配することを策し、華北分離工作を進めることとなります
1935年6月10日、梅津・何応欽協定を結んで華北一帯の国民政府軍を撤退させ、抗日運動は禁止されることになりました。内蒙古に関しても同様の土肥原・秦徳純協定が締結され、華北の国民政府軍を撤退させた上で、同年、冀東防共自治政府を傀儡政権として樹立させ、華北を国民政府から分離させることに成功しました


この全体のシナリオを描いたのは関東軍作戦参謀の石原莞爾中佐でした。彼が描いた満州国建国の目的は;
①石炭や鉄鉱石などの資源の確保、
②「世界恐慌」により貧困化した農民の受け皿
であり、国民に対しては「王道楽土」、「五族協和」、などの美しい言葉で理想国家・満州国を喧伝しました(参考:私のブログ「五色の虹-満州建国大学・卒業生たちの戦後」を読んで
この一連の関東軍の政治・軍事行動の問題点以下の通りであったとされています;
A.朝鮮軍の越境に関わる軍事行動は、天皇の事前の許可を得たものではなく、明らかな「統帥権干犯」の行為であったこと ⇒ その後陸軍の「独断専行」のきっかけとなったこと
B.その後石原莞爾が関東軍を去り、関東軍の行動が彼の理想とかけ離れていったこと ⇒ 日中戦争を始めてしまったこと

5.満州国建国と「リットン報告書」~国際連盟脱退
柳条湖事件の3日後の1931年9月21日、国民政府が国際連盟規約第11条に基づき、紛争の拡大防止を連盟に提訴しました。国際連盟による調査を行うかどうかについては日中間で意見の違いがあり時間がかかりましたが、イギリスの説得により同年12月10日の理事会で派遣がきまりました。調査団のメンバーはイギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリアで構成され、メンバー間の互選で調査団長はイギリスのリットン伯爵と決まりました。また日本、中国はアドバイザーとして参加し、日本のアドバイザーは吉田伊三郎(前トルコ大使)でした
調査団一行は翌年に出発し、1932年2月29日、東京に立ち寄って犬養毅首相、吉沢謙吉外相、荒木貞夫陸相、等と会談。その後南京にて、国民政府の汪兆銘行政委員長、蒋介石軍事委員長と会見、北京では張学良とも会見しています。また満州では、満州国執政の愛新覚羅溥儀、関東軍司令官・本庄繁中将などに会って現地調査を行っています
1932年7月に再来日し。斎藤実内閣のメンバーと会見しましたが、当時の内田康哉外務大臣が満州国を承認していただく以外、解決の道はないと強硬に主張したため日本での調査は殆ど進展しませんでした

報告書作成の段階で、
フランスのクローデル代表や、イタリアのアルドロヴァンディ代表は「日本を非難することは現実的ではない」と相当強い異見を述べましたが、これらの異見見は報告書にはあまり反映されず、1932年9月4日、メンバー全員が報告書にサインをして国際連盟に送付されました。

報告書では、「満州(東三省)は常に列国が中国の一部と認めていた地域で、同地方における中国政府の法律上の権限に異議が唱えられたことは無い」と書いてありますが、以下の点で日本の立場をかなり認めています(以下の文章では報告書の日本語訳が「シナ or 支那」としているので全てこれに合わせています);
①シナの内乱状態:これに関する所論は適切である。満州事変の遠因をシナの無秩序・無理想な混乱にあるとし、内乱によって受ける日本のダメージが痛切であることを指摘している
②満州の歴史:日露戦争の勝利によって、日本がロシアから満州における権益を受け継いで満州経営に乗り出すと、この「楽土」を求めてシナ人たちが満州にやってきたことや、日露戦争後、満州がシナから放棄されていたことを記述している
③満州における排日抗日運動:条約や取決めによって日本が取得した権益をシナが容認しない傾向を挙げており、排日的な命令及び訓令が発せられた事実を認め、日シ間の緊張が日本の積極的な行動によって生まれたのではないことを裏書きしている
④張作霖・張学良時代の満州の内政:腐敗、悪政が跡を絶たず、軍隊維持のために重税を課し、それでも足りずに不兌換紙幣を乱発したことなどを指摘している

更に、報告書の最後の方(第9章)には、、今後双方が満足すべき結果を得るには、以下の10項目に留意する必要がある事を述べています;
1.日支双方の利益と両立すること
2.ソ連の利益に対する考慮を行うこと
3.現存の多角的条約(国際連盟規約、不戦条約、ワシントン9ヶ国条約)と整合すること
4.満州における日本の利益を承認すること
5.日支両国間の新条約を成立させること
6.将来の紛争を解決するのに有効な規定を設定すること
7.満州の自治を認めること
8.満州内の治安維持、外部からの侵略に対する保証(武装隊の撤退と関係国間の不侵略条約の締結)を行うこと
9.日支両国間における経済関係を促進させること
10.シナ国内を政治的に安定させるために国際協力を行うこと

以下は、参考とした「全文 リットン報告書」の解説を行っている渡辺昇一氏の意見です。我々世代が学校で習ってきたことと随分違う意見なのでやや戸惑いますが、この報告書が採択されても連盟に留まるべきという意見には全面的に賛成です;
松岡洋右の「国際連盟脱退」の演説(1933年2月24日連盟総会でリットン報告書を採択 ⇒ 同年3月 27日日本政府は連盟事務局に脱退の通告を行ったについて、彼がジョンストン(愛新覚羅溥儀の英語教師、これは後に『紫禁城の黄昏』という本を出版している)のような知識を持っていなかったことが日本の不幸であった。彼は満州は清朝固有の領土」という歴史的事実を説くべきであった。国際会議の場でこうした事を言わないで、キリスト教国でもない日本を二千年前の「ナザレのイエス」に例えている(松岡洋右、国際連盟総会で「十字架演説」)のはいかにも場違いであると言わざるを得ない。満州が満州民族の正統の皇帝を首長に頂く独立国に既になっていることも主張すべきであった。「勇の前に知を」ということは日本の政治家や外交担当者が第一に心すべきであったと思う
尚、リットン報告書が採択されても、日本は連盟に留まっているべきであったこうした外交問題は揉めているうちに既成事実となり、承認する国も増えたはずである

6.第二次ロンドン軍縮会議(1935年12月9日~1936年1月15日)
日本は、海軍内が既に「艦隊派に牛耳られていた為、前年の予備会議でワシントン海軍軍縮条約の廃棄を通告し、1936年1月15日、遂にロンドン会議からも脱退しました。この後、日本は経済力の限界を超えた海軍艦船の建造競争に突入することになりました。また、この時点で既に海戦の勝敗は航空戦力で決まる事が分かっていたにも拘らず、「大鑑巨砲主義」に基づき、秘密裏に巨大戦艦「大和」と「武蔵」の建造を開始していました。こうした流れを生んだ背景には、マスコミが強硬論で煽り、世論がこれに同調し、海軍・艦隊派がこれに便乗するという構図がありました

7,5.15事件(1932年5月15日)~2.26事件(1936年2月26日~29日)
5.15事件は、武装した海軍将校たちが総理大臣官邸、他各地(内大臣官邸、立憲政友会本部、警視庁、変電所、三菱銀行)を襲撃し、総理大臣犬養毅を殺害したという事件です。
一方、2.26事件は、陸軍青年将校を中心として、1,483名の武器を持った下士官・兵卒を率いて起こしたクーデター未遂事件です。高橋是清・蔵相、斎藤実・内大臣、渡辺錠太郎・教育総監が殺害され、鈴木貫太郎・侍従長は重傷を負いました
この事件は、いずれも武装した軍人が起こした事件であり、政治を動かしている要人をターゲットにしていることから、軍の意向に逆らうことが生命の危険を伴うという恐怖心を植え付けることになりました。また、2.26事件では東京朝日新聞本社も襲撃され、被害は出ませんでしたが、以後の軍によるメディア統制に逆らえない状況が生まれるきっかけとなる出来事でした。こうした事から、2.26事件以降、軍による政治への干渉は最早抑えることができない状況になりました

2.26事件の首謀者

また、2.26事件の収束に当たって、天皇は、穏便に収めようとする陸軍首脳部の意向を拒否して戒厳令を布告し、即時鎮圧をさせたことは、帝国憲法第14条にある「統帥権」を自ら行使したことになります

8.広田内閣による「軍部大臣現役武官制」の実施
2.26事件の責任を取る形で岡田内閣が総辞職し、広田弘毅首相により組閣が行われました。広田内閣は一年しかもたなかった(原因:「腹切り問答」)が、最大の過ちは、軍の圧力に屈し「軍部大臣現役武官制」を復活させたことです。以降、軍の意向に沿わない内閣は、陸軍大臣、海軍大臣のどちらかが辞任さえすれば全て流産させることが出来るようになってしまいました
(参考)「腹切り問答」とは:1937年1月21日に帝国議会において立憲政友会の浜田国松衆議院議員が、2.26事件以降の軍部の政治干渉を痛烈に批判する演説を行いました。これに対して寺内寿一陸相は答弁に立って「軍人に対しましていささか侮蔑されるような如き感じを致す所のお言葉を承りますが」と険しい表情で反駁。これが「腹切り」の話に至るまでの激論に発展しこれが廣田内閣総辞職に繋がってしまった事件

9.西安事件発生(1936年12月12日)
西安事件とは、国民政府の蒋介石が張学良らにより拉致・監禁された事件を指します。ここで、これまで敵として戦っていた毛沢東率いる共産軍との話し合いが行われ、抗日共同戦線(国共合作)が形成されることになりました。この結果、国民政府軍と中共軍が戦っていたエネルギーが全て日本軍に向けられることになり、その後日中戦争が泥沼化する主要な要因の一つになりました

西安事件_東京朝日新聞記事

中共軍のうち、朱徳将軍率いる八路軍(アグネス・スメドレー著『偉大なる道』に詳しく書かれています)は統制が取れ、敢闘精神旺盛な兵士の集団であり、戦った日本軍も苦戦を強いられました。戦時中満州に居た私の父母もパーロ(八路軍のこと)は本当に強かったと言っていたのを思い出します

朱徳将軍(左)と毛沢東主席(右)_抗日記念館で入手した写真集より

10.盧溝橋事件(1937年7月7日)
1937年7月7日夜、豊台(下記写真をクリックすれば場所が分かります)に駐屯する支那駐屯軍の第三大隊・第八中隊が盧溝橋近辺の河原で夜間演習中(この演習については日本軍は7月4日夜、国民政府軍側に通知済みであった)に実弾が撃ち込まれ、兵士が一名行方不明(後日発見された)となり、第三大隊は中国軍が駐屯する宛平県城を攻撃しました。その後、小規模の戦闘はありましたが、9日には事実上の停戦状態となりました。

盧溝橋事件・現場

しかし、日本軍は、抗日共同戦線(国共合作)の形成以降、中国側の抗日の意識が強くなっていることを憂慮し、北京~天津付近にいる邦人保護の目的で内地、朝鮮、満州から計5師団という大量兵力を現地に派遣しました。陸軍内もこの際一気に華北を占領しようとする拡大派と、事態の収束を図ろうとする慎重派に分かれていましたが、結局拡大派が主流を占め「武力膺懲(ようちょう/”懲らしめる”という意味」を加えることに決しました。以降、日中は全面戦争の泥沼に入っていきます

11,通州事件(1937年7月29日)
中国の通州(現北京市通州区)において満州事変の過程で作り上げた日本の傀儡政権である冀東防共自治政府麾下の保安隊(中国人部隊)が、日本軍の通州守備隊・通州特務機関及び日本人居留民を襲撃・殺害した事件
通州守備隊は包囲下に置かれ、通州特務機関は壊滅し、200人以上におよぶ猟奇的な殺害処刑が中国人部隊により行われました
こうした残虐事件の報道を通じて、日本の世論は「武力膺懲」を主張する陸軍の「拡大派」を後押しする結果となりました

通州事件報道_東京日日新聞

12.第二次上海事変(1937年8月13日~11月12日)
当時外国人の租界地阿片戦争後、中国大陸 各地の 条約港 に設けら、行政自治権治外法権を持っていた)であった上海には、日本人居留区を守る目的で、約4千人の海軍陸戦隊が駐屯していました。
1937年8月13日、国民政府軍が日本軍の駐屯基地に対して突然攻撃を開始しました。それまでの国民政府軍と違って、ドイツ軍参謀将校の指導による堅固な陣地(多数のトーチカとそれを結ぶ塹壕で出来ている)からの攻撃であった為、海軍陸戦隊は壊滅的消耗を余儀なくされました

中国国民党軍の銃座

8月15日、蒋介石は全国総動員令を発し7万人の大軍で海軍陸戦隊を攻撃日本軍も横須賀と佐世保の陸戦隊を追加派兵(6千3百人)しましたが、それでも劣勢は変わりませんでした
最終的に日本は陸軍9個師団を投入し、10月10日、国民党軍の陣地攻撃を開始し、2日後には各所で突破に成功しました。10月26日、上海近郊の要衝が陥落し中国国民党の上海攻囲軍は南京へ全面壊走を始めました
日本はこの様な大戦争を想定しておらず兵力の逐次投入を行った為、日本軍は大苦戦を強いられ、日本側兵員の死者は約1万、負傷者3万に達しました

南京城壁_右の川は揚子江
南京城壁_2017年南京訪問時の写真・右の川は揚子江

13,南京攻略戦(1937年12月4日~13日)、及び所謂「南京虐殺」事件
上海から敗走してきた中国国民党軍は、国民政府の首都である南京に集結しました。追走してきた日本軍は周りを取り囲む高い城壁を爆破し、10日間で攻略しました。子に時点で、日本軍の兵力約20万人に対しており、中国国民党軍の兵力約6万5千5百人で戦力の差はかなりありました
南京陥落

南京攻防戦の最中、国民党軍守備隊の司令官・唐生智が敵前逃亡し、中国軍の指揮系統が混乱しました。日本軍陸軍大将・松井石根降伏勧告をしましたが、守備隊は応答しませんでした。そこで「守備隊は降伏しない」と判断し、攻城戦から城内に入って殲滅戦を開始します。
この時松井大将が懸念していたのは、便衣兵と呼ばれる民間人に偽装したゲリラ兵の存在でした。日本軍は彼らにたびたび悩まされていたこともあり、この便衣兵に対する日本軍の厳しい掃討戦が虐殺ではないかともいわれています。中国側は丸腰の民間人であったと主張しているのに対し、日本の南京大虐殺否定派は便衣兵の処刑であるとし、軍事行動としては当然の行為だったと主張しています
松井石根陸軍大将は、この事件の責任を問われB級戦犯(戦争犯罪人)として東京裁判にて死刑判決を受けています

南京大虐殺の真偽?

南京を追われた中国国民党軍は重慶に遷都し、以降、日本軍に対しては「持久戦」に戦略を変更しました

14.ノモンハン事件(1939年5月11日~9月16日)
日ソ両国に多数の戦死者、傷病者を出した国境紛争
。当時、国民の多くには知らされないで闇に葬られ、戦後になって真実が知られるようになりました。
五味川順平、司馬遼太郎、半藤一利、等の書籍により、日本軍が装備に劣り一方的に犠牲を強いられという説が主流になっていましたが、ソ連邦崩壊後に明らかになった機密文書からソ連軍の損害も日本軍と同等かそれ以上であったことが分かっています

ノモンハン事件の戦場

15.ミュンヘン協定(1939年9月29日)
1938年9月、ナチスドイツはチェコスロバキア国内のドイツ人が多く居住するズデーデン地方の割譲を要求しました。当時フランスはチェコと相互援助条約を結んでおり、本来ならチェコを守る義務があったものの、1938年9月30日のミュンヘン会談で宥和政策を取るイギリスのチェンバレン首相、フランスのダラディエ首相ズデーテン地方のドイツ編入を容認しました(「チェンバレンの融和外交」としてイギリス政治の歴史的汚点となっています)。しかしナチスドイツは1939年3月、協定を無視して、予告なしにチェコスロヴァキア本体を軍事占領しました
16.独ソ不可侵条約(1939年8月31日)
その後、半年もたたないうちに世界を驚愕させる独ソ不可侵条約が締結されました。公表された条文は相互不可侵および中立義務のみでしたが、この条約と同時に秘密議定書が締結されていました。これは東ヨーロッパとフィンランドをドイツとソ連の勢力範囲に分け、相互の権益を尊重しつつ、相手国の進出を承認するという内容でした
同年9月1日にナチスドイツがポーランドへの侵攻を開始し、9月17日にはソ連もポーランド侵攻を開始しました。これに対し、イギリスのチェンバレン首相は、9月13日までに侵略を停止しなければ、英仏両国はドイツに宣戦布告する」と演説。ここからヨーロッパにおける第二次世界大戦が始まりました
その後、条約の秘密議定書に沿って、ソ連はバルト諸国併合とフィンランドに対する冬戦争、及びルーマニア領ベッサラビア(現在のモルドバ共和国)の割譲要求が行われました

17.ナチスドイツ破竹の進撃
1940年5月15日オランダは降伏、更にフランスは、難攻不落の要塞と言われたマジノ・ラインを一気に突破されてパリを占拠され、同月17日には無条件降伏しました。一方、イギリス軍は各所でドイツ軍に敗れ、40万人の敗残兵がダンケルクまで撤退し追い詰められましたが、敗残兵の大半は英国漁民の決死の救助活動などによりダンケルクから英国本土に撤退することが出来ました

18.日独伊三国同盟(1940年9月27日)
1937年、共産主義の脅威からの共同防衛を約した日独伊三国防共協定が締結されていました。しかし前年に独ソ不可侵条約が締結された為、共産主義の脅威から日本を守るという目的は果たせなくなっていました。これを敢えて軍事同盟にまで発展させたことは、アジアに植民地を持っている米英との関係が、決定的な対立関係になることを意味していました

日独伊三国同盟

ただ欧州戦線におけるドイツの快進撃により、日本国内の世論は沸き返り、この軍事同盟を歓迎する状況にありました

19.日ソ中立条約(1941年4月13日)
相互に領土の保全および不侵略を約すと共に、締約国の一方が第三国から攻撃された場合は他方は中立を維持することを決めたものです。有効期限は5年で、満期の1年前(1945年4月13日に当たります)に締約国の一方から破棄の通告がなければ、さらに5年間、自動的延長されることになっていました

日ソ中立条約・調印式

日独伊三国同盟とこの日ソ中立条約をセットにして考えてみると、米英にとっては日本の軍事力が南方(米英の植民地がある)に向くというメッセージを与えていた可能性があります

20.独ソ戦(1941年22日~1945年5月8日)
1941年6月22日3時15分、ナチスドイツ軍を中心とする枢軸軍は作戦名「バルバロッサ」の下にソ連に対して奇襲攻撃を開始しました。開戦当初は各戦線でソ連軍が大敗を喫していましたが、ソ連軍の粘り強い戦いで次第に形成が逆転し、最終的に米英ソ連合軍に対して無条件降伏で終結しました。独ソ戦の犠牲者(戦死・戦病死)は、ソ連兵が1470万人、ドイツ兵が390万人であり、民間人の犠牲者を含めると数千万人に上ると言われています
特に、スターリングラード攻防戦(1942年6月28日~1943年2月2日)は、独ソ戦の帰趨を決めた戦いで、スターリングラードの市街地は凄惨を極め、開戦前60万人いた住民が終結時点で約9800人になっていたと言われています。最終的に枢軸軍は包囲され降伏しました

スターリングラード攻防戦

21.太平洋戦争開戦と日本軍が優勢であった時期
1941年12月8日早朝(真珠湾攻撃より1時間50分前)に、当時英領だったマレー半島・コタバル(現在のマレーシア)に上陸を開始、英軍と戦闘を始めました1941年12月8日未明(ワシントン時間、12月7日昼過ぎ)真珠湾攻撃開始。攻撃の30分前に通告する予定でしたが、実際に通告したのは攻撃開始の55分後になってしまいました。結果として日本は 騙し打ちの汚名被る(  Remember Pearl Harbor )ことになり、アメリカにとっては一気に挙国一致体制を固めることが出来ました。一方、アメリカはこの日本の暗号電を盗聴しつつ徹夜で解読作業に取り組み、翌朝にはこれが「宣戦布告」の文書であることは知っていたと言われています

1941年12月10日、マレー沖を航行中の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスからなる英海軍の東洋艦隊を日本海軍の陸上攻撃機機の魚雷攻撃により撃沈させるという戦果を挙げました
1942年2月、イギリス領シンガポールを攻略、同年3月、オランダ領ジャワ島に上陸(石油資源確保パレンバン油田での1年間の産油量は当時の日本の年間石油消費量を上回る)、同年4月アメリカ領のフィリピンを攻撃しバターン半島の米軍は降伏、同年5月、フィリピン・マニラ湾のコレヒドール島を攻略しました。マッカーサーは「I shall return」の言葉を残して撤退しました

下記以降の戦いにおける両軍の主な戦いにおける損害状況詳細については後段の「開戦と終戦をアメリカに発した男_読書メモ」をご覧ください

22.日本軍の敗退の始まり
真珠湾攻撃後、無傷で残った空母軍を中心に米海軍は反攻を開始しました。1942年5月の珊瑚礁海戦では、日本海軍は空母1隻大破、軽空母1隻沈没の損害を被りました。一方、米海軍は空母1隻の沈没に留まりました
1942年6月、ミッドウェー沖で日米両軍の大海戦が行われました。日本海軍の司令官は真珠湾攻撃の司令官であった南雲忠一中将でした。ここで日本海軍は大敗を喫し、その後戦局は悪化を一途を辿ります。国民に対してはこの敗戦は秘匿されました
ガダルカナル島の戦い、1942年8月、ガダルカナル島に米海兵隊1万人余の上陸により戦闘が始まり、これに呼応した帝国海軍と連合軍との第1次~第3次のソロモン海戦によっても戦況を挽回できず、翌1943年2月1日から撤退作戦が行われました。この撤退作戦で日本軍は多くの死傷者を出しましたが戦病死と餓死がその三分の二を占めるという悲惨な戦闘となりましが、国民に対してはこの敗戦も秘匿されました。また、米軍にとってもこの戦闘は大きな犠牲を伴うものでした

23.日本軍の無謀な作戦によって屍の山を築いていった
1941年1月8日、陸軍大臣・東條英機は「戦陣訓」を示達しました(陸訓一号)
この戦陣訓によって、絶望的な状況に置かれた兵士、民間人が死を選んだと言われています

太平洋の玉砕戦_「別冊宝島・大きな地図で読み解く太平洋戦争の全て」より

⑧1942年8月7日~8日、ツラギ島守備隊玉砕
⑨1943年5月12~29日、アッツ島守備隊玉砕
⑩1943年11月20~23日、マキン島守備隊玉砕
⑪1943年11月21日~23日、タワラ島守備隊玉砕
⑫1944年1月30日、ルオット島守備隊玉砕
⑬1944年1月30日~2月6日、クェゼリン島守備隊玉砕

1944年3月8日~7月3日、インパール作戦実施。援蔣ルート(連合軍が蒋介石軍に武器、弾薬、他の援助物資を輸送していたルート)の遮断を目的として、イギリス領インド帝国北東部の都市であるインパール攻略を目指した作戦。日・英・インドそれぞれに大きな犠牲を払う結果(両軍の損害状況の詳細については後段の「開戦と終戦をアメリカに発した男_読書メモ」をご覧ください)になりましたが、特に日本陸軍の膨大な戦死者の半分以上が戦病死であったことは指揮官(牟田口廉也中将)の重大な作戦ミスであったことは間違いないと思われます

インパール作戦

1944年5月27日~8月20日、ビアク島守備隊玉砕

1944年6月19日~20日、マリアナ沖海戦で日本海軍は壊滅的敗北を喫し、空母部隊による戦闘能力を喪失しました。マリアナ諸島の大半はアメリカ軍が占領することとなり、西太平洋の制海権と制空権は完全にアメリカが掌握され、太平洋の島々に展開する日本守備軍は米軍による艦砲射撃、空爆により絶望的な戦いを強いられることになりました

1944年6月15日~7月9日、サイパン島守備隊玉砕。サイパンを基地にすればB29爆撃機により日本本土ほぼ全域が爆撃可能となりました

サイパン島の戦い_朝日新聞

 1944年7月21日~8月10日、グアム島守備隊玉砕
⑲1944年7月24日~8月2日、テニアン島守備隊玉砕
⑳1944年9月15日11月27日、ペリリュー島守備隊玉砕
㉑1944年9月17日~10月19日、アンガワル島守備隊玉砕

㉒1945年2月19日~3月26日、硫黄島守備隊玉砕
米国内では、戦費を調達する為の国債を国民に購入してもらう為に、激戦だった硫黄島の戦いにおける摺鉢山頂上を攻略した時の海兵隊員の写真(下の写真の右側)が使われたそうです(クリント・イーストウッド監督の映画「父親たちの星条旗」より)

硫黄島の戦い

㉓1945年4月6日~6月23日、沖縄戦。沖縄諸島各地(主に本島)での陸上戦菊水作戦(1号~10号)と呼ばれる航空機と艦艇(戦艦大和も参加)による特攻作戦を実行しましました

沖縄戦
戦艦大和の最後

上の写真右側の本は特攻を行う部隊に入り、生き延びた学徒兵出身の作家二人の対談です。島尾敏雄の代表作は「死の棘」、吉田満の代表作は「戦艦大和ノ最期」です

24.無条件降伏への歩み
㉔1945年2月4日~11日、ソ連圏のクリミア半島ヤルタ近郊のリヴァディア宮殿でルーズベルト、チャーチル、スターリンによる連合国首脳会談(通称ヤルタ会談)が行われ、ソ連はドイツ敗戦後90日後に対日参戦すること、及び千島列島・南カラフト・朝鮮半島・台湾などの日本領土の処遇が決定されました
1945年3月10日東京大空襲
㉕1945年4月6日、ソ連のモロトフ外相は、「日ソ中立条約」を延長せずと通告
㉖1945年4月7日、小磯内閣総辞職 ⇒ 鈴木貫太郎内閣成立、阿南惟畿(これちか)陸相、米内光政海相、東郷茂徳外相
1945年5月14日、「最高戦争指導会議」でソ連に和平の仲介を依頼する方針を決定しました
㉗1945年7月10日、「最高戦争指導会議」でソ連に特使(近衛文麿)派遣を決定。しかし、同月18日、ソ連は否定的回答を伝えてきた

㉘1945年7月26日、連合国「ポツダム宣言」を通告。鈴木首相が宣言発行直後に発表した新聞談話で「宣言を黙殺する」と発言してしまった。連合国側はこの黙殺を「拒否」と解釈してしまった。
㉙1945年8月6日、広島に原爆投下
㉚1945年8月8日、ソ連は日本に対して「宣戦布告。満州国国境及びカラフトからソ連軍が進入しました。この突然の侵攻によって、当時満州在住の日本人がどんな悲惨な体験をしたかには、私の以下のブログをご覧ください:母方親族の戦争体験
㉛1945年8月9日、長崎に原爆投下

㉜1945年8月15日、ラジオの玉音放送で天皇から直接、全国民に終戦が伝えられました
㉝1945年8月30日、極東軍司令官ダグラス・マッカーサーが厚木基地に到着。横浜に総司令部(GHQ)を置き日本占領を開始しました
㉞1945年9月21日、横浜沖に停泊していた戦艦ミズーリ号上で「降伏文書」の調印式が行われました

マッカーサーによる占領統治開始
日本の針路を誤らせた幾つかの判断

日本が第一次世界大戦で戦勝国の仲間入りをしてから、第二次世界大戦の敗戦に至るまでの間、多くの政治的・軍事的な判断が行われましたが、結果的に泥沼の日中戦争に突入し、更にその収束の努力を充分に行わないままで、巨大な敵である米英に戦いに挑んでしまいました
今考えてみれば、正に負けるべくして負ける判断を続けてしまった訳ですが、ここではその判断の是非について私見を述べてみたいと思います

A.満州事変の際、熱河省まで進出してしまった判断(1933年2月)
1933年2月、中国の東北三省(遼寧省 、吉林省、黒竜江省)を超えて熱河省まで進出したことにより、東北三省を清国発祥の地であるとして満州国の正統性を主張していた論拠を自ら破る事に繋がり、国民党政府の強い反発を招くとともに、その後の抗日共同戦線が形成、盧溝橋事件の発生などを招くことになりました
また、通州事件が起きた背景も、こうした反発から来たと考えられ、こうした残虐事件が日本国内における「暴支膺懲」の空気を盛り上げ、中国内における陸軍の暴走を許す結果になったと考えられます

B.リットン報告書の採択拒否と国際連盟脱退の判断(1933年3月)
リットン報告書は東北三省の日本の歴史的な権益と、治安の悪化によってこうした権益が脅かされていることを認めていることから、国際連盟総会における報告書の採択反対が受け入れられなかったとしても、連盟脱退によって常任理事国としての地位、その後の中国との紛争解決を提起する場を自ら放棄してしまったのは最悪の判断だったと思います
連盟脱退以降、国民政府による反日国際世論の形成に対して、国際連盟の場を使った反撃を行えなくなり、日本の外交は二国間協議の場しか残されなくなってしまいました

C.海軍軍縮条約最終的に脱退してしまった判断(1935年12月)
第一次世界大戦終結2年後に開催されたワシントン軍縮会議で米国・英国・日本・仏・伊の主力艦保有率を5:5:3:1.67:1.67とするワシントン海軍軍縮条約が締結されました
海軍の艦隊派はこの比率に不満を持ち、第二次ロンドン会議の一年前にワシントン軍縮条約の廃棄を通告し、1936年1月にはロンドン会議からも脱退をしてしまいました

この判断には、ワシントン会議では米英との協調外交を掲げる幣原喜重郎が首席全権大使を務めていたをしたのに対し、ロンドン会議では永野修身海軍大将が首席全権ことが影響しているとは思いますが、この判断は明らかに間違っていると思います
第一に、1929年の世界恐慌によって日本の経済は深刻な打撃を受けており高額な艦艇の建造競争に勝てる経済的な余裕を持っていなかった、第二に満州事変を起こし満州国を建国したばかりであり、中国に多くの権益を持っている米英に、軍事力で対抗するというシグナルを与える可能性が高いことがあり、ここは臥薪嘗胆の精神で米英との艦艇保有比率を守った上で、日本の経済力が許す範囲で航空戦力の増強陸戦能力の向上の為の高性能武器の開発などに注力すべきであったと私は考えます

D.広田内閣における「軍部大臣現役武官制」実施の判断(1936年5月)
この制度により、陸海軍どちらかの反対があれば、内閣が成立しなくなることから、結果として軍部予算や、軍事に関わる政治判断が、軍部の主張を取り入れる形でしか決まらなくなりました。また、この制度と「統帥権干犯」という伝家の宝刀!により、経済や外交で打てる手が限られ、その後の中国に対する軍事行動の歯止めが利かなくなりました

E.日独伊三国同盟締結の判断(1940年9月)
以下の理由によりドイツとの軍事同盟を結ぶ必要性は全くなかったと私は思います
日本とナチスドイツはアジアにおいて共同の軍事行動を取るメリットは全く無いこと
②第二次上海事変において、ナチスドイツ軍参謀将校の指導により攻撃力を強化した国民党政府軍により、日本の海軍陸戦隊は多大な損害を被った為に、大軍を上海に派遣せざるを得なくなり、上海⇒南京⇒重慶⇒、、、と日中戦争の深みにはまりこむ要因を作ったこと
ナチスドイツはミュンヘン協定を一方的に破ってチェコを併合した上で、独ソ不可侵条約(三国同盟の前に締結していた日独伊防共協定は、ソ連の脅威から日本を守る意味があった)を締結し、ソ連との間で東ヨーロッパの分割を行いました。またその後、西ヨーロッパ全域に戦争を拡大していること、など国際協定の信義を守る国で無いことは明白であったこと
ドイツとの軍事同盟の締結は、英国のみならず、英国をバックアップしている米国との緊張関係を生むこと

また上記①~④と併せ、ヒトラーが獄中で書いた「我が闘争」の”民族と人種”の章では、日本人はアーリア人に比べると文化的に低い民族と書いていること(参考:ヒトラー著「我が闘争」第11章・民族と人種)も、同盟国に足るだけの信頼を置ける国ではなかったことも忘れてはならないと思います

F.「戦陣訓」示達の判断(1941年1月8日)
当時、日中戦争が泥沼に陥り死傷者が増加する一方であったこと、また米国との軋轢が酷くなり、近い将来米国との厳しい戦いが始まる可能性があった中で、兵士の戦意向上を狙って示達されたと思われます

1882年、兵の規律を高めるために「軍人勅諭」が示達されています。これを読むと、農村出身者が多くを占める当時の兵士に、武士としての心構えを説く内容になっています。日露戦争時、旅順攻防戦で日本が辛勝した後の乃木希典将軍はステッセリ将軍との紳士的な降伏会談を行ったこと、日本海海戦で日本が大勝したあと捕虜となったロジェストウェンスキー将軍東郷平八郎が見舞い、ロシアの勇敢な戦いを称賛した逸話などは正にこの精神に沿ったものでした;

日露戦争・勝利後の武士道精神

また、第一次大戦終了後の日独戦の捕虜(約5,000人)は、1899年のハーグ陸戦条約の捕虜規定に従って日本各地に設営された収容所において人道的な待遇を受けました。ヴェルサイユ条約締結後、本国送還が行われましたが、約170人の捕虜は日本に残り、収容所で培った技術で生計をたてたと言われています。バームクーヘンでよく知られている「ユーハイム」もその人達の生き残りの会社だそうです。尚、日本人が大好きな年末のベートーヴェン交響曲第9番の演奏は、収容所内でのドイツ人捕虜によるクラッシク音楽の演奏から広まったと言われています。以下の写真は、2014年に私が、鳴門にあるドイツ捕虜収容所記念館を訪れた時に撮影したものです;

第一次大戦時のドイツ人捕虜の取り扱い

一方、戦陣訓」には、こうした武士道精神はかけらも無く、有名な;
生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」、
屍を戦野に曝すは固より軍人の覚悟なり。縦ひ遺骨の還らざることあるも、敢て意とせぎる様予て家人に含め置くべし
などは、戦地に行く兵隊に、刀折れ絵、矢尽きたあとに、ハーグ陸戦条約基づく降伏する道があることを教えなかった事が、戦争後半における無意味な「玉砕」を多発させ、特攻作戦を生み、追い詰められた民間人の集団自決を招いてしまった事は明白です。満州の戦争の最終局面における集団自決(参考:麻山事件を読んで)も同様です。更に、玉砕を英雄的に報道したメディアもその責を負わねばならないと私は思います
また、こうした攻撃を恐れた米軍が、情け容赦のない密集した市街地の焼夷弾爆撃や原子爆弾の投下を決断した事も、作戦を指揮した米軍幹部の証言からも明らかになっています

G.対米英開戦の決断と真珠湾攻撃(1941年12月8日)
日中戦争を継続中であるにも拘わらず、米英に対して開戦を決断した背景には、通商関係の遮断、とりわけ米国が石油の禁輸を行ったことによる焦りがあったものと思われます。石油以外の軍需資源についても以下の通り長期の戦争に耐える水準ではありませんでした

開戦時点の日本の資源保有量_「別冊宝島・大きな地図で読み解く太平洋戦争の全て」より

これは当時の経済官僚が作成したと思われますが、この状況を知った上で、東南アジア諸国の資源を確保する為の戦争と、中国との戦争の継続と、同時に米国との戦争を始めるというのは、補給面から考えて無謀であると言わざるを得ません
その結果が、開戦後半年でミッドウェイ海戦に大敗し、しかも広い西太平洋の島々に戦力を分散配置していた為、各個撃破されて敗戦の道をまっしぐらに歩んでしまいました

日露戦争の時も巨大な相手でしたが、英国という頼りになる同盟国があり、停戦を仲立ちしてくれる米国という国がありました。この戦争では開戦時点でこうした頼りになる同盟国は居ませんでした
敗色濃厚になって日ソ中立条約を頼りにソ連に仲介役を頼んだ訳ですが、日露戦争でロシアが満州に持っていた全権益と南カラフトを取得し、ロシア革命ではシベリア出兵を行い、ノモンハン事件ではソ連軍に大きな損害を与えた国に仲介役を期待するのは非常にバカげていたと私は思います
結局、開戦の時点で残されていた選択肢は、「ハルノート」を受け入れる前提で、できる限り条件交渉をうまく進めること以外になかったと思います

また、真珠湾攻撃をする前に米国への宣戦布告をしなかった事は、極めて大きな判断の誤りだったと言わざるを得ません。ワシントンの日本大使館員の怠慢により宣戦布告が遅れたと言われていますが、真実はどうやら日本海軍が米国太平洋艦隊を極度に恐れていた為に、宣戦布告のタイミングを攻撃開始直前に設定したことが真の原因であると私は思います。でなければ、南雲忠一司令官が、米海軍空母軍の索敵を行って攻撃を行うべきだったにも拘らず、真珠湾攻撃が成功裏に終わると直ぐに反転して帰路についたことでも想像がつきます。正に半年後のミッドウェイ海戦では、この南雲忠一司令官率いる日本海軍の相手がこの米海軍空母軍だったのですから、、、
「宣戦布告」前の奇襲攻撃により、「Remember Pearl Harbor」という合言葉が生まれ、米軍の士気を大いに鼓舞したことは疑いなく、米軍にとっても苛烈な西太平洋の上陸作戦を実行することができたのだと思います

敗戦の経験を現在の政治・軍事情勢に生かす

現在、日本は巨大な軍事大国となった中国と、核戦力を持つに至った北朝鮮とは軍事的に対峙しています。また国境を接する中国と韓国とは、尖閣諸島(中国名「魚釣島」;日本が実効支配している)と竹島(韓国名「独島」;韓国が実効支配している)につい領有権を争っているために、こんなちっぽけな島であっても、常に戦争に発展するリスクがあることを歴史から学ばねばなりません
どんなにちっぽけな島でも、領有することによって国際法で認められている領海(岸から12海里=21.6kmの範囲)と排他的経済水域(岸から200海里=360kmの範囲)の海域を持つ権利があり、領海については軍事上の拠点としての価値があり、排他的経済水域については漁業資源のみならず海底の地下資源に関わる排他的な権利を保有できる価値があります。本件について詳しく知りたい方は、私のブログ:「国連海洋法条約」についてちょっと勉強してみましたをご覧ください
また、尖閣列島に関しては、中国の艦船が太平洋に進出する際の出口を囲んでいる「第一列島線」を構成しており、日中にとって軍事的な意味が非常に大きいと言われています。本件について詳しく知りたい方は、私のブログ:「尖閣諸島問題を考える」をご覧になってみてください。

領有権については国連海洋法条約に基づく仲裁裁判所に判断してもらうことも出来ますが、争っている片方の国が実質的に裁定に従わないこともよくある事です(参考:160712_中国・南シナ海で全面敗訴

こうした状況にある問題について、敗戦の経験を生かすとすれば、以下の様な政治的な対応が求められると私は思います;
尖閣諸島領有問題
習政権になってからの中国は、満州国を建国した当時の大日本帝国に非常によく似た覇権国としての振る舞いが目立つようになっています周辺の国々と国境紛争(インド、ベトナム、フィリピン、インドネシア、台湾)を抱え、国内では民族問題(チベット人、ウィグル人、モンゴル人、朝鮮人)に頭を悩ませ(まるで大日本帝国が行った「五属協和」のような政策も行われていると聞きます)、また開発途上国を中心に中国を支持する国を増やす外交政策は、まるで大日本帝国が行った「大東亜共栄圏」に似ているようにも見えます

この様な中国と対峙するには;
1.軍事的に挑発することは最悪
現在中国では、海警局(日本の海上保安庁/国土交通省の外局)の組織を中国人民軍の指揮下に入れると共に、海警局の船舶を大型化・重武装化を行って(自身が主張する!)領海に侵入してくる船舶を撃沈することも国内法的には可能にしています
昨今、尖閣諸島領域では領海侵犯以外に、漁を行っている日本の漁船を追い回すことも行っており、漁民に被害が出ない様に巡視船が双方の間に入って紛争にならない行動を取ると同時に、外交ルートで「厳重抗議」を行っています。こうした対応はまどろっこしい様に思えますが、この対応は先進諸国や中国との紛争を抱えている国々の支持が得られていることは確かなので、外交的には優位に立っていることは間違いありません。間違っても領海侵犯であるとして攻撃を先に仕掛けてはいけないと思います

Follow_Up:210303_尖閣「危害射撃」政府見解を整理へ・有識者に聞く_中国海警法1カ月・領海侵入、4年半ぶり高水準

<参考>  「日中・海洋法条約で対立
<参考> 「海洋法に関する国際連合条約」の関連条文
第二十五条 沿岸国の保護権
1 沿岸国は、無害でない通航を防止するため、自国の領海内において必要な措置をとることができる
2 沿岸国は、また、船舶が内水に向かって航行している場合又は内水の外にある港湾施設に立ち寄る場合には、その船舶が内水に入るため又は内水の外にある港湾施設に立ち寄るために従うべき条件に違反することを防止するため、必要な措置をとる権利を有する
3 沿岸国は、自国の安全の保護(兵器を用いる訓練を含む。)のため不可欠である場合には、その領海内の特定の水域において、外国船舶の間に法律上又は事実上の差別を設けることなく、外国船舶の無害通航を一時的に停止することができる。このような停止は、適当な方法で公表された後においてのみ、効力を有する
第二十六条 外国船舶に対して課し得る課徴金
1 外国船舶に対しては、領海の通航のみを理由とするいかなる課徴金も課することができない。
2 領海を通航する外国船舶に対しては、当該外国船舶に提供された特定の役務の対価としてのみ、課徴金を課することができる。これらの課徴金は、差別なく課する
第三十条 軍艦による沿岸国の法令の違反
軍艦が領海の通航に係る沿岸国の法令を遵守せず、かつ、その軍艦に対して行われた当該法令の遵守の要請を無視した場合には、当該沿岸国は、その軍艦に対し当該領海から直ちに退去することを要求することができる。

2.日米安保条約を結んでいる米国、及び中国と対峙しているインド、オーストラリア、英国などの国々と強力な連携を行うこと
米国とは日米安保条約の下で尖閣諸島防衛を共同で担う盟約ができています。また、インド、オーストラリア、英国などの国々とは「2プラス2(外務、防衛に関わる2閣僚)の会議」が定期的に行われており、同盟国に準ずる支援が得られる可能性が高い状況が構築されています。先に手出しをする必要は全くありません

3.急襲され、占拠されても再び奪取することが可能な戦力を保持していることを顕示すること
敵の軽はずみな先制攻撃をさせないには、強い反撃能力を常に顕示することが最も有効な方法です。日本は既に①「水陸両用部隊」を設置し、米国との間で共同訓練を行っていること、②離島に敵前上陸する為の戦備の調達(例えば「AAV7」の調達、など」を実施していること、③防空体制の強化(ヘリコプター搭載空母「いずも」のF35B戦闘機搭載可能とする改修、など)を計画していること、などを行っています

最近、とある人からの薦めがあって「邦人奪還」という本を読んでみました;

著者・伊藤祐靖氏は、防衛大学卒で海上自衛隊に入隊した後、能登半島沖不審船(北朝鮮)の事案に遭遇し、海上自衛隊の「特別警備隊」の創設に関わった人です。現在は退官してアドバイザー、執筆活動、などを行っています。
この本では中国に「尖閣諸島」を占拠された想定で人質となった邦人の奪還作戦をリアルに描いています。日本ではありえないことの様に思われていますが、JALの現役社員であった時代にJAL機を含む民間航空機が過激分子にハイジャックされ、乗員・乗客を人質を取られる事件が度々起きました。日本では犯人に譲歩する事しかできませんでした(よど号事件)が、ルフトハンザ航空がハイジャックされたケースでは、ドイツ軍の特殊部隊が突入して人質旅客を救助していました。平時にあってもこうした事態に対処できることを羨ましく思った記憶があります

竹島領有問題
太平洋戦争終結後、韓国の大統領・李承晩が、米軍も認めなかった「李承晩ライン」を設定し、その内側にあった「竹島」を勝手に領有宣言しただけのもので歴史的な根拠は全くありません。詳しくは私のブログ:「日韓関係_その2(「反日種族主義」を読んで)」をご覧になってください。従って;
4.韓国が同意しなくても国連海洋法条約に基づく仲裁裁判所に提訴し、勝訴した後、米国と協調して返還を要求する。解決まで長引く場合は、当面の対策として「漁民の安全操業」を約束させる

北朝鮮問題
北朝鮮が保有している核兵器が日本に向けられる可能性はゼロではありません。しかし、北朝鮮は核ミサイルを発射し、日本か米国の目標に向かっていることが確実になった時点で日米安保条約に基づく強力な反撃を受けることは十分に承知しており、先制攻撃を行う可能性は極めて低いと思われます、従って、
5.北朝鮮に対する軍事的な圧力を強めて自暴自棄になる状況を作らない様にした上で、経済の締め付けを維持しつつ長期戦で自壊を待つのが最善の策

開戦と終戦をアメリカに発した男_読書メモ

著者:福井雄三_東京国際大学教授/国際政治学、日本近現代史
初版:2020年4月13日 ⇒ 2020年6月11日第5刷発行
発行人:松藤竹二郎/元毎日新聞記者;(株)毎日ワンズ・代表取締
発行所:(株)毎日ワンズ

加瀬俊一(としかず);
生年・没年:1903年~2004年
*加瀬家:北総40数ヶ村を支配する豪農;父・加瀬禧逸は弁護士・衆議院議員・中央大学副学長
*俊一・外務省入省までの経歴:府立一中⇒東京商大⇒22歳で外交官試験合格

ワシントン軍縮会議(1921年年11月12日~1922年2月6日):米国・英国・日本・フランス・イタリアの主力艦保有率を米英5、日本3、フランス、イタリア1.67とするワシントン海軍軍縮条約が締結された

1926年、入省後すぐに米国留学(マサチューセッツ州・アマーストカレッジ/新島襄・内村鑑三も卒業生)⇒ハーバート大学・大学院
当時の外務大臣/幣原(しではら)喜重郎(米英との協調外交を主張)、当時の米国大使/松平恒雄(会津藩主・松平容保の子)

1928年外交官補として東郷茂徳主席書記官に仕える。東郷書記官から加瀬は外交官としての基本を徹底的に仕込まれた
(注)東郷茂徳は李氏朝鮮の陶工の末裔(1598年、慶長の役の際、島津義弘によって拉致された16人の陶工の子孫は、代々朝鮮風の氏名を受け継ぎ、苗代川に居住することを薩摩藩から命じられた;詳しくは司馬遼太郎作「故郷忘れじ難く候」参照)。旧制七高(現鹿児島大学)から東京帝大に進み、大学在学中に「朴」姓から「東郷」姓に変えている

*1928年6月4日、張作霖爆殺事件
瀋陽市近郊で、日本の意向に従わなくなった張作霖(奉天軍閥の指導者)が関東軍によって暗殺された事件

1929年東郷重徳が参事官に昇進し。米国からドイツに転任になると同時に加瀬ドイツへの転任辞令が出た。ドイツでは、デビューしたばかりの「マレーネ・デートリッヒ」と交際し、踊り明かしたこともある

1929年10月24日、ニューヨーク市場で株価が大暴落⇒世界的な大恐慌に陥った  この時ドイツは、ワイマール共和制の末期で、退廃と悦楽の文化が絢爛として花開いていると同時に、経済的には第一次世界大戦敗戦後に課せられた巨額の賠償金の為にハイパーインフレに陥り、混乱の極みにあった

1930年1月から第一次ロンドン軍縮会議若槻禮次郎元総理が首席全権)が開催され、加瀬は日本全権団をサポートする為ベルリンからロンドンに派遣された
*一連のテロ:浜口雄幸首相は1930年11月首相在任中に愛国社社員の佐郷屋留雄に銃撃され翌31年8月に死去、井上準之助は1932年2月、血盟団の小沼正により殺害された。1932年3月には三井財閥(企業防衛の目的で行った「円売りドル買い」が非難されていた)指導者の團琢磨が殺害された

1931年9月柳条湖事件発生。瀋陽市近郊の柳条湖付近で、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破した事件。関東軍はこれを中国軍による犯行と発表することで、満州における軍事展開を行った
*1931年9月18日~1933年5月31日)満州事変発生。柳条湖事件をきっかけとして始まった日本と中華民国との間の武力紛争(宣戦布告無しの戦闘)で、関東軍は約6か月で満州全土を占領した。正式には、1933年5月31日の塘沽協定の成立で紛争は終結することになった
*1932年3月 満州国建国
1932年10月、満州国建国に関する「リットン報告書」が発行されたが、意外にも日本の立場に一定の配慮を示していたものの、日本国内では新聞の威勢のいい論説が主流となり国際連盟脱退の世論が形成されていった(⇔世論の右傾化

1932年4月上海天長節爆弾事件発生:上海の虹口公園(現在の魯迅公園)で実行犯・尹奉吉(日本による朝鮮支配を駆逐する目的で設立された韓民国臨時政府のメンバー)による爆弾事件。この爆発で、上海居留民団行政委員会会長の医師河端貞次が即死、第9師団長植田謙吉中将、第3艦隊司令長官野村吉三郎海軍中将、在上海公使重光葵、在上海総領事村井倉松、上海日本人居留民団書記長の友野盛が、それぞれ重傷を負った。重光公使は右脚を失い、野村中将は隻眼となった。白川大将は5月26日に死亡した
1932年5月15日、海軍将校の率いる一団による5・15事件が発生し、犬養毅首相が殺害された

1933年加瀬は外務省本省の情報部に配属された。この時の外相は広田弘毅、次官は重光葵(まもる)。既に外務省一の英語の達人で、ドイツ語もフランス語も話す加瀬は、弘田外相にロシア語以外の通訳は加瀬にまかされることになった。広田外交は日米友好の回復、対ソ関係の調整、満州国の独立を維持しつつ、中国本土には一切干渉しない方針であった

*1933年3月27日、国際連盟脱退
1933年7月神兵隊事件発覚(斎藤実総理を筆頭に全閣僚、及び政友会・民政党の総裁を殺害し、皇族内閣を組織して昭和維新断行を目指していた)ご全員逮捕され有罪となったものの、全員の刑罰が免除された( ⇔ 裁判も右翼・軍部への迎合を行っていた)

1935年12月第二次ロンドン軍縮会議(永野修身海軍大将が首席全権)が開催された。加瀬は外務省随員として参加。日本は、海軍内が既に「艦隊派」に牛耳られていた為、前年の予備会議でワシントン海軍軍縮条約の廃棄を通告し、1936年1月、遂にロンドン会議から脱退(この時の離脱通告文は加瀬が起草した)
加瀬はロンドン会議について日記に「海軍随員は日本の世論に迎合するのに汲々として、国益のために挺身する意欲がなく、外務随員には識見力量をもって海軍を圧倒する人材見当たらず、事務的に消極的助言をするに過ぎず、誠に情けない。他方、各紙特派員は無定見に強硬論を煽るので、日本国民はこれに誤られて、真相を知る由もない・・・・・」と記している

*明治以降、陸軍の伝統的な基本戦略は「対ソ北進」であり、米国との戦争など最初から想定していなかった(⇔ 満州国建国を主導した陸軍中将・石原莞爾による「世界最終戦論」では敵は米国としているが?
1936年2月、陸軍皇道派による2・26事件発生(斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監殺害、鈴木貫太郎侍従長重傷)。この後、広田弘毅を首相とする内閣が発足した

*2・26事件以降、陸軍は「統制派」に牛耳られ、以降皇道派の置き土産であるクーデターの恐怖をちらつかせながら政治家を脅迫した結果、軍による政治への干渉は最早抑えることが出来なくなった
*広田内閣は軍の圧力に屈し、「軍部大臣現役武官制」を復活させた
1936年12月12日、西安事件発生:蒋介石が張学良らにより西安に拉致され、毛沢東率いる共産軍との抗日共同戦線が形成されることになった

1937年1月、弘田弘毅の強力な推薦により加瀬イギリス大使館勤務を命ぜられた。
*1937年6月、国民の期待を一身に集めた近衛文麿内閣(第一次;1937年6月~1939年1月)発足。近衛文麿は五摂家の筆頭であると同時に東京帝大から京都帝大に進み、主席卒業という華麗な経歴を持っていた
近衛文麿の思想の一端:「・・・全世界に植民地を持ちその利益を独占する米英にとって、現状維持は最善かも知れぬが、膨張発展を封じられたドイツにとっては平和原則に反するものだ。国際的な境遇からいえば、日本はドイツと同様に現状打破を求めるのが当然なのに、我が国の論者が英米の宣伝に惑わされて、国際連盟を天啓の様に賛美するのは笑止の沙汰だ。領土が狭く、資源も乏しく、輸出市場も貧弱な日本は、状況次第で生存の必要性に迫られて、ドイツの様に現状打破に打って出る日が来るだろう」

1937年7月7日盧溝橋事件発生。近衛首相も蒋介石も、盧溝橋で放たれた一発の銃弾があれ程の大戦争(日中戦争/支那事変)に発展するとは夢にも思っていなかった(⇔1914年6月28日、オーストリア帝国の皇位継承者フランツ=フェルディナント夫妻が暗殺された「サラエボ事件」が第一次世界大戦のきっかけとなったことを思い出させます
1937年7月29日通州事件発生。中国の通州(現北京市通州区)において日本の傀儡政権である冀東防共自治政府麾下の保安隊(中国人部隊)が、日本軍の通州守備隊・通州特務機関及び日本人居留民を襲撃・殺害した事件。通州守備隊は包囲下に置かれ、通州特務機関は壊滅し、200人以上におよぶ猟奇的な殺害、処刑が中国人部隊により行われた

1937年8月13日、第二次上海事変発生。ドイツ軍参謀将校の指導による堅固な機関銃陣地により、駐留していた海軍陸戦隊約4千名は壊滅的消耗を余儀なくされ、陸軍2個師団及び増援軍により制圧したが、その後、敗走する中国軍を追い南京に攻め入るなど、中国全土への戦争拡大が始まった

加瀬のロンドン赴任は海路で、横浜⇒香港⇒シンガポール⇒ペナン(スエズ運河経由)⇒ナポリ⇒(陸路)ローマ(ムッソリーニと会見)⇒(鉄道)ロンドン到着。当時のロンドン大使は吉田茂

*1938年9月、ヒトラーはチェコのズデーデン地方の割譲を要求。イギリスのチェンバレン首相はヒトラーと会見し、フランスと共にヒトラーの要求に応じることとした。当時、フランスはチェコと相互援助条約を結んでおり、本来ならチェコを守る義務があった
同年9月30日、ムッソリーニの仲介でミュンヘンに集まったチェンバレン、ダラディエ(フランス首相)、ヒトラーの4巨頭は、ヒトラーの要求をほぼ全面的に認めるミュンヘン協定を締結した
当時ハーバード大学の学生だったJ.F.ケネディは、当時のイギリス大使であった父親を訪ねてロンドンに来ることがあり、加瀬とは顔見知りになっていた。ケネディは、ミュンヘン会談が歴史に及ぼした結末に強い衝撃を受け、この会談を卒業論文のテーマにした(タイトル:「何故イギリスは眠っていたのか」;1940年に出版されベストセラーになった)。「平和主義者が戦争を引き起こす」というミュンヘン会談の教訓を骨身に徹して理解していたケネディは、大統領になってから「キューバ危機」で見事にこの教訓を生かした
加瀬は、アメリカ大使館の情報と引き換えという条件でケネディに50ポンド貸してあげたとの逸話が残っている

1938年10月、吉田茂大使は定年(60歳)で辞職。愛国的自由主義をモットーとする吉田は、英米との友好に全力を傾けていたが、彼の努力は実ることが無かった。日本政府は日英関係を改善するためモスクワから重光葵をロンドンに転任させた
重光大使は、「日英米三大海軍国の協調こそが世界平和の基盤である」との信念をもっており、イギリスの政府内にも共鳴者が少なからずいたと云う

チャーチル首相は、日本非難の辛辣な言動を繰り返すので、これがイギリスの世論に少なからぬ影響を与えていた為、加瀬はチャーチルとの会見を画策していた。予て知遇を得ていたイギリス政界の重鎮ロイドジョージの仲介でチャーチルとの会見を実現した時、チャーチルの著作を全て読破していた加瀬は、チャーチルを感激させ、以来すっかり加瀬に心を許し、彼の反日発言は明らかに少なくなったと云う*この頃、陸軍を中心に親・独伊の枢軸派が台頭しつつあり、外務省内にも枢軸派の外交官達が幅を利かすようになる。その代表がドイツ大使の大島浩とイタリア大使の白鳥敏夫であった(二人とも東京裁判で終身禁錮の判決を受けた)。ロンドンの大使館でも加瀬の同僚である牛場信彦などは、毎朝大使館に入ってくる際「ハイルヒトラー」といって手を挙げていたという

*1939年3月、ドイツは当時ヨーロッパ随一の工業国だったチェコを併合した
*1939年8月、独ソ不可侵条約締結。同年9月1日、ドイツ軍はポーランド侵攻開始(ソ連も9月17日にポーランドへの侵攻を開始した)
*チェンバレン首相は議会で、「9月13日までにポーランド侵略を停止しなければ、英仏両国はドイツに宣戦布告する」と演説。宣戦布告はしたものの、ドイツと英仏間の戦闘はこの後7ヶ月間発生しなかった

*1940年4月、ノルウェーを巡って英独間に壮絶な海戦(北岬沖海戦/Battle of North Cape)が発生し、双方に相当の被害が出たものの勝敗の決着はつかなかった
*1940年5月11日、ドイツ軍は突如としてオランダ、ベルギーの国境を突破して電撃的な攻撃を開始。二日後にチェンバレン首相は辞任し、チャーチルが首相に就任した。彼はヒトラーとの戦いを貫徹する決意を述べ、最後に「私が国民に提供できるのは血と苦しみと涙と汗だけである」と述べると、万雷の拍手が沸き起こり、議場は大歓声に包まれた
重光と共に加瀬も議場内の外交団席でこの演説を聞き、二人とも国難に際しても怯むことなく雄々しく立ち向かうイギリス国民の民族性の真髄に触れた思いがしたそうである

*1940年5月15日オランダは降伏、更にフランスは、難攻不落の要塞と言われたマジノ・ラインを一気に突破されパリを占拠された後17日には無条件降伏した
一方、イギリス軍は各所でドイツ軍に敗れ、40万人の敗残兵がダンケルクまで撤退し追い詰められた。しかし、ドイツは何故か突如攻撃を停止したため、40万人の敗残兵は英国漁民の決死の救助活動などによりダンケルクから英国本土に撤退することが出来た。ただ膨大なイギリス軍の装備は全て置き去りにされた
*大陸を制したドイツはイギリスに和平を提案したが、イギリスはジョージ6世のもとに国民が一致団結してこれを拒否した
*海軍力に劣るドイツ(対イギリスで10:1の戦力しかない)は、1940年7月16日、イギリス本土上陸作戦の前哨戦としてイギリスの制空権を獲得する為に空軍力でイギリスを屈服させようとしたため5ヶ月にわたる空の死闘(Battle of Britain)が行われた
ドイツ空軍は総合力でイギリスを圧倒したもののドイツの戦闘機(メッサーシュミット)はイギリスの戦闘機(スピットファイヤー)に航続距離で劣り、爆撃機を充分に護衛することが出来ず苦戦を強いられ、最終的にヒトラーはイギリス上陸作戦を断念した
加瀬は妻子を日本に帰した後、単身で生活していたが、彼が深い感銘を受けたのは、ドイツ軍の苛烈な爆撃で祖国の運命が風前の灯火になりながらも、臆することなく国難に立ち向かっているイギリス国民の強靭な精神力だった。いかなる困難に際しても誇りと平常心を失わず、ゴルフやダンスやハイキングに興じ、休日には散歩や舟遊びも欠かさなかった。早朝のハイドパークでは恒例の乗馬で散策を楽しむ貴族の婦人たちの姿もあった。夜間爆撃の翌日、街を見て歩くと、風景が激変し、焼け跡に焼け焦げた死体が至る所に転がっていることも屡々あった。5年後、東京の空襲の惨害を目の当たりにすることになるのだが、それと比べても、このロンドンの大空襲の方が、はるかに凄惨な地獄図絵として記憶の残ったという
あるとき加瀬が新聞記者数名を伴い、市内の避難所や防空壕を慰問したことがあった。そこで見たのは、ユーモア精神を忘れず、カードやチェスに打ち興じ、楽器の演奏にあわせて歌をうたい、貴族や平民の階級を超えて苦難を分かち合っている市民の素顔だった
更に加瀬を感動させたのは、イギリスの貴族が我も我もと率先して戦場に向かっていく姿だった(Noblesse Oblige/高い身分に伴う道徳上の義務)。イギリス上空で空軍を迎え撃ったパイロット達も名門貴族の子弟が非常に多かった。彼らが撃墜されても撃墜されても、その屍を乗り越えて新手が飛び立っていく。それは気負うでもなくなく、まるでお茶でも飲みに行くように、淡々と自分お義務を果たすのであった

1939年5月11日~9月16日ノモンハン事件発生
1939年7月、日中戦争の拡大に伴い、中国におけるアメリカの 通商権益を妨げているとして日米通商航海条約の破棄を通告(1940年9月発効)

1940年7月第二次近衛内閣(1940年7月~1941年7月)で松岡洋右が外相に就任。松岡からの要請により、同年9月、加瀬は松岡外相の首席秘書官に就任
加瀬の英国転出に伴うイギリスマスコミの反応:加瀬は英米社会についてまれにみる高度な知識と磨き上げられたユーモア精神を持っており、英米に知己が多い。また彼はハーバード大学出身なのに、オックスフォードのアクセントを駆使する。それ故、外交団でも人望を集め尊敬されていた

この時点の国内の情勢:1939年8月の「独ソ不可侵条約」の締結で日独防共協定の意義は根底から覆され、この裏切りで日本外交は混乱し進むべき方向を見失っていた。この時、日本はドイツからフリーハンドを持てる状況にあったものの、ドイツのすさまじい快進撃に日本国内は沸き返りドイツへの不信感はあっという間に消え去り、陸軍内部にドイツとの提携論が高まった。松岡外相のもとには軍人や右翼が連日押し寄せ、日独同盟を迫っていた
何故、ドイツ、イタリアなど枢軸国と歩を共にしたのかを探っていくと、陸軍や右翼が悪いのは確かであるものの、新聞報道に踊らされた国民の熱狂が背景にあることを忘れてはならない
1940年6月大政翼賛会結成

1940年9月、松岡外相のもとで日独伊三国同盟締結
松岡は元々ドイツ嫌いであり、13歳から渡米して苦学しながら9年間滞在し、アメリカを第二の祖国と自認していたほどの知米派であった。従って、その強大な国力も知り尽くしており、「アメリカと戦えば100%負ける」と考えていたと云う。松岡の戦略は日独不可侵条約を締結していたドイツと組めば、三国同盟にソ連を加え四国同盟として、ドイツが大西洋から、ソ連が北から、日本が太平洋からアメリカを圧迫すればアメリカの野望を阻止できると考えていた。従って、「松岡外交が日本を戦争に導いた」という批判は間違いである
帰国に際し、日ソ中立条約をまとめた松岡洋右をマスコミ及び国民は熱狂的に迎えた。松岡はいまや英雄になっていた

1940年9月北部仏印進駐 ⇒ アメリカは鉄屑・石油の輸出制限実施
1940年11月、紀元2600年記念式典
1940年11月、西園寺公望死去。彼は元老(大日本帝国にける、天皇の輔弼の任を担い、内閣総理大臣の奏薦など国家の重要事項に関与する重臣)であり、協調外交派の重鎮で会った
*1941年1月8日、陸軍大臣・東條英機、「戦陣訓」を示達した(陸訓一号)
1941年1月野村吉三郎海軍大将は、フランクリン・ルーズベルト大統領とは旧知の間柄ということが期待されて駐米大使に起用された

1941年3月松岡外相加瀬ヒトラー総統リッペントロップ外相と数回会談し、日ソ友好の仲介を依頼したが、ドイツの対応は冷淡であり、逆にシンガポール攻撃を要請してきた
ベルリンからの帰途、ローマを経由しムッソリーニを表敬訪問した後、モスクワに立ち寄りモロトフ外相と数回に亘る交渉を経て「日ソ中立条約」を調印した。その後、スターリンも交えた祝宴が催された
松岡外相は、モスクワ滞在中にアメリカの駐モスクワ大使を通じて、ルーズベルト大統領との会談を申し入れ、好感触を得ていた(ルーズベルトは日独ソによる同時攻撃を恐れていた)。また、この時、松岡外相の友人でアメリカの新聞王・ハワードヒューズは「大統領は君と会う積りだから大至急アメリカへ来てくれ。特別機を用意しておく」という電報を寄こしていたと云う
(参考):スターリンの身長/163㎝、チャーチルの身長/162㎝、ムッソリーニの身長/160㎝

帰国後の松岡、加瀬を待っていたのは、「日米諒解案」なる民間ベースの交渉来日した米国の神父ウォルシュとドラウトに門司税関長の井川忠雄と陸軍軍人岩畔壕雄(いわくろひでお)が飛びつき、これに野村駐米大使が巻き込まれて行われた非公式の交渉)から出てきた案であり、日本にとってあまりにも都合の良い内容(例えば満州国の承認など)であった
これは、独ソ開戦の情報をキャッチしていたルーズベルトと国務長官コーデル・ハルが、時間を稼ぐための作戦であった。因みに、この日米諒解案と同時にハルはこれと正反対の4原則を野村駐米大使に提示していた。この「ハル4原則」は、日米交渉を打ち切る切り札となった「ハルノート」とほぼ同じ内容であった。外交には全く無知の野村大使(海軍大将)は、このハル4原則を独断で握りつぶし、日本政府には報告しなかった

1941年6月、松岡は、南京政府主席の汪兆銘を歌舞伎座に招待し「修善寺物語」を観ていた時、外務省から電話が入った。内容は「ドイツ軍が国境を越えてソ連軍を攻撃した」ということであった。松岡はその報に接すると直ぐに宮中に参内し、ソ連攻撃を天皇に進言したと云う。この時天皇は同意しなかったと云う
アメリカ国務省もこの時ソ連を討つだろうと予想していた。またチャーチルもその著書の中で、「日本はソ連を攻撃しなかったことによって、第二次大戦の勝者になるチャンスを逃した」と指摘していると云う(私は、チャーチルのこの著書を読んでいないので、確信はありませんが、ネット上には同様な記述がありました

1941年7月2日御前会議で南進の国策を最終決定松岡は「南に向かえば必ず米英との衝突を招くから、あと半年待て」と進言したが受け入れられなかった。ソ連攻撃を行うことによって北樺太サチ油田を確保し石油自給体制を整えると同時に、対ソ戦の為に日本軍は北進する必要があり、日中戦争から脱却する名分が立つというのが松岡の戦略である。しかし、近衛首相は最終的に南進に同意してしまった
1941年7月16日、第二次近衛内閣は総辞職し、第三次近衛内閣では松岡は外相から外された
1941年7月28日、ヴィシー政権下の南部仏印に進駐開始 ⇒ 同年8月、アメリカは日本に対する石油輸出の全面禁止を通告

1941年10月16日、第三次近衛内閣は総辞職し、東条英機内閣が成立、東郷茂徳が外相に就任し加瀬は秘書官(兼北米課長)に就任
加瀬はこれ迄の日米交渉の記録を全て点検したところ、野村吉三郎大使豊田貞次郎前外相(第三次近衛内閣)の海軍出身コンビは、中国からの日本軍撤兵が焦点で、これさえ解決すれば日米は和解できると思い込んでいたことが分かった。しかし、日独伊三国同盟の解消こそアメリカの真の要求だったと云う
アメリカが交渉を引き延ばす中でしびれを切らした陸軍が外務省に「11月末までに日米交渉が妥結しなければ開戦に踏み切る」というタイムリミットを要求してきた。外交交渉にタイムリミットを設けることほど危険なことは無い。まとまる話も締め切り時間に追い詰められ、交渉に余裕を失ってしまうからある

1941年12月8日未明(ワシントン時間、12月7日昼過ぎ)真珠湾攻撃開始。攻撃の30分前に通告する予定でいたが、実際に通告したのは攻撃開始の55分後になってしまった。以下は、その顛末;
12月6日朝、ワシントンの日本大使館に対米覚書を発信し、「明日になってから本国からの覚え書き14部が届き次第、いつでもアメリカに手渡せるよう万全の準備を整えておき、手渡す直前に暗号文書を焼却し、全ての暗号機を破壊すること」と訓令していた。これを読めば、それが対米宣戦布告であることは直感的に分かるはず。その日、対米覚書14部の内13部が全て届き暗号は解読されていた。これを読めば「宣戦布告」であることが分かったはず。しかし、大使館員はそれをほっぽり出したままで、転勤する大使館員の送別会に出かけてしまった。7日の朝7時に14部目が届いたが、大使館員は誰も出勤しておらず、解読が始まったのは10時過ぎ、終わったのは12時30分であった。日本からの訓令で、タイピストを使わずに「宣戦布告」の文書を作成し、午後1時にはアメリカに手渡せとなっていた。結局野村大使がハル国務長官に「宣戦布告」の文書を手渡したのは14時20分となってしまった(既に真珠湾攻撃開始から55分も過ぎていた)
日本からは13時に手渡せと訓令が来ているので、これと同時に攻撃を開始する可能性もあるので、野村大使は文書は無理でも口頭でハル国務長官に伝えることができたはず。結果として日本は 騙し打ちの汚名被ることになり、アメリカにとっては一気に挙国一致体制を固めることが出来た( ⇔ Remember Pearl Harbor
一方、アメリカはこの日本の暗号電を盗聴しつつ徹夜で解読作業に取り組み、翌朝にはこれが「宣戦布告」の文書であることは知っていた

実は開戦10日前の大本営政府連絡会議では、攻撃を始める前に宣戦布告はしないと決めていた(開戦の翌日に宣戦布告する)。しかし、これではやはり「だまし討ち意をしたという汚名を後世に残すことになる」という反論がでたのであろう。開戦4日前になって「宣戦布告は開戦の1時間前」に変わった。ところが、これだと海軍は不安だったのだろう、開戦3日前になって更に「宣戦布告は開戦の30分前」に変更されていた。これは日本海軍が如何にアメリカの太平洋艦隊を恐れていたかの証拠である
この様な海軍の空気が、現地大使館の行動を招いたのではないだろうか。でなければあの緊迫した状況の中で世界一勤勉で時間厳守の日本人が、あのようなミスを犯すことはあり得ないのではないか?(本書の筆者の推測)
真珠湾攻撃(攻撃部隊の司令官:南雲忠一中将)ではPearl Harborに停泊している敵戦艦を撃沈したものの、石油タンクは攻撃せず、破壊した戦闘機も180機に止まった。また、米軍の空母艦隊は無傷のまま残った
加瀬は開戦の詔勅を海外に打電するため英訳を担当した。何度も変更があったが、最後の修正は天皇陛下の「アニ朕ガ志ナランヤ」という文章の挿入であったと云う

*1941年12月8日早朝(真珠湾攻撃より1時間50分前)に、当時英領だったマレー半島・コタバル(現在のマレーシア)に上陸を開始、英軍と戦闘を始めた
1941年12月10日、マレー沖を航行中の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスからなる英海軍の東洋艦隊を日本海軍の陸上攻撃機隊の魚雷攻撃により撃沈
1942年2月、シンガポール(イギリス領)攻略
同年3月、ジャワ島(オランダ領)上陸、同年4月フィリピン(アメリカ領)バターン半島の米軍降伏、同年5月、フィリピン・マニラ湾のコレヒドール島攻略(マッカーサーはI shall return」の言葉を残して撤退)

1942年5月珊瑚礁海戦(日本海軍/空母1隻大破、軽空母1隻沈没;連合軍/空母1隻沈没)
1942年6月ミッドウェー沖海戦(海軍司令官:南雲忠一中将)で大敗
<両軍の損害>
日本海軍:
航空母艦4隻沈没、重巡洋艦1隻沈没、重巡洋艦1隻損傷、駆逐艦1隻損傷、戦死3,057名・内航空機搭乗員110人;
連合軍:航空母艦1隻沈没、駆逐艦1隻沈没、戦死307人・内航空機搭乗員戦死者は172人)。以降日本海軍は敗退を重ねる

1942年8月ガダルカナル島で苦戦に陥ると、軍部は占領地域を確保する為に大東亜省を新たに設けて軍の管轄下に置こうとした。これは外務省からアジア外交の権限を奪うことが目的だったので、東郷外相は断固として反対し、東条首相と全面衝突、同年9月外相を辞任。同時に加瀬も外相秘書官を辞任し、北米課長に専念することとなった
1942年8月、ガダルカナル島の戦い。ガダルカナル島に米海兵隊1万人余の上陸により戦闘が始まり、これに呼応した帝国海軍と連合軍との第1次~第3次のソロモン海戦によっても戦況挽回できず、日本陸軍は同年12月31日の御前会議で撤退が決定され、1943年2月1日から撤退作戦が行われた
<両軍の損害>
日本陸軍死者・行方不明者約2万人強、直接の戦闘での戦死者は約5,000人、残り約15,000名は餓死と戦病死だったと推定されている
米軍:戦死者7,100人、負傷者7,789人以上

1943年2月、スターリングラード攻防戦でドイツ軍降伏

1943年4月、中国大使だった重光葵が外務大臣に任命さ、加瀬は秘書官となった

1943年7月、ムッソリーニ失脚。同年9月イタリア降伏

1943年11月、東京で大東亜会議開催。6ヶ国(日本、満州国、中国、ビルマ、タイ、フィリピン)の代表が集まり大東亜共同宣言が発表された。これは重光が起案し、それを加瀬が重光、大川周明の意見を聞きつつ和英両文を作成した;
共同宣言の五原則:(1)東亜の開放と共存共栄、(2)大東亜各国の独立と親和、(3)文化の高揚、(4)互恵の原則に基づく経済発展、(5)人種差別の撤廃

1944年6月6日、連合軍ノルマンディー上陸作戦実施

1944年3月8日~7月3日インパール作戦実施。援蔣ルート(連合軍が蒋介石軍に武器、弾薬、他の援助物資を輸送していた)の遮断を戦略目的として、イギリス領インド帝国北東部の都市であるインパール攻略を目指した作戦
<両軍の人的損害>
日本軍(3ヶ師団参加):戦死2万6千人、戦病死3万人以上
連合軍(2ヶ軍団参加;英国、インド国民軍):戦死1万7千5百人、戦病死4万7千人(但し第33軍団のみ)
1944年6月19日~20日マリアナ沖海戦で帝国海軍は壊滅的敗北を喫し、空母部隊による戦闘能力を喪失した。マリアナ諸島の大半はアメリカ軍が占領することとなり、西太平洋の制海権と制空権は完全にアメリカが掌握
<両軍の損害>
日本海軍航空母艦3隻沈没、油槽船2隻沈没、航空母艦1隻中破、航空母艦3隻小破、戦艦1隻小破、重巡洋艦1隻小破、艦載機395機喪失、水上機31機喪失、基地航空50機喪失
米国海軍:航空母艦2隻小破、戦艦2隻小破、重巡洋艦2隻小破、艦載機130機喪失

1944年6月15日~7月9日サイパン島の戦いで「玉砕戦」が行われた。サイパンを基地にすればB29爆撃機により日本本土ほぼ全域を爆撃可能となった(⇒1944年秋以降本土爆撃が本格化)
<両軍の損害>
日本陸・海軍:戦死 約3万人(捕虜 921人)、民間人死者8千人~1万人
米軍:戦死 3,441人、戦傷 11,685人

1944年7月21日~8月10日グアム島の戦で「玉砕戦」が行われた
<両軍の損害>
日本陸軍:死者18,500人(捕虜1,250人)
米軍:死者2,124人、負傷者5,676人
(注)日本軍は現地人であるチャモロ人の殆どとなる20,000人を、グアム島南東部マネンガンの収容所を初めとした5か所の収容所に送り込んだ。これが大多数のチャモロ人の命を救う事となった。それでも戦闘に巻き込まれて亡くなったチャモロ人は数千名に上った

1944年7月18日東条内閣総辞職小磯国昭内閣成立、外相は重光葵、加瀬は秘書官
1944年11月24日、東京空襲開始
1945年2月4日~11日、ソ連圏のクリミア半島ヤルタ近郊のリヴァディア宮殿でルーズベルトチャーチルスターリンによる連合国首脳会談(通称ヤルタ会談)が行われ、ドイツ敗戦後90日後のソ連の対日参戦、千島列島・樺太・朝鮮半島・台湾などの日本領土の処遇が決定された
1945年2月19日~3月26日硫黄島の戦いで「玉砕戦」が行われた
<両軍の損害>
日本陸・海軍:戦死17,845~18,375人(捕虜 1,023)
米軍:戦死6,821人、戦傷 19,217人

1945年3月10日東京大空襲。爆撃被災者は約310万人、死者11万5千人以上、負傷者は15万人以上、損害家屋は約85万戸
1945年4月6日ソ連のモロトフ外相は、日ソ中立条約」を延長せずと通告(但し、条約の有効期限は1946年4月13日)
1945年4月7日、小磯内閣総辞職 ⇒ 鈴木貫太郎内閣成立、阿南惟畿(これちか)陸相、米内光政海相、東郷茂徳外相、加瀬は秘書官

1945年5月14日、「最高戦争指導会議」でソ連に和平の仲介を依頼する方針が決定された

1945年4月6日~6月23日沖縄戦。沖縄諸島各地(主に本島)での陸上戦と菊水1号~10号作戦と呼ばれる航空機と艦艇による特攻作戦を実行した
<両軍の損害>
日本軍:戦死者約8万人(捕虜約1万人)、沖縄県民の死者・行方不明者:12万2千人(内民間人死者約9万4千人;物的損害:戦艦1隻(戦艦大和)沈没、軽巡洋艦1隻沈没、駆逐艦5隻沈没、戦闘機1,895機喪失、その他航空機1,112機喪失、戦車27輌大破
米英連合軍:戦死者:約2万人、戦傷者約5万5千人、戦闘外傷病者約2万6千人;物的損害:駆逐艦16隻沈没、その他艦艇20隻沈没、空母5隻(英軍)損傷、艦艇368隻損傷、航空機886機喪失、戦車272輌大破
(注)沖縄への特攻作戦は、効果の無い作戦だったとする意見がある、その根拠となっているのは米軍が公表した「特攻機の命中率2%」という数字を基にしている。実際は日本軍の特攻に米軍兵士はパニックになり、戦争の続行が危ぶまれる程だった。また、命中率は特攻が始まった時点で27%、末期においては13%で平均20%を超えていた。陸海軍併せて5千8百人の特攻に対して、連合軍の犠牲はそれより多かったと言われている(←連合軍の艦艇の沈没、損傷が多いことがその損害の大きさを物語っている)

1945年6月東郷茂徳外相から木戸幸一内大臣宛に一通の意見書(厳秘・時局収拾に関する意見書)が手渡された。この意見書は外務省の総意をまとめた、執筆者の名前はないものの加瀬が執筆したと云う。内容はこのまま戦争を遂行すれば日本が壊滅するので、現時点で終戦を希望するならば無条件降伏であっても甘受すべきであるということであった
天皇は、この意見書を読んだ翌日、御前会議で「戦争の終結については、この際従来の観念に囚われることなく、速やかに具体的研究を行い、これを実現して欲しい」と発言した
1945年7月7日天皇鈴木首相を呼んで「いたずらに時間が経過して機を失するのはよくない。この際私の親書を特使に持たせてソ連に派遣するように」と命じた

1945年7月10日、「最高戦争指導会議」でソ連に特使(近衛文麿)派遣を決定。しかし、同月18日、ソ連は否定的回答を伝えてきた

1945年7月26日、連合国、「ポツダム宣言」発行
鈴木首相が宣言発行直後に発表した新聞談話で「宣言を黙殺する」と発言してしまった。連合国側はこの黙殺を「拒否」と解釈してしまった
1945年8月6日広島に原爆投下死者約8万9千人崎に原爆投下
1945年8月8日ソ連は日本に対して宣戦布告。満州国国境及び樺太からソ連軍が進入
1945年8月9日長崎に原爆投下死者約7万4千人

1945年8月10日、御前会議で「ポツダム宣言受諾」を決定
御前会議では、ポツダム宣言の即時受諾を主張する東郷外相米内海相平沼枢密院議長と本土決戦も辞さないとする阿南陸相梅津参謀総長豊田軍令部総長とで意見が対立し結論が出せなかった。その時突然、鈴木総理が立ち上がり「現在の状況は寸刻を争う、陛下の思し召しをもって会議の決定にしたい」と発言
天皇はおもむろに口を開き「私は東郷外相の意見に同意する。このまま戦争を継続すれば日本は破滅するであろう。軍部の過去の発言は信用できず、計画と結果が食い違っていたことがしばしばあった。ここに出席している者の気持ちは十分に察するが、耐えがたきを耐え、ポツダム宣言を受諾し、戦争を終わらせざるを得ない。国民のために平和が回復されるならば皇室はどうなってもかまわない」と言った。正に間一髪のこところで本土決戦は回避された

御前会議の結果を閣議で採択されたことを受けて、加瀬は直ちに外務省に出向き、ポツダム宣言受諾の伝聞を作成し、中立国のベルン(スイス)とストックホルム(スウェーデン)の日本公使館に打電した。この電文に付けられた唯一の条件は「天皇の国家統治の大権を変更しない、という諒解のもとに受諾する」ということであった
ところが、8月12日のサンフランシスコ放送、及び13日に届いた連合国の正式回答は「天皇の地位は日本国民の自由な意思によって決定されるものとする」となっていた
翌13日の最高戦争指導会議では、再び意見が二つに割れ、侃々諤々の議論に費やされた

1945年8月14日、再び御前会議が開催され、天皇は受諾に反対する者たちの意見をじっと聞き、全ての論議が尽きると、天皇は次のように語った「私が4日前にポツダム宣言を受け入れることに同意したのは、内外の事情をよく考えた上でのことである。反対の意見はよく聞いたが、私は前の考えを変える必要は無いと思う。戦争をこれ以上継続することは不可能である。国体維持について疑問を抱く者もあるようだが、これは国民の信念と覚悟の問題である。連合国側の回答はこの点、概ね好意的であると思われる。将兵たちにとって武装解除や占領は耐え難いことであろう。しかし私は国民を眼前に迫る破局から救いたい。そのため私はどうなってもかまわない。私としてできることがあればなんでも厭わずに進んで行う積りである

天皇自身、時々感極まって言葉が詰まり、白い手袋をはめた手で両頬に流れる涙をぬぐった。これを聞きながらその場にいた24名の出席者で涙を流さぬ者はいなかった。77年間続いた大日本帝国が終焉した瞬間だった。同日午後1時から閣議が開かれ、詔勅案が可決された

同日深夜、近衛師団の内部で反乱が起き、畑中健二少佐をリーダーとする4名が、森赳(たけし)近衛第一師団長を惨殺して師団長命令を偽造し、皇居に乱入して玉音版を奪おうとしたが果たさず田中静壱(しずかいち)東部軍管区司令官により鎮圧され、4名は自決した
1945年8月15日、ラジオの玉音放送で天皇から直接、全国民に終戦が伝えられた(参考) 著者/半藤一利、編者/大宅壮一、文芸春秋社版「日本のいちばん長い日_運命の八月十五日」に詳しく描かれている 

1945年8月15日鈴木貫太郎内閣は総辞職 ⇒ 東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)が内閣を組織。外相は重光葵加瀬は秘書官留任
1945年8月30日、極東軍司令官ダグラス・マッカーサーが厚木基地に到着。横浜に総司令部(GHQ)を置き日本占領を開始した。彼が日本占領の最高司令官に任命された理由は、彼がアメリカ陸軍きっての日本通だったからである。彼が緒戦のフィリピン戦で日本軍に敗れ、部下を置き去りにして脱出したとき、マニラホテルの居室には膨大な日本関連の書籍が残されていたと云う
(参考)父のアーサー・マッカーサー中将も極東米軍総司令官で、日露戦争時、観戦武官として旅順攻防戦の日本軍司令部に招かれている。この時、父と同行したダグラス・マッカーサーは(25歳)は、東郷元帥や乃木大将から直接話を聞き、その人柄に深く感銘したと云う。占領下で首相を務めた吉田茂は「親子2代にわたるこのような日本通が日本占領の最高責任者になったのは、日本にとって大きな幸運だったというべきだろう」と述べている

1945年9月21日、横浜沖に停泊していた戦艦ミズーリ号上で「降伏文書」の調印式が行われた。日本側使節団の全権は重光外相、副全権は梅津美次郎陸運参謀総長、この他に陸軍・海軍・外務からそれぞれ3名の合計11名(加瀬もその中に加えられた
日本の使節団は、早朝5時横浜港に向かった。ミズーリ号に乗り移る際、義足の重光はタラップを上るのに苦労したが、ステッキを頼りに何とか登り切った。上甲板は黒山の人彼で立錐の余地も無く、マスト、砲塔、煙突の上にも米軍兵士がびっしりと鈴なりになっていた。この数千人の兵士たちの凝視が矢となって自分に突き刺さるのを、加瀬は歯を食いしばって耐えた

そこにマッカーサーが現れ、演説を始めた。その要旨は次の通り;「ここに交戦国の代表が集まり、平和の為の協定を締結しようとしている。相対立する思想・理念   の衝突は戦場での戦いで決着がついた。我々は悪意や憎悪に満ちて個々に集まったのではない。むしろ勝者であると敗者であるとを問わず、人類のより高い威厳に到達することを祈るものである。過去の流血と殺戮の中から、信頼と了解の上に立つ世界、自由・寛容・正義の実相を志す世界が出現することを期待する。私は連合国最高司令官として正義と寛容をもって責任を果たす決意である
マッカーサーの演説が3分ほどで終わると、降伏文書に署名が行われた。上空には400機のB29、1500機の艦載機が飛行した

1945年9月17日重光は外相を辞任し、吉田茂が後任の外相となった
1945年10月、東久邇内閣は総辞職し、幣原喜三郎内閣が成立。吉田はそのまま外相留任
1946年5月
、幣原内閣総辞職 ⇒ 第一次吉田内閣成立、吉田茂は外務大臣兼務。加瀬は内閣情報局第三部長としてGHQや内外のマスコミの対応に忙殺された。同年12月内閣情報局が廃止され、更に外務省広報部長の職も解かれた。以後、加瀬は文筆家としての道を歩むことになった

以上

Digital Transformation(DX)

はじめに

2020年9月16日に発足した菅内閣の目玉政策の一つは「デジタル庁」の新設でした。上表(国連電子政府ランキング)をご覧になれば分かる通り、日本の政府のデジタル化の進度は、今年度は14位、10年前と比べても殆ど順位は変わっていません。国内総生産の規模が世界第三位であり、一般的な国民の認識としても日本は「先進国であるはずなのにこれはどうしたことか? 」ではないでしょうか

しかし、こうした認識は以下の図表をみれば幻想であったことが分かります;

名目GDP・対1990年比較
IMD世界デジタル競争力ランキング.

IMD(International Institute for Management Development)とは:スイスにある国際経営開発研究所のことで、63カ国・地域を対象にデジタル技術の利・活用能力を、以下の3点から評価しています(今回は4回目の評価)
(1)知識:デジタル技術の習得やそれを支えるインフラ整備状況
(2)技術:デジタル技術の進展
(3)将来への準備度合い:デジタル変革に対する社会の受容性

6月に発行した私のブログ(COVID-19と日本の近未来)の中のパラダイムシフト_IT化の加速の項でその概略を述べましたが、どうやら今回こそは政府も本気で取り組むようで、数年以内に先進国?日本にも所謂 “Digital Transformation(以下”DX”と表現)” が起こりそうな気配です
Digital Transformationとは:情報技術の普及・浸透による「社会のデジタル化」がもたらす組織や社会の変革を指す言葉

世界に伍して戦っている日本の民間企業は、自身で完結できるビジネス・プロセスについては世界水準のデジタル化を実現すべく最大限の努力をしていることは間違いないと思います。
従って、ここでは菅総理の意気込みに合わせ、政府が真剣に取り組むと約束した行政全般のデジタル化、特に「日本の法律が及ぶ部分の民間企業のビジネス・プロセス」、「国民と行政組織、国民と民間企業の接点の部分のプロセス」のデジタル化に焦点を当て、デジタルとは程遠い「紙によるコミュニケーション(FAXを含む)」、「ハンコによる個人認証」、など業務の効率化、スピーディな情報交換の隘路になっているビジネスプロセスに焦点を当て、現在メディアやネットに溢れるDX関連情報を集約しつつ、一部私自身の考え方も加えて(青字で表示)纏めてみました

DXに関わるキーワードのについて

1.”はんこ” とは
DXに関わるニュースには頻繁に「ハンコ行政」とか民間のビジネスでもリモートワークを始めたものの、「ハンコを押す為だけに出社する」、、、などの言葉が氾濫しています。果たして”ハンコ”とは一体何者か?

A.”はんこ”に関わる幾つかの用語の意味;
①「はんこ」=「印章」:押印する道具そのもの(以下「印章」と表現します
②「印鑑」=「陰影」:「印章」を押印した時に紙の上に残る印の形(以下「印鑑」と表現します
③「実印」:市町村の役所に登録・保存された「印鑑
印鑑登録をすると印鑑登録証(カード)が役所から交付され、このカードがあれば役所の窓口で「印鑑登録証明書」が発行されます。これと実印を押印した書類がセットになって本人の同意の下で作成された書類ということになります
④「銀行印」:銀行に登録する印鑑で、本人と銀行との取引関係においてのみ、登録された印鑑が本人確認の重要な手段となっています。ただ、最近は銀行印の替わりに本人のサインや、指紋などを使うことも認めている銀行も多くなりました
⑤「認印」:実印以外で、書かれた内容に関して、内容が正しいことを本人自身が認めている “証(あかし)”として用いられます。法的な責任を問われる可能性もあります
また、企業間の日常取引に於いて作成される文書(請求書、納品書、領収書、など)に実印が用いられることは少なく、個人間取引の認印に相当する「角印」(四角い印章)が用いられることが多い様です

ハンコの歴史
最初にハンコの原型といえる円筒印章を発明したのは、紀元前3千年以上前のシュメール人だったそうです。ハンコ文化はその後世界に広がり、日本は遣隋使を通じて中国からこの文化を取り入れました
明治時代、既に欧米先進国で署名による本人認証が一般的になっていたことがあり、1870年代に太政官令により一旦は証書に署名と実印の両方が必要と定めました。法案を作った司法省は偽造しにくい署名を普及させたかったものの、当時は字の書けない人が多いため、すぐにハンコをやめて署名に切り替えるのではなく両者を併存させて署名に習熟させる趣旨だったようです。しかし、大量の文書にハンコを押す実務に慣れていた大蔵省と銀行はこの法案に大反対し、結局ハンコさえ押してあればよいという趣旨の法律が1900年に帝国議会を通過しこの法律が現在の会社法に引き継がれ、日本のハンコ万能主義の法的根拠となっています(2020年10月24日日経記事より)

日本では、ハンコ以外に平安時代中期から使用され始めた花押(かおう)というものがあります。署名の代わりに用いられる記号または符号ですが、以下の様に歴史上の有名人がそれぞれ特徴のある花押を使っていました。歴史上の署名入り文書の真偽を判定する際に今でも役立っていると思います

歴史上の人物の花押_ネット情報

B.「印鑑」が必要となる各種の行為
極めて厳格な本人確認を要する行為;
実印
①不動産取引を行う場合
②車の所有者の名義変更(移転登録申請)を行う場合
③不動産などを担保に金融機関から融資を受ける場合
④役場での公正証書を作成する場合
⑤金銭その他貸借証書・契約書を作成する場合
*金銭の貸借関係で軽率に連帯保証人(実印を押印する)になった為に大損害を被った人は少なくありません
⑥生命保険・自動車保険などの各種保険に加入する場合
⑦会社設立する際の公証人役場で定款認証を受ける場合
⑧遺産相続を行う場合

銀行印
⑨銀行(含む郵貯)口座を開設する場合
*海外との不正な金融取引や不正な手段で入手した現金のマネーロンダリング、脱税の為の秘密口座の開設(伊丹十三監督の映画「マルサの女」で沢山の銀行印を持たされていた内縁の女の映像が思い出されます!)などを防ぐ為に、最近口座開設に関わる本人確認が厳しくなっています

認印
⑩市町村の役所で、各種の申請書を提出する時に認印の押印が要求されています。(但し、請求者の代理で窓口に来た人は押印の替わりに署名でも認められるようです。参考:戸籍証明書等交付申請書_新座市
⑪役所や企業などの組織では、組織内で分担している複数の権限者の意思決定を表示する為に押印に関する規程を作り、押印できる権限者を限定しています。これは組織内でのルールに過ぎませんが、これらの組織で犯罪が発生した場合には責任者を特定するために使われる可能性も考えられます
⑫書留等の重要郵便物の受け取り、宅配業者の荷物の受け取り、などで押印が要求されことも多い(配達員の不正、例えば配達物の廃棄、窃盗、などを予防するためと考えられます)のですが、最近は押印の替わりに署名も認められるようです。尚、宅配業者によっては「置配(おきはい)」をした場合、確かに置配した証拠にスマホで写真を撮って保存することも行われるようになりました

Follow_Up:2021年1月19日(押印99%廃止 河野規制改革相「霞が関もやればできる」

2.”電子署名”、”電子証明書” とは
各種の重要事項の申請を行う時に、行政部門が要求していることは;
申請者が本人であることの確認(代理人が申請する場合は本人からの委任の証拠となる押印を要求している)
②申請書内に書かれている文言が改ざんされたものでは無いことの保証
③申請書内に書かれている文言の作成された年・月・日
が重要な要素となります
①に関しては申請書に実印の押印印鑑登録証の提出を義務付けており、②、③に関しては、受け付けた原本(実印の押印、及び申請書を受け付けた年月日が記載されている)を保存することにより申請内容の適確性を行政部門が保証していることになります

こうしたプロセスをネット経由で行うこととすれば、実印が押印された書類は単なるデジタル・データ(Digital Data)となり、申請書内の実印も書かれた文言も第三者が簡単に改ざんすることが可能であり、行政部門が申請内容の適確性を保証できなくなります。このデジタル・データをネット経由でも改ざん不可能にする仕組みが「電子署名、「電子証明書です
この仕組みは、民間企業同士(特に先進国同士)の取引では既に導入済みであり法制化も完了しています(電子署名及び認証業務に関する法律)。これと同じ仕組みを「日本の法律が及ぶ部分の民間企業のビジネス・プロセス」、「国民と行政組織、国民と民間企業の接点の部分のプロセス」に組み込むことは法規類(法律、政令、省令、条例など)の改正を行うことにより可能になります
因みに、欧米では20世紀末から21世紀にかけて登場した電子商取引にも素早い対応が進み、インターネットによって様々な商品の流通や契約が行われるようになり、こうしたことを電子的に処理する技術も確立しています

電子署名電子証明書の仕組み
電子署名とは:インターネット上のハンコ、あるいは署名のようなものであり、電子文書に添付することで、その電子文書が本人同意の下で作成されたことを証明するものです
電子証明書とは:インターネット上の印鑑証明書の様なものであり、デジタル文書の作成者が本人であることを確認することによって文書の適確性を第三者(役所ではなく、行政当局が認証した機関)が証明するものです
以下は「電子認証局会議(詳しくは設立趣意書参照)」の資料を抜粋したものです;

電子署名の仕組み

ハッシュ値とは:元になるデータから一定の計算手順により求められた固定長の値。その性質から暗号や認証、データ構造などに応用されています。詳しく知りたい方は「ハッシュ値とは」をご覧ください

 電子証明書検証の仕組み

3.”マイナンバーカード”とは
私のブログ(COVID-19と日本の近未来)でも紹介している様に、政府の管理のもとに国民一人ひとりに12桁の番号(⇔マイナンバー)を割り当て、2016年から運用開始されている以下の様なIC カードです

このカードには
うら面】: ICチップ(金色の部分)が組み込まれており、ここには  ①氏名、②住所、③生年月日、④性別、⑤電子証明書の有効期限、⑥セキュリティコード、などの基本情報がデジタルデータで収納されています
おもて面】: ⑦自身の写真(⇔身分証明書としても使えるように)、⑧住所、⑨生年月日の表記のほか、サインパネル領域に券面の情報に修正が生じた場合、その新しい情報を記載できるようになっています。また ⑩臓器提供意思表示欄 も設けられています

これまで日本が行ってきたデジタル化の足跡

1.文字情報基盤整備事業
*日本は、アルファベットを使う欧米先進国と違って、膨大な数の漢字とひらがな、カタカナを使って名前、文書が表現されています。これらの文字を全て登録してデジタル化を進めることは、デジタル化したものを分類、検索する必要性を考えると現実的ではありません(これまでは、登録されていない文字を使う場合、その都度文字フォント作成する必要がありました)
そこで、2010年から IPA(独立行政法人情報処理推進機構)国際標準推進センターが中心となり、一般社団法人 情報処理学会 情報規格調査会SC2専門委員会と連携し、漢字約6万文字の国際規格化の為の準備を進めてきました。2017年12月22日、この作業が完了しISO/IEC 10646 (Universal Coded Character Set) 第5版」が発表されました。これにより、行政の実務で求められる人名や地名等の正確な表記を、このISOで規格化された約6万字の文字のみを使い表現できるようになりました
<参考>
1871年(明治4年)戸籍法が出来てから戸籍に登録された日本人の名前は手書きであり、多くの種類の崩し字がそのまま戸籍名となりました。戸籍謄本や不動産登記簿謄本などの数多くの公文書が手書きのままで残されることになりました
戸籍上の名前に関わる私自身の経験ですが、ある時必要があって私の戸籍謄本を取り寄せてみたところ、私の名前(荒井)の「荒」が昔懐かしい!崩し字ではなくなっていました。確かに崩し字をそのままにして戸籍上の名前をコンピューターに登録することは難しいとは知っていました(参考:古典の「荒」の崩し字)が、「戸主である私の同意が無いままに国はこういう乱暴なことが出来るんだ」、と市役所窓口の責任者と無謀な!戦いを演じた事を思い出します!

2.自治体のデジタル化の取り組み
デンマークの様な国家主導のデジタル化ができなかった背景の一つには「自治」があります。住民記録などは地方自治体が権限を持つ自治事務にあたり、法令では氏名など必要な項目を規定しているだけで帳簿の様式など記録の方法は各自治体が独自に決めてきました
1960年の大阪市を皮切りに自治体にもコンピューターの導入が広がりましたが、その際も地方自治の原則に基づき、各自治体がそれぞれ考えた方法でデータをパソコンに入力しました。やや大袈裟に言えば、こうして全国約1700の自治体に別々の情報システムが形づくられていくことになりました。

一方、システム開発を請け負う ITベンダーにとって、自治体の数だけシステムがある状況はいわば「宝の山」です。初期開発だけでなく、修理や更新などの継続的な受注も見込めるからです。自治体にとっても地元のベンダーにシステム開発や保守を任せれば、雇用確保など二次的な効果も期待できたわけです。
しかし、特定ベンダーへの丸投げ・もたれ合いは、システムの見直しで行政を良くしようする改革の妨げになります。例えば自治体が保守費が安いクラウドへの移行を目指しても、既存の基幹コンピューターの中身は担当ベンダーしか分からないという壁に突き当たることになります。クラウド構築を手掛けるIT事業者が仕様書を書けないだけでなく、既存ベンダー側が「システムを人質にしてクラウドに移行させない」という動きもあるとのことです

また、自治体間のシステムの連携がうまく行かないのは制度に起因することも多いと考えられます。例えば児童養護施設児童相談所の中には、転居する児童の情報を転居先の施設、相談所に受け渡す際にメールで送ることを禁じたところがあります。個人情報保護条例の規定や運用が地域で異なるためです。2018年に東京都目黒区で起きた児童虐待死事件では、転居先の相談所に情報が十分に伝わっていなかったことが事件を防げなかった一因とされました(2020年10月7日に日経新聞記事より)

Follow_Up:201203_行政システム、乱立に歯止め

3.マーナンバーカードの制定
2016年に運用開始されました。当初は、財務省が国民一人ひとりの所得(個人個人に負荷すべき税金を計算する為の基本情報)を確実に把握することからスタートしましたが、その後徐々に活用範囲が広がっています(⇒後述)

今後政府が実施する DX 関連の施策

1.デジタル庁の設立
冒頭で述べました様に、デジタル庁の設立は菅政権の目玉施策の一つであり、来年早々の通常国会で法案が提出され、早ければ来年9月にも発足するスケジュールになっています
これまで長い間、行政のデジタル化については他の先進国に引けを取らない多額の予算をかけ推進してきました。しかし、これが現在の惨憺たる結果を招いている最大の原因は、中央政府においては「各省庁縦割りのデジタル化」であり、地方自治体においても、多くが「各自治体独自のデジタル化」であったことです。行政手続きのデジタル化に当たって、それぞれある程度の基本的なコンセプトは共有していたものの、各省庁、各自治体の事務作業のニーズに合わせて改修や更新を繰り返すうちに、それぞれのコンピューター・システムの共通性が失われ、結果としてデジタル・データの省庁間の連携、中央と地方との連携、地方自治体同士の連携、などがうまく行かなくなり、これが今回のコロナ禍に伴う臨時給付金配布に当たって、他の先進国に例を見ない大混乱に繋がったものと思われます。

ここまで後れを取った背景には以下の要素が考えられます;
中央集権的な行政システムに対する国民の潜在的な恐怖感
戦争を経験している世代や、戦後生まれであっても戦後の貧しさを経験し、戦後の民主教育が骨の髄まで沁み込んでいる世代には、個人情報を探られることや個人の自由を棄損する恐れのある政治的な企みには極めて敏感です

行政部門におけるIT人材の決定的な不足;
巨額の国家予算、地方自治体の予算を使って行政のデジタル化を進めるに当っては、実際のシステム開発は IT を専門とする会社に委託することは当然としても、システムの基本コンセプトを構築し、国全体としてのシステムの連携を視野に置いた開発を行うには、中央省庁や地方自治体内のシステム開発担当部門に IT のエキスパートの存在が不可欠です
因みに内閣府の2020年経済財政白書によれば「国内の IT人材のうち官庁や学校など公的部門の従事者は1%未満と推計」しており、欧米先進国にはかなり見劣りします(詳しくは官のIT人材、1%に届かず、投資も民に見劣り参照)

Follow_Up:201212_国家公務員試験にデジタル職創設 22年度、首相表明

こうした背景を踏まえたことと思われますが、11月13日にデジタル庁の組織概要につき発表がありました。内容は以下の通り;
「デジタル庁は首相直轄の組織として、担当閣僚に加えて「デジタル監(仮称)」を置く方向で検討。職員の定員は約500人とし、うち100~150人を民間から採用したい考え。政府は年末に取りまとめるデジタル政策の基本方針に、こうした組織の概要やあり方を盛り込む。500人体制は、消費者庁や復興庁を上回る規模。各府省の取り組みを統括するため、関連予算を一括で管理し、政府全体の情報システムの調達・整備費用を一元化して扱えるようにする。デジタル庁は恒久的な組織とする方針だが、創設後、デジタル技術の進歩に合わせて再検討する必要があるため一定期間が経過したら体制を見直す規定も設ける」
かなり本格的な組織であり、今回はかなり期待が持てそうです

Follow_Up:201212_国家資格者を一元管理
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2.マイナンバーカードによるシステムの連携
現在発行されている ICカードの ICチップは極めて高機能で、将来運転免許証の代替(2026年頃実施か?)、健康保険証の代替銀行口座との関連付け(”ひもづけ”とも言ばれています)、など多くの未来の行政サービス、民間の電子サービスでの活用が可能な仕様になっています(詳しくはマイナンバーカードの技術仕様参照)

このカードを発行した当時は、多くの個人情報を国が把握しようとしている、と敬遠する向きもありました(交付開始から4年が過ぎた2020年9月1日時点での交付率は19.4%に留まっています)が、大半の情報は住民基本台帳に記載されており(2016年1月以降新たな住基カードは発行せず、現在住基カードを所有している人も有効期限が切れ次第マイナンバーカードに切り替えられることになっています)、顔写真についても運転免許証には組み込まれています(つまり顔写真と個人名、住所は関連付けられ、国に管理されている!)ので、私は当初からマーナンバーカードを保有し、確定申告や住民票、印鑑証明書のコンビニでの発行などで活用してています
現在、及び今後利用な能なサービスについては下図参照してください。尚、上記 ICチップの技術仕様をご覧になれば分かるのですが、電子署名電子証明書の機能も搭載しています;

マイナンバーカードの利用分野(総務省のサイトより)

*マイナンバーカード情報をスマホに搭載し、行政手続きや民間サービスを利用する際の本人確認に利用することも検討することになっています

<参考:デンマークの事例
冒頭の表で国連電子政府ランキング1位となっているデンマークの国民にとって「役所」とはほぼデジタル空間上の存在を指します。約580万人の全国民の8割がデジタルIDを持ち、給付金や税金など役所からの通知は全てネット上の「電子私書箱」に届きます。住所変更、入学手続き、年金、、、生活に関わるほぼ全ての手続きがオンライン上で完結しています
デンマークが取り組みを本格化したのは2001年で日本が取り組みを始めた時期と変わりませんが、その後デジタル署名制度の開始を皮切りに急速にこの政策を推し進め、2007年には公共機関に統一の IT 基盤の使用を義務化。2014年には15歳以上に電子私書箱の使用を原則として義務付けるなど、行政のあり方を変えてきました(2020年10月7日の日経新聞記事より)

マイナンバーカード使用に関する私の考え
ICカードを使用することによって各種の行政サービスがネット上で行えることに相当程度のメリットがあることに異存は少ないと思います
因みに、多くの人がわざわざ役所に行って、順番を待って届け出や発行申請を行うことを羅列すると;
<届出事項>婚姻届、出生届、認知届、養子縁組届、養子離縁届(協議離縁)、入籍届、分籍届、転籍届、死亡届、死産届、改葬許可申請
<発行申請事項>:戸籍謄・抄本、除籍謄・抄本)、改製原戸籍謄抄本、戸籍の附票の写し、身元証明書、独身証明書、婚姻要件具備証明書、住民票の写し、住民票記載事項証明書、印鑑登録証明書
申請する側にとってこれだけの事項があるということは、これに対応している行政側の人員配置、スペースの確保、などのコスト(⇒税金で我々国民が負担している!についても等閑視してはならないと思います
勿論、個人だけでなく法人についても、似たような届け出や発行申請事項が多くあることも忘れてはなりません(⇔会社の国際競争力にもつながる)

一方、マーナンバーカードを通じて個人情報が漏洩し、憲法で保障されている基本的人権の侵害が起こり得るという意見を言う人もいますが、そもそも基本的人権に関わる憲法の規定は;
第11条 国民はすべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる
基本的人権とは:この権利の内容は「平等権」、「自由権」、「社会権」、「参政権」、「請求権」を意味しています。中学校で習う「公民」では以下の様に説明しています/基本的人権、5つの種類とは何?
第21条の2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない
第35条 何人も、その住居、書類及び所持品について、侵入、捜索及び押収を受けることのない権利は、第33条の場合(犯罪を犯した場合)を除いては、正当な理由に基いて発せられ、且つ捜索する場所及び押収する物を明示する令状がなければ、侵されない

ICカードに収納された個人のデータ、及びこのカードに関連付けられた各種行政サービスに関わるデータが以下の様なケースに相当する場合、基本的人権の侵害が起こると考えられます;
A.国家権力が個人を特定した上でこのデータを利用(⇔検閲)する場合、但し統計的な利用を行う場合は許されると考えるのが一般的です(例えば、新型コロナウイルス接触確認アプリ(COCOA )の様な使い方)
B.国家権力及び民間を含む利用機関が故意、又は過失によりこのデータを漏洩し、国民一人一人に経済的、精神的、その他の実質被害を与えたり(⇔社会権)する場合

今後 ICカードの関連付け(”ひもづけ”)によって起こると考えられる人権侵害のリスクは;

①運転免許証の代替として使われる時(2026年以降):免許証所有者の交通違反情報、交通事故歴の漏洩
②健康保険証の代替として使われるとき(2021年3月以降):他人に知られたくない病歴(特に遺伝病、性病、精神病、難治性の病歴、など)情報の漏洩
③銀行口座との”ひもづけ“:所有財産、取引情報の漏洩。但し、財務当局や警察当局が脱税や不正取引の有無を確認することは許されると考えます
④その他行政手続きや民間のオンライン取引との”ひもづけ“:取引情報の漏洩

これらの犯罪行為を予防するには、行政を含む利用機関の限定、利用データの区分と限定を厳格に行うことと、情報漏洩に関する罰則の強化を行うことが必要と考えられます。また、自身の個人データにアクセスした組織や人を、本人のみに開示(アクセスした目的、日時)し不正が行われない様に監視できるようにするシステムの整備も必要と考えます

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Follow_Up:201212_病院でもマイナンバーカード
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3.ハンコ行政の終焉
まず第一に着手されるのは「認印」の廃止だと考えられます。因みに、政府の規制改革推進会議(議長・小林喜光三菱ケミカルホールディングス会長)は2020年10月7日会合で、行政手続きの書面・対面規制や押印を抜本的に見直し、撤廃するための政省令改正を年内に実施する方針を示しました。尚、法改正が必要となるものは2021年の通常国会で関連法を一括改正するとしています
こうした施策の実行で、今後個人がハンコを持つ必要性が薄れてくることは間違いないと思われます

「実印」については、上述の通り理論的には「電子署名」、「電子認証」に切り替えることは可能と思われますが、現在「実印」が必要とされる手続き全てについて短期間に切り替えるのは中々ハードルが高いと思われます。
しかし、マーナンバーカードの普及がベルギー並みになる時がくれば、最早「実印」による本人認証は過去のものになると私は思います

4.医療関係業務のDX
<オンライン診療>
今年5月頃から、コロナ禍の影響で病気になっても感染が怖くて病院に行かない人が急増したと同時に、病院側としても来院患者が激減コロナ禍で通院激減)し、経営に深刻な打撃を与えています。
この結果、病院に行かなくてむ済むオンライン診療自宅パソコンやスマホでネット経由で医師の診察を受け、薬の処方もしてもらえる)のニーズが高まった為、政府は4月から時限的措置としてオンライン診療の全面解禁を行いました。
一方、IT企業各社は、将来を含めたオンライン診療拡大に伴うビジネス・チャンスに乗り遅れまいとパソコン、スマホで医師の診療を受けられるアプリを続々公開し市場獲得に乗り出してきました;
株式会社メドレーのオンライン診療システム:日本の医療 「非効率」にメス オンライン診療を普及
②Lineの場合:LINE、オンライン診療アプリ参入・8000万顧客生かす
③世界の趨勢:ネット診療、世界で拡大_米英中は保険適用

現在も尚、オンライン診療は暫定措置の状態のままですが、これは日本の現在の医療制度のままでは、恒久的な措置とすることは難しい状況にあります。「保険適用の対象範囲」、「診療報酬」、「対面診療が必要な病気の範囲」など、解決すべき問題が残っています。詳しくは雑誌「Wedge5月号:新型コロナの教訓・.オンライン診療は普及するのか・遅きに失した規制緩和」に特集されていますのでご覧になってください

Follow_Up:201209_オンライン診療、調剤も薬宅配も
Follow_Up:201209_オンライン診療、恒久化骨抜き 初診「かかりつけ医」調整
Follow_UP:201224_オンライン診療の効用は_園田愛氏・今村聡氏・翁百合氏

医療関係業務のDXに対する私の考え
オンライン診療は、我々国民にとって多くのメリットが得られるもと私は考えています;
受診する患者にとって;①感染のリスクが高い病院に行かないで済む、②病院に行くための交通費が不要になる、③病院での長い待ち時間が無くなる、④遠隔の地に居る“名医”の診断が受けられる
診断する医師にとって;①患者から感染するリスクがなくなる、またオンライン診療では当然予約制を取る必要があるので、②計画的な診療が可能となり、医師、看護師の過重労働が回避できる、しかし③患者にとってみれば、診察を受ける病院、医院までの距離が問題とならなくなりますので、医師の選別(感じ悪いお医者さんは敬遠される?)が進む可能性が考えられます

ただ、診断に必要となる以下の様な情報をオンラインで入手可能とする体制整備(システム構築とほか、セキュリティーの確保、機微情報の管理など)が必要になると考えます;
A.既に多くの大病院では電子カルテe-Clinicの電子カルテ画面サンプルを導入し、病院内の患者個人別の病歴・処方薬の履歴検査情報(血圧、血液検査結果、レントゲン検査/CT/MRI検査の履歴、その他過去の病気に対して行った検査の履歴、など)を各診療科で共有しています

電子カルテの導入率_厚生労働省データ

こうしたシステムをオンライン診療を行う全国の病院、医院の患者情報をクラウド上で共有することによって、対面診療が必要な一部の患者を除けば的確な診断が可能になると思います。こうした情報の共有によって、重複診療(高額な検査など)に伴う医療費の無駄を防げるだけでなく、処方薬の重複に伴う過剰摂取のリスク、医療費の無駄を軽減させる事が可能になると考えられます
B.診断の難しい病気に対しては、末端の「かかりつけ医と、「専門医」や「AI診断」を行える大病院の医師」との間をオンラインで繋ぐことにより、迅速、且つ的確な診断を行えると同時に誤診のリスクも軽減できると考えられます
C.オンライン診療を受ける側の患者側は、オンライン診療に不可欠なパソコン又はスマホを準備することの他、体温計血圧計血中酸素濃度の測定器、などの医療機器を個人で所有することが的確な診断を受けるために必要になると思われますが、これらは比較的安価であり、またこれらを日常的に活用することにより、個人としての健康管理が可能になり、副次的な効果として医療費の節減、救急医療の負担軽減にも繋がると思われます

尚、上記の様な本格的なオンライン診療に伴い、患者の来院が前提となっている現在の病院や”かかりつけ医”経営形態が変わることは間違いないので、健康保険の診療報酬体系を大幅に見直す必要があると思われます
また、間近に迫ってきた「超高齢化社会」における終末医療の在り方も、このオンライン診療によって変わる可能性があります。オンラインで繋がった病院や”かかりつけ医院”の医師による継続的なケアを続けることにより、「延命だけが目的のチューブに繋がれた惨めな病院死」から、「愛する家族に囲まれた自宅での静穏な死」への道を拓いてくれるのではないでしょうか
尚、この「看取り」の問題については、私のブログ「“死”について(その2)」の後半部で日本の現在の取り組み状況について解説しています

その他、思い付くまま!

A.DXに取り残される人たちにどう対応するか
未だにパソコンを持たず、ガラケーのみを使っている人は高齢者を中心に数多くいます。こうした人達にネットで全ての手続きができますと言っても、彼らにとってみれば何の意味もありません。しかし、全ての国民に平等な行政サービスを行うことは国の責務であることは論を待ちません。従って、こうした人達の為に以下の対策は必須のことと思います;
行政の窓口には必要な台数のパソコンを設置し、自身での操作を前提として操作に戸惑う人達の為のサポート要員を配置する(こうしたサービスは私が住む市役所ではやっていませんが、財政の厳しい地方都市では既に実施しているかもしれません。何故なら、こうした手続きを行う役所の職員は既に、手続きに来た人の手書きの申請書を見てパソコンに入力するという作業を行っているに過ぎないからです

②既にネットでも申請を受け付けている行政サービスもあると思いますが、素人でも扱えるような入力画面(GUI/Graphic User Interface)の工夫が為されていないものが多いようです。もともとシステムを設計する人も、行政実務を担当する人もその道のプロであるために、素人が扱いやすい入力画面がどんなものであるのか分からないのかも知れません
その点、ネット・ショップやネット・バンキング、航空会社の予約サイト、などの入力画面は、設計が悪ければ顧客に使って貰えないので結構工夫されていると思います。従って、この様なお客さま第一の業種の入力画面から学ぶ必要があると思います
③行政が使うシステムは、セキュリティー対策が脆弱であると甚大な被害を齎す可能性があります。最近、殆どの行政システムはインターネット・ブラウザ(インターネットを閲覧するソフトウェア)を使った入力画面を採用していますので、このブラウザのセキュリティー対策を確実に行うことが必須(常に最新のバージョンに対応すること)になっています
一方、インターネット・ブラウザは色々な種類があり、それぞれ扱い方が若干異なります。従って、行政システムは常に使用頻度の高い複数のブラウザの最新のバージョンに対応する必要があります

*こんなことは当たり前、と思っていたのですが、最近不動産登記のオンラインシステムを使う機会があったのですが、このシステムでは古いバージョンのブラウザ2種しか使えないと分かり、吃驚しました。恐らく予算上の問題だとは思いますが、行政のシステムはこんなことはあってはならないと思います

B.不動産登記に関わる諸問題
個人や法人が所有している不動産は法務局の下部組織である登記所で管理されています。登記上の記載事項についてはあまりご存知ないと思いますが、私はこの道のずぶの素人ですが、父母死去後の相続申告の時、自宅のローン返済終了後の抵当権抹消手続きの時、それに最近の不動産移転登記手続きの時、に経験しました。一般の人は、手数料を払って法律事務所や行政書士に依頼することが多いようですが、私の場合は、まずお金が無いこと! それに不動産登記の仕組みに興味があったので自分で申請書を作り申告しました。そこで、以下の様な面白い?(信じられない)事実を知ることが出来ました;

①不動産の登記関連事務は県別の法務局の下部組織である沢山の支局(例えば、人口220万人の新潟県の支局の場合)でのみ取り扱っており、持っている不動産の登記はそれぞれその不動産のある支局でしか扱わないことになっています。勿論登記済みの内容自体は、全国の不動産をカバーするデータベースから参照できるシステムになっています(既にデータベースのオンライン化は実施済み )
このオンライン化されたデータベースを使えば、 法律事務所や行政書士の様なプロの場合、全国の不動産の申告業務を自身の事務所で扱えるとは思いますが、素人が扱うにはハードルが高く、法律事務所や行政書士の様なプロ向けの行政(法務局で働いていた人が司法書士になるとか、、、)であると感じました

②登記所で扱っている不動産所有者(個人、法人)の名前現住所は、住基ネットのデータと一致していることが求められますが、住民サービスを受けるために国民が自らが必ず行わねばならない市町村役場への死亡届や住所変更届などの重要な情報が登記所に伝わらない仕組みになっている様です。その結果、以下の様な看過できない問題になっています;
不動産の所有者が死去した場合相続の登記を行わない限り、登記簿上は死者が不動産を所有し続けることになります。こうした事から、戦後山林の不動産価値が著しく下がったこともあり、相続申告を怠った持ち主不明の山林が全国に沢山あり、治山・治水工事の停滞、林業の合理化が遅れる、などの諸問題が発生しています(詳しくは私のブログ「森林経営管理法が成立しました!」をご覧になってください)

また市街地であっても、不動産価値が低い空き家、空き地が放置され周辺住民の迷惑になっています
都市周辺の農地が数代に亘って相続登記が行われないままにされていたものの、宅地転用規制が緩められたとたんに土地価格が高騰し売却しようとしても相続権を持っている親族(孫、曾孫、、年数を重ねるごとにネズミ算的に増加する)が多すぎて相続の合意が得られない事態が現に発生しています
(注1)2010年9月10日、法務省民事局は、各法務局、地方法務局に対し、戸籍の附票に住所の記載がない120歳以上の高齢者を戸籍上「死亡」とできるよう通知しました。これは「高齢者消除」と呼ばれ、対象者の戸籍には一律で「高齢者につき死亡と認定」と記されます。今後、戸籍の附票に住所の記載がない120歳以上の高齢者の戸籍は順次抹消されていくことになります
(注2)戸籍の附表とは、本籍地において戸籍の原本と一緒に保存している書類で、その戸籍ができた時から除籍されるまでの住所の履歴を記録したものです

れらの不動産登記上の諸問題は、マイナンバーカードに本人名義の不動産登記データの”ひもづけ”を行うことにより、
現住所情報は住基ネットの情報を自動的に登記上の所有者住所に反映し、
死亡情報は住基を管理する市町村の役所が戸籍の附表を通じて、相続権者全員の住所氏名を特定した上で登記所に提供し、登記所から相続権者全員に「遺産手続き」の開始を促す通知を行うこととすれば、解決できるのではないかと考えます

ただ、この様な行政サービスを行っても、不動産価値が低く、保有していく価値がマイナスとなるケース(不動産所有に関わる諸税、維持管理費、その他のコストが関連します)の場合、遺産相続を行わずに放置されることも大いに考えられます。これは、マイナスの相続財産の放棄は価値ある財産との相殺、乃至価値ある財産も放棄する場合しか認められないことに原因があるので、これを改め、相続者に相続財産を無償で放棄する権利を与え、放棄された不動産は地方自治体が所有権を得ることにすれば、公共的な別の価値(低所得者への住宅の提供、地方創生の為の企業の誘致、など)を生み出す可能性もあると考えられと思うのですが、、、

Follow_Up:210210_土地登記は相続3年内に、違反なら過料 法制審答申

以上

 

COVID-19と日本の近未来

はじめに

言わずもがなですが COVID-19 とは現在も終息していない「新型コロナウィルス」を指す医学用語(Coronavirus Disease 2019/2019年に確認されたコロナウィルスによる病気)です。この疫病が昨年末に中国の武漢で発生したことが伝えられてから半年しかたっていない現在、ほぼ全世界に蔓延し多くの死者を出している(ref:COVID-19_世界の感染者数)と同時に、世界中の経済が2008年に起きたリーマン・ショックを遥かに超える大きなダメージを受けています

参考:現在の日本の感染状況統計

COVID-19の走査型電子顕微鏡写真
COVID-19の走査型電子顕微鏡写真

内外のメディアに載った有識者の意見を総合すると、このコロナ禍によって世界規模の「パラダイムシフト」が起こると予言している人が多かった様に思います。パラダイムシフトという用語は、政治、経済史などでよく使われるものですが、一般に「ある時代・集団を支配する考え方が、非連続且つ劇的に変化し、社会の規範や価値観が大きく変わること」とされています。「ペスト」という疫病が、欧州の歴史におけるパラダイムシフトのきっかけとなったことは良く知られています

また「ウォール街大暴落(1929年10月24日/“暗黒の木曜日”)」も、これが世界中を巻き込む大恐慌に発展し、自由放任の資本主義に修正が加えられるとともに、その後の第二次世界大戦の誘因になったことから考えてパラダイムシフトのきっかけとなったと言えると思います

今回の COVID-19 の蔓延によって、ここ数ヶ月の世界の混乱ぶりを見るにつけ、私も昨年までの政治の仕組みや経済の常識が通用しなくなっていることは確かだと思います
特に日本においては、戦後世界に冠たる高度経済成長を成し遂げたことによる「自信過剰」からと思われますが、旧態依然たる行政の仕組み社会の仕組み人々の考え方、などが先進国としては稀なほどに温存されてきた結果、COVID-19 の蔓延を機に一気にその後進性が露呈され、パラダイムシフトと言えるほどの大変革が起こるのではないかと思われます

以下は、新聞・雑誌、その他のニュース・メディアの記事を拾い集めたものを集約したものが大半ですが、一部私自身の考え方も加えています(青字で表示)。当たらずとも遠からずになっていれば幸いです

サプライチェーンの構造改革

鄧小平改革以降中国は、共産主義の体制(強権的な政治・経済の運営)は維持したまま経済の門戸を開くとともに、各種製造業を急速に発展させるため外国資本の導入を積極的に進めてきました(ただ、最新技術の中国への移転強要外国資本の統制も併せて行ってきました)。その結果、近年多くの先進国の最終製品に組み込まれる中間部品の製造や日用品(生活必需品を含む)の製造に関して「サプライチェーンの要としての役割」を果たすようになっていました
勿論、国際競争に晒されている多くの日本企業も、コストを極限まで圧縮する為に最終製品の在庫を極限まで減らすことが一般的となり、中国における製造ラインの停止は即最終製品の出荷停止に繋がることになりました。また、軽量で高価な部品、製品については航空輸送による輸送時間の短縮も行っている為、航空旅客便の大量減便(通常考えられるより旅客便による貨物輸送のシェアが高い)がサプライチェーンの瞬時の断絶招くこととなりました

特に今回のコロナ禍にあっては、医療品のサプライチェーンが寸断されたため医療現場での混乱のみならず、政府が一般国民にマスク着用を強く要請しながらマスクが市場から消えるという笑い話のような事態を招くこととなりました
因みに、5月12日の日経新聞に載った日本における医療品の海外依存度は、以下の表の様になっています。これではパンデミック発生の際に国民の命を守るためのあらゆる活動のアキレス腱になることは必定です。
拙宅でもマスクの調達が叶わず途方にくれましたが、若い頃洋裁を習っていたワイフが急遽ネット情報をみてマスクの制作を行い事なきを得ました(現在も快適に使用中!)

国内で流通する衣料品の海外依存度

1~2月の段階では、武漢のコロナ蔓延に対して、中国に進出している日本の企業などは無料で中国にマスクを送っていました。因みに、日本の中国語検定の事務局はマスク2万枚と体温計を感染者が急増する武漢へ支援物資として送りましたが、その箱には山川異域、風月同天」と書かれていました。その意味は「地域や国が異なっても、風月の営みは同じ空の下でつながっているという意味で、元は天武天皇の孫である長屋王が中国へ伝えた詩の一節です。勿論、中国のSNSでも話題になり、日中親善の役割を果たしていました

ところが、日本に於いてコロナが急速に蔓延した4月以降は、日本の医療品供給は急速に逼迫し、特に最前線の医療現場では枯渇する寸前の状態まで追い詰められ(特に代替のきかないN95マスク/患者に触れなければならない医師、看護師の必需品)医療従事者が危険にさらされる事態になりました。また一般用のマスクは店頭からほぼ消え、極めて高価な密輸品が横行することになりました(最近観たテレビのドキュメンタリーによれば、目ざとい中国の商人は、マスクなどの医療品の輸出で莫大な利益を上げていたそうです)
中国政府は、国内の蔓延が一段落した後、こうした医療品の供給を海外への援助という形で政治的に利用していました
<参考> マスク外交、世界に波紋_中国、120カ国送付 米は「買い占め」 欧州は警戒、批判強める

このコロナ禍による大混乱が一段落した後、大企業は自らサプライチェーンの大幅な組み換えを行うことは間違いの無いと考えられます。コストだけでなくパンデミックを含め各種災害に強いサプライチェーンを築くにあたって、中国以外の国への展開だけでなく、国内企業への回帰も期待したいところです。
労働集約型の事業の国内回帰は人件費負担の増加を招くことも考えられますが、これは AI(人工頭脳)やロボットの活用で乗り切ってほしいと思います。こうしたことが結果として日本の将来にとって喫緊の課題である「地方創生」、「少子化の克服」に繋がるのではないでしょうか

また、どの様な事態になっても、国民の命を守ることが国策の第一優先事項であることは当たり前のことです。今回明らかになった医療品、特に医師、看護師など最前線の医療現場で命を預かっている人たちの医療品については、国内生産基盤の確保のための補助金の交付、国家備蓄のための予算措置が必要になると思われます。また、重症患者の命に繋がる人工呼吸器やECMO(extra-corporeal membrane oxygenation/人工肺とポンプを用いて心臓や肺の代替を行うもの)についての国家備蓄が必要なことは、論を待ちません

ECMO

<参考> サプライチェ-ンとは
サプライチェーン(supply chain)とは、製造業において、原料の調達、商品の製造から販売まで全ての工程をひとつの連続したシステムとして捉える考え方で、「供給連鎖」と訳されることもあります。トヨタの合理的な生産システムである「看板方式」を研究したイスラエルの物理学者エリヤフ・ゴールドラットが、1984年に出版したビジネス書「The Goal」はこのサプライチェイン理論のさきがけとなり、現在に至るも製造業の常識になっています。ごく簡単に要約すると、製造の過程で発生する在庫を減らすことがコストを下げ、製造期間を短縮させる唯一の方法であることを述べています

Follow_Up(2020年9月8日):コロナで生産回帰 補助金競争率11倍 マスクや医薬品

Follow_Up:(2020年12月16日)ネット通販 物流陣取り合戦 Amazon埼玉、楽天は千葉

IT(インターネットを使った技術革新)化の加速

1 行政のIT化
日本が、他の先進諸国に比べてビジネスプロセスのIT化が遅れていることは、予てから国際的なビジネスを行っている人々から指摘されていました。政府は今後の経済発展を加速する為には企業だけでなく行政事務一般についてもIT化は避けて通れないとして経済産業省を中心としてこれまで多くの関連法を整備してきました(参考:IT関連法令リンク集)。この中で最も基本となる法令は、昨年末に施行された官民データ活用推進基本法です。しかし下図が示す通り、現在の5万件以上ある行政手続きの内、オンライン化されているものは2019年3月末時点でたった7.5%に過ぎません;

行政手続きのオンライン化

この実態を如実に示したものは、4月30日に成立したコロナ禍に関わる第一次補正予算で支給が決まった「特別定額給付金」(国民一人当たり10万円を支給)の事務手続きの大混乱でした。
この原因は色々あるとは思いますが、要約すれば政府は1967年に施行された住民基本台帳法に基づき世帯単位でまとめて一つの銀行口座に振り込むこととし、書類提出による申請と、マイナンバーカードによるオンラインでの申請の二本立ての申請を認めていました。しかし、いずれの申請でも自治体の中で電磁媒体による情報の交換が必要となり、結果として相当程度の人手に頼る部分が発生し事務作業が大幅に遅れてしまいました
これは、地方自治体の情報システムが、①住民記録や税、福祉などのマイナンバーカード系、②非公開文書主体の専用線系、③公開情報のインターネット系3本建ての独立した運用になっている(2015年に起こった年金情報漏洩事件が契機)ことと関係があります。例えばオンライン申請では、②の端末、児童手当の処理は①の端末を使うことになっており、システム同士の情報のやりとりは、基本的に電磁媒体を使って行うルールになっていたからです
自治体によってはオンライン申請のデータを印刷し職員が目視で確認する作業が必要になったところもありました。6月17日時点で全国84の自治体がオンライン申請の受け付けを停止しました。5月末にオンライン申請を中止した高松市の場合、オンライン申請全体の2割は電話などで確認する必要があったとのこと

米国や欧州諸国では給付金を短期間で直接国民の銀行口座に振り込んだり、中小企業向け融資も素早く実行したりと日本と比べてスピード感が目立ちました。日本では地方自治体の上記の様なシステム上の欠陥が原因で大きな支給の遅延が発生してしまいました。メディアの無責任な報道に惑わされ。役所の実務担当者の怠慢に帰するようなことがあってはならないと思います

<参考>住基カードとマイナンバーカードの違い
住基カード(2007年から発行;有効期限が10年間)とは、住民基本台帳ネットワークシステムと連動した転入出手続きが簡単にできることや、インターネット経由での電子申請に使う電子証明書を格納できるのカードです
一方、マイナンバーカード(個人番号カード;2016年から運用開始)は、世帯単位ではなく個人単位で発行され、これまでの住基カードと同等の機能を持つと同時にオンラインで納税業務などを行える機能を持っています。将来は銀行口座健康保険証などの情報も格納できるようになっています。
上記から分かる通り、住基カードはマイナンバーカードに切り替えることが前提となっており、2016年1月以降新たな住基カードは発行されていない為、現在所有している人も有効期限が切れ次第マイナンバーカードに切り替えられることになっています
マイナンバーカードは、残念なことに発行開始してから既に4年が経過しているにもかかわらず16%程度しか普及していないのが現状です

住基カードとマイナンバーカード
住基カードとマイナンバーカード

世界銀行がビジネスのしやすさを評価する事業環境ランキングの2020年版で、成長力に響く法人設立の分野で190ヶ国中106位、OECD(経済協力開発機構)加盟国37ヶ国中30位となっています。一方、エストニアでは行政手続きの99%がオンラインで完結しており、海外の起業家がネット上で会社設立を済ませられる様になっています
奇しくも今回のコロナ禍によって、白日の下に晒された日本の行政のIT化の遅れに対して、政府としてもこうした後れを早急に取り戻すべく、経済財政諮問会議で議論を始め、行政やビジネスのデジタル化を1~2年で集中的に進めるよう提言し、これを7月にまとめる経済財政運営と改革の基本方針(骨太方針)のたたき台として2021年度予算の概算要求に反映することになっています

マイナンバー制度のロードマップ

今まで行政書類のデジタル化、行政手続きのオンライン化は、「個人情報の取り扱い」、「セキュリティーの確保」、などで議論が頓挫してきた歴史を歩んでいます。一気にエストニア並みにするのは無理だと思いますが、感染症の恐怖を後ろ盾にして?今回こそは欧米先進国並みのIT化を是非実現して欲しいと思っています

*私事で恐縮ですが、先日、住民票と印鑑証明書が急遽必要になり、コンビニに行ってマイナンバーカードを使って5分ほどで入手することが出来ました。ただ、1枚印刷するのに200円も掛かりました。その中にはコンビニへの手数料、回線料、特殊な紙(不正コピーをさせない様になっている⇒電子認証ができれば紙自体が不要)の費用などが掛かっているとは思いますが、いかにも高いと思いました。今や銀行の手続きの大半も自宅のパソコンで完結するのに、どうしたもんかな~というのが私の感想です!

Follow_Up(2020年7月1日):マイナンバーカード情報、スマホに搭載
Follow_Up(2020年7月3日):規制改革会議答申
Follow_Up(2020年7月12日):定額給付金配布作業が混乱した原因
Follow_Up(2020年7月14日):レトロ規制が成長阻む_無人コンビニや薬処方に制限
Follow_Up(2020年7月30日):請求書 完全電子化へ 仕様統一で政府・50社協議、会計・税の作業負担減

2. 企業のIT化
今回のコロナ禍によって、企業は働き方の大変革を迫られました。出社することによる感染リスクの増大に対処するため、多くの企業が「在宅勤務」を余儀なくされました。今まで海外とのビジネストークで使われる程度であった所謂「テレワーク」がごく普通に行われるようになりました。社員は原則自宅で仕事を行い、会議は「リモート会議」と称して関係者がネット上で会議を行い、顧客との対応も全てネットを通じて行うことが珍しくなくなりました。恐らく顧客自身も他人との接触を避けたいと思うことが背景にあるからだと思われます。最初は戸惑う人もあったようですが、何と2ヶ月ほどでこうした仕事のやり方が抵抗なく受け入れられつつあります
<参考>
内閣府が5月25日から6月5日の間インターネットでアンケートを実施し、得られた回答は以下の通りです;
① 全国で34.6%、東京23区で55.5%がテレワークを経験
② 東京23区の経験者のうち9割が継続して利用したいと回答
③ 東京23区の経験者のうち通勤時間が減少した人が56%で、その内72.7%が今の通勤時間を保ちたいと回答

我が家でも同居している次男が、ほぼ毎日リモート会議を行っており、ワイフも全国に散らばっている友人達とのコミュニケーションの手段として時折リモート・ミーティングを設定しています。遅ればせながら私もZOOMというソフトを使って何回か懇親の為のリモート飲み会を設定してみました;

リモート飲み会でのパソコン画面

実感としては、コミュニケーション上は殆ど問題ない様に感じました。むしろZOOMというソフトに備わっている録画の機能、ホワイトボードの機能、チャットの機能(会話とは別にキーボードによるコミュニケーションが可能)などを駆使すれば全員が一堂に会する従来の会議よりは効率的に進めることも可能ではないかと思いました

企業側から得られた「在宅勤務」の問題点については以下の二つのアンケート結果が参考になります;

テレワークの課題
テレワークの課題

問題とされたことは「通信環境の整備」や「社内文書のデジタル化」、「電子決済の導入」を行えばほぼ解決可能と考えられますがが、2~3割の人が「上司や同僚とのコミュニケーション」に問題があったと感じている様です。企業によっては、課やグループ単位の「リモート飲み会」や毎日決まった時間に「リモート・コーヒータイム」を設けることで足りなくなるコミュニケーションを補っているそうです

企業のリモートワークの生産性改善の取り組み例

今回の経験をもとに「在宅勤務」が比較的うまく行った企業の経営者は、今回のコロナ禍が一過性のものではないことを勘案し、上記問題点を解決した上で以下の様な対応を検討し始めています;
① 都心に構えるオフイス・スペースを減らす(⇒賃料の削減
② オフイスの分散化を図る(⇒賃料の削減通勤時間の削減
③ これまで日本の企業は労働基準法を基に勤務管理(労働時間管理、など)を行っていましたが、今後は欧米先進国では普通に行われている「JOB評価(個人別に職務を明示し、その達成度で成績評価を行う)」に切り替えていくことが必要
④ 製造業の現場ではリモート勤務は難しいものの、VR(Virtual Reality/仮想現実) 機器の導入、ロボットの導入などにより、人と人との接触を減らすことが可能

こうした動きは直ぐには起きませんが、今回のコロナ禍の根本的な原因の一つが人口の過度な都市集中にあることは明白なので、中・長期的には企業の【東京一極集中⇒地方分散】の流れができ、その結果として都心部の不動産価格の下落などが予想されます。またデジタル化による労働環境の改革やJOB評価導入による働き方改革は時代の流れに沿ったものと考えられます

Follow_Up(2020年7月4日):富士通・日立など、オフィス面積半減 在宅勤務前提でコスト減
Follow_Up(2020年7月5日);在宅勤務に関わる国際比較;

外出制限解除後の在宅勤務
労働生産性比較

Follow_Up(2020年7月10日):新常態でオフィス変貌_縮小だけでなく分散・3密対策も
Follow_Up(2020年8月25日):ホンダ「ワイガヤ」オンライン、新人600人の挑戦

一方、自宅で業務を行う家族の側からの意見として;
プラス面;
① 通勤時間がゼロとなることから、ゆとりの時間が持てるようになる(特に遠距離通勤者)
家族内のコミュニケーションの機会が飛躍的に増えること(特に夫婦共働きの場合)
夫婦間の家事・育児の分担がスムースに行える(⇔妻の家事・育児負担が減る)
④ 食費の減など家計費負担が減る
マイナス面;
① 独立した部屋が確保できない場合、あるいは子供が小さい場合、業務に集中できない場合がある

こうしたことから、【郊外の一戸建て住宅、あるいは広いアパートの需要拡大⇒子育て負担の軽減⇒出生率の向上】などが期待されます

3. 教育界のIT化
今回のコロナ禍で、教育界はまず最初に厳しい対応を迫られることになりました。2月27日に安倍首相が突然3月2日から春休み期間まで全国の小・中学校・高等学校、特別支援学校の臨時休校を要請しました(首相・臨時休校の要請)。この休校要請は実質的に緊急事態宣言が解除されるまで続き、教育関係者のみならず、子どもを持つ保護者にとっても極めて厳しい対応を余儀なくされました。また、大学や補習校などについても通常の講義は行えず、試行錯誤が暫くの間続きました

しかしながら徐々にインターネットを使った遠隔授業(リモート授業)が開始されることとなりましたが、その授業の充実度には学校ごとに相当幅がある状態が続いています。因みに、公立の小・中学校・高等学校の中にはハード・ソフトのデジタル化が遅れている所も多く;

学校のオンライ環境の現況

双方向のコミュニケーションが必要となる遠隔授業は行えなかったところが分かります。また、今回はコロナ禍での突然の休校要請であった為、教員や生徒の事前の準備が殆ど行えなかった状況であったことも混乱に拍車をかけたと思われます;

双方向の遠隔授業ができたのはたった5%

因みに、私の中学生の孫は私立中学に通っていますが、5月頃には1日6科目の双方向のリモート授業をこなしていました。また、公立の小学校に通っている孫はの塾(プログラム教室)授業では、当たり前のようにリモート環境で勉強に集中していました

一方、大学に関しては、4月以降それぞれの大学の特徴を生かしたリモート授業を行っていると思われます。日経新聞で得た4月18日時点での取り組み状況以下の通りです;

大学のオンライン授業の状況_4月18日時点の情報

東京大学では、リモート化する講義の数は4千を超えるとのこと、準備を行う教授たちの苦労もさることながら、回線の容量を確保するのも容易ではないと想像できます

<参考> 大学のオンライン化の流れ
教育にオンライン化の波_立命館アジア太平洋大学
大学の学びリモート体験・オープンキャンパス代わりに

こうした状況に鑑み、今後 COVID-19 の第二波、第三剥波の襲来、未知の疫病の蔓延に備え、政府としても教育に係る設備投資(大容量のネット環境の整備、パソコンの個人配布、など)やリモート授業を前提とした教育指導要領の改訂、などをここ数年の間に行うことは間違いないと思われます
従って、今回のコロナ禍で経験したリモート環境による授業(講義)のプラス・マイナスの面を整理し、今後に備える必要があると思います;
プラス面
① 大きな教室で行われる授業においては生徒(学生)からの質問は出し難かったのに対し、気軽に質問ができる(ZOOMアプリであれば、チャット機能を使用するなど)

② 教員が提供する講義資料、等が各自のパソコンから電子データで入手可能となる
③ 大学で人気のある授業を公開することによって、学外(他大学生、高校生、社会人)からの受講者を簡単に受け入れることが可能となる(これまで学外の受講希望者は教室容量の制約を受ける)
④ 板書(教員が学習事項を黒板に書くこと)を書き写す必要が無く、授業に集中できる(ZOOMアプリであれば板書の代わりにホワイトボードに書き込めば電子ファイル化が可能)
⑤ イジメ、発達障害、精神症が原因で不登校になる生徒(学生)も授業を受けられる
<参考>
現在、YouTubeで公開されている以下の動画を観ると、不得意で遅れている科目のCatch-Upだけでなく、好きな科目については、学年を超えて学ぶことが可能であると感じました(いい時代になったもんです!)
葉一の勉強動画:https://19ch.tv/

マイナス面;
① 教員と生徒(学生)との対面コミュニケーションが不足しがちになる ⇒ 対面コミュニケーションが必要な生徒(学生)とは個別にリモート面接を適宜行うなどの対応が考えられる
② パソコンに習熟していない教員は対応に苦労する(老教師にはつらい状況か)
③ 生徒(学生)同士の対面コミュニケーションが不足しがちになる ⇒ 親しい仲間同士でリモート会話をすることである程度対応可能
④ 体育の授業、特に団体スポーツを行うことが出来ない ⇒ 「3密」にならない運動が工夫されつつある

Follow_Up(2020年7月16日):教育の概念、激変の可能性_柳川範之・東大教授
Follow_Up(2020年8月26日):世界の大学「封鎖」解けず 遠隔中心、質低下に懸念
Follow_Up(2020年8月27日):国内大学も遠隔続く 心のケア・就活支援が課題

4.医療のIT化
コロナ禍にあっては、医療崩壊の危機のみが話題になったきらいがありますが、実は我が国医療のIT化の遅れも浮き彫りになりました
国民皆保険が実現している日本では、これまで具合が悪くなれば直ぐに病院に行って診察を受けるのが当たり前になっていましたが、今回のコロナ禍により常に「三密」となっている病院に行くのは憚られ不安を感じた人も多く、また結果として重症化する人もいたと思われます(特に高齢者や持病を抱えている人)。更に、癌や他の深刻な病気のため手術を予定した人が延期されている例(有名な高須クリニックの院長)も出ました。一方、病院側にとっても、患者の受け入れが激減し、6月頃には深刻な経営危機に陥る病院も出てきました。

こうした問題点を解決する切札として、先進諸国ではネット診療が一般化しています。対面診療が基本の日本では、医師会の反対もあり中々実現しませんでしたが、今回のコロナ禍では緊急措置(時限措置)の一環として一部オンライン診療が実現しました;
メドレー(株)の取り組み:日本の医療 「非効率」にメス・オンライン診療を普及
② (株)マイシンの取り組み:オンライン診療の需要増・患者登録10倍
③ Lineの取り組み:LINE・オンライン診療アプリ参入_8000万顧客生かす

高齢化社会を迎えて、今後医療費の増加が確実視される中で、医療のIT化は避けられない流れだと思います。上記のオンライン診療の普及は当然のこととして、医師の負担軽減のためのAIを使った問診システムの導入、また個人番号カードに健康保険証をヒモ付けた後になると思いますが、カルテのデータベース化による患者情報の共有化の取り組み、などIT化による医療高度化、医療費の削減を近い将来実現すべきと考えます
また、直近の未来に迫った5G回線網の整備と併せ、医療体制が整っていない地方でもリモート手術などで高度医療が受けられる体制を整えることにより、少子化・地方創生という喫緊の課題にも応えられるようになると考えています

エアラインビジネスの変革

最新のIATA(国際民間運送協会)の発表によれば、コロナ禍による航空需要の激減は想像を絶する状態にあります;

国際旅客輸送量の推移  byIATA

このグラフから分かることは、致死的な感染症の蔓延(特に長引くと)は航空需要に壊滅的な影響を与えることが分かります
今回のコロナ禍では、既に5月半ばにはタイ航空、オーストラリア・バージン航空が経営破綻しています。また、多くのLCCも既に経営破綻の瀬戸際に立っています。一方、国内ではJAL、ANA、米国、欧州における大手航空会社は国からの巨額の融資、その他の支援金を受け取って何とか破綻を免れていますが、危機が長引けば、更なる国による援助が必要になるのは明らかです

飛行できず羽田空港に駐機中の多数の航空機

航空輸送は国のインフラの中でも他で代替のきかない交通インフラになっていますので、大手の航空会社が破綻すると感染症の蔓延が終息した後で迅速に経済を立ち上げるできなくなります。従って、他産業分野で国からの支援が得られず破綻する例が多く発生しても、世界の主要国政府は巨額の支援を行っている訳です

ただ、これだけ落ち込んだ航空需要が復活するには2~3年の期間が必要というのが多くの航空関係者の意見であり、これを乗り切るには既に行われている支援の他に以下の対策が必要だと思われます;
① 航空会社の責任で、経年機の退役(767、777-200、など))を行う(売却、リース機の返却)
しかし、今の時期航空機の売却やリース機返却交渉は非常に難しいと思われるので、以下の対策も併せ行う;
② 国の責任で、稼働していない航空機に課せられる巨額の減価償却費を2~3年猶予する(日本でも過去にストレージ/Storageを行って減価償却を猶予して貰った例がある)
因みに大手航空会社の航空機は、1機当たり200~300億円もする上にこれを購入した後10年間で償却しなければならない為に航空機を保有するコストは非常に高額になります

上記対策を行った上で、航空会社は必要に応じ:
③ 人事・労務対応(早期退職、賃金カット、など)を行う。但し感染症の蔓延が終息した後で迅速に対応できる要員は確保する
また、現在密着を避けるために、搭乗するお客様の数を制限して運航していますが、航空機は、飛行中に機外から新鮮な空気を取り入れ客室内の与圧を行っており、客室内の空気は常に数分で床下(貨物室)から機外に放出しています。従って、客船、列車、バス、などと違って空気感染するリスクは相当少ないはずです。そこで
④ 航空機メーカーと協力して、隣同士の席に座っても室内などと比べて感染リスクがかなり低いことを立証し、搭乗率を向上させる努力を行う必要があると考えます

Follow_Up(2020年7月1日):ソラシドエアがコロナ対策公開
Follow_Up(2020年12月22日):航空需要、回復の見込みは 「ビジネス客の戻りに遅れ」

国際政治状況の緊迫化

近年、米国と中国との間で「新冷戦」と言われるほど政治・経済での軋轢が高まっています。これに、コロナの発生源となった中国に対する道義的な問題新疆ウィグル地区のウィグル人に対する弾圧、「香港国家安全法の制定(香港返還の際の国際的な取り決めである「一国二制度」の原則をにより有名無実化させる可能性大)などが重なり、欧米先進諸国はかつてないほど中国に対する非難を強めています

一方、中国はコロナ禍という国難に対応し、欧米先進国からの非難をかわし、国民の団結心を高めるために、以下の様に軍事的な攻勢を強めつつあります(先進諸国がコロナ対策に忙殺されている隙に軍事的な攻勢を企てたという識者もいます);
① 南シナ海に於けるフィリピン、インドネシア、ベトナムとの国境紛争軍事演習の強行
② 東シナ海の日本が実効支配している尖閣諸島・接続海域に於ける示威行動のレベルアップ(日本の海上保安庁に対応する中国の海警局が最近人民軍に統合され、搭載している火器なども強化されています)
③ 中国とインドの係争地域(カシミール地方)に於ける小規模の衝突(双方に死者が出ています)。一食触発という状況ではありませんが、何か大きな状況の変化があれば突拍子のない事態に発展するリスクあるのではないかと一人心配しています

カシミール地方

④ 民進党となった台湾が、香港の民主化運動に同調する動きを見せていることから、台湾に対する軍事的圧力を強めている

歴史好きの私としては、こうした状況は「セルビア人によるオーストリア皇太子夫妻の殺害」がきっかけで誰も予想だにしなかった第一次世界大戦が起こってしまったことを思い出させます
また、中国の南シナ海に於ける「九段線」内の領土主張は、

中国が主張する国境「九段線」と領土紛争地域

何故か太平洋戦争勃発時の日本軍による東南アジア侵攻を思い出させます。南シナ海は常に超大国間の覇権争いが行われる海でした。第二次世界大戦では大日本帝国と米国(当時フィリピンを植民地としていた)、今は中国と米国が対峙しています
ベトナム、インドネシア、フィリピン、インドなどが、中国と武力衝突を起こすと、中国はかなり大規模な攻勢をかける(例:中ソ国境戦争、中印戦争、中国・ベトナム戦争、など)可能性が高いので、この紛争に南シナ海で「航行の自由作戦」を行っている米国が加担すると由々しき事態が発生する可能性はゼロではありません

また、日本が関わる尖閣列島については、米国がこの地域に対して日米安保条約の下で共同で対処することになっている為、尖閣諸島での武力紛争は大規模化する可能性が高いと言わざるを得ません。最近、中国が新型対艦弾道ミサイル(CM-401)を実用化したと言われており、これが中国の南シナ海・東シナ海での軍事攻勢に拍車をかけていると考えられます。日本としては、中国という軍事大国と大戦争を行うリスクは絶対避けなければならず、米国と中国との距離をどう保っていくかが近未来の最大の政治課題だと思います

Follow_Up(2020年7月14日):米、南シナ海介入へ転換・中国の領有権主張「違法」

<付録> ウィルスの正体?

A.ウィルスの正体については、福岡伸一氏の著書「動的平衡」に非常に分かり易く解説されていますのでご紹介します;
ウィルスの発見
ウィルスは1938年にシーメンス社が電子顕微鏡を製品化して初めて捉えられました。その大きさは30~50ナノメートル(10億分の30~50メートル)です。因みに、ヒトの細胞の直径は30~40マイクロメートル(百万分の30~40メートル、細菌の直径は0.5~5マイクロメートル

ウィルスの正体
① 非細胞性で細胞質などは持たない。基本的にはタンパク質と核酸からなる粒子
② ほかの生物は細胞内部にDNA(デオキシリボ核酸)とRNA(リボ核酸)の両方の核酸が存在すますが、ウイルスは基本的にどちらか片方だけ
③ ほかのほとんどの生物の細胞は2n(2倍体)で、指数関数的に増殖するのに対し、ウイルスは一段階増殖(コピーされたものが次のコピーを作る)です
単独では増殖できず、ほかの細胞に寄生したときのみ増殖でます
⑤ 自分自身でエネルギーを産生せず、宿主細胞の作るエネルギーを利用します

ウィルスの形状;
① ウィルスは、核酸(DNAまたは RNA)がタンパク質の甲殻をまとっており同種のウイルスでは核酸もタンパク質も同一です
② 個体差がなく、幾何学的な模様をしています
③ ウイルス粒子が規則正しく集合すると結晶化します。結晶化しても「死なない!」 ただ、生物かどうか判然としないので、「死ぬ」という表現が適切かどうかわかりません

ウィルスの活動
① 全く代謝活動をしません。つまり栄養を摂らず、排泄もせず、呼吸もしないものの、自己複製能力を備えており、繁殖します
② 宿主の体内に入ったウイルスは、甲殻のタンパク質が宿主の細胞表面のタンパク質と鍵と鍵穴の関係を持っていますので細胞に付着出来ます

Follow_Up(2020年7月10日):新型コロナ 子どもの感染率なぜ低い?_重症化もまれ・細胞の仕組みにカギ

ウイルスは自らの核酸を宿主の細胞内に送り込みます(⇒その核酸には、そのウイルスの遺伝情報が書き込まれている)
④ 宿主の細胞は、これを自分の核酸だと勘違いして複製してしまいます
⑤ そして核酸に記された情報を元に、ウイルスを構築する部材(タンパク質)まで用意してしまいます
⑥ ウイルスは宿主の細胞内で増殖し、細胞膜を破って出てきます
⑦ 細胞膜を破って出てきたウィルスは、また次の細胞に取り付くことになります

ワクチンに対するウイルスの対抗策
① ワクチンは、無毒化したウイルス(又はその一部)を事前に体内に注射して抗体を用意させ、ウイルスに侵入されてもすぐに反撃できるようにすることですが、インフルエンザのワクチンを、毎年晩秋から初冬に予防注射を受けているのは、毎年、新手のインフルエンザ・ウイルスが次々と登場してくるからです
② 通常病原体は「種の壁」を超えないのが原則ですが、ウィルスは種の壁を越えてヒトにもうつってくる可能性があります。最近ニュースに度々登場する強毒性の「鳥インフルエンザ」は本来ヒトにうつらないはずのものが、以下の仕掛けで変異を行う可能性があるので恐れられています
③ ウィルスは細胞に付着するのに必要な鍵を作り変えることが出来ます。ウィルスは常に鍵をあれこれかえてみる実験を繰り返し、新たな鍵によって、今まで入り込めなかった宿主に取り付けるようになります
④ 鍵だけでなく、ウイルスの核酸を包んでいるタンパク質の殻も少しずつかえています。ワクチンは、ウイルスの殻に結合して、これを無毒化する抗体なので、殻が変わるとワクチンが効かなくなります

ウィルスがパンデミックを引き起こす環境
① インフルエンザやコロナウイルスは増殖するスピードがとても速いので、増殖するたびに少しずつ、鍵やタンパク質の殻の形を変えることができます
② それがうまく働くには、近くにそれを試すための新しい宿主がより多く存在することが好都合であり、大量のニワトリを一ヵ所で閉鎖的に飼うような近代畜産のあり方は、インフルエンザ・ウイルスに進化のための格好の実験場を提供していることになります
③ まったく同じことは、好んで大都市に住む私たちヒトについても言えます。都市化と人口集中が進めば進むほど、ウイルスにとっては好都合です。都会はウイルスにとって天国のようなところで、ウィルスは少しずつ姿かたちをかえて、宿主と「共存共栄」していることになります

抗生物質が効かないウィルスに対する対抗策(新しく登場したウィルス薬の仕組)
* 細菌感染を防ぐために作り出した抗生物質は、増殖の仕組みも感染の構造もまったく違うのでウイルスには効きません
① ウイルスの鍵に先回りして、鍵穴をブロックする薬のタイプ
② 偽の鍵穴を作って、ウイルスを罠にかけてとらえてしまう薬のタイプ
③ ウイルスが宿主の細胞から飛び出すところを邪魔するタイプの薬(インフルエンザ用に開発されたタミフル

抗ウィルス薬の仕組み

上記は、千里金蘭大学副学長・富山大学名誉教授である白木公康氏が今年4月4日にネット上に公開した論文から引用したものです。同氏が開発を行ったアビガンという抗ウイルス薬は上記③のタイプなので耐性ができにくいと言われています

B.5月23日~6月21日まで日経新聞で連載を始めた「驚異のウイルスたち」という記事は、ウイルスの不思議な振る舞いについて大変分かり易い説明を行っていますので、以下に記事の概要をご紹介します
ウィルスはむやみに恐れる存在ではありません。極々身近にいて電子顕微鏡でその姿を確認でき、医学、生理学、生物学の優秀な研究者が最近その研究に没頭している最先端の研究対象です。既に述べた様にウイルスは、体内に入り込むことでのみ増殖が可能であり、その宿主である生物が死ねばその生存?も叶わないことになります。従って、したたかなウイルス達は以下の様な驚異的な生存戦略をとっています;

巧みな生存戦略をとるウイルス

一方、生物は進化の過程でウイルスの遺伝子を取り込んでいることが分かってきました;

生物は進化の過程でウイルスの遺伝子を取り込んでいる

太古のウイルスが人類の祖先の細胞に入り込み、互いの遺伝子がいつしか一体化した結果、ウイルスの遺伝子が今も尚私たちに体に宿り、生命を育む胎盤や脳の働きを支えていることは驚くべきことです

2003年に、今までの常識を覆す巨大ウイルスが発見されました;

常識を覆す巨大ウイルスと巨大化のシナリオ

何故このような巨大ウイルスが生まれたかは分かりませんが、東京理科大学の武村政春教授は上図の様な過程を経て生まれたと考え、この状態から「たんぱく質合成の場になる遺伝子さえ持てば、巨大ウイルスは新たな生物になるかもしれない」と語っています

ウイルスはとても恐ろしい存在にもなりますが、見方を変えると全く違った表情を見せます。ウイルスは特定の生物の間で広まり脅威を与えますので、作物の害虫やがん細胞に感染すれば、人類にとって有用な利用も考えられるます;

ウイルスの活用

東京大学のチームが体内に潜伏中のウイルスを追っていたところ、健康な人の全身に少なくとも39種類のウイルスが居着いていることを突き止めました。肺や肝臓など主な27ヶ所で感染を免れていた組織はゼロ。想像を超える種類のウイルスが脳や心臓にまで侵入していました。ウイルスは人間や動物の体内でたちまち増え、すぐに体をむしばむ印象が強いと思いますが、発病していない「健康な感染者」の存在は、感染症と闘ってきた人間社会に、ウイルスとの新たな向き合い方を迫っています

感染しても何もしないウイルス

ウイルスに感染しても発病しないものは潜伏感染不顕性感染といい、専門家にとって珍しくはありません。こうしたウイルスは乗り移った私たちの体を有効活用しようと計算し尽くした戦略をとっているのは確かだと思われます
中高年で悩みがちな帯状疱疹は乳幼児期に感染した「水痘(すいとう)・帯状疱疹ウイルス」が原因です。頭や腰の神経節に数十年以上潜み、疲労や加齢で免疫力が下がると動き出します。主に白血病の原因となる「ヒトT細胞白血病ウイルス1」も国内に約100万人の感染者がいますが、生涯の発症率は5%程度とされるています

Follow_Up: Newsweek Special Report(6月24日発行)の記事:
「09年豚インフル」という教訓
恐ろしい感染症が世界中に潜んでいる
豪華客船ダイヤモンド・プリンセス号が教える致死率の真実

私事で恐縮ですが、帯状疱疹については私は40歳になった頃と50台後半に二回発症しました。私の兄は70台後半で発症し数週間苦痛に苛まれていました。やはり高齢になるほど症状は重く、長期間に亘って症状が続く様です
高齢者の皆さん、よく睡眠をとり、よく歌って?免疫力を高めましょう!

以上

災害のリスクについて_その2

はじめに

二年ほど前に、災害全般について、そのリスクの分析と、リスクから生き延びる方法について、ブログを発行しました(災害のリスクについて考えてみました
今般、昨年後半の強烈な風台風(台風15号)と猛烈な雨台風(台風19号)による甚大な被害を受けて、前ブログの補完をすべく災害リスクに関わる本を漁っていた所、寺田寅彦(1878年~1935年;地球物理学者、随筆家)の「天災と国防」という文庫本を見つけました。読んでみると、恐らく百年近く前の著作にも拘らず災害の分析、及びそのリスク回避方法についての記事は多くの示唆に富んでいることが分かりました。余計なおせっかいとは思いますが、その内容の一部をご紹介するとともに、私なりのコメントを加えてみたいと思います

また、筆者(寺田寅彦)に倣い、拙宅付近の災害リスクを調査し、私なりの生意気な評価を試みてみました。災害リスクに関心のある方はちょっと覗いてみて下さい

天災と国防」を読んで

本書は「寺田寅彦全集」、「寺田寅彦随筆集」を基に災害に関連したもの12編を集め、再編成したものです。初版発行日(2011年6月9日)から考えると、同年3月11日の東北地方太平洋地震を受けて発刊を企図したものと思われます。巻末に「失敗学」で有名な畑村洋太郎(東京大学名誉教授)が解説を行っています。以下にテーマ毎に私なりの注目ポイントを抽出してみたいと思います。尚、引用する文章は旧仮名遣いや旧字を多く使っていますが、一部(津浪⇒津波)を除いて原文のままとしています
また、筆者の文章を引用する場合は括弧でくくることとし、私の補足やコメントについては青字で表記することにいたします

<天災と国防>
*「文明が進むにしたがって人間は次第に自然を征服しようとする野心が生じた」、「災禍を起こさせたもとの起こりは天然に反抗する人間の細工であると言っても不当ではないはずである
*「20世紀の現代寺田寅彦が生きた時代では日本全体が一つの高等な有機体である。電線やパイプが縦横に交差し、交通網がすきまもなく張り渡されているありさまは高等動物の神経や血管と同様である」、「天然の設計に成る動物体内ではこれらの器官が実に巧妙な仕掛けで注意深く保護されている

⇒昨年の台風15号で千葉県の一部で送電線が寸断され、回復に多くの時間を費やしました

台風15号・送電線被害

⇒一方、人間を含む動物の動脈は、体内の深いところにあり、通常の怪我では動脈が傷つくことが無いようになっています

*「昔の人間は過去の経験を大切に保存し蓄積してその教えにたよることがはなはだ忠実であった。過去の地震や風害に堪えたような場所にのみ集落を保存し、時の試練に堪えたような建築様式のみを墨守してきた。そうした経験に従って造られたものは関東大震災(1923年9月)でも多くは助かっているのである
*「昔の人間は過去の経験を大切に保存し蓄積してその教えにたよることがはなはだ忠実であった。過去の地震や風害に堪えたような場所にのみ集落を保存し、時の試練に堪えたような建築様式のみを墨守してきたそうした経験に従って造られたものは関東大震災(1923年9月)でも多くは助かっているのである
*「大震後横浜から鎌倉へかけて被害の状況見学に行ったとき、かの地方の丘陵のふもとを縫う古い村家が存外平気で残っているのに、田んぼの中に発展した新開地の新式家屋がひどくめちゃめちゃに破壊されているのを見た時につくづくそういう事を考えさせられた

室戸台風の進路

*「今度の関西の風害(室戸台風/1934年9月)でも、古い神社仏閣などは存外あまりいたまないのに、時の試練を経ない新様式の学校や工場が無残に倒壊してしまったという」

⇒2018年7月の豪雨に伴う広島、岡山の水害は、山すそに流れ出る小さな河川の扇状地に鉄砲水が流れ込んだことが原因と考えられます。いずれも新興住宅地になっており、こうした扇状地を農地として活用する分には問題はないものの、私有地であっても宅地として簡単に転用することが適切であるかは疑問があります

*「思うに日本のような特殊な天然の敵を四面に控えた国では、陸軍海軍の他にもう一つの科学的国防の常備軍を設け、日常の研究と訓練によって非常時に備えるのは当然ではないかと思われる

⇒ここでいう「常備軍」とは戦争を行う軍隊を指しているのではないと思われます。現在、災害が発生した時には地方自治体単位の消防、警察がまず対応し、必要に応じて都道府県首長の要請に基づき自衛隊派遣が行われる仕組みになっていますが、大きな自然災害が発生した時には寸刻を争う対応が必要となるので、人命救助に係る場合には自衛隊の自発的出動の仕組みが必要と思います。各種の装備と、訓練された多数の隊員を抱える自衛隊の方が、規模と即応力に関して圧倒的に優位にあると思われます

<災難雑考>
*「
災難の普遍性恒久性が事実であり天然の方則であるとすれど、われわれは災難の進化論的意義といったような問題に行き当らない訳にはいかなくなる」
*「日本人を日本人にしたのは実は学校でも文部省でもなくて、神代から今日まで根気よく続けられてきたこの災難教育であったかもしれない」

*「進化論的災難観とは少しばかり見地を変えた優生学的災難論といったようなものもできるかもしれない災難を予知したり、あるいはいつ災難が来てもいいように防備のできているような種類の人間だけが災難を生き残りそういうノアの子孫だけが繁殖旧約聖書の“ノアの方船”伝説すれば知恵の動物としての人間の品質はいやでもだんだん高まっていく一方であろうこういう意味で災難は優良種を選択する試験のメンタルテストであるかもしれない

⇒シニカルな表現ではありますが、的を得た指摘であると思います。大災害のあと生き残った人には、偶然ではない冷静で理知的な判断が働いていることが多いと思います。そこには恐らく流言飛語に惑わされない、今でいえばフェイクのSNSに惑わされない知識をとっさの行動に生かす知恵があったのだと思います
後述の、筆者(寺田寅彦)の関東大震災体験記を読んで頂ければよくわかると思います

<小爆発二件>
*この随筆は筆者(寺田寅彦)自身が浅間山近くで偶然経験した小噴火の経験を書いたものです
*新聞などの報道機関の書きぶりについて以下の様に皮肉を述べています
翌日の東京新聞で見ると、4月20日以来最大の爆発で噴煙が6里の高さにのぼったとあるが、これは自分が経験したものとかけ離れており信じられない素人のゴシップをそのまま伝えたいつもの新聞のうそであろう

⇒別の用件で旅行中に偶然噴火に遭遇したにも関わらず、20倍の双眼顕微鏡を持参していたこと、これですぐさま降灰を観察していることには驚かされます。また、新聞報道が大きな災害を報道するに当たって、伝聞や噂の類を垂れ流す状況は現在でも当てはまるように思われます。普段から災害を想定して、助かるために必要な知識を自分のものにしておくことの必要性を感じます

<震災日記より>
震災概要
①発生日時:1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒ごろ
②震源:11時58分32に発生したM7.9の本震(震源:神奈川県西部)から3分後の12時01分にM7.2(震源:東京湾北部)、5分後の12時03分にM7.3(震源:山梨県東部)という巨大な揺れが三度発生した“三つ子地震”であることが最新の研究で判明しています
③死者・行方不明者:105,385人。これまで言われていた142,807人という数字は統計上の重複があったと言われています
④火災以外の被害概況:太平洋沿岸の相模湾沿岸部と房総半島沿岸部の津波高さ10メートル以上)山崩れや崖崩れ、それに伴う土石流による家屋の流失・埋没
⑤政府の対応:9月2日、東京府下5郡に「戒厳令」を施行し、3日には東京府と神奈川県全域にまで広げました。また、朝鮮人(本書では“〇〇人”と書いてある)虐殺に発展した流言飛語の存在をきっかけとして、9月7日には緊急勅令「治安維持の為にする罰則に関する件」(勅令403号)が出されました

3月10日未明空襲後の浅草松屋屋上から見た仲見世とその周辺の写真

*以下の筆者(寺田寅彦)の実体験を地図上で辿るには次の被害状況を参考にしてください(全17ページ):国会図書館所蔵の東京市被害地図
*震災当日、筆者は二科展見物の為に上野公園内の竹の台陳列館木造平屋建
1,248)に出かけ、見終わった後喫茶店で地震に見舞われました

最初の感覚:椅子に腰かけている両足の裏を下から木槌で急速に乱打するように感じた(短周期の振動
*「そのうち急激に大きな振動が襲い、自分の全く経験のない大地震であることが分かった。これは子供の頃から何度となく母から聞かされていた土佐の安政地震一般に安政の大地震とは、江戸時代後期の安政年間に、日本各地で連発した大地震の事を指しますが、ここでは1854年に発生した南海トラフ巨大地震である南海地震及びその32時間前に発生した安政東海地震のことを指していると思われますの話がありありと思い出され、丁度船に乗ったように、ゆたりゆたり揺れるという形容が適切であることを感じた
*「竹の台陳列館に展示されていた美術品の損壊は大したことはなく、この建物自体の揺れは激烈なものではなかった。後で考えてみると、建物の自己周期が著しく長い(⇔固有振動数が低い⇔地震動に共振しない)ことが有利であったと思われる

⇒この体験は、私が神谷町8階のオフイスで東北地方太平洋沖地震(通称3.11大地震)で経験した揺れと同じだと思います。現代のビルは柔構造で大きな地震に耐えるように設計されているので、長周期の大きな揺れがかなり長い時間続きました。

*「自宅(文京区本駒込曙町あたり)への帰途東照宮(上野公園内)前の方へ歩いて来ると異様なかび臭い匂いが鼻を突いた。空を仰ぐと下谷方面(鶯谷駅の東側)からひどい土ほこりが飛んで来るのが見えるこれは非常に多数の家屋が倒壊したのだと思った同時に、これでは東京中が火になるかもしれないと直感された。東照宮近くの上野大仏の首が落ちたことは後で知った」
*「根津を抜けて帰宅する積りだったが、頻繁に襲ってくる余震で崩れかかった煉瓦壁が新たに倒れたりするのを見て低湿地の街路は危険だと思ったから谷中三崎町台東区谷中から団子坂に向かった」

自身の臭覚と視覚の情報を動員して即座に大火発生を予測したこと、また余震で壁が崩れるのを見て、低湿地は地盤が弱い為と判断して遠回りでも迂回した判断は流石! 最近は、海岸沿いの埋め立て地(参考:浦安地区液状化被害)だけでなく、内陸でも低湿地や谷が埋め立てられて造成された住宅地は液状化現象で被害が拡大しますので、自宅が埋め立て地か否かの知識は大変重要です

*「団子坂を登って千駄木当たりに来ると被害は少なく、自宅付近は見かけ上被害は殆ど無かった」、「室内に入ると、相応の被害はあった
*「自宅の縁側から見ると南の空(下町方面か)に珍しい積雲が盛り上がっている。それは普通の積雲とは全く違って、先年桜島大噴火の際の噴煙を写真で見るのと同じように典型的のいわゆるコーリフラワー(カリフラワーのこと)状のものであった。よほど盛んな火災のために生じたものと直感された

*「翌日(9月2日)大学(東京大学)に行って破損の状況を見廻ってから、本郷通りを湯島五丁目まで行くと、奇麗に焼き払われた湯島台の起伏した地形が一目に見え上野の森が思いもかけない近くに見えた
*「帰宅すると、焼け出された浅草の親戚のものが13人避難して来ていた。いずれも何一つ持ち出すひまもなく、昨夜上野公園で露営していたら巡査が来て“〇〇人(⇔朝鮮人のこと)の放火者が徘徊するから注意しろ”と云ったそうだ井戸に毒を入れるとか、爆弾を投げるとかさまざまな浮説が聞こえてくるこんな場末の町へまでも荒らして歩くためには一体何千キロの毒薬、何万キロの爆弾がいるであろうかそういう目の子勘定だけからでも自分にはその話は信ぜられなかった

⇒流言飛語や新聞記事を見て、多くの無辜の朝鮮人が殺害されたこの歴史上の事実を、恐らく差別につながるということで伏字にしたと思われますが、過去日本が行っていた人種差別(沖縄出身者やアイヌ人)や部落(現在は同和と表記している)の問題をこうした伏字で隠すという出版上のルールには、私は賛成できません。日本の負の歴史も正しく、明確に子孫に伝えていく必要があると思います
また、また流言飛語がありえないことを、科学者として冷静に判断していることは、特に影響力の大きいメディアは見習ってほしいと思います

朝鮮人虐殺_読売新聞記事

*「夕方に駒込の通りに出てみると、避難者の群れが陸続と滝野川の方に流れて行く。表通りの店屋などでも荷物を纏めて立退用意をしている。上野方面の火事がこの辺まで焼けて来ようとは思われなかったが万一の場合の非難の心構えだけはした

*「翌々日(9月3日)、長男を板橋にやり、三代吉(親戚か?)を頼んで白米、野菜、塩などを送らせるようにする
*「大学(東京大学)に出かけると追分の通り(17号線、あるいは都道455号線/本郷・赤羽線か)の片側を田舎へ避難する人が引切りなしに通った。反対の側も流れを為している。呑気そうな人も、悲惨な感じのする人もある
*「帰りに追分辺でミルクの缶やせんべい、ビスケットなど買った。焼けた区域に接近した方面のあらゆる食料品屋の店先はからっぽになっていた。そうした食料品の欠乏が漸次に波及して行く様が歴然とわかった
*「帰宅してから用心に鰹節、梅干、缶詰、片栗粉などを近所に買いにやる。何だか悪いことをするような気がするが、20余人の口を託されているのだからやむを得ないと思った。午後4時には三代吉の父親の辰五郎が白米、薩摩芋、大根、茄子、醤油、砂糖など車に積んで持ってきたので少しは安心することが出来た。しかしまたこの場合に、台所から一車もの食料品を持ち込むのはかなり気の引けることであった

<函館の大火について>
火災の概要
①発生日時:1934年(昭和9年)3月21日
②火元:函館市谷地頭町
③被害概要:死者2,166名、焼損棟数11,105棟
最終的には市街地の三分の一が焼失する規模となった。死者の中には、橋が焼失した亀田川を渡ろうとして、あるいは市域東側の大森浜へ避難したところ、炎と激浪の挟み撃ちになって逃げ場を失い溺死した者907名、また溺死しないまでも凍死した者が217名にも上りました
④当日の気象状況:当時日本海からオホーツク海に抜けた低気圧があり発達しながら北上した。午後6時には台風の中心が札幌の真西辺りに来て、函館辺りは南南西の風速十数メートルであった。ここで谷地頭町から最初の火の手が上がった。その後、低気圧が北上するとともに風向は西からとなり函館市内は最大瞬間風速39メートルに及ぶ強風となり函館全市に燃え広がった

*「江戸時代の火災の消失区域を調べてみると、相応な風があった場合には火元を“かなめ”として末広がりに、半開きの扇形に延焼している。これは理論上からも予期されることであり、実験でも実証されている

函館大火

*「江戸大火の例でみると、この消失区域の扇形の頭角はざっと60度から30度の程度。明暦大火の場合は恐らく風速10メートル以上であったと思われる根拠があるが、この頭角がだいたいにおいて、今度の函館の火元から消失区域の外郭に接して引いた二つの直線のなす角に等しい
*「もしも最初の南南西の風が発火後も持続し風速を増大していたなら、恐らく火流は停車場付近を右翼の限界として海へ抜けてしまったであろうと思われるのが、不幸にも次第に西へ回った風の転向のために火流の進路が五稜郭の方向に向けられ、そのためにいっそう災害を大きくしたのではないかと想像される

*「火流前線がどれだけ以上になった場合に、どれだけの風速ではどの方向にどこまで焼けるかという予測が明確にでき、また気象観測の結果から風向旋転の順位が相当たしかに予測され、そうして出火当初に消防方針を定めまた市民に避難の経路を指導することができたとしたらおそらく、あれほどの大火に至らず、また少なくともあんなに多くの死人を出さずに済んだであろうと想像される

*「文明を誇る日本帝国は国民の安寧を脅かす各種の災害に対して、それぞれ専門の研究所を設けている。健康保全に関するものでは“伝染病研究所”や“癌研究所”のようなもの、それから“衛生試験所”とか“栄養研究所”のようなものもある。地震に関しては“大学地震研究所”をはじめ“中央気象台の一部”にもその研究をつかさどるところがある。暴風や雷雨に関しては“中央気象台”に研究予報の機関が完備している。これらの設備の中にはいずれも最高の科学の精鋭を集めた基礎的研究機関を具備しているのである。しかるにまだ日本のどこにもひとつの“理化学的火災研究所”のある話を聞いた覚えがないのである
*「もちろん警視庁には消防部があって、そこでは消防設備方法に関する直接の講究練習に努力しておられることは事実であるが、ここでいわゆる火災研究という、そういうものではなくて、火災という一つの理化学的現象を純粋な基礎科学的な立場から根本的徹底的に研究する科学的研究をさしていうのである。例えば、“発火の原因となるべき科学的物理学的現象の研究”、“火災延焼に関する方則”、“色々な支配因子が与えられた場合に、火災が自由に延焼するとすればいかなる速度でいかなる面積に広がるかという問題”、更に基礎的研究には単に自然科学方面のみならず、“心理学的方面”、“社会学的方面”にも広大な分野が存在する
*「例えば、市民一人当たりの“失火の比率”とかまた“失火を発見して即座に消し止める比率”とか、そういう人間的因子が、たとえば京橋区日本橋のごとき区域と浅草本所のごとき区域とで顕著な区別のあることが発見されている。この種の研究を充分に進めた上で、消防署の配置や消火栓の分布を決めるのでなくては合理的とは言えないであろうと思われる

⇒畑村洋太郎氏(東京大学名誉教授)は巻末の解説で、消防に関しては、筆者(寺田寅彦)の時代より消防組織及び消防技術について格段の進歩があり、ハイパーレスキュー隊や消防救助機動部隊の例を挙げて筆者の指摘は当たらない、と言っていますが、分野を超えた知見の交換による死亡リスクの軽減、焼失拡大の阻止、などの面で“理化学的火災研究所”の設置はいいアイデアだと私は思います

<流言蜚語>
*「流言蜚語が伝播する条件として“流言の源”と“その流言を次へ次へと受け継ぎ取り次ぐべき媒質の存在”が必要である」
*「ある特別な機会には“流言の源”となりうるものは、故意にも偶然にも至る処に発生すると言うことは、ほとんど必然な、不可抗力的な自然現象であるとも考えられる
*「従って、ある機会に、東京市中にある流言蜚語の現象が行われたとすれば、その責任の少なくとも半分は市民自身が負わなければならない。事によるとその9割以上も負わなければならないかもしれない
*「科学的な常識というものは、何も。天王星の距離を暗記していたり、ヴィタミンの色々な種類を心得たりするだけではない。もう少し手近なところに活きて働くべき、判断の標準にならなければなるまいと思う
*「適当な科学的常識は、ことに臨んで吾々に“科学的な省察の機会と余裕”を与える。そういう省察の行われるところにはいわゆる流言蜚語のごときものは著しくその熱度と伝播能力を弱められなければならない」

⇒流言飛語の被害は、つまるところ国民の科学的な知識レベルに依存すると言っていますが、私も全面的に筆者の意見に賛成です。SNSのフェイクニュースが飛び交う現代、まず沈思黙考し、ちょっとでもおかしいと思ったら絶対に拡散させないことが必要と思います

<神話と地球物理学>
*「神話の中には、地球物理学的に、その土地の気候風土の特徴が濃厚に印銘されており浸潤していると考えられる
*「島が生まれるという記事は、海底火山の噴出、地震による海底の隆起によって海中に島が現れる、あるいは暗礁が露出する」、「河口における三角州の出現などが連想される
*「スサノオノミコトの記事に“その泣きたもうさまは、青山を枯山なす泣きはらし、河海はことごとく泣き乾しき”とあるのは、噴火の為に草木が枯死し河海が降灰のために埋められることを連想させる。噴火を地神の慟哭と見るのは適切な比喩であると言わなければなるまい

*「“すなわち天にまい上がります時に、山川ことごとく動み、国土皆振りき”とあるのは、普通の地震よりもむしろ特に火山性地震を思わせる
*「“すなわち高天原皆暗く、葦原中国ことごとくくらし”というのも“噴煙降灰によって天地晦冥の状”を思わせる
*「“ここに万の声は、狭蠅なす(五月蠅か)皆湧き”は“火山鳴動のものすごい心持ち”の形容にふさわしい
*「ヤマタノオロチの話も“火山からふき出す溶岩流の光景”を連想させる

*「以上の例からも、わが国の神話が地球物理学的に見ても、かなりまでわが国にふさわしい真実を含んだものであることから考えて、その他の人事的な説話の中にも、案外かなり多くの史実あるいは史実の影像が包含されているのではないかという気がする。きのうの出来事に関する新聞記事がほとんどうそばかりである場合もある。しかし数千年前からの言い伝えの中に貴重な真実が含まれている場合もあるであろう

⇒ハインリヒ・シュリーマン(1822年~1890年)はホメーロスによって作られたと伝えられる長編叙事詩『イーリアス』を基に発掘作業を行い、伝説の都市トロイアの遺跡を発見しました
*イーリアスとは:最古のギリシア神話を題材とし、トロイア戦争十年目のある日に生じたアキレウスの怒りから、イーリオスの英雄ヘクトールの葬儀までを描写しています

<津波と人間>
*筆者(寺田寅彦)の存命中に東北地方に2回大津波(1896年、1933年:両津波の間隔は37年)が襲い、大きな被害を与えました

*「こんなに度々繰り返される自然現象ならば、当該地方の住民は、とうの昔に何かしら対策を考えてこれに備え、災害を未然に防ぐことが出来ていてもよさそうに思われる。それが実際はなかなかそうならないというのがこの人間界の人間的自然現象であるように見える
*「学者の立場からは“この地方に数十年ごとに津波が起こるのは既定の事実である。こんな道理もわきまえずに、うかうかしているというのはそもそも不用意千万である”となるが、罹災者の側に云わせれば、“それほど分かっている事なら、何故津波の前に間に合うように警告を与えてくれないか”ということになる

*「37年という間隔は、世代が変わり大津波の経験は継承されない
*「昔の日本人は子孫のことを多少でも考えない人は少なかったようである。例えば津波を戒める碑を建てておいても相当な効き目があったのであるが、これから先の日本ではそれがどうであるか甚だ心細いような気がする
*「自然は過去の習慣に忠実である。紀元前20世紀にあったことが起源20世紀にも全く同じ様に行われるのである。科学の方則とは畢竟“自然の記憶の覚え書き”である。自然程伝統に忠実な物はないのである
*「日本のような、世界的に有名な地震国の小学校では少なくとも毎年一回ずつ一時間や二時間くらい地震津波に関する特別講習があっても決して不思議ではないであろうと思われる

*「三陸災害地を視察して帰った人の話を聞いた。ある地方では1896年の災害記念碑を建てたが、それが今では二つに折れて倒れたままになってころがっており、碑文などは全く読めないそうである。またある地方では同様な碑を、山腹道路の傍で通行人の最もよく眼につく処に建てておいたが、新道が別に出来たために記念碑のある旧道は淋れてしまっているそうである。それからもう一つ意外な話は、地震があってから津波の到着するまでに通例数十分かかるという平凡な科学的事実を知っている人が彼地方に非常に稀だということである。前の津波に遭った人でも大抵そんなことは知らないそうである

⇒この文章を見て、ふと感じたことがあります;
二年前に友人と東北地方を旅したことがあります。この時吃驚したのは、3.11大津波の直後の視察の際に見た「何もない海岸」に、吃驚するほど巨大な防潮堤が建設されつつあったことでした。当時はこの防波堤で美しい三陸の海の景観が失われるなあ、、、という程度の感覚でした

しかし、こうした防潮提は、必然的にその内側で防波堤より低い場所に住んで居る人が、津波の前兆である大きな引き波を自分の目で見ることが出来ず、高台への避難が遅れるのではないのだろうか、、、

拙宅付近の災害リスクの調査

自宅付近の災害リスクの概略を知るには、まず住んでいる地区の役所のサイトを覗いて見ることを薦めます
我が街・新座市には、地震ハザードマップ洪水・土砂災害ハザードマップがあり大変重要な情報を提供してくれます

1.地震ハザードマップから分かること;
このハザードマップから、新座市が持っている地目(畑地、宅地などの土地の使用区分)の情報、建築物の登記情報(構造、用途、築年数、等)、建物の密集度、などから地震の耐性を地域別に大まかに推測した結果が得られます(5メートル四方単位の危険度を色別に表示)
尚、この耐性を評価するにあたっては、新建築基準法が制定される前に建築された建築物を倒壊リスクが高いと評価しています
新建築基準法とは:1978年 M7.2の宮城沖地震では、最大震度5の地震だったのですが、多くの死者を出してしまいました。これを受けて1981年の建築基準法の改正で、震度6から7の地震でも倒壊・崩壊しない耐震性を持つように規定されています。現在の耐震基準もこの時の改正を元にしており、この時以前の耐震基準を旧耐震基準、この時以降の耐震基準を新耐震基準と呼んでいます

このハザードマップ上で第5ブロックに入る我が家の近辺は、巨大地震があると倒壊する家が、ある程度あると考えられます。ただ、我が家については1990年に新建築基準法に基づき立て替えていますので倒壊する危険はないのですが、周りの倒壊する家から火事が発生し、延焼する危険がある程度あります(我が家は、軽量コンクリートの外壁なので延焼のリスクは比較的小さい)
避難場所は幾つか考えられますが、自宅から1キロ程度にある十文字学園が一番安全であると考えられます

2.洪水・土砂災害ハザードマップから分かること;

新座市洪水・土砂災害ハザードマップ(画面をクリックすると拡大して見ることができます)

ハザードマップをご覧になるとわかると思いますが、新座市には柳瀬川と黒目川という二つの一級河川が流れています
一級河川とは:河川法で指定された河川の区分で、分水界や大河川の本流と支流で行政管轄を分けることなく、治水と利水を統合し、水系ごとに一貫管理されています

この両河川は、いすれも新河岸側を経由して荒川に合流していますが、過去に何度も氾濫を起こした油断のならない川です。因みに、拙宅から1キロ程にある柳瀬川は2017年には氾濫を起こさなかったものの、新聞やテレビに取り上げられるほどの被害が出ました(死者1名、ヘリによる救出)

柳瀬川・水難事故写真

昨年の台風19号でも水位はかなり上がったのですが、氾濫するには至りませんでした(被害の調査結果については事項をご覧になってください)

洪水・土砂災害ハザードマップでは新座市のみの洪水の恐れのあるエリア黄色)と土砂災害の恐れのあるエリア(赤色)、避難の道筋避難場所につても情報が分かり易く書かれています。拙宅のある地域は高度差が10メートル以上(測定方法は事項をご覧ください)ありますので、ほぼ浸水の恐れがないことが分かります

このハザードマップでは、当たり前のことですが、一部を除き新座市の部分のみしか書かれていません。しかし柳瀬川の周辺部については、隣接する清瀬市と所沢市の部分も行政区分の境界を越えて表現してほしいと思いました。特に避難が必要になった時には、行政区分を超えて一番近く、安全な避難経路と避難場所を選ぶことが必要になるのではないでしょうか、、、

柳瀬川のリスク評価

まず、清瀬市、所沢市、新座市にまたがる柳瀬川の地形の全体像を捉えるために、Google_Mapの航空写真地図をご覧になってください;

柳瀬川周辺航空写真
柳瀬川周辺_Google Map

この航空写真で、新座市は右隅の部分、左下が清瀬市、左上が所沢市の行政区分になります。この写真の左下から右上にかけて伸びる影は、恐らく断層があった跡だと考えられます。従って、前項で述べた土砂災害の恐れのある場所はこの断層と深く関係しています。また、断層から斜め右下側に当る広い部分が低地となっており洪水の恐れのある地域と深く関係していると考えられます

因みに、この写真上の特定の部分の標高を国土地理院の標高調査(試験版)で調べてみたところ;
滝の城址(地図の右上):54.2メートル
断層下の低地の部分:24.7メートル
柳瀬川の水面の辺り:22.0メートル
また、自然堤防と低地に当たる部分に高度差があまりないことを勘案すると、
自然堤防の平時の水面からの高さ:24.7-22.0 ⇒ 3メートル程度

なお、国土地理院のサイトにも書いてありますが、この標高は正確に実測されたものではなく、既存の地図(等高線が入っているもの)をベースにしていますので、地域によって使用できる地図に違いがあり精度が異なりますので注意が必要です
精度の程度を比較する目的で、同じサイトで以下の場所の標高を調べてみたところ;
新河岸川との合流地点:1.5メートル
彩湖周辺(荒川との合流地点付近):0.5メートル
となっており、いくら何でも荒川が東京湾に注ぐ場所と0.5メートルしか標高差がない事は考えにくいので、標高の絶対値については数メートルの誤差があることは考慮する必要はありそうです

従って、確たることは言えませんが、新河岸川と荒川の合流地点での標高差が非常に小さいこと(もともと新河岸川は、荒川を経由して江戸と川越との間の重要な水運に使われていました)を勘案すると、荒川の上流域での雨量が極めて多くなった場合、今年の台風19号で大きな河川の下流域で起きたように、新河岸川の水が荒川に流入できなくなり、その周辺での洪水を起こす危険が考えられるのではないでしょうか
一方、標高差を考えると、柳瀬川が荒川の増水の影響を受けることは無さそうです

<柳瀬川の洪水の可能性について>
柳瀬川は一級河川なので、各種のデータが利用できます。国土交通省が公開している柳瀬川のデータから必要な部分を抽出すると;
流域面積:106.3㎢(平方キロ)
流路延長:19.6km

柳瀬川流域地図

地図を見ると、柳瀬川の上流には「狭山湖」、「多摩湖」があります。このダム湖は多摩川から引き込まれた水を貯めており、基本的に用途は東京都向けの水道水になっていますので、昨今話題となっている「豪雨の予想がある時に予め貯水池の水を放流し柳瀬川の洪水を防ぐ仕組み」は使えそうもありません

<参考>
最近、豪雨に備えてダムの貯水量をコントロールするルールが決まりました(ダムの洪水対処能力倍増へ AI活用、事前放流を拡大

柳瀬川の水量は、流域に降る雨量で決まることは明白です。勿論、地面に沁み込んで地下水となる水を除かねばなりませんが、短時間の集中豪雨や長雨によって地中水分が飽和状態にある時は、降った雨の大半が川に流れ込むと考えてもよさそうです
そこで、記憶に新しい国土交通省が公開している柳瀬川のデータを活用して、柳瀬川の流域一帯に、1時間当たり400ミリメートルの降雨があった場合、柳瀬川に流れ込む水量の試算をしてみました;
平成30年7月豪雨とは:7月5日から8日にかけて梅雨前線が西日本付近に停滞し、そこに大量の湿った空気が流れ込んだため、西日本から東海にかけて大雨が連日続きました。梅雨前線は9日に北上して活動を弱めるまで日本上空に停滞。西日本から東日本にかけて広い範囲で記録的な大雨となりました

試算
1時間当たり柳瀬川の流域一帯に降る雨の量:106.3㎢  x  400mm
(メートル単位に変える)⇒ 106.3 x 1,000 x 1,000 x 0.4 = 42,520,000㎥
つまり、1時間当たり4千2百52万㎥の水が流れ込むことになります

この数字を昨年の19号台風時に、工事の最終段階で貯水量が空になっていて、利根川の洪水を防ぐのに役立ったと言われている八ッ場ダムの貯水量と比較してみると;
八ッ場ダムの設計上の有効貯水量:9千万㎥
つまり、2時間11分で満杯になる計算になります。
実際の流量は、こんな簡単な計算では再現できないと思いますが、1時間当たり400ミリメートルの降雨というのは、如何に猛烈な雨であるかが理解できると思います

拙宅の近くの柳瀬川には「金山調節池」(前掲の航空写真版_Google Map の中央下側)があり、柳瀬川の洪水を防ぐ役割を担うことになっています;

「金山調節池」の案内板

この看板によれば、貯水量46,000㎥です。この貯水量では、既に満水になった柳瀬川に1時間400ミリの降雨があった場合、たった約4秒で満杯になる計算で、集中豪雨時には殆ど役に立たないことが分かります

また、自然堤防スレスレまで水面があがり、秒速10メートルの流速で流れると仮定した場合、1時間当たりどれくらいの水を流せるかざっくり計算してみると、
上述の国土交通省の地図データから計算して
自然堤防の高さ:3メートル
拙宅に近い柳瀬川の橋を渡って、歩幅で測定した川幅は;
自然堤防上部の川幅:45メートル
川底付近の川幅:37メートル

自然堤防が作る柳瀬川の断面の面積は:3 x (45 + 37) ÷ 2 = 123 ㎡
流速:10メートル/秒と想定すれば、
1時間当たりの流量:123 x 10 x 60 x 60 = 4,428,000㎥
つまり、1時間当たり4百42万8千㎥

先の計算で、400ミリの雨量で 1時間当たり4千2百52万㎥の水が流れ込むことになっていたので、何ミリの雨量まで洪水を起こさずに流せるかを逆算すると;
400ミリ x (4百42万8千㎥ ÷ 4千2百52万㎥)⇒ 41ミリ
1時間当たり41ミリの雨は、大したことはないように見えますが、気象庁の雨量の表現の仕方としては、「バケツをひっくり返したような激しい雨」という表現になりますので、柳瀬川の治水としては相応の努力を行ってきたと言えるかもしれません

Follow_Up:このブログを見た友人からの情報を契機に、神奈川県・鶴見川の河川管理状況を調べてみたところ、流石に柳瀬川の管理状況よりも数段進んでいることが分かりました。ラグビー・ワールドカップ時の日本対スコットランド戦が豪雨の後にも拘らず開催できた理由が分かりました。興味にある方は次の(鶴見川の紹介)をご覧になってみてください

いずれにしても、これまでのざっくりした計算から、「平成30年7月豪雨」並みの集中豪雨が柳瀬川流域を襲えば、前掲の航空写真の左岸一帯(柳瀬川から断層の崖に至る低地)洪水で水浸しとなる可能性が高いと思われます。特に、航空写真で、断層の崖近くにある多くの住宅地はリスクが高いと考えられます

Follow_Up(2020年8月5日):自然の貯水力を水害抑止へ活用

台風19号襲来時の柳瀬川の被害状況及、び改修の状況

昨年、台風19号が通過してから数日後に柳瀬川周辺の被害状況を見てきました;

左岸の堤防の被害状況
左岸の堤防の被害状況
橋周辺の被害状況

二つの写真を見て分かることは、コンクリートや鉄でできた簡単な堤防では、たった一日の強い水流でも、脆い砂礫で出来ている自然堤防は簡単に浸食されることが分かります。自然堤防を守るには、岸に沿う部分の水流を遅くすることが堤防の決壊を防ぐ有効な手段であることが考えられます。因みに、下の写真の手前の堤防には、一昨年の秋に同じように堤防が崩された時の修理跡が確認できます。強い水流に晒されるところには、大きめの石を金網で包んだもので防御してあります。原始的ではありますが、今回の雨では何の被害もありませんでした

実は、コンクリートや鉄の堤防が無かった江戸時代にも、同じような発想で堤防付近の水流を弱める「牛枠」という装置を使っていました。下の写真は玉川上水の羽村取水口付近に展示してあったものです;

多摩川・水害対策_「牛枠」

今年2月、柳瀬川の改修工事が始まっていました;

河川工事の公示
自然堤防・補修個所の状況

下の写真をみると、柳瀬川の補修方法がこれまでと変わっていることが分かります。新しい補修資材を使ってはいますが、岸周辺の流速を落とし水流の破壊力を減少させる目的としては、江戸時代の「牛枠」と変わらない考え方の改修方法と思われます
寺田寅彦が「人智に奢ることなく、自然に学んできた過去の経験を生かせ!」と言っているような気がしました!

おわりに

最近の天気予報では「線状降水帯」という新しい気象用語が度々登場します。台風並みに、時には台風以上の集中豪雨をもたらす意味では災害リスクの主役級に躍り出てきた感があります。日本という国土は、地図を見てみればわかる通り中小の河川が網の目のように走っており、河川氾濫による災害リスクは至る所にあるといっても過言ではないと思います
集中豪雨による河川の氾濫を完璧に防ぐには、膨大な費用と時間がかかり、今すぐ解決することは不可能ではないでしょうか。であるからこそ、自身の情報武装と、的確な氾濫の予報を行うことが喫緊の課題であると思っています

最近、NHKのニュースで太陽誘電(株)の画期的な水位計の紹介がありました。極めて小型で安価(3万円/1台)な装置です。この装置を全国の中小河川に設置(例えば、簡易無線水位計測サービスを使って1km毎に設置)し、河川の流量を常時監視できるようにすれば、この流量の実績値と河川流域の雨量の実績値を時間のスケールで比較し、雨量の時間的な変化で流量がどう時間的な変化をするかの関係(河川ごとに異なる)がある程度つかめると思われます。これに気象レーダーによる河川流域の雨量予測を当て嵌めれば、今より相当正確な河川氾濫予測を行えるのではないか、、、異常気象が続く昨今、河川氾濫を完全に防ぐことはできないにしても、河川氾濫による死亡者ゼロは近いうちに実現したいものです

Follow_Up:(2020年2月28日):朗報!今後、関東一円の雨量予測の精度が高まります/関東一円の雨量、予測精度を高く 新気象レーダー、来月運用開始
Follow_Up:(2020年7月15日):自治体の9割が浸水危険地域でも住宅立地_転出に遅れ

以上

日韓関係_その2(「反日種族主義」を読んで)

はじめに

 

 日韓関係については、一年ほど前に私が勉強した結果をまとめたブログ(日韓関係について勉強してみました)を発行しました。この時は主として日本側の視点からできるだけ正確に日韓関係の歴史を綴ってみましたが、今般見出しの写真にある「反日種族主義」という本が文芸春秋社から発刊されました。韓国語による原著は今年8月に発行され、韓国内で既に10万部を超えるベストセラーになっています(月間・文芸春秋12月号の記事より)。日本語版は11月14日に発刊され、現在20万部を超える極めて好調な売れ行きだそうです(私は発売当日に、とある有名書店に買いに行きましたが、昼過ぎの時点で売り切れており、漸くやや場末の本屋!で購入することができました)

 

 この本は、韓国の知識人 6人の著者(6人の著者のプロフィール:この内「李栄薫」氏が編者として全体の取り纏めを行っています) による共著で、それぞれ研究している専門領域 中心として極めて実証的に書いてあります。私にとっては入手できなかった実証的なデータが数多く含まれており、大変興味深いものでした 
 一方、韓国人の一般の読者にとっては、韓国人自身から語られた 極めて衝撃的な内容(今まで受けてきた歴史教育や反日運動の否定)となっていますので、今後、著者に対する誹謗中傷(既にかの有名な前法務長官はへどが出る本と非難しています)が激しくなるのではないかと思われます

 以下、この本の内容のうち、現在日韓両国の間で紛争の元になっている問題について、実証的なデータを中心にご紹介したいと思います
 尚、本書は、6人の著者が「反日種族主義」という共通認識をベースに各自の論文を持ち寄ったものが纏められていますので、下記のようなテーマ別にみればかなり重複が見られます。従って、私が勝手にテーマ別に再編成をしておりますので、著者毎のそれぞれの詳しい分析、考え方について知りたい方は、是非この本を購入され、一読されることをお薦めします(反日種族主義・目次

韓国人の「反日」の背景にある種族主義について

 

 6人の著者は、韓国人の「反日」のベースにあるものは、韓国人特有の「種族主義」に原因があると言っています。
 日本では、この「種族主義」という用語はあまり使われていませんが、著者たちの定義によれば“前近代的で呪術的なシャーマニズムに基づく民族意識”と定義しています。例えていえば、ナチスドイツにによるユダヤ人迫害やボスニア・ヘルツェゴビナにおける民族浄化の原因になった他民族に対する敵意や、白人至上主義、など、合理的な理由が無いにもかかわらず民族を差別する悪しき思い込みとも言えるかもしれません(⇔私の勝手な解釈)
 因みに、著者の一人である朱益鍾氏は、「韓国の種族主義は、種族主義の神学が作り上げた全体主義的権威であり、暴力です。種族主義の世界は外部に対し閉鎖的であり、隣人に対して敵対的です。つまり、韓国の民族主義は本質的に反日種族主義です」と言っています

 

 韓国の多くの人が陥っている「種族主義」のベースとなっている神話的な考え方には以下のものがあります;
① 白頭山神話
 白頭山は北朝鮮と中国の国境にあり(白頭山_Google Map)、15世紀までは火山活動をしていました。著者の李栄薫氏によれば、白頭山が朝鮮民族の霊山に変わったのは日本の植民地時代であるとのことです。朝鮮王朝時代には民族という言葉も、そうした意識もありませんでした。民族という意識が芽生えてくると、それに見合った象徴が必要になります。著者は、白頭山神話を作るのに重要な役割を果たした人物は崔南善(1890年~1957年/歴史家・詩人・思想家)と考えています。彼が「白頭山覲参記」という本の中で;
白頭山は我ら種姓の根本であり、わが文化の淵源であり、わが国土の礎石であり、わが歴史の胞胎であられる。三界をさ迷う風来坊が山を越え水を渡って、慈愛に満ちた母の温和なお顔に一度お目にかかりたく、やってまいりました。おじいさん、おばあさん、私です。何もないわたしです
と述べ、その後以下の様に祈祷しました:「わが民族は再び生き返るのだ」「信じます。信じます。分かってください。分かってください。白頭天王、天地大神」。こうして、白頭山は民族の父と母に変貌していきました
 太平洋戦争終結以降、南北朝鮮で白頭山は民族の霊山として崇められてきました。1987年からは白頭山のイメージが政治的神話として創作されていきます
 北朝鮮で「白頭山一帯で抗日戦士のスローガンが刻まれた木(実際は北朝鮮政府が創作させたもの)が発見された」と発表されました。また、金日成は白頭山の頂上のある場所に丸太の家を建て、ここが抗日パルチザンの密営であり、金正日もここで生まれた場所とされました(金正日は実際はハバロフスクで生まれました)

白頭密営に参拝する北朝鮮住民

白頭山に天池に登る南北の首脳

土地気脈論・国土身体論
 韓国人が共有している自然観で、全国土を一つの身体と捉えていることがあります。朝鮮王朝時代には、中国を世界の中心と考える世界観を反映して、国土を中国にお辞儀をする老人の姿に描きました。20世紀に入ると、その姿が白頭山を頭頂とする虎の姿に変わります

崔南善と「猛虎気像図」

 この様な身体感覚は、いつの間にか強烈な反日感情の源泉になりました。白頭山で活動した独立軍が歌ったという軍歌の一節に「日本人よ、富士を自慢するな、我々には白頭があるんだ」という言葉が入っています
 朝鮮王朝時代は独島(竹島)の存在は知られていませんでしたが、1950年以降、日本との帰属紛争が始まると、独島は突然反日感情の最も熾烈な象徴になり、土地気脈論国土身体論がこれに作用し、独島を訪れた韓国詩人協会の会員は、「独島はわが祖国の胆のう」であるとか、「独島の岩を砕けば韓国人の血が流れる」などと、まるで独島が韓国人の身体の一部であるかのように謡いました(独島の帰属に係る歴史的な事実については後述します)
 
儒教的死生観・風水学
 土葬の風俗は、朝鮮王朝時代の15世紀から始まりました。それ以前は仏教の時代であり火葬が一般的でした。朝鮮王朝から始まった儒教の考え方では、人の生命は魂(こん)と魄(はく)の結合であり、人が死ぬと魂は空中に散らばり、魄は地に沁み込んでいきます。これが土葬に変わった原因です
 死んでからある期間は、魂と魄は生気を維持します。子孫が祭祀を行って呼ぶと、空中の魂と地中の魄が結合して子孫を訪ね、祭祀のもてなしを受け子孫に福を授けます。長い歳月を経ると魂と魄は生気を失い消滅します。魂と魄が生気を維持する期間は死んだ人の地位によって変わります。天子は5代、諸侯は4代、大夫は3代、それ以下の地位の人は2代です。それが過ぎると死んだ人に対する祭祀は終了し、その位牌さえも地に埋めます
 ②で述べた土地気脈論は遅くとも三国時代(4世紀~7世紀)に成立したと考えられていますが、朝鮮王朝以降上記の儒教の生命論の影響を受け、魄が地に沁み込むと考えられるようになって、18世紀以降、吉相のある墓地を探す風水地理が勢いを振るうようになりました。19世紀に入ると全国各地で墓地をめぐる訴訟が広範囲に起こるようになります。また、朝鮮王朝後代になると全国の地図が山脈の地図に変わってきますが、これは、白頭山に源を発する気運が、山脈に沿って広がっていく様子を描いているのだそうです

 儒教の教えに基づく魂は一定期間がが過ぎると消滅しますが、朝鮮王朝時代の魂は永遠不滅です。これは土地気脈論の作用でした。朝鮮王朝時代に祖先の墓を重視する葬礼と祭祀が生まれたのはそのためです

慶尚北道安東の義城金氏の墓祭

 父親が亡くなると息子は、墓の横に粗末な小屋を建て、その中で2年間暮らしました(これを「侍墓」といいます)。「侍墓」が終わっても、毎年定期的に墓祭を行いました。どんなに遠い祖先でも、墓がある限り墓祭は続けられました。何故なら、墓に眠る祖先の魂は永遠不滅だからです。中国の儒教の教えでは天子の場合でも5代前の先祖の血縁集団までが親族ですが、朝鮮では5代以上の遠い先祖まで繋がる親族集団を形成します。その結果生まれたのが、世界に類例を見ない「族譜」です。「族譜」によってはるか昔の祖先を共有する韓国人の親族文化が生まれました

 朝鮮人は20世紀初頭に至るまで「民族」という概念はありませんでした。韓国に於いては、「族譜」という遠い祖先まで繋がるベースがあった為、親族の拡大形態として民族という概念が受容され定着しました
 1931年、「万世大同譜」という「族譜」が編纂されました。これは全国330の有名親族集団を一つに統合した「族譜です。朝鮮王朝時代、これらは殆ど不遷位(原文のママ;位が変わらないという意味か?)の祖先を祀った一級身分の両班(朝鮮王朝時代の支配階級)の婚姻関係を追跡した系図の様なものと考えられます(私の解釈)。家毎に「族譜」がありますが、これを横に繋げたのは、朝鮮人はみな元来は一つの祖先から分かれた子孫であるからだとも述べています。檀君から今に至るまで4300年の間に増えた人口を推算すると今の人口になるという理論を展開し、朝鮮人は皆檀君の子孫であるという民族意識がこうして生まれました

檀君神話

鉄杭神話・風水学
 「植民地時代に日帝(大日本帝国)は、朝鮮の地から人材が出るのを防ぐため、全国の名山にわざと「鉄杭」を打ち、風水侵略を行った」、という話が伝説のように口伝えされてきました
 韓国の社会で鉄杭騒動を引き起こす契機になったのは、金泳三政権(1993年~1998年)が「光復五十周年記念力点事業」として推進した「鉄杭除去事業」です。それ以前は主に民間の次元で「西京大学」の徐吉洙教授!が、鉄杭除去事業を推進していました。この団体が除去した鉄杭は、北漢山の17本、俗離山の8本、馬山舞鶴山鶴嶺の1本でした。これらは、日本人が風水侵略の為に打ち込んだという証拠の無い理由で抜き取られました。因みに、北漢山の鉄杭は、1984年、白雲台で登山をしていた民間団体が、登山客たちの「倭人たちがソウルの精気を抹殺する為に打った鉄柱」という説明を聞いて除去したものです
 その後、青瓦台(大統領官邸)の指示を受けた内務省が、全国の各市郡邑に公文を送り事業を開始しましたが、日帝が打った鉄杭と立証してくれる専門家がいませんでした。結局、地方の行政庁は、近隣で風水が多少は分かるという風水師(地官と言うそうです)、易術人占い師などを鉄杭鑑定専門家として動員しました。1995年から6ヶ月間全国で受け付けられた住民の申告は439件、この内鉄杭だとして除去されたものは18本でした(この件について、著者の金容三氏は詳細に検証を行い根拠不明であることを実証しています)。これ以外にも、特に根拠も無く、住民の多数決で「日帝が打った鉄杭」とされたものもありました

鉄杭除去作業

 また、揚口で除去された鉄杭は、ソウル民族博物館で開かれた光復五十周年記念の「近代百年民族風物展に展示され、日帝が打った鉄杭だという証拠が全くないにもかかわらず以下の様な説明文が付けてありました;
民族抹殺政策の一環として、日本人は我々民族の精気と脈を抹殺しようと、全国の名山に鉄杭を打ったり、鉄を溶かして注いだり、炭や瓶を埋めた。風水地理的に有名な名山に鉄杭を打ち込み、地気を押さえ付けけようとしたのだ
 尚、植民地時代に華川・揚口一帯の測量業務を行った朝鮮総督府林政課の測量技師二人(古賀某、挑吉福)を手伝った山林保護局臨時職員の李ボンドゥク氏(当時21歳)が、以下の様な証言を行っています:「日帝時代、測量の為に山の頂上や峰の上に設置した大三角点を、この国の人々は、日帝が急所を射るために打ち込んだ鉄杭だと誤解した」。著者の金容三氏は、鉄杭が打ち込まれているという地点を調査した結果、それらの地点と測量の為の起点として使われる「大三角点」や「小三角点」と一致していることを確認しています

日帝による朝鮮収奪という虚構

 

 日本が、1910年に朝鮮を併合した後、1945年に太平洋戦争に敗北するまでの35年間、朝鮮のあらゆる資源を収奪したという韓国人の一般認識については、以下の様な実証的な検証を行い、反論しています

1.朝鮮土地調査事業
 1910年に朝鮮を併合した後、直ちに着手した事業に「朝鮮土地調査事業」があります。1918年まで8年間行われたこの事業によって、全国全ての土地面積、地目(土地の用途)、等級、地価が調査されました(朝鮮ではそれまで行われていなかった)。これにより、総面積は2,300万ヘクタール、内487万ヘクタールが人間の生活空間としての土地(田畑、住宅敷地、河川、堤防、道路、鉄道用地、貯水池、墓地など)、残り1,813万ヘクタールが山地でした
 1960年代以降、韓国の中・高等学校の韓国史教科書は、「総督府が実施した土地調査事業の目的は朝鮮農民の土地を収奪する事にあったと教えてきました。またある教科書では、「全国の土地の40%が総督府の所有地として収奪されたと書いています。1974年から国定教科書に変わっていますが、その後2010年までの36年間、40%の土地が収奪されたと学生たちに教えてきました。歴史の授業の時間でこの部分に来ると、教える教師も教わる生徒もみな泣いたそうです。しかし、どの研究者もこの数値を証明したことがありません

 土地調査事業当時、一部の土地で所有権紛争がありました。しかし、これは生活空間としての土地487万ヘクタールのうち12万ヘクタールに過ぎない国有地を巡っての紛争でした。これに関して慎鏞廈教授!ソウル大学名誉教授;社会学者、政治学者、独島学会会長)が「朝鮮土地調査事業研究」という本の中で、この紛争について「当該土地は自分の所有物だと主張すると、総督府はピストルで押さえつけた」と書きました。当時、土地調査局の職員は実地調査に出かけるとき、山中深く入っていくと獣に襲われる事例があり、また山中では匪賊が活動していることもあり護身用に拳銃を持って調査をしていました。農民たちは、最初は警戒していたものの次第に調査の内容が分かると、むしろ歓迎していました。土地調査局は、調査を終えると土地台帳の下書きを公開していました。農民はこれに自分の名前があると喜ぶと同時に、間違いがあると熱心に異議を唱えたといいます。慎鏞廈教授は、「朝鮮土地調査事業研究」という本を書きながら、実際に郡庁や裁判所にある土地台帳や地籍図を閲覧したことが無かったのです。こんな本を韓国の学会とメディアは歓喜して迎え、慎鏞廈教授には輝かしい学術賞を授与しました
 人気小説家の趙廷来(1943年~)は、大河小説「アリラン」(12巻合わせて350万部売れました)の中で、日帝が狂的に朝鮮人を殺害する場面をあちこちに書いていますが、その中に「土地調査事業」の期間に行われた警察の即決による銃殺の場面があります

土地調査事業における朝鮮農民の銃殺場面

 勿論、こんな事実はありませんでした。因みに、1913年の一年間に53人が殺人と強盗の罪で死刑を宣告されましたが、いずれも二審の判決でした。また、1921年3月に「警察官処罰規則」が施行されていますが、そこには警察が即決で処理できる犯罪として軽犯罪87種のみが規定されています

2.「強制動員」の真実
 1939年~1945年8月15日までの間、日本に渡って働いた73万人余りの朝鮮人労務者を「労務動員」と呼びます(韓国人はこれを「強制徴用」と言っています)。韓国の研究者たちは、動員された朝鮮人の大部分が日本の官憲によって強制的に連れていかれたと主張しています。また、日本で奴隷のように酷使された(奴隷労働)と主張しています。「夜寝ている時、田で働いている時、憲兵や巡査が来て、日本に連れて行かれて死ぬほど仕事させられ、動物のように虐待され、一銭も貰えずに帰ってきた」という主張です。これらは、1965年に日本の朝鮮総連系の朝鮮大学校の教員・朴慶植(在日朝鮮人の歴史研究者;1922年~1998年)が主張した「朝鮮人強制連行の記録」ことですが、これは当時進行していた日韓国交正常化交渉を阻止するために作られた話でした。これは、韓国の政府機関、学校などの教育機関、言論界、文化界の全てに甚大な影響を与え、国民の一般的な常識として根付くことになりました。著者の李宇衍は、これは明白な歴史の歪曲と断言しています。2018年10月30日、韓国大法院は日本の企業(新日鐵住金)に、韓国人一人当たり1億ウォン(約1千万円超)の慰謝料の支払いを命じました。この判決もやはり明白な歴史歪曲の基づくでたらめなものだと著者の李宇衍が断言しています

 歴史的事実に基づけば、徴用は、1944年9月から長く見て1945年4月頃までの約8ヶ月間実施されました。その後終戦まではアメリカ軍が玄界灘の制海権を握り、朝鮮人労働者の輸送が出来なくなりました。このことから、徴用で日本に行った朝鮮人は10万人以下だったと推定できます
 「徴用は法律に基づく強制的な動員方法でした。徴用を拒否すれば一年以下の懲役、もしくは100円以下の罰金に処せられました。この徴用以前は、1939年9月から実施された「募集」と1942年2月から始められた「官斡旋」があり、これらは何れも法的強制力はなく朝鮮人たちの自発的な選択に任されていました。当時、日本の青年の大部分が徴兵されていましたので、労働力が極度に不足していた状況にあり、特に、炭鉱などの鉱山で労働力不足が深刻であった為、日本に行った朝鮮人の64%が鉱山に配置されました。しかし、朝鮮人の大部分が農村出身で、鉱山の地下労働をとても恐れ、多くが建築現場の様な所に逃げて行ったと言われています。いずれにしても朝鮮人労働動員は、基本的には自発的であり、強制性はありませんでした
 2015年に釜山で開館した「国立日帝強制動員歴史館」に以下の様な写真が掲げられていました;

教科書に載った「強制動員された我が民族」

 写真に写っている人は肋骨が浮き出るほどに痩せこけ、奴隷の様に働かされた朝鮮人が、どれほどの苦難を経験したのか、広く知らしめようとして掲げられました。ニューヨークで徴用を宣伝する為に使われた写真もこれと同じものでした。しかし、この写真は、1926年9月9日に、日本の「旭川新聞」に掲載されたものです。北海道を開拓する過程で土木建設現場に監禁された日本人10人の写真でした。2012年から、日本の歴史歪曲に対応するという目的で、韓国史が高校の必須科目になりました。新しい教科書全8種のうち7種の教科書に上記の写真が掲載されています。また2019年からは、この写真が初等学校6年生の教科書に掲載されるようになりました

 2016年からは、社会団体も歴史歪曲運動に乗り出しました。いわゆる「強制徴用労働者像」を設置しようという運動です。これは「全国民主労働組合総連盟(民労総)」、「韓国労働組合総連盟(韓労総)」、「韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)」などが主導する「日帝下強制徴用労働者像設置推進委員会」によって行われています。著者の李宇衍は、下の強制徴用労働者像が、上記写真5-1の右から二番目の人物の酷似していると指摘しています(この件、現在像の制作者から訴訟を起こされたと報道されています)

強制徴用労働者像

 廬武鉉政権(2003年~2008年)において、国務総理室所属の「日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会」という機関を設置し、日本に動員された韓国人の被害補償をしました。補償を受けるのに必要な証拠としてよく使われたのが以下の写真です;

朝鮮人労働者の記念写真

 この写真は、1941年に北海道の尺別炭鉱で働いた鄭成得氏が同僚たちと一緒に撮った記念写真です。写真に写っている人たちは、何れも穏やかで余裕が感じられます。この他に、1939年~1945年の間に日本に来た鉱夫達の団体写真が沢山残っていますが、いずれもこの写真と似たり寄ったりです。朝鮮人は大部分、会社が提供する無料の寮で同じ故郷出身者と共に生活していました

3.「労働環境における民族差別」の実態
 前掲の朝鮮大学校の教員・朴慶植は、「多くは1日12時間仕事をさせられました。また賃金はが現金で支給されずに、みな貯金させられ、送金などとても考えられない水準であって、一人で食べていくのも大変だった。また、賃金自体も「日本人労働者の半分程度」と主張しました。また、「朝鮮人たちは炭鉱の坑内労働の様な一番過酷な労働を行い、殴打、集団リンチ、監禁などが日常的に行われていた」と言いました。また今日においても、殆どの研究者が同じ主張を繰り返しています
 この様な意見は、歴史的事実とは全く違ったものです。賃金は基本的に正常に支給されました。強制貯蓄は確かにありましたが、それも日本人と同じでした。2年の契約期間が終わると、利子と共に貯蓄もみな引き出し、朝鮮にいる家族にも送金できました。賃金体系は基本的に日本人と同じ成果給であり、日本人より賃金が高い場合も多くありました。日本人より賃金が低いケースの大部分は、朝鮮人たちの経験が浅く、結果として生産量が少なかったからでした。業務中に殴る蹴るなどの前近代的な労務管理も、全く無かったわけではありませんが、これも日本人に対しても同じことでした。因みに、朝鮮人炭鉱夫の賃金を、朝鮮の他の職種や日本の他の職種と比べてみれば以下の表のようになります(朝鮮人炭鉱夫の賃金はこの職種の収入に表の倍率を掛けたものになります。朝鮮人炭鉱夫の賃金は1940年時点では約73円1944年時点では約165円もの賃金を受け取っていたことになります)

朝鮮人炭鉱夫と他職種の賃金との比較

 生活は非常に自由なものでした。一晩中花札をして夜を明かしたり、勤務後に市内に出て飲み過ぎ、翌日欠勤することも多かった様です。中には、酒が飲め朝鮮の女性がいる「特別慰安所」に行き、月給を使い果たしてしまう人もいたとのことです

「朝鮮人徴用労働者」と誤認されている1950年代の日本人

 上の写真は、誠信女子大の徐敬徳教授!が。ミューヨークのタイムス・スクエアの電光板に映し出し、映画「軍艦島」の宣伝で、「腹ばいになって石炭を掘る朝鮮人の姿だ」と紹介したものです。またこの写真は「国立日帝強制動員歴史館」にも展示され、中学校の教科書にも掲載されています。しかし、この写真は、日本の写真家・斎藤康一氏が、1950年代半ば、貧しい庶民の暮らしを写すという目的で、筑豊炭田地帯のある廃坑で、日本人が石炭を盗掘している所を写したものです(斎藤氏はこの写真のフィルムを所蔵しています)
 1929年の世界大恐慌以降、日本の炭鉱やその他の鉱業でも人件費を減らすための機械化が急速に進みました。空気圧縮式削岩機(下の写真参照)、石炭裁断機、石炭を運ぶ機械式コンベアが広く使用されるようになりました。朝鮮人が配置された1939年以降、上の写真の様な採炭方法はあり得なかったわけです

空気圧縮式削岩機を使用する炭鉱夫_1934年

 1939年1月から1945年12月まで、日本本土の炭鉱で死亡した炭鉱夫は、日本人と朝鮮人合わせて 10,330人でした。一方、1943年に於ける日本の主要炭鉱での死亡率は、朝鮮人が日本人より2倍ほど高くなっています。この違いは、日本人の屈強な若者が徴兵されたことがあり、坑内作業のうち危険度の高い三種の坑内夫(採炭夫、掘進夫、支柱夫)の職種が日本人より1.9倍も高かったことによるものです。また、1941年における北海道の6ヶ所の炭鉱についても同様の傾向があります(朝鮮人の死亡率が日本人より 1.3倍~3.0倍)。
 著者の李宇衍氏は、朝鮮人の災害率が高いのは、人為的な「民族差別」ではなく、炭鉱の労働需要と、朝鮮からの労働供給が作り上げた不可避な結果であると結論付けています

4.「食料収奪」の真実
 日帝の植民地支配に対する批判の中で、最も多く耳にする話の一つが「日帝が朝鮮を食料供給基地にし、朝鮮の米を収奪していった」ということです。また、「米を大量に「収奪」または「搬出」した結果、朝鮮人の米消費量は大きく減少し、朝鮮人は雑穀で延命しなければならなかった」とも記しています。しかし、下図を見れば、この主張が的を得ていないことがすぐに分かります;

朝鮮における米の生産量・輸出量・朝鮮内消費量

 朝鮮総督府による「産米増殖計画」に基づき水利施設の整備や肥料投入量を増加させた結果、米の生産量は飛躍的に増加し朝鮮内消費量を減らすことなく輸出量を増やしています。生産量が増加した結果、生産量の約半分が輸出されるようになり、日本と朝鮮の米市場は一つに結ばれます。日本という大規模な米輸出市場が出来たために、朝鮮農民の所得増加に大きく寄与したことが分かります。このことは、当時を生きた朝鮮の農民や言論人にはあまりにもよく知られた常識でした。ただ、朝鮮の農民たちの所得が増えたと言っても、その恩恵は米販売量の多い地主や自作農に集中し、小作農が得られたものは微々たるものでした。これが改善されたのは、解放後(1945年~)に行われた農地改革(地主制の解体)と農業の機械化(余った労働力は第二次、第三次産業へ移動しました)によるものでした
 著者の金洛年氏は、教科書の「収奪」とか「搬出」という表現を変えられないのは、「輸出」という表現に変えたとたん、自分たちの日帝批判の論理が混乱に陥ることをよく分かっているからだ、と言っています

5.「陸軍特別志願兵」の真実
 1938年4月、日本は「朝鮮人陸軍特別志願兵制」を実施しました

陸軍特別志願兵

 従来の韓国近現代史では、この制度は朝鮮人の兵力資源化のための日帝の広範囲で、徹底した「強制動員」であり、志願者の出身と動機も朝鮮半島の南半分の地域の貧民層に限定された政策であるとしてきました。しかし、日中戦争の最中に志願兵に応募することは、志願者の立場に立てば生きるか死ぬかの選択でした。この様な命がけの決断を強制動員と見なす考えは、歴史的事実を極端に単純化し、歪曲したものに過ぎない、と著者の鄭安基氏は言っています
 朝鮮における陸軍特別志願兵に選抜されるには、各道の知事、朝鮮総督府、朝鮮軍司令部が実施する身体検査学科試験面接試験に合格し、更に入営前の朝鮮総督府陸軍志願者訓練所での訓練を終了しなければなりませんでした。従って、この制度は、朝鮮人社会の同意と協力無くしては決して成立しない植民地軍事動員でした。下の表をご覧になると、志願倍率が如何に高かったかが分かります

陸軍特別志願兵の募集と選抜の状況

 これらの志願者の大部分は、普通以上の収入のある南朝鮮地域の中農層の次男で、当時、朝鮮人児童就学率が50%以下の状況で、少なからぬ学費を払わねばならなかった普通学校の卒業者でした。当時の中農層は「両班」出身の上流層とは違い、出世志向の強い「常民」出身の人達であり、この制度が、時代錯誤的な郷村社会の身分差別からの脱出であり、立身出世のための絶好の近道であったことが、この高い志願倍率になっていたと考えられます。朝鮮における陸軍特別志願兵制の成功を受け、1942年には同じ制度を台湾にも拡大しました。続いて1943年、朝鮮と台湾で海軍特別志願兵制と学徒志願兵制を施行しました
 1939年以降、朝鮮軍第20師団所属の陸軍特別志願兵は、中国や、ニューギニアに動員され、果敢に戦い多くの戦死者を出しました。また、太平洋戦争終結後の朝鮮戦争に於いても、韓国の自由と人権を守るために献身した英雄ともなりました 

 

独島(竹島)の領有権に係る真実

 

鬱陵島と竹島の位置関係

 独島(竹島)は、韓国と日本が領有を争っている島ですが、韓国の立場からすると絶対に譲歩できない象徴になっています。しかし、領有を争うには、歴史的に自国民が住んでいた証拠があること、あるいは国際社会に対して最初に領有を宣言するか、あるいは戦争などによって領有を勝ち取った歴史があることが必要となります。しかし、朝鮮王朝時代には、独島(竹島)の存在そのものが知られていませんでした

 現在、韓国が独島を韓国の固有の領土と主張している根拠の一つは、独島が「于山」という名前で、新羅以来、歴代王朝の支配を受けてきたという歴史的事実です。三國史記(高麗仁宗の命により1145年に編纂された;新羅、百済、高句麗に関する歴史書)に次のような記事が出てきます;
于山国が新羅に帰服した。毎年新羅に土産品を貢納した。于山国は、溟州の東側の海にある島だ。あるいは鬱陵島ともいう。土地の大きさは方一百里である。険峻なのを信じ新羅に服さなかった。伊「サンズイに”食”という字」異斯夫将軍が征服した」。この記事に出てくる于山が今日の独島だと主張しています。 しかし、ここに出てくる「于山」は、明らかに「鬱陵島」と同じものです

 また、独島固有領土説の内、最もよく知られた根拠は、1454年に編纂された「世宗実録地理誌」に出てくる次の記事です;
于山」と「武陵」の二つの島は県の東側、海の中にある。二つの島は、お互い余り離れていない。天気が良ければお互い眺められる。新羅時代は于山国と称したが、鬱陵島とも言った

 1530年に編纂された「新増東国輿地勝覧」に「八道総図」という地図があります。この地図は幻想で生まれた于山島を描いた最初の地図です;

15世紀・16世紀の李朝朝鮮時代の鬱陵島地図
16世紀~19世紀の色々な地図の中の鬱陵島干山島

 韓国の外務省はこの地図(上の地図12-1の右側)を提示しながら、于山独島だと主張してきました。中学・高校の韓国史の教科書も、そのように教えています。しかし、著者の李栄薫は、独島は鬱陵島の東南87キロ先の海に位置しており、于山が独島であるなどありえないと言っています。池内敏という日本人研究者が、合わせて116枚の地図に描かれた于山島の位置を追跡したことがあります。それによると、17世紀までは于山島はたいてい鬱陵島の西にありました。18世紀に入ると南側に移動する傾向があります。以後19世紀には東に行き、北東方面に移っていく傾向にあります。このように于山島は、朝鮮王朝時代にわたってさ迷い漂う島でした。幻想の島だからです。当然、それは鬱陵島から87キロに位置する独島ではありません

 1417年以降、李朝朝鮮は鬱陵島に人が住むことを禁じました。1883年に再び居住することを許した結果、日本人もアシカ狩りの為に多く暮らしていました。1900年大韓帝国は勅令41号を出して鬱陵島を群に昇格させ、群主を派遣しました。その時、群の領域を定めるのに際し「鬱陵全島と竹島と石島を管理する」としました。ここで竹島とは独島ではなく鬱陵島の近くの竹島で、石島とは観音島です。鬱陵島近くの人の住む島はこの二つ以外にありません

 1905年、日本は独島(竹島)の履歴を調査し、朝鮮王朝に所属していないことを確認した上で、独島を「竹島」として自国の領土に編入しました。この事実を知った鬱陵郡主が「本郡所属の独島が日本に編入された」と報告しましたが、中央政府がそれに対して何の反応も示しませんでした。大韓帝国がこの時点で異議を唱えなかったことは、領土紛争における決定的なことであったと考えられます。
 日本政府が独島問題を国際司法裁判所に提起する様主張していますが、韓国政府がこれに応じないのは、率直に言って、独島が歴史的に韓国固有の領土であることを証明できる国際社会に提示できる証拠が、何一つ存在していないからです

慰安婦問題の真実

 

 1991年、日本軍慰安婦問題が発生しました。金学順という女性が、日本軍慰安婦だった自分の経歴を告白しました。以降、170人以上の女性たちも同様な経験者だったと告白し、自分たちを慰安婦として連れて行った日本軍の犯罪行為に対して、日本の謝罪と賠償を要求しました。それから今まで28年間、この問題を巡って韓国と日本の関係は悪化の一途を辿ってきました。韓国人の日本に対する敵対感情はますます高まり、日本の首相が何回も謝罪をし、補償を試みましたが、彼女達を支援する団体(後で詳しく説明します)はこれを拒否し、日本に法律を制定して公式の謝罪と賠償を行うことを要求し、問題の解決は遠のくばかりです
 著者の李栄薫氏は、問題の実態を客観的に理解しない韓国側の責任が大きいと言っています。また、この問題に関する韓国側の優れた学術書は存在しないとも言っています。今回、この本の中で著者の李栄薫氏は、慰安婦に係る全体像を実証的に説明しようと試みています

1.李朝朝鮮時代の慰安婦
 普通の韓国人は、朝鮮王朝時代は性に関しては清潔な社会で、20世紀の売春業は日本が持ち込んだ悪い風習だと思い込んでいます。しかし、これは事実ではありません。著者の李栄薫氏は、「世界史に於いて性的に清潔な社会は存在したことがなく、今でもそうだ」と言っています。
 朝鮮王朝時代、女性に強要された貞操律は、あくまでも「両班」身分の女性が対象でした。「常民」や「賤民」身分の女性はその対象ではありませんでした。中でも「女卑」や「妓生(キーセン)」のような「賤民」身分の女性は、男性たちから至る所で性暴力を受けていました

 朝鮮王朝の地方行政機構である監営や郡県(地方行政区画)には、「」が居り、水汲み、料理を行う「汲水卑」と呼ばれる「女卑」と、官衛(かんが;朝鮮王朝時代の地方官庁)で行われる宴会や行事で歌って踊る役となる「妓生」(「酒湯)とも呼ばれていました)が居ました。「妓生」はまた、官衛を訪れてきた賓客の寝室に入り、性的慰安を提供する役も担っていました。こういう事を指して「房直」または「守庁」と言います
 民間の「女卑」、すなわち「私卑」も大事なお客様が訪れてくると、「私卑」が性的慰安を提供する役(房直、守庁)も担っていました

 両班官僚が妓生の性をどの様に支配し、享受したかに関しては、慶尚道蔚山府出身の朴就文の例が良く知られています。1617年生まれで、1644年に武科(武将になる国家試験)に合格した人です。合格の翌年の12月から1年5ヶ月間、咸鏡道の会寧と鏡城で軍官を務めました。彼は蔚山を出発してから帰るまでの毎日の生活振りを「赴北日記」に残しました。この日記には、赴任の途中で官衛の「妓生」や民間の「私卑」に夜伽の相手を務めさせたこと、会寧に到着するまでに150人の「妓生」、「私卑」と床を共にしたことなどが記録されていますまた、赴任地に到着すると、房直妓生配属されましたが、これだけでは満足せず、他の多くの妓生との性を求めた(特に、国境地帯の諸村を巡視する過程で)ことも記録されています

 妓生の身分は「」であり世襲制(妓生の娘は妓生、、)を取っていましたが、この身分制に係る法律を作ったのは朝鮮王朝初期の世宗(第4代;1397年~1450年)ですが、かれは「妓生」を「軍慰安婦」としての制度化も行いました。前述の「赴北日記」によれば、1645年に鏡城府に属した妓生は100人に上ると書いてあります。恐らく全国では1万人に達していたのだはないかと推定できます。この妓生制度は20世紀初めの朝鮮王朝滅亡(1910年日本に併合;1997年に朝鮮王朝は「大韓帝国」に改称されています)まで続いていました

2.日本統治時代の慰安婦(1910年~1945年)
 1916年、朝鮮総督府は「貸座敷娼妓取締規則(ベースとなったのは1900年明治政府が日本で発布した娼妓取締規則です)を発布し、公娼制を施行しました。ここで娼妓というのは、性売買を専業とする女性のことをいいます

貸座敷娼妓取締規則の内容
 娼妓が営業を行うには、貸座敷営業者が連署した申請書を管轄警察署に提出し許可を得る必要がありました。貸座敷とは娼妓を受け入れる「貸座敷営業者が提供する営業場所(通称”遊郭“)」のことです。娼妓が申請書を出すときには、娼妓の父、母、などの戸主が印鑑を押した就業承諾書」、娼妓と抱え主間の「前借金契約書」、「健康診断書」、「娼妓業を行う理由書などが添付されねばなりませんでした。また、娼妓の住所は遊郭区域に限定されていました。一方、貸座敷営業者は、毎月、娼妓の営業所得」、「前借金の償還実績」などを警察署長に報告しなければなりませんでした。娼妓は、毎月2回定期的に「性病検診」を受けなければなりません。尚、娼妓を辞める時は、許可証を警察署長に返納し、「廃業許可」を得なければなりません

 公娼制は、近代の西欧諸国ではじまりました。規則は「娼婦登録制」、「性病検診義務」、「営業区域の集中制を基本要件としていました。「娼婦登録制」は、娼婦と抱え主の関係に国家が介入し、不当な契約条件を取り締まり、待遇を改善するためです。「性病検診義務」は性病を予防し、国民の健康を守るためです(特に兵士たちの性病感染を防ぐため)。「営業区域の集中制」は、売春業による風紀の乱れから一般社会を保護する為でした

 朝鮮に於いては、1916年の公娼制施行をもって身分的性暴力の時代が去り商業的売春の時代が始まったことになります。しかし、この移行は漸進的、且つ段階的な過程を踏みました。因みに、1929年時点での貸座敷娼妓の営業状況は、下表のとおりです。娼妓の人数、遊客の人数両方で日本人が圧倒的に多かったことが分かります;

貸座敷娼妓の概況_1929年

 上表から日本人と朝鮮人の遊客一人当たりの遊興費には2倍の差があります。娼妓一人当たりの月の売り上げは102円となり、その内三分の一か二分の一が娼妓の分け前としても、34円か51円となり、当時小学校卒の女工の月給が18円程度なので待遇はかなり良かったと考えられます

ソウル新町の遊郭街

 日本から朝鮮に移植された公娼制が持つ重要な特徴の一つは、遊郭区域は最初から日本軍が駐屯した所と密接な関係がありました。因みに、上の写真の新町遊郭は、朝鮮駐箚軍の本部近くにありました

 1930年代半ばから、娼妓と誘客の中心が朝鮮人に移り、大衆的売春業に様変わりしました。少数の日本人のための特権的売春業が、多数の朝鮮人のための大衆的売春業に発展したことになります。下表は、仁川にあった敷島遊郭の1925年と1938年の営業状況です。尚、敷島遊郭は朝鮮人楼日本人楼に分かれていました;

仁川敷島の遊郭の営業状況

 公娼制の大衆化過程は、同時に日本から移植された公娼制が朝鮮風に変わる過程でもありました。公娼制下で売春業に従事した女性たちは大きく三つの部類に分けられます;
娼妓:これまで述べてきた売春を専業とする女性たち
芸妓:芸妓屋や料理屋で舞と歌を披露する芸能の所持者です。芸妓の売春は許可されていませんが、客の要求がれば売春を行うことが普通でした。朝鮮王朝時代の伝統妓生もこの範疇に入ると思われます
酌婦:料理屋や飲食店の客席に座り客を接待します。酌婦の売春は許可されていませんが、客の要求がれば売春を行うのが普通でした

 朝鮮王朝時代の妓生はもともと一牌、二牌、三牌に分かれていました;
一牌:宮中官衛の宴会で舞と歌を披露した一級芸能の所持者で売春とは無関係でした
二牌:
芸能水準が一牌より低く、売春も兼業していました
三牌:芸能の訓練を受けたことのない自称妓生
で、主に売春に従事していました
 1930年代に入って、朝鮮人芸妓が急増したのは、主に二牌三牌が芸能名簿に名前を登録し、料理屋に出て歌と舞を行いつつ売春を行ったことを意味します。後に日本軍慰安婦になった女性達の相当数が、妓生養成所の役割を担った券番(遊郭で芸者の取り次ぎや送迎,玉代の精算などをした所)や料理屋の妓生出身であったのは、この様な朝鮮特有の歴史的な背景があったからでした

 1916年の貸座敷娼妓取締規則に関連する規則によれば、貸座敷の店主は雇人周旋業をしてはならないことになっていました。従って、売春業も一種の労働市場であるため職業紹介所の様な市場機構が出来上がりました。娼妓の周旋業社間では、”小売市場ー卸売市場ー中央市場“の様な周旋業の階層が成立し、募集した女性たちを地域内または地域間、更には国境を越えて送り出すシステムができました
 前述したとおり、女性が娼妓になる為には、戸主の就業承諾書が必要でした。戸主は普通父親ですが、母親、母親が居なければ兄や他の親族がなりますが、周旋業者はこの戸主を説得して就業承諾書に印鑑を押させます。朝鮮王朝時代は家族という言葉はありませんでしたが、日本の統治が始まって「戸主制家族」が成立し、20世紀の朝鮮人の家庭生活や精神文化に大きな影響を及ぼしました。戸主は家族構成員を養育し保護する権利と義務を負うことになりました。家族内での出生、死亡、結婚、離婚、養子縁組、相続、分家、などは戸主の承認が必要です。家族構成員が取得した所得は戸主の所得になります。戸主には娘の就業を承諾する権利がありますので、周旋業者が来て戸主に若干の前借金を提示すれば、貧困家庭の戸主は娘の娼妓就業承諾書に印鑑を押してしまいます。娘には拒否する権利がありませんでした娘は泣きながら周旋業者に連れて行かれることになりました。これらが公娼制を取りまく、所謂「人身売買」の実態です。
 朝鮮王朝時代には、この類の人身売買はありませんでしたが、奴婢だけは主人の財産なので売買は自由でした。朝鮮王朝全盛期の奴婢の人口は3~4割にも達していました。19世紀に入ると、一般常民身分の人が、自分と家族を奴婢として売る「自売」という現象がありますが、父親が家族を売ることはありませんでした

売春業の域外進出
 公娼制の成立と大衆売春社会の成長は、売春業が域外進出していく過程でもありました。1910年代末には、関東州と南満州一帯で日本人と中国人を顧客とする朝鮮人売春業が登場しました。1931年の満州事変以降、満州の主要都市で売春業は大きく成長しました。因みに、1940年、満州国全体で各種売春業に従事する女性は 38,607人、内中国人は52%、日本人が35%、朝鮮人は12%でした。朝鮮人が接客業を行う事業所は、599軒、事業所当たり平均7~8人の女性が働いていました(当時、朝鮮内では娼妓、芸妓、酌婦の総数が9,580人であり、満州国では約半分の規模となります)。尚、満州では、性売買を専業とする娼妓はおらず、酌婦が娼妓の役割を果たしていました。満州の売春市場では、最上級市場は日本人売春業、その次が朝鮮人と下層日本人を顧客にする朝鮮人買収業、その次が中国人売春業でした

従軍慰安婦
  1937年の第二次上海事変以降、日中戦争が本格化し、北京から広東までの広大な沿岸地域を占領した後、内陸の奥深くまで進出しました。それと共に、大量の朝鮮人が新しい仕事を求めて日本軍占領地域に入っていきました。彼らは軍の後について軍が必要とする雑貨類を運搬し、特殊婦女子の一団をつれて軍慰安所を開業しました
 1941年時点で中国河北に定着した朝鮮人の総数は52,072人(16,511戸)、その内の362戸が料理屋、飲食店、カフェを経営し、
11戸が慰安所を開業していました。これらの事業所に所属する娼妓、芸妓、酌婦、女給は全部で1,292人で、内219人は軍慰安所に所属する慰安婦でした
 日本軍は、1937年以降、①将兵の性欲を解消し、②性病を防ぎ、③軍事機密の漏洩を防ぐ為に、軍の付属施設としての慰安所を設置しました。「慰安婦」という言葉は、慰安所が軍主導で設置されてから生まれた言葉と言われています。著者の李栄薫によれば、日本軍慰安婦制は、民間の公娼制が軍事的に動員・編成されたものに過ぎないと言っています

 慰安所には多様な形態がありました。軍が直接設置して運営したものもありますが、殆どは民間の慰安所を軍専用の慰安所に指定し、管理する形態でした。慰安所には軍が定めた運営守則(1916年朝鮮総督府は発布した「貸座敷運営守則」とほぼ同じ内容)がありました;

日本軍が関与した慰安所の壁に貼り出されていたいた慰安所規定

 将兵が慰安所を利用するには、部隊長が発給した許可証が無ければなりません。利用時間帯と長さは階級によって異なりました。概ね、兵士たちは昼間、将校は夕方か夜でした。花代は階級によって異なります慰安所内での飲酒や放歌などは禁じられていました慰安婦に対する乱暴な行動は取り締まりの対象になりました。慰安所の入り口で許可証を見せて花代を払うと、店主がサック(コンドーム)を支給(コンドームの着用は義務事項)しました。慰安婦たちは定期的に性病検診を受けなければならず、月2回の休日以外はむやみに外出することはできませんでした
 民間の慰安所と比べ、軍慰安所での仕事は「高労働、高収益、危険」なものでした。慰安婦の数は、概ね兵士150人に対して一人であり、慰安婦の一日当たりの相手は5人程度と推定できます。当時、大阪遊郭区域における一日当たりの相手2.5人と比べると労働強度は2倍となります。労働強度が高い分、高収益でした。兵士たちの花代は民間遊郭よりも安かったのですが、将校の花代は民間とほぼ同じでした。軍の管理が厳しく店主の中間搾取が統制され、軍慰安所は需要が確保された高収益の市場でした
 軍慰安婦は、少なからぬ金額を貯蓄し、実家に送金もしました。ただ、第一線に配置された慰安婦は、危険にさらされることがありました。特に南太平洋とビルマの戦線で日本軍が崩壊した時は、命を落とす慰安婦もありました。しかし、殆どの軍慰安婦は戦後無事に帰還しました。戦争が終わる以前にも、少なからぬ軍慰安婦が契約期間が満了して慰安所を離れました
 満州、台湾、日本、中国で活動した慰安婦は、全て合わせて19,000人、その内3,600人が軍慰安婦であると考えられます

 軍慰安婦問題で、最も深刻な誤解は、慰安婦たちが官憲によって強制連行されたというものです。例えば、憲兵が道端を歩く女学生や畑で仕事している女性たちを、奴隷狩りをするように強制的に連れていったなど、、、

井戸端で日本軍に強制連行される朝鮮人少女のイメージ

 こんな話をもっともらしくした本を書いた人は日本人でした。彼は1983年、「私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行」という本を書き、その中で「1943年、部下6人と共に済州島の城山浦に行き、ボタン工場で働く女性16人を慰安婦にするために連れて行った」と書きました;

吉田清治の本

 この本は、韓国人に大きな衝撃を与え、以後の慰安婦問題発生に大きな役割を果たしました。また、この本が刊行された後、済州島の郷土史家と記者達が、関連証言を聴取しようとしましたが、城山浦の住民たちは、そんなことは無かったと否定しました。それどころか、本を売るための軽薄な日本人の悪徳商魂だと憤慨しました

 強制連行説を煽ったもう一つのは、女子挺身隊との混同です。1991年、金学順という女性が、日本軍慰安婦だった自分の経歴を告白しました時、これを報道した「朝鮮日報」は慰安婦を挺身隊と書きました。挺身隊は、戦時期に女性の労働力を産業の現場に動員したものです。1944年8月、日本は「女子挺身勤労令」を発布し、12歳~40歳の日本女性を軍需工場に動員しました。しかし、この法律は朝鮮では施行されませんでした。ただ、官の勧めと斡旋で接客業の女性あるいは女学生が挺身隊として組織され、平城の軍需工場や仁川の工廠で2ヶ月ほど働いた事例はあります。日本の軍需工場まで行った挺身隊もありますが、その総数は2,000人程度と推測されています。
 慰安婦問題が起きた時、韓国国民は慰安婦と挺身隊を混同し、人々は限りなく憤怒しました。つまり、日本軍慰安婦問題は、最初からとんでもない誤解と無知から爆発したものでした。慰安婦問題を主導した「韓国挺身隊問題対策協議会(通称:挺対協)」は、挺身隊と慰安婦が別物であることが明確になったあとも、ごく最近まで団体名を変えようとしませんでした。今でもなお6種の国定教科書には、「日帝が女子挺身勤労令を発動し、一部の女性たちを日本軍慰安婦にするために連れて行ったと書かれてあります

日本軍慰安婦問題の解決を難しくさせたもう一つの要因は、その人数がとんでもなく誇張されたという点です。「朝鮮人慰安婦は20万人も居たという荒唐無稽な説が教科書にも載っていました今もなお、教科書によっては数万人といい、その人数を誇張しています。20万人という数値を最初に言及したのは、1969年の某日刊紙でした。この記事の中で「1943年~1945年、挺身隊として動員された日本人女性と朝鮮人女性は20万人で、その内朝鮮人女性は5万~7万人だった」と書いています。しかし、1984年になると、宗建鎬という人が自分の書いた本の中で「日帝が挺身隊として連行した朝鮮人女性は20万人で、その内5万~7万人が慰安婦だった」と書きました。これが、朝鮮人慰安婦20万人説となりました
 朝鮮人の軍慰安婦の人数を、データの残っている数値から推算してみると;1937年、日本軍が慰安所を設置した当初、慰安婦は兵士150人に1人の比率(既に述べています)で確保しました。そうすると全日本軍270万人を相手にすべき慰安婦は18,000人程度になります。一方、1942年に日本軍が将兵に支給したサック(コンドーム)の数は3,210万個、この数から1日のサックの使用量を求め、1人の慰安婦が1日に5人の兵士を相手にした(既に述べています)とすれば、やはり18,000人に近い数字になります。一方、慰安婦たちの民族構成は、日本人40%現地人30%朝鮮人20%その他10%と推算するのが一般的です。この比率で計算すると、朝鮮人の慰安婦は3,600人ということになります。ただ、慰安所を離れ民間に戻ってきた女性たちもいることから、軍慰安婦を経験していた人数はこの倍くらい居るかもしれませんが根拠はありません

 韓国において、日本軍慰安婦の性格を「性奴隷」としてきた学説があります。①日本の吉見義明名誉教授(中央大学;歴史学者)は「慰安婦たちは行動の自由が無く、事実上献金された状態で意図しない性交を強要され、日本軍は彼女達を殴ったりけったりするなど乱暴に扱っており、店主への前借金と増えていく利子に縛られて、お金を稼ぎ貯蓄する機会を持っていなかった、だから日本軍の性奴隷であった」と主張しています。性奴隷説を主張するもう一人の研究者は、②日本の宋連玉教授(青山学院大学経営学部教授;在日朝鮮人二世)です。彼女は「娼妓と酌婦は自由意思で廃業することができず、ならず者の監視のもと、事実上監禁された状態で客と接しなければならず、抱え主の前借金に縛られ、化粧品などを購入する為に借りたお金も利子となって増えていく、耐えられない隷属状態にあった」と主張しています
 しかし、米軍の捕虜となった慰安婦を尋問した記録などを見ると、「1943年に東南アジアの日本軍は、前借金を償還し、契約期間が満了した慰安婦の帰郷を許可しました。また、朴治根が帳場人として勤めたシンガポールの菊水倶楽部では、1944年の一年間、20人余の慰安婦のうち15人が廃業し、朝鮮に帰りました。ビルマのラングーン会館の文玉珠と彼女の同僚5人は、共に許可を得て慰安所を出ました。この様に慰安所の居住は、本人の選択による流動性を特徴としていました著者の李栄薫氏は、吉見義明名誉教授宋連玉教授の「性奴隷」という主張は、然るべき証拠が提示されたことが無い先入観に過ぎない」と結論づけています

 上述の宋連玉教授は、性奴隷説を民間の公娼制にまで拡張していますが、これは納得しがたい主張です。1924年、道家斉一郎という人が、平安北道(北朝鮮の西側地域)を除く朝鮮全域に居住する娼妓、芸妓、酌婦の移動状況を調査したことがあります。これによると、1924年の1年間、娼妓などとして新規に就業した女性は3,494人でした。一方、廃業して娼妓名簿から削除された女性は3,388人でした。「朝鮮総督府統計年報」によると、1923年に全国に居住した娼妓、芸妓、酌婦の総数は7,527人でした。従って、1924年に廃業した娼妓等は45%になります。平安北道が除かれている為、実際の廃業率はもっと高かったはずです。このことから、娼妓等の勤続期間は2年6ヶ月程度であることが推算できます。勿論、不運にも売春業から抜け出せなかった女性たちもいました、娼妓として10年以上に及んだ人も、人生に絶望して自殺した女性もいました。しかし、その人数を誇張したり、売春業の実態を覆い隠したりすることがあってはならないと、著者の李栄薫氏は言っています

3.米軍統治時代・ 韓国独立後の の慰安婦(1945年~)
 慰安婦制は日帝の敗北と共に消えたわけではありません。韓国軍慰安婦米軍慰安婦民間慰安婦の形態で存続しました。1946年日本が移植した公娼制が廃止されましたが、民間の売春業は私娼制に変わっただけでした
 朝鮮戦争による破壊と混乱の中で、性売買に従事する女性が日帝時代の10倍にもなりました。労働強度は日本軍慰安婦時代とさほど変わらないにもかかわらず、国家からの保護が無い為、所得水準は下がりました。また、私娼街の暴力は、その時代の文化でした。彼女たちの健康状態は最悪でした。1959年、ダンサー、慰安婦、接待府、密娼の性病感染率は26%にものぼりました。女性達の体がどれほど虐待されたかは、以下の表を見ればよく分かります;

群山市慰安婦の人工中絶回数の記録_1964年

 基地村の慰安婦の抱え主は、妊娠した慰安婦に中絶を強要しました。この当時の基地村の慰安婦たちは、妊娠と中絶の恐怖に無防備に晒されていました。これに比べれば、日本軍慰安婦は保護された境遇にありました。前述の朴治根の日記に出てくる女性たちの妊娠件数は、ビルマで1件、シンガポールでも1件に過ぎません

米軍基地村慰安所風景_1965年


4. 韓国挺身隊問題対策協議会(以下”挺対協”)の活動史

 1990年から、慰安婦問題がどの様に展開していったか分析するには以下の3者のプレーヤーの活動に注目するひつようがあります:挺対協、 韓国政府、 日本政府 
① 1990年11月に挺対協が結成されました。メインメンバーは、1970年以来妓生観光を告発、批判してきた韓国協会女性連合会と、慰安婦問題を研究してきた梨花女子大学(韓国ソウル)の尹貞玉教授です。二者は1988年から一緒に慰安婦問題を扱ってきました。彼らは、慰安婦の足跡を探す目的で、沖縄、九州、北海道、東京、埼玉、タイ、パプアニューギニアなどを踏査したあと、1990年1月、「ハンギョレ新聞」は「挺身隊、怨魂の足跡の取材記」を4回に亘って連載しました。「怨魂」とは、「朝鮮人女性たちが日本軍によって戦争中に慰安婦として使役され、敗戦の時に虐殺された」という意味です。彼らは、慰安婦を挺身隊と間違えるほど事実関係を知らないにもかかわらず、日本による慰安婦虐殺という先入観をもって活動を開始しました
 挺対協を組織する前から日本政府に、慰安婦の強硬連行の事実認定謝罪を要求する書簡を出していました。日本政府が慰安婦の強制連行を否認すると、大々的に世論化する必要性を感じ、原爆被害者を中心に慰安婦被害生存者を探し「金学順」と出会いました。1991年8月14日、金学順証言を発表することに成功します
 次いで12月には文玉珠、金福善の証言を発表することに成功し、済州島での慰安婦狩り
を書いた吉田清治の書いた本がこれに油を注いだ結果となり、連日のように新聞の紙面を覆いました

② 1992年1月11日、日本の中央大学の吉見義明教授(当時)が防衛研究所の図書館から得た資料(「陸支密大日記・軍慰安所従業婦等募集に関する件」;昭和13年3月4日、陸軍省兵務局兵務課起案、北支那方面軍及び中支那派遣軍参謀長宛)から日本政府が慰安婦の募集と慰安所の運営に関与したと発表しました。これは、それまでの日本政府の公式な立場を否定するものでした。挺対協は、日本政府の責任が明らかになった以上、謝罪と補償、それから徹底した真相解明を要求しました。1992年1月17日に訪韓した宮沢喜一首相は、韓国の国会で慰安婦問題に対して謝罪を行いました。

③ 1992年7月、日本政府は「慰安婦第一次調査報告書」を発表しました。軍慰安婦募集に日本政府が関与したことを認めながら、強制連行の証拠は発見されていないという内容でした。これを受け、加藤紘一官房長官は謝罪を行なうとともに、何らかの措置を取ることを明らかにしました。同年12月から第二次調査を実施し、1993年8月に報告書を発行しました。日本政府は、軍部が慰安所の設置、経営、管理、慰安婦の移送に直接・間接的に関与したことを認めました  
  1993年8月4日、慰安婦関係関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話(通称”河野談話“)を発表。しかし、挺対協は、この謝罪を拒否

1992年8月、挺対協は、国連人権委員会小委員会の委員たちに、日本軍慰安婦が「現代型奴隷制」であると宣伝・ロビー活動を行いました。小委員会は、娼婦問題を主題にして、1996年~1998年に「戦争中の組織的強姦、性奴隷制及び類似奴隷制に関する報告書を発表しました。日本軍慰安所は「強姦センター」であり、国際法に違反している、という内容でした。挺対協の宣伝の結果、国連人権委員会女性暴力問題に関する特別調査報告官を任命しました。1996年、この報告官が「戦争中、軍隊の性奴隷問題に関する調査報告書」を発表しました。
 当時、ユーゴスラヴィアで内戦が起き、「民族浄化」と呼ばれるほどの殺傷、強姦と強制妊娠などが行われていて、セルビア系の兵士たちがボスニア系の女性たちを集団暴行した事件で、日本軍慰安所もそのようなものと一緒にされ、女性に対する戦争中の性暴力、戦争犯罪と見なされました

韓国政府は、挺対協と違って河野談話を肯定的に評価しました。慰安婦被害に関する補償、賠償については、1965年の請求権協定によって新たな対日請求は要求できない、という立場で、金泳三政権は韓国政府で元慰安婦を支援することに決めました。1993年6月、「慰安婦被害者に対する生活安定支援法」が制定され、生存慰安婦申告者121人に対して生活安定金500万ウォン(約50万円)と毎月の生活支援金15万ウォン(約1万5千円)、」及び永久賃貸住宅優先入居権を提供しました。日本政府法的賠償ではない、道徳的責任という趣旨で慰労金を支給することに決定しました。
 解放50周年にあたる1995年8月15日、村山富市首相が、所謂「村山談話」を発表しました

⑥ その後、日本政府は「女性のためのアジア平和国民基金(以下”国民基金”)」を設置しました。日本企業と国民から募ったお金で財団法人を組織し、その基金から慰安婦一人当たり200万円の慰労金を支給し、日本政府は政府資金で医療費の支給財団運営費を支援することとしました
 しかし、挺対協はこれを拒否。慰安婦を支援している挺対協が反対するので、韓国内では元慰安婦たちが公に日本の国民基金を受け取りずらくなりました。そこで国民基金は、財団の基金を受領した名簿を公開しないこととし、1997年に7人に対して慰労金の支給を始めましたが、激しい抵抗にあって1998年事業を中断、結局2002年には韓国内での慰労金支給を終結しました。日本の国民基金は、2007年に解散するまで、総計364人に慰労金を支給し、推定慰安婦7百余人のうち半分程度は受け取ったことになります(支給率40%という説もあります)。基金の民間募金額は5億7千万円、総費用は46億2千百万円ですので、費用の90%は日本政府が負担したことになります
 韓国政府金泳三政権)は、挺対協主導の世論に押され、当初の了解を違え日本の国民基金の支給に反対しました。その結果、韓国政府は、国民基金以上の額の個別慰労金を支給することにしました。1998年に誕生した金大中政権は、慰安婦申告者186人に、1人当たり3,800ウォン(約380万円)を支給しました。その際、国民基金を受け取った元慰安婦には韓国政府のお金は渡さないことにしました

⑦ その後挺対協は、慰安婦問題の国際問題化するための努力を続けました。海外の人権団体と共に、2000年に「東京模擬法廷」を開廷し、慰安婦国際戦犯裁判を行いました。この法廷で、昭和天皇などに強姦と性奴隷犯罪の有罪判決を下しました。また、2007年には米下院と欧州議会で、日本政府に慰安婦問題解決を促す決議案を出させることにも成功しました

挺対協は、韓国内でも慰安婦に対する世論づくりを続け、2011年12月には、水曜集会1000回目を記念してソウル市の日本大使館前に慰安婦少女像を建て日本政府に対する圧力を強めました
 韓国政府李明博政権)は、大使館前の慰安婦像設置が、大使館の保護などを規定したウィーン条約22条2項に違反しているにもかかわらず、何の対応も行いませんでした

慰安婦像

⑨ 2006年に、元慰安婦たちは、日本軍慰安婦の賠償請求権問題の解決を図ってこなかったことは基本権侵害で憲法違反だと憲法裁判所に訴えて出ました。2011年に憲法裁判所は「韓国政府が日本軍慰安婦の賠償請求権に関する韓日間紛争を解決しようとしなかったのは違憲」という判決を下しました
 そこで、韓国政府朴槿恵政権)は、日本政府と水面下で交渉を重ね、韓国の外交通商部長と日本の外務大臣の間で慰安婦合意案を発表しました。また発表の夜、安倍晋三首相と朴槿恵大統領との首脳会談で合意を確認しました。合意内容は、日本政府から10億円の慰労金を貰って財団を設立し、個別被害者に慰労金を支給し、これを以て日韓両国間で「最終的かつ不可逆的に解決することを確認」し。「国際社会において、本問題について互いに非難・批判することは控えると約束しました
 この合意に対して、 挺対協が強く反発しました。しかし、朴槿恵政権は、2016年に「和解・癒し財団を設立し、被害者個人に対する慰労金支給を実行に移しました。これで相当数の元慰安婦と遺族が一人当たり1憶ウォン(約5千万円)の支給を受けました。2018年11月の時点で、癒し金を受け取った元慰安婦は34人、約2千万ウォン(約200万円)を受け取った遺族は58人。しかし、挺対協はこれにも反発を続けました

朴槿恵政権が倒れたあと、韓国政府文在寅政権)は、2018年11月に「和解・癒し財団」を解散し、2015年の合意も正式に破棄し、再交渉も要求せずに合意事項を無効化しました
 2016年12月、一部の元慰安婦と遺族の20人は、「精神的かつ肉体的苦痛を強要された」と日本政府に対して総額30億ウォン(約3億円)を求める訴訟をソウル中央地方裁判所に起こしました。これに対して日本政府は、「国家は、同意なしに他国の裁判所で被告になることはない」という国際法上の主権免除の原則に基づき拒否しました。1919年5月初め、裁判所は審理を開始することを決定しました

<参考>
 日本政府がこれまでに行ったってきた慰安婦に対するお詫びの内容については、今年1月に発行した私のブログ(日韓関係について勉強してみました)をご覧になってください

Follow_Up:月間文芸春秋の1月号に”韓国高校生は「反日教育」に反対します“というインタービュー記事がでていました

おわりに

 この本を読んだ後、正直に言って「暗澹たる気持ち」になりました。特に、慰安婦問題は、ここ迄こじれると解決の糸口も見いだせないような気がしました。現在50万人近くの在日朝鮮人(韓国籍+北朝鮮籍)が国内に住んでおり、更に日本に帰化した朝鮮人、婚姻によって日本人姓を名乗っている人も相当数在住していることを考えると、少なくとも同じ自由主義圏にいる最も近い隣国であり、文化の繋がりも強い韓国の国民と、永久に和解できないのではないかと悲観的になってしまいました
 日本が辿ってきた負の歴史を覆すことはできないことは言うまでもありませんが、その反省を基に、度々行われてきた日本政府トップによる「お詫び」と、日本政府や韓国政府によって慰安婦やその遺族に支給されてきた多額の慰労金によっても解決できていないのが現実の姿です

 ことの発端は、軍慰安所の設置に日本軍が関わっていたという当り前の事実を、当初日本が正式に認めていなかったことと、吉田清治という日本人が、自身で慰安婦を強制連行したというウソを本を書いたことにあると思われます。また、挺対協による執拗な韓国内や世界に対する世論操作が、日本軍慰安婦問題を解決不能の様な現在の状況に追い込んだことも確かです。しかし、戦争が終結してから40年以上経過してからこうした戦争の負の側面が表面化し、反日の巨大なうなりになっていることは、世界史的に見ても異常であるに違いありません

 この本の6人の著者は、この原因が日本にあるのではなく、韓国特有の種族主義にあると言っており、我々日本人にとってはそれなりに説得力があると思います。しかし、彼ら積み上げてきた実証作業のみによって、韓国で現在もなお行われている間違った歴史教育を正し、韓国世論の状況を変えていくのは中々困難であると思います
 そこで、日本としても、この本が韓国で出版されベストセラーになっている機を捉えて、現在の韓国の政治、社会状況を変えていく手伝いをしなければならないのではないでしょうか。少なくとも挺対協による執拗な国際世論操作を今後も許すことがあってはならないと思います。戦争の負の遺産を声高に主張することは日本人の得意とするところではありませんが、外務省を通じて間違いは間違いとして国際世論に積極的に訴えていく努力が必要になると思います

Follow_Up:週刊ポスト2020年1月3日・10日号に韓国の若者、北朝鮮が好きで日本には「恨」の感情抱く絶望_井沢元彦という記事が出ていました

Follow_Up:ニューズウィーク日本版2020年2月11日号にという日本文化に惚れ込んだ韓国人たち記事が出ていました

以上

 

 

 

 

 

 

 

日韓関係について勉強してみました

はじめに

韓国に文在寅大統領が就任してから、日韓関係は以下の事例をきっかけとして急速に悪化してきました;
* 長い間紛争の種になっていた従軍慰安婦問題を、最終的に解決することになっていた朴槿恵大統領との間の「日韓合意」が、実質的に破棄(「和解・癒やし財団」の解散)されてしまいました

* 戦時中の「徴用工」に係る問題については、1965年に調印された「日韓基本条約」と5億ドル(当時1ドル=約360円)に上る「経済協力金」で解決済みとなっていた個別の徴用工に対する賠償金に関し、韓国最高裁で当時の日本企業に対する支払いを命ずる判決がでました

* 日本の能登半島沖(日本のEEZ内)で韓国漁船の救助活動をしていたとされる韓国海軍艦艇から海上自衛隊の哨戒機が火器管制レーダーの照射を受けました。また昨年から、突如として国際法に基づいて海上自衛隊の艦船に掲げられる晴天旭日旗を下ろすよう求められるという問題も起き、日韓の対北朝鮮防衛に係る同盟関係に亀裂が発生しています

こうした背景からと思われますが、最近日本国内においては嫌韓感情の高まり、韓国においても反日感情が高まっていることはほぼ間違いの無いことだと思われます。
一般の日本人には、長い時間をかけてようやく合意が成った条約や国際協定が、国内政治の風向きが変わったことによって簡単に踏みにじられることや、一般の日本人の歴史認識をなじられ続けることに我慢がならないことと思う人は少なくないと思われます

一方、日本には、現在50万人近くの在日朝鮮人(韓国籍+北朝鮮籍)が住んでおり、更に日本に帰化した朝鮮人、婚姻によって日本人姓を名乗っている人も相当数在住していることは間違いありません。また、特に芸能やスポーツの分野では、朝鮮をルーツにしている人が非常に多く活躍していると言われています。これらの人々が現在肩身の狭い生活をしていることは想像に難くありません
また、現在各種のSNSを通じて憶測記事や、徒に嫌韓感情をあおる記事がインターネット上に溢れています。こうした状況は、日中戦争や太平洋戦争が始まる前に日本のマスメディアが“中国人を蔑む記事”や、“鬼畜米英云々の記事”で大衆を煽った状況を思い出させます
私自身、小学校低学年の頃、朝鮮籍だったと思われる同級生を、みんなで「朝鮮人は可哀そう」とはやし立てていたところ、この朝鮮籍の同級生の兄か親戚と思われる上級生にこっぴどく殴られたという恥ずかしい体験があります

いま一番必要なことは、こうした状況になった背景を含め、できるだけ正確な情報を得る努力を行い、不正確な情報に付和雷同しないようにすることではないでしょうか。以下に、私自身の頭の整理の為に勉強したことを率直に書いてみたいと思います

日韓愛憎?の歴史・クイックレビュー

① 白村江の戦い(663年)
660年、唐・新羅の連合軍との戦いによって百済は滅亡しましたが、百済の遺臣鬼室副信(きひつふくしん)は百済再興を目ざして挙兵するとともに使者を日本に派遣して救援を求めました
大和朝廷は直ちにそれに応じ、661年斉明天皇みずから西征し筑紫に到着しました。しかし、同年7月天皇が崩御したため渡海は延期されました。その後、斉明天皇の後を引き継いだ中大兄皇子(大化の改新の主役、後の天智天皇)は、翌年正月、阿曇比邏夫連(あずみひらぶむらに)らを船師(船頭)170艘を使って渡海させ、鬼室副信らを救援しました。
さらに663年には、2万7千人の増援軍を派遣しました。これに対して新羅は唐に増援軍を求めた結果、唐から7千人が派遣されました

白村江の戦い
白村江の戦い

大和の軍船が、百済の遺臣らの籠る周留城をめざして、錦江下流の白村江の河口に乗りこんだとき、そこには唐と新羅の連合水軍170艘が待ち構えていました。8月27日、両軍の戦端がひらかれ翌28日には勝敗が決しました。大和の水軍は、待ちうけた唐と新羅の連合軍に挟み打ちになり、朝鮮の三国史記の記述によれば、「船は火災につつまれて次々と沈没、海に呑まれる兵士は数知れず、炎は天を焦がし、海の水は朱に染まった」という惨状でした

敗戦の悲報は翌月には早くも那の津(博多港)の本営にもたらされました。半信半疑で、誤報であれかしと一縷の望みをつなぐ人々の前に、やがて散り散りになった敗残兵と亡命の百済人たちが、那の津の海に引き上げてきました

② 蒙古来襲(文永の役:1274年、弘安の役:1281年)
元の日本遠征軍は、蒙古人・高麗人・漢人・女真人(満州人)により組織されていた連合軍でした

元寇
元寇

日蓮上人の遺文を集めた「遺文録」には、「去文永十一年(太歳甲戊)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者カタメテ有シ、総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)、、、」とあり、無差別に島民を惨殺していたことが分かります。壱岐・対馬を襲った遠征軍は、そのルートから考えて高麗人が多かったことは疑いの無いことです

③ 倭寇の跋扈(13~16世紀)
倭寇は、朝鮮、中国の海岸で活動した海賊で、主として九州沿岸の日本人であったといわれています。倭寇の活動期は、13~14世紀の前期と、15世紀後半から16世紀の後期に分けられます。倭寇は海賊行為だけではなく、明の海禁政策(海上貿易の禁止)の中で貿易の利益をあげようという、中国商人と日本商人の私貿易、密貿易の側面もありました。前期と後期の間の期間は足利幕府と明との間で勘合貿易(両政府の交易許可証を使った正式な貿易)が行われた為、倭寇の活動は抑止されていました

倭寇侵略図
倭寇侵略図

④ 応永の外寇(1419年)
室町時代の応永26年に起きた李氏朝鮮の世宗による対馬侵略を指しています。227隻の船に1万7千人余の兵士を乗せ対馬に上陸したものの、宗定茂以下600人程度の武士の奮戦により百数十人が戦死(崖に追い詰められて墜死を含む)しました。更に逃走しようとした船に火をかけられて李氏朝鮮軍は大敗を喫しました

⑤ 秀吉による朝鮮征伐(文禄の役:1592年~3年、慶長の役1597年~8年)
秀吉が国内を統一した後、更に明に領土を広げようとして行われた戦争で、日本軍約15万人、明・朝鮮連合軍の約25万人が戦った大規模な戦争です。遠征軍は朝鮮全土に及び、戦国時代で培われた秀吉軍の高度な戦争技術を勘案すると、明・朝鮮連合軍には多くの死傷者が出たものと思われますが、正確な数は分かりません

文禄・慶長の役
文禄・慶長の役

京都の豊国神社(豊臣秀吉を祀る神社)の耳塚(殺した明軍、朝鮮軍からそぎ落とし持ち帰った耳、鼻を供養してある)には2万人分が収められているそうです。この耳塚には、今でも多くの韓国人が訪れています

豊国神社にある耳塚
豊国神社にある耳塚

この戦争は、秀吉の死で終わりましたが、戦争に参加した武将たちは、戦利品の代わりに高度な技術を持った陶工を連れ帰りました。これらの陶工が伊万里焼(佐賀県/鍋島藩)、薩摩焼(鹿児島県/薩摩藩)として世界に誇る日本の陶芸技術を今に伝えています。司馬遼太郎の作品に日本に連れてこられた陶工の哀しみが書かれています

文学碑と司馬遼太郎の作品
文学碑と司馬遼太郎の作品

⑥ 朝鮮通信使(1375年~1811年)
朝鮮通信使は、室町時代に始まり、足利将軍からの国書を持った使者の派遣に対する高麗王朝の返礼の意味を持った使者の派遣でした。安土桃山時代にも李氏朝鮮から秀吉に向けて2回使者が派遣されたものの、文禄・慶長の役で国交断絶の状態となった為行われなくなりました。徳川時代に入って李朝朝鮮との間で再開され、1607年の第1回から1811年まで全12回行われました。第1回~第3回目までは、文禄・慶長の役後の日朝国交回復の目的を帯びており、朝鮮人の捕虜の返還などがお行なわれました。その後も、通信使は将軍の代替わりや世継ぎの誕生に際して、朝鮮側から祝賀使節として派遣されるようになりました

朝鮮通信使
朝鮮通信使

規模は随員などを含めて400~500人で、これに対馬藩からの案内や警護の為の1500人ほどが加わる大規模なものでした。尚、幕府からの返礼使は対馬藩が代行しています
2017年11月には、日韓の団体が共同で申請していた「朝鮮通信使に関する記録」がユネスコの「世界の記憶」に選ばれています

⑦ 日朝修好条規(1876年)、日清戦争(1894年~5年)
ロシアからの脅威の防壁として朝鮮を重視していた明治日本は、鎖国している李朝朝鮮を開国させようと交渉したものの拒絶された為、1875年軍艦をソウルに近い江華島に派遣し挑発を行ったところ、狙い通り朝鮮軍が砲撃してきました。明治政府は開戦をちらつかせつつ責任を追及した結果、李朝朝鮮との間で不平等条約である日朝修好条規を締結し、開国させることに成功しました

ビゴーの風刺画
ビゴーの風刺画

その後、朝鮮の宗主国を自認する清国との対立が激化し、1894年日清戦争が勃発し日本が勝利します。1895年の 日清講和条約(下関条約)で朝鮮は宗主国であった清国から離れ、独立国となりました。しかし、ロシアを中心とした三国干渉で日本が遼東半島を清に返還すると、朝鮮の政府内部にロシアと結んで日本の影響力を排除しようとする親露派が形成され、その中心が閔妃(ミンビ/李朝朝鮮の女帝)でした。その動きを危ぶんだ日本の公使三浦梧楼は、1895年10月、公使館員等を王宮に侵入させ、閔妃らを殺害してしまいました(乙未事変

その後、日韓協約_第1次~第3次を通じて日本は財政、外交、内政の実権を握るとともに軍隊の解散を行って保護国化を完成させました。これに対して朝鮮内では軍隊の反乱が起こるなど反日運動が盛り上がりましたが、初代総監(第2次日韓協約に基づく軍事を含む統治組織である総監府の長)となっていた伊藤博文がこの反日運動を抑え込みました
1909年、この反日運動に参加していた安重根はハルピンの駅頭で伊藤博文を暗殺しました。安重根は韓国では英雄として尊敬されています

安重根が収容された監獄@旅順
安重根が収容された監獄@旅順

⑧ 韓国併合(1910年)
併合を実行する前に、列強からの干渉を受けないようにするため、イギリスとは1905年の第2次日英同盟でイギリスのインド支配を認める代わりに日本の韓国支配の承認を受けていました。アメリカとは1905年、桂=タフト協定でアメリカのフィリピン支配と日本の朝鮮支配を相互に承認しました。ロシアとは、1907年の日露協約で満州の分割及びロシアの外モンゴル支配と日本の朝鮮に対する権益の相互承認を行っていました。

1910年8月、韓国の李完用首相に「韓国併合に関する条約」の調印をせまり、ただひとりの閣僚が反対したのみで、閣議は条約調印を承認しました。この条約は、1910年8月29日に公布されています。

⑨ 第一次世界大戦と韓国の独立運動
韓国併合以降、日本による統治に反発した農民達は満州やロシアの沿海州に大挙移住し、同地域で新韓村などの朝鮮人村落が形成されていきました。朝鮮半島内での抗日運動は、朝鮮総督府による厳しい取り締まりにより運動が困難になると、独立運動家達は満州やロシアを独立運動の基地とするようになりました。

その後、第一次世界大戦(1914年~18年)のベルサイユ講和会議の前に、米国のウィルソン大統領は、民族自決主義を盛り込んだ国際政治に係る新しい方針を議会に提出しましたが、これを受けて、植民地となっている国々で民族運動が一気に高まりました

ソウル市・タプコル公園_三一独立運動の記念レリーフ
タプコル公園_三一独立運動の記念レリーフ

1919年3月1日、学生と青年達は京城府のタプコル公園朝鮮独立宣言(ぜひ一度は目を通すことをお勧めします)の朗読を行い、その後数万人の群衆と共に「大韓独立万歳」を叫びながらデモ行進を行いました。これを発端として、三一運動が始まりました。三一運動は、総督府の警察と軍隊の投入による治安維持活動が強化される中でも、朝鮮半島全体に広がり、数ヶ月に渡って示威行動が行われ続けました。3月~5月にかけてデモに参加した人数は205万人、デモの発生回数は1542回にのぼったとされています。しかし、その後総督府が憲兵や巡査、軍隊を増強して武力による弾圧を行った結果、運動は次第に終息していくこととなりました

⑩ 関東大震災時の朝鮮人虐殺事件(1923年)
1923年9月1日の関東大震災によって壊滅的な被害を受け、民心と社会秩序が著しい混乱に陥った状況下で内務省は戒厳令を発し、各地の警察署に治安維持に最善を尽くすことを指示しました。しかし、その時に内務省が各地の警察署に下達した指示の中に「混乱に乗じた朝鮮人が凶悪犯罪、暴動などを画策しているので注意すること」という内容が入っていました。この内容は行政機関や新聞、民衆を通して広まり、朝鮮人や、朝鮮人と間違われた中国人、日本人の聾唖者が殺傷される被害が発生しました。正確な数字は残っていませんが、一説には数千人にのぼるとも言われています

関東大震災・朝鮮人虐殺_読売新聞記事
関東大震災・朝鮮人虐殺_読売新聞記事

⑪ 創氏改名
1939年、朝鮮総督府は、本籍地を朝鮮とする朝鮮人に対し、新たに「氏」を創設させ、また「名」を改めることを許可する政策を施行しました

儒教文化の下にある韓国では、女性は結婚後も他所者として夫や子供の「姓」には加われませんでしたが、個人が申請した新たな「氏」において夫婦一致させることが義務付けられました。約8割の人が日本風の「姓」で「氏」を創設しましたが、金や朴など従来の「姓」を夫婦の「氏」とすることも出来ました。希望する「氏」を許可期間中に届け出なかった場合は、自動的に従来の「姓」が一家の「氏」となりました
尚、台湾においても創氏改名にあたる「改姓名」が実施されましたが、約2%しか改名が行われませんでした

⑫ 日中戦争~第二次大戦(1936年~1945年)
(a) 徴兵制:日中戦争が進行中の1938年から志願兵制度を導入、対米戦争が敗色濃厚となった1944年からは徴兵制が実施されました。徴兵制で動員された朝鮮人は21万人5千人に達し、戦死・行方不明者は2万2千人人以上にのぼるとされています。この中には特攻隊に志願して戦死した方もいます(ネット情報によれば朝鮮人の特攻による死者は17人とされています)。鹿屋や知覧の特攻隊記念館には特攻で戦死した方の写真、遺書などが展示されていますが、私が見学に行ったときには、遺族の方の希望だと思いますが、朝鮮人の特攻隊員の写真は、剥がされていました

特攻隊員の写真@鹿屋基地
特攻隊員の写真@鹿屋基地

(b) 徴用工:徴用工とは、戦時下で労働力の確保が難しくなった段階で、軍需産業を中心に半ば強制的に(強制性については異論もあります)徴用された労働者をいいます。強制労働とは違って賃金は支払われていましたが、派遣された場所によっては過酷な労働を強いられていたこともあったようです。勿論、徴用工は朝鮮人だけでなく日本人もいました(勤労動員、学徒動員、など)

松代大本営_象山地下壕
松代大本営_象山地下壕

戦争末期、松代の象山の地下に巨大な大本営を建設する際にも2600人の朝鮮人徴用工が土木工事に従事しました。突貫工事の為多くの死傷者が出ましたが、記録が廃棄されていたため実数は分かっていません。一説には100人~300人が亡くなったと言われています

松代象山大本営_追悼平和祈念碑
松代象山大本営_追悼平和祈念碑

尚、この問題は、文在寅政権になってから日韓間の軋轢の種になっていますが、韓国政府は日韓基本条約に基づき、過去に2度、元徴用工に個人補償を実施しています。朴正熙政権は2年間で8万4千人余りに現金を支給。盧武鉉政権も2008年以降に追加の支払いを実施しています(2019年7月24日追記:文政権・資産売却を静観_元徴用工問題も対決姿勢

Follow_Up:月刊文芸春秋11月号に徹底討論・徴用工_橋下徹・舛添要一という対談が掲載されていました。徴用工問題に対するより精密な理解をする為に大変有益に議論が展開されています

(c) 従軍慰安婦:従軍慰安婦とは、戦地の軍人を相手に売春する女性であり、現代では、それを批判する人々の視点から「かつて戦地で将兵の性の相手をさせられた女性」との意味で用いられる用語です。戦時中、兵士の性的な欲求を長期間抑止すると、戦地における強姦や殺人などの戦争犯罪が発生する恐れがあること(注1)、また性病の罹患による戦力低下の恐れがあること、などのため軍が非公式にある程度管理に関与する性処理を目的として施設が設けられていましたが、こうしたことは各国の軍隊でも珍しくないことでした。勿論そこで働いている慰安婦には日本人も多くおり対価も支払われていました。朝鮮戦争においても、連合軍や韓国軍の兵士の為にそうした施設が設けられており、米軍・国連慰安婦と呼ばれていました。

平時における倫理的な常識からすれば、決して容認できないことは言うまでもありませんが、これが日韓で政治問題化した背景には、朝鮮人の年若い女性が強制、乃至拉致されて慰安婦にされたということでした。しかし、この強制性の有無については日韓で意見が異なっています(注2)

(注1)「ライダイハン」問題:ベトナム戦争に派遣された韓国軍兵士による現地女性への性的暴行などで生まれた混血児(ベトナム語で“ライダイハン”と呼びます)が沢山いることはよく知られていました。この問題を追及しているイギリスの民間団体「ライダイハンのための正義」は、この混血児の数は1万人以上に達するとしています。1975年にベトナム戦争終結後、共産党政権下で“ライダイハン”は「敵国の子」として迫害され、差別されてきました。同団体は韓国政府に公式な謝罪を求めていますが、現在までのところ韓国政府はこれに応じていません

(注2)「強制性」については日本のメディアが主として新聞記事を通じて報道したことがきっかけになっています。これらの記事の信憑性については、2014年に朝日新聞が第三者委員会を設置し、調査結果を報告しています(詳しく知りたい方は、慰安婦報道に関する第三者委員会報告書をご覧ください)

(d) 被ばく:広島、長崎に原爆が投下されたときに在住して被ばくした朝鮮人は約7万人、内爆死された方が約4万人とされています(被爆者援護法裁判のパンフレットより)

 終戦後満州、朝鮮に残された日本人に対する迫害
1945年8月の終戦時、敗戦国民となって満州、朝鮮に取り残された日本人は161万人も居ました。在留日本人の引き上げについては、多くの体験談や小説で書かれているように大変な困難を伴いました。中でも戦勝国となった国(ソ連、中国だけでなく朝鮮も含む)の人々から受けた暴行、凌辱は敗戦国民であるが故に告発されることもなく、帰国してからも内地の人に語ることもできない深い心の傷として残されています。引き揚げてきた女性の内、強姦によって妊娠してしまった女性は、故郷に帰る前に舞鶴など引揚船の到着港で密かに堕胎の手術を行っていたことが、最近になってテレビのドキュメンタリー番組で放送されています。
参考:母方親族の戦争体験「麻山事件」を読んで

⑭ 朝鮮戦争(1950年~53年)
(a) 朝鮮人にとって同胞同士が殺しあう悲惨な歴史
韓国軍、北朝鮮軍、民間人併せて約350万人が死亡したと言われており、1953年の休戦によって戦火は収まりましたが、北緯38度線の休戦ラインによって南北に引き裂かれた家族、親戚が大勢おり、韓国、北朝鮮国民の悲惨さは筆舌に尽くせないものがあります
朝鮮戦争の全体像を知るには以下の本が有用です;

朝鮮戦争関連資料
朝鮮戦争関連資料

朝鮮戦争の謎と真実」はソ連邦崩壊後、機密文書が公開され、その中に開戦に係る金日成とスターリン間の往復書簡、と金日成と毛沢東間の往復書簡が多く含まれており、戦争がどのように準備され、開始されたかかが良く分かります。毛沢東が戦争開始に消極的だった理由が日本の参戦の可能性にあったという中々興味深い話も入っています
また「朝鮮戦争」は、マッカーサーの後任で連合国最高司令官になったマシュウ・B・リッジウェイの回顧録で、如何に朝鮮戦争という激しい戦いが行われたかを、最高司令官の冷静な視点で語られています

(b) 朝鮮特需
朝鮮民族にとって悲惨な戦争が行われている一方で、米軍を主体とした連合軍からの軍事特需は36億ドルに達したと言われており、未だ敗戦後の荒廃(生産の極度の低下と悪性インフレ)の中にあった日本にとっては復興のカンフル剤となりました。因みに国民総生産、個人消費は、戦争が始まった1951年度には既に太平洋戦争前の水準を超え、その後の日本の急速な経済成長がここから始まったと言えます。見方を変えれば、朝鮮民族の犠牲を基に戦後の日本の経済復興が行われたと言えなくもありません

尚、余り知られていないことですが、朝鮮戦争当時、連合国軍の要請(事実上の命令)を受けて、元海軍軍人や民間船員など8千人以上が国連軍の掃海作戦(海中に敷設された機雷の除去)に参加させられ、開戦からの半年の間に56名が戦死?しています。

⑮ 李承晩ライン、竹島の実効支配
サンフランシスコ平和条約(1951年9月署名、1952年4月発効)により日本は主権を回復しました。初代大統領・李承晩は、この条約により、戦後アメリカが日本漁業の操業区域として設定した「マッカーサー・ライン」が無効化されることを見越して1952年1月の大統領令「大韓民国隣接海洋の主権に対する大統領の宣言を発し海洋境界線を独断で設定しました。この境界線のことを李承晩ラインといいます

李承晩ライン
李承晩ライン

アメリカは1952年2月、韓国政府に対して李承晩ラインを認めないと通告したものの、韓国政府はこれを無視しました。
尚、この李承晩ラインの韓国側にサンフランシスコ平和条約でも日本領とされている「竹島が入っており、その後の韓国による実効支配のもとになっています。
当時、未だ海上自衛隊はもとより海上保安庁も発足していなかった日本は、この海域内で漁業を行った漁民が臨検拿捕・接収銃撃を受けても為す術はありませんでした。日韓基本条約、日韓漁業協定の締結(1965年)により、李承晩ラインが廃止されるまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は3929人拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人にのぼりました。抑留者は6畳ほどの板の間に30人も押し込まれ、僅かな食料と30人が桶1杯の水で1日を過ごさなければならないなどの悪な抑留生活を強いられたと言われています

⑯ 日韓基本条約、経済協力協定
サンフランシスコ平和条約に参加していない韓国との国交回復は、1951年の第1回交渉から14年間に及ぶ長い交渉となりました。
日本は、⑦で述べた韓国併合の際の韓国議会の承認を経た「韓国併合に関する条約」が国際法上有効な条約であり、植民地支配ではなく合法的な併合であることから賠償は不要であるとの立場をとり交渉は難航しました。最終的には韓国の朴正煕大統領が、賠償なのか支援なのかは問わず、日本からの無償三億ドル・有償二億ドルの提供を受けると言うことで曖昧な妥協を行い、1965年6月に交渉は決着しました。

(a) 日韓基本関係条約のポイント
第二条 1910年8月22日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される
第三条 大韓民国政府は、国際連合総会決議第195号に明らかにされているとおりの朝鮮にある唯一の合法的な政府であることが確認される
第四条 両締約国は、その貿易、海運その他の通商の関係を安定した、かつ、友好的な基礎の上に置くために、条約または協定を締結するための交渉を実行可能な限りすみやかに開始するものとする

(b) 経済協力協定のポイント
第二条の1:両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、1951年9月8日にサンフランシスコ市で署名された日本国との平和条約第4条(a)に規定されたもの(日本の在外資産の請求権放棄)を含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する

⑰ 金大中拉致事件(1973年)
1973年8月8日、韓国の民主活動家、政治家で、のちに15代大統領となる金大中が、韓国中央情報部 (KCIA) により千代田区のホテルグランドパレス2212号室から拉致されたあとソウルで軟禁状態に置かれ、5日後にソウル市内の自宅前で発見された事件です。

ここで日本の警察は、拉致された部屋から在日韓国大使館の金東雲一等書記官の指紋が検出され、事件に関与していたとして韓国側に任意出頭を求めましたが拒否されました。その後、韓国政府は「金書記官が帰国したことを認めましたが、事件には無関係」との態度を貫き通しました
このまま膠着状態が続けば、両国関係は深刻な外交的亀裂を生じる可能性もあり、事件発生直後は、極力政治レベルの問題にしないように対処しつつ、その後暫くして日本政府は「お互い独立国家として、長期の友好関係を考慮する必要がある」として、事態打開のために、高度の政治判断により曖昧なままに決着させることにしました

⑱ 慰安婦問題に関する日韓合意(2015年)
2015年12月28日にソウルの外交部で行われた岸田文雄外務大臣と韓国の尹炳世外交部長官による外相会談後の共同記者発表日韓両国はこの合意の際に公式な文書を交わさないこととしましたで以下について合意したことを発表しました;
①両外相は「日韓間の慰安婦問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する
② 韓国政府が元慰安婦支援のため設立する財団に日本政府が10億円を拠出し、両国が協力していくことを確認
③日韓両政府が今後国際連合など国際社会の場で慰安婦問題を巡って双方が非難し合うのを控える
④ソウルの在韓日本国大使館前に設置されている慰安婦像について「日本政府が大使館の安寧・威厳の維持の観点から懸念していることを認知し、韓国政府としても可能な対応方向について関連団体との協議を行うことなどを通じて適切に解決されるよう努力する」と表明。

共同記者発表に於ける岸田外相の発言「当時の軍の関与のもとに多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、日本政府は責任を痛感している」。安倍晋三首相も日本国の首相として「改めて慰安婦としてあまたの苦痛を経験され心身にわたり癒やしがたい傷を負われた全ての方々に心からおわびと反省の気持ちを表明する
共同記者発表に於ける尹長官は「両国が受け入れうる合意に達することができた。これまで至難だった交渉にピリオドを打ち、この場で交渉の妥結宣言ができることを大変うれしく思う」と発言、これを受け岸田外相もソウル日本大使館前の慰安婦像の扱いについて「適切に移転がなされるものだと認識している」として慰安婦問題に終止符を打った」と語った

第二次大戦後の韓国の政治状況

韓国の政治の特異な点は、初代の李承晩大統領から第18代の朴槿恵大統領に至るまで、殆どの大統領は、任期中、あるいは退任後に政敵により失脚、乃至重罪を課せられています。詳しくは、以下をご覧ください;

㋑ 李承晩(第1代~第3代) 1948年~1960年
第二次大戦後、独立運動に参加。アメリカの支援を受けて大韓民国を設立しました。不正選挙を行い、革命で失脚後にハワイ亡命。その後、母国に戻れずハワイで客死

㋺ 尹潽善(第4代) 1960年~1962年
ソウル市長を歴任後、李承晩政権後に大統領に就任するものの、クーデターにより大統領辞任。その後は野党の総裁として活動するも、軍法会議にかけられ、「憲法の秩序を乱した活動」として懲役3年の実刑判決を受けました

㋩ 朴正煕(第5代~第9代)1963年~1979年
日本統治下の朝鮮に生まれ、創氏改名で高木正雄と名乗りました。後に軍人になり、満州国陸軍士官学校に志願入隊しました。卒業後は成績優秀者が選抜される日本の陸軍士官学校への留学生となり、第57期生として日本式の士官教育を受けました。帰国後は満州軍第8団(連隊)副官として八路軍や対日参戦したソ連軍との戦闘に加わり、内モンゴル自治区で終戦を迎えました。

第二次世界大戦後、中国の北京に設置されていた大韓民国臨時政府(朝鮮系住民による独立組織)に加わり、朝鮮半島の南北分離時には南部の大韓民国を支持して国防警備隊の大尉となりました。国防警備隊が韓国国軍に再編された後も従軍を続け、朝鮮戦争終結時には陸軍大佐にまで昇進、1959年には陸軍少将・第2軍副司令官の重職に就きました

内戦を終えた韓国内では議会の混乱によって復興や工業化などが進まず、また軍内の腐敗も深刻化していた為、軍の将官・将校・士官らの改革派を率いてクーデターを決行し軍事政権(国家再建最高会議)を成立させました(5.16軍事クーデター

その後、形式的な民政移行が行われた後も実権を握り続け、自身の政党である民主共和党の大統領に就任しました。就任後は、日本の佐藤栄作内閣総理大臣との間で日韓基本条約を締結して日韓両国の国交を正常化するとともに、アメリカのジョンソン大統領の要請を受けて1964年にベトナム戦争に韓国軍を派兵しました。日米両国の経済支援を得て「漢江の奇跡」と呼ばれる高度経済成長を達成しました。1979年韓国中央情報部の部長の金載圭によって暗殺されました。朴槿恵韓国大統領の実父。長男(朴槿恵の弟)は麻薬により数回逮捕歴があります。

㋥ 崔圭夏(第10代)1979年~1980年
朴正煕大統領の暗殺により、首相であった崔圭夏が大統領代行に就任しまし、その後そのまま大統領に就任しました。
しかし、朴正煕大統領の暗殺後、「ソウルの春」と呼ばれる民主化ムードが続いていましたが、軍部では維新体制の転換を目指す上層部と、朴正煕に引き立てられた中堅幹部勢力(一心会)との対立が表面化していました。1979年12月12日、保安司令官全斗煥陸軍少将が、戒厳司令官の鄭昇和陸軍参謀総長を逮捕し、軍の実権を掌握しました(粛軍クーデター)。全斗煥が率いる新軍部は1980年5月17日、全国に戒厳令を布告し、野党指導者の金泳三、金大中や、旧軍部を代弁する金鍾泌を逮捕・軟禁しました(5.17非常戒厳令拡大措置
光州事件:このクーデターに抗議して学生デモが起きましたが、戒厳軍の暴行が激しかったため、これに怒った市民が参加しデモ参加者は約20万人にまで増え、木浦をはじめ全羅南道一帯に拡がりました。市民軍は武器庫を襲うと、銃撃戦の末に全羅南道道庁を占領する事態にまでに過激化しましたが、5月27日に政府によって鎮圧されました。この時の犠牲者は193人に上ると言われています

光州事件
光州事件

結局、こうした政治情勢のなかで崔圭夏は主導権を握れないまま辞任しました

㋭全斗煥(第11代、第12代)1980年~1988年
日本の陸軍士官学校に入学した軍人出身。在任中は暗殺未遂事件(ラングーン爆弾テロ事件)に遭い、北朝鮮による大韓航空機爆破事件も発生するなど、北朝鮮との関係が緊張した時代でした。言論統制や戒厳令を発令するなど強権的な面があり、ライバル関係にあった後の金大中大統領に死刑判決を出すなどしました。しかし退任後は民主化デモの鎮圧・市民の虐殺(光州事件)、不正蓄財の罪で死刑判決を受けたものの、かつてのライバルであった金大中大統領に恩赦されました。

尚、特筆すべきことは、全斗煥は、韓国の歴代大統領としては初めて、朝鮮半島が日本の領土となったことは、自分の国(当時の大韓帝国)にも責任があったと認め、当時日本でも大きく報道されました。また、1981年8月15日の光復節記念式典の演説では、「我々は国を失った民族の恥辱をめぐり、日本の帝国主義を責めるべきではなく、当時の情勢、国内的な団結、国力の弱さなど、我々自らの責任を厳しく自責する姿勢が必要である」と主張しています

㋬ 盧泰愚(第13代)1988年~1993年
軍人出身で、陸軍士官学校で全斗煥と同期。大統領在任中は前大統領の全斗煥の不正を追求するも、退任後は過去のクーデターに関連したとされ、更に不正蓄財などにより懲役17年の実刑判決を受けました

㋣ 金泳三(第14代) 1993年~1998年
30年以上続いていた軍事政権を終わらせ、献金を一切受け取らないなど不正の撤廃を徹底日本に対しては強気の姿勢で発言して国民に人気がありました。大統領の任期終盤にはアジア通貨危機が発生し、IMF支援を要請するなど経済が混乱しました。また次男があっせん収賄と脱税で逮捕されたこともあり国民からの人気が低迷しました

㋠ 金大中(第15代) 1998年~2003年
野党の有力政治家として朴正煕大統領から狙われ、民主化運動に取り組んでいる東京滞在中、ホテルから拉致される(金大中事件)など、活動が制約されました。その後も民主化の流れのなかで死刑判決を受けてアメリカに出国するなどしたものの、全斗煥大統領から政治活動再開を許されて帰国。

大統領就任後は経済立て直しに力を入れ、サムスンやヒュンダイなどを世界的企業にするなどの成果を上げました。北朝鮮との対話政策を進めて、ノーベル平和賞を受賞しました。尚、息子3人は共に賄賂で逮捕されています。

㋷ 盧武鉉(第16代) 2003年~2008年
韓国では初の第二次大戦以降に生まれた大統領で、日本の統治時代も未経験の世代。貧農の生まれながらも弁護士として成功し、政界に進出。全斗煥への不正追求で、一気に有力政治家になりました。大統領就任後は支持率が伸び悩み、対日政策においても強硬路線を通しました。退任後は親族や側近が不正疑惑で相次いで逮捕され、自身も捜査対象になった最中、自宅の裏山のミミズク岩と呼ばれる崖から投身自殺しています。

㋦ 李明博(第17代)2008年~2013年
大阪市の平野区で韓国人の両親のもとに生まれ日本名を月山明博といい、帰国後は苦学の後に大学を卒業しました。学生による民主化運動に関わって就職に困ったなかで、社員数十人だった「現代建設」に入社。27年後の退職時には社員数16万人の大企業に育て上げた実績があり、立身出世」の人物として高い人気がありました。ソウル市長を歴任後、大統領に就任し、日本に対して強硬路線(竹島上陸・天皇への謝罪要求)を通しました

李明博・竹島上陸
李明博・竹島上陸

退任後は収賄により国会議員の実兄があっせん収賄で逮捕され、自身も土地の不正購入などの疑惑があり、李明博の長男も捜査対象になりました。また、国家情報院からの裏金上納、世論操作などの疑惑も上がっています。2018年3月ソウル中央地裁は李明博元大統領に対する逮捕状を発行しました

㋸ 朴槿恵(第18代) 2013年~2017年
朴正煕元大統領の長女で1952年生まれ。韓国初の女性大統領。両親ともに暗殺されています。2015年年12月28日の日韓外相会談で日韓間の慰安婦問題の最終的かつ不可逆的な解決を確認しました。その後、民間人への機密漏洩問題などで弾劾訴追され、2017年3月大統領を罷免されました。その後、2018年8月24月、ソウル高裁で懲役24年の実刑判決を受けています

「お詫び」の歴史

1965年の日韓基本条約・經濟協力協定締結後も、歴代首相、天皇・皇太子は以下の様に韓国への「お詫び」を繰り返しています(中国、その他の東南アジア諸国への“お詫び”を除く);
① 1984年9月、全斗煥大統領が国賓として初訪日した際の歓迎の宮中晩餐会に於ける 昭和天皇の発言 「、、今世紀の一時期において、両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならないと思います
② 1984年9月、全斗煥大統領歓迎の首相主催の晩餐会における曽根康弘首相の発言「、、貴国および貴国民に多大な困難をもたらした、、、深い遺憾の念を覚える、、、」

③ 1990年5月、盧泰愚大統領が国賓として初訪日した際の歓迎の宮中晩餐会で、平成天皇は、①の昭和天皇の言葉を引用しつつ「我が国によってもたらされたこの不幸な時期に、貴国の人々が味わわれた苦しみを思い、私は痛惜の念を禁じえません」と発言しています
④ 1990年5月、盧泰愚大統領歓迎の首相主催の晩餐会で、海部俊樹首相の発言私は、大統領閣下をお迎えしたこの機会に、過去の一時期,朝鮮半島の方々が我が国の行為により耐え難い苦しみと悲しみを体験されたことについて謙虚に反省し、率直にお詫びの気持を申し述べたいと存じます

⑤ 1992年1月、盧泰愚大統領の2度目の訪日時の晩餐会に於いて、 宮澤喜一首相の発言は「私たち日本国民は,まずなによりも,過去の一時期,貴国国民が我が国の行為によって耐え難い苦しみと悲しみを体験された事実を想起し、反省する気持ちを忘ないようにしなければなりません。私は、総理として改めて貴国国民に対して反省とお詫びの気持ちを申し述べたいと思います」と発言しています
また翌日、「我が国と貴国との関係で忘れてはならないのは、数千年にわたる交流のなかで、歴史上の一時期に,我が国が加害者であり、貴国がその被害者だったという事実であります。私は、この間、朝鮮半島の方々が我が国の行為により耐え難い苦しみと悲しみを体験されたことについて、ここに改めて、心からの反省の意とお詫びの気持ちを表明いたします。最近、いわゆる従軍慰安婦の問題が取り上げられていますが,私は、このようなことは実に心の痛むことであり,誠に申し訳なく思っております

*1993年8月従軍慰安婦に関する河野談話(当時官房長官):いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる

⑥ 1993年11月、細川護煕総理が訪韓し、金泳三大統領との首脳会談を行った際の発言は「わが国の植民地支配によって朝鮮半島の人々が母国語教育の機会を奪われたり、姓名を日本式に改名させられたり、従軍慰安婦徴用など耐え難い苦しみと悲しみを経験されたことに加害者として心から反省し、深く陳謝したい」 その結果として、この年両国間で「未来志向の日韓フォーラム」が創設された

⑦ 1995年7月、村山富市首相発言は「いわゆる従軍慰安婦の問題もそのひとつです。この問題は、旧日本軍が関与して多くの女性の名誉と尊厳を深く傷つけたものであり、とうてい許されるものではありません。私は、従軍慰安婦として心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対して、深くおわびを申し上げたいと思います
* 1995年8月、村山内閣総理大臣談話“戦後50周年の終戦記念日にあたって”:植民地支配とアジア諸国への侵略に対しお詫びする内容

⑧ 1996年6月、橋本龍太郎首相の初の訪韓における日韓共同記者会見における発言は「例えば創氏改名といったこと。我々が全く学校の教育の中では知ることのなかったことでありましたし、そうしたことがいかに多くのお国の方々の心を傷つけたかは想像に余りあるものがあります、、、また、今、従軍慰安婦の問題に触れられましたが、私はこの問題ほど女性の名誉と尊厳を傷つけた 問題はないと思います。そして、心からおわびと反省の言葉を申し上げたいと思います

⑨ 1996年年10月、金大中大統領が国賓として訪日した際、歓迎宮中晩餐会に於ける平成天皇の発言は「このような密接な交流の歴史のある反面、一時期、わが国が朝鮮半島の人々に大きな苦しみをもたらした時代がありました。そのことに対する深い悲しみは、常に、私の記憶にとどめられております

* 1998年年7月15日のオランダ王国のコック首相に対する橋本龍太郎首相の書簡「我が国政府は、いわゆる従軍慰安婦問題に関して、道義的な責任を痛感しており、国民的な償いの気持ちを表すための事業を行っている「女性のためのアジア平和国民基金」と協力しつつ、この問題に対し誠実に対応してきております。私は、いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題と認識しており、数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての元慰安婦の方々に対し心からのおわびと反省の気持ちを抱いていることを貴首相にお伝えしたいと思います」「我々は、過去の重みからも未来への責任からも逃げるわけにはまいりません。我が国としては、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えながら、2000年には交流400周年を迎える貴国との友好関係を更に増進することに全力を傾けてまいりたいと思います

⑩ 1998年年10月、 小渕恵三首相金大中大統領との間で交わされた日韓共同宣言 “21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ”両首脳は、日韓両国が21世紀の確固たる善隣友好協力関係を構築していくためには、両国が過去を直視し相互理解と信頼に基づいた関係を発展させていくことが重要であることにつき意見の一致をみた。小渕総理大臣は、今世紀の日韓両国関係を回顧し、我が国が過去の一時期韓国国民に対し植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのお詫びを述べた。金大中大統領は、かかる小渕総理大臣の歴史認識の表明を真摯に受けとめ、これを評価すると同時に、両国が過去の不幸な歴史を乗り越えて和解と善隣友好協力に基づいた未来志向的な関係を発展させるためにお互いに努力することが時代の要請である旨表明した

⑪ 2001年10月、小泉純一郎首相発言「日本の植民地支配により韓国国民に多大な損害と苦痛を与えたことに心からの反省とおわびの気持ちを持った」。「いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題でございました。私は、日本国の内閣総理大臣として改めて、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを申し上げます。 我々は、過去の重みからも未来への責任からも逃げるわけにはまいりません。わが国としては、道義的な責任を痛感しつつ、おわびと反省の気持ちを踏まえ、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、いわれなき暴力など女性の名誉と尊厳に関わる諸問題にも積極的に取り組んでいかなければならないと考えております、、、
* 2002年年9月、小泉談話日本側は、過去の植民地支配によって、朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えたという歴史の事実を謙虚に受け止め、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明する

⑫ 2007年年4月、 日米首脳会談後の記者会見に於ける安倍晋三首相の発言「慰安婦の問題について昨日、議会においてもお話をした。自分は、辛酸をなめられた元慰安婦の方々に、人間として、また総理として心から同情するとともに、そうした極めて苦しい状況におかれたことについて申し訳ないという気持ちでいっぱいである、20世紀は人権侵害の多かった世紀であり、21世紀が人権侵害のない素晴らしい世紀になるよう、日本としても貢献したいと考えている、と述べた。またこのような話を本日、ブッシュ大統領にも話した

⑬ 2012年12月、岸田文雄外務大臣と韓国の尹炳世外交部長官による外相会談後の共同記者発表を受け、同日夜、安倍首相と朴槿恵大統領は約15分間の首脳電話会談を行い、両首脳は慰安婦問題をめぐる対応に関し合意に至ったことを確認し評価しました
安倍首相の発言「日本国の内閣総理大臣として改めて、慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒やしがたい傷を負われた全ての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを表明する、また、慰安婦問題を含めた日韓間の財産・請求権の問題は1965年の日韓請求権・経済協力協定で最終的かつ完全に解決済みとの我が国の立場に変わりはないが、今回の合意により慰安婦問題が『最終的かつ不可逆的に』解決されることを歓迎する
朴大統領の発言「今次外相会談によって慰安婦問題に関し最終合意がなされたことを評価するとしたうえで新しい韓日関係を築くために互いに努力していきたい

条約・国際協定と憲法との関係

慰安婦問題や徴用工問題に対し、日本政府は一貫して、日韓間で合意した合意事項を一方的に破るのは国際法違反で不当なことと表明していますが、以下の条文をご覧になれば、この主張は妥当ではないかと思われます

日本国憲法
第73条 内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行う
2 外交関係を処理すること
3 条約を締結すること。但し、事前に、時宜によっては事後に、国会の承認を経ることを必要とする
第98条 この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない
 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする

大韓民国憲法
第6条 ① この憲法に基づいて締結、公布された条約及び一般的に承認された国際法規は、国内法と同等の効力を有する
② 外国人は、国際法及び条約が定めるところにより、その地位が保障される
第73条 大統領は、条約を締結し、批准し、外交使節を信任し、接受し、又は派遣し、宣戦布告及び講和を行う

国際法では
国際間の条約、協定等に係る国際法については、それまで慣習法として発展してきたものを、内容をより明確化し,現実に合せるべく国連国際法委員会が作成した草案を基に1968年と1969年に開かれた国連条約法会議が審議の結果採択されたものです。日本は1981年7月にこの条約に加盟しました。一方韓国は1977年4月にはこの条約を批准しています(詳しくは条約法に関するウィーン条約をご覧ください)

この条約の第二条(用語)、第1項(b)に“「批准」、「受諾」、「承認」及び「加入」とは、それぞれ、そのように呼ばれる国際法の行為をいい、条約に拘束されることについての国の同意は、これらの行為により国際的に確定的なものとされる”と記述されており、二国間の条約や協定は相手国の同意がない限り簡単に踏みにじることはできないと解することが至当である言えると思います

こうした明文法が無かった時代にあっても、一旦、国同士で締結された条約は、仮にそれが不平等であってもそれを解消したり、改正するには相当難しい交渉が必要になります。因みに、幕末の1858年に結ばれた「安政の五か国条約(対アメリカ・イギリス・フランス・オランダ・ロシア)」は、領事裁判権(治外法権)を認めていること、関税自主権が無いこと、などの点で不平等な条約ですが、領事裁判権が撤廃されたのは1894年、関税自主権を獲得したのは1911年であり非常に長い時間を要しました

緊張する日韓関係を解くカギは?

韓国人の心の中では
「日韓愛憎?の歴史・クイックレビュー」の中の;③倭寇の跋扈、④秀吉による朝鮮征伐、⑥日朝修好条規・日清戦争、⑦韓国併合、⑧第一次世界大戦と韓国の独立運動、⑨関東大震災時の朝鮮人虐殺事件、⑩創氏改名、⑪日中戦争~第二次大戦、
の項で述べた様に、日本人が朝鮮人を迫害し、誇りを傷つけてきた歴史を、親からの言い伝えや教育の場で教えられてきていれば(誇張されていることもあるかもしれません)、日本人を憎んでいる人たちが多くいても不思議はありません

一方、日本人の心の中では
明治維新以降、列強の仲間入りをする過程で朝鮮を近代化する助けを行った意識がある一方、敗戦後の苦しい時期に、「日韓愛憎?の歴史・クイックレビュー」の中の;⑫終戦後満州、朝鮮に残された日本人に対する迫害、⑭李承晩ライン、竹島の実効支配
などの歴史に絡んだ日本人にとっては、日本人の倫理観の中心にある「惻隠の情」に欠けるずるい人と思う人が多くいることも事実です

また、韓国内の政治情勢の中で注目しておくべきことは
日本統治時代の、「三一独立運動(ref:⑧第一次世界大戦と韓国の独立運動)と戦後の、「光州事件(ref:㋥崔圭夏)で示された民衆運動のエネルギーの大きさです。ごく最近の「蝋燭デモ」で朴槿恵大統領が任期途中で政権を追われ懲役24年の判決を受けていること、万景峰号事件における大衆の怒りの盛り上がりにも同じようなパワーを感じます。これらの朝鮮人の平均的「性情」が、強力な統制を行った軍人大統領の時代が終わった後、韓国政治がポピュリズムに流れている原因の様に思われます

これまで何度も行われてきた「お詫び」については;
「お詫び」の歴史
の項をご覧になれば分かると思いますが、首相や皇室による「お詫び」は、韓国以外の国々(中国、東南アジア諸国、オランダ、など)には国民同士の融和に一定程度の効果があったことは間違いの無いことですが、韓国に対しては憎しみ、怨みがベースになっている以上、国民同士の融和にはあまり効果が無かったように思われます
そもそも、戦争によって発生した戦争犯罪であれば、罪を犯した人に対する懲罰(戦犯裁判)と、国家の賠償(賠償金、領土の割譲、など)で解決されるべきものであり、当事者でない後世の国民が負うべきものでないのは世界の常識です。同じ様に、帝国主義時代における植民地の人々に対する贖罪も、開発援助や移民のを受け入れ、などによって行うことが、当時列強国として植民地経営を行っていた欧米諸国の常識です
ただ、国が犯した犯罪について、たとえそれが遠い過去のことであっても、国民一人一人が歴史を学び、被害者に対しての哀悼の念を持ち続け、二度と同じ過ちを犯さない様に政治に関与していく義務はあると思います

これらを勘案すると、日韓関係で今必要なことは、以下に集約できるのではないでしょうか(私見)
A.時間をかけること。民衆のエネルギーが高まったときは、時間をかけて収まるのを待つしかありません。性急に経済制裁などの発動は行わず、遅くとも2025年には文在寅大統領の任期が終わるので、それを待つ位の忍耐力が必要
B.正しいことは言い続けること。「日韓基本条約」で韓国が請求権を放棄している徴用工問題は国際司法裁判所への提訴を視野に、着々と準備を進めること。またレーダー照射事件については、韓国の対応は「金大中拉致事件」と同じ経過をたどっていますので、米・英・仏・豪などの西太平洋の同盟国、準同盟国との間で情報の共有を図っておくことが有用と思われます
C.慰安婦問題は、ベトナム、イギリスと協調して「ライダイハン」問題の顕在化の努力を行い、韓国内世論の鎮静化を図ること。また、慰安婦問題のユニセフ「記憶遺産」登録を、あらゆる手段をもって阻止すること
D.日本国内の「嫌韓」世論の盛り上がりを極力抑止することSNSによる「嫌韓」のバカ騒ぎは、日韓を除く第三国の顰蹙を買うだけと思われます

Follow_Up:2019年8月22日、韓国「GSOMIA」破棄を通告
* GSOMIAとは:Generel Security of Military Information Agreemen(軍事情報包括保護協定)
* 日韓対立、安保に波及 対北朝鮮連携に不安
* 文政権・米説得聞かず反日世論あおる_保守勢力は批判
* 米国務長官、韓国の日韓軍事協定破棄に「失望した」

以上

「国連海洋法条約」についてちょっと勉強してみました

はじめに

今年(2018年)1月に発行したブログ(年の初めのためしとて~:「農業、林業、水産業の未来、3.水産業の分野)で、日本がいかに広い排他的経済水域(EEZ)に恵まれていて、日本の水産業の未来は明るい!という持論を述べました。ここでは、海洋法について十分な説明をしていませんでしたので、改めて表記「国連海洋法条約(正式名:海洋法に関する国際連合条約)」を読み込んで、日本が国際関係に於いて重要となるポイントについて拙いながら解説を試みることにしました。
尚、条文の文章は、読んで頂くと分かるのですが、法律的な正確性を担保するためか表現が回りくどく、且つ使う用語が日常使う言葉ではないことも多く、更に条約が成立する前に存在していた条約や慣習法を組み込む過程で発生したと思われる条文間の重複や順序の不整合が随所にあります。従って、私なりに解釈した上で適宜文章を再構成しています。お許し願えれば幸いです

国連海洋法条約とは

国連海洋法条約とは、海洋法に関する国際的な秩序の確立を目指して1982年4月30日に第3次国連海洋法会議にて採択され、1994年11月16日に発効した条約です。17部320条の本文と9つの附属書(全体として500条に上る膨大な内容です)で構成されています。現在、168ヶ国・地域と欧州連合が批准しています(締約国リスト)。大洋に面した主な非締結国は米国、トルコ、ペルー、ベネズエラがありますが、深海底に関する規定以外の大部分の規定が慣習国際法化しているため、米国などの非締約国も事実上海洋法条約に従っており、別名「海の憲法」とも呼ばれています(“ウィキペディア”から抜粋、一部修正)
海を隔てて日本と接している近隣の国々(中国、ロシア、韓国)は締約国となっていますが、締約国リストを見ると北朝鮮は批准していないようです

詳しくは「国連海洋法条約」(英語版)」の条文をご覧いただくとして、全体の構成は以下のようになります:

国際海洋法条約の構成
国際海洋法条約の構成

特殊用語解説

国連海洋法条約やそれに関連する情報を読み込んでいくと、幾つかの聞きなれない特殊用語が出てきます。条文の中に定義のあるものも、ないものもあります。これらが具体的に何を意味するかを予め理解していないと、条文を正しく理解するのに時間がかかると思いますので、以下に簡単に説明しておきます。ただ、領海、接続水域、・排他的経済水域、大陸棚、公海などは次項で詳しく述べることにします。また、特にことわりのない限り条文番号は、国連海洋法条約の条文番号を意味しています;

1.海域の領有権や管理権に係る特殊用語
①沿岸国とは:海洋に面している国(⇔内陸国)
②基線とは:沿岸国が公認する海図上の低潮線(引き潮の時の海面と陸地との交わる線)を根拠とした領海、接続水域、排他的経済水域、公海などの範囲を決める基準となる線。実際の地形は湾や河口、島嶼などがあり、決め方は簡単ではありません。興味のある方は、国連海洋法条約3条~10条に基線の決め方が具体的に定められていますので、ご覧になってください

領海の基線と限界線の関係_海上保安庁
領海の基線と限界線の関係_海上保安庁

③低潮高地とは:低潮時には水に囲まれ水面上にあるが、高潮時には水中に没するものをいいます(13条)
④礁(しょう)とは:浅い海底の隆起部。岩礁・サンゴ礁などがあります

⇒南シナ海で中国が実効支配している「スカボロー礁」がよくニュースに登場しますので、ご存知の方が多いと思います。ここはフィリピン及び台湾も領有を主張しており、フィリピンが中国による実効支配の不当性をハーグの常設仲裁裁判所に訴え、勝訴していますが、未だに中国の実効支配が続いています

⑤無害通航権とは:沿岸国の平和、秩序、安全を害しない限り通行できる権利のことを意味します。通行中には以下の行為が禁止されています(第19条)、武力による威嚇、武力の行使。兵器を用いる訓練、演習、沿岸国の安全保障上の情報の収集、沿岸国の安全保障に係る宣伝行為、航空機の発着、積み込み、軍事機器の発着、積み込み、沿岸国のCIQ(税関、出入国管理、検疫)に係る法令違反、重大な汚染行為、漁獲、調査、測量、通信妨害、運航に関係のないその他の行為

2.海洋や河川に生息する魚類に関する特殊用語
①遡河魚(そかぎょ)とは:海洋で餌をとって成長し、産卵のために河川または湖へ回遊する魚類を言い、遡上魚とも言われます。北洋を回遊して成長するサケ・マス類、沿岸域と河川を行き来するウグイ、ワカサギ、シシャモ、シラウオなどがあります
②母川国とは:遡河魚が産卵のために回帰する川を領有している国

③降河魚(こうかぎょ)とは:一生の大部分を淡水で生活して十分に成長し、成熟が始まる前後から川を下って海に入り、海洋で産卵する魚類を言います。降河魚の代表はウナギです。しかし、産卵以外の生理・生態的な要因で淡水域から海へ下る魚は降河魚に含めません。例えば、アユや淡水にすむハゼ類、カジカ類のように、孵化(ふか)後の稚魚が水流に運ばれて川を下って海で変態期前後まで成育し、ふたたび淡水へ帰って成長し、産卵するものは降河魚とは言いません

高度回遊性の種(Highly Migratory Fish Stocks)とは:排他的経済水域の内外を問わず広く回遊する魚類。国連海洋法条約において、この資源の回遊域に当たる沿岸国と漁獲を行う国がすべて参加する国際機関によって保存管理すべきとしています。日本が大量に消費している魚種では、かつおまぐろかじきサンマなどがこれに当たり、国連海洋法条約・付属書Ⅰ (サイトを開いてからANNEX Ⅰ をクリックしてください)で指定されています

3.領海・接続水域・排他的経済水域・海峡・大陸棚・公海

15世紀半ばから始まった大航海時代以降、海洋先進国が「公海自由」の原則を掲げ全世界の海に進出し、未開の地を植民地化するとともに、海洋資源も独占してきました。その後、18世紀から19世紀初頭になって、沿岸国の秩序維持に必要な「狭い領海」と、その外側にある先進国の自由競争が認められる「広い公海」、という二元構造によって海域をとらえる見方が主流となっていきました。こうした考え方が「慣習法」として定着していきましたが、領海の限界については、海洋国(日本を含む)が主張する3海里から、12海里まで主張の違う国がそれぞれの立場で自国の領海を管理する状態が続きました

第二次世界大戦を経て国連が生まれ、国連を中心に各国が話し合う場が設けられた結果、1958年の第一回国連海洋法会議が開催され、領海条約大陸棚条約公海条約公海生物資源保存条約という4つの条約の採択に成功しました。しかし、国の利害がぶつかる領海と公海の境界線をどこに置くのかという点については合意に至ることはできませんでした。
その後、1982年の第三次国連海洋会議になって、ようやく領海を領海基線から12海里までとすること、排他的経済水域を200海里とすることなど、現在の国連海洋法条約が採択され、ほどなく多くの国々に批准される現在の姿になりました

領海・排他的経済水域の模式図_海上保安庁
領海・排他的経済水域の模式図_海上保安庁

1.領海
領海とは、基線から12海里(約22.2キロ/東京駅⇔南浦和駅程度の距離)の範囲で(第2条)、2ヶ国が隣接している場合は、両国の基線の中間を双方の領海の境界とすることになっています(第15条)、但し歴史的な背景がある場合には例外が認められています

<領海に係る重要なポイント>
全ての国の船舶、沿岸国であるか内陸国であるかを問わず、この条約に従うことを条件として、領海において無害通航権が認められるています(第17条)
沿岸国は、無害でない通航を防止するため、自国の領海内において必要な措置をとることができます(第25条)
潜水艦、その他の水中航行機器は領海に於いては、浮上し、かつ船籍が分かる旗を掲げなければなりません(第20条)
無害通航権を行使する外国船舶は、沿岸国の法令及び海上における衝突予防に関する国際的な規則を遵守することが義務になっています
⑤沿岸国は航路帯、及び分離通行帯を明確に海図上に表示し、その海図を公表することが義務付けられています(第22条)
⑥外国の原子力船及び核物質又はその他の本質的に危険若しくは有害な物質を運搬する船舶が、領海において無害通航する場合には、そのような船舶について国際協定が定める文書を携行し、かつ、当該国際協定が定める特別の予防措置をとる義務がありますと(第23条)
低潮高地が領海外にあある場合、それ自体の領海は認められません(第13条)

2.接続水域
接続水域とは、領海から更に12海里の幅で、沿岸国の領土、領海内で起こったCIQ(税関、出入国管理、検疫)に係る法令違反の防止措置、及び法令違反の処罰を行う為に必要な規制を行うことができる水域です(第33条)

⇒近年頻々として起こる尖閣列島(日本が実効支配しているものの、中国も領有権を主張しています)周辺の中国公船(日本で言えば海上保安庁の艦船)による示威行動は、概ねこの接続数域への侵入が多いようです。日本は、警戒監視はするものの領海侵入までは手が出せません(幸い?)

3.国際海峡(国際運航に使用されている海峡)
国際海峡とは、領海または、排他的経済水域を含み、国際航行(船舶だけでなく、航空機も含む)で使用されている海峡のことです。日本においては、宗谷海峡津軽海峡対馬東水道対馬西水道大隅海峡が国際海峡に指定されています
<国際海峡に係る重要なポイント>
海峡の上空、海底、地下資源に係る主権及び管轄権は海峡沿岸国にあります(第34条)
すべての船舶及び航空機は、国際海峡を通過する権利を持っていますが、原則として停止しないで、迅速に通過することが必要とされています(第38条)
通過する船舶及び航空機が負う義務については、概ね領海通過に係る義務と同じです。詳しくは、第38条~45条をご覧ください

最近、米国と軋轢を起こしているイランが、ホルムズ海峡封鎖の可能性に言及していますが、こうした行為は、上記条文から判断すると、明かな国連海洋法違反ということになります。従って、もし封鎖を強行することになれば大国による軍事力の行使が現実となり、日本も新安保法制に基づき何らかの軍事行動が求められる可能性があります

4.排他的経済水域EEZ/Exclusive Economic Zone)
EEZとは、沿岸国が天然資源などに対して「主権的行為」を行うことができる海域のことで、基線から最大200海里まで設定することが認められています(第57条)。また、隣接している海岸を有する国の間における排他的経済水域の境界は原則として中間線となりますが、両国での合意が得られない場合、国際司法裁判所において国際法に基づいて合意を図ることができます(第74条)。ただ、両国が提訴に合意しない限り中々解決できないケースが多いようです。紛争の解決の具体的手続きについては15部(第279条~304条)に詳しく書かれています

<EEZに係る重要なポイント>
A. EEZ内の沿岸国の権利
①EEZ内の天然資源(海産物、海底資源、海流・風力エネルギー)の探査・開発・保存・管理に係る権利
人工島、施設・構築物の設置利用、海洋の科学的調査、海洋環境の保護・保全に係る権利(第56条)

B. EEZに於ける沿岸国の義務:他の国の権利及び義務に妥当な考慮を払う必要があります(第56条)
C. 全ての国は、EEZ内に於ける船舶及び航空機の航行の自由海底ケーブル・海底パイプライン敷設の自由、その他これらに係る海洋利用の自由が認められています(第60条)
D. 沿岸国は、EEZ内の生物資源の漁獲可能量を決定することができます。一方、生物資源の維持が脅かされない様、科学的証拠を考慮して、適当な保存措置・管理措置を講ずる義務があります(第61条)

E. 沿岸国が、漁獲可能量のすべてを漁獲する能力を持っていない場合、協定その他の取極(注)に従い、漁獲可能量の余剰分を他の国による漁獲に委ねることができます
(注)協定・取り決めの内容:漁獲枠魚種(含む大きさ)・漁期・漁場・漁具漁船の種類の指定手数料その他の報酬に係る許可証の発給沿岸国の監視員の乗船漁獲量の全部または一部の沿岸国への陸揚げ、などを指定できることになっています(第62条)

F. 高度回避性の種を漁獲する国は、EEZの内外を問わず種の保存を確保しかつ最適利用の目的を促進するため、直接、又は適当な国際機関を通じて協力する必要があります。また、適当な国際機関が存在しない地域においては、沿岸国、その他当該地域でその種を漁獲する国は、適切な機関を設立し、その活動に参加する必要があります

⇒サンマについては、最近漁獲高が急減し、中国、韓国、台湾による公海での漁獲が原因との見方があります。しかし、公海での漁獲は、日本にこれを制限する権利はなく、関係国による話し合いも、資源量に関する情報が無い中で早急に合意に至る可能性は低いと言わざるを得ません。ただ、わが国のEEZ内の密漁については、違法操業を取り締まるべく海上保安庁は頑張っているようです(参考:北方四島周辺水域における第三国漁船の操業問題_いわゆるサンマ問題

⇒マグロについては、全世界の海域で国際機関が設置され厳格に管理されています;
大西洋マグロ類保存国際委員会
インド洋マグロ資源委員会
全米熱帯マグロ類委員会
中西部太平洋マグロ類委員会
ミナミマグロ保存委員会

G. 溯河魚の漁獲に関するルール(第66条);
母川国は、EEZ内の漁獲量、漁業規制を定め資源の保存の為の措置を講ずること、及び自国の河川に由来する資源の総漁獲可能量を定めることができます。
溯河魚の漁獲は、原則としてEEZ内及び陸地側の水域に於いてのみ行うことができます。但し、これにより母川国以外の国に経済的混乱がもたらされる場合はこの限りではありませんが、EEZ外の漁獲に関しては、関係国は、当該漁獲の条件に関する協議を行う必要があります
③母川国は、上記の原則を実施するに当たって、他の国の経済的混乱を最小のものにとどめるために協力する必要があります
④母川国は、他の国との合意により溯河魚の人工孵化・放流を行い、かつその経費を負担している場合には、自国の河川に発生する資源の漁獲について特別の考慮が払われることになっています
⑤EEZ外の溯河魚の規制は、母川国と他の関係国との間の合意によって決められます
⑥溯河魚が母川国以外の国のEEZ内に入ったり、通過して回遊する場合、当該国は、溯河魚の保存及び管理について母川国と協力する必要があります

H. 降河魚の漁獲に関するルール(第67条);
①降河魚がその一生の大部分を過ごす水域を持つ沿岸国は、種の管理の責任を持ち、回遊する魚が出入りすることができるようにする義務があります(ダムなど作る場合は、魚道を整備する義務があります)
②降河魚の漁獲は、EEZ内及び陸地側の水域においてのみ行うことができます
③降河魚が、稚魚又は成魚として他の国のEEZを通過して回遊する場合、その魚の管理、漁獲は、①の沿岸国と当該他の国との間の合意によって行われます

⇒遡河魚、降河魚、高度回遊性の種については、後段で詳しく述べるように、資源維持のために各国が協力する体制がしっかり出来ています。しかしそれ以外の領海、排他的経済水域で漁獲している大衆魚(イカ、タコ、イワシ、ニシン、ハタハタ、ズワイガニ、etc、etc、、、)については、日本が資源の維持・管理に一元的な責任があります

I. いずれの国も、海産哺乳動物の保存のために協力するものとし、特に鯨類については、その保存、管理及び研究のために適当な国際機関(国際捕鯨委員会)を通じて活動する(第65条)

J. 沿岸国の主権的権利の行使についてのルール(第73条);
①この条約に従って制定する法令を遵守させる為に必要な措置乗船、検査、拿捕及び司法上の手続を含む。)をとることができます
②拿捕した船舶・乗組員は、合理的な保証金の支払又は合理的な他の保証の提供の後に速やかに釈放しなければなりません。また、拿捕、抑留した場合は、とられた措置及び罰について、船籍のある国に速やかに通報する必要があります
漁業に関する法令違反について沿岸国が課する罰には、拘禁、身体刑を含めてはならないことになっています

5.大陸棚
A. 大陸棚とは:領海から先の海面下であってその領土の自然の延長をたどって大陸縁辺部の外縁に至るまでのもの、又は大陸縁辺部の外縁が基線から200海里の距離まで延びていない場合、原則として200海里の距離までのものを言います
尚、200海里を越える大陸棚については、第76条に詳しく定義されていますが、その確定作業は、沿岸国が調査した情報を「付属書Ⅱ」に定める「大陸棚の限界に関する委員会」(通称大陸棚限界委員会;詳しくは大陸棚限界委員会参照)に提出し、得られた裁定が最終的なものとなり、拘束力があります

大陸棚限界設定の流れ

沿岸国は、大陸棚上の天然資源の探査・開発に係る主権的権利」を持っています。但し、この天然資源は、海底及びその下の鉱物・非生物資源、定着性の生物のみが対象になります(⇔海中で生息している魚類、ほ乳類は対象になりません)

隣接している海岸を有する国の間の大陸棚の境界画定について、両国での合意が得られない場合、国際司法裁判所において国際法に基づいて合意を図ることができます(第83条)。ただ、両国が提訴に合意しない限り中々解決できないもののようです。紛争の解決の具体的手続きについては、EEZの境界画定のケースと同様、15部(第279条~304条)に詳しく書かれています

⇒東シナ海の日中の中間線付近に於ける中国のガス田開発については、中国の主張と日本の主張(中間線)が食い違うものの解決が得られていません

東シナ海に於ける中国とのEEZ紛争

参考として大陸棚限界委員会に提出された、日本及び中国の申請書をご紹介します;
中国による東シナ海に於ける大陸棚申請
日本による大陸棚申請

6.公海
上記の接続水域・排他的経済水域・海峡以外の海水域が公海となります
<公海に係る重要なポイント>
①公海の自由
とは(第87条):航行の自由、上空飛行の自由、海底電線・海底パイプライン敷設の自由、国際法によって認められる人工島その他の施設を建設する自由㋭漁獲を行う自由科学的調査を行う自由
公海上の軍艦は、船籍のある国の管轄権のもとにあります(第95条)

③公海で航行中の事故に係る刑事裁判権は、船籍のある国、又は乗員の国籍のある国に限られます(第97条)
公海上での船舶の拿捕、抑留、調査船籍のある国に限られています(第97条)
⑤いずれの国も、公海上における救難の義務があります(第98条)

⑥いずれの国も、自国の船籍のある船舶による奴隷の輸送は禁じられています(第99条)
⑦すべての国は、公海上の船舶が国際条約に違反して麻薬及び向精神薬の不正取引を行うことを防止するために協力する義務があります(第108条)

⑧いずれの国も可能な範囲で、公海その他いずれの国の管轄権にも服さない場所における海賊行為の抑止に協力する義務があります(第100条)
⑨いずれの国も、公海その他いずれの国の管轄権にも服さない場所において、海賊行為が行われた場合、海賊の支配下にある船舶・航空機を拿捕し、犯人を逮捕・拘禁し、財産を押収することができます。また、拿捕を行った国の裁判所は、科すべき刑罰を決定することができます(第105条)

⇒ソマリア海で日本の自衛隊が拿捕した海賊船の犯人は、日本の裁判所で裁判を受けました

⑩沿岸国は、外国船舶が自国の法令に違反したと信ずるに足りる十分な理由があるときは、当該外国船舶の追跡を行うことができます。但し追跡は、国の内水、群島水域、領海、接続水域にある時に開始しなければなりません。尚、この追跡権は排他的経済水域又は大陸棚における沿岸国の法令違反がある場合にも準用されます
⑪追跡権は、第三国の領海に入ると同時に消滅します
⑫追跡権は、軍艦軍用航空機その他政府の公務に使用されていることが明らかに表示されており、かつ識別されることのできる船舶又は航空機でそのための権限を与えられているものによってのみ行使することができます

日本の場合、追跡権は自衛隊あるいは海上保安庁の艦船、航空機でなければ実施できないことになります。最近頻々と起こっている外国船による密漁も、海上自衛隊の増強以外の方法しかないことは理解できると思います
⇒海上保安庁による警備:領海・EEZを守るを参照

いずれの国も公海に於ける生物資源の保存、管理について相互に協力する義務があります(第117条~第119条)

7.深海底
深海底及びその資源は人類共同の財産です。従って、いずれの国も深海底又はその資源のいかなる部分についても主権又は主権的権利を主張し又は行使してはならず、また、いずれの国・法人・人も深海底又はその資源のいかなる部分も専有してはならないことになっています(第136条、第137条)
<深海底に係る重要なポイント>
①深海底の資源に関するすべての権利は、人類全体に付与されるものとし、この任務を遂行するために国際海底機構(以下“機構”;詳しくは国際海底機構参照を設立しました(第156条)。機構、人類全体のために行動することになっています。また、深海底の資源は、譲渡の対象とはならないものの、所定の手続に従うことによって譲渡することも可能となっています(第137条)
②機構は、深海底における活動から得られる経済的利益を、公平の原則に基づいて行うことを原則にしています(第140条)
沿岸国の管轄権の及ぶ区域の境界に跨って存在する深海底の資源に係る活動については、当該沿岸国の権利及び正当な利益に妥当な考慮を払うことになっています(第142条)

④機構は、深海底から採取された鉱物の生産者及び消費者の双方を含む関係のある全ての当事者が参加する権利を持っています。機構は、当該会議の全ての取決め、合意の当事者となる権利を持っています
⑤機構及び締約国は、事業体及び全ての締約国が利益を得ることができるように、深海底における活動に関する技術及び科学的知識の移転の促進に協力することになっています(第144条)
機構及び締約国は、深海底から採取された鉱物について、生産者にとって採算がとれ、かつ、消費者にとつて公平である価格の形成を促進すること、並びに供給と需要との間の長期的な均衡を促進することが求められています(第150条)
操業者が機構生産認可を申請し、その発給を受けるまでは、承認された業務計画に沿った商業的生産を行ってはならないことになっています(第151条)

⇒最近、日本近海の深海底に於ける鉱物資源の調査、及び採掘技術の研究が、官・学・民が協力して行われています。しかし、上記条文から判断すると、現実の採掘となれば、採掘した資源を独占できるわけではなく、また生産量に係る制約を受けることになります。また、採掘技術に係る研究成果についても、先駆者の利益を得ることは難しいことも考えられます(⇔南極大陸の資源管理と同じか)

北洋漁業の歴史

漁業に関して、少年時代から私の記憶の断片に残っていものは、南氷洋の捕鯨と並んで盛んであった北洋漁業に係るものです。それは必ずしも明るいものではなく、当時のソ連に拿捕される北海道の漁民と悲しみに暮れる家族の姿、敗戦国の日本は、満州国での非人道的占領政策、その後のシベリア抑留に加え、ソ連にどれだけ虐められれば済むんだ、といったマイナスの感情です

今回のテーマに係る情報をネットで探していたところ、東海大学海洋学部地球環境工学科の牛尾裕美氏の書いた論文「日本における遡河性魚種の漁獲に関する一考察」に、日本の北洋漁業に係る歴史が分かり易く纏めてありましたので、以下に紹介します;

*日本が、シベリアとカムチャッカの沿岸でサケ漁を開始したのは、17世紀の初め(江戸時代)であったと言われている
*1905年、日露戦争終結後に締結されたポーツマス講和条約により、日本はロシア領土内に漁業区を借り、サケ・マス定置網漁業を行う権益を認められたました(勿論、北方4島の他に、南樺太も日本領となったため、ここでも行われていたと思われます)

*1917年のロシア革命により誕生したソ連による資源ナショナリズムの影響を受け、1929年には流し網を用いる北洋サケ・マス母船式漁業を発足させ、沖取り漁業への転換が行われていった
*第二次大戦とそれに続く米軍駐留期間は北洋漁業は休止していましたが、1952年のサンフランシスコ平和条約発効後、独立を果たした日本は、北西太平洋の公海域に於いて北洋漁業を再開しました。公海域での漁獲は、産卵回遊途上の成魚だけでなく、翌年以降成熟する生育途上の未成魚も含まれており、しかも漁獲の主要部分は、ソ連の極東地方の河川を起源とするものであった(その他、アラスカと日本の河川を起源とするシロザケも含まれていた)

*こうした日本の母船式を中心とする沖取り漁業の大規模化は、1955年にピークを迎え、それと共にソ連極東地方へのサケ・マス回帰量の急激な減少ををもたらしました
*1956年、ソ連はサケ・マス資源の保護と漁獲調整を目的として、極東地方の領海に接続する公海においてサケ・マス漁獲制限操業の特別許可性一方的に宣言しました(ブルガーニン・ライン
*同年、サケ・マスに関して、公海における規制区域の設定、その区域内に於ける漁業禁止区域、漁期、漁具の制限年間総漁獲量の設定などを内容とした日ソ漁業条約が締結された

*1976年に200海里漁業水域が設定されたことに伴い、日ソ漁業条約の破棄を通告してきた。サケ・マスに関しては、1978年になって「日ソ漁業協力協定(日本漁船によるソ連を母川国とするサケ・マスの漁獲等に関する協議の基礎となる協定)」が締結された
日ソ漁業協力協定の主なポイント;
両国は遡河性魚種の母川国が、当該魚種に関し第一義的利益及び責任を有することを認める
両国は、母川国が200海里漁業水域内における総漁獲可能量を定めることができることを認める
両国は、母川国が200海里漁業水域内の外側の水域における遡河性魚種に関する規制は、母川国と他の関係国との合意によることを認める

*1984年にソ連がEEZを設定し、「日ソ漁業協力協定」もソ連側の終了通知により失効した。その後難航の末に、1985年に新しい「日ソ漁業協定」が締結されるに至った
*1988年になって、日ソ漁業合同委員会の年次会議において、1992年までのできるだけ早い時期に、公海でのソ連を母川国とするサケ・マスの漁獲を停止するようにとの声明を行った

*1952年に締結された日米加漁業条約「北太平洋の公海漁業に関する国際条約」を、ロシアを加えて発展的に解消し、1992年に締結(1993年2月16日発効)された日米加ロ漁業条約北太平洋における遡河性魚類の系群の保存のための条約(沿岸国の200海里水域を超えた北緯33度以北の北太平洋及びその隣接海域における条約特定の遡河性魚類の捕獲禁止等を定める)」により、戦後40年行われてきた北太平洋の公海におけるサケ・マス漁業は終止符を打つに至った

以上

災害のリスクについて考えてみました

はじめに

毎年3月11日近くになると、新聞やテレビ、等のマスメディアは2011年に発生した「東日本大震災」の特集が組まれます。この未曽有の大災害は、地震による「建物の倒壊」の人的被害もさることながら、多くの死者、行方不明者を出した「大津波と、放射性物資が飛散したことに伴う広範囲且つ長期にわたる住民避難をもたらした福島第一原子力発電所の「原子力事故による被災者の生活に焦点を当てて報道されるものが多い様です

1995年に起こった阪神淡路大震災では6千人以上の死者を出しましたが、これは「建物倒壊」による死傷者の他に、倒壊した建物の中に閉じ込められた状態のまま地震によって発生した「大火災」によって亡くなった方も多かったと聞いています
また、雲仙普賢岳の噴火(1991年)、御嶽山の噴火(2014年)など、「火山の噴火」に伴う大災害も、歴史を辿れば枚挙にいとまがありません

これらの大災害の第一原因となる地震や噴火は、いずれも地球規模の地殻の変動によってもたらされることはわかっており、日本に住む以上、避けることができないことは明らかです。20世紀中頃に提唱されたプレートテクトニクス/Plate Tectonicsという理論によって発生のメカニズムは説明できる様になったものの、緻密な地質調査や、最新のセンサー、GPSを駆使した観測によっても地震や噴火の予測は人的災害を大幅に防ぐレベルには達していません

そこで、自然災害に関しては全くの素人である私ですが、学生時代から40年以上にわたって航空機に関わってきたこと、またサラリーマン人生最後の10年ほどは原子力ビジネスに関わってきたことことで得た知識を何とか生かせないかと、無い!知恵を絞ってみることにしました
因みに、航空機の場合、1903年にライト兄弟が最初に動力飛行を成功させてから凡そ100年しか経っていませんが、現在安全な交通機関として大量輸送の役割を担っていることはご存知の通りです。もともと空気より重い航空機やそれに乗っている人間は、空中を飛んでいる訳ですから、事故が起きた場合は、地上や水上の乗り物よりは遥かに死亡のリスクが高いことは明らかです。約100年の歴史の中で多くの航空機事故を経験し、これを乗り越えて現在があります。詳しくは(1_航空機の発達と規制の歴史)をご覧ください。勿論、現在でも事故に遭って死亡するリスクはゼロではありません。しかし、航空機を利用するお客様はこのリスクを許容しているからこそご利用になっている訳です。地震や噴火という自然現象は制御はできませんが、これらに伴う人的被害を極小化する手段については、航空安全に関わる知見を応用できる可能性はあると思います

リスクとは

リスク(Risk)という言葉は最近よくメディアに登場します。曰く『大地震のリスク』、『放射線被ばくのリスク』、『肥満によって重篤な病気に罹るリスク』、『噴火のリスク』、『戦争のリスク』、‥など
広辞苑によればリスクとは、あっさりと「危険」としか書いてありません。しかし何となくしっくりいかないので、ネットで調べてみると「ある行動に伴って(あるいは行動しないことによって)、危険に遭う可能性や損をする可能性を意味する概念」と書いてありました。最近多摩川で入水自殺して話題となった西部邁の最後の著書:「保守の真髄—老酔狂で語る文明の紊乱」を読んでいたら、リスクとは「確率的に予測できる不確実性』と書いてありました。私にはこの定義が災害の死亡リスクの問題を論ずるときにはもっとも当てはまると思われます

つまり、リスクを語る時は、リスクの大きさもさることながら、そリスクが起こる確率を把握しなければ意味がありません。例えば、およそ6千5百万年前の白亜紀末の小惑星の衝突によって恐竜が死滅した(最近は、恐竜は死滅せず鳥類に進化して生き延びたという説が有力になっています)ことはよく知られていますが、太陽系の小惑星自体は無数に存在しているものの、地球に衝突するリスク(参考:小惑星衝突防止の研究)を心配している人は殆どいません。つまり、発生確率が極めて低いからです
これに対して地震や噴火は、少なくとも数十年から数百年の間には、ある特定の場所で発生する確率は公表されています。しかも、東南海地震など大津波の伴う巨大地震や、地域が限定されるものの発生確率の高い直下型地震はいつ起こってもおかしく無い状況にあると言われています。こうしたリスクに対しては、何時、何処でという正確な予測が不可能である以上、不意に襲われたときに人が生き残れる確率をどう高めるかという研究が最も重要であると思われます

現在、大津波対策として、高台への移転防潮堤の建設(復興)、逃げ道や逃げ場所の確保緊急通報体制の整備、などがマスメディアに登場していますが、これらはいずれも今回被害にあった東北各県では大なり小なりすでに行われていた対策ではなかったかでしょうか? それでもなお、どうしてあれだけ尊い命が失われてしまったのでしょうか? 科学技術先進国である日本としては、少し努力、工夫が足りないような気がしてなりません

Follow_Up:210214_震災10年「防潮堤に頼らない」を選んだ二つの街 被災前の砂浜を取り戻した地域も_AERA

航空機の深刻な事故を減らすために、設計精度の向上、機器の信頼性の向上、地上及び航空機搭載の安全装備の向上、操縦技術のレベル管理の厳格化、ヒューマンエラーを防止するための装備や訓練の充実、などが絶えず行われて事故の確率は相当程度減ってきました。1990年代以降、これらに加えて事故が起きても乗客・乗員が生存する確率を増やすために、客室内装備の耐火性の向上と、椅子の強度向上(現在の基準は重力の11倍の衝撃加重に耐えることが求められたいます)が行われました。これらの基準は、事故によって亡くなられた方の死亡原因を調べた結果、機体火災による焼死と事故の衝撃で椅子ごと飛ばされてしまった事による激突死であることがわかり、基準が強化されました。この基準のお陰で最近の航空機の全損事故では、全員死亡のケースは減ってきています

そんな訳で、以下に思いつくままに私の稚拙な!アイデアを披露してみたいと思います

大津波から生還するには

2011年3月11日の大災害が発生してから5ヶ月ほど経ち災害救援が一段落し、公的・私的な復興支援もある程度整ってきた8月初旬、3泊4日の日程で個人的に被害・復興状況の調査に行ってきました。東北高速道「花巻」経由で太平洋沿岸を走る国道45号線に出て以下のルートを辿りました(残念ながら旅程の関係で久慈市、宮古市、大槌町は割愛);
釜石市」⇒「大船渡市」⇒「陸前高田市」⇒「気仙沼市」⇒「南三陸町」⇒「石巻市」⇒「松島町」⇒「塩竃市」⇒「多賀城市」⇒「仙台市」⇒(長い海岸線の部分)⇒「南相馬市」⇒通行止(福島第一原子力発電所周辺)避難指示が出た「浪江町」を経由して常磐高速道経由「いわき市」⇒「千葉県浦安市の埋立地

浦安市を除き、殆どの海岸近傍の平地部分は、夏草が生い茂る中に流された船や自動車の残骸が転々と残る所謂「荒蕪地」となり、市外地域の空き地は「瓦礫の山」が連なっていました;

荒蕪地・船の残骸・瓦礫の山
荒蕪地・船の残骸・瓦礫の山

陸前高田市では、津波災害の特徴が良くわかる写真を撮ることができました;

東日本大震災_2棟のアパートの被害状況
東日本大震災_2棟のアパートの被害状況

この写真にあるアパートの前面は海岸に向いており(海岸付近のホテルやアパートは景観を重んずるために所謂「オーシャンビュー」の立地が多い)一棟目は4階まで津波の被害に会ったことが分かります。一方その後ろの二棟目は1階と2階の一部が被害を受けているのみであることがわかります。アパートの1階分が仮に3メートル程度とすれば、1棟目は12メートルの高さの津波を受けたことになりますが、その後ろにある2棟目は3~5メートル程度の津波であったことがわかります。この現象は、海岸すぐ近くに立地していた「キャピトルホテル1000」でも客室レベル(恐らく10~15メートル以上)は被害を受けていない事が分かります;

東日本大震災_海沿いのホテルの被害状況
東日本大震災_海沿いのホテルの被害状況

津波被害を受けたすぐあと(4月1日)にこのホテルの被害状況を調査した記録がネットに残っていましたので詳しくは(地震直後のキャピタルホテル)をご覧ください

また今回の調査旅行の全行程で、大小多くの川の河口を通過してきましたが、河口付近の被害が比較的少ないことに気が付きました。後でニュースなどで知った事ですが、大きな川ではかなり上流まで津波が遡り、死亡を含む被害が発生していましたが、動画などから見る限り海岸付近の津波の様な破壊的なものではなく、堤防の低い所から水が溢れ沿岸の住宅地に浸水していくというプロセスを辿っていました

松島町では、被害を受けたホテルに泊まりましたが、被害は一階のホール部分のみであった様です。恐らく松島町は地図(松島町の地図)をみれば分かる様に、湾の入り口に大きな島があること、湾内にも小さな島々がある事により、津波の破壊力が減殺されたものと思われます

今回の地震は、千年以上前の西暦869年(平安時代)に東北地方を襲い甚大な被害を与えた貞観地震(少なくともマグニチュード8.3以上と推定されています)と並ぶ巨大地震です。貞観地震の際の津波は、百人一首に選ばれている『後拾遺和歌集(西暦1086年)』の清原元輔作成の一首;
  契りきな かたみに袖をしぼりつつ すゑの松山 波越さじとは
にも読み込まれていますが、今回は仙台に向かう途中、多賀城市にあるその『すゑの松山』も訪ねてきました

末の松山
末の松山

今回の地震でもちょっと高台になっているこの『すゑの松山』のすぐそばまで津波の水が押し寄せて来たそうです

仙台では、海岸近くにある『仙台空港』にも立ち寄って被害状況を見聞してきました;

仙台空港の被害状況
仙台空港の被害状況

この空港は、長い海岸線(仙台空港の立地)近くに立地しており、到底防波堤などで空港を守ることはできません。しかし、津波は一階のホールの浸水にとどまっています;

浸水した高さの標識
浸水した高さの標識

仙台から相馬に続く長い海岸線は、仙台空港周辺と同じ様な津波の爪痕が残っていました。特に海岸に設置されていたはずの「消波ブロック」が津波に流されて転々と転がっている光景は印象的でした;

仙台⇒相馬への長い海岸線の被害の様子
仙台⇒相馬への長い海岸線の被害の様子

仙台空港と同様、それ程高い津波に襲われた訳ではなかったにも拘わらず、逃げ場所となる高台が無い中で、車で避難しようとして命を失った人が多かったと言われています

千葉県・浦安市を訪ねた理由は、地震によって生じた液状化現象の被害状況を確認する為で、今回のブログの趣旨には合致しませんので、被害状況、等は割愛します

<津波被害の分析>

この調査旅行で私が強く印象付けられた津波の特徴は;
A.津波は、突然現れる大河の様なものである
B.津波の破壊力は津波が押し寄せる『速度』と波長が極めて長いことからくる膨大な『水の量』で決まる

津波の簡単なモデル
津波の簡単なモデル

例えば、ある湾(入江)に侵入する水の量は、上図の簡単なモデルで説明すると、「押し波の部分の面積」「湾(入江)の入り口の幅」に相当します。気象庁のネット情報によれば、津波の波長は数キロ~数百キロとされており、押し寄せる水の量が膨大になることが感覚的に理解できると思います。沖合における津波の波高がそれ程でなくても、被害が大きくなるのは、こうした理屈によるものです

また、津波は水であることから、基本的に「粘性流体力学」に従うと考えてよいと思われます。しかし、その精密な解析は、地震発生地点における津波の波高や波長、津波の進行する方向、到達する陸地近辺の海底の形状や、海岸線の形状、到達したあとの陸地の高低、傾斜、障害物などによって大きく影響を受けるために、適切なモデル化を行って数値計算を行うにしても、到達する場所ごとの精密な津波の規模を算出することは極めて困難と予想されます(⇔実際に津波の規模の予想は概ね外れますね!)

ただ、津波の挙動に係る定性的な説明をすることは可能であり、これに基づいて津波が起こす幾つかの現象を素人なりに説明してみることにします;
湾(入江)の入り口が広く、奥が狭まっている場合、入り口の長さで決まる大量の水が湾(入江)内に侵入(上記B項参照)し、更に、湾(入江)の両側の岸から反射した津波が重畳するため、湾(入江)の奥に到達する時には極めて波高の高い津波となります
逆に半島や、島などで実質的に入り口が狭くなっている湾(入江)は、入り込む水量が少ないこと、湾内で津波の運動エネルギーが拡散し波高が低くなります。また、島などがあれば、津波の運動エネルギーが島との衝突によって失われ、津波の破壊力は減殺されることになります(松島湾のケース)
防潮堤に必要な高さは、侵入してくる津波の水の量速度で決ります。津波の運動エネルギーは「水の量(=質量)」x「速度の2乗」に比例するので、防波堤にぶつかった時は、この運動エネルギーは、防波堤に沿ってせり上がることによるポテンシャルエネルギー(位置エネルギー)の増加で相殺せねばならず、想像以上に津波は高くなると考えなければなりません(前掲の「2棟のアパートの被害状況」の写真)。万里の長城と言われた宮古市田老地区の10メートルの防潮堤(世界最強の防波堤)を津波が軽く超え、簡単に破壊されてしまったのはこの理屈によるものと思われます。一旦防波堤の一部が破壊されると、寄せ波だけでなく、引き波で重い船や破壊された家屋の残骸、倒木などが防波堤に激突し、その集中荷重で防波堤は簡単に破壊されてしまったはずです

<参考> 宮古市田老地区の現在の堤防復興状況:防波堤・海閉ざす壁

海岸線の長い平野では、海岸付近でせり上がった高い波(←海底が駆け上がりとなっている為)が崩れ落ちた後、川幅の広い大河の流れのようになって陸地の奥深くに侵入していきます。この大河は表面は平らであっても、この水流は多くの障害物を飲み込んだり、建物を破壊した後の水流なので水中は激しく渦巻く乱流となっており、人間が泳ぐことは不可能です。どんなに泳ぎの達者な大人でも大雨の時の河川の濁流に飛び込めば簡単に水死する理屈(濁流に流された子供を助けようとした親が水死する状況はこれ!)と同じです。車ごと流されて水死してしまう事例の多くは、この乱流が原因と考えられます
大きな川の河口に押し寄せた津波は、陸地を駆け上るよりも抵抗の少ない川を上流に向かって逆流していきます。これによって津波の運動エネルギーは吸収されるため河口付近の被害が少なくなっているものと考えられます。逆に、津波が遡上した上流部では、堤防が低いところから浸水し、被害を発生させることにもなります
海岸から少し離れ大河の流れのようになっている状況では、津波の進行を妨げる様な壁は、流れが比較的緩いと言っても大きな力をうけます。因みに。水は1立法メートルで1トンも重さがあり、相当強度が無ければ直ぐに破壊されてしまいます。通常の住宅が簡単に流される理屈はここにあります。高層アパートなどが流されずに残っているのは頑強な基礎と、その重さにあります。一方、一階部分が鉄骨で出来ており、壁が簡単に破壊されるものであれば、鉄骨の間を津波が抵抗を受けずに流れ破壊されません。調査旅行の道中で、平野の中でポツンと残っている家は概ねこうした構造の家でした

<生き残る方法>

上記の分析から、構築物の被害を未来永劫に亘って防ぐ方策は、津波の規模に不確実性があること、膨大なコストが伴うことで現実的ではありません。また、東南海巨大地震による大津波がいつ発生するかもわからない現在、大津波が来ても生き残る確率を如何に向上させるかを考える方が現実的です。以下は、私の考えた幾つかのアイデアです;
1.大きな川の周辺では、津波の運動エネルギーをできるだけ吸収し、大量の海水を、川を逆流させて逃がすために積極的に活用する。このため、河口付近で溢水しないように堤防を整備するとともに、遊水池が設けられる場所があれば積極的に整備する。また、住宅密集地から外れた耕作地など人口密度が低い所があれば、ここで意図的に溢水させて大量の海水を逃がすようにする
<参考:信玄堤>

*武田信玄の時代に、荒れ川として有名な笛吹川と釜無川の治水のために作られた堤防で、意図的に増水した水を堤防外に逃がして堤防の決壊を避ける様になっています(大雨で決壊すると大被害となる:下の鬼怒川決壊の写真をご覧ください)。増水が収まると逃がした水が川に戻っていく様に設計されています

信玄堤
信玄堤

2015年・鬼怒川決壊の被害状況
2015年・鬼怒川決壊の被害状況

2.広い平野部で津波に襲われたときは、車で逃げるのは渋滞することが目に見えているので愚の骨頂です。大河の様に流れてゆく津波に飲み込まれたときは、溺れないようにすることが生還するための唯一の方法となります。その方法は航空機では非常用装備品として当たり前になっている「ライフジャケット」と「ライフラフト(救命ボート)」を予め準備しておくことです;

ライフジャケット
ライフジャケット

ライフラフト
ライフラフト

航空機の場合、ELT(Emergency Locator Transmitter)という装備が義務付けられており、墜落の様な大きな衝撃を受けると救難信号が自動的に発信される様になっており、広い海洋に墜落しても遭難機、遭難者の位置を確認できる仕組みになっています
津波用のライフジャケットやライフラフトに、水に漬かると救難信号が発信される装置や夜間用のLEDライトを装備するようにすれば、引き波で沖合に流された遭難者も発見が容易になると思います。東日本大地震の津波では、逃げ足の遅い多くの子供や老人が犠牲になりました。是非こうした非常用装備で、生還の可能性を高めてほしいと思います

尚、ライフラフトであれば、救助を待つ間に「低体温症」で死亡することも防ぐことができます。家族単位での行動が可能となり、一層生存率が高まることも期待できます。
<参考:輪中>
昔から洪水に見舞われてきた濃尾平野の揖斐川、木曽川、長良川の下流域では、「輪中」によって水害から命を守ってきました。大河の様な津波に対しては、この知恵から学ぶところが多いと思われます;

輪中・自家用の船
輪中・自家用の船・輪中・自家用の船

輪中の中の家屋の工夫
輪中の中の家屋の工夫

<Follow-up>
*2018年9月19日の朝日新聞DIGITALに(スーッと近づいてきた無人の「神様のボート」住民救った_西日本豪雨災害)という記事が出ていました

<Follow-up>
*2019年10月日本に上陸した台風19号は甚大な水害を齎しました

台風19号進路_2109.10月

これだけの大雨だったにもかかわらず、東京都心とゼロメートル地帯が免れたワケ について:191023_台風19号の浸水被害 東京都心とゼロメートル地帯が免れたワケ
この被害に関して、今後の治水行政について学識者が有益なコメントを出しておりますのでご紹介いたします:191114_水害の猛威に備える_山田正氏・角哲也氏・土屋信行氏

また、今回の災害の中で、利根川水系の八ッ場ダムによる治水効果が大きかったことが話題になりましたが、全国の約三千か所のダムの治水効果を最大化するためのルール作りが始まった様です:<191116_ダム放流指示しやすく、国交省 電力などと手順協議

3.建物自体を、圧倒的な破壊力を持つ津波に破壊されないようにするには、以下の様に極めて限定的な方法しかありません
鉄筋コンクリート製の高層建築物であれば前掲の「2棟のアパートの被害状況」、「海沿いのホテルの被害状況」の写真を見れば分かる様に、その重量と基礎の堅牢さで建物の崩壊は免れることが可能であると思われます。更に、建物の向きを「オーシャンビュー」ではなく、海岸線に直角の方向にすれば、津波の立ち上がり方も少なく、より低層部分も冠水しないで済むと考えられます
長い海岸線の平野であれば、津波の高さはそれほどではない(今回の大津波でも1階~2階の高さ)と考えられますので、普通の個人用の邸宅でも、1階部分の柱を鉄骨で作り、壁を壊れやすく!して、津波が来た時には簡単に壊れて水流が容易にすり抜けられるようにすれば(上の輪中の絵の「母屋の1階部分」をご覧ください)、家自体は守れる可能性があると思われます。尚、この時、引き波も大河の様に水が流れますので、流されてきた重量物の衝突で柱の鉄骨が破壊されないようにしたほうがより良いと考えられます。この為には大きな川の橋桁の上流側に設置されている流木などが橋桁に激突するのを防止する構造物を海と反対側に設置することが有効であると考えられます

京都嵐山・渡月橋_流木除けの効果
京都嵐山・渡月橋_流木除けの効果

その他の災害から身を守るには

1.大地震による家屋の倒壊や大火災から身を守るには

大地震による建物の倒壊は、建物自体の耐震性で決まります。現に最新の建築基準法に基づいて建てられている建物に住んでいる人はそれ程心配する必要はないと思いますが、そうでない場合は、耐震診断を予め受け、必要な補強を行うことによって安心して住める状態になると思います。家全体では改修費の負担が大きすぎる場合は、寝室や、居間など居る時間が長い所のみを改修することでも、倒壊した家屋の下敷きとなってしまうリスクを相当程度下げることが可能です

大地震による火災で命を失わないようにするには、まず倒壊しない安全な家に住み、地震が収まったと同時に安全な避難場所に即刻退避することが肝要です。しかし、阪神淡路大震災の被害地域の様に木造家屋が密集する地域に住んでいる場合;

阪神淡路大震災
阪神淡路大震災

倒壊した建物によって狭い路地が塞がれると同時に、地域のあちこちから出火し逃げ道を失う恐れもあります。また、火災の規模が大きくなると「火災旋風」(関東大震災や東京大空襲でもその発生が死傷者を増やしたと言われています)が起きる可能性も考えられ著しく危険な状態になります
一旦火災があちこちで発生した場合、個々の家の耐火性の向上や地上の消火活動などで延焼を防ぐことなどできません。消火するのであれば大規模な森林火災に使われる様な航空機による空からの消火活動が一番効果が大きいと思われます。

日本ではこうした航空機による消火活動は、今でもヘリコプターを利用する事は可能と思われますが、大型の固定翼機による方がより効率的です。日本にはUS2という飛行艇があり;

US2飛行艇
US2飛行艇

この機材を大規模火災の消火用に改修(US2・消防用に改修)し、人口密集地近くの基地に配置する施策も検討する価値があると思われます

また、地域全体で家が倒壊しても絶対に火災を発生させない様にする方法も考えられます。発火の原因は、その殆どが調理・炊事、暖房用の電気、ガスです。最近のガス、電気設備には個々に地震による遮断装置は付いていますが、古い設備には、この遮断装置が付いていない場合もあります
従って、住宅密集地域では、電気、ガス以外のエネルギー源(例えば炭火を使う店舗などが考えられる)を行政レベルで禁止すると同時に、震度があるレベル(その地域で最も耐震性の無い住宅が倒壊するレベル)を越えたら、直ちに地域全体の電気、ガスの供給を遮断することが有効れあると考えられます。勿論、一旦電気、ガスの供給を止めてしまうと復旧は個別の家ごとにおこなう必要があるので、電気、ガスの会社はやりたがらないとは思いますが、、、

2.大規模噴火から生還するには

噴火による死亡事故の殆どは、「噴石の直撃」を受けることと、「火砕流」に巻き込まれることです。噴火予知が正確にできればこんな心配はしないで済むのですが、今の知見だけでは予測はかなり難しい様です

噴石による事故は、防ぐことが難しく、今年1月の草津スキー場のケースでは思いもよらぬところから噴火し、自衛隊員の死傷事故が発生しました。2014年には御嶽山の突然の噴火で、登山者58名が死亡(他に行方不明者5名)しました。噴石は、噴き上げられたものが、ほぼ垂直に落ちてくるのでヘルメットを被っていても被害を避けることは不可能です。丈夫なコンクリート製の待避壕に避難するか、丈夫な屋根をもつ山小屋などに避難するしかありません。ただ、致死性の高い大きい噴石は火口近くに落ちるので、登山者の多い火山の自治体は、火口近くに待避壕を設置する対策を行う努力をしてほしいと思います。また、登山者は待避壕、山小屋などの位置を常に確認しておく習慣を持つことが自身の命を守る上で必要であると考えられます。

火砕流による事故は、噴石に比べるとより大規模で深刻な事故に繋がります。有名なベスビオス火山による火砕流は、ポンペイの町を一瞬の内に消滅させました。最近の日本でも、1991年の雲仙普賢岳の火砕流では報道関係者を含む44名が死亡しました;

雲仙普賢岳の火砕流
雲仙普賢岳の火砕流

ネット情報によれば;火砕流の実体は、「火山砕屑物(さいせつぶつ/岩石が壊れてできた破片や粒子を指す地質学用語)と噴出物の火山ガスや水蒸気が混合して流動化したもの。ガスは、マグマに含まれていた火山ガスと、火山噴出物中および流走中に取り込んだ空気からなる。温度は、マグマに近い高温のものから100℃程度まで幅がある。水蒸気噴火とマグマ噴火では水蒸気噴火の方が発生頻度が高い」であり、上の写真を見れば分かる様に、走っても逃げられないような相当な速度で襲来し、巻き込まれればその高温の環境により確実に死に至る恐ろしい現象です
最近は、噴火活動の結果生じた火口近傍の堆積物の量や、斜面の形状、方向、過去の火砕流の記録、などを勘案して、火砕流の危険性を警告する情報が流れるようになりました。ゆめゆめ好奇心から危険地域に近寄らない様にすることは勿論、避難勧告が出たら早めに非難することが、命を守る唯一の方法です

3.核兵器の攻撃を受けた時に生き延びるには

日本は、中国、ロシア、北朝鮮という核保有国に囲まれ、しかも中国とは尖閣列島帰属問題、北朝鮮とは拉致問題を抱えています。勿論、米国の核の傘で守られている為、簡単には攻撃されることないとは思いますが、仮に日本が最初に核攻撃された場合、米国が自国民を核攻撃の危機に晒さす反撃を行うかどうかは疑問が残ります。だからといって、日本も核武装すべきだという主張に私は組しません。核攻撃を受けても多くの人が生還できる方策を予め考えておくことが大切であると考えます

昔台湾に駐在した時、最初に奇異に感じたことは、台北市内の主要道路の交差点は頑丈なコンクリート製の地下歩道が整備されいることでした。現地の人に聞いたところ、これは大陸から攻撃を受けた時の防空壕の役割を果たすのだそうです
大国に囲まれた国、隣国から侵略を受けた歴史を持つ国は、防衛の第一の目標は最初に攻撃されたときに如何に生き残るかです。因みに、フィンランドの核シェルターをご覧ください;

フィンランドのシェルター
フィンランドのシェルター

戦後、唯一の被爆国として非核三原則を堅持してきた日本であっても、核攻撃されないという保証はありません。日本にとって非核三原則を遵守すると同時に、核攻撃をされても生き残る方法を、科学技術先進国である日本の総力を挙げて取り組むべきであると私は考えています。因みに、米国では数百万円~数千万円で個人用の核シェルターを販売している会社がありますが、最近の最大の顧客は日本人だそうです

日本には、核攻撃を受けると必ず死に至る(即死しなくても、後遺症で死ぬ)と思っている人が少なくありません。その結果、シェルターなど意味の無いものだという人も多い様に思います。その背景には、下記写真のような原爆の惨状を小学校時代からずっと頭に叩き込まれてきたことがあります。また、マスコミや著名な作家による恐怖を煽る記事も多くの人々に影響を与えたに違いありません。私も学生時代に読んだ「広島ノート;大江健三郎著」には多大な影響を受けました。このブログを書く前にもう一度読み返してみましたが、当時としてはやむを得ないにして、もあらゆる病気、あらゆる死が原爆、放射能と結びつけられており、現在の知見を基に判断すると驚くばかり間違いの多い内容です。これによって被曝したものの健康を取り戻した多くの人たちが、結果として差別を受けたことは忘れてはいけないと思います。この本にも引用してありますが、興味のある方は(広島で被爆した医師が大江健三郎に書いて寄こした手紙)読んでみてください;

ヒロシマ被曝直後の惨状
ヒロシマ被曝直後の惨状

核攻撃を受けても生き延びる手段はあります。冷戦時代、米国、ソ連、中国は核攻撃の危機を現実のものとして受け止め、核攻撃から自国民を守る手段を必死に研究してきました。フィンランドの核シェルターも、米国で個人宛に販売している核シェルターも、そうした研究の成果を取込んだものと考えられます

そもそも、核攻撃による死のリスクとはどんなものでしょうか;
① 致死量の放射線を爆心から直接浴びることによる死;
放射線はアルファー線、ベータ線、ガンマ線(波長の短い電磁波)、紫外線・光線・赤外線(波長の長い電磁波)、中性子線、その他の粒子線に分けられます。それぞれの放射線の性質、リスクなどについて詳しく知りたい方は私のブログ(原子力の安全_放射能の恐怖?)をご覧になってください。いずれも爆心地近くで直接浴びれば即死します。しかし、頑丈な遮蔽物に身を隠していれば防御することが可能です。ただ、中性子線だけは透過力が極めて強いので、あるいは水を含んでいるコンクリート、水分を含んだなどで防御することが有効です(原子炉が水やコンクリートで遮蔽されているのはこの理由によります)
また、こうした放射線は爆心から球状に広がると考えれば、爆心からの距離の2乗に反比例して強度は弱まります。例えば、爆心から1キロの地点の放射線強度に比べ、10キロ離れた地点の強度は百分の一になります。基本的に直進することを考えれば、山などの陰に隠れていれば安全ということになります

② 爆風(正体は衝撃波=強烈な音波)を爆心から直接浴びることによる死;
爆心地近くであれば、強烈な爆風で人間を含む重い物体が吹き飛び、何かと衝突して死亡する可能性が高いと思われます。ビル街などでは、爆風で飛び散ったガラスが突き刺さり死に至るケースも多く発生します。爆風も基本的に爆心地から直進するので、頑丈な遮蔽物に身を隠すか、地面より低い所(戦場で爆弾が降りそそぐ環境で塹壕に隠れるのはこの爆風を避ける為です)に潜り込むことで安全を確保できます
よく原爆が炸裂した時の表現で「ピカドン」という言葉が」使われますが、これは「ピカ」で光速あるいは光速に近い速度の放射線が爆裂と同時に到達し、やや遅れた「ドン」で爆風が到達する状況を表現しています(遠くから花火を見た場合を想像してください)。従って、爆心から離れたところであれば、「ピカ」を見てから待避しても間に合う可能性があります(10キロ離れていれば30秒ほどの猶予時間があります)。爆風も、放射線と同じく球状に広がるので、距離の2乗に反比例して強度は弱まります。

③ 爆発後降り注ぐ放射性廃棄物から出る放射線(二次放射線)を浴びることによる死;
核爆発すると巨大な「きのこ雲」が発生することはよく知られています。このきのこ雲は放射性廃棄物を沢山含んでいます。これが爆発後ある程度の時間をかけて地上に降り注ぎます(所謂「死の灰」)。地上に降り積もった放射性廃棄物に近づけばと同様被曝することは明らかです。しかし、放射線の強度は①に比べて桁違いに弱いので直ちに死に至ることはありませんが、長時間に亘ってその環境にいれば放射線障害になる恐れがあります。広島、長崎ではこの二次放射線で放射線障害となった人も多いと言われています。1954年ビキニ環礁でマグロはえ縄漁を行っていた第五福竜丸の23名の船員が被曝したのは、この「死の灰」によるものです詳しくは私のブログ(原子力の安全_放射能の恐怖?)をご覧になってください。ただ、きのこ雲は風向、風速によってはかなり遠方まで届くので、爆心地から離れていても注意が必要です

④ 爆発後降り積もった放射性廃棄物を体内に取り込む事による死;
これは上記私のブログをご覧になって頂ければ分かるのですが、放射性廃棄物で汚染されたほこりや食物を体内に取り込むと、体の内部から継続的に被曝する結果となり、少量であっても非常に危険です。この対策はマスクなどによって肺に取り込むことを防ぐほか、汚染された食べ物を食べてしまうことを防ぐ必要があります。尚、体内に取り込まれた放射性物質の量は、ホールボディーカウンターで測定することが可能です
いずれにしても、放射性廃棄物がある所に入らないことで確実に防ぐことが可能です

以上を踏まえると、堅牢な防護壁、乃至地下に設置された核シェルターは、爆心地近くでない限り①、②の脅威から生還できる可能性が高いことが分かります。また、シェルター内の空気は放射性廃棄物を通さないフィルターを通じて換気されているとともに、相当期間必要な食料は備蓄されているので、③、④の二次放射線の脅威からも免れることが可能です

山間部は直接攻撃されない限り山が守ってくれますが、極度に人口が集中している大都市では、こうした自然の防壁もなく、新たにシェルターなどを設置しようにも場所が確保できません。しかし、大都市では地下鉄網や広い地下街がありますので、ここに多くの人を退避させることによって少なくとも①、②の脅威からは命を守ることが可能だと考えられます
ただ、ミサイルの緊急速報が入ってからの時間の猶予はそんなにありません(北朝鮮からの発射であれば5~10分でしょうか)。また、避難スペースを広く確保するためには地下鉄を直ちに停止させ、地下鉄のトンネルの中も避難スペースとして使わなければなりません。更に、現在は、地下鉄や地下街への入り口が狭く、数も少ないので、核シェルターの代役をさせるのは入り口を増やし、ある程度の食糧の備蓄なども必要になると思います
総理府では(国民保護ポータルサイト)でミサイルが発射されたときの連絡体制や、地下街などの地下施設に避難するなどの注意事項が書いてありますが、地下施設をシェルターとして利用するために必要な改修工事は未だ計画もありません。また、地下への人の誘導の訓練もやっていません。このままでは、実際に核攻撃の脅威が現実のものになった時にどうなるかとても心配です
終戦間際の米軍による都市爆撃で、あれだけ多くの民間人が亡くなってしまった事の反省が未だにできていないのではないでしょうか、、、

<Follow-up>
*2018年12月25日の日経新聞に、Jアラートシステムが変更されるとの記事が掲載されていました:181225_北朝鮮のミサイル発射情報・Jアラート見直し_伝達を都道府県単位

以上

「民族問題」について考えてみました!

はじめに

11月22日、オランダ・ハーグの旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷で、ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦(1992~95年)時のジェノサイド(集団虐殺/6千人以上のイスラム教徒が殺害された)の罪に問われた当時のセルビア人武装勢力司令官、ラトコ・ムラディッチ司令官に終身刑が言い渡されました
また、ロヒンギャ難民の問題、米国・EU諸国とロシアの対立の元になっているウクライナ内戦も記憶に新しいところです。これ等はいずれも民族間の対立が原因になっていると言われています

冒頭に掲げた地図は、子供の高校時代の教科書に使われていた「世界史地図」の中から、第一次世界大戦中(1914~18年)と、第二次世界大戦直後(1945年)のヨーロッパの地図を抜き出したものです
第一次世界大戦は、オーストリア・ハンガリー帝国によるボスニア・ヘルツェゴビナの併合(1908年)により混乱を極めていたバルカン半島(人種の坩堝と言われていました)のセルビア王国の青年によるオーストリア皇太子夫妻の暗殺(サラエボ事件)がきっかけとなりました。第一次世界大戦の終わりころにはロシア革命があり、ソビエト社会主義連邦共和国(以降「ソ連」)が生まれました。第一次世界大戦後のパリ講和会議では、米国ウィルソン大統領による「十四ヶ条の平和原則」第五条で「民族自決・民族自立」の提案があり、ベルサイユ条約の基調となりました。日本全権団も「人種差別撤廃」提案を行いましたが、これは残念ながら否決されてしまいました。これらがきっかけとなって世界中で民族自立の動きが始まりました
また、第二次世界大戦後、ソ連は戦勝国となり、大戦によって生まれた社会主義諸国と社会主義ブロックを構成し、一方の戦勝国である米国を盟主とする自由主義ブロックと対峙し所謂「冷戦」が始まりました。この冷戦下では、イデオロギー民族自立が結び付いた内戦が続きました
この冷戦構造は1991年のソ連の崩壊で終焉を迎えましたが、その後現在まで一向に民族紛争は収まりそうにありません

戦後の日本は、民族問題については無頓着である人(勿論、私も含めて)が多く、またメディアの取り扱いも、単に同情(人道というべきか?)をベースとした内容に留まっていることが多い様です
最近の世界情勢は「民族問題」に関するある程度の知識が無いと、理解できないのではないかと思い始めました。そんな問題意識をもって、本屋を渉猟している時に「民族問題」(佐藤優・著、文春新書、10月20日第一刷発行)という本が目に留まりました。購入して読んでみると、中々内容の濃い啓発の書と感じましたので、内容の一部をご紹介すると共に、この分析手法を念頭に、最近のニュースに登場する「民族問題」についても私なりに考察してみたいと思います

佐藤優・著「民族問題」の紹介

佐藤優について;
1960年東京都生まれ 同志社大学神学研究科修了後、チェコスロバキアのカレル大学に留学。1985年外務省入省、2002年大臣官房総務課・課長補佐の時に鈴木宗男事件に絡む背任行為で逮捕。最高裁で懲役2年6ヶ月、執行猶予4年の刑が確定、国家公務員法76条により外務省を失職。その後は文筆家として活躍。大変な読書量と博学で知られ、著書多数
本書の由来;
著者が、同志社大学サテライト・キャンパスで2015年5月から2016年2月にかけて行った10回の講義記録を編集し、加筆修正したもの

以下は本書の要約です。分かり難い部分があれば私の読書メモを参照してください。ただ、新書版で安価(830円+税)なので購入する方がいいかもしれません!

文春文庫「民族問題」
文春文庫「民族問題」

1.なぜ日本人は民族問題が分からないのか;

多くの日本人は、「日本人」、「日本民族」というものを自明のものだと捉えていて、古来よりずっと続いてきた実体のあるまとまりだと考えていますが、これは間違いです。歴史的に「民族」という概念は、精々250年くらいしか遡れないと考えられます。例えば、室町時代に京都に住んでいた人と、東北地方に住んでいた人が、同じ「日本人」、「日本民族」という意識があったかどうかは確認できません。これはロシアやドイツ、イギリスやフランスも同じであると考えられます
現代になっても、「民族」は新たに生まれたり、解体したりしており、中東では、「シーア派」のアラブ人という新しい民族が生まれつつあるとも考えられます

民族のアイデンティティの核となるものとして「原初主義」、「道具主義」という二つの大きく異なる考え方があります。学術的には道具主義が圧倒的に主流ですが、日常的な使い方においては原初主義的な考え方の方が一般的であると思われます

①「原初主義」とは;
民族とか、国家には、その源に何かしらの実体があるという考え方。例えば言語が源になる、また、肌の色や骨格など生物学的、自然人類学的な違いに境界を求めると人種主義に近づきます。日本列島に住んでいるから日本人、インドに住んでいるならインド人というのであれば住んでいる地域が民族の原初になります。このほかにも宗教経済生活文化的共通性など「動かざるもの」を共有するのが民族という考え方です
多くの人は、この原初主義的な民族のイメージを持っていますが、言語にしても、人種にしても、文化にしても、歴史的に源をたどっていくと、複数の「民族」にまたがっていたり、境界が曖昧だったり、住んでいる場所も移動していたり、矛盾する事例が沢山出てきてしまいます

②「道具主義」とは;
民族とは作られたもの」だと考えるのが道具主義の立場です。国家のエリートや支配層が統治目的のために、支配の道具として、民族意識、ナショナリズムを利用しているという考え方です。道具主義を代表する学者が、ベネディクト・アンダーソンで、彼の著書「想像の共同体」で、「国民とは、イメージとして心に描かれた想像の共同体である」と定義しています。つまり国民、民族とは政治によるフィクションだと説いています

2.民族問題の専門家スターリン

「原初主義」に立脚した民族理論の中で、一番現実の政治に影響を与え、なおかつある程度、現象を説明できるのは、実はスターリンの民族定義です
スターリンは
、グルジア(現在のジョージア)のゴリという町の生まれであり、グルジアに帰化したオセチア人ではないかという説が、今の所一番有力です。そもそもスターリン自身が複雑な民族的なアイデンティティを持っていた訳です

ジョージア(グルジア)
ジョージア(グルジア)

ソ連(帝政ロシア)がロシアを支配し、他の民族がひどい目に遭っていたというイメージは誤解です。ソ連の中心にあって、支配していたのは民族ではなくて、ソ連共産党中央委員会、つまりマルクスレーニン主義というイデオロギーでした

スターリンが民族問題を重視したのは、ロシア革命の本質にもかかわっています。日本を含む世界各国の共産党機関紙には「万国の労働者よ、団結せよ。万国の被抑圧民族よ、団結せよ」というスローガンが掲げられていますが、このスローガンは矛盾しています。何故なら、階級と民族とは関係がないはず。例えばインドでは、抑圧していたのはイギリス人、被抑圧民族はインド人ですが、インド人の中には資本家も、労働者も、農民もいました。革命に民族運動のエネルギーを持ち込もうとして、この矛盾に敢えて目をつぶったのがスターリンです

スターリンは、イスラム教徒であるスルタンガリエフを抜擢して、中央アジアでの革命運動を統括させ、民族運動の高まりを革命に利用しようとしました。中央アジアの革命運動において、革命は西方の帝国主義者に対するジハードとしてアジった結果、革命運動は盛り上がったものの、イスラム勢力の力が予想以上に強くなってしまいました

中央アジア
中央アジア

今のトルクメニスタンウズベキスタンキルギスタジキスタンカザフスタンは、トルコ系の人たちが住んでいる土地を意味するトルキスタンと呼ばれており、トルコ民族として団結して民族運動が盛り上がると社会主義体制との矛盾が露呈してしまいます
そこでスターリンは、言語の若干の違いに注目して民族を分け(カザフ人、キルギス人、など)国境線を引いてしまいました。つまり、言語の違いという原初主義的な基準を持ち出して、国境線を引き、人工的に民族を作り出すという道具主義そのものの手法を駆使したことになります
また、フェルガナ盆地という肥沃な穀倉地帯を、敢えてタジク、ウズベク、キルギスに三分割して、水の利用権などを巡って互いに衝突するように仕向けることまで行っています。それらによって、トルコ系とか、イスラムといったアイデンティティで一つにまとまらない様に手を打っていました

バルト3では、歴史的に強力な帝国を築いたことのあるリトアニアには、反発したら大変だということでロシア人の入植をほとんどしませんでした。この結果、ソ連崩壊時点でリトアニアのロシア人比率が10%に対して、ラトビアは51%エストニアは40%となっています。また、ラトビアのロシア人は国中に散らばり都市部に多く分布しているのに対し、エストニアでは東部だけに集中させる、など細やかな民族政策をたてています

スターリンの民族理論
民族とは、「言語」、「地域」、「経済生活」および「文化の共通性」によって現れる「心理状態の共通性」を基礎として「歴史的に生じた人々の堅固な共同体」であると定義しています。因みに、この理論に従えば、ユダヤ人は、住んでいる地域によって使う言語が異なっていることから、民族ではないことになります
また、言語、地域、経済をバラバラにしてしまえば民族は解体できることになります。スターリンがしばしば厄介な民族の強制移住を行ったのは、この理論に立脚しています

スターリンの民族理論は、そのままソ連の国家体制の基礎となりました
スターリンはソ連国内の民族的共同体を、「民族/ナーツィヤ」、「亜民族/ナロードノスチ」、「種族/プリェーミァ」の三つに分類し、民族を階層(ヒエラルキー)化することにより固定化させようとしました;
民族」は国家を持ち、ソ連邦離脱も許されていました(バルト3国が、これを根拠に独立を主張することができました)
亜民族」は自治共和国を持ち、独自の憲法を持つことができますが、ソ連邦からの離脱はできません
種族」は自治州や自治管区で自分たちの言語を使い、独自の文化を持つことはできますが、独自の憲法を持つ権限はありません

これらの区分は、実際はかなり流動的に運用されたと考えられます。例えば、ウクライナの東部や南部に住んでいる人は日常ロシア語を話しており、ウクライナの中の「亜民族」になっていたと考えられます
スターリンの民族理論は、無意識のうちに日本人にも住みついています。例えば、アイヌ人は「種族」であり、沖縄は「亜民族」であるというイメージは、正にスターリン的な民族意識と言えます

3.アンダーソンの「想像共同体(道具主義)」批判

アンダーソン(Benedict Richard O’Gorman Anderson/1936年~2015年;米国コーネル大学政治学部名誉教授)によれば、「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体であり、言語や地理的、経済的共通性はない」としています。国民を構成する一人ひとりは、他の大多数の同胞を知ることも、会うことも、彼らについて聞くことがなくても、一人ひとりの心の中には共同のイメージが出来ています例えば、2015年にジャーナリストの後藤健二さんがイスラム国で殺害されたとき、多くの日本人は義憤にかられましたが、殆どの国民は彼に会ったことも無く、彼の活動も知らなかったにも拘わらず、大多数の日本人の心の中には、彼の死が同胞に対して起きている危機だという心が生まれました。また、尖閣諸島にしても、殆どの人が一生の間で一度も行くことが無いにも拘わらず、日本人の「想像の共同体」の中で、「尖閣」が重要な位置を占めてしまいます。これは韓国人にとっての「独島/竹島」や「慰安婦」も同じことであると言うことができます

アンダーソンは、この「想像の共同体」は「文化的人造物」だとしています。民族の形成で鍵を握るものは、新聞や小説といった出版資本主義です。尚、アンダーソンは、新聞を「一日だけのベストセラー」と表現しています。
例えば、ある離島にAさんとBさんが住んでいたとして、A国とB国との間で戦争が始まっても、AさんとBさんには関係がないから仲良く暮らしていますが、そこにヘリコプターでそれぞれの国の新聞を落としていくと、二人はただのAさん、Bさんではなくなって敵国民同士となってしまう。つまり、新聞が自分たちの想像の共同体をつくる出すことの非常に重要なツールになります

アンダーソンが重視するもう一つの概念は、「公定ナショナリズム」すなわち、上からのナショナリズム、あるいは統治のためのナショナリズムです
18~19世紀にヨーロッパを席巻したナポレオン戦争アメリカの独立戦争などを見て、ヨーロッパの君主たちは、国家を強化する部品としてナショナリズムを導入しようとしました。しかし、問題は、ヨーロッパの王朝や帝国は、もともと「民族」の原理ではできていません。例えば、イギリスのハノーバー朝はドイツ人で英語も話せなかったし、スイスが起源のドイツ系のハプスブルグ家は、オーストリアだけでなくスペインやイタリア、チェコも治めていました。中でも大変だったのはロシアです。ロシアの貴族たちは基本的に不在地主で、サンクトペテルブルクやモスクワに住んでおり、普段はフランス語を話し、ロシア語は書けるけど上手に話せないというのが普通でした。つまり、支配階級が既に文化的にはハイブリッドでした(エカテリーナ二世自体がドイツの出身です)。ロシア帝国の基本的な原理は、権力に忠誠を誓っているかどうかが重要であって、宗教や肌の色が何であろうが気にもしていませんでした

こうした状況から、全てのヨーロッパの君主は、19世紀半ばまでに「国家語」としてどこかの俗語を採用し、国民的理念を築き上げようとしましたロマノフ家ロシア語を話すロシア人ハノーバー家英語を話すイギリス人ホーエンツォレルン家ドイツ語を話すドイツ人となりました

アンダーソンは、日本人についても、朝鮮半島にルーツを持つ王朝が、近代になって日本の民族の代表として衣替えをしたとして、日本人も上から作られた民族であるという見方をしています
イギリスの正式名称「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」には民族を表す言葉はどこにも入っていません。イングランド人、スコットランド人、ウェールズ人、アイルランド人はいますが、グレートブリテン人や北アイルランド人はいません。つまり、イギリスは「民族」を国家原理の中心に置くことなく、近代以前からの王・女王の元に国民を統合してきました

フランス革命は、近代的な意味で組織された党派や運動によってなされたものでも、指導されたものでもありませんでした。出版資本主義のお陰でフランスの経験は、人類の記憶から消去できなくなり、さらにそこから学習することもできるようになりました。フランス革命から一世紀を経て理論化し実地に実験するなかからボルシェビキが登場し、彼らが「革命」を計画し、成功させました。レーニン本人の書いたものを読むとロシアでの事態を、フランス革命のアナロジーで見ています。2月革命で生まれたケレンスキー政権は、ジロンド派による権力奪取であり、レーニン達ボルシェビキはジャコバン派になります

アンダーソンの理論によれば、「民族」とは、同じ言語を使う人たちの間で、直感されるものを共有する共同体ということになります。例えば、個人個人が目には見えない「日本」を感じ、それが共有できれば、そのグループは「日本人」になります。従って、ナショナリズムは宗教に極めて近似しているとも考えられます
現代の国家の中には、必ず宗教的な要素、絶対神の要素が入っています。日本で言えば、靖国神社がそれにあたります。靖国神社に祀られている英霊は、神道というよりはプロテスタント系のキリスト教に近いのでないかと思います

4.ゲルナー「民族とナショナリズム」の核心

ゲルナー(Ernest Gellner/1925~1995年;ユダヤ人;歴史学者、哲学者、社会人類学者)は、ナショナリズムに関する誤った考え方は以下の4つに集約できると述べています;
 ナショナリズムは自然で、自明で、自己発生的なもので