日韓関係_その2(「反日種族主義」を読んで)

はじめに

 

 日韓関係については、一年ほど前に私が勉強した結果をまとめたブログ(日韓関係について勉強してみました)を発行しました。この時は主として日本側の視点からできるだけ正確に日韓関係の歴史を綴ってみましたが、今般見出しの写真にある「反日種族主義」という本が文芸春秋社から発刊されました。韓国語による原著は今年8月に発行され、韓国内で既に10万部を超えるベストセラーになっています(月間・文芸春秋12月号の記事より)。日本語版は11月14日に発刊され、現在20万部を超える極めて好調な売れ行きだそうです(私は発売当日に、とある有名書店に買いに行きましたが、昼過ぎの時点で売り切れており、漸くやや場末の本屋!で購入することができました)

 

 この本は、韓国の知識人 6人の著者(6人の著者のプロフィール:この内「李栄薫」氏が編者として全体の取り纏めを行っています) による共著で、それぞれ研究している専門領域 中心として極めて実証的に書いてあります。私にとっては入手できなかった実証的なデータが数多く含まれており、大変興味深いものでした 
 一方、韓国人の一般の読者にとっては、韓国人自身から語られた 極めて衝撃的な内容(今まで受けてきた歴史教育や反日運動の否定)となっていますので、今後、著者に対する誹謗中傷(既にかの有名な前法務長官はへどが出る本と非難しています)が激しくなるのではないかと思われます

 以下、この本の内容のうち、現在日韓両国の間で紛争の元になっている問題について、実証的なデータを中心にご紹介したいと思います
 尚、本書は、6人の著者が「反日種族主義」という共通認識をベースに各自の論文を持ち寄ったものが纏められていますので、下記のようなテーマ別にみればかなり重複が見られます。従って、私が勝手にテーマ別に再編成をしておりますので、著者毎のそれぞれの詳しい分析、考え方について知りたい方は、是非この本を購入され、一読されることをお薦めします(反日種族主義・目次

韓国人の「反日」の背景にある種族主義について

 

 6人の著者は、韓国人の「反日」のベースにあるものは、韓国人特有の「種族主義」に原因があると言っています。
 日本では、この「種族主義」という用語はあまり使われていませんが、著者たちの定義によれば“前近代的で呪術的なシャーマニズムに基づく民族意識”と定義しています。例えていえば、ナチスドイツにによるユダヤ人迫害やボスニア・ヘルツェゴビナにおける民族浄化の原因になった他民族に対する敵意や、白人至上主義、など、合理的な理由が無いにもかかわらず民族を差別する悪しき思い込みとも言えるかもしれません(⇔私の勝手な解釈)
 因みに、著者の一人である朱益鍾氏は、「韓国の種族主義は、種族主義の神学が作り上げた全体主義的権威であり、暴力です。種族主義の世界は外部に対し閉鎖的であり、隣人に対して敵対的です。つまり、韓国の民族主義は本質的に反日種族主義です」と言っています

 

 韓国の多くの人が陥っている「種族主義」のベースとなっている神話的な考え方には以下のものがあります;
① 白頭山神話
 白頭山は北朝鮮と中国の国境にあり(白頭山_Google Map)、15世紀までは火山活動をしていました。著者の李栄薫氏によれば、白頭山が朝鮮民族の霊山に変わったのは日本の植民地時代であるとのことです。朝鮮王朝時代には民族という言葉も、そうした意識もありませんでした。民族という意識が芽生えてくると、それに見合った象徴が必要になります。著者は、白頭山神話を作るのに重要な役割を果たした人物は崔南善(1890年~1957年/歴史家・詩人・思想家)と考えています。彼が「白頭山覲参記」という本の中で;
白頭山は我ら種姓の根本であり、わが文化の淵源であり、わが国土の礎石であり、わが歴史の胞胎であられる。三界をさ迷う風来坊が山を越え水を渡って、慈愛に満ちた母の温和なお顔に一度お目にかかりたく、やってまいりました。おじいさん、おばあさん、私です。何もないわたしです
と述べ、その後以下の様に祈祷しました:「わが民族は再び生き返るのだ」「信じます。信じます。分かってください。分かってください。白頭天王、天地大神」。こうして、白頭山は民族の父と母に変貌していきました
 太平洋戦争終結以降、南北朝鮮で白頭山は民族の霊山として崇められてきました。1987年からは白頭山のイメージが政治的神話として創作されていきます
 北朝鮮で「白頭山一帯で抗日戦士のスローガンが刻まれた木(実際は北朝鮮政府が創作させたもの)が発見された」と発表されました。また、金日成は白頭山の頂上のある場所に丸太の家を建て、ここが抗日パルチザンの密営であり、金正日もここで生まれた場所とされました(金正日は実際はハバロフスクで生まれました)

白頭密営に参拝する北朝鮮住民

白頭山に天池に登る南北の首脳

土地気脈論・国土身体論
 韓国人が共有している自然観で、全国土を一つの身体と捉えていることがあります。朝鮮王朝時代には、中国を世界の中心と考える世界観を反映して、国土を中国にお辞儀をする老人の姿に描きました。20世紀に入ると、その姿が白頭山を頭頂とする虎の姿に変わります

崔南善と「猛虎気像図」

 この様な身体感覚は、いつの間にか強烈な反日感情の源泉になりました。白頭山で活動した独立軍が歌ったという軍歌の一節に「日本人よ、富士を自慢するな、我々には白頭があるんだ」という言葉が入っています
 朝鮮王朝時代は独島(竹島)の存在は知られていませんでしたが、1950年以降、日本との帰属紛争が始まると、独島は突然反日感情の最も熾烈な象徴になり、土地気脈論国土身体論がこれに作用し、独島を訪れた韓国詩人協会の会員は、「独島はわが祖国の胆のう」であるとか、「独島の岩を砕けば韓国人の血が流れる」などと、まるで独島が韓国人の身体の一部であるかのように謡いました(独島の帰属に係る歴史的な事実については後述します)
 
儒教的死生観・風水学
 土葬の風俗は、朝鮮王朝時代の15世紀から始まりました。それ以前は仏教の時代であり火葬が一般的でした。朝鮮王朝から始まった儒教の考え方では、人の生命は魂(こん)と魄(はく)の結合であり、人が死ぬと魂は空中に散らばり、魄は地に沁み込んでいきます。これが土葬に変わった原因です
 死んでからある期間は、魂と魄は生気を維持します。子孫が祭祀を行って呼ぶと、空中の魂と地中の魄が結合して子孫を訪ね、祭祀のもてなしを受け子孫に福を授けます。長い歳月を経ると魂と魄は生気を失い消滅します。魂と魄が生気を維持する期間は死んだ人の地位によって変わります。天子は5代、諸侯は4代、大夫は3代、それ以下の地位の人は2代です。それが過ぎると死んだ人に対する祭祀は終了し、その位牌さえも地に埋めます
 ②で述べた土地気脈論は遅くとも三国時代(4世紀~7世紀)に成立したと考えられていますが、朝鮮王朝以降上記の儒教の生命論の影響を受け、魄が地に沁み込むと考えられるようになって、18世紀以降、吉相のある墓地を探す風水地理が勢いを振るうようになりました。19世紀に入ると全国各地で墓地をめぐる訴訟が広範囲に起こるようになります。また、朝鮮王朝後代になると全国の地図が山脈の地図に変わってきますが、これは、白頭山に源を発する気運が、山脈に沿って広がっていく様子を描いているのだそうです

 儒教の教えに基づく魂は一定期間がが過ぎると消滅しますが、朝鮮王朝時代の魂は永遠不滅です。これは土地気脈論の作用でした。朝鮮王朝時代に祖先の墓を重視する葬礼と祭祀が生まれたのはそのためです

慶尚北道安東の義城金氏の墓祭

 父親が亡くなると息子は、墓の横に粗末な小屋を建て、その中で2年間暮らしました(これを「侍墓」といいます)。「侍墓」が終わっても、毎年定期的に墓祭を行いました。どんなに遠い祖先でも、墓がある限り墓祭は続けられました。何故なら、墓に眠る祖先の魂は永遠不滅だからです。中国の儒教の教えでは天子の場合でも5代前の先祖の血縁集団までが親族ですが、朝鮮では5代以上の遠い先祖まで繋がる親族集団を形成します。その結果生まれたのが、世界に類例を見ない「族譜」です。「族譜」によってはるか昔の祖先を共有する韓国人の親族文化が生まれました

 朝鮮人は20世紀初頭に至るまで「民族」という概念はありませんでした。韓国に於いては、「族譜」という遠い祖先まで繋がるベースがあった為、親族の拡大形態として民族という概念が受容され定着しました
 1931年、「万世大同譜」という「族譜」が編纂されました。これは全国330の有名親族集団を一つに統合した「族譜です。朝鮮王朝時代、これらは殆ど不遷位(原文のママ;位が変わらないという意味か?)の祖先を祀った一級身分の両班(朝鮮王朝時代の支配階級)の婚姻関係を追跡した系図の様なものと考えられます(私の解釈)。家毎に「族譜」がありますが、これを横に繋げたのは、朝鮮人はみな元来は一つの祖先から分かれた子孫であるからだとも述べています。檀君から今に至るまで4300年の間に増えた人口を推算すると今の人口になるという理論を展開し、朝鮮人は皆檀君の子孫であるという民族意識がこうして生まれました

檀君神話

鉄杭神話・風水学
 「植民地時代に日帝(大日本帝国)は、朝鮮の地から人材が出るのを防ぐため、全国の名山にわざと「鉄杭」を打ち、風水侵略を行った」、という話が伝説のように口伝えされてきました
 韓国の社会で鉄杭騒動を引き起こす契機になったのは、金泳三政権(1993年~1998年)が「光復五十周年記念力点事業」として推進した「鉄杭除去事業」です。それ以前は主に民間の次元で「西京大学」の徐吉洙教授!が、鉄杭除去事業を推進していました。この団体が除去した鉄杭は、北漢山の17本、俗離山の8本、馬山舞鶴山鶴嶺の1本でした。これらは、日本人が風水侵略の為に打ち込んだという証拠の無い理由で抜き取られました。因みに、北漢山の鉄杭は、1984年、白雲台で登山をしていた民間団体が、登山客たちの「倭人たちがソウルの精気を抹殺する為に打った鉄柱」という説明を聞いて除去したものです
 その後、青瓦台(大統領官邸)の指示を受けた内務省が、全国の各市郡邑に公文を送り事業を開始しましたが、日帝が打った鉄杭と立証してくれる専門家がいませんでした。結局、地方の行政庁は、近隣で風水が多少は分かるという風水師(地官と言うそうです)、易術人占い師などを鉄杭鑑定専門家として動員しました。1995年から6ヶ月間全国で受け付けられた住民の申告は439件、この内鉄杭だとして除去されたものは18本でした(この件について、著者の金容三氏は詳細に検証を行い根拠不明であることを実証しています)。これ以外にも、特に根拠も無く、住民の多数決で「日帝が打った鉄杭」とされたものもありました

鉄杭除去作業

 また、揚口で除去された鉄杭は、ソウル民族博物館で開かれた光復五十周年記念の「近代百年民族風物展に展示され、日帝が打った鉄杭だという証拠が全くないにもかかわらず以下の様な説明文が付けてありました;
民族抹殺政策の一環として、日本人は我々民族の精気と脈を抹殺しようと、全国の名山に鉄杭を打ったり、鉄を溶かして注いだり、炭や瓶を埋めた。風水地理的に有名な名山に鉄杭を打ち込み、地気を押さえ付けけようとしたのだ
 尚、植民地時代に華川・揚口一帯の測量業務を行った朝鮮総督府林政課の測量技師二人(古賀某、挑吉福)を手伝った山林保護局臨時職員の李ボンドゥク氏(当時21歳)が、以下の様な証言を行っています:「日帝時代、測量の為に山の頂上や峰の上に設置した大三角点を、この国の人々は、日帝が急所を射るために打ち込んだ鉄杭だと誤解した」。著者の金容三氏は、鉄杭が打ち込まれているという地点を調査した結果、それらの地点と測量の為の起点として使われる「大三角点」や「小三角点」と一致していることを確認しています

日帝による朝鮮収奪という虚構

 

 日本が、1910年に朝鮮を併合した後、1945年に太平洋戦争に敗北するまでの35年間、朝鮮のあらゆる資源を収奪したという韓国人の一般認識については、以下の様な実証的な検証を行い、反論しています

1.朝鮮土地調査事業
 1910年に朝鮮を併合した後、直ちに着手した事業に「朝鮮土地調査事業」があります。1918年まで8年間行われたこの事業によって、全国全ての土地面積、地目(土地の用途)、等級、地価が調査されました(朝鮮ではそれまで行われていなかった)。これにより、総面積は2,300万ヘクタール、内487万ヘクタールが人間の生活空間としての土地(田畑、住宅敷地、河川、堤防、道路、鉄道用地、貯水池、墓地など)、残り1,813万ヘクタールが山地でした
 1960年代以降、韓国の中・高等学校の韓国史教科書は、「総督府が実施した土地調査事業の目的は朝鮮農民の土地を収奪する事にあったと教えてきました。またある教科書では、「全国の土地の40%が総督府の所有地として収奪されたと書いています。1974年から国定教科書に変わっていますが、その後2010年までの36年間、40%の土地が収奪されたと学生たちに教えてきました。歴史の授業の時間でこの部分に来ると、教える教師も教わる生徒もみな泣いたそうです。しかし、どの研究者もこの数値を証明したことがありません

 土地調査事業当時、一部の土地で所有権紛争がありました。しかし、これは生活空間としての土地487万ヘクタールのうち12万ヘクタールに過ぎない国有地を巡っての紛争でした。これに関して慎鏞廈教授!ソウル大学名誉教授;社会学者、政治学者、独島学会会長)が「朝鮮土地調査事業研究」という本の中で、この紛争について「当該土地は自分の所有物だと主張すると、総督府はピストルで押さえつけた」と書きました。当時、土地調査局の職員は実地調査に出かけるとき、山中深く入っていくと獣に襲われる事例があり、また山中では匪賊が活動していることもあり護身用に拳銃を持って調査をしていました。農民たちは、最初は警戒していたものの次第に調査の内容が分かると、むしろ歓迎していました。土地調査局は、調査を終えると土地台帳の下書きを公開していました。農民はこれに自分の名前があると喜ぶと同時に、間違いがあると熱心に異議を唱えたといいます。慎鏞廈教授は、「朝鮮土地調査事業研究」という本を書きながら、実際に郡庁や裁判所にある土地台帳や地籍図を閲覧したことが無かったのです。こんな本を韓国の学会とメディアは歓喜して迎え、慎鏞廈教授には輝かしい学術賞を授与しました
 人気小説家の趙廷来(1943年~)は、大河小説「アリラン」(12巻合わせて350万部売れました)の中で、日帝が狂的に朝鮮人を殺害する場面をあちこちに書いていますが、その中に「土地調査事業」の期間に行われた警察の即決による銃殺の場面があります

土地調査事業における朝鮮農民の銃殺場面

 勿論、こんな事実はありませんでした。因みに、1913年の一年間に53人が殺人と強盗の罪で死刑を宣告されましたが、いずれも二審の判決でした。また、1921年3月に「警察官処罰規則」が施行されていますが、そこには警察が即決で処理できる犯罪として軽犯罪87種のみが規定されています

2.「強制動員」の真実
 1939年~1945年8月15日までの間、日本に渡って働いた73万人余りの朝鮮人労務者を「労務動員」と呼びます(韓国人はこれを「強制徴用」と言っています)。韓国の研究者たちは、動員された朝鮮人の大部分が日本の官憲によって強制的に連れていかれたと主張しています。また、日本で奴隷のように酷使された(奴隷労働)と主張しています。「夜寝ている時、田で働いている時、憲兵や巡査が来て、日本に連れて行かれて死ぬほど仕事させられ、動物のように虐待され、一銭も貰えずに帰ってきた」という主張です。これらは、1965年に日本の朝鮮総連系の朝鮮大学校の教員・朴慶植(在日朝鮮人の歴史研究者;1922年~1998年)が主張した「朝鮮人強制連行の記録」ことですが、これは当時進行していた日韓国交正常化交渉を阻止するために作られた話でした。これは、韓国の政府機関、学校などの教育機関、言論界、文化界の全てに甚大な影響を与え、国民の一般的な常識として根付くことになりました。著者の李宇衍は、これは明白な歴史の歪曲と断言しています。2018年10月30日、韓国大法院は日本の企業(新日鐵住金)に、韓国人一人当たり1億ウォン(約1千万円超)の慰謝料の支払いを命じました。この判決もやはり明白な歴史歪曲の基づくでたらめなものだと著者の李宇衍が断言しています

 歴史的事実に基づけば、徴用は、1944年9月から長く見て1945年4月頃までの約8ヶ月間実施されました。その後終戦まではアメリカ軍が玄界灘の制海権を握り、朝鮮人労働者の輸送が出来なくなりました。このことから、徴用で日本に行った朝鮮人は10万人以下だったと推定できます
 「徴用は法律に基づく強制的な動員方法でした。徴用を拒否すれば一年以下の懲役、もしくは100円以下の罰金に処せられました。この徴用以前は、1939年9月から実施された「募集」と1942年2月から始められた「官斡旋」があり、これらは何れも法的強制力はなく朝鮮人たちの自発的な選択に任されていました。当時、日本の青年の大部分が徴兵されていましたので、労働力が極度に不足していた状況にあり、特に、炭鉱などの鉱山で労働力不足が深刻であった為、日本に行った朝鮮人の64%が鉱山に配置されました。しかし、朝鮮人の大部分が農村出身で、鉱山の地下労働をとても恐れ、多くが建築現場の様な所に逃げて行ったと言われています。いずれにしても朝鮮人労働動員は、基本的には自発的であり、強制性はありませんでした
 2015年に釜山で開館した「国立日帝強制動員歴史館」に以下の様な写真が掲げられていました;

教科書に載った「強制動員された我が民族」

 写真に写っている人は肋骨が浮き出るほどに痩せこけ、奴隷の様に働かされた朝鮮人が、どれほどの苦難を経験したのか、広く知らしめようとして掲げられました。ニューヨークで徴用を宣伝する為に使われた写真もこれと同じものでした。しかし、この写真は、1926年9月9日に、日本の「旭川新聞」に掲載されたものです。北海道を開拓する過程で土木建設現場に監禁された日本人10人の写真でした。2012年から、日本の歴史歪曲に対応するという目的で、韓国史が高校の必須科目になりました。新しい教科書全8種のうち7種の教科書に上記の写真が掲載されています。また2019年からは、この写真が初等学校6年生の教科書に掲載されるようになりました

 2016年からは、社会団体も歴史歪曲運動に乗り出しました。いわゆる「強制徴用労働者像」を設置しようという運動です。これは「全国民主労働組合総連盟(民労総)」、「韓国労働組合総連盟(韓労総)」、「韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)」などが主導する「日帝下強制徴用労働者像設置推進委員会」によって行われています。著者の李宇衍は、下の強制徴用労働者像が、上記写真5-1の右から二番目の人物の酷似していると指摘しています(この件、現在像の制作者から訴訟を起こされたと報道されています)

強制徴用労働者像

 廬武鉉政権(2003年~2008年)において、国務総理室所属の「日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会」という機関を設置し、日本に動員された韓国人の被害補償をしました。補償を受けるのに必要な証拠としてよく使われたのが以下の写真です;

朝鮮人労働者の記念写真

 この写真は、1941年に北海道の尺別炭鉱で働いた鄭成得氏が同僚たちと一緒に撮った記念写真です。写真に写っている人たちは、何れも穏やかで余裕が感じられます。この他に、1939年~1945年の間に日本に来た鉱夫達の団体写真が沢山残っていますが、いずれもこの写真と似たり寄ったりです。朝鮮人は大部分、会社が提供する無料の寮で同じ故郷出身者と共に生活していました

3.「労働環境における民族差別」の実態
 前掲の朝鮮大学校の教員・朴慶植は、「多くは1日12時間仕事をさせられました。また賃金はが現金で支給されずに、みな貯金させられ、送金などとても考えられない水準であって、一人で食べていくのも大変だった。また、賃金自体も「日本人労働者の半分程度」と主張しました。また、「朝鮮人たちは炭鉱の坑内労働の様な一番過酷な労働を行い、殴打、集団リンチ、監禁などが日常的に行われていた」と言いました。また今日においても、殆どの研究者が同じ主張を繰り返しています
 この様な意見は、歴史的事実とは全く違ったものです。賃金は基本的に正常に支給されました。強制貯蓄は確かにありましたが、それも日本人と同じでした。2年の契約期間が終わると、利子と共に貯蓄もみな引き出し、朝鮮にいる家族にも送金できました。賃金体系は基本的に日本人と同じ成果給であり、日本人より賃金が高い場合も多くありました。日本人より賃金が低いケースの大部分は、朝鮮人たちの経験が浅く、結果として生産量が少なかったからでした。業務中に殴る蹴るなどの前近代的な労務管理も、全く無かったわけではありませんが、これも日本人に対しても同じことでした。因みに、朝鮮人炭鉱夫の賃金を、朝鮮の他の職種や日本の他の職種と比べてみれば以下の表のようになります(朝鮮人炭鉱夫の賃金はこの職種の収入に表の倍率を掛けたものになります。朝鮮人炭鉱夫の賃金は1940年時点では約73円1944年時点では約165円もの賃金を受け取っていたことになります)

朝鮮人炭鉱夫と他職種の賃金との比較

 生活は非常に自由なものでした。一晩中花札をして夜を明かしたり、勤務後に市内に出て飲み過ぎ、翌日欠勤することも多かった様です。中には、酒が飲め朝鮮の女性がいる「特別慰安所」に行き、月給を使い果たしてしまう人もいたとのことです

「朝鮮人徴用労働者」と誤認されている1950年代の日本人

 上の写真は、誠信女子大の徐敬徳教授!が。ミューヨークのタイムス・スクエアの電光板に映し出し、映画「軍艦島」の宣伝で、「腹ばいになって石炭を掘る朝鮮人の姿だ」と紹介したものです。またこの写真は「国立日帝強制動員歴史館」にも展示され、中学校の教科書にも掲載されています。しかし、この写真は、日本の写真家・斎藤康一氏が、1950年代半ば、貧しい庶民の暮らしを写すという目的で、筑豊炭田地帯のある廃坑で、日本人が石炭を盗掘している所を写したものです(斎藤氏はこの写真のフィルムを所蔵しています)
 1929年の世界大恐慌以降、日本の炭鉱やその他の鉱業でも人件費を減らすための機械化が急速に進みました。空気圧縮式削岩機(下の写真参照)、石炭裁断機、石炭を運ぶ機械式コンベアが広く使用されるようになりました。朝鮮人が配置された1939年以降、上の写真の様な採炭方法はあり得なかったわけです

空気圧縮式削岩機を使用する炭鉱夫_1934年

 1939年1月から1945年12月まで、日本本土の炭鉱で死亡した炭鉱夫は、日本人と朝鮮人合わせて 10,330人でした。一方、1943年に於ける日本の主要炭鉱での死亡率は、朝鮮人が日本人より2倍ほど高くなっています。この違いは、日本人の屈強な若者が徴兵されたことがあり、坑内作業のうち危険度の高い三種の坑内夫(採炭夫、掘進夫、支柱夫)の職種が日本人より1.9倍も高かったことによるものです。また、1941年における北海道の6ヶ所の炭鉱についても同様の傾向があります(朝鮮人の死亡率が日本人より 1.3倍~3.0倍)。
 著者の李宇衍氏は、朝鮮人の災害率が高いのは、人為的な「民族差別」ではなく、炭鉱の労働需要と、朝鮮からの労働供給が作り上げた不可避な結果であると結論付けています

4.「食料収奪」の真実
 日帝の植民地支配に対する批判の中で、最も多く耳にする話の一つが「日帝が朝鮮を食料供給基地にし、朝鮮の米を収奪していった」ということです。また、「米を大量に「収奪」または「搬出」した結果、朝鮮人の米消費量は大きく減少し、朝鮮人は雑穀で延命しなければならなかった」とも記しています。しかし、下図を見れば、この主張が的を得ていないことがすぐに分かります;

朝鮮における米の生産量・輸出量・朝鮮内消費量

 朝鮮総督府による「産米増殖計画」に基づき水利施設の整備や肥料投入量を増加させた結果、米の生産量は飛躍的に増加し朝鮮内消費量を減らすことなく輸出量を増やしています。生産量が増加した結果、生産量の約半分が輸出されるようになり、日本と朝鮮の米市場は一つに結ばれます。日本という大規模な米輸出市場が出来たために、朝鮮農民の所得増加に大きく寄与したことが分かります。このことは、当時を生きた朝鮮の農民や言論人にはあまりにもよく知られた常識でした。ただ、朝鮮の農民たちの所得が増えたと言っても、その恩恵は米販売量の多い地主や自作農に集中し、小作農が得られたものは微々たるものでした。これが改善されたのは、解放後(1945年~)に行われた農地改革(地主制の解体)と農業の機械化(余った労働力は第二次、第三次産業へ移動しました)によるものでした
 著者の金洛年氏は、教科書の「収奪」とか「搬出」という表現を変えられないのは、「輸出」という表現に変えたとたん、自分たちの日帝批判の論理が混乱に陥ることをよく分かっているからだ、と言っています

5.「陸軍特別志願兵」の真実
 1938年4月、日本は「朝鮮人陸軍特別志願兵制」を実施しました

陸軍特別志願兵

 従来の韓国近現代史では、この制度は朝鮮人の兵力資源化のための日帝の広範囲で、徹底した「強制動員」であり、志願者の出身と動機も朝鮮半島の南半分の地域の貧民層に限定された政策であるとしてきました。しかし、日中戦争の最中に志願兵に応募することは、志願者の立場に立てば生きるか死ぬかの選択でした。この様な命がけの決断を強制動員と見なす考えは、歴史的事実を極端に単純化し、歪曲したものに過ぎない、と著者の鄭安基氏は言っています
 朝鮮における陸軍特別志願兵に選抜されるには、各道の知事、朝鮮総督府、朝鮮軍司令部が実施する身体検査学科試験面接試験に合格し、更に入営前の朝鮮総督府陸軍志願者訓練所での訓練を終了しなければなりませんでした。従って、この制度は、朝鮮人社会の同意と協力無くしては決して成立しない植民地軍事動員でした。下の表をご覧になると、志願倍率が如何に高かったかが分かります

陸軍特別志願兵の募集と選抜の状況

 これらの志願者の大部分は、普通以上の収入のある南朝鮮地域の中農層の次男で、当時、朝鮮人児童就学率が50%以下の状況で、少なからぬ学費を払わねばならなかった普通学校の卒業者でした。当時の中農層は「両班」出身の上流層とは違い、出世志向の強い「常民」出身の人達であり、この制度が、時代錯誤的な郷村社会の身分差別からの脱出であり、立身出世のための絶好の近道であったことが、この高い志願倍率になっていたと考えられます。朝鮮における陸軍特別志願兵制の成功を受け、1942年には同じ制度を台湾にも拡大しました。続いて1943年、朝鮮と台湾で海軍特別志願兵制と学徒志願兵制を施行しました
 1939年以降、朝鮮軍第20師団所属の陸軍特別志願兵は、中国や、ニューギニアに動員され、果敢に戦い多くの戦死者を出しました。また、太平洋戦争終結後の朝鮮戦争に於いても、韓国の自由と人権を守るために献身した英雄ともなりました 

 

独島(竹島)の領有権に係る真実

 

鬱陵島と竹島の位置関係

 独島(竹島)は、韓国と日本が領有を争っている島ですが、韓国の立場からすると絶対に譲歩できない象徴になっています。しかし、領有を争うには、歴史的に自国民が住んでいた証拠があること、あるいは国際社会に対して最初に領有を宣言するか、あるいは戦争などによって領有を勝ち取った歴史があることが必要となります。しかし、朝鮮王朝時代には、独島(竹島)の存在そのものが知られていませんでした

 現在、韓国が独島を韓国の固有の領土と主張している根拠の一つは、独島が「于山」という名前で、新羅以来、歴代王朝の支配を受けてきたという歴史的事実です。三國史記(高麗仁宗の命により1145年に編纂された;新羅、百済、高句麗に関する歴史書)に次のような記事が出てきます;
于山国が新羅に帰服した。毎年新羅に土産品を貢納した。于山国は、溟州の東側の海にある島だ。あるいは鬱陵島ともいう。土地の大きさは方一百里である。険峻なのを信じ新羅に服さなかった。伊「サンズイに”食”という字」異斯夫将軍が征服した」。この記事に出てくる于山が今日の独島だと主張しています。 しかし、ここに出てくる「于山」は、明らかに「鬱陵島」と同じものです

 また、独島固有領土説の内、最もよく知られた根拠は、1454年に編纂された「世宗実録地理誌」に出てくる次の記事です;
于山」と「武陵」の二つの島は県の東側、海の中にある。二つの島は、お互い余り離れていない。天気が良ければお互い眺められる。新羅時代は于山国と称したが、鬱陵島とも言った

 1530年に編纂された「新増東国輿地勝覧」に「八道総図」という地図があります。この地図は幻想で生まれた于山島を描いた最初の地図です;

15世紀・16世紀の李朝朝鮮時代の鬱陵島地図
16世紀~19世紀の色々な地図の中の鬱陵島干山島

 韓国の外務省はこの地図(上の地図12-1の右側)を提示しながら、于山独島だと主張してきました。中学・高校の韓国史の教科書も、そのように教えています。しかし、著者の李栄薫は、独島は鬱陵島の東南87キロ先の海に位置しており、于山が独島であるなどありえないと言っています。池内敏という日本人研究者が、合わせて116枚の地図に描かれた于山島の位置を追跡したことがあります。それによると、17世紀までは于山島はたいてい鬱陵島の西にありました。18世紀に入ると南側に移動する傾向があります。以後19世紀には東に行き、北東方面に移っていく傾向にあります。このように于山島は、朝鮮王朝時代にわたってさ迷い漂う島でした。幻想の島だからです。当然、それは鬱陵島から87キロに位置する独島ではありません

 1417年以降、李朝朝鮮は鬱陵島に人が住むことを禁じました。1883年に再び居住することを許した結果、日本人もアシカ狩りの為に多く暮らしていました。1900年大韓帝国は勅令41号を出して鬱陵島を群に昇格させ、群主を派遣しました。その時、群の領域を定めるのに際し「鬱陵全島と竹島と石島を管理する」としました。ここで竹島とは独島ではなく鬱陵島の近くの竹島で、石島とは観音島です。鬱陵島近くの人の住む島はこの二つ以外にありません

 1905年、日本は独島(竹島)の履歴を調査し、朝鮮王朝に所属していないことを確認した上で、独島を「竹島」として自国の領土に編入しました。この事実を知った鬱陵郡主が「本郡所属の独島が日本に編入された」と報告しましたが、中央政府がそれに対して何の反応も示しませんでした。大韓帝国がこの時点で異議を唱えなかったことは、領土紛争における決定的なことであったと考えられます。
 日本政府が独島問題を国際司法裁判所に提起する様主張していますが、韓国政府がこれに応じないのは、率直に言って、独島が歴史的に韓国固有の領土であることを証明できる国際社会に提示できる証拠が、何一つ存在していないからです

慰安婦問題の真実

 

 1991年、日本軍慰安婦問題が発生しました。金学順という女性が、日本軍慰安婦だった自分の経歴を告白しました。以降、170人以上の女性たちも同様な経験者だったと告白し、自分たちを慰安婦として連れて行った日本軍の犯罪行為に対して、日本の謝罪と賠償を要求しました。それから今まで28年間、この問題を巡って韓国と日本の関係は悪化の一途を辿ってきました。韓国人の日本に対する敵対感情はますます高まり、日本の首相が何回も謝罪をし、補償を試みましたが、彼女達を支援する団体(後で詳しく説明します)はこれを拒否し、日本に法律を制定して公式の謝罪と賠償を行うことを要求し、問題の解決は遠のくばかりです
 著者の李栄薫氏は、問題の実態を客観的に理解しない韓国側の責任が大きいと言っています。また、この問題に関する韓国側の優れた学術書は存在しないとも言っています。今回、この本の中で著者の李栄薫氏は、慰安婦に係る全体像を実証的に説明しようと試みています

1.李朝朝鮮時代の慰安婦
 普通の韓国人は、朝鮮王朝時代は性に関しては清潔な社会で、20世紀の売春業は日本が持ち込んだ悪い風習だと思い込んでいます。しかし、これは事実ではありません。著者の李栄薫氏は、「世界史に於いて性的に清潔な社会は存在したことがなく、今でもそうだ」と言っています。
 朝鮮王朝時代、女性に強要された貞操律は、あくまでも「両班」身分の女性が対象でした。「常民」や「賤民」身分の女性はその対象ではありませんでした。中でも「女卑」や「妓生(キーセン)」のような「賤民」身分の女性は、男性たちから至る所で性暴力を受けていました

 朝鮮王朝の地方行政機構である監営や郡県(地方行政区画)には、「」が居り、水汲み、料理を行う「汲水卑」と呼ばれる「女卑」と、官衛(かんが;朝鮮王朝時代の地方官庁)で行われる宴会や行事で歌って踊る役となる「妓生」(「酒湯)とも呼ばれていました)が居ました。「妓生」はまた、官衛を訪れてきた賓客の寝室に入り、性的慰安を提供する役も担っていました。こういう事を指して「房直」または「守庁」と言います
 民間の「女卑」、すなわち「私卑」も大事なお客様が訪れてくると、「私卑」が性的慰安を提供する役(房直、守庁)も担っていました

 両班官僚が妓生の性をどの様に支配し、享受したかに関しては、慶尚道蔚山府出身の朴就文の例が良く知られています。1617年生まれで、1644年に武科(武将になる国家試験)に合格した人です。合格の翌年の12月から1年5ヶ月間、咸鏡道の会寧と鏡城で軍官を務めました。彼は蔚山を出発してから帰るまでの毎日の生活振りを「赴北日記」に残しました。この日記には、赴任の途中で官衛の「妓生」や民間の「私卑」に夜伽の相手を務めさせたこと、会寧に到着するまでに150人の「妓生」、「私卑」と床を共にしたことなどが記録されていますまた、赴任地に到着すると、房直妓生配属されましたが、これだけでは満足せず、他の多くの妓生との性を求めた(特に、国境地帯の諸村を巡視する過程で)ことも記録されています

 妓生の身分は「」であり世襲制(妓生の娘は妓生、、)を取っていましたが、この身分制に係る法律を作ったのは朝鮮王朝初期の世宗(第4代;1397年~1450年)ですが、かれは「妓生」を「軍慰安婦」としての制度化も行いました。前述の「赴北日記」によれば、1645年に鏡城府に属した妓生は100人に上ると書いてあります。恐らく全国では1万人に達していたのだはないかと推定できます。この妓生制度は20世紀初めの朝鮮王朝滅亡(1910年日本に併合;1997年に朝鮮王朝は「大韓帝国」に改称されています)まで続いていました

2.日本統治時代の慰安婦(1910年~1945年)
 1916年、朝鮮総督府は「貸座敷娼妓取締規則(ベースとなったのは1900年明治政府が日本で発布した娼妓取締規則です)を発布し、公娼制を施行しました。ここで娼妓というのは、性売買を専業とする女性のことをいいます

貸座敷娼妓取締規則の内容
 娼妓が営業を行うには、貸座敷営業者が連署した申請書を管轄警察署に提出し許可を得る必要がありました。貸座敷とは娼妓を受け入れる「貸座敷営業者が提供する営業場所(通称”遊郭“)」のことです。娼妓が申請書を出すときには、娼妓の父、母、などの戸主が印鑑を押した就業承諾書」、娼妓と抱え主間の「前借金契約書」、「健康診断書」、「娼妓業を行う理由書などが添付されねばなりませんでした。また、娼妓の住所は遊郭区域に限定されていました。一方、貸座敷営業者は、毎月、娼妓の営業所得」、「前借金の償還実績」などを警察署長に報告しなければなりませんでした。娼妓は、毎月2回定期的に「性病検診」を受けなければなりません。尚、娼妓を辞める時は、許可証を警察署長に返納し、「廃業許可」を得なければなりません

 公娼制は、近代の西欧諸国ではじまりました。規則は「娼婦登録制」、「性病検診義務」、「営業区域の集中制を基本要件としていました。「娼婦登録制」は、娼婦と抱え主の関係に国家が介入し、不当な契約条件を取り締まり、待遇を改善するためです。「性病検診義務」は性病を予防し、国民の健康を守るためです(特に兵士たちの性病感染を防ぐため)。「営業区域の集中制」は、売春業による風紀の乱れから一般社会を保護する為でした

 朝鮮に於いては、1916年の公娼制施行をもって身分的性暴力の時代が去り商業的売春の時代が始まったことになります。しかし、この移行は漸進的、且つ段階的な過程を踏みました。因みに、1929年時点での貸座敷娼妓の営業状況は、下表のとおりです。娼妓の人数、遊客の人数両方で日本人が圧倒的に多かったことが分かります;

貸座敷娼妓の概況_1929年

 上表から日本人と朝鮮人の遊客一人当たりの遊興費には2倍の差があります。娼妓一人当たりの月の売り上げは102円となり、その内三分の一か二分の一が娼妓の分け前としても、34円か51円となり、当時小学校卒の女工の月給が18円程度なので待遇はかなり良かったと考えられます

ソウル新町の遊郭街

 日本から朝鮮に移植された公娼制が持つ重要な特徴の一つは、遊郭区域は最初から日本軍が駐屯した所と密接な関係がありました。因みに、上の写真の新町遊郭は、朝鮮駐箚軍の本部近くにありました

 1930年代半ばから、娼妓と誘客の中心が朝鮮人に移り、大衆的売春業に様変わりしました。少数の日本人のための特権的売春業が、多数の朝鮮人のための大衆的売春業に発展したことになります。下表は、仁川にあった敷島遊郭の1925年と1938年の営業状況です。尚、敷島遊郭は朝鮮人楼日本人楼に分かれていました;

仁川敷島の遊郭の営業状況

 公娼制の大衆化過程は、同時に日本から移植された公娼制が朝鮮風に変わる過程でもありました。公娼制下で売春業に従事した女性たちは大きく三つの部類に分けられます;
娼妓:これまで述べてきた売春を専業とする女性たち
芸妓:芸妓屋や料理屋で舞と歌を披露する芸能の所持者です。芸妓の売春は許可されていませんが、客の要求がれば売春を行うことが普通でした。朝鮮王朝時代の伝統妓生もこの範疇に入ると思われます
酌婦:料理屋や飲食店の客席に座り客を接待します。酌婦の売春は許可されていませんが、客の要求がれば売春を行うのが普通でした

 朝鮮王朝時代の妓生はもともと一牌、二牌、三牌に分かれていました;
一牌:宮中官衛の宴会で舞と歌を披露した一級芸能の所持者で売春とは無関係でした
二牌:
芸能水準が一牌より低く、売春も兼業していました
三牌:芸能の訓練を受けたことのない自称妓生
で、主に売春に従事していました
 1930年代に入って、朝鮮人芸妓が急増したのは、主に二牌三牌が芸能名簿に名前を登録し、料理屋に出て歌と舞を行いつつ売春を行ったことを意味します。後に日本軍慰安婦になった女性達の相当数が、妓生養成所の役割を担った券番(遊郭で芸者の取り次ぎや送迎,玉代の精算などをした所)や料理屋の妓生出身であったのは、この様な朝鮮特有の歴史的な背景があったからでした

 1916年の貸座敷娼妓取締規則に関連する規則によれば、貸座敷の店主は雇人周旋業をしてはならないことになっていました。従って、売春業も一種の労働市場であるため職業紹介所の様な市場機構が出来上がりました。娼妓の周旋業社間では、”小売市場ー卸売市場ー中央市場“の様な周旋業の階層が成立し、募集した女性たちを地域内または地域間、更には国境を越えて送り出すシステムができました
 前述したとおり、女性が娼妓になる為には、戸主の就業承諾書が必要でした。戸主は普通父親ですが、母親、母親が居なければ兄や他の親族がなりますが、周旋業者はこの戸主を説得して就業承諾書に印鑑を押させます。朝鮮王朝時代は家族という言葉はありませんでしたが、日本の統治が始まって「戸主制家族」が成立し、20世紀の朝鮮人の家庭生活や精神文化に大きな影響を及ぼしました。戸主は家族構成員を養育し保護する権利と義務を負うことになりました。家族内での出生、死亡、結婚、離婚、養子縁組、相続、分家、などは戸主の承認が必要です。家族構成員が取得した所得は戸主の所得になります。戸主には娘の就業を承諾する権利がありますので、周旋業者が来て戸主に若干の前借金を提示すれば、貧困家庭の戸主は娘の娼妓就業承諾書に印鑑を押してしまいます。娘には拒否する権利がありませんでした娘は泣きながら周旋業者に連れて行かれることになりました。これらが公娼制を取りまく、所謂「人身売買」の実態です。
 朝鮮王朝時代には、この類の人身売買はありませんでしたが、奴婢だけは主人の財産なので売買は自由でした。朝鮮王朝全盛期の奴婢の人口は3~4割にも達していました。19世紀に入ると、一般常民身分の人が、自分と家族を奴婢として売る「自売」という現象がありますが、父親が家族を売ることはありませんでした

売春業の域外進出
 公娼制の成立と大衆売春社会の成長は、売春業が域外進出していく過程でもありました。1910年代末には、関東州と南満州一帯で日本人と中国人を顧客とする朝鮮人売春業が登場しました。1931年の満州事変以降、満州の主要都市で売春業は大きく成長しました。因みに、1940年、満州国全体で各種売春業に従事する女性は 38,607人、内中国人は52%、日本人が35%、朝鮮人は12%でした。朝鮮人が接客業を行う事業所は、599軒、事業所当たり平均7~8人の女性が働いていました(当時、朝鮮内では娼妓、芸妓、酌婦の総数が9,580人であり、満州国では約半分の規模となります)。尚、満州では、性売買を専業とする娼妓はおらず、酌婦が娼妓の役割を果たしていました。満州の売春市場では、最上級市場は日本人売春業、その次が朝鮮人と下層日本人を顧客にする朝鮮人買収業、その次が中国人売春業でした

従軍慰安婦
  1937年の第二次上海事変以降、日中戦争が本格化し、北京から広東までの広大な沿岸地域を占領した後、内陸の奥深くまで進出しました。それと共に、大量の朝鮮人が新しい仕事を求めて日本軍占領地域に入っていきました。彼らは軍の後について軍が必要とする雑貨類を運搬し、特殊婦女子の一団をつれて軍慰安所を開業しました
 1941年時点で中国河北に定着した朝鮮人の総数は52,072人(16,511戸)、その内の362戸が料理屋、飲食店、カフェを経営し、
11戸が慰安所を開業していました。これらの事業所に所属する娼妓、芸妓、酌婦、女給は全部で1,292人で、内219人は軍慰安所に所属する慰安婦でした
 日本軍は、1937年以降、①将兵の性欲を解消し、②性病を防ぎ、③軍事機密の漏洩を防ぐ為に、軍の付属施設としての慰安所を設置しました。「慰安婦」という言葉は、慰安所が軍主導で設置されてから生まれた言葉と言われています。著者の李栄薫によれば、日本軍慰安婦制は、民間の公娼制が軍事的に動員・編成されたものに過ぎないと言っています

 慰安所には多様な形態がありました。軍が直接設置して運営したものもありますが、殆どは民間の慰安所を軍専用の慰安所に指定し、管理する形態でした。慰安所には軍が定めた運営守則(1916年朝鮮総督府は発布した「貸座敷運営守則」とほぼ同じ内容)がありました;

日本軍が関与した慰安所の壁に貼り出されていたいた慰安所規定

 将兵が慰安所を利用するには、部隊長が発給した許可証が無ければなりません。利用時間帯と長さは階級によって異なりました。概ね、兵士たちは昼間、将校は夕方か夜でした。花代は階級によって異なります慰安所内での飲酒や放歌などは禁じられていました慰安婦に対する乱暴な行動は取り締まりの対象になりました。慰安所の入り口で許可証を見せて花代を払うと、店主がサック(コンドーム)を支給(コンドームの着用は義務事項)しました。慰安婦たちは定期的に性病検診を受けなければならず、月2回の休日以外はむやみに外出することはできませんでした
 民間の慰安所と比べ、軍慰安所での仕事は「高労働、高収益、危険」なものでした。慰安婦の数は、概ね兵士150人に対して一人であり、慰安婦の一日当たりの相手は5人程度と推定できます。当時、大阪遊郭区域における一日当たりの相手2.5人と比べると労働強度は2倍となります。労働強度が高い分、高収益でした。兵士たちの花代は民間遊郭よりも安かったのですが、将校の花代は民間とほぼ同じでした。軍の管理が厳しく店主の中間搾取が統制され、軍慰安所は需要が確保された高収益の市場でした
 軍慰安婦は、少なからぬ金額を貯蓄し、実家に送金もしました。ただ、第一線に配置された慰安婦は、危険にさらされることがありました。特に南太平洋とビルマの戦線で日本軍が崩壊した時は、命を落とす慰安婦もありました。しかし、殆どの軍慰安婦は戦後無事に帰還しました。戦争が終わる以前にも、少なからぬ軍慰安婦が契約期間が満了して慰安所を離れました
 満州、台湾、日本、中国で活動した慰安婦は、全て合わせて19,000人、その内3,600人が軍慰安婦であると考えられます

 軍慰安婦問題で、最も深刻な誤解は、慰安婦たちが官憲によって強制連行されたというものです。例えば、憲兵が道端を歩く女学生や畑で仕事している女性たちを、奴隷狩りをするように強制的に連れていったなど、、、

井戸端で日本軍に強制連行される朝鮮人少女のイメージ

 こんな話をもっともらしくした本を書いた人は日本人でした。彼は1983年、「私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行」という本を書き、その中で「1943年、部下6人と共に済州島の城山浦に行き、ボタン工場で働く女性16人を慰安婦にするために連れて行った」と書きました;

吉田清治の本

 この本は、韓国人に大きな衝撃を与え、以後の慰安婦問題発生に大きな役割を果たしました。また、この本が刊行された後、済州島の郷土史家と記者達が、関連証言を聴取しようとしましたが、城山浦の住民たちは、そんなことは無かったと否定しました。それどころか、本を売るための軽薄な日本人の悪徳商魂だと憤慨しました

 強制連行説を煽ったもう一つのは、女子挺身隊との混同です。1991年、金学順という女性が、日本軍慰安婦だった自分の経歴を告白しました時、これを報道した「朝鮮日報」は慰安婦を挺身隊と書きました。挺身隊は、戦時期に女性の労働力を産業の現場に動員したものです。1944年8月、日本は「女子挺身勤労令」を発布し、12歳~40歳の日本女性を軍需工場に動員しました。しかし、この法律は朝鮮では施行されませんでした。ただ、官の勧めと斡旋で接客業の女性あるいは女学生が挺身隊として組織され、平城の軍需工場や仁川の工廠で2ヶ月ほど働いた事例はあります。日本の軍需工場まで行った挺身隊もありますが、その総数は2,000人程度と推測されています。
 慰安婦問題が起きた時、韓国国民は慰安婦と挺身隊を混同し、人々は限りなく憤怒しました。つまり、日本軍慰安婦問題は、最初からとんでもない誤解と無知から爆発したものでした。慰安婦問題を主導した「韓国挺身隊問題対策協議会(通称:挺対協)」は、挺身隊と慰安婦が別物であることが明確になったあとも、ごく最近まで団体名を変えようとしませんでした。今でもなお6種の国定教科書には、「日帝が女子挺身勤労令を発動し、一部の女性たちを日本軍慰安婦にするために連れて行ったと書かれてあります

日本軍慰安婦問題の解決を難しくさせたもう一つの要因は、その人数がとんでもなく誇張されたという点です。「朝鮮人慰安婦は20万人も居たという荒唐無稽な説が教科書にも載っていました今もなお、教科書によっては数万人といい、その人数を誇張しています。20万人という数値を最初に言及したのは、1969年の某日刊紙でした。この記事の中で「1943年~1945年、挺身隊として動員された日本人女性と朝鮮人女性は20万人で、その内朝鮮人女性は5万~7万人だった」と書いています。しかし、1984年になると、宗建鎬という人が自分の書いた本の中で「日帝が挺身隊として連行した朝鮮人女性は20万人で、その内5万~7万人が慰安婦だった」と書きました。これが、朝鮮人慰安婦20万人説となりました
 朝鮮人の軍慰安婦の人数を、データの残っている数値から推算してみると;1937年、日本軍が慰安所を設置した当初、慰安婦は兵士150人に1人の比率(既に述べています)で確保しました。そうすると全日本軍270万人を相手にすべき慰安婦は18,000人程度になります。一方、1942年に日本軍が将兵に支給したサック(コンドーム)の数は3,210万個、この数から1日のサックの使用量を求め、1人の慰安婦が1日に5人の兵士を相手にした(既に述べています)とすれば、やはり18,000人に近い数字になります。一方、慰安婦たちの民族構成は、日本人40%現地人30%朝鮮人20%その他10%と推算するのが一般的です。この比率で計算すると、朝鮮人の慰安婦は3,600人ということになります。ただ、慰安所を離れ民間に戻ってきた女性たちもいることから、軍慰安婦を経験していた人数はこの倍くらい居るかもしれませんが根拠はありません

 韓国において、日本軍慰安婦の性格を「性奴隷」としてきた学説があります。①日本の吉見義明名誉教授(中央大学;歴史学者)は「慰安婦たちは行動の自由が無く、事実上献金された状態で意図しない性交を強要され、日本軍は彼女達を殴ったりけったりするなど乱暴に扱っており、店主への前借金と増えていく利子に縛られて、お金を稼ぎ貯蓄する機会を持っていなかった、だから日本軍の性奴隷であった」と主張しています。性奴隷説を主張するもう一人の研究者は、②日本の宋連玉教授(青山学院大学経営学部教授;在日朝鮮人二世)です。彼女は「娼妓と酌婦は自由意思で廃業することができず、ならず者の監視のもと、事実上監禁された状態で客と接しなければならず、抱え主の前借金に縛られ、化粧品などを購入する為に借りたお金も利子となって増えていく、耐えられない隷属状態にあった」と主張しています
 しかし、米軍の捕虜となった慰安婦を尋問した記録などを見ると、「1943年に東南アジアの日本軍は、前借金を償還し、契約期間が満了した慰安婦の帰郷を許可しました。また、朴治根が帳場人として勤めたシンガポールの菊水倶楽部では、1944年の一年間、20人余の慰安婦のうち15人が廃業し、朝鮮に帰りました。ビルマのラングーン会館の文玉珠と彼女の同僚5人は、共に許可を得て慰安所を出ました。この様に慰安所の居住は、本人の選択による流動性を特徴としていました著者の李栄薫氏は、吉見義明名誉教授宋連玉教授の「性奴隷」という主張は、然るべき証拠が提示されたことが無い先入観に過ぎない」と結論づけています

 上述の宋連玉教授は、性奴隷説を民間の公娼制にまで拡張していますが、これは納得しがたい主張です。1924年、道家斉一郎という人が、平安北道(北朝鮮の西側地域)を除く朝鮮全域に居住する娼妓、芸妓、酌婦の移動状況を調査したことがあります。これによると、1924年の1年間、娼妓などとして新規に就業した女性は3,494人でした。一方、廃業して娼妓名簿から削除された女性は3,388人でした。「朝鮮総督府統計年報」によると、1923年に全国に居住した娼妓、芸妓、酌婦の総数は7,527人でした。従って、1924年に廃業した娼妓等は45%になります。平安北道が除かれている為、実際の廃業率はもっと高かったはずです。このことから、娼妓等の勤続期間は2年6ヶ月程度であることが推算できます。勿論、不運にも売春業から抜け出せなかった女性たちもいました、娼妓として10年以上に及んだ人も、人生に絶望して自殺した女性もいました。しかし、その人数を誇張したり、売春業の実態を覆い隠したりすることがあってはならないと、著者の李栄薫氏は言っています

3.米軍統治時代・ 韓国独立後の の慰安婦(1945年~)
 慰安婦制は日帝の敗北と共に消えたわけではありません。韓国軍慰安婦米軍慰安婦民間慰安婦の形態で存続しました。1946年日本が移植した公娼制が廃止されましたが、民間の売春業は私娼制に変わっただけでした
 朝鮮戦争による破壊と混乱の中で、性売買に従事する女性が日帝時代の10倍にもなりました。労働強度は日本軍慰安婦時代とさほど変わらないにもかかわらず、国家からの保護が無い為、所得水準は下がりました。また、私娼街の暴力は、その時代の文化でした。彼女たちの健康状態は最悪でした。1959年、ダンサー、慰安婦、接待府、密娼の性病感染率は26%にものぼりました。女性達の体がどれほど虐待されたかは、以下の表を見ればよく分かります;

群山市慰安婦の人工中絶回数の記録_1964年

 基地村の慰安婦の抱え主は、妊娠した慰安婦に中絶を強要しました。この当時の基地村の慰安婦たちは、妊娠と中絶の恐怖に無防備に晒されていました。これに比べれば、日本軍慰安婦は保護された境遇にありました。前述の朴治根の日記に出てくる女性たちの妊娠件数は、ビルマで1件、シンガポールでも1件に過ぎません

米軍基地村慰安所風景_1965年


4. 韓国挺身隊問題対策協議会(以下”挺対協”)の活動史

 1990年から、慰安婦問題がどの様に展開していったか分析するには以下の3者のプレーヤーの活動に注目するひつようがあります:挺対協、 韓国政府、 日本政府 
① 1990年11月に挺対協が結成されました。メインメンバーは、1970年以来妓生観光を告発、批判してきた韓国協会女性連合会と、慰安婦問題を研究してきた梨花女子大学(韓国ソウル)の尹貞玉教授です。二者は1988年から一緒に慰安婦問題を扱ってきました。彼らは、慰安婦の足跡を探す目的で、沖縄、九州、北海道、東京、埼玉、タイ、パプアニューギニアなどを踏査したあと、1990年1月、「ハンギョレ新聞」は「挺身隊、怨魂の足跡の取材記」を4回に亘って連載しました。「怨魂」とは、「朝鮮人女性たちが日本軍によって戦争中に慰安婦として使役され、敗戦の時に虐殺された」という意味です。彼らは、慰安婦を挺身隊と間違えるほど事実関係を知らないにもかかわらず、日本による慰安婦虐殺という先入観をもって活動を開始しました
 挺対協を組織する前から日本政府に、慰安婦の強硬連行の事実認定謝罪を要求する書簡を出していました。日本政府が慰安婦の強制連行を否認すると、大々的に世論化する必要性を感じ、原爆被害者を中心に慰安婦被害生存者を探し「金学順」と出会いました。1991年8月14日、金学順証言を発表することに成功します
 次いで12月には文玉珠、金福善の証言を発表することに成功し、済州島での慰安婦狩り
を書いた吉田清治の書いた本がこれに油を注いだ結果となり、連日のように新聞の紙面を覆いました

② 1992年1月11日、日本の中央大学の吉見義明教授(当時)が防衛研究所の図書館から得た資料(「陸支密大日記・軍慰安所従業婦等募集に関する件」;昭和13年3月4日、陸軍省兵務局兵務課起案、北支那方面軍及び中支那派遣軍参謀長宛)から日本政府が慰安婦の募集と慰安所の運営に関与したと発表しました。これは、それまでの日本政府の公式な立場を否定するものでした。挺対協は、日本政府の責任が明らかになった以上、謝罪と補償、それから徹底した真相解明を要求しました。1992年1月17日に訪韓した宮沢喜一首相は、韓国の国会で慰安婦問題に対して謝罪を行いました。

③ 1992年7月、日本政府は「慰安婦第一次調査報告書」を発表しました。軍慰安婦募集に日本政府が関与したことを認めながら、強制連行の証拠は発見されていないという内容でした。これを受け、加藤紘一官房長官は謝罪を行なうとともに、何らかの措置を取ることを明らかにしました。同年12月から第二次調査を実施し、1993年8月に報告書を発行しました。日本政府は、軍部が慰安所の設置、経営、管理、慰安婦の移送に直接・間接的に関与したことを認めました  
  1993年8月4日、慰安婦関係関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話(通称”河野談話“)を発表。しかし、挺対協は、この謝罪を拒否

1992年8月、挺対協は、国連人権委員会小委員会の委員たちに、日本軍慰安婦が「現代型奴隷制」であると宣伝・ロビー活動を行いました。小委員会は、娼婦問題を主題にして、1996年~1998年に「戦争中の組織的強姦、性奴隷制及び類似奴隷制に関する報告書を発表しました。日本軍慰安所は「強姦センター」であり、国際法に違反している、という内容でした。挺対協の宣伝の結果、国連人権委員会女性暴力問題に関する特別調査報告官を任命しました。1996年、この報告官が「戦争中、軍隊の性奴隷問題に関する調査報告書」を発表しました。
 当時、ユーゴスラヴィアで内戦が起き、「民族浄化」と呼ばれるほどの殺傷、強姦と強制妊娠などが行われていて、セルビア系の兵士たちがボスニア系の女性たちを集団暴行した事件で、日本軍慰安所もそのようなものと一緒にされ、女性に対する戦争中の性暴力、戦争犯罪と見なされました

韓国政府は、挺対協と違って河野談話を肯定的に評価しました。慰安婦被害に関する補償、賠償については、1965年の請求権協定によって新たな対日請求は要求できない、という立場で、金泳三政権は韓国政府で元慰安婦を支援することに決めました。1993年6月、「慰安婦被害者に対する生活安定支援法」が制定され、生存慰安婦申告者121人に対して生活安定金500万ウォン(約50万円)と毎月の生活支援金15万ウォン(約1万5千円)、」及び永久賃貸住宅優先入居権を提供しました。日本政府法的賠償ではない、道徳的責任という趣旨で慰労金を支給することに決定しました。
 解放50周年にあたる1995年8月15日、村山富市首相が、所謂「村山談話」を発表しました

⑥ その後、日本政府は「女性のためのアジア平和国民基金(以下”国民基金”)」を設置しました。日本企業と国民から募ったお金で財団法人を組織し、その基金から慰安婦一人当たり200万円の慰労金を支給し、日本政府は政府資金で医療費の支給財団運営費を支援することとしました
 しかし、挺対協はこれを拒否。慰安婦を支援している挺対協が反対するので、韓国内では元慰安婦たちが公に日本の国民基金を受け取りずらくなりました。そこで国民基金は、財団の基金を受領した名簿を公開しないこととし、1997年に7人に対して慰労金の支給を始めましたが、激しい抵抗にあって1998年事業を中断、結局2002年には韓国内での慰労金支給を終結しました。日本の国民基金は、2007年に解散するまで、総計364人に慰労金を支給し、推定慰安婦7百余人のうち半分程度は受け取ったことになります(支給率40%という説もあります)。基金の民間募金額は5億7千万円、総費用は46億2千百万円ですので、費用の90%は日本政府が負担したことになります
 韓国政府金泳三政権)は、挺対協主導の世論に押され、当初の了解を違え日本の国民基金の支給に反対しました。その結果、韓国政府は、国民基金以上の額の個別慰労金を支給することにしました。1998年に誕生した金大中政権は、慰安婦申告者186人に、1人当たり3,800ウォン(約380万円)を支給しました。その際、国民基金を受け取った元慰安婦には韓国政府のお金は渡さないことにしました

⑦ その後挺対協は、慰安婦問題の国際問題化するための努力を続けました。海外の人権団体と共に、2000年に「東京模擬法廷」を開廷し、慰安婦国際戦犯裁判を行いました。この法廷で、昭和天皇などに強姦と性奴隷犯罪の有罪判決を下しました。また、2007年には米下院と欧州議会で、日本政府に慰安婦問題解決を促す決議案を出させることにも成功しました

挺対協は、韓国内でも慰安婦に対する世論づくりを続け、2011年12月には、水曜集会1000回目を記念してソウル市の日本大使館前に慰安婦少女像を建て日本政府に対する圧力を強めました
 韓国政府李明博政権)は、大使館前の慰安婦像設置が、大使館の保護などを規定したウィーン条約22条2項に違反しているにもかかわらず、何の対応も行いませんでした

慰安婦像

⑨ 2006年に、元慰安婦たちは、日本軍慰安婦の賠償請求権問題の解決を図ってこなかったことは基本権侵害で憲法違反だと憲法裁判所に訴えて出ました。2011年に憲法裁判所は「韓国政府が日本軍慰安婦の賠償請求権に関する韓日間紛争を解決しようとしなかったのは違憲」という判決を下しました
 そこで、韓国政府朴槿恵政権)は、日本政府と水面下で交渉を重ね、韓国の外交通商部長と日本の外務大臣の間で慰安婦合意案を発表しました。また発表の夜、安倍晋三首相と朴槿恵大統領との首脳会談で合意を確認しました。合意内容は、日本政府から10億円の慰労金を貰って財団を設立し、個別被害者に慰労金を支給し、これを以て日韓両国間で「最終的かつ不可逆的に解決することを確認」し。「国際社会において、本問題について互いに非難・批判することは控えると約束しました
 この合意に対して、 挺対協が強く反発しました。しかし、朴槿恵政権は、2016年に「和解・癒し財団を設立し、被害者個人に対する慰労金支給を実行に移しました。これで相当数の元慰安婦と遺族が一人当たり1憶ウォン(約5千万円)の支給を受けました。2018年11月の時点で、癒し金を受け取った元慰安婦は34人、約2千万ウォン(約200万円)を受け取った遺族は58人。しかし、挺対協はこれにも反発を続けました

朴槿恵政権が倒れたあと、韓国政府文在寅政権)は、2018年11月に「和解・癒し財団」を解散し、2015年の合意も正式に破棄し、再交渉も要求せずに合意事項を無効化しました
 2016年12月、一部の元慰安婦と遺族の20人は、「精神的かつ肉体的苦痛を強要された」と日本政府に対して総額30億ウォン(約3億円)を求める訴訟をソウル中央地方裁判所に起こしました。これに対して日本政府は、「国家は、同意なしに他国の裁判所で被告になることはない」という国際法上の主権免除の原則に基づき拒否しました。1919年5月初め、裁判所は審理を開始することを決定しました

<参考>
 日本政府がこれまでに行ったってきた慰安婦に対するお詫びの内容については、今年1月に発行した私のブログ(日韓関係について勉強してみました)をご覧になってください

Follow_Up:月間文芸春秋の1月号に”韓国高校生は「反日教育」に反対します“というインタービュー記事がでていました

おわりに

 この本を読んだ後、正直に言って「暗澹たる気持ち」になりました。特に、慰安婦問題は、ここ迄こじれると解決の糸口も見いだせないような気がしました。現在50万人近くの在日朝鮮人(韓国籍+北朝鮮籍)が国内に住んでおり、更に日本に帰化した朝鮮人、婚姻によって日本人姓を名乗っている人も相当数在住していることを考えると、少なくとも同じ自由主義圏にいる最も近い隣国であり、文化の繋がりも強い韓国の国民と、永久に和解できないのではないかと悲観的になってしまいました
 日本が辿ってきた負の歴史を覆すことはできないことは言うまでもありませんが、その反省を基に、度々行われてきた日本政府トップによる「お詫び」と、日本政府や韓国政府によって慰安婦やその遺族に支給されてきた多額の慰労金によっても解決できていないのが現実の姿です

 ことの発端は、軍慰安所の設置に日本軍が関わっていたという当り前の事実を、当初日本が正式に認めていなかったことと、吉田清治という日本人が、自身で慰安婦を強制連行したというウソを本を書いたことにあると思われます。また、挺対協による執拗な韓国内や世界に対する世論操作が、日本軍慰安婦問題を解決不能の様な現在の状況に追い込んだことも確かです。しかし、戦争が終結してから40年以上経過してからこうした戦争の負の側面が表面化し、反日の巨大なうなりになっていることは、世界史的に見ても異常であるに違いありません

 この本の6人の著者は、この原因が日本にあるのではなく、韓国特有の種族主義にあると言っており、我々日本人にとってはそれなりに説得力があると思います。しかし、彼ら積み上げてきた実証作業のみによって、韓国で現在もなお行われている間違った歴史教育を正し、韓国世論の状況を変えていくのは中々困難であると思います
 そこで、日本としても、この本が韓国で出版されベストセラーになっている機を捉えて、現在の韓国の政治、社会状況を変えていく手伝いをしなければならないのではないでしょうか。少なくとも挺対協による執拗な国際世論操作を今後も許すことがあってはならないと思います。戦争の負の遺産を声高に主張することは日本人の得意とするところではありませんが、外務省を通じて間違いは間違いとして国際世論に積極的に訴えていく努力が必要になると思います

Follow_Up:週刊ポスト2020年1月3日・10日号に韓国の若者、北朝鮮が好きで日本には「恨」の感情抱く絶望_井沢元彦という記事が出ていました

Follow_Up:ニューズウィーク日本版2020年2月11日号にという日本文化に惚れ込んだ韓国人たち記事が出ていました

以上