「玄冬の門」を読んで

先週都心に出たついでに本屋に寄り、あちこち徘徊している内に目に止まって買って帰ったた本が二冊ありました。「日本共産党研究」(産経新聞政治部)と「玄冬の門」(五木寛之)です。昨日は雨模様で屋上菜園の仕事も出来なかったことから一気に読む通すことができました。

前者は、発行日が今年の6月1日となっていることから分かる様に、参議院議員選挙に向けて野党統一候補作りでリーダーとなった“元気のいい共産党を牽制するために急遽編集されたもののようです。内容は、概ね私が知っていることの域を出ないものでしたが、巻末に入っている最新の「日本共産党綱領」(2004年1月17日・第23回党大会)と年表「日本共産党の歩み」(1922年の結党の時から現在まで)は手軽な参考資料として使えそうな気がします。今日は丁度選挙の投票日、野党4党連合の思惑が叶うかどうかが決まる日になります

後者の「玄冬の門」は、発効日が6月20日の新書版で字が大きいので2時間もかからずに読み切ることができました。古希を過ぎた私にピッタリの内容だったので、5年ほど前の同著者の作品「下山の思想」と同様、これからの生き方の参考にしたいと思いました。読まれていない方の為に、内容の一部を以下に紹介します

中国では、人間の一生を以下の5つに分けて考えます;
① 青春:若々しい成長期
② 朱夏:社会に出て、働き、結婚して家庭を築き、社会的責任を果たす時期
③ 白秋:人生の役割を果たした後、生存競争から離れて静かな境地で暮らす時期
④ 玄冬:老年期

同著者の「青春の門」は、20代の中頃、文庫本が発行されてから読みましたが、当時の社会の状況や若者の考え方などがリアルに描かれており、ずいぶん夢中になって読んだ記憶があります。
玄冬の門」は、これと対になっている訳ではないでしょうが、「玄冬」の時期にある我々と同世代の人々が直面している困難な問題を、受け身ではなく自身で解決していく一つの道筋を提供している点で、非常に参考になると思いました

「絆」について
著者は「東日本大災害以降、“絆”ということが盛んに叫ばれましたが、私は、“絆”という言葉にはある種の抵抗感があります。もともとの言葉の意味は“家畜や動物を逃げないようにつなぎ止めておくための綱”という意味でした。我々、戦後に青年期を送った人間は、家族の絆とか、血縁の絆とか、地縁の絆とか、そういうものから逃れて自由な個人として生きることが一つの夢だった。ですから“絆”というのは、自分を縛る鬱陶しいものという感覚が強かったのです」と言っていますが、わたしもあの大災害以降、なにか人間関係の理想のような形で世間に流布している「絆」という言葉に違和感を感じている一人です。

高齢者と若者との間の「階級闘争」:
高齢者の数がどんどん増えていって、若者の数が相対的に減っていく状況の中で、重い年金の負担と、厳しい労働条件の中で働くことを強いられている“貧しい若者”と、働かずに年金と貯蓄で“豊かな暮らしをしている老人”という対立構造は、確かに「階級闘争」と言ってもおかしくない現象かもしれません。また一方で、豊かでない老人の集団として所謂「下流老人」も少なからず居て大きな社会問題になっています。
こうした問題を解決する手段として、「若い世代と高齢世代が融合して親密にやっていくのではなく、ある意味で分かれてもいいだろうと思っています。若い連中は若い連中でやってくれというように」と著者は言っています。これは言い方を変えれば、高齢者たちが若者に頼らず自立していく必要があるということを言っているのだと思います

「孤独死の勧め」:
歳をとって体が弱ってくればどうしても誰かに頼りたくなりますが、著者はこれも諌めて、「家族からも独立しなければいけない」とも言っています。とは言っても高齢者の自立の道は結構険しい道のりのはずです。しかし;
インドのヒンズー教の老人は、自分の死期を悟るとガンジス川の畔まで行って「老人ホステル」みたいなところで死が訪れるまで一人で生活するといいます。
また、著者が親鸞の言葉として「一人いて喜べば二人で喜んでいると思え。二人でいるときは三人で喜んでいると思え。その中の一人は親鸞である、というのがあります。これは“あなたはどんな時でも一人じゃないよ”と言っているのです」と紹介しています。

孤独死を恐れない玄冬期を過ごすために著者が勧める方法:
* 子供の為に美田を残さず使い切るということに徹する
* 家庭内自立を目指す(自分のことは自分でする)
* 再学問を行う(それまでの職業とは違うことを学ぶ)
* 趣味、妄想に遊ぶ
* あらゆる絆を断ち切る
* カジュアルに宗教と向き合う
* 不自由でも出来るだけ介護されずに生きていく
* できるだけ身綺麗にし、機嫌よく暮らす
* 自分の体と対話する
* がんは善意の細胞と思う

現在の老人介護の在り方:
親鸞仏教センターが刊行している研究誌の記事に以下の様な衝撃的な問題提起があったそうです。
* 特別養護老人ホームをもっと作れと言われているが、高齢者の方々は誰一人そんなところに入りたいとは思っていない
* 孫や子供達に囲まれて末期を看取ってもらいたいと思っている人はいますか、という問いに、誰一人頷く人は居なかった
確かに言われてみれば、「高齢者が集まってフォークダンスを踊ったり、タンバリンを叩いて童謡を歌わせられるなんて悲劇的です」、また介護の人が子供言葉で「さあ、食べましょうね~」なんて言うのは如何なものかと思います

最近NHKスペシャルで「介護殺人」を扱っていました。自分が自分でなくなった時まで生きることは、自分の愛する人にまで不幸にする可能性があることを思い知らされました。
著者は最後の方で、「私の考え方としては、人間はこれだけ大変な世の中で苦労しながら生きてきた。生まれるときも自分の意思で生まれてきたわけではないから、せめて死ぬ時ぐらいは自分の意思で幕を引きたいというのが、究極の願望です」と言っています。極めて重い言葉ですが、これから私もたっぷりある自由時間を使ってそのあたりを“妄想”していきたいと思いました

以上

尖閣諸島問題を考える

-はじめに-

現在日中関係の最大の問題は尖閣諸島帰属の問題です。日本側の主張と中国側の主張とが真っ向から対立し、特に石原都知事時代に都がこの諸島を購入してから、両国の緊張関係は明らかに高まっていることは論を待たないことだと思います。
両国が歩み寄る気配もなく、緊張が徐々に高まっていく現在の状況は、第二次大戦後70年以上を平和に暮らしてきた日本人にとって、正に戦後最大の異常事態といっても過言ではないと思います

言うまでもない事ですが、この緊張関係を回避する特効薬は、「尖閣諸島の領有権を放棄する」ことです。しかしこの策は、排他的経済水域(200海里以内)や軍事的なプレゼンスの問題を別にしても、日本人のナショナリズムを刺激して国論を過激に走らせ、更に大きな戦争のリスクを抱える要因にもなりかねません

とすれば、最善の策は「現在の実効支配の状況を維持する」ことになります。しかし、この状態は、常に色々な形で中国側からチャレンジされることを想定し、対処しなければなりません。これは、今まで国防を全て米国に頼ってきたこの国が、自身の意思と力で自国の領土を防衛するということを意味します
米国の今の政権は、尖閣諸島の防衛は日米安保条約の範囲内である(実効支配が続いている限り)と明言している一方で、尖閣諸島帰属の問題には米国は関与しないと言っています。言い換えれば日本に尖閣諸島を防衛する確固たる意思が無ければ米軍のサポートも得られないということです

であれば、日本自身が;
* 中国の現代史(特に戦争の歴史)
* 領土問題に対する中国の姿勢
をきちんと学習し、理解しておかねば異常事態に対する戦略が立てられません。
以下は、私自身が考えた“尖閣諸島防衛の基本戦略”です;

-中国の現代史(特に戦争の歴史)-

辛亥革命以降の中国は、以下の様に絶え間ない戦争を行ってきました;
<国共合作までの内戦>
 辛亥革命/1911年~12年:1911年10月武昌蜂起により中華民国樹立。1911年1月中華民国樹立、初代大総統に孫文が就任。1912年2月清国・宣統帝廃位。袁世凱臨時大総統就任。1916年の袁世凱病死後は軍閥の群雄割拠の時代になりました。
 南京政府樹立:1927年、蒋介石は南京に政府を樹立し共産党軍の排除を始め、1930年12月からは7次に亘る大規模な共産党軍掃討戦を行いました
 瑞金臨時政府樹立:1931年、毛沢東は江西省瑞金に臨時政府を樹立しました。1934年10月、瑞金を攻撃された共産党軍は6万5千人の犠牲者を出して延安に逃れました(長征
 西安事件:1936年12月、張学良に拉致された蒋介石は、共産軍との戦闘を止め、一致して日本軍と戦うことを約しました(国共合作

<日中戦争:15年間
 1931年~1937年:1931年9月柳条湖事件(張作霖の爆殺)を機に関東軍が北支に侵入し、満州事変が勃発しました。1932年3月には宣統帝を担ぎ出して満州国を樹立しました
 1937年~1945年:1937年7月の盧溝橋事件を契機として日中が全面戦争に突入しました。同年8月に上海事変、同年12月には中華民国の首都、南京を攻略しました。以降日本は中国各地で国共合作成った国民党軍、中国共産党軍(八路軍)と泥沼の様な戦争を続けることを余儀なくされました
 1945年8月、日本の無条件降伏

(参考) 日中戦争における中国側発表の犠牲者数
*約130万人/軍人:1946年、中華民国国防部発表
*約440万人/軍民合計:1947年、中華民国行政賠償委員会
*約1300万人/軍民合計:1947年、国民党行政賠償委員会
*約2100万人/軍民合計:1985年、共産党抗日勝利40周年
*約3500万人/軍民合計:1995年、共産党抗日勝利50周年で江沢民国家主席がが発表

(参考) 日中戦争時、日本が犯した非人道的犯罪として中国の歴史に記録されていること(日本側の記録には無いか、あるいは犠牲者の数字などがかなり違うことに注意する必要があります);
*生きている人間を使った細菌実験:731部隊により行われた細菌兵器開発の為の生体実験。責任者は戦後米軍への情報提供を条件に戦犯には問われていません
*平頂山事件:1932年遼寧省北部の撫順炭鉱守備隊が行った殺害事件。ゲリラ兵に協力していると見做した無抵抗の村民を3千人殺害したとされています(ベトナム戦争における“ソンミ村事件”と似ています)
*南京大虐殺(中国側資料の表現):1937年、南京に於ける国民党軍掃討の戦闘で多くの死亡者が出ました。30万人の捕虜及び民間人が殺害されたとされています
*重慶無差別爆撃(中国側資料の表現):南京から重慶に拠点を移した国民党軍に対して、1938年~43年に亘って断続的に218回実施された戦略爆撃。1万人以上の犠牲者を出したとされています(東京裁判)
*三光作戦(中国側資料の表現):1940年以降、北支方面軍がゲリラ作戦を多用する共産党軍(八路軍)を討伐するために、これに協力する村民をまとめて殺害したとされる作戦。三光とは、“殺し尽し”、“焼き尽し”、“奪い尽す”という意味です。日本側にはこうした作戦の記録はありません
*万人抗(中国側資料の表現):満州各地の鉱山周辺に多くの人骨が埋められているとされるところ。鉱山で過酷な労働を強いられた中国人労働者の死骸が埋められた所とされ、中には生きたまま埋められた人もあるとされています

<日中戦争終了後の内戦>
 1946年~1949年:1946年6月、蒋介石は国民党軍を動員して共産軍に対して全面的に攻撃を開始しました。最初は国民党軍が優勢であったものの、次第に農民の味方を得た共産軍が優勢となっていきました。1949年10月、全土を掌握した共産軍は中華人民共和国(以下“中共”、又は“中国”)を樹立しました。1949年12月、国民党軍は全軍台湾に撤退し台北を臨時首都としました
*犠牲者数:中共軍/150万人、国民党軍/25万人と言われています

<朝鮮戦争介入>
 1948年8月、李承晩が大韓民国(以下“韓国”)を樹立、一方、金日成は同年9月、朝鮮民主主義人民共和国(以下“北朝鮮”)を樹立しました
1950年6月25日、北朝鮮は宣戦布告無しに38度線を突破して韓国に侵攻を開始しました。開戦当時、北朝鮮軍は圧倒的に優位な兵員数、火力をもっており、日本に駐留する連合国軍(ソ連、中国を除く)で結成された国連軍(正確には多国籍軍)の投入をもってしても北朝鮮軍の優位は変わらず、韓国軍と国連軍は次第に釜山付近に追い詰められていきました
1950年9月15日、マッカーサーは海兵隊を中心とする米軍部隊と韓国軍部隊を仁川に上陸させました。これに連動して釜山方面に追い詰められていた国連軍、韓国軍は反撃を開始し形勢は一気に逆転しました。9月28にはソウルを奪還し、更に10月には38度線を越えて北朝鮮に侵攻を開始しました。10月20日には平城を占領し、更に10月26には中国との国境(鴨緑江)に達しました。

北朝鮮、ソ連の要請に基づき、中国は1950年10月5日、彭徳懐を司令官とする義勇軍の派遣を決定しました。この義勇軍は後方待機を含めると100万人の大部隊でした。10月19から隠密裏に鴨緑江を渡河して侵攻を開始しました。11月1から大規模な攻勢を開始した結果、国連軍、韓国軍は懸命の戦いをしつつも撤退に次ぐ後退を余儀なくされました。この一連の戦闘で国連軍の死傷者数は約1万3千人、中国義勇軍の死傷者数はその数倍に及んだと言われています。12月5、中国・北朝鮮軍は平城を奪還、1951年1月4日には再度ソウルも奪還しました。

当初ソ連のジェット戦闘機ミグ15が投入され、第二次大戦時の航空機が主力の米軍から制空権を奪いましたが、その後米軍はF-86ジェット戦闘機を投入し、制空権を奪還することができました。航空兵力の支援を受けて1951年2月11、連合軍は再び北進を開始しました。その後両軍の間で一進一退の激戦が続き、38度線付近の高地で膠着状態に陥りました。原爆投下、等を含む戦争の継続を主張したマッカーサーは4月11日、トルーマン大統領により解任されました。

1951年7月から開城において休戦会談が開始されました。双方有利な条件での停戦を要求する為、交渉は難航し、1953年7月27に至ってようやく休戦協定が成立した。
* 正式に発表されたものはないものの、中国義勇軍の犠牲者数は50万人に達したと言われていいます。

<台湾海峡危機>
 1954年9月:中共軍による金門島砲撃
 1955年1月:中共軍による江山島攻撃と米軍支援の下での国民党軍の大陳島撤退
 1958年8月:中共軍による金門島砲撃と空中戦に勝った国民党軍による厦門空爆
⑫ 1965年:偶発的に小規模な海戦が発生

<中国・インド国境紛争>
開戦の背景:1950年、中共軍がチベットに侵攻しこれを支配しました
1954年、周恩来首相とネルー首相との会談で平和五原則(①領土・主権の相互尊重、②相互不可侵、③相互内政不干渉、④平等互恵、⑤平和共存)について合意していましたが、中国は弱体化していた清の時代の国境を認めておらず、インドが警戒感を抱いていない時期を狙って国境を画定しようとしていました。この時期インドはパキスタンとの国境紛争を抱えておりましたが、中国はこのパキスタンを支援しており、フルシチョフのスターリン批判以降中国と対立していたソ連はインドを支援していました。

戦争の推移:1959年9月に最初の武力衝突が発生し、1962年11月には大規模な衝突に発展しました。中共側戦力8万人(死傷者約2400人)、インド側戦力1万人~1万3千人(死傷者約2400人、行方不明者約1700人、捕虜約4000人)で戦い、中国が勝利をえて一方的に停戦を行いました。現在もアクサイチンを実効支配しています。

紛争後の経緯:上記紛争以降中国・インド間には直接的な戦闘は行われていませんが、中国側勝利の影響を受け、パキスタンの武装勢力がインド支配地域に侵入し、第二次印パ戦争が勃発しました。インドはこれらの紛争を契機として核弾頭搭載可能な中距離ミサイルを開発配備し、現在に至っています。

<中国・ソ連国境紛争>
開戦の背景:中ソ間の長い国境線は、強大なロシア帝国と、弱体化した清国との間で結ばれた条約(アイグン条約、北京条約)はあり、また曖昧な部分が多くありました。
1956年2月、ソ連のフルシチョフ首相が第20回党大会に於いてスターリン批判を行った結果、中ソの政治的な関係は悪化し領土に関わる緊張が高まりました。1960年代末には長い国境線を挟んで両側に大兵力が対峙(ロシア側/65万8千人、中国側/81万4千人)し小規模な衝突を繰り返していました。

戦争の推移:1969年3月、ウスリー川(アムール川/黒竜江の支流)の中州(ダマンスキー島/珍宝等)で武力衝突が発生、同年7月にはアムール川の中州(ゴルジンスキー島/八岔島)でも武力衝突が発生しました。8月には新疆ウィグル地区で武力衝突が発生し、両国は核兵器使用の準備を始めました

紛争後の経緯:1969年9月、ホーチミン首相の葬儀の帰途北京に立ち寄ったコスイギン首相と周恩来首相が会談した結果、軍事的緊張は緩和されたものの、国境での軍事力の対峙はその後も続いていました。
1980年代後半、両国は秘かに国境交渉を再開しました。1989年、ゴルバチョフ大統領が訪中して中ソ関係が正常化した後全面的な国境見直しが始まりました。1991年5月(ソ連邦崩壊直前)、一部係争地を除き中ソ東部国境協定(ソ連邦崩壊後中ロ東部国境協定)が結ばれました(1992年に批准;ダマンスキー島/珍宝等は中国に帰属することが確認されました)。1994年には中ロ西部国境協定が結ばれました(1995年に批准)。ソ連崩壊後に独立した中央アジア諸国と中国との間の国境協定も個別に結ばれてゆきました。中ロ東部国境協定で棚上げにされていたアルグン川の島とアムール川・ウスリー川の合流点の二つの島の帰属については、2004年10月、プーチン大統領と胡錦濤主席による政治決着で、係争地を二等分する形で政治決着が図られ、最終的な中ロ国境協定が締結(2005年に批准)されました

<中国・ベトナム間の領土に関わる戦争>
 1974年1月 パラセル諸島(西沙諸島)の戦い
開戦の背景:第二次世界大戦終了後、仏領インドシナでフランスとの間で独立戦争が起こりました(第一次インドシナ戦争:1946年~1949年)。独立後、ベトナム共和国(以降“南ベトナム”)と中国との間でパラセル諸島(西沙諸島)帰属の問題が発生していました。中国が同諸島の東部を実効支配し、1971年には多数の施設を建築していました。一方、南ベトナムは西部を実効支配しており軍事的な緊張は徐々に高まっていきました。
戦争の推移:1974年1月15日、哨戒中の南ベトナム軍艦が、実効支配している同諸島西部の永楽群島の島(甘泉島/ロバーツ島)に中国国旗が立てられ、付近の海域に大型の中国漁船2隻が停泊しているのを発見し退去を命ずると共に威嚇射撃を行いました。1月17日、18日には両国が増援部隊を派遣して小競り合いを繰り返していましたが、1月19日に至って南ベトナム艦隊の発砲から本格的な海戦に発展しました。1時間足らずの交戦で南ベトナム艦船は大きな損害を受けて敗退しました。午後1時30分には永楽島に4個中隊が上陸し占領、1月20には他の3つの島にも上陸し、同諸島全体が完全に中国の実効支配化に置かれることになりました。
中国の勝因/南ベトナムの敗因:地理的に中国の方が同諸島に近かったこと、速射砲を備えた中国軍艦船の方が戦闘力が高かったこと、陸軍兵力が圧倒的に凌駕していたこと(中国:4個中隊、ベトナム:100~200人)があげられます。また前年パリ協定に基づき米軍がベトナムから撤退し、南ベトナム自身も北ベトナムの攻勢に晒されている時期であり戦意の面でも相当劣勢にあったと考えられます

* パリ協定(ベトナム和平):1973年1月27日に調印。この協定に沿って3月29日には米軍はベトナムから完全に撤退しました
* ベトナムの統一1976年4月、北ベトナムの攻勢によりサイゴンが陥落、南北統一が実現しました

 1979年2月~3月 中越戦争
開戦の背景:大量虐殺による恐怖政治を布いていたポルポト政権を倒すため、ベトナムは亡命していたヘン・サムリンを支援しカンボジアに侵攻、1979年1月プノンペンを解放しました。ポルポト政権を支援していた中国は1979年2月、ベトナムとの開戦を決断しました。当時の中国は鄧小平、華国鋒政権であり、ポルポト政権支援以外に、文化大革命の不満を外に向ける必要があったこと、ベトナム戦争で支援してきた中国への裏切り行為(中国の反ソ政策に同調しないこと)やベトナムによる旧南ベトナムの華僑資本家層の圧迫、なども開戦決断の背景にあったと考えられています;

中国軍侵入ルート

戦争の推移:約60万の中国地上軍が北部国境から侵入。この時期ベトナム軍主力はカンボジアにあり、北部には約3万人程度の民兵(しかし正規軍に匹敵する精鋭)しか居なかった為徐々に後退する作戦をとりました。その結果、中国軍は北部5省を占領することとなりました。その後、ベトナム軍主力が合流を開始するとともに戦局は逆転し、最終的に中国軍は国境外に撤退しました。撤退に際して非人道的な焦土作戦を行い、多数の民間人が犠牲になったと言われています。両国の損害については確たる資料は無いものの、双方に数万人規模の犠牲者があったとされています。中国は国内では勝利したと宣伝していますが、ベトナム懲罰の目的を達せずに国境外に撤退していることから、実質中国は敗退したと考えるのが自然であると思われます

ベトナムの勝因:ベトナム戦争中にソ連から供与された兵器及び米軍から獲得した近代的な兵器を保有しており、更に厳しいベトナム戦争を勝ち抜いてきた豊富な実戦経験があったこと。
中国の敗因:旧式の兵器しか無かったこと、及び軍制に弱点(文化大革命で軍隊に階級が無くなった)があったため。(その後、軍の近代化が中国の最優先の国家目標となりました)

 1984年4月~7月 中越国境地域のベトナム側領域での戦闘
開戦の背景:中越戦争後、もともと国境が確定していなかった要衝である「老山・者陰山」一帯にベトナム軍が侵攻し、恒久的な陣地の構築を始めました。これに対して中越戦争での敗退で威信が低下していた中国は、軍制改革の効果を実戦で確認する場としてこの要衝の占領を計画しました

戦争の推移:第一次戦闘(4月2日~28日)で中国軍は要衝をほぼ制圧しました。第二次戦闘(6月12日~7月10日)ではベトナム軍が再占拠を目指して猛攻撃を加え中国軍中隊の全滅などの戦果を挙げましたが、中国軍も反撃し、双方歩兵による突撃を繰り返し大量の死者を出して戦闘は終止しました。第三次戦闘(7月12日~14日)では、ベトナム軍は6個連隊規模で白兵戦を挑みましたが、中国軍は徹底的な砲撃でこれに対抗し激戦の末兵員が尽きたベトナム軍が戦闘を中止し大規模な戦闘は終結しました

中国の勝因:第一次戦闘で大兵力を集中して要衝を抑え守りを固めていたこと。ただベトナム軍の士気が高いことと、中国側は大規模な戦闘における兵站に問題があることが判明し、その後の軍事的冒険を行わなかったこと
ベトナムの敗因:第一次戦闘で敗退し、高地に築かれてしまった中国側の堅固な陣地に、不利な低地から白兵戦を挑んだこと。

 1988年3月14日 スプラトリー諸島(南沙諸島)海戦
両国で領有権を争っていたスプラトリー諸島(南沙諸島)のジョンソン南礁(赤瓜礁)で戦闘が発生しました。中国側はフリゲート艦3隻、ベトナム側は戦車揚陸艦1隻と輸送艦2隻、火力に勝る中国が勝利しました。中国軍は空軍の支援が得られなかった為、海軍はすぐに中国本土に撤退しスプラトリー諸島全体は支配できず6個の岩礁や珊瑚礁を手に入れるに留まりました。ベトナムは29の島や暗礁を実効支配しています

-領土問題に対する中国の姿勢-

中ロの国境紛争が解決してから、中国は経済成長を上回る軍事力の増強を図ってきています。特に装備の近代化と自主開発に力を入れており、西太平洋に於いて米国と覇権を争うまでになりました。

東シナ海・南シナ海_主張の違い
東シナ海・南シナ海_主張の違い

これまでの中国の歴史を分析すると;
1.勝てると判断すれば、国際的な支持を得られない場合でも大胆に軍事力を行使している;
 1974年、南ベトナムとの衝突後にパラセル諸島(西沙諸島)全体を実効支配
 1988年、ベトナムとの海戦後にスプラトリー諸島(南沙諸島)の一部を実効支配

 スプラトリー諸島(南沙諸島)を構成している多くの島、岩礁、砂州は、中国、ベトナムの他に台湾、フィリピン、マレーシアの諸国も一部実効支配を行っています。また、ブルネイも実効支配はしていないものの、一部の島の領有を主張しています

2.軍事バランスが崩れた時を狙って抜け目なくつけ入ってくる;
 1991年のソ連邦崩壊後、米国とフィリピンの相互防衛条約が解消されると同時に米軍はクラーク空軍基地から撤収し、1992年にはスービック海軍基地からも撤収しました。その結果、この地域での米軍のプレゼンスは著しく低下しました。1995年に入って中国は、それまでフィリピンが実効支配していたミスチーフ礁(美済礁)に恒久的な建造物を作り実効支配を始めました
 2012年、中国とフィリピンが領有権を争っていたスカボロ―礁(フィリピンの排他的経済水域内にあり、スービック海軍基地があった頃米軍が射撃場にしていました)で中国漁民の違法操業を巡って両国の監視船が対峙する紛争が発生しました。2013年には、中国がここに軍事基地を建設し実効支配を固めています

 ボルネオ島の北西に位置するナトゥナ諸島は現在インドネシアが実効支配していますが、一部の島々が中国が領有を主張している“九段線”の内側に入っています。これまで南シナ海の領有権問題には中立の姿勢をとってきましたが、最近中国漁船の違法操業を巡って紛争が発生しており、今後中国の出方によっては両国の緊張が高まるものと思われます

3.領土問題に関しては、相手が大国であっても戦争をも辞さずに自国の主張を貫き通している;
 中国・インド国境紛争:1959年~現在
 中国・ソ連(ロシア)国境紛争:1956年~2005年
 中国・ベトナム国境紛争:1979年~現在

4.政治と国防が一体化し、長期的な戦略を着実に実行している;
 国民に対する歴史教育を国家主導で一元的に実施し、領土に関わる戦闘や主張、またこれに伴う莫大な国防費について国民のコンセンサスを得ている
 国民へのアナウンスとは別に、戦争を通じて得た苦い経験を軍の改革に生かしている(朝鮮戦争や中越戦争時の精神主義、白兵主義から装備の近代化への動き;中越戦争を通じての兵站戦略の重要性認識と、軍制の改革実施)
 周政権になってから海洋進出の意図を露わにしています(“一帯一路”戦略の“一路”の部分)が、この為には南シナ海、東シナ海の制空権、制海権を確立することが必要です。未だ道半ばですが、南シナ海各諸島での実効支配の拡大と軍事基地化、海軍力の増強(イージス艦、ミサイル装備の艦艇)、空軍力の増強(ステルス戦闘機、航空母艦)、即応体制の確立(防空識別圏の設定、拡大)、などはこの政策に沿った一連の施策と考えられます
 武器の供給を外国に頼ることは、戦争遂行能力に大きく影響することから、これからの戦争に必須となる武器については国産を目指しています(ステルス戦闘機、イージス艦、ミサイル装備の艦艇、航空母艦、など)
 近代戦は情報処理の技術が必須となること、また近代兵器の開発には膨大なノウハウが詰め込まれていることから、先進国からこれらの機密情報を入手するためにインターネットを使ったスパイ活動を強化しています
 強大となった経済力を政治的(→軍事的)に利用するために、発展途上国を中心に経済援助やインフラ整備支援を積極的に行っています。中国が主導したアジアインフラ投資銀行の設立もこの戦略に沿ったものと考えられます
 現在の中国は異民族統治の問題(チベット族、ウィグル族)、貧富の差の拡大、香港における一国二制度の綻び、など国内に大きな矛盾を抱えています。こうしたことはともすれば中央政府に対する不満となる可能性を孕んでおり、これを抑止する為の手段として国際的な紛争に国民の目を向けさせていると考えられます
 戦争により一気に解決できない領土問題に関しては、軍事上の実力の範囲で既成事実を積み上げていく戦略をとっています(南シナ海での実効支配拡大、東シナ海での天然ガス開発、漁船による領海侵犯、軍事プレゼンスの段階的拡大)

-尖閣諸島防衛の基本戦略-

如上を踏まえた上で尖閣諸島防衛の基本戦略を考えてみたいと思います;
1.尖閣諸島問題は南シナ海問題と同等に扱えない事情があります;
中国と紛争を起こしている南シナ海の諸国と違って、日本は中国との間で過去に15年戦争を戦い、多くの惨禍を与えてしまった事実があります。途方もない犠牲者数や人倫に悖る残虐な行為が、日本側の検証では多くが誇張されたものであったとしても、国際的にこれを認めさせる手段はありません。また中国国民にとって上記犠牲者数や残虐行為は事実そのものであって、領土問題で日中間に戦争が起きれば、中国国民の間に“熱狂”を引き起こすことは容易に想像し得ることだと思います。下記写真は瀋陽、長春を旅行した機会に訪れた戦争記念館です。日本兵の残虐行為などが数多く展示してあり、小学生と思われる団体が熱心に見学をしておりました;

満州事変記念館@瀋陽
満州事変記念館@瀋陽
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日中戦争博物館@長春

従って、仮に日米安保条約が解消された状態で、中国との全面戦争に入ったとすれば、中国が核兵器を使って日本の都市を攻撃することに道義的責任を感じる可能性は低いとも考えられます。日本にとって尖閣諸島帰属の問題で規模の大きい戦争を起こすことは絶対に避けなければならないと思います

2.日米安保条約の核の傘の下で、尖閣諸島の防衛を日米で行うことが明らかな場合、中国が核使用を含む全面戦争を行うことはあり得るか;
朝鮮戦争時に中国が“義勇軍”という形で参戦したこと、また中国・インド国境紛争、中国・ソ連国境紛争においては戦闘を国境付近に止めたこと、などで分かる様に、自国が核攻撃を受けるリスクを伴う全面戦争は行なわないと考えられます

3.中国が尖閣諸島のみの実効支配を狙って上陸し占拠することはあり得るか;
既に2010年9月に、尖閣諸島周辺の領海に中国漁船が侵入し、これを排除しようとした海上保安庁の巡視船に体当たりしたため、漁船を拿捕すると共に船長を逮捕した事件が発生しています。また2016年6月には中国公船(中国海警局所属)3隻が領海に侵入しています。西沙諸島、南沙諸島の例を見れば明らかな様に哨戒・警備のスキを作れば、今すぐにでも上陸、占拠はあり得る事態だと考えられます。

4.尖閣諸島の実効支配を続けるにはどういう戦略をとればいいのか;
(1) まず哨戒・警備のスキを作らないことが大切なことですが、これは現在最新型の巡視船の追加配備を始めており、これを尖閣諸島周辺に配備される中国公船(中国海警局所属)の数を凌駕するレベルにまで充実させることが必要だと思います
 この段階で、尖閣諸島への自衛隊の駐留や自衛隊艦船の派遣といった攻勢に出ることは、中国側の攻勢に根拠を与えることになり得るので、厳に慎むべきだと考えます。

(2) 巡視船の哨戒・警備のスキをつかれるか、あるいは巡視船の警備を実力で突破し、上陸、占拠が行われた場合、これを急速に(中国からの応援兵力が到着する前に)奪還することが必要です。またこの機会を捉え、自衛隊員の駐留継続など恒久的な措置を行なうことも選択肢の一つになると考えられます。こうした対応を可能とするには、下記の様な戦力を充実させることが必要と考えます;
 占拠された島嶼を急速に奪還するための兵力:強襲揚陸艦オスプレイ奪還用特殊作戦部隊
 奪還及び奪還後、実効支配を継続するに必要な制空権確保の為の兵力:ステルス戦闘機F35)、イージス艦ミサイル護衛艦早期警戒管制機
 奪還及び奪還後、実効支配を継続するに必要な制海権確保の為の兵力:潜水艦対潜哨戒機P1)、ミサイル護衛艦早期警戒管制機
* 日米安保条約で共同で作戦に当たることが、戦争を局地に限定する為の必須条件ですが、については米国に頼らず日本が単独で行う必要があります。
 中国の反撃を挫くためには、戦闘の初期段階で制空権、制海権を確保することが極めて重要ですが、これには中国よりも技術的にレベルの高いステルス戦闘機(当面F35、可能であればF22/米国製、又は日本独自開発のFSX/先進技術実証機)、潜水艦(日本製)の配備充実させることが必要であると思います。また、ミサイルの性能向上も重要なテーマであると考えられます。
 島嶼奪還、防衛に関わる日米合同訓練を積極的に行い、中国の実力行使を躊躇わせることも重要であると考えます

(3) 以下の外交的努力は、中国の実力行使を躊躇わせる効果があり、極めて重要なことと考えます;
 中国の攻勢に悩んでいる南シナ海に面する国々と経済協力、インフラ投資などを通じて友好関係を築くと同時に、制海権、制空権に関わる兵器の譲渡、輸出を行うこと。但し戦争に巻き込まれるリスクのある相互防衛条約は結ばない
 ロシアとの北方領土交渉を進展させ、経済協力関係を強化することによって、ロシアと中国の距離を遠ざけること
 上記以外の中央アジア諸国、欧州、アフリカ、中南米諸国との連携を強め、中国側攻勢によって発生した領土紛争に対して日本の応援団を増やすこと

以上

収穫シリーズ_③

上の写真は、イギリスが国民投票の結果EU離脱を選択した翌日(6月25日/日本時間)の朝に収穫した夏野菜類です。ナスの左に移っている黄色いキュウリ状の野菜は、エストニアで種を買って育てたズッキーニです。日本で売っているズッキーニは緑色で、熟すと黄色になりますが、このスッキーニは初めから黄色い色をしています。味は日本のものと変わりません。

他の野菜は、トマト三種類(①フルーティー・レッド/日本製、②名前は忘れましたが3年前にネットで購入したイタリア原産種、③プチトマト)、ナス(千両二号)、キュウリ(昨年購入したうどんこ病抵抗種)、ピーマン(数年前に購入したものですが、今年使い切ったので種袋が無く、種類は不明!)

種を購入すると、裏の説明書きの所に有効期限と発芽率が書いてあります。有効期限は、通常購入してから1年程度になっていますが、家庭菜園で有効期限内に使い切るのは不可能です。私は使い切るまで数年間同じ種を使っていますが何の問題もありません。ただ、発芽率は若干落ちる様な気がしますが、一つの苗を作るのに種は複数蒔くので特に問題は発生していません。

夏野菜栽培状況

上記画像は現在の生育状況ですが、これらは4月10日に植え付けた小さな苗(下の写真)から育ったものです。いつもながら野菜の生命力の強さには驚くばかりです

トマト・ナスの植付

キュウリを栽培したことがある方はよくご存じのことと思いますが、時折収穫を忘れた結果“巨大なキュウリ”が出来ることがあります(下の写真参照/長さ40センチ以上!);

巨大キュウリ
巨大キュウリ

毎朝収穫するようにしていますが、“キュウリ”も“葉っぱ”も緑色、おまけに私の場合使っている支柱も緑色なので、つい陰にあるものを見落としてしまうことがあります。勿論この巨大キュウリも大切な収穫物なので、拙宅では食用に供しています。皮を剝き、縦に二つに割ってスプーンなどで種をすくい取れば瓜と同じように食べられます。この状態で漬物にしてもいいし、冬瓜のようにスープで食べることもできます。

以上

 

2_航空機の安全運航を守る仕組み_全体像

-航空機の安全運航に関わる人々-

航空機の安全運航に関わっている人々を区分すると、以下の三者に集約することができます;
① 航空機、エンジン、装備品のメーカー(製造事業者)
② 航空会社及び航空会社の業務を受託する事業者
③ 規制当局(日本に於いては国土交通省)

航空機の安全を守る仕組みの中で①、②の事業者の責任と、③規制当局の責任との関係には、“安全性”と“経済性”をあるレベルで“妥協”させる必要がある為に常に緊張関係が存在します(馴れ合いの関係は厳禁!);

分かり易く例えれば、「安全性を過度に追求して飛行機を出来るだけ丈夫に作ろうとすると、重くて飛べなくなる」ので、双方どこかで妥協しなければ、航空機という便利な移動手段を利用できなくなるということでしょうか

また、想定外の事象が発生して深刻な事故となった場合、事故調査委員会の改善勧告には事故原因となった事象に対して①~③それぞれの関与の程度と、再発防止の為に必要な具体的な対策が盛り込まれます。

尚、チェルノブイリの事故以降、原子力に限らず重大事故の事故報告で、事故を起こした当事者の“安全文化の劣化”を事故の主因とする例が多いようですが、航空機の場合、事故後も多くの航空会社の同型機がお客様を乗せて世界の空を飛び続けており、事故原因及びその対策は、事故当事者以外でもその教訓が生かせるように出来る限り具体的であることが求められます。

-安全運航を守る仕組み(概要)-

1.航空機を設計、製造する段階

ボーイング社・製造ライン
①の製造メーカー、及び③の規制当局は、設計・製造の時点で得られる最新の知識と経験を踏まえて安全な航空機を作る責任を負っています。従って、新しい技術を取り入れた航空機を設計・製造する場合、安全性の検証に時間がかかるので、設計を始めてから規制当局が安全であるとして販売を許可するまで5年以上の年月を要することも最近は稀ではありません。
尚、航空分野では安全な航空機を、耐空性(“Airworthiness”)がある航空機と表現します。規制当局は安全であると判断した航空機に対して「耐空証明書」を発行します。従って耐空証明書を持っている航空機が販売開始直後に事故を起こした場合、製造段階でのミスが無い限り、規制当局も相応の責任を負う立場に置かれていることになります

2.航空機を運用する段階

JAL787飛行中の写真
A.製造メーカー及び航空会社は、航空機の運用段階で、設計、製造時の耐空性維持・向上させる責任を負っています。この為、航空機、エンジン、装備品の品質を常にモニターし、必要な対策を講じていく必要があります。
この項目に関しては、“_Hardwareに関する品質管理”のところで詳しく説明いたします。
尚、最近の高機能のHardwareはSoftwareと一体化しており、Hardwareに組み込まれたSoftwareの品質管理もこの項目に含まれることとなります。
*Hardware:航空機に装備されている高機能の機械装置や電気・電子機器のことです
*Software:上記装置や機器を動作させる為に組み込まれているプログラムのことを意味します

B.航空会社、及び航空会社の業務を受託する事業者は規則・基準を守り、且つ人的なミス(Human Error)を防止する為に不断の努力を行う責任を負っています
この項目に関しては、“8_Humanwareに係る信頼性管理”のところでで詳しく説明いたします

C.規制当局は、空港及び航空路の安全性を確保する責任を負っています。具体的には、航空交通管制の実施、航空保安施設・設備の整備・運用、NOTAM等情報の提供、などが該当します
*NOTAM(“Notice to Airmen”):安全運航に関わる飛行場、運航方式、軍事演習、等の情報提供。パイロットや運航管理者(後述)は毎便出発前にこの情報を確認した上で飛行計画を立てます

D.規制当局は、航空会社が健全な経営を行う能力があることを常に監視する責任を負っています(指定航空事業者制度)。
航空会社が健全な経営を行っていない場合、ともすれば過度のコスト削減に走り、運航乗務員の労務管理・健康管理や航空機や装備品の整備管理、等の面で規則違反を犯すリスクを高める可能性があるからです

3.想定外事象に対する対応
製造メーカー航空会社、及び規制当局設計時に想定していなかった事象が発生した場合、迅速に以下の対応を行う義務があります;

A.製造メーカーは、設計時に想定できていなかった事象に対して、安全性を担保するために、航空機や装備品の設計変更、操縦手順の変更(運航関連マニュアルの変更)、整備手順の変更(整備マニュアルの変更)、などの対応を行う義務があります。具体的にはこれらの対応を記述した “SB”(Service Bulletin)の発行を行います。これは自動車の場合,メーカーによる “リコール”と本質的には同じと考えていいと思います。

B.規制当局は、製造メーカーの対応を独自に評価し、必要があればその対応の早期実施を航空会社に強制することができます。これは、耐空性改善通報(米国の制度では、これを“AD”/Airworthiness Directivesといいます)という形で命令されます。航空会社は、この耐空性改善通報(“AD”)を指定された期限以内に実施することが義務付けられています。

尚、規制当局は耐空性改善通報(“AD”)を発行するに当たって、緊急度が高ければ運航キャンセルが発生する可能性のある厳しい実施期限を設定することも可能であるし、緊急度がそれ程でない場合は耐空性改善通報(“AD”)実施に必要な部品の調達や、運航キャンセルのリスクなどを考慮して、比較的緩やかな実施期限を設定することもあります。いずれにしても同種事故発生のリスクと実施時期には、当然相関関係があり、“安全性”と“経済性”を“妥協”させることに伴うリスクは規制当局が負うことになります。

<参考> JL123便事故関連のAD

耐空性改善通報(“AD”)の実施時期を設定するにあたって必要となる各種情報(実施しないことによるリスクの評価、改修仕様書、部品調達状況、等)は製造メーカーに提供する義務があることは言うまでもありません

C.事故が起こった場合、事故調査委員会は、事故の原因究明と、改善勧告の提示します。製造メーカー航空会社規制当局は改善勧告を遵守する義務があります

-安全運航を守る仕組み(もう少し具体的に)-

1.設計段階; 
設計段階で関わっている人々の具体的な責任の内容については、“3_耐空証明制度及び型式証明制度”の項で詳しく説明いたしますが、概略以下の様になります;
(1)設計基準の制定;
航空機の構造強度や、信頼性のレベルなど(←航空機の設計は“絶対安全”を前提としていない)航空機を設計する時に必須となる基準は規制当局が法体系の中で明示します。日本においては、航空法、耐空性審査基準、耐空性審査要領などで詳細に基準が決められています。また米国においては“FAR/Federal Aviation Regulation”の中で同様の内容が一括して納められています

(2)個別の設計
個別の設計は航空機、エンジン、装備品の各製造メーカーが設計基準に基づいて行いますが、技術革新に伴う新しい設計基準が必要になった場合、メーカーがまず規制当局に提案し、規制当局がこれを評価して新基準を制定致します

(3)使用する部品類の承認;
使用する部品が標準的な部品であった場合、そのベースとなっている規格(例:JIS規格、MIL規格/軍の規格、実質的に業界での標準となっている規格、など)を規制当局が承認します。
一方、メーカーによる独自設計の部品の場合、規制当局が個別に承認を行います(仕様承認制度  

(4)整備プログラムの開発;
航空機が実際に使われている期間は、人気機種の場合数十年に及びます。この長い期間航空機を安全に運航させるためには定期的な整備が必要になります。この中で設計の前提となっている重要な整備項目(例えば、重要構造物の定期的な検査など)は、規制当局が設計の段階で選定、承認する必要があります。この整備項目のことを“必須整備要目(CMR/Certification Maintenance Requirement)”といいます
また、“必須整備要目”以外の整備項目(例えば定期的な検査、給油、部品の交換、など)については、メーカー、航空会社、規制当局、専門家等が集まって経済的な整備(例えば、航空機の稼働時間が長くできるように、など)が可能となるように整備項目を決めますが、これらの整備項目のことを“MSG整備要目”といいます。
*MSG:Maintenance Steering Group
各航空会社は、上記の“必須整備要目”と“MSG整備要目”を組み合わせて航空機の運航の合間に整備を行うことになりますが、この組み合わせのことを“整備プログラム”と呼びます。“整備プログラム”の審査、承認も規制当局が行います    

2.製造段階
製造メーカーは、安全な航空機を製造する為に必要な施設・設備、人員配置、品質管理体制、等を含む製造計画を立案致します。規制当局はこの計画を審査し、許可を与えることで製造が開始されます。また、規制当局は、次項の型式証明の検査の一環として製造過程についても検査を行っています

3.型式証明の取得;
航空機を個別に審査して耐空証明を与えることとは別に、同型式の航空機群(例えば、B787、A320、など)に対して包括的に耐空証明を与える制度があり、これを“型式証明”制度といいます(自動車の世界にも似たような仕組みが取り入れられています)
型式証明を受ける為には、製造メーカーは、各種の試験を行い、設計通りの性能が出ていることを確認した上で、必要な書類を添えて規制当局に申請します。規制当局は、これを審査した上で“型式証明書”を発効する事になります。尚、エンジンについては、航空機とは別にエンジンメーカーが性能試験を行い、規制当局はこれを確認した上でエンジンの“型式証明書”が発行されます
*必要な書類とは:設計書、設計図面、部品表、製造仕様書、飛行規程、整備手順書、重心位置、など

4.運用段階;
(1)航空会社は、新しい型式の航空機を購入した場合、運航を開始する前に整備作業を実施する規準となる整備規程業務規程を作成し規制当局に認可申請をします。規制当局は、これを審査し、所定の内容が備わっていることを確認し承認いたします。詳しい内容については4_整備プログラム5_航空整備に係る人の技量の管理6_認定事業場制度の項目の中で説明いたします
*整備規程とは:整備作業を実施するにあたって必要となる、方針、各種の基準や手順(整備マニュアルなど)などが包含されています。上述の整備プログラムについてもこの規程に含まれています。
*業務規程とは:安全・確実な整備作業を実施するにあたって必要となる施設・設備、人員、品質管理体制、等が記載されています

尚、航空会社は、認可を受けた整備規程、業務規程を厳格に実施する義務を負っており、これに違反して整備作業を行った場合、航空法違反と見做され処罰の対象になります

(2)航空会社は、導入した航空機を運航に供する前に耐空証明書の発行を申請します(その航空機が型式証明を持っていたとしても一機毎に耐空検査が必要になります)。規制当局はこれを審査し、所定の要件を満たしていれば耐空証明書を発行いたします。尚、耐空証明書の有効期限は原則1年間ですが、安全運航の実績を積み重ねることにより“連続式”の耐空証明書を取得することができ、実質的に1年毎の耐空証明取得の手続きを省くことが可能です。また規制当局は、耐空証明を与えた航空機に対し運用限界等指定書航空機登録証明書なども発行します
*運用限界等指定書とは:航空機が安全に飛行できる飛行速度や、機体にかかる荷重の限界を指定しています(←航空機の設計の段階で決まります)
*航空機登録証明書とは:世界中全ての民間航空機は何処かの国に登録されています。人間と同じように国籍を持っていると考えると分かり易いと思います

(3)航空会社は、導入した航空機を長期間運用する過程で、型式証明を受けた原設計からの変更が必要となるケースが発生します。これらの変更が耐空性に関わると見做される以下の場合は、その変更内容を規制当局に申請し、規制当局の認可を得る必要があります(一般にこれを“Deviationの管理”と言います);
* 大修理:航空機が大きな損傷を受け、重要な構造部分(“一次構造”といいます)の修理を行った場合
*大改造:航空機の重要な構造部分や重要なシステムの大幅な変更が行われた場合(追加型式証明制度)
*仕様承認を受けた部品の変更 を行なう場合

(4)航空会社は、定期的な整備や修理、改造を行った履歴を完璧に管理する義務を負っています。この履歴の連続性が失われた場合、その航空機は耐空証明が失効し運航出来なくなります。例えば、簡単な定期整備の実施期限をうっかり超過してしまった場合でも、運航を即座にキャンセルしてその作業を実施しなければなりません

(5)規制当局は、航空機を安全に運航させる為のパイロットの技能基準、健康状態、勤務体制の基準などを設定します。これらの基準は概略以下の様な区分で法体系の中に明示されています;
*パイロットの操縦技能に関わる資格区分(国が免許の付与を行っています)自家用操縦士免許(Private Pilot License)、事業用操縦士免許(Commercial Pilot License)、定期運送用操縦士免許(Airline Transport Pilot License)、航空機関士免許(Flight Engineer Licence;最近航空機関士が不要な航空機が増えています) — 自動車であれば自動二輪、小型、中型、大型、一種、二種の免許区分の様なものと考えてよいと思います。ただ航空機の場合、自動車と違って機種による限定があり、一般に機種が変われば資格の限定変更訓練及び免許取得を行う必要があります
*パイロットの任務に関わる資格区分:機長(Captain)、副操縦士(Co-Pilot)、MPL(Multi Pilot License;最近導入された制度で機種限定が無い)、航空機関士(Flight Engineer)、操縦教官(Flight Instructor)、査察操縦士(国に替わって機長の技量審査を行う資格:後述)
*航空機の装備、運航方式などに関わるパイロットの資格区分:計器飛行証明、CATⅡ、Ⅲ操縦資格、など
*パイロットの定期技能審査の義務化:6ヶ月に一回実施
*パイロットの定期健康診断の義務化:一年に一回実施、診断項目の設定
*パイロットの飛行時間、休養時間の制限:月間の飛行時間の上限/100時間、年間の飛行時間の上限/1000時間

(6)規制当局は、非常事態(不時着、火災発生、など)発生時に旅客の誘導、救出を着実に実施するため、客室乗務員(Cabin Attendant)に、以下の様な規準を定め、法体系の中に明示しています;
*旅客50名につき1名以上の客室乗務員配置の義務化
*客室乗務員の非常脱出訓練の義務化

*客室乗務員の任務に関わる資格区分の設定:先任客室乗務員
*客室乗務員の飛行時間制限:月間の飛行時間の上限/120時間

(7)規制当局は、安全な運航を行うためにパイロットと協力して、地上において運航計画の作成、出発から到着までの運航支援を行う運航管理者(Dispatcher)の配置を義務付け、その資格管理に関わる規準、配置基準などを法体系の中に明示しています

(8)航空会社は、新しい型式の航空機を購入した場合、運航を開始する前に、運航するための基準となる運航規程を作成し規制当局に認可申請をします。規制当局は、これを審査し、所定の内容が備わっていることを確認し承認いたします。尚、これらの規程は上記(5)、(6)、(7)で述べられている法的要件を包含していなければならないことは言うまでもありません。
*運航規程とは:安全で円滑な運航を実施するための各種の基準を定めており、これらは以下の三つのマニュアルに集約されています;“オペレーション・マニュアル/Operations Manual”、“航空機運用規程/Aircraft Operating Manual”、“ルート・マニュアル/Route Manual”

(9)航空会社は、自社の運航を維持する(運航路線・運航便数を計画通り定時に運航すること)体制を整えなければなりません。その為には、必要なパイロット、客室乗務員、運航管理者を確保し、その資格を維持すること、パイロット、客室乗務員の勤務基準(乗務時間、休養時間の基準/航空法、休日数の規準/労働基準法)を守ること、必要な整備を実施できる体制を整えること(自社人員による整備 AND/OR 委託による整備)

―規制当局による審査、認可等の合理化-

上述の通り航空機の設計・製造・運用の全局面で航空機の安全運航を担保するために規制当局が果たす役割は極めて重要、且つ多岐に亘っています。一方、これら全ての規制業務を規制当局自身が担い、自己完結させることは、①人的リソース確保の面、②高度に専門的な領域における専門性の確保の面、等からほぼ不可能です。従って、以下の様な合理的なシステムを導入して必要最小限の人員で規制業務を行っています。 

1.重複する審査、認可の行為を一括して行う仕組み
(1) 前節で概略説明した“型式証明制度”は1機ずつ行わなければならない“耐空証明”の審査項目を劇的に減らすことが可能になります。尚、この制度は航空機の安全性を理論的に理解するために必須のことなので“3_耐空証明制度・型式証明制度の概要”のところでもう少し具体的にに説明いたします

(2) 航空機の長い寿命の中で、①安全性の向上、②経済性の向上、などの為に各種の改修が行われますが、“追加型式証明制度”を導入することにより、設計が変更された部分のみを独立させて管理することで同種の変更に係る審査業務を大幅に減らすことが可能となります

(3) 航空機の耐空性は、エンジンをはじめとする重要な装備品が装着された状態で検査を受け耐空証明書が発行されている訳ですから、本来これらの装備品を交換する毎に耐空検査を受けなければならないことになりますが、“予備品証明制度”を導入することにより、航空機に装着されていない状態で、装備品単独で耐空性の確認を行うことにより、交換に伴う耐空証明検査を省略することができる仕組みを作っています

尚、型式証明を受けた航空機に装着されている装備品や標準品以外の部品は、開発に膨大なコストがかかっている為かなり高価になります。これは製造メーカーにとっては当然のことですが、航空会社にとっては大きなコスト負担となります。従って規制当局には負担となりますが、これらの代替品について独立して審査、認可を行うことで高水準の品質を確保しつつ、装備品メーカーと、部品メーカーとの間の競争環境を作り出すことが可能となる仕組みを導入しています。これを“PMA(Parts Manufacturers Approval)制度”といいます

B.システム審査の考え方の導入による審査、検査(確認)業務の合理化
(1) 認定事業場制度;
認定事業場制度とは、メーカー、及び事業者の以下の能力に関し規制当局が予め審査を行い、充分な能力があることを確認したうえで認定事業場の資格を付与し、規制が行うことになっている検査(確認)等の権限の多くの部分を事業者に委譲する仕組みです。認定事業場は2年に一度の更新検査を受検する必要があります。また、法令違反、品質上の問題、等が発生した場合、認定事業場の資格の停止、臨時の立入り検査、等が行われることになっています。詳しいことは“6_認定事業場制度”の項で説明致します
*認定事業場の能力の区分:①航空機の設計及び設計後の検査の能力、②航空機の製造及び製造後の検査の能力、③航空機の整備及び整備後の検査の能力、④航空機の整備又は改造の能力、⑤装備品の設計及び設計後の検査の能力、⑥装備品の製造及び完成後の検査の能力、⑦装備品の修理又は改造の能力
*上記①及びについては、認定事業場の資格を得ることにより、メーカーは設計、製造をほぼ自主的に行うことができます。上記③、④について認定事業場の資格を得ることにより、航空会社、及び整備会社は航空機の整備、改造後の耐空検査を自主的に行うことができると共に、耐空証明の有効期間を1年間から無期限にすることができるようになります。また⑦について認定事業場の資格を得ることにより、航空機及びエンジンの重要な装備品の予備品証明を自主的に発行することができるようになります

<参考> 航空機製造事業法との関連;
航空機製造事業法及びその関連規制にも、事業者の認定、製造や整備、改造に係る国による確認の仕組みはありますが、法の目的が、“事業活動の調整”及び“生産技術の向上”とされており、航空機の安全を担保する仕組みとはいえません

(2) 指定航空従事者養成施設制度
航空会社の整備部門、運航部門、整備会社、航空専門学校(整備、パイロット)、等の施設・設備、人員(教官等)に関し一定の条件を満たすことを審査・確認した上で航空従事者養成施設の指定を行い、以下の資格試験に関し、実地試験(実技試験・口頭試問)の全部又は一部の免除、及び、技能審査の委任(国土交通大臣が認定した技能審査員が行う)ができる仕組みです;
*資格:①航空整備士(機種別、等級別)、航空工場整備士(機体作業の種類別、装備品の品目別)、②パイロット(自家用操縦士、事業用操縦士、定期運送用操縦士;計器飛行証明、CATⅠ・Ⅱ・Ⅲ飛行資格、等)資格の取得訓練、審査、パイロットの英語能力の訓練及び資格取得

(3) 指定本邦航空運送事業者制度
安全運航の要となる機長の資格審査は、規制当局にとって大変重要な任務ですが、機長としての資質(危機における判断力、人格、経験、等)を規制当局のみで判定するには限界があります。そこで、一定の基準を満たす航空運送事業者に対し、自社の機長のみを対象として、機長候補者の訓練や認定・審査業務を代行させることにより、国による認定・審査業務を省略する制度です。
指定に当たっては、規制当局が、訓練に係る施設・設備、人員(教官等)が一定の条件を満たすことを審査・確認すると共に、対象の航空会社の機長の中で、機長としての資質を判定する能力のある者を“査察操縦士”として認定いたします。この査察操縦士が、規制当局の審査官に替わって、機長昇格に係る審査、及び機長の定期技能審査を行います

(4) 外国航空機の輸入に係る重複業務を合理化する仕組み
外国からの輸入機に対する型式証明の審査業務については、輸出国の当局との間で締結する“航空機等の証明に係る相互承認協定”に基づき、設計検査、製造過程検査、完成後の現状検査を大幅に省略できるようにした仕組みです

以上

収穫シリーズ_②

-ジャガイモの収穫-

6月に入り、梅雨入り後の晴れ間を狙ってジャガイモを収穫しました(上の写真参照)。この収量だと9月一杯で食べ尽しそうです! 品種は「キタアカリ」、北海道で開発され1987年に新種認定された品種ですが、味が気に入っているのでここ数年この品種を栽培しています。種イモは1月中旬、299円/1キロで購入し、3月中旬に大型のコンテナ10ヶに植えつけました。5月半ばには下の写真の様にしっかり繁茂し、;

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キタアカリ作付状況

今年は順調かと思いきや、その後例年になく強い風が何度も吹き荒れ多くの茎がなぎ倒されて、最終的には例年よりちょっと収穫量が少なくなってしまいました。

ジャガイモというのは、米、麦、トウモロコシと並んで主食にしている国もあることから、品種改良が進み、病虫害に強くあまり手間をかけないでも多収が期待できる極めて優秀な作物です。屋上栽培でも殆ど手間をかけずに育ってくれる“かわいいやつ”です。

ご承知の方も多いと思いますが、ジャガイモは“二度芋”とも呼ばれるように、暖地であれば一年間に二度栽培できる作物です。8月末あたりに収穫した芋の残りを使ってもう一度栽培をしてみようかと思っています(収穫は11月~12月)。

-春大根のテスト栽培-

昨年は、冬場我が家で需要の多い大根(漬物、鍋、など)を自給する計画を立て、ほぼ成功致しました。直径42センチ。深さ40センチ程の大きなコンテナ10ヶに1ヶあたり最終的に3本となる様に種を蒔き(9月末)、12月から翌年の3月初めまで合計30本順次収穫して楽しみました。

大根_1

春野菜は虫との戦いになりますが、冬大根の成功に味をしめて3月末暖かくなった頃、コンテナ2ヶ分だけ大根の種を蒔いて試してみましたが、思いのほか順調に育ち来年からはもう少し規模を大きくして栽培してみようかと思っています;

春大根
春大根

以上

高齢スキーヤーが安全なターンを行うには

-高齢スキーヤーの身体的な特徴と滑走姿勢について-

歳を取ると誰でも自覚することは;
1.下半身の筋力が思いのほか弱くなっていることです。特に私の様に日頃運動と言えば散歩だけという人は、膝を深く曲げた状態から片足で立ち上がるのは難しくなっているのではないでしょうか
2.バランス感覚が相当鈍ってきていることです。目をつぶって片足で立っていられる時間が若い時代に比べると著しく短くなっていることは統計が示している現実です。これは ①バランスのズレを感知する足裏の感覚が鈍っていること、及び ②バランスを瞬時に修正する為に必要な反射神経が衰えてきている為と思われます

こうした身体的なハンディキャップを前提とした上で、高齢者が楽しく安全なスキーを行うには、競技スキーヤー、デモンストレーター、若者たちが滑っているスタイル、これは全日本スキー連盟が推奨している「中間姿勢–下図 A」 ですが、これよりも「腿を立てた姿勢–下図 B」の方が合理性が高いと思われます;滑降姿勢_小茂田

 

中間姿勢–上図 A」は上級者として必要な、①斜面の不規則な凹凸に脚部(腿と脛)の伸縮で対応できることと、②斜面から受ける力の作用点となるブーツと、重心(身体の臍あたりか?)との距離が短く、スキーの横方向からの不規則な力(⇔こぶを滑る時、荒れた雪面を滑る時、高速で滑る時)に対してバランスを維持しやすいことから、合理性の高い滑降姿勢だと思われます。

しかし高齢者にとっては、この姿勢は維持するだけで体力的に消耗し、長時間滑ることはできません。一方、高齢者は上記①、②を必要とする滑りをしていいのでしょうか?否!であります。高齢者のスキーヤーは、怪我のリスクを避け、晴天に恵まれた踏みならされた中斜面を颯爽と滑り(できれば若い女性のボーダーを追い越していくスピードで、、)、ゲレンデでの冒険よりは、夜の温泉と酒と放談に命をかけるべき?ではないでしょうか。この様な滑りには「腿を立てた姿勢–上図 B」が断然有利です。体重は腿に力を入れなくてもブーツの真上にあり、なんといっても高い姿勢の滑りは、低速で滑っても颯爽としています。

-高齢者の合理的なターンの方法-

スキーの滑走技術の中で最も難しいのは「谷回りターン」です。大袈裟に言えば、このターンを完璧にこなせれば一級取得も可能と言える程です。谷回りターンとは以下の様なターンのことです:

谷回りターン_小茂田作成

 

このターンの難しいところは、スキーを滑らせる方向が最大傾斜線に向かっていくにつれ、正しいスキーの操作を行わないと速度が急に増加して身体のバランスを崩してしまうことにあります。バランス感覚が鈍っている高齢スキーヤーとっては、この滑走速度の急激な変化は鬼門です!以下は、高齢者がこの谷回りターンを安全、且つ簡単に行うための一つのアイデアです。キーは滑走速度を如何に一定に保つかです

<滑走に関わる初歩の物理学(ニュートンの法則!)>
簡単のため高速滑走を想定しないことから以下の前提を置くこととします;
① 空気抵抗を考慮しない
② スキーの撓み(たわみ)、捩じれを考慮しない

滑走中に考慮しなければならない物理的な要素は;
重力(体重+ブーツ、スキーなど)
雪面から受ける力: スキーの進行方向と逆方向に「スキーの向き」、「体重」、「雪面の状態」や「滑走速度」に応じて発生します
遠心力: スキーがターンしている時に、進行方向に直角な方向に感じる力(正確に定義すると、スキーの進行方向を変える為に加えた力の“反作用”です)。力の大きさは速度の二乗に比例し、ターンの半径に反比例(急激なターンほど大きな力となる)します
滑走速度

A.簡単のため、まずターンをしていない時(直滑降、斜滑降)の力のバランス、速度との関係を考えます;

滑走時の力関係図_1

滑走に必要な推進力は重力の斜面傾斜方向の分力“F”です。斜面に垂直な分力はスキーを斜面に押し付ける力になっています。
雪面から受ける力“D”は、“F”と反対方向に向いています。この時必ず以下の関係が成立します;
F>D: 滑走速度は増加します(加速)
F=D: 滑走速度は一定に維持されます
F<D: 滑走速度は減少します(減速)

 B.次にターンをしている時の遠心力と重力の関係を考えます;

滑走時の力関係図_2

ターンをしている時は、滑走速度とターンの半径で決まる“遠心力”が身体の重心部分に作用します。この力とバランスするように体をターンの内側に傾けます。身体の傾ける角度は、傾けることによって生まれる“重力の分力”が丁度“遠心力”と一致するところまでになります(⇔数百万年前に直立歩行を始めた人間はこのバランスをあまり意識せず行なうことができます)

C.最後にスキーを斜めにズラすことによって、雪面から受ける力“D”滑走速度について考えます;

滑走時の力関係図_3

 スキーをズラさない時(直滑降、斜滑降)は、スキーは雪面からの抵抗が重力による推進力と等しくなるまで加速します(⇔滑走速度をコントロールできない!)
これに対して、スキーをズラすことができれば、スキーが雪面から受ける力がズレる角度“θ”によって変化する(“θ”が大きいほど雪面から受ける力が大きい)ことを使うことにより、自分が望む任意の滑走速度で滑ることが可能となります

-高齢者にも安全な谷回りターンの習得法-

上記のA、B、C、の原理を使うことにより、難しい谷回りターンを行なう時ににも、高齢スキーヤーにとってもバランスの維持が容易な「滑走速度一定」の谷回りターンが可能になります。ただ、スキーヤーはターン(⇔重力の分力によるスキーの“推進力”が変わっていく)をしながら滑走速度を一定にするスキー操作が出来なければなりません。この“技” (ズレを自在にコントロールする技)は以下のスキー操作を反復練習することによって容易に習得することが可能と思います;
① 滑走速度が一定となる様にズラス角度“θ”をコントロールする練習(色々な斜度で同じスピードで滑れるようにする ⇔ 斜度に応じて“θ”を変える)
斜滑降から谷に向けて浅い角度でスキーを回し、一定の幅でスキーをズラせて滑り続ける練習( ⇔ スキーが谷の方に向くに連れ加速していくことを体得する)
尚、ターンをする時に遠心力に見合うだけ体を内側に傾けることが必要となりますが、これは前段で説明したように人間が本能的に行なうことができるバランス感覚なので、特段の練習の必要はないと思います。

こうした操作を行った結果としての「安全な谷回りターン」の軌跡を描いてみると下図の様になります(滑走するスキーヤーを上から見た図);

滑走時の力関係図_4

上の図でポイントとなるのは「ニュートラル」の部分ですが、これはスキーの真上に乗った状態(雪面に対して直角で、且つスキーをズラせていない状態)で、ごく短時間のみ実現可能となる状態です。この「ニュートラル」の状態から重心を谷川の方向にシフトさせつつ、スキーを半時計周りにズラせば「谷回りターン」が始まります。因みに上の図で時計回りにズラせば「山回りターン」となり減速して、いずれ停止状態になります。

この「谷回りターン」の方法は、所謂「カービングターン/Carving Turn」とはかなり違う滑り方になります。理想的な「カービングターン」では、スキーを「撓ませ、傾けることにより出来る曲線」とスキーの「サイドカーブの曲線」とで決まるラインに沿って、スキーをズラさないで滑る技術で、エネルギー損失の少ない滑り(つまりスピードが出せる滑り)が可能となり、筋力が大きく、スピードに強い上級者にとって非常に快感のある滑りが可能になります。スキーの性能もこの技術が容易に発揮できる所謂「カービングスキー」が一世を風靡することとなりました。
しかし、この滑りは必然的にスキーの滑走速度の増加、及び速度の変化率が大きくなってしまうこと、またこれらが斜面の斜度、及びスキー固有の回転半径(←スキーの曲げ剛性と捩り剛性、及びサイドカーブの形状で決まる)で決まってしまいますので、安全速度を守る必要のある高齢スキーヤーにとっては、転倒のリスクが高くなる滑り方になります。私自身も高速ターンをしている時に転倒し、肋骨と膝に相当なダメージを受けた経験があります。ただ、この滑り方は相応の快感がありますので、緩斜面での実施は高齢スキーヤーにとってもお勧めです!

スキーを長くやっている上級者の方々はご存知のことと思いますが、ズラしを積極的に活用するスキー技術は、既に大昔に「オーストリアスキー教程」で教えていた技術です。この時代のスキーは、ズラさねばうまくターンできない代物であったこともその背景にありました。
1990年代に入ってからだと記憶していますが、「カービングスキー」が登場し、ズラして滑ることがむしろ格好悪いという風潮すら生まれたように思います。結果として“格好良さに命を賭ける”ベテランスキーヤーは「カービングターン」という新たな技術へのチャレンジと、増大する怪我のリスクに直面することとなりました。最近になってゲレンデでの転倒事故や衝突事故の多発から、ようやくスピードの制御に目が向けられるようになりました。スキーもズラし易い性能のものが売られるようになりズレズレターン!の復権も間近いのではないでしょうか、、、

以上

収穫シリーズ_①

-タマネギの収穫-

5月に入ってタマネギを収穫しました。上記写真の内、左側の黄色のタマネギは長期保存がきく種類、右側の紫色のタマネギは生食ができる種類です。いづれも9月に種を蒔き、11月に以下の写真の様に大きなコンテナに植え替えます;

タマネギの植え替え
タマネギの植え替え

植え替える際、プロは太さが5ミリメートル程に育った苗のみを使う様ですが、素人の私としては“もったいない!”ので太過ぎる苗も、細すぎる苗も捨てないで植えつけます、結果として収穫物は写真の様に大・中・小、様々の大きさになりますが、料理の用途に応じて使い分ければ全く問題ありません(負け惜しみ?)。また3月末になって冬野菜が少なくなった頃、一部のタマネギを早めに収穫して、主として葉の部分を「ぬた」(茹でて酢味噌で遇えた料理)などにして食べていますが、絶品の味です

紫のタマネギは、薄くスライスしてサラダで食べることが多く早めに食べ終わりますが、黄色のタマネギを含めて我が家で食べ終わるのは10~11月頃となります。料理の素材として用途が広く、且つ保存期間が長いタマネギを、一回の栽培で約8ヶ月間食べられることは、自給を目指す私としてはとても有り難いことだです

-欧州産のカブ類3種の収穫-

エストニア友好協会の事務局をしている私のワイフが、昨秋友人を介して入手した10種類ほどのタネの内、以下のカブ3種類を3月末に直播してみました:

欧州産のカブ3種
欧州産のカブ3種左端(“Punapeet”/テーブル・ビーツ;中央:“Ounapeet Chioggia”/テーブル・ビーツ;右端:“Redis Helios”/ラディッシュ・ヘリオス)

右端のラディッシュ・ヘリオスは1ヶ月ちょっとで収穫でき;IMG_4066

葉を含めて生のままサラダでおいしく食べることができました。尚、日本の普通のカブとは違ったシャキシャキした触感でした

中央と右端のテーブルビーツは5月中頃に収穫出来ました;

DSC_0241

中央のビーツは上の収穫写真の左側ですが、これはタネの写真にある様にスライスすると綺麗な赤・白の同心円が出て、食感と併せ美観的にも生のままサラダで食べることがベストと感じました

収穫写真の右側のビーツは、ただ小さいだけで普通のビーツ(直径6~10センチ程;ロシア料理で有名な“ボルシチ”の材料)と食感、色(特に茹で汁が真っ赤になる)共に全く同じでした。茹でたものは甘みがかなりあり、サラダや肉料理の付け合わせに最高です。従って、このビーツは継続して栽培を続けるつもりです(7、8月は気温が相当高いので無理かも)

茹で上がりのビーツ
約20分間茹でたビーツ

以上

1_航空機の発達と規制の歴史

-はじめに-

現在の主要な公共輸送手段である船舶、鉄道、自動車と比べ、航空機の歴史は一番短く、ライト兄弟が最初に動力飛行を成功させてから、凡そ100年しか経っていません。この間、人類の“夢”から“現実”の乗り物への道程には、数々の“想定外事象”が起きるとともに、これを克服してゆく勇気ある開発者の存在がありました。また公共輸送手段としての役割を担ってゆく過程では、リスクの受容(所謂“絶対安全”はあり得ない)が不可欠となりますが、これには圧倒的な高速性に着目した進歩的な市民の支持と、行政による的確な“規制”の制定・運用がありました。言うまでもない事ですが、航空機の兵器としての潜在力から、二つの大戦が進歩を大幅に加速させたことは間違いありません。

-航空機の進歩に伴う想定外事象の発生とその克服-

<黎明期>

1903年 ライト兄弟(米国)が動力機による初飛行に成功した
1910年 日本においても、徳川好敏・日野熊蔵によって動力機の飛行が行われた

これ以後、航空機の性能向上に伴い発生した想定外の事故とその克服
航空機の性能(速度、搭載量、航続距離)を向上させる為に行った軽量化により、ダイバージェンスやフラッターが発生し墜落事故が起こりました。
*ダイバージェンスとは:航空機のスピードを上げるにつれ徐々に翼の捩じれが増し、ある速度で翼が完全に破壊される現象
*フラッターとは:航空機のスピードを上げるにつれ翼が振動し始め、ある速度で翼が完全に破壊される現象 ⇒ NASAの動画
これらの現象は翼のねじり剛性を高めることや、翼の運動と空気力の相互作用に関する理論(空力弾性学)が確立されていくにつれ、次第に克服されていきました。

<商用機としての発展>

第一次世界大戦(1914年~1919年)において、航空機が初めて軍事目的(偵察、爆弾投下)に使用され、その有用性が広く認識される様になりました。また、その高速性能に着目しビジネスでも広く活用されるようになり、法整備が進んでゆきました;
1926年 米国において航空機を商用、等で使うことを奨励するための法律(The Air Commerce Act of 1926)が制定された

また日本においても、
1928年 日本航空輸送株式会社設立(→1938年 大日本航空株式会社)
1931年  関東軍軍用定期航空事務所設立(→1932年 満州航空株式会社)

1930年代になると米国の商用機の事故が相次ぎ(特に有名人の死亡事故)世間の注目を集めることとなりました;
1931年 “Knute Rockne”(フットボールの有名なコーチ)の乗った航空機が墜落。原因は構造設計が悪くフラッターが発生
1934年 “Will Rogers;Wiley Post”(先駆的なパイロット)が乗った航空機が濃霧の中で無謀な着陸を試みて失敗
1935年 “Bronson M. Catting”(著名な上院議員)が乗った航空機が燃料切れにより墜落
これらの事故の原因究明に関し組織的な取組が行われ、規制面で以下の様な対応が取られました;
1934 Bureau of Air Commerce の設立
1938
 The Civil Aeronautics Act of 1938 の制定
この中で、航空機の“安全性”と“経済性”を両立させるために、以下の様な3つの独立した政府機関(“Agency”)を設けることになりました;
*Civil Aeronautics Authority:民間航空産業の安全性と経済性に関する規制を行う組織
Administrator of Aviation:安全規制を専門に行う役職
Air Safety Board:事故調査を行う組織

また、
1940年 The Civil Aeronautics Act of 1938 に以下の修正を行いました;
*CAB(Civil Aeronautics Board)全ての経済規制と事故調査に責任を持つ組織
*CAA(Civil Aeronautics Administration):全ての安全規制に責任を持つ組織

<軍用機の開発競争>

第二次世界大戦(1939年~1945年)に於いては、米国、日本、英国、ドイツなどで兵器としての開発が行われ、航空機は性能(速度、搭載量、航続距離)面で飛躍的な進歩がありました。特に特筆すべき技術革新として以下があります;
1939年 日本/速度、航続距離、運動性能に優れた“零戦”の実戦配備
1942年 米国/航続距離、搭載量、高空における性能に優れたB29の実戦配備
1944年 ドイツ/プロペラに替わるパルス・ジェット推進のミサイル(V1)の実戦配備
* ミサイルV2は弾道ロケット
1944年  イギリス/プロペラに替わるターボ・ジェットジェット推進の戦闘機の実戦配備(V1迎撃で活躍)

<軍用機技術の民間機転用>

大戦中に急速に進歩した航空機を、国際間の主要な輸送手段として普及させていく為の体制整備が行われました;

1944年 連合国によるシカゴ条約の締結;
商用航空機の運航管理、技術管理、パイロット・整備士の技量管理、などについて国家間の違いを無くす仕組みを条約によって保証することとし、これを実行する組織として;
1947年 ICAO(International Civil Aviation Oeganization/国際民間航空機関)を創設しました。シカゴ条約を批准した国は、ICAOに加盟することが義務付けられています。

<敗戦後の日本の状況>

敗戦と同時に満州航空は消滅、またGHQにより日本国籍の航空機の全面飛行禁止措置が取られたため、大日本航空も業務停止となりました。更に、敗戦後7年間に亘り、航空機に関する研究・開発、製造が禁止され、それまで最先端の設計、製造技術を持っていた日本の航空機産業は壊滅的な打撃を受けることになりました。一方、航空輸送ビジネスに関しては以下の体制整備が行われ、徐々に活気を取り戻してゆきました;

1949 航空保安庁(電気通信省)設置
1950年 旧航空法は廃止され、航空保安庁は航空庁となった
1951年 GHQにより日本資本による国内航空事業が認可され、日本航空が設立された
1952年 航空法が制定され、航空庁は航空局となった
1953年 シカゴ条約の批准、ICAO加盟を果たし国際線運航の体制が整った

<ジェット旅客機の登場>

大戦末期にイギリスで登場したジェット戦闘機は、朝鮮戦争(1950年~53年/休戦)では早くも戦闘機の主役になっていました(米軍/F-86、ソ連軍/Mig 15)。一方、商用機の開発についてもイギリスが一番乗りを果たしました;
1952年 デ・ハビラント社製“コメット”の就航

コメットⅠ型機

しかし、戦闘機開発で培った経験をもってしても、以下の様な“想定外の事象”の発生を防ぐことはできませんでした;

1953 コメット機空中分解により墜落
*事故原因:油圧増力式操縦桿(自動車のパワーステアリングと同じ様な機能)が軽過ぎ、かつ反力が殆ど感じられないため、人力操舵機に慣れたパイロットが急激な操作を行ってしまうことが事故の原因の一つだった
*事故後の対策:油圧増力式の操縦桿に“Load Feel Mechanism(操縦桿の操作量に応じて反力が感じられるような装置)”の導入を義務化した

1954年 コメット機2機連続で空中爆発により墜落
緊急に取られた措置:同型式機の耐空証明を停止(→同型式機全ての運航停止)し、事故機の破片を回収して大規模な再現実験を実施した
*事故原因:客室内の与圧の繰り返しにより、胴体外板が一気に疲労破壊を起こした
*事故後の対策:航空機の耐疲労設計の導入(フェイルセーフ構造の高度化など)と疲労強度確認試験の見直しを行った

<米国における航空輸送の急速な発展>

大戦後、急速に経済発展を遂げた米国に於いて、ジェット旅客機の普及とGeneral Aviation(定期航空、軍用航空を除く航空輸送)の急速な発展がありました。しかし、運航機数が増えることに伴う事故が多発(年間3,500~4,000回の事故)し、以下の様な規制強化が行われました;

1958年 The Federal Aviation Act of 1958 の制定
公正な事故調査を保証し、事故の教訓を生かした再発防止が確実に行えるように以下の法整備が行われました;
CABに事故に伴う規制強化等の権限を付与
CABは同種の事故を防ぐための研究をFAA(Federal Aviation Administration)に勧告
CABに事故機、及びその部品の調査、保全の責任を付与
事故に係わる特別査問委員会(Special Board of Inquiry)の召集(内2名の委員は大統領の指名)

1966年 ョンソン大統領により以下の行政改革が行われました;
*新組織としてDOT(Department of Transportation)を設置。FAA(Federal Aviation Administration)はその組織の一部とする
CABの権限を経済規制(路線権益、運賃、企業合併等の許認可)に限定
NTSB(National Transport Safety Board/事故調査委員会)をCABの組織から分離し、全ての交通機関の事故調査を行う組織としてDOTの権限下に置く

-トピック-
1965年 戦後初の国産商用航空機/YS-11(ターボ・プロップ機)の就航。但しエンジンは英国製であった

YS11

1966年 英国海外航空(BOAC)・B707墜落
乗員・乗客124人全員がこの事故で死亡;
*事故原因
:有視界飛行方式で航空路ではない空域を飛行中、富士山の風下側に発生する強い晴天乱気流(Clear Air Turbulence)に突入し、設計値を大きく超える大きな荷重(重力の7.5倍)がかかり主翼、尾翼が一瞬のうちに破壊されて墜落
*事故後の対策:原則として指定された航空路を飛行すること。有視界飛行では、強い晴天乱気流が予想される気象条件の空域は飛行しないこと(運航ルールの改善)

<大量輸送時代の到来>

1970年に入って、航空機による移動が一般化し、運航する航空機の数が飛躍的に増加しました。また、この急激な旅客需要増加に対応するため、従来の2倍以上の搭載量を持つ超大型機(B747DC10トライスター)が登場しました。大型機は一回の事故で極めて多数の死傷者を出す結果となり、事故の原因究明と事故対策の実施が非常に重要になりました。

1974年 トルコ航空・DC10墜落
乗員・乗客346人全員がこの事故で死亡;
*事故原因:高度12,000ft(約3,600メートル/約0.64気圧)で後部貨物室ドアが開き、減圧による客室の床の変形で床下を通っていた操縦系統(方向舵、昇降舵、水平尾翼、センターエンジンをコントロールするケーブル、油圧パイプ)が破壊され、操縦不能となって墜落
空中で貨物室ドアが開いた原因; 整備士による不完全なドアロック(←注意書きの英語が読めなかった) ドア作動用のモーターの回転力不足 ドアロックが不完全な状態でもドア警告灯が消灯してしまう
<注>客室のドアや小さな貨物室のドアは“プラグ式”のドア構造(コルクの栓の様な形状をしており、客室内の圧力が外気圧より高ければきつく締まる様になっている)となっている為、空中でドアが開くことはない
当該事故の2年前にアメリカン航空DC10が同様な理由で後部貨物室ドアが開き、操縦困難になったものの、緊急着陸に成功した事例があった。これを受けてFAAが後部貨物室ドアのAD(Airworthiness Directives / 耐空性改善命令)を出そうとしたが、政治的意図によりFAA上層部に握りつぶされていた
*事故後の対策(DC10だけでなくB747、等の全大型機が対象): 客室床面の強度向上 貨物室に急減圧が起こった場合、客室内の大量の空気が瞬時に抜け、客室床の変形が起こらない様に大きな“穴”を設置 昇降舵・方向舵のコントロールケーブルの経路を床下から胴体横に変更

行政が、事故原因の究明や事故後の対策に介入することを防止するために、NTSBに関して以下の極めて厳格な法整備が行われた;
1974年 米国:Independent Safety Board Act of 1974
上院の助言と同意を基に大統領が5人の委員を選任。議長及び副議長は5人の委員の中から上院の助言と同意を基に大統領が指名
*同じ政党を支持する委員が3名を超えてはならない(“no more than 3”)
少なくとも3名の委員は“技術的な専門性”を有していなければならない。
*“技術的な専門性”が求められる分野:“事故再現調査(“accident reconstruction”)、安全工学、ヒューマンファクター、輸送及び輸送安全に係わる法規制
委員の任期は5年
事故調査を行う分野:民間航空、鉄道、パイプライン、高速道路、船舶
事故調査はあらゆる政府機関の権限に優先する。また事故に係わる“犯罪捜査”や“民事訴訟”に対しても優先する
事故に係わる安全勧告は、必要により連邦政府、地方政府、地方機関、民間組織に対して行われる
NTSBから安全勧告が出された後、運輸長官(“Secretary of Transportation”)は90日以内にこの勧告を全面的又は部分的に受け入れるか、拒否するかについて文書による回答を行わなければならない。運輸長官は毎年この勧告に対するDOTの取った措置を議会に報告しなければならない
NTSBは事故調査のプロセスについて“宣誓証言”による公聴会を行わなければならない
NTSBは必要な場合、証人の召喚、証拠提出の命令を下すことが出来る
許可なく事故機を動かしたり、隠したりした場合、罰金又は10年以上の禁固又はその両方を課される
NTSBは事故調査に必要なあらゆるサポート(専門家・コンサルタント、等々)を受ける権限を有する

 1977 ダン・エア(英国)・B707 墜落
着陸進入中に水平尾翼が脱落して墜落。当該機は貨物機であったため乗員6名旅客1名の死亡にとどまった;
*事故原因:水平尾翼の後ろ(Spar/翼の長手方向の加重を支えている太い部材;通常2~3本で構成されている)の上部が金属疲労で破壊(亀裂の発生から7200回の離発着で発生)され、同時にフェイルセーフになっているはずの中央桁も破壊されて水平尾翼全体の脱落に至った。根本原因は不適切なフェイルセーフ設計ということになるが、機体設計の時点で、この破壊モード(破壊に至るプロセス)を想定することはできなかった。
*事故後の対策; 高稼働機を対象とした追加の検査要目の設定 ②損傷許容設計の導入
損傷許容設計とは:破壊されても深刻な事態にならない構造をあえて作り損傷の早期発見と重要な構造に破壊が連鎖しないようにすること、あるいは構造をうまく分離することによって破壊の重要部分への進展を防ぐような設計手法

事故後の調査で同型機521機のうち38機に亀裂が発見されており、上記対策によって多くの深刻な事故の発生を抑止できたことがわかると思います。

<大競争の時代>

 1978 カーター大統領により、航空自由化に舵が切られ(The Airline Deregulation Act of 1978)た結果、米国内では急激に航空会社が増加(約2倍)し熾烈な競争時代を迎えました。
1984年 米国に於いては経済規制(路線権益、運賃、企業合併等の許認可)を行っていたCABが廃止されました。
この自由化の流れは米国主導で世界に波及し、欧州に於いては1990年前後から、日本においても2000年前後から本格的な航空自由化が実現し、内外の航空会社間で厳しい競争が行われる様になりました。ただ、この競争は営業面に限られ、安全運航に関わる技術規制に関しては、急激な機数増に伴う事故件数増を抑止するために、逆に強化されてゆきました。

1982年 統合失調症の機長(JAL/DC8)が故意にエンジンを逆噴射させた為に滑走路(羽田空港)手前の浅瀬の海に着水。水没した椅子に座っていた24名の乗客が死亡;
*事故後の対策: 飛行中にエンジン逆噴射やグラウンドスポイラーを操作できないようにするインターロック機能の装着義務付け 運航乗務員の精神病に係わる健康管理の強化を義務付け
*類似事故
1999年 エジプト航空・B767 副操縦士による故意の墜落。乗員・乗客217人全員死亡
2015年 ジャーマンウィングス・A320 副操縦士による故意の操作により山に激突。乗員・乗客150人全員死亡

1985年 操縦系統が失われた日本航空・B747が御巣鷹山に墜落乗員・乗客520人死亡;
*事故原因:1978年の“尻もち事故”で損傷した圧力隔壁をメーカーであるボーイング社が修理を行ったが、その際構造修理マニュアル(SRM/Structure Repair Manual)に沿った作業を行わなかった為、その後の離発着で圧力隔壁の疲労破壊が起こり、操縦不能となって墜落した。

圧力隔壁の損傷状態
事故現場から回収した圧力隔壁の損傷状態

圧力隔壁
圧力隔壁(“Pressure Bulkhead”;上図):客室内の与圧をこのお椀型の隔壁で支えている(FAAの公開資料より抜粋)

修理方法(正誤)
上の図で左が正しい修理方法。右が間違えた実際の修理方法:黒く塗りつぶしてあるジュラルミンの板が中心でつながっていない⇒上の板と下の板は結果として、それぞれ一つのリベットで繋がっておるだけとなる。左側の正しい修理方法の場合、それぞれ二つのリベットで繋がっている(FAAの公開資料より抜粋)

圧力隔壁を設計する段階で、圧力隔壁が急激に破壊されると尾部構造(垂直尾翼、水平尾翼など)も同時に著しく破壊されてしまうこと、圧力隔壁が急激に破壊されると操縦に不可欠な油圧システムの全系統(フェイルセーフの目的で独立した4系統で構成されている)が同時に不作動となること、は想定していなかった
*事故後の対策: 方向舵、昇降舵、水平尾翼を操作する油圧システムのパイプの経路変更(床下から胴体側面)を行うと共に油圧パイプにチェックバルブ(パイプ破壊に伴う作動油の喪失を食い止める為のバルブ)を増設する 大規模修理実施後の追加整備要目(航空機が廃棄されるまで継続実施を義務付ける)を設定する(←日本国籍機のみ)
*類似事故:2002年 中華航空・B747墜落(乗員・乗客225人全員死亡)。事故原因は修理作業を行った中華航空がSRMに沿った修理をしなかった為であり、JAL・B747事故と全く同じ

1991年 ユナイテッド航空・B737 墜落。乗員・乗客25名全員死亡
事故原因:方向舵の機能喪失
事故後の対策:
ボーイング社による方向舵システム(ラダー・サーボ・バルブの機能不全)の改修 
*類似事故:
1994 米国:USエア・B737 墜落事故。乗員・乗客137名全員死亡

1994 Public Law 103-272 の制定
1958年に制定された法律:“The Federal Aviation Act of 1958”と本質的な差は無いものの、以下の様に耐空性にかかわる判断基準が極めて具体的に記述されるようになりました;
耐空性がある”ということは以下の二つの条件を満たしていること: 機体の形状(正確には“Configulation”)及び装備品が“型式証明”取得の際に提出された“図面”、“規格・基準”、“その他のデータ”と完全に一致していること。但し、これには取得後の変更管理がSTC(Supplemental Type Certificate)や“仕様承認”、等によってきちんと行われていれば一致していることと看做す⇔分かり易く表現すると、使用者(航空会社)による勝手な航空機の形状変更は許されないということ 航空機及び装備品の状態が“安全に飛行できる状態”にあること。“安全に飛行できる状態”とは、磨耗や劣化、油脂の漏洩などが無いことである⇔分かり易く表現すると、保全整備が確実に行われていることが必要であるということ

1996年 ValueJet Airlines・DC-9墜落。乗員・乗客110名全員死亡;
事故原因:航空機から取り降ろされた旅客用酸素発生器に安全キャップを取付けないまま貨物室に搭載(整備を委託していた“Sabre Tech社”の整備士と検査員のミス)し、この酸素発生器から漏れた酸素が原因で貨物室が火災を起こし操縦不能となって墜落。
*事故後の対策; 当該貨物室(クラスD)への火災警報システムの装着義務化 委託管理の強化(委託先が犯したミスであっても、委託元の航空会社に管理責任があると見做すこと)

2001 同時多発テロ 発生
事故後の対策:①操縦室ドアの強化(小型の銃器では破壊できない)と運航中常時施錠の義務化 空港でのセキュリティー強化(航空会社の費用負担) 銃器携行の覆面警察官の同乗(全便ではない/国によって違いがある) 

2005 ギリシャ:ヘリオス航空・B737-300墜落。乗員・乗客121名全員死亡
*事故の経過:パイロットが機内与圧コントロールノブを“AUTO”にしないまま離陸・上昇したため、パイロットが低酸素症による意識不明に陥り、燃料が無くなるまでオートパイロットで飛行した後墜落
*事故原因:出発前の整備作業で機内与圧コントロールノブを“手動”にしたまま整備作業を終了した。パイロットは出発時に機内与圧コントロールノブが“AUTO”の位置にあることを確認しないで離陸上昇した。パイロットは“警告音”が鳴っているにも拘らず原因を特定しないで警告を解除した
*事故後の対策:パイロット及び客室乗務員に“低酸素症”の症状に係る教育(体験を含む)を実施する

2009 エールフランス・A-330墜落。乗員・乗客228名全員死亡
*事故の経過:離陸上昇し高度38,000フィート(11,580メートル)を飛行中、失速して墜落
*事故原因:飛行中にピトー管(対気速度の計測に必要)の一部が凍結し、操縦に必要な情報が充分に得られなくなり手動操縦に切り替えた後、操縦を誤り墜落した
*事故後の対策:高高度、高速運航時における失速の訓練実施(現行のパイロットの訓練には低高度、低速時の失速訓練しか行われていない)

2013年 日本航空・全日空 B787 バッテリー火災事故
*事故、対策、等の一連の過程
1) 1月7日、(JAL)ボストン空港に着陸した機体の補助電源系統のバッテリーに火災発生
2) 1月16日、(ANA)飛行中に電気室のメインバッテリーが火災を起こし、高松空港に緊急着陸
3) 1月16日、FAA(連邦航空局)は787の運航停止命令を発動(34年ぶり)、国土交通省も同様の命令を発動
4) 1月20日、日本の運輸安全委員会が米国の調査チームと連携して事故調査開始
5) 1月20日、ボーイング社、新規製造機体の引渡し停止
6) 1月21日、航空法に基づき国交省はFAAと合同で、バッテリーを製造している“GSユアサコーポレーション”に立入検査実施
7) 1月25日、ボーイング社は本件に関する数百人規模の特別チームを結成
8) 1月25日、FAAの能力に疑問を抱き、米国上院が公聴会を開催しFAA幹部を追及する方針を決定。調査には、リチウムイオン電池の研究で知られているアルゴンヌ国立研究所とNASAに協力を求めた
9) 1月28日、航空法に基づき国交省はFAA(連邦航空局)と合同で、バッテリーの制御装置を製造している“関東航空計器”に立入検査を実施
10) 2月7日、ボーイング社、バッテリーの設計変更検討開始
11)  3月1日、ボーイング社、国交省に以下を説明:
*火災発生の原因の特定はできなかった(調査は継続)
考えられる火災発生の原因の全て(100項目)に対して対策を立てる(設計変更)。主なものは; バッテリー・セル対策:最大電圧引下/最小電圧引上、結露の排水溝設置、セル周囲の絶縁 バッテリー・セル間の熱暴走対策として絶縁材の追加、耐熱素材による配線、気化した電解液の排出口を設置 ケース全体の対策として、バッテリー全体を新たなステンレスのケースで覆い、気化した電解液を機外に排出する配管を設置
12)  4月6日、ボーイング社、バッテリーの設計変更についてFAAの認可を得るために試験飛行を開始
13)  4月19日、FAA、設計変更を認可
14)  4月26日、FAA・AD(Airworthiness Directives)発行15)  4月26日、国交省・耐空性改善通報発行(上記ADを呼び出している)
16)  JAL、ANAは上記ADに加え以下の追加処置を行った: 改修実施後の確認飛行 飛行中のバッテリー監視装置の設置及びバッテリーのサンプリング検査の実施 パイロットの慣熟飛行の実施 利用者に対する情報開示、
16)  4月22日、JAL、ANA共に改修作業開始
17)  6月1日、JAL、ANA定期便復帰(運航停止期間:136日)
18)  2014年1月14日、JAL787バッテリーから発煙 ⇒ボーイング社JALと協力して原因調査開始 ⇒国交省、メーカーであるGSユアサと原因調査開始 ⇒国交省、安全運航に支障なしとの見解表明
19)  2014年9月25日 運輸安全委員会が最終報告書発表:「事故原因は特定できなかった

-この歴史から学ぶこと-

敗戦前までの日本では、多くの尊い犠牲を伴う“想定外事象”を乗り越えて航空技術の先進国として多くの優れた航空機を生み出してきましたが、戦後はGHQによる7年間の研究・開発、製造の禁止命令によりジェット機の技術開発では決定的な遅れをとってしまいました。しかし、米国製軍用機の製造分担などを通じて技術力を培ってきた結果、70年の歳月を経て現在は、MRJ(三菱リージョナル・ジェット)、C-2(次期自衛隊大型輸送機)、X-2(先進技術実証機)などの先進的な航空機の設計・製造を行える実力を持つに至りました。

MRJ
MRJ

しかし航空機では、開発段階は勿論、耐空証明取得後の運用段階でも“想定外事象”が発生し、場合によっては悲惨な事故となることも稀ではありません。これまでの70年間、日本人はこうしたリスクを負わないで航空機を利用することに慣れてきました。

航空機の歴史を振りかえってみると、“新しい技術の開発⇒想定外の事故の発生⇒事故の徹底分析⇒再発防止策の実施”のサイクルを繰り返してきたことが分かります。また、別の見方をすると、航空機とは“安全性と経済性のギリギリの妥協”の産物であると言うこともできます。従って、不幸にも想定外の事故が発生しても、これを進歩の為の糧としてチャレンジする気概が、開発する会社にも、またこれをバックアップする国にも必要になると思います。少なくとも敗戦前の日本はこの気概にあふれていました。70年間他国の開発した航空機を利用してきた今の日本に、果たしてこうした気概が残っているかどうかちょっと心配になります。

また、事故調査を徹底的に行って事故原因を究明することが、事故の再発防止の為に決定的に重要であることは論を待ちません。昨今の事故を分析すると、事故が発生するまでの一連のプロセスの中で、ヒューマンエラーが決定的な要因になっていることが少なくありません。米国では、1974年の法改正で“事故調査はあらゆる政府機関の権限に優先する。また事故に係わる犯罪捜査や民事訴訟に対しても優先する”ことが謳われており、事故関係者から正直な証言を得ることが容易になっています。
一方、日本に於いては航空事故が発生すると、警察や検察の事情聴取、取り調べが最優先され、過失の有無が厳しく追及されます。確かに多くの人命が失われた大事故の場合、国民感情がこれを求めるということも理解できないわけではありません。しかし航空事故の場合、事故原因の追究は専門家にしかできないことは明白です。また多数の同型式機が引き続きお客様を乗せて飛行していることを勘案すると、可能な限り早期に事故原因を究明し再発防止策を実行する必要があります。将来、日本製の航空機がどんどん世界に売られていくようになった時、日本の法制度によってヒューマンエラーに関わる事故原因の究明が遅れるような事態はどうしても避けなければならないと思うのですが、、、

以上

0_航空機の安全運航を守る仕組み

はじめに

大学に入って少年時代の夢であった航空学科を選択してから、40年以上に亘って航空に関わってきました。その間、航空に関わる理論的な勉強、エアラインにおける航空機整備の現場経験、航空機整備計画に関わる実務経験、航空会社の経営に関わる実務経験、また、悲劇的な航空機事故に関わる当事者としての体験を積み重ねてきました。

航空機は、人間だけの力では絶対不可能な“鳥の様に空を飛ぶ”という夢を実現する為の“極めて高度な機械装置”です。従って“墜落しない様に”飛ばすために、その百年余の歴史の中で実に数多くの知恵を積み重ねてきました。航空機事故が起こる度に、航空評論家と称する人たちを交えてマスコミでは不確かな情報を基に報道合戦が繰り広げらますが、この嵐の様な数日~数週間が過ぎればまた元の静寂に戻り、報道機関も視聴者も大きな関心を払わなくなります。実は、事故が起こる度に事故調査に多くの専門家が関わり、事故原因の究明と同種事故のリスクを減らす(事故をゼロにすることはできない!)為の数々の対策が立てられ実行に移されています。しかしこの作業は極めて膨大な作業を伴い信頼できる“結果”が出るまでに数年を要することも珍しくありません。一方、この大切な“結果”については、残念ながら詳しく報道されることは殆どありません。

航空輸送は既に鉄道、バスと並び公共的な大量輸送を担っており、安全のレベルについても、寧ろ他の輸送手段と比べて統計的には優っている状況になっています。これは正に上記“結果”の積み重ねによって作り込まれてきた極めて先進的な仕組み(システム)によって実現しています。この仕組みを体系的に理解することができれば、すこしは安心して航空機を利用して頂けるのではないか、また鉄道、バスの事故対策にも活用できるのではないかと考え、このテーマを取り上げることに致しました。かなり精緻な仕組みなので、以下の様に8つのセクションに分けて、できるだけ分かり易い説明を試みてみたいと思います

1.航空機の発達と規制の歴史
*ライト兄弟による初飛行から現代の航空機に至る発達の歴史
*想定外事象による事故の発生と原因究明、これらを踏まえた規制高度化の歩み

2.航空機の安全運航を守る仕組み_全体像
* 航空機の安全を守るStakeholder(責任を持っている組織・人)は
* 航空機の安全はいかにして守られるか
* 航空機の設計、製造、運用等の各段階でのStakeholder間の責任の分担
* 航空機、エンジン、その他の装備品の設計、製造、整備、改造に係る人の技量の管理
* 規制当局による審査、認可等の合理化

3.耐空証明制度・型式証明制度の概要
* 耐空証明制度
* 型式証明制度
* 航空機部品・材料等で使われる規格
* 設計検査
* 製造過程検査
* 完成後の現状検査
* 輸出・入航空機の型式証明

4.整備プログラム
* 用語の定義
* 整備要目の分類
* 整備マニュアル
* 整備パッケージ

5.航空整備に係る人の技量の管理
* 整備士のキャリアパスと教育・訓練
* 一般整備士の養成
* 作業リーダーの養成
* 国家が直接管理している資格者
* 技術以外の教育

6.認定事業場制度
* 技術上の基準に係る具体的審査内容
* 確認主任者の確認の方法

7.Hardwareに係る信頼性管理
* メーカーが行う信頼性管理
* 航空会社が行う信頼性管理

8.Humanwareに係る信頼性管理
* Humanwareに係る品質管理システムの歴史;
* Humanwareに係る品質管理システムの標準化
* ヒューマンエラーを抑止するための規制
以上

生命力溢れる野菜たち

屋上菜園で自給を目指す為には、出来るだけ多品種の野菜を栽培する必要があります。また、収穫後の用土の再生は手間がかかりますので、栽培サイクルを減らすことが重要になります。この条件を勘案すると、一回の栽培で何回も収穫できる“生命力あふれる野菜たち”は屋上野菜の優等生ということになります。

上の写真にある“ニラ”は最優等生です。拙宅では、餃子、豚肉/レバー・ニラ炒め、ニラせんべい(余りご飯・小麦粉・ニラのざく切り・味噌に水を加えて捏ね、フライパンで焼く。戦後食糧事情が悪い時によく作られました)、みそ汁の具、等で多用されていますが、年間を通じて(冬期間の収穫は無理)標準型の小さなコンテナ3ヶで十分足りています。標準のコンテナで3ヶ所ぐらいに小さくまとめて植え付け、収穫はこの単位で根元からカットすれば立派に再生します。追肥は適宜実施しますが、再生を繰り返すと葉がだんだん細くなって来ますのでこの時が植え替えのタイミング(1年~2年)になります。

普通では考えられないことですが、拙宅屋上ではセロリも同じように春に植えたものを冬を越して1年間利用しています。

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1年もののセロリ

セロリは茎の部分を食べるのが普通ですが、拙宅ではこの茎と葉を細かく刻んで薬味にしたり、肉類の料理でアクを取る野菜として活用しております。写真の様に株はかなり大きくなりますので、大型のコンテナに2株程度植えつけます。

12月~2月の冬の期間は吹き曝しの屋上では野菜の種類は限られます。鍋物や漬物に欠かせない白菜は勿論栽培いたしますが、これは収穫した後の再生は期待できません。一方、以下の野菜は簡単な保温カバーをすれば、根元でカットしたあと何回も再生させることができます(勿論追肥は必要です)。

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水菜_4月末に種まきしたもの

上記写真は4月末に種まきした水菜ですが、昨年10月末に種まきした水菜は12月~3月上旬まで何度も収穫⇒再生を繰り返しました。鍋や漬物に大活躍しましたが、標準型の小さなコンテナ3ヶで十分でした。3月後半から水菜は沢山の黄色の花をつけますが、これは春の息吹を感じさせる切り花としても活用できます。

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サニーレタス_4月末に種まきしたもの

また、サニーレタスも何度でも収穫⇒再生を繰り返す生命力旺盛な野菜です。冬の朝食用生野菜として大活躍しましたが、これも標準型の小さなコンテナ3ヶで拙宅の需要を十分に賄ってくれました。冬用としての種まき時期、栽培方法は水菜と同じです。因みに、昨年種まきしたサニーレタスは12月以降収穫を開始しますが、その後5ヶ月間以上に亘って活躍したサニーレタスの株は以下の写真の様な姿になっています。なんだな愛おしいですね!

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サニーレタス_5月17日の姿

尚、葉野菜に共通して言えることですが、種をまいてから収穫するまでに、私の場合2回ほど間引きをします。売られている種子の発芽率(裏面に書いてある)は75%以上が普通なので、一株を育てるのに3~5粒で十分のはず。双葉が出そろった頃に一回目の間引きで2~3株に減らし、ある程度の大きさになってから2回目の間引きを行って一株にします;

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サニーレタス_5月18日に間引きしたもの

上記の写真は2回目の間引きで収穫したサニーレタスです。食用に十分に耐えることはお分かりいただけると思います。

以上