敬老の日?

老人は敬う存在?

今年の敬老の日は9月18日。当初は9月15日に固定されていたのですが、行楽の秋に連休を作って観光需要を増やすために祝日法が改正されて2003年からは9月の第三月曜日と定められました。敬老の日のきっかけとなったのは、兵庫県多可郡野間谷村の村主催の「敬老会」だそうですが、この時の趣旨は「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」ことだったそうです。
私は一昨年70歳となり、自他共に認める「老人」の仲間入りを果たしています。当初は、それほど意識はしていなかったのですが、最近は老人の視点で自身のこれからの生き方について色々と考える機会が増えてきました。

最近読んだ本で、五木寛之が書いた「孤独のすすめ」という小冊子があります。これは、その前に出版している「下山の思想」、「玄冬の門玄冬の門を読んで)」に続くもので、傘寿を越えている筆者が、自身の経験や、宗教、古今の哲学に照らして老人のあらまほしき生き方を提案しており、私自身にとって大変参考になっています
この本で、次世代を担う若い労働者と、年金を食み豊かな資産を持った老人との関係は「階級闘争」の体を為しているとの面白い見方が述べられています

先日、やや混んでいる通勤時間帯の電車の中で、ドアが開いた途端、たった一つ空いた「優先席」に老人を押しのけて座った若者が居ました。件の老人は、若い女性に席を譲られて座ることはできたものの、対面に座るその若者を怒りに満ちた眼で暫し睨み続けていました
若者の言い分を忖度してみれば、肉体労働で疲れ切った体を休めるために席に座ることは、わざわざ!通勤時間帯に乗り込んでくる五体満足で暇な老人に席を譲ることに優先するということでしょうか。若い労働者にとってみれば、少ない賃金から年金やら、健康保険の名目で、彼らにとって少なくない金額を天引きされることは「搾取」と感じてしまうのも分からないわけではありません。また、このまま少子高齢化が進めば、自分たちの世代は年金を受け取れない可能性があると聞けば、元気な!老人を敬えというのが無理なのかもしれません

9月13日に厚生労働省から発表された医療費統計(平成27年度・国民医療費の概況_全体版)によれば、国民一人当たりの年間平均医療費は33万3千円になりますが、これを年齢層別に分けてみると、65歳未満の年間平均医療費が18万5千円に対して、70歳以上は84万円、75歳以上になると何と92万9千円!に達しています
また先日、日経朝刊の一面に、膨張する介護保険の記事が出ていました(介護保険は医療保険とは別建て)。現在介護保険の給付額は約9兆円、2025年にはこれが25兆円に膨らむと予想されています。介護保険は40歳以上の勤労者と、国及び地方自治体(いずれも税金が原資)が折半で賄うことになっていますが、教育費のかかる子供を抱えた勤労者の負担も重く、日本経済を支える40歳以上の勤労者の怨嗟の的になるのも時間の問題と思われます

こうした状況を考えると、我々「老人階級」も、戦後の驚異的な経済成長を支えてきたのだから、少しは楽をさせてくれよ、、などと呑気なことは言ってられないような気がします。長寿時代に生きる人間の生き方については、”「100年時代の人生戦略」を読んで“で紹介しておりますが、ここではこれからの老人階級の生き方について、もう少し具体的に自論を展開してみようと思います

元気な老人になる為に

今後、急激に増加していくことが確実な老人階級が、若い世代にとって迷惑な存在にならない為には、 長患いをしないこと 肉体的な健康を維持すること精神的な健康を維持すること、の三つに集約できると思います

① 長患いをしないこと;
簡単に言えば、古来理想的な死に方として言われている「ピンピン・コロリ」を目指すという事になるのではないでしょうか。脳死後の延命措置や、回復の見込みのない老人に「胃ろう(胃に直接流動食を注入できるようにすること)」の施術を行うこと、などは長患いの原因になります。これを避けるには、自身で判断が出来なくなる前に、予め近親者に意思表示しておくことが必要になります。最近106歳で亡くなった聖路加病院名誉院長の日野原重明さんは、ご自身で延命措置を拒否されて大往生を遂げましたが、私たち夫婦もこれに倣った生き方を目指したいと時折話し合っています
長患いをしないためには、肉体的な健康を維持すること、精神的な健康を維持することが必須条件になることは言うまでもありません

② 肉体的な健康を維持すること;
最近のテレビを見ていると、健康食品、サプリメント、健康増進器具、その他老人の健康維持、向上を謳ったコマーシャルが異常に多いことに気がつきます。コミュニケーションの手段がSNS中心となってしまった若者世代や、スマホを操り、ドラマはネットテレビに限るなどと嘯く先進的な!中年層が、ニュースを除くテレビ番組から離れてしまった事など、マスコミ業界の構造変化が、こうした老人向けTVコマーシャルの氾濫に繋がっているものと考えられます。ただ、薬や器具に頼るよりも、年齢に応じた運動を行うことの方が、楽しく、且つ健康的であることは医者に説教されるまでもなく、誰しもが納得できることではないでしょうか
年を取るにつれ、体力の衰え、運動神経の衰えに見合った軽度な運動に移行してゆくことは自然の摂理に適うことと思われます。軽度な運動の代表格は何と言っても「歩くこと」であることは誰しも依存の無い所だと思います。太古の昔から、歩けることは生きていることと同義語であったと思います。激しいスポーツが出来なくなっても、積極的に歩くことを心掛けることによって介護に頼らずに生きていく為の筋力が維持でき、少なくとも若者の負担にならない生活が可能になると考えても良さそうです

③ 精神的な健康を維持すること;
ここでは、統合失調症の様な精神病やアルツハイマー症に代表される認知症は、医学の発展に期待することとして除外して考えたいと思います。ただ、老人性のうつ病については、生き甲斐との関連が深い事から考察の対象したいと思います
精神的な健康をどう定義するかは中々難しい問題ですが、少なくとも「燃え尽き症候群に陥っている」、「何をやる気にもならない」、「死ぬことが不安で他の事が考えられない」、「政治、経済、その他、世の中で起こっている事に全く興味が湧かない」、、、などの精神状態にある時は精神的に健康であるとは言えないと思いますが、如何でしょうか?
こうした状況は、外界からの刺激を自らが遮断する結果となり、更に悪い精神状況に追い込まれるという負のスパイラルに迷い込んでいくことになりそうです。明治維新を担った志士は、関門海峡を我が物顔で行きかう外国船から強い刺激を受け、これを革命のエネルギーに変えていったと言われています。老人も外部の刺激に自分を晒すことによって生きるエネルギーを生み出すことが必要と思われますが如何でしょうか? 例えば、私など俗物は時折若者文化の坩堝となっている繁華街に出て行くことでエネルギーを貰っています。海外旅行の好きな方は、成熟した文明国を訪ねるよりも、発展途上国のエネルギーに触れることも一考に値すると思われます
私は繁華街以外に、時としてビジネスの中心街に出向くことがあります。高いハイヒールを履いて颯爽と歩く若いビジネス・ウーマンに追い越されそうになって、慌てて歩を早める自分に気が付きます! 普段老人とばかり歩いていると気が付かないポイントですね!

また、話すこと聞くこと読むことも精神的な健康を保つ上で極めて重要になります。会社勤め時代に比べると、会話をする機会が激減していることに気が付くはずです。夫婦や気の置けない友人との会話は、意識してでも増やすことが必要ではないでしょうか。あれ、これ、それ、、など代名詞が沢山混じる会話でも脳機能を活性化させることは勿論、老人性の嚥下障害(老人死亡率の高い肺炎の第一の原因です)を予防する効果も期待できます。話し相手が居ない時は、最近はやり?の「ひとりカラオケ」に興ずるのも効果があると聞いています
読むことは脳機能の内、主に前頭葉(ドーパミンの殆どがここに存在し、知的な活動を行うために最も重要な部分)を使うことになり、脳の老化を防ぐ為には最も大切な行動と言えます。毎朝新聞を読む、好きなジャンルの本を探して読む、大きな書店に行ってあれこれ立ち読みをする、書評を見てネット通販で取り寄せて読む、いずれも習慣化することで相当の効果が期待できると思います。ただ、年々老眼が進み長時間読み続けることは難しくなりますが、、、
私の友人には、緑内障や加齢黄斑変性症で視力が弱っている人もいます。彼らはパソコンを使って字を大きくして読んだり、読み上げソフトを使って聞き取ったりしています。知的な好奇心がハンディを乗り越えるということでしょうか。また、彼等はラジオの効用も語っています。朗読だけでなく、対談なども大変知的な好奇心を刺激するものがあり、塙保己一の例を引くまでもなく聞くことができれば読むことと同じ程度の前頭葉の刺激が得られることは確かです

老人が抱えるハンディキャップとその克服

上記「元気な老人になる為」の行動を実践する時、老人が抱えているハンディキャップを正確に認識し、自らその対策を講ずることを忘れれば、やはり社会の迷惑者になることは必定です

まず言えることは、走れない早く歩けない、というハンディキャップです。横断歩道の通行を始めとして、若い頃には間に合っていた距離が間に合わなくなることは往々にしてあります。対策は「急がば回れ」の諺を実践すればいいだけ、実に簡単なことです。時間はたっぷりある筈なのにこれを実践できない老人が相当数いることは間違いありません。 信号を渡り切れないことが分かっていても渡ろうとする老人がなんと多い事か、、、信号の間隔は青になってから歩き始めれば、よっぽどでない限り間に合うように時間設定されています

一次記憶保持能力(脳の中の「海馬」部分が担っています)が低下していることは誰しも認識していると思います。昔は10桁の電話番号は一度見ればダイヤルできたのに、今は一度6桁位をプッシュして、もう一度番号を確かめて残りをプッシュする人が多いのではないでしょうか。IDやパスワードについても同様ですね
また、反射神経の衰えも程度の差こそあれ、老人は避けて通れません。躓いても咄嗟に足が前へ出ないでコケそうになる、歩いていて人にぶつかりそうになるなど、日々痛感しているのではないでしょうか
自動車を運転する場合、この二つの能力低下は深刻な事態を招く可能性があります。例えば、交通量の多い道路を右折する場合、左側通行であることから多くの人は右を見てから左をみて安全を確認すると思います。右を見た時に走ってくる車の現在位置と速度を確認し、左を同じように確認した上で右折の行動に入ります。しかし、悲しいかな!最初に右を見た時の位置と速度の記憶が曖昧となっている為、結果として危険な右折を行ってしまうことがあります。広い道を走っている時に、右折を開始した後、迫って来る右の車に驚くもののブレーキが掛けられずそのまま右折を強行してしまう車は、殆どが老人の運転です。老人なんですから、時間はたっぷりあります!少し遠回りとなっても、左折を2回繰り返して信号のある交差点を右折するなど、ちょっと考えれば、老人の見っとも無い姿を見せないですむ知恵はいくらでもありそうです

バランス感覚の低下もバカになりません。スキーをやるとこのバランス感覚の低下は、即!転倒に繋がるので嫌でも思い知らされますが、この種のバランス感覚を要求されるスポーツをしていない人は、気付かないままに深刻な事態を招くことがあります。例えば、老人が自転車で交通量の多い車道を走る場合、交通ルールに従って当然左側を走るわけですが、多くの道は左側が傾斜しておりバランスを取るのが難しい状況になります。結果として蛇行しながらトロトロと走り、しかも後ろは見えていないので、追い越す車と接触するリスクが高まります。やはり、自転車が通行できる広い歩道か、自転車専用レーンのある道路以外、老人は自転車に乗らない方が賢明のようです

あれ、これ、それ、、の会話になる最大の原因は、名前を思い出せない(「度忘れ」と言い訳をする場合が多いですね!)事につきると思います。老人同士の会話であればお互い様なので、特に問題は発生しませんが、若者との会話においては決定的なコンプレックスの元になる可能性があります
しかしこの現象は、時間が経てば思い出せたり、ひょんなことから思い出すこと、などを勘案すると、脳細胞の何処かにはしっかりと記憶されていることは確か(細胞が壊れて記憶が喪失してしまう認知症とは決定的に違う点です!)であって、記憶を取り出す糸が一時的に切れているだけの現象だと思います。このハンディキャップを克服する為に私は以下の二つの方法を実践しています;① よく使うと考えられる名前は、人知れず!反復練習を行って確実に記憶の糸を繋げておく、② 思い出せなかった時点で、スマホの検索を駆使して名前を無理やり!あぶり出す。最近のグーグル検索の能力は絶大で、その名前に係る周辺情報を入力すれば、たちどころに答えが得られます(ただ、友人の名前を見つけ出す、などの私的なことはこの方法では無理のようです!)。 検索の為に周辺情報を考える過程で、前述の前頭葉が大活躍するので、ボケ防止にも大変有効なことは言うまでもありません

老人の車の運転について

表題に関し、現在世の中でコンセンサスを得つつある考え方は、「老人の運転は危険なので運転するな!」というものです。これに合わせて運転免許制度が変更され、70歳以上の人の運転免許更新に際し、運転能力の判定というハードルが設けられました。また、75歳以上からは認知機能検査が加わることになりました。更に、高齢者の運転免許証返納を大々的に奨励するようにもなってきました

私も昨年3月この更新試験を受けましたが、正直に言ってガッカリしました。ドライブ・シミュレータのテストがあると書いてあったので、自身の運転適性が図れるチャンスと期待していたのですが、このシミュレーターなるもの、道路を一直線に走る画面が出てきて不意に赤、黄、青の信号が現れ、これに対するブレーキ操作の反応だけを測定するものでした
法定速度を守っていれば、黄色に変わった時点でブレーキをかければ、異常に反応速度が遅い人でない限り、赤に変わる前に車を停止させることが出来る様に設定されているはずです。私自身の経験でも、よそ見運転で黄色信号を見逃していない限り、ブレーキ操作の反応速度が問題になることはあり得無い様に思います。それより重要なのことは、運転中に発生する色々な状況に対する「リスク予知能力」のはずです。停車中の車の陰に横断しようとする歩行者がいるかもしれない、前を走っているバイクは急に右折するかもしれない、交差している道で右折しようとしている車の運転手が見ている方向(自分の方を見ていなければ急に右折行動に出るかもしれない)、等々、長い運転経験の蓄積が安全運転の「肝」であって、反応速度が安全運転の主たる指標になることはあり得ないと思っています。反応速度の遅れは運転速度を落とすことによって十分補えるものと、私は50年以上の運転経験から断言することができます。

そもそも、老人が精神的な健康を保つためには、他人の介助を得ずに移動の自由(モビリティー/Mobilityを確保することが大変重要な事と私は思っています。自動車の発明が人類の歴史を変えたと言われる所以もそこにあります
また、長寿時代に生きる人間の生き方(「100年時代の人生戦略」を読んで)として、歳をとっても働き続けることが当たり前になっていく時代に、単に年齢のみの基準で自動車の運転の自由を奪っていく風潮は正しいのでしょうか?

凡そ50年ほど前、2週間ほど米国を旅する機会がありました。生意気にも大学一年の頃から自動車の運転をしていたことがあり、米国滞在中はレンタカーを借りて移動していました。この時受けたカルチャー・ショックは今でも鮮明に覚えています。それは、① クラクションの音を殆ど聞かなかったこと(当時の日本では、都心はクラクションの音に満ち溢れていました)、② 道幅は広い(メインの道路は大体3車線以上)のですが、皆きちんとレーンを守って走行していること(空いているレーンがあってもレーン変更はほとんどしない)、③ 少なくともレンタカーは全てパワーステアリング、パワーブレーキを装備したオートマティック車であったこと、④  道路標識が極めて分かり易かった事
数日間運転するうちにその理由が分かりました。老人が運転することを前提に、車の装備、交通ルール、他が整えられていたのです。米国は広大であり、車以外の移動手段は、繁華街を除けば考えられないこと、子供は若いうちに独立し、歳をとっても自立して生きていくほか道はないこと、などがその背景にあると思います

考えてみれば、高齢化社会が急速に進展していく日本で、高齢者から車という移動手段を奪ってしまえばどういうことになるか、自宅周辺であてどなく散歩をする老人の群れ、ベンチに座って遠くを見つめている沢山の老人、ちょっと見たくない光景が想像されます。因みに、私の住んでいる郊外では、近くの商店街はシャッター通りになり、買い物は車が必要になる大型スーパーに行かなければなりません。大都市に人口が集中してしまった日本では、日本全国概ねこうした状況(米国と同じ)になっているのではないでしょうか?

老人から車を奪わないために

老人が、肉体の衰えというハンディがあっても安全に運転できる仕組みを考えてみました;

技術の進歩を積極的に取り入れる;
最近の新聞に大きく取り扱われていることでご存知の方が多いと思いますが、現在、自動車産業全体にパラダイムシフト(Paradigm Shift/劇的な構造変化)が起こりつつあります。それを促しているのは、環境問題に起因するEV(Electric Vehicle/電動自動車)の急速な普及と、自動運転車の実用化が目前に迫ってきたことです
この内、老人の自動車運転と密接にかかわるものは、自動運転車の登場です。自動運転車は以下のレベルに合わせて開発が進められています(以下は2017年1月現在の「官民ITS構想ロードマップ」で示されている定義に従っています);

レベル1:加速・操舵・制動のいずれかの操作をシステムが行う状態
レベル2:加速・操舵・制動のうち複数の操作を一度にシステムが行う状態
レベル3:加速・操舵・制動は全てシステムが行いシステムが要請したときのみドライバーが対応する状態
レベル4:加速・制動・操舵を全てシステムが行い、ドライバーが全く関与しない状態

現在、中級車種以上の新車についてはレベル1に相当する自動ブレーキなどが装備されているのが普通になってきており、高級車についてはレベル2が装備されている場合もあります。昨年、電気自動車で有名な米国のテスラ社製の車が死亡事故を起こして話題になりましたが、この自動車にはレベル3の運転システムが装備されており、事故前にシステムがドライバーに運転を替わる様に指示していたにも関わらず自動運転させたために事故が起こったと言われています

高齢者の事故で何かと話題になることの多い、アクセルとブレーキの踏み違いによる事故は、レベル1が装備されている車であれば起こりえない事故だと考えられます。また、高齢者による高速道路逆行などは、カーナビによる運転を行えば起こり得ないことと考えられます(自動運転を行うために、カーナビの地図情報の精度向上が世界的に進められています)。ただカーナビのセットを音声で行うことが出来る様な配慮は必要かと思われます(すでにレクサスなどはこの装備がセールスポイントの一つになっています)。勿論、交通量の多い道路を右折する様な危険な行為は現在のカーナビでも避けてくれるはずです。レベル4が実現すれば、運転中の急死による事故も防げるはずです

法規制を高齢者の運転を前提としたものに改める;
私が運転免許を取る直前まで、普通免許で大型バイクまで運転ができました。また、普通免許を取得するには操作の習得が難しいクラッチが悩みの種(特に坂道発進)でしたが、オートマチック車限定免許という逃げ道がありました。当時はオートマチック車は希少でしたが、現在は逆にマニュアル車は特注でもしない限り買うことすらできない状況になっています
つまり、運転免許制度そのものが時代に合わせて変わってきているのです。であれば、高齢者が運転することを前提として、以下の様な規制の改正を行うことは可能ではないでしょうか;
① 自動運転車を前提として、以下の様な限定免許を創設する
* 咄嗟のブレーキ操作に問題のある人(高齢者に限らず、追突事故を起こした人も含む):自動運転レベル1の自動ブレーキ装備車限定の免許とする
* 居眠り運転の事故歴のあるひと:レベル3以上の自動運転車限定

Follow_Up:2019年5月17日、自動運転に関する法改正が成立しました。詳しくは(「レベル3、4」想定の改正法成立_高速道自動運転来年実現へ前進・過疎地の移動手段補う)をご覧ください

Follow_Up:2019年6月18日、政府・高齢事故防止策として自動ブレーキ車限定免許を検討へ

Follow_Up:2020年12月16日、免許返納せずサポカー限定に AI教官が高齢者を指導

以上

母方親族の戦争体験

-はじめに-

先日、昨年末に亡くなった従兄の偲ぶ会に行って参りました。諏訪湖を臨む高台にある古刹「地蔵寺」で行われましたが、この寺の墓地には母方親族の墓が多くあり、幼い頃から法事などで度々訪れる機会がありました

故人の墓石
故人の墓石

まず、墓前で献花し祈りを捧げた後、墓石に刻まれた墓碑銘を読んでいくと、終戦前後の故人の悲惨な体験、無念の思いが直に伝わってきました

私共の家族を含め、母方の親戚の多くは満州で終戦を迎えました。終戦の直前(8月9日未明)、日ソ不可侵条約を一方的に破棄(注)してソ連が満州に雪崩れ込んできてから、それまでの生活が一変し、引揚までの一年間、地獄のような生活が続きました。劣悪な生活環境の中で病気や栄養失調で老人や乳幼児など弱い者から次々と命を落としてゆきました
(注)1945年2月に行われた米・英・ソ3国による秘密会談(ヤルタ会談)で、ドイツ降伏(同年5月8日)後90日以内のソ連の対日参戦が決められていました。一方、大本営は同年5月、ソ連の侵攻を予測して満州の4分の3を放棄し、南満州で持久戦に持ち込む計画を決定しました。この作戦計画に基づき、全満州で所謂”根こそぎ動員“を行うと共に、主力部隊を南に後退させることになりました。この結果、この作戦について何も知らされず取り残された放棄地域の開拓農民や一般住民は、男手の無い中でソ連軍の無慈悲な攻撃に晒される結果となりました

関東軍の対ソ作戦地域とソ連軍の侵攻ルート
関東軍の対ソ作戦地域とソ連軍の侵攻ルート

-母方親戚の戦争体験-

母方祖父母の子供達の中で、長男家族_A、三男家族_B、四男家族_C、五男家族_D、次女(私の母)家族_E が終戦時に満州に住んでおり、それぞれ悲惨な体験をしました。以下の二冊の本は、諏訪地域の人々の戦争体験を後世に伝えるべく多くの手記や和歌を集め、(株)長野日報社から出版されたものです;

戦争はいやだ平和を守ろう会
戦争はいやだ平和を守ろう会

この中から、私の親戚が寄稿した手記、和歌を以下にご紹介したいと思います;

家族_Aの長男の手記 ⇒ 竹田純人
家族_Aの長女の手記 ⇒ 塚原節
家族_Aの長女の和歌
灯火管制下に征きたる君の離(さか)りゆく長靴の音を今もなほきく

家族_Bの長男の手記 ⇒ 竹田静夫 --- 昨年末に亡くなった従兄です
家族_Bの長男の和歌
緑なす博多に引き揚げし母子吾ら征きたる親父(ちち)よ生きて帰って
尚、この他に上記の本には掲載されませんでしたが、「偲ぶ会」では以下の秀作も紹介されました;
負け戦知りつつ親父赤紙で母を頼むと十二のわれに
弟の骨箱開けてばらまいて金品探るロシア兵
引揚げて松のみどりのまぶしさよ親父信二よふるさとの土
谺(こだま)する諏訪湖の花火孫といて凍土に眠る父に献杯
家族_Bの長女の手記 ⇒ 小口陽子
家族_Bの長女の和歌
四十二歳父赤紙で北満へ征きて帰らず「英霊」一枚

家族_Cの長男の和歌;
吾を背のリュックに入れて引き上げし亡父(ちち)の苦節を今にし思ふ

家族_Dの長女の和歌;
シベリアから父帰りきて川の字に寝たるうれしさ六歳の夏

家族_Eの長男の手記荒井威雄
家族_Eの次男(つまり「」)は終戦の年に生まれ、母に背負われて引揚げましたので、全く記憶がありませんが、父母から聞いた終戦前後の状況は、私のブログにある記事:生立ちの記 をご覧ください

-海外居留民引き揚げの全体像-

1945年8月14日ポツダム宣言受諾を連合国に通告し、翌15日に終戦の詔勅が発布されソ連を除く連合国との戦争はほぼ停止状態になりましたが、ソ連軍との戦闘は続き、完全な停戦が実現するのは、満州、南樺太、南千島のソ連の占領が終る9月5日になりました。その後、在外軍人・軍属、一般人は、自身の判断で行動することは許されず、以下の法令に基づいて取り扱われることとなりました;
ポツダム宣言第9項
日本国の軍隊は、完全に武装解除されたのち、各自の家庭に復帰し、平和的で生産的な生活を営む機会を与えられる
日本政府の対応
外務省は現地の状況を認識できぬまま、ポツダム宣言の受諾を決定した8月14日に、大東亜大臣・東郷茂徳は、以下の訓令を出しました;
三加国宣言(ポツダム宣言のこと:米国、英国、中華民国)受諾に関する在外現地機関に対する訓令」:「居留民は出来得る限り定着の方針を執る
支那派遣軍の対応
支那派遣軍総司令部の「和平直後の対支処理要領」のなかで「支那居留民は、支那側の諒解支援の下に努めて支那大陸に於いて活動するを原則とし、、、その技術を発揮して支那経済に貢献せしむ」としています
GHQの対応
連合軍総司令官マッカーサーによる「日本政府宛一般命令第一号」によって、それぞれの軍管区の司令官のもとに降伏することとなった。その結果、全ての日本人は軍管区ごとの連合軍の支配下に入り、日本人の取り扱いに関しては、各軍管区の軍隊ごとに大きな違いが発生しました。また、連合軍の指示により、陸海軍部隊の移動を優先し、一般人の移動は後回しになりました
8月15日の時点で海外の居留民は、軍人・軍属が353万人(陸軍:308万人、海軍:45万人)、一般人は300万人で、合計653万人もの膨大な人数に上ります。軍管区毎の内訳は下の通りです;
中国軍管区
対象区域:旧満州地区を除く中国全土、台湾、北緯16度以北の仏領インドシナ(北ベトナム)
在留全日本人:約312万人(在外日本人の47%)
ソ連軍管区
対象区域旧満州地区、北緯38度以北の朝鮮(北朝鮮)、南樺太、千島列島
在留全日本人:約161万人(在外日本人の24%)
イギリス・オランダ軍管区
対象区域:アンダマン諸島、ニコバル諸島、ビルマ、タイ、北緯16度以南の仏領インドシナ(南ベトナム)、マライ、スマトラ、ジャワ、小スンダ諸島、ブル島、セラム島、アンボン島、カイ諸島、アル諸島、タニンバル及びアラフラ海諸島、セレベス諸島、ハルマヘラ諸島、蘭領ニューギニア
在留全日本人:約74万人(在外日本人の11%)

オーストラリア軍管区
対象区域:ボルネオ、英領ニューギニア、ビスマルク諸島、ソロモン諸島
在留全日本人:約14万人(在外日本人の2%)

米軍管区
対象区域:日本の委任統治諸島、小笠原諸島、その他の太平洋諸島、日本に隣接する諸小島、北緯38度以南の朝鮮(南朝鮮)、琉球諸島、フィリピン諸島
在留全日本人:約99万人(在外日本人の15%)

イギリス・オランダ軍管区オーストラリア軍管区および沖縄を除く米軍管区からの引揚は、B、C 級戦犯(下記注参照)の容疑者を除き、引揚船の手配が付き次第概ね順調に引揚が行われました
また、中国軍管区も、B、C 級戦犯の容疑者を除き、引揚船の手配が付き次第概ね順調に引揚が行われました

引揚者は、以下の18の港湾から日本に上陸しました;
浦賀、舞鶴、呉、下関、博多、佐世保、鹿児島、函館、大竹(広島県)、宇品(広島県)、田辺(和歌山県)、唐津、別府、名古屋、横浜、仙崎(山口県)、門司、戸畑

(注)B、C 級戦犯とは;
B級戦犯:「通常の戦争犯罪」、C級戦犯:「人道に対する罪」で、世界49ヶ所の軍事法廷で裁かれました。被告となった約5千7百人の内、約千人が死刑判決を受けたと言われています。これに対して、A級戦犯は、政治家、高級軍人を対象として「平和に対する罪」で裁かれました(東京裁判/極東国際軍事裁判)

中国、南樺太、南千島からの引揚げに関わる特記事項
1.中国山西省に駐屯していた北支派遣軍5万9千人のうち約2千600人は、武装解除を受けることなく残留し、中国国民党系の軍閥(閻錫山将軍)に合流し、終戦後約3年半にわたって第二次国共内戦を戦い、約550人が戦死、700人以上が捕虜となりました(日本軍山西省残留問題
2.ソ連軍管区では、日本人の引揚に全く無関心であり以下の様な悲劇が生まれました;
ソ連軍による抑留:ソ連軍が進駐した満州、南樺太、南千島では、ポツダム宣言第9項に違反し、軍人の大半(約65万人:諸説があります)を捕虜としシベリア各地に抑留し、強制労働が課されました。極寒の地で十分な食料も与えられず、約10%の人が命を落とした言われています
ソ連抑留
ソ連抑留(ラーゲリ:収容所)
② 満州からの引揚げ:満州に取り残された日本人は約105万人。ソ連軍の撤退が本格化する1946年3月まで引揚げは全く行われませんでした。ソ連軍撤退後に進駐した中華民国軍が米軍の輸送用船舶を使って引揚を実施しました。1946年内には中共軍支配地域を含めて大半の日本人が引揚げていきました
しかし、若い女性など一部の人は中共軍に拉致され、第二次国共内戦に参加しました。 満州在住の日本人の犠牲者は、日ソ戦(9月初旬まで続いた)での死亡者を含め、約24万5千人に上り、このうち8万人近くを満蒙開拓団員が占めています。満蒙開拓団の悲劇については、私のブログにある記事:「麻山事件」を読んで をご覧ください
南樺太、北朝鮮、および大連のソ連軍占領地区からの引揚げ:南樺太に取り残された日本人は約40万人。1947年2月、ソ連は南樺太をソ連領に編入(根拠:ポツダム宣言第8項:「カイロ宣言の条項は履行され、また、日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国、並びに我々の決定する諸小島に限られる」)し、ソ連の施政下でロシア人と同じ労働条件で生活することとなりましたが、正式な引揚が開始される前までに約2万4千人が密航により北海道に逃れたと言われています
1946年春以降、米ソ間で南樺太、北朝鮮、大連のソ連軍占領地区からの引揚が協議され、同年11月27日に「引揚に関する米ソ暫定協定」、同年12月19日に「在ソ日本人捕虜の引揚に関する米ソ協定」が締結され、引揚が開始されました。1949年年7月の第5次引揚まで29万2千590人が引揚げました。しかし、朝鮮人家族のいた人や、ソ連に足止めされた熟練労働者らは少なくとも1500人が南樺太にとどまりました
-祈りにかえて-
私の家族、親戚にとって満州での悲惨な体験は、その後の人生に大きな影を落としています。侵略した国に残された国民は、何故日本という国が行った侵略行為の犠牲とならねばならないのか、、、、
満州における一般人の犠牲者数は、東京大空襲、広島・長崎の原爆、沖縄戦の犠牲者を凌ぐ規模です。しかも、敵意に囲まれ、死と向かい合っていた長い時間は、どれほど引揚者の心を蝕んだか想像に難くありません
戦後、徹底的な「民主教育」を受けた我々の世代は、大日本帝国によるアジア・太平洋地域における侵略を負の遺産として引き継ぐことを徹底的に叩き込まれており、悲惨な引揚体験を「怨み」に変えることすらできませんでした。満州引揚げや、シベリア抑留に関し、国民レベルで行う追悼の日が設定されていないのも、こうした事が背景にあるのかもしれません
終戦後の引揚げに関わるこのネガティブな歴史を、悲しみの記憶として薄れるのを待つのも一つの生き方でしょう。また、悲惨な体験を二度と繰り返さない様に、積極的に若い人たちに体験を伝えていくことも非常に価値ある生き方であると思います
一方で、戦後の混乱した状況の中で、徒に死者を増やした行為や、こうした混乱の中にあっても人間としての誇りを失わずに戦った人の行為も、歴史に埋もれさせるのではなくきちんと調査し、次代を担う若者たちにも伝えていくことも重要であると思います。例えば、以下の事例についての私の見解を述べておきたいと思います;
1.大本営が1945年5月に決定した「根こそぎ動員と、「主力部隊の南満州移転の作戦は、結果として、何の告知もされないままに北満に取り残された「女、子供、老人ばかりの開拓農民」、青少年で構成され、ソ満国境に配置された「満蒙開拓青少年義勇軍」の救いようのない残酷な死を招きました。少なくとも本土では行なわれていた学徒疎開のような弱者を救う計画が、この作戦と並行して行われていれば、北満の悲劇のかなりの部分は防げたはずです。これを行わなかった大本営、関東軍の指導者、とりわけ参謀は、日本人自身による戦犯裁判で断罪すべきであったと思います
2.中国山西省に駐屯していた北支派遣軍のうち約2600人が、終戦後第二次国共内戦に参加し650名が戦死した裏には、北支派遣軍の司令官である澄田中将が、戦犯を免れ帰国するために、軍閥である閻錫山将軍と取引をした結果であると言われています。こうした部下をも裏切る卑怯な行為は、日本人自身による戦犯裁判で断罪すべきであったと思います
3.戦陣訓」を徹底したために、投降することをせずに無駄な死を強いられた兵士が無数にいました。また、沖縄戦や、引揚途中での一般人の集団自殺も、この戦陣訓の影響があったとも言われています。これを作成した責任者である東条英機大将は、東京裁判で「平和に対する罪」で死刑になっていますが、日本人自身による戦犯裁判でも断罪すべきであったと思います
4.ソ連軍の圧倒的な侵攻に対して、ろくな兵器も支給されずに戦い、死んでいった兵士も沢山います。こうした兵士に対する尊崇の念も、忘れてはならないと思います
以上

「100年時代の人生戦略」を読んで

-はじめに-

本書を読むきっかけになったのは、2017年2月18日にNHK・BS1スペシャルで放映された「ダボス会議2017どう生きる?人生100年時代」を観たことです。このパネルディスカッションには、以下のメンバーが参加していました;
司会者:河野憲治、NHK社員(今年3月まで”ニュースウォッチ9”のメインキャスターをやっていた)
パネリスト
1.デイビッド・B・エイガス:南カルフォルニア大学・医学部教授(ガンの権威、最先端医療の知識が豊富)
2.リンダ・グラットン:ロンドン・ビジネススクール教授(下記)
3.佐藤康博:みずほフィナンシャル・グループ CEO
4.ウィリアム・フランシス・モルノー:カナダ財務大臣(年金システムに詳しい)

ディスカッションは、概ね今回紹介する本の内容に沿って行われましたが、上記エイガス教授から、今回紹介する本の中では触れられていない以下の興味深いトピックが提供されました;
* 人間は120歳まで生きることが可能 ←(最近細胞が老化することを防ぐタンパプ質の存在が発見された)
ビッグデータの活用で、今後多くの新薬の発見が期待できる ←(最近、ビッグデータの解析から安い血圧の薬が卵巣がんに効くことが判明した ⇒ 4.5年の延命効果が期待できる)
* 退職を1年遅らせると、アルツハイマー病のリスクが3%低下する →(頭脳を使い続けることがアルツハイマー型認知症の予防になる)

著者の経歴、その他
1.Linda Gratton:ロンドン・ビジネススクール教授、人材論、組織論の世界的権威、二年に一度発表される世界で最も権威ある経営思想家ランキング(50人)では2003年以降毎回ランキング入りを果たしている。また英タイムズ紙「世界のトップ15ビジネス思想家」に選出されている
2.Andrew Scott:ロンドン・ビジネススクール経済学教授、前副学長、オックスフォード大学のフェロー、欧州の主要な研究機関であるCEPRフェローを務めてい居る
本書の発行日は
原本“The 100-Year Life”初版発行:2016年6月2日
邦訳初版発行:2016年11月3日

以下は、この本の大まかな内容のご紹介です;

-この本のベースになっているデータ-

この本では、「人間の寿命が今後どう変わってゆくか」が最も重要なデータ(結論を左右する)になっていますが、これは以下のグラフで説明されています

ベストプラクティス平均寿命

“ベストプラクティス平均寿命”とは、平均寿命世界第一位となる国(先進国のみが対象)の平均寿命のことです。これを時系列で並べたものが上のグラフになります
上のグラフを見れば明らかな様に、過去100年近く、ほぼ一直線に平均寿命が伸びてきたことが分かります

次に重要になるのは、このグラフの傾向のままに寿命は本当に伸びていくのか?、また限界があるとすればそれは何歳か?、ということになります;
1.過去の平均寿命上昇の理由
* 1920年代の平均寿命の改善は子供の死亡率低下が大きい。結核、天然痘、ジフテリア、チフスなどの子供の命を奪った感染症の多くが抑え込まれた為
* 次に、中高年の疾患、特に心臓血管系の病気とがんの対策が大きい。また、病気の早期発見、治療と処置の改善、禁煙などの啓蒙活動の強化により、次第に健康水準が向上した
2.人間の寿命に上限はあるか?;
人間の寿命の上限については以下の三つの考え方がある;
悲観論者は、栄養状況の改善や乳幼児死亡率の低下はこれ以上見込めず、逆に歩かないライフスタイルや肥満によって平均寿命の上昇は足を引っ張られる
楽観論者は、啓蒙キャンペーンの効果は今後も大きく、それがテクノロジーのイノベーションと組み合わせることによって、平均寿命はまだ上昇し続ける
超楽観論者(レイ・カーツワイル/グーグルの人工頭脳チームのリーダー;テリー・グロスマン/医師)は、医学的アドバイスに従い、好ましい生活習慣を実践、バイオテクノロジーによる医療革命の恩恵に浴す、ナノテクノロジーのイノベーション(人工頭脳とロボットが老いた体を分子レベルで修復する)、の3ステップを経て数百年の寿命を手にすることができる
3.本書の著者は寿命の上限をどう考えているか?;
ベストプラクティス平均寿命の延びが鈍化していないことから、平均寿命は110~120歳まで上昇し続け、その後伸びが減速する、という楽観論者に近い考え方を持っています

次に上記の推論を前提にして、「現在生きている人は何歳まで生きられるか?という問いに応えなければなりません。その為には、平均寿命に関し以下の二つの理論を知っている必要があります;
ピリオド平均寿命:各年齢に現在までの実績に基づく平均余命を加えて平均寿命を算定したもの
コーホート平均寿命:各年齢に今後の平均余命が伸びるという前提で平均寿命を算定したもの
本書では、コーホート型の平均寿命を採用しています。平均余命は、あくまで現在までの実績をベースのしていますので、上で述べた平均寿命の延びが計算に入らないことになります
尚、年金制度の設計など、経済分野で平均寿命の推計を行なう時には、現在ピリオド平均寿命を使っており、結果として平均寿命を大幅に過小評価することになります。これが、年を追うごとに年金原資が足りなくなっていくという日本の現状をよく説明しています

こうした基本データを基に、本書でケーススタディー(ジャック、ジミー、ジェーン)を行っている3世代の平均余命を算出すると以下の様な驚くべき結果になります;
① ジャックの世代:1945年生まれ平均寿命が70歳前後
② ジミーの世代:1971年生まれ、平均寿命は85歳前後
③ ジェーンの世代:1998年生まれ、100年以上生きる可能性が高い

これを見て驚いたことは、ジャックは私と同じ年齢ジミーは私の子供達と同世代ジェーンは私の孫たちとほぼ同世代になります

―我々の世代はどんな人生なのか-

人生を考えるに当たって、本書では「ステージstage”」という言葉を使っています。ステージの意味を辞書で調べれば、あるプロセスの”段階、局面、時期”、となっています。例えば、地球の歴史でいえば「氷河期」の“期”に相当すると考えていいと思います

我々の世代の人生を、この“ステージ”で表現すると;
1.生まれてから就職する迄の時代(教育の期間):20年前後
2.職に就いている時代(労働の期間):40年前後
3.退職後死ぬまでの無職の時代(余暇の期間):?年間
の様な、3ステージの人生”と呼ぶことができます。我々は、この3ステージの人生をなんの疑いもなく送ってきた訳ですが、最近寿命が伸びたお陰で、退職後の時代が、職に就いている時代に匹敵するほど長くなってきた結果、年金システム(公的年金、企業年金)の破綻が叫ばれるようになりました

年金のシステムは、大まかに言って、確定給付年金確定拠出年金に分けられますが、以下の様にいずれも退職時期を固定し、退職後の期間が長くなれば破綻するのは当たり前の事です;
確定給付年金:給付額を固定し、給付のための原資は、受給者の退職前に積み立てたお金と現在働いている人が積み立てているお金(企業の補助金、税制優遇措置を含む)が充当されます。基本的に公的年金(国民年金、厚生年金、など)や一部大企業の企業年金がこれに相当します ⇒ 退職者が増加し、労働人口が減りつつある日本などは破綻することが明白です
因みに、老齢従属人口指数(労働人口に対する引退人口の割合)の実績及び今後の予想によれば、1960年、日本は10%(引退人口1人に対し10人の勤労人口が支える)だったのに対し、2050年ではこの数字が70%(引退人口1人に対し1.4人の労働人口が支える)に達すると予想されており、持続可能性が危ぶまれています
確定拠出年金:給付のための原資は、受給者が退職前に積み立てたお金(企業の補助金、税制優遇措置を含む)であり、退職後の期間が長くなれば受給額が目減りしてゆきます

こうした矛盾に対応するため、先進諸国では“定年延長”や年金原資に充当するための増税(日本では”消費税”の増税)などの対応を取っておりますが、上記を勘案すれば長寿化の流れに追いつくとは到底思えません

本書では、ジャック、ジミー、ジェニー、それぞれの世代が、3ステージの人生を送った場合、どのような結果になるかをケーススタディーしています;
シミュレーションの前提は以下の通りです;
1.老後の生活資金を、最終所得の50%とする
2.長期の投資利益率をインフレ率を除いて3%する(リスクの殆ど無い投資と、リスクの高い投資を組み合わせる。税・手数料引き前)
3.所得上昇のペースを年平均4%とする
4.ジャックは62歳で引退、ジミーとジェニーは65歳で引退する

ケーススタディーの結果は;
ジャックの世代:妻は専業主婦(一時パートで働いた時もあった)、主たる稼ぎ手は常にジャック、62歳で引退、70歳で死去。老後の生活資金は3種類(公的年金、企業年金、個人の貯え)、現役時代に老後のために所得の4%あまりを蓄えることは難しい事ではなかった

ジミーの世代:65歳まで働いて引退する積り。企業年金は受給できない。年金改革は進められるものの、公的年金は最終所得の10%程度にとどまる。退職後、最終所得の50%確保するためには、毎年所得の17%を貯蓄に回さねばならず非常に難しい

ジェニーの世代:65歳での引退を前提に3ステージの人生を送るという生き方は最早不可能。何故なら、最終所得の50%の老後生活資金を確保するには、労働期間に毎年所得の25%も貯蓄しなければならず、しかも、ここには住宅ローンの返済や子供の学費が入っていない。また、公的年金の10%も受給できる蓋然性は低い

このケーススタディーの結果から得られる結論は、ジャックの世代は3ステージの人生が適していたのに対し、長寿時代のジミーやジェニーの世代では、3ステージの人生は経済的に成立しないことになります
言い換えれば、何の対応もせずにこのまま推移すれば、私たちの子供や孫の老後には、惨めな貧困が待っていることになります。勿論、幸運にも億万長者になれた人や莫大な遺産が転がり込んだ人は別ですが、、、 こうした幸運に恵まれない一般の人は、働く期間を延長するしか対応しようがないということになります

なお、上記ケーススタディーでは、私と同い年のジャックは70歳で死去しています。現在の日本では、このケーススタディー以上に長寿化が進んでおり、不肖私も70歳を超えて生き続けて!おります。日本では、私の世代でも3ステージの人生は現実に合わなくなっているのかもしれません

-子や孫の世代はどんな人生になるのか-

前段で述べたように、子や孫の世代は、好むと好まざるとに関わらず多くの人が人生の長い期間働くことになります。しかし、我々の世代でも40年は長い労働人生でしたが、これが70年、80年間働くことになればどの様な問題が考えられるでしょうか?
本書では、以下の様な問題点を指摘しています;
1.人生の最初に選択した職業が自身の適性に合っていなければ、長い労働生活に耐えられないのではないか?
2.近年の人工頭脳(AI)やロボットの進化の速度を考えれば、業種によっては働き続けることが難しくなるのではないか?
3.同じ仕事を一生涯続けていくことの単調さに耐えられるかどうか?

この様な問題点を克服するために、本書では3ステージの人生をではなく、マルチステージの人生が必然になる時代が来ると予測しています

一方、長寿となった人生を実りあるもの(生きがいのある人生とするために、企業で働くというステージの他に、以下の様なステージの選択肢を用意する必要性を説いています;
1.エクスプローラー:エクスプローラーという言葉は、一般に”探検家”と訳しますが、本書では、「興奮、好奇心、冒険、探査、不安、一か所に腰を落ち着けるのではなく、身軽に、機敏に動き続ける」活動というイメージになります。敢えて言えば、戦中世代を代表する作家である小田実が、「何でも見てやろう」という本の基になった、若い時代の世界放浪の旅のイメージでしょうか
このステージは、発見の日々となります。旅をすることにより世界について新しい発見をし、併せて自分についても新しい発見ができるステージになります
また、このステージは、自分を日常の活動から切り離すことから始まります。ただ、観光客が旅先の町を見物する様な態度では、大きな成果は得られません。望ましいのはこのステージで多くの人との係わりを持つことです
私とって何が重要なのか?」、「私が大切にするものはなにか?」、「私はどういう人間なのか?」など、具体的な問いをもって探索に出る場合もあれば、「はしゃいで跳ね回ること」が目的であってもいい。こうした冒険(何を見て、誰と出会い、何を学ぶか)を通じて得られるストーリーが未来の人生の指針になります

2.インディペンダント・プロデューサー:普通に翻訳すれば”起業家”ということになりますが、ここでは今までの起業家とは性格の異なる新しいタイプの起業家になったり、企業と新しいタイプのパートナー関係を結んで経済活動に加わることも含めています
旧来のキャリアの道筋から外れて、自分のビジネスを始めた人たちがこのステージに入ります
また、インディペンダント・プロデューサーは、自分の職を生み出す人であり、人生のどの段階にある人でも実践できます

3.ポートフォリオ・ワーカー異なる仕事を同時並行的に行うステージです
ポートフォリオ・ワーカーを、様々な可能性を探索し、実験するために積極的に選択する人もいれば、やり甲斐のある仕事に就けないために、不本意ながらそれを選ぶ人もいます
企業幹部などに100年ライフを説明した後でアンケートをとると、以下の様な活動を組み合わせたポートフォリオ・ワーカー型の生き方を選ぶ人が多い様です;① 所得の獲得を主たる目的とする活動、地域コミュニティとの係わりを主たる目的とする活動、親戚の力になるための活動、趣味を極めるための活動、など
スキルと人的ネットワークの土台が確立できている人は、高い価値を生み出せるポートフォリオ・ワーカーになることができます
ポートフォリオ・ワーカーの核になるのは、有給の仕事です。企業のCEOであった人は、どこかの取締役に名を連ねることなどの選択肢を採ることができます
一方、過酷な労働人生を送ってきた人は、楽しく過ごしたり、社会に貢献したり、友人と過ごす時間を選択肢に加えることができます
ポートフォリオ・ワーカーは、以下の三つの側面のバランスを取ることになります;支出をまかない貯蓄を増やすこと、過去の経歴とのつながりがあり、評判とスキルと知的刺激を維持できるパートタイムの役割を担うこと、新しい事を学び、やり甲斐を感じられるような役割を新たに担うこと

上記のような仕事のステージを組み合わせて、自分に適したマルチステージの人生を設計するにあたって、本書では、貯蓄などの“有形の資産”だけでなく、下記の様な”無形の資産“の構築を自身のステージに適切に組み込んでいかなければ、長寿がもたらす恩恵を享受することはできないと言っています;
1.生産性資産:仕事で生産性を高めて成功し、所得を増やすのに役立つ要素で、スキル知識が主たる構成要素になります
2.活力資産:肉体的・精神的な健康幸福感(友人関係、パートナーやその他の家族との良好な関係、など)
3.変身資産:“自分についてよく知っていること”、“多様性に富んだ人的ネットワークを持っていること”“新しい経験に対して開かれた姿勢を持っていること”。このタイプの資産は、旧来の3ステージの人生ではあまり必要とされませんでしたが、マルチステージの人生では、あるステージから次のステージに移行する時に必要な資産になります

<ケーススタディー(マルチステージへのチャレンジ)>

ジミー(我々の子供たちの世代)のマルチステージの人生
途中まで3.0ステージの人生を送ってきた
が、50歳になって変化の速いテクノロジーの世界で、自身のスキルが時代遅れになり職場で脇役に追いやられてしまった。有形の資産をチェックすると65歳で引退するには貯えが足りないことに気づいた
1.3.5ステージの人生
ケース1:会社時代の古い友人が近所の社会人大学で学長をやっており、彼に誘われて、週一回夜間の講義を行う生活に入る。給料は減るものの、自分の能力は生かせるという実感が生まれると共に、仕事と家庭のバランスも生まれる。しかし、お金にゆとりはなく、多くの友人達ほどには夫婦での旅行は楽しめない。大学ではよき同僚と評価されてはいるが、1年たつごとに自分の知識と経験が古びていくことを痛感し、71歳で寂しい引退となる
ケース:夫婦の古い友人の紹介で、隣町の店の手伝いと他のスタッフの監督を行うことを頼まれる。給料は大したことは無いが、社交的な生活なので仕事そのものはそれなりにたのしい

3.5ステージのシナリオは、資金計画を成り立たせる助けにはなり、活力資産をはぐくむための時間がたっぷり確保できる。しかし、生産性資産を充実させたり、変身資産を活用したりすることはほとんど無い。追加の0.5ステージは3ステージの人生の付録程度の意味しか持たない

2.4.0ステージの人生
ケース1ポートフォリオ型の新ステージを選択)
45歳の時、立ち止まって自身の人生とまわりの世界を考えてみたところ、このままでは、資金計画が成立しないことと、自身のスキルがいずれ陳腐化することに気づく。しかし、新しいスキルを習得すれば、業界内の高成長分野に転身できる可能性が高まることが分かり、妻と相談してチャレンジすることを決心する
週末、休暇を使って研修プログラムに参加し、最終的に業界でよく知られた証明書を受け取り、この資格を有効に使って条件のいい会社に転職した。一方、妻もフルタイムで働ける職場で働きはじめた
新しい会社は、ジミーに有給の研修の受講を認めてくれたため、仕事の傍ら、3年間かけてマネージメント能力、アウトソーシング手法、ロボット工学などを学んだ
更に、上級レベルのプロジェクト・マネージメントと研修プログラムに参加し、プロジェクトマネージャーの世界規模の人的ネットワークを築いた
*65歳になったジミーは、二つめの企業も退職し、望み通りポートフォリオ型ライフを始めた。価値の高いスキルを持っているおかげで、刺激を味わえる仕事を得られ、70代後半になっても、まだ仕事の依頼がある

ケースインディペンデント・プロデューサー型の新ステージを選択)
45歳の時、会社の仕事は過酷で、家庭の負担も大きいことに耐えられなくなってきた。家計の維持と住宅ローンの返済で、現在のままでは70歳で老後資金が必要なだけたまらない事が分かった。そこで、余暇時間の一部をレクレーション(=娯楽)ではなく、リ・クリエーション(=創造)にするために使い、起業に向けた準備を始める
起業の為の準備として、仕事の傍らサイド・プロジェクトを行い、起業後の仕事の感触を探り始める。また、地元の企業家クラブに加わると共に、会計とマーケティングのオンライン講座も受講する
現在住んでいる町は規模が小さく、起業後の顧客があまり存在しないことが分かった為、会社の上司に掛け合って、大都市の拠点に異動を願い、叶えられる。大都市の拠点には、中小企業が多く集まりビジネスが盛んだ。新しい町に引っ越すと、早速これらの人との人脈づくりを始めた
*48歳の時、企業設立の準備が整うと同時に、夫婦で支出を細かく見直し、出費の少ないライフスタイルに変更し、質素な生活を心掛けるようになった。これにより、いざという時の貯えを少し増やすことができ、倹約生活にも慣れることができた
*49歳になって、友人と一緒に会社を設立。二人の地元のコネを通じて最初に二つの顧客を獲得し、人的ネットワークを利用して海外の提携企業と緊密に協力することにより、低コストで高いサービスの提供を始めた

二つのシナリオのまとめ
ポートフォリオ型にしろ、起業家型にせよ、4.0シナリオを実践するためには、現在の状況にしっかり目を開き、待ち受けている未来をじっくり検討しなくてはならない
いずれのシナリオでも、ジミーは勇気をもって大きな変身を遂げ、自分を「再創造」させたが、簡単な道ではない。また、目指す人すべてが成功するわけではない
成功を収める人たちにとっても、変化はストレスを伴う試練と感じられるだろう。こうした局面で重要になるのは変身資産である
二つのシナリオは、いずれも有形の資産と無形の資産を構築・増強でき、更に老後の生活資金を増やし、生産性資産と活力資産も増やすことができる
二つのシナリオの重要な違いは、起業家型の新ステージは、お金の面でも無形の資産の面でもよりリスクが大きく、ストレスも大きい。一方、ポートフォリオ型の新ステージは、夫婦が一緒に過ごせる時間を多く確保できる。どちらを選ぶかは、本人の嗜好と状況次第だ

ジェーン(我々の孫たちの世代)のマルチステージの人生
ジェーンの人生は非常に長いので、有形の資産と無形の資産の両方で問題が持ち上がり、3.0シナリオや3.5シナリオは実践不可能になる。従って、ジェーンは、4.0シナリオ、か5.0シナリオを生きるしかないことになる。長い年数働き続けるためには、無形の資産への大々的な再投資を行い、自らを再創造して変身を遂げなくてはならない

5.0ステージの人生
*21歳の時、自分が100年以上生きる可能性が高いことを前提に人生の選択を行う。そこで人生の進路について大きな決定を下すことを避け、さまざまな選択肢を模索することが必要と考えた。現代史を専攻して大学を卒業した後、旅に出る。その間、各種資産を築かないままに、不安定な雇用形態で働くことも厭わない。つまり、エクスプローラーとしての日々を送ることになる
アルゼンチンとチリへの旅行の途中、ブエノスアイレスに3ヶ月滞在し、スペイン語の集中講座を学び、技能検定試験にも合格する
料理好きなジェーンは、ラテンアメリカの期間限定の屋台に強い興味を抱く。自身もフィエスタ(お祭り)の日だけの屋台を始められないかと考え、流ちょうになったスペイン語を駆使して、他の都市のフィエスタ主催者と連絡を取り、実際の屋台ビジネスの経験を積む。収入は僅かだが、滞在費用をまかなうには十分である
この時期、ジェーンは楽しみながら、組織づくりのスキル予算策定の基礎、ラテンアメリカ各地のフィエスタ主催者とのコネも築く。帰国した後も、知り合った人たちとの人的ネットワークを維持する
*28歳になって、数人の友人とフィエスタ・ビジネスの会社を立ち上げ、インディペンデント・プロデューサーとして、組織に属さずに働く。初期の仕事は、幾つかのストリート・フィエスタの企画と運営であった。事業を立ち上げる人の多くと同様に、ジェーンは資金繰りに苦労するが、経験豊かなサムという人物と知り合い、イベントを手掛ける多くの起業家を紹介してもらったほか、資金調達に関して視野を広げるよう促された。オンライン上で不特定多数の人から資金を調達するクラウド・ファンディングで出資を募る
オンライン上での評判を確立する必要性に気づき、サムから“元気で面白い人物”というイメージ作りのコツを教わった。毎週ブログを更新し、フィエスタ主催者たちの間に熱心なファンを獲得してゆく。ジェーンは、自分についての知識を深め、人生の選択を間違えない様に有形の資産よりもむしろ、無形の資産(人的ネットワークの充実、評判の確立)の形成に多くの投資を行う

*35歳になった時、今後10年ほどで金銭的資産を築かなければならないと自覚した。オンライン上の存在感が高まったいたジェーンは、大企業の幹部たちの目にとまり、数社から入社を誘われる。食とエンターテインメントの分野での経験、質の高い人脈、新しい取り組みと顧客ニーズを取り込んできた実績が買われた。そこで、世界中の食関係のイベントを紹介したいと思っていた食品会社選んで入社、それなりの給料と地位を得た
*30代半ばで大企業に加わったジェーンは、意思決定が遅く、アプローチが官僚的である企業文化にすぐにはなじめなかった。しかし、いくつかの国際的な役割を歴任し、その都度給料が大幅に上昇すると共に、職業上のアイデンティティーは「ベンチャーの人」から「大企業の世界で活躍できる人」へと変貌した
ラテンアメリカで過ごした経験により、持続可能なサプライチェーンの構築という難題について、深い理解が得られたことに気づき、このテーマに関する知識を更に増やすために、専門のセミナーに参加。それを通じて、他の企業関係者やNGO関係者など接点がなかった人たちと人的ネットワークを築く
*37歳を迎えた時、人的ネットワークを土台に、アマゾン地方やルワンダのクループから、食品フレーバーの原料を購入するプロジェクトを立ち上げた。ジェーンはこのプロジェクトを通じて、ビジネスの実態を知り忙しい毎日を過ごす。持続可能なサプライチェーンに関する記事などで、頻繁にブログを更新したり、講演を行なったりして、職業上の評判を確立することにも腐心する

平均寿命が伸びても、出産に適した年齢は伸びないので、出産時期という大きな問題に直面するし、ブラジル旅行中に地元のNGOで働く男性と知り合い結婚する。ジェーンは37歳で長女を39歳で長男を出産する。ベビーシッターの力を借りつつ、夫婦で家事を分担して生活する
*43歳の時、新しい経営陣に代わり、今後の昇進は難しいと気づき、新しい選択肢の模索を始める
厳しい決断だったが、45歳の時に退職する。一家の所得は夫からのみとなり大きく落ち込むが、厳しいながらも破綻せずに済む
時間に余裕ができたジェーンは、学校に通う子供の世話、高齢の両親との時間を過ごしたりできるようになったが、数年先には仕事を再開すべきだと思うようになる。夫はジェーンが仕事を再開したら仕事を辞めて、自分の進む道を検討しようと計画している
ジェーンは、自身のアイデンティティーを見つめなおし、様々な選択肢について友人や知人の話を聞き、進むべき道を検討する。これは変身資産を強化するプロセスといえる
ジェーンは、所得を最大限増やすために人材採用の仕事を目指すことに決めた。必要となる生産性資産は、人間の心理に関する知識であることが分かり、2年間かけてオンライン講座で学び、大学で職業心理学の学位も取得する。
その後、ホテル、旅行、食品分野を専門とする人材会社に入社し、人材採用コンサルタントの道を歩み始める

*48歳の時、有形の資産の形成に力を入れる日々を送るが、この後15年間、同じ業界内で数回の転職を重ねたうえで、60歳の時にヘッド・ハンティングされて、業界屈指の大手企業の取締役に就く。これを機に、生産性資産を構成する要素が変わり始めた。社内の他のメンバーのメンタリングやコーチングの機会は増えると共に、その人たちの人的ネットワークの一員としての役割が大きくなる。一方、仕事は過酷で、出張も多く、家族のために避ける時間が無く、活力資産が底をつきつつある
*70歳の時、金の面ではうまくいくものの、友人達とは疎遠になり、夫との関係も緊張し、健康も悪化し始めた。そこで、活力資産を最優先にした生活に転換することを決める。子供たちにはもう手がかからず、夫婦で一緒に旅に出る
*72歳の時、リフレッシュしたジェーンは、キャリアの次の段階に移行することを望む。ただ、過酷な仕事や大幅に時間を制約される仕事にはつきたくない。それまで築いてきた変身資産でプロジェクトを計画する。様々な要素で構成されるポートフォリオ型の生き方を実践する;1年に30週は、週に1日ラテンアメリカのストリートチルドレンを支援する国際組織で働く、週に1日、ローカルな中規模の小売企業で非常勤取締役の仕事をする、2週間に1日は、地元の治安判事も務める
*85歳のとき、ジェーンは本当に引退する。これ以降は、孫やひ孫と過ごす時間を大切にし、毎年1回は、彼らを連れてアマゾン地方に出かけ、自分の人生で大切な意味を持った土地を訪ねる

-長寿化によって人間関係が変わる?-

本書が予測するところによれば、長寿社会が到来すれば、人生のあらゆる側面が変わると考えられます。ジェーンの5ステージのケースをご覧になれば分かる様に、夫婦やパートナー同士の関係はより長期のものになり、その間多くの変化を経験することになります。
また、子供の数は減るものの、孫やひ孫の家族が増え、高齢者と若者との関係が今より緊密になる機会が増えると思われます。仕事の世界も変わってゆきます。家族の多くのメンバーが職を持ち、70歳代や80歳代で働き続ける人も増えることになります。
また、職に就く女性が増えれば、伝統的な家族の在り方が崩れ、家族のメンバーが担う役割も大きく様変わりすると考えられます

<家庭>
長寿化の進行とマルチステージの生き方が一般化した結果、選択肢を残しておくために結婚の時期を遅らせること子育て期間の割合が縮小することが起こります。因みに、1880年には全世帯の75%に子供がいましたが、2005年にはその割合が41%%まで下がっています
子育てせずに人生のかなりの期間を過ごすことは、ジャックの世代(我々の世代)の夫婦の役割分担は説得力が大幅に低下します。性別役割分担が変わってきた要因には、家電用品・調理済み食品の普及により家事の負担が軽くなったこと、男女の賃金格差が縮小してきたことなども考えられます。パートナー同士で生産の補完性(夫婦の固定的な役割分担)が重要でなくなると、二人の間に純粋な関係が生まれと思われます。それは、不変の関係でもなければ、惰性で継続されるような関係でもなく、二人の間で調整を重ねていく関係となるはずで、相手と深く関わろうという意思が重要になります

経済的な面では、生産の補完性から「消費の補完性」の重要性が高まります。つまり二人の人間が、別々に大きな家を買ったり、休暇を楽しんだり、生活に必要なものを調達したりするより、二人で一緒の方が安く済むことは当然の事です
リスク分散の効果も見逃せません。何らかの理由で所得が途絶えた時、経済的に互いを支えることができます。これは近年、同類婚(自分と教育・所得レベルが近い人を結婚相手に選ぶ)の傾向がみられる一因かもしれません
本書では、多くの人が結婚を選択することを前提に話を進めてきましたが、事実婚やシングルファーザー、シングルマザーなど、様々な結婚の在り方が出現する可能性を否定する訳ではありません。しかし法律上の婚姻関係が、長期的であり、権利が法的に強く保護されており、離婚時の財産分与の仕組みなどが確立されていることなどを勘案すると、夫婦間で多くの調整が必要とされるマルチステージの人生では、むしろ結婚の重要性は大きくなると著者たちは考えています

<仕事と家庭>
仕事の世界で経済的な役割やキャリアの選択が変われば、家庭でのパートナーとの関係も変わってきます。OECDの調査では、1980年、25~54歳の女性で職に就いているか、職を探している人の割合はOECD加盟国平均で54%でしたが、2010年にはこの割合が71%まで上昇しています
*働く女性の割合は、未だに国による違いは大きい。男女の労働参加率の格差は、日本、イタリア、韓国などでは20%前後に達するのに対し、格差の少ないノルウェー、スウェーデンなどの国は5%未満となっています。この格差が大きい国は、女性が100年ライフの設計する際の選択肢が乏しいことになります
*現状では家事と育児をほとんどを女性が担っている国が多いものの、将来男女が家庭に等しく関わる様になれば、伝統的な性別役割分担の在り方が変革を迫られることは確実になります。マルチステージの人生では、家事と育児を主に担う役割をステージごとに交替してもいいと著者たちは考えています
*問題は、労働参加率の格差こそ縮小しつつありますが、賃金の格差が残っていることにあります。その原因の一つは、高い地位についている女性の数が少ないことにあります。多くの大企業で中級管理職の約30%を女性が占めていますが、全体としてみれば15%程度に過ぎません。ILOの報告書によれば、男女の賃金格差がなくなるまで、少なくとも70年かかると言っています

現状で柔軟な働き方を実践しているのは、もっぱら女性です。幼い子供の世話や、高齢の親や親族の介護をしたりする必要上そのような選択をすることが多いと考えられます
*自由裁量で仕事を進めやすい職(「融通性」の高い職)は、テクノロジーとサイエンスの分野であり、この種の職では男女の賃金格差が小さい
*今後こうした状況は、柔軟な働き方に対する人々の考え方、バーチャルテクノロジーが進歩するペース、業務が標準化される程度、高い地位にある男性が子供と多くの時間を過ごすロールモデルになる、などの度合いにより影響を受けると思われますます

ジェーンの5.0シナリオでは、夫婦が両方ともフルタイムで働く時期だけでなく、片方がフルタイムの仕事を離れて、育児や、知識の習得、ステージの移行への準備を行っていました
*マルチステージの人生の下、男性たちが柔軟な働き方を選択し始めた時、何が起こるか?;【悲観論】柔軟な働き方をする人が、男女とも低所得に甘んじ、結果として男女の賃金格差が縮小する、【楽観論】柔軟な働き方が企業や個人に課すコストを減らすために、仕事の在り方自体が根本から変わる。つまり、企業が仕事と年齢とジェンダーについて大きく発想を転換し、キャリア全体としては男女の生涯所得の格差が縮小に向かう
*いずれにしても、夫婦が役割を交替しながら、複雑に入り組んだマルチステージの人生を送るためには、夫婦の間で徹底的なする合わせを行うことと、強い信頼関係と協力関係を築いていることが不可欠であると著者たちは考えています

*現在、65歳以上の人の内結婚している人の割合は歴史上最も高くなっています。その割合は16~65歳の層と肩を並べるまでになっています。この背景には、寿命が伸びていること、夫婦の年齢差が縮小していること、再婚する人が増えているという要因があります(再婚に対する社会的偏見も薄らいでいるという事情もある)
*現在は、結婚年齢が上がり、離婚の割合が減り、再婚の割合も減っています。これは、結婚生活の土台が「生産の補完性」から「消費の補完性」に変わったため、結婚相手を選ぶ基準が変わって結婚が長続きするようになったこと、及び、結婚年齢が上昇し、人々が自分についての知識を多くもって結婚するようになったためと著者は考えています

<多世代が一緒に暮らす時代へ>
これまでの3ステージの人生では、同世代の人たちが一斉行進をする様に人生のステージを進むため、年齢層ごとに人々が隔離されて生きる欧米型の社会が出現しました。しかし、マルチステージの人生では、エイジ(年齢)とステージが一致しなくなり、大人が若々しく生きるようになる結果、世代間の関係に大きな変化が生まれます
*インドの様なアジアの国を訪れると、欧米ではめっきり見なくなった家族の在り方に目を見張らされます。子供と祖父母が一緒に暮らしている家庭が多く、子供たちは祖父母と多くの時間を過ごし、勤労世帯は親の支えを頼もしく感じられ、高齢者は自らが役割をもって貢献できると実感できている
高齢での孤独は寿命を縮めます。高齢者が家族の中で生きることには、確かなメリットがありますが、一方、多世代の同居は、プライバシーを確保できないことや、世代間で衝突が起きるなどの弊害もあります。
*40~50年前は欧米でもアジアの様に多世代同居型の家族が当たり前でしたが、現在では小規模な家族が一般的になっています。例えばデンマークでは、家族の構成員の数は平均してわずか2.1人過ぎません
*家族が多世代で構成されるようになれば、異なる世代が理解を深め合う素晴らしい機会が生まれます。また世代を超えた人間関係が築かれれば、年齢に関する固定観念や偏見も弱まるはずです。恐らく重要なのは、互いに親しみを抱き、世代間の触れ合いを長期的、安定的に続けることが重要になります

人類の長い歴史を通じて、人生の最大のイベントは出産と子育てでした。この時代、長生きすることの進化上のメリットは無かったと考えられます。寿命が延びれば、人生の中で子育てに費やされない時間が長くなる。その結果、友達付き合いが生活の中心になる時代が新たに出現するかもしれません
*最近の学生は、主たる人間関係として友達を重んずる傾向が強く、昔であれば家族に求めた様な温かみのある関係を友達に求めたいと思っています。このように、年齢的に均質な人的ネットワークの中でメンバー同士が付き合えば、その集団のアイデンティティが強化されます。その結果、生き方についてみんなが同じ考え方をしてしますことになります。
*問題は、年齢による分断が高齢者差別につながることです。異なる年齢層の人と交わらなければ、「我々対彼ら」という発想にはまり込み、固定観念と偏見を抱きがちになることになります ← (萩本欽一が70代で駒沢大学に入学し、そこでの経験を”週刊文春”に寄稿していますが、若い学生たちとの交流で、見事に年齢の壁を越えているのに驚きます)
*マルチステージの人生が一般的になれば、異なる年齢層の人たちが同じ経験をする機会が生まれます。心理学者のゴードン・オルポートの古典的な研究が明らかにしたことは、「固定観念と偏見を打破する手立ての一つは、集団間の接触を増やすこと」である
*年齢層の異なる人たちが触れ合う機会が増えれば、人的ネットワークの均質性が崩れはじめます。こうして高齢者が「別世界」の住人という状況は変わり始めるに違いありません

-本書を読んだ感想、その他-

本書は、引用文献のページだけで15ページに達することでご理解して頂けると思いますが、ビジネス分野における論文に近いものと思われます。論文であるが故に、出所の確かな文献を引用しながら、論理的な完璧性を目指していることは確かで、ぐうの音が出ないほどに筋が通っています
しかし、人生の選択は極めて個人的な問題であり、本書が勧めているマルチステージの人生が、すべての人に当てはまることはあり得ません。本書の著者も強調している通り、マルチステージの人生を送るためには、本人自身の覚悟と厳しい決断、不断の努力が必要となります。
従って、働かずとも十分に豊かで、余生を快適に!過ごしている人や、豊かではないものの、思索にふける孤高の人生を求めている人達には、本書が提供する”人生100年時代の人生戦略”は、全く役に立たない理論だと思います

いつの時代にあっても、大きな変革期には、私共の様な”普通の人々”が荒波に揉まれ、取り戻せない過去を悔やむことになります。
戦後70年を経て、人工頭脳(AI)、ロボット、クラウドサービスなどの先端科学が急速な進歩を遂げつつあり、産業構造が大きく変わろうとしています(本書ではこれを「スキルの価値が瞬く間に変わる時代」と表現しています)。また、生命科学・医療の進歩に伴い、着実に寿命が延びてきています。時代の大きな変革期にあって、我々の世代の人生設計の継続では、少なくとも子供や孫たちには、輝かしい未来は待っていないということは確かであると思います

振り返ってわが身を見れば、私自身が、突然の企業年金の大幅減額に慌てふためいて!いる現実がある一方、我が子3人の内2人は既に、苦しみながらではありますが、本書の定義による、エクスプローラーのステージ、インディペンダント・プロデューサーのステージ、ポートフォリオ・ワーカーのステージを経験しつつあり、更に、本人たちが意識しているかどうかは別にして、同類婚結婚の時期を遅らせることを実践している様であります

ところで、本ブログでは、終章で扱っている「自己意識」、「教育機関の課題」、「起業の課題」、「政府の課題」などは、敢えて本ブログでは触れていません。何故なら、ここでの提言はほとんどすべてが、それ以前の章で述べられているからです。ご興味のある方は下記の方法で添付のレジュメをご覧ください。尚、最近、安倍政権で取り組んでいる”働き方改革(働き方改革・実行計画要旨)”が、この流れにある事は間違いないようです

本書は、目次を見た時から内容が豊富で、ざっと読んだだけでは頭の中で内容が整理できないと思い、講義を受ける時の様にレジュメを並行して作りながら読み進みました。最初は、大学での半年の講義分の10ページ程度を予想していましたが、最終的には70ページになってしまいました。読み終わってから、レジュメの内容をチェックしてみると各章、各テーマで既述内容の重複が多いことに気が付きます。これは恐らく、著者たちが行ったロンドン・ビジネススクールでの講義をベースにして執筆された為ではないかと想像しています。逆にいえば、必要な章のみ(あるいは興味のあるテーマのみ)を読んでも、ある程度内容が理解できるようになっています。従って、このブログの内容をもっと深く知りたいという方のために、私の拙いレジュメ(Life Shift_読書メモ)も添付しました。ワードで作成してありますので、ダウンロードした後、最初の目次から、ご覧になりたいトピックにマウスを移動させ、”コントロール・ボタン”(キーボードの通常最下段の両端にあります)を押しながらマウスの左ボタンを押せば、そのページにジャンプすることができます

以上

 

 

「玄冬の門」を読んで

先週都心に出たついでに本屋に寄り、あちこち徘徊している内に目に止まって買って帰ったた本が二冊ありました。「日本共産党研究」(産経新聞政治部)と「玄冬の門」(五木寛之)です。昨日は雨模様で屋上菜園の仕事も出来なかったことから一気に読む通すことができました。

前者は、発行日が今年の6月1日となっていることから分かる様に、参議院議員選挙に向けて野党統一候補作りでリーダーとなった“元気のいい共産党を牽制するために急遽編集されたもののようです。内容は、概ね私が知っていることの域を出ないものでしたが、巻末に入っている最新の「日本共産党綱領」(2004年1月17日・第23回党大会)と年表「日本共産党の歩み」(1922年の結党の時から現在まで)は手軽な参考資料として使えそうな気がします。今日は丁度選挙の投票日、野党4党連合の思惑が叶うかどうかが決まる日になります

後者の「玄冬の門」は、発効日が6月20日の新書版で字が大きいので2時間もかからずに読み切ることができました。古希を過ぎた私にピッタリの内容だったので、5年ほど前の同著者の作品「下山の思想」と同様、これからの生き方の参考にしたいと思いました。読まれていない方の為に、内容の一部を以下に紹介します

中国では、人間の一生を以下の5つに分けて考えます;
① 青春:若々しい成長期
② 朱夏:社会に出て、働き、結婚して家庭を築き、社会的責任を果たす時期
③ 白秋:人生の役割を果たした後、生存競争から離れて静かな境地で暮らす時期
④ 玄冬:老年期

同著者の「青春の門」は、20代の中頃、文庫本が発行されてから読みましたが、当時の社会の状況や若者の考え方などがリアルに描かれており、ずいぶん夢中になって読んだ記憶があります。
玄冬の門」は、これと対になっている訳ではないでしょうが、「玄冬」の時期にある我々と同世代の人々が直面している困難な問題を、受け身ではなく自身で解決していく一つの道筋を提供している点で、非常に参考になると思いました

「絆」について
著者は「東日本大災害以降、“絆”ということが盛んに叫ばれましたが、私は、“絆”という言葉にはある種の抵抗感があります。もともとの言葉の意味は“家畜や動物を逃げないようにつなぎ止めておくための綱”という意味でした。我々、戦後に青年期を送った人間は、家族の絆とか、血縁の絆とか、地縁の絆とか、そういうものから逃れて自由な個人として生きることが一つの夢だった。ですから“絆”というのは、自分を縛る鬱陶しいものという感覚が強かったのです」と言っていますが、わたしもあの大災害以降、なにか人間関係の理想のような形で世間に流布している「絆」という言葉に違和感を感じている一人です。

高齢者と若者との間の「階級闘争」:
高齢者の数がどんどん増えていって、若者の数が相対的に減っていく状況の中で、重い年金の負担と、厳しい労働条件の中で働くことを強いられている“貧しい若者”と、働かずに年金と貯蓄で“豊かな暮らしをしている老人”という対立構造は、確かに「階級闘争」と言ってもおかしくない現象かもしれません。また一方で、豊かでない老人の集団として所謂「下流老人」も少なからず居て大きな社会問題になっています。
こうした問題を解決する手段として、「若い世代と高齢世代が融合して親密にやっていくのではなく、ある意味で分かれてもいいだろうと思っています。若い連中は若い連中でやってくれというように」と著者は言っています。これは言い方を変えれば、高齢者たちが若者に頼らず自立していく必要があるということを言っているのだと思います

「孤独死の勧め」:
歳をとって体が弱ってくればどうしても誰かに頼りたくなりますが、著者はこれも諌めて、「家族からも独立しなければいけない」とも言っています。とは言っても高齢者の自立の道は結構険しい道のりのはずです。しかし;
インドのヒンズー教の老人は、自分の死期を悟るとガンジス川の畔まで行って「老人ホステル」みたいなところで死が訪れるまで一人で生活するといいます。
また、著者が親鸞の言葉として「一人いて喜べば二人で喜んでいると思え。二人でいるときは三人で喜んでいると思え。その中の一人は親鸞である、というのがあります。これは“あなたはどんな時でも一人じゃないよ”と言っているのです」と紹介しています。

孤独死を恐れない玄冬期を過ごすために著者が勧める方法:
* 子供の為に美田を残さず使い切るということに徹する
* 家庭内自立を目指す(自分のことは自分でする)
* 再学問を行う(それまでの職業とは違うことを学ぶ)
* 趣味、妄想に遊ぶ
* あらゆる絆を断ち切る
* カジュアルに宗教と向き合う
* 不自由でも出来るだけ介護されずに生きていく
* できるだけ身綺麗にし、機嫌よく暮らす
* 自分の体と対話する
* がんは善意の細胞と思う

現在の老人介護の在り方:
親鸞仏教センターが刊行している研究誌の記事に以下の様な衝撃的な問題提起があったそうです。
* 特別養護老人ホームをもっと作れと言われているが、高齢者の方々は誰一人そんなところに入りたいとは思っていない
* 孫や子供達に囲まれて末期を看取ってもらいたいと思っている人はいますか、という問いに、誰一人頷く人は居なかった
確かに言われてみれば、「高齢者が集まってフォークダンスを踊ったり、タンバリンを叩いて童謡を歌わせられるなんて悲劇的です」、また介護の人が子供言葉で「さあ、食べましょうね~」なんて言うのは如何なものかと思います

最近NHKスペシャルで「介護殺人」を扱っていました。自分が自分でなくなった時まで生きることは、自分の愛する人にまで不幸にする可能性があることを思い知らされました。
著者は最後の方で、「私の考え方としては、人間はこれだけ大変な世の中で苦労しながら生きてきた。生まれるときも自分の意思で生まれてきたわけではないから、せめて死ぬ時ぐらいは自分の意思で幕を引きたいというのが、究極の願望です」と言っています。極めて重い言葉ですが、これから私もたっぷりある自由時間を使ってそのあたりを“妄想”していきたいと思いました

以上

生い立ちの記(生誕・抑留・引揚・困窮生活)

以下は、私が中学一年の夏休みの宿題で書いた「生い立ちの記」(原稿用紙50枚がノルマだった)の最初の部分です。平仮名が多く文章が稚拙なのは、私が理系の人間で国語嫌いであったということで許していただくとして、内容については全て両親から聞き取ったもので、実体験に基づいているものです;

生い立ちの記

中学一年A組 荒井 徹

満州での誕生と終戦

昭和20年4月2日、満州の奉天市で次男として私は生まれた。父は満州航空に勤めており、わりあいと生活は楽だった。それから五ヶ月くらいはこのように平和に暮らしていた。所が、それからがいけない。8月15日、大東亜戦争が終わって日本中がうれしいやら、かなしいやらでわいわい言っている時、こちら満州はソ連軍が入って大混乱おちいっていた。私達は、といっても父は会社の関係で入らないが、営口(えいこう)へそかいしていた。それから半月位で又奉天へ帰って来た。それからの生活は非常に苦しかった。父は終戦して少したってからソ連に飛行場をとられ、社員は解散となったので、ブローカーをして生活をした。しかし、それも父は商売がへただったのでうまく行かず、着物、母の「かたみ」の指輪などを売って暮らしをたてていた。

生誕の家
生誕の家

もうそのころになると、ここはあぶなくなってきた。昼はその日の生活を立てるために、二足三文になった高価な着物等を売り、中国人が買っていく。夜になると武器をすてさせた無抵抗な私達のところへ、武器をもった強盗が入ってくる。私達は何軒かで集団をつくり、そのまわりに鉄条網をはりめぐらせし、雨戸はくぎでうちつけ、かんたんに出入りできないようにした。男は一日中服を着替えず、強盗のみはりに務めた。もし私達の所へ入ってきたら、ドラを鳴らしてさわぎおっぱらうようにした。さいわい私達の所には一度しか入らず、たいしたことにはならなかった(しかし、ひとりの死者がでたが)。

内地への帰還

その恐怖の一年間が過ぎていよいよ帰国の日が来た。国民政府が満州を占領し、すぐ私達を帰してくれたくれたのだ。そのつぎの朝から苦しい帰国までの日がつづく。7月1日の4時、藤浪町町ぐるみマーチョ(馬車)でいっせいに自宅を出発。北奉天まで行った。そこから貨物列車で錦県(きんけん)まで行った。その道中は非常に苦しいものだった。なにしろ馬や牛が乗る貨物列車なのだから、家の近所のおばあさんが病気の体で来たため死んでいった。さて、その長い苦しい列車の時間が終わって錦県駅について、それから徒歩で宿舎まで行く。それはとても苦しい。母は背に満一歳の私をおぶり、前に大きいリュックサックをしょっていた。満五歳の兄は私のおしめをせおっていた。父は隊長だったので、リュックサック一つをせおってみんなの世話をしていた。やっと宿舎について。そこは兵舎であった。そこで約一週間、3万人位が自炊をして暮らしたのだ。入るときはDDTを全身にまいた。おかげで、はえ、南京虫、のみ、などにはなやまされなかった。入ってから間もなく母が心臓病で苦しみだした。それはあまりにひどい過労のためであった。さいわいいっしょに来た医者にみてもらい注射をしたら落ち着いた。

やっと兵舎生活が終わって、貨物列車に乗って、しかもその貨物列車が中国人に略奪されるので戸を全部しめてある。放尿はなかなかできない。三時間位でコロ島についた。そこからいよいよ7月20日、アメリカ貨物船リバティ型に乗って一路舞鶴に向かって出発した。船上でも色々と苦しい事がつづいた。なにしろ貨物船なのでねる所がない。その上いっぱいつめこんだので全員が横になれない。私達は横になったが、父はずっとよりかかったままだった。食べものはコーリャンにやさい少々、サバの肉少々が入った、おかゆとは言えぬぞう水と言ったほうが正しい。そのため栄養失調で三人位死んだ。その時は本土までもっていくとくさるので水葬をした。船はそのまわりを ぼおーー ぼおーー と、きてきをならしてまわる。乗船者は水葬者を見送る。それで水葬は終わる。なにしろ暑いのですこしもじっとしていられない位だ。わたしのおしめは海水で洗った。こういう事が三日間続いた。やっと日本についた。

記念碑@葫蘆島
記念碑@葫蘆島
葫蘆島の港
葫蘆島の港

腸チフス罹患

舞鶴で一泊して、いよいよ父母の実家のある長野に向かう。宿泊所では久しぶりの風呂に入って旅のあかを落とした。つぎの朝はさっそく駅へ向かった。途中、新しいトマトがたくさん有り、帰国の苦しい旅で新鮮な野菜にうえていたのでさっそく買ってかぶりついた。舞鶴駅から名古屋に向かって汽車は出発した。名古屋駅ではもう一度風呂へ入り、一泊して朝、いよいよたい望の長野へ向かった。長野駅についてから父の実家に行った。そこでは便りが全々とどかないので、行った時は非常におどろいただろう。

私達はほかに住む家が無いので、一応そこで落ちつくことになった。と、半年ばかりして私の兄が元気がなくなってきた。ちょっと遊びにいっては、すぐもどってきてごろごろ横になる。きっとだるいのだろう。母はなにか悪い病気の前ぶれではないかと心配した。間もなくそれがほんとうになった。兄は急に高い熱が出たのだ。医者に診察してもらった所、それは腸チブスとわかった。すぐ入院だ。しかしほんとうは市の病院へ入るのだが、そこへ行くと設備も医者も悪いので死んでしまうおそれがあるので、無理して日赤に入院させた。兄の病態は思ったより悪かった。母は看護のため病院にいた。私はまだ乳をのんでいたので、のむ時だけ母に待合室に来てもらってのんだ。所が、どこから感染したか私にもうつってしまったらしい。兄の発病後一週間ぐらいで私は発熱した。すぐ日赤で診察した所、案のじょう腸チブスであった。すぐ私は兄のとなりの所に入院した。なにしろ私は満一年と五ヶ月ぐらいしかなっていないし、兄の病態は非常に重いので、母はどちらかは取られるとかくごしていたらしい。私はまだ小さい時だったので良かったが、兄はもう五才であったので、毎日太いリンゲルをやり、ほかにも注射をたくさんやったので苦しかっただろう。それから一ヶ月ぐらいで私達は奇跡的に助かった。私は兄より一週間ぐらいしてから退院した。兄はあまり重かったのでこしがぬけてたてなかったという。母は毎日大きなにんにくをたべていたのでうつらずにすんだ。その時こそはにんにくのききめをはっきり知った。私達は金が一文もないので、父が事務長にだんぱんに行って引あげ者のことを話し、入院費はただにしてもらった。兄の退院後は、栄養を取らなければいけないので、父母達は配給のとうもろこしの粉等を食べ、兄にはその頃食べたこともない白米を食べさせた。そのような父母の苦労で私達の病気もすっかり良くなって、兄は学校へ行くようになった。

引揚者住宅入居

それから二ヶ月、引揚者のアパートのある長野市居町に引っこすことになった。私達は一年間世話になった父の実家に厚く礼をいってうつった。そこではアパートはいかれてるながらも、まずしいながらも、親子そろった楽しい生活がはじまった。父もやっと職業が見つかった。工業学校の恩師に世話をしてもらって、フォノモーター作りを始めたのだ。だが依然として生活は苦しかった。兄は引っこしたらすぐに鍋屋田(なべやた)小学校に転校した。

昭和二十三年七月六日、妹が生まれた。目方は八百匁ぐらいで重い方だそうだ。

良くおぼえていない。多分四才ぐらいだろう。夏のある晴れた日、兄は野球かなんかしていた。私は下の魚屋の子供等といっしょに、どこだかわからないが、まわりはたんぼで真中にはすの生えている池がある、こんな遠い所へは一度も来たことがないのでうれしさに飛びまわった。私達はとんぼをとりに来たのだった。収穫がどの位あったかはおぼえていない。

もうもうとほこりがたっている。ここは私の前のアパートの廊下である。私は同じとし位の友達とパッチン(「めんこ」のこと)をやっているのだ。私は生まれつき勝負事が弱く、いつでもまけてしまう。それでもこりずに何回でもやるのである。

私のいつも遊ぶ所は居町公園である。そこは私のいる居町アパートに近く、木もたくさん植わってい、私の絶好の遊び場所だった。と言うのは、私が木登りがとても好きだったからだ。しかし、それもやめなくてはならない時が来た。それは私が公園のある桜木に登っていた所、ふとしたはずみに五メートルぐらいの所から落ちたのだ。私は腰がぬけたらしくたてなくなってしまった。ぼーとしてしばらくそこにすわったままでいると、運悪く父の知り合いの人が通った。その人はすぐ母に知らせたらしく、私がしばらくして立ってぶらぶらしていると、母が青くなって飛んで来た。それからは母に木登りはやめなさいと言われ、自分でも少々こわくなったのであまり登らなくなった。又、その横の川では良く落っこちて母にしかられたりした。

そのころ父は、フォノモーター製作がうまくいかなくなって、ついにつぶれてしまった。昭和二十五年の春、父は職業をさがしに東京に行った。さいわい友人が東京の武蔵野市にいたので、そこの庭にバラックを立て自炊してくらしていた。職業の方は、父の友人の紹介でビクターオート株式会社という会社に入社して私達に仕送りするようになった。私達の所へは月に一回帰って来た。

 

“死”について

高校時代の友人と「死」をテーマにした対話の抜粋

私の父親は私が大学院生の頃に61歳で亡くなりました。胃がんが分かってから約半年しか生きられなかったのですが、がん告知を受けなかった為、生への希望を持ち続けて闘ったので本当に壮絶な死であったと思います。私はすぐ傍で毎日看病していたので、こういう死に方はしたくないと思いました。
母親はもともと心臓が悪く3回も救急車で緊急入院をするほどだったのですが、72歳になってやっと手術をする決心をしました。ところが、その手術日の前日に突如発作を起こして亡くなってしまいました。母親も病弱の期間が数十年続いていたのですが、生に対する執着はかなりのものであったように思います。
結局、私の場合両親の死から自分の死に対する心構えを学ぶことが出来ませんでした。

以下は浅学な私の屁理屈以外の何物でもないと思いますが、自身の死への対し方について幾つかのパターンに分類してみました;

A.自分の死を受け入れられないタイプ;
秦の始皇帝が不老長寿の薬を求めたのも、大きな墳墓を作ろうとするのも皆このタイプに分類できると思います。また、死の恐怖から逃れるために遊びに熱中する人も同じタイプではないかと思われます。こうした人は恐らく“宴の後”のつらさをいつも経験しているのかもしれません。

B.自分の死を受け入れることが出来るタイプ;
1.死は全くの無に帰することを受け入れられるタイプ;
織田信長は恐らくこのタイプだったのではないかと思います。桶狭間の戦いの前の幸若舞“敦盛”のイメージですね。般若心経が言っているのも結局こういうことかな。私にはちょっと無理な感じです

2.死後の世界を信じられるタイプ;
宗教、特に新興宗教を信じる人はこのタイプになるとおもいます。先日私の従姉夫妻が相次いで亡くなったのですが、彼らの宗派は浄土宗なので、お寺さんが遺族に言っていたことは死=浄土ということでした。仏教の宗派が数多くある中で、浄土真宗と日蓮宗系が未だにアクティブな宗教として機能しているのもこのシンプルさがあるからだと思います。また自爆を厭わないイスラム教のテロリストもこのタイプでしょう。でも私にはこれもちょっと無理な感じです

3.肉体は朽ち果てても人々の心の中に生き続けることで死を受け入れるタイプ;
肉親を失った直後、こうしたことで喪失感を乗り越える人は多いと思います。実は私も親が亡くなった後はこれを信じようと努力していました

4.親から子、孫にDNAが引き継がれることで、自分の命が続くと信じられるタイプ;
まだ溌剌として働いていた若い頃には、子供との関係において中々こういう感覚は得られなかったのですが、老齢に至り孫と遊んでいる時などふと自分は何時死んでもいいなと思う瞬間があります。武士の世界では家を守ることが一番で、自分の命は家の為にあるということでしょうが、恐らくこれも同じような感覚なのだと思います。最近、特攻隊に係る本をよく読むのですが、彼らの遺書にあるのは、国という命を繋ぐため、あるいは残してきた親兄弟の命の為に死ぬという感覚がある様に感じました。今の私はこの感覚に近づこうとしているのかもしれません。