老人にもおし寄せる ICT革命

はじめに

見出しの画像は、現在進行中のウクライナ戦争に関わる情報を、今年に入ってから現在(2022年10月10日)まで集め、何時でも取り出せるように整理した情報群を可視化したものです。フォルダーとはデジタル情報を収納しておく記憶媒体上の倉庫の様なものですが、情報の従属関係を考慮してフォルダーを階層化することにより、幹から細い枝まで繋がる「木(Tree)」に例えて私はこれを「Folder Tree」と呼んでおります。こうした整理をすることによって膨大な資料を何時でも取り出すことが出来ます
因みに、第5階層の「ウクライナ問題」のフォルダーだけを取っても、それより下層にあるフォルダーの数は19ヶ、収納されている資料の数は664ヶ(⇔これを紙の資料として保存するには、恐らく数千ページはくだらないと思われます)、データの総量は345MB(メガバイト)になります。
私が数十年前にパソコン(NECの98シリーズ)を購入した時に、清水の舞台から飛び降りる気持ちで購入したハードディスクの値段が20万円以上、容量がたった20MBだったことを想うと隔世の感があります

さて、タイトルの中にある「ICT」ですが、お聞きになった人が多いと思いますが、これは「Information and Communication Technology」の頭文字を取った略語ですが、日本語に直せば「情報通信技術」という事になります
ここ数十年の間のICTの急速な発展を促した背景にはムーアの法則(集積回路上のトランジスタ数は「2年ごとに2倍になる」)として知られる半導体素子製造技術の急速な進歩があります。また、こうしたハードウェアの進歩によってインターネットを通じての情報の流通が同じようなペースで激増し、これまで使われてきた紙による情報の交換(FAXもこの範囲)、電話による情報の交換、CDやDVDなどの媒体を通じての情報の交換は古臭く、効率が悪い為にビジネスの世界は勿論、現在の若者たちに見向きもされなくなってきました

こうした情報革命(DX:Degital Transformation)が急速に進行する現在、子供や孫の世代との交流を図るには、まずは電話やガラケーにおさらばし、パソコンAND/OR 既にパソコンと同等な能力を持っているスマホを駆使して、情報武装することが必要と思います
実は、かく言う私も遠い昔の電気少年の時代に培った古臭い知識と誇りをドブにすて!息子や孫に最新のICTの状況について教えを請いながら勉強を始めたばかりなのです
以下は、取り敢えず若者たちが既に使っているICTのインフラの概略を説明し、皆さまにも是非仲間に加わってもらうべく、浅はかな知識と承知しつつ紹介する次第です

基礎知識あれこれ

1.情報量の単位
最小単位:1ビット(bit);2進法の0か1の値を区別し、それ以上の情報は桁を上げて表記します)。尚、10進法では0~9の区別があり、それ以上は桁を上げて表記します(一桁上は10~99、、、)
1バイト(bite):8ビット分の情報量があります。1バイトの情報量は十進法で標記すれば256ヶ(十進法で標記すれば =2x2x2x2x2x2x2x2の情報を区別できます)の情報量になります
参考:(ネット情報)1980年頃から既に1バイトは 8ビット であることが一般的でしたが、 正式には2008年のIEC(国際電気標準会議)で規格化( IEC 80000-13)されてからです
*1バイトは256ヶの区別が出来ますので、数字、アルファベット、各種の記号などを1バイトで一意的に区別できます。一方、漢字・かなで構成される日本語や、中国語は文字の数が多いので1バイトでは一意的に表現できず2バイトを使って区別します
「ビット」と「バイト」の使い分け:情報の伝達速度を表記する時は「ビット」が使われる(例えば「この回線の伝送速度は秒速100メガビット」など)のに対し、記憶装置の記憶容量を表記する時などは「バイト」が使われます(例えば「このハードディスクは20メガバイト」など)

2.大きい数字の表記の仕方
* 一般に「ビット」、「バイト」は極めて小さな情報量の単位なので、大きな情報量を表すのに以下の様な桁標記が使われます;
① キロビット、キロバイト ⇒ 1000ビット、1000バイト
② メガビット、メガバイト ⇒ キロビット、キロバイトの1000倍
③ ギガビット、ギガバイト ⇒ メガビット、メガバイトの1000倍
④ テラビット、テラバイト ⇒ ギガビット、ギガバイトの1000倍
⑤ 以下、1000倍毎にペタ、エクサ、ゼタ、ヨタが頭につきます
因みに、最近インターネットの通信速度はギガビット/秒が一般化しつつあります。また最近販売されているハードディスクはテラバイト単位が珍しくなくなりました

3.サブスクリプション(Subscription)とは
サブスクリプションとは、辞書を引くと「定期購読」という翻訳が出てきますが、現在使われている意味は自動車のリースの様なサービスの形態と考えるほうが的を得ていると思われます。自動車のリースの場合、高価な自動車を資産として所有せず、自動車を利用することによって得られる便益のみを一定の価格で利用する契約ということが出来ます
ICTに関わるサブスクリプションも、ほぼ同じ意味で使われています。ICTに関わる各種の便益を一定の料金を定期的に支払いつつサービスのみを享受できる仕組みに世界全体が急速に変わりつつあるのが現在です。我々老人も、この変革に乗り遅れるとこれからの人生がバラ色から灰色に変わっていくかもしれません、、、ちょっと大げさですね!

4.プラットフォームビジネス
「platform」が持つ「土台、基礎」という意味から派生して、インターネット上で情報処理を行うための土台(⇔インフラ)を「プラットフォーム」と呼ぶようになりました
ICTに関わるプラットフォームを形成する上で世界的に有名な企業は、MicrosoftとGAFA(ガーファ)と呼ばれる米国発の大企業群です(GAFAは「Google」「Apple」「Facebook」「Amazon」の頭文字をとった呼び方です)。これらの企業は、夫々パソコンという電子機器をプログラム(アプリ)で自在に動かすための「オペレイティング・システム」の提供、インターネットの世界で「検索」を行うインフラの提供、音楽・映像をパソコンで利用するための「オペレーティング・システム及びハードウェア」の提供、SNS(Social Networking System)のインフラの提供、「電子商取引」のインフラの提供、などの分野で現在実質的に世界を制覇しています

5.クラウド
クラウドとは、クラウドコンピューティングの略称です。これまでソフトウェア(アプリ)を利用する場合、パソコンなどにインストールして利用するのが一般的でした。例えば、Word、ExcelなどのMicrosoft Office製品やメールソフト、ウイルス対策ソフトなどを購入し、自身のパソコンにインストールして利用する利用形態一が般的でした。
しかし、MicrosoftやGAFAなどに代表される巨大企業が自身の持つ巨大なシステム・リソースを安価に提供し、ユーザーが高速化したインターネットのネットワークを介して、記憶領域や、ソフトウェア(アプリ)などを利用できるサービス形態のことです
利用形態の種類や定義など、詳しいことを知りたい方は、米国国立標準技術研究所( NIST/ National Institute of Standards and Technology) によるクラウドコンピューティングの定義をご覧ください。

昨今、この傾向は個人的な利用よりも、多くの企業が自身のITインフラの効率化や、セキュリティーの強化を図るために世界的に利用が拡大しています。一方、コツコツとモノづくりを行うことが得意な日本の企業は、自前のコンピューターシステムを構築してきた歴史があり、クラウドの利用が遅れています。以下は企業のクラウド利用に関する最近の記事です;
クラウド小国、日本の限界_投資比率北米の3分の1、自前重視がDX阻む
国産クラウド巻き返せるか Amazon頼みに広がる危機感
米アマゾン・ウェブ・サービス「不況、クラウドには追い風」_設備投資継続に意欲

老人でも簡単に利用可能なICTインフラ

1.クラウドの利用
冒頭の画像は、私のパソコンで頻繁に利用している情報類を格納するための記憶の一部をクラウドに移行した結果を表示したものです。私の場合、クラウド利用の目的は以下の通りです;
①効率化;
私の30歳台前半からの長いパソコン使用の歴史の中で、何度も経験し極めてダメージが大きかった経験は、ハードディスクが突然壊れる事(ハードディスクは回転する円盤を使っているので、長期間使えば壊れる)でした。このダメージを経験する内に必ず行うようになった事は、大切なデータのバックアップを必ず取るということでした。因みに、現在私が使っているメインのパソコンでは、以下の構成になっています

パソコンにとって一番重要な記憶領域はローカルディスク(C)です。この231GB(ギガバイト)の記憶領域はパソコンの演算速度に関連するので、SSD(Solid State Drive)といって半導体を使った壊れにくい高価な記憶媒体を使っています。他のディスクD、W、X、Yのハードディスクは1.81TB(テラバイト)、Zドライブは0.931TDなど大容量のものを使っております
Dドライブは、ソフトウェア(アプリ)を動かすためのプログラムなどのデータの保存でほぼ満タン!まで使われています。Wドライブは、日常頻繁にアクセスするドライブですが、クラウドを使うまでは、ほぼ満タン!になるまで使用していました。残りのX、Y、Zのドライブはバックアップの為だけに使われています
尚、「iCloudフォト」は、無料で使用できる(5ギガバイトまで)クラウドで、スマホと連動させることができ、スマホで撮った写真、動画をパソコンに取り込む時に使っています(非常に便利)

②セキュリティーの強化;
セキュリティ関連で私の一番苦い経験は、2000年代初頭に、私の所属しているクラブの写真や動画をクラブ構成員に無料で閲覧してもらう為に、自作パソコン4台を使って自前のサーバーを構築して運用開始したところ、たった一カ月半で「悪辣な乗っ取り犯」に侵入され、大量のメールをバラまかれたことがありました。当然ですが、サーバー機能をすぐに停止せざるを得ませんでした。素人がプロの真似をすると酷い目に合うことを実感した次第です。
以降、ウィルスの進入を怖れて市販のウィルスソフトを導入してパソコンの防御を図っていますが、ウィルスソフトメーカーからは常に追加料金を払ってバージョンアップを薦めてきます。追加料金を払う余裕もないので、最も大切なデータについてセキュリティの完璧なクラウドへの移行を決断しました
尚、写真や動画をクラブ構成員に無料で閲覧してもらう手段については、現在YouTubeのMy Channelを使っていますが、閲覧する側は隙間に広告が入るので鬱陶しいかもしれませんね!

③複数のパソコン(スマホを含む)間のデータの共有;
最近、同居している息子から結構性能の良いノートパソコンの「お下がり!」を貰いました。これに私のスマホを加えると3台のパソコンを駆使できる状況になります。これらのパソコンでデータを共有することにより、私の趣味であり、生き甲斐でもあるブログ作成の効率化を図ることが出来ます。画面の大きな(27インチ)自作の据え置きパソコンでネット上の情報を採取し、性能の良いノートパソコン(高性能なGPUが装備されている)を使って動画処理や、旅行中での作業を行い、スマホでは取り込んだデータを、隙間時間(移動中、トイレ?など)を使って読み込むなどの作業が行えます

クラウドサービスを提供している会社の料金プランなどは以下の表をご覧ください。因みに私の場合は「Dropbox」の2TBのプランを使っていますが、処理速度が速く、中々快適です

2.音楽の楽しみ方の革命
生演奏を聴いたり放送を聞く以外の音楽の楽しみ方は、私が生まれてから数々の変遷がありました;
① レコード:アナログ録音(SP盤→LP盤・EP盤)
② 磁気テープ:アナログ録音(オープンリール、カセットテープ)
③ コンパクト・ディスク(CD):デジタル録音
④ ミニディスク(MD):デジタル録音
⑤ 電子ファイル:デジタル音源のファイル(パソコンのソフトウェアで再生する)
*③、④については、借りて来た媒体のデジタル音源を、自身のパソコンでデジタルのままコピー(デジタル化された音源なので音質の劣化が無い!ものの、著作権を侵害している)する人が多く、CDの売り上げが年々落ち込んで来ている現状があります。また、ネット上で入手可能な⑤の電子ファイルのままコピーすることも、当然著作権を侵害しています

これに代わって、高速化した通信回線を使って有料でダウンロードさせたり、有料でストリーミング再生(デジタルデータを連続的に受信⇒再生を行う方式)が行える仕組みが出来ました。これにより音源の提供側は相応の売上を確保できるし、利用側も著作権侵害の心配なく多くの音源を楽しむことが可能となりました。
著作権意識が根付いている欧米先進国ではこの方式が既にかなり普及してきていますが、日本においては未だし!の感があります。しかし、日本でも若者達にはかなり普及しつつある様です。これは、ウォークマンに馴染んできた歴史から、寝ている時以外「〜しながら」音楽を聴く習慣が浸透していることと、好みの音楽が多様化し、多くの音源を楽しみたいという欲求にマッチするサービスであることに由来すると思います。以下は、音楽のサブスクリプション・サービスを行っている企業(アプリ)のリストと料金、サービス内容の一覧です;

表からも分かると思いますが、若者達の利用促進(大人になってからも利用継続が期待できる)を図るために学生料金を安く設定しています
尚、表中の右側にある音質(最大ビットレート/bps=bits/Second)は、本来アナログ信号である音源を以下の図の様に細かく区切ってデジタル化しているので、細かく区切れば区切るほどアナログ音源に近い高音質を再現できることになります。因みに「ハイレゾ」とは「High Resolution」の略語で「高精細⇔高音質」という意味になります

図中の右側のCD(44.1kHz/16bit)の意味は、CD音源は、1秒間のアナログ音源を1秒間当り44,100個に区切り、その区切った部分の音の強さを夫々16ビット(=2バイト)で表現(256×256=65,536種類で区別できる)することを意味しています
尚、提供されているサービスの伝送速度(ビット・レート)は、256キロビット/秒~320キロビット/秒と高速です。しかし、現在の無線高速通信回線は;
4G回線(現在の携帯・スマホで主流):最大1ギガビット/秒
5G回線(昨年からサービスが始まった):最大20ギガビット/秒
となっており、「ハイレゾ」音源でも全く問題がありません(ただ、高速移動中だったり、電波の弱い地域では音が乱れることがあります)
私が98パソコンで電話回線をつかってインターネットを始めた時は、ISDN ( Integrated Services Digital Network)という有線電話回線が最速で、最大速度が64キロビット/秒でした。これでも「速ツ!」と感動していたものでした

私自身は、音楽のサブスクリプションの契約はしていませんが、同居している次男は上表の「Spotify」を契約しており日々楽しんでいます。ただ、私が関心を持っているのは室内だけでなく、車の中でもスマホの「Bluetooth」の機能を使って音楽を楽しんでいることです。「Bluetooth」は10メートル以内の距離で無線通信を行える装置で、最近の車やスマホ、テレビ、アンプ、などには標準装備されており、簡単にサブスクリプション契約をしている音源をスマホ経由でコードレスで楽しむことが出来ます

3.映画(動画)の楽しみ方の革命
音楽同様、映画(動画)についても、かなり高速な通信回線が普及してきたことから、サブスクリプション契約が一般化してきました(特に若い年代)。古い名画は勿論、かなり新しい映画についても収録されている様で、大型テレビが普及した上に映画館が激減している現在、映画の好きな方は既に下表の何処かのサービスと契約しているのではないでしょうか?
拙宅の場合、同居している次男が幸いにも早くから「NetFlix」と契約しており、私もその契約のご相伴にあずかることもあります

表中の画質(HD/FHD/4K)の意味は、画面の解像度(画素/ピクセルの数で表記)を表しており、区分は以下の通りです;
① HD(High Definition):ハイビジョンとも呼ばれ、画素数は1280x720=921,600画素
② FHD(Full High Definition):フルハイビジョンとも呼ばれ、画素数は1,920x1080=2,073,600画素
③ 4K(Ultra High Definition):ウルトラハイビジョンとも呼ばれ、画素数は3840x2160=8,294,400画素
尚、②、③を楽しむにはテレビがこの解像度に対応していることが前提になります

4.ゲームの楽しみ方の変化
私のブログの読者で時々パチンコや競馬を楽しむ人は居ても、ゲームを楽しんでいる人はまずいない?(私のゲーム歴は、会社に入って間もない頃スナックなどにあった「インベーダー・ゲームが最初で最後!です)と思いますが、子供や孫はほぼ間違いなく子供時代にパソコンゲームを経験しており、現在も下表の様なサブスクリプションの契約を行って楽しんでいるのではないでしょうか? この分野は私には皆目分かりません

おわりに

実は私も今回調査してみて余りに多くの企業がこれらのサービスを提供していることに驚きました。勿論、このサブスクリプション隆盛を招いたのは、これからの時代を担う若者達であることは間違いありません。結果として、この変革に乗り遅れれば我々の世代の余生の楽しみは少なくなってくるのは間違いないと確信しました。従って私自身は精一杯この変革に追いついて行こうと思っています

以上

老いらくの恋!ならぬボケ老人の趣味(道楽?)

はじめに

タイトルにある「趣味」と「道楽」の違いは定かではありませんが、「趣味」はやや高尚で文化的な感じがする一方、「道楽」は金がかかり、やや享楽的なイメージがあります。共通する特徴は、生活を支える仕事(なりわい)ではなく余暇を使って自分の人生を楽しむものであって、自分以外の家族には永遠に理解されないもの!と言えるかもしれません
以下は、私としては「高尚な?趣味の積り」ですが、家族から見れば「しょうもない道楽」の歴史を綴ったものです。いずれにしても、文科系の人や女性には全く興味が湧かない話題だと思いますので、ここで読むのを止めるのをお薦め!します

電波少年!」だった頃の思い出

A.小学生時代;
小学校低学年の頃は、住んでいた保谷周辺(現在はお隣の田無と併せ西東京市となっています)は雑木林など自然に恵まれ、同じ歳頃の友達と遊びまわっていました。シマヘビやヤマカガシなどの蛇に出会うことも度々でした。蛇を見つけると、尻尾を掴んでぶんぶん回し、最後に蛇の頭を地面に叩きつけて殺す勇気?ある友人を尊敬していました。
小学校4年生の頃だったと記憶していますが、何かの折に秋葉原の電気街に連れて行ってもらい、「鉱石ラジオ」のキットを買ってもらいました

鉱石ラジオの回路図と構成部品

実に簡単な回路と少ない僅かな部品点数ですが、一日がかりで制作し、AMラジオ放送が聞けたときは感激しました。ここから電気少年の歴史が始まりました

毎月、僅かな小遣いを貰うと、日曜日に一人で電車に乗って秋葉原電気街(最寄りの三鷹駅から電車一本で行けた)に出かけ、主に部品を物色するのみで終わることが多かった様に思いますが、それなりにとても楽しい時間であった記憶が残っています
当時、米軍の払い下げの中古部品(軍用無線機の部品は信頼性を確保する為に壊れる前に定期交換をしていました)が山ほど店頭に並んでいました。中古の真空管(先進的?なミニチュア管)などは50円で売っていましたが、部品番号が日本のものとは違うので買う訳にはいきませんでした

小学校高学年になると、電気回路などが出ている雑誌を買って、秋葉原で部品を買い集め、はんだごてを使って回路を組み立てることをやっていました

はんだごて4種

因みに今でも使っているハンダ付け作業用の道具箱(上の写真)の4種のはんだごての内、一番上の錆びたはんだごては当時使っていたものです!
当時は真空管で電子回路を構成するのが普通でした。小学校時代に最後に組み立てた回路は「並四」と言われていたラジオで、「真空管(ST管/下の写真)4本と「電源トランス」、「同調回路(鉱石ラジオと基本的に同じ)」、「出力トランス」、「スピーカー」、「コンデンサー」、「抵抗」、などで構成されていました。真空管4本の役割は、夫々「整流回路(交流を真空管を駆動するための高電圧の直流にする)」と「検波回路(高周波であるラジオ波を低周波の音の信号に変える)」、「増幅回路_1(イアホンを鳴らす程度まで増幅」、「増幅回路_2(スピーカーを鳴らす程度まで増幅)」でした。増幅回路_2に使われた真空管は、確か「6ZP1(通常仲間内ではロクゼットピーワンと呼称)」という名称だったと記憶しています

B.中学生時代;
中学に入った頃にはトランジスターラジオが出現していました。最初に手掛けたのは、トランジスター2ヶ(日立製)を使った携帯ラジオでした。これは部品を買い集めて作ったのではなく、必要な部品全てと、配線用の基盤がキットにして揃えてあり、特に知識が無くても、はんだ付けの技術さえあれば、後は根気だけで完成させることができるものでした。この頃から半導体を使った回路は、現在の電子回路と基本的に変わらずプラスティックの回路基盤に部品を差し、ハンダ付けを行うことで完成する様になっていました
父が私のこうした作業を観ていた為と思われますが、中学2年の時に「テレビを作ってみないか」と聞かれ吃驚しましたが、確か5万円位のキットを買うという事だったので喜んで承諾しました。完成まで1ヶ月程掛ったと思いますが、最初に写ったテレビの画面は1959年4月21日の昭仁皇太子のご成婚パレードの画面だったことを思い出します;

我が家では初めて観るテレビ放送だったので大変感激したことを思い出します
このテレビは自分で作ったこともあって、その後長い間使っていましたが、故障の際は全て自分で修理しました。直すと言っても当時は壊れるのは殆ど真空管なので、電源を入れて真空管をチェックしていくと、明りがついていない真空管(フィラメントが切れている)が見つかるので、この真空管を秋葉原に行って購入し、交換すれば大概治るものでした。ただ、チェックする過程で手をテレビの内部に入れて高圧回路に触れると物凄い電撃を受けます。電撃を受けた後、暫く放心状態になる経験を何度かしています

C,高校生時代;
高校に入ると電気の好きな仲間ができ、そんな仲間同士で「電気研究部」を創部しました;
残念ながらこの7人の内3人は既に故人となっています(電波少年は短命?)。後列左端の友人はつい最近亡くなり、葬儀に参列したばかりです
この電気研究部で成し遂げた最大の成果は、アマチュア無線のクラブ局の開設でした。前列に居る二人の女性に電話級アマチュア無線技士の資格を取らせ(男性陣が教育担当!)機材(送信機と受信機)を制作し、無線局の免許を取得、コールサインは JA1YCE となりました。因みに私は個人でも既にアマチュア無線局を開局しており、私のコールサインは JA1LZU でした(これらのコールサインは既に廃局となっている為使えません!)

その後、大学進学以降は何故か電気に対する興味が薄れ、無線機器の製作などからは遠ざかりました
大学では航空学科に進み、卒業論文、修士論文はコンピューターを使った計算が必要になり、FORTRANというIBMで開発されたプログラム言語を使ってプログラムを書く経験をしました

パソコンおたく」への道!

A.パソコンと OS の変遷;
日本航空に入社した当時、殆どの書類は手書きであり、字の汚い私には資料を作成するのは大変な苦痛でした。その後、暫くしてワードプロセッサー(通称ワープロ)が社内でも気軽に使えるようになりました。ワープロを使えば「汚い字!」のコンプレックスは無くなり、上司からの「書き直し 😈 」という退社直前の指示も難なく済ませて残業せずに飲みに行ける 🙂  ことになりました。

入社後10年ほど経った頃(1980年代)、個人用のかなり性能の良いパソコンが世に登場していました。中でも一世を風靡していたパソコンは、通称「キューハチ」と呼ばれていた NEC9801というシリーズのパソコンでした
既に会社の業務でパソコンを使っていた私は、大胆にも!会社から数十万円の借金をしてパソコン本体と20メガバイトのハードディスク、プリンターなど一式を購入しました
当時のパソコンの CPU(Central Processing Unit/中央演算素子)の演算能力はそれ程高くないので、日本語の変換はNECがワープロで培ったROM(Read Only Memory/日本語の膨大なフォントをビットマップ形式で記憶している素子)を使っていました。また、当時のパソコンの OS(Operating System/ディスプレー、キーボード、記憶装置などの入出力の機器とコンピューター本体の情報の仲介をするプログラム)は MSDOS(Microsoft Disk Operating System)といって、私が大学在学中に汎用コンピューターで使われていた UNIX というOS で使われていたプログラム言語をパソコン用に簡略化したプログラム言語でした

自宅に届いた「キューハチ」を見て子供たちが大喜びをしました。何故なら、この頃子供たちの間では、パソコンを使ったゲームをするのが憧れであり、これでゲームが出来ると喜んだのだと思います。しかし、パソコンで遊んでばかりいたら勉強が疎かになると考え、当時 MSDOS 上でプログラムを動かせる初心者用の BASIC というソフトを入門書と共に買って、これをマスターすればパソコンを使っていいと厳命!しました。しかし、残念ながら自宅にいる時間の少ない私にはこの厳命を管理することができず、子供たちは自由にパソコンを使ってゲームを楽しんでいたようです
ゲームを通じてだと思いますが、子供たちは見よう見まねでパソコンの操作を習得した様で、長ずるに及んで、今や3人の子供の内2人は IT を駆使した仕事で生計を立てており、パソコンおたくで終わっている私には及びもつきません!

1990年代に入るとパソコンの性能が著しく向上し(参考:ムーアの法則)、「キュウハチ」が誇った?日本語変換もソフトウェア上で難なく実現できるようになり、パソコンの主流は DOS/V機(ドスブイ機/AT互換機とも云う)にとって代わると共に、OS もマウスで画面上をクリックするだけで操作が完了する GUI(Graphic User Interface)を備えた Windows に急速に切り替わっていきました
勿論、OS が高性能化すると共に、より高性能なパソコンが必要になり、高価なOSも買い替えていく必要がありました。パソコンおたくになることは、家計への影響も計り知れないものであったに違いありません(←妻の言い分?)。
因みに、捨てないで持っていた OS の記憶媒体を並べると以下の通りです;
左上の9枚の3.5インチ・ディスケットは、MSDOS 導入用です(何と!9枚もあります)。Winndows初期のVer.1.0~3.1までの OS は、物持ちの良い私でも流石に捨てていたようです。Windows Vista は、パソコンおたくには有名な話ですが、「余りの遅さ!」に呆れて果てて、Windows7に切り替えると同時に憎しみをこめて破壊した記憶があります。Windows8、Windows10はネット経由の導入なので記憶媒体はありません

B.ネット時代への対応;
「キューハチ」を使っていた頃のネット環境はNTTの電話回線を利用した「ISDN/Integrated Service Digital Network」が主流でした。通信速度は64kbs(kiro bit per Second)で、現在私が使用している光回線と比べると1/1500以下の速度でした。これでも文字を送るには十分でしたが、画像を送るには非常に遅く、現在の様に動画を送るのは不可能でした

その後、1990年代後半と記憶していますが、拙宅にも光回線(100mbs/Mega Bit per Second)を引くことができ、ルーター(Router/ネットワーク上の機器同士を電子的に繋ぐもの)を介して自宅内各部屋に有線LAN(Local Area Network)を張り巡らしました。2000年代に入ると、このネットワークに無線LANも2系統設置し現在に至っています。設置状況の写真とネットワーク図は下記の写真をご覧ください(写真は小さくて分かり難いと思いますが、画面をクリックすると大きく拡大させて見ることができます);

家庭内のネットワーク

上の写真の上段左には、各種ルーターが並んでいます。真ん中にある2段のラックには今は稼働していない4台のサーバーがあります。これは、所属しているスキークラブの写真や動画を配信すべく、Windows2000の OS に、ネットから無料で入手できる有名な「Apatch」というソフトで HTTP サーバー、NAME サーバー、動画配信用のサーバーなどを構築したものです。
しかし、稼働させて数ヶ月も経たないうちに外部のハッカーに乗っ取られ(私のIPアドレスから無数のメールが発信されていた!)、休止したままになっているものです。やはり、サーバーを運営するのはパソコンおたくでは無理の様です
右側のエクセルの表は、家庭内のネットワーク内の各パソコン、プリンターなどにIPアドレスを割り振った表です。尚、IPアドレスとは、ネット上に接続されているパソコンなどの機器のインターネット上の住所の様なものです。4桁の数字を4組組み合わせて表します。この部分は、またハッカーに狙われるとまずいので黒く塗りつぶしてあります

C.パソコンの更新;
パソコンを数年に一度買い替えていると、市販のパソコンは、自分の要求する性能と価格が折り合わないことが増えてきます。従って、ここ20年くらいは自分の予算に合うCPUを決め、これに対応するマザーボードを選択し、更にこれに合う電源、メモリーを見つくろって秋葉原で購入し組み立てるようにしています。また、これを入れるパソコンケースの代りに「木の板」に固定して、ハイ出来上がデス! 上の写真のサーバーのラックにもこうしたパソコンを並べ収納しています。また、現在の私の机上にあるパソコンも同じです;

現在机上で使用中のパソコン

写真右のラックの上段には Windows10の現役のパソコン、下の段には以前使用していたWindows7のパソコンが入っています。このパソコンには、暇を見て無償でネット上で提供されるている Chrome Book 用の OS を導入してみようかと考えています
Chrome Book というパソコンは、Googleが開発したOSを搭載したパソコンのことで、これから一般用のパソコンの主流になると私は考えています。何故なら、この Chrome Book はスマホとの相性が良い上に極めて安価セキュリティーの心配なし、しかも現在小学生に無償で配布されているパソコンでのシェアが50%位に達しているからです

以下は、私が購入したマザーボードのサンプルです。ご覧になると分かると思いますが、組み立ては部品類やコード類をボード上のソケットにただ差し込むだけでパソコンが自作できます;

少年時代の電波少年に戻る、いや「電気老人」か?

A.孫に触発されて!
長女の次男が小学校低学年の頃、拙宅に遊びに来て、NHKのEテレ番組「ピタゴラスイッチ」を観るのが大好きな子でした。また、自分でも自身で考えた仕掛けを作って楽しんでもいました。この遊びの延長で、夏休みの宿題の工作に「流しソーメン」の仕掛けを作るというので、ペットボトルの工作は彼の独創性に任せ、私は一度使った水を、ソーメンを流し始める高い場所に揚水する為の小さなポンプを提供しました
これは、ひょっとして私の電波少年の再来が期待できるかも、ということである時秋葉原の電気街に彼を連れてゆきました。私の期待としては、「電気工作のキットなどを欲しがるに違いない」はず!だったのですが、結局買ってあげたのはゲームソフトでした
それでも諦めきれない私は、後日、一人で?秋葉原に出かけ下の写真の様な電気工作の材料などを買い集めました(写真に写っていない太陽電池、ギア付きのモーターなども購入!)。尚、写真右端の工作用の「可変電圧・電源ユニット」は、電池を使わないで済むように私が秋葉原で部品を集めて作りました;

しかし、これらの部品で暫くは遊んでくれた?のですが、彼はゲームの延長でソフトウェアに興味を示す様になり、小学校6年生になった現在は「マインクラフト」や「スクラッチ」など初心者向けのモジュール・プログラム(専門家の息子に聞くとこれからのプログラミングの主流になるかも知れないとのことです)を使いこなしていますが、これをユーチューブ・チャンネルで公開するまでに成長しています。しかも、最近は「Python」というAIのプログラミングにも使われているプログラム言語も学び始めているそうで、とても私などは足元にも及びません!

B.モジュールを使った「電気工作」の目覚め!
上の写真にある「可変電圧・電源ユニット」を作る過程で、私の少年時代には考えられないような多くの部品や高機能のモジュールが、考えられない程の安価で手に入ることが分かりました。根気、記憶力、学ぶ力が無くなった老人!でもこれらの部品、モジュールを使えば自分の作りたいものが作れることが分かりました
考えてみれば、プログラムがモジュール・プログラムに移行することと同じことが、回路設計をモジュールに区分し、それを基に半導体や他の部品を集めたモジュール基板を作り、それらを組み合わせて複雑な電気・電子製品を作り上げる時代となっていることが見て取れます
日本の電気メーカーもこうしたモジュール基板を海外に委託し、最後の組立のみを国内の工場で行うというワールドワイドなサプライチェーンが作られている現状が理解できます。昨今の半導体不足で自動車産業が大幅な減産を余儀なくされている事が、何となく解るのではないでしょうか

これらの部品や高機能のモジュールが、何でも揃う店としては、秋葉原の「秋月電子」という店がお勧めです。この店には何故か高専・大学の工学部の学生らしき若者、後進国の外国人、それに私の様な昔の「電波少年」でいつも賑わっています
因みに、AMAZONに出店している秋月電子の商品リスト秋月電子ホームページの商品リスト(←会員登録をしないと見られないかも知れません)、と秋葉原店の地図をご紹介しておきます。興味がある昔の「電気少年」の方々、一度覗いて見たら如何?;

秋葉原の秋月電子・地図

C.最近の自称「電気老人?」の作品
既に、一昨年10月に投稿したブログ(カラオケ万歳!)で「一人カラオケセット_第一世代」をご紹介しました。また、昨年8月に投稿したブログ(私の巣篭もり生活)では「可変電圧・電源ユニット」と「一人カラオケセット_第二世代」をご紹介しました。しかし、「電気老人」は時間だけはタップリあるので、常に改善を心掛けております。下の写真は現在使用中の「一人カラオケセット_第三世代」となります;

一人カラオケセット_第三世代

第二世代からの変更点は、音量を調整しやすい様にアンプを交換したことと、狭い机上にも置けるように立体化したことです

拙宅では、コロナ禍の影響で息子の ZOOMミーティングが頻繁に行われています。私やワイフのZOOMミーティングは仕事ではないので、周囲の雑音は問題にならないのですが、息子のZOOMミーティングは業務なので雑音は許されません。拙宅の間取りの制約で、大型テレビのある居間の隣で業務を行っているので、彼のZOOMミーティング中はテレビのすぐ前で音を極小にして観るか、イアホンを差して観ることを余儀なくされていました
最近ふと思い出したことは、第三世代のカラオケセットで不要となったアンプはブルートゥースの入力が可能だったこと、第二世代のカラオケセットで不要になったマイクアンプが遊んでいる事でした。これらを使えばテレビを観るためのベストポジションである居間のダイニングテーブルでいつもの通り私とワイフがテレビを観ることが可能になり、同時に大型テレビでカラオケを歌う事が可能になるはずだ、という事でした。こうして1週間程前に完成したセットが以下の写真の装置です;

テレビ音声伝送装置 兼 大型テレビを使ったカラオケセット

尚、拙宅の大型テレビは出始めの頃の代物なので、テレビ側にはブルートゥースの出力はありません。従って、下の写真の様にテレビ側のイアホン出力端子にブルートゥース送信機を接続しています;

テレビの音声をリモートで聴く時は、テレビに接続したブルートゥース送信機とアンプのブルートゥース受信機ペアリングを行います。また、スピーカーは写真のテレビ音声伝送装置 の透明ボックス(百円ショップで購入)に取り付けたものを使います
カラオケとして利用する場合、テレビ音声伝送装置の写真左下のスピーカー出力端子に大型の外部スピーカー(テレビ音声伝送装置のスピーカーでは大きな音で鳴らすと音が割れてしますます!)を繋ぎ、アンプの入力モードを通常音声入力に切り替えて、マイクをマイクアンプに繋ぎます
大型テレビの Chrome Castを通じてスマホのYouTubeのカラオケ画像を送信すれば、たちまち!我が家の居間はカラオケルームに変身します
また、
大型テレビを使わないで一人淋しく?カラオケをする場合は、「テレビ音声伝送装置」のブルートゥース受信機スマホのブルートゥースとペアリングすれば、歌詞と画像はスマホ、マイクの音声とカラオケの音声は大型外部スピーカーから流すことができます

以上。お粗末でした!

 

「満州国」その”うたかたの夢”

―はじめに―

今年に入って、やや長文のブログ「日本の戦争の時代についての一考察」を纏めました(2021年2月)。その後、3月末に兄と私にとって恐らく最後となる両親の法事(父:50回忌、母:33回忌)を行うことになって、父母の遺品の数々(写真、日記類、葬儀や法事の記録、など)が整理をしないままに放置されていたことに気が付きました。既に私共第一世代は高齢化し、いつ死ぬかも分からず(既に妹は一昨年死去)、親戚関係の主役は、第二、第三世代に移りつつあります

そこで、父母の遺品の数々と私共第一世代の記憶を繋ぎ合わせ、厳しい戦争の時代を生き抜いてきた父母の生き様、及び私共第一世代を含めてお世話になってきた親戚関係を整理し、第二、第三世代に引き継ぎたいと考え、「ファミリー・ヒストリー」的な記録(ウェッブベースの記録)を残すことにしました
残念なことに私共第一世代の記憶は認知症一歩手前!まで衰えていて頼りなく、また残された古い写真も、きちんと整理していなかったツケが来て一本のヒストリーに纏めるには相当手間が掛かりました。漸く最近になって纏め作業が一段落し、今後新しいヒストリーを加えて補完すればいい所まで漕ぎつけました

この「ファミリー・ヒストリー」を纏めていくに当たって気付いたことは、父母が生きた時代の「満州国」について私自身余りにも無知であったことでした。満州国については、ブログ「日本の戦争の時代についての一考察」を纏める過程で歴史的・政治的な事実関係については理解した積りです。また、終戦直前、ソ連の大軍が宣戦布告無しに攻め込んできたため、満州在留邦人が塗炭の苦しみを味わったことは以前書いたブログ「生い立ちの記(生誕・抑留・引揚・困窮生活)」、「母方親族の戦争体験」、「麻山事件を読んで」で理解した積りです。また、我々の世代が戦後の民主教育で叩き込まれた満州国支配の犯罪性については「〝五色の虹-満州建国大学・卒業生たちの戦後”を読んで」である程度は分かった積りになっていました

しかし、私の父母・親戚は勿論、多くの日本人(軍人・軍属を除く)が、別に強制されることもなく満州を目指し、苦労をものともせずに頑張った動機は何か、また命からがら引揚げて来たにも拘わらず、何故望郷の想いで満州を語るのか、調べてみたのが以下の内容です

なかにし礼は、1999年『長崎ぶらぶら節』で直木賞を受賞した後、「週刊新潮」で家族の北満からの苦難の引揚げを書いた「赤い月」を連載し、その後の単行本は百万部の売り上げを記録しました。恐らく読者の多くは父母、親戚、あるいは自身の若い頃に満州体験があった人だと想像しています
彼は小説を書き始める前は超売れっ子の昭和歌謡の作詞家でした。彼の作詞で大ヒットした以下の曲は、失恋の歌の様に聞こえますが、この歌の「なかにし礼本人、失恋の相手は、彼が愛した「満州国」を表しているのだそうです(本人談)

*黛ジュン「恋のハレルヤ」

弘田三枝子「人形の家」

以下はこのブログを書く時に参考にした資料です;
 変容する世界の航空界・その4「日本の航空100年」 — ネット情報
 満州航空の全貌 著者:前間孝則 発行所:草思社
 満州航空最後の機長・空飛ぶ馭者 著者:下里猛 発行所:並木書房
 歴史群像シリーズ84「満州帝国」北辺に消えた〝王道楽土“の全貌 発行所:学習研究社
 偽「満州国」明信片(絵葉書)研究(中国に旅行した時に入手;中国人向けの内容
⑥ 満鉄に於ける鉄道業の展開(ネット上に掲載) 著者:林采成

-日本の領土拡張の歴史(Quick Review)-

1.日清戦争(1894年~1895年)後の下関条約では以下を獲得;
台湾および澎湖諸島の日本への割譲
遼東半島の日本への割譲 ⇒ フランス、ドイツ、ロシアの三国干渉により清に返還)
朝鮮の独立 ⇒ 朝鮮は清の冊封体制(清との君臣関係)下から脱し大韓帝国となる
④日本へ2億両の賠償金支払い(当時の日本の国家予算の3倍以上)

2.日露戦争(1904年~1905年)後のポーツマス条約では以下を獲得;
⑤日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める ⇒ 1910年朝鮮併合
⑥日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する
南樺太(北緯50度以南)の領土を日本に譲渡
東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本に譲渡
関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本に譲渡
⑩沿海州(ソ連のオホーツク海沿いの州)沿岸の漁業権を日本人に付与

3.第一次世界大戦(1914年~1918年)後のベルサイユ条約では以下を獲得;
⑪中国の山東半島のドイツが保有していた権益を入手
⑫赤道以北の南洋諸島(パラオ、マーシャル諸島、など)の委任統治
国際連盟の設置とその常任理事国としての地位

4.満州国の建国(1932年)
国王は清朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀であるものの、統治の実権は日本にあり、統治している地域は東北三省(遼寧省・吉林省・黒龍江省)と熱河省

見出しにある簡略化された地図で、上記で取得した中国に関わる領土、及び日本が実質的に統治するエリア全体が概観できます

-広大な満州国の統治-

日本が実質的に統治する広大な満州国のエリアは、当時満州人(ツングース系民族;「清」帝国を築いたのはツングース系の女真族)が多く住み、漢人にとっては謂わば「化外の地(けがいの地;国家の統治の及ばない地方)」とされており、人の往来、物流、鉱物資源の開発、などを行うためには、「治安の確保」、「インフラの整備」、「人材の確保」が緊急の課題となりました

治安の確保」については、「関東軍」が対応し、「インフラの整備」については「南満州鉄道(通称”満鉄”)」がその重大な役割を担うことになりました。また、「人材の確保」については治安の確保の他、賃金及び住環境の整備を行うことにより、満州国経済の発展につれ、日本人、朝鮮人、漢人、が大量に満州国に流入してきました

ネット情報(ウィキペディア)によれば、日露戦争後の1908年の時点で、満州の人口は1583万人でしたが、満州国建国翌年の1933年には2929万人、満州国建国後3年目には4300万人になっていました。1940年の満州国国務院の国勢調査では4223万人ですが、その内訳は以下の通りです;

民族別人口構成は(カッコ内は全人口の構成率);
満洲人(漢族+満洲族)     38,885,562人 ( 94.65%
日本人(朝鮮族131万人を含む)   2,128,582人  (  5.18%
その他外国人(白系ロシア人他)         66,783人  (  0.16%

また、主要都市の人口は(カッコ内は日本人の人口);
奉天(現在の瀋陽)                             : 1,003,716人 ( 170,580人
哈爾浜 (ハルピン)                            :     558,829人 ( 51,650人
新京(満州国の首都;現在の長春):    490,253人 (129,321人
大連                                                           :     338,872人 ( 84,794人
安東                                                           :     246,129人 ( 43,358人
営口                                                           :      176,917人   ( 8,320人
吉林                                                           :      145,035人(  17,941人
斉斉哈爾 (チチハル)                          :    118,708人  ( 14,290人

この広大なエリアを統治するに当たって、治安は関東軍が担当し、陸上輸送及びインフラ構築、整備、文化、機密任務を担ったのは南満州鉄道株式会社(通称満鉄)、航空輸送及びその他の機密任務を担ったのは私の父が入社した満州航空株式会社(通称満航)でした

-満州国に於ける関東軍の歴史(Quick Rview)-

日露戦争後のポーツマス条約でロシア帝国から獲得した租借地、関東州と南満州鉄道の付属地の守備をしていた関東都督府陸軍部(1906年設置)が関東軍の前身です。第一次世界大戦後(1919年)、関東都督府が関東庁に改組されると同時に、台湾軍・朝鮮軍・支那駐屯軍などと同じ権限を持った関東軍として独立し、司令部を関東州の旅順市に設置しました関東軍の当初の編制は独立守備隊6個大隊(約6千人か)を指揮下に置き、此れとは別に日本内地から2年交代で派遣される駐剳(ちゅうさつ:官吏や軍人が「駐留」すること)1個師団(約2万5千人位)もその指揮下に置いていました

1931年、関東軍の石原莞爾作戦課長らは柳条湖事件を起こして軍閥の張学良の勢力を満州から駆逐し、翌1932年、満州国を建国しました
また、関東軍司令官は駐満州国大使を兼任するとともに、満州国軍と共に満州国防衛の任に当たり、一連の満蒙国境紛争に当たっては多数の犠牲を払いながら、満州国の主張する国境線を守備する任務を遂行していました
1934年、関東軍司令部は満州国の首都新京(長春)に移りました

ソ連との国境紛争を通じてソ連軍の脅威が認識されたことや、ヨーロッパ戦線の推移などにより関東軍は漸次増強され、1936年には、関東軍の編制は4個師団及び独立守備隊5個大隊となっています。1937年の日中戦争勃発後は、続々と中国本土にもその兵力を投入しました。
また、1939年5月~9月、満州国とモンゴルとの国境線をめぐって日本とソ連の間で大規模な戦争(ノモンハン事件;両国合わせて数万人の死傷者が出ました)が発生しました

ノモンハン事件現場

こうした事から、太平洋戦争が始まる1941年には14個師団にまで増強されました。また、日本陸軍は同年勃発した独ソ戦にあわせて関東軍特種演習と称した準戦時動員を行った結果、同年から一時的に関東軍は兵力74万人以上に達しました。「精強百万関東軍」「無敵関東軍」などと言われていたのはこの時期です

太平洋戦争の戦況が悪化した1943年以降、日ソ中立条約(1941年4月締結)により、ソ連との国境に戦力を割く必要性が減少したことから、激戦が続く中国、東南アジア方面に戦力を提供していきました
1945年になると、戦力の埋め合わせとして満州在留邦人を対象に25万人の動員(所謂「根こそぎ動員」)を行い、数の上では78万人に達しましたが、これらの追加兵員は練度・士気が劣っている上に、装備も著しく貧弱であった為、前線に配置されていた兵員は犬死を余儀なくされたと言われています

1945年8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍がソ満国境を越えて侵入してきた時、参謀本部の方針により、関東軍主力は大連~新京のラインまで後退していた為、1945年8月15日の終戦を迎えた時には関東軍の多くの部隊は戦わずして武装解除となりました。ソ連軍に降伏した多くの関東軍兵士は、シベリアに抑留され過酷な労働と寒さにより多くの死者を出しています。また、「何も知らされずにソ満国境付近に残されていた開拓殖民を見捨てて逃げ出した関東軍」という汚名を着ることになりました。詳しくは私のブログ「“麻山事件”を読んで」、「母方親族の戦争体験」をご覧ください

-満州国に於ける満鉄の役割-

日露戦争終結後、ポーツマス条約で得た東清鉄道南満州支線(長春=旅順間鉄道)の運営及びその他付属事業を経営する目的で、1906年に設立された半官半民の国策会社で、正式には。南満州鉄道株式会社(以下”満鉄“)といいます

満鉄本社、ロゴ&ロゴ入り「切子」の小杯


上の写真は2015年に満鉄博物館となっていた旧満鉄本社を訪れた時の写真です。左側の写真は中国人民にとって犯罪的であったとされている満鉄を紹介している説明文です。右の写真は初代満鉄総裁である後藤新平も使用したとされる総裁室の机です

<付属事業>
満鉄は単なる鉄道事業ではなく、児玉源太郎がイギリスの東インド会社を研究させた上で献策した「日本の植民地経営を具体化していくための組織」として設計されました
従って、満鉄の付属事業は、「農産物の取扱、牧畜業」、「炭鉱開発/撫順、煙台」、「製鉄/鞍山」、「ホテル業/ヤマトホテル(大連、旅順、奉天など)」、航空会社(満州航空/後述)」、など多方面に亘っていました

撫順炭鉱・露天掘り
鞍山製鉄所、大連ヤマトホテル

また同時に、鉄道付属地の一般行政分野となる「水道、電力、ガス供給」、「土木・建築」、「教育(学校、図書館)」、「衛生(病院)」、「娯楽施設」などのインフラ整備事業も担い、徴税権も行使していました

満洲医科大学⇒中国医科大学

上の写真にある満洲医科大学の医師(教員)、看護師は、中国側から終戦後も医療・教育活動の継続を求められ満州に残りましたが、米軍の航空機で日本に帰還する機会があった時に、医学生からの自発的カンパによって航空運賃が賄われたという感動的な記録が残っており、日本人の教員と中国人の学生とは政治とは別の熱い師弟関係にあったことが窺えます

旅順・工科大学、奉天(瀋陽)高等女学校

1937年になり満洲全域が日本(満州国)の勢力下に入ると、鉄道付属地に限られた軍事・行政権は必要なくなり付属地行政の大部分は満洲国政府に移管され、大量の教員を中心とする満鉄職員は満州国に移籍しました

<満鉄調査部>
初代の満鉄総裁である後藤新平は、台湾総督府民政長官時代にも旧慣調査その国の法制および農工商経済に関する旧慣習の調査を行う事)などを行って台湾の植民地経営に活用した経験を活かし、満鉄でも創立2年目の1907年に満鉄調査部を設置しました。当時の日本が生み出した最高のシンクタンクの一つと言われています。日露戦争後、政情不安の状況にあった満州では企業活動を展開する為には不可欠な調査活動だったと考えられます。スタッフは100名前後で「旧慣調査」、「経済調査」、「ロシア調査」の他、「監査班」と「統計班」がありました。
また、インフォーマルな情報活動も、満鉄が各地に設けた満鉄公所においてさかんに行われており、ここでは日本人のみならず中国人も多く働いていました
満鉄公所とは;
満鉄が設置したインフォーマルな情報収集活動のための機関・施設であり、公式機関である領事館とは別に、非公式の折衝や秘密の情報調査活動を行っていました。以下の奉天領事館から外務大臣に出された要望書にあるように、本来こうした活動の中心になるべき外務省直轄の領事館と屡々軋轢があったことが窺えます;

奉天満鉄公所と奉天領事館から外相宛の要望書

<鉄道事業>
1907年の満鉄創業時、日本政府はむしろ石炭輸送以外に経済性はほとんど期待できないと考え、6%の配当を保証する為の補助金制度を設けていたほどでした。しか し,ロシアとの戦争が再び起こる事を想定していた為に、満鉄は営業開始とともに輸送力強化に取り組むことになりました
営業開始時,路線は大連=猛家屯/6952キロ,安奉線/296キロなど,合計 1万1508キロでしたが,その内、安奉線は軌道幅762mmの軽便鉄道であり、その他の路線も1067mmの狭軌であたため、その輸送能力が 脆弱であるばかりでなく、多くの事故が発生していました

そのため標準軌/1435mm(新幹線と同じ軌道幅)へ改修し、大連=長安(新京)路線を複線化するという日本政府の決定に従 っ て、1907 年5月に安奉線を除いた本線および支線の拡軌工事に着手し、応急措置として在来の狭軌の外側に一本、あるいは二本のレールを追加した狭軌・広軌併用運転法行って列車運転を休止させること無く、1908年5月に全線で標準軌の列車運行を開通をさせました
一方、安奉線については清国政府との交渉が まとまらなかった(日露戦争時に軍需輸送に使われていた)ため着工が遅れましたが、日本政府の決定によって、1909年から工事が始められ、1911年11月に完成しました
この標準軌化工事によって既存の車両は利用不可能となり、標準軌車両を米国より大量に購入しました(機関車/205両、客車/95 両、貨車/2190 両)
その後車両を増やし、1926年には、機関車/428 両、客 車/440 両、貨車/6811 両に達しました。また、交通量の多い幹線は、複線化工事を行い、満州国建国後2年目の1934年には全線の複線化工事を完了させました

輸送量については、1907年の旅客輸送量/226百万人キロ、貨物輸送量/397百万トンキロから年々増加し、世界大恐慌の影響で一時低下したものの、1939年には旅客輸送量/3013百万人キロ(13.3倍)、貨物輸送量/9344 百万 トンキロ(27.7倍)に達していました
大きな伸びを見せた貨物輸送の主役は石炭と大豆三品(大豆、大豆油、豆粕)でした。
一方,旅客輸送においては、車両の居住性改善、速度向上などを通じて旅客サービス向上を行い旅客需要の掘り起こしを行っています。例えば大連=新京(長春)線の急行列車の 場合、1924 年に13時間運転を実施、1926年には12時間30 分、1930年11時間30 分、1933年10時間30分へと時間短縮 を行 い、1934年11月には急行列車のほかに超高速の流線型の特急列車「アジア号」を使って8 時間30分/平均時速82.5キロ)の運航を開始しました。同じ時期に釜 山=奉天間の急行列車「ひかり号」を新京(長春)に まで 延 長 運転 しました(参考動画:満鉄特急・アジア号

また、生産性向上の諸施策(車両整備日数の短縮、整備士の技量向上、整備設備の改善、など)を行うと共に、路線運営の効率化を行った結果、満鉄社線の労働生産性、及び資本生産性は朝鮮国鉄、日本国鉄よりも高くなりました

1933年2月には、それまでの満鉄線(下記路線図の赤色の路線)の他に、満州国政府より同国国有鉄道の路線(下記路線図の青色の路線)運営と新線建設が満鉄に委託され、更に同年9月から朝鮮総督府の北鮮線(下記路線図の緑色の路線)が満鉄に委託されました
尚、1935年3月23日に満州国とソ連との間で締結された「北満鉄道讓渡協定」によって、満州国とソ連の共同経営であった北満鉄道を満州国が買収し、この路線(下記路線図の青色の路線の内「ハルビン=満洲里」、「ハルビン=綏芬河」、「ハルビン=新京」も満鉄に移管されました

満州国の鉄道路線

一方で、鉄道網が全満洲に拡大された為、鉄道の生産性は一気に低下し、収益性も悪化しました。生産性の低い路線を多く抱えることになったためやむを得ないとも言えます

-満州国に於けるの満航役割-

<航空輸送の曙>
第一次世界大戦において、欧州戦線では航空機による偵察、爆撃が作戦上重要な位置を占めることが分かってきました。そこで、1919年、日本の陸軍、海軍は、それぞれ当時の航空先進国であったフランス及びイギリスの指導を受けて、航空機の装備を整え始めました

一方、民間による航空輸送についても;
①1922年11月、「日本航空輸送研究所」が大阪=徳島、大阪=高松路線で、水上機(伊藤式カーティス飛行艇)による定期輸送を開始
②1923年1月、朝日新聞社による「東西定期航空会」が東京=大阪路線で、陸上機(中島5型)による定期輸送を開始③1923年4月、「日本航空株式会社後の日本航空とは別)」が大阪=別府路線で、水上機(川西式水上機)による定期輸送を開始

これらの三社は、軍用機の払い下げ、軍の現役操縦者の割愛を得て次第に路線を伸ばしていきますが、規模も小さく、海外(中国)路線への進出も叶わなかった為、各社は累積赤字を積み上げていく状況となり、航空局は各社に奨励金を出して支援を行っていました
一方、民間航空輸送の安全性確保について最も重要な航空法については、1921年4月帝国議会の承認を経て公布されました。これによって、軍用航空と民間航空とが法規上からも完全に分離されることになりました。また、1922年6月には、国際航空条約が帝国議会で批准されました。しかし、日本に於ける航空輸送は未だ開始されたばかりで未発達であった為、航空法が実際に施行されたのは、1927年6月になってからでした

航空局が最も重視した政策は安全運航の要となる乗員の養成でした。当時の民間養成機関の実情は極めて貧弱であったので、航空局は毎年民間人70人~150人の志願者から10人前後を選抜し、それぞれ半数ずつを陸海軍に委託して10ヶ月間程度の操縦教育を受けさせて養成していく方式をとりました。その養成者数は1920年から28年までの9年間で86人に達し、定期航空輸送の中堅乗員層を形成していくことになりました。同様の方法で航空機関士の養成も行われれました(私の父はこの航空局委託航空機関士養成課程の4期生として卒業し満州航空に就職しました

<日本航空輸送株式会社の設立>
定期航空輸送を開始していた民間三社は、どれも小規模企業で将来的な発展が見いだせない状況であった為、政府は国策の航空会社設立の方針を決め、1927年8月「航空輸送会社設立準備調査委員会」を設け、委員会会長に渋沢栄一子爵副会長に井上準之助を充て、9月航空輸送会社設立について諮問しました。同年11月、委員会は以下の答申を行いました;
「航空輸送会社企業目論見ニ関スル件:右企業目論見ハ適当ナリト認ム。但シ航空輸送会社ノ設立ハ我国創始ノ事柄ニ属スルヲ以テ其ノ営業収入及ビ支出計算ハ共ニ多少未知ノ事実ニ基ケル点アルハ己ムヲ得ザル所ナリ依テ会社ノ事業開始後ノ
営業実績ニ徴シ到底予期ノ業績ヲ挙グルコト困難ナルニ於テハ政府ハ会社ノ維持ニ付相当考慮ヲ払フ要アルモノト認ム

渋沢栄一と伊藤準之助

1928年4月の臨時帝国議会で、航空輸送補助金1,997万円の予算が可決され、同年7月航空輸送を運営する会社の発起人総会が開かれ、渋沢栄一子爵を委員長に創立準備に着手しました
公開株式公募には応募数が140倍あったというこの人気は、発起人が渋沢栄一を始めとする当時わが国一流の実業家を網羅したこと加え、当時の国民の大きな期待がみてとれます。これを受けて、1928年10月、完全独占運航の民間商業航空会社「日本航空輸送株式会社以下日本航空輸送と略称)」が設立されました

日本航空輸送の活動は始まったものの、需要はごく低く、まもなく同社は非常な経営難に陥り、総収入の9割を政府からの補助金に頼る経営内容に傾いていきました
しかし日華事変の後、1932年に満州国が成立して以降、環境が激変し、内地-大陸間の輸送需要が急増して運航回数が急激に増大し、路線も東京あるいは福岡から新京、青島、北京、上海、台北、広東などへ新路線が開設されていきました。これら路線の実態は軍用便であったものの、余席がある場合には一般民間貨客の輸送が許されました。軍は一般利用者分を除く全運航経費を支払ったので、その運航形態は日本航空輸送会社にとって甚だ有利であり、経営内容は次第に好転して行きました。また、満州国における路線運営を一元的に運営する方が効率的であることから、同年9月「満州航空株式会社」が設立されました

<満州航空株式会社>
設立時の会社概要;
社名:
満州航空株式会社(通称「満航」)
資本金:385万円満州国:100万円/満鉄/250万円/住友合資会社/35万円)
本社所在地 :満州国奉天市

満州航空本社@奉天(瀋陽)と会社ロゴ

*創立時の従業員数は、日本航空輸送からの転入が55人、新規採用が20人でした。操縦士は8人でしたが、内7人は日本航空輸送からの移籍でした。創立から9ヶ月後の1933年6月末時点で411名(満州人も含む)に増加し、操縦士・機関士は43名、また軍籍にある将校は30名でした(因みに私の父は、1933年10月、23歳でこの満航に入社しています
尚、円形の会社ロゴは満州国の国旗で使われている5色の色と同じで「五族協和」を表しており、五族とは「日本人、朝鮮人、満州人、蒙古人、漢人」を意味します;

業務内容;
① 旅客、貨物定期輸送、郵便輸送
② 軍事定期輸送
③ チャーター便の運航
④ 航空機整備
⑤  測量・調査(空中写真、測図、資源調査)
航空機製造(航空工廠)
*1938年6月、⑥の製造部門は、日本政府の監督下にあった「満洲重工業開発株式会社」の命令により、「満州飛行機製造株式会社として独立しました。主力工場はハルビン(哈尔滨)にありました。この会社は1941年~1945年にかけて、2196機の機体の生産(うち798機は戦闘機)と、2,168基の航空機用エンジンも生産しました。また、満洲国軍飛行隊日本帝国陸軍飛行戦隊様々な航空機の修理事業も行っていました

路線運営;
1936年末時点の定期航路の総延長は 9千キロで、政治経済の中心地はほとんど網羅していました;

満州航空の定期航路

尚、満州航空は、新京(長春)とベルリンを結ぶ長距離定期航空路線開設の為系列会社として「国際航空株式会社」を設立しましたが、その後1938年に日本航空輸送と合併し、新社名は大日本航空株式会社となりました

使用航空機;
① MT-1 ( 満州航空の工場で開発、製造を行なった旅客機)
② 三菱 MC-20
③ 中島飛行機 AT-2④ ユンカース Ju86、ユンカース Ju160
⑤ ハインケル He116
⑥ メッサーシュミット Bf108B 「タイフーン」⑦ フォッカー スーパーユニバーサル(ライセンス生産も実施)
⑧ デ・ハビランド・プスモス
⑨ ロッキード・スーパーエレクトラ
民間航空にしては多種多様な航空機を運用していることに驚きますが、上述した業務内容が極めて多岐にわたっていることと、航空機の名称からも分かると思いますが、航空機の先進国である米国、英国、ドイツから輸入、乃至ライセンス生産していることから、技術を学ぶ目的も大きかったと推測できます

因みに下の写真は、1936年、入社3年目の父が、奉天航空工廠発動機試運転場において「(ことぶき)」第334号の600時間耐久運転時に撮影されたものです;

」というエンジンは、中島航空機が1929年に開発を開始し、1931年に「寿一型」として正式採用され、その後発展型が順次開発されました。このエンジンは満航で使われていた「フォッカー・スーパーユニバーサル」に装着され、その後の発展型は「九六式艦上戦闘機」、「九七式戦闘機」、などに装着されています
この時、父は信頼性向上の為の研究、改修を行っていたことが亡くなった折の友人の弔辞に書かれてありました。当時、航空機の開発は急速なピッチで進められており、マニュアルなどの準備が整わない中で、信頼性向上の為の研究、改修は現場の技術者の努力に負う事が大きかったと言われています

-渡満した日本人が何故満州を愛してやまないのかについて-

関東軍は軍隊であり、本人の好むと好まざるとに関わらず任地の移動を繰り返しているので、恐らく終戦直前のソ連軍の進入以前は、満州は比較的楽な任地である程度の認識であったと思われます
ここでは、自らの意思で満州に渡った人々の心の内に分け入ってみたいと思います

1.何故満州を目指したか?
 一般に日本人にとって、当時の満州は「馬賊騎馬の機動力を生かして荒し回る賊で清末から満洲周辺で活動していた)や匪賊非正規武装集団)が跋扈する無法地帯」と言われていました。丁度、アメリカに於ける「西部開拓時代」の状況に似ていると言ってもいいかもしれません

アメリカの様に金鉱発見の様な華々しいきっかけはありませんでしたが、渡満を決心する際にお金に纏わる動機はあったと思います。 1929年米国に始まった世界恐慌で、日本の産業は大打撃を受け、日本国内には当時経済的に困窮する人々が多かったことは間違いありません
一方、満州には埋蔵豊富な資源(石炭、鉄鋼)があり、日本政府が満鉄を通じて満州にインフラ整備のための莫大な投資を継続的に行っていました( ← 「鉄道敷設、鉄道関連土木工事」、「炭鉱開発」、「鉄鉱石採掘、製鉄業」、「多くの拠点都市の街づくり」、「病院建設」、「学校建設」、他。この結果、満州には大きな雇用の機会が存在していました

 ② 満州は日本人の力で「五族協和」を実現し「王道楽土」にするんだという理想が当時確かに存在していました
馬賊匪賊が跋扈する未開の地に、法の秩序を齎し(警察官)、無学の人々に教育を施し(教員)、疫病の蔓延する地に近代医療の恩恵を与え(医師)、鉄道や航空機による人流、物流の革命を起こす(満鉄職員、満航職員)、荒蕪地を豊かな農地に変える(開拓農民)、などを志し理想に燃えて渡満した人も少なからず居たことは確かだと思います
*母の長兄は訓導(現在の教諭)として1931年に満州に赴任し、引揚まで各地(奉天、遼陽、連山関、本渓湖)の学校で教鞭を取っていました
*当時の満州は衛生状態が非常に悪く疫病に罹る人が多かったと言われています。私の姉も赤痢に罹って4歳で亡くなりました

これらのポスターは政府主導で満州への日本人移民を促すために作られたことは確かですが、「五族協和」、「王道楽土」という言葉は日本人の考え付いたものではなく、以下の様な中国の歴史に由来する言葉です;
五族協和」というスローガンは、1911年の辛亥革命の後「中華民国」が建国されましたが、この革命を主導した孫文が臨時大統領となった時に掲げたスローガンを真似ています。この時の「五族」は、「漢族、満洲族、蒙古族、回族(ウイグル族などのイスラム系民族)、チベット(西蔵)族」を意味しましたが、満州国での五族とは前述の通り「日本人、朝鮮人、満州人、蒙古人、漢人」を意味します

王道楽土」という言葉の「王道」とは、儒教に基づく政治思想で、中国古代の「周公(周王朝を創始した武王の弟)」が行った理想の道徳政治を意味します。これに対する反対概念は「覇道はどう)」ですが、これは春秋時代の覇者の行なった武力による権力政治のことを意味しています。満州に於いて日本は「覇道」ではなく「王道」を行って「楽土」を築こうという意味になり、中国人にも分かり易いスローガンになっていたと考えられます

③  満州国建国後、満州国国民の国民所得は急速に向上し、満州で働いていた人々の経済的充足感大きく、日本人のみならず、漢人の大量の流入に繋がったものと思われます(前述の「人口の推移参照」);満州国の国民所得の推移_山本有造(京都大学人文科学研究所)

④  「民族協和」は一般市民の間ではある程度受け入れられていたと考えられます。満州国に於ける民族構成で90%以上を占める中国人(漢人+満州人)と日本人との関係は、確かに支配される側と支配する側であり、相応の緊張関係はあったと思われます(特に高学歴の中国人:詳しく知りたい方は、私のブログ「五色の虹-満州建国大学・卒業生たちの戦後」を読んで」を参照してみてください)
しかし、日本人が遠い昔から中国の文化の影響を受けていたことは、日本人なら誰でも知っていることでしたし、また当時の教養人は学校教育で漢文を勉強し、漢詩に通じていた人も少なからずいましたので、中国人を見下したり、侮辱したりする人は無学の人に限られていたと考えられます
終戦後の引揚の厳しい状況下で中国人に引き取られた日本人残留孤児の総数は、厚生労働省の記録によれば約2800人と言われており、満州に於いて日本人に対する中国人の善意は、間違いなく存在していたと考えられます

2.苦難の引揚げ経験を経て、なお満州への愛が変わらないのは何故か?
なかにし礼氏に限らず、私の周りにも満州時代を懐かしむ人が多く存在します。そうした人々との思い出話や、写真、などから判断すると満州への愛を育んだものは以下の様なものと考えられます;
① 満州の新しい国づくり、街づくりに参加した人々にとって、欧米先進国に引けを取らない立派なインフラを作り上げたという誇り

新しい理想の国造りをする必要があった為、日本に居ては経験する機会の少ない「挑戦的な仕事」に恵まれたこと。また、あの広大な満州に行った日本人はたった2百万人程度だったので、多くの中国人を使って「大きな仕事をする機会に恵まれたこと

③ 狭い日本では経験のできない雄大な景色に対する郷愁

④ 多くの異民族に囲まれた環境下での、少数の日本人社会に於ける濃密な人間関係
因みに、私の父が所属した満航(本社は奉天)には、1938年に兄弟会社として生まれた「満州飛行機製造株式会社(主力工場はハルビン/哈尔滨)がありましたが、この二つの会社の人間関係は非常に濃密で、戦後7年を経て日本に幾つかの航空会社が立ち上がりましたが、「満航会」と称して年に一度多くの人が会社の枠を越えて集まり旧交を温めていました。父が亡くなった後、母を連れて私も参加していました
恐らく大所帯の、満鉄の関係者の人間関係も戦後の国鉄私鉄に引き継がれていったのではないでしょうか

―あとがき-

私は1994年から2年半ほど台湾に駐在していました。この時に、台湾人との交流で得た印象は、彼らは極めて親日的であるという事でした。私の上司であった人は世界各地での駐在の経験がありましたが、台湾ほど日本人がリラックスして生活できる国はないと言っておりました
当時、2千2百万人と言われていた台湾人の構成は、主として隣接する福建省から入植してきた中国人(大半が漢人)と、南方から入ってきた少数民族大まかにいって9種類の民族があり、最大の民族「阿美族」でも人口は約20万人でした)に加え、外省人と言われていた蒋介石率いる中華民国軍1949年12月、国共内戦に敗れて台湾に逃れてきた軍人、軍属が多数を占めていましたの子孫が約2百万人居ました
外省人は、台湾に侵入してきてから「大陸反攻」を行う為に全土に戒厳令を布くと共に、反共的で反日的な教育を徹底していましたが、外省人以外の台湾人は、恐らく日本統治時代を生きた親からの昔語り日本の統治は終戦まで約50年間続き、台湾に近代的インフラを整備し、教育制度も充実していた)や、支配層を独占し強圧的な政治を行っていた外省人への反発から親日的であったのだと思われます

一方、満州国は儚くも凡そ13年間で終焉を迎えました。しかしその統治の間に築かれたインフラは、今回写真類を転載した参考資料「偽「満州国」明信片絵葉書研究(私が中国に旅行した時に購入)」を見ると台湾にも増して素晴らしいものがあり、中には現在の中国でもは使われている建物もあり吃驚します;

しかし、表紙だけでなく絵葉書のタイトルにも全て「(偽の簡体字)」の字が接頭語!で付加されています
色々な解釈もあると思いますが、台湾同様、当時の満州国の統治は悪くなかったと思う中国人(4千万人近くいました)が少なからず存在するのではないか? それが故に、満州国の統治の間に作られたものは全て「」を付け、日本による犯罪的な統治を強調しているのではないか? と私は感じました

偶々、このブログを完成する直前に「日本語版NewsWeek」に以下の様な記事が載っていました。著者は、現在の中国「内蒙古自治区」のモンゴル人の知識人(静岡大学教授)です;

現在の中国が、孫文が掲げた「五属協和」の精神を踏みにじり、チベット人、モンゴル人、ウィグル人の人権侵害を引き起こしています。今の中国は、古色蒼然たる漢民族による「中華思想」の時代に戻ろうとしているのではないか、、、GDPの規模で世界第二の大国となり、軍事力でも米国に肉薄する軍事国家となった中国が、この様な時代錯誤の認識を基に、世界の各地で軋轢を起こしているのは心配でなりません

以上

私の巣篭もり生活!

はじめに

今年4月7日に新型コロナ(CIVID-19)蔓延に伴い緊急事態宣言が発令されてから既に4ヶ月以上が経過しました。緊急事態宣言自体は5月25日には全面解除されましたが、依然として新たな罹患者が毎日相当数発生しており、我々の様な高齢者は、自らの命を危険にさらすことになる外出を極力控える毎日がつづいていいます。
自宅での謂わば“巣篭もり”の生活を続けることは誰にとってもストレスの多いことですが、芸能人たちがインスタグラムなどで巣篭もりの日常を晒すことによって自身のストレス解消を行っていることを真似て、私自身も恥ずかしながら“巣篭もり”生活の日常を晒してみようかと思い立ちました
ご参考になるかどうかは分かりませんが、以下のようかことをやって毎日をそれなりに楽しく過ごしています。ただ、大変マニアックな話が多いので、興味のない方は読み飛ばしてください

私の平均的な生活パターン

歳を取ってからは、生活のリズムが狂うと体調を崩すことが多くなってきました(⇔免疫力の低下?)ので、最近は以下の様な規則正しい生活を心掛けています;
① 食事を採る時刻をできるだけ一定にする(朝食/8時前後、昼食/13時~14時、夕食/20時前後)
② 食事の量、飲酒の量をできるだけ控えめ?にする(飲酒は夕食時及び夕食後)
③ 毎日の睡眠時間をできるだけ一定にする(夜/7時間程度、昼寝/昼食後15分~30分)。尚、熱帯夜が続く昨今、夜の睡眠を良質なものにする為に寝室の温度設定を24℃以下にし、布団をかけて寝るようにしています

④ 屋上菜園での作業:午前中/1~2時間、夕方/30分~1時間
⑤ 新聞、ネットニュースなどによる情報収集:1時間~2時間
⑥ 読書、ブログ制作作業:1時間~2時間
⑦ 趣味の電気工作?、家具などの修理:1時間~2時間

⑧ 週に一回程度都心に出て「本屋めぐり」などを行い8,000歩程度の運動量を確保(往復の交通手段を含めて“三密”の状況は回避)する。この日以外は平均2,000歩前後(プラス屋上菜園での力仕事など)。⇒ スキーシーズン前にはこれに加え筋トレを適宜実施する希望的!予定があります
⑨ 月に一回以上ZOOMを使ったリモート飲み会を実施しています。この時ばかりは「② で述べた程々の酒量」を超えて飲んでしまうこともありますが、全く友人と会えない「巣篭もり状態」が続くなか、暖かいコミュニケーションが可能になっています

新聞・雑誌、ネットニュースなどからの情報収集

ただ漫然と行うのではなく、現役時代同様に得られた情報はパソコン内に収納し、ブログの制作や自身の考え方を纏める時に使えるようにしています。具体的には、冒頭の画像(ウィンドウズ・エクスプローラーの画像)にあるように、収納する情報は階層状にしたフォルダーで管理するとともに、情報量の変化、情報の多様化などに対応するため、適宜フォルダーの種類、階層構造の変更などを行っています。因みに、6月25日に発行したブログ(COVID-19と日本の近未来)は冒頭の画像の右半分(疫病のリスク)に整理されている情報に基づき纏めたものです

こうした情報のデータベースは、かなり長い期間に亘って毎日集めてきたものなので、私にとっては非常に大切なものです。しかし、今年2月末この情報が入っているハード・ディスクが突然壊れ冷や汗をかきました。幸い1月初めまでの情報はバックアップを取ってありましたので、蓄積した情報の喪失は僅かだったので胸を撫で下ろしました。以降、1週間に一度はバックアップを取るようにしています

因みに、現在冒頭の画像に収められている情報量は以下の通りです;
*ファイルサイズ:108ギガバイト
*ファイルの数 :55,932
*フォルダーの数:5,072

読書の仕方

歳を取ってから読書を長時間続けると目が疲れますので、週一回本屋を渉猟するなかで興味を覚えた本や、新聞・雑誌で紹介され興味を覚えた本(主としてアマゾンの通信販売で購入)が中心になりますので、読書量は自慢できるほど多くはありません。60歳を過ぎたころから歴史好きになり、結果として最近は50%位は歴史関連の本になっています
ただ、偶々今年3月24日に封切された「三島由紀夫vs東大全共闘」という映画を観た結果、俄かに!三島由紀夫の思想、人生に興味を抱き非常事態宣言中は以下の本を丹念に読む機会がありました;

読了した三島由紀夫作品

また、これらの本を読んだ結果、「特攻」を志願し生き残った人や、少年時代に戦争を実体験している知識人の「生死」に関する考え方を知りたくなり以下の本も続けて読みました;

「生と死」関連

上記の本は全て「生・老・死」の問題が主要なテーマになっていますが、勿論結論などは得られていません。いずれこうした問題に関する自身の考えが煮詰まってきたら死に関する私のブログ二編(“死”について“死”について_その2)の続編を書いてみたいと思います

私の本の読み方は、読書中にやたら赤線を引き、心に刺さった文章のあるページには全て付箋を付けますので、BOOK OFF ではタダでも引き取ってくれない本になってしまいます。しかし、近頃若者の読書離れが進んで困っている出版社や本屋には歓迎されるかもしれませんね!

趣味の電気工作?

高校時代まで私は「電気少年!」だったので、時折秋葉原周辺の店(勿論、フィギュアの店、メイド喫茶、などは間違っても入りません!)を覗いて廻ります。最近は昔ながらのパーツを売る店は少なくなったものの、電気少年が買いたくなるような製作キットを売る店が幾つか残っています。最近そこで衝動的に買ったのが可変出力スイッチング電源(0.8~24ボルト)キットです。
この電源キットは、最近拙宅によく来る孫の一人がLEDのライトを使って何か作ってみたいと言っていたのを思い出し、実験用のボードと併せて買ったものです;

自作の可変電源と電子回路テスト・ボード

確かデジタル電圧電流計を合わせて買っても2千円程度だったと記憶しています。私の少年時代にはこのレベルの電源を自作するのは、金額的にも、性能的にも、製作時間から言ってもかなり決心がいる買い物になっていたと思います
尚、件の孫は夏休みの宿題の工作で「LEDライトを使ったプラネタリウム」を作って私を喜ばせてくれました!

昨年10月22日にカラオケ万歳!というブログを投稿しました。ここで「一人カラオケセット」を自宅の机の前にセットして楽しんでいると紹介しました。しかし、このコロナ禍の中で老人のカラオケはクラスターの元凶(全国でクラスター発生、明るみに出た「昼カラオケ」の実態)と非難され、私のカラオケ仲間はもう何ヶ月も唄えないと嘆いておりました
そんな折も折、アマゾンの通販で電子回路のキットの値段をチェックする機会があり(6月にZOOMを開始する前、私の自作パソコンにはカメラ・マイクが装備されていないので格安のパーツ探していた!)、驚くほど安いものがあることを発見しました。近年、国産、外国製を問わず色々な電気製品が驚くほど安くなっている原因がここにあると納得した次第です。これらはいずれも中国製です。信頼性についてはあまり期待できないと思われますが、ともかく安いので、これを使ってカラオケ仲間数人で楽しめるカラオケセットを試作してみよう、と思い立ち作り上げたのが下の写真のアンプです;

自作のアンプ

残響ボード(所謂マイクにエコーをかける装置)の値段は何と!1,256円

残響ボード

ヘッドホン・アンプの値段は何と!2,205円

ヘッドホンアンプ

50Wx50Wのステレオアンプは何と!1,598円

50Wx2 デジタルアンプ

これらに、壊れて廃棄した電化製品やパソコン類から取り外し保管していた(全く貧乏性ですね!)古い電源を取り付け1セットのカラオケ・アンプにしてみました

更に、機能を充実させる為に、Hard Off という近頃流行っている中古屋で、バンド活動ではなくてはならないミキサーの中古品を5千円ほどで買い揃えました;

Mixer

これは新品でも1万円程度で購入できますので、恐らく始めたばかりの学生のバンド活動で使われていたのではないでしょうか
いずれにしても、これらのセットに、パソコン、またはスマホで 、YouTubeで公開されているカラオケのソース音源を入力することでカラオケを楽しむことが出来ます
大人数でやる時にはスピーカーを繋ぎ、周りに迷惑が掛かる環境下ではヘッドホン(4台まで接続可能)を繋いでカラオケボックスでの臨場感を味わうことが可能です。既にテスト済みですが、近い内に機会を見つけてカラオケ仲間と楽しんでみたいと思っています

以上

COVID-19と日本の近未来

はじめに

言わずもがなですが COVID-19 とは現在も終息していない「新型コロナウィルス」を指す医学用語(Coronavirus Disease 2019/2019年に確認されたコロナウィルスによる病気)です。この疫病が昨年末に中国の武漢で発生したことが伝えられてから半年しかたっていない現在、ほぼ全世界に蔓延し多くの死者を出している(ref:COVID-19_世界の感染者数)と同時に、世界中の経済が2008年に起きたリーマン・ショックを遥かに超える大きなダメージを受けています

参考:現在の日本の感染状況統計

COVID-19の走査型電子顕微鏡写真
COVID-19の走査型電子顕微鏡写真

内外のメディアに載った有識者の意見を総合すると、このコロナ禍によって世界規模の「パラダイムシフト」が起こると予言している人が多かった様に思います。パラダイムシフトという用語は、政治、経済史などでよく使われるものですが、一般に「ある時代・集団を支配する考え方が、非連続且つ劇的に変化し、社会の規範や価値観が大きく変わること」とされています。「ペスト」という疫病が、欧州の歴史におけるパラダイムシフトのきっかけとなったことは良く知られています

また「ウォール街大暴落(1929年10月24日/“暗黒の木曜日”)」も、これが世界中を巻き込む大恐慌に発展し、自由放任の資本主義に修正が加えられるとともに、その後の第二次世界大戦の誘因になったことから考えてパラダイムシフトのきっかけとなったと言えると思います

今回の COVID-19 の蔓延によって、ここ数ヶ月の世界の混乱ぶりを見るにつけ、私も昨年までの政治の仕組みや経済の常識が通用しなくなっていることは確かだと思います
特に日本においては、戦後世界に冠たる高度経済成長を成し遂げたことによる「自信過剰」からと思われますが、旧態依然たる行政の仕組み社会の仕組み人々の考え方、などが先進国としては稀なほどに温存されてきた結果、COVID-19 の蔓延を機に一気にその後進性が露呈され、パラダイムシフトと言えるほどの大変革が起こるのではないかと思われます

以下は、新聞・雑誌、その他のニュース・メディアの記事を拾い集めたものを集約したものが大半ですが、一部私自身の考え方も加えています(青字で表示)。当たらずとも遠からずになっていれば幸いです

サプライチェーンの構造改革

鄧小平改革以降中国は、共産主義の体制(強権的な政治・経済の運営)は維持したまま経済の門戸を開くとともに、各種製造業を急速に発展させるため外国資本の導入を積極的に進めてきました(ただ、最新技術の中国への移転強要外国資本の統制も併せて行ってきました)。その結果、近年多くの先進国の最終製品に組み込まれる中間部品の製造や日用品(生活必需品を含む)の製造に関して「サプライチェーンの要としての役割」を果たすようになっていました
勿論、国際競争に晒されている多くの日本企業も、コストを極限まで圧縮する為に最終製品の在庫を極限まで減らすことが一般的となり、中国における製造ラインの停止は即最終製品の出荷停止に繋がることになりました。また、軽量で高価な部品、製品については航空輸送による輸送時間の短縮も行っている為、航空旅客便の大量減便(通常考えられるより旅客便による貨物輸送のシェアが高い)がサプライチェーンの瞬時の断絶招くこととなりました

特に今回のコロナ禍にあっては、医療品のサプライチェーンが寸断されたため医療現場での混乱のみならず、政府が一般国民にマスク着用を強く要請しながらマスクが市場から消えるという笑い話のような事態を招くこととなりました
因みに、5月12日の日経新聞に載った日本における医療品の海外依存度は、以下の表の様になっています。これではパンデミック発生の際に国民の命を守るためのあらゆる活動のアキレス腱になることは必定です。
拙宅でもマスクの調達が叶わず途方にくれましたが、若い頃洋裁を習っていたワイフが急遽ネット情報をみてマスクの制作を行い事なきを得ました(現在も快適に使用中!)

国内で流通する衣料品の海外依存度

1~2月の段階では、武漢のコロナ蔓延に対して、中国に進出している日本の企業などは無料で中国にマスクを送っていました。因みに、日本の中国語検定の事務局はマスク2万枚と体温計を感染者が急増する武漢へ支援物資として送りましたが、その箱には山川異域、風月同天」と書かれていました。その意味は「地域や国が異なっても、風月の営みは同じ空の下でつながっているという意味で、元は天武天皇の孫である長屋王が中国へ伝えた詩の一節です。勿論、中国のSNSでも話題になり、日中親善の役割を果たしていました

ところが、日本に於いてコロナが急速に蔓延した4月以降は、日本の医療品供給は急速に逼迫し、特に最前線の医療現場では枯渇する寸前の状態まで追い詰められ(特に代替のきかないN95マスク/患者に触れなければならない医師、看護師の必需品)医療従事者が危険にさらされる事態になりました。また一般用のマスクは店頭からほぼ消え、極めて高価な密輸品が横行することになりました(最近観たテレビのドキュメンタリーによれば、目ざとい中国の商人は、マスクなどの医療品の輸出で莫大な利益を上げていたそうです)
中国政府は、国内の蔓延が一段落した後、こうした医療品の供給を海外への援助という形で政治的に利用していました
<参考> マスク外交、世界に波紋_中国、120カ国送付 米は「買い占め」 欧州は警戒、批判強める

このコロナ禍による大混乱が一段落した後、大企業は自らサプライチェーンの大幅な組み換えを行うことは間違いの無いと考えられます。コストだけでなくパンデミックを含め各種災害に強いサプライチェーンを築くにあたって、中国以外の国への展開だけでなく、国内企業への回帰も期待したいところです。
労働集約型の事業の国内回帰は人件費負担の増加を招くことも考えられますが、これは AI(人工頭脳)やロボットの活用で乗り切ってほしいと思います。こうしたことが結果として日本の将来にとって喫緊の課題である「地方創生」、「少子化の克服」に繋がるのではないでしょうか

また、どの様な事態になっても、国民の命を守ることが国策の第一優先事項であることは当たり前のことです。今回明らかになった医療品、特に医師、看護師など最前線の医療現場で命を預かっている人たちの医療品については、国内生産基盤の確保のための補助金の交付、国家備蓄のための予算措置が必要になると思われます。また、重症患者の命に繋がる人工呼吸器やECMO(extra-corporeal membrane oxygenation/人工肺とポンプを用いて心臓や肺の代替を行うもの)についての国家備蓄が必要なことは、論を待ちません

ECMO

<参考> サプライチェ-ンとは
サプライチェーン(supply chain)とは、製造業において、原料の調達、商品の製造から販売まで全ての工程をひとつの連続したシステムとして捉える考え方で、「供給連鎖」と訳されることもあります。トヨタの合理的な生産システムである「看板方式」を研究したイスラエルの物理学者エリヤフ・ゴールドラットが、1984年に出版したビジネス書「The Goal」はこのサプライチェイン理論のさきがけとなり、現在に至るも製造業の常識になっています。ごく簡単に要約すると、製造の過程で発生する在庫を減らすことがコストを下げ、製造期間を短縮させる唯一の方法であることを述べています

Follow_Up(2020年9月8日):コロナで生産回帰 補助金競争率11倍 マスクや医薬品

Follow_Up:(2020年12月16日)ネット通販 物流陣取り合戦 Amazon埼玉、楽天は千葉

IT(インターネットを使った技術革新)化の加速

1 行政のIT化
日本が、他の先進諸国に比べてビジネスプロセスのIT化が遅れていることは、予てから国際的なビジネスを行っている人々から指摘されていました。政府は今後の経済発展を加速する為には企業だけでなく行政事務一般についてもIT化は避けて通れないとして経済産業省を中心としてこれまで多くの関連法を整備してきました(参考:IT関連法令リンク集)。この中で最も基本となる法令は、昨年末に施行された官民データ活用推進基本法です。しかし下図が示す通り、現在の5万件以上ある行政手続きの内、オンライン化されているものは2019年3月末時点でたった7.5%に過ぎません;

行政手続きのオンライン化

この実態を如実に示したものは、4月30日に成立したコロナ禍に関わる第一次補正予算で支給が決まった「特別定額給付金」(国民一人当たり10万円を支給)の事務手続きの大混乱でした。
この原因は色々あるとは思いますが、要約すれば政府は1967年に施行された住民基本台帳法に基づき世帯単位でまとめて一つの銀行口座に振り込むこととし、書類提出による申請と、マイナンバーカードによるオンラインでの申請の二本立ての申請を認めていました。しかし、いずれの申請でも自治体の中で電磁媒体による情報の交換が必要となり、結果として相当程度の人手に頼る部分が発生し事務作業が大幅に遅れてしまいました
これは、地方自治体の情報システムが、①住民記録や税、福祉などのマイナンバーカード系、②非公開文書主体の専用線系、③公開情報のインターネット系3本建ての独立した運用になっている(2015年に起こった年金情報漏洩事件が契機)ことと関係があります。例えばオンライン申請では、②の端末、児童手当の処理は①の端末を使うことになっており、システム同士の情報のやりとりは、基本的に電磁媒体を使って行うルールになっていたからです
自治体によってはオンライン申請のデータを印刷し職員が目視で確認する作業が必要になったところもありました。6月17日時点で全国84の自治体がオンライン申請の受け付けを停止しました。5月末にオンライン申請を中止した高松市の場合、オンライン申請全体の2割は電話などで確認する必要があったとのこと

米国や欧州諸国では給付金を短期間で直接国民の銀行口座に振り込んだり、中小企業向け融資も素早く実行したりと日本と比べてスピード感が目立ちました。日本では地方自治体の上記の様なシステム上の欠陥が原因で大きな支給の遅延が発生してしまいました。メディアの無責任な報道に惑わされ。役所の実務担当者の怠慢に帰するようなことがあってはならないと思います

<参考>住基カードとマイナンバーカードの違い
住基カード(2007年から発行;有効期限が10年間)とは、住民基本台帳ネットワークシステムと連動した転入出手続きが簡単にできることや、インターネット経由での電子申請に使う電子証明書を格納できるのカードです
一方、マイナンバーカード(個人番号カード;2016年から運用開始)は、世帯単位ではなく個人単位で発行され、これまでの住基カードと同等の機能を持つと同時にオンラインで納税業務などを行える機能を持っています。将来は銀行口座健康保険証などの情報も格納できるようになっています。
上記から分かる通り、住基カードはマイナンバーカードに切り替えることが前提となっており、2016年1月以降新たな住基カードは発行されていない為、現在所有している人も有効期限が切れ次第マイナンバーカードに切り替えられることになっています
マイナンバーカードは、残念なことに発行開始してから既に4年が経過しているにもかかわらず16%程度しか普及していないのが現状です

住基カードとマイナンバーカード
住基カードとマイナンバーカード

世界銀行がビジネスのしやすさを評価する事業環境ランキングの2020年版で、成長力に響く法人設立の分野で190ヶ国中106位、OECD(経済協力開発機構)加盟国37ヶ国中30位となっています。一方、エストニアでは行政手続きの99%がオンラインで完結しており、海外の起業家がネット上で会社設立を済ませられる様になっています
奇しくも今回のコロナ禍によって、白日の下に晒された日本の行政のIT化の遅れに対して、政府としてもこうした後れを早急に取り戻すべく、経済財政諮問会議で議論を始め、行政やビジネスのデジタル化を1~2年で集中的に進めるよう提言し、これを7月にまとめる経済財政運営と改革の基本方針(骨太方針)のたたき台として2021年度予算の概算要求に反映することになっています

マイナンバー制度のロードマップ

今まで行政書類のデジタル化、行政手続きのオンライン化は、「個人情報の取り扱い」、「セキュリティーの確保」、などで議論が頓挫してきた歴史を歩んでいます。一気にエストニア並みにするのは無理だと思いますが、感染症の恐怖を後ろ盾にして?今回こそは欧米先進国並みのIT化を是非実現して欲しいと思っています

*私事で恐縮ですが、先日、住民票と印鑑証明書が急遽必要になり、コンビニに行ってマイナンバーカードを使って5分ほどで入手することが出来ました。ただ、1枚印刷するのに200円も掛かりました。その中にはコンビニへの手数料、回線料、特殊な紙(不正コピーをさせない様になっている⇒電子認証ができれば紙自体が不要)の費用などが掛かっているとは思いますが、いかにも高いと思いました。今や銀行の手続きの大半も自宅のパソコンで完結するのに、どうしたもんかな~というのが私の感想です!

Follow_Up(2020年7月1日):マイナンバーカード情報、スマホに搭載
Follow_Up(2020年7月3日):規制改革会議答申
Follow_Up(2020年7月12日):定額給付金配布作業が混乱した原因
Follow_Up(2020年7月14日):レトロ規制が成長阻む_無人コンビニや薬処方に制限
Follow_Up(2020年7月30日):請求書 完全電子化へ 仕様統一で政府・50社協議、会計・税の作業負担減

2. 企業のIT化
今回のコロナ禍によって、企業は働き方の大変革を迫られました。出社することによる感染リスクの増大に対処するため、多くの企業が「在宅勤務」を余儀なくされました。今まで海外とのビジネストークで使われる程度であった所謂「テレワーク」がごく普通に行われるようになりました。社員は原則自宅で仕事を行い、会議は「リモート会議」と称して関係者がネット上で会議を行い、顧客との対応も全てネットを通じて行うことが珍しくなくなりました。恐らく顧客自身も他人との接触を避けたいと思うことが背景にあるからだと思われます。最初は戸惑う人もあったようですが、何と2ヶ月ほどでこうした仕事のやり方が抵抗なく受け入れられつつあります
<参考>
内閣府が5月25日から6月5日の間インターネットでアンケートを実施し、得られた回答は以下の通りです;
① 全国で34.6%、東京23区で55.5%がテレワークを経験
② 東京23区の経験者のうち9割が継続して利用したいと回答
③ 東京23区の経験者のうち通勤時間が減少した人が56%で、その内72.7%が今の通勤時間を保ちたいと回答

我が家でも同居している次男が、ほぼ毎日リモート会議を行っており、ワイフも全国に散らばっている友人達とのコミュニケーションの手段として時折リモート・ミーティングを設定しています。遅ればせながら私もZOOMというソフトを使って何回か懇親の為のリモート飲み会を設定してみました;

リモート飲み会でのパソコン画面

実感としては、コミュニケーション上は殆ど問題ない様に感じました。むしろZOOMというソフトに備わっている録画の機能、ホワイトボードの機能、チャットの機能(会話とは別にキーボードによるコミュニケーションが可能)などを駆使すれば全員が一堂に会する従来の会議よりは効率的に進めることも可能ではないかと思いました

企業側から得られた「在宅勤務」の問題点については以下の二つのアンケート結果が参考になります;

テレワークの課題
テレワークの課題

問題とされたことは「通信環境の整備」や「社内文書のデジタル化」、「電子決済の導入」を行えばほぼ解決可能と考えられますがが、2~3割の人が「上司や同僚とのコミュニケーション」に問題があったと感じている様です。企業によっては、課やグループ単位の「リモート飲み会」や毎日決まった時間に「リモート・コーヒータイム」を設けることで足りなくなるコミュニケーションを補っているそうです

企業のリモートワークの生産性改善の取り組み例

今回の経験をもとに「在宅勤務」が比較的うまく行った企業の経営者は、今回のコロナ禍が一過性のものではないことを勘案し、上記問題点を解決した上で以下の様な対応を検討し始めています;
① 都心に構えるオフイス・スペースを減らす(⇒賃料の削減
② オフイスの分散化を図る(⇒賃料の削減通勤時間の削減
③ これまで日本の企業は労働基準法を基に勤務管理(労働時間管理、など)を行っていましたが、今後は欧米先進国では普通に行われている「JOB評価(個人別に職務を明示し、その達成度で成績評価を行う)」に切り替えていくことが必要
④ 製造業の現場ではリモート勤務は難しいものの、VR(Virtual Reality/仮想現実) 機器の導入、ロボットの導入などにより、人と人との接触を減らすことが可能

こうした動きは直ぐには起きませんが、今回のコロナ禍の根本的な原因の一つが人口の過度な都市集中にあることは明白なので、中・長期的には企業の【東京一極集中⇒地方分散】の流れができ、その結果として都心部の不動産価格の下落などが予想されます。またデジタル化による労働環境の改革やJOB評価導入による働き方改革は時代の流れに沿ったものと考えられます

Follow_Up(2020年7月4日):富士通・日立など、オフィス面積半減 在宅勤務前提でコスト減
Follow_Up(2020年7月5日);在宅勤務に関わる国際比較;

外出制限解除後の在宅勤務
労働生産性比較

Follow_Up(2020年7月10日):新常態でオフィス変貌_縮小だけでなく分散・3密対策も
Follow_Up(2020年8月25日):ホンダ「ワイガヤ」オンライン、新人600人の挑戦

一方、自宅で業務を行う家族の側からの意見として;
プラス面;
① 通勤時間がゼロとなることから、ゆとりの時間が持てるようになる(特に遠距離通勤者)
家族内のコミュニケーションの機会が飛躍的に増えること(特に夫婦共働きの場合)
夫婦間の家事・育児の分担がスムースに行える(⇔妻の家事・育児負担が減る)
④ 食費の減など家計費負担が減る
マイナス面;
① 独立した部屋が確保できない場合、あるいは子供が小さい場合、業務に集中できない場合がある

こうしたことから、【郊外の一戸建て住宅、あるいは広いアパートの需要拡大⇒子育て負担の軽減⇒出生率の向上】などが期待されます

3. 教育界のIT化
今回のコロナ禍で、教育界はまず最初に厳しい対応を迫られることになりました。2月27日に安倍首相が突然3月2日から春休み期間まで全国の小・中学校・高等学校、特別支援学校の臨時休校を要請しました(首相・臨時休校の要請)。この休校要請は実質的に緊急事態宣言が解除されるまで続き、教育関係者のみならず、子どもを持つ保護者にとっても極めて厳しい対応を余儀なくされました。また、大学や補習校などについても通常の講義は行えず、試行錯誤が暫くの間続きました

しかしながら徐々にインターネットを使った遠隔授業(リモート授業)が開始されることとなりましたが、その授業の充実度には学校ごとに相当幅がある状態が続いています。因みに、公立の小・中学校・高等学校の中にはハード・ソフトのデジタル化が遅れている所も多く;

学校のオンライ環境の現況

双方向のコミュニケーションが必要となる遠隔授業は行えなかったところが分かります。また、今回はコロナ禍での突然の休校要請であった為、教員や生徒の事前の準備が殆ど行えなかった状況であったことも混乱に拍車をかけたと思われます;

双方向の遠隔授業ができたのはたった5%

因みに、私の中学生の孫は私立中学に通っていますが、5月頃には1日6科目の双方向のリモート授業をこなしていました。また、公立の小学校に通っている孫はの塾(プログラム教室)授業では、当たり前のようにリモート環境で勉強に集中していました

一方、大学に関しては、4月以降それぞれの大学の特徴を生かしたリモート授業を行っていると思われます。日経新聞で得た4月18日時点での取り組み状況以下の通りです;

大学のオンライン授業の状況_4月18日時点の情報

東京大学では、リモート化する講義の数は4千を超えるとのこと、準備を行う教授たちの苦労もさることながら、回線の容量を確保するのも容易ではないと想像できます

<参考> 大学のオンライン化の流れ
教育にオンライン化の波_立命館アジア太平洋大学
大学の学びリモート体験・オープンキャンパス代わりに

こうした状況に鑑み、今後 COVID-19 の第二波、第三剥波の襲来、未知の疫病の蔓延に備え、政府としても教育に係る設備投資(大容量のネット環境の整備、パソコンの個人配布、など)やリモート授業を前提とした教育指導要領の改訂、などをここ数年の間に行うことは間違いないと思われます
従って、今回のコロナ禍で経験したリモート環境による授業(講義)のプラス・マイナスの面を整理し、今後に備える必要があると思います;
プラス面
① 大きな教室で行われる授業においては生徒(学生)からの質問は出し難かったのに対し、気軽に質問ができる(ZOOMアプリであれば、チャット機能を使用するなど)

② 教員が提供する講義資料、等が各自のパソコンから電子データで入手可能となる
③ 大学で人気のある授業を公開することによって、学外(他大学生、高校生、社会人)からの受講者を簡単に受け入れることが可能となる(これまで学外の受講希望者は教室容量の制約を受ける)
④ 板書(教員が学習事項を黒板に書くこと)を書き写す必要が無く、授業に集中できる(ZOOMアプリであれば板書の代わりにホワイトボードに書き込めば電子ファイル化が可能)
⑤ イジメ、発達障害、精神症が原因で不登校になる生徒(学生)も授業を受けられる
<参考>
現在、YouTubeで公開されている以下の動画を観ると、不得意で遅れている科目のCatch-Upだけでなく、好きな科目については、学年を超えて学ぶことが可能であると感じました(いい時代になったもんです!)
葉一の勉強動画:https://19ch.tv/

マイナス面;
① 教員と生徒(学生)との対面コミュニケーションが不足しがちになる ⇒ 対面コミュニケーションが必要な生徒(学生)とは個別にリモート面接を適宜行うなどの対応が考えられる
② パソコンに習熟していない教員は対応に苦労する(老教師にはつらい状況か)
③ 生徒(学生)同士の対面コミュニケーションが不足しがちになる ⇒ 親しい仲間同士でリモート会話をすることである程度対応可能
④ 体育の授業、特に団体スポーツを行うことが出来ない ⇒ 「3密」にならない運動が工夫されつつある

Follow_Up(2020年7月16日):教育の概念、激変の可能性_柳川範之・東大教授
Follow_Up(2020年8月26日):世界の大学「封鎖」解けず 遠隔中心、質低下に懸念
Follow_Up(2020年8月27日):国内大学も遠隔続く 心のケア・就活支援が課題

4.医療のIT化
コロナ禍にあっては、医療崩壊の危機のみが話題になったきらいがありますが、実は我が国医療のIT化の遅れも浮き彫りになりました
国民皆保険が実現している日本では、これまで具合が悪くなれば直ぐに病院に行って診察を受けるのが当たり前になっていましたが、今回のコロナ禍により常に「三密」となっている病院に行くのは憚られ不安を感じた人も多く、また結果として重症化する人もいたと思われます(特に高齢者や持病を抱えている人)。更に、癌や他の深刻な病気のため手術を予定した人が延期されている例(有名な高須クリニックの院長)も出ました。一方、病院側にとっても、患者の受け入れが激減し、6月頃には深刻な経営危機に陥る病院も出てきました。

こうした問題点を解決する切札として、先進諸国ではネット診療が一般化しています。対面診療が基本の日本では、医師会の反対もあり中々実現しませんでしたが、今回のコロナ禍では緊急措置(時限措置)の一環として一部オンライン診療が実現しました;
メドレー(株)の取り組み:日本の医療 「非効率」にメス・オンライン診療を普及
② (株)マイシンの取り組み:オンライン診療の需要増・患者登録10倍
③ Lineの取り組み:LINE・オンライン診療アプリ参入_8000万顧客生かす

高齢化社会を迎えて、今後医療費の増加が確実視される中で、医療のIT化は避けられない流れだと思います。上記のオンライン診療の普及は当然のこととして、医師の負担軽減のためのAIを使った問診システムの導入、また個人番号カードに健康保険証をヒモ付けた後になると思いますが、カルテのデータベース化による患者情報の共有化の取り組み、などIT化による医療高度化、医療費の削減を近い将来実現すべきと考えます
また、直近の未来に迫った5G回線網の整備と併せ、医療体制が整っていない地方でもリモート手術などで高度医療が受けられる体制を整えることにより、少子化・地方創生という喫緊の課題にも応えられるようになると考えています

エアラインビジネスの変革

最新のIATA(国際民間運送協会)の発表によれば、コロナ禍による航空需要の激減は想像を絶する状態にあります;

国際旅客輸送量の推移  byIATA

このグラフから分かることは、致死的な感染症の蔓延(特に長引くと)は航空需要に壊滅的な影響を与えることが分かります
今回のコロナ禍では、既に5月半ばにはタイ航空、オーストラリア・バージン航空が経営破綻しています。また、多くのLCCも既に経営破綻の瀬戸際に立っています。一方、国内ではJAL、ANA、米国、欧州における大手航空会社は国からの巨額の融資、その他の支援金を受け取って何とか破綻を免れていますが、危機が長引けば、更なる国による援助が必要になるのは明らかです

飛行できず羽田空港に駐機中の多数の航空機

航空輸送は国のインフラの中でも他で代替のきかない交通インフラになっていますので、大手の航空会社が破綻すると感染症の蔓延が終息した後で迅速に経済を立ち上げるできなくなります。従って、他産業分野で国からの支援が得られず破綻する例が多く発生しても、世界の主要国政府は巨額の支援を行っている訳です

ただ、これだけ落ち込んだ航空需要が復活するには2~3年の期間が必要というのが多くの航空関係者の意見であり、これを乗り切るには既に行われている支援の他に以下の対策が必要だと思われます;
① 航空会社の責任で、経年機の退役(767、777-200、など))を行う(売却、リース機の返却)
しかし、今の時期航空機の売却やリース機返却交渉は非常に難しいと思われるので、以下の対策も併せ行う;
② 国の責任で、稼働していない航空機に課せられる巨額の減価償却費を2~3年猶予する(日本でも過去にストレージ/Storageを行って減価償却を猶予して貰った例がある)
因みに大手航空会社の航空機は、1機当たり200~300億円もする上にこれを購入した後10年間で償却しなければならない為に航空機を保有するコストは非常に高額になります

上記対策を行った上で、航空会社は必要に応じ:
③ 人事・労務対応(早期退職、賃金カット、など)を行う。但し感染症の蔓延が終息した後で迅速に対応できる要員は確保する
また、現在密着を避けるために、搭乗するお客様の数を制限して運航していますが、航空機は、飛行中に機外から新鮮な空気を取り入れ客室内の与圧を行っており、客室内の空気は常に数分で床下(貨物室)から機外に放出しています。従って、客船、列車、バス、などと違って空気感染するリスクは相当少ないはずです。そこで
④ 航空機メーカーと協力して、隣同士の席に座っても室内などと比べて感染リスクがかなり低いことを立証し、搭乗率を向上させる努力を行う必要があると考えます

Follow_Up(2020年7月1日):ソラシドエアがコロナ対策公開
Follow_Up(2020年12月22日):航空需要、回復の見込みは 「ビジネス客の戻りに遅れ」

国際政治状況の緊迫化

近年、米国と中国との間で「新冷戦」と言われるほど政治・経済での軋轢が高まっています。これに、コロナの発生源となった中国に対する道義的な問題新疆ウィグル地区のウィグル人に対する弾圧、「香港国家安全法の制定(香港返還の際の国際的な取り決めである「一国二制度」の原則をにより有名無実化させる可能性大)などが重なり、欧米先進諸国はかつてないほど中国に対する非難を強めています

一方、中国はコロナ禍という国難に対応し、欧米先進国からの非難をかわし、国民の団結心を高めるために、以下の様に軍事的な攻勢を強めつつあります(先進諸国がコロナ対策に忙殺されている隙に軍事的な攻勢を企てたという識者もいます);
① 南シナ海に於けるフィリピン、インドネシア、ベトナムとの国境紛争軍事演習の強行
② 東シナ海の日本が実効支配している尖閣諸島・接続海域に於ける示威行動のレベルアップ(日本の海上保安庁に対応する中国の海警局が最近人民軍に統合され、搭載している火器なども強化されています)
③ 中国とインドの係争地域(カシミール地方)に於ける小規模の衝突(双方に死者が出ています)。一食触発という状況ではありませんが、何か大きな状況の変化があれば突拍子のない事態に発展するリスクあるのではないかと一人心配しています

カシミール地方

④ 民進党となった台湾が、香港の民主化運動に同調する動きを見せていることから、台湾に対する軍事的圧力を強めている

歴史好きの私としては、こうした状況は「セルビア人によるオーストリア皇太子夫妻の殺害」がきっかけで誰も予想だにしなかった第一次世界大戦が起こってしまったことを思い出させます
また、中国の南シナ海に於ける「九段線」内の領土主張は、

中国が主張する国境「九段線」と領土紛争地域

何故か太平洋戦争勃発時の日本軍による東南アジア侵攻を思い出させます。南シナ海は常に超大国間の覇権争いが行われる海でした。第二次世界大戦では大日本帝国と米国(当時フィリピンを植民地としていた)、今は中国と米国が対峙しています
ベトナム、インドネシア、フィリピン、インドなどが、中国と武力衝突を起こすと、中国はかなり大規模な攻勢をかける(例:中ソ国境戦争、中印戦争、中国・ベトナム戦争、など)可能性が高いので、この紛争に南シナ海で「航行の自由作戦」を行っている米国が加担すると由々しき事態が発生する可能性はゼロではありません

また、日本が関わる尖閣列島については、米国がこの地域に対して日米安保条約の下で共同で対処することになっている為、尖閣諸島での武力紛争は大規模化する可能性が高いと言わざるを得ません。最近、中国が新型対艦弾道ミサイル(CM-401)を実用化したと言われており、これが中国の南シナ海・東シナ海での軍事攻勢に拍車をかけていると考えられます。日本としては、中国という軍事大国と大戦争を行うリスクは絶対避けなければならず、米国と中国との距離をどう保っていくかが近未来の最大の政治課題だと思います

Follow_Up(2020年7月14日):米、南シナ海介入へ転換・中国の領有権主張「違法」

<付録> ウィルスの正体?

A.ウィルスの正体については、福岡伸一氏の著書「動的平衡」に非常に分かり易く解説されていますのでご紹介します;
ウィルスの発見
ウィルスは1938年にシーメンス社が電子顕微鏡を製品化して初めて捉えられました。その大きさは30~50ナノメートル(10億分の30~50メートル)です。因みに、ヒトの細胞の直径は30~40マイクロメートル(百万分の30~40メートル、細菌の直径は0.5~5マイクロメートル

ウィルスの正体
① 非細胞性で細胞質などは持たない。基本的にはタンパク質と核酸からなる粒子
② ほかの生物は細胞内部にDNA(デオキシリボ核酸)とRNA(リボ核酸)の両方の核酸が存在すますが、ウイルスは基本的にどちらか片方だけ
③ ほかのほとんどの生物の細胞は2n(2倍体)で、指数関数的に増殖するのに対し、ウイルスは一段階増殖(コピーされたものが次のコピーを作る)です
単独では増殖できず、ほかの細胞に寄生したときのみ増殖でます
⑤ 自分自身でエネルギーを産生せず、宿主細胞の作るエネルギーを利用します

ウィルスの形状;
① ウィルスは、核酸(DNAまたは RNA)がタンパク質の甲殻をまとっており同種のウイルスでは核酸もタンパク質も同一です
② 個体差がなく、幾何学的な模様をしています
③ ウイルス粒子が規則正しく集合すると結晶化します。結晶化しても「死なない!」 ただ、生物かどうか判然としないので、「死ぬ」という表現が適切かどうかわかりません

ウィルスの活動
① 全く代謝活動をしません。つまり栄養を摂らず、排泄もせず、呼吸もしないものの、自己複製能力を備えており、繁殖します
② 宿主の体内に入ったウイルスは、甲殻のタンパク質が宿主の細胞表面のタンパク質と鍵と鍵穴の関係を持っていますので細胞に付着出来ます

Follow_Up(2020年7月10日):新型コロナ 子どもの感染率なぜ低い?_重症化もまれ・細胞の仕組みにカギ

ウイルスは自らの核酸を宿主の細胞内に送り込みます(⇒その核酸には、そのウイルスの遺伝情報が書き込まれている)
④ 宿主の細胞は、これを自分の核酸だと勘違いして複製してしまいます
⑤ そして核酸に記された情報を元に、ウイルスを構築する部材(タンパク質)まで用意してしまいます
⑥ ウイルスは宿主の細胞内で増殖し、細胞膜を破って出てきます
⑦ 細胞膜を破って出てきたウィルスは、また次の細胞に取り付くことになります

ワクチンに対するウイルスの対抗策
① ワクチンは、無毒化したウイルス(又はその一部)を事前に体内に注射して抗体を用意させ、ウイルスに侵入されてもすぐに反撃できるようにすることですが、インフルエンザのワクチンを、毎年晩秋から初冬に予防注射を受けているのは、毎年、新手のインフルエンザ・ウイルスが次々と登場してくるからです
② 通常病原体は「種の壁」を超えないのが原則ですが、ウィルスは種の壁を越えてヒトにもうつってくる可能性があります。最近ニュースに度々登場する強毒性の「鳥インフルエンザ」は本来ヒトにうつらないはずのものが、以下の仕掛けで変異を行う可能性があるので恐れられています
③ ウィルスは細胞に付着するのに必要な鍵を作り変えることが出来ます。ウィルスは常に鍵をあれこれかえてみる実験を繰り返し、新たな鍵によって、今まで入り込めなかった宿主に取り付けるようになります
④ 鍵だけでなく、ウイルスの核酸を包んでいるタンパク質の殻も少しずつかえています。ワクチンは、ウイルスの殻に結合して、これを無毒化する抗体なので、殻が変わるとワクチンが効かなくなります

ウィルスがパンデミックを引き起こす環境
① インフルエンザやコロナウイルスは増殖するスピードがとても速いので、増殖するたびに少しずつ、鍵やタンパク質の殻の形を変えることができます
② それがうまく働くには、近くにそれを試すための新しい宿主がより多く存在することが好都合であり、大量のニワトリを一ヵ所で閉鎖的に飼うような近代畜産のあり方は、インフルエンザ・ウイルスに進化のための格好の実験場を提供していることになります
③ まったく同じことは、好んで大都市に住む私たちヒトについても言えます。都市化と人口集中が進めば進むほど、ウイルスにとっては好都合です。都会はウイルスにとって天国のようなところで、ウィルスは少しずつ姿かたちをかえて、宿主と「共存共栄」していることになります

抗生物質が効かないウィルスに対する対抗策(新しく登場したウィルス薬の仕組)
* 細菌感染を防ぐために作り出した抗生物質は、増殖の仕組みも感染の構造もまったく違うのでウイルスには効きません
① ウイルスの鍵に先回りして、鍵穴をブロックする薬のタイプ
② 偽の鍵穴を作って、ウイルスを罠にかけてとらえてしまう薬のタイプ
③ ウイルスが宿主の細胞から飛び出すところを邪魔するタイプの薬(インフルエンザ用に開発されたタミフル

抗ウィルス薬の仕組み

上記は、千里金蘭大学副学長・富山大学名誉教授である白木公康氏が今年4月4日にネット上に公開した論文から引用したものです。同氏が開発を行ったアビガンという抗ウイルス薬は上記③のタイプなので耐性ができにくいと言われています

B.5月23日~6月21日まで日経新聞で連載を始めた「驚異のウイルスたち」という記事は、ウイルスの不思議な振る舞いについて大変分かり易い説明を行っていますので、以下に記事の概要をご紹介します
ウィルスはむやみに恐れる存在ではありません。極々身近にいて電子顕微鏡でその姿を確認でき、医学、生理学、生物学の優秀な研究者が最近その研究に没頭している最先端の研究対象です。既に述べた様にウイルスは、体内に入り込むことでのみ増殖が可能であり、その宿主である生物が死ねばその生存?も叶わないことになります。従って、したたかなウイルス達は以下の様な驚異的な生存戦略をとっています;

巧みな生存戦略をとるウイルス

一方、生物は進化の過程でウイルスの遺伝子を取り込んでいることが分かってきました;

生物は進化の過程でウイルスの遺伝子を取り込んでいる

太古のウイルスが人類の祖先の細胞に入り込み、互いの遺伝子がいつしか一体化した結果、ウイルスの遺伝子が今も尚私たちに体に宿り、生命を育む胎盤や脳の働きを支えていることは驚くべきことです

2003年に、今までの常識を覆す巨大ウイルスが発見されました;

常識を覆す巨大ウイルスと巨大化のシナリオ

何故このような巨大ウイルスが生まれたかは分かりませんが、東京理科大学の武村政春教授は上図の様な過程を経て生まれたと考え、この状態から「たんぱく質合成の場になる遺伝子さえ持てば、巨大ウイルスは新たな生物になるかもしれない」と語っています

ウイルスはとても恐ろしい存在にもなりますが、見方を変えると全く違った表情を見せます。ウイルスは特定の生物の間で広まり脅威を与えますので、作物の害虫やがん細胞に感染すれば、人類にとって有用な利用も考えられるます;

ウイルスの活用

東京大学のチームが体内に潜伏中のウイルスを追っていたところ、健康な人の全身に少なくとも39種類のウイルスが居着いていることを突き止めました。肺や肝臓など主な27ヶ所で感染を免れていた組織はゼロ。想像を超える種類のウイルスが脳や心臓にまで侵入していました。ウイルスは人間や動物の体内でたちまち増え、すぐに体をむしばむ印象が強いと思いますが、発病していない「健康な感染者」の存在は、感染症と闘ってきた人間社会に、ウイルスとの新たな向き合い方を迫っています

感染しても何もしないウイルス

ウイルスに感染しても発病しないものは潜伏感染不顕性感染といい、専門家にとって珍しくはありません。こうしたウイルスは乗り移った私たちの体を有効活用しようと計算し尽くした戦略をとっているのは確かだと思われます
中高年で悩みがちな帯状疱疹は乳幼児期に感染した「水痘(すいとう)・帯状疱疹ウイルス」が原因です。頭や腰の神経節に数十年以上潜み、疲労や加齢で免疫力が下がると動き出します。主に白血病の原因となる「ヒトT細胞白血病ウイルス1」も国内に約100万人の感染者がいますが、生涯の発症率は5%程度とされるています

Follow_Up: Newsweek Special Report(6月24日発行)の記事:
「09年豚インフル」という教訓
恐ろしい感染症が世界中に潜んでいる
豪華客船ダイヤモンド・プリンセス号が教える致死率の真実

私事で恐縮ですが、帯状疱疹については私は40歳になった頃と50台後半に二回発症しました。私の兄は70台後半で発症し数週間苦痛に苛まれていました。やはり高齢になるほど症状は重く、長期間に亘って症状が続く様です
高齢者の皆さん、よく睡眠をとり、よく歌って?免疫力を高めましょう!

以上

カラオケ万歳!

はじめに

上の写真は、私の最近の歌仲間と楽しく歌っている様子を写した写真です。写っている仲間以外に、退職後、兵庫県の実家に帰って年に1~2度しか会えなくなった仲間の一人がいます

この黒いバーはメディアプレーヤーですをクリックすると音楽が流れ、また同じ場所をクリックすれば途中で止められます。ここでは「旅愁」が入っています。この旅愁という歌はネット情報によれば、原曲は米国の John P. Ordway による“Dreaming of Home and Mother”(家と母を夢見て)という楽曲で、日本で当時唯一の音楽の学校であった東京音楽学校出身の犬童球渓が1907年(日露戦争が終わって2年目)に、この楽曲を日本語に訳した翻訳唱歌です。同年、「中等教育唱歌集」で取り上げられて以来、日本人に広く親しまれてきたこの歌は、2007年(つまり歌われ始めて100年)に日本の歌百選の1曲に選ばれています。歌の命は永遠ということでしょうか、私は小学校時代にこの曲を教わりましたが、今でも私の「心の歌」の一つです
以下、沢山の曲が挿入されていますが、お好きな方だけ挿入曲を聴きながら読んでください

以下、「音楽」という括りで語るような、大それたことをする積りはなく、カラオケ好きの老人の大風呂敷ということでお許し願えれば幸いです!

わが人生の歌がたり
五木寛之「わが人生の歌がたり
五木寛之「わが人生の歌がたり

上の写真は、私の好きな作家の一人である五木寛之が、「月刊ラジオ深夜便」で2005年8月号~2007年1月号まで執筆したものを纏めたもので、同シリーズ三部作の第一部です。九州の貧しい農家で生まれ、教師であった父母と一緒に朝鮮に渡って少年時代(愛国少年!)を過ごし、悲惨な引揚体験(母の死)を経て、東京での苦学(早稲田大学)時代までの間、記憶に残る歌をキーにして自身の人生と世相を綴ったエッセーです
彼の人生は、満州生まれの私の人生に重なる部分が多いために彼の作品に心が引かれるのかもしれません。以下は、私がこの本を読みながら勝手に妄想!した内容です

わが人生の歌がたり_歌のリスト
わが人生の歌がたり_歌のリスト

第一章 はじめて聴いた歌;
五木寛之が初めて聴いた歌は、遠い記憶の底にある朝鮮の民謡と日本人がいない朝鮮の地で教員として奮闘していた父母の歌だったそうです
寂しい」、「わびしい」、「悲しい」というネガティブなフレーズが沢山出てくる「影を慕いて」が大ヒットしたのは1932年のことですが、

この年は3年前の米国発の大恐慌(暗黒の木曜日)が日本にも波及して、日本は大不況の真っ只中にありました。また、1931年には東北地方・北海道地方が冷害により大凶作にみまわれました。この結果、上野駅には東北の農村から身売りしてくる娘さんたちが列をなして降りてくるような悲惨な時代でした。こうした大衆の苦しみに刺激されて海軍将校を中心とした五・一五事件などテロ事件が相次ぎ、大正デモクラシーという古き良き時代が終わって退廃的な雰囲気が漂う時代でもありました。私が一年に一度はカラオケで歌う「侍ニッポン」は、

郡司次郎正が1931年に、この時代を幕末の退廃的な世相に映して描いた同名の大衆小説を題材にしたものです

第二章 戦時下の流行歌;
1931年柳条湖事件を発端として満州事変がはじまり、1932年には日本の傀儡政権である満州国が成立しました。1937年の盧溝橋事件から日中戦争(日華事変)が始まり、更に1941年には太平洋戦争が始まり、1945年の敗戦に至るまで15年間も日本は戦争に明け暮れていました
この戦時下にあって、軍主導の勇ましい軍歌が流行る中で、苦しい戦争を戦っていた兵卒は、望郷の想い祖国に残した家族・兄弟への想い傷ついた、あるいは戦死した戦友への想い異国の丘の歌詞)を好んで歌ったといいます

湖畔の宿_カラオケ
湖畔の宿_カラオケ

上の写真はカラオケの「湖畔の宿」の最初の場面です。この歌は、その物悲しい旋律、歌詞で軍から発禁処分を受けたものの、高峰三枝子さんが特攻隊の慰問に行くと、いつもこの歌をリクエストされ、隊員は涙を流しながら聞き入っていたそうです

戦時中に大ヒットした「麦と兵隊」は、奉天(現在の瀋陽)で満州航空に勤めていた父が好きだった歌のようで、私の小学校時代、父が風呂に入るとよく歌っていたのを思い出します

第三章 極限の悲しみの歌;

玉音放送」には、戦時中の体験から十人十色の感慨があると思いますが、戦争直後の激動期に想いを馳せるには必須のものと思いましたので、この音源をいれました。神谷町に勤務していた頃、月一度くらいは昼休みに愛宕山のNHK博物館に行き、この玉音放送や当時流行の歌を聞いていました。五木寛之は本書の中で「人は悲しい時に明るい歌で元気付けられるというよりは、“わかるよ、おれもそうなんだよ。本当に生きていることは大変だね”という言葉の方に心は支えられる」と書いていますがサーカスの唄」もそんな歌だったのでしょう

直接敵と殺し合う軍人にとっても戦争は悲惨であり、特攻隊の悲劇も沢山ありましたが、戦争の本当の被害者は普通一般の人々であり、彼らは戦争が終わった瞬間から、生き残るため、祖国に帰るための戦争が始まったと本書に書かれています。この泣きたくなるような理不尽な運命の渦中にあって心に響いた歌が「雨に咲く花」でした

この体験は朝鮮からの引揚者だけでなく、満州から引き揚げてきた私たちの家族、親戚も同じ状況でした(生い立ちの記(生誕・抑留・引揚・困窮生活)母方親族の戦争体験

第四章 脱出を支えた歌;
五木寛之の家族は平壌に住んでいた為、ソ連軍の占領下となり終戦になってもすぐには帰国が叶いませんでした。この間に母親が亡くなり、父親も茫然自失の状態で中学生の彼が一家を支えていました。この間に大人に混じってやけくその酒盛りで一緒に歌って覚えた歌が「国境の町」でした

漸く帰国が叶い引揚船の中で船員たちが歌ってくれたのが「リンゴの唄」、内地を目の前にして不安でいるときに「こういう明るい世界がまっているんだよ」と不安を吹き払ってくれた応援歌のようだったそうです

第五章 貧しい日本で生まれた歌;
戦争は終わったものの経済はどん底の状態で、全ての人が貧しかったと言えますが、中でも女性には大変厳しい時代でした。戦争未亡人や普通の娘さんが、生活の為にしかたなく街に立って客を引くことも珍しくなかった時代でした。私たち家族と同じ旧満州の奉天(今の瀋陽)から引き揚げてきた22歳の看護婦さんが、不運が続くなかで上野の地下道で暮らすようになり、生きていくためにやむを得ず身を売ることになった、という新聞記事に、作詞家の清水みのるさんが衝撃を受け書いたのが「星の流れに」という歌です

この歌の中にでてくる「こんな女に誰がした」という歌詞が有名で、映画「肉体の門」の中で歌われて大ヒットしました
また、引揚者は、どこか外地の香りがするエキゾティックな歌に、かつて見た朝鮮や満州、上海疎開地の風景を連想して、心惹かれたようです。そういう背景があってディックミネが歌った「夜霧のブルース」は大ヒットしました

昭和20年代から30年代にかけてNHKラジオ第一放送がラジオ歌謡というオリジナルな歌を放送しました。その中からヒット曲が出て、時代を映し出す歌の数々が生まれました。中でも長く歌い続けられている歌に「さくら貝の歌」があります

第六章 東京の苦学生の歌;
五木寛之は、高校卒業後ロシア文学を学びたくて早稲田大学を受験、合格したあと最初の難関は入学金と前期授業料合わせて6万7千円の納入でした。何とか父親が恩給証紙を抵当に入れて工面しても貰ったものの、住む場所がなく、取り敢えず近くの穴八幡という神社の床下に野宿しました。その後、学徒援護会の斡旋で住み込みのアルバイト(業界新聞の配達)の職を得て働きながら勉学に励むことが出来るようになりました。当時の早稲田大学では、地方の貧乏学生が集まり、大学の裏には角帽をかぶった学生が靴磨きをしており、一般の人の他に、教職員や金持ちの学生が靴を磨かせていました
その頃は町のどこからも音楽が聞こえてくる時代で、特に印象的な歌は、美空ひばりの「リンゴ追分」でした

この時代、学生にとってはデモが日常生活の一部になっていました。GHQの占領が終わった1952年のメーデーの日(5月1日)に血のメーデー事件と呼ばれる激しい騒乱事件が発生しました。また翌年には、石川県の内灘砂丘の米軍試射場に反対する「内灘事件」が発生し、ここに住民だけでなく、各地の労働組合学生音楽や演劇の人も参加する闘争に発展しました。これはその後長く続いた基地反対闘争のきっかけなりました

内灘事件
内灘事件

この頃を象徴する歌としては「君の名は」があります。この時代。数寄屋橋はまだ本当に水に流れの上に掛かっていました

この歌は菊田一夫が書いた脚本の代表作で、1952年にラジオドラマで放送され、多大な人気を獲得しました。ただ、この歌の最初の部分に空襲警報が挿入されていることでも分かるように、最初の半年間は人々の戦争体験を主題に描いていたため、あまり人気は出ませんでした。その後、真知子と春樹の恋愛のドラマに変わっていくと爆発的な人気を呼び、「番組が始まる時間になると、銭湯の女湯から人が消える」といわれるほどであったといいます
残念なことに、現代の若者たちにとっては、2016年8月に公開された新海誠監督の同名のアニメ映画(菊田一夫のドラマとは全く関係ありません)の方が圧倒的に有名です!

その後、五木寛之は学費が払えず大学を中退し、作詞家及び小説家として生計を立てることになりますが、ネットで調べると作詞して販売された歌は数十曲に及び、中でも自身の小説のために作詞を担当した「愛の水中花」、「織枝の唄(青春の門)」、「青年は荒野をめざす」が大ヒットしました

私の人生の歌がたり

私も、大胆過ぎるとは思いますが、五木寛之に倣って自分の人生の歌がたりを試みてみたくなりました。別に歌が上手い訳でもなく、音楽の造詣が深い訳でもないのですが、一時期をのぞいて歌は私の人生にとって非常に大切なものであったことは確かです
1.小学生時代;
五木寛之の歌がたり第六章が1952年で終わっていますが、私の小学生時代はこの1952年、米軍の占領が終わった時に始まっています。就学前の音楽や歌の記憶は全くないので丁度いいタイミングなのかもしれません

私の小学校時代の音楽の授業は大変楽しいものでした。何しろオルガンで伴奏をしてくれる先生のもとで、大きな声を出して歌っていればいいのですから楽しい訳です。ちょうどこの時代は、親も学校の先生もみな反戦の意識が高く、自分より不幸な人達に対する同情の念が強かったせいだと思いますが「とんがり帽子」の少年少女の元気な歌声が心に残っています

この歌は、1947年~1950年までNHKラジオで放送されたラジオドラマ「鐘の鳴る丘」で使われていました。空襲により家も親も失った戦災孤児たちが街にあふれていた時代、復員してきた主人公が孤児たちと知り合い、やがて信州の山里で共同生活を始め、明るく強く生きていくさまを描いています
また、戦後生まれの童謡の中では最もヒットした「みかんの花咲く丘」も戦災孤児を扱った曲と思われます

三番の歌詞の最後に、丘の上に登って遠くの島を見ながら「優しい母さん思われる」という部分ではいつも涙がでてしまいます。恐らく、心臓弁膜症を患いながら私を背負って満州からの長い長い引揚の道のりを歩いた私の母の面影を思い出してしまうからかもしれません

今では、どこの小学校でも校歌がありますが、私の通った小学校では六年生の時に初めて校歌ができました。今回ネットで探したところ、何と見つけ出すことが出来ました。ただ、歌詞がちょっと変えられていたのには吃驚しました

この校歌が秋の運動会の始まる前にお披露目された時、私が作詞者、作曲者にたいして生徒を代表して感謝の言葉を述べました。兄と違ってヤンチャだった私は、小学校時代これが唯一の晴れの舞台だったので、父が写真を撮ってくれた様です;

運動会_校歌発表会
運動会_校歌発表会

2.中学生時代;
私が通った学芸大学付属小金井中学校では、大原某という先進的な音楽の授業?を行う先生がいました。この中学の校歌は確かこの先生が作曲したと記憶しています。ネットで探し出すのに苦労したものの何とか見つけ出すことが出来ましたが、3番まである歌詞のうち一番だけしか入っていませんでした

楽しみにしていた最初の音楽の時間で戸惑ったことは、歌を歌詞で歌わず、階名(ドレミ、、)で歌わされたことでした。私の出身の町立小学校でそんな教育は一切受けておらず、楽譜を見ても曲に合わせたスピードでは階名を読めませんでした。さらに翌週の授業では皆の前で暗記した階名で歌わされるという地獄が待っていました。お陰で?今でも中学校で学んだ歌は全て階名で歌うことができます
また、当時の中学としては珍しかったと思いますが、一クラス全員分のオルガンが音楽室に用意されており、教科書としてメトードローズピアノ教則本が与えられて自習を強要!されました。ピアノを小さい頃から習っていた裕福な生徒や、音楽の才能があってすぐ上達する生徒が多かったなかで、才能が無い上に貧しかった私の家にはピアノやオルガンの類はないので練習ができず、また小学校時代に彫刻刀で手のひらを切り、左手の小指が自由に動かなかった私にとって、毎学期末に行われる全員の前でピアノを弾くテストは正に地獄でした。そんな訳で、この時期に生涯癒すことのできない音楽に対するコンプレックスが定着してしまいました

ただ、兄は高校時代の音楽教育が良かったせいか、クラッシック音楽が好きでレコードを買ってよく聞いていました。その時に影響を受けたのだと思いますが、ベートーベンやその時代の音楽家の音楽には、何の造詣もありませんが、未だに聞くのは大好きです

その頃、日本航空が初めてジェット機を導入するにあたって、父がエンジン整備の勉強をするためにアメリカに長期間出張しました。その時の土産に、当時珍しかったゼニス社製の5球スーパーラジオ(5つの真空管を使ったSuperheterodyne 方式のラジオ受信機で雑音が少ない;済みません!この頃の私は既に“電気少年”だったので電気製品については細部に拘ります)を買ってきてくれ、毎日これでラジオを聴きながら夕食を取っていました。この頃のNHKラジオドラマの「一丁目一番地(1957年~1964年)」のテーマ曲をネットで見つけだしました。聴いてみると、その頃の自宅の夕食風景や隣近所の人たちの顔が鮮やかに蘇ってきました

3.高校時代;
高校に入ってまず驚いたことは、フォークダンスが必修?であると言うことです。男女が手を繋いでダンスをするなどは生まれて初めての事だったので、胸が高鳴ったのを思い出します。まず覚えるのは最もポピュラーな「コロブチカ」です

高校では音楽は必修科目ではなく選択科目になっていました。と言っても、他の選択肢は美術だったので、【美術のコンプレックス】>【音楽のコンプレックス】ということで、音楽をいやいやながら選択しました。
音楽の先生が最初に登場した時は、余りのカッコよさに魂消ました。何といってもイケメンの上に二期会の現役の歌手です。この先生に最初に教わった歌は「いつかある日」でした

この歌のメロディーは実に単純です。しかしこの歌の歌詞は、私にとって心打つものでした。ひょっとして歌は歌詞が“主”で、メロディーは“従”なんではないか、そんな些細なことから歌うことに対するコンプレックスは多少和らいでいった様な気がします

今回このブログを書いている最中に昔の音楽の教科書が懐かしくなり、探し始めました。小学校、中学の教科書は見つからなかったものの、ボロボロになった高校の教科書を見つけ出しました(表紙なし)。老化している紙が破れないようにページをめくっていくと、わら半紙にガリ版刷りの校歌の楽譜が出てきました。たしかこれも練習した様な気がします

高校音楽教科書の1ページ目とガリ版刷りの「校歌」
高校音楽教科書の1ページ目とガリ版刷りの「校歌

また、苦労して歌えるようになった「海に来れ」のページでは、上手く歌えない部分を自宅で必死に練習したことを懐かしく思い出しました

海に来れ
海に来れ

歌を歌うのが少し好きになったところで、当時流行っていたギターを弾ければ好きな歌を弾き語りできるな、と一念発起し、親に安いギターを買ってもらいました。左手の小指が使えないので、弦を逆に張り替え、右手でフレットを押さえることにして練習を始めましたが、数か月の練習で投げ出してしまいました。またしても楽器コンプレックス悪化させるだけに終わりました

音楽を選択したグループは、上級生の卒業式で「ハレルヤ」を歌うことになっていました。これは本格的なクラシック音楽なのでそう簡単にはマスターできません。また、音楽を選択した“沢山の男”は大半がバスかバリトンのパートしか声が出せず、テノールとソプラノは音楽の“手練れ”が少人数で担当していました。特にソプラノは卒業後芸大を出てプロの歌手となった女性一人が頑張っていて、ソプラノの音量に負けてしまう大勢のバス、バリトンに対して「もっと声を出して、、」と先生に言われ続けたことを思い出しました。数ヶ月の練習を経て、なんとか卒業式で歌うことができました

このハレルヤという合唱曲は、ヘンデル作曲のオラトリオ「メサイア」の44番です。音楽を選択した私の友人の中で、才能に恵まれた人たちは「メサイア」全曲を歌いたいと、ほぼ老年!になってから本格的な練習を始め、数年前に目出度く公演を行いました、大したもんです!

4.大学時代;
一年浪人した後、大学に行きましたが、浪人中は、オールナイト・ニッポンなどの深夜放送を聞きながらの勉強でした。1坪を半分に区切って妹と勉強部屋をシェアしていましたが、そこに自作の真空管アンプとリンゴ箱を使って作ったスピーカーを持ち込んで、流行り始めたビートルズの「 I Should Have Known Better」などを聞いていました

目出度く入学した後、バレーボール部に入部しましたが、ここで最初の洗礼はコンパ(今の飲み会)で歌う「ああ玉杯に花受けて

と、試合の応援などで使われる応援歌「ただ一つ」の練習です

これらの歌はいずれもアカペラで大声で歌わねばなりませんので、高校時代に学んだ歌唱法?とは全く別物です
大学に入ってから最初にやることは、ダンス部が主催するダンス講習会に通ってダンスパーティーに必要な、ジルバ、ワルツ、ルンバ、他、を覚えることです。当時、男性主体の大学や、女子大学の学生は、ダンスパーティーを通じて異性の友達を作ることが、ごく自然に行われていました。この頃のダンスパーティーではスイングジャズがよくかかっていましたが、私はビリーボーン楽団の「波路はるかに」が大好きでした

60年安保が終わっても、左翼の活動家の人々は、どうにかして若者を仲間に加えたいと思っており、一方、地方から出てきた真面目な若者は、人との繋がりの少ない都会生活で疎外感を感じる人も多くいました。こうした状況下で店に来た皆が歌の上手いリーダーと一緒に歌う歌声喫茶がはやり、東京の繁華街には当時沢山の歌声喫茶がありました。ここで歌われる歌は外国の民謡、学校で習ってきた唱歌、左翼の人が好む反戦歌、スタンダードとなった歌謡曲などでした。私たち学生も、コンパが終わった後、時折こうした歌声喫茶に寄って何曲も何曲も歌い続けたことを思い出します

また我々の世代は、親はもとより、教えを受けた教員の大半が戦争の惨禍を経験しており、社会や家庭内には反戦の気分が横溢していました。私の様ないい加減な学生でも朝日ジャーナルの購読は当たり前であり、ベトナム戦争には学生は概ね全員が反対していました。ベ平連もこうした政情の中で登場致しました
東大では1968年1月、医学部の学生がインターン制度に代わる登録医制度に反対して無期限ストに突入しました。その後、6月には東大全共闘が結成されると共に各学部、学科単位でバリケード封鎖が連鎖的に行われてゆきました。他大学の全共闘との連携、政治デモへの参加の過程で歌われた歌は、正に革命の歌でした。今でも、当時の高揚した気分の中で屡々歌われた「インターナショナル」、「国際学連の歌」、「ワルシャワ労働者の歌」を聴くと何故か気持ちが自然に高ぶります

この三つの歌をお聞きになるだけでも感じられると思いますが(実際に大勢で歌ってみるともっと迫力がでます)、革命歌というのは人を酔わせて死をも恐れぬ勇気を生み出す効果を狙っています
戦時中の日本の軍歌もそういう効果を狙っていたと思いますが、ネット上で30曲程の日本の軍歌を聞き比べてみたところ、上記革命歌3曲が「侵略者に対する反撃」がテーマであり極めて本能的で好戦的であるのに対し、日本の軍歌は、「天皇や国に対する忠誠」、「“八紘一宇”という作られた正義への挑戦」、「戦友への想い」などがテーマとなっており、敢えて言えば理想主義的で抒情的であるような気がします。これは国が発展登場にあった明治期の武士道が底流にあったのかもしれません

5.サラリーマン時代~現在;
1971年に大学院・修士課程を卒業して日本航空のサラリーマンになりました。DC-8型機の導入で後れを取り、太平洋路線のシェアを米国の航空会社に奪われて苦しんだ経験を活かし、1969年に初飛行したばかりの超大型機B747型機の導入を積極的に行った結果、1971年は本格的な海外旅行時代の幕開けの年となりました
折しも1967年、日本航空がスポンサーとなってFM東海で始まった深夜放送の「ジェットストリーム」は1970年からエフエム東京に引き継がれ、城達也の魅力的な声は、バックに流れる「Mr.Lonely」の甘い調べと相俟って多くの若い人に愛され、後の海外旅行ブームに繋がった様に思います

1978年には、国際線を全面的に成田空港に移転するという大事業があり、その一環で羽田に集約されていた整備基地を、成田と羽田に分割するプロジェクトを私が担当することとなりました。また、成田整備基地に於いては新しい勤務シフトを導入するというプロジェクトの担当にもなりました。歌どころではない忙しい日々が続きましたが、5月20日漸く開港の日を迎えることができました。その日から成田勤務が始まりましたが、未だ成田空港周辺は反対派の取り締まりの為に機動隊員が要所で検問を行っており、物々しい雰囲気でした。一方、成田駅周辺の繁華街の夜は寺町であるため閑散としていました。こうした中で我々単身赴任者が夜遊び!をするところは、畑の真ん中に散在する深夜スナックでした。必ずカラオケがあり、流行っていた歌の一つが「北国の春」でした

成田空港と自宅では130キロ程の距離がありますが、単身赴任とは言いながら、金曜日に自宅に帰って、月曜日早朝に自宅を出て出勤する、所謂「金帰月来」が可能でした。この長時間のドライブ中、当時流行っていた歌をテープやラジオでたっぷり楽しむことができました。その頃よく登場していた歌手は、ピンクレディーキャンディーズさだまさしアリス、、、でしょうか、中でもアリスの堀内孝雄が歌っていた「君のひとみは10000ボルト」は8ビートの難しい曲ですが、妙に記憶に残っています

1980年には、たのきんトリオ松田聖子中森明菜長渕剛、、、などの歌手が頑張っていましたが、バブル景気のさ中、松田聖子の初々しい「青いサンゴ礁」が大ヒットしていました

1980年代半ば以降は、日本航空にとっては歌どころではない辛い日々が続きました。勿論これは1985年8月12日の御巣鷹山墜落事故によるものです。1989年、社会の底辺ではバブル景気崩壊が忍び寄りつつ、何となく不穏な雰囲気が漂う時期にあたりますが、長渕剛の「トンボ」のヒットが強く印象に残っています。この歌詞に溢れる何ともやるせない鬱屈した気分が、若者の共感を呼んだのではないかと思います

1990年には、経営企画室に異動し、バブル景気の中で大量に購入契約を結んだB747-400を始めとする大型航空機のダウンサイジング(小さな飛行機に代替してゆくこと)するためにボーイング社と交渉していました。当時、日本航空の本社は旧東京ビルにあり、昼休みには東京駅周辺の多くの食事処でバラエティーに富んだ昼食を取っていましたが、なんと!時には昼休みのたった1時間4人で昼食を取りながらカラオケやったこともありました。東京ビルには車で通勤することはできず、運転しながらヒット曲を聴く機会が無くなったこともあり、10代~20代の人達が支えているヒット曲にはとんと疎くなっていました。ただ、当時日本航空のCMソングとなっていた米米CLUBの「浪漫飛行」は、時折カラオケで練習した記憶があります

一応 B737-400の導入でダウンサイジング計画完了のめどを付けた後、日本アジア航空台北支社勤務を命ぜられ、赴任しました。この時は完全な!単身赴任で、夜は夕食を取った後はカラオケスナックに入り浸る毎日でした。台湾では10年~20年前の日本の唄を別に何の違和感もなく歌うことが出来ました。中国語の歌は、テレサテンが歌っていて聞き覚えがあった「月亮代表我的心」と沖縄出身の歌手喜納昌吉の作詞・作曲によるヒット曲「」の替え歌である「花心」くらいで、中国語の発音が難しくあまり覚えることが出来ませんでした

台湾からの帰任後、私の経営企画室時代の最後の仕事であったB737-400の導入後、予想されていたことではありましたが、この航空機の投入路線が全て大幅な赤字になっていたことから、新しいLCCを設立してこの路線を黒字化させるプロジェクトを担当することになりました。1996年4月には社名をJAL Expressと命名し、この会社の実質的な本社を大阪(伊丹)として、同年7月には大阪=鹿児島、大阪=宮崎の2路線の運航を開始しました。2年半の大阪勤務を終えて、1998年には整備部門の効率化の為に整備カンパニー設立の為のプロジェクトを担当し、2000年4月に発足させることが出来ました。そんな訳でこの10年間は、偶にしか好きなカラオケができない忙しい毎日を過ごしました

2000年以降、成田、羽田での勤務を経て2002年には日本航空を退社、その後、某原子力関係の独法の監事や某大学の特任教授などを歴任した後、2016年以降は息子の会社の監査役という閑職のみとなり、ブログ発行や読書など、そこそこ充実した日々を送っています。そうした生活の中で、夕方、時間ができると後述する“一人カラオケ装置”を使って数十曲は歌い込み、冒頭の写真にあるカラオケ仲間との月一回の歌比べ!に備えています
尚、2000年以降、現在までの歌については新しすぎて“歌がたり”に馴染むような歌は少なく、また歌をキーにして振り返る私の歴史についても、取り立てて語る価値のあることもありませんので、割愛することにします

老人とカラオケ、その効用?

昨今、繁華街に限らず普通の町にもカラオケボックスがあります。日中空いている時間帯であれば1時間数百円の単位で利用でき、年金生活の老人が度々通っても経済的な負担は大したことはありません。現に私の様な老人が独りで利用する姿を見ることもも珍しくありません
現在のカラオケボックスは、通信カラオケといってネット経由で古い歌から最新の歌まで数えきれない程の歌が登録されており、老人が歌選びに困ることはありません。また、音程から音量、エコーの程度まで自分好みに合わせた細かい調整が可能になっています。以下に老人とカラオケ、その効用につて考察をしてみようと思います

1.カラオケで老人の健康を向上させる
老人が長生きをしたいという願望(周りの人がそれを望んでいるかどうかは疑問!?)を抱いていることは間違い無いことです。しかし、ただ生きていればいいという訳ではなく、健康で楽しい老後でなければ意味がありませんね
肉体的な健康を保つ;
肉体的な健康を保つためにジムに通う人が多くいますが、若いうちはジムで筋肉を鍛えることによって好きなスポーツが楽しくなるという意味で効用は大きいのですが、腰や膝を痛めた人にとって早く歩く程度まで回復させるのがせいぜいではないでしょうか。老人が充実した日常生活を送るために最も大事な臓器は心臓と肺であることは論を待ちません。心臓に疾患を抱えていたり、弱ってくれば強い運動は控えなければなりません。しかし、肺の機能はカラオケで十分に鍛え続けることが可能です。正しい発声法をマスター(私はボイストレーニングしているワイフに教わっています!)して歌うことによって肺の機能を強化することが可能です
また、自分でも最近実感していますが、口の奥を大きく開けて発声することで、喉周りの筋肉が鍛えられ、老人特有の嚥下障害によって食事の時にむせることが少なくなりました

② 精神的な健康を保つ;
会社を退職したあと一番大きな変化は、人とのコミュニケーションの機会が極端に減ることです。昔はリタイア後も、大家族制の中で子供や孫とのコミュニケーションが沢山ありましたし、またご近所づきあいが継続されることでコミュニケーションが一気に失われることはありませんでした。しかしサラリーマンが退職した場合、一気にコミュニケーションの機会が減るケースが多いようです。夫婦の会話を増やすことである程度のコミュニケーションを確保することは可能ですが、限界はあります。昨今、独居老人が殆ど会話の無い生活を続けている内に、誰にも知られずに孤独死するケースが時々報道されています
カラオケは独りで歌っていても会話と同じ効果が期待できます。自分が歌う(⇔話す)、自分の唄を聴く(⇔話を聴く)という行為は、正に脳細胞の機能から考えると、人とコミュニケーションを取っていることとあまり変わらないのではないでしょうか。勿論、冒頭の写真の様に仲間と一緒にカラオケをすればもっと効果が大きいことは確かです

2.カラオケで若々しい情操を維持、開発?する
カラオケには色々な歌が収められています。それぞれの歌を歌うことによって、歌の世界の中に自分を没入させていくことができます
① 歌いながら泣く;
歌詞の世界に入り込むと自然に涙が出てくる歌があります。私の場合、前節でも述べた様に「とんがり帽子」、「ミカンの花咲く丘」、「長崎の鐘」などは戦争の惨禍を想い必ず泣いてしまいます。また、子供に先立たれた親の悲しみが直に心を揺さぶる「七里ガ浜の哀歌」も途中から号泣してしまいます。勿論、みっともないので独りカラオケの時のみ歌います

② 歌いながら幼い頃の美しい心に帰る;
主に童謡や唱歌を歌っている時は童心に帰ることができます。私が好きな歌は、「美しき天然」、「里の秋」、「冬の星座」、「早春賦」、「冬景色」、などなど数限りなくあります
③ 歌いながら妄想に耽る;
純愛、悲恋、未練、など男女の恋愛に絡む歌はどうしても妄想に耽りながら歌うことになります。私がカラオケをご一緒している方々もこの種の歌が好きなようです。私が好きな歌は、「哀愁列車」、「悲しみ本線日本海」、「雨」、「夢の途中」、「愛人」、「昔の名前で出ています」、「みちずれ」、「恋歌綴り」、「エメラルドの伝説」、「リバーサイドホテル」、など沢山持ち歌がありますが、最近覚えた「抱擁」は若干いかがわしさが漂い、酔うとつい歌ってしまいます

④ 歌手の心情に心を寄せる;
ニューミュージック系の歌手の歌にも、屈折した複雑な心情が読み取れて好きな歌が沢山あります。「また君に恋してる」、「檸檬」、「無縁坂」、「悪女」、「竹とんぼ」、「何も言えなくて・・・夏」、「百万本のバラ」、中でもNHK朝ドラのテーマ曲になった「花束を君に」は、宇多田ヒカルが自殺した母(歌手の藤圭子)を偲び、何もできなかった自分を嘆く心情がヒシヒシと伝わってきます

絶唱して心の憂さを晴らす;
声を潰さない程度のできるだけ大きな声で歌うと憂さが晴れる歌は、当然のことながら絶唱型の歌手の歌った歌が対象になります。例えば私の場合、「五月のバラ」、「乾杯」、「Diamonds」、「涙をふいて」、「座・ロンリーハーツ親爺バンド」、「好きになった人」、「加賀の女」などが気持ちよく歌えます
⑥ 感動した映画やテレビドラマの挿入歌を歌ってストーリーや好きな俳優を思い出す;
映画が大好きで洋画を中心に若い頃よく見ましたが、自分で歌える歌はそれほど多くはありません。自分のカラオケのレパートリーに入れている易しい歌は、「Red River Valley」、「My Rifle、My Pony and Me」、「High Noon」、「ゴッドファーザー愛のテーマ」、「ロシアより愛をこめて」、など。日本のドラマでは「はぐれ刑事純情派」の挿入歌「かくれんぼ」が好きです。日本映画では、渡部恒彦と夏目雅子主演の映画「時代屋の女房」のバックに流れる「Again」が大好きです。主演の二人が亡くなってしまったこともあり、時々思い出しながらしみじみと歌っています

カラオケの裏にある文化

カラオケで歌われている歌は、宗教音楽やオペラのアリア、クラッシックの歌曲の様な難しい歌ではないために、軽く扱われがちですが、それぞれの民族が持っている文化が背景にあります。もう少し誇りをもって?歌うために少し調べてみました

1.カラオケの歌詞に隠された文化;
カラオケの歌詞の特徴を語る前に、幾つかの基礎知識をレビューしておきたいと思いますす。まず、
音節
発音の中心になる要素を一つの単位としたものです。「母音」あるいは「子音+母音」、「子音+母音+子音」といった組み合わせがあります。「っ」「ん」「-」はその前に来る文字とセットで現れるものなので、音節分けの際には独立して1音節となることはありません。因みに、「すっぱい」は、「すっ」「ぱ」「い」が正しい分け方であり、3音節の単語ということになります
詩の形式
① 定型詩とは:一定のリズムで改行する詩
② 自由詩とは:作者の気分で改行し、決まったリズムが無い詩
③ 散文詩とは:詩なのに改行しない

カラオケで歌われる歌の歌詞を分析すると、一般に、古い歌、童謡、唱歌、演歌、歌謡曲、などは定型詩が非常に多いことが分かります。一方、最近の歌唱力のある歌手が歌うポピュラーなどのジャンルの曲は自由詩が多いように思います。歌は一般に1番~X番まで繰り返すことが多いので、散文詩は多くないと思いますが、今流行りのヒップホップというリズムで歌うラップというジャンルは散文詩と言えるかもしれません。ただ、ラップは米国から輸入されたものだからでしょうか「韻を踏む」要素はある程度重視されるそうです(⇔かっこよく聞こえる or 訴求力がある

定型詩は古い時代から世界の各地に存在し、「韻を踏む」ことを一つのルールにして詩に一定のリズムを与えることが行われていました
A. 漢詩について;
私が台湾に駐在していた時、現地採用の台湾人の社員は、我々が高校時代にほんのちょっと学んだ漢詩を、実に美しく朗読するのに吃驚しました。これは漢詩のルールである規則的に韻を踏むことによってまるで歌うよう聞こえるせいだと思われます。例えば、杜甫の有名な五言律詩;
國破山河在 城春草木(sh-in)
感時花濺涙 恨別鳥驚(sh-in)
烽火連三月 家書抵萬(k-in)
白頭掻更短 渾欲不勝(sh-in)
この詩の場合、2句目、4句目、6句目、8句目で韻を踏んでいます。もともと、詩と歌とは不可分の関係にあったことが背景にあるのでは、と想像しています

B. 英詩について;
詳しい知識はありませんが、私が好きで、時々カラオケで歌っている「青春の光と影」の挿入歌「Both Sides Now」でも、韻を踏んでいる部分はとにかく心地よいのですぐに気が付きます
Rows and flows of angel hair
And ice cream castles in the air
And feather canyons everywhere
I’ve looked at clouds that way
But now they only block the sun
They rain and snow on everyone
So many things I would have done
But clouds got in my way
I’ve looked at clouds from both sides now
From up and down and still somehow
It’s cloud’s illusions I recall
I really don’t know clouds at all

日本の定型詩では万葉集の昔から「短歌」の形式として、5つの音節と7つの音節の組み合わせが使われています。これが平安時代末期の後白河上皇が愛した「今様」に引き継がれ、更に江戸時代の「連歌」、「俳句」に繋がっています。こうした伝統を踏まえたと思いますが、上田敏はカール・ブッセの詩を翻訳するにあたって以下の様に7・5調(7音節+5音節)を使っています(上田敏訳詩集「海潮音」から);
やまのあなたの 空遠く
幸い住むと 人の言ふ
ああ、われひとと尋めゆきて
涙さしぐみ かえりきぬ
やまのあなたの なお遠く
幸い住むと 人の言ふ
大変覚えやすく、リズムがいいと感じると思います

こうした観点から私の好きな歌を調べてみたところ、古い歌の多くは、7・5調、7・7調、5・7調の歌詞が非常に多いことが分かりました
完全な7・5調の歌詞:「緑の地平線」、「女心の唄」、「みちずれ」、「君は心の妻だから」、「美しき天然」、「椰子の実」、「夏の思い出」、「とんがり帽子」、「花」、「宵待ち草」、「もみじ」、「ミカンの花咲く丘」、「惜別の唄」、「人を恋うる歌」、「古城」、「武田節」、「あゝ新選組」、その他
完全な7・7調の歌詞:「異国の丘」、「ラバウル小唄」、「戦友」、「同期の桜」、「兄弟仁義」、「唐獅子牡丹」、「夜霧に第二国道」、
完全な5・7調の歌詞:「麦と兵隊」、「舟歌」、「潮来笠」、

ポピュラー音楽の分野では、上記とは別の規則的な音節数で繰り返し改行するタイプの歌詞と、全く規則的な繰り返しの無い自由詩のタイプが多いことが分かりました。老人にとって定型詩は比較的歌いやすいのですが、自由詩はやや歌うのが難しいのが本音だと思います。ただ自由詩でも歌詞が素晴らしいものはチャレンジしている人が多いと思います

2.カラオケのメロディーに隠された文化;
現在、我々が学校で学ぶ音階は、中世の西洋で発明?された、“ド”から1オクターブ上の“ド”まで12個の半音で区切る「12音階」と言われるものです。現在ピアノなど普通に使われる楽器は、この12音階が表現できるようになっています
しかし、日本でいえば沖縄の音楽がちょっと違うなと感じるのは、沖縄の伝統的な音楽が「ド、ミ、ファ、ソ、シ」の五つの音階のみが使われているためだと言うことです。また、スコットランド民謡は「ド、レ、ミ、ソ、ラ」の五つの音階で出来ているそうです。これらはペンタトニック・スケール(ペンタは5を意味します)と総称するそうです
この他に、日本の古い音楽には、「ラ、シ、ド、ミ、ファ」のマイナー・ペンタトニック・スケールが使われているそうです

こうした知識を豊富に持っている息子に、私の好きな歌の傾向を判定して貰ったところ、スコットランド民謡のマイナー版となる「ラ、ド、レ、ミ、ソ」というマイナー・ペンタトニック・スケールの歌が多いそうです。考えてみれば、私の好きな小学校唱歌は、明治期にスコットランド民謡や、アイルランド民謡から採ったものが多く腑に落ちる感じがします。尚、息子の話では、北アフリカや東アフリカの民族の伝統的な音楽もマイナー・ペンタトニック・スケールなのだそうです
スコットランド、アイルランド、ウェールズは英国と言ってもイングランド(ゲルマン系アングロサクソン人)に征服された国です。原住民はケルト人なので、日本人の音楽に対する感性は北アフリカ・東アフリカの民族、ケルト民族に近いのかもしれません。老人はこうした逸話が大好きです!

おまけ:自宅における一人カラオケセットの構築

カラオケボックスに通うだけではマスターできない難しい歌を練習する為と、ちょっとした時間を見つけてカラオケを楽しむために、以下の様なセットを準備し、主として YouTube で流布しているカラオケを見つけ出して歌っています。ただ、著作権の問題があるので、比較的新しい人気ミュージシャンのカラオケ版は、誰かが見つけ次第消去している様で、発見してもすぐに消えてしまいます。しかし、我々老人の好きな歌は90%以上がネットで発見できるはずです

YouTube-画面
YouTube-画面

YouTubeで発見して繰り返し歌いたい場合は、ご自身の使っているサイト閲覧ソフトの「ブックマーク」に登録しておけば、いつでも呼び出せます。またブックマークに登録した歌が多くなったら、上の写真の右側に表示されているようにフォルダーでブックマークした歌を整理しておけば便利です

カラオケ用4点セット
カラオケ用4点セット

YouTubeを閲覧するにはパソコンは必須です。それ以外は中古品を利用すれば数千円で調達可能です
パソコン以外の必要な機器類は;
① アンプ:持っている人が多いと思いますが、無くても中古屋ではピンキリですが、安いもので十分なので数千円で買えます
② ヘッドホン:同居している人、隣近所に迷惑を掛けないために必須アイテムです。中古品が非常に安く出回っています(高級品は不要)。アンプの“ヘッドホン出力”端子につなぐ
③ ラインミキサー必須アイテムです。これも中古品が非常に安く出回っています(高級品は不要)。“入力”端子にマイクとパソコンの音声出力を繋ぎ、“出力”端子をアンプの“AUX”端子に繋ぎます
④ カラオケ用エコー付きマイク(電池式):必須アイテム。これも中古品が非常に安く出回っています(高級品は不要)

存分にお楽しみください!

おわりに

全く音楽の才能に恵まれなかった私がこのブログを書くに当って、様々な疑問が発生しました。相談する相手は私の子供3人です。この子たちには、不思議なことに多少神の恵みがあったようで、長い間培った音楽の知識を披露してくれました。この子供達への感謝の気持ちを込めて3人の音楽の経歴と宣伝を少しさせて頂きます

長女については高校終了まで、とある合唱の団体に所属し、海外公演なども行っていました。現在ワイフが北欧の国々に人脈を持ち、エストニア関連の仕事(無給!)ができているのもそのお陰といえます。社会人になってからゴスペルの団体に所属して頑張っていましたが、子供ができてからちょっとお休みをしているようです
長男は、高校時代に相当ギターの練習をしていたようで、今でも長男が使っていた部屋には沢山の音楽関係の本と、ギターなどの楽器が何台も置いてあります。最近、映像関連の忙しい仕事の傍ら、自身が作詞・作曲・演奏(シンセサイザー)した曲「Kentaro Arai 1441」をリリースしました。このアルバムの中で、私が一番気に入っているのは「マグカップ」です

次男も高校時代に自宅のピアノで独学をしていた様で、私が海外駐在から帰任した時に、突如二階から「幻想即興曲」が流れてきた時は本当に吃驚しました。現在はIT関連事業を興して忙しい仕事をする傍ら、依頼があると作曲なども行っている様です。また土日には複数のバンド仲間と活動を行っています。昨年、神谷町の光明寺で、自身が中心のバンド(Saara Band)がいけばな作家の今井蒼泉氏と、ジョイントでライブ演奏を行ったものを YouTube にアップロードしてありますのでご興味のある方はご覧になってください。ただ非常に長い(40分以上)演奏です:「Saara Band × Sosen Imai live performance at Komyoji Temple

以上

“死”について(その2)

はじめに

3年前の3月に同じタイトルのブログ(“死”について)を書きました。この時は偶々、私の高校時代の親友と「死」についてメールのやり取りをする機会があり、その時の私の「死に対する考え方」を書いてみたものです
それから3年余りの年月を経た今年の4月、1年ほどの闘病生活の後に私の最も近い肉親の一人である妹が亡くなりました。私より3年も若い死は、数十年前の親の早すぎる死に接して感じた不条理を改めて蘇らせることになりました。人間である以上死は避けられないものですが、やはり死は特別なものです

また、避けられない死を前にして、妹の家族が行った数か月に亘る献身的な「看取り」と、死にゆく妹の穏かなさまは、日ごろ死から遠ざかっていた私に大きなショックを与えてくれました

以後、数か月間「死に係る」本を読み、知りえた知識を纏めてみました
最初のニュートン別冊の記事紹介は、主に医学、生理学の見地から死を捉えたものです。雑誌ニュートンの記事にはいつも感心しますが、イラストをうまく使って難しい内容を分かり易く説明しています。記事の全てではなく、生物としての人間の死に関して、どこまで科学的に研究がすすんでいるかを中心に概要を纏めてみました

次はシェリー・ケーガンの講義録の紹介です。この講義は、私の最も苦手とする哲学、倫理学の知識を駆使して、死とは何かについて解説しているものです。論理的な正確さを貫いている為に理解するのに非常に時間がかかりましたが、苦労して読み終えてみるとそれなりに私たちの生き方に対する、何か指針の様なものを与えてくれるような気がしました。内容が多岐にわたりますが、最後の方に多くの紙面を割いて「死に直面しながら生きる」、「自殺」というテーマを扱っています。これは、この講義が、世界中から若き俊英が集まっているイェール大学の学生を対象としていることから、これらの学生に悔いのない人生を送ってもらうことを願ってのことだろうと思いました
尚、筆者のシェリー・ケーガンは魂の存在(⇒人間の魂は永遠)を完全に否定していますので、魂の存在を信じている方は、この段落はスキップしたほういいと思います

三つ目の段落は、私が50年近く前の父の死以降、折に触れ読み返し、心の支えにしてきた「般若心境」の死生観についての簡単な紹介(受け売り?)です。「般若心境」は禅宗系の宗派では必ずと言っていいほど読経の対象になっていますが、日本ではほかにも多くの宗派が存在します。これらの宗派の死生観については勉強していませんので触れていません

最後の段落は、看取りの問題です。亡くなっていく本人が、ともすれば過剰な延命処置を行ってしまう病院での死よりも、自宅での安らかな死を願いつつも、希望通りにならない実態と解決の方向性について書かれている本の紹介です

死とは何か -- 雑誌「Newton」別冊から

死とは何か_Newton別冊
死とは何か_Newton別冊

この本では、主として「人間」が生物としての「死」を迎えるときの細胞レベルの変化(心の問題は別)を、最新の科学的知見をもとに解説しています;

1.老化のしくみ; --- 割愛します

2.生と死の境界線
(A)生と死;
通常のイメージでは、心停止となった時と考えがちですが、もし血液と酸素を適切な方法で循環させれば、他の臓器や脳は、まだ“生きて”いられます。そう考えると、死は瞬間的に訪れるものではなく「過程」だということができます

(B)心停止;
心拍と呼吸が止まっても、完全なる死ではありません。突然、人が倒れて意識を失った時、その人は、心停止ではなく、心臓のリズムが無秩序になって、血液が全身に送られなくなった状態(心室細動)である可能性もあります。この状態で最も影響を受けやすい臓器は「」です。僅か30秒ほどでも脳に何らかの後遺症が残る可能性があると言われています。脳に続いて「脊髄」、次に血中の老廃物を取り除く「腎臓」の一部、という順序で甚大な影響を受けるといわれています
現在、死亡の判定は、医師(歯科医も含む)が「心拍の停止」、「呼吸の停止」、「瞳孔反応の喪失」の3つ(死の三兆候)が揃う、ことで行っています。瞳孔が光に反応しなくなったときは、脳幹が担う様々な反射反応が全て消失することにほぼ一致しているからです

心臓を支える重要パーツ
心臓を支える重要パーツ
AEDを使うと救命率が高まる
AEDを使うと救命率が高まる

(C)植物状態;
心停止後に一命をとりとめても、脳に後遺症が残ることがあります。脳の各部分(下のイラスト参照)が低酸素状態になることによって、意識や体の各部分の機能に影響が出て来ます。「大脳皮質」(大脳の表面)と、それに連携している「視床」が機能を失うと、意識が持てなくなり昏睡状態に陥ることになります。しかし1~2ヶ月ほどで、目が開くようになったり、覚醒と睡眠のリズムが戻ってきたりする場合があります。この状態を植物状態と言います
植物状態では、低酸素に比較的強い「脳幹(呼吸など生命維持に不可欠な機能を担っている)がある程度機能しています。植物状態は、3ヶ月以上続く意識障害の一種で、診断の基準は「目が開いていても意思疎通は行えないこと排泄をコントロールできないこと自発的に呼吸でき目を開けている時間と閉じている時間もある」ことです。従って、死の三兆候は満たしていないので死から遠い状態にあるといえます。植物状態から6ヶ月間は回復する可能性はあり、目覚めが早いほどその後の治りも良い言われています。8年~10年という長期間を経て回復したケースも報告されています(青森大学・片山容一博士)

脳の各部分の働き
脳の各部分の働き

健常者と植物状態の患者、昏睡状態の患者の脳波を比べる(下のイラスト参照)と、植物状態の患者の脳波は、覚醒時、睡眠時ともに健常者ほどではないものの、脳が活動していることが分かります。しかし、外部からの刺激に正常に応答できないことから、意識は無いと考えられます。昏睡状態の患者の脳波は、ある程度活動していることは分かりますが、健常者の脳波とは形がかなり異なっています

脳波比較(健常者覚醒時・植物状態覚醒時・植物状態睡眠時・昏睡状態)
脳波比較(健常者覚醒時・植物状態覚醒時・植物状態睡眠時・昏睡状態)

2006年、植物状態と診断された患者にも意識があるという可能性が実験結果で報告されました。ケンブリッジ大学のエイドリアン・オーウェン博士らは、交通事故で植物状態にある患者の脳の活動を「fMRI(脳の各部分の活動の活発度を、脳を傷つけることなく測定できる装置)」で調査しました。この患者に「テニスをしている状態を思い浮かべてください」と呼びかけると、患者の脳は、同じことを言われた健常者と非常によく似た活動を示すことが分かりました。このことは、植物状態と診断された患者の中には、健常者と同等に外部の言葉を理解し、正常な応答ができる(⇔意識がある)患者が存在する可能性があることを示唆しています。植物状態の患者の意識については。今後さらに詳しく調べる必要があると思われます

(D)閉じこめ症候群;
全身が麻痺して声も出せず、意思を伝えることが出来なくなっているものの、周囲の様子を目や耳などで把握でき、思考も可能であった場合、通常の方法ではコミュニケーションができないので、一見、植物状態と見分けがつかなくなります。この状態のことを「閉じこめ症候群(Locked-in Syndrome)」といいます。難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)も症状がすすむと、同じような状況になります。閉じこめ症候群は、覚醒していて、自己や外の世界を認識できるという点を考えると、健常者の意識状態とほぼ同じといえます。閉じこめ症候群の患者の脳の損傷部分と、意識や感覚が正常である理由は以下のイラストをご覧になるとお分りになると思います;

閉じこめ症候群の脳の状態
閉じこめ症候群の脳の状態

(G)脳死
植物状態や閉じこめ症候群と違って、呼吸や意識が無く、脳が機能を取り戻す見込みのない状態が脳死といわれます。脳死の判定基準は、「脳幹」の機能が停止していることが重要視されます。脳幹の機能停止を確かめる7つの方法は、以下のイラストを参照してください;

脳幹の機能停止を確かめる7つの方法
脳幹の機能停止を確かめる7つの方法

自発呼吸が止まっても、人工呼吸器を付ければ、心臓が動いている間は血液と酸素の循環は保てます。また、食事が取れなくても、点滴で水分や栄養を補給することは可能です。つまり脳が機能を失っても、身体は生かし続けることができるので、臓器移植によってほかの人の命を繋ぐことが可能となる訳です
しかし、脳以外は生きていることから、ある統計調査によれば、「脳死は人の死として妥当だと思う」という回答者の割合は、米、英、仏、独では60%~71%であるのに対し、日本では43%だそうです

(H)臓器・細胞の死;
脳を細胞のスケールで見ると、脳の神経細胞(ニューロン)は、活動するためのエネルギーとなるATP(アデノシン三リン酸)を、ブドウ糖(グルコース)と酸素を使って作り出しています。神経細胞に酸素の足りない状況が続くと、ATPが枯渇し、神経細胞が死んでしまいます。神経細胞が酸素不足になって死に瀕するまでのタイムリミットは、動物実験によれば3~4分と言われていいます。神経細胞は、低温では活動が抑えられるため、ATPが枯渇するまでの時間を稼ぐことが出来ます。特に心臓の異常による脳損傷に関しては、脳の温度を1~2度下げる低体温療法がおこなわれています

皮膚の細胞や腸の細胞は、日々死んで新しい細胞に入れ替わっています。死んだ皮膚の細胞は垢として、死んだ腸の細胞は糞便として体外に捨てられています。また、尿を通しても死んだ細胞が排泄されています。細胞のスケールで考えれば、命ある人体には、生と死が混在しているということが出来ます

現在行われている臓器移植で、移植が成功する(5年後に生着している)確率、移植希望者数は、以下の通りです(生着率、移植希望者登録者数は「2017年の日本臓器移植ネットワーク」のデータから引用しています);
心臓:生着率/91.6%、移植希望登録者数/728人
② 肺:生着率/71.2%、移植希望登録者数/349人
③ 肝臓:生着率/81.6%、移植希望登録者数/335人
④ 腎臓:生着率/76.8%、移植希望登録者数/207人
腎臓 :生着率/77.4%、移植希望登録者数/1万2千人
小腸:生着率/62.3%(拒絶反応が大きい)、移植希望登録者数/ごく僅か
上記以外にも、骨、血管、皮膚、などの移植も行われています

元の身体が死んでも生き続けている細胞を「不死化細胞」と言います。最も有名なものに、ヘンリエッタ・ラックス(1920年~51年)という米国の女性の子宮頸がんに由来する細胞株(下記の写真参照)があります。この細胞は、女性の名と姓の2文字をとって「HeLa細胞」と呼ばれており、彼女が死んだ後も、細胞分裂を繰り返して今も生きています細胞レベルでは「不死」が可能!);

細胞として「不死」になった女性
細胞として「不死」になった女性

(I)臨終直前の回復;
亡くなる前に、既に亡くなっている人を見るなど、あり得ない物事を見たり感じたりする幻覚体験(所謂「お迎え」)は多いといいます。日本では4割強英国での調査では6割ほどの人が経験していたとの報告もあります。また、終末期の緩和ケアの現場では、臨終の前に一時的に体調がよくなったり、ぼんやりしていた意識がはっきりするなどの現象も報告されています。2010年~14年にかけて、患者を看取った介護者からの回答によると、2~3割に一時的な体調改善や覚醒が見られたと報告されていますが、脳科学や生理学ではこの原因を突き止めることが出来ていません

(J)臨死体験;
死線をさまよった際に「臨死体験」を報告する人もいます。因みに、心停止から回復した患者のうち5~6人に1人が臨死体験を報告するといいます。その体験は、個々に違ってもよさそうなものですが、光を見たり、苦しみを感じなかったり、などの共通性も見られるようです
脳研究の為の「生前同意登録」システムの創始者である豊倉康夫医師が33歳の時、急性アレルギーによるショックで一時的に呼吸停止になった際、覚醒した時に「臨死体験」の報告を行っています(極楽の花園をさまよい、天上の光を浴び、何とも言えない恍惚感を感じた)。豊倉医師の死後、その脳の解剖検証を行ったところ、呼吸停止による脳虚血で生じたと思われる僅かな損傷を発見しましたが、臨死体験がこの脳の損傷で説明できるかどうかは検証できていません

(K)死の間際にみられる「最後の脳信号」;
2018年2月、脳死患者9名の家族の同意のもと、生命維持装置を外した後の脳内の活動が記録され、医学誌に報告されました(下記のグラフ参照);

最後の脳信号
最後の脳信号

血液の循環が停止すると、脳内の酸素濃度が下がっていき、脳波も平たんになっていき、最終的に神経細胞には「ターミナル(週末)拡延性脱分極」として知られる現象が観測されました。これは神経細胞への酸素供給が絶たれ、ATPが枯渇、細胞の内外のイオンのバランスが崩れて元に戻せなくなった状態です。「拡延性脱分極」の専門家であるドイツのシャリテ大学病院神経科教授・イェンス・ドレアー博士は、「拡延性脱分極」が死に繋がる最終的な変化(本当の終わり)の開始である可能性があると言っています

(L)生死の境;
千葉大学付属法医学研究教育センターの岩瀬博太郎博士は、「死の三兆候」はあくまで経験的にこの状態になると、もう二度と蘇生しないというだけだと言っています。脳死判定は「脳が何割損傷したときに意識が完全に失われるといった明確な判断基準」が無いので、現在は、あくまで医師の判断によって行われることになっています。因みに、心肺蘇生を施されている人や、心臓移植中で「仮死状態」の患者などでは「死の三兆候」が見られたあとでも蘇生する例があります。従って、医師の「死の三兆候」の確認は、心肺が停止してから数十分時間をあけてから行われるのが一般的です

(M)高齢者が死に向かう体にはどんな変化が起きるのか?
高齢者の死期について研究している東京有明医療大学教授・川上嘉明博士は、「高齢者が亡くなるまでにたどる体の変化はゆっくりしているため、死期を正確に判断するのは非常に困難」と言っています。河上博士は、老人ホームなどで亡くなった高齢者の亡くなるまでの過去5年間のBMI(定義については肥満指数(BMI)についての”はてな?”をご覧になってください)、食事量水分摂取量の調査を行っています(下記のグラフ参照);

死に向かう体の変化
死に向かう体の変化

川上博士によれば、この結果はあくまで平均値なので、必ずしも全ての人がこの経過を辿るという訳ではないと言っています

3.寿命の不思議
(A)細胞の2種類の死;
私たちの身体は、受精卵になった時には1個であった細胞が、細胞分裂を繰り返して最終的に成人の身体は37兆個以上の細胞で構成されています。これらの細胞の死に方は「壊死(外傷や栄養不足による事故死)」と「自死」に分けられます。私たちの身体では、毎日3千億個から4千億個の細胞(約200グラムに相当)が死に、代わりに新しい細胞が生まれています。身体を構成している各種の細胞別の寿命については以下のイラストを参照してください;

人体の細胞の寿命
人体の細胞の寿命

(B)細胞の自死;
細胞の自死の仕組みは2種類に分けられます。第一のタイプは、脳の神経細胞や、心臓の心筋細胞のように生まれてから死ぬまで殆ど入れ替わることのない細胞で、細胞分裂をしない代わりに100年近い寿命を持っています。もう一つは、皮膚の細胞のように頻繁に入れ替わる細胞で、人の皮膚は約4週間で入れ替わります。第二のタイプの細胞の寿命は分裂の回数によって決まってきます
第一のタイプだけで出来ている生物の代表は成虫となった昆虫です。昆虫は、新たに分裂する細胞を持っていないので身体が傷ついても修復はできません。第二のタイプの生物にプラナリアがあります、再生能力が高く、切っても切っても再生することが出来ます。ただ、再生回数には限度があります

プラナリア
プラナリア

人間の第二のタイプの細胞死は、「アポトーシス」といい、かなり研究が進んでいます。アポトーシスとはギリシャ語で「葉や花が散る」という意味です。
アポトーシスの引き金になるのは、細胞の老化やホルモン、ウィルス、放射線、などの様々な刺激です。刺激を受けた細胞は、「ガスパーゼ」という酵素を活性化させ、細胞内にあるタンパク質を切り刻みます。タンパク質が破壊されると、その中にあるDNAを分解する酵素が働きだし、DNAが断片化されてしまい、細胞が正常な機能を失います。この時点で確実な細胞死が約束されてしまいます。この細胞は最終的に小さな袋に分けられ、2~3時間のうちに隣り合う細胞や「マクロファージ(白血球の一種で免疫機能の中心的役割を担っています)に取り込まれていきます。取り込まれた細胞の成分はリサイクルされて新しい細胞の材料になると考えられています)。アポトーシスは、老化したり異常になった細胞を早めに取り除き、身体を正常な状態に維持していますので、「生命を保つための死」とも言われています

人間の第一のタイプの細胞死は「アポビオーシス」といい、「寿命がつきる」という意味です
アポトーシスとの違いは「DNAが比較的大きく断片化されること」と「最終的に小袋に分けられず、ただ収縮するだけ」という点にあります。取り換えのきかない脳の神経細胞が死ぬことは、個体の死に繋がります。アポビオーシスで死んだ細胞はゆっくりとマクロファージに取り込まれたり、そのまま放置されたりします

(C)がんと細胞死;
がんとは、細胞が異常に分裂・増殖することで、正常な細胞や臓器がおかされ、死に至ることがある疾患です。私たちの身体では、生まれた時からがん細胞が発生していますが、普通はアポトーシスで自死する為にがんになることはありません。しかし、細胞にはアポトーシスを起こすガスパーゼの他に、ガスパーゼの働きを抑制する「IAPタンパク質(アポトーシス抑制タンパク質)」があり、これが多すぎると自死できない状況になります。がんの異常な分裂・増殖はIAPタンパク質が多すぎることによって始まることが分かってきました。現在、IAPタンパク質の働きを妨げる新しいがん治療薬の実現を目指して研究が行われています

(D)アルツハイマー症と細胞死;
高齢化によって大きな社会問題になっているアルツハイマー症は、大脳の神経細胞が急激に死んで減ってしまうことによって発症します。現在、その治療に使われている主な薬は神経細胞の死を止める薬ではなく、残った細胞同士の繋がりを維持するための薬です。神経細胞の死を止める新薬を開発するにはアポビオーシス」の仕組みを解明しなければなりませんが、実験材料となるべき神経細胞が増殖しない為に、研究が進んでいないのが現状です

(E)無性生殖と有性生殖;
無性生物である大腸菌は、遺伝子のセットを一つだけ持っている1倍体生物」です。増殖するときは、予め遺伝子のセットを一つコピーしておき、分裂するときに1セットずつ分配します。分裂した二つの細胞の遺伝子セットは元の細胞と全く同じになります(これを無性生殖と言います)。大腸菌は栄養がある限り、分裂することができ分裂の限界は無く、自死の遺伝子も持っていないので、いわば「不死」です
生命誕生から20億年たってから「自死」の仕組みを持つ生物が現れました。それは1倍体生物生物と異なる遺伝子セットを二つ持つ2倍体生物」でした。人間もこの2倍体生物の一員です
2倍体生物は、分裂だけで個体を増やすことは殆どありません。雄と雌が協力して、それぞれが持つ遺伝子を混ぜて新しい1セット分の遺伝子を「生殖細胞」に収め、この細胞が増殖することによって、他の誰とも違う遺伝子セットを持つ個体(子供)が生まれます(これを有性生殖と言います)。この結果、遺伝子のバリエーションが豊富になり、環境に激変があった場合に種が全滅してしまう可能性を低くすることが出来るようになります。一方、遺伝子の異常な組み合わせがが出現してしまうというマイナスの可能性もはらんでいます。2倍体生物は、片方の遺伝子セットに異常があったとしてももう片方が正常であれば、成長できることもあり、異常のある遺伝子が、そのまま生殖細胞に含まれて子孫に引き継がれる可能性も出てきます。異常のある遺伝子が消えずに子孫に蓄積していってしまうと、いつか正常な個体を作れなくなり、種の絶滅に繋がる可能性も出てきます。有性生殖でおかしな遺伝子の組み合わせが出来てしまった時、それを消滅させる仕組み ⇒ 「死のプログラムを持った生物が現れ、その生物が長い地球の歴史の中で生き残り、繁栄してきていると考えることが出来ます

(F)寿命の長さ;
遺伝学に詳しい東京大学定量生命科学研究所教授の小林武彦博士は、「複雑な組織を維持するのはかなり大変で、有性生殖を行う生物は、ある程度老化すると、組織を保てなくなり、死んでしまうのでしょうと言っています。また、仮に親がずっと生き残ってしまう種がいたとすると、子供と餌の取り合いが起こり、いずれ餌が枯渇してしまうことになります。環境の変化によって簡単に淘汰されない程度に適応能力を持ち、子孫を生んだ後いずれ死んでしまう生物の方が、結果的に繁栄できたのだろう」と言っています。

(G)寿命の限界;
人類史上、正確な記録が残っている範囲で最も長生きした人物は、フランス人女性のジャンヌ=ルイーズ・カルマン氏で、122年(1875年~1997年)に及ぶ生涯を送りました。小林武彦博士は、人間の寿命は、環境と寿命が3:1の割合で関係していると言っています。また、同博士は「日本人の寿命(男性/81.09さい歳、女性/87.26歳;2017年の統計)は、人間としての生理学的な限界のかなり近い所にある」とも言っています
人間の生理的な寿命とは、「身体の器官とそれを構成する細胞が正常に活動できる限界」ということが出来ます。私たちの身体の大部分は古い細胞を新しい細胞に入れ替えることで常にフレッシュな状態に保たれています。しかし、老化とともに細胞の入れ替わりが少しずつ遅れてしまいますこの原因は、細胞増殖の要となる「幹細胞」が老化する為です細胞の老化は、様々な要因によってDNAが損傷することなどによって進みますDNAには損傷を修復する機能が備わっていますが、損傷が多すぎたり、修復能力が低下したりするとDNAに損傷が残ってしまいます

近年、「長寿遺伝子」と呼ばれる細胞の老化を遅らせる働きを持つ遺伝子の存在が注目されています。中でも有名なのは「サーチュイン(Sirtuin)」という総称を持つ遺伝子群です。この遺伝子はDNAの安定化に係る遺伝子ですが、まだ動物実験の段階にあり、人間に使える薬になるにはまだ長い研究が必要と思われます

シェリー・ケーガン著:「死」とは何か

DEATH_イェール大学教授・シェリーケーガン
DEATH_イェール大学教授・シェリーケーガン

筆者は「シェリー・ケーガン/Shelly Kagan」:イェール大学教授、道徳哲学、規範倫理学が専門、着任以来続けられている「死」をテーマにした大学での講義は、常に指折りの人気授業になっており、本書はその講義を纏めたもの
本書は、恐らく講義(講義風景:DEATH)の録音を英語で起こし、それを翻訳したものなので、以前に纏めた(Life Shift)と比べて時として説明が冗長で論旨が分かりにくいところもありましたが、難しい哲学や倫理学を若い学生向けに平易な言葉で説明していることには好感が持てます
翻訳者は「柴田裕之/しばたやすし」:早稲田大学、Earlham College(1847年にクェーカー教徒系の団体が設立)卒業

筆者は講義の最後に、本講義の狙いについて以下の様に語っています;
たいていの人は、どうしても死について考えたくないと思っている。また、魂の存在を前提として、私たちは永遠に生き続ける可能性があると信じている。しかし、それは、死が一巻の終わりであるという考え方にどうしても耐えられないからだ。筆者は、これらすべてを否定しています不死は災いであり、恵みではない。死について考えるとき、死を深淵な謎と見なし、恐ろしくて面と向かえず、圧倒的にぞっとするものと捉えるのは適切ではない。死を恐れるのは不適切な対応だ。だから私は本講義を通じて、生と死にまつわる事実について自ら考えるように促してきた。さらに、恐れたり幻想を抱いたりせずに死に向き合うように促してきた

また、翻訳を行った柴田裕之氏は、現在の日本が抱えている以下の様な深刻な問題について、本書が何らかの助けになるのではないか考えています;
高齢化が大きな社会問題になりつつある現在、病気になる可能性や余命を遺伝子検査などで統計的に予測できる時代に入りつつある。臓器移植植物状態脳死延命措置尊厳死安楽死自殺リビングウィル(終末期医療における事前指示書)、老前整理終活遺言、死に関連した話題に事欠かない。人生をどう生き、どう終えるかを考えるのが当たり前になるかもしれない

本書の9回の講義の内容は、死に係る多くの論点、及びこれらの論点に係るギリシャ・ローマ時代から現代に至るまでの数多くの哲学者や文学者の主張を引用しつつ、それに係る筆者の意見を網羅していますので膨大になっています。従って、各回の講義毎に私なりに要点をまとめたものをこのブログの最後に付録として追加しています。また、更に各講義の詳しい内容について個別に知りたい方は私のレジュメ(Death_résumé/Word A4で35ページ)をご覧になってください。これをみても何を言っているかわからん!?という方は、本書を購入(1850円)して読んでみることをお薦めします

「般若心経」の死生観

般若心経
般若心経(臨済宗・建長寺派 崇禅寺の日課経典より)

私たち日本人にとって、最も身近にある宗教は言うまでもなく「仏教」です。しかし、多くの日本人にとって仏教は「葬儀」や「法事」で触れることはあっても、日常の生活の中で、仏教的な環境に置かれる機会は非常に少ないのではないでしょうか。一方、キリスト教にあっては日曜日の礼拝、イスラム教にあっては1日5回のメッカに向かっての礼拝を守っている人も多くいるようで、宗教に対する姿勢にかなり隔たりがあるような気がします

私も、大学院修士課程2年の後半、父の死に向き合わざるを得ない状況になるまでは、全くと言っていいほど宗教には無縁な生活をしていました。その頃、自宅にあった小さな小さな仏壇には、戦前に満州で亡くなった私の姉2人の小さな白木の位牌があるのみでしたが、父が入院した後、朝晩この仏壇に向かって母が一心に祈る姿を見ていました。しかし、私自身は父の治癒を仏壇に向かって祈ることはありませんでした
翌年の2月に父が亡くなってから、大きな喪失感と病弱の母をこれから支えていかねばならないという責任感で、暫し何も手につかなかったことを覚えています。そこで朝晩、仏壇に向かって「般若心経」を声を出して読むことで、心の平衡を取り戻していったことが思い出されます。母の死も、ほぼ回復を約束されていた手術の直前に急死したこともあって、心の痛手は小さくなく、この時も「般若心経」を声を出して読むことで、乗り越えていきました

「般若心経」が求めている境地は、「人間の一生は「無」から生まれ「無」に帰っていく、生きていることは「苦」(生老病死)の連続である」ということですが、もう少し詳しく知りたい方は(「般若心経_現代語訳)をご覧になってみてください

「般若心経」については、根本の教理は変わらないものの、色々な解釈があります。父が亡くなって以降、色々勉強した中で、私は以下の二つの解釈が心に響くような気がしましたので紹介いたします;

生きて死ぬ知恵_柳澤桂子 著
生きて死ぬ知恵_柳澤桂子 著

1.著名な分子生物学・生命科学の研究者である柳澤桂子氏が、30年以上に亘って激しい痛みとしびれを伴う原因不明の病(後に「周期性嘔吐症候群」と診断されました)に苦しんでいた時に「般若心経」と出会い救われたと回想しています。科学者であることから「人間も含め物質は全て原子からできており、一面の原子の飛び交っている宇宙の中で、私たちはところどころ原子が密になっているだけの存在」という認識から出発している所に特徴があります。理系の人間にとっては理解しやすいかもしれません。詳しくは(般若心経_柳澤桂子訳)をご覧になってください

2.私が、折に触れ手にして読んでいる「臨済宗・建長寺派 崇禅寺の日課経典」に「般若心経和讃」というお経が入っています。これは文字通り日本語訳なのですが、庶民を対象にしたお経であることから、日常の庶民の悲しみ、苦しみをどう乗り越えていくかを七五調で具体的に説教しているところが素晴らしいと思います。是非一度ご覧になってみて下さい:般若心経和讃_臨済宗建長寺派・崇禅寺・日課経典

Follow_Up:死生観の変遷_Sep’19・Wedge

看取りについて

看取りに関する二冊の本
看取りに関する二冊の本

A.看取りに関する二冊の本;
冒頭でも述べた様に、妹の死とその家族の「看取り」を間近で経験する機会があり、既に老境に入っている私たち夫婦にはその覚悟が無いことに気が付きました。そこで、まず看取りの実態を知る必要を感じて読んだのが以下の2冊の本です(上の写真参照);
1.「死を生きた人びと」
筆者の小堀鷗一郎(こぼりおういちろう)医師は、国立の医療機関で40年間、外科の勤務医として勤めた後、私の住んでいる所にほど近く、私の母も亡くなる前に世話になったことがある「堀之内病院」に赴任しました。2005年になって退職する同僚に依頼されて「寝たきりの患者2名」の訪問医療を引き継ぐことになったことがきっかけで「在宅医療」の世界に入ることになったそうです
2000年4月に、国が「介護保険制度を創設し、高齢者の終末期医療の場を病院から自宅に移行させる方針を決定して以降、現在では、堀之内病院でも専属医師4名、看護師2名による地域医療センターが創設され、充実した体制が整えられています(以下の表参照);

堀之内病院・地域医療センターの訪問医療登録患者数(上)と月当たりの訪問医療回数(下)
堀之内病院・地域医療センターの訪問医療登録患者数()と月当たりの訪問医療回数(

筆者は、これまで355人の看取りに係り、現在の問題点について以下の様な指摘を行っています;
① 今の日本では、患者の望む最期を実現することは非常に難しい。「死は敗北」とばかりにひたすら延命する医者目前に迫る死期を認識しない親族や患者が多い
②行政と社会は、 病院以外での死を「例外」と見做し、老いを「予防」しようとする
「病院死」が一般化するにつれ、自分や家族がいずれ死ぬという実感が無くなってしまっている
筆者は、日々の往診の際に患者と語り合ううちに、患者の7割は自宅での死を求めるようになる(現在の日本では8割が病院で死亡している)と言っています

ご存知の方が多いと思いますが、医師の居ない状態で亡くなると、不審死として警察が介入し、本人や家族が希望しない解剖による検死が行われる可能性があります。これを避けるためにも、また痛みなどの緩和措置を適時、適切に行ってもらうためにも。在宅死を希望する場合は、医師の訪問看護を前提にする必要があると言っています

2.「死にゆく人の心によりそう」
筆者の玉置妙憂(たまおきみょうゆう)氏は消化器外科の看護師をしていましたが、在宅死を希望した夫の看取りを2年間行いました。夫の「自然死」という死に様があまりに美しかったとから、49日の納骨が終わった段階で出家を決意、真言宗・高野山で200日に亘る厳しい出家のための修行を経て僧侶となりました。その後、看護師の仕事を続ける傍ら、死期の近い患者やその家族の間に入って、精神的なケアを行う「臨床宗教師として多くの看取りを実践してきました。以下は、看取りの実践を行う過程で得た「死に向うプロセス」に関する観察記録です

<死に向かうとき、心と体はどう変わるのか>
① 死の3ヶ月前から起こること外界に興味が無くなり、内に興味が向く;食欲が落ちて食べなくなる⇒痩せる;眠くなり、夢を見ながらうつらうつらする
② 死の1ヶ月前から起こること血圧・心拍数・呼吸数・体温などが不安定になる;痰が増えるが暫くすると元に戻る;夢かうつつか分からない不思議な幻覚を見る
数日前から起こること 急に体調が良くなる; 血圧・心拍数・呼吸数・体温などが更に不安定になる
④ 死の24時間前頃から起こること 尿が出なくなる; 下顎呼吸になる;尿と便がバッ出る; ㋥目が半開きになり、涙がでる; 息を吸って、止まる

<大切な人の死を看取る人の心に起こること>
① 何もすることが無いと不安になる: することが無くなって手持ち無沙汰になる; 「食べたくない」と言われて心配になる
② 「まだ大丈夫」と「もうダメかも」の間で心が揺れる: 自分の希望のために、不必要なことをしてしまう; お酒やタバコが欲しいと言われても拒んでしまう
③ 別の世界に行きつつあることを理解できない: 奇妙なことを言われて否定してしまう ⇒ 同じ空間にいるだけでいい
④ できることは全てしても後悔する:⇒ 起こったことはすべて「よかったこと」

<上記以外で心に残ったポイント>
* 余命を告げられた時に、本人がそれを受容するまでに、否認⇒怒り⇒取引⇒抑うつ⇒受容というプロセスを辿る
* 「スピリチュアル・ペイン」とは終末期特有の心の痛みからくることで、看護する人に「なぜ死ぬのだろうか?」、「どれくらい生きていられるのだろうか?」、「私の人生は、何だったのだろうか?」と聞いてきます。看護する人には答えようのない問題ですが、「何をバカなことを言ってるの」などと言って逃げたり、諭したりするのではなく、死にゆく人の言葉に耳を傾けてあげることが大切 

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B.「病床六尺」を読んで;
看取られる側の死に至る迄のプロセスについては、当然のことながら亡くなってしまえば書いて残すことが出来ないので、中々いい本が見つからなかったのですが、何かの拍子に学生時代に読んだ正岡子規の「病床六尺を思い出しました。家の中を探してみましたが、見つからなかったので、ネットで購入できるか探してるうちに、電子化された病状六尺の全文がネットから手に入れることができると分かり(恐らく短編であり著作権が切れている為と思われます)読み返してみました

内容はご存知の方も多いと思いますが、1902年5月5日~同年9月17日までの136日間、127回に亘って日刊新聞「日本」に掲載された、評論を中心としたエッセーです。最終稿が投稿されて二日後に亡くなりました。日刊新聞「日本」といえば、今年、終戦記念に因むNHKの特集番組で、国粋主義を標榜する編集で国論を動かし、日本を軍国主義に導いていったメディアとして紹介されましたが、このエッセー自体はそうした内容は皆無です。ここでは、死を間近しながら、舌鋒鋭い評論の部分は割愛することとし、当時「死病」であった結核菌による脊椎カリエス(私の父の姉もこの病で20代前半に無くなっています)で、死の恐怖と極度の痛みに苦しみながら、どのように過ごし、亡くなっていったかに注目したいと思います;

*最初の投稿で、「苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤(鎮痛剤?)、僅かに一条の活路を死路のうちに求めて安楽を貪るはかなさ、それでも生きて居ればいいたい事はいいたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限って居れど、それさえ苦しんでいる時も多いが、読めば腹の立つこと、癪に障る事、たまには何となく嬉しくてために病苦を忘るるような事がないでもない」 ⇒ 精神的、肉体的に厳しい状況になっていても、評論という創作活動を行うことで、絶望しないで生きることが出来るということか、、、
* 21回目の投稿で、「余は今まで禅宗のいわゆる悟りということを誤解していた。悟りということは如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違いで、悟りということは如何なる場合にも平気で生きていることであった」 ⇒ 死期が迫っている自覚があるなかで、創作活動を続けることが出来たのはこうした悟りに達していたからか、、、

* 病状が厳しくなった39回目の投稿で、「死ぬることが出来ればそれは何より望むところである。しかし死ぬる事も出来ねば殺してくれるものもない」 ⇒ 自死をする体力も失ったということかもしれない
* 看護に触れている66回目の投稿で、「おんなの務むべき家事は沢山あるが、病人ができた暁にはその家事のうちでも緩急を考えて先ず急なものだけをやって置いて、急がない事は後回しにするようにしなくては病人の介抱など出来るはずがない、、、んうんと唸っている病人を棄てておいて隅から隅まで拭き掃除をしたところで、それで女の義務を尽くしたという訳でもあるまい」 ⇒ 献身的な介護をしていた妹の「律」に向かって言っているとすれば、現代では許されないコメントかもしれない

* 病状が進んだ86回目の投稿で、「このごろはモルヒネを飲んでから写生をやるのが何よりの楽しみになっている」 ⇒ 現在の緩和治療では、痛みに応じて多くの種類の鎮痛剤(モルヒネを含む多くのオピオイド系鎮痛剤)を処方できる
* 127回目の最終稿を送った翌日の9月17日、死が目前に迫ったことを覚り、以下の辞世の句を自身で唐紙に書きつけ、19日未明に息を引き取りました。享年36歳でした;
⇒ 「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
⇒ 「痰一斗糸瓜の水も間にあわず
⇒ 「をととひのへちまの水も取らざりき
(注)糸瓜は「へちま」のこと。ヘチマの蔓を切って液をとり、飲むと痰が切れ、咳をとめるのにいいとされ、子規の家でも庭にヘチマを育てていた。子規の命日を「糸瓜忌」というのは、この辞世の句が由来です

おわりに

およそ4ヶ月のあいだ、死の問題に取り組んで来ましたが、「自身の死に関して覚悟ができたか」と問われれば”否”と言わざるを得ません。雑誌”Newton”が教える「生物としての生と死」は否定しようがない真実です、またシェリー・ケーガン教授が教える最新の哲学、倫理学から理論的に導かれる「人間の生と死の実相と、それを前提とした正しい生き方」も、ごく一部を除けが納得ができます。

一方、私が50年近くに亘って馴染んできた「般若心経」の死生観については、頭の中ではある程度理解ができるものの、死を超越する悟りの境地(子規の境地?)には程遠い状態です。しかし、この先に何かがあるような感覚は持っています
また、「看取り」の問題は、今回の勉強で自身の心の準備とは別に、在宅死を望むのであれば、家族の理解を得るため準備しておくべきことや、在宅医療のサービスを受けるために必要な準備があることが分かりました

私の死に対する準備が整うまで、「死神さん、ちょっと待って!」というのが今の心境です

付録 -- “シェリー・ケーガン著:「死」とは何か” 各講義の要点

第1講:「死」について考える
本書では、私たちの生き方は、「やがて死ぬ」という事実にどの様な影響を受けて然るべきか? 「必ず死ぬ」という運命に絶望するべきなのか? 「死」を恐れるべきか? 「自殺」の合理性と道徳性、などについて論理的な検討を行う
本書は哲学の本なので、宗教的な権威に訴えず、「死」に関して知り得ることや、理解しうることについて、論理的思考力を使って、注意深く考えることに徹する

「死」が終わりであることが筆者が依って立つ前提となる

第2講:死の本質
人間の機能を、心臓を動かしたり、呼吸をしたり、歩いたりする身体の機能「身体機能(B機能)」と、高次の様々な認知機能を「人格機能(P機能)」とすれば、生まれてから暫くは「B機能」のみ、その後、意思疎通をしたり、理性や創造性を発揮し始め「P機能」を持つこととなる。そして、かなり長い時間が経ってから両機能が停止するが、その状態は議論の余地なく「死体」となる。しかし、「B機能」と「P機能」が同時に停止するとは限らない
「人格説」を取れば、人格を失った時点で死んでいるので「心臓移植」は問題ないと言えるが、「身体説」をとれば生きている人間から心臓を取れば確実に死に至るので「殺人」ということになり、道徳的に許されないことになる

生死の境は実は曖昧。眠っているときにP機能をはたしていないとしても、起こせばP機能を発揮できるので、新たな生きている定義として、「実際にP機能を実行していなくても、それでもP機能果たせる能力を持っている」とすればどうか。こうすれば、P機能を果たせなくなるということは、P機能を果たす能力を支える「脳の認知機能」が壊れ働かなくなった状態と説明することが出来る

死とは何か -- 筆者の哲学的回答;
哲学の観点に立つと、ここでは何一つ謎めいたことは起こっていない。身体が作動し、それから壊れる。「死」とはただそれだけのことだ

第3講:当事者意識と孤独感 -- 死をめぐる二つの主張
主張①:誰もがみな、“自分が死ぬ”ことを本気で信じていない;
根拠_A:病気になり「死」の直前までの状況は想像できるが、死後の状況までは想像できない ⇔ 自分が思い描いたり、想像したりできないような可能性は信じられない
根拠_B:「自分がいつか死ぬ」とは本当は信じていないから;
私たちはみな自分の身体が最終的には機能しなくなると、確かに認めている。何故なら、生命保険に入るのは、自分が特定の期間内に自分の身体が死ぬ可能性があると信じていて、残された家族が暮らしていけるようにしたいと願っているからだろう。また、遺言状を書くのも同じ理由だろう

主張②:死ぬときは結局独り;
「独りで死ぬ」ならば、それは必然か、偶然か;
この主張に関しては、ただ「正しい」ことが判明するだけでは納得するには不十分だ。私たちが探し求めているのは恐らく、死に関する「必然的真理」なのだろう
死を取り巻く「孤独感」;
「死ぬときは結局独り」という主張は、私たちが死ぬときの心理状態が「孤独」に類似しているということかもしれない。死の床に就いたその人は、他の人々に囲まれているかもしれない。にもかかわらず、その人は他者から引き離され、遠く疎外されているように感じている。その人は、大勢の人の中にいてさえ、孤独感を覚える。これこそが、人が言わんとしていた種類の「独りでいる」ことなのかもしれない
筆者の結論:「私たちはみな独りで死ぬ」と人は良く言うけれど、その主張はただの戯言だと思う

第4講:死は何故悪いのか
死はどうして、どんなふうに悪いのか;
殆どの人は「死は悪い」と信じていると筆者は思っている。しかし、死が本当に一巻の終わりであるなら、死は本人にとって悪いものであるはずがないように思える。何故なら、死んでしまって本人が存在していないのであれば、何一つ本人にとって悪いはずがないということは妥当な事ではないだろうか

死は何より、「残された人にとって、悪い」もの?;
残された人にとって、死者との交流する機会をすべて失うことになり、それが死の最悪の点である。しかし、それは「死のどこが悪いのか」という点に関しては、その核心にあるとは思えない

「死ぬプロセス」や「悲しい思い」こそが「悪い」?;
自分がいずれ死ぬと考えたときに、恐れや不安、心配、後悔、その他、を感じるのは、「死そのものが自分にとって悪い」という考えが先にあってこそ筋が通る。言い換えれば、恐怖や胸騒ぎでどうしようもなくなるのは、待ち受けているもの、予期しているもの自体が悪い時に限られる

死の本質は何か;
人間の機能を、心臓を動かしたり、呼吸をしたり、歩いたりする身体の機能「身体機能(B機能)」と、高次の様々な認知機能を「人格機能(P機能)」
「人格説」を取れば、人格を失った時点で死んでいるので「心臓移植」は問題ないと言えるが、「身体説」をとれば生きている人間から心臓を取れば確実に死に至るので「殺人」ということになり、道徳的に許されないことになる

哲学の観点に立つと、ここでは何一つ謎めいたことは起こっていない。身体が作動し、それから壊れる。「死」とはただそれだけのことだ

「死が悪いことか」という問題;
昔から多くの哲学者が理論を展開してきたが、筆者の結論は;
剥奪説」こそが、進むべき正しい道に思える。この説は死にまつわる最悪の点を実際にはっきり捉えているように見える。死のどこが悪いのかといえば、それは、死んだら人生における良いことを享受できなくなる点で、それが最も肝心だ。死が私達にとって悪いのは、私たちが死んでさえいなければ人生がもたらしてくれただろうものを享受できないからにほかならない

第5講:不死 -- 可能だとしたら、あなたは「不死」を手に入れたいか?
死は人生における良いことを剥奪するから悪いのであるなら、最も望ましいのは永遠に生きることなのだろうか?
天国での永遠の時を約束する宗教でさえ、詳細については非常に遠慮がちであることは際立っている。何故なら、実際に詳細を埋めようとすると、この素晴らしい「永遠の存在」は、結局それほど素晴らしくは見えなくなることが懸念されるからだ。例えば、私たち全員が天使になり、永遠に賛美歌を歌って過ごすことになると想像してみれば、天国はそれほど素晴らしくは見えないことが懸念される

筆者は、「永遠にやりたいと思えるようなことを考え付くのは不可能だと思っている。また、自分が永遠に続けたいと願うような人生は一つとして思いつかない」と思う。
「不死」は実は、是非そこから逃れたくなるような悪夢となるだろう

第6講:死が教える「人生の価値」の測り方
人生の価値;
快楽主義について:快楽主義の見方は、哲学が生まれたときから既にあり、哲学者の間で人気が高い。しかし、筆者はそれが間違えに思えてならない。最良の人生には、快感を手に入れて痛みを避けること以上のものがあるように思える。単純な快感ではなく、実際には、「友情を育み」、「語り合い」、「睦み合い」、「愛し合う」といった人間が真に切望する最高級の快感があるはずだ

人生に何が起きているかという問いとは別に。「生きていること自体の恩恵」というものがある。現に生きているというだけの事実が、人生に更なる価値を与えるという主張で、これを「価値ある器説」という
「生きていることそのものには信じられないほどの価値があるので、人生の中身がどれほど身の毛がよだつものでも、総計はいつもプラスになる」と考える人もいる。筆者としては、この様な考え方は夢物語であり、荒唐無稽で信じがたく、どうしても信じる気になれない

第7講:私たちが死ぬまでに考えておくべき、「死」にまつわる6つの問題
人生の送り方;
1.「死は絶対に避けられない」という事実を巡る考察
2.なぜ「寿命」は、平等に与えられないのか
3.「自分に残された時間」を誰も知りえない問題
4.人生の「形」が幸福度に与える影響;
イェール大学の学生で、この疑問に直面しなければならなかった学生がいた。この学生は一年生の時に癌の診断を受け、医師から回復の見込みがなく、あと2年しか生きられないことを告げられたた。彼は残されたあと2年で何をするべきかと考え、自分の目標は「学位をとり卒業すること」と定めた。その一環として4年生の後期に、私の「Death」の講座を選択し出席していた。しかし、春休みを迎える頃には病状が悪化し、医師に学業の継続は無理と言われた。その学期に彼が取っていた講座の教員は、大学の管理部門から「学期のその時点までの実績に基づいて、彼にどの様な成績を与えるつもりがあるか」と問い合わせが来た。つまり、かれが卒業可能となるだけの単位が取れるかの確認であった。結果として、彼は十分な単位が取れており卒業可能であることがわかった。そこでイェール大学は、見上げたものだが、管理部門の職員を死の床に派遣し、彼が亡くなる前に学位を授与した
5.突発的に起こりうる死との向き合い方;
6.生と死の組み合わせによる相互作用;
筆者は、単に合計を求めるだけでは足りないと考える。人生の境遇を全体として評価するには人生の良さと死の悪さを、ただ合計する以上のことが重要だ。それは、「生」と「死」の間にある「相互作用効果」だ、この相互作用によって人生の価値がプラスになったりマイナスになったりする

第8講:死に直面しながら生きる
死にまつわる事実を認めるものの、「どう生きるべきか」についてまだ自問していない人に対しては、この後でこの人たちの疑問に答えていきたい
死にまつわる事実については、考えるべきときと場がある。自分が死ぬべき運命にあるという事実を、常に目の前に置いておくべきかという人が居たら、その人は間違っているとおもう。しかし、死ぬべき運命と死の本質について決して考えるべきではない、という人が居たら、やはりその人も間違っていると思う
死に対するごくありふれた反応の一つに、「非常に強い恐怖」がある。ただ、筆者が知りたいのは、死に対する恐れは「適切な応答かどうか」、また「理にかなった感情かどうか」だ。恐れの3条件;①恐れているものが、何か「悪い」ものである;②身に降りかかってくる可能性がそれなりにある;③不確定要素がある
恐れの中身;
①死に伴う痛みが恐ろしい;
②死そのものが恐ろしい:誰かが「死を恐れている」という時に、本当は「死ぬプロセス」を恐れている場合もあるかもしれないが、殆どの人は「死んでいるところ(⇔死んだらどのようになるか)」を恐れているように思う。しかし、それはこの恐れが適切であるための条件は満たしていないと筆者は考える
何故なら、死んでしまえばどんな種類の経験もできない(⇔第3講で考察済み)。死んだとき、何らかの経験はするが、それは通常の経験とは違うので想像はできないはず。死んだらもう、いかなる経験も存在しないのだ
③予想外に早く死ぬかもしれないのが恐ろしい:若者が実際に死ぬ可能性は、統計的にみれば極端に低い。その可能性があまりに低いので若者が本気で恐れるのは全く適切には思えない。歳をとるにつれ、特定の期間内に死ぬ可能性は着実に高まるものの、この場合でも「間もなく死ぬという恐れ」は不釣り合いなまでに大きくなりやすい。死が間もなく訪れかねないのを恐れるのは、とても病気が重い人や、とても高齢の人であれば理に適っている。死はまったく逆らいようのないものだから、私は恐ろしくて仕方がない」という人が居るのは本当だと思うけれど、死を極端に恐れる気持ちは適切な感情では無いと思わざるを得ない。事実を見る限り、それは筋が通らないのだ

死ぬか死なないか以前に、人生を台無しにしないこと:私たちが死を免れないのなら、人生を台無しにする危険は大きい。(不死でなければ)死がすぐに来てしまい、やり直しを試みる時間はとても短いことを常に念頭に置いていなければならない

業績や作品は永久に不滅か;
死と向かい合いながら生きるための戦略について考えるにあたって、この種類の不滅性を追求するに値するかどうかを問うことだ。つまり、自分の作品や業績を通して生き続ける、あるいは子供を通して生き続けるということは、文字通り生き続けるのとは違うからだ。それは「半不滅性」あるいは「準不滅性」だろう
「半不滅性」を主張する第一のタイプ:「自分の一部が子供のから孫、、、に引き継がれるから」、あるいは、ドイツの哲学者ショーペンハウアー(1788年~1860年)が言っている「自分の身体を構成している原子は、死んでも存在し続け、何か別のものに再利用される」という考えについては、筆者は同意できない
「半不滅性」を主張する第二のタイプ:亡くなっても、「その人の実績が残り続ける」筆者は、この第二のタイプに価値があるという考えに惹かれている

人生の価値をできる限り高めるための戦略とは;
これまで語ってきた人生戦略の根底にある信念は、「人生は良いもの、あるいは良いものとなりうるので、じぶんの人生をできる限り価値あるものにしようとするのは理にかなっている」ということだ。

死と仏教、キリスト教と生き方の関係;
これまでの議論を単純化し、一般化すれば、「人生は良いもの、あるいは良いものとなりうるので、じぶんの人生をできる限り価値あるものにしようとするのは理にかなっている」という基本的な見解(第一の見解)は、おおざっぱに言えば西洋的な見解だ。一方、「人生は、本当は大切に受け入れる価値がある、潜在的に価値に満ちた貴重な贈り物ではない」というのは、おそらく東洋的な見解第二の見解)だ。この有名な例が仏教にみられる。仏教徒は、人生の本質は、「喪失と苦しみ」と言っている。仏教徒はこうした良いものへの愛着から自分を解放し、それらを失った時の痛手最小限になるようにしようとする。筆者は、仏教に途方もなく深い敬意を抱いている。ただ、筆者は西洋の生まれであり、「創世記」の産物だ。「創世記」では神は世界を眺め、それが良いものであると判断を下す。少なくとも筆者は、人生がネガティブなものだと認めることで喪失を最小化する戦略は受け入れられないとしている。だとすれば、筆者にとって、ひょっとすると私たち殆どにとって、もっと楽観的な戦略から選ぶのが妥当であると思われる

第9講:自殺
自殺を「自己利益」の問題と「道徳性」の問題に分けて考える
「自己利益」の面から考えれば、「癌の様な最終的に死に至る消耗性疾患の末期の人を想像すれば、痛みがひどく、苦しむこと以外ほとんど何もできないかもしれない。色々な楽しみも無くなり、ただ痛みの為に取り乱し、痛みがやむことを願うばかりになる。また、アルツハイマー症やALS(筋萎縮性側索硬化症)の様な変性疾患にかかって、人生に価値を持たせるようなことが徐々にできなくなり、自分の身の回りの最低限のことさえままならなくなる。これらのような場合は、自殺することが理に適っている」と筆者は考える
ただ、変性疾患の場合、身体のコントロールはできなくなるものの、頭脳は何の問題もなく働き続ける間は、家族やそのほかの人がサポートしてくれれば、生き続ける価値があると考えられる。ただ最終的に人生を送る価値がなくなる時が来ることは想像し得る。しかしこうなれば、自殺する能力もなくなる可能性もある。分かってもらえると思うが、ここで自殺は安楽死の問題に変わる
明晰な思考ができない状況で下した判断は信頼に値しない。信頼に値しないなら、結局自殺が合理的な判断になることなど決して無いように思える
自殺するという判断は慌てて下してはいけない。医師とよく話し合い、自分の愛する人々と十分話し合うべきだ。その結果下した判断は、どんな判断であれ理に適ったものとして信頼するに値するのではないだろうか

現実の自殺の事例は、実にこの肝心な条件を満たしていないことが多いと筆者は考えている。多くの自殺のケースでは、以前の人生と比べたり夢見ていた人生と比べたり周りの人の人生と比べたりして、今の人生は生きる価値が無いと思い込む。しかし、期待した人生ほど生きる価値が無かったとしても、やはり存在しないよりは良いのだ

道徳性」の面から考える;自殺は合理的な選択であり得るとしても、自殺がなお不道徳であり得る。ただ、道徳性と合理性という二つの概念を切り離せるかどうかについては、哲学では大論争になっている
この問題に対する最も優れた回答は、イギリスの哲学者デイヴィッド・ヒューム(1711年~1776年)が行っている:「少なくとも、自殺が神の意思に背くという考えには説得力があると思う人がいたら、誰かの命を救うのは神の意思に背くというのも、なぜ説得力があると思わないのだろうか?神はその人を死なせるつもりだったのかもしれないではないか!
例えば、もし皆さんが医師で、誰かが心肺停止の状態になっていたら、直ちに心肺蘇生法を施せるのに、「ああ私はこんなことをしてはいけない。この人が死ぬのは神に意思だから、この人の命を救うのは、神の思し召しを妨害していることになります」などと言うだろうか?そんな人はいない。であれば、「自殺は神の思し召しに反する」ということもあり得ないということになる

「命はとても素晴らしい贈り物であり、この与えられた贈り物を大切にし、恩返しをしなければならない。だから私たちは生き続ける義務があり、自殺は道徳に反する」という意見がある。筆者は、この主張にも説得力が無いと考えている。何故なら、恩義とは一体何を意味するかに注意を払う必要があるからだ。しかし、恩義とはいっても、与えられた本人が有難いとは思わないこともあるはず。そんな場合、恩義に報いることに道徳的な必要性はないはず。「たとえ汝の人生が悲惨な状況になり、死んだほうがましだとしても生き続けよ。もし自殺をすれば、永久に地獄に落とすぞ」と神が言われたとしたら、恐らく自殺しないほうが賢明だが、そこには道徳的な必要性は無いはずである。従って、感謝の念に訴えることに基づいて自殺に反対する主張はうまくいくはずがない

全ての「道徳論」に共通する考え方として、自分の行動の結果がどうなるかを問うことは、いつも道徳的に重要である。
自分自身は?:自殺が自己利益の観点から合理的なものとして受け入れられるケースでは、自殺をすれば、そうしない限り被らなければならないだろう苦しみから解き放たれると仮定すれば、自殺をする判断が実は道徳的に支持されるようにも思える。道徳性の観点からは、自殺をしようとしている本人だけでなく、全ての人にもたらされる結果を考えねばならない。これに関連する最も重要な人は家族、愛する人、友人など本人のことを最も直接的に知り、気にかけている人々だ。これらに人々に関しては、自殺が大きな嘆きや苦しみをもたらすので、自殺の結果は一般的に悪いと主張するのが妥当と思われる。
しかし、行動の結果はたいてい良いものと悪いものが混ざり合っている。従って。自殺者の家族や友人や愛する人に嘆きや痛みをもたらすというネガティブな結果があるとしても、もしその自殺者が死んだほうが本当にましなら、本人の受ける恩恵の方が勝るかもしれない

①功利主義的立場:万人の幸福を同等に扱いながら、「正しいか誤りかは万人にどれだけ多くの幸福を生み出せるかの問題である」とする道徳の主義だ。この立場に立てば、誰かの死によってあまりにも大きな悪影響を受ける人々がいて、本人が生き続ける代償よりも、その人々への害の方が大きい場合、自殺しない方が良い。しかし、自分は死んだほうがましで、他者への影響がその事実を凌ぐほどに大きくない場合は、自殺が正当化される。

②義務論的な立場:自分の行動の良し悪しを結果だけでなく、他の事柄にも目を向けなければならないと考えること。
思考実験:臓器移植を行う場合、一人の健康な人を殺してその臓器を5人の患者を生かすために使ったとした場合、功利主義に立てば許されるように見えるが、直感的に罪のない人を殺すのは間違いであることが分かる。人には殺されない権利があり、罪のない人を害することを義務論が禁じているのは、大抵の人が受け入れる。
しからば、「私という罪のない人間」を殺す反道徳的行為にならないか? 私が死んだほうがましな場合には、自殺しても自分を全体として害するわけではなく、自分に恩恵を与えていることになる。だから、全体として害してはならないという禁止に反してはいない。これが正しいなら、義務論の観点から考えても、自殺は特定のケースでは道徳的に正当と言える

自殺の道徳性に関する筆者の結論;
功利主義の立場を受け入れようと、義務論的な立場を受け入れようと、自殺は常に正当であるわけではないが、正当な場合もある。自殺しようとする人に出会った場合、その人がよく考え、妥当な理由を持ち、必要な情報も得ていて、自分の意思で行動していることが確信出来たら、その人が自殺することは正当であり、本人の思うようにさせることも正当だと思える

以上

「国連海洋法条約」についてちょっと勉強してみました

はじめに

今年(2018年)1月に発行したブログ(年の初めのためしとて~:「農業、林業、水産業の未来、3.水産業の分野)で、日本がいかに広い排他的経済水域(EEZ)に恵まれていて、日本の水産業の未来は明るい!という持論を述べました。ここでは、海洋法について十分な説明をしていませんでしたので、改めて表記「国連海洋法条約(正式名:海洋法に関する国際連合条約)」を読み込んで、日本が国際関係に於いて重要となるポイントについて拙いながら解説を試みることにしました。
尚、条文の文章は、読んで頂くと分かるのですが、法律的な正確性を担保するためか表現が回りくどく、且つ使う用語が日常使う言葉ではないことも多く、更に条約が成立する前に存在していた条約や慣習法を組み込む過程で発生したと思われる条文間の重複や順序の不整合が随所にあります。従って、私なりに解釈した上で適宜文章を再構成しています。お許し願えれば幸いです

国連海洋法条約とは

国連海洋法条約とは、海洋法に関する国際的な秩序の確立を目指して1982年4月30日に第3次国連海洋法会議にて採択され、1994年11月16日に発効した条約です。17部320条の本文と9つの附属書(全体として500条に上る膨大な内容です)で構成されています。現在、168ヶ国・地域と欧州連合が批准しています(締約国リスト)。大洋に面した主な非締結国は米国、トルコ、ペルー、ベネズエラがありますが、深海底に関する規定以外の大部分の規定が慣習国際法化しているため、米国などの非締約国も事実上海洋法条約に従っており、別名「海の憲法」とも呼ばれています(“ウィキペディア”から抜粋、一部修正)
海を隔てて日本と接している近隣の国々(中国、ロシア、韓国)は締約国となっていますが、締約国リストを見ると北朝鮮は批准していないようです

詳しくは「国連海洋法条約」(英語版)」の条文をご覧いただくとして、全体の構成は以下のようになります:

国際海洋法条約の構成
国際海洋法条約の構成
特殊用語解説

国連海洋法条約やそれに関連する情報を読み込んでいくと、幾つかの聞きなれない特殊用語が出てきます。条文の中に定義のあるものも、ないものもあります。これらが具体的に何を意味するかを予め理解していないと、条文を正しく理解するのに時間がかかると思いますので、以下に簡単に説明しておきます。ただ、領海、接続水域、・排他的経済水域、大陸棚、公海などは次項で詳しく述べることにします。また、特にことわりのない限り条文番号は、国連海洋法条約の条文番号を意味しています;

1.海域の領有権や管理権に係る特殊用語
①沿岸国とは:海洋に面している国(⇔内陸国)
②基線とは:沿岸国が公認する海図上の低潮線(引き潮の時の海面と陸地との交わる線)を根拠とした領海、接続水域、排他的経済水域、公海などの範囲を決める基準となる線。実際の地形は湾や河口、島嶼などがあり、決め方は簡単ではありません。興味のある方は、国連海洋法条約3条~10条に基線の決め方が具体的に定められていますので、ご覧になってください

領海の基線と限界線の関係_海上保安庁
領海の基線と限界線の関係_海上保安庁

③低潮高地とは:低潮時には水に囲まれ水面上にあるが、高潮時には水中に没するものをいいます(13条)
④礁(しょう)とは:浅い海底の隆起部。岩礁・サンゴ礁などがあります

⇒南シナ海で中国が実効支配している「スカボロー礁」がよくニュースに登場しますので、ご存知の方が多いと思います。ここはフィリピン及び台湾も領有を主張しており、フィリピンが中国による実効支配の不当性をハーグの常設仲裁裁判所に訴え、勝訴していますが、未だに中国の実効支配が続いています

⑤無害通航権とは:沿岸国の平和、秩序、安全を害しない限り通行できる権利のことを意味します。通行中には以下の行為が禁止されています(第19条)、武力による威嚇、武力の行使。兵器を用いる訓練、演習、沿岸国の安全保障上の情報の収集、沿岸国の安全保障に係る宣伝行為、航空機の発着、積み込み、軍事機器の発着、積み込み、沿岸国のCIQ(税関、出入国管理、検疫)に係る法令違反、重大な汚染行為、漁獲、調査、測量、通信妨害、運航に関係のないその他の行為

2.海洋や河川に生息する魚類に関する特殊用語
①遡河魚(そかぎょ)とは:海洋で餌をとって成長し、産卵のために河川または湖へ回遊する魚類を言い、遡上魚とも言われます。北洋を回遊して成長するサケ・マス類、沿岸域と河川を行き来するウグイ、ワカサギ、シシャモ、シラウオなどがあります
②母川国とは:遡河魚が産卵のために回帰する川を領有している国

③降河魚(こうかぎょ)とは:一生の大部分を淡水で生活して十分に成長し、成熟が始まる前後から川を下って海に入り、海洋で産卵する魚類を言います。降河魚の代表はウナギです。しかし、産卵以外の生理・生態的な要因で淡水域から海へ下る魚は降河魚に含めません。例えば、アユや淡水にすむハゼ類、カジカ類のように、孵化(ふか)後の稚魚が水流に運ばれて川を下って海で変態期前後まで成育し、ふたたび淡水へ帰って成長し、産卵するものは降河魚とは言いません

高度回遊性の種(Highly Migratory Fish Stocks)とは:排他的経済水域の内外を問わず広く回遊する魚類。国連海洋法条約において、この資源の回遊域に当たる沿岸国と漁獲を行う国がすべて参加する国際機関によって保存管理すべきとしています。日本が大量に消費している魚種では、かつおまぐろかじきサンマなどがこれに当たり、国連海洋法条約・付属書Ⅰ (サイトを開いてからANNEX Ⅰ をクリックしてください)で指定されています

3.領海・接続水域・排他的経済水域・海峡・大陸棚・公海

15世紀半ばから始まった大航海時代以降、海洋先進国が「公海自由」の原則を掲げ全世界の海に進出し、未開の地を植民地化するとともに、海洋資源も独占してきました。その後、18世紀から19世紀初頭になって、沿岸国の秩序維持に必要な「狭い領海」と、その外側にある先進国の自由競争が認められる「広い公海」、という二元構造によって海域をとらえる見方が主流となっていきました。こうした考え方が「慣習法」として定着していきましたが、領海の限界については、海洋国(日本を含む)が主張する3海里から、12海里まで主張の違う国がそれぞれの立場で自国の領海を管理する状態が続きました

第二次世界大戦を経て国連が生まれ、国連を中心に各国が話し合う場が設けられた結果、1958年の第一回国連海洋法会議が開催され、領海条約大陸棚条約公海条約公海生物資源保存条約という4つの条約の採択に成功しました。しかし、国の利害がぶつかる領海と公海の境界線をどこに置くのかという点については合意に至ることはできませんでした。
その後、1982年の第三次国連海洋会議になって、ようやく領海を領海基線から12海里までとすること、排他的経済水域を200海里とすることなど、現在の国連海洋法条約が採択され、ほどなく多くの国々に批准される現在の姿になりました

領海・排他的経済水域の模式図_海上保安庁
領海・排他的経済水域の模式図_海上保安庁

1.領海
領海とは、基線から12海里(約22.2キロ/東京駅⇔南浦和駅程度の距離)の範囲で(第2条)、2ヶ国が隣接している場合は、両国の基線の中間を双方の領海の境界とすることになっています(第15条)、但し歴史的な背景がある場合には例外が認められています

<領海に係る重要なポイント>
全ての国の船舶、沿岸国であるか内陸国であるかを問わず、この条約に従うことを条件として、領海において無害通航権が認められるています(第17条)
沿岸国は、無害でない通航を防止するため、自国の領海内において必要な措置をとることができます(第25条)
潜水艦、その他の水中航行機器は領海に於いては、浮上し、かつ船籍が分かる旗を掲げなければなりません(第20条)
無害通航権を行使する外国船舶は、沿岸国の法令及び海上における衝突予防に関する国際的な規則を遵守することが義務になっています
⑤沿岸国は航路帯、及び分離通行帯を明確に海図上に表示し、その海図を公表することが義務付けられています(第22条)
⑥外国の原子力船及び核物質又はその他の本質的に危険若しくは有害な物質を運搬する船舶が、領海において無害通航する場合には、そのような船舶について国際協定が定める文書を携行し、かつ、当該国際協定が定める特別の予防措置をとる義務がありますと(第23条)
低潮高地が領海外にあある場合、それ自体の領海は認められません(第13条)

2.接続水域
接続水域とは、領海から更に12海里の幅で、沿岸国の領土、領海内で起こったCIQ(税関、出入国管理、検疫)に係る法令違反の防止措置、及び法令違反の処罰を行う為に必要な規制を行うことができる水域です(第33条)

⇒近年頻々として起こる尖閣列島(日本が実効支配しているものの、中国も領有権を主張しています)周辺の中国公船(日本で言えば海上保安庁の艦船)による示威行動は、概ねこの接続数域への侵入が多いようです。日本は、警戒監視はするものの領海侵入までは手が出せません(幸い?)

3.国際海峡(国際運航に使用されている海峡)
国際海峡とは、領海または、排他的経済水域を含み、国際航行(船舶だけでなく、航空機も含む)で使用されている海峡のことです。日本においては、宗谷海峡津軽海峡対馬東水道対馬西水道大隅海峡が国際海峡に指定されています
<国際海峡に係る重要なポイント>
海峡の上空、海底、地下資源に係る主権及び管轄権は海峡沿岸国にあります(第34条)
すべての船舶及び航空機は、国際海峡を通過する権利を持っていますが、原則として停止しないで、迅速に通過することが必要とされています(第38条)
通過する船舶及び航空機が負う義務については、概ね領海通過に係る義務と同じです。詳しくは、第38条~45条をご覧ください

最近、米国と軋轢を起こしているイランが、ホルムズ海峡封鎖の可能性に言及していますが、こうした行為は、上記条文から判断すると、明かな国連海洋法違反ということになります。従って、もし封鎖を強行することになれば大国による軍事力の行使が現実となり、日本も新安保法制に基づき何らかの軍事行動が求められる可能性があります

4.排他的経済水域EEZ/Exclusive Economic Zone)
EEZとは、沿岸国が天然資源などに対して「主権的行為」を行うことができる海域のことで、基線から最大200海里まで設定することが認められています(第57条)。また、隣接している海岸を有する国の間における排他的経済水域の境界は原則として中間線となりますが、両国での合意が得られない場合、国際司法裁判所において国際法に基づいて合意を図ることができます(第74条)。ただ、両国が提訴に合意しない限り中々解決できないケースが多いようです。紛争の解決の具体的手続きについては15部(第279条~304条)に詳しく書かれています

<EEZに係る重要なポイント>
A. EEZ内の沿岸国の権利
①EEZ内の天然資源(海産物、海底資源、海流・風力エネルギー)の探査・開発・保存・管理に係る権利
人工島、施設・構築物の設置利用、海洋の科学的調査、海洋環境の保護・保全に係る権利(第56条)

B. EEZに於ける沿岸国の義務:他の国の権利及び義務に妥当な考慮を払う必要があります(第56条)
C. 全ての国は、EEZ内に於ける船舶及び航空機の航行の自由海底ケーブル・海底パイプライン敷設の自由、その他これらに係る海洋利用の自由が認められています(第60条)
D. 沿岸国は、EEZ内の生物資源の漁獲可能量を決定することができます。一方、生物資源の維持が脅かされない様、科学的証拠を考慮して、適当な保存措置・管理措置を講ずる義務があります(第61条)

E. 沿岸国が、漁獲可能量のすべてを漁獲する能力を持っていない場合、協定その他の取極(注)に従い、漁獲可能量の余剰分を他の国による漁獲に委ねることができます
(注)協定・取り決めの内容:漁獲枠魚種(含む大きさ)・漁期・漁場・漁具漁船の種類の指定手数料その他の報酬に係る許可証の発給沿岸国の監視員の乗船漁獲量の全部または一部の沿岸国への陸揚げ、などを指定できることになっています(第62条)

F. 高度回避性の種を漁獲する国は、EEZの内外を問わず種の保存を確保しかつ最適利用の目的を促進するため、直接、又は適当な国際機関を通じて協力する必要があります。また、適当な国際機関が存在しない地域においては、沿岸国、その他当該地域でその種を漁獲する国は、適切な機関を設立し、その活動に参加する必要があります

⇒サンマについては、最近漁獲高が急減し、中国、韓国、台湾による公海での漁獲が原因との見方があります。しかし、公海での漁獲は、日本にこれを制限する権利はなく、関係国による話し合いも、資源量に関する情報が無い中で早急に合意に至る可能性は低いと言わざるを得ません。ただ、わが国のEEZ内の密漁については、違法操業を取り締まるべく海上保安庁は頑張っているようです(参考:北方四島周辺水域における第三国漁船の操業問題_いわゆるサンマ問題

⇒マグロについては、全世界の海域で国際機関が設置され厳格に管理されています;
大西洋マグロ類保存国際委員会
インド洋マグロ資源委員会
全米熱帯マグロ類委員会
中西部太平洋マグロ類委員会
ミナミマグロ保存委員会

G. 溯河魚の漁獲に関するルール(第66条);
母川国は、EEZ内の漁獲量、漁業規制を定め資源の保存の為の措置を講ずること、及び自国の河川に由来する資源の総漁獲可能量を定めることができます。
溯河魚の漁獲は、原則としてEEZ内及び陸地側の水域に於いてのみ行うことができます。但し、これにより母川国以外の国に経済的混乱がもたらされる場合はこの限りではありませんが、EEZ外の漁獲に関しては、関係国は、当該漁獲の条件に関する協議を行う必要があります
③母川国は、上記の原則を実施するに当たって、他の国の経済的混乱を最小のものにとどめるために協力する必要があります
④母川国は、他の国との合意により溯河魚の人工孵化・放流を行い、かつその経費を負担している場合には、自国の河川に発生する資源の漁獲について特別の考慮が払われることになっています
⑤EEZ外の溯河魚の規制は、母川国と他の関係国との間の合意によって決められます
⑥溯河魚が母川国以外の国のEEZ内に入ったり、通過して回遊する場合、当該国は、溯河魚の保存及び管理について母川国と協力する必要があります

H. 降河魚の漁獲に関するルール(第67条);
①降河魚がその一生の大部分を過ごす水域を持つ沿岸国は、種の管理の責任を持ち、回遊する魚が出入りすることができるようにする義務があります(ダムなど作る場合は、魚道を整備する義務があります)
②降河魚の漁獲は、EEZ内及び陸地側の水域においてのみ行うことができます
③降河魚が、稚魚又は成魚として他の国のEEZを通過して回遊する場合、その魚の管理、漁獲は、①の沿岸国と当該他の国との間の合意によって行われます

⇒遡河魚、降河魚、高度回遊性の種については、後段で詳しく述べるように、資源維持のために各国が協力する体制がしっかり出来ています。しかしそれ以外の領海、排他的経済水域で漁獲している大衆魚(イカ、タコ、イワシ、ニシン、ハタハタ、ズワイガニ、etc、etc、、、)については、日本が資源の維持・管理に一元的な責任があります

I. いずれの国も、海産哺乳動物の保存のために協力するものとし、特に鯨類については、その保存、管理及び研究のために適当な国際機関(国際捕鯨委員会)を通じて活動する(第65条)

J. 沿岸国の主権的権利の行使についてのルール(第73条);
①この条約に従って制定する法令を遵守させる為に必要な措置乗船、検査、拿捕及び司法上の手続を含む。)をとることができます
②拿捕した船舶・乗組員は、合理的な保証金の支払又は合理的な他の保証の提供の後に速やかに釈放しなければなりません。また、拿捕、抑留した場合は、とられた措置及び罰について、船籍のある国に速やかに通報する必要があります
漁業に関する法令違反について沿岸国が課する罰には、拘禁、身体刑を含めてはならないことになっています

5.大陸棚
A. 大陸棚とは:領海から先の海面下であってその領土の自然の延長をたどって大陸縁辺部の外縁に至るまでのもの、又は大陸縁辺部の外縁が基線から200海里の距離まで延びていない場合、原則として200海里の距離までのものを言います
尚、200海里を越える大陸棚については、第76条に詳しく定義されていますが、その確定作業は、沿岸国が調査した情報を「付属書Ⅱ」に定める「大陸棚の限界に関する委員会」(通称大陸棚限界委員会;詳しくは大陸棚限界委員会参照)に提出し、得られた裁定が最終的なものとなり、拘束力があります

大陸棚限界設定の流れ

沿岸国は、大陸棚上の天然資源の探査・開発に係る主権的権利」を持っています。但し、この天然資源は、海底及びその下の鉱物・非生物資源、定着性の生物のみが対象になります(⇔海中で生息している魚類、ほ乳類は対象になりません)

隣接している海岸を有する国の間の大陸棚の境界画定について、両国での合意が得られない場合、国際司法裁判所において国際法に基づいて合意を図ることができます(第83条)。ただ、両国が提訴に合意しない限り中々解決できないもののようです。紛争の解決の具体的手続きについては、EEZの境界画定のケースと同様、15部(第279条~304条)に詳しく書かれています

⇒東シナ海の日中の中間線付近に於ける中国のガス田開発については、中国の主張と日本の主張(中間線)が食い違うものの解決が得られていません

東シナ海に於ける中国とのEEZ紛争

参考として大陸棚限界委員会に提出された、日本及び中国の申請書をご紹介します;
中国による東シナ海に於ける大陸棚申請
日本による大陸棚申請

6.公海
上記の接続水域・排他的経済水域・海峡以外の海水域が公海となります
<公海に係る重要なポイント>
①公海の自由
とは(第87条):航行の自由、上空飛行の自由、海底電線・海底パイプライン敷設の自由、国際法によって認められる人工島その他の施設を建設する自由㋭漁獲を行う自由科学的調査を行う自由
公海上の軍艦は、船籍のある国の管轄権のもとにあります(第95条)

③公海で航行中の事故に係る刑事裁判権は、船籍のある国、又は乗員の国籍のある国に限られます(第97条)
公海上での船舶の拿捕、抑留、調査船籍のある国に限られています(第97条)
⑤いずれの国も、公海上における救難の義務があります(第98条)

⑥いずれの国も、自国の船籍のある船舶による奴隷の輸送は禁じられています(第99条)
⑦すべての国は、公海上の船舶が国際条約に違反して麻薬及び向精神薬の不正取引を行うことを防止するために協力する義務があります(第108条)

⑧いずれの国も可能な範囲で、公海その他いずれの国の管轄権にも服さない場所における海賊行為の抑止に協力する義務があります(第100条)
⑨いずれの国も、公海その他いずれの国の管轄権にも服さない場所において、海賊行為が行われた場合、海賊の支配下にある船舶・航空機を拿捕し、犯人を逮捕・拘禁し、財産を押収することができます。また、拿捕を行った国の裁判所は、科すべき刑罰を決定することができます(第105条)

⇒ソマリア海で日本の自衛隊が拿捕した海賊船の犯人は、日本の裁判所で裁判を受けました

⑩沿岸国は、外国船舶が自国の法令に違反したと信ずるに足りる十分な理由があるときは、当該外国船舶の追跡を行うことができます。但し追跡は、国の内水、群島水域、領海、接続水域にある時に開始しなければなりません。尚、この追跡権は排他的経済水域又は大陸棚における沿岸国の法令違反がある場合にも準用されます
⑪追跡権は、第三国の領海に入ると同時に消滅します
⑫追跡権は、軍艦軍用航空機その他政府の公務に使用されていることが明らかに表示されており、かつ識別されることのできる船舶又は航空機でそのための権限を与えられているものによってのみ行使することができます

日本の場合、追跡権は自衛隊あるいは海上保安庁の艦船、航空機でなければ実施できないことになります。最近頻々と起こっている外国船による密漁も、海上自衛隊の増強以外の方法しかないことは理解できると思います
⇒海上保安庁による警備:領海・EEZを守るを参照

いずれの国も公海に於ける生物資源の保存、管理について相互に協力する義務があります(第117条~第119条)

7.深海底
深海底及びその資源は人類共同の財産です。従って、いずれの国も深海底又はその資源のいかなる部分についても主権又は主権的権利を主張し又は行使してはならず、また、いずれの国・法人・人も深海底又はその資源のいかなる部分も専有してはならないことになっています(第136条、第137条)
<深海底に係る重要なポイント>
①深海底の資源に関するすべての権利は、人類全体に付与されるものとし、この任務を遂行するために国際海底機構(以下“機構”;詳しくは国際海底機構参照を設立しました(第156条)。機構、人類全体のために行動することになっています。また、深海底の資源は、譲渡の対象とはならないものの、所定の手続に従うことによって譲渡することも可能となっています(第137条)
②機構は、深海底における活動から得られる経済的利益を、公平の原則に基づいて行うことを原則にしています(第140条)
沿岸国の管轄権の及ぶ区域の境界に跨って存在する深海底の資源に係る活動については、当該沿岸国の権利及び正当な利益に妥当な考慮を払うことになっています(第142条)

④機構は、深海底から採取された鉱物の生産者及び消費者の双方を含む関係のある全ての当事者が参加する権利を持っています。機構は、当該会議の全ての取決め、合意の当事者となる権利を持っています
⑤機構及び締約国は、事業体及び全ての締約国が利益を得ることができるように、深海底における活動に関する技術及び科学的知識の移転の促進に協力することになっています(第144条)
機構及び締約国は、深海底から採取された鉱物について、生産者にとって採算がとれ、かつ、消費者にとつて公平である価格の形成を促進すること、並びに供給と需要との間の長期的な均衡を促進することが求められています(第150条)
操業者が機構生産認可を申請し、その発給を受けるまでは、承認された業務計画に沿った商業的生産を行ってはならないことになっています(第151条)

⇒最近、日本近海の深海底に於ける鉱物資源の調査、及び採掘技術の研究が、官・学・民が協力して行われています。しかし、上記条文から判断すると、現実の採掘となれば、採掘した資源を独占できるわけではなく、また生産量に係る制約を受けることになります。また、採掘技術に係る研究成果についても、先駆者の利益を得ることは難しいことも考えられます(⇔南極大陸の資源管理と同じか)

北洋漁業の歴史

漁業に関して、少年時代から私の記憶の断片に残っていものは、南氷洋の捕鯨と並んで盛んであった北洋漁業に係るものです。それは必ずしも明るいものではなく、当時のソ連に拿捕される北海道の漁民と悲しみに暮れる家族の姿、敗戦国の日本は、満州国での非人道的占領政策、その後のシベリア抑留に加え、ソ連にどれだけ虐められれば済むんだ、といったマイナスの感情です

今回のテーマに係る情報をネットで探していたところ、東海大学海洋学部地球環境工学科の牛尾裕美氏の書いた論文「日本における遡河性魚種の漁獲に関する一考察」に、日本の北洋漁業に係る歴史が分かり易く纏めてありましたので、以下に紹介します;

*日本が、シベリアとカムチャッカの沿岸でサケ漁を開始したのは、17世紀の初め(江戸時代)であったと言われている
*1905年、日露戦争終結後に締結されたポーツマス講和条約により、日本はロシア領土内に漁業区を借り、サケ・マス定置網漁業を行う権益を認められたました(勿論、北方4島の他に、南樺太も日本領となったため、ここでも行われていたと思われます)

*1917年のロシア革命により誕生したソ連による資源ナショナリズムの影響を受け、1929年には流し網を用いる北洋サケ・マス母船式漁業を発足させ、沖取り漁業への転換が行われていった
*第二次大戦とそれに続く米軍駐留期間は北洋漁業は休止していましたが、1952年のサンフランシスコ平和条約発効後、独立を果たした日本は、北西太平洋の公海域に於いて北洋漁業を再開しました。公海域での漁獲は、産卵回遊途上の成魚だけでなく、翌年以降成熟する生育途上の未成魚も含まれており、しかも漁獲の主要部分は、ソ連の極東地方の河川を起源とするものであった(その他、アラスカと日本の河川を起源とするシロザケも含まれていた)

*こうした日本の母船式を中心とする沖取り漁業の大規模化は、1955年にピークを迎え、それと共にソ連極東地方へのサケ・マス回帰量の急激な減少ををもたらしました
*1956年、ソ連はサケ・マス資源の保護と漁獲調整を目的として、極東地方の領海に接続する公海においてサケ・マス漁獲制限操業の特別許可性一方的に宣言しました(ブルガーニン・ライン
*同年、サケ・マスに関して、公海における規制区域の設定、その区域内に於ける漁業禁止区域、漁期、漁具の制限年間総漁獲量の設定などを内容とした日ソ漁業条約が締結された

*1976年に200海里漁業水域が設定されたことに伴い、日ソ漁業条約の破棄を通告してきた。サケ・マスに関しては、1978年になって「日ソ漁業協力協定(日本漁船によるソ連を母川国とするサケ・マスの漁獲等に関する協議の基礎となる協定)」が締結された
日ソ漁業協力協定の主なポイント;
両国は遡河性魚種の母川国が、当該魚種に関し第一義的利益及び責任を有することを認める
両国は、母川国が200海里漁業水域内における総漁獲可能量を定めることができることを認める
両国は、母川国が200海里漁業水域内の外側の水域における遡河性魚種に関する規制は、母川国と他の関係国との合意によることを認める

*1984年にソ連がEEZを設定し、「日ソ漁業協力協定」もソ連側の終了通知により失効した。その後難航の末に、1985年に新しい「日ソ漁業協定」が締結されるに至った
*1988年になって、日ソ漁業合同委員会の年次会議において、1992年までのできるだけ早い時期に、公海でのソ連を母川国とするサケ・マスの漁獲を停止するようにとの声明を行った

*1952年に締結された日米加漁業条約「北太平洋の公海漁業に関する国際条約」を、ロシアを加えて発展的に解消し、1992年に締結(1993年2月16日発効)された日米加ロ漁業条約北太平洋における遡河性魚類の系群の保存のための条約(沿岸国の200海里水域を超えた北緯33度以北の北太平洋及びその隣接海域における条約特定の遡河性魚類の捕獲禁止等を定める)」により、戦後40年行われてきた北太平洋の公海におけるサケ・マス漁業は終止符を打つに至った

以上

森林経営管理法が成立しました!

はじめに

上の写真は、日田木材協同組合のサイトに載っていた写真から拝借したものです。日田と言えば、江戸時代、天領(徳川家の直轄地)の森として手厚く保護されていたこともあり樹齢300年を超える巨木が多く残っている貴重な森林です。植林は15世紀から始まり、現在もなお林業はこの山間の地の主要産業として成り立っています

日本の林業については、1955年までは木材の自給率が9割以上であったものが、木材輸入の自由化が段階的に行われた結果(1964年に完全自由化)、2008年には自給率が24%までに落ち込んでおり、正に衰退の一途を辿っています(詳しくは、私のブログ“年の初めのためしとて~”の<農業、林業、水産業の未来・ 2.林業の分野>の部分をご覧ください)。この結果、国産材供給の問題だけでなく、山間地域の過疎化地滑り、鉄砲水による災害水源地域の荒廃、などの諸問題を惹起しています。こうした問題を抜本的に解決すべく新たな法律が誕生しました

「モリカケ」問題で、与野党が紛糾している国会で、珍しくさしたる混乱もなく「森林経営管理法」が成立しました(5月25日に衆議院を通過;6月1日施行;審議経過については森林経営管理法案・審議経過をご覧ください)。新聞やテレビの様なニュースメディアでは殆ど取り上げられなかったものの、この法案が野党を含む殆どの政党が賛成して成立した背景には、日本の森林の荒廃がかなり進み、国民全体に、“何とかしなければ”という共通認識があったからと思われます。以下にこれからの日本林業再生のきっかけとなると思われるこの「森林経営管理法」の内容をできるだけわかり易くご紹介したいと思います

森林経営管理法のねらい

日本の国土面積、約37万平方キロのうち森林の面積は66%を占めています。この内、国が管理の責任を持つ国有林が31%、地方公共団体が管理の責任を持つ公有林が11%、所有している個人、法人が管理の責任を持つ私有林が58%を占めています。尚、大変紛らわしいのですが、公有林と私有林を総称して民有林と言います。「はじめに」で挙げた各種の問題は、ほぼこの民有林の管理が十分に行われていないことが原因とされています

昔は「山持」と言えば富の象徴であり、生産サイクルが数十年から数百年に及ぶことから短期間で投資回収ができない林業の問題も、「山持」の人たちの有り余る財力によって賄われてきました。しかし、安い外材の流入により、木材自体の価値が大幅に下がり、山林の所有は“役に立たない財産”、あるいは“売るに売れない厄介な財産”となり、管理されないまま放置されてしまうこととなりました
森林経営管理法の目的は、管理が行き届いていない民有林を官主導できちんとした管理を行えるようにすることです

しかし、そもそも私有財産である私有林の管理を、官が勝手に行うことが許されるのかという問題があります。森林経営管理法では、この問題を以下の様な考え方で私権を制限できる根拠としています

<なぜ森林所有者の権利を制限できるのか>
① 現在、実質的に管理が行われていない私有林が多く存在し、本来森林所有者が適時適切に行うべき伐採造林保育(下刈、枝打、間伐、など)が行われず荒れ果ててしまった森林が多く存在すること
② 荒れ果ててしまった森林は、その所有者が負うべき保安林としての公的な責任(水源の涵養、土砂の崩壊その他の災害の防備、生活環境の保全・形成、など)果たせなくなってしまっている事例が発生しつつあること

山林の崩壊
山林の崩壊

③ かつて林業で栄えた多くの山間の村落が林業の衰退により過疎地と化しており、こうした村落を再び活性化させるには林業が最も適していること

④ 日本の地理的な条件を勘案すると、日本は森林面積森林資源の蓄積量森林の成長量の数値から判断して、森林資源が最も豊かな国の一つであり、林業は国際競争力の高い成長産業になりうること(← 詳しくは、私のブログ“年の初めのためしとて~”の<農業、林業、水産業の未来・ 2.林業の分野>の部分をご覧ください)

つまり、憲法で保証している財産権を「公共の福祉」の観点から、必要最小限の範囲で制限を加えていることになります
憲法29条:財産権は、これを侵してはならない。財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることができる

森林経営管理法の概要

以下、条文の具体的な内容について詳しく知りたい方は森林経営管理法を読み込んで戴くこととして、ここでは、全体を俯瞰して重要なポイントを説明(一部私見を交えて!)していきたいと思います

<森林経営管理法のねらい>
① 林業の成長産業化と、森林資源の適切な管理を両立させる為に、市町村を介して林業経営能力の低い小規模零細な森林所有者の経営を、意欲と能力のある林業経営者につなぐ(⇔委託する)ことで、林業経営の集積・集約化を図る
⇒ 大規模化によって効率的な森林用特殊大型車両の導入、広域的な林道整備が可能となり、長期的且つ計画的な林業経営が可能となります
経済的に成り立たない森林については、市町村が自ら経営管理を行う仕組みを構築する
保安林としての機能を維持するための計画、実施が容易になる

<森林所有者の責任の明確化と市町村による森林経営管理権の行使>
森林所有者は、自身の保有する森林について、適時に伐採、造林または保育(下刈、枝打、間伐、など)を実施することにより、適切な経営または管理を持続的に行わなければならないと定めています(森林経営管理法第4条)
② 森林所有者が上記の義務を果たせない時は、市町村が森林所有者から経営管理権(森林の伐採、木材の販売、造林、保育を行う)を取得し経営管理を行う(同法第3条~第9条)と定めています

<市町村による森林経営管理によって何故林業の成長産業化が図れるのか
都道府県が意欲と能力のある林業経営者」を募集、公表する(同法第36条)。この林業経営者には、以下の支援措置を実施する
支援措置の内容(同法第44条~第46条、附則第2条);
国有林野事業に係る伐採等も委託
* 国及び都道府県による技術指導
* 独立行政法人農林漁業信用基金による経営支援、林業経営基盤の強化等の促進のための資金の貸し付け期間の延長(12年⇒15年)
<参考> 林業の規模拡大の為に林業を経営するものに債務保証を行う制度:180206_林業9割に債務保証_大規模化支援

市町村は、管轄する区域内の民有林について経営管理の状況を調査し、市町村に集積することが必要かつ適当であると認める場合には、経営管理権集積計画を定める
この計画は、市町村森林整備計画森林法第10条の5で民有林については、10年を一期とする森林整備計画を立てなければならない)、都道府県が実施する治山事業(森林法第15条の15で定められている)、その他地方公共団体の森林の整備及び保全に関する計画との調和が保たれたものでなければならないとされています

治山事業_林野庁
治山事業_林野庁

経営管理集積計画に定めるべきこと(森林経営管理法第4条);
* 集積計画対象の民有林の所在地番地目、面積所有者の氏名又は名称住所
* 経営管理権の執行開始時期及び継続期間
* 市町村が行う経営管理の内容
* 経営管理を行った結果、利益が得られた場合に森林所有者に還元すべき金額の算定方式、及び支払時期・方法
* その他

 市町村は、都道府県が公表した「意欲と能力のある林業経営者」に林業経営に適した森林の経営を委託する。また、林業経営に適さない森林については、市町村自らが間伐等を実施する

<森林所有者の権利、保護について>
① 市町村の経営管理集積計画は、森林所有者の同意を得なければならない(同法第4条の5)
② 市町村は、集積計画対象森林の森林所有者に対してその意向に関する調査(経営管理意向調査)を行わなければならない(同法第5条)
③ 森林所有者が、経営管理権集積計画に同意しないとき、市町村長は、農林水産省令で定めるところにより、同意すべき旨を勧告することができる(同法第16条)

④ 森林所有者が、経営管理権集積計画に同意しないとき、市町村長は、農林水産省令で定めるところにより、6ヶ月以内に都道府県知事の裁定を申請することができる(同法第17条)
⑤ 申請を受けた都道府県知事は、森林所有者に対して2週間以上の期間を指定して森林所有者に意見書を提出する機会を与えるものとする(同法法第18条)
⑥ 都道府県知事は、森林所有者の森林について、現に経営管理が行われておらず、かつ、所有者の意見書の内容、当該森林の自然的経済的社会的諸条件、その周辺地域における土地の利用の動向その他の事情を勘案した上で、集積することが必要かつ適当であると認める場合には、裁定をする(⇔森林所有者の財産権の制限)ものとする(同法第19条)

森林所有者の全部または一部が、探索を行っても不明である場合、市町村が森林経営管理権を行使する旨を公告する。森林所有者は、広告の日から6ヶ月以内であれば異議を述べることができる。期間内に異議を述べなかった場合は、経営管理集積計画に同意したものとみなす(同10条、11条)

森林経営管理法に関連する法規制、制度、等

林業の衰退と再生の必要性については、民主党政権時代(2009年~12年)から既に政官界の共通認識となっており、その後の自民党政権でも「成長戦略」の一つとして取り上げられています。従って、森林経営管理法成立以前にもこれに関連する政策が着々と進められておりました

<林地台帳の整備>
市町村が経営管理集積計画を策定、実行するに当たって、民有林の所有者、及びその境界を確定することが非常に重要であることは言うまでもありません。しかしながら民有林の内、特に私有林の所有者については、登記上の所有者が死亡したのち、何代にもわたって相続権のある人が相続の手続きを行っていない場合(⇒相続権のある人が多数存在することになります)、あるいは所有者が転居して探索が困難になっている場合も多く、誰が所有者か確定できないケースが多数存在しているといわれています。また、森林の境界が不明確なケース(もともと境界の目印が“口伝!”によるものが多いのだそうです)も多いといわれています

そこで、2017年5月の森林法改正によって、市町村が統一的な基準に基づき、民有林の所有者やその境界に関する情報などを整備・公表する林地台帳制度が創設されました(森林法第191条の4~7)。この制度の概要については林野庁が作成した林地台帳制度の概要をご覧ください
また、実際に各市町村が林地台帳を整備するにあたってのマニュアルも林野庁が整備しておりますので、興味のある方は林地台帳及び地図整備マニュアルの概要ご覧になってみてください
尚、林地台帳作成の義務を負った市町村も、作成にかかる多額な費用を自前で賄うのは難しいので、次項に紹介する新税を原資とした、国や都道府県からの補助金が頼りになりそうです

しかし、法律が出来、補助金が得られても、広大な森林面積を有する自治体では、かなり困難な作業となりそうです。境界の確定などには、最新のGPS技術やドローンを利用する技術をなどを持っている調査会社のビジネスチャンスが増えそうですね(私見!)。参考までに長野県のケースについて日経の記事を見つけましたので、興味のある方はご覧ください(171216_森林整備まず境界明確化_林地台帳作成

<森林環境税>
森林環境税は、温暖化対策として空気中の炭酸ガスの吸収源となる森林の整備を行うための財源確保として平成2018年度の税制改革にて導入が決められました。ただ、2019年度から徴収すると納税者の負担感が増すため、東日本大震災の復興財源の上乗せ措置が終わる翌年の2024年度に導入することとなりました
この税の徴収は、現在個人住民税を収めている約6千2百万人すべてが対象とされており、1人あたり千円の徴収(復興特別税と同額)とすると年間で約620億円の税収が想定されています

しかし、森林環境税は名前は異なるものの目的は同じ森林整備の名目ですでに独自に導入している地方自治体があります。高知県が2003年度に森林環境税を導入したのをきっかけに2017年1月時点では、全国36県・1政令市で導入されています。税額については下表の通りバラバラです;

森林環境税_既存の地方税
森林環境税_既存の地方税

従って、今後は各自治体毎に地方税との二重課税の問題を解決しなければならないと思われます。また、新税については2024年から配布されることになりますが、林地台帳の整備などは一刻も早く実施する必要があります。従って、新税開始までのつなぎとして、地方交付税に上乗せして実質的に開始することも考えているようです
参考:180424_森林環境税_既存の住民税との二重課税問題

おわりに

先日、NHKの「クローズアップ現代+」で取り上げられていましたので、ご覧になっている方もいると思いますが、人口1550人の兵庫県西粟倉村では、国の平成の大合併政策を拒否して2008年以降「百年の森林構想」を掲げて林業を中心とした村おこしを始めています。すでに全国から志ある者が集まり人口も増加しつあるそうです
参考:兵庫県西粟倉村の村おこし(前編)同(後編)

大都会では、有効求人倍率が1を超えたといいながら、職にあぶれ日雇いで食いつないでいる若者、夢のない「派遣労働」で行き場を失っている若者に満ち溢れています。こうした若い労働力が、森林経営管理法のもとで林業を中心とした村おこしに参加してゆけば平成の次の時代は明るいものになると思うのですが、、、

Follow_Up:2019年6月5日、改正国有林野法が成立(民間林業の参入支援)」しました

Follow_Up:2020年7月30日、「林業大国」への大転換
*詳しくは、MEC Industryの中核を担う三菱地所のサイトをご覧ください

以上

年の初めのためしとて~

今年も我が家は穏やかなうちに新年を迎えました
我が家の小さなペントハウスには、これまた小さな小さな神棚があり、以前住んでいた保谷にある東伏見稲荷神社で戴いたお札が祀ってあります。元日の朝は、ここで二拝二拍手一拝した上で屋上に出て美しい富士山を仰ぎ、その後一階の仏壇で線香をあげ、我流で般若心経を唱えることが習いとなっています。特に願いごとも、お礼ごとも無く、心静かに祈るだけですが、かれこれ父親が亡くなってから46年間欠かさずこれを続けていることになります。以下はのんびりした正月に御屠蘇気分であれこれ考えてみたことを書いてみました

第四次産業革命の夜明け

朝食を始める前の一時は、例年おもむろに特集記事中心の分厚い新聞を広げることになりますが、今年は「第四次産業革命」関連の特集記事が目立ったような気がします;
第一次産業革命」:18世紀、ジェームスワットの蒸気機関の発明によって生産が人力から機械力に代わったことによって起こった世界的な産業構造の大変化のことを指します。日本は明治維新後の「殖産興業」の政策によって遅ればせながら列強に追随し、アジアでは最初に工業化を果たすことができました
第二次産業革命」:19世紀後半、フォード自動車のベルトコンベア方式に代表される大量生産により、自動車などの高度工業製品の大衆化が実現しました。しかし、この生産方式は、巨大な資本力、大量の資源、大きな市場の確保が必要となることから、狭い国土の日本では、必然的に帝国主義への道を歩む事になってしまいました
第三次産業革命」:第二次世界大戦後、半導体技術の進歩により実現した「生産設備の電子化、システム化」、トヨタに代表される「サプライチェーンの効率化」、「多品種少量生産」、などにより産業構造が大きく変わりました。これらを総称して「ファクトリー・オートメイション」とも言いますが、日本は敗戦後の苦難な時期を乗り越えこの産業革命では世界をリードする国になりました

第四次産業革命」とは;
  1990年代から本格化したインターネットで代表されるコミュニケーション技術の大革命
人間の知能に近い学習を自ら行って時間が経つにつれ賢くなってゆくDeep Learning を備えたAI(Artificial Inteligence / 人工知能)とロボット技術の融合
5G(Fifth generation / 次世代通信網)で代表される高速・大容量の通信インフラの整備(近い将来)
桁違いの演算能力を持つ量子コンピューターの登場
などによって、近い将来起こると予測されている第一次~第三次産業革命を凌ぐ産業構造の大変革の事です
最近屡々新聞を賑わすICT(Information and Communication Technology / 情報処理および情報通信技術を使ったサービスの総称)やIoT(Internet of Things / 多種多様な生産設備が地理的な境界を越えて相互に自律的にコミュニケーションを行う事)の普及、急ピッチで開発は進められている動運転車、身近な生活の分野で急速に進むシェア・エコノミー(配車シェア/ウ―バー、個人同士の商取引/メルカリ、クラウドコンピューティング/クラウドワークス、、)などは、いずれもこの「第四次産業革命」の第一歩という事ができます

第四次産業革命では、それまでの産業革命と同じ様に「人の働き方」が大きく変わります。そして、結果として「人の生き方」も大きく変わるのではないか、と言われています
最近、週刊現代に「オックスフォード大学が認定、あと10年で消える職業無くなる仕事」というセンセーショナルなタイトルの記事が出て話題になっていました。この記事のソースをネット上で探ったところ、どうやら2013年9月に発表された「The future of employment : How susceptible are Jobs to Computerisation ?」という論文の様です。これは72ページにわたる大論文で、私には到底読みこなせませんが、論文冒頭の要約をみると、米国の702の職種についてコンピューター化できる可能性を分析したところ、47%の職種でコンピューター化が可能であり、労働市場に於いて雇用環境全般(職種ごとの賃金水準や学歴、ほか)に大きなインパクトを与える可能性があるとのことです

難しい話は別にしても、頭脳労働の粋と思われる囲碁や将棋の世界でコンピューターが一流のプロに勝ってしまうニュースや、人気のない大工場でロボットが黙々と仕事をこなしている映像を見ると、近い将来間違いなく「人の働き方」が変わるに違いない事は実感できると思います
第四次産業革命でも半分くらいの職域は残るのでしょうが、要求される能力はかなり変わってきそうです。既に、増え続けるデータ処理に係る人の求人が増えています(参考:データ解析者争奪戦)。一方、失われる可能性の高い職域の雇用の問題は、予め予測し、可能な範囲で対策を考えておくことは絶対に必要ではないでしょうか? 大国であった英国が20世紀後半、第3次産業革命に的確に対応できず所謂「英国病」で苦しんだ歴史を忘れてはならないと思います

日本が直面している少子・高齢化の状況

第四次産業革命の黎明期にあたって、世界をリードする日本であり続けるためには、今直面している少子・高齢化社会の状況にどう対応していくかは避けて通れないと思われます。総務省が発表している人口推計から衝撃的!な幾つかの図表を取り出してみると(詳しくは:我が国の労働力人口における課題_総務省参照);

我が国の高齢化の推移と将来推計
我が国の高齢化の推移と将来推計

我が国の65歳以上の人口は2010年には23.0%であったが、2060年予測では39.9%と世界のどの国でもこれまで経験したことがない少子高齢化が進むことが見込まれ、2060年には15歳~64歳までの労働人口が4,418万人まで大幅に減少することが予想されています
一方、こうした労働力の急速な減少傾向に対して、現在65歳以上の人が就業している(希望する)割合は極めて少ない事が以下の図表を見ると明らかになります;

潜在的労働力
潜在的労働力

この結果、65歳以上の人ひとりを支える生産年齢(15歳~64歳)の人の数は、以下の表の通り劇的に低下し、常識的には働かない高齢者を働ける人(15歳~64歳)が支えていくというこれまでの構造(生き方)は通用しないことになります;65歳以上人口1人を支える生産年齢人口

一方、厚生労働省の要介護者数の推計値をみると、これまた衝撃的!な数値になっています;

要介護の認定者数
要介護の認定者数

こうしたことを総合すると、高齢者は自ら道を切り開いていく必要があると考えられます。豊かな高齢者は、働かずとも高額商品の購入、旅行や遊びで消費することによって経済の循環に貢献することが可能です。しかし、年金を貰っている普通の高齢者は、働き続けることによって社会に貢献することが必要になると思います。働き続けることによって「介護の世話にならずにすむ健康を維持」し、同時に「生産労働人口の減少」を補うことが、結果として「老後の生き甲斐」を得ることに繋がるのではないでしょうか

産業構造の大変革と日本の生きる道

第三次産業革命までは、日本人の器用さからくる「もの作りの伝統」と、江戸時代の寺子屋、藩校などから続く国民皆教育による「労働者の平均的な能力の高さ」によって勝ち残ってきました。しかし「もの作りの伝統」はAI+ロボット+3Dプリンターで優位性は失われる可能性が高いと言われています。また、「労働者の平均的な能力の高さ」もロボットが導入されたもの作りの現場、自動運転車が導入された運輸業などの現場(参考:高速道路で隊列走行の実証実験)はもとより、間接業務についても、軽易な事務作業は当然として、花形である企画業務や、人事・総務業務、技術開発業務、などについても膨大なデータベースを基に、AIを駆使して答えを出す「クラウド・xxx」によって代替される可能性が高いと言われています。最近、日本の巨大銀行においてフィンテック(FinTech /金融を意味するファイナンス/Financeと、技術を意味するテクノロジー/Technologyを組み合わせた造語 )の急速な普及により人員や店舗数を削減し始めたのもその象徴的な現象と思われます

逆に、同じ理屈で日本の人件費の高さから海外生産にシフトしていった、グローバル企業が、「生産の一部(少なくとも日本で消費される部分)を日本に戻すこと」も不思議ではありません。今始まったばかりですが、多国間の自由貿易協定(TPP、日欧EPA、など)もそれを後押しするに違いありません

また、間違いなく生き残る仕事のうち、基礎研究の分野、芸術と言われるまでに進化した伝統技術の分野人とのコミュニケーションが必須のサービスの分野、などは、現在必ずしも人気のある職種とは言えませんが、これから職を探そうとしている若い人たちには狙い目かもしれません

< 基礎研究の分野
これから日本が世界の産業をリードしていく為には、医薬品・医療用機器の開発、新素材の開発、情報分野での基本技術の開発(量子コンピューター、通信規格、、、)など、基礎的な研究に国を挙げて力を注いでいく必要があります
これまで、所謂ポスドク問題(Post Doctor / 博士号は取得したが、正規の研究職または教育職についていない者)と言われ、多くの優秀な研究者が、充分な給与を得られず苦労しているという実態があります。結果として優秀な人材が米国に流出したり、研究に対する夢をすてて民間企業の普通の仕事に就いたりすることが後を絶ちませんでした
また、公的な研究機関であっても、多くの研究員が有期雇用契約で研究しており、研究成果を出すことを焦って研究不正を犯す事例(STAP細胞の事件で有名!)が発生したことでも分かる様に腰を据えて研究する体制が整っていません

ノーベル賞を受賞する様な卓越した基礎研究も、日本の教育・研究環境の評判を高めることとなり、米国の様に世界から優秀な人材を呼び込むことに繋がると考えられます。ここ最近、日本は中国や韓国が羨むほどのノーベル賞の授賞者を輩出していますが、これは数十年前の研究に対して与えられている訳で、現在の教育・研究環境が続けば早晩受賞者が減ることは間違いないと受賞者たちから警鐘を鳴らされています

<Follow-up>
*2018年10月13日の日経新聞電子版に(181013_科学技術大国・衰える研究基盤_伸び悩む資金、細る人材_推進力に影・気が付けば後進国181013_科学技術基本法)という記事が出ていました

< 伝統技術の分野
明治維新の主役となった島津藩は、16世紀の文禄・慶長の役で朝鮮から連れ帰った陶工を優遇し根付かせた「島津焼」を幕末にヨーロッパ各国に輸出し経済的に豊かになったと言われています。また、島津藩に限らず徳川幕藩体制の中で、各藩が競って現金収入の基になる工芸品を洗練し、これが明治の日本を経済の面で支えたことは間違いありません。更に、神社仏閣・城郭の建設で培われた木工建築技術も世界に誇れる伝統技術の一つと思われます
こうした優れた伝統技術は、現在後継者が不足していると言われています。こうした技術を単に維持するというよりは、国内のみならず海外への販売強化を図り、結果として産業として成り立たせる方策を国を挙げて考えるべきだと思われます

< 人とのコミュニケーションが必須のサービスの分野
現在日本が直面している最大の課題である「少子・高齢化」の問題で喫緊の課題となっているのは保育士介護要員の確保にあることはは周知の事実です。いずれも給与レベルが低いという問題の解決は当然の事として、保育士については子育てが一段落した資格を持った女性の再雇用の促進が図られることになると思われます。介護要員の不足については、現在では非常に体力のいる仕事となっているので、ロボットの活用で体力仕事を無くすことにより、被介護者とのコミュニケーションに関して優位性のある高齢者に門戸を開くことも可能になると考えられます

高齢者が増加することにより、間違いなく医療の分野でも多くの雇用が必要となります。医師の数は医師免許という高い障壁があるので魅力ある収入が保証されなくては現在以上の数は期待できません。ただAIを活用した的確な診断と、「かかりつけ医」制度によって医師の必要数増加はある程度抑制可能と考えられます
一方、看護師の必要数は確実に増加します。現在でも看護師の数が揃わないためにベッドが空いていても入院させられない事態が起こっているそうです。看護師という職業は十分に魅力ある職業であるものの、労働環境が厳しい(特に夜勤の回数及び業務量が多いと言われています)こと、給与水準が労働の質、量に見合わないことが必要人数を確保できない要因になっていると考えられます
私が以前従事していたエアライン・ビジネスについても、夜間作業が多く、これをこなす為に給与面、勤務回数・勤務時間の面において十分な手当てを行うことによって必要人員を確保していました。看護師の定員に関しても国が関与しつつ同様の手当てを行うことにより、充分な雇用数を確保することは可能と考えられます。

観光・旅行業に関しても、人とのコミュニケーションが必須であるビジネスと考えられます。政府の掛け声で始まったオリンピックが開催される2020年迄に「訪日客4000万人、消費額8兆円達成」は、これまでのところある程度順調に来ています。しかし、2017年訪日客は2869万人を達成したものの、消費額は4.4兆円にとどまっています。一時の中国人旅客の爆買いが影を潜めたことが背景にあると思われます。これから更に訪日客の消費額を増やすためには、「コト消費(体験や経験に係る消費;例:」を増やすことが課題とされています。そのためには、国や地方公共団体が行う規制緩和(例:民泊通訳、など)や公衆WIFIの整備、隠れた観光スポットの開発、日本文化体験サービスの提供、などの「観光インフラ」の整備が必要となります。また同時に、訪日客のこうした行動をサポートする人材が多く必要となることは言うまでもありません
これらの活動はオリンピック後も継続して行うことによって、更に多くの訪日客を呼び寄せ、更なる雇用を生み出すことができると考えられます。因みに観光先進国のフランスには年間7000万人の観光客が訪れるそうです

農業、林業、水産業の未来

第四次産業革命とは無縁と思われる「農業、林業、水産業」などの第一次産業は、人の命を支え、有事の際の最も重要なインフラであることは言うまでもありません。しかし、戦後の急速な経済発展の過程でないがしろにされ、時として政治の道具とされてきた結果、農業、林業、水産業それぞれの先進国(いずれも経済・文化の先進国)から相当程度遅れた状態にあります
一方、地球儀を眺めて貰えれば分かることですが、日本の地理的な条件(中緯度、南北に長い、モンスーン地帯、山岳地帯が多い、海に囲まれ島が多い)は農業、林業、水産業とって世界有数の適地であり、間違いなく生き残る産業分野です。努力と工夫次第で自給はもとより、国際競争力のある第一級の輸出産業に育てることも可能だと考えられます

現在、農業、林業、水産業共に就業者が減少すると共に高齢化し、存続の危機に陥っている地域(地方の過疎化)も少なくありません。一方、都市に流れ込んだ若者は現在でも低賃金に喘ぎ、第四次産業革命が本格化すれば職を失う可能性も否定できません
こうした状況を打開するためには、農業、林業、水産業を金の稼げる産業に転換すると同時に、労働環境を快適なものにして魅力ある職場に変えてゆくことが急務であると思います。以下にその方策について私なりに考えてみたいと思います

1.農業の分野

現在、農業分野の生産性は、農業先進国に比べると相当低いと言われてる一方、農業人口は戦前・戦中・戦後に比べれば相当減ってきています。因みに、農業就業人口とGDP(国内総生産)に対する農業の貢献度は下図の様になっています;

GDP当たり農業人口
農業人口比率・国際比較

つまり、日本の農業は就業人口の減少に合わせて、GDPに貢献しなくなっている実態を表しており、農業が結果としてないがしろにされてきた原因であり、結果であると考えられます。農業就業人口の比率は米国の水準に近いレベルまで来ているので、これからは農業の生産性を上げ、日本のGDPに対する農業の貢献度を上げていかなければならないと私は考えます

農業の中で最も大切なものは昔も今も穀物生産にあることは論を待ちません。ご記憶の方も多いと思いますが、温暖化対策の切り札としてトウモロコシから製造したアルコールがガソリンの代替として使われた時期がありました。主な製造国は米国でした。この結果、食料としてのトウモロコシの需給が逼迫し、トウモロコシを主食としている国々、とりわけ貧しいフィリピンにおける食糧危機に繋がりました。また、トウモロコシを飼料として家畜を生産している日本においても、食肉価格の高騰につながりました。これは、異常気象や、戦争などによって穀物生産の需給が逼迫すれば、穀物を自給できない国は命に係わる大変な事態が起こるという事を如実に表しています

現在の日本の穀物類の生産状況を食糧需給統計_農林水産省(確定値のある平成27年度分)でチェックしてみると;
* コメ:国内生産量/842万9千トン ⇔ 自給率/98%(主食用は100%)
小麦:国内生産量/100万4千トン ⇔ 自給率/15%
* ジャガイモ:国内生産量/240万6千トン ⇔ 自給率/71%
* でんぷん:国内生産量/247万3千トン ⇔ 自給率/9%(他の資料より)
大豆:国内生産量/24万3千トン ⇔ 自給率/7%
大雑把な捉え方として、穀物類の中で小麦と大豆の自給率に問題がありそうです。小麦の需要が多いのは、過去米食主体だった食生活が、戦後パン食を好む様になってきた結果(学校給食の影響か?)だと考えられます

戦後の高度経済成長のお陰で日本は豊かになり、穀物類の他に肉類、鶏卵、牛乳・乳製品の消費も急激に増加してきました。これらの生産状況を、同じ農水省のデータでチェックすると;
* 肉類:国内生産量/3262万8千トン ⇔ 自給率/53%
* 鶏卵:国内生産量/254万4千トン ⇔ 自給率/97%
* 牛乳・乳製品:国内生産量/740万7千トン ⇔ 自給率/62%
一見問題無さそうに見えますが、実はこれらの生産に共通する飼料(主に穀物由来)の自給率に大きな問題があります;
* 飼料:総需要量/2,356万9千トン ⇔ 自給率/28%
食肉生産大国(米国、オーストラリア、など)との貿易摩擦でいつも問題となる牛肉、豚肉の輸入量の問題は、既存の生産農家の保護のみが強調されますが、「食の自給」を問題にするのであれば、上記穀物類の生産と併せ、飼料作物、放牧地の確保など多面的な対策をたてる必要があると考えられます

参考:農林水産省から出されている、異常に低い食料自給率(39%)は、ご承知の方が多いと思いますが、これは「カロリーベース食料自給率」のことで、国内生産を行っている家畜類の飼料もカロリーをベースに輸入量に加えている為です。こういう数値は先進諸国では殆ど公表されていません。ただ、飼料の大半を輸入に頼っているという実態は問題であることは確かです

以下、「食料の自給」の問題として小麦、大豆、飼料作物の増産について浅はかな!私見を展開してみることにします
増産には耕作地の拡大土地生産性の向上コストの削減などが必要になります;
耕作地の拡大
農地に関する統計_農林水産省を見ると、平成27年度で耕作放棄の農地は28万4千ヘクタールに上っており、全耕地面積(444万ヘクタール)の6.4%になっています。まず、これ等の遊休地を耕作地に変えることが必須です(ちょっと乱暴ですが、仮にこの耕作放棄地で小麦を栽培すれば150万トンの収穫が得られ自給率が37%まで上がる計算になります)
また、耕作に適さない山裾の山林の一部を牧草地とし、家畜の放牧地に変えることも飼料穀物の輸入量の削減に寄与すると考えられます。副次的な効果として、スイスや阿蘇の放牧地の様な美しい景観も作れるのではないでしょうか

更に、以下に展開する野菜生産の効率化により、野菜耕作地の相応の部分を穀物類の生産に振り替えることも可能ではないかと考えています

土地生産性の向上
現在、日本の土地の生産性は諸外国と比べて決して高いとは言えません。因みに穀物単位当たり収量・国際比較をみると;
* コメ・1ヘクタール当たりの収量:日本/6.52トン ⇔ 中国/6.59トン
* 小麦・1ヘクタール当たりの収量:日本/3.25トン ⇔ EU/5.36トン
* 大豆・1ヘクタール当たりの収量:日本/1.57トン ⇔ 米国/2.96トン

コメはそこそこですが、小麦と大豆はかなり生産性が低い状態です。コメについては日本人の銘柄米志向から単位当たり収量を犠牲にしている結果だと理解できますが、小麦や大豆については、強い殺虫剤を使用できないとか、遺伝子操作をした種を使っていないとか、耕作単位が小さいとか、色々言い訳はあるかもしれませんが努力する余地は相当ありそうです

コストの削減
日本は小規模の農家が多く、機械化が進まないために農業大国の様なコスト面で効率的な農業ができていないことは否定できません。戦前は広い土地を所有する地主が、多くの小作人を使って経営しておりましたが、戦後すぐに「自作農創設特別措置法(昭和21年制定)」が施行され、多くの自作農が誕生しました。また、土地を持たない引揚者が荒蕪地を開拓して(各地に存在する″昭和村″などはその例)農民となりました。こうして生まれた自作農民の営農努力、耕地の拡大が戦後の食糧難を救ったことは間違いありません。また、互助組織としての農協の役割も大きかったと思います。しかし、こうした小規模農家と農協が、戦後70年以上経って農業の大規模化、効率化を阻んでいるのは皮肉なことです
現在こうした小規模農家の多くで高齢化が進み、後継者不足が叫ばれています。不謹慎な事を承知で敢えて言わせて貰えば、今が低コスト農業に移行する絶好のチャンスだと思われます。耕作放棄せざるを得ない農地を買い上げ(あるいは借り上げ)、営農意欲のある自作農、あるいは農業法人に売却し(貸し出し)、大規模化を図ることにより、耕作機械類の大型化、耕作機械類の稼働率の向上、肥料、種苗類の大量購入によ単価削減、を実現すると共に、農業労働者の雇用創出、高賃金化、労働環境の改善を図ることができると思います

野菜栽培について;
野菜の栽培に関して我々が学生時代に学んできたことは、人口が集中する「大都市周辺に立地する」ということでしたが、高速道路網、鉄道網が発達した現在の高度な Supply Chain を前提とすれば、この理屈は殆ど通用しなくなりました。米国産のブロッコリーが日本全国の大都市で安く売られていること、産地直送の野菜が宅急便で1日で手に入ることから分かる等に、大量冷蔵輸送が当たり前になった現在では、日本全国どこで生産しても大都市に新鮮な野菜を供給できる様になりました
温室を使わないで栽培する野菜類については、全国配送を前提とすることにより、大規模化、機械化が実現できコスト削減が可能となると思われます。また、南北に長い日本の特徴をうまく生かすことになり、季節ごとにその地方に適した野菜の生産にに特化することにより農薬使用量の削減、農業所得の均一化も期待できることになります(ジャガイモやタマネギの栽培、夏場の高原野菜の栽培などで既に行われています)。また、暖地における春小麦の栽培と野菜栽培の二毛作(土地生産性の向上)も期待できるのではないでしょうか
最近、キャベツ、白菜、大根、など重い野菜の収穫作業が高齢者には負担となり栽培面積が減少していると言われています。こうした問題も、大規模化による大型省力化機械の導入で解決可能と思われます

葉物野菜、トマト、キュウリ、ナスなどの野菜は、AIで栽培に最適な条件を整えた大規模な温室栽培により、病虫害のリスクを下げ、単位面積当たりの収量を飛躍的に増やすことが可能になっています。オランダのトマト栽培を例にとれば、普通の露地栽培に比べ6~8倍の単位面積当たり収量が実現しており、ヨーロッパにおけるトマトの輸出国になっているそうです。勿論、冬場のエネルギーコストを勘案した上で適地を選ぶ必要はあると思います

<Follow-up>
*2018年3月8日の日経新聞電子版に(三共木工・トマトハウスにIoT)という記事が出ていました

農地に関する統計_農林水産省をみても全耕地面積の半分弱が畑地として使われていますが、上記の様な野菜栽培の大規模化により相当程度の耕作地を穀物生産に振り向けることが可能ではないかと私は考えています

果樹栽培について;
果樹栽培に関しては、日本は既に先進国と言えるのではないでしょうか。品種改良の努力によって、殆ど全ての果樹について高付加価値の輸出品として脚光を浴びつつあります。アジア地区の経済発展に伴う富裕層の増加により更に輸出が伸びることが期待されております。ふた昔前のオレンジ自由化による騒ぎが懐かしく思い出されます!

酒類の生産について
最近、ワイン、日本酒、焼酎、等の純国産の酒類が注目されています。世界に誇る発酵食品を作り出してきた日本の技術が、酒造りに生かされているのではないでしょうか。今後、大きく期待できると思います

Follow_Up:2019年5月17日、改正農地バンク法が成立しました。詳しくは(改正農地バンク法が成立 農地集約手続きを簡素化)をご覧ください

2.林業の分野;

日本林業の歴史(ネット情報);
1955年頃、日本の木材の自給率は9割以上ありました。しかし、急速な経済発展に伴い木材の需給が逼迫した結果、木材輸入の自由化が段階的に行われ、1964年には全面自由化となりました。外材は国産材と比べて安かった為にその後輸入量が年々増大してゆき、1975年以降は円高により更に外材価格の比較優位が進みました。この結果、1980年頃をピークに国産材の価格は落ち続け、日本の林業経営は苦しくなっていきました。2008年には自給率が24%となっています。

一方、国内の大造林政策は1996年まで続けられ膨大な人工林が残りましたが、国産材の価格の低迷により、間伐や伐採・搬出等に掛かる費用が回収できず、林業はすっかり衰退してしまいました。また不在地主の増加により、間伐などの手入れが全く行われていない森林が増えていることも一つの要因です。手入れが行われなければ、木は育たず、国産材として活用することができません

林業の改革の方向性については「日本林業はよみがえる」;

日本林業は蘇る_梶山恵司
日本林業はよみがえる_梶山恵司

を一読されることをお薦めします。以下にこの本の要点を踏まえた上で私見を述べさせて頂きます;
林業が衰退した結果何が起こったか
江戸時代、林業は各藩の大切な資源として保護され、林業に携わる人が数十年から百年以上にわたる生産サイクル(植林した木は孫の世代が伐採する)を営々として守って安定した生産を行って来ました。また、植林・間伐・伐採などを担う人々の他、山間の木材集積地には製材産業、木工産業が育ち、多くの雇用を創出していました。こうした生産体制は明治以降終戦に至るまで守られてきましたが、外材の流入により崩壊してしまいました
この結果、植林・間伐・伐採を計画的に行って森林を健全に守ってきた人材が流出、高齢化するに任せる結果となり森林は全国的に荒廃して行きました。また、計画的な伐採を行わなくなった結果、製材産業は山間に立地する必要が無くなり外材が入る港湾近くに立地し、結果として山間部の木工産業も衰退していきました。こうしたことが、現在日本が直面する大きな課題の一つである、山間市町村の過疎化の一因になっていることは間違いありません

国内の大造林政策は何をもたらしたか
戦災で焼け野原になった都市を復興するために、長い生産サイクルを守らずに一時的に大量伐採を続けざるを得なかったことは止むを得なかったかも知れません。また結果として、植林した若木が育つまで一時的な外材の利用は止むを得なかったかも知れません
しかし、植林した木が育ったあと、広い面積を一斉に伐採し(「皆伐(かいばつ)」と呼ぶそうです)、また一斉に植林するという林業に移行したことは、日本林業の選択として誤っていたと思われます。「皆伐」は必要となる労働力の密度が高く、且つ時間的な継続性がありません。また「皆伐」する場所へのアクセスが悪い場合、人力による伐採と仮設ケーブルの設置など伐採に係るコストがかさみ、結果として外材とのコスト競争力を失うと共に、森林を永続可能な資源として維持するための人材も失うことになりました(農業の場合、自由化に当たって、農民を守る為の各種施策が行われましたが、林業の場合はそれが行われませんでした)。その結果が、森林の荒廃を招いたことはほぼ間違いありません。これが林業の衰退以外に「水害」、「大規模な土砂崩れ」、「水源地の危機」(参考:荒れる人工林・水源地がピンチ)、ひいては「花粉症患者の増加」や「野生動物(猪、鹿、猿)被害の増加」などを招いていると思われます

木曽の美林
木曽の美林

「木曽の美林」に代表される管理された日本の森林では、建築用木材となる杉、檜などの針葉樹林の間には広葉樹林帯を設け、これが野生動物の餌を提供すると同時にその保水力で水害、土砂崩れを防ぎ、木工品の材料を提供するなどの役割を担って来ました。単一樹木の大造林、皆伐という生産サイクルは、これら全てを奪ってしまったということでしょうか

日本林業のポテンシャル
日本は森林経営には理想的な地理的条件を備えています。中緯度にあり太陽エネルギーが豊富であると同時に、モンスーン地帯に位置するため雨量が豊富です。高緯度にあるカナダやロシアには豊富な森林はあるものの、気温が低く太陽エネルギーの恩恵が少ないので、一旦伐採すれば育成するのに時間と手間がかかります。一方低緯度にある熱帯雨林では、高温と大雨に伴う土壌栄養分の流出により一旦伐採すれば再生が極めて難しいと言われています(参考:熱帯雨林保護活動
日本は急峻な山岳地帯が多いので林業には不向きだという意見もあるかもしれませんが、山岳地帯であるが故に雨量が多いこと、寒暖差が激しいこと、などによる高い木材品質が確保できることなど、メリットも多くあります。またアクセスの悪さについては次項に示す通り、林道の整備、大型機械の導入を行うことにより克服可能です。例えばオーストリアは林業先進国で日本にも木材を輸出していますが、急峻な山岳地帯が多いという地形は日本と同じです。因みに主要林業国の木材資源の状況を見ると以下の様になります;

主要林業国の基本指標_日本林業は蘇る
主要林業国の基本指標_日本林業はよみがえる

上表によれば、日本の森林の蓄積量は44億立方メートルに達しているものの、生産量が極めて低い事が分かります。また、上表にある森林国の内フィンランドの2005年の輸出量は年間105億ユーロ(約1兆4000億円/1ユーロ135円)、オーストリアは年45億ユーロ(6000億円)です。また、ドイツは国内消費がメインですが、2005年に1,223億ユーロ(16兆5000億円)を売り上げ約100万人の雇用を生み出しているそうです

改革の方向性
如上の通り日本林業は、敗戦とともに一旦衰退したものの林業先進国というお手本があり、且つ江戸時代からの伝統技術を継承する人材もわずかながら残っていることから、規制当局による方向付けと林業関係者の熱意さえあれば、必ずや日本林業は蘇ると思われます。日本の周辺には中国(乾燥地帯が多い)という巨大な輸出可能性を秘めた国があり、下記の様な改革を着実に行うことにより林業が日本の基幹産業の一つになることは夢ではないと私は確信しています
林道の整備;
日本の林道は大型機械を導入する様にはなっていません。昔ながらの細い林道では、人間が一人で使うチェーンソーで伐採し、馬を使って運び出すことくらいしかできません。一方、高度経済成長時代につくられた「スーパー林道(大半が舗装され、山を崩して作られている)」は行楽客の通路になっているだけで環境破壊の原因にも挙げられています。林道の目的は森林の環境を悪化させず、伐採すべき森林のすべてにアクセスできる「林道網(ネットワーク)」でなければならず、しかも大型機械が通行できなければなりません;

理想的な林道_日本林業は蘇る
理想的な林道_日本林業はよみがる

上記の林道は幅3.5メートルで、道の真ん中を高くして排水を良くしてあり、アスファルト舗装をせずに砕石を敷き詰めています

大型機械の導入;
林業で一番コストがかかるのは間伐・伐採、輸送に係る費用です。上記林道網を利用して大型機械を運び込めば、ケーブル設置の様な仮設の設備は不要となり、省力化と作業時間の短縮による人件費の削減が一挙に可能となります。尚、大型の林業機械は森林の地面を荒らすことの無い様に特別に開発したもの(当面は林業先進国からの輸入か?;有限会社・フォレスト動画リスト)でなければなりません。土木工事用の大型機械の改修ではこの条件を満たさない可能性が高いので注意が必要です
数種類の大型機械とそのオペレーターがセットになって、林道網に沿って計画的に間伐、伐採を行い、伐採を行った場所に順次植林を行って行けば、年間の木材産出量も安定し、昔の様に木材生産地に製材産業を呼び戻すことが可能になります。更に植林に当たって、広葉樹林帯の整備も行えば、いずれ木工産業をの再生と野生動物の跋扈もなくなると思います。更に、地球温暖化の対策として推奨されている木材チップ(間伐材)や製材の廃棄物(おが屑、端切れ、など)を使ったバイオマス発電により、山間地区のエネルギー自給が可能になるかもしれません

③ 後継者の育成;
戦後からの失われた70年で、林業を支える人材は一から育てなければならない状況になっていると思われます。歴史を振り返ってみれば、明治維新後まず政府が取り掛かった教育改革は、近代的な農業を習得するために外国からの教師の招聘と、農学校の設立でした。現在の北海道大学の前身にあたる札幌農学校(クラーク博士で有名)然り、東大農学部の前身も明治3年に遡ります。現在、明治維新当時と同じ様に先進国が存在し、そこでは近代的な林業が行われています。こうした国から国策として教員を招く、あるいは優秀な学生を林業先進国に国策として派遣する、などを行って全国規模で林業振興の種を蒔くことが必要だと思います(参考:林業再生・人材養成待ったなし

 日本林業の未来;
林業についても最新の技術を使った先進的な試みが行われつつあります(例えば、ドローン活用による資源量調査IoTを活用してスマート林業を実験)。また、強度と耐火性の高い集成材(CLT)を使うことにより、従来鉄筋コンクリート製、あるいた鉄骨製が普通であった高層建築にも木材が使われるようになり、木材需要は今後増えると考えられます。更に、最近話題になっている木材資源を使ったセルロース・ナノファイバー(CNF)は、鉄の5分の1の重さで鉄の5倍の強度を持つと言われ、今あらゆる分野で使用が拡大している炭素繊維に匹敵する素材に成長する可能性を秘めています(しかもこの素材は完全にカーボンニュートラルです!)。木材の資源国である日本には明るい未来があると考えて良さそうです

遅ればせながら国も林業再生に本格的に取り組みを始めました。林業再生に必要な資金を確保するため、政府は2019年度から新税(森林保全へ新税)を設ける方針です。また、新しい森林行政を進める為に林地台帳の整備(地権者を見つけ出し、境界を確定する)を始めました。地権者の世代交代、住居の変更などで困難が予想されますが、林業改革の為にはできるだけ早期に全国レベルで実施完了する必要があると思います

<Follow-up>
*木材利用の促進を図るため、2010年に 公共建築物等における木材の利用促進に関する法律が制定されました;促進スキーム
*2018年3月6日の日経新聞電子版にバイオマス発電に積極投資を行うエフォンという記事が出ていました
*2018年8月11日の“ZUU Online”に(中国が日本の木材を「爆買い」)という記事が出ていました

3.水産業の分野;

日本は戦後、大型船を駆使して南氷洋における捕鯨、北洋におけるサケ・マス、カニ漁、太平洋・大西洋におけるマグロ・はえ縄漁を行い、沿岸漁業と併せ、世界一の漁獲量を誇っていました。私たちの世代は子供の頃、こうした豊富な水産資源のお陰で不足しがちのタンパク質を摂取し成長することができました。

その後、沿岸漁業に依存する諸国が先進遠洋漁業国の進出に対抗し,漁業資源の保存と独占のため,漁業に関する管轄権を自国領海の外側の公海部分にまで一方的に拡大するようになりました。1982年に採択された国連海洋法条約で排他的経済水域の制度が新設され、実質的に沿岸から200海里の範囲で「漁業専管水域」として管理できることになり日本の漁業は大きな変革を余儀なくされることになりました
しかし、考えてみれば日本は多くの島々で成り立っており、排他的経済水域の面積は世界第6位となる海洋大国です

領海・接続水域・排他的経済水域
領海・接続水域・排他的経済水域_wikipedelia

また日本列島の周辺は黒潮(+対馬海流)、親潮が囲むようにして流れ、この広い水域を生かした漁業を行えば水産品の輸出大国になることも不可能ではないと私は考えます。しかし、以下の様な課題を解決することが前提になると思われます;
 現在、沿岸漁業を中心に漁業者の高齢化が目立ち、後継者の育成が急務な状況ですが安定した漁獲が得られなければこの問題は解決しません。稚魚・稚貝の放流の他、流れ込む川の上流域での森林の整備(←落葉が分解して植物由来の栄養素が海に流れ込むことが必要)など豊かな漁場にしていく施策が必要と思われます。また、クール宅急便を使って各地方の雑魚のマーケットを開発すれば、沿岸漁業の経済価値を引き上げることも可能と思います

過去、北海道で沢山取れたニシンが全く取れなくなった時期がありました。また、日本海沿岸で沢山取れたハタハタが全く取れなくなった時期がありました。いずれも乱獲が主な原因でした。その後、厳格な漁獲規制を行った結果、資源が回復しつつあります。資源量の正確な把握と適切な漁獲規制(必要により完全な禁漁)を国の責任で行っていく必要があると思います

<Follow-Up>
2月16日のダイヤモンド・オンラインの記事(180216_日本だけが漁獲量減少、ノルウェー漁業を見習うべき理由)が刺激的です!

日本が大量に漁獲し、消費しているマグロは、その資源の維持について責任があると思います。マグロの漁獲量と消費量のサイトを見ると、日本は世界中のマグロの消費量の約2割を占めており、日本人が好むクロマグロについては全漁獲量の72%、ミナミマグロについては全漁獲量の98%を消費していることが分かります
地中海、大西洋のマグロについては、欧州各国が資源の管理をしていますが、昨年は資源量が回復し漁獲割り当てが増加しました(参考:大西洋のマグロ管理に学べ)。一方、太平洋のマグロについては資源が減少しつつあり日本のイニシアティブが求められるところです
先日、テレビで大西洋のマグロ資源に関わる番組を見る機会がありました。大西洋マグロの産卵場所は地中海沿岸にあります。産卵時期にこの海域で捕獲(巻き網漁)したマグロは船に水揚げせずに、そのまま時速2キロで生かしたまま移動し肥育用の生簀に移すことで、抱卵したマグロは移動の途中や生簀の中で産卵するそうです。産卵を終えたマグロは生簀で肥育させた上で出荷するとのことです
太平洋マグロも小型魚を取り過ぎない様に漁獲規制を行っていますが、あまりうまくいっていない様です。この1月には既に割り当ての9割に達し漁獲規制が始まりました。マグロはえ縄漁では小型魚(30キロ以下)も、産卵直前の親マグロも針にかかってしまえば水揚げしない訳にはいかず、こうした規制の効果には疑問が残ります。太平洋でも産卵する海域は特定されており

太平洋マグロ産卵場所_水産庁調査結果
太平洋マグロ産卵場所_水産庁調査結果

地中海でやっている様に産卵するまで水揚げをしないような方法を取れないものかと考えてしまいます

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*2018年10月7日の日経新聞電子版に以下の様な分かり易い統計図表が出ていましたのでご紹介します;

マグロ資源統計
マグロ資源統計

日本では大分昔から養殖漁業が盛んになっています。今や高級魚を中心に沢山市場に出回っています。マグロについても近畿大学が完全養殖(生簀で生ませた卵から成魚を育てること)に成功し、既に「近畿マグロ」というブランドで市場に出ています。また、今年シラスの大不漁が伝えられているウナギの完全養殖についても、もうすぐそこまで来ているといわれています
養殖についての残された課題は餌にあります。餌を魚粉に頼っている間はイワシなど、そのままで食用になる魚を大量に消費することになるので、コストの面と資源量の面で必ずしも養殖がいいとは言えません。植物由来の餌も一部魚種について使われていますが、味や香りに影響を与えてしまうと言われています。味、香りに影響を与えない植物由来の飼料とか、タンパプ源として昆虫を使うとか、今後の開発が待たれます。また、養殖魚の生育環境の管理などではAIの活用も考えられます

<Follow-Up>
2018年12月8日に漁業法改正案が可決・成立しました。この改正法は70年ぶりの大改正で、漁業の成長産業化による漁業者の所得向上と、若者の就業を後押しする狙いもあります。詳しくはを漁業法等の一部を改正する等の法律案の概要ご覧ください

あとがき

第四次産業革命の黎明期に当たって、「人の働き方」がこれからどう変わるかについて思いつくままに書いてきましたが、その結果として「人の生き方」も変わるはずですが、この点についてはあまり書くことができませんでした。特に激増する高齢者が、今後どう価値ある生き方ができるかについては殆ど触れることができませんでした。今後更に時間をかけて勉強していきたいと思います

<Follow-Up>
2018年3月4日の日経新聞電子版に、以下の様な記事(なるか一次産業リバイバル)が出ていました。また、ウナギ資源問題でも(歴史的不漁のシラスウナギ_甘い資源管理の限界)という記事が掲載されています

以上