カラオケ万歳!

はじめに

上の写真は、私の最近の歌仲間と楽しく歌っている様子を写した写真です。写っている仲間以外に、退職後、兵庫県の実家に帰って年に1~2度しか会えなくなった仲間の一人がいます

この黒いバーはメディアプレーヤーですをクリックすると音楽が流れ、また同じ場所をクリックすれば途中で止められます。ここでは「旅愁」が入っています。この旅愁という歌はネット情報によれば、原曲は米国の John P. Ordway による“Dreaming of Home and Mother”(家と母を夢見て)という楽曲で、日本で当時唯一の音楽の学校であった東京音楽学校出身の犬童球渓が1907年(日露戦争が終わって2年目)に、この楽曲を日本語に訳した翻訳唱歌です。同年、「中等教育唱歌集」で取り上げられて以来、日本人に広く親しまれてきたこの歌は、2007年(つまり歌われ始めて100年)に日本の歌百選の1曲に選ばれています。歌の命は永遠ということでしょうか、私は小学校時代にこの曲を教わりましたが、今でも私の「心の歌」の一つです
以下、沢山の曲が挿入されていますが、お好きな方だけ挿入曲を聴きながら読んでください

以下、「音楽」という括りで語るような、大それたことをする積りはなく、カラオケ好きの老人の大風呂敷ということでお許し願えれば幸いです!

わが人生の歌がたり
五木寛之「わが人生の歌がたり
五木寛之「わが人生の歌がたり

上の写真は、私の好きな作家の一人である五木寛之が、「月刊ラジオ深夜便」で2005年8月号~2007年1月号まで執筆したものを纏めたもので、同シリーズ三部作の第一部です。九州の貧しい農家で生まれ、教師であった父母と一緒に朝鮮に渡って少年時代(愛国少年!)を過ごし、悲惨な引揚体験(母の死)を経て、東京での苦学(早稲田大学)時代までの間、記憶に残る歌をキーにして自身の人生と世相を綴ったエッセーです
彼の人生は、満州生まれの私の人生に重なる部分が多いために彼の作品に心が引かれるのかもしれません。以下は、私がこの本を読みながら勝手に妄想!した内容です

わが人生の歌がたり_歌のリスト
わが人生の歌がたり_歌のリスト

第一章 はじめて聴いた歌;
五木寛之が初めて聴いた歌は、遠い記憶の底にある朝鮮の民謡と日本人がいない朝鮮の地で教員として奮闘していた父母の歌だったそうです
寂しい」、「わびしい」、「悲しい」というネガティブなフレーズが沢山出てくる「影を慕いて」が大ヒットしたのは1932年のことですが、

この年は3年前の米国発の大恐慌(暗黒の木曜日)が日本にも波及して、日本は大不況の真っ只中にありました。また、1931年には東北地方・北海道地方が冷害により大凶作にみまわれました。この結果、上野駅には東北の農村から身売りしてくる娘さんたちが列をなして降りてくるような悲惨な時代でした。こうした大衆の苦しみに刺激されて海軍将校を中心とした五・一五事件などテロ事件が相次ぎ、大正デモクラシーという古き良き時代が終わって退廃的な雰囲気が漂う時代でもありました。私が一年に一度はカラオケで歌う「侍ニッポン」は、

郡司次郎正が1931年に、この時代を幕末の退廃的な世相に映して描いた同名の大衆小説を題材にしたものです

第二章 戦時下の流行歌;
1931年柳条湖事件を発端として満州事変がはじまり、1932年には日本の傀儡政権である満州国が成立しました。1937年の盧溝橋事件から日中戦争(日華事変)が始まり、更に1941年には太平洋が始まり、1945年の敗戦に至るまで15年間も日本は戦争に明け暮れていました
この戦時下にあって、軍主導の勇ましい軍歌が流行る中で、苦しい戦争を戦っていた兵卒は、望郷の想い祖国に残した家族・兄弟への想い傷ついた、あるいは戦死した戦友への想い異国の丘の歌詞)を好んで歌ったといいます

湖畔の宿_カラオケ
湖畔の宿_カラオケ

上の写真はカラオケの「湖畔の宿」の最初の場面です。この歌は、その物悲しい旋律、歌詞で軍から発禁処分を受けたものの、高峰三枝子さんが特攻隊の慰問に行くと、いつもこの歌をリクエストされ、隊員は涙を流しながら聞き入っていたそうです

戦時中に大ヒットした「麦と兵隊」は、奉天(現在の瀋陽)で満州航空に勤めていた父が好きだった歌のようで、私の小学校時代、父が風呂に入るとよく歌っていたのを思い出します

第三章 極限の悲しみの歌;

玉音放送」には、戦時中の体験から十人十色の感慨があると思いますが、戦争直後の激動期に想いを馳せるには必須のものと思いましたので、この音源をいれました。神谷町に勤務していた頃、月一度くらいは昼休みに愛宕山のNHK博物館に行き、この玉音放送や当時流行の歌を聞いていました。五木寛之は本書の中で「人は悲しい時に明るい歌で元気付けられるというよりは、“わかるよ、おれもそうなんだよ。本当に生きていることは大変だね”という言葉の方に心は支えられる」と書いていますがサーカスの唄」もそんな歌だったのでしょう

直接敵と殺し合う軍人にとっても戦争は悲惨であり、特攻隊の悲劇も沢山ありましたが、戦争の本当の被害者は普通一般の人々であり、彼らは戦争が終わった瞬間から、生き残るため、祖国に帰るための戦争が始まったと本書に書かれています。この泣きたくなるような理不尽な運命の渦中にあって心に響いた歌が「雨に咲く花」でした

この体験は朝鮮からの引揚者だけでなく、満州から引き揚げてきた私たちの家族、親戚も同じ状況でした(生い立ちの記(生誕・抑留・引揚・困窮生活)母方親族の戦争体験

第四章 脱出を支えた歌;
五木寛之の家族は平壌に住んでいた為、ソ連軍の占領下となり終戦になってもすぐには帰国が叶いませんでした。この間に母親が亡くなり、父親も茫然自失の状態で中学生の彼が一家を支えていました。この間に大人に混じってやけくその酒盛りで一緒に歌って覚えた歌が「国境の町」でした

漸く帰国が叶い引揚船の中で船員たちが歌ってくれたのが「リンゴの唄」、内地を目の前にして不安でいるときに「こういう明るい世界がまっているんだよ」と不安を吹き払ってくれた応援歌のようだったそうです

第五章 貧しい日本で生まれた歌;
戦争は終わったものの経済はどん底の状態で、全ての人が貧しかったと言えますが、中でも女性には大変厳しい時代でした。戦争未亡人や普通の娘さんが、生活の為にしかたなく街に立って客を引くことも珍しくなかった時代でした。私たち家族と同じ旧満州の奉天(今の瀋陽)から引き揚げてきた22歳の看護婦さんが、不運が続くなかで上野の地下道で暮らすようになり、生きていくためにやむを得ず身を売ることになった、という新聞記事に、作詞家の清水みのるさんが衝撃を受け書いたのが「星の流れに」という歌です

この歌の中にでてくる「こんな女に誰がした」という歌詞が有名で、映画「肉体の門」の中で歌われて大ヒットしました
また、引揚者は、どこか外地の香りがするエキゾティックな歌に、かつて見た朝鮮や満州、上海疎開地の風景を連想して、心惹かれたようです。そういう背景があってディックミネが歌った「夜霧のブルース」は大ヒットしました

昭和20年代から30年代にかけてNHKラジオ第一放送がラジオ歌謡というオリジナルな歌を放送しました。その中からヒット曲が出て、時代を映し出す歌の数々が生まれました。中でも長く歌い続けられている歌に「さくら貝の歌」があります

第六章 東京の苦学生の歌;
五木寛之は、高校卒業後ロシア文学を学びたくて早稲田大学を受験、合格したあと最初の難関は入学金と前期授業料合わせて6万7千円の納入でした。何とか父親が恩給証紙を抵当に入れて工面しても貰ったものの、住む場所がなく、取り敢えず近くの穴八幡という神社の床下に野宿しました。その後、学徒援護会の斡旋で住み込みのアルバイト(業界新聞の配達)の職を得て働きながら勉学に励むことが出来るようになりました。当時の早稲田大学では、地方の貧乏学生が集まり、大学の裏には角帽をかぶった学生が靴磨きをしており、一般の人の他に、教職員や金持ちの学生が靴を磨かせていました
その頃は町のどこからも音楽が聞こえてくる時代で、特に印象的な歌は、美空ひばりの「リンゴ追分」でした

この時代、学生にとってはデモが日常生活の一部になっていました。GHQの占領が終わった1952年のメーデーの日(5月1日)に血のメーデー事件と呼ばれる激しい騒乱事件が発生しました。また翌年には、石川県の内灘砂丘の米軍試射場に反対する「内灘事件」が発生し、ここに住民だけでなく、各地の労働組合学生音楽や演劇の人も参加する闘争に発展しました。これはその後長く続いた基地反対闘争のきっかけなりました

内灘事件
内灘事件

この頃を象徴する歌としては「君の名は」があります。この時代。数寄屋橋はまだ本当に水に流れの上に掛かっていました

この歌は菊田一夫が書いた脚本の代表作で、1952年にラジオドラマで放送され、多大な人気を獲得しました。ただ、この歌の最初の部分に空襲警報が挿入されていることでも分かるように、最初の半年間は人々の戦争体験を主題に描いていたため、あまり人気は出ませんでした。その後、真知子と春樹の恋愛のドラマに変わっていくと爆発的な人気を呼び、「番組が始まる時間になると、銭湯の女湯から人が消える」といわれるほどであったといいます
残念なことに、現代の若者たちにとっては、2016年8月に公開された新海誠監督の同名のアニメ映画(菊田一夫のドラマとは全く関係ありません)の方が圧倒的に有名です!

その後、五木寛之は学費が払えず大学を中退し、作詞家及び小説家として生計を立てることになりますが、ネットで調べると作詞して販売された歌は数十曲に及び、中でも自身の小説のために作詞を担当した「愛の水中花」、「織枝の唄(青春の門)」、「青年は荒野をめざす」が大ヒットしました

私の人生の歌がたり

私も、大胆過ぎるとは思いますが、五木寛之に倣って自分の人生の歌がたりを試みてみたくなりました。別に歌が上手い訳でもなく、音楽の造詣が深い訳でもないのですが、一時期をのぞいて歌は私の人生にとって非常に大切なものであったことは確かです
1.小学生時代;
五木寛之の歌がたり第六章が1952年で終わっていますが、私の小学生時代はこの1952年、米軍の占領が終わった時に始まっています。就学前の音楽や歌の記憶は全くないので丁度いいタイミングなのかもしれません

私の小学校時代の音楽の授業は大変楽しいものでした。何しろオルガンで伴奏をしてくれる先生のもとで、大きな声を出して歌っていればいいのですから楽しい訳です。ちょうどこの時代は、親も学校の先生もみな反戦の意識が高く、自分より不幸な人達に対する同情の念が強かったせいだと思いますが「とんがり帽子」の少年少女の元気な歌声が心に残っています

この歌は、1947年~1950年までNHKラジオで放送されたラジオドラマ「鐘の鳴る丘」で使われていました。空襲により家も親も失った戦災孤児たちが街にあふれていた時代、復員してきた主人公が孤児たちと知り合い、やがて信州の山里で共同生活を始め、明るく強く生きていくさまを描いています
また、戦後生まれの童謡の中では最もヒットした「みかんの花咲く丘」も戦災孤児を扱った曲と思われます

三番の歌詞の最後に、丘の上に登って遠くの島を見ながら「優しい母さん思われる」という部分ではいつも涙がでてしまいます。恐らく、心臓弁膜症を患いながら私を背負って満州からの長い長い引揚の道のりを歩いた私の母の面影を思い出してしまうからかもしれません

今では、どこの小学校でも校歌がありますが、私の通った小学校では六年生の時に初めて校歌ができました。今回ネットで探したところ、何と見つけ出すことが出来ました。ただ、歌詞がちょっと変えられていたのには吃驚しました

この校歌が秋の運動会の始まる前にお披露目された時、私が作詞者、作曲者にたいして生徒を代表して感謝の言葉を述べました。兄と違ってヤンチャだった私は、小学校時代これが唯一の晴れの舞台だったので、父が写真を撮ってくれた様です;

運動会_校歌発表会
運動会_校歌発表会

2.中学生時代;
私が通った学芸大学付属小金井中学校では、大原某という先進的な音楽の授業?を行う先生がいました。この中学の校歌は確かこの先生が作曲したと記憶しています。ネットで探し出すのに苦労したものの何とか見つけ出すことが出来ましたが、3番まである歌詞のうち一番だけしか入っていませんでした

楽しみにしていた最初の音楽の時間で戸惑ったことは、歌を歌詞で歌わず、階名(ドレミ、、)で歌わされたことでした。私の出身の町立小学校でそんな教育は一切受けておらず、楽譜を見ても曲に合わせたスピードでは階名を読めませんでした。さらに翌週の授業では皆の前で暗記した階名で歌わされるという地獄が待っていました。お陰で?今でも中学校で学んだ歌は全て階名で歌うことができます
また、当時の中学としては珍しかったと思いますが、一クラス全員分のオルガンが音楽室に用意されており、教科書としてメトードローズピアノ教則本が与えられて自習を強要!されました。ピアノを小さい頃から習っていた裕福な生徒や、音楽の才能があってすぐ上達する生徒が多かったなかで、才能が無い上に貧しかった私の家にはピアノやオルガンの類はないので練習ができず、また小学校時代に彫刻刀で手のひらを切り、左手の小指が自由に動かなかった私にとって、毎学期末に行われる全員の前でピアノを弾くテストは正に地獄でした。そんな訳で、この時期に生涯癒すことのできない音楽に対するコンプレックスが定着してしまいました

ただ、兄は高校時代の音楽教育が良かったせいか、クラッシック音楽が好きでレコードを買ってよく聞いていました。その時に影響を受けたのだと思いますが、ベートーベンやその時代の音楽家の音楽には、何の造詣もありませんが、未だに聞くのは大好きです

その頃、日本航空が初めてジェット機を導入するにあたって、父がエンジン整備の勉強をするためにアメリカに長期間出張しました。その時の土産に、当時珍しかったゼニス社製の5球スーパーラジオ(5つの真空管を使ったSuperheterodyne 方式のラジオ受信機で雑音が少ない;済みません!この頃の私は既に“電気少年”だったので電気製品については細部に拘ります)を買ってきてくれ、毎日これでラジオを聴きながら夕食を取っていました。この頃のNHKラジオドラマの「一丁目一番地(1957年~1964年)」のテーマ曲をネットで見つけだしました。聴いてみると、その頃の自宅の夕食風景や隣近所の人たちの顔が鮮やかに蘇ってきました

3.高校時代;
高校に入ってまず驚いたことは、フォークダンスが必修?であると言うことです。男女が手を繋いでダンスをするなどは生まれて初めての事だったので、胸が高鳴ったのを思い出します。まず覚えるのは最もポピュラーな「コロブチカ」です

高校では音楽は必修科目ではなく選択科目になっていました。と言っても、他の選択肢は美術だったので、【美術のコンプレックス】>【音楽のコンプレックス】ということで、音楽をいやいやながら選択しました。
音楽の先生が最初に登場した時は、余りのカッコよさに魂消ました。何といってもイケメンの上に二期会の現役の歌手です。この先生に最初に教わった歌は「いつかある日」でした

この歌のメロディーは実に単純です。しかしこの歌の歌詞は、私にとって心打つものでした。ひょっとして歌は歌詞が“主”で、メロディーは“従”なんではないか、そんな些細なことから歌うことに対するコンプレックスは多少和らいでいった様な気がします

今回このブログを書いている最中に昔の音楽の教科書が懐かしくなり、探し始めました。小学校、中学の教科書は見つからなかったものの、ボロボロになった高校の教科書を見つけ出しました(表紙なし)。老化している紙が破れないようにページをめくっていくと、わら半紙にガリ版刷りの校歌の楽譜が出てきました。たしかこれも練習した様な気がします

高校音楽教科書の1ページ目とガリ版刷りの「校歌」
高校音楽教科書の1ページ目とガリ版刷りの「校歌

また、苦労して歌えるようになった「海に来れ」のページでは、上手く歌えない部分を自宅で必死に練習したことを懐かしく思い出しました

海に来れ
海に来れ

歌を歌うのが少し好きになったところで、当時流行っていたギターを弾ければ好きな歌を弾き語りできるな、と一念発起し、親に安いギターを買ってもらいました。左手の小指が使えないので、弦を逆に張り替え、右手でフレットを押さえることにして練習を始めましたが、数か月の練習で投げ出してしまいました。またしても楽器コンプレックス悪化させるだけに終わりました

音楽を選択したグループは、上級生の卒業式で「ハレルヤ」を歌うことになっていました。これは本格的なクラシック音楽なのでそう簡単にはマスターできません。また、音楽を選択した“沢山の男”は大半がバスかバリトンのパートしか声が出せず、テノールとソプラノは音楽の“手練れ”が少人数で担当していました。特にソプラノは卒業後芸大を出てプロの歌手となった女性一人が頑張っていて、ソプラノの音量に負けてしまう大勢のバス、バリトンに対して「もっと声を出して、、」と先生に言われ続けたことを思い出しました。数ヶ月の練習を経て、なんとか卒業式で歌うことができました

このハレルヤという合唱曲は、ヘンデル作曲のオラトリオ「メサイア」の44番です。音楽を選択した私の友人の中で、才能に恵まれた人たちは「メサイア」全曲を歌いたいと、ほぼ老年!になってから本格的な練習を始め、数年前に目出度く公演を行いました、大したもんです!

4.大学時代;
一年浪人した後、大学に行きましたが、浪人中は、オールナイト・ニッポンなどの深夜放送を聞きながらの勉強でした。1坪を半分に区切って妹と勉強部屋をシェアしていましたが、そこに自作の真空管アンプとリンゴ箱を使って作ったスピーカーを持ち込んで、流行り始めたビートルズの「 I Should Have Known Better」などを聞いていました

目出度く入学した後、バレーボール部に入部しましたが、ここで最初の洗礼はコンパ(今の飲み会)で歌う「ああ玉杯に花受けて

と、試合の応援などで使われる応援歌「ただ一つ」の練習です

これらの歌はいずれもアカペラで大声で歌わねばなりませんので、高校時代に学んだ歌唱法?とは全く別物です
大学に入ってから最初にやることは、ダンス部が主催するダンス講習会に通ってダンスパーティーに必要な、ジルバ、ワルツ、ルンバ、他、を覚えることです。当時、男性主体の大学や、女子大学の学生は、ダンスパーティーを通じて異性の友達を作ることが、ごく自然に行われていました。この頃のダンスパーティーではスイングジャズがよくかかっていましたが、私はビリーボーン楽団の「波路はるかに」が大好きでした

60年安保が終わっても、左翼の活動家の人々は、どうにかして若者を仲間に加えたいと思っており、一方、地方から出てきた真面目な若者は、人との繋がりの少ない都会生活で疎外感を感じる人も多くいました。こうした状況下で店に来た皆が歌の上手いリーダーと一緒に歌う歌声喫茶がはやり、東京の繁華街には当時沢山の歌声喫茶がありました。ここで歌われる歌は外国の民謡、学校で習ってきた唱歌、左翼の人が好む反戦歌、スタンダードとなった歌謡曲などでした。私たち学生も、コンパが終わった後、時折こうした歌声喫茶に寄って何曲も何曲も歌い続けたことを思い出します

また我々の世代は、親はもとより、教えを受けた教員の大半が戦争の惨禍を経験しており、社会や家庭内には反戦の気分が横溢していました。私の様ないい加減な学生でも朝日ジャーナルの購読は当たり前であり、ベトナム戦争には学生は概ね全員が反対していました。ベ平連もこうした政情の中で登場致しました
東大では1968年1月、医学部の学生がインターン制度に代わる登録医制度に反対して無期限ストに突入しました。その後、6月には東大全共闘が結成されると共に各学部、学科単位でバリケード封鎖が連鎖的に行われてゆきました。他大学の全共闘との連携、政治デモへの参加の過程で歌われた歌は、正に革命の歌でした。今でも、当時の高揚した気分の中で屡々歌われた「インターナショナル」、「国際学連の歌」、「ワルシャワ労働者の歌」を聴くと何故か気持ちが自然に高ぶります

この三つの歌をお聞きになるだけでも感じられると思いますが(実際に大勢で歌ってみるともっと迫力がでます)、革命歌というのは人を酔わせて死をも恐れぬ勇気を生み出す効果を狙っています
戦時中の日本の軍歌もそういう効果を狙っていたと思いますが、ネット上で30曲程の日本の軍歌を聞き比べてみたところ、上記革命歌3曲が「侵略者に対する反撃」がテーマであり極めて本能的で好戦的であるのに対し、日本の軍歌は、「天皇や国に対する忠誠」、「“八紘一宇”という作られた正義への挑戦」、「戦友への想い」などがテーマとなっており、敢えて言えば理想主義的で抒情的であるような気がします。これは国が発展登場にあった明治期の武士道が底流にあったのかもしれません

5.サラリーマン時代~現在;
1971年に大学院・修士課程を卒業して日本航空のサラリーマンになりました。DC-8型機の導入で後れを取り、太平洋路線のシェアを米国の航空会社に奪われて苦しんだ経験を活かし、1969年に初飛行したばかりの超大型機B747型機の導入を積極的に行った結果、1971年は本格的な海外旅行時代の幕開けの年となりました
折しも1967年、日本航空がスポンサーとなってFM東海で始まった深夜放送の「ジェットストリーム」は1970年からエフエム東京に引き継がれ、城達也の魅力的な声は、バックに流れる「Mr.Lonely」の甘い調べと相俟って多くの若い人に愛され、後の海外旅行ブームに繋がった様に思います

1978年には、国際線を全面的に成田空港に移転するという大事業があり、その一環で羽田に集約されていた整備基地を、成田と羽田に分割するプロジェクトを私が担当することとなりました。また、成田整備基地に於いては新しい勤務シフトを導入するというプロジェクトの担当にもなりました。歌どころではない忙しい日々が続きましたが、5月20日漸く開港の日を迎えることができました。その日から成田勤務が始まりましたが、未だ成田空港周辺は反対派の取り締まりの為に機動隊員が要所で検問を行っており、物々しい雰囲気でした。一方、成田駅周辺の繁華街の夜は寺町であるため閑散としていました。こうした中で我々単身赴任者が夜遊び!をするところは、畑の真ん中に散在する深夜スナックでした。必ずカラオケがあり、流行っていた歌の一つが「北国の春」でした

成田空港と自宅では130キロ程の距離がありますが、単身赴任とは言いながら、金曜日に自宅に帰って、月曜日早朝に自宅を出て出勤する、所謂「金帰月来」が可能でした。この長時間のドライブ中、当時流行っていた歌をテープやラジオでたっぷり楽しむことができました。その頃よく登場していた歌手は、ピンクレディーキャンディーズさだまさしアリス、、、でしょうか、中でもアリスの堀内孝雄が歌っていた「君のひとみは10000ボルト」は8ビートの難しい曲ですが、妙に記憶に残っています

1980年には、たのきんトリオ松田聖子中森明菜長渕剛、、、などの歌手が頑張っていましたが、バブル景気のさ中、松田聖子の初々しい「青いサンゴ礁」が大ヒットしていました

1980年代半ば以降は、日本航空にとっては歌どころではない辛い日々が続きました。勿論これは1985年8月12日の御巣鷹山墜落事故によるものです。1989年、社会の底辺ではバブル景気崩壊が忍び寄りつつ、何となく不穏な雰囲気が漂う時期にあたりますが、長渕剛の「トンボ」のヒットが強く印象に残っています。この歌詞に溢れる何ともやるせない鬱屈した気分が、若者の共感を呼んだのではないかと思います

1990年には、経営企画室に異動し、バブル景気の中で大量に購入契約を結んだB747-400を始めとする大型航空機のダウンサイジング(小さな飛行機に代替してゆくこと)するためにボーイング社と交渉していました。当時、日本航空の本社は旧東京ビルにあり、昼休みには東京駅周辺の多くの食事処でバラエティーに富んだ昼食を取っていましたが、なんと!時には昼休みのたった1時間4人で昼食を取りながらカラオケやったこともありました。東京ビルには車で通勤することはできず、運転しながらヒット曲を聴く機会が無くなったこともあり、10代~20代の人達が支えているヒット曲にはとんと疎くなっていました。ただ、当時日本航空のCMソングとなっていた米米CLUBの「浪漫飛行」は、時折カラオケで練習した記憶があります

一応 B737-400の導入でダウンサイジング計画完了のめどを付けた後、日本アジア航空台北支社勤務を命ぜられ、赴任しました。この時は完全な!単身赴任で、夜は夕食を取った後はカラオケスナックに入り浸る毎日でした。台湾では10年~20年前の日本の唄を別に何の違和感もなく歌うことが出来ました。中国語の歌は、テレサテンが歌っていて聞き覚えがあった「月亮代表我的心」と沖縄出身の歌手喜納昌吉の作詞・作曲によるヒット曲「」の替え歌である「花心」くらいで、中国語の発音が難しくあまり覚えることが出来ませんでした

台湾からの帰任後、私の経営企画室時代の最後の仕事であったB737-400の導入後、予想されていたことではありましたが、この航空機の投入路線が全て大幅な赤字になっていたことから、新しいLCCを設立してこの路線を黒字化させるプロジェクトを担当することになりました。1996年4月には社名をJAL Expressと命名し、この会社の実質的な本社を大阪(伊丹)として、同年7月には大阪=鹿児島、大阪=宮崎の2路線の運航を開始しました。2年半の大阪勤務を終えて、1998年には整備部門の効率化の為に整備カンパニー設立の為のプロジェクトを担当し、2000年4月に発足させることが出来ました。そんな訳でこの10年間は、偶にしか好きなカラオケができない忙しい毎日を過ごしました

2000年以降、成田、羽田での勤務を経て2002年には日本航空を退社、その後、某原子力関係の独法の監事や某大学の特任教授などを歴任した後、2016年以降は息子の会社の監査役という閑職のみとなり、ブログ発行や読書など、そこそこ充実した日々を送っています。そうした生活の中で、夕方、時間ができると後述する“一人カラオケ装置”を使って数十曲は歌い込み、冒頭の写真にあるカラオケ仲間との月一回の歌比べ!に備えています
尚、2000年以降、現在までの歌については新しすぎて“歌がたり”に馴染むような歌は少なく、また歌をキーにして振り返る私の歴史についても、取り立てて語る価値のあることもありませんので、割愛することにします

老人とカラオケ、その効用?

昨今、繁華街に限らず普通の町にもカラオケボックスがあります。日中空いている時間帯であれば1時間数百円の単位で利用でき、年金生活の老人が度々通っても経済的な負担は大したことはありません。現に私の様な老人が独りで利用する姿を見ることもも珍しくありません
現在のカラオケボックスは、通信カラオケといってネット経由で古い歌から最新の歌まで数えきれない程の歌が登録されており、老人が歌選びに困ることはありません。また、音程から音量、エコーの程度まで自分好みに合わせた細かい調整が可能になっています。以下に老人とカラオケ、その効用につて考察をしてみようと思います

1.カラオケで老人の健康を向上させる
老人が長生きをしたいという願望(周りの人がそれを望んでいるかどうかは疑問!?)を抱いていることは間違い無いことです。しかし、ただ生きていればいいという訳ではなく、健康で楽しい老後でなければ意味がありませんね
肉体的な健康を保つ;
肉体的な健康を保つためにジムに通う人が多くいますが、若いうちはジムで筋肉を鍛えることによって好きなスポーツが楽しくなるという意味で効用は大きいのですが、腰や膝を痛めた人にとって早く歩く程度まで回復させるのがせいぜいではないでしょうか。老人が充実した日常生活を送るために最も大事な臓器は心臓と肺であることは論を待ちません。心臓に疾患を抱えていたり、弱ってくれば強い運動は控えなければなりません。しかし、肺の機能はカラオケで十分に鍛え続けることが可能です。正しい発声法をマスター(私はボイストレーニングしているワイフに教わっています!)して歌うことによって肺の機能を強化することが可能です
また、自分でも最近実感していますが、口の奥を大きく開けて発声することで、喉周りの筋肉が鍛えられ、老人特有の嚥下障害によって食事の時にむせることが少なくなりました

② 精神的な健康を保つ;
会社を退職したあと一番大きな変化は、人とのコミュニケーションの機会が極端に減ることです。昔はリタイア後も、大家族制の中で子供や孫とのコミュニケーションが沢山ありましたし、またご近所づきあいが継続されることでコミュニケーションが一気に失われることはありませんでした。しかしサラリーマンが退職した場合、一気にコミュニケーションの機会が減るケースが多いようです。夫婦の会話を増やすことである程度のコミュニケーションを確保することは可能ですが、限界はあります。昨今、独居老人が殆ど会話の無い生活を続けている内に、誰にも知られずに孤独死するケースが時々報道されています
カラオケは独りで歌っていても会話と同じ効果が期待できます。自分が歌う(⇔話す)、自分の唄を聴く(⇔話を聴く)という行為は、正に脳細胞の機能から考えると、人とコミュニケーションを取っていることとあまり変わらないのではないでしょうか。勿論、冒頭の写真の様に仲間と一緒にカラオケをすればもっと効果が大きいことは確かです

2.カラオケで若々しい情操を維持、開発?する
カラオケには色々な歌が収められています。それぞれの歌を歌うことによって、歌の世界の中に自分を没入させていくことができます
① 歌いながら泣く;
歌詞の世界に入り込むと自然に涙が出てくる歌があります。私の場合、前節でも述べた様に「とんがり帽子」、「ミカンの花咲く丘」、「長崎の鐘」などは戦争の惨禍を想い必ず泣いてしまいます。また、子供に先立たれた親の悲しみが直に心を揺さぶる「七里ガ浜の哀歌」も途中から号泣してしまいます。勿論、みっともないので独りカラオケの時のみ歌います

② 歌いながら幼い頃の美しい心に帰る;
主に童謡や唱歌を歌っている時は童心に帰ることができます。私が好きな歌は、「美しき天然」、「里の秋」、「冬の星座」、「早春賦」、「冬景色」、などなど数限りなくあります
③ 歌いながら妄想に耽る;
純愛、悲恋、未練、など男女の恋愛に絡む歌はどうしても妄想に耽りながら歌うことになります。私がカラオケをご一緒している方々もこの種の歌が好きなようです。私が好きな歌は、「哀愁列車」、「悲しみ本線日本海」、「雨」、「夢の途中」、「愛人」、「昔の名前で出ています」、「みちずれ」、「恋歌綴り」、「エメラルドの伝説」、「リバーサイドホテル」、など沢山持ち歌がありますが、最近覚えた「抱擁」は若干いかがわしさが漂い、酔うとつい歌ってしまいます

④ 歌手の心情に心を寄せる;
ニューミュージック系の歌手の歌にも、屈折した複雑な心情が読み取れて好きな歌が沢山あります。「また君に恋してる」、「檸檬」、「無縁坂」、「悪女」、「竹とんぼ」、「何も言えなくて・・・夏」、「百万本のバラ」、中でもNHK朝ドラのテーマ曲になった「花束を君に」は、宇多田ヒカルが自殺した母(歌手の藤圭子)を偲び、何もできなかった自分を嘆く心情がヒシヒシと伝わってきます

絶唱して心の憂さを晴らす;
声を潰さない程度のできるだけ大きな声で歌うと憂さが晴れる歌は、当然のことながら絶唱型の歌手の歌った歌が対象になります。例えば私の場合、「五月のバラ」、「乾杯」、「Diamonds」、「涙をふいて」、「座・ロンリーハーツ親爺バンド」、「好きになった人」、「加賀の女」などが気持ちよく歌えます
⑥ 感動した映画やテレビドラマの挿入歌を歌ってストーリーや好きな俳優を思い出す;
映画が大好きで洋画を中心に若い頃よく見ましたが、自分で歌える歌はそれほど多くはありません。自分のカラオケのレパートリーに入れている易しい歌は、「Red River Valley」、「My Rifle、My Pony and Me」、「High Noon」、「ゴッドファーザー愛のテーマ」、「ロシアより愛をこめて」、など。日本のドラマでは「はぐれ刑事純情派」の挿入歌「かくれんぼ」が好きです。日本映画では、渡部恒彦と夏目雅子主演の映画「時代屋の女房」のバックに流れる「Again」が大好きです。主演の二人が亡くなってしまったこともあり、時々思い出しながらしみじみと歌っています

カラオケの裏にある文化

カラオケで歌われている歌は、宗教音楽やオペラのアリア、クラッシックの歌曲の様な難しい歌ではないために、軽く扱われがちですが、それぞれの民族が持っている文化が背景にあります。もう少し誇りをもって?歌うために少し調べてみました

1.カラオケの歌詞に隠された文化;
カラオケの歌詞の特徴を語る前に、幾つかの基礎知識をレビューしておきたいと思いますす。まず、
音節
発音の中心になる要素を一つの単位としたものです。「母音」あるいは「子音+母音」、「子音+母音+子音」といった組み合わせがあります。「っ」「ん」「-」はその前に来る文字とセットで現れるものなので、音節分けの際には独立して1音節となることはありません。因みに、「すっぱい」は、「すっ」「ぱ」「い」が正しい分け方であり、3音節の単語ということになります
詩の形式
① 定型詩とは:一定のリズムで改行する詩
② 自由詩とは:作者の気分で改行し、決まったリズムが無い詩
③ 散文詩とは:詩なのに改行しない

カラオケで歌われる歌の歌詞を分析すると、一般に、古い歌、童謡、唱歌、演歌、歌謡曲、などは定型詩が非常に多いことが分かります。一方、最近の歌唱力のある歌手が歌うポピュラーなどのジャンルの曲は自由詩が多いように思います。歌は一般に1番~X番まで繰り返すことが多いので、散文詩は多くないと思いますが、今流行りのヒップホップというリズムで歌うラップというジャンルは散文詩と言えるかもしれません。ただ、ラップは米国から輸入されたものだからでしょうか「韻を踏む」要素はある程度重視されるそうです(⇔かっこよく聞こえる or 訴求力がある

定型詩は古い時代から世界の各地に存在し、「韻を踏む」ことを一つのルールにして詩に一定のリズムを与えることが行われていました
A. 漢詩について;
私が台湾に駐在していた時、現地採用の台湾人の社員は、我々が高校時代にほんのちょっと学んだ漢詩を、実に美しく朗読するのに吃驚しました。これは漢詩のルールである規則的に韻を踏むことによってまるで歌うよう聞こえるせいだと思われます。例えば、杜甫の有名な五言律詩;
國破山河在 城春草木(sh-in)
感時花濺涙 恨別鳥驚(sh-in)
烽火連三月 家書抵萬(k-in)
白頭掻更短 渾欲不勝(sh-in)
この詩の場合、2句目、4句目、6句目、8句目で韻を踏んでいます。もともと、詩と歌とは不可分の関係にあったことが背景にあるのでは、と想像しています

B. 英詩について;
詳しい知識はありませんが、私が好きで、時々カラオケで歌っている「青春の光と影」の挿入歌「Both Sides Now」でも、韻を踏んでいる部分はとにかく心地よいのですぐに気が付きます
Rows and flows of angel hair
And ice cream castles in the air
And feather canyons everywhere
I’ve looked at clouds that way
But now they only block the sun
They rain and snow on everyone
So many things I would have done
But clouds got in my way
I’ve looked at clouds from both sides now
From up and down and still somehow
It’s cloud’s illusions I recall
I really don’t know clouds at all

日本の定型詩では万葉集の昔から「短歌」の形式として、5つの音節と7つの音節の組み合わせが使われています。これが平安時代末期の後白河上皇が愛した「今様」に引き継がれ、更に江戸時代の「連歌」、「俳句」に繋がっています。こうした伝統を踏まえたと思いますが、上田敏はカール・ブッセの詩を翻訳するにあたって以下の様に7・5調(7音節+5音節)を使っています(上田敏訳詩集「海潮音」から);
やまのあなたの 空遠く
幸い住むと 人の言ふ
ああ、われひとと尋めゆきて
涙さしぐみ かえりきぬ
やまのあなたの なお遠く
幸い住むと 人の言ふ
大変覚えやすく、リズムがいいと感じると思います

こうした観点から私の好きな歌を調べてみたところ、古い歌の多くは、7・5調、7・7調、5・7調の歌詞が非常に多いことが分かりました
完全な7・5調の歌詞:「緑の地平線」、「女心の唄」、「みちずれ」、「君は心の妻だから」、「美しき天然」、「椰子の実」、「夏の思い出」、「とんがり帽子」、「花」、「宵待ち草」、「もみじ」、「ミカンの花咲く丘」、「惜別の唄」、「人を恋うる歌」、「古城」、「武田節」、「あゝ新選組」、その他
完全な7・7調の歌詞:「異国の丘」、「ラバウル小唄」、「戦友」、「同期の桜」、「兄弟仁義」、「唐獅子牡丹」、「夜霧に第二国道」、
完全な5・7調の歌詞:「麦と兵隊」、「舟歌」、「潮来笠」、

ポピュラー音楽の分野では、上記とは別の規則的な音節数で繰り返し改行するタイプの歌詞と、全く規則的な繰り返しの無い自由詩のタイプが多いことが分かりました。老人にとって定型詩は比較的歌いやすいのですが、自由詩はやや歌うのが難しいのが本音だと思います。ただ自由詩でも歌詞が素晴らしいものはチャレンジしている人が多いと思います

2.カラオケのメロディーに隠された文化;
現在、我々が学校で学ぶ音階は、中世の西洋で発明?された、“ド”から1オクターブ上の“ド”まで12個の半音で区切る「12音階」と言われるものです。現在ピアノなど普通に使われる楽器は、この12音階が表現できるようになっています
しかし、日本でいえば沖縄の音楽がちょっと違うなと感じるのは、沖縄の伝統的な音楽が「ド、ミ、ファ、ソ、シ」の五つの音階のみが使われているためだと言うことです。また、スコットランド民謡は「ド、レ、ミ、ソ、ラ」の五つの音階で出来ているそうです。これらはペンタトニック・スケール(ペンタは5を意味します)と総称するそうです
この他に、日本の古い音楽には、「ラ、シ、ド、ミ、ファ」のマイナー・ペンタトニック・スケールが使われているそうです

こうした知識を豊富に持っている息子に、私の好きな歌の傾向を判定して貰ったところ、スコットランド民謡のマイナー版となる「ラ、ド、レ、ミ、ソ」というマイナー・ペンタトニック・スケールの歌が多いそうです。考えてみれば、私の好きな小学校唱歌は、明治期にスコットランド民謡や、アイルランド民謡から採ったものが多く腑に落ちる感じがします。尚、息子の話では、北アフリカや東アフリカの民族の伝統的な音楽もマイナー・ペンタトニック・スケールなのだそうです
スコットランド、アイルランド、ウェールズは英国と言ってもイングランド(ゲルマン系アングロサクソン人)に征服された国です。原住民はケルト人なので、日本人の音楽に対する感性は北アフリカ・東アフリカの民族、ケルト民族に近いのかもしれません。老人はこうした逸話が大好きです!

おまけ:自宅における一人カラオケセットの構築

カラオケボックスに通うだけではマスターできない難しい歌を練習する為と、ちょっとした時間を見つけてカラオケを楽しむために、以下の様なセットを準備し、主として YouTube で流布しているカラオケを見つけ出して歌っています。ただ、著作権の問題があるので、比較的新しい人気ミュージシャンのカラオケ版は、誰かが見つけ次第消去している様で、発見してもすぐに消えてしまいます。しかし、我々老人の好きな歌は90%以上がネットで発見できるはずです

YouTube-画面
YouTube-画面

YouTubeで発見して繰り返し歌いたい場合は、ご自身の使っているサイト閲覧ソフトの「ブックマーク」に登録しておけば、いつでも呼び出せます。またブックマークに登録した歌が多くなったら、上の写真の右側に表示されているようにフォルダーでブックマークした歌を整理しておけば便利です

カラオケ用4点セット
カラオケ用4点セット

YouTubeを閲覧するにはパソコンは必須です。それ以外は中古品を利用すれば数千円で調達可能です
パソコン以外の必要な機器類は;
① アンプ:持っている人が多いと思いますが、無くても中古屋ではピンキリですが、安いもので十分なので数千円で買えます
② ヘッドホン:同居している人、隣近所に迷惑を掛けないために必須アイテムです。中古品が非常に安く出回っています(高級品は不要)。アンプの“ヘッドホン出力”端子につなぐ
③ ラインミキサー必須アイテムです。これも中古品が非常に安く出回っています(高級品は不要)。“入力”端子にマイクとパソコンの音声出力を繋ぎ、“出力”端子をアンプの“AUX”端子に繋ぎます
④ カラオケ用エコー付きマイク(電池式):必須アイテム。これも中古品が非常に安く出回っています(高級品は不要)

存分にお楽しみください!

おわりに

全く音楽の才能に恵まれなかった私がこのブログを書くに当って、様々な疑問が発生しました。相談する相手は私の子供3人です。この子たちには、不思議なことに多少神の恵みがあったようで、長い間培った音楽の知識を披露してくれました。この子供達への感謝の気持ちを込めて3人の音楽の経歴と宣伝を少しさせて頂きます

長女については高校終了まで、とある合唱の団体に所属し、海外公演なども行っていました。現在ワイフが北欧の国々に人脈を持ち、エストニア関連の仕事(無給!)ができているのもそのお陰といえます。社会人になってからゴスペルの団体に所属して頑張っていましたが、子供ができてからちょっとお休みをしているようです
長男は、高校時代に相当ギターの練習をしていたようで、今でも長男が使っていた部屋には沢山の音楽関係の本と、ギターなどの楽器が何台も置いてあります。最近、映像関連の忙しい仕事の傍ら、自身が作詞・作曲・演奏(シンセサイザー)した曲「Kentaro Arai 1441」をリリースしました。このアルバムの中で、私が一番気に入っているのは「マグカップ」です

次男も高校時代に自宅のピアノで独学をしていた様で、私が海外駐在から帰任した時に、突如二階から「幻想即興曲」が流れてきた時は本当に吃驚しました。現在はIT関連事業を興して忙しい仕事をする傍ら、依頼があると作曲なども行っている様です。また土日には複数のバンド仲間と活動を行っています。昨年、神谷町の光明寺で、自身が中心のバンド(Saara Band)がいけばな作家の今井蒼泉氏と、ジョイントでライブ演奏を行ったものを YouTube にアップロードしてありますのでご興味のある方はご覧になってください。ただ非常に長い(40分以上)演奏です:「Saara Band × Sosen Imai live performance at Komyoji Temple

以上

“死”について(その2)

はじめに

3年前の3月に同じタイトルのブログ(“死”について)を書きました。この時は偶々、私の高校時代の親友と「死」についてメールのやり取りをする機会があり、その時の私の「死に対する考え方」を書いてみたものです
それから3年余りの年月を経た今年の4月、1年ほどの闘病生活の後に私の最も近い肉親の一人である妹が亡くなりました。私より3年も若い死は、数十年前の親の早すぎる死に接して感じた不条理を改めて蘇らせることになりました。人間である以上死は避けられないものですが、やはり死は特別なものです

また、避けられない死を前にして、妹の家族が行った数か月に亘る献身的な「看取り」と、死にゆく妹の穏かなさまは、日ごろ死から遠ざかっていた私に大きなショックを与えてくれました

以後、数か月間「死に係る」本を読み、知りえた知識を纏めてみました
最初のニュートン別冊の記事紹介は、主に医学、生理学の見地から死を捉えたものです。雑誌ニュートンの記事にはいつも感心しますが、イラストをうまく使って難しい内容を分かり易く説明しています。記事の全てではなく、生物としての人間の死に関して、どこまで科学的に研究がすすんでいるかを中心に概要を纏めてみました

次はシェリー・ケーガンの講義録の紹介です。この講義は、私の最も苦手とする哲学、倫理学の知識を駆使して、死とは何かについて解説しているものです。論理的な正確さを貫いている為に理解するのに非常に時間がかかりましたが、苦労して読み終えてみるとそれなりに私たちの生き方に対する、何か指針の様なものを与えてくれるような気がしました。内容が多岐にわたりますが、最後の方に多くの紙面を割いて「死に直面しながら生きる」、「自殺」というテーマを扱っています。これは、この講義が、世界中から若き俊英が集まっているイェール大学の学生を対象としていることから、これらの学生に悔いのない人生を送ってもらうことを願ってのことだろうと思いました
尚、筆者のシェリー・ケーガンは魂の存在(⇒人間の魂は永遠)を完全に否定していますので、魂の存在を信じている方は、この段落はスキップしたほういいと思います

三つ目の段落は、私が50年近く前の父の死以降、折に触れ読み返し、心の支えにしてきた「般若心境」の死生観についての簡単な紹介(受け売り?)です。「般若心境」は禅宗系の宗派では必ずと言っていいほど読経の対象になっていますが、日本ではほかにも多くの宗派が存在します。これらの宗派の死生観については勉強していませんので触れていません

最後の段落は、看取りの問題です。亡くなっていく本人が、ともすれば過剰な延命処置を行ってしまう病院での死よりも、自宅での安らかな死を願いつつも、希望通りにならない実態と解決の方向性について書かれている本の紹介です

死とは何か -- 雑誌「Newton」別冊から

死とは何か_Newton別冊
死とは何か_Newton別冊

この本では、主として「人間」が生物としての「死」を迎えるときの細胞レベルの変化(心の問題は別)を、最新の科学的知見をもとに解説しています;

1.老化のしくみ; --- 割愛します

2.生と死の境界線
(A)生と死;
通常のイメージでは、心停止となった時と考えがちですが、もし血液と酸素を適切な方法で循環させれば、他の臓器や脳は、まだ“生きて”いられます。そう考えると、死は瞬間的に訪れるものではなく「過程」だということができます

(B)心停止;
心拍と呼吸が止まっても、完全なる死ではありません。突然、人が倒れて意識を失った時、その人は、心停止ではなく、心臓のリズムが無秩序になって、血液が全身に送られなくなった状態(心室細動)である可能性もあります。この状態で最も影響を受けやすい臓器は「」です。僅か30秒ほどでも脳に何らかの後遺症が残る可能性があると言われています。脳に続いて「脊髄」、次に血中の老廃物を取り除く「腎臓」の一部、という順序で甚大な影響を受けるといわれています
現在、死亡の判定は、医師(歯科医も含む)が「心拍の停止」、「呼吸の停止」、「瞳孔反応の喪失」の3つ(死の三兆候)が揃う、ことで行っています。瞳孔が光に反応しなくなったときは、脳幹が担う様々な反射反応が全て消失することにほぼ一致しているからです

心臓を支える重要パーツ
心臓を支える重要パーツ
AEDを使うと救命率が高まる
AEDを使うと救命率が高まる

(C)植物状態;
心停止後に一命をとりとめても、脳に後遺症が残ることがあります。脳の各部分(下のイラスト参照)が低酸素状態になることによって、意識や体の各部分の機能に影響が出て来ます。「大脳皮質」(大脳の表面)と、それに連携している「視床」が機能を失うと、意識が持てなくなり昏睡状態に陥ることになります。しかし1~2ヶ月ほどで、目が開くようになったり、覚醒と睡眠のリズムが戻ってきたりする場合があります。この状態を植物状態と言います
植物状態では、低酸素に比較的強い「脳幹(呼吸など生命維持に不可欠な機能を担っている)がある程度機能しています。植物状態は、3ヶ月以上続く意識障害の一種で、診断の基準は「目が開いていても意思疎通は行えないこと排泄をコントロールできないこと自発的に呼吸でき目を開けている時間と閉じている時間もある」ことです。従って、死の三兆候は満たしていないので死から遠い状態にあるといえます。植物状態から6ヶ月間は回復する可能性はあり、目覚めが早いほどその後の治りも良い言われています。8年~10年という長期間を経て回復したケースも報告されています(青森大学・片山容一博士)

脳の各部分の働き
脳の各部分の働き

健常者と植物状態の患者、昏睡状態の患者の脳波を比べる(下のイラスト参照)と、植物状態の患者の脳波は、覚醒時、睡眠時ともに健常者ほどではないものの、脳が活動していることが分かります。しかし、外部からの刺激に正常に応答できないことから、意識は無いと考えられます。昏睡状態の患者の脳波は、ある程度活動していることは分かりますが、健常者の脳波とは形がかなり異なっています

脳波比較(健常者覚醒時・植物状態覚醒時・植物状態睡眠時・昏睡状態)
脳波比較(健常者覚醒時・植物状態覚醒時・植物状態睡眠時・昏睡状態)

2006年、植物状態と診断された患者にも意識があるという可能性が実験結果で報告されました。ケンブリッジ大学のエイドリアン・オーウェン博士らは、交通事故で植物状態にある患者の脳の活動を「fMRI(脳の各部分の活動の活発度を、脳を傷つけることなく測定できる装置)」で調査しました。この患者に「テニスをしている状態を思い浮かべてください」と呼びかけると、患者の脳は、同じことを言われた健常者と非常によく似た活動を示すことが分かりました。このことは、植物状態と診断された患者の中には、健常者と同等に外部の言葉を理解し、正常な応答ができる(⇔意識がある)患者が存在する可能性があることを示唆しています。植物状態の患者の意識については。今後さらに詳しく調べる必要があると思われます

(D)閉じこめ症候群;
全身が麻痺して声も出せず、意思を伝えることが出来なくなっているものの、周囲の様子を目や耳などで把握でき、思考も可能であった場合、通常の方法ではコミュニケーションができないので、一見、植物状態と見分けがつかなくなります。この状態のことを「閉じこめ症候群(Locked-in Syndrome)」といいます。難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)も症状がすすむと、同じような状況になります。閉じこめ症候群は、覚醒していて、自己や外の世界を認識できるという点を考えると、健常者の意識状態とほぼ同じといえます。閉じこめ症候群の患者の脳の損傷部分と、意識や感覚が正常である理由は以下のイラストをご覧になるとお分りになると思います;

閉じこめ症候群の脳の状態
閉じこめ症候群の脳の状態

(G)脳死
植物状態や閉じこめ症候群と違って、呼吸や意識が無く、脳が機能を取り戻す見込みのない状態が脳死といわれます。脳死の判定基準は、「脳幹」の機能が停止していることが重要視されます。脳幹の機能停止を確かめる7つの方法は、以下のイラストを参照してください;

脳幹の機能停止を確かめる7つの方法
脳幹の機能停止を確かめる7つの方法

自発呼吸が止まっても、人工呼吸器を付ければ、心臓が動いている間は血液と酸素の循環は保てます。また、食事が取れなくても、点滴で水分や栄養を補給することは可能です。つまり脳が機能を失っても、身体は生かし続けることができるので、臓器移植によってほかの人の命を繋ぐことが可能となる訳です
しかし、脳以外は生きていることから、ある統計調査によれば、「脳死は人の死として妥当だと思う」という回答者の割合は、米、英、仏、独では60%~71%であるのに対し、日本では43%だそうです

(H)臓器・細胞の死;
脳を細胞のスケールで見ると、脳の神経細胞(ニューロン)は、活動するためのエネルギーとなるATP(アデノシン三リン酸)を、ブドウ糖(グルコース)と酸素を使って作り出しています。神経細胞に酸素の足りない状況が続くと、ATPが枯渇し、神経細胞が死んでしまいます。神経細胞が酸素不足になって死に瀕するまでのタイムリミットは、動物実験によれば3~4分と言われていいます。神経細胞は、低温では活動が抑えられるため、ATPが枯渇するまでの時間を稼ぐことが出来ます。特に心臓の異常による脳損傷に関しては、脳の温度を1~2度下げる低体温療法がおこなわれています

皮膚の細胞や腸の細胞は、日々死んで新しい細胞に入れ替わっています。死んだ皮膚の細胞は垢として、死んだ腸の細胞は糞便として体外に捨てられています。また、尿を通しても死んだ細胞が排泄されています。細胞のスケールで考えれば、命ある人体には、生と死が混在しているということが出来ます

現在行われている臓器移植で、移植が成功する(5年後に生着している)確率、移植希望者数は、以下の通りです(生着率、移植希望者登録者数は「2017年の日本臓器移植ネットワーク」のデータから引用しています);
心臓:生着率/91.6%、移植希望登録者数/728人
② 肺:生着率/71.2%、移植希望登録者数/349人
③ 肝臓:生着率/81.6%、移植希望登録者数/335人
④ 腎臓:生着率/76.8%、移植希望登録者数/207人
腎臓 :生着率/77.4%、移植希望登録者数/1万2千人
小腸:生着率/62.3%(拒絶反応が大きい)、移植希望登録者数/ごく僅か
上記以外にも、骨、血管、皮膚、などの移植も行われています

元の身体が死んでも生き続けている細胞を「不死化細胞」と言います。最も有名なものに、ヘンリエッタ・ラックス(1920年~51年)という米国の女性の子宮頸がんに由来する細胞株(下記の写真参照)があります。この細胞は、女性の名と姓の2文字をとって「HeLa細胞」と呼ばれており、彼女が死んだ後も、細胞分裂を繰り返して今も生きています細胞レベルでは「不死」が可能!);

細胞として「不死」になった女性
細胞として「不死」になった女性

(I)臨終直前の回復;
亡くなる前に、既に亡くなっている人を見るなど、あり得ない物事を見たり感じたりする幻覚体験(所謂「お迎え」)は多いといいます。日本では4割強英国での調査では6割ほどの人が経験していたとの報告もあります。また、終末期の緩和ケアの現場では、臨終の前に一時的に体調がよくなったり、ぼんやりしていた意識がはっきりするなどの現象も報告されています。2010年~14年にかけて、患者を看取った介護者からの回答によると、2~3割に一時的な体調改善や覚醒が見られたと報告されていますが、脳科学や生理学ではこの原因を突き止めることが出来ていません

(J)臨死体験;
死線をさまよった際に「臨死体験」を報告する人もいます。因みに、心停止から回復した患者のうち5~6人に1人が臨死体験を報告するといいます。その体験は、個々に違ってもよさそうなものですが、光を見たり、苦しみを感じなかったり、などの共通性も見られるようです
脳研究の為の「生前同意登録」システムの創始者である豊倉康夫医師が33歳の時、急性アレルギーによるショックで一時的に呼吸停止になった際、覚醒した時に「臨死体験」の報告を行っています(極楽の花園をさまよい、天上の光を浴び、何とも言えない恍惚感を感じた)。豊倉医師の死後、その脳の解剖検証を行ったところ、呼吸停止による脳虚血で生じたと思われる僅かな損傷を発見しましたが、臨死体験がこの脳の損傷で説明できるかどうかは検証できていません

(K)死の間際にみられる「最後の脳信号」;
2018年2月、脳死患者9名の家族の同意のもと、生命維持装置を外した後の脳内の活動が記録され、医学誌に報告されました(下記のグラフ参照);

最後の脳信号
最後の脳信号

血液の循環が停止すると、脳内の酸素濃度が下がっていき、脳波も平たんになっていき、最終的に神経細胞には「ターミナル(週末)拡延性脱分極」として知られる現象が観測されました。これは神経細胞への酸素供給が絶たれ、ATPが枯渇、細胞の内外のイオンのバランスが崩れて元に戻せなくなった状態です。「拡延性脱分極」の専門家であるドイツのシャリテ大学病院神経科教授・イェンス・ドレアー博士は、「拡延性脱分極」が死に繋がる最終的な変化(本当の終わり)の開始である可能性があると言っています

(L)生死の境;
千葉大学付属法医学研究教育センターの岩瀬博太郎博士は、「死の三兆候」はあくまで経験的にこの状態になると、もう二度と蘇生しないというだけだと言っています。脳死判定は「脳が何割損傷したときに意識が完全に失われるといった明確な判断基準」が無いので、現在は、あくまで医師の判断によって行われることになっています。因みに、心肺蘇生を施されている人や、心臓移植中で「仮死状態」の患者などでは「死の三兆候」が見られたあとでも蘇生する例があります。従って、医師の「死の三兆候」の確認は、心肺が停止してから数十分時間をあけてから行われるのが一般的です

(M)高齢者が死に向かう体にはどんな変化が起きるのか?
高齢者の死期について研究している東京有明医療大学教授・川上嘉明博士は、「高齢者が亡くなるまでにたどる体の変化はゆっくりしているため、死期を正確に判断するのは非常に困難」と言っています。河上博士は、老人ホームなどで亡くなった高齢者の亡くなるまでの過去5年間のBMI(定義については肥満指数(BMI)についての”はてな?”をご覧になってください)、食事量水分摂取量の調査を行っています(下記のグラフ参照);

死に向かう体の変化
死に向かう体の変化

川上博士によれば、この結果はあくまで平均値なので、必ずしも全ての人がこの経過を辿るという訳ではないと言っています

3.寿命の不思議
(A)細胞の2種類の死;
私たちの身体は、受精卵になった時には1個であった細胞が、細胞分裂を繰り返して最終的に成人の身体は37兆個以上の細胞で構成されています。これらの細胞の死に方は「壊死(外傷や栄養不足による事故死)」と「自死」に分けられます。私たちの身体では、毎日3千億個から4千億個の細胞(約200グラムに相当)が死に、代わりに新しい細胞が生まれています。身体を構成している各種の細胞別の寿命については以下のイラストを参照してください;

人体の細胞の寿命
人体の細胞の寿命

(B)細胞の自死;
細胞の自死の仕組みは2種類に分けられます。第一のタイプは、脳の神経細胞や、心臓の心筋細胞のように生まれてから死ぬまで殆ど入れ替わることのない細胞で、細胞分裂をしない代わりに100年近い寿命を持っています。もう一つは、皮膚の細胞のように頻繁に入れ替わる細胞で、人の皮膚は約4週間で入れ替わります。第二のタイプの細胞の寿命は分裂の回数によって決まってきます
第一のタイプだけで出来ている生物の代表は成虫となった昆虫です。昆虫は、新たに分裂する細胞を持っていないので身体が傷ついても修復はできません。第二のタイプの生物にプラナリアがあります、再生能力が高く、切っても切っても再生することが出来ます。ただ、再生回数には限度があります

プラナリア
プラナリア

人間の第二のタイプの細胞死は、「アポトーシス」といい、かなり研究が進んでいます。アポトーシスとはギリシャ語で「葉や花が散る」という意味です。
アポトーシスの引き金になるのは、細胞の老化やホルモン、ウィルス、放射線、などの様々な刺激です。刺激を受けた細胞は、「ガスパーゼ」という酵素を活性化させ、細胞内にあるタンパク質を切り刻みます。タンパク質が破壊されると、その中にあるDNAを分解する酵素が働きだし、DNAが断片化されてしまい、細胞が正常な機能を失います。この時点で確実な細胞死が約束されてしまいます。この細胞は最終的に小さな袋に分けられ、2~3時間のうちに隣り合う細胞や「マクロファージ(白血球の一種で免疫機能の中心的役割を担っています)に取り込まれていきます。取り込まれた細胞の成分はリサイクルされて新しい細胞の材料になると考えられています)。アポトーシスは、老化したり異常になった細胞を早めに取り除き、身体を正常な状態に維持していますので、「生命を保つための死」とも言われています

人間の第一のタイプの細胞死は「アポビオーシス」といい、「寿命がつきる」という意味です
アポトーシスとの違いは「DNAが比較的大きく断片化されること」と「最終的に小袋に分けられず、ただ収縮するだけ」という点にあります。取り換えのきかない脳の神経細胞が死ぬことは、個体の死に繋がります。アポビオーシスで死んだ細胞はゆっくりとマクロファージに取り込まれたり、そのまま放置されたりします

(C)がんと細胞死;
がんとは、細胞が異常に分裂・増殖することで、正常な細胞や臓器がおかされ、死に至ることがある疾患です。私たちの身体では、生まれた時からがん細胞が発生していますが、普通はアポトーシスで自死する為にがんになることはありません。しかし、細胞にはアポトーシスを起こすガスパーゼの他に、ガスパーゼの働きを抑制する「IAPタンパク質(アポトーシス抑制タンパク質)」があり、これが多すぎると自死できない状況になります。がんの異常な分裂・増殖はIAPタンパク質が多すぎることによって始まることが分かってきました。現在、IAPタンパク質の働きを妨げる新しいがん治療薬の実現を目指して研究が行われています

(D)アルツハイマー症と細胞死;
高齢化によって大きな社会問題になっているアルツハイマー症は、大脳の神経細胞が急激に死んで減ってしまうことによって発症します。現在、その治療に使われている主な薬は神経細胞の死を止める薬ではなく、残った細胞同士の繋がりを維持するための薬です。神経細胞の死を止める新薬を開発するにはアポビオーシス」の仕組みを解明しなければなりませんが、実験材料となるべき神経細胞が増殖しない為に、研究が進んでいないのが現状です

(E)無性生殖と有性生殖;
無性生物である大腸菌は、遺伝子のセットを一つだけ持っている1倍体生物」です。増殖するときは、予め遺伝子のセットを一つコピーしておき、分裂するときに1セットずつ分配します。分裂した二つの細胞の遺伝子セットは元の細胞と全く同じになります(これを無性生殖と言います)。大腸菌は栄養がある限り、分裂することができ分裂の限界は無く、自死の遺伝子も持っていないので、いわば「不死」です
生命誕生から20億年たってから「自死」の仕組みを持つ生物が現れました。それは1倍体生物生物と異なる遺伝子セットを二つ持つ2倍体生物」でした。人間もこの2倍体生物の一員です
2倍体生物は、分裂だけで個体を増やすことは殆どありません。雄と雌が協力して、それぞれが持つ遺伝子を混ぜて新しい1セット分の遺伝子を「生殖細胞」に収め、この細胞が増殖することによって、他の誰とも違う遺伝子セットを持つ個体(子供)が生まれます(これを有性生殖と言います)。この結果、遺伝子のバリエーションが豊富になり、環境に激変があった場合に種が全滅してしまう可能性を低くすることが出来るようになります。一方、遺伝子の異常な組み合わせがが出現してしまうというマイナスの可能性もはらんでいます。2倍体生物は、片方の遺伝子セットに異常があったとしてももう片方が正常であれば、成長できることもあり、異常のある遺伝子が、そのまま生殖細胞に含まれて子孫に引き継がれる可能性も出てきます。異常のある遺伝子が消えずに子孫に蓄積していってしまうと、いつか正常な個体を作れなくなり、種の絶滅に繋がる可能性も出てきます。有性生殖でおかしな遺伝子の組み合わせが出来てしまった時、それを消滅させる仕組み ⇒ 「死のプログラムを持った生物が現れ、その生物が長い地球の歴史の中で生き残り、繁栄してきていると考えることが出来ます

(F)寿命の長さ;
遺伝学に詳しい東京大学定量生命科学研究所教授の小林武彦博士は、「複雑な組織を維持するのはかなり大変で、有性生殖を行う生物は、ある程度老化すると、組織を保てなくなり、死んでしまうのでしょうと言っています。また、仮に親がずっと生き残ってしまう種がいたとすると、子供と餌の取り合いが起こり、いずれ餌が枯渇してしまうことになります。環境の変化によって簡単に淘汰されない程度に適応能力を持ち、子孫を生んだ後いずれ死んでしまう生物の方が、結果的に繁栄できたのだろう」と言っています。

(G)寿命の限界;
人類史上、正確な記録が残っている範囲で最も長生きした人物は、フランス人女性のジャンヌ=ルイーズ・カルマン氏で、122年(1875年~1997年)に及ぶ生涯を送りました。小林武彦博士は、人間の寿命は、環境と寿命が3:1の割合で関係していると言っています。また、同博士は「日本人の寿命(男性/81.09さい歳、女性/87.26歳;2017年の統計)は、人間としての生理学的な限界のかなり近い所にある」とも言っています
人間の生理的な寿命とは、「身体の器官とそれを構成する細胞が正常に活動できる限界」ということが出来ます。私たちの身体の大部分は古い細胞を新しい細胞に入れ替えることで常にフレッシュな状態に保たれています。しかし、老化とともに細胞の入れ替わりが少しずつ遅れてしまいますこの原因は、細胞増殖の要となる「幹細胞」が老化する為です細胞の老化は、様々な要因によってDNAが損傷することなどによって進みますDNAには損傷を修復する機能が備わっていますが、損傷が多すぎたり、修復能力が低下したりするとDNAに損傷が残ってしまいます

近年、「長寿遺伝子」と呼ばれる細胞の老化を遅らせる働きを持つ遺伝子の存在が注目されています。中でも有名なのは「サーチュイン(Sirtuin)」という総称を持つ遺伝子群です。この遺伝子はDNAの安定化に係る遺伝子ですが、まだ動物実験の段階にあり、人間に使える薬になるにはまだ長い研究が必要と思われます

シェリー・ケーガン著:「死」とは何か

DEATH_イェール大学教授・シェリーケーガン
DEATH_イェール大学教授・シェリーケーガン

筆者は「シェリー・ケーガン/Shelly Kagan」:イェール大学教授、道徳哲学、規範倫理学が専門、着任以来続けられている「死」をテーマにした大学での講義は、常に指折りの人気授業になっており、本書はその講義を纏めたもの
本書は、恐らく講義(講義風景:DEATH)の録音を英語で起こし、それを翻訳したものなので、以前に纏めた(Life Shift)と比べて時として説明が冗長で論旨が分かりにくいところもありましたが、難しい哲学や倫理学を若い学生向けに平易な言葉で説明していることには好感が持てます
翻訳者は「柴田裕之/しばたやすし」:早稲田大学、Earlham College(1847年にクェーカー教徒系の団体が設立)卒業

筆者は講義の最後に、本講義の狙いについて以下の様に語っています;
たいていの人は、どうしても死について考えたくないと思っている。また、魂の存在を前提として、私たちは永遠に生き続ける可能性があると信じている。しかし、それは、死が一巻の終わりであるという考え方にどうしても耐えられないからだ。筆者は、これらすべてを否定しています不死は災いであり、恵みではない。死について考えるとき、死を深淵な謎と見なし、恐ろしくて面と向かえず、圧倒的にぞっとするものと捉えるのは適切ではない。死を恐れるのは不適切な対応だ。だから私は本講義を通じて、生と死にまつわる事実について自ら考えるように促してきた。さらに、恐れたり幻想を抱いたりせずに死に向き合うように促してきた

また、翻訳を行った柴田裕之氏は、現在の日本が抱えている以下の様な深刻な問題について、本書が何らかの助けになるのではないか考えています;
高齢化が大きな社会問題になりつつある現在、病気になる可能性や余命を遺伝子検査などで統計的に予測できる時代に入りつつある。臓器移植植物状態脳死延命措置尊厳死安楽死自殺リビングウィル(終末期医療における事前指示書)、老前整理終活遺言、死に関連した話題に事欠かない。人生をどう生き、どう終えるかを考えるのが当たり前になるかもしれない

本書の9回の講義の内容は、死に係る多くの論点、及びこれらの論点に係るギリシャ・ローマ時代から現代に至るまでの数多くの哲学者や文学者の主張を引用しつつ、それに係る筆者の意見を網羅していますので膨大になっています。従って、各回の講義毎に私なりに要点をまとめたものをこのブログの最後に付録として追加しています。また、更に各講義の詳しい内容について個別に知りたい方は私のレジュメ(Death_résumé/Word A4で35ページ)をご覧になってください。これをみても何を言っているかわからん!?という方は、本書を購入(1850円)して読んでみることをお薦めします

「般若心経」の死生観

般若心経
般若心経(臨済宗・建長寺派 崇禅寺の日課経典より)

私たち日本人にとって、最も身近にある宗教は言うまでもなく「仏教」です。しかし、多くの日本人にとって仏教は「葬儀」や「法事」で触れることはあっても、日常の生活の中で、仏教的な環境に置かれる機会は非常に少ないのではないでしょうか。一方、キリスト教にあっては日曜日の礼拝、イスラム教にあっては1日5回のメッカに向かっての礼拝を守っている人も多くいるようで、宗教に対する姿勢にかなり隔たりがあるような気がします

私も、大学院修士課程2年の後半、父の死に向き合わざるを得ない状況になるまでは、全くと言っていいほど宗教には無縁な生活をしていました。その頃、自宅にあった小さな小さな仏壇には、戦前に満州で亡くなった私の姉2人の小さな白木の位牌があるのみでしたが、父が入院した後、朝晩この仏壇に向かって母が一心に祈る姿を見ていました。しかし、私自身は父の治癒を仏壇に向かって祈ることはありませんでした
翌年の2月に父が亡くなってから、大きな喪失感と病弱の母をこれから支えていかねばならないという責任感で、暫し何も手につかなかったことを覚えています。そこで朝晩、仏壇に向かって「般若心経」を声を出して読むことで、心の平衡を取り戻していったことが思い出されます。母の死も、ほぼ回復を約束されていた手術の直前に急死したこともあって、心の痛手は小さくなく、この時も「般若心経」を声を出して読むことで、乗り越えていきました

「般若心経」が求めている境地は、「人間の一生は「無」から生まれ「無」に帰っていく、生きていることは「苦」(生老病死)の連続である」ということですが、もう少し詳しく知りたい方は(「般若心経_現代語訳)をご覧になってみてください

「般若心経」については、根本の教理は変わらないものの、色々な解釈があります。父が亡くなって以降、色々勉強した中で、私は以下の二つの解釈が心に響くような気がしましたので紹介いたします;

生きて死ぬ知恵_柳澤桂子 著
生きて死ぬ知恵_柳澤桂子 著

1.著名な分子生物学・生命科学の研究者である柳澤桂子氏が、30年以上に亘って激しい痛みとしびれを伴う原因不明の病(後に「周期性嘔吐症候群」と診断されました)に苦しんでいた時に「般若心経」と出会い救われたと回想しています。科学者であることから「人間も含め物質は全て原子からできており、一面の原子の飛び交っている宇宙の中で、私たちはところどころ原子が密になっているだけの存在」という認識から出発している所に特徴があります。理系の人間にとっては理解しやすいかもしれません。詳しくは(般若心経_柳澤桂子訳)をご覧になってください

2.私が、折に触れ手にして読んでいる「臨済宗・建長寺派 崇禅寺の日課経典」に「般若心経和讃」というお経が入っています。これは文字通り日本語訳なのですが、庶民を対象にしたお経であることから、日常の庶民の悲しみ、苦しみをどう乗り越えていくかを七五調で具体的に説教しているところが素晴らしいと思います。是非一度ご覧になってみて下さい:般若心経和讃_臨済宗建長寺派・崇禅寺・日課経典

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看取りについて

看取りに関する二冊の本
看取りに関する二冊の本

A.看取りに関する二冊の本;
冒頭でも述べた様に、妹の死とその家族の「看取り」を間近で経験する機会があり、既に老境に入っている私たち夫婦にはその覚悟が無いことに気が付きました。そこで、まず看取りの実態を知る必要を感じて読んだのが以下の2冊の本です(上の写真参照);
1.「死を生きた人びと」
筆者の小堀鷗一郎(こぼりおういちろう)医師は、国立の医療機関で40年間、外科の勤務医として勤めた後、私の住んでいる所にほど近く、私の母も亡くなる前に世話になったことがある「堀之内病院」に赴任しました。2005年になって退職する同僚に依頼されて「寝たきりの患者2名」の訪問医療を引き継ぐことになったことがきっかけで「在宅医療」の世界に入ることになったそうです
2000年4月に、国が「介護保険制度を創設し、高齢者の終末期医療の場を病院から自宅に移行させる方針を決定して以降、現在では、堀之内病院でも専属医師4名、看護師2名による地域医療センターが創設され、充実した体制が整えられています(以下の表参照);

堀之内病院・地域医療センターの訪問医療登録患者数(上)と月当たりの訪問医療回数(下)
堀之内病院・地域医療センターの訪問医療登録患者数()と月当たりの訪問医療回数(

筆者は、これまで355人の看取りに係り、現在の問題点について以下の様な指摘を行っています;
① 今の日本では、患者の望む最期を実現することは非常に難しい。「死は敗北」とばかりにひたすら延命する医者目前に迫る死期を認識しない親族や患者が多い
②行政と社会は、 病院以外での死を「例外」と見做し、老いを「予防」しようとする
「病院死」が一般化するにつれ、自分や家族がいずれ死ぬという実感が無くなってしまっている
筆者は、日々の往診の際に患者と語り合ううちに、患者の7割は自宅での死を求めるようになる(現在の日本では8割が病院で死亡している)と言っています

ご存知の方が多いと思いますが、医師の居ない状態で亡くなると、不審死として警察が介入し、本人や家族が希望しない解剖による検死が行われる可能性があります。これを避けるためにも、また痛みなどの緩和措置を適時、適切に行ってもらうためにも。在宅死を希望する場合は、医師の訪問看護を前提にする必要があると言っています

2.「死にゆく人の心によりそう」
筆者の玉置妙憂(たまおきみょうゆう)氏は消化器外科の看護師をしていましたが、在宅死を希望した夫の看取りを2年間行いました。夫の「自然死」という死に様があまりに美しかったとから、49日の納骨が終わった段階で出家を決意、真言宗・高野山で200日に亘る厳しい出家のための修行を経て僧侶となりました。その後、看護師の仕事を続ける傍ら、死期の近い患者やその家族の間に入って、精神的なケアを行う「臨床宗教師として多くの看取りを実践してきました。以下は、看取りの実践を行う過程で得た「死に向うプロセス」に関する観察記録です

<死に向かうとき、心と体はどう変わるのか>
① 死の3ヶ月前から起こること外界に興味が無くなり、内に興味が向く;食欲が落ちて食べなくなる⇒痩せる;眠くなり、夢を見ながらうつらうつらする
② 死の1ヶ月前から起こること血圧・心拍数・呼吸数・体温などが不安定になる;痰が増えるが暫くすると元に戻る;夢かうつつか分からない不思議な幻覚を見る
数日前から起こること 急に体調が良くなる; 血圧・心拍数・呼吸数・体温などが更に不安定になる
④ 死の24時間前頃から起こること 尿が出なくなる; 下顎呼吸になる;尿と便がバッ出る; ㋥目が半開きになり、涙がでる; 息を吸って、止まる

<大切な人の死を看取る人の心に起こること>
① 何もすることが無いと不安になる: することが無くなって手持ち無沙汰になる; 「食べたくない」と言われて心配になる
② 「まだ大丈夫」と「もうダメかも」の間で心が揺れる: 自分の希望のために、不必要なことをしてしまう; お酒やタバコが欲しいと言われても拒んでしまう
③ 別の世界に行きつつあることを理解できない: 奇妙なことを言われて否定してしまう ⇒ 同じ空間にいるだけでいい
④ できることは全てしても後悔する:⇒ 起こったことはすべて「よかったこと」

<上記以外で心に残ったポイント>
* 余命を告げられた時に、本人がそれを受容するまでに、否認⇒怒り⇒取引⇒抑うつ⇒受容というプロセスを辿る
* 「スピリチュアル・ペイン」とは終末期特有の心の痛みからくることで、看護する人に「なぜ死ぬのだろうか?」、「どれくらい生きていられるのだろうか?」、「私の人生は、何だったのだろうか?」と聞いてきます。看護する人には答えようのない問題ですが、「何をバカなことを言ってるの」などと言って逃げたり、諭したりするのではなく、死にゆく人の言葉に耳を傾けてあげることが大切 

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B.「病床六尺」を読んで;
看取られる側の死に至る迄のプロセスについては、当然のことながら亡くなってしまえば書いて残すことが出来ないので、中々いい本が見つからなかったのですが、何かの拍子に学生時代に読んだ正岡子規の「病床六尺を思い出しました。家の中を探してみましたが、見つからなかったので、ネットで購入できるか探してるうちに、電子化された病状六尺の全文がネットから手に入れることができると分かり(恐らく短編であり著作権が切れている為と思われます)読み返してみました

内容はご存知の方も多いと思いますが、1902年5月5日~同年9月17日までの136日間、127回に亘って日刊新聞「日本」に掲載された、評論を中心としたエッセーです。最終稿が投稿されて二日後に亡くなりました。日刊新聞「日本」といえば、今年、終戦記念に因むNHKの特集番組で、国粋主義を標榜する編集で国論を動かし、日本を軍国主義に導いていったメディアとして紹介されましたが、このエッセー自体はそうした内容は皆無です。ここでは、死を間近しながら、舌鋒鋭い評論の部分は割愛することとし、当時「死病」であった結核菌による脊椎カリエス(私の父の姉もこの病で20代前半に無くなっています)で、死の恐怖と極度の痛みに苦しみながら、どのように過ごし、亡くなっていったかに注目したいと思います;

*最初の投稿で、「苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤(鎮痛剤?)、僅かに一条の活路を死路のうちに求めて安楽を貪るはかなさ、それでも生きて居ればいいたい事はいいたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限って居れど、それさえ苦しんでいる時も多いが、読めば腹の立つこと、癪に障る事、たまには何となく嬉しくてために病苦を忘るるような事がないでもない」 ⇒ 精神的、肉体的に厳しい状況になっていても、評論という創作活動を行うことで、絶望しないで生きることが出来るということか、、、
* 21回目の投稿で、「余は今まで禅宗のいわゆる悟りということを誤解していた。悟りということは如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違いで、悟りということは如何なる場合にも平気で生きていることであった」 ⇒ 死期が迫っている自覚があるなかで、創作活動を続けることが出来たのはこうした悟りに達していたからか、、、

* 病状が厳しくなった39回目の投稿で、「死ぬることが出来ればそれは何より望むところである。しかし死ぬる事も出来ねば殺してくれるものもない」 ⇒ 自死をする体力も失ったということかもしれない
* 看護に触れている66回目の投稿で、「おんなの務むべき家事は沢山あるが、病人ができた暁にはその家事のうちでも緩急を考えて先ず急なものだけをやって置いて、急がない事は後回しにするようにしなくては病人の介抱など出来るはずがない、、、んうんと唸っている病人を棄てておいて隅から隅まで拭き掃除をしたところで、それで女の義務を尽くしたという訳でもあるまい」 ⇒ 献身的な介護をしていた妹の「律」に向かって言っているとすれば、現代では許されないコメントかもしれない

* 病状が進んだ86回目の投稿で、「このごろはモルヒネを飲んでから写生をやるのが何よりの楽しみになっている」 ⇒ 現在の緩和治療では、痛みに応じて多くの種類の鎮痛剤(モルヒネを含む多くのオピオイド系鎮痛剤)を処方できる
* 127回目の最終稿を送った翌日の9月17日、死が目前に迫ったことを覚り、以下の辞世の句を自身で唐紙に書きつけ、19日未明に息を引き取りました。享年36歳でした;
⇒ 「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
⇒ 「痰一斗糸瓜の水も間にあわず
⇒ 「をととひのへちまの水も取らざりき
(注)糸瓜は「へちま」のこと。ヘチマの蔓を切って液をとり、飲むと痰が切れ、咳をとめるのにいいとされ、子規の家でも庭にヘチマを育てていた。子規の命日を「糸瓜忌」というのは、この辞世の句が由来です

おわりに

およそ4ヶ月のあいだ、死の問題に取り組んで来ましたが、「自身の死に関して覚悟ができたか」と問われれば”否”と言わざるを得ません。雑誌”Newton”が教える「生物としての生と死」は否定しようがない真実です、またシェリー・ケーガン教授が教える最新の哲学、倫理学から理論的に導かれる「人間の生と死の実相と、それを前提とした正しい生き方」も、ごく一部を除けが納得ができます。

一方、私が50年近くに亘って馴染んできた「般若心経」の死生観については、頭の中ではある程度理解ができるものの、死を超越する悟りの境地(子規の境地?)には程遠い状態です。しかし、この先に何かがあるような感覚は持っています
また、「看取り」の問題は、今回の勉強で自身の心の準備とは別に、在宅死を望むのであれば、家族の理解を得るため準備しておくべきことや、在宅医療のサービスを受けるために必要な準備があることが分かりました

私の死に対する準備が整うまで、「死神さん、ちょっと待って!」というのが今の心境です

付録 -- “シェリー・ケーガン著:「死」とは何か” 各講義の要点

第1講:「死」について考える
本書では、私たちの生き方は、「やがて死ぬ」という事実にどの様な影響を受けて然るべきか? 「必ず死ぬ」という運命に絶望するべきなのか? 「死」を恐れるべきか? 「自殺」の合理性と道徳性、などについて論理的な検討を行う
本書は哲学の本なので、宗教的な権威に訴えず、「死」に関して知り得ることや、理解しうることについて、論理的思考力を使って、注意深く考えることに徹する

「死」が終わりであることが筆者が依って立つ前提となる

第2講:死の本質
人間の機能を、心臓を動かしたり、呼吸をしたり、歩いたりする身体の機能「身体機能(B機能)」と、高次の様々な認知機能を「人格機能(P機能)」とすれば、生まれてから暫くは「B機能」のみ、その後、意思疎通をしたり、理性や創造性を発揮し始め「P機能」を持つこととなる。そして、かなり長い時間が経ってから両機能が停止するが、その状態は議論の余地なく「死体」となる。しかし、「B機能」と「P機能」が同時に停止するとは限らない
「人格説」を取れば、人格を失った時点で死んでいるので「心臓移植」は問題ないと言えるが、「身体説」をとれば生きている人間から心臓を取れば確実に死に至るので「殺人」ということになり、道徳的に許されないことになる

生死の境は実は曖昧。眠っているときにP機能をはたしていないとしても、起こせばP機能を発揮できるので、新たな生きている定義として、「実際にP機能を実行していなくても、それでもP機能果たせる能力を持っている」とすればどうか。こうすれば、P機能を果たせなくなるということは、P機能を果たす能力を支える「脳の認知機能」が壊れ働かなくなった状態と説明することが出来る

死とは何か -- 筆者の哲学的回答;
哲学の観点に立つと、ここでは何一つ謎めいたことは起こっていない。身体が作動し、それから壊れる。「死」とはただそれだけのことだ

第3講:当事者意識と孤独感 -- 死をめぐる二つの主張
主張①:誰もがみな、“自分が死ぬ”ことを本気で信じていない;
根拠_A:病気になり「死」の直前までの状況は想像できるが、死後の状況までは想像できない ⇔ 自分が思い描いたり、想像したりできないような可能性は信じられない
根拠_B:「自分がいつか死ぬ」とは本当は信じていないから;
私たちはみな自分の身体が最終的には機能しなくなると、確かに認めている。何故なら、生命保険に入るのは、自分が特定の期間内に自分の身体が死ぬ可能性があると信じていて、残された家族が暮らしていけるようにしたいと願っているからだろう。また、遺言状を書くのも同じ理由だろう

主張②:死ぬときは結局独り;
「独りで死ぬ」ならば、それは必然か、偶然か;
この主張に関しては、ただ「正しい」ことが判明するだけでは納得するには不十分だ。私たちが探し求めているのは恐らく、死に関する「必然的真理」なのだろう
死を取り巻く「孤独感」;
「死ぬときは結局独り」という主張は、私たちが死ぬときの心理状態が「孤独」に類似しているということかもしれない。死の床に就いたその人は、他の人々に囲まれているかもしれない。にもかかわらず、その人は他者から引き離され、遠く疎外されているように感じている。その人は、大勢の人の中にいてさえ、孤独感を覚える。これこそが、人が言わんとしていた種類の「独りでいる」ことなのかもしれない
筆者の結論:「私たちはみな独りで死ぬ」と人は良く言うけれど、その主張はただの戯言だと思う

第4講:死は何故悪いのか
死はどうして、どんなふうに悪いのか;
殆どの人は「死は悪い」と信じていると筆者は思っている。しかし、死が本当に一巻の終わりであるなら、死は本人にとって悪いものであるはずがないように思える。何故なら、死んでしまって本人が存在していないのであれば、何一つ本人にとって悪いはずがないということは妥当な事ではないだろうか

死は何より、「残された人にとって、悪い」もの?;
残された人にとって、死者との交流する機会をすべて失うことになり、それが死の最悪の点である。しかし、それは「死のどこが悪いのか」という点に関しては、その核心にあるとは思えない

「死ぬプロセス」や「悲しい思い」こそが「悪い」?;
自分がいずれ死ぬと考えたときに、恐れや不安、心配、後悔、その他、を感じるのは、「死そのものが自分にとって悪い」という考えが先にあってこそ筋が通る。言い換えれば、恐怖や胸騒ぎでどうしようもなくなるのは、待ち受けているもの、予期しているもの自体が悪い時に限られる

死の本質は何か;
人間の機能を、心臓を動かしたり、呼吸をしたり、歩いたりする身体の機能「身体機能(B機能)」と、高次の様々な認知機能を「人格機能(P機能)」
「人格説」を取れば、人格を失った時点で死んでいるので「心臓移植」は問題ないと言えるが、「身体説」をとれば生きている人間から心臓を取れば確実に死に至るので「殺人」ということになり、道徳的に許されないことになる

哲学の観点に立つと、ここでは何一つ謎めいたことは起こっていない。身体が作動し、それから壊れる。「死」とはただそれだけのことだ

「死が悪いことか」という問題;
昔から多くの哲学者が理論を展開してきたが、筆者の結論は;
剥奪説」こそが、進むべき正しい道に思える。この説は死にまつわる最悪の点を実際にはっきり捉えているように見える。死のどこが悪いのかといえば、それは、死んだら人生における良いことを享受できなくなる点で、それが最も肝心だ。死が私達にとって悪いのは、私たちが死んでさえいなければ人生がもたらしてくれただろうものを享受できないからにほかならない

第5講:不死 -- 可能だとしたら、あなたは「不死」を手に入れたいか?
死は人生における良いことを剥奪するから悪いのであるなら、最も望ましいのは永遠に生きることなのだろうか?
天国での永遠の時を約束する宗教でさえ、詳細については非常に遠慮がちであることは際立っている。何故なら、実際に詳細を埋めようとすると、この素晴らしい「永遠の存在」は、結局それほど素晴らしくは見えなくなることが懸念されるからだ。例えば、私たち全員が天使になり、永遠に賛美歌を歌って過ごすことになると想像してみれば、天国はそれほど素晴らしくは見えないことが懸念される

筆者は、「永遠にやりたいと思えるようなことを考え付くのは不可能だと思っている。また、自分が永遠に続けたいと願うような人生は一つとして思いつかない」と思う。
「不死」は実は、是非そこから逃れたくなるような悪夢となるだろう

第6講:死が教える「人生の価値」の測り方
人生の価値;
快楽主義について:快楽主義の見方は、哲学が生まれたときから既にあり、哲学者の間で人気が高い。しかし、筆者はそれが間違えに思えてならない。最良の人生には、快感を手に入れて痛みを避けること以上のものがあるように思える。単純な快感ではなく、実際には、「友情を育み」、「語り合い」、「睦み合い」、「愛し合う」といった人間が真に切望する最高級の快感があるはずだ

人生に何が起きているかという問いとは別に。「生きていること自体の恩恵」というものがある。現に生きているというだけの事実が、人生に更なる価値を与えるという主張で、これを「価値ある器説」という
「生きていることそのものには信じられないほどの価値があるので、人生の中身がどれほど身の毛がよだつものでも、総計はいつもプラスになる」と考える人もいる。筆者としては、この様な考え方は夢物語であり、荒唐無稽で信じがたく、どうしても信じる気になれない

第7講:私たちが死ぬまでに考えておくべき、「死」にまつわる6つの問題
人生の送り方;
1.「死は絶対に避けられない」という事実を巡る考察
2.なぜ「寿命」は、平等に与えられないのか
3.「自分に残された時間」を誰も知りえない問題
4.人生の「形」が幸福度に与える影響;
イェール大学の学生で、この疑問に直面しなければならなかった学生がいた。この学生は一年生の時に癌の診断を受け、医師から回復の見込みがなく、あと2年しか生きられないことを告げられたた。彼は残されたあと2年で何をするべきかと考え、自分の目標は「学位をとり卒業すること」と定めた。その一環として4年生の後期に、私の「Death」の講座を選択し出席していた。しかし、春休みを迎える頃には病状が悪化し、医師に学業の継続は無理と言われた。その学期に彼が取っていた講座の教員は、大学の管理部門から「学期のその時点までの実績に基づいて、彼にどの様な成績を与えるつもりがあるか」と問い合わせが来た。つまり、かれが卒業可能となるだけの単位が取れるかの確認であった。結果として、彼は十分な単位が取れており卒業可能であることがわかった。そこでイェール大学は、見上げたものだが、管理部門の職員を死の床に派遣し、彼が亡くなる前に学位を授与した
5.突発的に起こりうる死との向き合い方;
6.生と死の組み合わせによる相互作用;
筆者は、単に合計を求めるだけでは足りないと考える。人生の境遇を全体として評価するには人生の良さと死の悪さを、ただ合計する以上のことが重要だ。それは、「生」と「死」の間にある「相互作用効果」だ、この相互作用によって人生の価値がプラスになったりマイナスになったりする

第8講:死に直面しながら生きる
死にまつわる事実を認めるものの、「どう生きるべきか」についてまだ自問していない人に対しては、この後でこの人たちの疑問に答えていきたい
死にまつわる事実については、考えるべきときと場がある。自分が死ぬべき運命にあるという事実を、常に目の前に置いておくべきかという人が居たら、その人は間違っているとおもう。しかし、死ぬべき運命と死の本質について決して考えるべきではない、という人が居たら、やはりその人も間違っていると思う
死に対するごくありふれた反応の一つに、「非常に強い恐怖」がある。ただ、筆者が知りたいのは、死に対する恐れは「適切な応答かどうか」、また「理にかなった感情かどうか」だ。恐れの3条件;①恐れているものが、何か「悪い」ものである;②身に降りかかってくる可能性がそれなりにある;③不確定要素がある
恐れの中身;
①死に伴う痛みが恐ろしい;
②死そのものが恐ろしい:誰かが「死を恐れている」という時に、本当は「死ぬプロセス」を恐れている場合もあるかもしれないが、殆どの人は「死んでいるところ(⇔死んだらどのようになるか)」を恐れているように思う。しかし、それはこの恐れが適切であるための条件は満たしていないと筆者は考える
何故なら、死んでしまえばどんな種類の経験もできない(⇔第3講で考察済み)。死んだとき、何らかの経験はするが、それは通常の経験とは違うので想像はできないはず。死んだらもう、いかなる経験も存在しないのだ
③予想外に早く死ぬかもしれないのが恐ろしい:若者が実際に死ぬ可能性は、統計的にみれば極端に低い。その可能性があまりに低いので若者が本気で恐れるのは全く適切には思えない。歳をとるにつれ、特定の期間内に死ぬ可能性は着実に高まるものの、この場合でも「間もなく死ぬという恐れ」は不釣り合いなまでに大きくなりやすい。死が間もなく訪れかねないのを恐れるのは、とても病気が重い人や、とても高齢の人であれば理に適っている。死はまったく逆らいようのないものだから、私は恐ろしくて仕方がない」という人が居るのは本当だと思うけれど、死を極端に恐れる気持ちは適切な感情では無いと思わざるを得ない。事実を見る限り、それは筋が通らないのだ

死ぬか死なないか以前に、人生を台無しにしないこと:私たちが死を免れないのなら、人生を台無しにする危険は大きい。(不死でなければ)死がすぐに来てしまい、やり直しを試みる時間はとても短いことを常に念頭に置いていなければならない

業績や作品は永久に不滅か;
死と向かい合いながら生きるための戦略について考えるにあたって、この種類の不滅性を追求するに値するかどうかを問うことだ。つまり、自分の作品や業績を通して生き続ける、あるいは子供を通して生き続けるということは、文字通り生き続けるのとは違うからだ。それは「半不滅性」あるいは「準不滅性」だろう
「半不滅性」を主張する第一のタイプ:「自分の一部が子供のから孫、、、に引き継がれるから」、あるいは、ドイツの哲学者ショーペンハウアー(1788年~1860年)が言っている「自分の身体を構成している原子は、死んでも存在し続け、何か別のものに再利用される」という考えについては、筆者は同意できない
「半不滅性」を主張する第二のタイプ:亡くなっても、「その人の実績が残り続ける」筆者は、この第二のタイプに価値があるという考えに惹かれている

人生の価値をできる限り高めるための戦略とは;
これまで語ってきた人生戦略の根底にある信念は、「人生は良いもの、あるいは良いものとなりうるので、じぶんの人生をできる限り価値あるものにしようとするのは理にかなっている」ということだ。

死と仏教、キリスト教と生き方の関係;
これまでの議論を単純化し、一般化すれば、「人生は良いもの、あるいは良いものとなりうるので、じぶんの人生をできる限り価値あるものにしようとするのは理にかなっている」という基本的な見解(第一の見解)は、おおざっぱに言えば西洋的な見解だ。一方、「人生は、本当は大切に受け入れる価値がある、潜在的に価値に満ちた貴重な贈り物ではない」というのは、おそらく東洋的な見解第二の見解)だ。この有名な例が仏教にみられる。仏教徒は、人生の本質は、「喪失と苦しみ」と言っている。仏教徒はこうした良いものへの愛着から自分を解放し、それらを失った時の痛手最小限になるようにしようとする。筆者は、仏教に途方もなく深い敬意を抱いている。ただ、筆者は西洋の生まれであり、「創世記」の産物だ。「創世記」では神は世界を眺め、それが良いものであると判断を下す。少なくとも筆者は、人生がネガティブなものだと認めることで喪失を最小化する戦略は受け入れられないとしている。だとすれば、筆者にとって、ひょっとすると私たち殆どにとって、もっと楽観的な戦略から選ぶのが妥当であると思われる

第9講:自殺
自殺を「自己利益」の問題と「道徳性」の問題に分けて考える
「自己利益」の面から考えれば、「癌の様な最終的に死に至る消耗性疾患の末期の人を想像すれば、痛みがひどく、苦しむこと以外ほとんど何もできないかもしれない。色々な楽しみも無くなり、ただ痛みの為に取り乱し、痛みがやむことを願うばかりになる。また、アルツハイマー症やALS(筋萎縮性側索硬化症)の様な変性疾患にかかって、人生に価値を持たせるようなことが徐々にできなくなり、自分の身の回りの最低限のことさえままならなくなる。これらのような場合は、自殺することが理に適っている」と筆者は考える
ただ、変性疾患の場合、身体のコントロールはできなくなるものの、頭脳は何の問題もなく働き続ける間は、家族やそのほかの人がサポートしてくれれば、生き続ける価値があると考えられる。ただ最終的に人生を送る価値がなくなる時が来ることは想像し得る。しかしこうなれば、自殺する能力もなくなる可能性もある。分かってもらえると思うが、ここで自殺は安楽死の問題に変わる
明晰な思考ができない状況で下した判断は信頼に値しない。信頼に値しないなら、結局自殺が合理的な判断になることなど決して無いように思える
自殺するという判断は慌てて下してはいけない。医師とよく話し合い、自分の愛する人々と十分話し合うべきだ。その結果下した判断は、どんな判断であれ理に適ったものとして信頼するに値するのではないだろうか

現実の自殺の事例は、実にこの肝心な条件を満たしていないことが多いと筆者は考えている。多くの自殺のケースでは、以前の人生と比べたり夢見ていた人生と比べたり周りの人の人生と比べたりして、今の人生は生きる価値が無いと思い込む。しかし、期待した人生ほど生きる価値が無かったとしても、やはり存在しないよりは良いのだ

道徳性」の面から考える;自殺は合理的な選択であり得るとしても、自殺がなお不道徳であり得る。ただ、道徳性と合理性という二つの概念を切り離せるかどうかについては、哲学では大論争になっている
この問題に対する最も優れた回答は、イギリスの哲学者デイヴィッド・ヒューム(1711年~1776年)が行っている:「少なくとも、自殺が神の意思に背くという考えには説得力があると思う人がいたら、誰かの命を救うのは神の意思に背くというのも、なぜ説得力があると思わないのだろうか?神はその人を死なせるつもりだったのかもしれないではないか!
例えば、もし皆さんが医師で、誰かが心肺停止の状態になっていたら、直ちに心肺蘇生法を施せるのに、「ああ私はこんなことをしてはいけない。この人が死ぬのは神に意思だから、この人の命を救うのは、神の思し召しを妨害していることになります」などと言うだろうか?そんな人はいない。であれば、「自殺は神の思し召しに反する」ということもあり得ないということになる

「命はとても素晴らしい贈り物であり、この与えられた贈り物を大切にし、恩返しをしなければならない。だから私たちは生き続ける義務があり、自殺は道徳に反する」という意見がある。筆者は、この主張にも説得力が無いと考えている。何故なら、恩義とは一体何を意味するかに注意を払う必要があるからだ。しかし、恩義とはいっても、与えられた本人が有難いとは思わないこともあるはず。そんな場合、恩義に報いることに道徳的な必要性はないはず。「たとえ汝の人生が悲惨な状況になり、死んだほうがましだとしても生き続けよ。もし自殺をすれば、永久に地獄に落とすぞ」と神が言われたとしたら、恐らく自殺しないほうが賢明だが、そこには道徳的な必要性は無いはずである。従って、感謝の念に訴えることに基づいて自殺に反対する主張はうまくいくはずがない

全ての「道徳論」に共通する考え方として、自分の行動の結果がどうなるかを問うことは、いつも道徳的に重要である。
自分自身は?:自殺が自己利益の観点から合理的なものとして受け入れられるケースでは、自殺をすれば、そうしない限り被らなければならないだろう苦しみから解き放たれると仮定すれば、自殺をする判断が実は道徳的に支持されるようにも思える。道徳性の観点からは、自殺をしようとしている本人だけでなく、全ての人にもたらされる結果を考えねばならない。これに関連する最も重要な人は家族、愛する人、友人など本人のことを最も直接的に知り、気にかけている人々だ。これらに人々に関しては、自殺が大きな嘆きや苦しみをもたらすので、自殺の結果は一般的に悪いと主張するのが妥当と思われる。
しかし、行動の結果はたいてい良いものと悪いものが混ざり合っている。従って。自殺者の家族や友人や愛する人に嘆きや痛みをもたらすというネガティブな結果があるとしても、もしその自殺者が死んだほうが本当にましなら、本人の受ける恩恵の方が勝るかもしれない

①功利主義的立場:万人の幸福を同等に扱いながら、「正しいか誤りかは万人にどれだけ多くの幸福を生み出せるかの問題である」とする道徳の主義だ。この立場に立てば、誰かの死によってあまりにも大きな悪影響を受ける人々がいて、本人が生き続ける代償よりも、その人々への害の方が大きい場合、自殺しない方が良い。しかし、自分は死んだほうがましで、他者への影響がその事実を凌ぐほどに大きくない場合は、自殺が正当化される。

②義務論的な立場:自分の行動の良し悪しを結果だけでなく、他の事柄にも目を向けなければならないと考えること。
思考実験:臓器移植を行う場合、一人の健康な人を殺してその臓器を5人の患者を生かすために使ったとした場合、功利主義に立てば許されるように見えるが、直感的に罪のない人を殺すのは間違いであることが分かる。人には殺されない権利があり、罪のない人を害することを義務論が禁じているのは、大抵の人が受け入れる。
しからば、「私という罪のない人間」を殺す反道徳的行為にならないか? 私が死んだほうがましな場合には、自殺しても自分を全体として害するわけではなく、自分に恩恵を与えていることになる。だから、全体として害してはならないという禁止に反してはいない。これが正しいなら、義務論の観点から考えても、自殺は特定のケースでは道徳的に正当と言える

自殺の道徳性に関する筆者の結論;
功利主義の立場を受け入れようと、義務論的な立場を受け入れようと、自殺は常に正当であるわけではないが、正当な場合もある。自殺しようとする人に出会った場合、その人がよく考え、妥当な理由を持ち、必要な情報も得ていて、自分の意思で行動していることが確信出来たら、その人が自殺することは正当であり、本人の思うようにさせることも正当だと思える

以上

「国連海洋法条約」についてちょっと勉強してみました

はじめに

今年(2018年)1月に発行したブログ(年の初めのためしとて~:「農業、林業、水産業の未来、3.水産業の分野)で、日本がいかに広い排他的経済水域(EEZ)に恵まれていて、日本の水産業の未来は明るい!という持論を述べました。ここでは、海洋法について十分な説明をしていませんでしたので、改めて表記「国連海洋法条約(正式名:海洋法に関する国際連合条約)」を読み込んで、日本が国際関係に於いて重要となるポイントについて拙いながら解説を試みることにしました。
尚、条文の文章は、読んで頂くと分かるのですが、法律的な正確性を担保するためか表現が回りくどく、且つ使う用語が日常使う言葉ではないことも多く、更に条約が成立する前に存在していた条約や慣習法を組み込む過程で発生したと思われる条文間の重複や順序の不整合が随所にあります。従って、私なりに解釈した上で適宜文章を再構成しています。お許し願えれば幸いです

国連海洋法条約とは

国連海洋法条約とは、海洋法に関する国際的な秩序の確立を目指して1982年4月30日に第3次国連海洋法会議にて採択され、1994年11月16日に発効した条約です。17部320条の本文と9つの附属書(全体として500条に上る膨大な内容です)で構成されています。現在、168ヶ国・地域と欧州連合が批准しています(締約国リスト)。大洋に面した主な非締結国は米国、トルコ、ペルー、ベネズエラがありますが、深海底に関する規定以外の大部分の規定が慣習国際法化しているため、米国などの非締約国も事実上海洋法条約に従っており、別名「海の憲法」とも呼ばれています(“ウィキペディア”から抜粋、一部修正)
海を隔てて日本と接している近隣の国々(中国、ロシア、韓国)は締約国となっていますが、締約国リストを見ると北朝鮮は批准していないようです

詳しくは「国連海洋法条約」(英語版)」の条文をご覧いただくとして、全体の構成は以下のようになります:

国際海洋法条約の構成
国際海洋法条約の構成
特殊用語解説

国連海洋法条約やそれに関連する情報を読み込んでいくと、幾つかの聞きなれない特殊用語が出てきます。条文の中に定義のあるものも、ないものもあります。これらが具体的に何を意味するかを予め理解していないと、条文を正しく理解するのに時間がかかると思いますので、以下に簡単に説明しておきます。ただ、領海、接続水域、・排他的経済水域、大陸棚、公海などは次項で詳しく述べることにします。また、特にことわりのない限り条文番号は、国連海洋法条約の条文番号を意味しています;

1.海域の領有権や管理権に係る特殊用語
①沿岸国とは:海洋に面している国(⇔内陸国)
②基線とは:沿岸国が公認する海図上の低潮線(引き潮の時の海面と陸地との交わる線)を根拠とした領海、接続水域、排他的経済水域、公海などの範囲を決める基準となる線。実際の地形は湾や河口、島嶼などがあり、決め方は簡単ではありません。興味のある方は、国連海洋法条約3条~10条に基線の決め方が具体的に定められていますので、ご覧になってください

領海の基線と限界線の関係_海上保安庁
領海の基線と限界線の関係_海上保安庁

③低潮高地とは:低潮時には水に囲まれ水面上にあるが、高潮時には水中に没するものをいいます(13条)
④礁(しょう)とは:浅い海底の隆起部。岩礁・サンゴ礁などがあります

⇒南シナ海で中国が実効支配している「スカボロー礁」がよくニュースに登場しますので、ご存知の方が多いと思います。ここはフィリピン及び台湾も領有を主張しており、フィリピンが中国による実効支配の不当性をハーグの常設仲裁裁判所に訴え、勝訴していますが、未だに中国の実効支配が続いています

⑤無害通航権とは:沿岸国の平和、秩序、安全を害しない限り通行できる権利のことを意味します。通行中には以下の行為が禁止されています(第19条)、武力による威嚇、武力の行使。兵器を用いる訓練、演習、沿岸国の安全保障上の情報の収集、沿岸国の安全保障に係る宣伝行為、航空機の発着、積み込み、軍事機器の発着、積み込み、沿岸国のCIQ(税関、出入国管理、検疫)に係る法令違反、重大な汚染行為、漁獲、調査、測量、通信妨害、運航に関係のないその他の行為

2.海洋や河川に生息する魚類に関する特殊用語
①遡河魚(そかぎょ)とは:海洋で餌をとって成長し、産卵のために河川または湖へ回遊する魚類を言い、遡上魚とも言われます。北洋を回遊して成長するサケ・マス類、沿岸域と河川を行き来するウグイ、ワカサギ、シシャモ、シラウオなどがあります
②母川国とは:遡河魚が産卵のために回帰する川を領有している国

③降河魚(こうかぎょ)とは:一生の大部分を淡水で生活して十分に成長し、成熟が始まる前後から川を下って海に入り、海洋で産卵する魚類を言います。降河魚の代表はウナギです。しかし、産卵以外の生理・生態的な要因で淡水域から海へ下る魚は降河魚に含めません。例えば、アユや淡水にすむハゼ類、カジカ類のように、孵化(ふか)後の稚魚が水流に運ばれて川を下って海で変態期前後まで成育し、ふたたび淡水へ帰って成長し、産卵するものは降河魚とは言いません

高度回遊性の種(Highly Migratory Fish Stocks)とは:排他的経済水域の内外を問わず広く回遊する魚類。国連海洋法条約において、この資源の回遊域に当たる沿岸国と漁獲を行う国がすべて参加する国際機関によって保存管理すべきとしています。日本が大量に消費している魚種では、かつおまぐろかじきサンマなどがこれに当たり、国連海洋法条約・付属書Ⅰ (サイトを開いてからANNEX Ⅰ をクリックしてください)で指定されています

3.領海・接続水域・排他的経済水域・海峡・大陸棚・公海

15世紀半ばから始まった大航海時代以降、海洋先進国が「公海自由」の原則を掲げ全世界の海に進出し、未開の地を植民地化するとともに、海洋資源も独占してきました。その後、18世紀から19世紀初頭になって、沿岸国の秩序維持に必要な「狭い領海」と、その外側にある先進国の自由競争が認められる「広い公海」、という二元構造によって海域をとらえる見方が主流となっていきました。こうした考え方が「慣習法」として定着していきましたが、領海の限界については、海洋国(日本を含む)が主張する3海里から、12海里まで主張の違う国がそれぞれの立場で自国の領海を管理する状態が続きました

第二次世界大戦を経て国連が生まれ、国連を中心に各国が話し合う場が設けられた結果、1958年の第一回国連海洋法会議が開催され、領海条約大陸棚条約公海条約公海生物資源保存条約という4つの条約の採択に成功しました。しかし、国の利害がぶつかる領海と公海の境界線をどこに置くのかという点については合意に至ることはできませんでした。
その後、1982年の第三次国連海洋会議になって、ようやく領海を領海基線から12海里までとすること、排他的経済水域を200海里とすることなど、現在の国連海洋法条約が採択され、ほどなく多くの国々に批准される現在の姿になりました

領海・排他的経済水域の模式図_海上保安庁
領海・排他的経済水域の模式図_海上保安庁

1.領海
領海とは、基線から12海里(約22.2キロ/東京駅⇔南浦和駅程度の距離)の範囲で(第2条)、2ヶ国が隣接している場合は、両国の基線の中間を双方の領海の境界とすることになっています(第15条)、但し歴史的な背景がある場合には例外が認められています

<領海に係る重要なポイント>
全ての国の船舶、沿岸国であるか内陸国であるかを問わず、この条約に従うことを条件として、領海において無害通航権が認められるています(第17条)
沿岸国は、無害でない通航を防止するため、自国の領海内において必要な措置をとることができます(第25条)
潜水艦、その他の水中航行機器は領海に於いては、浮上し、かつ船籍が分かる旗を掲げなければなりません(第20条)
無害通航権を行使する外国船舶は、沿岸国の法令及び海上における衝突予防に関する国際的な規則を遵守することが義務になっています
⑤沿岸国は航路帯、及び分離通行帯を明確に海図上に表示し、その海図を公表することが義務付けられています(第22条)
⑥外国の原子力船及び核物質又はその他の本質的に危険若しくは有害な物質を運搬する船舶が、領海において無害通航する場合には、そのような船舶について国際協定が定める文書を携行し、かつ、当該国際協定が定める特別の予防措置をとる義務がありますと(第23条)
低潮高地が領海外にあある場合、それ自体の領海は認められません(第13条)

2.接続水域
接続水域とは、領海から更に12海里の幅で、沿岸国の領土、領海内で起こったCIQ(税関、出入国管理、検疫)に係る法令違反の防止措置、及び法令違反の処罰を行う為に必要な規制を行うことができる水域です(第33条)

⇒近年頻々として起こる尖閣列島(日本が実効支配しているものの、中国も領有権を主張しています)周辺の中国公船(日本で言えば海上保安庁の艦船)による示威行動は、概ねこの接続数域への侵入が多いようです。日本は、警戒監視はするものの領海侵入までは手が出せません(幸い?)

3.国際海峡(国際運航に使用されている海峡)
国際海峡とは、領海または、排他的経済水域を含み、国際航行(船舶だけでなく、航空機も含む)で使用されている海峡のことです。日本においては、宗谷海峡津軽海峡対馬東水道対馬西水道大隅海峡が国際海峡に指定されています
<国際海峡に係る重要なポイント>
海峡の上空、海底、地下資源に係る主権及び管轄権は海峡沿岸国にあります(第34条)
すべての船舶及び航空機は、国際海峡を通過する権利を持っていますが、原則として停止しないで、迅速に通過することが必要とされています(第38条)
通過する船舶及び航空機が負う義務については、概ね領海通過に係る義務と同じです。詳しくは、第38条~45条をご覧ください

最近、米国と軋轢を起こしているイランが、ホルムズ海峡封鎖の可能性に言及していますが、こうした行為は、上記条文から判断すると、明かな国連海洋法違反ということになります。従って、もし封鎖を強行することになれば大国による軍事力の行使が現実となり、日本も新安保法制に基づき何らかの軍事行動が求められる可能性があります

4.排他的経済水域EEZ/Exclusive Economic Zone)
EEZとは、沿岸国が天然資源などに対して「主権的行為」を行うことができる海域のことで、基線から最大200海里まで設定することが認められています(第57条)。また、隣接している海岸を有する国の間における排他的経済水域の境界は原則として中間線となりますが、両国での合意が得られない場合、国際司法裁判所において国際法に基づいて合意を図ることができます(第74条)。ただ、両国が提訴に合意しない限り中々解決できないケースが多いようです。紛争の解決の具体的手続きについては15部(第279条~304条)に詳しく書かれています

<EEZに係る重要なポイント>
A. EEZ内の沿岸国の権利
①EEZ内の天然資源(海産物、海底資源、海流・風力エネルギー)の探査・開発・保存・管理に係る権利
人工島、施設・構築物の設置利用、海洋の科学的調査、海洋環境の保護・保全に係る権利(第56条)

B. EEZに於ける沿岸国の義務:他の国の権利及び義務に妥当な考慮を払う必要があります(第56条)
C. 全ての国は、EEZ内に於ける船舶及び航空機の航行の自由海底ケーブル・海底パイプライン敷設の自由、その他これらに係る海洋利用の自由が認められています(第60条)
D. 沿岸国は、EEZ内の生物資源の漁獲可能量を決定することができます。一方、生物資源の維持が脅かされない様、科学的証拠を考慮して、適当な保存措置・管理措置を講ずる義務があります(第61条)

E. 沿岸国が、漁獲可能量のすべてを漁獲する能力を持っていない場合、協定その他の取極(注)に従い、漁獲可能量の余剰分を他の国による漁獲に委ねることができます
(注)協定・取り決めの内容:漁獲枠魚種(含む大きさ)・漁期・漁場・漁具漁船の種類の指定手数料その他の報酬に係る許可証の発給沿岸国の監視員の乗船漁獲量の全部または一部の沿岸国への陸揚げ、などを指定できることになっています(第62条)

F. 高度回避性の種を漁獲する国は、EEZの内外を問わず種の保存を確保しかつ最適利用の目的を促進するため、直接、又は適当な国際機関を通じて協力する必要があります。また、適当な国際機関が存在しない地域においては、沿岸国、その他当該地域でその種を漁獲する国は、適切な機関を設立し、その活動に参加する必要があります

⇒サンマについては、最近漁獲高が急減し、中国、韓国、台湾による公海での漁獲が原因との見方があります。しかし、公海での漁獲は、日本にこれを制限する権利はなく、関係国による話し合いも、資源量に関する情報が無い中で早急に合意に至る可能性は低いと言わざるを得ません。ただ、わが国のEEZ内の密漁については、違法操業を取り締まるべく海上保安庁は頑張っているようです(参考:北方四島周辺水域における第三国漁船の操業問題_いわゆるサンマ問題

⇒マグロについては、全世界の海域で国際機関が設置され厳格に管理されています;
大西洋マグロ類保存国際委員会
インド洋マグロ資源委員会
全米熱帯マグロ類委員会
中西部太平洋マグロ類委員会
ミナミマグロ保存委員会

G. 溯河魚の漁獲に関するルール(第66条);
母川国は、EEZ内の漁獲量、漁業規制を定め資源の保存の為の措置を講ずること、及び自国の河川に由来する資源の総漁獲可能量を定めることができます。
溯河魚の漁獲は、原則としてEEZ内及び陸地側の水域に於いてのみ行うことができます。但し、これにより母川国以外の国に経済的混乱がもたらされる場合はこの限りではありませんが、EEZ外の漁獲に関しては、関係国は、当該漁獲の条件に関する協議を行う必要があります
③母川国は、上記の原則を実施するに当たって、他の国の経済的混乱を最小のものにとどめるために協力する必要があります
④母川国は、他の国との合意により溯河魚の人工孵化・放流を行い、かつその経費を負担している場合には、自国の河川に発生する資源の漁獲について特別の考慮が払われることになっています
⑤EEZ外の溯河魚の規制は、母川国と他の関係国との間の合意によって決められます
⑥溯河魚が母川国以外の国のEEZ内に入ったり、通過して回遊する場合、当該国は、溯河魚の保存及び管理について母川国と協力する必要があります

H. 降河魚の漁獲に関するルール(第67条);
①降河魚がその一生の大部分を過ごす水域を持つ沿岸国は、種の管理の責任を持ち、回遊する魚が出入りすることができるようにする義務があります(ダムなど作る場合は、魚道を整備する義務があります)
②降河魚の漁獲は、EEZ内及び陸地側の水域においてのみ行うことができます
③降河魚が、稚魚又は成魚として他の国のEEZを通過して回遊する場合、その魚の管理、漁獲は、①の沿岸国と当該他の国との間の合意によって行われます

⇒遡河魚、降河魚、高度回遊性の種については、後段で詳しく述べるように、資源維持のために各国が協力する体制がしっかり出来ています。しかしそれ以外の領海、排他的経済水域で漁獲している大衆魚(イカ、タコ、イワシ、ニシン、ハタハタ、ズワイガニ、etc、etc、、、)については、日本が資源の維持・管理に一元的な責任があります

I. いずれの国も、海産哺乳動物の保存のために協力するものとし、特に鯨類については、その保存、管理及び研究のために適当な国際機関(国際捕鯨委員会)を通じて活動する(第65条)

J. 沿岸国の主権的権利の行使についてのルール(第73条);
①この条約に従って制定する法令を遵守させる為に必要な措置乗船、検査、拿捕及び司法上の手続を含む。)をとることができます
②拿捕した船舶・乗組員は、合理的な保証金の支払又は合理的な他の保証の提供の後に速やかに釈放しなければなりません。また、拿捕、抑留した場合は、とられた措置及び罰について、船籍のある国に速やかに通報する必要があります
漁業に関する法令違反について沿岸国が課する罰には、拘禁、身体刑を含めてはならないことになっています

5.大陸棚
A. 大陸棚とは:領海から先の海面下であってその領土の自然の延長をたどって大陸縁辺部の外縁に至るまでのもの、又は大陸縁辺部の外縁が基線から200海里の距離まで延びていない場合、原則として200海里の距離までのものを言います
尚、200海里を越える大陸棚については、第76条に詳しく定義されていますが、その確定作業は、沿岸国が調査した情報を「付属書Ⅱ」に定める「大陸棚の限界に関する委員会」(通称大陸棚限界委員会;詳しくは大陸棚限界委員会参照)に提出し、得られた裁定が最終的なものとなり、拘束力があります

大陸棚限界設定の流れ

沿岸国は、大陸棚上の天然資源の探査・開発に係る主権的権利」を持っています。但し、この天然資源は、海底及びその下の鉱物・非生物資源、定着性の生物のみが対象になります(⇔海中で生息している魚類、ほ乳類は対象になりません)

隣接している海岸を有する国の間の大陸棚の境界画定について、両国での合意が得られない場合、国際司法裁判所において国際法に基づいて合意を図ることができます(第83条)。ただ、両国が提訴に合意しない限り中々解決できないもののようです。紛争の解決の具体的手続きについては、EEZの境界画定のケースと同様、15部(第279条~304条)に詳しく書かれています

⇒東シナ海の日中の中間線付近に於ける中国のガス田開発については、中国の主張と日本の主張(中間線)が食い違うものの解決が得られていません

東シナ海に於ける中国とのEEZ紛争

参考として大陸棚限界委員会に提出された、日本及び中国の申請書をご紹介します;
中国による東シナ海に於ける大陸棚申請
日本による大陸棚申請

6.公海
上記の接続水域・排他的経済水域・海峡以外の海水域が公海となります
<公海に係る重要なポイント>
①公海の自由
とは(第87条):航行の自由、上空飛行の自由、海底電線・海底パイプライン敷設の自由、国際法によって認められる人工島その他の施設を建設する自由㋭漁獲を行う自由科学的調査を行う自由
公海上の軍艦は、船籍のある国の管轄権のもとにあります(第95条)

③公海で航行中の事故に係る刑事裁判権は、船籍のある国、又は乗員の国籍のある国に限られます(第97条)
公海上での船舶の拿捕、抑留、調査船籍のある国に限られています(第97条)
⑤いずれの国も、公海上における救難の義務があります(第98条)

⑥いずれの国も、自国の船籍のある船舶による奴隷の輸送は禁じられています(第99条)
⑦すべての国は、公海上の船舶が国際条約に違反して麻薬及び向精神薬の不正取引を行うことを防止するために協力する義務があります(第108条)

⑧いずれの国も可能な範囲で、公海その他いずれの国の管轄権にも服さない場所における海賊行為の抑止に協力する義務があります(第100条)
⑨いずれの国も、公海その他いずれの国の管轄権にも服さない場所において、海賊行為が行われた場合、海賊の支配下にある船舶・航空機を拿捕し、犯人を逮捕・拘禁し、財産を押収することができます。また、拿捕を行った国の裁判所は、科すべき刑罰を決定することができます(第105条)

⇒ソマリア海で日本の自衛隊が拿捕した海賊船の犯人は、日本の裁判所で裁判を受けました

⑩沿岸国は、外国船舶が自国の法令に違反したと信ずるに足りる十分な理由があるときは、当該外国船舶の追跡を行うことができます。但し追跡は、国の内水、群島水域、領海、接続水域にある時に開始しなければなりません。尚、この追跡権は排他的経済水域又は大陸棚における沿岸国の法令違反がある場合にも準用されます
⑪追跡権は、第三国の領海に入ると同時に消滅します
⑫追跡権は、軍艦軍用航空機その他政府の公務に使用されていることが明らかに表示されており、かつ識別されることのできる船舶又は航空機でそのための権限を与えられているものによってのみ行使することができます

日本の場合、追跡権は自衛隊あるいは海上保安庁の艦船、航空機でなければ実施できないことになります。最近頻々と起こっている外国船による密漁も、海上自衛隊の増強以外の方法しかないことは理解できると思います
⇒海上保安庁による警備:領海・EEZを守るを参照

いずれの国も公海に於ける生物資源の保存、管理について相互に協力する義務があります(第117条~第119条)

7.深海底
深海底及びその資源は人類共同の財産です。従って、いずれの国も深海底又はその資源のいかなる部分についても主権又は主権的権利を主張し又は行使してはならず、また、いずれの国・法人・人も深海底又はその資源のいかなる部分も専有してはならないことになっています(第136条、第137条)
<深海底に係る重要なポイント>
①深海底の資源に関するすべての権利は、人類全体に付与されるものとし、この任務を遂行するために国際海底機構(以下“機構”;詳しくは国際海底機構参照を設立しました(第156条)。機構、人類全体のために行動することになっています。また、深海底の資源は、譲渡の対象とはならないものの、所定の手続に従うことによって譲渡することも可能となっています(第137条)
②機構は、深海底における活動から得られる経済的利益を、公平の原則に基づいて行うことを原則にしています(第140条)
沿岸国の管轄権の及ぶ区域の境界に跨って存在する深海底の資源に係る活動については、当該沿岸国の権利及び正当な利益に妥当な考慮を払うことになっています(第142条)

④機構は、深海底から採取された鉱物の生産者及び消費者の双方を含む関係のある全ての当事者が参加する権利を持っています。機構は、当該会議の全ての取決め、合意の当事者となる権利を持っています
⑤機構及び締約国は、事業体及び全ての締約国が利益を得ることができるように、深海底における活動に関する技術及び科学的知識の移転の促進に協力することになっています(第144条)
機構及び締約国は、深海底から採取された鉱物について、生産者にとって採算がとれ、かつ、消費者にとつて公平である価格の形成を促進すること、並びに供給と需要との間の長期的な均衡を促進することが求められています(第150条)
操業者が機構生産認可を申請し、その発給を受けるまでは、承認された業務計画に沿った商業的生産を行ってはならないことになっています(第151条)

⇒最近、日本近海の深海底に於ける鉱物資源の調査、及び採掘技術の研究が、官・学・民が協力して行われています。しかし、上記条文から判断すると、現実の採掘となれば、採掘した資源を独占できるわけではなく、また生産量に係る制約を受けることになります。また、採掘技術に係る研究成果についても、先駆者の利益を得ることは難しいことも考えられます(⇔南極大陸の資源管理と同じか)

北洋漁業の歴史

漁業に関して、少年時代から私の記憶の断片に残っていものは、南氷洋の捕鯨と並んで盛んであった北洋漁業に係るものです。それは必ずしも明るいものではなく、当時のソ連に拿捕される北海道の漁民と悲しみに暮れる家族の姿、敗戦国の日本は、満州国での非人道的占領政策、その後のシベリア抑留に加え、ソ連にどれだけ虐められれば済むんだ、といったマイナスの感情です

今回のテーマに係る情報をネットで探していたところ、東海大学海洋学部地球環境工学科の牛尾裕美氏の書いた論文「日本における遡河性魚種の漁獲に関する一考察」に、日本の北洋漁業に係る歴史が分かり易く纏めてありましたので、以下に紹介します;

*日本が、シベリアとカムチャッカの沿岸でサケ漁を開始したのは、17世紀の初め(江戸時代)であったと言われている
*1905年、日露戦争終結後に締結されたポーツマス講和条約により、日本はロシア領土内に漁業区を借り、サケ・マス定置網漁業を行う権益を認められたました(勿論、北方4島の他に、南樺太も日本領となったため、ここでも行われていたと思われます)

*1917年のロシア革命により誕生したソ連による資源ナショナリズムの影響を受け、1929年には流し網を用いる北洋サケ・マス母船式漁業を発足させ、沖取り漁業への転換が行われていった
*第二次大戦とそれに続く米軍駐留期間は北洋漁業は休止していましたが、1952年のサンフランシスコ平和条約発効後、独立を果たした日本は、北西太平洋の公海域に於いて北洋漁業を再開しました。公海域での漁獲は、産卵回遊途上の成魚だけでなく、翌年以降成熟する生育途上の未成魚も含まれており、しかも漁獲の主要部分は、ソ連の極東地方の河川を起源とするものであった(その他、アラスカと日本の河川を起源とするシロザケも含まれていた)

*こうした日本の母船式を中心とする沖取り漁業の大規模化は、1955年にピークを迎え、それと共にソ連極東地方へのサケ・マス回帰量の急激な減少ををもたらしました
*1956年、ソ連はサケ・マス資源の保護と漁獲調整を目的として、極東地方の領海に接続する公海においてサケ・マス漁獲制限操業の特別許可性一方的に宣言しました(ブルガーニン・ライン
*同年、サケ・マスに関して、公海における規制区域の設定、その区域内に於ける漁業禁止区域、漁期、漁具の制限年間総漁獲量の設定などを内容とした日ソ漁業条約が締結された

*1976年に200海里漁業水域が設定されたことに伴い、日ソ漁業条約の破棄を通告してきた。サケ・マスに関しては、1978年になって「日ソ漁業協力協定(日本漁船によるソ連を母川国とするサケ・マスの漁獲等に関する協議の基礎となる協定)」が締結された
日ソ漁業協力協定の主なポイント;
両国は遡河性魚種の母川国が、当該魚種に関し第一義的利益及び責任を有することを認める
両国は、母川国が200海里漁業水域内における総漁獲可能量を定めることができることを認める
両国は、母川国が200海里漁業水域内の外側の水域における遡河性魚種に関する規制は、母川国と他の関係国との合意によることを認める

*1984年にソ連がEEZを設定し、「日ソ漁業協力協定」もソ連側の終了通知により失効した。その後難航の末に、1985年に新しい「日ソ漁業協定」が締結されるに至った
*1988年になって、日ソ漁業合同委員会の年次会議において、1992年までのできるだけ早い時期に、公海でのソ連を母川国とするサケ・マスの漁獲を停止するようにとの声明を行った

*1952年に締結された日米加漁業条約「北太平洋の公海漁業に関する国際条約」を、ロシアを加えて発展的に解消し、1992年に締結(1993年2月16日発効)された日米加ロ漁業条約北太平洋における遡河性魚類の系群の保存のための条約(沿岸国の200海里水域を超えた北緯33度以北の北太平洋及びその隣接海域における条約特定の遡河性魚類の捕獲禁止等を定める)」により、戦後40年行われてきた北太平洋の公海におけるサケ・マス漁業は終止符を打つに至った

以上

森林経営管理法が成立しました!

はじめに

上の写真は、日田木材協同組合のサイトに載っていた写真から拝借したものです。日田と言えば、江戸時代、天領(徳川家の直轄地)の森として手厚く保護されていたこともあり樹齢300年を超える巨木が多く残っている貴重な森林です。植林は15世紀から始まり、現在もなお林業はこの山間の地の主要産業として成り立っています

日本の林業については、1955年までは木材の自給率が9割以上であったものが、木材輸入の自由化が段階的に行われた結果(1964年に完全自由化)、2008年には自給率が24%までに落ち込んでおり、正に衰退の一途を辿っています(詳しくは、私のブログ“年の初めのためしとて~”の<農業、林業、水産業の未来・ 2.林業の分野>の部分をご覧ください)。この結果、国産材供給の問題だけでなく、山間地域の過疎化地滑り、鉄砲水による災害水源地域の荒廃、などの諸問題を惹起しています。こうした問題を抜本的に解決すべく新たな法律が誕生しました

「モリカケ」問題で、与野党が紛糾している国会で、珍しくさしたる混乱もなく「森林経営管理法」が成立しました(5月25日に衆議院を通過;6月1日施行;審議経過については森林経営管理法案・審議経過をご覧ください)。新聞やテレビの様なニュースメディアでは殆ど取り上げられなかったものの、この法案が野党を含む殆どの政党が賛成して成立した背景には、日本の森林の荒廃がかなり進み、国民全体に、“何とかしなければ”という共通認識があったからと思われます。以下にこれからの日本林業再生のきっかけとなると思われるこの「森林経営管理法」の内容をできるだけわかり易くご紹介したいと思います

森林経営管理法のねらい

日本の国土面積、約37万平方キロのうち森林の面積は66%を占めています。この内、国が管理の責任を持つ国有林が31%、地方公共団体が管理の責任を持つ公有林が11%、所有している個人、法人が管理の責任を持つ私有林が58%を占めています。尚、大変紛らわしいのですが、公有林と私有林を総称して民有林と言います。「はじめに」で挙げた各種の問題は、ほぼこの民有林の管理が十分に行われていないことが原因とされています

昔は「山持」と言えば富の象徴であり、生産サイクルが数十年から数百年に及ぶことから短期間で投資回収ができない林業の問題も、「山持」の人たちの有り余る財力によって賄われてきました。しかし、安い外材の流入により、木材自体の価値が大幅に下がり、山林の所有は“役に立たない財産”、あるいは“売るに売れない厄介な財産”となり、管理されないまま放置されてしまうこととなりました
森林経営管理法の目的は、管理が行き届いていない民有林を官主導できちんとした管理を行えるようにすることです

しかし、そもそも私有財産である私有林の管理を、官が勝手に行うことが許されるのかという問題があります。森林経営管理法では、この問題を以下の様な考え方で私権を制限できる根拠としています

<なぜ森林所有者の権利を制限できるのか>
① 現在、実質的に管理が行われていない私有林が多く存在し、本来森林所有者が適時適切に行うべき伐採造林保育(下刈、枝打、間伐、など)が行われず荒れ果ててしまった森林が多く存在すること
② 荒れ果ててしまった森林は、その所有者が負うべき保安林としての公的な責任(水源の涵養、土砂の崩壊その他の災害の防備、生活環境の保全・形成、など)果たせなくなってしまっている事例が発生しつつあること

山林の崩壊
山林の崩壊

③ かつて林業で栄えた多くの山間の村落が林業の衰退により過疎地と化しており、こうした村落を再び活性化させるには林業が最も適していること

④ 日本の地理的な条件を勘案すると、日本は森林面積森林資源の蓄積量森林の成長量の数値から判断して、森林資源が最も豊かな国の一つであり、林業は国際競争力の高い成長産業になりうること(← 詳しくは、私のブログ“年の初めのためしとて~”の<農業、林業、水産業の未来・ 2.林業の分野>の部分をご覧ください)

つまり、憲法で保証している財産権を「公共の福祉」の観点から、必要最小限の範囲で制限を加えていることになります
憲法29条:財産権は、これを侵してはならない。財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることができる

森林経営管理法の概要

以下、条文の具体的な内容について詳しく知りたい方は森林経営管理法を読み込んで戴くこととして、ここでは、全体を俯瞰して重要なポイントを説明(一部私見を交えて!)していきたいと思います

<森林経営管理法のねらい>
① 林業の成長産業化と、森林資源の適切な管理を両立させる為に、市町村を介して林業経営能力の低い小規模零細な森林所有者の経営を、意欲と能力のある林業経営者につなぐ(⇔委託する)ことで、林業経営の集積・集約化を図る
⇒ 大規模化によって効率的な森林用特殊大型車両の導入、広域的な林道整備が可能となり、長期的且つ計画的な林業経営が可能となります
経済的に成り立たない森林については、市町村が自ら経営管理を行う仕組みを構築する
保安林としての機能を維持するための計画、実施が容易になる

<森林所有者の責任の明確化と市町村による森林経営管理権の行使>
森林所有者は、自身の保有する森林について、適時に伐採、造林または保育(下刈、枝打、間伐、など)を実施することにより、適切な経営または管理を持続的に行わなければならないと定めています(森林経営管理法第4条)
② 森林所有者が上記の義務を果たせない時は、市町村が森林所有者から経営管理権(森林の伐採、木材の販売、造林、保育を行う)を取得し経営管理を行う(同法第3条~第9条)と定めています

<市町村による森林経営管理によって何故林業の成長産業化が図れるのか
都道府県が意欲と能力のある林業経営者」を募集、公表する(同法第36条)。この林業経営者には、以下の支援措置を実施する
支援措置の内容(同法第44条~第46条、附則第2条);
国有林野事業に係る伐採等も委託
* 国及び都道府県による技術指導
* 独立行政法人農林漁業信用基金による経営支援、林業経営基盤の強化等の促進のための資金の貸し付け期間の延長(12年⇒15年)
<参考> 林業の規模拡大の為に林業を経営するものに債務保証を行う制度:180206_林業9割に債務保証_大規模化支援

市町村は、管轄する区域内の民有林について経営管理の状況を調査し、市町村に集積することが必要かつ適当であると認める場合には、経営管理権集積計画を定める
この計画は、市町村森林整備計画森林法第10条の5で民有林については、10年を一期とする森林整備計画を立てなければならない)、都道府県が実施する治山事業(森林法第15条の15で定められている)、その他地方公共団体の森林の整備及び保全に関する計画との調和が保たれたものでなければならないとされています

治山事業_林野庁
治山事業_林野庁

経営管理集積計画に定めるべきこと(森林経営管理法第4条);
* 集積計画対象の民有林の所在地番地目、面積所有者の氏名又は名称住所
* 経営管理権の執行開始時期及び継続期間
* 市町村が行う経営管理の内容
* 経営管理を行った結果、利益が得られた場合に森林所有者に還元すべき金額の算定方式、及び支払時期・方法
* その他

 市町村は、都道府県が公表した「意欲と能力のある林業経営者」に林業経営に適した森林の経営を委託する。また、林業経営に適さない森林については、市町村自らが間伐等を実施する

<森林所有者の権利、保護について>
① 市町村の経営管理集積計画は、森林所有者の同意を得なければならない(同法第4条の5)
② 市町村は、集積計画対象森林の森林所有者に対してその意向に関する調査(経営管理意向調査)を行わなければならない(同法第5条)
③ 森林所有者が、経営管理権集積計画に同意しないとき、市町村長は、農林水産省令で定めるところにより、同意すべき旨を勧告することができる(同法第16条)

④ 森林所有者が、経営管理権集積計画に同意しないとき、市町村長は、農林水産省令で定めるところにより、6ヶ月以内に都道府県知事の裁定を申請することができる(同法第17条)
⑤ 申請を受けた都道府県知事は、森林所有者に対して2週間以上の期間を指定して森林所有者に意見書を提出する機会を与えるものとする(同法法第18条)
⑥ 都道府県知事は、森林所有者の森林について、現に経営管理が行われておらず、かつ、所有者の意見書の内容、当該森林の自然的経済的社会的諸条件、その周辺地域における土地の利用の動向その他の事情を勘案した上で、集積することが必要かつ適当であると認める場合には、裁定をする(⇔森林所有者の財産権の制限)ものとする(同法第19条)

森林所有者の全部または一部が、探索を行っても不明である場合、市町村が森林経営管理権を行使する旨を公告する。森林所有者は、広告の日から6ヶ月以内であれば異議を述べることができる。期間内に異議を述べなかった場合は、経営管理集積計画に同意したものとみなす(同10条、11条)

森林経営管理法に関連する法規制、制度、等

林業の衰退と再生の必要性については、民主党政権時代(2009年~12年)から既に政官界の共通認識となっており、その後の自民党政権でも「成長戦略」の一つとして取り上げられています。従って、森林経営管理法成立以前にもこれに関連する政策が着々と進められておりました

<林地台帳の整備>
市町村が経営管理集積計画を策定、実行するに当たって、民有林の所有者、及びその境界を確定することが非常に重要であることは言うまでもありません。しかしながら民有林の内、特に私有林の所有者については、登記上の所有者が死亡したのち、何代にもわたって相続権のある人が相続の手続きを行っていない場合(⇒相続権のある人が多数存在することになります)、あるいは所有者が転居して探索が困難になっている場合も多く、誰が所有者か確定できないケースが多数存在しているといわれています。また、森林の境界が不明確なケース(もともと境界の目印が“口伝!”によるものが多いのだそうです)も多いといわれています

そこで、2017年5月の森林法改正によって、市町村が統一的な基準に基づき、民有林の所有者やその境界に関する情報などを整備・公表する林地台帳制度が創設されました(森林法第191条の4~7)。この制度の概要については林野庁が作成した林地台帳制度の概要をご覧ください
また、実際に各市町村が林地台帳を整備するにあたってのマニュアルも林野庁が整備しておりますので、興味のある方は林地台帳及び地図整備マニュアルの概要ご覧になってみてください
尚、林地台帳作成の義務を負った市町村も、作成にかかる多額な費用を自前で賄うのは難しいので、次項に紹介する新税を原資とした、国や都道府県からの補助金が頼りになりそうです

しかし、法律が出来、補助金が得られても、広大な森林面積を有する自治体では、かなり困難な作業となりそうです。境界の確定などには、最新のGPS技術やドローンを利用する技術をなどを持っている調査会社のビジネスチャンスが増えそうですね(私見!)。参考までに長野県のケースについて日経の記事を見つけましたので、興味のある方はご覧ください(171216_森林整備まず境界明確化_林地台帳作成

<森林環境税>
森林環境税は、温暖化対策として空気中の炭酸ガスの吸収源となる森林の整備を行うための財源確保として平成2018年度の税制改革にて導入が決められました。ただ、2019年度から徴収すると納税者の負担感が増すため、東日本大震災の復興財源の上乗せ措置が終わる翌年の2024年度に導入することとなりました
この税の徴収は、現在個人住民税を収めている約6千2百万人すべてが対象とされており、1人あたり千円の徴収(復興特別税と同額)とすると年間で約620億円の税収が想定されています

しかし、森林環境税は名前は異なるものの目的は同じ森林整備の名目ですでに独自に導入している地方自治体があります。高知県が2003年度に森林環境税を導入したのをきっかけに2017年1月時点では、全国36県・1政令市で導入されています。税額については下表の通りバラバラです;

森林環境税_既存の地方税
森林環境税_既存の地方税

従って、今後は各自治体毎に地方税との二重課税の問題を解決しなければならないと思われます。また、新税については2024年から配布されることになりますが、林地台帳の整備などは一刻も早く実施する必要があります。従って、新税開始までのつなぎとして、地方交付税に上乗せして実質的に開始することも考えているようです
参考:180424_森林環境税_既存の住民税との二重課税問題

おわりに

先日、NHKの「クローズアップ現代+」で取り上げられていましたので、ご覧になっている方もいると思いますが、人口1550人の兵庫県西粟倉村では、国の平成の大合併政策を拒否して2008年以降「百年の森林構想」を掲げて林業を中心とした村おこしを始めています。すでに全国から志ある者が集まり人口も増加しつあるそうです
参考:兵庫県西粟倉村の村おこし(前編)同(後編)

大都会では、有効求人倍率が1を超えたといいながら、職にあぶれ日雇いで食いつないでいる若者、夢のない「派遣労働」で行き場を失っている若者に満ち溢れています。こうした若い労働力が、森林経営管理法のもとで林業を中心とした村おこしに参加してゆけば平成の次の時代は明るいものになると思うのですが、、、

Follow_Up:2019年6月5日、改正国有林野法が成立(民間林業の参入支援)」しました

以上

年の初めのためしとて~

今年も我が家は穏やかなうちに新年を迎えました
我が家の小さなペントハウスには、これまた小さな小さな神棚があり、以前住んでいた保谷にある東伏見稲荷神社で戴いたお札が祀ってあります。元日の朝は、ここで二拝二拍手一拝した上で屋上に出て美しい富士山を仰ぎ、その後一階の仏壇で線香をあげ、我流で般若心経を唱えることが習いとなっています。特に願いごとも、お礼ごとも無く、心静かに祈るだけですが、かれこれ父親が亡くなってから46年間欠かさずこれを続けていることになります。以下はのんびりした正月に御屠蘇気分であれこれ考えてみたことを書いてみました

第四次産業革命の夜明け

朝食を始める前の一時は、例年おもむろに特集記事中心の分厚い新聞を広げることになりますが、今年は「第四次産業革命」関連の特集記事が目立ったような気がします;
第一次産業革命」:18世紀、ジェームスワットの蒸気機関の発明によって生産が人力から機械力に代わったことによって起こった世界的な産業構造の大変化のことを指します。日本は明治維新後の「殖産興業」の政策によって遅ればせながら列強に追随し、アジアでは最初に工業化を果たすことができました
第二次産業革命」:19世紀後半、フォード自動車のベルトコンベア方式に代表される大量生産により、自動車などの高度工業製品の大衆化が実現しました。しかし、この生産方式は、巨大な資本力、大量の資源、大きな市場の確保が必要となることから、狭い国土の日本では、必然的に帝国主義への道を歩む事になってしまいました
第三次産業革命」:第二次世界大戦後、半導体技術の進歩により実現した「生産設備の電子化、システム化」、トヨタに代表される「サプライチェーンの効率化」、「多品種少量生産」、などにより産業構造が大きく変わりました。これらを総称して「ファクトリー・オートメイション」とも言いますが、日本は敗戦後の苦難な時期を乗り越えこの産業革命では世界をリードする国になりました

第四次産業革命」とは;
  1990年代から本格化したインターネットで代表されるコミュニケーション技術の大革命
人間の知能に近い学習を自ら行って時間が経つにつれ賢くなってゆくDeep Learning を備えたAI(Artificial Inteligence / 人工知能)とロボット技術の融合
5G(Fifth generation / 次世代通信網)で代表される高速・大容量の通信インフラの整備(近い将来)
桁違いの演算能力を持つ量子コンピューターの登場
などによって、近い将来起こると予測されている第一次~第三次産業革命を凌ぐ産業構造の大変革の事です
最近屡々新聞を賑わすICT(Information and Communication Technology / 情報処理および情報通信技術を使ったサービスの総称)やIoT(Internet of Things / 多種多様な生産設備が地理的な境界を越えて相互に自律的にコミュニケーションを行う事)の普及、急ピッチで開発は進められている動運転車、身近な生活の分野で急速に進むシェア・エコノミー(配車シェア/ウ―バー、個人同士の商取引/メルカリ、クラウドコンピューティング/クラウドワークス、、)などは、いずれもこの「第四次産業革命」の第一歩という事ができます

第四次産業革命では、それまでの産業革命と同じ様に「人の働き方」が大きく変わります。そして、結果として「人の生き方」も大きく変わるのではないか、と言われています
最近、週刊現代に「オックスフォード大学が認定、あと10年で消える職業無くなる仕事」というセンセーショナルなタイトルの記事が出て話題になっていました。この記事のソースをネット上で探ったところ、どうやら2013年9月に発表された「The future of employment : How susceptible are Jobs to Computerisation ?」という論文の様です。これは72ページにわたる大論文で、私には到底読みこなせませんが、論文冒頭の要約をみると、米国の702の職種についてコンピューター化できる可能性を分析したところ、47%の職種でコンピューター化が可能であり、労働市場に於いて雇用環境全般(職種ごとの賃金水準や学歴、ほか)に大きなインパクトを与える可能性があるとのことです

難しい話は別にしても、頭脳労働の粋と思われる囲碁や将棋の世界でコンピューターが一流のプロに勝ってしまうニュースや、人気のない大工場でロボットが黙々と仕事をこなしている映像を見ると、近い将来間違いなく「人の働き方」が変わるに違いない事は実感できると思います
第四次産業革命でも半分くらいの職域は残るのでしょうが、要求される能力はかなり変わってきそうです。既に、増え続けるデータ処理に係る人の求人が増えています(参考:データ解析者争奪戦)。一方、失われる可能性の高い職域の雇用の問題は、予め予測し、可能な範囲で対策を考えておくことは絶対に必要ではないでしょうか? 大国であった英国が20世紀後半、第3次産業革命に的確に対応できず所謂「英国病」で苦しんだ歴史を忘れてはならないと思います

日本が直面している少子・高齢化の状況

第四次産業革命の黎明期にあたって、世界をリードする日本であり続けるためには、今直面している少子・高齢化社会の状況にどう対応していくかは避けて通れないと思われます。総務省が発表している人口推計から衝撃的!な幾つかの図表を取り出してみると(詳しくは:我が国の労働力人口における課題_総務省参照);

我が国の高齢化の推移と将来推計
我が国の高齢化の推移と将来推計

我が国の65歳以上の人口は2010年には23.0%であったが、2060年予測では39.9%と世界のどの国でもこれまで経験したことがない少子高齢化が進むことが見込まれ、2060年には15歳~64歳までの労働人口が4,418万人まで大幅に減少することが予想されています
一方、こうした労働力の急速な減少傾向に対して、現在65歳以上の人が就業している(希望する)割合は極めて少ない事が以下の図表を見ると明らかになります;

潜在的労働力
潜在的労働力

この結果、65歳以上の人ひとりを支える生産年齢(15歳~64歳)の人の数は、以下の表の通り劇的に低下し、常識的には働かない高齢者を働ける人(15歳~64歳)が支えていくというこれまでの構造(生き方)は通用しないことになります;65歳以上人口1人を支える生産年齢人口

一方、厚生労働省の要介護者数の推計値をみると、これまた衝撃的!な数値になっています;

要介護の認定者数
要介護の認定者数

こうしたことを総合すると、高齢者は自ら道を切り開いていく必要があると考えられます。豊かな高齢者は、働かずとも高額商品の購入、旅行や遊びで消費することによって経済の循環に貢献することが可能です。しかし、年金を貰っている普通の高齢者は、働き続けることによって社会に貢献することが必要になると思います。働き続けることによって「介護の世話にならずにすむ健康を維持」し、同時に「生産労働人口の減少」を補うことが、結果として「老後の生き甲斐」を得ることに繋がるのではないでしょうか

産業構造の大変革と日本の生きる道

第三次産業革命までは、日本人の器用さからくる「もの作りの伝統」と、江戸時代の寺子屋、藩校などから続く国民皆教育による「労働者の平均的な能力の高さ」によって勝ち残ってきました。しかし「もの作りの伝統」はAI+ロボット+3Dプリンターで優位性は失われる可能性が高いと言われています。また、「労働者の平均的な能力の高さ」もロボットが導入されたもの作りの現場、自動運転車が導入された運輸業などの現場(参考:高速道路で隊列走行の実証実験)はもとより、間接業務についても、軽易な事務作業は当然として、花形である企画業務や、人事・総務業務、技術開発業務、などについても膨大なデータベースを基に、AIを駆使して答えを出す「クラウド・xxx」によって代替される可能性が高いと言われています。最近、日本の巨大銀行においてフィンテック(FinTech /金融を意味するファイナンス/Financeと、技術を意味するテクノロジー/Technologyを組み合わせた造語 )の急速な普及により人員や店舗数を削減し始めたのもその象徴的な現象と思われます

逆に、同じ理屈で日本の人件費の高さから海外生産にシフトしていった、グローバル企業が、「生産の一部(少なくとも日本で消費される部分)を日本に戻すこと」も不思議ではありません。今始まったばかりですが、多国間の自由貿易協定(TPP、日欧EPA、など)もそれを後押しするに違いありません

また、間違いなく生き残る仕事のうち、基礎研究の分野、芸術と言われるまでに進化した伝統技術の分野人とのコミュニケーションが必須のサービスの分野、などは、現在必ずしも人気のある職種とは言えませんが、これから職を探そうとしている若い人たちには狙い目かもしれません

< 基礎研究の分野
これから日本が世界の産業をリードしていく為には、医薬品・医療用機器の開発、新素材の開発、情報分野での基本技術の開発(量子コンピューター、通信規格、、、)など、基礎的な研究に国を挙げて力を注いでいく必要があります
これまで、所謂ポスドク問題(Post Doctor / 博士号は取得したが、正規の研究職または教育職についていない者)と言われ、多くの優秀な研究者が、充分な給与を得られず苦労しているという実態があります。結果として優秀な人材が米国に流出したり、研究に対する夢をすてて民間企業の普通の仕事に就いたりすることが後を絶ちませんでした
また、公的な研究機関であっても、多くの研究員が有期雇用契約で研究しており、研究成果を出すことを焦って研究不正を犯す事例(STAP細胞の事件で有名!)が発生したことでも分かる様に腰を据えて研究する体制が整っていません

ノーベル賞を受賞する様な卓越した基礎研究も、日本の教育・研究環境の評判を高めることとなり、米国の様に世界から優秀な人材を呼び込むことに繋がると考えられます。ここ最近、日本は中国や韓国が羨むほどのノーベル賞の授賞者を輩出していますが、これは数十年前の研究に対して与えられている訳で、現在の教育・研究環境が続けば早晩受賞者が減ることは間違いないと受賞者たちから警鐘を鳴らされています

<Follow-up>
*2018年10月13日の日経新聞電子版に(181013_科学技術大国・衰える研究基盤_伸び悩む資金、細る人材_推進力に影・気が付けば後進国181013_科学技術基本法)という記事が出ていました

< 伝統技術の分野
明治維新の主役となった島津藩は、16世紀の文禄・慶長の役で朝鮮から連れ帰った陶工を優遇し根付かせた「島津焼」を幕末にヨーロッパ各国に輸出し経済的に豊かになったと言われています。また、島津藩に限らず徳川幕藩体制の中で、各藩が競って現金収入の基になる工芸品を洗練し、これが明治の日本を経済の面で支えたことは間違いありません。更に、神社仏閣・城郭の建設で培われた木工建築技術も世界に誇れる伝統技術の一つと思われます
こうした優れた伝統技術は、現在後継者が不足していると言われています。こうした技術を単に維持するというよりは、国内のみならず海外への販売強化を図り、結果として産業として成り立たせる方策を国を挙げて考えるべきだと思われます

< 人とのコミュニケーションが必須のサービスの分野
現在日本が直面している最大の課題である「少子・高齢化」の問題で喫緊の課題となっているのは保育士介護要員の確保にあることはは周知の事実です。いずれも給与レベルが低いという問題の解決は当然の事として、保育士については子育てが一段落した資格を持った女性の再雇用の促進が図られることになると思われます。介護要員の不足については、現在では非常に体力のいる仕事となっているので、ロボットの活用で体力仕事を無くすことにより、被介護者とのコミュニケーションに関して優位性のある高齢者に門戸を開くことも可能になると考えられます

高齢者が増加することにより、間違いなく医療の分野でも多くの雇用が必要となります。医師の数は医師免許という高い障壁があるので魅力ある収入が保証されなくては現在以上の数は期待できません。ただAIを活用した的確な診断と、「かかりつけ医」制度によって医師の必要数増加はある程度抑制可能と考えられます
一方、看護師の必要数は確実に増加します。現在でも看護師の数が揃わないためにベッドが空いていても入院させられない事態が起こっているそうです。看護師という職業は十分に魅力ある職業であるものの、労働環境が厳しい(特に夜勤の回数及び業務量が多いと言われています)こと、給与水準が労働の質、量に見合わないことが必要人数を確保できない要因になっていると考えられます
私が以前従事していたエアライン・ビジネスについても、夜間作業が多く、これをこなす為に給与面、勤務回数・勤務時間の面において十分な手当てを行うことによって必要人員を確保していました。看護師の定員に関しても国が関与しつつ同様の手当てを行うことにより、充分な雇用数を確保することは可能と考えられます。

観光・旅行業に関しても、人とのコミュニケーションが必須であるビジネスと考えられます。政府の掛け声で始まったオリンピックが開催される2020年迄に「訪日客4000万人、消費額8兆円達成」は、これまでのところある程度順調に来ています。しかし、2017年訪日客は2869万人を達成したものの、消費額は4.4兆円にとどまっています。一時の中国人旅客の爆買いが影を潜めたことが背景にあると思われます。これから更に訪日客の消費額を増やすためには、「コト消費(体験や経験に係る消費;例:」を増やすことが課題とされています。そのためには、国や地方公共団体が行う規制緩和(例:民泊通訳、など)や公衆WIFIの整備、隠れた観光スポットの開発、日本文化体験サービスの提供、などの「観光インフラ」の整備が必要となります。また同時に、訪日客のこうした行動をサポートする人材が多く必要となることは言うまでもありません
これらの活動はオリンピック後も継続して行うことによって、更に多くの訪日客を呼び寄せ、更なる雇用を生み出すことができると考えられます。因みに観光先進国のフランスには年間7000万人の観光客が訪れるそうです

農業、林業、水産業の未来

第四次産業革命とは無縁と思われる「農業、林業、水産業」などの第一次産業は、人の命を支え、有事の際の最も重要なインフラであることは言うまでもありません。しかし、戦後の急速な経済発展の過程でないがしろにされ、時として政治の道具とされてきた結果、農業、林業、水産業それぞれの先進国(いずれも経済・文化の先進国)から相当程度遅れた状態にあります
一方、地球儀を眺めて貰えれば分かることですが、日本の地理的な条件(中緯度、南北に長い、モンスーン地帯、山岳地帯が多い、海に囲まれ島が多い)は農業、林業、水産業とって世界有数の適地であり、間違いなく生き残る産業分野です。努力と工夫次第で自給はもとより、国際競争力のある第一級の輸出産業に育てることも可能だと考えられます

現在、農業、林業、水産業共に就業者が減少すると共に高齢化し、存続の危機に陥っている地域(地方の過疎化)も少なくありません。一方、都市に流れ込んだ若者は現在でも低賃金に喘ぎ、第四次産業革命が本格化すれば職を失う可能性も否定できません
こうした状況を打開するためには、農業、林業、水産業を金の稼げる産業に転換すると同時に、労働環境を快適なものにして魅力ある職場に変えてゆくことが急務であると思います。以下にその方策について私なりに考えてみたいと思います

1.農業の分野

現在、農業分野の生産性は、農業先進国に比べると相当低いと言われてる一方、農業人口は戦前・戦中・戦後に比べれば相当減ってきています。因みに、農業就業人口とGDP(国内総生産)に対する農業の貢献度は下図の様になっています;

GDP当たり農業人口
農業人口比率・国際比較

つまり、日本の農業は就業人口の減少に合わせて、GDPに貢献しなくなっている実態を表しており、農業が結果としてないがしろにされてきた原因であり、結果であると考えられます。農業就業人口の比率は米国の水準に近いレベルまで来ているので、これからは農業の生産性を上げ、日本のGDPに対する農業の貢献度を上げていかなければならないと私は考えます

農業の中で最も大切なものは昔も今も穀物生産にあることは論を待ちません。ご記憶の方も多いと思いますが、温暖化対策の切り札としてトウモロコシから製造したアルコールがガソリンの代替として使われた時期がありました。主な製造国は米国でした。この結果、食料としてのトウモロコシの需給が逼迫し、トウモロコシを主食としている国々、とりわけ貧しいフィリピンにおける食糧危機に繋がりました。また、トウモロコシを飼料として家畜を生産している日本においても、食肉価格の高騰につながりました。これは、異常気象や、戦争などによって穀物生産の需給が逼迫すれば、穀物を自給できない国は命に係わる大変な事態が起こるという事を如実に表しています

現在の日本の穀物類の生産状況を食糧需給統計_農林水産省(確定値のある平成27年度分)でチェックしてみると;
* コメ:国内生産量/842万9千トン ⇔ 自給率/98%(主食用は100%)
小麦:国内生産量/100万4千トン ⇔ 自給率/15%
* ジャガイモ:国内生産量/240万6千トン ⇔ 自給率/71%
* でんぷん:国内生産量/247万3千トン ⇔ 自給率/9%(他の資料より)
大豆:国内生産量/24万3千トン ⇔ 自給率/7%
大雑把な捉え方として、穀物類の中で小麦と大豆の自給率に問題がありそうです。小麦の需要が多いのは、過去米食主体だった食生活が、戦後パン食を好む様になってきた結果(学校給食の影響か?)だと考えられます

戦後の高度経済成長のお陰で日本は豊かになり、穀物類の他に肉類、鶏卵、牛乳・乳製品の消費も急激に増加してきました。これらの生産状況を、同じ農水省のデータでチェックすると;
* 肉類:国内生産量/3262万8千トン ⇔ 自給率/53%
* 鶏卵:国内生産量/254万4千トン ⇔ 自給率/97%
* 牛乳・乳製品:国内生産量/740万7千トン ⇔ 自給率/62%
一見問題無さそうに見えますが、実はこれらの生産に共通する飼料(主に穀物由来)の自給率に大きな問題があります;
* 飼料:総需要量/2,356万9千トン ⇔ 自給率/28%
食肉生産大国(米国、オーストラリア、など)との貿易摩擦でいつも問題となる牛肉、豚肉の輸入量の問題は、既存の生産農家の保護のみが強調されますが、「食の自給」を問題にするのであれば、上記穀物類の生産と併せ、飼料作物、放牧地の確保など多面的な対策をたてる必要があると考えられます

参考:農林水産省から出されている、異常に低い食料自給率(39%)は、ご承知の方が多いと思いますが、これは「カロリーベース食料自給率」のことで、国内生産を行っている家畜類の飼料もカロリーをベースに輸入量に加えている為です。こういう数値は先進諸国では殆ど公表されていません。ただ、飼料の大半を輸入に頼っているという実態は問題であることは確かです

以下、「食料の自給」の問題として小麦、大豆、飼料作物の増産について浅はかな!私見を展開してみることにします
増産には耕作地の拡大土地生産性の向上コストの削減などが必要になります;
耕作地の拡大
農地に関する統計_農林水産省を見ると、平成27年度で耕作放棄の農地は28万4千ヘクタールに上っており、全耕地面積(444万ヘクタール)の6.4%になっています。まず、これ等の遊休地を耕作地に変えることが必須です(ちょっと乱暴ですが、仮にこの耕作放棄地で小麦を栽培すれば150万トンの収穫が得られ自給率が37%まで上がる計算になります)
また、耕作に適さない山裾の山林の一部を牧草地とし、家畜の放牧地に変えることも飼料穀物の輸入量の削減に寄与すると考えられます。副次的な効果として、スイスや阿蘇の放牧地の様な美しい景観も作れるのではないでしょうか

更に、以下に展開する野菜生産の効率化により、野菜耕作地の相応の部分を穀物類の生産に振り替えることも可能ではないかと考えています

土地生産性の向上
現在、日本の土地の生産性は諸外国と比べて決して高いとは言えません。因みに穀物単位当たり収量・国際比較をみると;
* コメ・1ヘクタール当たりの収量:日本/6.52トン ⇔ 中国/6.59トン
* 小麦・1ヘクタール当たりの収量:日本/3.25トン ⇔ EU/5.36トン
* 大豆・1ヘクタール当たりの収量:日本/1.57トン ⇔ 米国/2.96トン

コメはそこそこですが、小麦と大豆はかなり生産性が低い状態です。コメについては日本人の銘柄米志向から単位当たり収量を犠牲にしている結果だと理解できますが、小麦や大豆については、強い殺虫剤を使用できないとか、遺伝子操作をした種を使っていないとか、耕作単位が小さいとか、色々言い訳はあるかもしれませんが努力する余地は相当ありそうです

コストの削減
日本は小規模の農家が多く、機械化が進まないために農業大国の様なコスト面で効率的な農業ができていないことは否定できません。戦前は広い土地を所有する地主が、多くの小作人を使って経営しておりましたが、戦後すぐに「自作農創設特別措置法(昭和21年制定)」が施行され、多くの自作農が誕生しました。また、土地を持たない引揚者が荒蕪地を開拓して(各地に存在する″昭和村″などはその例)農民となりました。こうして生まれた自作農民の営農努力、耕地の拡大が戦後の食糧難を救ったことは間違いありません。また、互助組織としての農協の役割も大きかったと思います。しかし、こうした小規模農家と農協が、戦後70年以上経って農業の大規模化、効率化を阻んでいるのは皮肉なことです
現在こうした小規模農家の多くで高齢化が進み、後継者不足が叫ばれています。不謹慎な事を承知で敢えて言わせて貰えば、今が低コスト農業に移行する絶好のチャンスだと思われます。耕作放棄せざるを得ない農地を買い上げ(あるいは借り上げ)、営農意欲のある自作農、あるいは農業法人に売却し(貸し出し)、大規模化を図ることにより、耕作機械類の大型化、耕作機械類の稼働率の向上、肥料、種苗類の大量購入によ単価削減、を実現すると共に、農業労働者の雇用創出、高賃金化、労働環境の改善を図ることができると思います

野菜栽培について;
野菜の栽培に関して我々が学生時代に学んできたことは、人口が集中する「大都市周辺に立地する」ということでしたが、高速道路網、鉄道網が発達した現在の高度な Supply Chain を前提とすれば、この理屈は殆ど通用しなくなりました。米国産のブロッコリーが日本全国の大都市で安く売られていること、産地直送の野菜が宅急便で1日で手に入ることから分かる等に、大量冷蔵輸送が当たり前になった現在では、日本全国どこで生産しても大都市に新鮮な野菜を供給できる様になりました
温室を使わないで栽培する野菜類については、全国配送を前提とすることにより、大規模化、機械化が実現できコスト削減が可能となると思われます。また、南北に長い日本の特徴をうまく生かすことになり、季節ごとにその地方に適した野菜の生産にに特化することにより農薬使用量の削減、農業所得の均一化も期待できることになります(ジャガイモやタマネギの栽培、夏場の高原野菜の栽培などで既に行われています)。また、暖地における春小麦の栽培と野菜栽培の二毛作(土地生産性の向上)も期待できるのではないでしょうか
最近、キャベツ、白菜、大根、など重い野菜の収穫作業が高齢者には負担となり栽培面積が減少していると言われています。こうした問題も、大規模化による大型省力化機械の導入で解決可能と思われます

葉物野菜、トマト、キュウリ、ナスなどの野菜は、AIで栽培に最適な条件を整えた大規模な温室栽培により、病虫害のリスクを下げ、単位面積当たりの収量を飛躍的に増やすことが可能になっています。オランダのトマト栽培を例にとれば、普通の露地栽培に比べ6~8倍の単位面積当たり収量が実現しており、ヨーロッパにおけるトマトの輸出国になっているそうです。勿論、冬場のエネルギーコストを勘案した上で適地を選ぶ必要はあると思います

<Follow-up>
*2018年3月8日の日経新聞電子版に(三共木工・トマトハウスにIoT)という記事が出ていました

農地に関する統計_農林水産省をみても全耕地面積の半分弱が畑地として使われていますが、上記の様な野菜栽培の大規模化により相当程度の耕作地を穀物生産に振り向けることが可能ではないかと私は考えています

果樹栽培について;
果樹栽培に関しては、日本は既に先進国と言えるのではないでしょうか。品種改良の努力によって、殆ど全ての果樹について高付加価値の輸出品として脚光を浴びつつあります。アジア地区の経済発展に伴う富裕層の増加により更に輸出が伸びることが期待されております。ふた昔前のオレンジ自由化による騒ぎが懐かしく思い出されます!

酒類の生産について
最近、ワイン、日本酒、焼酎、等の純国産の酒類が注目されています。世界に誇る発酵食品を作り出してきた日本の技術が、酒造りに生かされているのではないでしょうか。今後、大きく期待できると思います

Follow_Up:2019年5月17日、改正農地バンク法が成立しました。詳しくは(改正農地バンク法が成立 農地集約手続きを簡素化)をご覧ください

2.林業の分野;

日本林業の歴史(ネット情報);
1955年頃、日本の木材の自給率は9割以上ありました。しかし、急速な経済発展に伴い木材の需給が逼迫した結果、木材輸入の自由化が段階的に行われ、1964年には全面自由化となりました。外材は国産材と比べて安かった為にその後輸入量が年々増大してゆき、1975年以降は円高により更に外材価格の比較優位が進みました。この結果、1980年頃をピークに国産材の価格は落ち続け、日本の林業経営は苦しくなっていきました。2008年には自給率が24%となっています。

一方、国内の大造林政策は1996年まで続けられ膨大な人工林が残りましたが、国産材の価格の低迷により、間伐や伐採・搬出等に掛かる費用が回収できず、林業はすっかり衰退してしまいました。また不在地主の増加により、間伐などの手入れが全く行われていない森林が増えていることも一つの要因です。手入れが行われなければ、木は育たず、国産材として活用することができません

林業の改革の方向性については「日本林業はよみがえる」;

日本林業は蘇る_梶山恵司
日本林業はよみがえる_梶山恵司

を一読されることをお薦めします。以下にこの本の要点を踏まえた上で私見を述べさせて頂きます;
林業が衰退した結果何が起こったか
江戸時代、林業は各藩の大切な資源として保護され、林業に携わる人が数十年から百年以上にわたる生産サイクル(植林した木は孫の世代が伐採する)を営々として守って安定した生産を行って来ました。また、植林・間伐・伐採などを担う人々の他、山間の木材集積地には製材産業、木工産業が育ち、多くの雇用を創出していました。こうした生産体制は明治以降終戦に至るまで守られてきましたが、外材の流入により崩壊してしまいました
この結果、植林・間伐・伐採を計画的に行って森林を健全に守ってきた人材が流出、高齢化するに任せる結果となり森林は全国的に荒廃して行きました。また、計画的な伐採を行わなくなった結果、製材産業は山間に立地する必要が無くなり外材が入る港湾近くに立地し、結果として山間部の木工産業も衰退していきました。こうしたことが、現在日本が直面する大きな課題の一つである、山間市町村の過疎化の一因になっていることは間違いありません

国内の大造林政策は何をもたらしたか
戦災で焼け野原になった都市を復興するために、長い生産サイクルを守らずに一時的に大量伐採を続けざるを得なかったことは止むを得なかったかも知れません。また結果として、植林した若木が育つまで一時的な外材の利用は止むを得なかったかも知れません
しかし、植林した木が育ったあと、広い面積を一斉に伐採し(「皆伐(かいばつ)」と呼ぶそうです)、また一斉に植林するという林業に移行したことは、日本林業の選択として誤っていたと思われます。「皆伐」は必要となる労働力の密度が高く、且つ時間的な継続性がありません。また「皆伐」する場所へのアクセスが悪い場合、人力による伐採と仮設ケーブルの設置など伐採に係るコストがかさみ、結果として外材とのコスト競争力を失うと共に、森林を永続可能な資源として維持するための人材も失うことになりました(農業の場合、自由化に当たって、農民を守る為の各種施策が行われましたが、林業の場合はそれが行われませんでした)。その結果が、森林の荒廃を招いたことはほぼ間違いありません。これが林業の衰退以外に「水害」、「大規模な土砂崩れ」、「水源地の危機」(参考:荒れる人工林・水源地がピンチ)、ひいては「花粉症患者の増加」や「野生動物(猪、鹿、猿)被害の増加」などを招いていると思われます

木曽の美林
木曽の美林

「木曽の美林」に代表される管理された日本の森林では、建築用木材となる杉、檜などの針葉樹林の間には広葉樹林帯を設け、これが野生動物の餌を提供すると同時にその保水力で水害、土砂崩れを防ぎ、木工品の材料を提供するなどの役割を担って来ました。単一樹木の大造林、皆伐という生産サイクルは、これら全てを奪ってしまったということでしょうか

日本林業のポテンシャル
日本は森林経営には理想的な地理的条件を備えています。中緯度にあり太陽エネルギーが豊富であると同時に、モンスーン地帯に位置するため雨量が豊富です。高緯度にあるカナダやロシアには豊富な森林はあるものの、気温が低く太陽エネルギーの恩恵が少ないので、一旦伐採すれば育成するのに時間と手間がかかります。一方低緯度にある熱帯雨林では、高温と大雨に伴う土壌栄養分の流出により一旦伐採すれば再生が極めて難しいと言われています(参考:熱帯雨林保護活動
日本は急峻な山岳地帯が多いので林業には不向きだという意見もあるかもしれませんが、山岳地帯であるが故に雨量が多いこと、寒暖差が激しいこと、などによる高い木材品質が確保できることなど、メリットも多くあります。またアクセスの悪さについては次項に示す通り、林道の整備、大型機械の導入を行うことにより克服可能です。例えばオーストリアは林業先進国で日本にも木材を輸出していますが、急峻な山岳地帯が多いという地形は日本と同じです。因みに主要林業国の木材資源の状況を見ると以下の様になります;

主要林業国の基本指標_日本林業は蘇る
主要林業国の基本指標_日本林業はよみがえる

上表によれば、日本の森林の蓄積量は44億立方メートルに達しているものの、生産量が極めて低い事が分かります。また、上表にある森林国の内フィンランドの2005年の輸出量は年間105億ユーロ(約1兆4000億円/1ユーロ135円)、オーストリアは年45億ユーロ(6000億円)です。また、ドイツは国内消費がメインですが、2005年に1,223億ユーロ(16兆5000億円)を売り上げ約100万人の雇用を生み出しているそうです

改革の方向性
如上の通り日本林業は、敗戦とともに一旦衰退したものの林業先進国というお手本があり、且つ江戸時代からの伝統技術を継承する人材もわずかながら残っていることから、規制当局による方向付けと林業関係者の熱意さえあれば、必ずや日本林業は蘇ると思われます。日本の周辺には中国(乾燥地帯が多い)という巨大な輸出可能性を秘めた国があり、下記の様な改革を着実に行うことにより林業が日本の基幹産業の一つになることは夢ではないと私は確信しています
林道の整備;
日本の林道は大型機械を導入する様にはなっていません。昔ながらの細い林道では、人間が一人で使うチェーンソーで伐採し、馬を使って運び出すことくらいしかできません。一方、高度経済成長時代につくられた「スーパー林道(大半が舗装され、山を崩して作られている)」は行楽客の通路になっているだけで環境破壊の原因にも挙げられています。林道の目的は森林の環境を悪化させず、伐採すべき森林のすべてにアクセスできる「林道網(ネットワーク)」でなければならず、しかも大型機械が通行できなければなりません;

理想的な林道_日本林業は蘇る
理想的な林道_日本林業はよみがる

上記の林道は幅3.5メートルで、道の真ん中を高くして排水を良くしてあり、アスファルト舗装をせずに砕石を敷き詰めています

大型機械の導入;
林業で一番コストがかかるのは間伐・伐採、輸送に係る費用です。上記林道網を利用して大型機械を運び込めば、ケーブル設置の様な仮設の設備は不要となり、省力化と作業時間の短縮による人件費の削減が一挙に可能となります。尚、大型の林業機械は森林の地面を荒らすことの無い様に特別に開発したもの(当面は林業先進国からの輸入か?;有限会社・フォレスト動画リスト)でなければなりません。土木工事用の大型機械の改修ではこの条件を満たさない可能性が高いので注意が必要です
数種類の大型機械とそのオペレーターがセットになって、林道網に沿って計画的に間伐、伐採を行い、伐採を行った場所に順次植林を行って行けば、年間の木材産出量も安定し、昔の様に木材生産地に製材産業を呼び戻すことが可能になります。更に植林に当たって、広葉樹林帯の整備も行えば、いずれ木工産業をの再生と野生動物の跋扈もなくなると思います。更に、地球温暖化の対策として推奨されている木材チップ(間伐材)や製材の廃棄物(おが屑、端切れ、など)を使ったバイオマス発電により、山間地区のエネルギー自給が可能になるかもしれません

③ 後継者の育成;
戦後からの失われた70年で、林業を支える人材は一から育てなければならない状況になっていると思われます。歴史を振り返ってみれば、明治維新後まず政府が取り掛かった教育改革は、近代的な農業を習得するために外国からの教師の招聘と、農学校の設立でした。現在の北海道大学の前身にあたる札幌農学校(クラーク博士で有名)然り、東大農学部の前身も明治3年に遡ります。現在、明治維新当時と同じ様に先進国が存在し、そこでは近代的な林業が行われています。こうした国から国策として教員を招く、あるいは優秀な学生を林業先進国に国策として派遣する、などを行って全国規模で林業振興の種を蒔くことが必要だと思います(参考:林業再生・人材養成待ったなし

 日本林業の未来;
林業についても最新の技術を使った先進的な試みが行われつつあります(例えば、ドローン活用による資源量調査IoTを活用してスマート林業を実験)。また、強度と耐火性の高い集成材(CLT)を使うことにより、従来鉄筋コンクリート製、あるいた鉄骨製が普通であった高層建築にも木材が使われるようになり、木材需要は今後増えると考えられます。更に、最近話題になっている木材資源を使ったセルロース・ナノファイバー(CNF)は、鉄の5分の1の重さで鉄の5倍の強度を持つと言われ、今あらゆる分野で使用が拡大している炭素繊維に匹敵する素材に成長する可能性を秘めています(しかもこの素材は完全にカーボンニュートラルです!)。木材の資源国である日本には明るい未来があると考えて良さそうです

遅ればせながら国も林業再生に本格的に取り組みを始めました。林業再生に必要な資金を確保するため、政府は2019年度から新税(森林保全へ新税)を設ける方針です。また、新しい森林行政を進める為に林地台帳の整備(地権者を見つけ出し、境界を確定する)を始めました。地権者の世代交代、住居の変更などで困難が予想されますが、林業改革の為にはできるだけ早期に全国レベルで実施完了する必要があると思います

<Follow-up>
*木材利用の促進を図るため、2010年に 公共建築物等における木材の利用促進に関する法律が制定されました;促進スキーム
*2018年3月6日の日経新聞電子版にバイオマス発電に積極投資を行うエフォンという記事が出ていました
*2018年8月11日の“ZUU Online”に(中国が日本の木材を「爆買い」)という記事が出ていました

3.水産業の分野;

日本は戦後、大型船を駆使して南氷洋における捕鯨、北洋におけるサケ・マス、カニ漁、太平洋・大西洋におけるマグロ・はえ縄漁を行い、沿岸漁業と併せ、世界一の漁獲量を誇っていました。私たちの世代は子供の頃、こうした豊富な水産資源のお陰で不足しがちのタンパク質を摂取し成長することができました。

その後、沿岸漁業に依存する諸国が先進遠洋漁業国の進出に対抗し,漁業資源の保存と独占のため,漁業に関する管轄権を自国領海の外側の公海部分にまで一方的に拡大するようになりました。1982年に採択された国連海洋法条約で排他的経済水域の制度が新設され、実質的に沿岸から200海里の範囲で「漁業専管水域」として管理できることになり日本の漁業は大きな変革を余儀なくされることになりました
しかし、考えてみれば日本は多くの島々で成り立っており、排他的経済水域の面積は世界第6位となる海洋大国です

領海・接続水域・排他的経済水域
領海・接続水域・排他的経済水域_wikipedelia

また日本列島の周辺は黒潮(+対馬海流)、親潮が囲むようにして流れ、この広い水域を生かした漁業を行えば水産品の輸出大国になることも不可能ではないと私は考えます。しかし、以下の様な課題を解決することが前提になると思われます;
 現在、沿岸漁業を中心に漁業者の高齢化が目立ち、後継者の育成が急務な状況ですが安定した漁獲が得られなければこの問題は解決しません。稚魚・稚貝の放流の他、流れ込む川の上流域での森林の整備(←落葉が分解して植物由来の栄養素が海に流れ込むことが必要)など豊かな漁場にしていく施策が必要と思われます。また、クール宅急便を使って各地方の雑魚のマーケットを開発すれば、沿岸漁業の経済価値を引き上げることも可能と思います

過去、北海道で沢山取れたニシンが全く取れなくなった時期がありました。また、日本海沿岸で沢山取れたハタハタが全く取れなくなった時期がありました。いずれも乱獲が主な原因でした。その後、厳格な漁獲規制を行った結果、資源が回復しつつあります。資源量の正確な把握と適切な漁獲規制(必要により完全な禁漁)を国の責任で行っていく必要があると思います

<Follow-Up>
2月16日のダイヤモンド・オンラインの記事(180216_日本だけが漁獲量減少、ノルウェー漁業を見習うべき理由)が刺激的です!

日本が大量に漁獲し、消費しているマグロは、その資源の維持について責任があると思います。マグロの漁獲量と消費量のサイトを見ると、日本は世界中のマグロの消費量の約2割を占めており、日本人が好むクロマグロについては全漁獲量の72%、ミナミマグロについては全漁獲量の98%を消費していることが分かります
地中海、大西洋のマグロについては、欧州各国が資源の管理をしていますが、昨年は資源量が回復し漁獲割り当てが増加しました(参考:大西洋のマグロ管理に学べ)。一方、太平洋のマグロについては資源が減少しつつあり日本のイニシアティブが求められるところです
先日、テレビで大西洋のマグロ資源に関わる番組を見る機会がありました。大西洋マグロの産卵場所は地中海沿岸にあります。産卵時期にこの海域で捕獲(巻き網漁)したマグロは船に水揚げせずに、そのまま時速2キロで生かしたまま移動し肥育用の生簀に移すことで、抱卵したマグロは移動の途中や生簀の中で産卵するそうです。産卵を終えたマグロは生簀で肥育させた上で出荷するとのことです
太平洋マグロも小型魚を取り過ぎない様に漁獲規制を行っていますが、あまりうまくいっていない様です。この1月には既に割り当ての9割に達し漁獲規制が始まりました。マグロはえ縄漁では小型魚(30キロ以下)も、産卵直前の親マグロも針にかかってしまえば水揚げしない訳にはいかず、こうした規制の効果には疑問が残ります。太平洋でも産卵する海域は特定されており

太平洋マグロ産卵場所_水産庁調査結果
太平洋マグロ産卵場所_水産庁調査結果

地中海でやっている様に産卵するまで水揚げをしないような方法を取れないものかと考えてしまいます

<Follow-up>
*2018年10月7日の日経新聞電子版に以下の様な分かり易い統計図表が出ていましたのでご紹介します;

マグロ資源統計
マグロ資源統計

日本では大分昔から養殖漁業が盛んになっています。今や高級魚を中心に沢山市場に出回っています。マグロについても近畿大学が完全養殖(生簀で生ませた卵から成魚を育てること)に成功し、既に「近畿マグロ」というブランドで市場に出ています。また、今年シラスの大不漁が伝えられているウナギの完全養殖についても、もうすぐそこまで来ているといわれています
養殖についての残された課題は餌にあります。餌を魚粉に頼っている間はイワシなど、そのままで食用になる魚を大量に消費することになるので、コストの面と資源量の面で必ずしも養殖がいいとは言えません。植物由来の餌も一部魚種について使われていますが、味や香りに影響を与えてしまうと言われています。味、香りに影響を与えない植物由来の飼料とか、タンパプ源として昆虫を使うとか、今後の開発が待たれます。また、養殖魚の生育環境の管理などではAIの活用も考えられます

<Follow-Up>
2018年12月8日に漁業法改正案が可決・成立しました。この改正法は70年ぶりの大改正で、漁業の成長産業化による漁業者の所得向上と、若者の就業を後押しする狙いもあります。詳しくはを漁業法等の一部を改正する等の法律案の概要ご覧ください

あとがき

第四次産業革命の黎明期に当たって、「人の働き方」がこれからどう変わるかについて思いつくままに書いてきましたが、その結果として「人の生き方」も変わるはずですが、この点についてはあまり書くことができませんでした。特に激増する高齢者が、今後どう価値ある生き方ができるかについては殆ど触れることができませんでした。今後更に時間をかけて勉強していきたいと思います

<Follow-Up>
2018年3月4日の日経新聞電子版に、以下の様な記事(なるか一次産業リバイバル)が出ていました。また、ウナギ資源問題でも(歴史的不漁のシラスウナギ_甘い資源管理の限界)という記事が掲載されています

以上

敬老の日?

老人は敬う存在?

今年の敬老の日は9月18日。当初は9月15日に固定されていたのですが、行楽の秋に連休を作って観光需要を増やすために祝日法が改正されて2003年からは9月の第三月曜日と定められました。敬老の日のきっかけとなったのは、兵庫県多可郡野間谷村の村主催の「敬老会」だそうですが、この時の趣旨は「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」ことだったそうです。
私は一昨年70歳となり、自他共に認める「老人」の仲間入りを果たしています。当初は、それほど意識はしていなかったのですが、最近は老人の視点で自身のこれからの生き方について色々と考える機会が増えてきました。

最近読んだ本で、五木寛之が書いた「孤独のすすめ」という小冊子があります。これは、その前に出版している「下山の思想」、「玄冬の門玄冬の門を読んで)」に続くもので、傘寿を越えている筆者が、自身の経験や、宗教、古今の哲学に照らして老人のあらまほしき生き方を提案しており、私自身にとって大変参考になっています
この本で、次世代を担う若い労働者と、年金を食み豊かな資産を持った老人との関係は「階級闘争」の体を為しているとの面白い見方が述べられています

先日、やや混んでいる通勤時間帯の電車の中で、ドアが開いた途端、たった一つ空いた「優先席」に老人を押しのけて座った若者が居ました。件の老人は、若い女性に席を譲られて座ることはできたものの、対面に座るその若者を怒りに満ちた眼で暫し睨み続けていました
若者の言い分を忖度してみれば、肉体労働で疲れ切った体を休めるために席に座ることは、わざわざ!通勤時間帯に乗り込んでくる五体満足で暇な老人に席を譲ることに優先するということでしょうか。若い労働者にとってみれば、少ない賃金から年金やら、健康保険の名目で、彼らにとって少なくない金額を天引きされることは「搾取」と感じてしまうのも分からないわけではありません。また、このまま少子高齢化が進めば、自分たちの世代は年金を受け取れない可能性があると聞けば、元気な!老人を敬えというのが無理なのかもしれません

9月13日に厚生労働省から発表された医療費統計(平成27年度・国民医療費の概況_全体版)によれば、国民一人当たりの年間平均医療費は33万3千円になりますが、これを年齢層別に分けてみると、65歳未満の年間平均医療費が18万5千円に対して、70歳以上は84万円、75歳以上になると何と92万9千円!に達しています
また先日、日経朝刊の一面に、膨張する介護保険の記事が出ていました(介護保険は医療保険とは別建て)。現在介護保険の給付額は約9兆円、2025年にはこれが25兆円に膨らむと予想されています。介護保険は40歳以上の勤労者と、国及び地方自治体(いずれも税金が原資)が折半で賄うことになっていますが、教育費のかかる子供を抱えた勤労者の負担も重く、日本経済を支える40歳以上の勤労者の怨嗟の的になるのも時間の問題と思われます

こうした状況を考えると、我々「老人階級」も、戦後の驚異的な経済成長を支えてきたのだから、少しは楽をさせてくれよ、、などと呑気なことは言ってられないような気がします。長寿時代に生きる人間の生き方については、”「100年時代の人生戦略」を読んで“で紹介しておりますが、ここではこれからの老人階級の生き方について、もう少し具体的に自論を展開してみようと思います

元気な老人になる為に

今後、急激に増加していくことが確実な老人階級が、若い世代にとって迷惑な存在にならない為には、 長患いをしないこと 肉体的な健康を維持すること精神的な健康を維持すること、の三つに集約できると思います

① 長患いをしないこと;
簡単に言えば、古来理想的な死に方として言われている「ピンピン・コロリ」を目指すという事になるのではないでしょうか。脳死後の延命措置や、回復の見込みのない老人に「胃ろう(胃に直接流動食を注入できるようにすること)」の施術を行うこと、などは長患いの原因になります。これを避けるには、自身で判断が出来なくなる前に、予め近親者に意思表示しておくことが必要になります。最近106歳で亡くなった聖路加病院名誉院長の日野原重明さんは、ご自身で延命措置を拒否されて大往生を遂げましたが、私たち夫婦もこれに倣った生き方を目指したいと時折話し合っています
長患いをしないためには、肉体的な健康を維持すること、精神的な健康を維持することが必須条件になることは言うまでもありません

② 肉体的な健康を維持すること;
最近のテレビを見ていると、健康食品、サプリメント、健康増進器具、その他老人の健康維持、向上を謳ったコマーシャルが異常に多いことに気がつきます。コミュニケーションの手段がSNS中心となってしまった若者世代や、スマホを操り、ドラマはネットテレビに限るなどと嘯く先進的な!中年層が、ニュースを除くテレビ番組から離れてしまった事など、マスコミ業界の構造変化が、こうした老人向けTVコマーシャルの氾濫に繋がっているものと考えられます。ただ、薬や器具に頼るよりも、年齢に応じた運動を行うことの方が、楽しく、且つ健康的であることは医者に説教されるまでもなく、誰しもが納得できることではないでしょうか
年を取るにつれ、体力の衰え、運動神経の衰えに見合った軽度な運動に移行してゆくことは自然の摂理に適うことと思われます。軽度な運動の代表格は何と言っても「歩くこと」であることは誰しも依存の無い所だと思います。太古の昔から、歩けることは生きていることと同義語であったと思います。激しいスポーツが出来なくなっても、積極的に歩くことを心掛けることによって介護に頼らずに生きていく為の筋力が維持でき、少なくとも若者の負担にならない生活が可能になると考えても良さそうです

③ 精神的な健康を維持すること;
ここでは、統合失調症の様な精神病やアルツハイマー症に代表される認知症は、医学の発展に期待することとして除外して考えたいと思います。ただ、老人性のうつ病については、生き甲斐との関連が深い事から考察の対象したいと思います
精神的な健康をどう定義するかは中々難しい問題ですが、少なくとも「燃え尽き症候群に陥っている」、「何をやる気にもならない」、「死ぬことが不安で他の事が考えられない」、「政治、経済、その他、世の中で起こっている事に全く興味が湧かない」、、、などの精神状態にある時は精神的に健康であるとは言えないと思いますが、如何でしょうか?
こうした状況は、外界からの刺激を自らが遮断する結果となり、更に悪い精神状況に追い込まれるという負のスパイラルに迷い込んでいくことになりそうです。明治維新を担った志士は、関門海峡を我が物顔で行きかう外国船から強い刺激を受け、これを革命のエネルギーに変えていったと言われています。老人も外部の刺激に自分を晒すことによって生きるエネルギーを生み出すことが必要と思われますが如何でしょうか? 例えば、私など俗物は時折若者文化の坩堝となっている繁華街に出て行くことでエネルギーを貰っています。海外旅行の好きな方は、成熟した文明国を訪ねるよりも、発展途上国のエネルギーに触れることも一考に値すると思われます
私は繁華街以外に、時としてビジネスの中心街に出向くことがあります。高いハイヒールを履いて颯爽と歩く若いビジネス・ウーマンに追い越されそうになって、慌てて歩を早める自分に気が付きます! 普段老人とばかり歩いていると気が付かないポイントですね!

また、話すこと聞くこと読むことも精神的な健康を保つ上で極めて重要になります。会社勤め時代に比べると、会話をする機会が激減していることに気が付くはずです。夫婦や気の置けない友人との会話は、意識してでも増やすことが必要ではないでしょうか。あれ、これ、それ、、など代名詞が沢山混じる会話でも脳機能を活性化させることは勿論、老人性の嚥下障害(老人死亡率の高い肺炎の第一の原因です)を予防する効果も期待できます。話し相手が居ない時は、最近はやり?の「ひとりカラオケ」に興ずるのも効果があると聞いています
読むことは脳機能の内、主に前頭葉(ドーパミンの殆どがここに存在し、知的な活動を行うために最も重要な部分)を使うことになり、脳の老化を防ぐ為には最も大切な行動と言えます。毎朝新聞を読む、好きなジャンルの本を探して読む、大きな書店に行ってあれこれ立ち読みをする、書評を見てネット通販で取り寄せて読む、いずれも習慣化することで相当の効果が期待できると思います。ただ、年々老眼が進み長時間読み続けることは難しくなりますが、、、
私の友人には、緑内障や加齢黄斑変性症で視力が弱っている人もいます。彼らはパソコンを使って字を大きくして読んだり、読み上げソフトを使って聞き取ったりしています。知的な好奇心がハンディを乗り越えるということでしょうか。また、彼等はラジオの効用も語っています。朗読だけでなく、対談なども大変知的な好奇心を刺激するものがあり、塙保己一の例を引くまでもなく聞くことができれば読むことと同じ程度の前頭葉の刺激が得られることは確かです

老人が抱えるハンディキャップとその克服

上記「元気な老人になる為」の行動を実践する時、老人が抱えているハンディキャップを正確に認識し、自らその対策を講ずることを忘れれば、やはり社会の迷惑者になることは必定です

まず言えることは、走れない早く歩けない、というハンディキャップです。横断歩道の通行を始めとして、若い頃には間に合っていた距離が間に合わなくなることは往々にしてあります。対策は「急がば回れ」の諺を実践すればいいだけ、実に簡単なことです。時間はたっぷりある筈なのにこれを実践できない老人が相当数いることは間違いありません。 信号を渡り切れないことが分かっていても渡ろうとする老人がなんと多い事か、、、信号の間隔は青になってから歩き始めれば、よっぽどでない限り間に合うように時間設定されています

一次記憶保持能力(脳の中の「海馬」部分が担っています)が低下していることは誰しも認識していると思います。昔は10桁の電話番号は一度見ればダイヤルできたのに、今は一度6桁位をプッシュして、もう一度番号を確かめて残りをプッシュする人が多いのではないでしょうか。IDやパスワードについても同様ですね
また、反射神経の衰えも程度の差こそあれ、老人は避けて通れません。躓いても咄嗟に足が前へ出ないでコケそうになる、歩いていて人にぶつかりそうになるなど、日々痛感しているのではないでしょうか
自動車を運転する場合、この二つの能力低下は深刻な事態を招く可能性があります。例えば、交通量の多い道路を右折する場合、左側通行であることから多くの人は右を見てから左をみて安全を確認すると思います。右を見た時に走ってくる車の現在位置と速度を確認し、左を同じように確認した上で右折の行動に入ります。しかし、悲しいかな!最初に右を見た時の位置と速度の記憶が曖昧となっている為、結果として危険な右折を行ってしまうことがあります。広い道を走っている時に、右折を開始した後、迫って来る右の車に驚くもののブレーキが掛けられずそのまま右折を強行してしまう車は、殆どが老人の運転です。老人なんですから、時間はたっぷりあります!少し遠回りとなっても、左折を2回繰り返して信号のある交差点を右折するなど、ちょっと考えれば、老人の見っとも無い姿を見せないですむ知恵はいくらでもありそうです

バランス感覚の低下もバカになりません。スキーをやるとこのバランス感覚の低下は、即!転倒に繋がるので嫌でも思い知らされますが、この種のバランス感覚を要求されるスポーツをしていない人は、気付かないままに深刻な事態を招くことがあります。例えば、老人が自転車で交通量の多い車道を走る場合、交通ルールに従って当然左側を走るわけですが、多くの道は左側が傾斜しておりバランスを取るのが難しい状況になります。結果として蛇行しながらトロトロと走り、しかも後ろは見えていないので、追い越す車と接触するリスクが高まります。やはり、自転車が通行できる広い歩道か、自転車専用レーンのある道路以外、老人は自転車に乗らない方が賢明のようです

あれ、これ、それ、、の会話になる最大の原因は、名前を思い出せない(「度忘れ」と言い訳をする場合が多いですね!)事につきると思います。老人同士の会話であればお互い様なので、特に問題は発生しませんが、若者との会話においては決定的なコンプレックスの元になる可能性があります
しかしこの現象は、時間が経てば思い出せたり、ひょんなことから思い出すこと、などを勘案すると、脳細胞の何処かにはしっかりと記憶されていることは確か(細胞が壊れて記憶が喪失してしまう認知症とは決定的に違う点です!)であって、記憶を取り出す糸が一時的に切れているだけの現象だと思います。このハンディキャップを克服する為に私は以下の二つの方法を実践しています;① よく使うと考えられる名前は、人知れず!反復練習を行って確実に記憶の糸を繋げておく、② 思い出せなかった時点で、スマホの検索を駆使して名前を無理やり!あぶり出す。最近のグーグル検索の能力は絶大で、その名前に係る周辺情報を入力すれば、たちどころに答えが得られます(ただ、友人の名前を見つけ出す、などの私的なことはこの方法では無理のようです!)。 検索の為に周辺情報を考える過程で、前述の前頭葉が大活躍するので、ボケ防止にも大変有効なことは言うまでもありません

老人の車の運転について

表題に関し、現在世の中でコンセンサスを得つつある考え方は、「老人の運転は危険なので運転するな!」というものです。これに合わせて運転免許制度が変更され、70歳以上の人の運転免許更新に際し、運転能力の判定というハードルが設けられました。また、75歳以上からは認知機能検査が加わることになりました。更に、高齢者の運転免許証返納を大々的に奨励するようにもなってきました

私も昨年3月この更新試験を受けましたが、正直に言ってガッカリしました。ドライブ・シミュレータのテストがあると書いてあったので、自身の運転適性が図れるチャンスと期待していたのですが、このシミュレーターなるもの、道路を一直線に走る画面が出てきて不意に赤、黄、青の信号が現れ、これに対するブレーキ操作の反応だけを測定するものでした
法定速度を守っていれば、黄色に変わった時点でブレーキをかければ、異常に反応速度が遅い人でない限り、赤に変わる前に車を停止させることが出来る様に設定されているはずです。私自身の経験でも、よそ見運転で黄色信号を見逃していない限り、ブレーキ操作の反応速度が問題になることはあり得無い様に思います。それより重要なのことは、運転中に発生する色々な状況に対する「リスク予知能力」のはずです。停車中の車の陰に横断しようとする歩行者がいるかもしれない、前を走っているバイクは急に右折するかもしれない、交差している道で右折しようとしている車の運転手が見ている方向(自分の方を見ていなければ急に右折行動に出るかもしれない)、等々、長い運転経験の蓄積が安全運転の「肝」であって、反応速度が安全運転の主たる指標になることはあり得ないと思っています。反応速度の遅れは運転速度を落とすことによって十分補えるものと、私は50年以上の運転経験から断言することができます。

そもそも、老人が精神的な健康を保つためには、他人の介助を得ずに移動の自由(モビリティー/Mobilityを確保することが大変重要な事と私は思っています。自動車の発明が人類の歴史を変えたと言われる所以もそこにあります
また、長寿時代に生きる人間の生き方(「100年時代の人生戦略」を読んで)として、歳をとっても働き続けることが当たり前になっていく時代に、単に年齢のみの基準で自動車の運転の自由を奪っていく風潮は正しいのでしょうか?

凡そ50年ほど前、2週間ほど米国を旅する機会がありました。生意気にも大学一年の頃から自動車の運転をしていたことがあり、米国滞在中はレンタカーを借りて移動していました。この時受けたカルチャー・ショックは今でも鮮明に覚えています。それは、① クラクションの音を殆ど聞かなかったこと(当時の日本では、都心はクラクションの音に満ち溢れていました)、② 道幅は広い(メインの道路は大体3車線以上)のですが、皆きちんとレーンを守って走行していること(空いているレーンがあってもレーン変更はほとんどしない)、③ 少なくともレンタカーは全てパワーステアリング、パワーブレーキを装備したオートマティック車であったこと、④  道路標識が極めて分かり易かった事
数日間運転するうちにその理由が分かりました。老人が運転することを前提に、車の装備、交通ルール、他が整えられていたのです。米国は広大であり、車以外の移動手段は、繁華街を除けば考えられないこと、子供は若いうちに独立し、歳をとっても自立して生きていくほか道はないこと、などがその背景にあると思います

考えてみれば、高齢化社会が急速に進展していく日本で、高齢者から車という移動手段を奪ってしまえばどういうことになるか、自宅周辺であてどなく散歩をする老人の群れ、ベンチに座って遠くを見つめている沢山の老人、ちょっと見たくない光景が想像されます。因みに、私の住んでいる郊外では、近くの商店街はシャッター通りになり、買い物は車が必要になる大型スーパーに行かなければなりません。大都市に人口が集中してしまった日本では、日本全国概ねこうした状況(米国と同じ)になっているのではないでしょうか?

老人から車を奪わないために

老人が、肉体の衰えというハンディがあっても安全に運転できる仕組みを考えてみました;

技術の進歩を積極的に取り入れる;
最近の新聞に大きく取り扱われていることでご存知の方が多いと思いますが、現在、自動車産業全体にパラダイムシフト(Paradigm Shift/劇的な構造変化)が起こりつつあります。それを促しているのは、環境問題に起因するEV(Electric Vehicle/電動自動車)の急速な普及と、自動運転車の実用化が目前に迫ってきたことです
この内、老人の自動車運転と密接にかかわるものは、自動運転車の登場です。自動運転車は以下のレベルに合わせて開発が進められています(以下は2017年1月現在の「官民ITS構想ロードマップ」で示されている定義に従っています);

レベル1:加速・操舵・制動のいずれかの操作をシステムが行う状態
レベル2:加速・操舵・制動のうち複数の操作を一度にシステムが行う状態
レベル3:加速・操舵・制動は全てシステムが行いシステムが要請したときのみドライバーが対応する状態
レベル4:加速・制動・操舵を全てシステムが行い、ドライバーが全く関与しない状態

現在、中級車種以上の新車についてはレベル1に相当する自動ブレーキなどが装備されているのが普通になってきており、高級車についてはレベル2が装備されている場合もあります。昨年、電気自動車で有名な米国のテスラ社製の車が死亡事故を起こして話題になりましたが、この自動車にはレベル3の運転システムが装備されており、事故前にシステムがドライバーに運転を替わる様に指示していたにも関わらず自動運転させたために事故が起こったと言われています

高齢者の事故で何かと話題になることの多い、アクセルとブレーキの踏み違いによる事故は、レベル1が装備されている車であれば起こりえない事故だと考えられます。また、高齢者による高速道路逆行などは、カーナビによる運転を行えば起こり得ないことと考えられます(自動運転を行うために、カーナビの地図情報の精度向上が世界的に進められています)。ただカーナビのセットを音声で行うことが出来る様な配慮は必要かと思われます(すでにレクサスなどはこの装備がセールスポイントの一つになっています)。勿論、交通量の多い道路を右折する様な危険な行為は現在のカーナビでも避けてくれるはずです。レベル4が実現すれば、運転中の急死による事故も防げるはずです

法規制を高齢者の運転を前提としたものに改める;
私が運転免許を取る直前まで、普通免許で大型バイクまで運転ができました。また、普通免許を取得するには操作の習得が難しいクラッチが悩みの種(特に坂道発進)でしたが、オートマチック車限定免許という逃げ道がありました。当時はオートマチック車は希少でしたが、現在は逆にマニュアル車は特注でもしない限り買うことすらできない状況になっています
つまり、運転免許制度そのものが時代に合わせて変わってきているのです。であれば、高齢者が運転することを前提として、以下の様な規制の改正を行うことは可能ではないでしょうか;
① 自動運転車を前提として、以下の様な限定免許を創設する
* 咄嗟のブレーキ操作に問題のある人(高齢者に限らず、追突事故を起こした人も含む):自動運転レベル1の自動ブレーキ装備車限定の免許とする
* 居眠り運転の事故歴のあるひと:レベル3以上の自動運転車限定

Follow_Up:2019年5月17日、自動運転に関する法改正が成立しました。詳しくは(「レベル3、4」想定の改正法成立_高速道自動運転来年実現へ前進・過疎地の移動手段補う)をご覧ください

Follow_Up:2019年6月18日、政府・高齢事故防止策として自動ブレーキ車限定免許を検討へ

以上

母方親族の戦争体験

-はじめに-

先日、昨年末に亡くなった従兄の偲ぶ会に行って参りました。諏訪湖を臨む高台にある古刹「地蔵寺」で行われましたが、この寺の墓地には母方親族の墓が多くあり、幼い頃から法事などで度々訪れる機会がありました

故人の墓石
故人の墓石

まず、墓前で献花し祈りを捧げた後、墓石に刻まれた墓碑銘を読んでいくと、終戦前後の故人の悲惨な体験、無念の思いが直に伝わってきました

私共の家族を含め、母方の親戚の多くは満州で終戦を迎えました。終戦の直前(8月9日未明)、日ソ不可侵条約を一方的に破棄(注)してソ連が満州に雪崩れ込んできてから、それまでの生活が一変し、引揚までの一年間、地獄のような生活が続きました。劣悪な生活環境の中で病気や栄養失調で老人や乳幼児など弱い者から次々と命を落としてゆきました
(注)1945年2月に行われた米・英・ソ3国による秘密会談(ヤルタ会談)で、ドイツ降伏(同年5月8日)後90日以内のソ連の対日参戦が決められていました。一方、大本営は同年5月、ソ連の侵攻を予測して満州の4分の3を放棄し、南満州で持久戦に持ち込む計画を決定しました。この作戦計画に基づき、全満州で所謂”根こそぎ動員“を行うと共に、主力部隊を南に後退させることになりました。この結果、この作戦について何も知らされず取り残された放棄地域の開拓農民や一般住民は、男手の無い中でソ連軍の無慈悲な攻撃に晒される結果となりました

関東軍の対ソ作戦地域とソ連軍の侵攻ルート
関東軍の対ソ作戦地域とソ連軍の侵攻ルート

-母方親戚の戦争体験-

母方祖父母の子供達の中で、長男家族_A、三男家族_B、四男家族_C、五男家族_D、次女(私の母)家族_E が終戦時に満州に住んでおり、それぞれ悲惨な体験をしました。以下の二冊の本は、諏訪地域の人々の戦争体験を後世に伝えるべく多くの手記や和歌を集め、(株)長野日報社から出版されたものです;

戦争はいやだ平和を守ろう会
戦争はいやだ平和を守ろう会

この中から、私の親戚が寄稿した手記、和歌を以下にご紹介したいと思います;

家族_Aの長男の手記 ⇒ 竹田純人
家族_Aの長女の手記 ⇒ 塚原節
家族_Aの長女の和歌
灯火管制下に征きたる君の離(さか)りゆく長靴の音を今もなほきく

家族_Bの長男の手記 ⇒ 竹田静夫 --- 昨年末に亡くなった従兄です
家族_Bの長男の和歌
緑なす博多に引き揚げし母子吾ら征きたる親父(ちち)よ生きて帰って
尚、この他に上記の本には掲載されませんでしたが、「偲ぶ会」では以下の秀作も紹介されました;
負け戦知りつつ親父赤紙で母を頼むと十二のわれに
弟の骨箱開けてばらまいて金品探るロシア兵
引揚げて松のみどりのまぶしさよ親父信二よふるさとの土
谺(こだま)する諏訪湖の花火孫といて凍土に眠る父に献杯
家族_Bの長女の手記 ⇒ 小口陽子
家族_Bの長女の和歌
四十二歳父赤紙で北満へ征きて帰らず「英霊」一枚

家族_Cの長男の和歌;
吾を背のリュックに入れて引き上げし亡父(ちち)の苦節を今にし思ふ

家族_Dの長女の和歌;
シベリアから父帰りきて川の字に寝たるうれしさ六歳の夏

家族_Eの長男の手記荒井威雄
家族_Eの次男(つまり「」)は終戦の年に生まれ、母に背負われて引揚げましたので、全く記憶がありませんが、父母から聞いた終戦前後の状況は、私のブログにある記事:生立ちの記 をご覧ください

-海外居留民引き揚げの全体像-

1945年8月14日ポツダム宣言受諾を連合国に通告し、翌15日に終戦の詔勅が発布されソ連を除く連合国との戦争はほぼ停止状態になりましたが、ソ連軍との戦闘は続き、完全な停戦が実現するのは、満州、南樺太、南千島のソ連の占領が終る9月5日になりました。その後、在外軍人・軍属、一般人は、自身の判断で行動することは許されず、以下の法令に基づいて取り扱われることとなりました;
ポツダム宣言第9項
日本国の軍隊は、完全に武装解除されたのち、各自の家庭に復帰し、平和的で生産的な生活を営む機会を与えられる
日本政府の対応
外務省は現地の状況を認識できぬまま、ポツダム宣言の受諾を決定した8月14日に、大東亜大臣・東郷茂徳は、以下の訓令を出しました;
三加国宣言(ポツダム宣言のこと:米国、英国、中華民国)受諾に関する在外現地機関に対する訓令」:「居留民は出来得る限り定着の方針を執る
支那派遣軍の対応
支那派遣軍総司令部の「和平直後の対支処理要領」のなかで「支那居留民は、支那側の諒解支援の下に努めて支那大陸に於いて活動するを原則とし、、、その技術を発揮して支那経済に貢献せしむ」としています
GHQの対応
連合軍総司令官マッカーサーによる「日本政府宛一般命令第一号」によって、それぞれの軍管区の司令官のもとに降伏することとなった。その結果、全ての日本人は軍管区ごとの連合軍の支配下に入り、日本人の取り扱いに関しては、各軍管区の軍隊ごとに大きな違いが発生しました。また、連合軍の指示により、陸海軍部隊の移動を優先し、一般人の移動は後回しになりました
8月15日の時点で海外の居留民は、軍人・軍属が353万人(陸軍:308万人、海軍:45万人)、一般人は300万人で、合計653万人もの膨大な人数に上ります。軍管区毎の内訳は下の通りです;
中国軍管区
対象区域:旧満州地区を除く中国全土、台湾、北緯16度以北の仏領インドシナ(北ベトナム)
在留全日本人:約312万人(在外日本人の47%)
ソ連軍管区
対象区域旧満州地区、北緯38度以北の朝鮮(北朝鮮)、南樺太、千島列島
在留全日本人:約161万人(在外日本人の24%)
イギリス・オランダ軍管区
対象区域:アンダマン諸島、ニコバル諸島、ビルマ、タイ、北緯16度以南の仏領インドシナ(南ベトナム)、マライ、スマトラ、ジャワ、小スンダ諸島、ブル島、セラム島、アンボン島、カイ諸島、アル諸島、タニンバル及びアラフラ海諸島、セレベス諸島、ハルマヘラ諸島、蘭領ニューギニア
在留全日本人:約74万人(在外日本人の11%)

オーストラリア軍管区
対象区域:ボルネオ、英領ニューギニア、ビスマルク諸島、ソロモン諸島
在留全日本人:約14万人(在外日本人の2%)

米軍管区
対象区域:日本の委任統治諸島、小笠原諸島、その他の太平洋諸島、日本に隣接する諸小島、北緯38度以南の朝鮮(南朝鮮)、琉球諸島、フィリピン諸島
在留全日本人:約99万人(在外日本人の15%)

イギリス・オランダ軍管区オーストラリア軍管区および沖縄を除く米軍管区からの引揚は、B、C 級戦犯(下記注参照)の容疑者を除き、引揚船の手配が付き次第概ね順調に引揚が行われました
また、中国軍管区も、B、C 級戦犯の容疑者を除き、引揚船の手配が付き次第概ね順調に引揚が行われました

引揚者は、以下の18の港湾から日本に上陸しました;
浦賀、舞鶴、呉、下関、博多、佐世保、鹿児島、函館、大竹(広島県)、宇品(広島県)、田辺(和歌山県)、唐津、別府、名古屋、横浜、仙崎(山口県)、門司、戸畑

(注)B、C 級戦犯とは;
B級戦犯:「通常の戦争犯罪」、C級戦犯:「人道に対する罪」で、世界49ヶ所の軍事法廷で裁かれました。被告となった約5千7百人の内、約千人が死刑判決を受けたと言われています。これに対して、A級戦犯は、政治家、高級軍人を対象として「平和に対する罪」で裁かれました(東京裁判/極東国際軍事裁判)

中国、南樺太、南千島からの引揚げに関わる特記事項
1.中国山西省に駐屯していた北支派遣軍5万9千人のうち約2千600人は、武装解除を受けることなく残留し、中国国民党系の軍閥(閻錫山将軍)に合流し、終戦後約3年半にわたって第二次国共内戦を戦い、約550人が戦死、700人以上が捕虜となりました(日本軍山西省残留問題
2.ソ連軍管区では、日本人の引揚に全く無関心であり以下の様な悲劇が生まれました;
ソ連軍による抑留:ソ連軍が進駐した満州、南樺太、南千島では、ポツダム宣言第9項に違反し、軍人の大半(約65万人:諸説があります)を捕虜としシベリア各地に抑留し、強制労働が課されました。極寒の地で十分な食料も与えられず、約10%の人が命を落とした言われています
ソ連抑留
ソ連抑留(ラーゲリ:収容所)
② 満州からの引揚げ:満州に取り残された日本人は約105万人。ソ連軍の撤退が本格化する1946年3月まで引揚げは全く行われませんでした。ソ連軍撤退後に進駐した中華民国軍が米軍の輸送用船舶を使って引揚を実施しました。1946年内には中共軍支配地域を含めて大半の日本人が引揚げていきました
しかし、若い女性など一部の人は中共軍に拉致され、第二次国共内戦に参加しました。 満州在住の日本人の犠牲者は、日ソ戦(9月初旬まで続いた)での死亡者を含め、約24万5千人に上り、このうち8万人近くを満蒙開拓団員が占めています。満蒙開拓団の悲劇については、私のブログにある記事:「麻山事件」を読んで をご覧ください
南樺太、北朝鮮、および大連のソ連軍占領地区からの引揚げ:南樺太に取り残された日本人は約40万人。1947年2月、ソ連は南樺太をソ連領に編入(根拠:ポツダム宣言第8項:「カイロ宣言の条項は履行され、また、日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国、並びに我々の決定する諸小島に限られる」)し、ソ連の施政下でロシア人と同じ労働条件で生活することとなりましたが、正式な引揚が開始される前までに約2万4千人が密航により北海道に逃れたと言われています
1946年春以降、米ソ間で南樺太、北朝鮮、大連のソ連軍占領地区からの引揚が協議され、同年11月27日に「引揚に関する米ソ暫定協定」、同年12月19日に「在ソ日本人捕虜の引揚に関する米ソ協定」が締結され、引揚が開始されました。1949年年7月の第5次引揚まで29万2千590人が引揚げました。しかし、朝鮮人家族のいた人や、ソ連に足止めされた熟練労働者らは少なくとも1500人が南樺太にとどまりました
-祈りにかえて-
私の家族、親戚にとって満州での悲惨な体験は、その後の人生に大きな影を落としています。侵略した国に残された国民は、何故日本という国が行った侵略行為の犠牲とならねばならないのか、、、、
満州における一般人の犠牲者数は、東京大空襲、広島・長崎の原爆、沖縄戦の犠牲者を凌ぐ規模です。しかも、敵意に囲まれ、死と向かい合っていた長い時間は、どれほど引揚者の心を蝕んだか想像に難くありません
戦後、徹底的な「民主教育」を受けた我々の世代は、大日本帝国によるアジア・太平洋地域における侵略を負の遺産として引き継ぐことを徹底的に叩き込まれており、悲惨な引揚体験を「怨み」に変えることすらできませんでした。満州引揚げや、シベリア抑留に関し、国民レベルで行う追悼の日が設定されていないのも、こうした事が背景にあるのかもしれません
終戦後の引揚げに関わるこのネガティブな歴史を、悲しみの記憶として薄れるのを待つのも一つの生き方でしょう。また、悲惨な体験を二度と繰り返さない様に、積極的に若い人たちに体験を伝えていくことも非常に価値ある生き方であると思います
一方で、戦後の混乱した状況の中で、徒に死者を増やした行為や、こうした混乱の中にあっても人間としての誇りを失わずに戦った人の行為も、歴史に埋もれさせるのではなくきちんと調査し、次代を担う若者たちにも伝えていくことも重要であると思います。例えば、以下の事例についての私の見解を述べておきたいと思います;
1.大本営が1945年5月に決定した「根こそぎ動員と、「主力部隊の南満州移転の作戦は、結果として、何の告知もされないままに北満に取り残された「女、子供、老人ばかりの開拓農民」、青少年で構成され、ソ満国境に配置された「満蒙開拓青少年義勇軍」の救いようのない残酷な死を招きました。少なくとも本土では行なわれていた学徒疎開のような弱者を救う計画が、この作戦と並行して行われていれば、北満の悲劇のかなりの部分は防げたはずです。これを行わなかった大本営、関東軍の指導者、とりわけ参謀は、日本人自身による戦犯裁判で断罪すべきであったと思います
2.中国山西省に駐屯していた北支派遣軍のうち約2600人が、終戦後第二次国共内戦に参加し650名が戦死した裏には、北支派遣軍の司令官である澄田中将が、戦犯を免れ帰国するために、軍閥である閻錫山将軍と取引をした結果であると言われています。こうした部下をも裏切る卑怯な行為は、日本人自身による戦犯裁判で断罪すべきであったと思います
3.戦陣訓」を徹底したために、投降することをせずに無駄な死を強いられた兵士が無数にいました。また、沖縄戦や、引揚途中での一般人の集団自殺も、この戦陣訓の影響があったとも言われています。これを作成した責任者である東条英機大将は、東京裁判で「平和に対する罪」で死刑になっていますが、日本人自身による戦犯裁判でも断罪すべきであったと思います
4.ソ連軍の圧倒的な侵攻に対して、ろくな兵器も支給されずに戦い、死んでいった兵士も沢山います。こうした兵士に対する尊崇の念も、忘れてはならないと思います
以上

「100年時代の人生戦略」を読んで

-はじめに-

本書を読むきっかけになったのは、2017年2月18日にNHK・BS1スペシャルで放映された「ダボス会議2017どう生きる?人生100年時代」を観たことです。このパネルディスカッションには、以下のメンバーが参加していました;
司会者:河野憲治、NHK社員(今年3月まで”ニュースウォッチ9”のメインキャスターをやっていた)
パネリスト
1.デイビッド・B・エイガス:南カルフォルニア大学・医学部教授(ガンの権威、最先端医療の知識が豊富)
2.リンダ・グラットン:ロンドン・ビジネススクール教授(下記)
3.佐藤康博:みずほフィナンシャル・グループ CEO
4.ウィリアム・フランシス・モルノー:カナダ財務大臣(年金システムに詳しい)

ディスカッションは、概ね今回紹介する本の内容に沿って行われましたが、上記エイガス教授から、今回紹介する本の中では触れられていない以下の興味深いトピックが提供されました;
* 人間は120歳まで生きることが可能 ←(最近細胞が老化することを防ぐタンパプ質の存在が発見された)
ビッグデータの活用で、今後多くの新薬の発見が期待できる ←(最近、ビッグデータの解析から安い血圧の薬が卵巣がんに効くことが判明した ⇒ 4.5年の延命効果が期待できる)
* 退職を1年遅らせると、アルツハイマー病のリスクが3%低下する →(頭脳を使い続けることがアルツハイマー型認知症の予防になる)

著者の経歴、その他
1.Linda Gratton:ロンドン・ビジネススクール教授、人材論、組織論の世界的権威、二年に一度発表される世界で最も権威ある経営思想家ランキング(50人)では2003年以降毎回ランキング入りを果たしている。また英タイムズ紙「世界のトップ15ビジネス思想家」に選出されている
2.Andrew Scott:ロンドン・ビジネススクール経済学教授、前副学長、オックスフォード大学のフェロー、欧州の主要な研究機関であるCEPRフェローを務めてい居る
本書の発行日は
原本“The 100-Year Life”初版発行:2016年6月2日
邦訳初版発行:2016年11月3日

以下は、この本の大まかな内容のご紹介です;

-この本のベースになっているデータ-

この本では、「人間の寿命が今後どう変わってゆくか」が最も重要なデータ(結論を左右する)になっていますが、これは以下のグラフで説明されています

ベストプラクティス平均寿命

“ベストプラクティス平均寿命”とは、平均寿命世界第一位となる国(先進国のみが対象)の平均寿命のことです。これを時系列で並べたものが上のグラフになります
上のグラフを見れば明らかな様に、過去100年近く、ほぼ一直線に平均寿命が伸びてきたことが分かります

次に重要になるのは、このグラフの傾向のままに寿命は本当に伸びていくのか?、また限界があるとすればそれは何歳か?、ということになります;
1.過去の平均寿命上昇の理由
* 1920年代の平均寿命の改善は子供の死亡率低下が大きい。結核、天然痘、ジフテリア、チフスなどの子供の命を奪った感染症の多くが抑え込まれた為
* 次に、中高年の疾患、特に心臓血管系の病気とがんの対策が大きい。また、病気の早期発見、治療と処置の改善、禁煙などの啓蒙活動の強化により、次第に健康水準が向上した
2.人間の寿命に上限はあるか?;
人間の寿命の上限については以下の三つの考え方がある;
悲観論者は、栄養状況の改善や乳幼児死亡率の低下はこれ以上見込めず、逆に歩かないライフスタイルや肥満によって平均寿命の上昇は足を引っ張られる
楽観論者は、啓蒙キャンペーンの効果は今後も大きく、それがテクノロジーのイノベーションと組み合わせることによって、平均寿命はまだ上昇し続ける
超楽観論者(レイ・カーツワイル/グーグルの人工頭脳チームのリーダー;テリー・グロスマン/医師)は、医学的アドバイスに従い、好ましい生活習慣を実践、バイオテクノロジーによる医療革命の恩恵に浴す、ナノテクノロジーのイノベーション(人工頭脳とロボットが老いた体を分子レベルで修復する)、の3ステップを経て数百年の寿命を手にすることができる
3.本書の著者は寿命の上限をどう考えているか?;
ベストプラクティス平均寿命の延びが鈍化していないことから、平均寿命は110~120歳まで上昇し続け、その後伸びが減速する、という楽観論者に近い考え方を持っています

次に上記の推論を前提にして、「現在生きている人は何歳まで生きられるか?という問いに応えなければなりません。その為には、平均寿命に関し以下の二つの理論を知っている必要があります;
ピリオド平均寿命:各年齢に現在までの実績に基づく平均余命を加えて平均寿命を算定したもの
コーホート平均寿命:各年齢に今後の平均余命が伸びるという前提で平均寿命を算定したもの
本書では、コーホート型の平均寿命を採用しています。平均余命は、あくまで現在までの実績をベースのしていますので、上で述べた平均寿命の延びが計算に入らないことになります
尚、年金制度の設計など、経済分野で平均寿命の推計を行なう時には、現在ピリオド平均寿命を使っており、結果として平均寿命を大幅に過小評価することになります。これが、年を追うごとに年金原資が足りなくなっていくという日本の現状をよく説明しています

こうした基本データを基に、本書でケーススタディー(ジャック、ジミー、ジェーン)を行っている3世代の平均余命を算出すると以下の様な驚くべき結果になります;
① ジャックの世代:1945年生まれ平均寿命が70歳前後
② ジミーの世代:1971年生まれ、平均寿命は85歳前後
③ ジェーンの世代:1998年生まれ、100年以上生きる可能性が高い

これを見て驚いたことは、ジャックは私と同じ年齢ジミーは私の子供達と同世代ジェーンは私の孫たちとほぼ同世代になります

―我々の世代はどんな人生なのか-

人生を考えるに当たって、本書では「ステージstage”」という言葉を使っています。ステージの意味を辞書で調べれば、あるプロセスの”段階、局面、時期”、となっています。例えば、地球の歴史でいえば「氷河期」の“期”に相当すると考えていいと思います

我々の世代の人生を、この“ステージ”で表現すると;
1.生まれてから就職する迄の時代(教育の期間):20年前後
2.職に就いている時代(労働の期間):40年前後
3.退職後死ぬまでの無職の時代(余暇の期間):?年間
の様な、3ステージの人生”と呼ぶことができます。我々は、この3ステージの人生をなんの疑いもなく送ってきた訳ですが、最近寿命が伸びたお陰で、退職後の時代が、職に就いている時代に匹敵するほど長くなってきた結果、年金システム(公的年金、企業年金)の破綻が叫ばれるようになりました

年金のシステムは、大まかに言って、確定給付年金確定拠出年金に分けられますが、以下の様にいずれも退職時期を固定し、退職後の期間が長くなれば破綻するのは当たり前の事です;
確定給付年金:給付額を固定し、給付のための原資は、受給者の退職前に積み立てたお金と現在働いている人が積み立てているお金(企業の補助金、税制優遇措置を含む)が充当されます。基本的に公的年金(国民年金、厚生年金、など)や一部大企業の企業年金がこれに相当します ⇒ 退職者が増加し、労働人口が減りつつある日本などは破綻することが明白です
因みに、老齢従属人口指数(労働人口に対する引退人口の割合)の実績及び今後の予想によれば、1960年、日本は10%(引退人口1人に対し10人の勤労人口が支える)だったのに対し、2050年ではこの数字が70%(引退人口1人に対し1.4人の労働人口が支える)に達すると予想されており、持続可能性が危ぶまれています
確定拠出年金:給付のための原資は、受給者が退職前に積み立てたお金(企業の補助金、税制優遇措置を含む)であり、退職後の期間が長くなれば受給額が目減りしてゆきます

こうした矛盾に対応するため、先進諸国では“定年延長”や年金原資に充当するための増税(日本では”消費税”の増税)などの対応を取っておりますが、上記を勘案すれば長寿化の流れに追いつくとは到底思えません

本書では、ジャック、ジミー、ジェニー、それぞれの世代が、3ステージの人生を送った場合、どのような結果になるかをケーススタディーしています;
シミュレーションの前提は以下の通りです;
1.老後の生活資金を、最終所得の50%とする
2.長期の投資利益率をインフレ率を除いて3%する(リスクの殆ど無い投資と、リスクの高い投資を組み合わせる。税・手数料引き前)
3.所得上昇のペースを年平均4%とする
4.ジャックは62歳で引退、ジミーとジェニーは65歳で引退する

ケーススタディーの結果は;
ジャックの世代:妻は専業主婦(一時パートで働いた時もあった)、主たる稼ぎ手は常にジャック、62歳で引退、70歳で死去。老後の生活資金は3種類(公的年金、企業年金、個人の貯え)、現役時代に老後のために所得の4%あまりを蓄えることは難しい事ではなかった

ジミーの世代:65歳まで働いて引退する積り。企業年金は受給できない。年金改革は進められるものの、公的年金は最終所得の10%程度にとどまる。退職後、最終所得の50%確保するためには、毎年所得の17%を貯蓄に回さねばならず非常に難しい

ジェニーの世代:65歳での引退を前提に3ステージの人生を送るという生き方は最早不可能。何故なら、最終所得の50%の老後生活資金を確保するには、労働期間に毎年所得の25%も貯蓄しなければならず、しかも、ここには住宅ローンの返済や子供の学費が入っていない。また、公的年金の10%も受給できる蓋然性は低い

このケーススタディーの結果から得られる結論は、ジャックの世代は3ステージの人生が適していたのに対し、長寿時代のジミーやジェニーの世代では、3ステージの人生は経済的に成立しないことになります
言い換えれば、何の対応もせずにこのまま推移すれば、私たちの子供や孫の老後には、惨めな貧困が待っていることになります。勿論、幸運にも億万長者になれた人や莫大な遺産が転がり込んだ人は別ですが、、、 こうした幸運に恵まれない一般の人は、働く期間を延長するしか対応しようがないということになります

なお、上記ケーススタディーでは、私と同い年のジャックは70歳で死去しています。現在の日本では、このケーススタディー以上に長寿化が進んでおり、不肖私も70歳を超えて生き続けて!おります。日本では、私の世代でも3ステージの人生は現実に合わなくなっているのかもしれません

-子や孫の世代はどんな人生になるのか-

前段で述べたように、子や孫の世代は、好むと好まざるとに関わらず多くの人が人生の長い期間働くことになります。しかし、我々の世代でも40年は長い労働人生でしたが、これが70年、80年間働くことになればどの様な問題が考えられるでしょうか?
本書では、以下の様な問題点を指摘しています;
1.人生の最初に選択した職業が自身の適性に合っていなければ、長い労働生活に耐えられないのではないか?
2.近年の人工頭脳(AI)やロボットの進化の速度を考えれば、業種によっては働き続けることが難しくなるのではないか?
3.同じ仕事を一生涯続けていくことの単調さに耐えられるかどうか?

この様な問題点を克服するために、本書では3ステージの人生をではなく、マルチステージの人生が必然になる時代が来ると予測しています

一方、長寿となった人生を実りあるもの(生きがいのある人生とするために、企業で働くというステージの他に、以下の様なステージの選択肢を用意する必要性を説いています;
1.エクスプローラー:エクスプローラーという言葉は、一般に”探検家”と訳しますが、本書では、「興奮、好奇心、冒険、探査、不安、一か所に腰を落ち着けるのではなく、身軽に、機敏に動き続ける」活動というイメージになります。敢えて言えば、戦中世代を代表する作家である小田実が、「何でも見てやろう」という本の基になった、若い時代の世界放浪の旅のイメージでしょうか
このステージは、発見の日々となります。旅をすることにより世界について新しい発見をし、併せて自分についても新しい発見ができるステージになります
また、このステージは、自分を日常の活動から切り離すことから始まります。ただ、観光客が旅先の町を見物する様な態度では、大きな成果は得られません。望ましいのはこのステージで多くの人との係わりを持つことです
私とって何が重要なのか?」、「私が大切にするものはなにか?」、「私はどういう人間なのか?」など、具体的な問いをもって探索に出る場合もあれば、「はしゃいで跳ね回ること」が目的であってもいい。こうした冒険(何を見て、誰と出会い、何を学ぶか)を通じて得られるストーリーが未来の人生の指針になります

2.インディペンダント・プロデューサー:普通に翻訳すれば”起業家”ということになりますが、ここでは今までの起業家とは性格の異なる新しいタイプの起業家になったり、企業と新しいタイプのパートナー関係を結んで経済活動に加わることも含めています
旧来のキャリアの道筋から外れて、自分のビジネスを始めた人たちがこのステージに入ります
また、インディペンダント・プロデューサーは、自分の職を生み出す人であり、人生のどの段階にある人でも実践できます

3.ポートフォリオ・ワーカー異なる仕事を同時並行的に行うステージです
ポートフォリオ・ワーカーを、様々な可能性を探索し、実験するために積極的に選択する人もいれば、やり甲斐のある仕事に就けないために、不本意ながらそれを選ぶ人もいます
企業幹部などに100年ライフを説明した後でアンケートをとると、以下の様な活動を組み合わせたポートフォリオ・ワーカー型の生き方を選ぶ人が多い様です;① 所得の獲得を主たる目的とする活動、地域コミュニティとの係わりを主たる目的とする活動、親戚の力になるための活動、趣味を極めるための活動、など
スキルと人的ネットワークの土台が確立できている人は、高い価値を生み出せるポートフォリオ・ワーカーになることができます
ポートフォリオ・ワーカーの核になるのは、有給の仕事です。企業のCEOであった人は、どこかの取締役に名を連ねることなどの選択肢を採ることができます
一方、過酷な労働人生を送ってきた人は、楽しく過ごしたり、社会に貢献したり、友人と過ごす時間を選択肢に加えることができます
ポートフォリオ・ワーカーは、以下の三つの側面のバランスを取ることになります;支出をまかない貯蓄を増やすこと、過去の経歴とのつながりがあり、評判とスキルと知的刺激を維持できるパートタイムの役割を担うこと、新しい事を学び、やり甲斐を感じられるような役割を新たに担うこと

上記のような仕事のステージを組み合わせて、自分に適したマルチステージの人生を設計するにあたって、本書では、貯蓄などの“有形の資産”だけでなく、下記の様な”無形の資産“の構築を自身のステージに適切に組み込んでいかなければ、長寿がもたらす恩恵を享受することはできないと言っています;
1.生産性資産:仕事で生産性を高めて成功し、所得を増やすのに役立つ要素で、スキル知識が主たる構成要素になります
2.活力資産:肉体的・精神的な健康幸福感(友人関係、パートナーやその他の家族との良好な関係、など)
3.変身資産:“自分についてよく知っていること”、“多様性に富んだ人的ネットワークを持っていること”“新しい経験に対して開かれた姿勢を持っていること”。このタイプの資産は、旧来の3ステージの人生ではあまり必要とされませんでしたが、マルチステージの人生では、あるステージから次のステージに移行する時に必要な資産になります

<ケーススタディー(マルチステージへのチャレンジ)>

ジミー(我々の子供たちの世代)のマルチステージの人生
途中まで3.0ステージの人生を送ってきた
が、50歳になって変化の速いテクノロジーの世界で、自身のスキルが時代遅れになり職場で脇役に追いやられてしまった。有形の資産をチェックすると65歳で引退するには貯えが足りないことに気づいた
1.3.5ステージの人生
ケース1:会社時代の古い友人が近所の社会人大学で学長をやっており、彼に誘われて、週一回夜間の講義を行う生活に入る。給料は減るものの、自分の能力は生かせるという実感が生まれると共に、仕事と家庭のバランスも生まれる。しかし、お金にゆとりはなく、多くの友人達ほどには夫婦での旅行は楽しめない。大学ではよき同僚と評価されてはいるが、1年たつごとに自分の知識と経験が古びていくことを痛感し、71歳で寂しい引退となる
ケース:夫婦の古い友人の紹介で、隣町の店の手伝いと他のスタッフの監督を行うことを頼まれる。給料は大したことは無いが、社交的な生活なので仕事そのものはそれなりにたのしい

3.5ステージのシナリオは、資金計画を成り立たせる助けにはなり、活力資産をはぐくむための時間がたっぷり確保できる。しかし、生産性資産を充実させたり、変身資産を活用したりすることはほとんど無い。追加の0.5ステージは3ステージの人生の付録程度の意味しか持たない

2.4.0ステージの人生
ケース1ポートフォリオ型の新ステージを選択)
45歳の時、立ち止まって自身の人生とまわりの世界を考えてみたところ、このままでは、資金計画が成立しないことと、自身のスキルがいずれ陳腐化することに気づく。しかし、新しいスキルを習得すれば、業界内の高成長分野に転身できる可能性が高まることが分かり、妻と相談してチャレンジすることを決心する
週末、休暇を使って研修プログラムに参加し、最終的に業界でよく知られた証明書を受け取り、この資格を有効に使って条件のいい会社に転職した。一方、妻もフルタイムで働ける職場で働きはじめた
新しい会社は、ジミーに有給の研修の受講を認めてくれたため、仕事の傍ら、3年間かけてマネージメント能力、アウトソーシング手法、ロボット工学などを学んだ
更に、上級レベルのプロジェクト・マネージメントと研修プログラムに参加し、プロジェクトマネージャーの世界規模の人的ネットワークを築いた
*65歳になったジミーは、二つめの企業も退職し、望み通りポートフォリオ型ライフを始めた。価値の高いスキルを持っているおかげで、刺激を味わえる仕事を得られ、70代後半になっても、まだ仕事の依頼がある

ケースインディペンデント・プロデューサー型の新ステージを選択)
45歳の時、会社の仕事は過酷で、家庭の負担も大きいことに耐えられなくなってきた。家計の維持と住宅ローンの返済で、現在のままでは70歳で老後資金が必要なだけたまらない事が分かった。そこで、余暇時間の一部をレクレーション(=娯楽)ではなく、リ・クリエーション(=創造)にするために使い、起業に向けた準備を始める
起業の為の準備として、仕事の傍らサイド・プロジェクトを行い、起業後の仕事の感触を探り始める。また、地元の企業家クラブに加わると共に、会計とマーケティングのオンライン講座も受講する
現在住んでいる町は規模が小さく、起業後の顧客があまり存在しないことが分かった為、会社の上司に掛け合って、大都市の拠点に異動を願い、叶えられる。大都市の拠点には、中小企業が多く集まりビジネスが盛んだ。新しい町に引っ越すと、早速これらの人との人脈づくりを始めた
*48歳の時、企業設立の準備が整うと同時に、夫婦で支出を細かく見直し、出費の少ないライフスタイルに変更し、質素な生活を心掛けるようになった。これにより、いざという時の貯えを少し増やすことができ、倹約生活にも慣れることができた
*49歳になって、友人と一緒に会社を設立。二人の地元のコネを通じて最初に二つの顧客を獲得し、人的ネットワークを利用して海外の提携企業と緊密に協力することにより、低コストで高いサービスの提供を始めた

二つのシナリオのまとめ
ポートフォリオ型にしろ、起業家型にせよ、4.0シナリオを実践するためには、現在の状況にしっかり目を開き、待ち受けている未来をじっくり検討しなくてはならない
いずれのシナリオでも、ジミーは勇気をもって大きな変身を遂げ、自分を「再創造」させたが、簡単な道ではない。また、目指す人すべてが成功するわけではない
成功を収める人たちにとっても、変化はストレスを伴う試練と感じられるだろう。こうした局面で重要になるのは変身資産である
二つのシナリオは、いずれも有形の資産と無形の資産を構築・増強でき、更に老後の生活資金を増やし、生産性資産と活力資産も増やすことができる
二つのシナリオの重要な違いは、起業家型の新ステージは、お金の面でも無形の資産の面でもよりリスクが大きく、ストレスも大きい。一方、ポートフォリオ型の新ステージは、夫婦が一緒に過ごせる時間を多く確保できる。どちらを選ぶかは、本人の嗜好と状況次第だ

ジェーン(我々の孫たちの世代)のマルチステージの人生
ジェーンの人生は非常に長いので、有形の資産と無形の資産の両方で問題が持ち上がり、3.0シナリオや3.5シナリオは実践不可能になる。従って、ジェーンは、4.0シナリオ、か5.0シナリオを生きるしかないことになる。長い年数働き続けるためには、無形の資産への大々的な再投資を行い、自らを再創造して変身を遂げなくてはならない

5.0ステージの人生
*21歳の時、自分が100年以上生きる可能性が高いことを前提に人生の選択を行う。そこで人生の進路について大きな決定を下すことを避け、さまざまな選択肢を模索することが必要と考えた。現代史を専攻して大学を卒業した後、旅に出る。その間、各種資産を築かないままに、不安定な雇用形態で働くことも厭わない。つまり、エクスプローラーとしての日々を送ることになる
アルゼンチンとチリへの旅行の途中、ブエノスアイレスに3ヶ月滞在し、スペイン語の集中講座を学び、技能検定試験にも合格する
料理好きなジェーンは、ラテンアメリカの期間限定の屋台に強い興味を抱く。自身もフィエスタ(お祭り)の日だけの屋台を始められないかと考え、流ちょうになったスペイン語を駆使して、他の都市のフィエスタ主催者と連絡を取り、実際の屋台ビジネスの経験を積む。収入は僅かだが、滞在費用をまかなうには十分である
この時期、ジェーンは楽しみながら、組織づくりのスキル予算策定の基礎、ラテンアメリカ各地のフィエスタ主催者とのコネも築く。帰国した後も、知り合った人たちとの人的ネットワークを維持する
*28歳になって、数人の友人とフィエスタ・ビジネスの会社を立ち上げ、インディペンデント・プロデューサーとして、組織に属さずに働く。初期の仕事は、幾つかのストリート・フィエスタの企画と運営であった。事業を立ち上げる人の多くと同様に、ジェーンは資金繰りに苦労するが、経験豊かなサムという人物と知り合い、イベントを手掛ける多くの起業家を紹介してもらったほか、資金調達に関して視野を広げるよう促された。オンライン上で不特定多数の人から資金を調達するクラウド・ファンディングで出資を募る
オンライン上での評判を確立する必要性に気づき、サムから“元気で面白い人物”というイメージ作りのコツを教わった。毎週ブログを更新し、フィエスタ主催者たちの間に熱心なファンを獲得してゆく。ジェーンは、自分についての知識を深め、人生の選択を間違えない様に有形の資産よりもむしろ、無形の資産(人的ネットワークの充実、評判の確立)の形成に多くの投資を行う

*35歳になった時、今後10年ほどで金銭的資産を築かなければならないと自覚した。オンライン上の存在感が高まったいたジェーンは、大企業の幹部たちの目にとまり、数社から入社を誘われる。食とエンターテインメントの分野での経験、質の高い人脈、新しい取り組みと顧客ニーズを取り込んできた実績が買われた。そこで、世界中の食関係のイベントを紹介したいと思っていた食品会社選んで入社、それなりの給料と地位を得た
*30代半ばで大企業に加わったジェーンは、意思決定が遅く、アプローチが官僚的である企業文化にすぐにはなじめなかった。しかし、いくつかの国際的な役割を歴任し、その都度給料が大幅に上昇すると共に、職業上のアイデンティティーは「ベンチャーの人」から「大企業の世界で活躍できる人」へと変貌した
ラテンアメリカで過ごした経験により、持続可能なサプライチェーンの構築という難題について、深い理解が得られたことに気づき、このテーマに関する知識を更に増やすために、専門のセミナーに参加。それを通じて、他の企業関係者やNGO関係者など接点がなかった人たちと人的ネットワークを築く
*37歳を迎えた時、人的ネットワークを土台に、アマゾン地方やルワンダのクループから、食品フレーバーの原料を購入するプロジェクトを立ち上げた。ジェーンはこのプロジェクトを通じて、ビジネスの実態を知り忙しい毎日を過ごす。持続可能なサプライチェーンに関する記事などで、頻繁にブログを更新したり、講演を行なったりして、職業上の評判を確立することにも腐心する

平均寿命が伸びても、出産に適した年齢は伸びないので、出産時期という大きな問題に直面するし、ブラジル旅行中に地元のNGOで働く男性と知り合い結婚する。ジェーンは37歳で長女を39歳で長男を出産する。ベビーシッターの力を借りつつ、夫婦で家事を分担して生活する
*43歳の時、新しい経営陣に代わり、今後の昇進は難しいと気づき、新しい選択肢の模索を始める
厳しい決断だったが、45歳の時に退職する。一家の所得は夫からのみとなり大きく落ち込むが、厳しいながらも破綻せずに済む
時間に余裕ができたジェーンは、学校に通う子供の世話、高齢の両親との時間を過ごしたりできるようになったが、数年先には仕事を再開すべきだと思うようになる。夫はジェーンが仕事を再開したら仕事を辞めて、自分の進む道を検討しようと計画している
ジェーンは、自身のアイデンティティーを見つめなおし、様々な選択肢について友人や知人の話を聞き、進むべき道を検討する。これは変身資産を強化するプロセスといえる
ジェーンは、所得を最大限増やすために人材採用の仕事を目指すことに決めた。必要となる生産性資産は、人間の心理に関する知識であることが分かり、2年間かけてオンライン講座で学び、大学で職業心理学の学位も取得する。
その後、ホテル、旅行、食品分野を専門とする人材会社に入社し、人材採用コンサルタントの道を歩み始める

*48歳の時、有形の資産の形成に力を入れる日々を送るが、この後15年間、同じ業界内で数回の転職を重ねたうえで、60歳の時にヘッド・ハンティングされて、業界屈指の大手企業の取締役に就く。これを機に、生産性資産を構成する要素が変わり始めた。社内の他のメンバーのメンタリングやコーチングの機会は増えると共に、その人たちの人的ネットワークの一員としての役割が大きくなる。一方、仕事は過酷で、出張も多く、家族のために避ける時間が無く、活力資産が底をつきつつある
*70歳の時、金の面ではうまくいくものの、友人達とは疎遠になり、夫との関係も緊張し、健康も悪化し始めた。そこで、活力資産を最優先にした生活に転換することを決める。子供たちにはもう手がかからず、夫婦で一緒に旅に出る
*72歳の時、リフレッシュしたジェーンは、キャリアの次の段階に移行することを望む。ただ、過酷な仕事や大幅に時間を制約される仕事にはつきたくない。それまで築いてきた変身資産でプロジェクトを計画する。様々な要素で構成されるポートフォリオ型の生き方を実践する;1年に30週は、週に1日ラテンアメリカのストリートチルドレンを支援する国際組織で働く、週に1日、ローカルな中規模の小売企業で非常勤取締役の仕事をする、2週間に1日は、地元の治安判事も務める
*85歳のとき、ジェーンは本当に引退する。これ以降は、孫やひ孫と過ごす時間を大切にし、毎年1回は、彼らを連れてアマゾン地方に出かけ、自分の人生で大切な意味を持った土地を訪ねる

-長寿化によって人間関係が変わる?-

本書が予測するところによれば、長寿社会が到来すれば、人生のあらゆる側面が変わると考えられます。ジェーンの5ステージのケースをご覧になれば分かる様に、夫婦やパートナー同士の関係はより長期のものになり、その間多くの変化を経験することになります。
また、子供の数は減るものの、孫やひ孫の家族が増え、高齢者と若者との関係が今より緊密になる機会が増えると思われます。仕事の世界も変わってゆきます。家族の多くのメンバーが職を持ち、70歳代や80歳代で働き続ける人も増えることになります。
また、職に就く女性が増えれば、伝統的な家族の在り方が崩れ、家族のメンバーが担う役割も大きく様変わりすると考えられます

<家庭>
長寿化の進行とマルチステージの生き方が一般化した結果、選択肢を残しておくために結婚の時期を遅らせること子育て期間の割合が縮小することが起こります。因みに、1880年には全世帯の75%に子供がいましたが、2005年にはその割合が41%%まで下がっています
子育てせずに人生のかなりの期間を過ごすことは、ジャックの世代(我々の世代)の夫婦の役割分担は説得力が大幅に低下します。性別役割分担が変わってきた要因には、家電用品・調理済み食品の普及により家事の負担が軽くなったこと、男女の賃金格差が縮小してきたことなども考えられます。パートナー同士で生産の補完性(夫婦の固定的な役割分担)が重要でなくなると、二人の間に純粋な関係が生まれと思われます。それは、不変の関係でもなければ、惰性で継続されるような関係でもなく、二人の間で調整を重ねていく関係となるはずで、相手と深く関わろうという意思が重要になります

経済的な面では、生産の補完性から「消費の補完性」の重要性が高まります。つまり二人の人間が、別々に大きな家を買ったり、休暇を楽しんだり、生活に必要なものを調達したりするより、二人で一緒の方が安く済むことは当然の事です
リスク分散の効果も見逃せません。何らかの理由で所得が途絶えた時、経済的に互いを支えることができます。これは近年、同類婚(自分と教育・所得レベルが近い人を結婚相手に選ぶ)の傾向がみられる一因かもしれません
本書では、多くの人が結婚を選択することを前提に話を進めてきましたが、事実婚やシングルファーザー、シングルマザーなど、様々な結婚の在り方が出現する可能性を否定する訳ではありません。しかし法律上の婚姻関係が、長期的であり、権利が法的に強く保護されており、離婚時の財産分与の仕組みなどが確立されていることなどを勘案すると、夫婦間で多くの調整が必要とされるマルチステージの人生では、むしろ結婚の重要性は大きくなると著者たちは考えています

<仕事と家庭>
仕事の世界で経済的な役割やキャリアの選択が変われば、家庭でのパートナーとの関係も変わってきます。OECDの調査では、1980年、25~54歳の女性で職に就いているか、職を探している人の割合はOECD加盟国平均で54%でしたが、2010年にはこの割合が71%まで上昇しています
*働く女性の割合は、未だに国による違いは大きい。男女の労働参加率の格差は、日本、イタリア、韓国などでは20%前後に達するのに対し、格差の少ないノルウェー、スウェーデンなどの国は5%未満となっています。この格差が大きい国は、女性が100年ライフの設計する際の選択肢が乏しいことになります
*現状では家事と育児をほとんどを女性が担っている国が多いものの、将来男女が家庭に等しく関わる様になれば、伝統的な性別役割分担の在り方が変革を迫られることは確実になります。マルチステージの人生では、家事と育児を主に担う役割をステージごとに交替してもいいと著者たちは考えています
*問題は、労働参加率の格差こそ縮小しつつありますが、賃金の格差が残っていることにあります。その原因の一つは、高い地位についている女性の数が少ないことにあります。多くの大企業で中級管理職の約30%を女性が占めていますが、全体としてみれば15%程度に過ぎません。ILOの報告書によれば、男女の賃金格差がなくなるまで、少なくとも70年かかると言っています

現状で柔軟な働き方を実践しているのは、もっぱら女性です。幼い子供の世話や、高齢の親や親族の介護をしたりする必要上そのような選択をすることが多いと考えられます
*自由裁量で仕事を進めやすい職(「融通性」の高い職)は、テクノロジーとサイエンスの分野であり、この種の職では男女の賃金格差が小さい
*今後こうした状況は、柔軟な働き方に対する人々の考え方、バーチャルテクノロジーが進歩するペース、業務が標準化される程度、高い地位にある男性が子供と多くの時間を過ごすロールモデルになる、などの度合いにより影響を受けると思われますます

ジェーンの5.0シナリオでは、夫婦が両方ともフルタイムで働く時期だけでなく、片方がフルタイムの仕事を離れて、育児や、知識の習得、ステージの移行への準備を行っていました
*マルチステージの人生の下、男性たちが柔軟な働き方を選択し始めた時、何が起こるか?;【悲観論】柔軟な働き方をする人が、男女とも低所得に甘んじ、結果として男女の賃金格差が縮小する、【楽観論】柔軟な働き方が企業や個人に課すコストを減らすために、仕事の在り方自体が根本から変わる。つまり、企業が仕事と年齢とジェンダーについて大きく発想を転換し、キャリア全体としては男女の生涯所得の格差が縮小に向かう
*いずれにしても、夫婦が役割を交替しながら、複雑に入り組んだマルチステージの人生を送るためには、夫婦の間で徹底的なする合わせを行うことと、強い信頼関係と協力関係を築いていることが不可欠であると著者たちは考えています

*現在、65歳以上の人の内結婚している人の割合は歴史上最も高くなっています。その割合は16~65歳の層と肩を並べるまでになっています。この背景には、寿命が伸びていること、夫婦の年齢差が縮小していること、再婚する人が増えているという要因があります(再婚に対する社会的偏見も薄らいでいるという事情もある)
*現在は、結婚年齢が上がり、離婚の割合が減り、再婚の割合も減っています。これは、結婚生活の土台が「生産の補完性」から「消費の補完性」に変わったため、結婚相手を選ぶ基準が変わって結婚が長続きするようになったこと、及び、結婚年齢が上昇し、人々が自分についての知識を多くもって結婚するようになったためと著者は考えています

<多世代が一緒に暮らす時代へ>
これまでの3ステージの人生では、同世代の人たちが一斉行進をする様に人生のステージを進むため、年齢層ごとに人々が隔離されて生きる欧米型の社会が出現しました。しかし、マルチステージの人生では、エイジ(年齢)とステージが一致しなくなり、大人が若々しく生きるようになる結果、世代間の関係に大きな変化が生まれます
*インドの様なアジアの国を訪れると、欧米ではめっきり見なくなった家族の在り方に目を見張らされます。子供と祖父母が一緒に暮らしている家庭が多く、子供たちは祖父母と多くの時間を過ごし、勤労世帯は親の支えを頼もしく感じられ、高齢者は自らが役割をもって貢献できると実感できている
高齢での孤独は寿命を縮めます。高齢者が家族の中で生きることには、確かなメリットがありますが、一方、多世代の同居は、プライバシーを確保できないことや、世代間で衝突が起きるなどの弊害もあります。
*40~50年前は欧米でもアジアの様に多世代同居型の家族が当たり前でしたが、現在では小規模な家族が一般的になっています。例えばデンマークでは、家族の構成員の数は平均してわずか2.1人過ぎません
*家族が多世代で構成されるようになれば、異なる世代が理解を深め合う素晴らしい機会が生まれます。また世代を超えた人間関係が築かれれば、年齢に関する固定観念や偏見も弱まるはずです。恐らく重要なのは、互いに親しみを抱き、世代間の触れ合いを長期的、安定的に続けることが重要になります

人類の長い歴史を通じて、人生の最大のイベントは出産と子育てでした。この時代、長生きすることの進化上のメリットは無かったと考えられます。寿命が延びれば、人生の中で子育てに費やされない時間が長くなる。その結果、友達付き合いが生活の中心になる時代が新たに出現するかもしれません
*最近の学生は、主たる人間関係として友達を重んずる傾向が強く、昔であれば家族に求めた様な温かみのある関係を友達に求めたいと思っています。このように、年齢的に均質な人的ネットワークの中でメンバー同士が付き合えば、その集団のアイデンティティが強化されます。その結果、生き方についてみんなが同じ考え方をしてしますことになります。
*問題は、年齢による分断が高齢者差別につながることです。異なる年齢層の人と交わらなければ、「我々対彼ら」という発想にはまり込み、固定観念と偏見を抱きがちになることになります ← (萩本欽一が70代で駒沢大学に入学し、そこでの経験を”週刊文春”に寄稿していますが、若い学生たちとの交流で、見事に年齢の壁を越えているのに驚きます)
*マルチステージの人生が一般的になれば、異なる年齢層の人たちが同じ経験をする機会が生まれます。心理学者のゴードン・オルポートの古典的な研究が明らかにしたことは、「固定観念と偏見を打破する手立ての一つは、集団間の接触を増やすこと」である
*年齢層の異なる人たちが触れ合う機会が増えれば、人的ネットワークの均質性が崩れはじめます。こうして高齢者が「別世界」の住人という状況は変わり始めるに違いありません

-本書を読んだ感想、その他-

本書は、引用文献のページだけで15ページに達することでご理解して頂けると思いますが、ビジネス分野における論文に近いものと思われます。論文であるが故に、出所の確かな文献を引用しながら、論理的な完璧性を目指していることは確かで、ぐうの音が出ないほどに筋が通っています
しかし、人生の選択は極めて個人的な問題であり、本書が勧めているマルチステージの人生が、すべての人に当てはまることはあり得ません。本書の著者も強調している通り、マルチステージの人生を送るためには、本人自身の覚悟と厳しい決断、不断の努力が必要となります。
従って、働かずとも十分に豊かで、余生を快適に!過ごしている人や、豊かではないものの、思索にふける孤高の人生を求めている人達には、本書が提供する”人生100年時代の人生戦略”は、全く役に立たない理論だと思います

いつの時代にあっても、大きな変革期には、私共の様な”普通の人々”が荒波に揉まれ、取り戻せない過去を悔やむことになります。
戦後70年を経て、人工頭脳(AI)、ロボット、クラウドサービスなどの先端科学が急速な進歩を遂げつつあり、産業構造が大きく変わろうとしています(本書ではこれを「スキルの価値が瞬く間に変わる時代」と表現しています)。また、生命科学・医療の進歩に伴い、着実に寿命が延びてきています。時代の大きな変革期にあって、我々の世代の人生設計の継続では、少なくとも子供や孫たちには、輝かしい未来は待っていないということは確かであると思います

振り返ってわが身を見れば、私自身が、突然の企業年金の大幅減額に慌てふためいて!いる現実がある一方、我が子3人の内2人は既に、苦しみながらではありますが、本書の定義による、エクスプローラーのステージ、インディペンダント・プロデューサーのステージ、ポートフォリオ・ワーカーのステージを経験しつつあり、更に、本人たちが意識しているかどうかは別にして、同類婚結婚の時期を遅らせることを実践している様であります

ところで、本ブログでは、終章で扱っている「自己意識」、「教育機関の課題」、「起業の課題」、「政府の課題」などは、敢えて本ブログでは触れていません。何故なら、ここでの提言はほとんどすべてが、それ以前の章で述べられているからです。ご興味のある方は下記の方法で添付のレジュメをご覧ください。尚、最近、安倍政権で取り組んでいる”働き方改革(働き方改革・実行計画要旨)”が、この流れにある事は間違いないようです

本書は、目次を見た時から内容が豊富で、ざっと読んだだけでは頭の中で内容が整理できないと思い、講義を受ける時の様にレジュメを並行して作りながら読み進みました。最初は、大学での半年の講義分の10ページ程度を予想していましたが、最終的には70ページになってしまいました。読み終わってから、レジュメの内容をチェックしてみると各章、各テーマで既述内容の重複が多いことに気が付きます。これは恐らく、著者たちが行ったロンドン・ビジネススクールでの講義をベースにして執筆された為ではないかと想像しています。逆にいえば、必要な章のみ(あるいは興味のあるテーマのみ)を読んでも、ある程度内容が理解できるようになっています。従って、このブログの内容をもっと深く知りたいという方のために、私の拙いレジュメ(Life Shift_読書メモ)も添付しました。ワードで作成してありますので、ダウンロードした後、最初の目次から、ご覧になりたいトピックにマウスを移動させ、”コントロール・ボタン”(キーボードの通常最下段の両端にあります)を押しながらマウスの左ボタンを押せば、そのページにジャンプすることができます

以上

 

 

「玄冬の門」を読んで

先週都心に出たついでに本屋に寄り、あちこち徘徊している内に目に止まって買って帰ったた本が二冊ありました。「日本共産党研究」(産経新聞政治部)と「玄冬の門」(五木寛之)です。昨日は雨模様で屋上菜園の仕事も出来なかったことから一気に読む通すことができました。

前者は、発行日が今年の6月1日となっていることから分かる様に、参議院議員選挙に向けて野党統一候補作りでリーダーとなった“元気のいい共産党を牽制するために急遽編集されたもののようです。内容は、概ね私が知っていることの域を出ないものでしたが、巻末に入っている最新の「日本共産党綱領」(2004年1月17日・第23回党大会)と年表「日本共産党の歩み」(1922年の結党の時から現在まで)は手軽な参考資料として使えそうな気がします。今日は丁度選挙の投票日、野党4党連合の思惑が叶うかどうかが決まる日になります

後者の「玄冬の門」は、発効日が6月20日の新書版で字が大きいので2時間もかからずに読み切ることができました。古希を過ぎた私にピッタリの内容だったので、5年ほど前の同著者の作品「下山の思想」と同様、これからの生き方の参考にしたいと思いました。読まれていない方の為に、内容の一部を以下に紹介します

中国では、人間の一生を以下の5つに分けて考えます;
① 青春:若々しい成長期
② 朱夏:社会に出て、働き、結婚して家庭を築き、社会的責任を果たす時期
③ 白秋:人生の役割を果たした後、生存競争から離れて静かな境地で暮らす時期
④ 玄冬:老年期

同著者の「青春の門」は、20代の中頃、文庫本が発行されてから読みましたが、当時の社会の状況や若者の考え方などがリアルに描かれており、ずいぶん夢中になって読んだ記憶があります。
玄冬の門」は、これと対になっている訳ではないでしょうが、「玄冬」の時期にある我々と同世代の人々が直面している困難な問題を、受け身ではなく自身で解決していく一つの道筋を提供している点で、非常に参考になると思いました

「絆」について
著者は「東日本大災害以降、“絆”ということが盛んに叫ばれましたが、私は、“絆”という言葉にはある種の抵抗感があります。もともとの言葉の意味は“家畜や動物を逃げないようにつなぎ止めておくための綱”という意味でした。我々、戦後に青年期を送った人間は、家族の絆とか、血縁の絆とか、地縁の絆とか、そういうものから逃れて自由な個人として生きることが一つの夢だった。ですから“絆”というのは、自分を縛る鬱陶しいものという感覚が強かったのです」と言っていますが、わたしもあの大災害以降、なにか人間関係の理想のような形で世間に流布している「絆」という言葉に違和感を感じている一人です。

高齢者と若者との間の「階級闘争」:
高齢者の数がどんどん増えていって、若者の数が相対的に減っていく状況の中で、重い年金の負担と、厳しい労働条件の中で働くことを強いられている“貧しい若者”と、働かずに年金と貯蓄で“豊かな暮らしをしている老人”という対立構造は、確かに「階級闘争」と言ってもおかしくない現象かもしれません。また一方で、豊かでない老人の集団として所謂「下流老人」も少なからず居て大きな社会問題になっています。
こうした問題を解決する手段として、「若い世代と高齢世代が融合して親密にやっていくのではなく、ある意味で分かれてもいいだろうと思っています。若い連中は若い連中でやってくれというように」と著者は言っています。これは言い方を変えれば、高齢者たちが若者に頼らず自立していく必要があるということを言っているのだと思います

「孤独死の勧め」:
歳をとって体が弱ってくればどうしても誰かに頼りたくなりますが、著者はこれも諌めて、「家族からも独立しなければいけない」とも言っています。とは言っても高齢者の自立の道は結構険しい道のりのはずです。しかし;
インドのヒンズー教の老人は、自分の死期を悟るとガンジス川の畔まで行って「老人ホステル」みたいなところで死が訪れるまで一人で生活するといいます。
また、著者が親鸞の言葉として「一人いて喜べば二人で喜んでいると思え。二人でいるときは三人で喜んでいると思え。その中の一人は親鸞である、というのがあります。これは“あなたはどんな時でも一人じゃないよ”と言っているのです」と紹介しています。

孤独死を恐れない玄冬期を過ごすために著者が勧める方法:
* 子供の為に美田を残さず使い切るということに徹する
* 家庭内自立を目指す(自分のことは自分でする)
* 再学問を行う(それまでの職業とは違うことを学ぶ)
* 趣味、妄想に遊ぶ
* あらゆる絆を断ち切る
* カジュアルに宗教と向き合う
* 不自由でも出来るだけ介護されずに生きていく
* できるだけ身綺麗にし、機嫌よく暮らす
* 自分の体と対話する
* がんは善意の細胞と思う

現在の老人介護の在り方:
親鸞仏教センターが刊行している研究誌の記事に以下の様な衝撃的な問題提起があったそうです。
* 特別養護老人ホームをもっと作れと言われているが、高齢者の方々は誰一人そんなところに入りたいとは思っていない
* 孫や子供達に囲まれて末期を看取ってもらいたいと思っている人はいますか、という問いに、誰一人頷く人は居なかった
確かに言われてみれば、「高齢者が集まってフォークダンスを踊ったり、タンバリンを叩いて童謡を歌わせられるなんて悲劇的です」、また介護の人が子供言葉で「さあ、食べましょうね~」なんて言うのは如何なものかと思います

最近NHKスペシャルで「介護殺人」を扱っていました。自分が自分でなくなった時まで生きることは、自分の愛する人にまで不幸にする可能性があることを思い知らされました。
著者は最後の方で、「私の考え方としては、人間はこれだけ大変な世の中で苦労しながら生きてきた。生まれるときも自分の意思で生まれてきたわけではないから、せめて死ぬ時ぐらいは自分の意思で幕を引きたいというのが、究極の願望です」と言っています。極めて重い言葉ですが、これから私もたっぷりある自由時間を使ってそのあたりを“妄想”していきたいと思いました

以上

生い立ちの記(生誕・抑留・引揚・困窮生活)

以下は、私が中学一年の夏休みの宿題で書いた「生い立ちの記」(原稿用紙50枚がノルマだった)の最初の部分です。平仮名が多く文章が稚拙なのは、私が理系の人間で国語嫌いであったということで許していただくとして、内容については全て両親から聞き取ったもので、実体験に基づいているものです;

生い立ちの記

中学一年A組 荒井 徹

満州での誕生と終戦

昭和20年4月2日、満州の奉天市で次男として私は生まれた。父は満州航空に勤めており、わりあいと生活は楽だった。それから五ヶ月くらいはこのように平和に暮らしていた。所が、それからがいけない。8月15日、大東亜戦争が終わって日本中がうれしいやら、かなしいやらでわいわい言っている時、こちら満州はソ連軍が入って大混乱おちいっていた。私達は、といっても父は会社の関係で入らないが、営口(えいこう)へそかいしていた。それから半月位で又奉天へ帰って来た。それからの生活は非常に苦しかった。父は終戦して少したってからソ連に飛行場をとられ、社員は解散となったので、ブローカーをして生活をした。しかし、それも父は商売がへただったのでうまく行かず、着物、母の「かたみ」の指輪などを売って暮らしをたてていた。

生誕の家
生誕の家

もうそのころになると、ここはあぶなくなってきた。昼はその日の生活を立てるために、二足三文になった高価な着物等を売り、中国人が買っていく。夜になると武器をすてさせた無抵抗な私達のところへ、武器をもった強盗が入ってくる。私達は何軒かで集団をつくり、そのまわりに鉄条網をはりめぐらせし、雨戸はくぎでうちつけ、かんたんに出入りできないようにした。男は一日中服を着替えず、強盗のみはりに務めた。もし私達の所へ入ってきたら、ドラを鳴らしてさわぎおっぱらうようにした。さいわい私達の所には一度しか入らず、たいしたことにはならなかった(しかし、ひとりの死者がでたが)。

内地への帰還

その恐怖の一年間が過ぎていよいよ帰国の日が来た。国民政府が満州を占領し、すぐ私達を帰してくれたくれたのだ。そのつぎの朝から苦しい帰国までの日がつづく。7月1日の4時、藤浪町町ぐるみマーチョ(馬車)でいっせいに自宅を出発。北奉天まで行った。そこから貨物列車で錦県(きんけん)まで行った。その道中は非常に苦しいものだった。なにしろ馬や牛が乗る貨物列車なのだから、家の近所のおばあさんが病気の体で来たため死んでいった。さて、その長い苦しい列車の時間が終わって錦県駅について、それから徒歩で宿舎まで行く。それはとても苦しい。母は背に満一歳の私をおぶり、前に大きいリュックサックをしょっていた。満五歳の兄は私のおしめをせおっていた。父は隊長だったので、リュックサック一つをせおってみんなの世話をしていた。やっと宿舎について。そこは兵舎であった。そこで約一週間、3万人位が自炊をして暮らしたのだ。入るときはDDTを全身にまいた。おかげで、はえ、南京虫、のみ、などにはなやまされなかった。入ってから間もなく母が心臓病で苦しみだした。それはあまりにひどい過労のためであった。さいわいいっしょに来た医者にみてもらい注射をしたら落ち着いた。

やっと兵舎生活が終わって、貨物列車に乗って、しかもその貨物列車が中国人に略奪されるので戸を全部しめてある。放尿はなかなかできない。三時間位でコロ島についた。そこからいよいよ7月20日、アメリカ貨物船リバティ型に乗って一路舞鶴に向かって出発した。船上でも色々と苦しい事がつづいた。なにしろ貨物船なのでねる所がない。その上いっぱいつめこんだので全員が横になれない。私達は横になったが、父はずっとよりかかったままだった。食べものはコーリャンにやさい少々、サバの肉少々が入った、おかゆとは言えぬぞう水と言ったほうが正しい。そのため栄養失調で三人位死んだ。その時は本土までもっていくとくさるので水葬をした。船はそのまわりを ぼおーー ぼおーー と、きてきをならしてまわる。乗船者は水葬者を見送る。それで水葬は終わる。なにしろ暑いのですこしもじっとしていられない位だ。わたしのおしめは海水で洗った。こういう事が三日間続いた。やっと日本についた。

記念碑@葫蘆島
記念碑@葫蘆島
葫蘆島の港
葫蘆島の港

腸チフス罹患

舞鶴で一泊して、いよいよ父母の実家のある長野に向かう。宿泊所では久しぶりの風呂に入って旅のあかを落とした。つぎの朝はさっそく駅へ向かった。途中、新しいトマトがたくさん有り、帰国の苦しい旅で新鮮な野菜にうえていたのでさっそく買ってかぶりついた。舞鶴駅から名古屋に向かって汽車は出発した。名古屋駅ではもう一度風呂へ入り、一泊して朝、いよいよたい望の長野へ向かった。長野駅についてから父の実家に行った。そこでは便りが全々とどかないので、行った時は非常におどろいただろう。

私達はほかに住む家が無いので、一応そこで落ちつくことになった。と、半年ばかりして私の兄が元気がなくなってきた。ちょっと遊びにいっては、すぐもどってきてごろごろ横になる。きっとだるいのだろう。母はなにか悪い病気の前ぶれではないかと心配した。間もなくそれがほんとうになった。兄は急に高い熱が出たのだ。医者に診察してもらった所、それは腸チブスとわかった。すぐ入院だ。しかしほんとうは市の病院へ入るのだが、そこへ行くと設備も医者も悪いので死んでしまうおそれがあるので、無理して日赤に入院させた。兄の病態は思ったより悪かった。母は看護のため病院にいた。私はまだ乳をのんでいたので、のむ時だけ母に待合室に来てもらってのんだ。所が、どこから感染したか私にもうつってしまったらしい。兄の発病後一週間ぐらいで私は発熱した。すぐ日赤で診察した所、案のじょう腸チブスであった。すぐ私は兄のとなりの所に入院した。なにしろ私は満一年と五ヶ月ぐらいしかなっていないし、兄の病態は非常に重いので、母はどちらかは取られるとかくごしていたらしい。私はまだ小さい時だったので良かったが、兄はもう五才であったので、毎日太いリンゲルをやり、ほかにも注射をたくさんやったので苦しかっただろう。それから一ヶ月ぐらいで私達は奇跡的に助かった。私は兄より一週間ぐらいしてから退院した。兄はあまり重かったのでこしがぬけてたてなかったという。母は毎日大きなにんにくをたべていたのでうつらずにすんだ。その時こそはにんにくのききめをはっきり知った。私達は金が一文もないので、父が事務長にだんぱんに行って引あげ者のことを話し、入院費はただにしてもらった。兄の退院後は、栄養を取らなければいけないので、父母達は配給のとうもろこしの粉等を食べ、兄にはその頃食べたこともない白米を食べさせた。そのような父母の苦労で私達の病気もすっかり良くなって、兄は学校へ行くようになった。

引揚者住宅入居

それから二ヶ月、引揚者のアパートのある長野市居町に引っこすことになった。私達は一年間世話になった父の実家に厚く礼をいってうつった。そこではアパートはいかれてるながらも、まずしいながらも、親子そろった楽しい生活がはじまった。父もやっと職業が見つかった。工業学校の恩師に世話をしてもらって、フォノモーター作りを始めたのだ。だが依然として生活は苦しかった。兄は引っこしたらすぐに鍋屋田(なべやた)小学校に転校した。

昭和二十三年七月六日、妹が生まれた。目方は八百匁ぐらいで重い方だそうだ。

良くおぼえていない。多分四才ぐらいだろう。夏のある晴れた日、兄は野球かなんかしていた。私は下の魚屋の子供等といっしょに、どこだかわからないが、まわりはたんぼで真中にはすの生えている池がある、こんな遠い所へは一度も来たことがないのでうれしさに飛びまわった。私達はとんぼをとりに来たのだった。収穫がどの位あったかはおぼえていない。

もうもうとほこりがたっている。ここは私の前のアパートの廊下である。私は同じとし位の友達とパッチン(「めんこ」のこと)をやっているのだ。私は生まれつき勝負事が弱く、いつでもまけてしまう。それでもこりずに何回でもやるのである。

私のいつも遊ぶ所は居町公園である。そこは私のいる居町アパートに近く、木もたくさん植わってい、私の絶好の遊び場所だった。と言うのは、私が木登りがとても好きだったからだ。しかし、それもやめなくてはならない時が来た。それは私が公園のある桜木に登っていた所、ふとしたはずみに五メートルぐらいの所から落ちたのだ。私は腰がぬけたらしくたてなくなってしまった。ぼーとしてしばらくそこにすわったままでいると、運悪く父の知り合いの人が通った。その人はすぐ母に知らせたらしく、私がしばらくして立ってぶらぶらしていると、母が青くなって飛んで来た。それからは母に木登りはやめなさいと言われ、自分でも少々こわくなったのであまり登らなくなった。又、その横の川では良く落っこちて母にしかられたりした。

そのころ父は、フォノモーター製作がうまくいかなくなって、ついにつぶれてしまった。昭和二十五年の春、父は職業をさがしに東京に行った。さいわい友人が東京の武蔵野市にいたので、そこの庭にバラックを立て自炊してくらしていた。職業の方は、父の友人の紹介でビクターオート株式会社という会社に入社して私達に仕送りするようになった。私達の所へは月に一回帰って来た。