731部隊とは

今年(2025年)を「抗日戦争勝利80年」の記念の年と位置づける中国共産党・政府の方針を反映し、旧日本軍の秘密機関「731部隊」を描いた中国映画「731」が9月18日に公開されました(見出しの画像はその映画のポスターです)。公開初日は中国全土の映画館を席巻する勢いで上映され、一日あたりの上映回数の最高記録を樹立しました。ただ、時代考証など映画の出来栄え自体は評価が低く、9月末には入場者数は急速に失速した様です
ただ、満州に拠点を置いた関東軍指揮下の731部隊は、日本軍が日中戦争中に犯した最大とも言える戦争犯罪の当事者であるものの、戦後の歴史教育ではあまり重要視されず、私(荒井)自身も実態についてよく分からず2021年に投稿したブログ「日本の戦争の時代についての一考察」においても敢えて触れませんでした
そこで今回、SNSの情報や生成AIを駆使しての調査、常石敬一氏の著作「七三一部隊(生物兵器犯罪の真実)」、及び中国での証言を翻訳して纏めた「証言・人体実験」を読み込んで、以下に纏めてみました

ただ、731部隊の当事者や陸軍・政府関係者は、その犯罪性を認識しており、敗戦直後から国を挙げて徹底的な証拠隠滅を図ったことから、実験結果を含めたデータは極めて限定的であることはご承知おき頂きたいと思います
いずれにしても、731部隊の活動は、ナチスの人体実験と並ぶ重大な戦争犯罪とされており。日本国内では長らく「存在自体が否定」されてきたと思われますが、近年は証言・文書・遺構の発掘により、実態が徐々に明らかになりつつあります。更に、国際的にも「人体実験・生物兵器開発の最悪の事例」として研究対象となっています
*2023年8月21日・旧日本軍「731部隊」職員表など公式文書見つかる

尚、以下の記事で青色の文字で斜体で書かれている記事は私(荒井)本人の意見です

731部隊の活動及びその歴史的な経緯

<731部隊の設立~終戦までの活動の時系列での整理(重要部分は赤字
1914年~1918年 第一次世界大戦
初めて化学兵器が使用された
1925年 ジュネーブ議定書化学兵器、生物兵器(細菌兵器を含む)が禁止されました。132カ国が参加しましたが、日本は参加したものの署名はしませんでした
*後の731部隊長となる石井四郎(以下“石井”と表示)は条約で禁止しなければならないほど細菌兵器が脅威であり有効であるなら、これを開発する必要があると考えました。その後、石井は2年間の長期に渡り海外を視察し、帰国後に列強が細菌戦の準備を行っているので、日本もその準備をしなければ、大きな困難に直面すると陸軍省や参謀本部幹部らに説いて回りました

1931年 柳条湖事件(関東軍が南満洲鉄道の線路を爆破し張作霖を爆殺した事件)から満州事変が始まる
1932年
 日本の傀儡政権である満州国建国(1932年~1945年)
*1932年、石井は関東軍参謀本部・作戦主任参謀の遠藤三郎との親交を通じて関東軍の参謀本部で石井の意見は支持を得るようになっていました
1936年4月23日 板垣征四郎関東軍参謀長が梅津美治郎陸軍次官に「在満兵備充実ニ関スル意見を提出。この意見書の中に「関東軍防疫部ノ新設」があり、これが731部隊の母体となりました
*具体的には、公式文書に「昭和11年度(1936年)に於いて関東軍にて臨時編成しある病馬廠を改編して傷病馬の収療、防疫、細菌戦対策の研究機関たらしむる如く関東軍獣防疫廠を新設す 又在満部隊の増加等に伴い昭和13年(1938年)度以降其一部を拡充す 関東軍獣防疫廠の駐屯地は寛城子(中国吉林省長春市に位置する地域)附近とす」とあります


1937年
 盧溝橋事件発生、日中間の全面戦争突入(~1945年)
1939年5月 ノモンハン事件(~9月)
1940年7月 軍令陸甲第14号により、関東軍防疫部は「関東軍防疫給水部」に改編されました。そのうちの本部が「関東軍防疫給水部本部(通称:満洲第731部隊)」です。731部隊を含む関東軍防疫給水部全体での所属人員は、1940年7月の改編時で軍人1235人(内将校264人)と軍属2005人に増加し、東京帝国大学に匹敵する年間200万円(1942年度)の研究費が与えられていました

1945年8月8日 ソ連が参戦
*731部隊は、8月9日から撤退準備を始めました。人体実験の証拠を隠すことが第一の課題となり、ハルピンの本館内側の監獄に実験目的で収容されていた「得移扱(下記①、②参照)」の人々の殺害が行われ、次いで建物の破壊が関東軍工兵隊の手で行われました。この時の爆破に伴う煙はハルビン市内からも見えたと言われています
1945年8月15日 天皇陛下による終戦宣言
1945年9月2日 東京湾停泊中のミズーリ号上で降伏文書に署名
厚生労働省の集計によれば、終戦直前における所属人員は3560人(軍人1344人、軍属2208人、不明8人)でした
*ソ連国境から遠い本部ハルピンの731部隊と大連の支部の隊員はソ連軍の捕虜にはならず日本本土に帰ることが出来ました

1949年12月25日~30日 ハバロフスクに於いて戦犯裁判が行われました
*被告(合計12名):関東軍司令官・山田乙三、関東軍軍医部長・梶塚隆二、関東軍獣医部長・高橋隆篤、他
被告全員が有罪、強制労働収容所で刑期2年~25年大半が刑期満了以前に帰国しました

元軍医少佐・柄沢十三夫は、帰国を許された後自白したことを悔いて自殺しました

*公判書類から分かった事;
① 中国人を731部隊で人体実験の対象を得移扱と称していました
「得移扱」とする対象;スパイ(死刑又は無期の重罪対象)、謀略・諜報活動を行なっていて逆利用できない者、不起訴又は軽い刑であるが更生の見込みのない者
③ 「得移扱」を送り出す側であった大連憲兵隊では「大東亜戦争に協力せよ」との日系新聞の社説に対し反論を投稿した中国人を「反満抗日者」として731部隊に送っていました
④ 1940年7月に細菌をハルビンから上海に輸送する「関東軍野戦司令部命令書」も公判書類に含まれていました

1956年6月 中国に於いて731部隊に関わる戦犯裁判が行われました(下記写真、データは、中国での証言を翻訳して纏めた「証言・人体実験」よりコピー)

*731部隊で逮捕された隊員は、尋問を受け詳細な調書が取られています。また、逮捕された憲兵隊員からの証言から、間諜(スパイ)として拘束した中国人の逮捕日・氏名・年齢・職業に関わるデータも残っており、このデータから中国人逮捕者の内、「得移扱」とされた者も特定できます

50年代後半~60年代初めにかけて、米国が戦後すぐに731部隊から押収したはずの実験ノートなど詳細を記録した文書は、文書管理者が返還したとされています
*これらの文書について日本の報道機関が国立図書館に問い合わせたところ、それらの文書は厚生省を経て防衛庁に送られたとの事
*これに対し、防衛庁は「知らない」という返答をしています
日本政府はその後も、これらの文書及びその内容について自ら調べようともしていないと思われます

石井四郎・陸軍軍医の経歴
(731部隊を作った医師の終戦までの軌跡)

石井は、兵器としての細菌の存在に目をつけ、細菌兵器を開発しました。彼はその功績を認められ1942年には軍医としての最高の位である軍医中将まで昇進しました

石井は、1920年京都大学医学部を卒業し陸軍軍医となり、4年後には陸軍から京都大学・大学院に「細菌学、血清学、予防医学、病理学」の研究のために派遣されました
指導教官によれば、彼は実験中に大失敗をしており、実験者としては失格の烙印を押されていました。その後、1927年に「グラム陽性双球菌ニ就イテの研究」で医学博士の学位を得ています

1932年石井は細菌培養缶濾水機石井式濾水機/川の汚水を浄化し安全な飲料水に濾過する目的で開発した濾過装置)を発明し特許を得ています。細菌培養缶は密閉した容器で細菌の培養を行う為、感染の危険を少なくして細菌の大量培養が可能となり、これが生物兵器用の病原体作りの為に使用されました

1945年8月、ソ連軍が中国東北部に進軍してきましたが、石井はその情報をハルビン市内の隊長宿舎で聞き、直ちに東京と連絡を取り731部隊の建物の破壊と部隊員及びその家族の日本への逃避を指揮しました
その後、9月中は金沢の陸軍病院で731部隊員の恩給計算の資料作りをした後、米軍の戦犯追及を避ける為、陸軍参謀・服部卓四郎の指示で身を隠しましたが、1945年末になって彼の指示で米軍に出頭しました
*敗戦後直ぐに米軍による731部隊の調査が始まりましたが、人体実験を暴くことが出来ず、やむなく731部隊の関係者に、「研究上の情報を提供すれば戦犯免責を与える」という条件で、1945年末、米軍調査担当者と731部隊関係者が「鎌倉会談」と呼ぶ会合が開かれ、米軍は731部隊の活動の証言を得ました

1946年5月、米軍による731部隊についてのレポート(トンプソン・レポート)が纏められました。このレポートの中で石井の尋問記録が載せられていますが、人体実験については解明されていません。解明されたのは「731部隊の組織」、開発された「細菌爆弾の構造」、「航空機から細菌、その他を雨の様にばらまく“雨下”」のデータのみでした

1946年末、ソ連によるハバロフスク裁判で、石井たちを人体実験の罪で軍事裁判にかける為に引き渡しを求めてきました。驚いた米軍担当者が石井たちを再尋問したところ、“暗黙裡”に認めたようです。
その後、ソ連からの引き渡し要求を退け、再度戦犯免責を与えるとともに、本国から生物兵器専門家を呼び寄せ、石井たちから情報収集を行いました
これらを基に1947年6月には「フェル・レポート」が、12月には「ヒル&ヴィクター・レポート」が纏められました。いずれも人体実験の調査結果を述べたものです

石井は、戦犯免除後軍籍を離れ、一般社会で生活。公職追放期間中は千葉県印旛郡や東京都で医療器具や浄水装置の研究を行っていたとされています
一部資料によれば、防疫研究所(のちの国立感染症研究所)への助言も行っていたとも言われています。また、1950年代には千葉県や東京都で、医療関連企業の顧問的な活動(石井式濾過装置など)をしていたとされています
公的には目立った活動を避け、「病理学者」「細菌学者」として静かな余生を送っていた様です
1959年10月 石井四郎咽頭癌で死去

実際に行われた人道に反する行為

<人体実験>
1.感染実験
ペスト菌炭疽菌チフス菌赤痢菌コレラ菌などの病原体を、「得移扱」の被験者に注射・吸引・経口投与を行う
その後の発症経過、苦痛の様子、死亡までの時間を詳細に記録。またワクチンの開発も行った
*ワクチンの効果を確認する為の実験を行った雇員・田村良雄の証言;
「課長少佐Sの命令により、生体防御力及び毒力試験の目的を以て、1942年10月中旬の試験第一日に監禁していた5名の中国の愛国者の採血を行い免疫価を測定しました。次日に4種のペスト菌予防注射液(加温ワクチン、混合ワクチン、エンベロープワクチン、生菌ワクチン)を4名の中国愛国者に注射し、一週間後に再度注射しました。注射1ヶ月後に0.05ミリグラムを含有するペスト菌液1㏄を5名の中国愛国者に注射しました。この注射により5名の被実験の中国愛国者を重症ペストに罹患させ、内3名を殺害し、2名を該隊診療部の生体実験に提供し殺害しました
この様なプロセスは、結核のワクチンであるBCGや、抗生物質のペニシリンなどでも繰り返された。BCGの場合は、中国の子供たちを使って人体実験を行った。子供たちは、BCGを受けた数か月後に結核菌を接種され、ワクチンの効き目を確かめる実験台としました」

2.凍傷実験
得移扱」の被験者の四肢を氷水に浸し、凍傷を起こさせる。そのまま放置し、組織が壊死する過程を観察。その後、熱湯・火・衝撃などさまざまな方法で解凍を試み、「最も効率よく治療できる方法」を測定した。以下の写真は、常石敬の著作「七三一部隊(生物兵器犯罪の真実)」より転載しました

3.臓器観察と摘出
* 病原体に感染した状態の臓器を摘出するため、「得移扱」の被験者が生きている状態で解剖が行われたケースも証言されています。摘出された臓器はホルマリン漬けにされ、経過観察のサンプルとして保管されました

4.弾丸・爆弾実験
* 爆発物や毒物の威力を測定するため、「得移扱」の被験者を実験対象として、至近距離で爆薬を用いた被害データを収集

5.人体実験を直接実施した軍医「湯浅謙」の証言
① かれの経歴については、Wikipediaの「湯浅謙」をご覧ください
② 常石敬一氏の著作「七三一部隊(生物兵器犯罪の真実)に書かれている証言
*湯浅は、軍医として中国に居た3年半の間に、14人の中国人を生きたまま解剖し、また手術の練習台として殺した
* 1942年12月、湯浅は、太源監獄で次のような手術演習を経験している
証言内容;
「山西省を占領していた陸軍第一軍の軍医約40名を集めたある日の講習会でのことだった。軍医たちはいつもの防疫給水部の講堂でなく太源監獄に集合するよう命令された。集まった軍医たちの前に陸軍省法務部の白い肩章をつけた男が二人出てきた。その後、引き出されて来た中国人の男を坐らせた。白い肩章の男たちは、やにわに拳銃でパパーンと4、5発中国人の腹を撃った。後手にゆわかれていた男たちは、前方に身をくずした。これは、身体に入った弾丸をどれだけ手早く取り去ることが出来るかを競うゲームと言うべきものの始まりだった。出血して悶えている中国人を5~10人の軍医が別室に運び、弾丸を手早く抜き取る手術を始めた。湯浅は手術中に更に拳銃の発射音聞いているので、さらに2人の中国人が撃たれ、「手術演習」の犠牲になったことを知った。弾丸を取り出す手術にあぶれた軍医たちは、中国人の四肢の切断や気管切開をした。参加した軍医の何人かが、“別に珍しいことでもなく、しょっちゅうのことだ”とささやき合うのを聞いて、この種の“手術”は自分の陸軍病院だけでなく、あちこちの部隊でもやっていることを知った」

③ 湯浅謙の戦後の経歴;
*1945年8月、日本への帰国ではなく、国民党軍の軍医となる道を選び、1945年の中国革命による新中国の成立後は、共産党政権の医師として働いた
*敗戦後も中国に残ったことについて湯浅謙は、「私は3人の中国人を、自身の手術演習で殺していた。そこで、医者として残った」と回想している
湯浅謙が関わった人体実験で殺された人は全部で14人
*1951年に中国軍の捕虜となり、翌年末に山西省太源の戦犯管理所(終戦までは日本軍の捕虜収容所・太源監獄)に収監されました

*1956年6月 起訴免除となり釈放日本へ帰国
*1956年7月 肺結核の治療のため、東京赤十字病院に入院
*1957年3月 慈恵医大の内科で再研修
*1958年7月 中国帰還者連絡会に参加。白十字病院で初めて証言する。以降、反戦・平和、原水禁、日中友好運動などに積極的に参加する
*1958年3月 民医連・西荻窪診療所に勤務、所長となる
*1976年 西荻窪診療所所長を退任、勤務医となる
*1988年秋 帰国後はじめて太原へ謝罪の旅
*1991年10月 4回目の訪中。潞安を訪問。
*2010年11月 心不全のため死去。享年94歳

6.人体実験によって殺害された犠牲者の数
生成AI(ChatGPT、Copilot、Jemini)で調べた所、いずれも正確な人数は、現在も確定していません。これは、戦後に多くの資料が破棄されたこと、関係者の証言が限られていること、記録の多くがソ連や中国など複数の国に分散していることが理由です
ただ各生成AIの回答では、概数としては、人体実験によって殺害された犠牲者の数は、3,000人前後ということで共通しています

また、中国側の推定では細菌戦などを含めると、731部隊が関わる総犠牲者数は、
10万〜30万人規模とされています

生物兵器の実戦使用の記録

以下は、主として生成AI(ChatGPT、Copilot)を使ってデータを集め、筆者(荒井)が編集したものです
<実戦使用の記録>
731部隊(およびその関連部隊)では、中国で複数回、細菌兵器の実地使用(散布・汚染・感染工作)を行ったとする十分な史料証拠が残っており、代表的な事例は以下の通り;
① 伝染性ノミ(ペスト菌)の空中散布
1939年~1941年、満洲・中国本土でペスト菌に感染させたノミを飛行機から撒布する実験・攻撃が行われた記録があります。代表的な標的として寧波、湖南省長沙近辺への散布が報告され、多数の死者が出たと報告されています
② 井戸・飲食物への細菌混入
南京などで、井戸や家屋、食物にコレラ・チフス・パラチフスなどの細菌を入れる工作が行われ、結果として局所的な感染発生があったとする証言・報告があります。これらは“効果確認”を目的とした実験の一部だったとされています
<参考>
常石敬一氏の著作「七三一部隊(生物兵器犯罪の真実)」掲載のデータ

③ 各種細菌爆弾・撒布装置の開発と実地試験
ペスト菌、炭疽菌、コレラ菌、腸チフス菌、パラチフス菌、鼻疽菌、等を戦術的に使うためのばらまき方法(爆弾、容器、動物を用いる手法)を研究・量産し、満洲・中国各地で実地試験を行ったという記録が残っています。報告書や押収文書には、生産能力や試作型の設計図が含まれています
<参考>
常石敬一氏の著作「七三一部隊(生物兵器犯罪の真実)」掲載のデータ

上記の「マルタ」とは、実験の犠牲となる得移扱」の捕虜のことです
ベスト弾の瀬戸物の破片で死亡することの無い様に臀部以外の身体は布団にくるまれていました。爆弾が破裂した後、被験者は担架で部隊に運ばれ、どのような傷であれば感染が起こるか、何日間で発病するか、そしてどの様に死んでいくかを観察された多くの場合、全員が感染し数週間以内に死亡している

<被害規模及びその評価>
死亡者数の推定は研究者により幅(数千人〜数十万人)があるため確定は難しい。中国での刊行物の資料や米国公文書の未公表文書解読が進み、被害の全体像は年々明らかになっているものの、正確な死亡者数は資料の欠落と終戦後の隠蔽で不確定な部分が多く、またどのケースで何人が亡くなったか、疾病流行の直接的原因が散布によるのか自然発生かの切り分けなど、史料・疫学的検証が必要で、学術上の争点が未だに残っている部分があります。更に、戦後すぐに大量の証拠隠滅が行われたこと、また米国による加害者の免責と引換のデータ取得で証言の信憑性に問題があったことも重要です

731部隊に参加した医師の経歴

731部隊には多くの医師が参加していますが、指導的な役割を担った医師について生成AIで調べてみました
ChatGPTによれば、終戦時に石井が 組織的焼却・証拠隠滅 を命じたため、731部隊に参加した医師(軍医)全員の氏名を完全に網羅した公的リストは現存していませんただ、裁判記録・証言・回想録・防衛省旧陸軍名簿などから、主だった医師・研究責任者(⇔細菌学を担当した軍医)は判明しています。概要は以下の通りです;
参加した軍医の人数(概数);
731部隊全体の人員は 約3,000名、この数には 日本、満州、中国、朝鮮から徴用された労務者・技師・警備兵を含みます。この内、日本人職員(技術者・医官)は600人~700人であり、 生物研究・解剖・培養を担当しました。この中の軍医・医師(細菌学者・病理学者) 約150人~200人と言われています
< 出身大学の傾向>
当時の軍医はほぼ 帝国大学(旧帝大)と医官学校 出身です。大学出身者数の傾向は;
京都帝国大学 :最多、 石井の母校、彼の学閥が形成された。初代731部隊長が京大出身だったため、京大人脈が指揮中枢に集中した
*東京帝国大学(東大): 多い 、病理学・衛生学分野で供給
*大阪帝国大学: やや多い 、新設医学部からの若手研究者
*満州医科大学 :現地供給 臨床医・研究補助者
*主要な軍医・研究責任者の役職、出身大学、その他の情報

主要な軍医・研究責任者に税金で学費の大半が賄われる帝国大学の出身者が多いこと、また人を助けるはずの医学の研究をする為に、軍の命令とは言え医師が「ヒポクラテスの誓い」を破り人を殺すことを厭わないことは、どうしても理解できません

おわりに

731部隊に関わる負の歴史については、調べれば調べるほど辛い気持ちになります。特に人体実験が帝国陸軍の命令を基に行われたとしても、人の命を救うはずの医師が、自ら生きている人間に細菌を植え付け、生きている人間を解剖し死に至らしめたことは信じがたい事だと思います。我々が学生時代に学んだ人体実験「エドワード・ジェンナーの種痘の人体実験」が許される限界だと思います(これに似た人体実験?は現在のワクチン開発の最終的な臨床試験で、生命に重大な危険が無い範囲で、被験者の承諾を基に行われています)
戦時中に国家が、こうした言訳のできない人道に反する罪を犯したことは、近隣の東南アジア諸国、とりわけ中国との外交関係を未来に亘って正常に維持していく為には、日本の歴史上の過ちを国民一人一人が常にリマインドする必要があると思います

また、731部隊の蛮行以外に、中国人に対しては以下の様な取り返しのつかないつかない傷を残しています;
* 盧溝橋事件以降の日中戦争によって失われた命(生成AIのデータ)

中国人の死者数が如何に膨大であったが分かると思います
*2015年に、私共家族のルーツである満州国の歴史旅をした折「偽満皇宮・博物院“偽満”とは偽の満州国、つまり日本の傀儡政権を意味します)を訪ねましたが、この博物館では以下の様な写真が沢山展示されていました。この博物館を出た後で中国人家族に中国語で真顔で怒鳴られて恐怖を感じた記憶があります。後で案内してくれた中国人のガイドに聞いたところ、日本人に対する怒りを叫んでいたそうです               

* 歴代総理の歴史認識(歴代首相の戦後50年~80年の談話);
政府は、戦後50年(1595年)の村山富市首相から戦後80年(2025年)となる石破茂首相まで10年ごとに首相談話を公表しています。この談話の中で最も重要な部分は、先の大戦で日本が近隣諸国に対して犯した過ちをお詫びすることと、国民が日本の負の歴史を正しく学ぶことの重要性だと思います

今後も重要な資料等が見つかることがあるかも知れませんので、本ブログに関するFollow_Upを着実に行っていきたいと思います。

以上

羽田空港 C滑走路上の衝突事故・原因と対策

はじめに

2024年1月2日夕刻、羽田空港C滑走路で着陸機であるJAL516便(札幌⇒羽田)エアバスA350-941型機と、C滑走路上で離陸滑走を開始すべく停止していた海上保安庁のボンバルディアDHC-8-315機(能登半島大地震の救援物資を搭載していた)が滑走路上で衝突しました。衝突時、JAL機には機長のほか乗員11名及び乗客367名の計379名が搭乗していました。また、海上保安庁機には、機長以下6名が搭乗していましたこの事故で海上保安庁機では機長1名が奇跡的に助かりましたが、他の5名は亡くなりました。JAL機は衝突後滑走路を走り、最終的に滑走路を外れて擱座して見出しの写真の様にほぼ機体全体が炎上しましたが、奇跡的に乗員・乗客全員が脱出に成功し救助されました(1名重症/肋骨骨折、4名軽傷)

当初から注目されていた大きな事故なので、最終的な「航空事故報告書」が発行されてから当ブログを寄稿しようと思っていたのですが、事故原因自体はかなり早くから報道されていたものの、最終的な報告が出てこないので、現在分かっている情報を纏めてみることにしました。国土交通省のサイトを探すと、この事故関連の最新の報告書は2025年3月27日発行の「事故調査経過報告_修正版の訂正版」でした。この経過報告は158ページに亙る大部なものなので、このブログではその内容を出来る限り簡明で分かり易い説明を試みてみました、以下はその内容です。尚、このブログで使われている画像のは多くはこの経過報告書から借用しています

* Follow_UP(2025年8月26日)にスキップする

事故の経過と事故原因として考えられていること

A.海上保安庁機 及び 管制官側のコミュニケーション上の問題点
     <事故調査経過報告に書かれている事故の経過>
海上保安庁のボンバルディアDHC-8-315機(以下「海上保安庁機」)は、誘導路を北東に向け走行中にタワー西管制官(主にA滑走路、B滑走路など、西寄りの運用)からグラウンド東管制官(下図/管制塔参照)へ通信移管された
17時44分13秒、海上保安庁機は、グラウンド東管制官から、誘導路C(下図参照)を経由して滑走路停止位置(航空機又は車両が滑走路手前で停止及び待機する場所であって、当該滑走路に接続する誘導路上における位置)まで走行する経路を指示された。このとき海上保安庁機・機長は、誘導路C上には、海上保安庁機の右側に先行機が2~3機いて、左側には後続機も1機いることを認識していた。海上保安庁機は、誘導路H(下図参照)から誘導路Cに入るために右折した後、グラウンド東管制官(上図参照)からタワー西管制官へ移管された
下図の「A機」とは「海上保安庁機」、「B機」とはJAL機

海上保安庁機・機長は、この時点では、海上保安庁機の離陸は、前方にいる先行機の後だろうと考えていた。17時45分14秒、タワー東は、海上保安庁機に対し、誘導路C5の滑走路停止位置航空機又は車両が滑走路手前で停止及び待機する場所であって、当該滑走路に接続する誘導路上における位置への走行を指示するとともに、海上保安庁機離陸順位が1番目であることを通報する趣旨で「No.1, taxi to holding point C5」と伝達した。海上保安庁機は、タワー東からの指示を復唱し、誘導路C5に向けて走行を継続した

しかし、この赤色の滑走路停止表示の運用は停止されていた

海上保安庁機の機長は、このときのタワー東からの指示について、タワー東から
「Runway 34R, line up and wait, you are No.1(滑走路34Rに入って待機
してください。あなたの離陸順位は1番です)」と言われたと記憶していた

       <2024年2月2日発行の毎日新聞記事>
事故直前の両機を含む離着陸機が管制官と交わした交信記録を分析すると、どのようなことが見えてくるのだろう。JAL元機長(彼の発言は下記の◆参照)に読み解いてもらい、事故の要因や背景を探った。【聞き手・寺田剛、内橋寿明】

管制官海上保安庁機と交信する約2分前の午後5時43分26秒から米デルタ機とやり取りし、滑走路南端にある通常の停止位置への走行を指示しています。交信順からはデルタ機が先に離陸予定だったと考えるのが自然でしょう⇒実際には海上保安庁機が先の離陸順となりました。そして、進入許可が出ていないのに滑走路に進入しました

海上保安庁機は、能登半島地震の支援物資を積んでいました。管制官は任務の緊急性、重要性を考え、順番を入れ替えたのだと思います。45分11秒からの海上保安庁機とのやり取りでは、離陸順を強調するため「1番目」と伝えています。さらに少しでも早く離陸させる目的で、滑走路途中から離陸滑走を開始させるための滑走路進入位置「C5」に誘導しました
「C5(上図参照)」の誘導にはパイロットの同意を得る必要がありますが、管制官は同意なしに「C5」を指示しています。一方、「1番目」、進入位置「C5」と聞いた海上保安庁機は、出発が遅れており焦りがあったかもしれません。進入位置までお膳立てされているので滑走路進入許可を得たと誤解し、停止位置を越えて滑走路に入ってしまったのではないでしょうか
海上保安庁機側は停止位置に向かいます。1番目。ありがとうと指示を復唱しています

◆ この「ありがとう」に心情が表れているように感じます。通常なら離陸を1番目にすると伝えられても「ありがとう(サンキュー)」とは言わず、「了解(ラジャー)」と応じると思います。自分たちが優遇されたという感覚から、思わず「ありがとう」という言葉が出たのではないでしょうか指示を取り違えて滑走路に進入したとみられる背景には、優遇されたという思い込みがあったと思われます。海保機には、新潟行きという普段と異なるフライト、支援物資輸送という任務に気負いはなかったでしょうか

海保機はJAL機の着陸を知らなかったのでしょうか?
知らなかったと思います。管制官は44分56秒にJAL機に着陸許可を出し、JAL機側は45分1秒に指示を復唱して交信は終わりました。一方、海上保安庁機が管制官と交信を始めたのは45分11秒です。通常は、交信を始める直前に無線の周波数を合わせますから、10秒前に交信が終わっていた JAL機の交信内容は聞いていなかったと思われます
ただし聞いていなかったとしても、海保機が滑走路に進入する際には、着陸機がいないかを目視で確認したはずです。走行中で確認位置からは見つけられなかったのか、優遇されているという思いがあり、しっかり確認しなかったのか、遠くの影響を受けない位置にいると思ったのか、あるいはまた、隣の滑走路への進入機と見誤ったのか、目視でも気づけなかったのでしょう。

海保機はなぜ、離陸許可を得ていたと思ったのでしょうか。なぜ、滑走路に進入後40秒も待機していたのでしょうか?
海上保安庁機管制官との交信を終えたあと、同じ周波数の無線から聞こえてくる交信内容を聞いていたはずです。具体的に言うと、JAL機の次に着陸予定だった後続の民間機と管制官との交信です。この民間機に対し、管制官「(JAL機と民間機との間に)出発機あり」と伝えて減速を指示しています。「出発機」は海保機のことですしかし、着陸予定のJAL機の存在を知らない海上保安庁機は、後続機への更なる「最低進入速度への減速」指示を聞いたことで、自分たちは離陸の許可を待って滑走路上で待機していたが、管制官から何も言ってこなかったのは「既に離陸許可も得ていたのだ」「自分たちが早く離陸しないとあとが詰まってしまう」と思い、後続機の着陸前に急いで離陸しようとしたのではないかと思われます

事故の要因を整理すると、どういうことが考えられますか?
◆ 主因は、海上保安庁機側の思い込みです。交信記録を見る限り、滑走路への進入許可は出ていないのに、滑走路に進入してしまいました海上保安庁機の操縦室内で管制指示をどのように相互に復唱確認したのか、指示内容を再確認できる手段は何だったのか、管制官やJAL機パイロットが、滑走路上に停止していた海保機に気づけなかったのか、その点も運輸安全委員会の調査のポイントです。日没で辺りは暗く、目視での確認が容易ではなかったことも影響したことでしょう

以上から、私(荒井)の判断としては、以下の要因が重なった為に海上保安庁機が滑走路に入って待機してしまったと思います;
海上保安庁機・機長が、管制官の指示「No.1, taxi to holding point C5」「滑走路上で離陸許可を出すまで待て」と判断してしまった
②「 出発順位が1番、、、」という管制官の指示
③ 滑走路停止位置表示の運用が停止されていた
④ 同滑走路を使用する着陸機(JAL機)の存在を知らなかった(←滑走路に侵入する前に着陸機を視認できなかった←「空は徐々に暗くなりつつある状態」だった為、及び「無線によるJAL機と管制官の交信を傍受していなかった」為
⑤ 管制塔の中にある「滑走路占有表示
」の注意喚起のサインを管制官が見逃していた可能性

B.JAL機側が滑走路上の海上保安庁機を事前に発見できなかったか?
      <事故調査経過報告に書かれている調査の結果>
1.海上保安庁機の外部灯火の視認性の検証
最終進入中のJAL機の操縦席からの海上保安庁機の見え方の参考とするため、2024年1月29日に以下の条件で検証を実
・使用航空機:海上保安庁機と同型機
・検証場所:羽田基地駐機場
・検証項目及び点灯した外部灯火は下表のとおり;

観察者の位置:最終進入中の着陸機の操縦席の位置を模した場所(水平距離は後方400.8m、約2.8°上方)

検証時の周囲の状況:夜間(日没1時間後)、月なし
<検証結果>
海上保安庁機の水平尾翼中央部にある衝突防止ランプ灯(赤ストロボ)
及び上部尾灯位置灯(白)、胴体尾部にある衝突防止灯(白ストロボ)及び下部尾灯位置灯(白)が上後方から視認ができた

2.JAL機のシミュレーターによる検証
2024年4月17日、及び同年8月31日、A350型機シミュレーターを使用し、
事故があった滑走路への最終進入中におけるHUD(Head Up Diaplay/操縦室全面のガラス上に操縦に必要な基本データ下の画面の緑色の画像を投影する仕組み)の表示、滑走路飛行場灯火及び事故当時滑走路上にある海上保安庁機と推定される場所の位置関係の確認及び飛行中の操縦士の視線の動き等のデータ収集を目的とする検証を行った(尚、検証に使用したシミュレーターは、操縦士の手順を訓練することを目的として作られた装置であるため、飛行データ及びシミュレーション映像は、実際の飛行状況及び風景を完全に再現したものではない)
<検証結果>
海上保安庁機が停止していた位置は、JAL機の最終進入における滑走路上の降下目標から約150m着陸方向であった。
JAL機の最終進入中のHUDの Flight Path Vector (飛行経路ベクトル)の表示は、フレア操作(着地前に機首を上げる操作)開始まで最終進入の降下目標点付近にあった
*Flight Path Vectorとは:現在の航空機の実際の運動方向(進行方向)を示すシンボルです。
*通常、「飛行機の機首方向鼻の向き」とは異なる
風や対気速度の影響で、機首が向いている方向と、実際に機体が進んでいる方向にはズレが生じる
*Flight Path Vectorは「実際の航空機の移動方向」を視覚的にパイロットに示すためのものです
*表示例
:✈ ⇒これが機首方向(飛行機マーク);〇 ⇒これがFPV(移動方向)

海上保安庁機が停止していた位置は、滑走路中心線灯及び接地帯灯が滑走路面に埋設されている場所で、後方から視認可能である海上保安庁機上部尾灯位置灯(白)、下部尾灯位置灯(白)及び尾部に取り付けられている衝突防止灯(白ストロ
ボ)は、滑走路中心線灯の列とほぼ同じ線になっていた

④ 最終進入中の操縦士は、飛行状況を確認するため、HUD内の表示だけではなく、PFD(Primary Flight Director)等の従来の計器を含めた確認を行っていた*Primary Flight Directorとは:航空機の操縦において非常に重要な計器で、パイロットが所望の飛行経路に沿って飛行するための視覚的な操縦指示を提供します
*主な機能と役割:
姿勢指示:機体がどのようなピッチ角(上下の傾き)やバンク角(左右の傾き)を取るべきかを計算し、表示します
操縦支援:パイロットはPFDのバー(通常は逆V字型)に機体を合わせることで、正しい飛行姿勢を維持できます
自動操縦との連携:FD(Flight Director/機体の姿勢(ピッチ角とバンク角)を視覚的に示してくれるシステム)はオートパイロットと連動して動作することが多く、オートパイロットが何をしているかを視覚的に示します
手動操縦時の補助:自動操縦を使わない場合でも、FDはパイロットにとって非常に有用なガイドになります。
以上から、「事故調査経過報告_修正版の訂正版」では、発見可能であったとも、発見不可能であったとも判断していませんが、私(荒井)の判断としては
① 海上保安庁機の上部尾灯位置灯(白)、下部尾灯位置灯(白)及び尾部に取り付けられている衝突防止灯(白ストロボ)は、滑走路中心線灯の列とほぼ同じ線になっていたこと
(⇔非常に見難い)
② JAL機が着陸速度 250〜270km/h (秒速70メートル前後)
でアプローチしていること
③ 着陸前にフレアの操作をして機首上げの状態にあること(←下方の視界が制限される)
④ 着陸許可を得ている滑走路に進入していること等を勘案すると、事前に発見して衝突を避けることは非常に難しかったと思います
*筆者(荒井)の友人である機長経験者の意見によれば、HUDを見ながら操縦していたとすれば、
パイロットの眼の焦点は滑走路ではなく、HUDが写される前面のガラス(Windshield)に合せているので、滑走路上の海上保安庁機の上部尾灯位置灯(白)、下部尾灯位置灯(白)及び尾部に取り付けられている衝突防止灯(白ストロボ)を視認するのは極めて難しいはずとのことです

事故の要因となった問題点とその対処策

この報告が出されるまでに、離発着回数の多い羽田空港(1日当り平均千回以上)をはじめとするする混雑空港での同種事故を抑止するために、以下の様な対処策を行っています;
2024年1月9日、離陸順序を示す「ナンバーワン」を取りやめることを始めました
詳しくは日経新聞記事 “羽田事故で国が緊急対策 「ナンバーワン」使用取りやめ”をご覧ください

2024年12月、国土交通省から“中間取りまとめで提言された対策(進捗状況)”
が出ています。以下は、本事故に直接かかわる対策の抜粋ですが、詳しくは“241200_中間取りまとめで提言された対策の進捗状況”をご覧ください;

     <離陸順序に関する情報提供の再開、他

* 「ナンバーワン」使用取りやめについては、事故発生後、当面の措置として停止した航空機の離陸順序に関する情報提供(No.1、No.2等)について、パイロット
側から「離陸準備等において有益」との再開を望む声が多かったことなどから、管制官とパイロットの双方に対して留意事項を周知徹底した上で、令和6年8月8日より情報提供を再開した
*  管制官側の留意事項
@ 離陸順序の情報提供に関して、必要性や有効性のほか、パイロットに与える心理的影響についても留意した上で判断する
@ 離着陸時や急な悪天時のように、パイロットが機体操作に特に集中する必要がある場面や状況では、簡潔明瞭な交信を心がける
@類似便名の航空機について聞き間違いが発生しないよう、便名の異なる部分を特に強調する
パイロット側の留意事項
@ 離陸順序の情報提供があった場合も、滑走路進入には既定の許可又は指示(“Cleared for take-off”等)が必要
@ 管制指示等を受けた場合は確実に復唱
@ 管制指示等の的確な把握に努め、内容に疑義がある場合は管制官に確認
@ 滑走路進入時及び着陸進入時は、特に注意して外部監視

  <管制官とパイロットとの間のコミュニケーションミスの防止>
この事故の原因の一つがコミュニケーションミスであることから、2025年6月に(公益社団法人)日本航空機操縦士協会一般財団法人)航空交通管制協会共同で「ATCコミュニケーションハンドブック」の改訂版が発行されました。大変具体的に記述されていますので、ご興味のある方はご覧になってください

       <滑走路占有監視支援機能の強化>
@主要空港(成田、羽田、中部、大阪、関西、福岡、那覇空港)において、滑走路占有監視支援機能(滑走路誤進入に係る管制官に対する注意喚起システム)を強化中(下図参照)

    <滑走路状態表示灯(RWSL)の導入拡大(羽田空港C滑走路)>


     <管制官の人的体制の強化・拡充(緊急増員等)>
@ 航空機の離着陸に係る監視体制の強化を図るため、2024年7月31日付で管制官を14名緊急増員
@ 今後の航空需要の増大に対応しつつ、滑走路上の安全確保に必要な体制の維持・充実を図るため、2024年6年12月期より、航空保安大学校の管制官採用枠を12名(年間36名)拡大
@ 管制官の欠員解消に向けて、中途採用等を積極的に実施

    <管制官の人的体制の強化・拡充(離着陸調整担当の新設)>
@ 航空機の離着陸に係る監視体制の更なる強化を図るため、2025年度より主要空港(成田、羽田、中部、大阪、関西、福岡、那覇空港)に離着陸調整担当の管制官を配置予定。なお、新千歳空港では、防衛省において独自の監視体制を導入済み
離着陸調整担当が地上管制担当やレーダー担当との調整を行うことで、飛行場管制担当はパイロットとの交信及び航空機の監視に専念

          <管制官の就業環境の改善>
@ 管制官について、2020年度より国際基準に準拠した疲労管理(管制業務を行う最大連続時間の規制等)を導入済み
@ 担当席の業務の困難性・複雑性に応じた負荷の違いを勤務計画にきめ細かく反映するため、2026年度より新たな疲労管理システムを導入予定。
@ 羽田空港(東京空港事務所)では、事故発生後、現場業務に従事する全ての職員に対して、ストレスカウンセリングを実施済み
@ 今後、羽田空港以外においても、管制官にストレス管理の基礎知識等を付与するためのセミナーを順次開催する予定

      <滑走路誤進入検知システムの高度化に向けた調査・研究>
@ 空港面監視システムの検知精度の向上のため、海外動向調査等を実施中
@ 音声認識技術等の活用による管制交信のテキストデータ化及び認識齟齬等の検知・警告機能の導入に向けた調査を実施中
@ 航空機側の滑走路誤進入検知システムに係る海外メーカーの動向を把握しながら、導入に向けた課題の抽出等を実施中

多くの称賛が寄せられたJAL機の運航乗務員・客室乗務員の行動

          <寄せられた称賛の例>
2024年1月4日付 日本経済新聞 朝刊の記事
海外主要メディアは羽田空港で2日に日本航空機と海上保安庁機が衝突し炎上した事故を大きく取り上げた。米メディアは炎上する日航機から乗客・乗員379人全員が脱出したことを「奇跡だ」などと伝えた
米紙ニューヨーク・タイムズは航空専門家の意見として「全員が退避できたのはまさに奇跡だ」と報じた。脱出は乗務員と乗客の協力が成功した証だと指摘した。
米CNNは滑走路で激しく炎上する機体や煙に包まれる機内の映像を繰り返し放送した。乗客が荷物を持たずに脱出シューターから退避したことなどを「お手本のような対応」だとする専門家の見方を紹介した
米紙ウォール・ストリート・ジャーナルは米国の元事故調査官の話として、事故機からの脱出が円滑に進んだ理由を「航空会社の能力」と「航空機の設計」によるものだと説明した
衝突した日航機は機体に先端素材を採用した欧州エアバスの大型機「A350」。英BBCはエアバスが事故調査の専門チームを派遣することに触れ「A350が初めて巻き込まれた大事故」だと指摘した

     <報告書に書かれている運航乗務員・客室乗務員の行動>
機体が停止した後、機長は、すぐに非常脱出することを決定し、非常脱出のための手順を開始した。当該手順を実施している途中、機長は、操縦室に来た客室乗務員から火災発生の報告を受けたが、脱出指示装置及び機内放送システムが使用できなかったため、当該客室乗務員に大声で脱出を指示した。機長及び訓練乗員が、チェックリストに従い左右のエンジンを停止する手順及び両エンジンに消火剤を放出する操作を行った。この操作により左エンジンは停止したが、右エンジンは停止しなかった。このエンジンの作動状況について、操縦室内の計器上に何も変化が起こらず、運航乗務員は、両エンジンの状況が分からなかった

3名の運航乗務員は、非常脱出の手順において、機長は、脱出指示装置及び機内放送システムを利用して非常脱出の指示を客室にいる乗組員及び乗客へ伝達することを試みたが、いずれも機能しておらず、非常脱出の指示を一斉に伝達することができなかった
非常脱出の手順を完了した3名の運航乗務員は、操縦室を離れ、乗客の脱出援助を行った
客室では、前から3番目の出口の前方付近で側壁と床の隙間から白い煙が立ち始
め、刺激臭と共に徐々に濃くなっていった
各客室乗務員は、機体の完全停止を確認した後、乗客を落ち着かせるためパニック・コントロールを実施するとともに、機外の状況を確認し、その状況を機長に緊急連絡しようと試みた。しかし、インターホンによる通話ができず、また、他の乗務員ともインターホンでの通話はできなかった。左側前から2番目の出口(以下「L2」という。)、右側前から2番目の出口(以下「R2」という。)、左側前から3番目の出口(以下「L3」という。)、右側前から3番目の出口(以下「R3」という。)及び右側最後方の出口(以下「R4」という)を担当するそれぞれの客室乗務員は、担当出口の外で火災を確認したため、当該出口は非常脱出に使用できないと判断した。特に、R4においては、火災のほか、火花が後方に飛んでいる様子をR4を担当する客室乗務員が視認したことも、R4を非常脱出に使用しないことにした理由であった
操縦室の扉が外れていることに気付いた先任客室乗務員と左側最前方の出口(以
下「L1」という)担当の客室乗務員は、操縦室に向かい、運航乗務員に状況を伝
えた。先任客室乗務員及びL1担当の客室乗務員は、機長Bから非常脱出の指示を
受けると、同指示を右側最前方の出口(以下「R1」という)担当の客室乗務員に
大声で伝達した。この伝達を受けたR1担当の客室乗務員と先任客室乗務員は、機
外の状況を確認した後、17時51分30秒ごろ、L1及びR1のドアを開放して
脱出用スライドを展開し、乗客の非常脱出を開始した

L1及びR1からの非常脱出が開始された後、機長及び先任客室乗務員は、L1及びR1に向かう乗客の脱出の動きを阻害しないようにしながら、客室の後方に向かい、前方から非常脱出するよう、乗客に指示した
L2及びR2の担当客室乗務員は、客室前方が明るくなり、乗客が前方へ移動し
始めたことに気付き、非常脱出が開始されたと判断し、付近の乗客に対して、前方
に移動して脱出するよう指示をした
前方から3番目の出口より後方の担当客室乗務員は、機長Bからの脱出の指示を
受け取ることができず、煙が次第に濃くなる状況で、乗客への対応を続けたこの
間、インターホンが作動せず客室乗務員間の連絡も取れなかった火災のため出口
を使用しないこととした客室乗務員は、それぞれが担当する出口のドアを乗客が
誤って開けないようにするため、ドアから離れなかった。そのため、3番目及び4
番目の出口では、担当客室乗務員同士が直接、大声で使用可能な脱出口の有無を確
かめた。
L3担当の客室乗務員は、担当の位置から前方を確認したが、煙が濃くなり視界
が悪く、2番目の出口付近の状況を確認できなかった。かすかに懐中電灯の光が見
えたが、それが脱出を促しているのかは判別できなかった。前方にいた機長及び
先任客室乗務員は、乗客の脱出が前方から進み、通路を通って後方への移動が可能
となったため、発煙の中、客室を後方に進み、L3担当の客室乗務員に乗客を前方
へ移動させるよう指示し、当該客室乗務員は周囲の乗客に前方から脱出するよう指
示した
以下の写真はL3より後方の席から前方を撮影した煙の充満状況である。通常照明が消え非常灯のみが点灯する中、次第に煙が濃くなっている

R3担当の客室乗務員は、周囲の乗客が前方に移動する姿が見え、「脱出」(発声
者は不明)という声が聞こえたので、周囲の乗客に前方から脱出するよう指示した。
機体最後部左側出口(以下「L4」という。)担当の客室乗務員は、乗客への対応
を行いながら状況確認を続け、客席内に煙が充満し、周囲の状況が切迫してきたこ
とから、機長から非常脱出の指示を受けられない状況で、乗客を助けるためには担
当ドアを開けなければならないと判断し、同社の規程に従い、L4の外を見て、火
元がないこと、燃料漏れがないこと、スライドを展開するスペースがあることを確
認した後、17時55分ごろ、L4ドアを開放し、周囲の乗客に脱出するよう指示
した。
このような状況において、多くの乗客は冷静に行動し、乗組員の指示に従ってい
。また、一部の乗客は、日本語及び英語で行われた乗組員からの非常脱出の指示が、直接届いていなかった。これらの乗客の中には、周囲の乗客の動きに気付き、その動きに追随して脱出した者もいたが、自席付近で姿勢を低くして留まるようにとの客室乗務員からの指示を守り、客室乗務員からの次の指示を待ち続ける者もいた自席付近に留まっていた乗客は、逃げ遅れた乗客がいないか機内を捜索していた機長に発見され、脱出した機長は、客室内に乗客及び他の乗組員が取り残されていないことを確認し、17時58分、L4から脱出した。脱出後、各乗組員は、乗客の誘導及び確認を行うとともに、機長は、携帯電話で会社に対してJAL機の搭乗者全員が脱出したことを報告した
各出口から脱出した人数は、L1及びR1を使用した乗客が340~350名程
度、L4から脱出した乗客が20~30名程度であった

停止した後の機内照明は、各ドア及び客室通路天井部に設置されている非常灯が
点灯していた。このため、機内は、周囲が視認できる程度の明るさを維持していた
ただし、時間の経過とともに煙が機内に充満したため、特に客室後方では、視界が
悪化していった
JAL機には拡声器が4台搭載されており、非常脱出の開始後、一部の乗組員がこれ
を使用した。拡声器を使用していた乗組員の中には、騒然とする客室や外部からの
エンジン音などと紛れてしまい、音声が届きにくいことなどを感じて、拡声器の使
用をやめ、肉声での指示に切り替える者がいた。搭載されていた拡声器4台のうち、2台が事故後に回収された
なお、一部の乗客から、乗組員からの非常脱出指示の伝達状況に関する聞き取りを行い、脱出を開始した契機について確認した。その結果は下図の通り;

緊急に改善が必要なこと

今回、最新技術のエアバス機であるが故に大きな問題になりそうな点(私見)が報告書に書かれています。エアバスA350-941型機の機体で使われている材料は以下の様になっています;
機体外装のかなりの部分が CFRP(Carbon Fiber Reinforced Plastics)で作られており、これは炭素繊維を樹脂(主にエポキシ樹脂)で固めた複合材料です。 軽くて強く・硬い材料としてスポーツ用途から産業用途、航空機、自動車に至るまで幅広い用途で使用されています。他の航空機にも徐々に使われていることは承知していましたが、不勉強のせいかこれ程までとは知りませんでした。勿論、飛行機に使われた場合の強度及び耐火性については欧州の規制当局及びエアバス社がしっかり管理しているとは承知していますが、事故当時の火災の状況を動画で見ているとちょっと心配になりました
今までの航空機は、外板の大半がジュラルミン(アルミ合金)で出来ており、この様に完全に燃え尽きることは無かったような気がします、、、
ただ、CFRPが燃えることによる有毒ガス、その他の有害な物質についてはこの報告書でも以下の様に言及しています;
素材として使用されている炭素繊維は、径が細く、何らかの理由で短くなった単繊維は粉塵となり大気中に飛散しやすい。また、飛散した炭素繊維は、皮膚や粘膜に突き刺さりやすく、痛み・かゆみを引き起こすほか、目や喉に障害を与えることがある。炭素繊維の粉塵が飛散することが予想される現場では、皮膚を露出しないとともに、防塵の吸い込み等を塞ぐために以下の様なマスク及びゴーグルの着用が必要とされています

ただ、今回の事故の際は、最初に出動した羽田空港の消防隊員の方々は、この様な防護体制は採っていなかったと報告されています
一方、救助された乗員・乗客の方々は、火災を起こしている事故現場から早々に安全な場所に誘導されていました

いずれにしても、これまでの航空機は、全損事故であっても搭載していた燃料は激しく燃えるものの、外板自体がこの様に有毒ガス、有毒物質を飛散させながら激しく燃えることは無かったと思われますので、事故後火災が発生した時の救助活動、消火活動については改善の余地があると感じました(私見)

Follow_UP(2025年8月26日)

ブログ発行後、本件について追加調査した結果を以下に記します
まず、衝突後 C 滑走路脇に擱座したあと、火災が鎮火するまでの状況を 2025年3月27日発行の事故調査経過報告_修正版の訂正版(以下「報告書」)から拾うと以下の様になります;
①17時46分26秒 JAL機の主脚が滑走路に接地
②17時48分14秒 機体が停止
③17時51分30秒頃 L1、L2から脱出開始
室内に煙が出て、徐々に濃くなる
④17時55分頃 L4を開放し脱出開始
17時58分 客室内に乗員乗客が取り残されていないことを確認し、最後に機長がL4から脱出脱出
*L4からの脱出者は20~30名

機体停止後脱出を開始した時間:17時51分30秒 ― 17時48分14秒 = 3分16秒
脱出に要した時間:17時58分 ー17時51分30秒 = 6分30秒
<参考>
航空機の設計基準には、「機内の全非常用脱出口の半分以下を使って、事故発生から90秒以内に規定された搭乗者全員が脱出できることを実証すること」とあり、客室乗務員は定期的にこの訓練を行っています。事故機は全部で8ヶの非常用脱出口があり、今回は火災の状況を判断して3ヶ所だけ(L1,R1,L4)を使って脱出を行いました

17時59分ごろ、火災は客室内に延焼(全員脱出完了してから1分後)
事故報告書より:主脚格納室付近で発災した火災は、乗客・乗組員の非常脱出が行われている間、脱出に使用していたスライド及びその周辺に延焼することはなく、全乗客・乗組員が脱出した直後(機体が停止してから約10分後)、客室内に延焼した
⑦事故報告書より:客室内に延焼した火災は、その後、客室内部の機首方向及び機尾方向に拡大し、胴体中央部の外板が燃え始め、胴体全体に延焼した
* 羽田空港での火災を外部から撮影した動画は当日各放送局から放映されています

⑧事故報告書より:JAL機で発生した火災は事故発生翌日2時15分に鎮火した
火災継続時間:26時15分 ― 17時48分 =8時間27分

<乗員・乗客の生存率向上の為の規制>
航空機の大きな事故による乗員・乗客の死亡原因を調査・研究した結果、椅子やシートベルト類の強度及び、客室内の装備品類の防火性能の強度について厳しい規制が定められています
1970〜80年代に発生した 不時着・衝突事故 の調査で、それまでの9G(重力の9倍)規格では「生存域のはずの乗客が座席崩壊により死亡」という事例が多数判明しました。その結果、米国国家運輸安全委員会(NTSB)が 米国連邦航空局(FAA) に勧告を行い、1988年以降に型式証明を受ける旅客機では 16G座席が必須となりました。また、1992年以降に製造される既存型機の新造機にも適用拡大されることになりました

②1970年代以前、内装品(シートクッション、壁・天井パネル)は燃えやすい素材(ビニール、ウレタン)を使用していました。その結果、以下の事故例の様に火災時に有毒ガスや煙が大量に発生し、避難より先に乗客が死亡する事故が相次ぎました
*1973年 イベリア航空351便事故:不時着後の火災で多数が煙により死亡
*1983年 エアカナダ797便火災事故:緊急着陸後に機内が炎上し、乗客23名が煙で死亡 ⇒ FAAが規制強化を決断
*1985年 英マンチェスター空港 B737火災事故:離陸中止後の火災で55名死亡。煙と有毒ガスが致命的要因
この結果、以下の様に内装品の耐火基準が強化されました;
*1984年、 FAAが 座席クッション油火燃焼試験(oil burner test) を義務化された結果、難燃性素材が使われるようになりました
*1986年、 14 CFR Part 25.853を 改正。内装パネル、床材、カーペットなどの燃焼性・発煙性試験を強化

尚、1990年代以降、 国際的に harmonization (安全基準の統一)が進み、EASA(European Aviation Safety Agency/欧州航空安全機)、ICAO(International Civil Aviation Organization/国際民間航空機関)基準も FAA に準拠しています
*因みに、エアバス機はEASAの基準に従って設計されています

参考:上記以外の航空機事故と採られた対策の歴史

<CFRPとは>
CFRP(注1)は、中間素材のCFRP Prepreg Sheet(注2)というシート状の炭素繊維を一方向に引きそろえ、熱可塑性樹脂・粒子等を分散した高靱化エポキシを含浸させたものを多方向に積層し、その後加圧、加熱硬化して製造されます
なお、各積層間には層間剝離防止のため、高靱化エポキシ層が配置されている。
機体構造に使用されるCFRPは、使用される部位によって厚さが異なります
注1:CFRP:Carbon Fiber Reinforced Plastics(炭素繊維で補強・強化されたプラスチック)と呼びます。炭素繊維には、高剛性、高強度といった特徴以外に「導電性・耐熱性・低熱膨張率・自己潤滑性・X線透過性といった特徴も兼ね備えており航空機分野を含め多くの用途で使われています
注2:Prepreg Sheet:炭素繊維やガラス繊維などの強化繊維に、あらかじめ樹脂が含浸された状態で供給される材料です。この技術は、成形時に樹脂を別途準備する必要がないため、効率的な加工が可能で、均一な品質を保つことができます

<CFRPが燃焼した場合の危険性>
燃焼した複合材の粉塵に曝されると、分離した繊維体に曝される場合以上に大きな問題が引き起こされることがあるとされています。現時点では明らかなことは、危険物であると確認し、危険物質が及ぶ範囲がどのレベルのリスクであるかを特定するためには、今後も更なる研究が必要とされています
また、その他にも健康に短期的な影響を及ぼすものが、衝突して燃焼した複合物からの繊維体や組織片に曝されることによって発生します。既に知られていることとしては、細かい繊維片が目や鼻、喉、肺に対して極めて刺激性があるという事実があり、更に不完全燃焼の組織片は皮膚炎などを引き起こすという懸念も残っています。また繊維やその他の複合体と一緒に肺に取り込まれた物質は、人によってアレルギー反応を引き起こす場合もあり、これは重大な懸念事項と認識されています
炭素繊維協会によれば、素材として使用されている炭素繊維は、径が細く、何らかの理由で短くなった繊維は粉塵となり大気中に飛散し易く、飛散した炭素繊維は、皮膚や粘膜に突き刺さりやすく、痛み・かゆみを引き起こすほか、目や喉に障害を与えることがあるとされています

<A350に採用されることとなったCFRPの耐火性能、毒性の試験>
A350の胴体部分のCFRPの耐炎性試験および煙と有毒ガスの試験条件は以下の通り:
① 試験片は、胴体下半分の最小スキン厚さの平らな複合パネルを用いる
② 試験片は、約 4インチ x 4インチ x 4インチの金属製ボックス内の面に取り付ける。
③ 火源は規定通り調整された石油バーナーである。
④ 試験片はこの石油バーナーの炎に5分間さらし、この期間中にボックス内の環境条件を観察し評価する。
⑤ 煙の排出と毒性は、定められた基準に準拠している断熱材を備えた一般的なアルミニウム胴体と A350 CFRP 胴体および断熱材の比較テストで以下の基準で評価する。
5分以内に炎が浸透しないこと
* CFRP パネル テストの煙排出曲線は、アルミニウム構造テストの曲線よりも大幅に早く 10% の光透過率に到達してはならない。
* 毒性評価は、テストの 5 分間に「ボックス」内で測定された THC(燃え残りの炭化水素成分)、HCN(シアン化水素)、SO2(二酸化硫黄)CO(一酸化炭素)、Nox (窒素酸化物)の濃度の測定に基づいて行われる。濃度は、FAA技術センターが指定した許容限度と比較する

<筆者(荒井)の個人的な見解>
事故現場の写真・動画を見ると、今回の事故は旅客機に炭素繊維強化複合材料(CFRP)が大規模に使用された初めてのケースであり、衝突時に大規模な火災が発生した時の乗員・乗客の生存可能性について今後もう少し詳細な検討が必要だと思いました
エアバス社によれば、これまでの試験でCFRPの耐火性はアルミニウムと同等であることが示されたと言っていますが、火災が胴体全体に延焼した時の様子は、胴体のCFRPがメラメラと燃え上がり、消防隊による消火を行っている間も炎の勢いが勝っているように見えます。また、当該 JAL便が国内線であり、着陸時の代替空港が近くにあるので、残っている燃料はそれ程多くないにもかかわらず完全鎮火迄に8時間も掛かっていることを勘案すると、CFRP自体が高温で燃え尽きるまで燃えたと考えるのが自然ではないでしょうか、、、、、

尚、その後生成 AI(ChatGPT)を使って、CFRP製の胴体パネルの耐火性能試験、等について調査した結果は概要以下の通りでした(詳しくは「A350 XWBの胴体のCFRPの耐火性について_ChatGPT」をご覧ください);
CFRPは炭素繊維そのものは燃えにくいが、樹脂(エポキシ)は燃焼・分解するのが弱点。ただ、
航空機用では 難燃化エポキシ樹脂 を使い、酸素指数(LOI)が高い配合になっている。
*限界酸素指数 (げんかいさんそしすう、Limiting_oxygen_index、LOI)とは、重合体の燃焼に必要な酸素の最小濃度をパーセンテージで表したものである。
酸素と窒素の混合物を燃焼中の試料に通し、臨界レベルに達するまで酸素濃度を下げることにより測定される。様々なプラスチックのLOI値は、ISO 4589やASTM D2863などの標準化された試験により決定される。また、LOI値は、サンプルの周辺温度にも依存する。周囲の温度が上昇するにつれて燃焼に必要な酸素割合は減少する。プラスチックやケーブルの材料は、実際の火災状況下での酸素要求量を評価するために、周囲温度と高温の両方でLOI値を試験する。大気中の酸素濃度よりもLOIが大きい材料は、難燃材料と呼ばれる
CFRPが火に曝されると、まず樹脂が200〜300℃で熱分解 し可燃ガスが出る。400℃付近で樹脂はほぼ失われ、炭素繊維が露出。その後酸化雰囲気になっていれば炭素繊維
も徐々に焼失する

おわりに

今回の事故の原因が海上保安庁機と航空管制官とのコミュニケーションにあることは、ほぼ明らかであると考えられます。一方、事故の原因究明を担当する運輸安全委員会の中の「航空・鉄道事故調査委員会」は同じ国土交通省の管轄になります。その結果、上述の通り対策はかなり迅速に進められ実行に移されており、安心しました。ただ、最終報告が未だ出されていない原因は何かあるのでしょうか???ちょっと不安になります
事故の最終報告が発出された時点で、内容の変更点などがあればフォローアップする予定です

以上

ベトナムという国

はじめに

今年4月からベトナムに赴任した娘に招待され、最近家族揃って赴任地のハノイに行ってきました。既に20年前にワイフとホーチミンに行っております(2005年4月ベトナム旅行記)ので、大した違いはないだろうと多寡を括っていたのですが、どっこい!訪問した翌日からベトナムという国・国民にすっかり「愛」を感じてしまいました。尤も、私の学生時代は「ベトナムに平和を ! 市民連合(通称ベ平連)」の活動の報道や学生運動を通じて心情的には熱烈にベトナム支援をしていたことがその背景にあるのかもしれません
見出しの写真は、左側が訪問翌日に訪れたディエンビエンフーの戦跡の中の激戦区となった丘の上に建てられていた「勝利の像」、右側は太平洋戦争終盤、日米双方に多くの死者を出した硫黄島の激戦の米軍勝利の象徴となった「摺鉢山の星条旗」です。この二つの像は、それぞれベトナム人、米国人の愛国心に限りなく大きな力を齎したに違いありません。短い旅行でしたが、以下はこの旅を通じて感じたこと、この旅を通じて触発された「ベトナムという国」の勉強の成果を述べてみます

ベトナムの現在地

ベトナムという国の国力に関わるデータを外務省のサイトで調べてみると以下の様になります比較対象とする為にカッコ内に日本の数値を書いてあります
面積:33万 ㎢ ———————-(37万 ㎢)
人口:1億30万人 ——————-(1億3200万人)
人口密度:304人/㎢ —————(357人/㎢)
 *2024年のGDP:4763億 USD ——-(4兆1448 億  USD)
2024年の1人当たりGDP:4749USD (3万1400 USD/1人)
GDP成長率7.1%/年 ————–(0.1%/年)
まだまだ経済的には小さな国ですが、成長率はかなり高く、近い将来大きな国力を持つ国になりそうです

民族構成:キン族(越人)約86%、他に53の少数民族で構成されている
宗教:仏教、カトリック、カオダイ教(ベトナムの新宗教/儒教、道教、仏教、キリスト教、イスラム教の教えを土台にしたことから、カオダイ=高臺(高台)と名付けられた)、他

政治体制:共産党が唯一の合法政党;国会/一院制(定数500名)、任期5年、中選挙区、選挙権満18歳以上、被選挙権満21歳以上
ドイモイ(刷新)とは:1986年の第6回党大会にて採択された市場経済システムの導入と対外開放化を柱とした路線。現在、汚職対策、構造改革や国際競争力強化等に取り組んでいる
外交方針全方位外交を展開。各種国際機関をはじめ、国際的、地域的枠組みにも積極的に参加している
軍事力(2023年):軍事予算/63.5億ドル、徴兵制、正規軍45万人(陸軍/約38万人、海軍/約4万人、防空・空軍/約3万人)

貿易額(2023年):輸出/3,555億ドル、輸入/3,275億ドル
貿易相手国(2023年):
輸出/米国、中国、韓国、日本、オランダ、輸入/中国、韓国、日本、台湾、米国
主要援助国
日本、ドイツ、フランス米国韓国(この3ヶ国はベトナム近代史の中で敵国として戦った相手です)

     日本の対ベトナム ODA供与規模・実績(単位:億円)
年度 2017 2018 2019 2020 2021
円借款 1,003.04 0 118.91 0 108.13
無償資金協力 30.43 13.63 30.4 49.6 37.39
技術協力 67.1 64.81 50.15 42.9 48.95

下の写真のニャッタン橋は、首都ハノイ市の紅河にかかる世界最大級の斜張橋です。ハノイ市街と空港との間を結ぶ経路上にあり、IHIインフラシステム・三井住友建設の共同企業体が受注し、日本政府の政府開発援助(円借款で建設されました;

Follow_Up_2025年8月20日_日経新聞;「住友商事、ベトナムで街づくり_総事業費6000億円

ベトナムの歴史 Quick Review

生成AI(ChatGPT、Copilot、Gemini)、ネット情報を使ってデータを集め、これらを纏めた結果は以下の通りです;
<古代>
バクソン文化ベトナム最古の文明
*ベトナムのハノイ北東、ランソン省のバクソン山地周辺で1920年代にフランスの考古学者によって発見・調査された文化で、中石器時代から新石器時代初期にかけての石器文化を指します。特徴的な「バクソン型石斧(木の柄に取り付けた石製の斧)」や打製の礫器、骨角器などが多く出土しており、食料としていた淡水産貝類や獣骨の層も見られます。約1万年前から7千年前に属するとされます

ドンソン文化

*ドンソン文化は、紀元前4世紀頃から紀元1世紀頃にかけて続いたとされています。タインホア省・タインホア市のマー川(馬江)右岸のドンソンに遺跡が存在しており、1920年代、フランス極東学院の考古学者らによって発見され、特徴的な銅鼓が有名になりました;

<中国王朝による支配の時代(紀元前~10世紀)>
*紀元前111年に中国の漢王朝によって征服されて以降、ベトナム北部は約1000年間にわたり中国の支配下に置かれました。この「北属期」と呼ばれる時代には、中国の文化、政治制度、儒教、漢字などが導入され、ベトナム社会に大きな影響を与えました
*西暦40年から43年にかけて漢王朝の南部で。チュン姉妹(徴側・徴弐の姉妹)の反乱がおきました。40年に、ベトナム人の指導者であった徴側とその妹である徴弐が、交趾郡(現在のベトナム北部)に置かれていた漢の交阯太守に反旗を翻しました。42年、漢は、徴姉妹による百越の反乱を鎮圧すべく、馬援を将軍として派遣しました。43年、漢軍は反乱を完全に鎮圧しました。徴姉妹は捕らえられ、漢軍によって斬首されました

<独立王朝時代(10世紀〜19世紀)>
* 938年、呉権(ゴー・クエン)が中国の南漢軍を破り、ベトナムは約1000年ぶりの独立を果たしました。その後、以下のような王朝が興亡を繰り返しながら、ベトナム独自の国家を築き上げました
① 李朝(1009~1225)
*ベトナムで最初の本格的な統一王朝で、都をハノイに定め、中央集権的な統治を目指す一方、儒教が導入され、国が安定

② 陳朝(1225~1400)

この写真はホーチミン市一区メリン広場にあるチャン・フン・ダオ(陳国峻)の像です。彼は安生王陳柳の子として生まれ、陳朝の初代皇帝・太宗の甥にあたる人物で智勇に優れ、将軍として重用されていました。因みに、
1257年モンゴル軍が侵攻してきた時、大越軍を率いてモンゴル軍を大いに破り、逆に追撃するまでの大勝を収めました
@1274年の元寇:文永の役(日本への攻撃)
@1281年の元寇:弘安の役(日本への攻撃)
1282年、クビライが建国した元による侵攻を受けると、元の圧迫に恐れをなした皇帝仁宗が降伏しようと言い出しましたが、チャン・フン・ダオは「戦わずして降伏するくらいなら、私の首を差し出せ」と言って、断固として反対したといいいます。これに勇気付けられた仁宗は徹底抗戦の構えを固め、チャン・フン・ダオは大越軍の総司令官に任じられ、巧みなゲリラ戦を繰り広げて元軍に大勝しました
@ベトナムへの侵攻が失敗したことで、元による日本への3度目の侵攻が行われなかったともいわれています

 ③ 胡朝・明の支配(1400~1427)
*一時的に明の支配を受ける(1400~1428年)

③ 後黎朝(1428~1789) ⇔ 日本の足利時代、戦国時代、安土桃山時代、江戸時代
*黎利が明の支配から再び独立を勝ち取り最盛期には南部チャンパ王国を吸収し、南北統一をほぼ達成しました。しかし、内部では阮(グエン)氏と鄭(チン)氏による実質的な分裂状態が続きました。明を追い出し独立回復。長期王朝となる

④ 西山(タイソン)朝(1778〜1802)
*農民反乱から台頭した王朝。短命な王朝でしたが、南北の阮氏と鄭氏の対立を終わらせ、一時的にベトナム全土を統一しました

<阮朝とフランス支配(1802〜1945)>
⑤ 阮朝(1802〜1945)
*初代皇帝 阮福映(ザー・ロン)が統一最ベトナム全土を初めて統一し、フエを都としました。清を宗主国とし、中国の制度を取り入れて中央集権化を進めました。しかし、19世紀半ば以降、フランスが侵略を開始しフランスの保護国となった結果、実質的な国家権力を失い植民地化されました
*1887年:フランス領インドシナが成立(ベトナム、ラオス、カンボジア)。この間、ベトナムではフランスからの独立を目指す運動が活発化します。ファン・ボイ・チャウ(1867年~1940年)などの民族運動指導者が、日本の近代化に学ぼうとするドンズー(東遊)運動などを展開しました
*第二次世界大戦が始まると、1940年には日本軍が北部仏印に進駐し、ベトナムは日本の軍政下に置かれました
ホー・チ・ミンが指導するベトナム独立同盟(ベトミンが結成され、反仏・反日闘争を展開します敗戦後の日本兵の一部もベトミンに参加しディエンビエンフーの戦いにも参加しています

<独立運動とベトナム戦争(20世紀)>
*1945年9月2日:日本の降伏を受けてホー・チ・ミンが独立を宣言「ベトナム民主共和国」樹立
*1946年~1954年:フランスはこの独立を認めずベトナムに侵攻、第一次インドシナ戦争が始まる。1954年、ディエンビエンフーの戦いでフランスに勝利しました

1954年4月26日:インドシナ和平会談@スイス・ジュネーヴ
*参加国:フランス、アメリカ合衆国、イギリス、ベトナム国、カンボジア、ラオス王国、ベトナム民主共和国(べトミン)、ソビエト連邦、中華人民共和国
合意内容
ベトナム、カンボジア、ラオスの独立
② 停戦と停戦監視団の派遣
ベトミン軍の南ベトナムからの撤退フランス軍の北ベトナム、カンボジア、ラオスからの撤退
④ ベトナムを17度線で南北に分離し、撤退したベトミン軍とフランス軍の勢力を再編成した上で、1956年7月に自由選挙を行い統一を図る
* 合意はベトナム民主共和国、中華人民共和国、ソ連、フランス、イギリスが署名するも、アメリカとベトナム国(ゴジンジエム政権)は署名しなかった

これ以降;
南北分断の固定化とベトナム戦争(1954年〜1975年)が始まりました。1965年以降から米国の本格介入が始まりました;
*ジュネーブ協定発効後、「南北統一選挙」に期待して、多くの共産主義者が南ベトナムに残っていました。しかしその約束は、南ベトナム政府(アメリカの傀儡政権/ゴジンジエム政権)により一方的に反故されてしまいます。その後、南ベトナム政権による共産主義者狩りは激しさを増し、逃げ延びた共産主義支持者たちは憎悪を募らせている状態でした
こうした中で生き残った南ベトナムの共産主義支持者は、北ベトナムと連携して、ベトナム統一のための戦争の準備(反政府活動)を始めることになります。やがて南ベトナムでは、ベトナム共産主義支持者による反政府テロが頻発し、内戦状態に陥ります

1950年代半ば、北ベトナムは南ベトナムを支援するためにラオスにも侵攻し、ホーチミン・ルートを確立してベトコンを補給・強化していました
1960年
、南ベトナムの共産主義者らを中心に南ベトナム解放民族戦線(ベトコンが発足します。その後ベトコンは北ベトナム軍と連携しながら、より激しく大規模な抵抗活動を展開していきます

1959年には米国は、ケネディ大統領の下で軍事顧問団を派遣することとなりましたが、最初は1000人弱だった軍事顧問が1964年には2万3000人に達し、事実上米軍の介入が始まりました
1964年8月トンキン湾事件発生;
米国のリンドン・B・ジョンソン大統領は、米軍艦が公海上のトンキン湾(実際は北ベトナムの領海)で攻撃されたとの演説を行いました。米国議会は圧倒的多数で大統領がこの攻撃に対し、相応の措置を取ることを認める決議を行いました。この結果、報復として北爆が行われ、1965年2月からは北爆が恒常化する等、米軍がベトナム戦争へ本格介入することとなりました

その後、米軍と南ベトナム軍は、圧倒的に優勢な軍事力を頼りに、地上部隊による苛烈な砲撃、空爆を伴う索敵・破壊作戦を展開しました。また、米軍は北ベトナムだけでなく、ホーチミンルートを提供しているラオスに対しても大規模な戦略爆撃を行いました。米軍に協調してベトナムに派兵した国韓国、オーストラリア、タイ、ニュージーランド、カンボジアラオの6ヶ国です
一方、こうした状況の中で北ベトナムは、ソ連中華人民共和国から派兵は受けないものの、軍事物資に関し全面的な支援を受けていました

1968年1月、テト攻勢
テトとはベトナムの旧正月の事であり、戦争中には祝日には短期間停戦する事となっていましたが、この年は1月30日未明にこの攻勢がかけられました
この戦いで北ベトナム軍とベトコンは南ベトナム全土で攻勢を開始し、同国の主要都市を一斉攻撃すると共にケサンのアメリカ軍基地を攻撃し、都市攻撃と基地攻撃の複合戦で南ベトナムやアメリカを揺さぶりました。この攻撃で同年2月12日までに全44の省都の内34の省都が攻撃を受けました。また、サイゴンのアメリカ大使館はベトコンのゲリラによって一時的に占拠され古都フエ市は一時占領されました
また、首都サイゴンが攻撃を受けたことで、アメリカ軍の劣勢が明らかとなり、増加する死者数は米国民に大きな不信感をもたらしました。特にベトナム帰還兵の証言が戦場の実態を伝えると、一部の学生らは自ら徴兵カードを燃やし、徴兵を拒否するようになりました。このころになると、戦争推進を主張していた米国のタカ派の論調も弱まり、世論の大半はアメリカ軍の撤退を主張するようになりました。ベトナム戦争を正義とする声は少なくなり、誤った戦争であるという意見が多数を占めるようになりました

1968年3月16日、ソンミ村事件
南ベトナムに展開するアメリカ陸軍のうち第23歩兵師団・第20歩兵連隊第1大隊 C中隊のウィリアム・カリー中尉率いる第1小隊が、南ベトナム・クアンガイ省ソンティン県にあるソンミ村のミライ集落(省都クアンガイの北東13km、人口507人)を襲撃し、無抵抗の村民504人(男性149人、妊婦を含む女性183人、乳幼児を含む子供173人)を無差別射撃などで虐殺しました。さらに C中隊が何ら抵抗を受けていなかったにもかかわらず、B中隊が増派され、近隣の集落でも虐殺を行っています

1968年、学生によるベトナム反戦運動の高揚
アメリカの学生運動も、ベトナム反戦とともに大学の官僚的な統制に反発し、大学改革を求める運動として1964のカリフォルニア大学バークレー校に始まり、1968年にはコロンビア大学やハーヴァード大学でも学生が校舎を占拠するなどの過激な運動が展開されました。この学生運動はたちまち全世界に広がり日本でも東大紛争を始め全国の大学にベトナム反戦の嵐が吹き荒れました
* 世界でヒットしたベトナム反戦歌:Peter Paul & Maryの「Where have all the flowers gone」、Bob Dylanの「Blowin’ in the wind
1968年12月、ベトナム駐留米軍の兵力は約54万人に達しています

1969年4月、米軍司令官は、ベトナム戦争でのアメリカ人の死者が33,641人に達し、1950~53年の朝鮮戦争での死者数(33,629人)を上回ったことを確認しました

1969年9月2日、ホー・チ・ミン死去、レ・ズアンが後継者となる

1970年6月3日、北ベトナム軍がカンボジアの首都プノンペンに接近し始めましたが、米軍の空爆によって阻止されました

1973年1月27日、パリ和平会談の結果和平協定成立
米国のキッシンジャー補佐官とベトナムのレ・ドク・トによる秘密交渉が進められ、北ベトナム、ベトコン、南ベトナム、米国の四者によって調印されました。これによってベトナム戦争の停戦米軍の撤退南ベトナムの政治的対立の解決、捕虜の相互解放などで合意が得られました。この合意に基づき、

1973年3月29日、米軍のべトナム撤退が完了
しかし、この和平協定は米国にとっては戦争終結を意味しましたが、南ベトナムの政治的対立の解決が図られたわけではありませんでした。そのためその後も、ベトコンと南ベトナム軍の戦闘は内戦という形で続きました

1975年4月14日:ベトナム共和国大統領ティエウは海外亡命、南ベトナム政権自壊
1975年4月30日、北ベトナム軍が南ベトナムの首都サイゴン(現在のホーチミン市)を陥落させベトナム戦争は最終的に収束しました(南部解放の日)

南ベトナム軍・政府関係の高官及びその家族は、先を争って米軍の艦船、航空機に押しかけ米国への亡命を目指しました

1976年7月2日ベトナム社会主義共和国と国名を変え正式に統一が実現しました

1978年12月23日ベトナム軍、カンボジア侵攻 ⇒1979年1月7日、カンボジアのプノンペン陥落
*侵攻の理由:
親中国のポル・ポト率いるカンボジアのクメール・ルージュ政権を打倒し、親ベトナム政権を樹立する為 

1979年1月8日
親ベトナムのカンプチア人民共和国 (PRK) がプノンペンで建国され、10年に及ぶベトナムの占領が始まりました(⇒ 1989年9月26日、カンボジアから完全撤退しました)

1979年2月17日
、中国軍がベトナム北部国境全域に侵攻。中越戦争勃発
*侵攻の理由:中国はカンボジアのポル・ポト政権を支持しており、ベトナムの行動を「ベトナムの覇権主義」と非難していました
1979年3月18日、 中国軍完全撤退
中国撤退の理由;ベトナムは中国軍の侵攻に対し、正規軍・民兵を動員して激しく抵抗した。その結果、中国は兵站の困難・地形の複雑さ・民間の敵意などに直面し損害が増大した。また、ソ連はベトナムの同盟国であり、実際にシベリア軍管区や極東のソ連軍を動かすなど、中国への牽制を強化した。この結果、長期戦になれば不利と判断した可能性が高いと言われています

1986年12月15日、ベトナム共産党第6回大会(~18日)でドイモイ(刷新)政策発動 ⇒ 市場経済の導入により、その後急速な経済発展を遂げました

傘寿のベトナム旅行 雑感

コロナ騒動以降、病気療養に明け暮れた数年間を経て久し振りの海外旅行でしたが、短い旅程の割には収穫の多い旅でした。以下、旅行中に感じた幾つかの印象に残ったことを書き綴ってみたいと思います
我々日本人にとって、戦跡を訪ねることは辛い事ですが、ベトナム人にとっては国の誇り、自身の勇気を取り戻す機会になっていると感じました;
ィエンビエンフーの戦跡見学


ディエンビエンフーの戦いが、フランス軍の要塞が深い塹壕などによって堅固に守られていたことから、ベトミン軍にとっても厳しい戦いであったことが理解できました(←日露戦争・203高地の要塞戦では勝ったものの、日本軍には甚大な犠牲者がでたことは良く知られています)
以下の写真は、フランス軍が最後の抵抗を行った「A1の丘」と呼ばれている戦跡です;

降伏したフランス軍;

* ホー・チ・ミン博物館
どこかの国の様に、国家の指導者を神格化するのではなく、ホー・チ・ミンは建国の父として国民に愛されています。貧しい家庭に生まれたホー・チ・ミンの生涯は波乱万丈で、若い頃は右の写真のように、ロンドンのカールトンホテルでウェイターをしていたこともありました

博物館のお土産のコーナーに以下の「子供向けの」ものがありました;


このお土産には子どもに伝える以下の5つのことが書かれています;
祖国を愛し、人々を愛しなさい、② よく学び、よく働きなさい、③ 良い団結、良い規律、④ 良い衛生状態の維持、⑤ 謙虚で正直で勇敢であれ
ベトナムでは、子供たちにホー・チ・ミンを「ホーおじさん」と呼ばせていることからわかるように国の指導者を「愛する存在」となるよう工夫している事がわかります

* ベトナム軍事歴史博物館

ここでは、フランス軍との戦い、米国・南ベトナムとの戦いで勝利した結果、多くの敵の兵器を鹵獲(敵の武器・弾薬等を奪うこと)したものを屋外に展示しています。また、左上の写真は破壊された武器類を積み上げてモニュメントにしたものです。私が学生時代にベトナム戦争のニュースでよく見た軍用機が沢山展示されており、感慨深いものがありました

* 戦跡や博物館の記録、ベトナムの歴史を調べて実感した「ベトナム人の強さ」
ベトナム人は、理不尽な敵に対しては以下の歴史が教える通り、多くの犠牲を出しながら勇敢に戦い勝利を収める強さを持っています;
① 陳朝時代((1225~1400))の将軍・チャン・フン・ダオ(陳国峻)に率いられたベトナム人は、アジア・ヨーロッパを征服したモンゴル軍を二度に亘って撃退しました
② 第二次大戦後、日本の降伏の機会を捉えて再びベトナムの植民地化を推し進めようとしたフランスに対して戦いを挑み、1954年、ディエンビエンフーの戦いでフランスに勝利しました。この長い戦争で、フランス軍とフランスの支援をしたベトナム人の死者は併せて16万人であったのに対し、ベトミンとその支援者の死者も16万人に達したと言われています
③ 1960年以降のベトナム戦争では、米軍は約5万8千人の死者を出したのに対し、ベトナム人は併せて(北ベトナム軍、ベトコン、南ベトナム政府軍、一般民衆)200万人の死者を出したと言われています

* 戦いに勝利した後、敵に対して示す「ベトナム人の優しさ」
ベトナム近代史を振り返ると、フランス植民地時代の圧政、米国及びその同盟国との苛烈な戦争と戦争犯罪非人道的な無差別爆撃/北爆・枯葉剤散布、住民の無差別殺害)、ベトナム戦争終了後に中国から仕掛けられた侵略戦争、などに苦しめられたはずなのに、現在これらの国々との友好関係を構築しています

* ハノイ市内で感じた「ベトナム人の美しい心映え」
ハノイ市内は、娘が手配してくれた車での観光でしたが、結果として助手席に座ることが出来たことからハノイの現在の交通事情をつぶさに観察できました。20年前にホーチミン市を旅行した時は「車・バイク・人が交通ルール無視で大混乱の状態だった」という印象でしたが、今回は全く違う印象を持ちました(ハノイの交通事情)。トラック、乗用車、バイク、自転車、人がそれぞれ交通弱者を大切にして強者が弱者に譲ることで水の流れの様に実にスムース流れていく」状態であることに気が付きました。偶に短いクラクションも聞こえましたが、これは自身が近くの車の死角となる状況になった時に軽く存在を知らせるために鳴らしていることも理解できました。ベトナム人の美しい心映えが現れている交通ルールだと感動しました

あとがき

ある国の行動を本当に理解するには、国家が国民に何を期待しているのかを知る必要があると私は考えています。それには国歌で歌われている歌詞を理解するのが一番だと思います
日本や英国の様に、国の象徴たる国家元首が歴史的な存在である場合には「君が代」や「英国国歌」の様にそれぞれ天皇陛下、英国国王の永遠の繁栄を祈る内容になっています。
一方、外国との熾烈な戦争を勝ち抜いて独立を果たした国々の国歌は、歌詞の内容が全く異なります。因みにフランスの場合、国歌「La Maruseillaise」は周辺の列強の干渉を打ち破る革命軍の進軍歌が元になっており、米国の国歌「The Star Spangled Banner」はイギリスからの独立戦争の英雄的な行為が歌詞になっています。また、中国国歌「義勇軍行進曲」をお聞きになると、抗日戦争時の共産軍の進軍歌がベースになっており、日本との闘いの際に国民を鼓舞する勇ましい歌詞になっています

ベトナムの国歌」は、ホー・チ・ミンが創立し、外敵に対して戦いを始めたベトミンの進軍歌をそのまま使っており、国民は他国の侵略に対しては命をかけて戦うことを期待されていることが分かります
日本は、13世紀の元寇以降、他国を侵略することはあっても侵略されたことはありません。ロシアや中国という覇権主義国と国境を接する日本は「平和を愛する国民」というだけで国の安全が保たれるのか?とふと疑問に思いました

以上

冬・春収穫野菜栽培の結果報告と夏野菜の準備状況

はじめに

今年の2月中旬、長年悩んでいた腰の痛み・脚の痺れの原因となっていた「脊柱管狭窄症」を根本的に治療する為に入院・手術を行いました。手術後に脚の痺れ等の後遺症は残りましたが、執刀医の話によれば手術そのものは成功したとのことですが、手術後5月中旬まで厳しい運動制限(重いものは持たないこと;腰を捻る動作をしないこと、など)を課せられたため、収穫作業や夏野菜の準備作業、及び栽培用コンテナの土の再生作業は困難を極めました。昨年購入した「電動小型耕運機」を最大限活用すると共に、相当程度「手抜き」を行い、漸く6月中旬迄に大型コンテナを使う冬・春野菜の収穫を済ませ、夏野菜の苗の植付をほぼ完了いたしました。以下はそのご報告です

冬・春野菜の収穫状況

<ジャガイモ・タマネギ>
見出しの写真は、5月末から6月初めにかけて収穫したジャガイモとタマネギの写真です。ジャガイモは大・中・小併せて13.7キログラム、タマネギは生食用の赤いタマネギ6.3キログラム白いタマネギ11.2キログラム収穫できました。この収穫量は例年並みと思います
*ジャガイモに関する実験;
後述するキャベツの収穫がかなり遅れた為、またジャガイモの植付に使っていたコンテナが使えなかった為、ナスの栽培に使っていた丸い縦長のコンテナに2株づつ植えてみました。ジャガイモがナス科に属することによる生育上の問題が発生しないか心配しましたが、特に問題は起こりませんでした
ジャガイモ栽培の初期段階で沢山出てくる芽を「芽掻き」と言って1~2本の芽を残して掻きとってしまう事が常識となっていますが、いつも「勿体ないな!」と思っていました。今回、掻きとった芽に根が付いているものがあったので2本だけ植えてみた所、この芽からも少量ながらジャガイモが収穫できました
*タマネギに関する実験;

タマネギを寒さと乾燥から守るために、株間に黒色のゴミ袋を使ったマルチ(まがい?)と藁を敷いてみましたが、霜が防げたことと大きなタマネギを収穫できたことから、多少は効果があったような気がします

<野沢菜・高菜>
既に「2024年一年間の屋上栽培のレビュー」で報告済みですが、野沢菜・高菜は1月末に収穫して直ぐに漬物にしました。野沢菜については既に食べつくし、高菜については現在もなお楽しんでいます

<白菜・キャベツ>
白菜・キャベツの植付については、腰痛治療の影響で若干遅れてしまいました。結果として白菜については通常の収穫時期(1月~2月)迄に結球せず、三月に入ると結球しない葉は「生のままの千切り」、「さっと熱湯に通した千切り」として食べた他、菜の花として食べることしかできませんでした
一方、キャベツについても通常の収穫時期(1月~2月)迄に結球しなかったものの、菜の花が出た株は一部のみにとどまり、4月以降にキャベツとして収穫できました。ただ、硬く結球しており葉もやや硬く、食味も芳しくありませんでした
最後に収穫したキャベツ(6月1日)は以下の写真の通りです;

今収穫している春野菜の収穫状況

<春大根・ズッキーニ・ビーツ>
春大根は、やや小ぶりであるものの、食味は冬大根と変わりありません。糠漬け、大根おろし、煮物に便利に使っています。また、春大根は中型コンテナ2ヶで12本も収穫できる優れものです
ズッキーニは、大型コンテナに4本栽培していますが、最盛期には1日2本~4本収穫可能です。この時期の収穫が間に合わないキュウリの代わりに糠漬けにしたり、薄くスライスして生野菜サラダで楽しむことができました
ビーツは北欧でよく食べられている野菜で、エストニア関連の仕事をしている妻が色々な料理を作ってくれますが、私のお勧めは茎や葉を軽く茹で、ポン酢であえた料理です

<インゲン・小人参>

インゲンは何の料理にも使える便利な野菜です。小人参は10~15センチの小ぶりの人参ですが、人参本体も葉も採りたての生食がお勧めです。小人参は、中型コンテナで20本以上収穫可能な優れものです

<野イチゴ>
変わり種の野菜ですが、小さな標準コンテナで、毎日非常に小さな実を10粒くらい収穫できます。収穫の度に冷凍していますが、現在下の写真の右側の通りです。もう少し収穫したらジャムにして楽しむつもりです;

<ハーブ類>
例年通り以下のハーブを栽培しています。尚、同居している次男の要請でタイムも最近種蒔き(芽が出たところ)をしました;

<子カブ>
小カブは、種を撒いてから1ヶ月以内に収穫可能なので、赤・白2種類の種を撒いて生野菜サラダに頻繁に使っています。今回からは収穫が途絶えない様に以下の写真の如く中型コンテナを赤・白用に2段に分け、更に各段を左右に分けて、収穫しながら栽培が可能な様にしています;

<レタス類>
冬中「レタス」と「リーフレタス」を生野菜サラダで楽しんできましたが、収穫を続けていたリーフレタスは5月に入って収穫が完了し、現在種まきをして芽が出てきた段階です
4月頃種蒔きをしたレタスは、現在右の写真の通りもうすぐ収穫期に入ります

夏野菜の育成

はじめに」で述べた通り、大型コンテナを使う夏野菜は「種から育てるというマイルール」を貫徹するには、「プラスティック・ポッドへの種蒔き⇒大型コンテナの土の再生⇒植付」のプロセスを、以下の様に労働が集中しない様に数段階に分ける必要がありました;
2月下旬から和室の窓際に設置した「発芽装置(熱帯魚用ヒーターを使い、温めた水に苗のセルを入れたトレーを浮かべて温度管理を行う)」で発芽させる
発芽した苗を屋上の「育成装置(上記と同じ仕組み)」で苗を成長させる

ある程度成長した苗を、より大きなプラステイック・ポッドに植え替え(苗をより大きくするため)、コンテナの土の中に植え込む(水の管理を容易にするため
大きく育てた苗を大型コンテナに植え替える(5月下旬~6月上旬)

<キュウリ>
キュウリについては昨年までの2年間、7月中旬に枯死してしまうということがあったので、今年は種の選択から始めました。その結果、多少高いものの暑さに強いはずということで、「Vシュート(種一粒が約100円)」というベトナム産の種を購入しました
キュウリの現在の生育状況は以下の通りです;

6月初旬からぼつぼつ収穫が始めりました。6月20日に収穫したキュウリの写真;

生食をしてみた所、心なしか甘く、食味は最高でした!

<トマト>
トマトについても昨年は、満足する収量が得られなったので、今年は酷暑に耐える種の選択から始めました。その結果選んだ二種は「麗月(中トマト)」と「甘っこ(ミニトマト);これも種一粒が約100円)」です

生育状況は左の写真の通りです
合計21本のトマトを大型コンテナに植え付けており、近い内に収穫が始まります

<ナス>
ナスの種については、例年通り「F1・むらさき娘(中ナス)」、「泉州水ナス、「ヘタ紫茄子(小茄子)」を使いました;
合計12本のナスを大型コンテナに植え付けており、7月中旬ごろには収穫が始まると思われます

<サツマイモ類>
昨年、家族の評判が良かった「紅はるか」4株と併せ、食用として購入した「行方・紅まさり」に芽が出てきたため、その芽を水耕栽培(右写真参照)して根を出させた後に2株に切り分けて植え付けています。生育状況は以下の通りです;

これとは別に、筆者の友人から頂いた「紫大薯(ムラサキダイショ)」の種イモ(3ヶ)も植え付けましたが、現在僅かに芽が出たところです

<唐辛子類>
拙宅で需要の多い唐辛子については、今年は「鷹の爪」をメインとして、「ハラペーニョ」と、昨年お土産で買ってきた「水上唐辛子」、「蓼科唐辛子」の種を取り育ててみました。これらは、例年通りタマネギを育てたコンテナで育成しています

<ネギ類>
昨年、9月末に種まきしたネギは、以下の写真の様に育っていますが、未だに収穫するに至っていません。やはりもう少し勉強が必要です
*ネギに関する実験;
今年育てているネギについては、深いコンテナを使うことをせず「肥料の袋」を巻き、成長する毎に間に土を補充して育てる方法を採っています。扨て、立派な長ネギができるかどうか?

昨年冬に購入した長ネギは、乾燥した根が付いているものが多く、勿体なので根の上1センチくらいで切り落とし、これを土に植えてみました。一週間もしないうちチャンと茎が伸びてきました。現在半年近く経って以下の写真の様に成長しています。まだ食べていませんが、なんか行けそうな気がします!

以上

ロシアによるウクライナ侵攻とヨーロッパ諸国の軍拡の状況

はじめに

筆者の妻が長年日本・エストニア友好協会の事務局をやっている関係で、バルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア)、その他の北欧諸国(フィンランド、スウェーデン、ノルウェイ他)の情報がよく手に入ります。昨今、これらの国々からの物騒な情報が増えてきました。これらの国々は、徴兵制復活ロシアとの国境警備の強化スウェーデンはバルト海にあってロシア領と対峙するゴットランド島の防衛強化などを行うようになりました
これらの国々とロシアとは、以下の地図をご覧になるとお分かりになると思いますが、極めて長い国境線を共有しています;

歴史的に、これらの国々は度々ロシアからの侵略(後述)を受けてきました。今回のウクライナ侵攻は、まさしく他人事ではない事態であると国民の大多数は受け止めていると思われます

大国による小国の侵略に関しては、アジアにおいても急速に軍事大国となった中国が台湾海峡の緊張を生み出すと共に、南シナ海や東シナ海においても理不尽な領土要求を行って緊張を高めています
こうした国際情勢の中で、日本がどのような安全保障上の準備をしなければならないか勉強する為に、大国であるロシアが過去どのような侵略戦争を行ったか、それに対してロシアの侵略に欧州の小国がどのような苦難を味わってきたかを調べてみました

ロシアによる侵略と領土拡大の歴史(Quick Review)

現在のロシアのウクライナ侵攻とヨーロッパ各国の対応の根源には、ピョートル1世(下記北方戦争勝利によりピョートル大帝と呼ばれています)から始まる以下の侵略戦争の歴史を辿る必要があります。以下は、生成AIや他のネット情報に基づき作成してみたものです
以下は18世紀初期の北ヨーロッパの状況を表す歴史地図です(ネットには適当な歴史地図が載っていなかったので、筆者の高校時代の世界史の授業で使った懐かしい!歴史地図をコピーしました)

<ロシア帝国(1721年~1917年)時代>
ロシア帝国は、ピョートル1世(大帝)によって1721年に成立し、20世紀初頭までに広大な領土を支配する様になりました

【ピョートル1世(在位:1682年~1725年)】の時代
① 北方戦争(1700年~1721年)
バルト海への進出を目的にスウェーデンと長期に亙って戦って勝利し、エストニアラトビアリトアニアの一部とカレリア(ロシア・フィンランド北部国境地帯)などを獲得しました

女帝エカテリーナ2世(在位:1762年~96年)】の時代
② ポーランド分割
ロシアは西方への領土拡大を企図し、プロイセン、オーストリアと共に弱体化したポーランド・リトアニア共和国を3度に亘り(1772年、1793年、1795年)攻撃した結果、ロシアは現在のベラルーシウクライナ西部リトアニアの一部を獲得しました。3ヶ国の分割支配の状況は下図参照;

【アレクサンドル1世(在位:1801年~25年)】の時代
<ナポレオンのロシア遠征(1812年)> 

ナポレオン軍の死者数: 約 40万~45万人(戦死・病死・凍死・餓死の合計)
ロシア軍の死者数:約 15万~40万人(戦死・病死・凍死を含む)
尚、ロシア国内での戦闘や焦土作戦により、数十万人の民間人も犠牲になったと推定されています
参考:この戦争については、ロシアの文豪トルストイが長編小説にしています。文学に関心のある方は読んでおられると思います。そのあらすじと映画の予告編をご覧になりたい方は以下をクリックしてください:戦争と平和あらすじ

【アレクサンドル1世(在位:1801年~25年)⇒ ニコライ1世(在位:1825年~55年)⇒アレクサンドル2世(在位:1855年~81年)】の時代
③ コーカサス戦争(1817年~1864年)

コーカサス地方の制圧を企図してチェチェン、ダゲスタン、ジョージアなどと戦争を行った結果、ジョージア、アルメニア、アゼルバイジャンを併合しました

④ シベリア進出(16世紀~19世紀)

東方への領土拡張を企図し、 先住民族(ヤクート、ブリヤートなど)、及び清と戦い、 1689年のネルチンスク条約、1858年のアイグン条約、1860年の北京条約によりアムール川流域と沿海州を獲得した

【アレクサンドル2世(在位:1855年~81年)】の時代
⑤ クリミア戦争(1853年~1856年)
クリミア半島とバルカン半島への影響力拡大を企図し、オスマン帝国イギリスフランストルコ帝国などの連合軍と戦った結果、ロシアは敗北し
南下政策は挫折しました

この戦争の戦死者:ロシア帝国:約13万人、連合軍側:約7万人

【ニコライ2世(在位:1894年~1917年)】の時代
⑥ 日露戦争(1904年~1905年)

朝鮮半島と満州の支配を企図して日本と戦った結果、日本に敗北し南樺太の日本への割譲と満州の利権(南満州鉄道に関わる利権)を日本に譲渡しました
この戦争の戦死者:日本:約9万人、ロシア帝国:約8万人

<第一次世界大戦、1914年~1918年>
ロシア帝国は1914年に戦争に参戦し、東部戦線でドイツ帝国やオーストリア=ハンガリー帝国と戦いました。戦争中に発生したロシア革命(1917年)により戦争の継続が困難となり、1918年戦争終結前にブレスト=リトフスク条約を締結して戦争から離脱しました

ロシア軍人の死者数:約170万人~200万人民間人の死者数:約160万人~190万人(戦争による飢餓や病気を含む)

<ソビエト連邦(1922年~1991年)の時代>
【 スターリン(統治期間:1924年~1953年)】の時代
ソビエト連邦は、共産主義の拡大と安全保障を目的に領土拡張を行いました
1939年8月、ソ連(スターリン)はドイツ(ヒトラー)との間で通称・独ソ不可侵条約(正式には「モロトフ=リッベントロップ協定」)を結びました。公表された条文は相互不可侵および中立義務のみでしたが、同時に結ばれた秘密議定書では東ヨーロッパとバルト三国、フィンランドをドイツとソビエトの勢力範囲に分け、相互の権益を尊重しつつ、相手国の進出を承認するという性格を持っていました。以下はその条約に沿ってソ連による侵攻が行われました

<ノモンハン事件 1939年>
日本側(関東軍)の死者・行方不明者:約 18,000人
ソ連軍・モンゴル軍の死者数: 約 9,000人~10,000人

⑦ ソ連のポーランド侵攻(1939年)
 ポーランド東部(現在のウクライナ、ベラルーシの一部)を占領しました
⑧ バルト三国併合(1940年)
西側勢力の影響を排除し防衛線を強化する為に、1918年に独立したばかりのエストニア、ラトビア、リトアニアを再び占領し、1991年ソ連崩壊まで続いた
⑨ フィンランド侵攻(冬戦争・1939年~1940年)
防衛線を強化する為にフィンランドに侵攻、フィンランドの領土の一部(カレリア地方)を獲得するも、フィンランドの独立は維持されました
⑩ ルーマニア領侵攻(1940年)
 ルーマニアに侵攻し、 ベッサラビアと北ブコビナを併合、ソ連領(現在のモルドバ)としました

<第二次世界大戦 1939年~1945年>
ソ連(ソビエト連邦)の死者数は、約 2,400万人~2,700万人 と推定されています。これは戦争に参加した国の中で最も多い犠牲者数です
参考:太平洋戦争における日本人の戦死者、戦病死者、民間人の死者の合計は約320万人と言われています。ロシア人の死者が如何に膨大であったかが分かると思います

⑪ 第二次世界大戦後の東欧支配
第二次大戦後、侵攻した国々(ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキア、ルーマニア、ブルガリア、東ドイツ)に親ソ政権を樹立し、冷戦時代の東側陣営を形成し、実質的にソ連の影響下に置きました

【 ブレジネフ(統治期間:1977年~1982年)】の時代
⑪ アフガニスタン侵攻(1979年~1989年)

共産主義政権の支援と親ソ政権の維持するためにアフガニスタン侵攻したものの、ゲリラとの長期戦の末に撤退しソ連の崩壊を加速する結果となりました

<ロシア連邦(1991年~現在)の時代>
ソビエト連邦の崩壊後、ロシア連邦も軍事侵攻を行い、影響力を拡大しようとしました。

【 エリツィン(統治期間:1991年~1999年)】の時代
⑫ 第一次チェチェン戦争(1994年~1996年)
ソ連邦内のチェチェン共和国の独立を阻止する為に侵攻しました

【 プーチン(統治期間:1999年~現在)】の時代
* 第二次チェチェン戦争(1999年~2009年)
チェチェンを制圧し、ロシアの支配下に置きました
⑬ グルジア(ジョージア)侵攻(2008年)

南オセチアとアブハジアの親ロ派勢力支援し、事実上のロシア支配下に置きました
⑭ クリミア併合(2014年)
ウクライナ領のクリミヤに電撃的に侵攻し、住民投票を経てロシアが一方的に併合しました。しかし国際的には違法とされています
⑮ ウクライナ侵攻(2022年~現在)
ウクライナがNATO加盟を目指すなどの親欧米路線を阻止する為に電撃的に侵攻を始め現在に至っています

ピョートル1世以降、現在に至るまでのロシアの他国に対する侵略は、ウクライナを含め上記の通り15回に及び、これに伴うロシア側の死者数も膨大な数に上っています。この様な膨大な犠牲を払っても領土の拡張に執念を燃やすロシアの様な国に対しては、単なる平和国家を標榜しているだけでは国を守ることはできないと思われます
現在のプーチン大統領がピョートル1世(大帝)とエカテリーナ2世を尊敬していることは良く知られています。この二人の皇帝がロシアの近代史の中で最も領土を広げた統治者であったことはプーチンの行動を考えると頷けるような気がします

顧みればわが国もロシアのみならず、覇権国家である中国、北朝鮮と国境を接しており、中国が台湾に侵攻を開始したり、北朝鮮・韓国の戦争が勃発すれば日米安保条約に従って我が国が核兵器を含む攻撃を受ける蓋然性は高いと言わざるを得ません。こうしたことを考えると、今回のウクライナ危機に対して NATO諸国、就中バルト三国のロシアによる侵略の危機に対して、どういう準備をしているかを勉強することは意味があるのではないでしょうか。筆者が勉強した結果を以下に紹介します

周辺諸国の対応

1.NATOへの加盟
これまで、ロシアに対しての中立を保っていたフィンランドは2022年4月に加盟しました。また、クルド問題で加盟が遅れたスウェーデンも2024年3月にNATOに加盟しました

NATOは、ロシアのウクライナ侵攻以降、米国と共にウクライナに武器援助を行っています。特にNATOの中でポーランドは旧ソ連軍による大量虐殺事件(カチンの森事件)の被害国という歴史的背景から、真っ先にウクライナへ戦闘機供与を行いました。一方、プーチンの核攻撃の脅しに対して最近核保有国のフランスは、核抑止力を他のNATO諸国に提供する可能性を示唆しています。
元々NATOは第二次大戦後、ソビエト連邦を中心とする東欧共産圏の国々に軍事的に対峙する為に作られた軍事同盟であり、NATO加盟を希望して果たせないでいるウクライナがロシアに屈すれば、次は自国に危機が及ぶと考えるのは自然なことと思われます

現在の覇権国(ロシア、中国)と民主主義国(米国、G7)の対立は、第二次大戦の枢軸国(ドイツ、日本、他)と連合国(米国、英国、他)の対立の構図とよく似ています。第一次大戦の反省から生まれた国際連盟が、大規模な国際紛争の平和的解決に役立たなかったことから生まれた国際連合は、大戦の戦勝国が常任メンバーなった安全保障理事会で平和的に国際紛争を解決するはずであったものの、常任理事国が当事者となる国際紛争では、拒否権の行使によってその役目を果たせなくなっています
ロシアのウクライナ侵攻に関しても、明確に国際連合憲章第2条に違反していることが明らかであるにも関わらず安全保障理事会は平和の為の機能を発揮することが出来ず現在に至っています

2.徴兵制の導入、強化
ロシアと国境線を有する国々はいずれも徴兵制を導入しており、現在の状況は下表の通りです;

国名 徴兵制 対象
スウェーデン あり(2018年再導入 18~47歳の男女(選抜制)
ノルウェー あり(男女平等徴兵) 19~44歳の男女(選抜制)
フィンランド あり(厳格徴兵) 18~60歳の男性(女性は志願)
エストニア あり 18~27歳の男性(女性は志願)
ラトビア あり(2024年より段階導入 18~27歳の男性
リトアニア あり(2015年再導入 18~26歳の男性(女性は志願)

3.その他の対ロシア防衛体制の強化
① フィンランド
* 地雷禁止条約(オタワ条約)脱退
フィンランド軍、幹線道路で離着陸訓練
② バルト三国エストニア、ラトビア、リトアニア);
三国共同で「バルト防衛線」を計画し、ロシアおよびベラルーシとの国境沿いに防衛施設を構築しています。この計画には、各国境に600以上のバンカー(掩体壕:左の写真参照)や対戦車壕の建設が含まれています

ポーランド
ポーランドは2024年末までにロシアおよびベラルーシとの国境沿いに防衛線を構築する計画を進めています
④ ドイツ・リトアニア;
ドイツは第二次世界大戦以降初めて、約 5,000人規模の装甲旅団をリトアニアに恒久的に駐留させることを決定しました。​これはロシアのウクライナ侵攻を受けた対応で、NATOの東側防衛を強化する目的があります
*Follow_Up:2025年5月28日_日経新聞/欧州安保「強いドイツ」許容 戦後初の国外常駐、徴兵制復活も

⑤ スウェーデン
スウェーデン・ゴットランド島の防衛強化状況
ゴットランド島はバルト海中央にあり、バルティック艦隊の基地のあるロシアの飛び地・カリーニングラードに対置しています

⑤ EU(​欧州連合)
EUは、ロシアおよびベラルーシとの国境監視を強化するため、電子監視機器の更新や通信ネットワークの改善、移動式探知機器の配備、ドローン侵入対策などに1億7千万ユーロの資金を提供しています

4.NATO諸国の防衛費増額
NATOの主な加盟国のGDPに占める国防費の割合については以下の表をご覧ください。2021年から2024年にかけてロシア周辺諸国を中心に急激に防衛費が増額されていることが分かります

Follow_UP:以下の記事は、Aviation Week_August 11-31’2025 に掲載されていたフランスとドイツの軍事費の伸びのグラフです

5.国民を戦災から守る施策
最近、スウェーデンが国民及び国内に在住する外国人全員に配布した以下の「自身の命を守るための対処法」を入手しました:

英語が得意な方!はこのパンフレットの英語版をご覧ください;スウェーデン_In case of crisis or war

パンフレットの内容を以下に日本語訳してみました;
[危機または戦争が起きた場合]

このパンフレットはスウェーデンの全世帯に配布されています
スウェーデン政府を代表して。内容については、スウェーデン民間緊急事態庁 (MSB) が責任を負っています
このパンフレットは、スウェーデン語、Easy Swedish、英語で注文でき、他の多くの言語でデジタルダウンロードできます。スウェーデン手話、音声形式、点字でも利用できます。詳細については、msb.se をご覧ください
このパンフレットは安全な場所に保管してください

スウェーデン緊急事態庁(MSB) 651 81 カールスタード msb.se
イラスト:パトリック・ベルク
出版番号:MSB2400 – 2024年11月
ISBN:978-91-7927-529-73

スウェーデン在住者の皆様へ
私たちは不確実な時代に生きています。現在、世界の片隅で武力紛争が起こっています。テロ、サイバー攻撃、偽情報キャンペーンが、私たちを弱体化させ、影響を与えるために使用されています。これらの脅威に抵抗するには、団結する必要があります
スウェーデンが攻撃された場合、誰もがスウェーデンの独立と民主主義を守るために自分の役割を果たさなければなりません
私たちは愛する人、同僚、友人、隣人とともに、毎日回復力を高めています
このパンフレットでは、危機や戦争に備えてどのように準備し、行動するかを学びます。あなたはスウェーデンの総合的な緊急事態対策の一部です

目次
1.不確実な時代だからこそ、備えが大切
2.スウェーデンを強くするために力を合わせよう
3.スウェーデンの防衛
4.警戒態勢の強化
5.全面防衛義務
6.警報システム
7.空襲時に避難する
8.家庭での備え
9.避難
10.民間防衛シェルター
11.心理的防衛
12.デジタルセキュリティ
13.テロ攻撃
14.出血を止める方法
15.異常気象
16.病原体
17.特別な支援が必要な場合
18.ペットを飼っている場合
19.心配な場合
20.危機や戦争について子供に話す
21.重要な電話番号

1.不確実な時代だからこそ、備えが大切
不確実な時代においては、備えることが重要です。軍事的脅威のレベルは高まっています。最悪のシナリオ、つまりスウェーデンへの武力攻撃に備える必要があります。戦争は自由に対する究極の脅威です。軍事的暴力が権力を握るために使われると、自由で独立した生活を送る権利が脅かされます。しかし、武力紛争以外にも、サイバー攻撃偽情報キャンペーンテロ破壊活動など、社会に影響を与え、弱体化させる方法はあります。こうした種類の攻撃はいつでも発生する可能性があります。現在も発生しています。自由を当然のことと考えることは決してできません。たとえ犠牲を払う必要があるとしても、私たちの開かれた社会を守る勇気と意志は不可欠です。スウェーデンが攻撃されても、私たちは決して降伏しません。それに反する主張は誤りです。その他の深刻な脅威

また、次のようなその他の深刻なリスクや脅威に対する耐性を強化する必要があります
*異常気象
*危険な病原体
*重要な IT システムの停止
*組織犯罪

2.スウェーデンを強くするために力を合わせよう
危機や戦争の際には、私たち全員がスウェーデンの回復力に貢献する必要があります。政府機関、地方自治体、自治体は、私たちの安全が脅かされたときに大きな責任を負います。たとえば自治体は、病人や高齢者の世話をし、育児や救助サービスが可能な限り中断されないようにします。民間部門も私たちの備えに貢献しています
深刻な事件が発生した場合、援助は主に最も必要としている人々に重点を置く必要があります。つまり、私たちのほとんどが少なくとも1週間は自力で対処できなければなりません

私たちの集団的備えに参加できる方法の例をいくつか挙げます;
*スウェーデンの総合防衛システムの枠組みの中で特定の任務を担う自発的な防衛組織に参加します。他にも重要な役割を果たす非営利団体や宗教団体があります
*緊急CPR(心肺蘇生法)のコースを修了します。 • 可能であれば献血をしてください
*地域社会の他の人々と、集団的な備えを強化する方法について話し合います。たとえば、同じアパートや住宅街の隣人と話し合ってください

3.スウェーデンの防衛
スウェーデンの総合防衛システムは、軍事防衛と民間防衛で構成されています。スウェーデンは NATO の集団防衛にも参加しています。
軍事防衛
スウェーデンの軍事防衛は、スウェーデンとその NATO 同盟国を武力攻撃から守り、国境を守り、紛争解決を支援します。軍事防衛は、スウェーデン軍と、スウェーデンの軍事防衛を支援することを主な任務とする政府機関で構成されています
民間防衛
民間防衛には、政府機関地方自治体自治体民間部門非営利団体とともに、スウェーデンに住むすべての人が関与しています。民間防衛の最も重要な任務の 1 つは、軍事防衛を支援することです。もう 1 つの主な任務は、国民を保護し、戦時中であっても、可能な限り重要な公共サービスが中断されないようにすることです。重要な公共サービスには、エネルギー医療輸送が含まれます。 NATO におけるスウェーデン
スウェーデンは軍事同盟 NATO に加盟しています;
同盟の目的は、加盟国が団結して強力になり、他国による攻撃を抑止することです。それでも NATO 加盟国が攻撃された場合、同盟の他の国がその国の防衛を支援します。つまり、全員が 1 人のために、1 人が全員のためになるのです


4.警戒態勢の強化
戦争または戦争の脅威が発生した場合、スウェーデン政府は国の防衛能力を向上させるために警戒態勢の強化を発表する場合があります
警戒態勢の強化には、侵略者に対して団結し、重要なサービスと機能が中断されないようにする必要があります。そのような事態が発生した場合、さまざまな役割を担うよう求められることもあります

警戒態勢の強化に関する発表は、ラジオ、テレビ、テレテキストなど、さまざまなチャンネルを通じて放送されます。緊急警報は、最高警戒態勢を知らせるために使用される場合もあります
緊急警報は、スウェーデンが戦争状態にあるか、武力紛争の差し迫った脅威にさらされていることを知らせます。全防衛部隊を直ちに動員し、全員が戦争に備えなければなりません。

5.全面防衛義務
完全防衛義務
16 歳になった年から 70 歳になる年の終わりまで、あなたはスウェーデンの完全防衛の一員となり、戦争または戦争の脅威が発生した場合に奉仕することが義務付けられます
完全防衛義務は、スウェーデン国内または海外に住むすべてのスウェーデン国民に適用されます。完全防衛義務は、スウェーデンに居住する外国人にも適用されます。完全防衛義務は、次のもので構成されます;
*軍事または民間防衛サービス。警戒態勢が強化されている間は、戦時配置で指定された場所に直ちに移動する必要があります
*一般的な国家奉仕。スウェーデン政府が一般的な国家奉仕を発動した場合、あなたは職場に留まるか、スウェーデンの完全防衛システムを支援する他のタスクを実行する必要があります
警戒態勢が強化されている間は、特定の戦時配置が割り当てられていない限り、通常どおり仕事に行きます

6.警報システム
重大な事故、危機、戦争の脅威、または戦争が発生した場合、さまざまな方法で警報が発せられることがあります
さまざまなサイレンの意味を学びましょう;
屋外警報;
大音量のサイレンを使用する屋外警報システムは、スウェーデンのほとんどの自治体と原子力発電所の周辺で運用されています
このシステムは、3 月、6 月、9 月、12 月の最初の祝日でない月曜日の午後 3 時 (15:00) にテストされます

公共広告 (PSA)
このサイレンは 7 秒間鳴り、その後 14 秒間沈黙します。このパターンは 2 分間繰り返されます;
屋内に入り、すべての窓とドアを閉め、可能であれば換気をオフにします。詳細については、スウェーデンの公共放送局 Sveriges Radio のチャンネル P4 を聞いてください。
緊急警報および情報システムである PSA (公共広告) は、緊急事態で使用されます。たとえば、有害な大気汚染や、有毒ガスを放出したり爆発を引き起こしたりする可能性のある火災が発生した場合などです。公共広告は、主に以下を通じて放送されます
*Sveriges Radio、SVT (スウェーデンの公共放送)、SVT テレテキスト、および民間のラジオとテレビ チャンネル
krisinformation.se、SOS Alarm 緊急サービス、Sveriges Radio、SVT などのアプリ
*影響を受けた地域の携帯電話に送信されるテキスト メッセージ

緊急警報;
サイレンが 30 秒間鳴り、その後 15 秒間沈黙します。このパターンが 5 分間繰り返されます。屋内に入り、スウェーデンの公共放送局 Sveriges Radio のチャンネル P4 を聴いてください。緊急警報は、国全体が最高の警戒状態にあることを意味します。軍隊のメンバーまたは民間防衛に従事している場合は、指定された戦時配置に直ちに進んでください。戦時配置が現在の職場である場合は、雇用主の指示に従ってください

空襲警報;
このサイレンは短いバーストで構成され、1 分間鳴ります
すぐに避難してください。たとえば、民間防衛シェルター、地下室、またはその他の防護構造物に避難してください。屋外よりも屋内の方が安全で、できれば窓のない部屋の方が安全です

警報解除;
30 秒間続く、長く途切れないサイレン

7.空襲時に避難する
空襲があった場合は、すぐに避難所または他の保護場所に避難する必要があります。最寄りの避難所を選択してください。また、軍事攻撃の可能性がある場合は、その地域から避難する必要があるかもしれません
警報は、空襲警報やスウェーデンの公共放送局 Sveriges Radio のチャンネル P4 など、さまざまなチャンネルを通じて放送されます

民間防衛シェルターは、衝撃波や爆弾の破片から身を守ります。また、核兵器の爆風や熱波からも身を守ります。シェルターは、放射性降下物化学兵器のガス生物兵器に関しては、他の場所よりも優れた保護を提供します。

避難するその他の場所;
地下室、ガレージ、地下の地下鉄駅も、空襲中に身を隠します。トンネルや壁も、ある程度の保護を提供します
屋外よりも屋内、できれば窓のない部屋にいたほうがよいでしょう。屋外にいて身を隠す時間がない場合、地面に横たわらなければなりません。できれば小さな穴や溝に
「安全」のサイレンが聞こえたら、シェルターから出ることができます
負傷者や閉じ込められた人を助けてください。

核兵器;
世界的な脅威レベルが上昇しているため、核兵器が使用されるリスクが高まっています。核兵器、化学兵器、生物兵器が使用される攻撃の際には、空襲のときと同じように身を隠してください。民間防衛シェルターは最高の保護を提供します。放射線レベルは数日後には大幅に低下します

基本的な防護;
屋外の穴や溝トンネル内または壁の横屋内の窓のない部屋民間防衛シェルター地下室ガレージ地下の地下鉄駅(最も効果的な保護が可能)

8.家庭での備え
少なくとも 1 週間は自力で対処できれば、集団での備えに貢献できます

チェックリストのアドバイスを、自分のニーズや状況に合わせて調整してください。隣人など、他の人といくつかのものを共有できるかもしれません。危機や戦争の際には、誰もが互いに助け合わなければなりません
事前に準備しておけば、深刻な事態が発生したときに慌てずに済みます

水;
主に飲料水と調理用に、1 日に少なくとも 3 リットルの水が必要です。飲料水が不足した場合は、自治体が公共の給水タンクを用意できます。ただし、緊急時に備えて自宅にいくらかの水を備蓄しておく必要があります
水を貯めるための貯水容器または蓋付きバケツを用意してください
ボトル入りの水を購入するか、貯水容器に水を満たしてください
水は暗くて涼しい場所に保管してください。年に 1 ~ 2 回、水の味や匂いが異常かどうかを確認してください。必要に応じて水を交換してください。水が飲んでも安全かどうかわからない場合は、沸騰するまで沸騰させてください

ペットボトルに水を入れて冷凍庫に入れます。停電の際にはボトルを保冷剤代わりに使用できます。氷が溶けたら、水を飲めます。ボトルをいっぱいに満たさないでください。凍ると割れる場合があります

暖房;
冬に停電すると、家の室内温度は急速に下がります。1 つの部屋に集まり、窓に毛布をかけ、床にラグを敷いてください
家に常備しておくとよいもの;
暖かい全天候型のアウトドア ウェア、ウール製の服、厚手の靴下、ビーニー、手袋、スカーフ、毛布、スリーピング マット、寝袋、
電気を必要としない代替熱源– たとえば、ガスまたはパラフィン ヒーター、キャンドル、ティー ライト、熱源用の燃料、マッチ、着火剤、消火器

代替熱源を使用する場合は、必要な予防措置を講じてください。窓を開けて呼吸できる空気を入れ、就寝前に熱源のスイッチを必ず切ってください。

コミュニケーション
政府当局からのニュースや重要な情報を受け取れるようにする必要があります
また、家族や友人と連絡を取り合うことも必要です。家に置いておくと便利なもの;電池、ソーラーパネル、または巻き上げ機構で動くラジオ、予備の電池、携帯電話と充電済みのパワーバンク、車用の電話充電器
重要な電話番号を紙に書き留めておく

スウェーデンの公共放送局 Sveriges Radio のチャンネル P4 は、緊急情報の公式チャンネルです。危機や戦争の場合でも放送が継続されます。お住まいの地域の P4 チャンネルの周波数は、krisinformation.se でご確認ください。

食品;
満腹感があり、エネルギーに富み、室温で安全に保存できる食品が必要です。すぐに調理でき、水をほとんど必要とせず、すぐに食べられる食品を入手してください。通常の買い物のときに、1 つまたは 2 つの追加アイテムを購入するだけで、緊急時の備蓄を増強できます

自宅に常備しておくとよいもの;
保存可能な食品: 穀物、シリアル、パスタ、米、クスクス、インスタント マッシュポテト、粉ミルク、トルティーヤ、クリスプブレッド、クラッカー、塩、スパイス缶詰食品:トマト、野菜、果物、すぐに食べられる食品
高タンパク質:乾燥または缶詰の肉や魚、ひよこ豆、豆、レンズ豆、チューブ入りチーズ
高脂肪: 調理油、ペスト、油漬け天日干しトマト、タプナード、ピーナッツバター、ナッツ、種子
エネルギー補給: フルーツカスタード、ジャム、チョコレート、蜂蜜、プロテインバー、ドライフルーツ
飲み物:コーヒー、紅茶、ホットチョコレートミックス、ブルーベリーとローズヒップのスープ、ジュース、または牛乳
子供用の食べ物: 粥、乳児用粉ミルク、オートミール、ベビーフード
手に入るフルーツやベリーを活用しましょう
庭、バルコニー、窓辺で食べられるものを育てましょう

通貨;
さまざまな方法で支払いができると、緊急時の備えが強化されます。時々現金を使う必要があります
あるとよいもの;
少なくとも 1 週間分の現金、できれば異なる額面の現金
その他の支払いオプション – たとえば、デビットカードやクレジットカード、デジタルサービ

トイレ;
停電などで水が出ない場合は、トイレを流すことができません。他の方法で廃棄物を処分し、衛生状態を良好に保つ準備をしてください
トイレを流せない場合でも、トイレで排尿することができます。トイレットペーパーはゴミ箱または蓋付きのバケツに捨ててください

排泄物を処分するには、ビニール袋またはゴミ袋を便器に入れるか、ポータブルトイレまたは蓋付きのバケツを使用してください。排泄物を堆肥化ごみまたはおがくずで覆います。廃棄物を処分する場所については、自治体から情報が得られます
自宅に常備しておくとよいもの:トイレットペーパー、ウェットティッシュ、手指消毒剤、おむつ、生理用ナプキン、ビニール袋またはゴミ袋、堆肥化ごみまたはおがくず、蓋付きのバケツ
臭いの蓄積を減らすために、尿と排泄物を混ぜないでください

その他;
自宅に常備しておくとよいもの:キャンプ用ストーブ、ガスバーナー、燃料、家庭用薬局、救急箱、マッチ、火起こし、懐中電灯、ヘッドランプ、缶切り、車の燃料タンクまたは充電済みのバッテリー
処方薬や使い捨て製品が必要な場合 (たとえば糖尿病の場合)、自宅に 1 か月分の備蓄を必ず保管してください

9.避難
軍事攻撃、自然災害、または有害物質の放出が差し迫っている場合、地域から迅速に避難しなければならない場合があります
避難指示は、公共広告 (PSA) システムを含むさまざまなチャネルを通じて発表されます。スウェーデンの公共放送局 Sveriges Radio のチャンネル P4 をオンにし、政府当局の指示に従ってください
自力で避難できない場合は、安全な場所に到着すると、支援が提供され、緊急用住居と食料も提供されます。

持ち物;
すぐに避難する必要があり、しばらく自宅に戻れない場合に備えて、必需品のリストを作成してください。持ち物に関するヒントをいくつか紹介します;
数日分の食料と水写真付き身分証明書、デビット カードまたはクレジットカード現金医薬品と補助具 (補聴器など)電池ソーラー パネルまたは巻き上げ機構で動作するラジオ暖かい服防水アウターウェア予備の衣類トイレタリーおよび衛生用品携帯電話と充電器地図コンパス電話番号や保険情報など、紙に書かれた重要な情報

10.民間防衛シェルター

特定の民間防衛シェルターが指定されているわけではありません。最寄りのシェルターに避難してください。msb.se(日本語でも見られます)では、スウェーデンのすべてのシェルターの位置を示す地図を見つけることができます
シェルターには水と基本的なトイレ設備が必要です。時間があれば、食べ物、暖かい服、トイレタリーを持ってきてください。シェルターに数日間滞在する準備をしてください

平時であれば、シェルターは他の活動に使用できます
ただし、必要に応じて 48 時間以内に再設定して利用できるようにする必要があります。警戒レベルが高まっている間は、所有者はシェルターが適切に準備されていることを確認する義務があります
シェルターには、オレンジ色の長方形の中に青い三角形のマークが(右の画像)が付いています。このシンボルは、建物が戦争法の下で保護されていることを意味します

最寄りの民間防衛シェルター
警戒レベルが高まった場合に避難が必要な場合は、現在地から最も近いシェルターに入る権利があります。 自宅、学校、職場の近くにあるシェルターやその他の保護施設を探してください
11.心理的防衛
外国勢力やスウェーデン以外の人々は、偽情報、誤情報、プロパガンダを使って私たちに影響を与えています
私たちに影響を与えようとする試みは、主にオンライン プラットフォームやソーシャル メディアを通じて毎日行われています。これらの行為の目的は、不信感を植え付け、自衛の意志を弱めることです

私たちに影響を与えようとする人々は、次のような方法でそうする可能性があります;
*嘘、偽の物語、または部分的に真実だが文脈から外れた話を広める
*偽の画像、動画、または音声録音を作成する
*特定の問題や出来事に関連する強い感情を引き起こし、お互いに対する不安や疑念を高めようとする。

私たちの集団的回復力に貢献する方法;
*強い反応を引き起こすコンテンツに注意してください
*信頼できる情報源からの情報のみを共有してください
*複数の異なる情報源からの情報を検証するようにしてください
*重大な事態が発生した場合は、公式の政府機関から確認を得てください

12.デジタルセキュリティ
デジタル化により、重要な IT システムをダウンさせるサイバー攻撃に対して脆弱になる可能性があります
自宅でも職場でも、情報を安全かつ確実に扱うことで、スウェーデンのレジリエンス強化に貢献できます。
始めるためのヒント:
*文字、数字、記号を組み合わせた強力なパスワードを作成します
*不明な送信者からのメール内のリンクをクリックしたり、添付ファイルを開いたりしないでください
セキュリティ アップデートをすぐにインストールします
重要な情報を外付けハード ドライブ、USB ドライブ、またはクラウド サービスに定期的にバックアップします

13.テロ攻撃
テロ攻撃や武力攻撃は、人や交通システム、電力網などの重要なインフラに向けられることがあります。被害に遭ったら、すぐに行動してください
逃げる:現場から遠く離れてください
隠れる:逃げられない場合は、部屋に閉じこもるか隠れてください。携帯電話をサイレント モードにしてください
伝える:112 に電話して、何が起こったかを報告してください。

考慮すべき事項
*ネットワークに過負荷をかけないように、助けを求める必要がある場合にのみ電話してください
*警察、救助隊、政府機関の指示に従ってください
*何が起こっているかについての噂や未確認の情報を広めないでください
*危険にさらされている可能性のある人には電話しないでください。隠れ場所が明らかになる可能性があります

14.出血を止める方法
負傷者を助ける前に、自分と負傷者の安全を確認してください。重度の出血を止める方法は次のとおりです;
112 番の緊急サービスに電話するか、他の人に電話してもらいます
できれば、丸めた T シャツ、スカーフなどを使用して、腕を伸ばした状態で傷口に直接しっかりと圧力をかけます
疲れたり、助けが必要になったりした場合は、誰かに手の上に圧力をかけてもらうように頼みます
救急車が到着し、救急隊員が圧力を解放してよいと言うまで、圧力を維持します

15.異常気象
大雨、洪水、熱波などの異常気象はますます頻繁に発生しています。土砂崩れや森林火災などの自然災害のリスクも高まっています。政府当局の支援を受けて、備えを強化するために、以下の手順を実行してください;
*市町村のウェブサイトまたは msb.se で、お住まいの地域での土砂崩れ、浸食、洪水のリスクと備えに関する情報を入手してください
*異常気象に備える方法についてのアドバイスを得るには、msb.se または krisinformation.se にアクセスしてください
*火やグリルに火をつける前に、お住まいの地域で火気禁止令が出ていないか確認してください。情報は krisinformation.se や、その他のウェブサイトで入手できます
*天気予報に注意し、気象警報を提供するアプリをダウンロードしてください。たとえば、krisinformation.se、スウェーデンの公共放送局 Sveriges Radio、SMHI Väder などです
*発せられた警告はすべて真剣に受け止めてください

異常気象や自然災害が発生した場合は、スウェーデンの公共放送局 Sveriges Radio のチャンネル P4 をオンにして、情報や詳しい指示を入手してください。たとえば、水道水を沸騰させる必要がある場合や、地域から避難する必要がある場合などです

16.病原体
感染症は急速に広がり、大規模な流行を引き起こす可能性があります。感染症が広がり始めた場合、政府機関は自分自身や他の人を守る方法についての推奨事項を提供します;
*市町村、地域の感染症専門家、政府機関からの最新情報を入手してください
*政府機関からの推奨事項に従って、病気の蔓延を減らすのに協力してください

17.特別な支援が必要な場合
現在、自治体から特別な支援を受けている人は、危機や戦争が発生した場合でも引き続き支援を受けることができます。ただし、特定のニーズに応じて、緊急事態への備えを遵守する必要があります
*家族、友人、隣人、介助者、または介護管理者に、必要な支援について相談してください
*処方薬やその他の医療補助具などの重要な情報も含めた、危機時の緊急時対応計画を立ててください
*避難所やその他の保護地域への移動に備えてください
*携帯電話のアクセシビリティ機能を使用して、最も重要な情報を入手してください
*聴覚障害がある場合は、krisinformation.se のアプリを使用し、通知をオンにして公共広告 (PSA) を受信して​​ください
*視覚障害がある場合は、テキスト読み上げツールまたはスクリーン リーダーを使用して、政府当局からの情報を入手してください
*盲導犬または介助犬は、民間防衛シェルターで許可されています。 !
詳細については、msb.se または krisinformation.se をご覧ください

18.ペットを飼っている場合
危機や戦争の際には、ペットの世話と健康は飼い主の責任です。少なくとも 1 週間は持ちこたえられるだけの食料を自宅に用意しておいてください
空襲があった場合は、地下室、ガレージ、地下鉄駅などの防護施設にペットを連れて行くことができます。ペットを自宅に残さなければならない場合 (ペットが自由に食べ物を摂取できる場合)、追加の食べ物と水を残しておいてください
自宅に置いておくとよいもの;
*保存容器に入れたドライフードと水
*動物用の薬
*動物を運ぶためのケージまたはその他の方法
*獣医への手書きの電話番号、保険情報、ID 番号
* 馬や家畜を飼っている場合は、緊急事態への備えに関する詳細情報を jordbruksverket.se で入手できます


19.心配な場合

不確実な時期は、人々に不安や心配を感じさせます。不安に対処するためのヒントをいくつかご紹介します;
*家族、友人、近所の人、またはメンタルヘルス組織に自分の気持ちを話しましょう。孤独感を和らげるのに役立ちます*参加しましょう。たとえば、他の人の緊急事態への備えを改善するのを手伝うなどです。そうすることで目的意識が持てます*自分の健康に気を配りましょう。良い食事、睡眠、運動はストレスを軽減し、健康状態を改善します
*ニュースの摂取を制限しましょう。自分に合ったレベルを見つけ、気分が良くなることにもっと時間を費やしましょう
*深刻な不安がある場合は専門家の助けを求めましょう。

20.危機や戦争について子供に話す
さまざまな年齢の子供は、さまざまな方法で不安を表現します。ストレスや心配の兆候に気を配りましょう;
*子供に状況を説明します
*耳を傾け、会話に誘います
*確認された情報のみを話します*不必要な詳細は避けます。 • すべての答えがわからない場合は、正直に認めましょう
*子どもと一緒にアクティビティを計画し、子どもの焦点を切り替えられるようにします

21.重要な電話番号
112 緊急の場合 – 救急車、救助隊、警察。 114 14 警察との非緊急連絡。 重大な事故や危機に関する情報の受信または提供。 1177 怪我や病気の場合の医療支援。 詳細情報 MSB.se 危機や戦争が発生した場合の緊急事態への備えに関する詳細情報。スウェーデン民間緊急事態庁が提供するビデオ、演習、コースなど。 Forsvarsmakten.se スウェーデンとその同盟国の軍事防衛について。 Krisinformation.se スウェーデン政府当局からの緊急情報。 Lilla.krisinformation.se 子供や若者に適した危機や戦争に関する情報

公共広告 (PSA);
サイレンが 7 秒間鳴り、その後 14 秒間沈黙します。このパターンは 2 分間繰り返されます。屋内に入り、すべての窓とドアを閉め、可能であれば換気装置をオフにしてください。スウェーデンの公共放送局 Sveriges Radio、チャンネル P4 を聞いてください

緊急警報;
サイレンが 30 秒間鳴り、その後 15 秒間沈黙します。このパターンは 5 分間繰り返されます
*スウェーデンの公共放送局 Sveriges Radio、チャンネル P4 を聞いてください
*軍人または公務員の場合は、指定された場所に直ちに進んでください。

空襲警報;
*サイレンは短いバーストで構成され、1 分間鳴ります。直ちに民間防衛シェルターまたはその他の保護場所を探してください。最寄りの場所を選択してください。

警報解除:
30秒間、途切れることなく長く鳴るサイレン

おわりに

ブログを書き始めるに当たってロシアの近代史をざっと調べたところ、改めてロシアという国は、為政者だけでなくその国民も他国を侵略することに道徳的な心に痛みを感じない国だなと思いました。私の過去のブログで、謂わば植民地支配をしていた満州に住んでいた両親や親戚も、一緒に住んでいた中国人や朝鮮人に対しては幾らかの心の痛みを感じていたいたと思われますが、ロシア人に対しては「ろ助」と呼んで憎んでいたと書いた事を思い出します
日露不可侵条約を結んでいたソ連が終戦直前に、一方的に条約を破棄して満州に怒涛の様に侵入してきたこと、また北満に入植していた沢山の一般日本人を集団自殺に追い込み、多くの投降した日本の軍人・軍属をシベリアに送り、極寒の中で強制労働をさせて、多くの死者を出したこと(国際法違反)は許し難いことであり、ヨーロッパの人々が歴史上被ったロシアの戦争犯罪による苦難に対し多くの日本人がシンパシイを感じてしまうことは不思議ではないと思います

日本は島国である為、歴史的に他国の侵略を受けたことは少ないものの、蒙古襲来(1274年,1281年)の時は、鎌倉武士の奮闘と暴風のお陰で退けることが出来ましたが、その進入路にあたる隠岐・対馬では島民の多くが殺害されています。また、太平洋戦争の末期の沖縄の戦闘では、住民を巻き込んだ激しい地上戦で20万人を超える人が亡くなり、県民の4人に1人が命を落としました

習近平主席が数年内の台湾併合を公言している現在、台湾関係法により「台湾の将来を非平和的手段により決定しようとする試みは西太平洋地域に対する脅威とみなす」としている米国が、これを黙っているはずはなく、台湾危機は数年内に訪れる蓋然性は低くないと思われます。危機の際、日本は日米安保条約の定めにより米軍の支援を行う必要があり(詳しくは私のブログ「ウクライナ戦争が変えた日本の防衛政策」をご覧ください)、日本の米軍基地周辺や、支援を行う自衛隊艦船への攻撃を受ける事態を想定しなければならないと思われます
既に、沖縄県の島嶼地域の防衛に関しては以下の様な対応が始まっています;
*2023年10月:沖縄から九州へ県外避難、有事備え「受け入れ計画を」
*2024年4月:自民党、沖縄離島から円滑避難で提言へ 台湾有事想定
*2024年10月:日米、南西諸島から初の退避訓練 4万人超の規模で演習
*2025年1月:自衛隊、南西防衛強化で海上輸送の新部隊 3月末発足

尚、島嶼防衛を考えるに当たっては、太平洋戦争末期の1944年、沖縄から疎開する学童らを乗せて九州に向かっていた「対馬丸」が、アメリカ軍の潜水艦の攻撃を受けて沈没、 800人近い子どもを含む多くの犠牲者を出した悲劇を忘れてはならないと思います

スウェーデンの「危機または戦争が起きた場合の国民の対処法のパンフレットは大変良くできていると思います。やはり、ロシアからの度重なる攻撃を受けてきた体験からの知恵が詰まっていると思います。日本もこれに倣って有事に備えて国民がどう対処すべきかのマニュアルを準備すべき時期に来ているのではないかと私は思います。ただ、スウェーデンと違って徴兵制が無く、専守防衛が原則の場合どう対応すればいいか、中々難しい問題だとは思います
尚、核兵器が使用された時の避難の仕方が書かれていますが、何故こういう避難をするのか?これで大丈夫か?、と思われるかもしれませんがその疑問に答えるには以下の私のブログ「災害のリスクについて考えてみました」の「3.核兵器の攻撃を受けた時に生き延びるには」を見て頂ければ納得されると思います

以上

「遊行期」を快適に生きる知恵!

はじめに

今年に入って筆者は、長年悩んできた腰痛を根治させるために手術を決断し2月初旬に入院しました。手術を終えた後、長男が孫を連れて面会に来てくれました。この時、お見舞いとして3冊の本を差し入れてくれましたが、その内の1冊が五木寛之の最新の著作である「遊行期」で、退院までの数日間で読み終えることが出来ました
五木寛之については、若い頃に最初に読んだ著作はベストセラーとなった長編小説「青春の門」でしたが、学生時代、友人に負けまいと難しい本ばかり読んでいた私にとってとても新鮮に感じ、以来彼の著作は出来る限り読むようにしていました。今回息子に貰った本は、彼が老境に至って書き始めた自身の体験と古典の教えを融合した、大変分かり易い「老人の為の生き方指南」の本です。見出しの写真にある本はいずれも私が読んだ本ですが、大分忘れてしまったので生成AIに要約を描きだしてもらいました;
「下山の思想」
現代社会は「上昇」や「成長」を重視してきたが、これは永遠に続くものではない。登山において頂上に到達した後、安全に下山することが重要であるように、人生や社会も「下山の時代」に入っている。下山には新しい視点や戦略が必要であり、それを意識しなければ転落してしまう
*成熟と衰退の受容
経済や人口が右肩上がりだった時代は終わり、今後は「衰退」を前提にした考え方が求められる。「老い」や「衰え」を否定せず、それを受け入れながら豊かに生きる方法を考える
*「無理をしない」生き方
無理に成長を追い求めるのではなく、自分のペースで生きることが大切。
競争社会から降りて、自然な生き方を模索することが幸せにつながる
*日本社会と「下山」
高度経済成長を遂げた日本は、これからは成熟社会へと向かうべきであり、無理な経済成長を目指すのではなく、持続可能な発展や精神的な充足を大切にすべきである
*結論
五木寛之は、『下山の思想』を通じて、成長の終わりを嘆くのではなく、下山の過程を前向きに捉え、充実した人生を送るための新しい価値観を提案している。それは、無理に上を目指すのではなく、自分の歩幅で自然体の生き方を選ぶことの大切さを説いている

「白秋期」
*「白秋期」とは何か
人生を四季にたとえると、「青春」「朱夏」「白秋」「玄冬」という四つの段階がある。「白秋期」は老年の入り口であり、壮年期(朱夏)ほどの活力はないが、完全な老年(玄冬)でもない。これまでの経験を活かしながら、人生をより深く味わう時期と捉える
*「青春至上主義」からの脱却
現代社会では若さが過度に重視されるが、年を重ねることにも価値がある。
白秋期には、体力の衰えを受け入れつつ、精神的な充実を目指す生き方が重要
*「無理をしない」生き方
若さを取り戻そうと焦るのではなく、自分の年齢にふさわしい生活を楽しむことが大切。無理に新しいことに挑戦するのではなく、これまでの経験を活かして「自分らしく」生きる
*人生を味わうために
白秋期は、過去を振り返りながらも、新たな楽しみを見つける時期。物事の価値観を見直し、シンプルな喜びを大切にすることが心の豊かさにつながる。
*結論
五木寛之は『白秋期』を通じて、老いを嘆くのではなく、それを受け入れ、自然体で生きることの大切さを説いています。若さに執着せず、白秋期ならではの落ち着きや深みを楽しむことで、人生はより豊かになるというメッセージが込められています
*対象となる年齢層の目安:50歳~75歳頃

「遊行期」
*「遊行期」とは何か
人生を四季にたとえ、「青春(青)」「朱夏(赤)」「白秋(白)」「玄冬(黒)」という四つの時期を設定。遊行期は「玄冬」にあたり、人生の最終章を意味する。ただし、遊行とは悲観的なものではなく、固定観念に縛られずに自由に生きる時期
*「遊行」という生き方
「遊行」とは、本来、仏教の僧侶が執着を捨てて旅をしながら生きることを指す。
物や地位、過去のしがらみから解放され、心の赴くままに生きる姿勢が大切。これまで築いてきたものに固執せず、軽やかに生きることが理想
*「断捨離」と精神的自由
人生の終盤では、不要な物や人間関係を手放し、シンプルに生きることが重要。過去を振り返りつつも、執着せず、未来に向かって歩む心構えが求められる。「持たない」ことによって、より自由に生きることができる
*死を恐れず、今を生きる
遊行期は、死を意識する時期でもあるが、それを恐れるのではなく、自然なものとして受け入れる。「今を楽しむ」ことを大切にし、日常の小さな喜びを見つける。旅をするように人生を歩むことで、最期まで豊かに生きることができる。
*結論
『遊行期』は、老いと死を受け入れながら、心軽やかに生きるための哲学を示した一冊です。執着を手放し、自由な心で「遊行」することで、人生の最終章を穏やかで充実したものにできる、というメッセージが込められています
*対象となる年齢層の目安:75歳~

五木寛之の「遊行期」の生き方と私(筆者)
この本は全体で220ページで、しかも老人が読みやすいように字が比較的大きく、且つ行間が広いので老眼であっても短時間で読み終えることが出来ます。また以下の目次をご覧になると;

この本では、ほぼ一貫して老人ボケを扱っており、しかも老人のボケは決して病気ではなく、肉体の老化と同じ精神の老化であり、充実した老後を過ごす為のヒントにあふれている内容です。以下に、五木寛之氏の着眼点に、私が勝手にな~るほどそういう捉え方もあるのか、あるいは私もやってるぞ、といった所を抜き出してみました
尚、この本からの引用文は青色(但し重要部分は赤字で強調しています)書き、筆者の文章と区別しています。尚、当然ですが引用文の中の「」は五木寛之氏本人です。では本題に入ります;

ボケには「春風駘蕩(春の穏やかな風がそよそよと吹く、のどかで心地よい様子)」としているイメージがあります。一方で狂暴になったり、介護している人に罵詈雑言を吐いたり、奇行に走ったりというケースもありますが、そういう荒々しいボケかたにならなければ、好ましいボケ方と言えるはずです。ボケは一般には「認知症」と考えられていますが、世間的には「あの人、最近ボケが入ってきたね」と軽い調子で話題にしています。ボケという言葉には、死や老いほど「人生の敵」としてのはっきりとした対抗物ではなく、何かちょっと余裕のある感覚が含まれている印象があります
誰にも必ずやってくるボケをどう迎えるかという問いの答えは、ボケない方法の中には無くて、望ましい生き方の中にある。つまり「人間の完成度としての豊かなボケ」、そんなとらえ方の中にこそあるはずです

ボケとは人格の完成度の最終段階である、とここまではっきりとボケを肯定されると嬉しくなります。筆者も最近物忘れが激しく、例えば「二階にものを取りに行った時、二階に着いた途端!何を取りに来たか忘れており、慌てて一階に戻ると直ぐに思い出す」といった奇妙な行動が増えてきております。同居している妻(私より5歳半若い)と次男が、心配且つ哀れみの表情で私を見る目が、毎回私に突き刺さります

高齢の名僧と言えば、やはり鎌倉時代に90歳まで生きた「親鸞」でしょう。しかも、単に長生きしただけではありません。親鸞は75歳の頃から「和讃」を書き始め、亡くなる直前まで書き続けました。和讃とは、いわば歌の作詞です。そういうものを90歳になってなお何百も書き残すのは、ある種、知的な化け物と言えますまた私は、有名な作家の名前が思い出せないことがしょっちゅうあります。顔も浮かんで、時代も浮かんで、著書まで浮かんでいるけれども名前がでてこない。人名にとどまらず、一日に何回も固有名詞を忘れます。その対策として、私は「5回出てこなかった固有名詞はメモを取る」と決めています。また「ストーリーを作って覚える」ということも試しています。苦労して覚えるのではなくて、ユーモラスな語呂合わせで覚えるのは、その作業自体楽しいものです。そういう記憶を引き出すテクニック、技術は、他にもいろいろあるでしょう。それを身につける、あるいは自分なりに発見するというのも、一つのよりよくボケる道になりえると思います

<参考>和讃とは
親鸞が子供の頃、巷で親しまれていた今様(いまよう)の様式を使って、漢語やヒンズー語で書かれているお経を、分かり易く書き綴ったものです。親鸞が後半生に作った何百という歌のうち「讃阿弥陀仏偈和讃」は、今でも浄土真宗の婦人会などなどいろんな人たちに歌われています;
知恵の光明はかりまし
有量(うりょう)の諸相ことごとく
光暁(こうきょう)かぶらぬものはなし
真実明(みょう)に帰命(きみょう)せよ
<参考>今様とは
中世のころ、熱病の様に流行した7・5調(7音節+5音節)の今様は、「白拍子(右絵参照)」の世界、現代で言う風俗の世界から始まり、貴族社会で洗練されました
今様の日本の文化に与えた影響については、筆者のブログ「カラオケ万歳」の最後の方にある「カラオケの裏にある文化」でやや詳しく述べています)
筆者の場合も、名前が出てこないこと度々あります。人との会話中に名前が出てこないと相当あせりますが、親しい友人、家族の間ではいつも肌身離さず!持っているスマホ「手がかり」を幾つか調べることで何とか対処しています
ただ、明け方のまどろみ(レム睡眠)
の中(上図の緑色の部分)でいいアイデアが浮かんだ時や、トイレの中?電車内などでメモしておきたいことを思いついた場合、そのままにしておくと間違いなく思い出せなくなるので、最近はスマホにメモ帳のアプリ(私の場合、GoogleのClevノート/無料版)を入れておくことで記憶保持能力を補っています

ボケから逃げよう、ボケを避けようとするのではなく、よりよくボケようとする、体の状態に応じて自分にとって気持ちのいいボケる方法を見つけていく、そういう積極性が必要なのです。しかし、その方法は決して重々しいものではなくて、むしろ軽薄なくらいがいいと思う。その方が、年配者でありながら周りの人たちから敬遠されず、嫌われず、仲間に入れて貰える、女子中学生にも好かれる老人になれるのではないでしょうか
幕末の勤王の志士・高杉晋作の歌に「おもしろき こともなき世を おもしろく」があります。確かに、人生おもしろいことなんてあまりない。憂きことばかりなのが現実でしょう。しかし、その中でも自分が面白いことを見つけようとする。すると、自分の肉体という小さなものの中にも、いろんなおもしろいことが沢山あると気付くはずです
ボケは加齢に伴う人間の老化の正常な活動の一つ。ボケることは人間の正常な成り行きである。そこには、ゆがんだボケも、伸び伸びとして周りを和ませるボケも、本人が納得するボケもあります。だったら限界があるだろうけれども、できるだけ良い方向へボケていける。そして、そこには主に視力、聴力、咀嚼力、歩行力が密接に関係している。これが私の仮説です

この仮説には全面的に賛同します。最近、視力、聴力が落ちてきているので、何らかの矯正が必要だと感じています。視力については情報収集能力に直接関係すると思われます。五木寛之氏の場合、毎朝全国紙5紙を隈なく読み込んでいるそうです。私の場合は、全国紙1紙とネットからの情報収集を毎日行っており、注目すべき情報については「pdfファイル」にして、Dropboxというクラウドの中に収集した情報の全てをフォルダーで分類した中に収めています。例えば、最近毎日沢山の情報が流れている記事はウクライナ関連だと思いますが、この情報はDropbox内の以下のフォルダーに時系列に沿って収めています;

因みに、最も末端にある「戦況関連」のフォルダー内には、現在(2,025年3月4日)574個のpdfファイルが収納されています。フォルダーを辿り、時系列で探せばいつでも知りたい情報にアクセスできます。またDropboxはスマホでもネットが繋がっている限り全ての情報にアクセスできますので、ブログなどを纏める時は極めて便利なツールになっています
聴力はについても、最近やや衰えている実感があります。特にテレビを視聴する時に私に適した音量は、ワイフと同居している息子にはうるさ過ぎる様で時々指摘を受けます

歳をとると聴力が衰えて耳が遠くなる。そうすると、皆で喋っているときに聞こえないことがある。しかし「なんて言った?」と聞き返すのが野暮な感じがしてできない。聴こえなくても「うん、そうだね」などとわかったふりをする。つまり、うんうんといい加減な相槌を打って、耳が遠くなっているのを隠すわけです。聞こえないのが嫌だからと、周囲とのつきあいを避けるようになっていくという精神状態です

若い人とのコミュニケーションを円滑にするには、その内補聴器の世話になることも考えなければいけないと思っています
咀嚼力については、五木寛之氏は滑舌(ref:滑舌トレーニング)と関連することで重要だと考えている様です。確かに咀嚼力には嚙む力の他に口に入ったものを混ぜ合わせる為に舌や唇の動きも柔軟でなければならない訳で当然かもしれません。若い人とのコミュニケーションにも滑舌・早口は必須能力かも知れません
歩行力については言うまでもありません。所謂フレイルになってしまうと、人間関係そのものを維持、構築することも十分に行えなくなります

ボケを精神的な活動だけ、あるいは肉体的な活動だけでとらえずに、その両面、人間の高齢化に伴う心身活動の一つとしてどう向き合っていくか。そういう養生法を一生懸命研究して、いろいろ試しています。ただし、ボケの養生法を無理に努力してやるというのでは楽しくありません。「趣味は?」と尋ねられたら「ボケ養生です」と笑顔で答えられる。そんな感じで面白がってやる。その方がやはり楽しいのではないでしょうか
健忘症は大きく分けると、「前行性健忘」という前向きの健忘症と「逆行性健忘」という後ろ向きの健忘症、この二つの症状があります。「前行性健忘」は、例えば今日のお昼に何を食べたのか、そういう新しい記憶が出てこない。「逆行性健忘」は、例えば昭和二十年の終戦の時にどこで何をしていたのか、そういう古い記憶が蘇ってこない

高齢者の運転免許証更新で、認知症チェックで行われているテストは概ね「前向性健忘」をチェックしていると思われます。このチェックで老人の安全運転能力に関連するか私は疑問に思っています

高齢者にとって、物忘れは一番初歩的なかたちでボケを意識する始めりです。こうした固有名詞の記憶の喪失が初歩のボケだとしたら、それに対してどうするか。「放っておく」というのがいちばんよくないと思います。やはり何とかして記憶を探し出した方がいいと思います。。自分で調べるとか知っていそうな人に電話を掛けて聞くとか、とにかく執念深くちゃんと思い出した方がいい。「放置しない」というのは、ある意味、現実的なボケ対策の一つの戦略と言え、私たちの世代にとっては、その日付を見聞きするだけでドキッとすえるような重さがあります。

今年(多分2024年)8月15日、先の大戦の記事で埋め尽くされているだろうな、と思って全国紙五紙を広げてみたら、体験談みたいなものでお茶を濁している新聞ばかりで拍子抜けでした。
5月1日のメーデーの紙面もそうでした。昭和27年5月1日に「血のメーデー事件」が皇居前広場でありました。一行くらい出ているかなと思って5紙に目を通したけれども、ほとんどなかった。「血のメーデー事件」は戦後を代表する大変な出来事です。日比谷公園にいたデモ隊が皇居に乱入しようとした。それで警官隊が、ピストルを上に打つ威嚇射撃ではなく、戦後初めて群衆に向かって水平射撃をした。主催者の発表によると、デモ隊側は死者2人、重軽傷者638人。警察側は負傷者830人でした。私は当時大学に入ってばかりです。駆けつけたら日比谷から有楽町まで煙が漂っていました。第一生命あたりの自動車がもうもうと煙をふいていて、のちに思い返すと、ベトナムの戦場のような感じでした
しかし、そういう過去を語れる人たちがいなくなっているとしても、これはいわば歴史的健忘症です。それをジャーナリズムが自ら進んで患っているような感じがする。この国はボケてきたのかもしれません。時代も国も国民も、ボケるということがあるのです。昨日のことはよく覚えているけれども、何十年前の話はまったくしらない、ボケた社会。そうならないためにはどうするか。歴史的記憶は常にリフレッシュする必要があります。昔のことを冷静に淡々と、話を盛らずに語れる年長者の存在がすごく大事になるわけです

これは恐らく日本社会全体が「逆行性健忘」に罹っているということだと思います。近代から現代にいたる日本の歴史の中で、明治維新とか日露戦争については映画やテレビドラマで多く語られるのに対し、第二次世界大戦前後の日本の歴史については語られることが少ないと思っています。確かにマイナスの面が多かった歴史だとは思いますが、こうした歴史の中にも間違った判断の他に、純粋に日本人の夢があったことも忘れてはならないと私は考えています。過去に私が寄稿したブログ/「満州国」その“うたかたの夢”はそうしたことに着目したテーマでした

私の実践は「アンチ・ボケ」、ボケを克服するための健康法ではありません。ボケの不安にとらわれないための養生法なのです。最終的に人間は、どんなに抗っても肉体が衰えて死をむかえます。精神も同じように徐々に老いていき、最後は死をむかえます。どんな人間も老いてボケて行く。年齢を重ねるのと同じように、ボケ度というものが進んでいく。だからこそ、ボケを異常、害悪と考えたり敬遠したりしない。これが大事だと私は思うのです
また、精神の鍛練も怠ってはいけない。精神の老いから自由になる知的な活動、いわばボケのリベラルアーツ(教養)を追及しなければいけない。それも楽しく真剣に、、。

私自身、この先どの様にボケて行くか分かりませんが、少なくとも五木寛之氏が実践している養生法、特に精神の鍛錬の糧となる教養を身につける努力をしたいと思っています。ブログ作成はその有用なツールと考えています

Follow_Up  :2025年10月2日発行の週刊新潮の連載「生きるヒント」に以下の様な記事が出ていました。我が意を得りという感じがしました!

以上

 

2024年一年間の屋上栽培のレビュー

屋上栽培一年間のレビュー(経済面)

以下は、例年報告している屋上菜園にかけた費用の2006年~2023年の年間費用の推移2024年の購入項目及び購入時期別の内訳を表している表です
この表をご覧になれば分かる様に、今年も体力が低下してきた老人農民?の為の省力化投資(電動耕運機関連)を除けば概ね例年通りの費用で済んでいること、及び2020年以降現在まで野菜栽培を始める動機の一つになっていた「殺虫剤等の農薬は使わない原則」は貫けました。年々ひ弱になっていくことを実感している我々老人の健康面でも良かったかと思われます!  

収穫量の面では、2023年同様キューリ及びトマトの一部は、種から育てた一回目の苗が7月に入ってからの猛暑で枯死したため、苗を購入して植え付けたものの、キューリは全滅トマトも収穫は少なかったのが残念です。遮光ネットや敷き藁などで暑さ対策をしたものの前年に続き失敗だったと総括しなければなりません
一方、夏野菜でもナスについては、栽培数を増やしたこともあり、大豊作となりました

秋・冬野菜の現況

去年の春頃から始まった「脊柱管狭窄症」による脚の痺れ・痛みにより夏場の雑草を処理しきれなったことに伴い、秋口からの秋冬野菜の苗の育成、植付が遅れ主力野菜となるはずの「キャベツ(野鳥の食害が酷い)」や「白菜は写真の様に悲惨な状況になっています。;


白菜については、中心の緑色の部分は漬物や鍋には向かないものの、生野菜として食べる分には問題ないと考え、「生のままの千切り」、「さっと熱湯に通した千切り」の状態で食べてみましたが、美味しく食べられることが分かりました。尚、私の味覚?では生食は「胡麻ドレッシング」、熱湯を通したものは「ポン酢にゴマ油」がよく合うと感じました
キャベツについては、もう少し様子を見てこれ以上肥大化させるのが無理となれば、「菜の花」として収穫することも考えています

現在、収穫しながら食べている野菜以下の通りです
まず、「小松菜」は簡易ビニールハウス内で極めて順調に育っています;

右上の画像の様な収穫を、間引きを含め既に6回実施していますが、まだまだ当分収穫が続きそうです。お浸しや鍋の具として重宝しています。また自作ビニールハウス内の「ホウレンソウ」や「サニーレタス」も、一週間に一回程度収穫し美味しくいただいています

生野菜サラダの具としては、以下の「ケール」、「ワサビ菜」も収穫が続いています

漬物用野菜としては、昨年に引き続き「野沢菜」と「高菜」の二種を栽培しました
野沢菜については1月初旬に収穫し、漬物博士である同居している息子が漬けたものを2月に入ってから食べ始めました(但しカブの粕漬が美味しくなるのは春以降か?);

高菜」については、2月下旬に収穫し漬物にする予定です;

春以降に収穫する予定の「タマネギ2種」の生育状況は;

昨年に比べちょっと生育が遅れています(12月からの寒波の影響?)。そこで、大玉に育てるもののみ、黒色のゴミ袋と藁でマルチを施したもの、及び藁と透明のゴミ袋で防風(有名な関東平野のからっ風!)対策を施したものをテストしています
ペコロスについては何も対策をしていません、今後生育はどうなるか、、、
またネギについては、例年通り8月末に種を撒いたものの、恐らく酷暑の影響だと思いますが、うまく育たなかった為、10年振り位になると思いますが、「長ネギ」、と「下仁田ネギ」の苗を購入し植え付けましたが、現在までの所順調に育っています;

ハーブ類」については、屋上の自作ビニールハウス内で春以降に収穫するものを各種育てていますが、「ディル」、「バジル」などは、使用頻度が高いので居間の出窓で育て、料理に合わせて使っています

以上

アルテミス計画について勉強してみました

はじめに

見出しの絵画はギリシャ神話に出てくる有名な神を描いています。左から太陽神の「アポロン」、右隣りがアポロンの双子の妹である月の神「アルテミス、右が海神ポセイドンの息子で腕の立つ狩人の「オリオン」です。今回取り上げるアルテミス計画では「オリオン」はこの計画で使われる宇宙船の名前として使われています

ケネディ大統領が始めた「アポロ計画」(この計画の詳細については私のブログ「米ソ宇宙開発競争の歴史(スプートニク~アポロ計画)」をご覧ください)では、17回に亘るミッションの内5回(12号、14号~17号)有人月面着陸を成功させています
米国における宇宙開発計画には、この様にギリシャ神話に出てくる名前がよく使われています。因みに、アポロ計画の準備段階で行われたジェミニ計画のジェミニも「双子座」として星座に名を連ねており、西洋文明の科学や哲学の多くが古代ギリシャから影響を受けており、宇宙開発においてこれらギリシャ文明に対する尊崇の念を表そうとしているのかもしれません
一方、日本の宇宙開発の過程で開発されたロケットの名前もロケットの名称に、カッパ(κ)、ラムダ(λ)、ミュー(μ)、イプシロン(ε)の様なギリシャ文字を使っています(詳しくは、私のブログ「ロケットに関わる基礎知識と日本のロケット開発の歴史」をご覧ください)が、これもこの伝統に倣ったものかもしれません

アルテミス計画は、2017年12月、一期目のアメリカ合衆国大統領ドナルド・トランプが承認・署名した月探査計画を内容とする宇宙政策指令第1号(Key Elements of SPDに端を発しています。この計画では、新たに開発されるオリオン宇宙船月軌道プラットフォーム・ゲートウェイ、それを利用する商業月面輸送サービスや、月面に建設する基地から発進するする火星探査計画までを視野に入れた壮大な宇宙開発計画となっています。因みに、日本も2019年10月にこの計画に参画することを決定しています。こうしたことから、アルテミス計画の目的を一言でいえば「人類が宇宙で持続的に活動できる基盤を築くことを目指しており、これによって未来の宇宙探査の道が大きく開かれる」計画と言えるのではないかと思われます
今回、これまでアルテミス計画についてシコシコ?と貯めてきた新聞やネットの情報を精査し、この計画の進捗状況と、その後の展望について勉強することにしました。結果は以下の通りです

アルテミス計画 概要

1.アルテミス合意
アルテミス計画を遂行するための多国間での法的枠組みとして、2020年10月に参加国間で「アルテミス合意」が締結されました。これは、法的拘束力がない政治的な文書ですが、月や火星を含む今後の宇宙探査・利用を行う上での原則を示しており、非常に重要な国際的なルールのベースとなる可能性があります
合意内容:平和目的の利用;透明性の確保;相互運用性の確保;緊急支援;科学データの共有;宇宙遺産の保全;宇宙資源の利用;干渉の防止;スペースデブリ対策

当初の署名国は米国日本、カナダ、イギリス、オーストラリア、ルクセンブルグ、アラブ首長国連邦(UAE)、イタリアの8カ国ですが、その後2024年1月29日の時点でニュージーランド、フランス、ドイツ、サウジアラビア、インドなど34カ国が署名しています

2.将来の火星探査計画までのタイムライン
以下は、米国の有名な経営コンサルタント会社であるPwCPricewaterhouseCoopers)が作成したタイムラインです

3.アルテミス計画のキーとなる技術開発
A. 輸送用巨大ロケットシステムの構築
Space Launch System(SLS)はアルテミス計画に使われる巨大ロケットシステムです。以下の写真でその巨大さが分かると思います;

このロケットシステムの元請け(Prime Contructor)企業はボーイング社です。各シリーズの搭載重量などの性能は以下の様な計画になっています;

上表の黒い帯に書かれている数字が月面に送りこめる搭載物の重量を表しています
尚、SLSに関する詳しい情報はNASAのSLSサイトをご覧ください

B. 有人宇宙船(オリオン)の開発
アルテミス計画では、2030年代までに火星や小惑星といった遠い天体に人類を送り込むことも目標としています。オリオン宇宙船はこれらの計画も見越して、6ヶ月程度の長期間の深宇宙(電波法施行規則第32条で地球からの距離が200万km以上である宇宙と規定)のミッションに対応できるようデザインされています。このシステムの元請け(Prime Contructor)企業はロッキード・マーチン社です。詳しい機能などの説明はこの会社のオリオン宇宙船のサイトをご覧ください
オリオンのシステムの全体像は以下のNASA提供の画像が分かり易いと思います;

画像の「Launch Abort System」とは、地上からの離陸時(最もリスクが高い)に緊急事態発生の際に脱出するシステムです。非常脱出の際は、ラッパ型の形状のモジュールの中ほどにある小型のロケットが噴射され、乗員が搭乗している「CREW MODULE」と共に分離して脱出できる仕組みになっています
*「Launch Abort System」のみの実射テストの動画

CREW MODULE」は地球に帰還する時に、時速4万キロの高速で大気圏に突入した時の超高温から搭乗員を守る様になっています(アポロ計画と基本的には同じ)。「SERVICE MODULE」は独自の推進システムを持っており、目的の月(火星)への軟着陸と離脱が行えるシステムです。詳しくはNASAの「Orion Spacecraft」のサイトをご覧ください

アルテミス計画の最初のステップにあたるアルテミス1は、2022年11月16日午前1時47分、フロリダ州のケネディ宇宙センターから無人で打ち上げられました;
アルテミスⅠのミッション全体図;

離陸⇒Launch Abort System投棄⇒メインエンジン停止・1段目のロケット分離⇒地球周回軌道・太陽電池展開⇒2段ロケット点火⇒⇒月へのスイングバイ軌道(注)移行⇒2段エンジン停止・2段ロケット分離⇒月周回軌道へ(11月21日/6日目)⇒帰還スイングバイ軌道(注)
(注)スイングバイ軌道とは:惑星(地球)や月の引力及び公転速度を使って加速し燃料を節約して飛行する方法(詳しくは私のブログ「宇宙に関わる基礎的な知識」をご覧ください)

⇒「SERVICE MODULE」から「CREW MODULE」を分離(12月11日/26日目)⇒大気圏に再突入⇒12月12日に無事太平洋上に帰還しましたました

C. ゲートウェイ(月周回有人拠点)の開発
ゲートウェイが何故こうした軌道を選択したかについては、下の図の説明及びこの項目最後の補足をご覧ください;

JAXAのサイトでは、ートウェイ機能について下の様な説明を行っています;
月周回有人拠点(Gateway)は、米国提案の国際宇宙探査計画「アルテミス計画」において、持続的な月面探査に向けた中継基地として、月周回軌道上に構築される有人拠点です。主にISS(注)計画に参加する宇宙機関が参画しており、各モジュールや構成要素の開発を分担しています
日本は、これまでのISSでの有人宇宙活動や、宇宙ステーション補給機「こうのとり」(HTV)で培った技術を活用し、Gateway計画に参画しています
2020年12月にはNASAとの間でゲートウェイ了解覚書(MOU)を結んでいる他、2022年11月にはゲートウェイ了解覚書(MOU)における協力内容を具体化したゲートウェイ実施取決めが署名されました
ISSの6分の1程度の大きさとなる予定で、将来的には4名の宇宙飛行士による年間30日程度滞在する予定で、火星有人探査に向けた拠点としての活動も期待されています
(注)ISS(国際宇宙ステーション)とは/JAXAの記事;
地球を周回する低軌道のモジュール式の宇宙ステーションです。これは、NASA、ロスコスモス(ロシア連邦の国営宇宙開発企業)、JAXA、ESA(欧州宇宙機関)、CSA(カナダ宇宙庁)の5つの宇宙機関が参加する多国籍共同プロジェクトです。宇宙ステーションの所有権と使用は、政府間条約と協定によって確立されています

主な諸元:軌道高度/408 km、消費電力/120KW、打上げ日/1998年11月20日、最初の仕様での質量/約420トン

尚、ゲートウェイは前項のPWCのタイムラインでは2024年に打ち上げられる予定になっていますが、2024年12月現在打ち上げは行われていません。打上用のロケットは、イーロンマスク氏が経営するSpace X 社のFalcon Heavyが使用される予定です。これはFalcon9の第1段を3本束ねたものをベースに設計されたロケットです。因みにFalcon9は世界初の一段目ロケットの回収・再使用が可能なロケットです
Falcon 9の打上・回収の動画

ゲートウェイの軌道(NRHO/Near Rectilinear Halo Orbit)に関する補足説明;
極軌道の意味、目的については私のブログ「ロケットに関わる基礎知識と日本のロケット開発の歴史」をご覧ください
ハロー軌道Halo Orbit)とは、近月点(約3,000 km)と遠月点(約70,000 km)の間を約6~7日で周回する軌道で以下の特徴があります(以下はChatGPTの回答も参考にしています)
① 地球と月の重力バランスを活用
NRHOは地球と月の重力のバランスを巧みに利用する軌道ラグランジュポイントを利用⇒詳しくは私のブログ「宇宙に関わる基礎的な知識」をご覧ください)であり、比較的安定した位置を保つことができます。このため、軌道維持に必要な燃料を最小限に抑えることが可能です。また、ハロー軌道では、月の一部と地球の間の通信が常に確保しやすいという利点もあります。
② 月の極域探査の利便性
楕円軌道の近月点が月の極地域に近づく設計となっているため、月の南極や北極へのアクセスが容易です。月の極域は、太陽光が一定して当たる「光の峰」や、永久影に存在する「水資源存在の可能性」があるため、探査や将来的な基地建設にとって重要なエリアです。
③ 着陸と再打ち上げの効率化
極軌道では、月面着陸や帰還時のエネルギー効率が高くなります。特に、ゲートウェイを中継点として利用することで、月面と地球間のミッション遂行が柔軟に行えます。例えば、アルテミス計画で利用される宇宙船「オリオン」や将来の着陸船が、ゲートウェイを経由して月面へ安全かつ効率的にアクセスできます
④ 通信と観測の安定性
NRHOでは地球との直接通信が比較的容易で、地球からの管制やデータのやり取りが安定して行えます。また、ゲートウェイ自体が月の表面全域を観測するための有利な位置にあります
⑤ 長期的なミッションの柔軟性
このハロー軌道は他の惑星や小惑星へのミッションにも利用しやすい中継点としての役割を果たします。将来的な火星探査など、月以外の目標に向けた拡張性を考慮しています

D. 月面基地の建設
以下の画像は、JAXA提供の月面基地のイメージ図です(空に一杯いろんなものが浮かんでいるのはちょっと不自然?);

月面基地の設置場所の検討;
月面基地が建設されるのは前掲のPwC社のタイムラインによれば、2030年以降になります。従って、設置場所についてはまだ十分に検討する時間があり、今後の月面調査活動によって決まってくると思われます
ただ、設置場所を決めるに当たって重要な要素として以下があります;
この基地が火星探査などの為に長期間運用されることを考慮すると、人間の生存に不可欠な(飲料水としての利用だけでなく、電気分解すると酸素と水素を得られ、ロケット燃料にも利用可能です)ヘリウム3核融合炉の燃料になります:詳しくは私のブログ「核融合炉についてちょっと勉強してみました」をご覧ください)
太陽電池による発電を行う為には、一定以上の太陽光が得られる場所である必要があります
地球との通信が安定的に行える場所である必要があります
長期間滞在することが必要なので、健康面から放射線や太陽風(太陽から吹き出す極めて高温で電離したプラズマ粒子)などの影響が少ない場所である必要があります
極端な温度変化が少ない場所であることが望ましい

これらを考慮すると、現在、最も有力視されているのは月の南極です
月の南極には太陽光が全く当たらない永久影が存在し、水が氷で存在している可能性が高いと言われています。また、永久影のすぐそばには、太陽光が常に当たる場所があり太陽光発電にに適した場所も同時に得られるという利点もあります

アルテミス計画に多くの国が参加した背景

アポロ計画は、宇宙開発で先行したソビエト連邦に、米国が追いつき、追い越すことを目的(国威発揚)として実行されました。結果は莫大な費用をかけた米国が勝利し、米国もソビエト連邦も、アポロ計画終了後は比較的低予算で実施可能な惑星探査の競争に移りました
これに対して、アルテミス計画はイノベーションハブとなる潜在力を秘めており、これにより多くの国々がこの計画に参加を求めてきたと思われます
イノベーションハブとは:大学や研究機関の技術や研究成果を活かし、社会課題を解決するための重要な拠点を意味します。これらのハブは、大学、政府、企業、金融機関などが連携し、新しい産業の創出や地域の活性化に寄与することが期待できます

因みに、JAXAはアルテミス計画をイノベーションハブとすることを以下の様に明確に宣言しています;
宇宙探査イノベーションハブ」は、産学官の研究結節点として様々な異分野の人材・技術を糾合させ、産学官での共同研究を行うことで、宇宙探査の在り方を変える Game Change(現状を打破し、根本的にものごとを変えること)を実現していく組織です。現在、「次世代エネルギー(パワーノード&グリッド)」、「次世代モビリティ」、「アセンブリ&マニュファクチャリング」、「ハビテーション」の4つの領域を中心に、段階的に発展する月探査アーキテクチャを見据えた研究に取り組んでいます
宇宙探査イノベーションハブ」は、将来の国際宇宙探査において、産業界等が持続的に探査に投資していくための玄関口として、重要なエコシステムの一部を担っていると考えています。産業界等の皆様と一緒に宇宙探査技術のIncubation(事業の創出や創業を支援するサービス・活動)を行い、得られた成果をJAXAの宇宙探査ミッションに活用していくこと、そして、企業の取り組みに繋いでいくことが大変重要だと考えています。このような2つの出口の創出を「Space Dual Utilization」と称し、我が国の国際プレゼンスと宇宙産業の持続性に貢献していくことを目指しています

<アルテミス計画における日本の役割>

① ゲートウェイの設計・製作における日本の役割分担
現時点では日本の担当分は以下の通りです;

esa:欧州宇宙機関

② 調査・研究に関わる日本の役割
* 2022年11月16日午前1時47分、アルテミス1打上ロケットにJAXAの2基の超小型宇宙船が搭載されましたが、以下の通りそのミッションは達成できませんでした;
世界最小の月着陸機 OMOTENASHIOutstanding Moon exploration Technologiesdemonstrated by Nano Semi-Hard Impactor)は、ロケットから分離されて以降、11月22日(火)日本時間2時までに通信が確立できず、月着陸に必要な月着陸マヌーバ(下図参照)の実施は不可能と判断されました

EQUULEUS (EQUilibriUm Lunar-Earth point 6U Spacecraft) は、東京大学中須賀・船瀬研究室  と JAXA が開発した箱型の地球・月系ラグランジュポイント(詳しくは私のブログ「宇宙に関わる基礎的な知識」をご覧ください)探査機です。打ち上げ後は地球・月系第2ラグランジュポイント 到着に向けて飛行を続けていましたが、2023年5月18日に通信が途絶してしまいミッションは達成できませんでした

* 2024年1月20日、日本のHⅡAロケットで月面探査機(SLIMSmart Lander for Investigating Moon)の打上げ実施
目的:小型の探査機によって、月への高精度着陸技術を実証すること、及び従来よりも軽量な月・惑星探査機システムを実現し、月惑星探査の高頻度化に貢献すること
結果:目標着陸地点から100メートル以内の誤差でのピンポイント着陸は成功したものの、着陸時は姿勢の異常で太陽電池パネルが稼働しませんでしたが、その後太陽の向きが変わって発電を始め、観測は同年8月25日まで継続することが出来ました;
2024年1月20日_240120_JAXA無人探査機、日本初の月面着陸成功 5カ国目
参考:SLIMの着陸状況(360度からのSLIMの写真をAIで再現 ⇒宇宙船本体が傾いており、陰になる向きでは発電が停止する状況がよくわかります)

月極域探査(LUPEX/Lunar Polar Exploration)の実施
JAXAは2025年度以降、インドとの共同で極域の水の採取を計画しています:


詳しくは「JAXA 月極域探機プロジェクト」をご覧ください

③ 月基地建設、月面活動に関わる日本の役割
日本の代表的企業もアルテミス計画に協同して以下の様な取り組みを行っています;
*トヨタ自動車の月面探査車開発
トヨタは、国際宇宙探査ミッションのひとつである月面での有人探査活動に必要な有人与圧ローバ(愛称「ルナクルーザー」)の共同研究を2019年から行っています月面は重力が地球の6分の1温度はマイナス170~プラス120℃真空強い放射線、表面は月の砂(レゴリス)に覆われており、大変厳しい環境での使用に耐える技術が必要です

詳しくはトヨタのウェッブサイトをご覧ください

*清水建設の月面基地建設構想への取組
清水建設は、永年にわたって蓄積した建設に関する総合技術力を月という新たなフロンティアで活かすべく、構造材料施工技術施設配置計画居住環境など多様な観点からの研究を積極的に進めています

詳しくは清水建設のウェッブサイトをご覧ください

④ 日本人宇宙飛行士の月面着陸
アポロ計画で月に降り立った宇宙飛行士は男性のみでしたが、アルテミス計画では計画の名称が女神であることから女性の飛行士が月に降り立つこと(アルテミス3/2025年9月)が決まっています
一方、アルテミス計画には米国人以外では初めて日本の宇宙飛行士・男女各一名の参加が決まっています(2020年代後半)

               米田あゆ・内田理
おわりに

現在までのアルテミス計画の進捗状況をざっとレビューしてみましたが、思った以上にNASA以外の計画に参加する国々との協同が行われていることと、アポロ計画では宇宙開発に関する技術レベルが米国と日本では余りにもかけ離れてましたが、現在では日本が計画全体に寄与している部分が多いのに驚きました
2026年には愈々56年振り(アポロ17号以来)に有人月面着陸が行われると共に、2030年までには日本の宇宙飛行士が月に降り立つことになっており、これを想像すると胸が躍ります(ただ、私が生きてこの場面が見られるかどうかはかなり怪しい?

月面基地及びゲートウェイ(月周回有人拠点)は、今後の惑星探査を始め「深宇宙」探査の中継基地になることは言うまでもありません。
一方、このミッションとは全く別に、昨今話題になることが多くなった地球を襲う大型の隕石の落下による被害を無くすために、天体観測の結果地球に飛来する可能性のある大型隕石の軌道を変える試みを、この基地に常駐する宇宙船が行うという夢が膨らんできました

6,600万年前、メキシコのユカタン半島沖に落下した隕石により大繁栄していた恐竜が絶滅したことは良く知られていることですが、つい最近(1908年)でも直径50~60メートルの隕石が大気中で爆発して強烈な空振が発生し、爆心地から半径約30~50キロメートルの森林が炎上、東京都とほぼ同じ面積の範囲の樹木がなぎ倒されたことがありました
これは人がほとんど住んでいないシベリアで起きたことからあまり注目されませんでしたが、この規模の隕石でも都市部に落下した場合はとんでもない被害となることは明らかです
人間の力で隕石の軌道を変えて地球を救うという試みについては、1,998年 の アメリカ合衆国 の SF映画「アルマゲドン」を思い出します。主演ブルース・ウィリスが宇宙船と運命を共にして軌道変更は成功するのですが、主演が死ぬというのは、やや日本的だったかも、、、、

以上

夏野菜の失敗談、他

はじめに

見出しの写真は、私の住んでいる市の隣にある所沢市の夏場の温度変化のグラフです。それぞれのシンボルの意味は;
灰色の棒グラフ2024年度の毎日の気温の範囲
赤い帯:昨年迄の毎日の最高気温の分布
赤い線;同期間の最高気温の平均値
青い帯:昨年迄の毎日の最低気温の分布
青い線:同期間の最低気温の平均値
グラフから、今年の夏の気温が昨年までと比べ異常な高温であったことがわかります

実は、昨年も相当な高温であったため、キュウリについては栽培途中で「遮光スクリーン」を使った栽培を試しましたが結局失敗(酷暑の中の屋上野菜栽培:2023年8月7日作成)しました。今年は満を持して色々な工夫を施した対応を実施しました(初春から初夏にかけての農作業!:2024年5月27日)が、再び失敗してしまいました。
昨年はキュウリ以外は大きな失敗は無かったのですが、今年は昨年を遥かに超える酷暑が続いたと共に、長引く病魔との戦いで体力が衰えた私自身が細かいケアができなかったこともあり、トマト、縞ウリ、葉物野菜、など昨年ほどの収穫ができないままに夏野菜の終焉の時期を迎えてしまいました。以下に、その失敗に関わる考察と来年への対応を含め、夏野菜の栽培結果及び秋冬野菜の準備開始の状況を述べてみようかと思います;

夏野菜栽培実績の報告

1.酷暑に耐え、豊かな収穫ができた野菜
① ナス
この夏は、昨年と同じく中ナス、水ナス、小ナスの三種類を昨年の倍以上の苗を育てましたが、よく酷暑に耐え、漬物(ぬか漬け、シバ漬け、浅漬け)、干物、サラダの材料、煮物・焼き物の材料、など充分すぎる収がありました。また、7月下旬には採れ過ぎることもあって一部のナスの更新剪定を大胆に!行う事によって現在(10月)に至るも紫色の濃い秋ナスの収穫が続いています。因みに酷暑のピークであった8月14日のナスの収穫状況(縞ウリ、キュウリも入っています)は以下の写真の通りです;

② 3尺インゲン
この野菜は原産地が東アフリカということもあって、6月以降現在(10月)まで酷暑を物ともせずほぼ毎日収穫できています。しかも、収穫しきれなかったインゲンがコンテナの中に落ちて、再び芽を出してスクスク!育っております
このインゲンは、茹でてから野菜サラダに入れる、煮物に使う、など多用途に使えて大変重宝な野菜です

③ オクラ
大きなコンテナ一つに3本植えましたが、現在(10月)でも毎日1~3本収穫できています。最初の2ヶ月ほどは1本仕立てで育成しましたが、9月に入ってからは徒長した茎をカットし、脇芽での収穫が続いています

2.一旦酷暑に負け、「遮光スクリーン」で成長を遂げた野菜
*唐辛子類(沖縄唐辛子、鷹の爪、剣先なんば)
8月初めに枯死したり、弱ったりした苗を植え替え、「遮光スクリーン」を使って写真の様に再生させることができました(9月以降は「遮光スクリーン」を外してあります)

3.酷暑に負けた野菜類
以下の野菜類については朝・夕の2回、大量の水遣りを続けていましたが、連日30度を超す酷暑、及び強い紫外線に負けて枯死、又は枯死に近い状態(成長が止まり、実をつけなくなった状態)となりました
① キュウリ
6月中は順調に育っていましたが、7月に入るとすぐに30度越えの日が続き、「遮光スクリーン」を下ろす前に急激に萎れ、水遣りを続けましたが全ての苗が枯死してしまいました。その後「遮光スクリーン」を降ろして新しく購入した苗を植えましたが、「遮光スクリーン」の中では順調に育ったものの十分な収穫ができませんでした
<来夏の対策>
*酷暑の為とは思いますが、今後先達の意見を聞きながら来年の植付迄に対策を考えたいと思います
② その他のウリ類(植付た苗はそれぞれ2~3本)
縞ウリ八町胡瓜(長野県)、漬丸君(長野県の漬物用ウリ)については、いずれも7月中はある程度の収穫はあったものの、8月に入ると酷暑に負けて結実しなくなりました。ただ、ゴーヤについては、酷暑には強い様で、現在まで少ないながらも収穫を続けています

③ トマト
7月中旬まで3段目の実までは良く育っていましたが、4段目以上からはキュウリの様に枯死はしないものの花が咲いても実にはならなくなりました。原産地が南アメリカなので酷暑のせいばかりではないと思われます
<来夏の対策>
*実付きが悪いのは酷暑のせい以外に、植物ホルモンの可能性も考えられるので、来年はプロの農家も使っているという「トマトトーン」を一部の苗に使って試してみたいと思っています

3.酷暑の原因ではなく収穫が殆どできなかった野菜
*ズッキーニ
これまでの経験から、必要収穫量から計算し大きなコンテナに2本だけ育てましたが、例年と違って雄花が殆ど咲かず大きな実になりませんでした。育成期間中に3回ほど雄花が咲きましたので人工受粉を行った所、例年通り大きな実をつけました
<来夏の対策>
ネットで調べても雄花を増やす決定的な対策は載っていないので、取り敢えず来夏は育成本数を増やす(4本程度)ことで対応したいと思います

秋冬野菜の準備

夏野菜に多くの手間をかけたせいで秋冬野菜の準備が遅れがちになっています。特にキュウリ、ナス、トマトなど、大型コンテナを多く使っていたものは、できるだけ早く秋・冬野菜の主役であるキャベツ、白菜などを植え付ける準備をしなければなりません
しかし、夏野菜の栽培に気力・体力を使い果たしたことで、例年の様に土の再生に多くの時間と手間をかけられませんので、今年は春に購入した電動耕運機で手間を省くと共に、従来から使っている化成肥料(窒素:リン酸:カリ=8:8:8)と牛糞堆肥の他に、ちょっと高価ですがプロがよく使っている「もみ殻堆肥」も使うことにしました

秋冬葉物野菜の種蒔きと育成
下の写真は、居間の出窓で育成中の白菜、ケール、キャベツ、サニーレタス、レタスの現在(10月)の発芽状況です。全体が赤くなっているのは、曇天の時に赤色のLEDを点灯して成長促進を図っている為です;

この他、タマネギ2種と長ネギについては9月初めに種まきを終え、現在以下の写真の様に順調に育っています

今後、中小のコンテナの土の再生が終り次第その他の葉物野菜についても種蒔きと育成を行う予定です

今後栽培を予定している葉物野菜:野沢菜、高菜、ホウレンソウ、小松菜大根、カブ、など

おわりに(反省!)

今年の夏野菜の栽培は、とても成功とは言えない出来栄えであった上に、体力的にも非常に厳しい状況であったことは間違いありません。これらは全てが酷暑の故と片付ける訳にはいきません
自身の能力の限界を弁えず必要以上に栽培数を増やし、結果として連日の収穫と水遣りに追われてしまったことで、中・小コンテナの野菜類を雑草だらけにして収穫不能としてしまったこと、

また、ナスばかり大量に収穫することとなり、結果として連日ナス料理が続き、我が家の料理人達(妻と同居の息子)に「料理のヴァリエーションを増やせ!」というプレッシャーをかけ続けたことは大いに反省すべきと考えています

従って、来年の夏野菜栽培は;
① 欲張らずに栽培数を減らす
酷暑に強い品種を選ぶ
「給水システム」を復活させる( 屋上栽培を始めた頃に作った)
などを実施して、弱体化する体力に見合った作業量になるよう工夫したいと考えています

以上

AeroSHARK についてちょっと勉強してみました!

はじめに

見出しの写真は上が海の支配者である「サメ」、下は空の支配者である「F22 ラプター( Rapter)」です。因みに Rapterとは猛禽類を意味します。サメは海の中を高速で遊泳して捕食し、成魚になれば無敵の存在です。一方F22は、超音速巡航性能(音速の2倍/時速約2,400キロ)高いステルス性機動性先進的なアビオニクスにより、現在世界最強の戦闘機であり、その優越性を維持するために同盟国にも輸出していません。何故かこの二つの写真はよく似ていると思いませんか?

ごく最近、ANAさんが貨物機の胴体にサメ肌のフィルムを貼って空気抵抗を減らし、燃費を削減すると共に結果としてCO2排出量を減らすことを高らかに?宣伝しています。ANAさんはこの技術を、ドイツの総合化学メーカーであるBASFとルフトハンザ航空から得ているとしています;
ルフトハンザ航空の事例
スイス航空の事例

大昔に航空学をちょっと齧った筆者としては、この技術を勉強し読者の皆さんに出来るだけ分かり易く説明しようと企てました。結果は以下の通りです

基礎的な知識

1.流体の粘性
粘性という言葉からは、ねばねばする「とろろ」とか「納豆」を連想してしまいますが、ここでは全ての流体に備わっている「粘性」についての法則を簡単に説明いたします;
① 水は液体で、比較的高い粘性を持っていますが、一般的な液体と比べると寧ろ低い方です。水の動きは滑らかで、日常生活で強い抵抗を与えることは少ないものの、川の流れに足を入れば、川から強い力を受けます。つまり水の流れの強さによって足(体)に掛かる力が変わることを体感できます
一方、
② 空気は気体であり、粘性は液体に比べて非常に低く、空気中を物体が動く際の抵抗は水に比べて少ないものの、台風などの強風に晒されると、水と同じ様に強い力を体感することができます
(注)上記①、②共に、強い流れにぶつかった時の「動圧」については、粘性の影響というよりは、流れを遮った時の圧力(質量をもっている流体を遮ることによる「反作用;下記ニュートンの第三法則)」)なので、むしろ、横を向いたときに感ずる流体から受ける摩擦力を実感して頂くと分かり易いと思います

粘性を持っている流体から受ける力は、上記の体感から「粘性の強さ」と「流速」に強い相関があることはお分かりいただけると思います
見出しの写真にある「サメ」は、空気に比べると粘性の高い水中を高速で遊泳するために所謂「流線形」をしており、尾びれは見事な「後退翼」になっています
一方 F22 は、空気の粘性は水に比べて圧倒的に低いものの、極めて高速で飛行する為に胴体はサメと同様に「流線形」をしており、横向きの写真で見えないですが主翼は「三角翼:前縁は強い後退角」になっています

<参考> 「ニュートンの粘性法則」について
ニュートンと言えば、「万有引力の法則」やニュートン力学の三つの法則「慣性の法則」、「運動の法則」、「作用・反作用の法則」で有名ですが、彼の功績には以下の「ニュートンの粘性法則」があります(ニュートンの物理学の貢献については「流量計測の歴史by小川胖」を参照してください)。流体力学はここから出発しているといっても過言ではありません(以下は、物理が大好きな人の為に引用しました);
2.境界層とは;
境界層(きょうかいそう/ boundary layer)とは、ある粘性流れにおいて、粘性による影響を強く受ける層のことです。1904年、ドイツの物理学者ルートヴィヒ・プラントルによって発見されました。何と!ライト兄弟による現代の航空機の初飛行の一年後にこの理論を発表しています
(参考)ルートヴィヒ・プラントル(Ludwig Prandtl 、1875年 2月~ 1953年 8月)は、ドイツの物理学者。 空気力学 の分野で顕著な業績をあげました 。特に、 境界層薄翼の理論 揚力線理論など、航空機の発展に多大な貢献をしています

例えば、静止している物体が置かれた所に一様に流れる流体を考えたとき、物体近傍の流体は粘性によって物体に引っ張られ、速度が減少します。当然その減少の度合いは物体から離れるにつれ小さくなってゆきますが、ある距離で無視できる程度になります。そこで、この距離を境に粘性が強く影響する層無視できる層に分けることができます。これを「境界層近似」といい、粘性を強く受ける方の層を境界層と呼んでいま
この「近似」の適用によって、境界層外では比較的平易な非粘性流の解析を用いることができるため、流体の解析を効率的に行うことができます
また、境界層内の摩擦によって生ずる力の反作用として物体に発生する抗力(物体を流されない様に支える力)が発生します

3.境界層の剥離;
航空機の安定した飛行を実現しているのは、境界層の上をスムースに空気が流れている場合であり、何らかの理由(例えば翼の迎え角を大きくした場合など)でこの境界層が剝がれると、大きな渦ができ大きな抵抗が発生して、航空機の場合、揚力が失われる緊急事態となります。全面的な剥離でなくても、部分的な境界層の剥離は大きな抗力が発生し燃費性能の低下振動の発生操作性の異常、など深刻な事態を招きます

境界層の制御

1.ヴォルテックス・ジェネレータ(Voltex Generator )とは
Voltexとは「」、Generatorとは「発生器」を意味します。日本語の表現としては「ヴォルテックス・ジェネレータ」が一般的です。以下この呼び方に統一します
戦後早い時期から航空機の空力設計に取り入れられていましたが、最近では高速走行が売り物の自動車にもヴォルテックス・ジェネレータが装着されています
私が日本航空に入社した当時、DC-8 型機が主流であり、B747型機は導入されたばかり、国内線には最新鋭のB727型機が高い飛行性能で注目されていましたが、この機種には既に機体の一部にヴォルテックス・ジェネレータが装備されていたことを記憶しています

境界層が剥離すると空気抵抗が増加するので、ヴォルテックス・ジェネレータはこの剥離を防止する手段として主として剥離しやすい部分に取り付けられます。設計の段階では設置場所を決めるのは難しいので、模型による風洞実験で最も剥離しやすい部分を特定し設置されます
ヴォルテックスジェネレータは意図的に「縦渦(接触表面から立ち上がる様な渦を発生させ上層の高速な流れと下層の低速な流れ(前節「境界層とは」の流れの速度分布を参照)を混合し、剥離点を下流に移動させることにより、表面に沿った圧力分布が改善され、全体的な空気抵抗が減少します。これにより結果として燃費の向上も図れることになります。以下は、現在就航している機種のヴォルテックス・ジェネレータの写真です;

2.リブレットとは
リブレット(riblet)とは、特定の形状を持つ小さな溝や隆起が表面に並んだ微細な構造のことを指します。リブレットは、空気や水の流れを効率的に制御し、摩擦を減少させるために使用されます。最初は、サメの皮膚の微細な構造を参考にして開発されました。サメの皮膚には小さな鱗があり、それが水の流れを滑らかにし、摩擦を減少させる効果があります。この原理を模倣したのがリブレット技術です。

実用化されているリブレットは、表面に沿って並んだ微細な溝のパターンから成っています。これらの溝は通常V字型」、「U字型」、「台形型」で、流体が流れる方向に沿って配置されています。これらの溝の幅や深さは非常に小さく、通常数ミクロンから数百ミクロンのオーダーです(ミクロン=千分の1ミリメートル)

                                         JAXAスーパーコンピューターでのシミュレーション画像

こうしたリブレットは、航空機の翼、風力発電機のブレード、船体、車両など、さまざまな分野で既に使用されており、流体の抵抗を減らすことでエネルギー効率の向上を実現しています

3.リブレット技術の航空機への活用
現在、リブレット技術の活用方法は以下の二方式があるようです;
① ANA方式(=BASF・ルフトハンザ航空方式)
「はじめに」で述べた方法は、 BASFが開発したサメ肌に加工された薄いシートを航空機の胴体に貼る方式です。ボーイング777型貨物機では、一枚の大きさが「1メートル50センチメートル」のフィルムを約2千枚使用するとのことです。このフィルムは4〜5年での張り替えを想定しているそうです(この張替の間隔は、恐らく同間隔で実施される重整備・改修作業のタイミングと一緒に実施されると考えられます)
詳しくは2024年9月2日の日経新聞記事「ANA、サメ肌貨物機を初就航 SAF普及に先駆け燃料削減」をご覧ください

② JAL方式
JALについても、既に昨年(2023年)にリブレット実験結果を公開しています。この方式は加工されたフィルムを貼るのではなく、機体の塗装面に直接レーザー加工する方式です
詳しくは、2023年3月14日の日経新聞記事JALも「サメ肌」航空機 直接加工で耐久性に強み」をご覧ください

Follow Up_2025年1月9日_日経新聞「JAL、国際線に「サメ肌」機 抵抗減らしCO2排出低減

おわりに

このブログを書く為に、数十年遠ざかっていた空気力学を再び学びなおす機会が得られました。遠い昔になった学生時代に「航空機の発達は自然から学んだことが多い」と授業で言っていたお年寄りの教授を思い出します。リブレットなどはサメから学んだわけですから、正にその一例ですね
飛行機の形の変遷や、空気力学的な色々な発明は鳥から学んだことが多いと言われています。例えば、現在の高速な旅客機や戦闘機の翼型は、獲物を見つけて急降下する猛禽類の翼型にそっくりです
また、現在の旅客機は燃費を節約するために主翼の翼端にウィングレット(上方に反り上がっている)を装備している機体が殆どです。これは、飛行機の重量を支えている主翼は、主翼下面の圧力が上面の圧力より高くなっている為、翼端で下面の空気が上に回り込んで大きな渦を作り出してしまいます。この渦は飛行機の抵抗となりますので燃費性能が悪化することになります。ウィングレットはこの影響を最小化するために装備されています
この翼端の渦を長距離飛行をしなければならない渡り鳥の群れは積極的に活用しています
写真の渡り鳥の編隊飛行は正にこの翼端渦を集団としての省エネ飛行に活用しています
しかし先頭のリーダーの鳥は、後方左右の鳥の飛行を一部支えていることになるので負担が大きいと思いますが、リーダーであればしょうがないか? あるいは疲れるとサブリーダーと交代するのか? 自然はとにかく凄い!

Follow Up_ネット上で見つけた翼端の渦の分かり易い写真。通常この翼端渦は透明な空気中では見えませんが、偶々航空機の後方に雲があったため翼端渦が雲を巻き込んでいる写真が撮れたものです:
                                   以上