冬来たりなば春遠からじ

ここの所、毎日寒い日が続いています。前回の盛夏から秋へ!(10月16日)で長雨によるキュウリやトマトの失敗談をご紹介しましたが、その後も不純な天候が続いていて我が屋上菜園は苦戦を強いられています。野菜が元気よく育つ春が待ち遠しい限りですが、まずは現在の状況をご報告したいと思います

生き残った第三世代のトマトはどうなったか!

前回の報告でご紹介した1本だけ残った第三世代のトマトは、日に日に下がる気温と日射量の減少の中で、健気にも幾つかの実をつけました;

第三世代トマトの一生!
第三世代トマトの一生!

写真右端の収穫したトマトの内、真っ赤に熟れているトマト2ヶは、10日ほど前に先行して収穫した青いトマトを室内で日に当てたものです

秋・冬野菜の生育状況

秋冬に収穫する積りで育てている野菜は
①サニーレタス(31株/小コンテナ5ヶ、中コンテナ2ヶ)
今年は育苗用プラグトレー;

育苗用プラグトレー

で苗を作り、コンテナに植え替えたところ、コンテナに直接種を蒔いて育てたよりもうまくいきました。11月くらいから食べ始めましたが、3月一杯は食べられそうです

サニーレタス_ゴミ袋による防寒処置実施
サニーレタス_ゴミ袋による防寒処置実施

②白菜(22株/大コンテナ11ヶ)
サニーレタスと同じく育苗用プラグトレーで苗を育てコンテナに植え替えましたが、現在の生育状況は以下の通りです;

白菜_12月16日
白菜_12月16日

昨年に比べ明らかに生育が遅れています。昨年との違いは、一つのコンテナに2株植えたことと、9月~11月の生育に大事な時期の天候が不順だったことが考えられます。11月下旬からゴミ袋を使った低温対策を行いましたが、結球不全の株が大分出そうです。止むを得ないので、結球不全のものも、鍋、漬け物、サラダ、などに利用しようと考えています。残念!
今年の失敗を踏まえ、来年は天候不順でも結球するように、8月中に苗を育て、昨年同様1株/1コンテナで植えるようにしたいと思っています

③長ネギ(100株/小コンテナ10ヶ)
昨年確立した方法(春に種蒔き、7月に植え替え、成長してきたら半透明のエクステンションをコンテナに継ぎ足し、成長に合わせて土を追加する)により、順調に育ち、11月から収穫を始めています;

長ネギの収穫
長ネギの収穫

拙宅のネギの消費量は半端ではないのですが、恐らく3月一杯は食べられそうです
また、今年は春以降の長ネギの収穫ができませんでしたので、9月に種を蒔いて春以降に食べられるかテストをしています

秋蒔きネギ
秋蒔き長ネギ_12月

④大根(15株/大コンテナ5)
例年通り秋蒔きで育てていますが、白菜同様に不順な天候で十分太くはなりませんでしたが、食用には問題ない状態に育っています;

大根
大根

⑤ジャガイモ(6株/大コンテナ3ヶ)
今年6月に収穫した(収穫シリーズ_②)ジャガイモのうち、芽が出た小さめのジャガイモ(キタアカリ)6ヶを8月下旬に植えてみました。普通ジャガイモは100日で収穫できると言われていますので、寒波が襲い葉が枯れてしまった12月10日に収穫してみました;

ジャガイモ
ジャガイモ

やはり天候不順の影響か中玉、小玉のみで3.1キロしか収穫できませんでした。来年以降やるとすれば、天候不順の場合を考慮し8月初旬には植えないと十分な収穫量は望めないと思われます。しかし、自家栽培のジャガイモは8月初旬では芽が出ていないと思われますので、さてどうするか?

⑥キャベツ(8株/大コンテナ2ヶ)、スティック・セニョール(4株/大コンテナ2ヶ)
キャベツは白菜同様、天候不順により生育状態は芳しくありませんが、冬に収穫できなくても春キャベツとして収穫可能(経験済み)なので心配していません。また今年はブロッコリーの苗を育てるのを忘れたので、実験的に10月入って売れ残っていたスティック・セニョールの苗(50円/株)を買い植えてみました。12月中旬には収穫を始めましたが、今後どれくらい収穫できるか確認したいと思います;

キャベツ・スティックセニョール
キャベツ・スティックセニョール

⑦その他の冬野菜春菊、チンゲン菜、みよし菜、水菜、ホウレン草
これらの野菜は一種類につき小コンテナ2~3ヶ程度を割り当てて栽培しています。栽培状況は以下の通り(寒さに強いものは防寒用のゴミ袋をかぶせていません);

冬野菜・各種
冬野菜・各種

ニラ(小コンテナ5ヶ)
昨年実績でニラは防寒処置不要と考え以下の様にゴミ袋を被せずに栽培していましたが、この所の寒さで成長が著しく鈍ったことと、葉先が変色して来ましたので、今後防寒処置を実施しようと思っています;

ニラ_12月17日
ニラ_12月17日

来春以降に収穫予定の野菜の植付状況

①タマネギ(生食用タマネギ/大コンテナ5ヶ、普通のタマネギ/大コンテナ6ヶ)
昨年失敗した苗の育成が、今年は順調だった為、収穫量増が期待できそうです;

タマネギ_2種
タマネギ_2種

②その他の春野菜ビーツ、ソラマメ、プンタレッラ
ソラマメは7~8年前に一度栽培しましたが、冬場のケア不足が原因だと思いますが、失敗してしまいました。今回は再チャレンジです。プンタレッラは昨年4月初旬に種を蒔いて一応成功しております(近所の八百屋では手に入らない野菜の栽培!)ので、今回は秋蒔きに挑戦しました。しかし、天候不順の影響か、あるいは地中海周辺で栽培されている野菜なので、日本の秋冬には適応できないのか、とにかく成長が遅く来年2月頃の収穫は危ぶまれます。今後は防寒処置を実施して生育状況を観察したいと思います;

ビーツ・ソラマメ・プンタレッラ
ビーツ・ソラマメ・プンタレッラ

おまけ!_屋上野菜の年間経費のご紹介

2006年から本格的に屋上菜園を始め、現在まで色々と試行錯誤しながら楽しんできました。これまでの費用のあらましは以下の通りです;

屋上菜園・費用分析
屋上菜園・費用分析

最初の頃は水耕栽培を目指して、7万円位かけて装置を自作しましたが、屋上の過酷な環境(循環する肥料入りの水が、夏場は高温になりすぎ、冬場は逆に低温になり過ぎる)では水耕栽培はできないと悟りました。夏場の不在時に枯らさないための潅水装置は自動潅水器3台が今も稼働しており、設備投資は無駄になっていません

栽培後の土の再生に必要となる肥料・用土類については、最近購入しているものは、牛糞堆肥苦土石灰燻炭(もみ殻を蒸し焼きにしたもの:年一回伊那に出かけた時に購入)、有機化成肥料(窒素・燐酸・カリの成分比:8・8・8/追肥が中心)のみで費用的には安定しています(年間1万5千円前後)。これ以外には、庭のハナミズキの落ち葉、自家用精米機から得られる米糠生ごみ(生ごみ処理機で処理したもの)、収穫後の食用としない葉・茎類、など費用の掛からないものも使っています;

ジャガイモ収穫後の茎・葉
ジャガイモ収穫後の葉・茎

殺虫剤はできるだけ使用しない様にしています。土中にある害虫の代表は「コガネムシ」の幼虫(通称「根くい虫」とヨトウムシ(「夜盗蛾」の幼虫)ですが、これは栽培後の土の再生の際に取り除くようにしています。また、葉に付く青虫は毎朝の見回りで、発見次第ピンセットでつまみ、憎しみを込めて!足ですり潰すことで対応可能です。しかし、野菜の種類を問わず大切な若芽に付くアブラムシだけには手を焼いています。今年は、あまりに被害が大きいので、アブラムシ駆除用にオルトラン、モスピレンを購入してみましたが、匂いがきつく、毒性が強いことが分かり、結局殆ど使いませんでした。やはり、虫よけの覆いをこまめに行うことが一番と考えられますので来春からは殺虫剤ゼロを目指したいと思っています

以上

「民族問題」について考えてみました!

はじめに

11月22日、オランダ・ハーグの旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷で、ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦(1992~95年)時のジェノサイド(集団虐殺/6千人以上のイスラム教徒が殺害された)の罪に問われた当時のセルビア人武装勢力司令官、ラトコ・ムラディッチ司令官に終身刑が言い渡されました
また、ロヒンギャ難民の問題、米国・EU諸国とロシアの対立の元になっているウクライナ内戦も記憶に新しいところです。これ等はいずれも民族間の対立が原因になっていると言われています

冒頭に掲げた地図は、子供の高校時代の教科書に使われていた「世界史地図」の中から、第一次世界大戦中(1914~18年)と、第二次世界大戦直後(1945年)のヨーロッパの地図を抜き出したものです
第一次世界大戦は、オーストリア・ハンガリー帝国によるボスニア・ヘルツェゴビナの併合(1908年)により混乱を極めていたバルカン半島(人種の坩堝と言われていました)のセルビア王国の青年によるオーストリア皇太子夫妻の暗殺(サラエボ事件)がきっかけとなりました。第一次世界大戦の終わりころにはロシア革命があり、ソビエト社会主義連邦共和国(以降「ソ連」)が生まれました。第一次世界大戦後のパリ講和会議では、米国ウィルソン大統領による「十四ヶ条の平和原則」第五条で「民族自決・民族自立」の提案があり、ベルサイユ条約の基調となりました。日本全権団も「人種差別撤廃」提案を行いましたが、これは残念ながら否決されてしまいました。これらがきっかけとなって世界中で民族自立の動きが始まりました
また、第二次世界大戦後、ソ連は戦勝国となり、大戦によって生まれた社会主義諸国と社会主義ブロックを構成し、一方の戦勝国である米国を盟主とする自由主義ブロックと対峙し所謂「冷戦」が始まりました。この冷戦下では、イデオロギー民族自立が結び付いた内戦が続きました
この冷戦構造は1991年のソ連の崩壊で終焉を迎えましたが、その後現在まで一向に民族紛争は収まりそうにありません

戦後の日本は、民族問題については無頓着である人(勿論、私も含めて)が多く、またメディアの取り扱いも、単に同情(人道というべきか?)をベースとした内容に留まっていることが多い様です
最近の世界情勢は「民族問題」に関するある程度の知識が無いと、理解できないのではないかと思い始めました。そんな問題意識をもって、本屋を渉猟している時に「民族問題」(佐藤優・著、文春新書、10月20日第一刷発行)という本が目に留まりました。購入して読んでみると、中々内容の濃い啓発の書と感じましたので、内容の一部をご紹介すると共に、この分析手法を念頭に、最近のニュースに登場する「民族問題」についても私なりに考察してみたいと思います

佐藤優・著「民族問題」の紹介

佐藤優について;
1960年東京都生まれ 同志社大学神学研究科修了後、チェコスロバキアのカレル大学に留学。1985年外務省入省、2002年大臣官房総務課・課長補佐の時に鈴木宗男事件に絡む背任行為で逮捕。最高裁で懲役2年6ヶ月、執行猶予4年の刑が確定、国家公務員法76条により外務省を失職。その後は文筆家として活躍。大変な読書量と博学で知られ、著書多数
本書の由来;
著者が、同志社大学サテライト・キャンパスで2015年5月から2016年2月にかけて行った10回の講義記録を編集し、加筆修正したもの

以下は本書の要約です。分かり難い部分があれば私の読書メモを参照してください。ただ、新書版で安価(830円+税)なので購入する方がいいかもしれません!

文春文庫「民族問題」
文春文庫「民族問題」

1.なぜ日本人は民族問題が分からないのか;

多くの日本人は、「日本人」、「日本民族」というものを自明のものだと捉えていて、古来よりずっと続いてきた実体のあるまとまりだと考えていますが、これは間違いです。歴史的に「民族」という概念は、精々250年くらいしか遡れないと考えられます。例えば、室町時代に京都に住んでいた人と、東北地方に住んでいた人が、同じ「日本人」、「日本民族」という意識があったかどうかは確認できません。これはロシアやドイツ、イギリスやフランスも同じであると考えられます
現代になっても、「民族」は新たに生まれたり、解体したりしており、中東では、「シーア派」のアラブ人という新しい民族が生まれつつあるとも考えられます

民族のアイデンティティの核となるものとして「原初主義」、「道具主義」という二つの大きく異なる考え方があります。学術的には道具主義が圧倒的に主流ですが、日常的な使い方においては原初主義的な考え方の方が一般的であると思われます

①「原初主義」とは;
民族とか、国家には、その源に何かしらの実体があるという考え方。例えば言語が源になる、また、肌の色や骨格など生物学的、自然人類学的な違いに境界を求めると人種主義に近づきます。日本列島に住んでいるから日本人、インドに住んでいるならインド人というのであれば住んでいる地域が民族の原初になります。このほかにも宗教経済生活文化的共通性など「動かざるもの」を共有するのが民族という考え方です
多くの人は、この原初主義的な民族のイメージを持っていますが、言語にしても、人種にしても、文化にしても、歴史的に源をたどっていくと、複数の「民族」にまたがっていたり、境界が曖昧だったり、住んでいる場所も移動していたり、矛盾する事例が沢山出てきてしまいます

②「道具主義」とは;
民族とは作られたもの」だと考えるのが道具主義の立場です。国家のエリートや支配層が統治目的のために、支配の道具として、民族意識、ナショナリズムを利用しているという考え方です。道具主義を代表する学者が、ベネディクト・アンダーソンで、彼の著書「想像の共同体」で、「国民とは、イメージとして心に描かれた想像の共同体である」と定義しています。つまり国民、民族とは政治によるフィクションだと説いています

2.民族問題の専門家スターリン

「原初主義」に立脚した民族理論の中で、一番現実の政治に影響を与え、なおかつある程度、現象を説明できるのは、実はスターリンの民族定義です
スターリンは
、グルジア(現在のジョージア)のゴリという町の生まれであり、グルジアに帰化したオセチア人ではないかという説が、今の所一番有力です。そもそもスターリン自身が複雑な民族的なアイデンティティを持っていた訳です

ジョージア(グルジア)
ジョージア(グルジア)

ソ連(帝政ロシア)がロシアを支配し、他の民族がひどい目に遭っていたというイメージは誤解です。ソ連の中心にあって、支配していたのは民族ではなくて、ソ連共産党中央委員会、つまりマルクスレーニン主義というイデオロギーでした

スターリンが民族問題を重視したのは、ロシア革命の本質にもかかわっています。日本を含む世界各国の共産党機関紙には「万国の労働者よ、団結せよ。万国の被抑圧民族よ、団結せよ」というスローガンが掲げられていますが、このスローガンは矛盾しています。何故なら、階級と民族とは関係がないはず。例えばインドでは、抑圧していたのはイギリス人、被抑圧民族はインド人ですが、インド人の中には資本家も、労働者も、農民もいました。革命に民族運動のエネルギーを持ち込もうとして、この矛盾に敢えて目をつぶったのがスターリンです

スターリンは、イスラム教徒であるスルタンガリエフを抜擢して、中央アジアでの革命運動を統括させ、民族運動の高まりを革命に利用しようとしました。中央アジアの革命運動において、革命は西方の帝国主義者に対するジハードとしてアジった結果、革命運動は盛り上がったものの、イスラム勢力の力が予想以上に強くなってしまいました

中央アジア
中央アジア

今のトルクメニスタンウズベキスタンキルギスタジキスタンカザフスタンは、トルコ系の人たちが住んでいる土地を意味するトルキスタンと呼ばれており、トルコ民族として団結して民族運動が盛り上がると社会主義体制との矛盾が露呈してしまいます
そこでスターリンは、言語の若干の違いに注目して民族を分け(カザフ人、キルギス人、など)国境線を引いてしまいました。つまり、言語の違いという原初主義的な基準を持ち出して、国境線を引き、人工的に民族を作り出すという道具主義そのものの手法を駆使したことになります
また、フェルガナ盆地という肥沃な穀倉地帯を、敢えてタジク、ウズベク、キルギスに三分割して、水の利用権などを巡って互いに衝突するように仕向けることまで行っています。それらによって、トルコ系とか、イスラムといったアイデンティティで一つにまとまらない様に手を打っていました

バルト3では、歴史的に強力な帝国を築いたことのあるリトアニアには、反発したら大変だということでロシア人の入植をほとんどしませんでした。この結果、ソ連崩壊時点でリトアニアのロシア人比率が10%に対して、ラトビアは51%エストニアは40%となっています。また、ラトビアのロシア人は国中に散らばり都市部に多く分布しているのに対し、エストニアでは東部だけに集中させる、など細やかな民族政策をたてています

スターリンの民族理論
民族とは、「言語」、「地域」、「経済生活」および「文化の共通性」によって現れる「心理状態の共通性」を基礎として「歴史的に生じた人々の堅固な共同体」であると定義しています。因みに、この理論に従えば、ユダヤ人は、住んでいる地域によって使う言語が異なっていることから、民族ではないことになります
また、言語、地域、経済をバラバラにしてしまえば民族は解体できることになります。スターリンがしばしば厄介な民族の強制移住を行ったのは、この理論に立脚しています

スターリンの民族理論は、そのままソ連の国家体制の基礎となりました
スターリンはソ連国内の民族的共同体を、「民族/ナーツィヤ」、「亜民族/ナロードノスチ」、「種族/プリェーミァ」の三つに分類し、民族を階層(ヒエラルキー)化することにより固定化させようとしました;
民族」は国家を持ち、ソ連邦離脱も許されていました(バルト3国が、これを根拠に独立を主張することができました)
亜民族」は自治共和国を持ち、独自の憲法を持つことができますが、ソ連邦からの離脱はできません
種族」は自治州や自治管区で自分たちの言語を使い、独自の文化を持つことはできますが、独自の憲法を持つ権限はありません

これらの区分は、実際はかなり流動的に運用されたと考えられます。例えば、ウクライナの東部や南部に住んでいる人は日常ロシア語を話しており、ウクライナの中の「亜民族」になっていたと考えられます
スターリンの民族理論は、無意識のうちに日本人にも住みついています。例えば、アイヌ人は「種族」であり、沖縄は「亜民族」であるというイメージは、正にスターリン的な民族意識と言えます

3.アンダーソンの「想像共同体(道具主義)」批判

アンダーソン(Benedict Richard O’Gorman Anderson/1936年~2015年;米国コーネル大学政治学部名誉教授)によれば、「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体であり、言語や地理的、経済的共通性はない」としています。国民を構成する一人ひとりは、他の大多数の同胞を知ることも、会うことも、彼らについて聞くことがなくても、一人ひとりの心の中には共同のイメージが出来ています例えば、2015年にジャーナリストの後藤健二さんがイスラム国で殺害されたとき、多くの日本人は義憤にかられましたが、殆どの国民は彼に会ったことも無く、彼の活動も知らなかったにも拘わらず、大多数の日本人の心の中には、彼の死が同胞に対して起きている危機だという心が生まれました。また、尖閣諸島にしても、殆どの人が一生の間で一度も行くことが無いにも拘わらず、日本人の「想像の共同体」の中で、「尖閣」が重要な位置を占めてしまいます。これは韓国人にとっての「独島/竹島」や「慰安婦」も同じことであると言うことができます

アンダーソンは、この「想像の共同体」は「文化的人造物」だとしています。民族の形成で鍵を握るものは、新聞や小説といった出版資本主義です。尚、アンダーソンは、新聞を「一日だけのベストセラー」と表現しています。
例えば、ある離島にAさんとBさんが住んでいたとして、A国とB国との間で戦争が始まっても、AさんとBさんには関係がないから仲良く暮らしていますが、そこにヘリコプターでそれぞれの国の新聞を落としていくと、二人はただのAさん、Bさんではなくなって敵国民同士となってしまう。つまり、新聞が自分たちの想像の共同体をつくる出すことの非常に重要なツールになります

アンダーソンが重視するもう一つの概念は、「公定ナショナリズム」すなわち、上からのナショナリズム、あるいは統治のためのナショナリズムです
18~19世紀にヨーロッパを席巻したナポレオン戦争アメリカの独立戦争などを見て、ヨーロッパの君主たちは、国家を強化する部品としてナショナリズムを導入しようとしました。しかし、問題は、ヨーロッパの王朝や帝国は、もともと「民族」の原理ではできていません。例えば、イギリスのハノーバー朝はドイツ人で英語も話せなかったし、スイスが起源のドイツ系のハプスブルグ家は、オーストリアだけでなくスペインやイタリア、チェコも治めていました。中でも大変だったのはロシアです。ロシアの貴族たちは基本的に不在地主で、サンクトペテルブルクやモスクワに住んでおり、普段はフランス語を話し、ロシア語は書けるけど上手に話せないというのが普通でした。つまり、支配階級が既に文化的にはハイブリッドでした(エカテリーナ二世自体がドイツの出身です)。ロシア帝国の基本的な原理は、権力に忠誠を誓っているかどうかが重要であって、宗教や肌の色が何であろうが気にもしていませんでした

こうした状況から、全てのヨーロッパの君主は、19世紀半ばまでに「国家語」としてどこかの俗語を採用し、国民的理念を築き上げようとしましたロマノフ家ロシア語を話すロシア人ハノーバー家英語を話すイギリス人ホーエンツォレルン家ドイツ語を話すドイツ人となりました

アンダーソンは、日本人についても、朝鮮半島にルーツを持つ王朝が、近代になって日本の民族の代表として衣替えをしたとして、日本人も上から作られた民族であるという見方をしています
イギリスの正式名称「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」には民族を表す言葉はどこにも入っていません。イングランド人、スコットランド人、ウェールズ人、アイルランド人はいますが、グレートブリテン人や北アイルランド人はいません。つまり、イギリスは「民族」を国家原理の中心に置くことなく、近代以前からの王・女王の元に国民を統合してきました

フランス革命は、近代的な意味で組織された党派や運動によってなされたものでも、指導されたものでもありませんでした。出版資本主義のお陰でフランスの経験は、人類の記憶から消去できなくなり、さらにそこから学習することもできるようになりました。フランス革命から一世紀を経て理論化し実地に実験するなかからボルシェビキが登場し、彼らが「革命」を計画し、成功させました。レーニン本人の書いたものを読むとロシアでの事態を、フランス革命のアナロジーで見ています。2月革命で生まれたケレンスキー政権は、ジロンド派による権力奪取であり、レーニン達ボルシェビキはジャコバン派になります

アンダーソンの理論によれば、「民族」とは、同じ言語を使う人たちの間で、直感されるものを共有する共同体ということになります。例えば、個人個人が目には見えない「日本」を感じ、それが共有できれば、そのグループは「日本人」になります。従って、ナショナリズムは宗教に極めて近似しているとも考えられます
現代の国家の中には、必ず宗教的な要素、絶対神の要素が入っています。日本で言えば、靖国神社がそれにあたります。靖国神社に祀られている英霊は、神道というよりはプロテスタント系のキリスト教に近いのでないかと思います

4.ゲルナー「民族とナショナリズム」の核心

ゲルナー(Ernest Gellner/1925~1995年;ユダヤ人;歴史学者、哲学者、社会人類学者)は、ナショナリズムに関する誤った考え方は以下の4つに集約できると述べています;
 ナショナリズムは自然で、自明で、自己発生的なものである。もし存在しないとすれば、それは強制的に抑圧されているからに違いない ⇒「原初主義」的な考え方
 ナショナリズムは観念の産物で、悔やむべき不測の出来事によって生まれたものに過ぎない。ナショナリズムなしでも政治は成り立つ ⇒ 典型的な「道具主義」的な考え方
③ 本来、階級闘争に向けられるべきエネルギーが、間違って民族運動に向けられてしまった ⇒「マルクス主義」への皮肉
④ ナショナリズムは暗い神々、先祖の血や、土の力が再出現したものである ⇒「ナチズム」の考え方

ゲルナーの民族の定義
① 人と人とが、同じ文化を共有する場合のみ、同じ民族に属すると言える。その場合、文化が意味するものは、考え方・記号・連想・行動とコミュニケーションとの様式から成る一つのシステムである
② 人と人とが、お互い同じ民族に属していると認知する場合にのみ同じ民族に属する。言い換えれば、民族とは人間の信念と忠誠心と連帯感によって作り出された人工物である

一般的に、①に重点があるのは比較的に大民族で、②の「意思」が強調されるのは、大民族の領域の中にいる小民族という傾向があります
大多数の日本人は①の感覚であるが、沖縄の場合は②の比重が高いと思われます

ゲルナーの民族理論の大きな長所は、経済という視点を持っていることです。人類の歴史を「前農耕社会」、「農耕社会」、「産業社会」の三段階に分けて議論を展開しています;
前農耕社会である採集狩猟集団は、国家を構成する様な政治的分業を受け入れるには余りにも小規模で国家にはならない
農耕社会では、国家はあってもなくてもよく、国家の形態自体も著しく多様であった。また、職業も専門化されていて、地縁や血縁など様々な縛りの中で生きる身分制の社会となる。この社会では敬語が極めて複雑に発達する
産業社会では、国家の存在は必須であり、信じがたいほど複雑で全面的な分業と協働に頼らなければ生活を維持できない。この社会で人はどんな職業についてもいいし、何処に住んでもいいが、国家は膨大な社会的インフラストラクチャーの維持、監督を行わねばならなくなる。中でも、教育制度は国家の重要な一部となり、文化的・言語的媒体の維持が教育の中心的な役割となる
ゲルナーは、近代の産業社会になって、人間が均質化することによって「民族」が生まれたと論じています

<民族間紛争の本質>
どんな特徴でも差別の対象になる訳ではなくて、差別が既に社会に定着してしまっている場合に深刻な問題となる差別が構造化してくると、それを克服するために分離独立運動が出て来る

イレデンティズム(Irredentism)とは「民族統一主義」と訳されることが多いが、離れてしまったもとの民族との一体化を目指す「遠距離ナショナリズム」である。故郷を離れ、観念の中で組み立てられた、理想化された民族主義というものは、ものすごい力を持つ。それが分離運動や独立運動になっていく

産業化は流動的で文化的に同質的な社会を生じさせ、その社会は以前の安定的で階層化され教条的で絶対論的な農耕社会には通常欠けていたような、平等主義への期待と渇望が生まれる
平等主義への期待があるなかで、不平等な現実、苦難があり、しかも願望するものの未だ実現しない事により、潜在的な政治的緊張が深刻なものとなる。支配者と被支配者、特権を持つ人々と、特権を持たない人々を分ける適当な象徴や識別マークを掴むことができれば、民族やナショナリズムが形成されていくことになる
つまり、分離運動や独立運動を起こさせないために為政者に要求されることは、この差別を如何に胡麻化すかということになります

<ヘイト本について>
現在書店の新刊書のコーナーには、反韓、反中、反沖縄、反米などの所謂「ヘイト」、「日本礼賛本」、「自己啓発本」が沢山並べられている。中でも、「ヘイト本」、「日本礼賛本」の類は、ナショナリズムという観点からは重大な問題となります。アンダーソンが論じている様に、「民族」や「ナショナリズム」を形成するには出版の力が非常に大きい。1930年代の日本でも、これに似た出版状況でした(例:「日本人の偉さの研究/先進社」)。オーウェルの小説「1984年/ハヤカワepi文庫」で、独裁者ビッグブラザーが支配する超監視社会での三つのスローガン「戦争は平和である。自由は隷属である、無知は力である」が町のあちこちに貼られている情景が書かれている。ヘイト本の山を見ていると、思わず「無知は力なり」と呟きそうになります

5.民族理論でウクライナ問題を読み解く

ウクライナ(google・MAP)問題には、地政学、言語、宗教、教育、経済など、これまでの民族理論で登場したあらゆる要素が複雑に絡み合っています

<民族的観点>
ウクライナは人口5300万人100の民族が住んでおり、そのうち主だった民族の人口は、ウクライナ人が3700万人ロシア人が1100万人ユダヤ人が50万人ベラルーシ人が45万人です
ウクライナの東の方に行くと、住民の殆どがロシア語をしゃべっていますが、日常生活を送るうえでは、自分たちがウクライナ人かロシア人かなんて考えていませんでした。しかし、2013年頃からウクライナとロシアの間が緊張してきて大変な状態になってきたというのが本当の所です

<中世から近世にかけての歴史>
ロシア人の歴史
では、988年、キエフ大公国(キエフ・ルーシ)のウラジミール公が現在のウクライナの首都キエフでキリスト教の洗礼を受け、その後モンゴル・タタールが攻め込んできたためにロシアの中心をモスクワに移し発展してきたと考えています ウクライナは元々ロシア
ウクライナ人の歴史では、キエフ大公国の伝統は、ウクライナの西側にあるガリツィア地方に行って、ガリツィア公国に引き継がれ、これがウクライナの国の基になったと考えています キエフ大公国の正統を受け継いでいるのはウクライナ
このガリツィア公国(ウクライナ西部)は、14世紀にポーランド領に編入され(~18世紀)、その後オーストリア・ハンガリー帝国に編入、第一次世界大戦後に再びポーランドの一部になり、第二次大戦後にはソ連に組み込まれました。ポーランド人からすれば、自分たちの影響下にある辺境と思っています

<東部と西部の違いを生んだ歴史的背景>
東部はロシア帝国に組み込まれ、もともとはウクライナ語を話していましたが、19世紀に帝政ロシアがロシア化政策を進めウクライナ語の使用を禁止した(←アンダーソンの言う「公定ナショナリズム」)ことにより、殆どの人がロシア語を話すようになっていきました
一方、西部オーストリア・ハンガリー帝国の一部になっていた為、帝国の方針により、それぞれの民族の言語、文化は規制されず、民族のアイデンティティは失われませんでした

ソ連時代になると、ウクライナ(西部+東部)は悲惨な運命を辿ることになります。最大の悲劇は1930年に始まった「農業集団化」の強制でした。ロシアの村は「ミール/農村共同体、世界、平和という意味」といい、土地の私有制もなく土地は皆のものだったため「農業集団化」は比較的簡単に受け入れられましたが、ウクライナには土地の私有制があり、「農業集団化」に激しく抵抗しました。農民のサボタージュが相次いだことに対し、スターリンは強制移住や飢餓状態になっても小麦の徴発を行ったりしたため、400万人位の餓死者が出たと言われています。1980年代の終わりの「アガニョーク(ともしび)」という雑誌に、肉屋に人間の肉がぶら下がっている写真がでています

第二次大戦が始まると、ナチスドイツが侵入し、民族独立を保証することで「ウクライナ解放軍」を募集したところ30万人がこれに応じました。一方、「ソ連赤軍」に応じたウクライナ人は200万人で、同じ民族が二つに分かれて殺し合うことになってしまいました
その後、ドイツは独立の約束を守らず、炭鉱や工場の重労働に服させたため、戦争の末期になると「ウクライナ解放軍」は反ナチスの立場で独立運動を始めました。
現在、西部のガリツィア地方を中心に活躍している「スヴォボダ/ウクライナ語で“自由”という意味」という政党は、ナチスの親衛隊によく似た旗を掲げ、血や民族の名誉を大切にしています(この政党が2014年のクーデターでは重要な役割を演ずることになりました)
第二次大戦後は、ガリツィヤ地方(西部)も含めソ連の一部となりましたが、宗教的にはカトリックのユニア協会(ロシア正教に似ている)で、自発的にロシア正教への併合を望みました。しかし、「ウクライナ解放軍」の一部は、1950年代後半になっても、山籠もりをして抵抗を続けていました。またソ連支配を潔よしとしないウクライナ人たちは、カナダの西部に移住しました(少なく見積もって40万人、多くて140万人;カナダで話されている言語のうち、英語、フランス語に次いでウクライナ語が多い)。ソ連は、ガリツィア地方への外国人の出入りを厳しく制限し、ガリツィア地方住民の出国も禁止していましたが、1985年にゴルバチョフが登場し、経済が破綻状態になった80年代終わりには人の往来を自由にしたため、国外から流入するマネーが絶大な力を発揮するようになりました

こうして、ウクライナの独立運動(ルフ/ウクライナ語で「運動」を意味する)は西と東とは全く別々に発展してゆきました。西ウクライナの独立運動を支えたのはカナダのウクライナ人です。カナダからの豊富な資金によって、西ウクライナの民族運動家は、ソ連からの分離独立運動を仕事として行うことが出来る様になりました
<参考>これに似ているケースは、かつてのIRA(北アイルランド共和軍)です。これをサポートしていたのは、ニューヨークで成功したアイルランド系のアメリカ人でした。いずれも「遠隔地ナショナリズム」が分離独立運動を支えていたということができます

<ウクライナ独立後の状況>
1991年、ソ連邦が崩壊してウクライナは国家として独立しました。公用語はウクライナ語になるものの、東部地域、南部地域、クリミアではロシア語学校が主流で、ロシア語で教育が行われていました。独立しても東部のウクライナ人のアイデンティティはまだ決まっておらず、自分がウクライナ人であるか、ロシア人であるか、依然として意識していなかったものの、生活には全く問題がありませんでした

2014年、ソチ・オリンピックの最中(期間中はロシアが介入できないと読んでの行動)に、スヴォボダを含む民族派が、武力クーデターによって権力を奪取してしまいました。権力を奪った直後、ロシア語を公用語から外しました。翌日にはこれを撤回しましたが、これがウクライナ内戦の引き金になってしまいました
ウクライナ語だけが公用語になると、東ウクライナでロシア語しか喋れない公務員は全員解雇されることになります。また、東ウクライナは国有企業が多いので、ウクライナ語が自由に操れない管理職部門の人も職にとどまれなくなります。従って、公用語の問題は生活に直結する大問題だった訳です
また、経済問題も深く絡んいます。ウクライナは西に行くほど山岳地帯となって貧しいのに対し、東側はインフラも整備され物資の供給も豊富です。こうした状況から、東ウクライナの行政機関を自分たちの手に保持し続ける為に籠城を始めました。
これに対して、トゥルチノスという大統領代行は、行政機関を占拠しているのはテロリストだとして空爆してしまいました。これが契機となって東ウクライナは武装を開始せざるを得なくなってしまったのです。ロシア語を話す東ウクライナの窮地を見て、国境地帯で演習を行っていたロシア軍の兵士が義勇兵として戦闘に参加することになりました

マレーシア航空・B777の撃墜
マレーシア航空・B777_地対空ミサイルで撃墜_2014年7月17日

ロシアという国は、国境に対して「線」ではなく、国境の先に緩衝地帯という「面」を求めます。因みに、かつてモンゴルがソ連邦に加盟したいと言ってきましたが、ソ連はそれをさせませんでした。何故ならモンゴルがソ連邦に加わると、中国との間に長い国境線ができてしまうからです。中ソ間で国境紛争が起きない様にモンゴルという緩衝地帯を必要とした訳です
日本の北方領土問題でも、択捉島の南に国境線を引くという考えは素人の考えです。玄人であれば、歯舞、色丹、国後の3島返還で海という緩衝地帯を設けると考えると思います

こうしてウクライナ問題を詳しく分析してみると、ナショナリズムというものの怖さ、危険な部分が幾重にも折り重なっていることが分かります。従って、アンダーソンの様な「道具主義的民族論」は机上の空論であると言わざるを得ないことになります

<今後の方向性について>
民族問題がこじれてしまうと非常に解決が難しくなります。一つの確実な解決策は、紛争地域から少数民族を排除していく(エスノクレンジング)ことです。これはとても危険な方向ではあるものの、現実にこうして民族問題を解決している事例は沢山あります
現在、東ウクライナでは、新ロシア勢力によるドネツク人民共和国(下図の4)と、ルガンスク人民共和国(下図の11)ができ、実質的にウクライナ政府の管轄から外れています

ウクライナの州区分地図
ウクライナの州区分地図

この両国からウクライナ人のアイデンティティを主張する人が居なくなれば、民族問題は解決するに違いありません。とんでもない議論のように見えますが、現実に進行しているのはこうした方向です

また、アゼルバイジャンとアルメニアが争っている「ナゴルノ・カラバフ自治州」についても、現在ではナゴルノ・カラバフのアゼルバイジャン領に住んでいるアルメニア人はひとりおらず、またアルメニア側に住んでいるアゼルバイジャン人も一人もいません。最早、ナゴルノ・カラバフがどちらのものだったかと説いてもナンセンスな事です。和平交渉は進んでいないものの、ある意味でエスノクレンジングは完成したと考えられます

アルメニア・ナゴルノカラバフ・アゼルバイジャン
アルメニア・ナゴルノカラバフ・アゼルバイジャン

セルゲイ・アルチューノフというロシアの民族学者は「民族衝突が起きると、あるピークに行くまでは、人為的には抑えられない。こうした衝突が起きた場合に周辺地域がやるべきことは重火器が入らないようにするだけで、あとは当事者同士を徹底的に戦わせるしかない」と言っています

流血の自体を招かないで民族問題を解決できる道もあります。それは教育です。チェコスロバキアチェコスロバキアに分裂する時流血が起きませんでした。それを可能にした要因の一つに、チェコスロバキアでは、他文化、他民族を認める教育を徹底していたことが挙げられます
一方、ユーゴスラビアでは、全く対極的な道を歩んだことになります。ユーゴスラビアは「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と言われるように、極めて複雑な民族ナショナリズムがぶつかり合っていた地域ですが、第二次大戦後、「ユーゴスラビア人」という新しい民族ができたのだという虚構によってスタートした国家でした。それが分裂の際には、同じ「ユーゴスラビア人」だったはずの人々が血まみれの殺し合いを繰り返してしまいました

6.民族理論で沖縄問題を読み解く(アントニー・スミス「エトニー」概念から考える)

アントニー・スミスはイギリスの社会学者で、ゲルナーの弟子にあたります。現実の政治を如何に説明できるか、という点で「使えるナショナリズム論」になっている。以下は、彼の著書である「ネイションとエスニシティ/名古屋大学出版会」という本をベースに論を進めることにします

エスニシティ/Ethnicityとは;
言語や,社会的価値観,信仰,宗教,食習慣,慣習などの文化的特性を共有する集団における,アイデンティティないし所属意識,さらに歴史を共有する意識をさす人類学用語。「民族性」と訳されることもあります

エトニーとは;
名前を持った人間集団」: この名前によってエスニックな共同体の人々は、自分たちを他の集団と区別し、自分たちの「本質」を確認する
名前を剥奪されたエトニーとしてクルド人が挙げられます。トルコは自分たちの国にはクルド人はいないとして、「山岳トルコ人」と呼んでいました。しかし、一度名前が剥奪されても、名前が戻ってくることもあります
出自や血統に関する神話」:成員にとって、エスニックな紐帯感や感情の奥にある鍵となる要素である。日本人にとっては、「万世一系の天皇家」がこのイメージの中心になると思われます
融合され念入りに仕上げられた神話は、エスニック共同体に対して、意味の総合的な枠組みを与える神話力となって、共同体の経験に「意味付け」を与え、共同体の「本質」を規定することになります。この様な神話力なくしては、いかなる集団も、自分たち自身あるいは他者に対して、自己規定することができず、共同行動を鼓舞することも、指導することもできません
北朝鮮にはピョンヤンの郊外にピラミッドがあります。これは20数年前、5000年前の王、檀君の骨がそっくり発見されたということで、後からピラミッドを作った訳です
歴史の共有エトニーとは、共有された記憶の上に作り上げられた歴史的共同体です。共通の歴史を持つという意識は、世代を超えた団結の絆を作り出します。それは後の世代にも自分たちの経験の歴史的な見方を教えることになります
独自文化の共有エトニーは、その成員を互いに結び付け、同時に部外者と切り離すことを助ける様な、一つあるいはそれ以上の「文化的要素」を持っています
ある特定の領域との結びつき(地縁)エトニーは、常にある特定の場所、領域との絆を持っています。エトニーの成員は、それを「自分たちの領域」と呼びます。彼らは通常その領域に住み、住まない場合でも、その地への結びつきは強力な記憶です。あるエトニーが物理的にその領土を所有する必要は必ずしもありません。重要なのは、象徴的な地理的中心地聖なる地郷土を持つことです。エトニーの成員が世界中に散らばり、数世紀も前にその郷土が失われてしまったときでさえも、象徴的に帰還することの出来る場所を持つことが重要です
内部での連帯感エトニーは、共通の名前・血統神話・歴史・文化・領土、これ等への結びつきを持つような人間の集団というだけではなく、同時にしばしば博愛主義的な制度として表現される様な、確固としたアイデンティティと連帯感を持つ共同体です。つまり、非常時や危急の際に、共同体内の階級的、党派的、知己的(互いにに理解し合っている親友の様な間柄)な関係の分断を乗り越えてしまうような、強力な帰属意識と連帯が必要です

<沖縄にエトニーの定義を当て嵌めてみると>
 沖縄は、ウチナー沖縄琉球という名前を持っている
② 共通の血統神話を持っている
 歴史も共有している
独自の食べ物や琉球語という形での言語文化も持っている
沖縄という領域と結びついている
基地問題をめぐっては、「オール沖縄」というスローガンが出てきて、大方の沖縄県人が結集している

つまり、ちょっとした条件が変化すると沖縄の人々は「民族」になり得ることになります。現時点で、沖縄人の大多数が琉球語を話せなくても問題はありません。将来琉球語を話すという意思さえあれば、それで十分です。これは、チェコでも、イスラエルでも、アイルランドでもそうでした。言語の回復を目指すという動きが出て来る時は、ナショナリズムは相当進み始めているとみていいと思います

<参考> 琉球語の文章
アレーヌーヤガ。アヌフシヌナーヤ、ニヌファブシヤサ。ユルフニアラスルトゥチネー、アリガミアティヤンドー。ヤンナー、アンシフシヌチュラサンヤー。ヤサ。チューヤアナバタヤッタサー
日本語との類似性が殆どありません!

沖縄に仮名や漢字という文字の文化が伝わったのは13世紀終りごろと言われています。1531年から約100年かけて「おもろそうし(全22巻、1554首)」という歌謡集が作られましたその中に、1609年に薩摩が琉球入りした時に、琉球王府が日本を呪っている歌が入っています;
無礼な日本人どもを、ニライカナイの底(一度入ると永久に出られない所)に封じ込めよ。心の中で琉球に対する悪意を考えるならば、たちまち気力がなくなるようになれ。大地に叩き落として、完全に捨て去ってしまえ。天下、国中は、太陽の化身であるわが琉球王が支配している。その状況を回復せよ

<沖縄と日本、二つの幕末・明治>
沖縄にあっては、明治維新は重要ではありません。国際条約において、琉球は国家として諸外国に認められていました。1854年の琉米修好条約、1855年の琉仏修好条約、1859年の琉蘭修好条約が結ばれているにも拘らず、1879年の琉球処分によって、琉球王国の承認を得ることなく一方的に日本に併合されてしまいました
この問題を突き詰めていった結果、日本への統合が合法的であったかどうか、という所まで、既に議論はエスカレートしてきています。日本(本土)から見ると、沖縄が他者だという認識がなく、自分たちの町にゴミ処理場を作るという感覚で基地問題を考えています。これではうまくいくはずがありません

<第二次大戦後の沖縄占領に際してアメリカが行った政策(謂わば植民地政策)>
1944年、占領する沖縄を統治するために、米軍が文化人類学者のジョージ・マードックに作らせた調査資料がありますが、これは非常によくできています(現在、沖縄県教育委員会の「沖縄県史・資料編」に収められています)。米軍が進駐してきた時に、軍政府の将校たちは、この資料を参考に統治を行いました
調査の対象は、「民族的起源」、「身体的特徴」、「琉球語」、「態度と価値観」、他、などが網羅されています
例えば、「民族的立場」という項目には;
日本人と琉球島民との密着した民族関係や、近似している言語にも拘らず、島民は日本人から平等だとは見做されていない。琉球人はその粗野な振る舞いから、いわば田舎から出てきた貧乏な親戚として扱われ、色々な方法で差別されている。一方、島民は劣等感などまったく感じておらず、むしろ島の伝統と中国との積年に亘る文化的なつながりに誇りを持っている。よって、琉球人と日本人との関係に係る固有の特徴は潜在的な不和の種であり、この中から政治的に利用できる要素を作ることができるかもしれない。島民の間で、軍国主義や熱狂的な愛国主義はたとえあったとしても、わずかしか育っていない

アントニー・スミスは、少数派のエトニーと、中央政府の間で起きる紛争について、次のように論じています;
支配的なエスニックの共同体が、自分たちの伝統を、その国家の他のエスニックに強制しようとしがちになる。こうなると、通常、軽視され、あるいは抑圧されているエスニックの分離主義に火がつくことになる
これは現在の沖縄で起きていることを見事に説明しています

明治政府はもっと民族問題に敏感でした。薩長土肥(薩摩、長州、土佐、肥前)という少数派が支配する体制の中で、多くの反乱が起きたこともあり、明治政府は国家統合のために物凄い努力をしました。全国に学校、病院を作り道路や橋を整備しました。その結果、沖縄以外の日本においては均質の日本人を作り出すことに成功しました。
そうして作り出された99%の日本人だから、もう民族問題など存在しないと信じているため、少数派の気持ちが恐ろしい程分かっていません

<琉球独立論の落とし穴>
今や沖縄は自己主張を始めていますが、十分に練り上げられているとは思えません。その中では、龍谷大学教授・松島泰勝氏の「琉球独立宣言(講談社文庫)」は一番完成度が高いと思います

松島氏は石垣島出身で早稲田大学・大学院時代に島嶼経済を研究テーマにしていました。ニューカレドニアの経済と独立運動との関係についてフィールドワークを含めて研究する中で、琉球と同島を重ね合わせて独立の意味と可能性を考えていました。卒業後、外務省に入省してグアムやパラオで勤務する中で、徐々に自分は琉球人という独自民族の一員だという自己意識を強めてきました
グアム全島の三分の一は米軍基地が占拠し、島外企業が観光業を支配しており、琉球と非常によく似た島と考えられます。一方、パラオでは人口はグアムの十分の一しかないものの、国であることにより、パラオ人が島の政治経済や社会において決定権を持ち他国の政治や企業による介入や支配を許さない法制度が完備していました

琉球独立宣言は、日本(本土)に対する琉球人の怒りの現れですが、決して机上の空論ではありません。2013年には、独立を具体的に研究し、実践活動をする琉球民族独立総合研究学会が設立されました
筆者(佐藤優/母親が沖縄出身)は独立論に最も強く反対しています。民族はエリート(沖縄県知事、県会議員、琉球新報・沖縄タイムス、琉球朝日放送、など)が思っているようには生まれませんが、国家という人工物は一部の支配層がでっちあげることは可能です。筆者が経験したソ連の崩壊や東欧諸国の独立運動から得た認識を基に考察すると、沖縄の独立論は圧倒的大多数の民衆とは関係無いし、民衆を不幸にする可能性の方が高いと考えています。従って、大多数の日本人に向けて、沖縄の立場、沖縄の現状を説明し、国家統合の崩壊を食い止めたいと考えています

<今こそ民族問題を学ぶべき>
筆者(佐藤優)がソ連崩壊時に知り合ったサーシャという男がいる。彼は、ロシア人でありながらラトビアに対する植民地支配を止めるべきだとして学生運動を組織し、ラトビア人民戦線を結成してその機関紙(「アトモダ/覚醒」)の編集長もやりました。しかし、独立後、ラトビアから「好ましからざる人物」としてラトビア国籍を剥奪され、追放されてしまいました。現在、彼はプーチン側近のブレーンになって、ウクライナのドネツクとルガンスクの傀儡政権創設の手伝いをしています
独立したラトビアは、ロシア人をポストから全て追い出すために、ラトビア語の試験を受けて合格した者にしか国籍を付与せず、社会保障も一切与えないことにしています。その結果、ラトビアには無国籍証明書というおかしなパスポートがあり、ロシア人は皆これをあてがわれています
この結果を見てみると、やはり自分の出自の民族から離れたところで、他の民族に過剰に同情する形での民族運動はどうしても無理があります。同情する人に勧めるのは、極力触らない方がいいということ、つまり当事者性の無い人はよそのナショナリズムに関与しないというのは、守るべき一線ではないかと考えています

その他の民族紛争、民族独立運動について(私見)

本書で取り上げられていない民族紛争、民族独立独立運動も数え上げればきりがない程ありますが、現在メディア等で取り上げられる機会が多いケースについて幾つか考察してみたいと思います
尚、以下はいずれもアントニー・スミスの定義する独立した民族(エトニー)に該当し(①名前を持った人間集団、②出自や血統に関する神話、③歴史の共有、④独自文化の共有、⑤ある特定の領域との結びつき、⑥内部での連帯感)、国家という枠組みの中で少数派に属し、不当な取り扱いを受けているケースです

1.ロヒンギャ難民問題

ロヒンギャ難民
ロヒンギャ難民

歴史的背景
ロヒンギャはミャンマーのラカイン州(下図参照)に定住しているイスラム教を信仰するインド系の民族(ミャンマーでは「ベンガル人」と呼んでいる)で、人口は約80万人と言われています。言語はベンガル・アッサム語(インド系)に属するロヒンギャ語を使用し、殆どの人はミャンマーの公用語であるビルマ語を話せず、ミャンマー人との間で日常的なコミュニケーションは殆ど図れていません。また、ミャンマー人は仏教徒であり宗教の面からも両民族の融和は難しい状況にあります

ミャンマー・ラカイン州
ミャンマー・ラカイン州—外務省資料

歴史的には、現在のラカイン州で15世紀前半~18世紀後半まで栄えていたミャウー朝・アラカン王国の時代から王の従者や傭兵としてムスリムが移住し仏教徒と共存していましたが、その後コンバウン朝の攻撃で滅亡した後は移住していたムスリムはベンガル側に逃亡しました。18世紀半ばになってコンバウン朝はイギリスに敗北(第一次英緬戦争)し、1926年にラカイン地方は英国の植民地になりました。この結果、既に英国領になっていたインドのベンガル地方(現バングラディシュ)から大量のムスリムが移住し、ラカインの仏教徒との共存関係が崩れ、軋轢を起こすようになりました
1941年12月に太平洋戦争(第二次世界大戦)が始まると、日本軍はビルマを占領しましたが、ビルマ奪回を目指す英国軍とお間で長い戦争に突入しました

インパール作戦・地図
インパール作戦・地図

日本軍はインパール作戦を実行する段階で、ラカインの仏教徒の一部を武装化しビルマ奪還を目指す英国軍との戦いに参加させる一方、英国軍もベンガルに避難していたムスリムの一部を武装化させラカインに侵入させて日本軍との戦闘にさせました。この結果、現実の戦闘ではムスリムと仏教徒の壮絶な宗教戦争となり、ラカインにおける両教徒の対立は取り返しがつかない状態になってしまいました。

大戦終了後ビルマはイギリスの植民地に戻りましたが、1948年には共和制の連邦国家として独立しました。しかし、独立直後から民族、宗教、イデオロギーの対立から内戦に突入し、1950年代までラカイン州は中央政府の力が十分に及ばない地域として残されてしまいました。この間に、東パキスタン(現バングラディシュ)の食糧危機をきっかけにしてベンガル人ムスリムがラカインに侵入し、仏教徒との軋轢は抜き差しならない状態になってしまいました。また、侵入したムスリムの中には、1960年代に政府軍によって鎮圧された東パキスタンのムジャヒディン(イスラム教の大義に則ったジハード/聖戦に参加する戦士)を名乗る武装集団も混じっていたとされ、彼らがロヒンギャの過激グループの中核になっていると言われています

1982年に成立した「市民権法ロヒンギャは正式に国籍が剥奪されました。現在のミャンマーでも、新規の帰化については、原則として政府の認めた135民族(ロヒンギャは入っていません)に限っている為、ロヒンギャに帰化が認められる可能性はありません。尚、国籍を剥奪された住民には、借りの身分証明書として「臨時証明書」が発行されました。2015年6月より、これに代わって「帰化権審査カード」が発行されています

1988年、ロヒンギャが地位改善を期待してアウンサンスーチー率いる民主化運動を支持したため、当時の軍事政権はロヒンギャに対して強烈な弾圧(財産差し押さえ、強制労働、など)を行った結果、30万人規模の難民が発生しました。また、その後1990年代にも二度繰り返された弾圧で大量の難民が発生しています
2012年にはロヒンギャと仏教徒の間で大規模な衝突が起き、ロヒンギャ200人が殺害され、10万人以上のロヒンギャが住居を追われました
こうした状況下で、バングラデシュ以外の周辺諸国(タイ、マレーシア、など)への脱出する人もいますが、これらの国は難民認定しないことで一致しており、ロヒンギャ難民が不法入国者として罰せられています

2016年10月9日、ラカイン州で武装集団の襲撃があり、警察官9人が殺害されました。当局は実行犯8人を殺害、2人を逮捕しました。当局はこれをロヒンギャ連帯機構(RSO/Rohingya Solidarity Organization)の犯行と断定し、軍による掃討作戦を実行しました。10月14日、ミャンマー大統領府は、犯行はパキスタン過激派の支援を受けた「アカ・ムル・ムジャヒディン」によるものと声明を出しました
2017年1月、イスラム諸国機構は、マレーシアで緊急外相会議を開催し、ロヒンギャ数百人が死亡した公算が大きいという報告書を発表すると同時に、「人道に対する罪」の可能性が高いとミャンマーを非難しました
8月25日、ミャンマー国境でアラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA/Arakan Rohingya Salvation Army)が駐在所20ヶ所以上を襲撃し、以後の戦闘を含めて数百人規模の死者が出ている模様です。また、ロヒンギャの居住区域では放火(双方が相手による犯行と言っている)、略奪が行われていると報道されていますが、現在、ミャンマー政府は外国の調査団の受け入れを拒否しています。一方、バングラディシュに難民として流入した人は62万人に達しており、欧州に流入したシリア難民(約37万人)、ソマリア難民(約30万人)、サイゴン陥落時のベトナム難民(約10万人)と比べても空前の規模に達しています

<考察>
歴史的背景から分かるように、ロヒンギャの悲劇の原因は;
イギリスの植民地政策:ベンガルからの大量のベンガル人ムスリムの移民を行ったこと
太平洋戦争時にイギリス軍がベンガル人ムスリムの移民を武装させ、日本軍と戦わせたこと
太平洋戦争時に日本軍がアラカンの仏教徒を武装させ、イギリス軍と戦わせたこと
ビルマ独立に際して、イギリスが民族問題に関して適切な指導を行わなかったこと

従って、このままミャンマーとバングラディシュに問題解決を委ねるのではなく、国連を中心とする仲裁に、イギリス及び日本が積極的に関わり、両国に対する経済援助、及び難民の受け入れなどを検討すべきではないかと私は考えています

<Follow-up>
* 2018年1月12日、ミャンマーを訪問しアウン・サン・スー・チー国家顧問兼外相と会談した河野外相は26億円拠出を表明して帰還を支援することを表明しました。
* ミャンマー諮問委員会報告書

2.イギリスにおける民族問題

イギリスの正式名称は既に述べたように「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」といい、民族の名称は入っていません。主たる民族の構成は、グレートブリテン島の「イングランド人」、「スコットランド人」、「ウェールズ人」、及びアイルランド島の「アイルランド人」の4民族です。スコットランド人、ウェールズ人、アイルランド人は、土着していたケルト人の末裔であることは学術的に確認されています。従って、それぞれの人びとはケルト語から派生したスコットランド語ウェールズ語アイルランド語を、英語以外の民族の言語として現在も使用しています

9世紀、14世紀のイギリス9世紀、14世紀のイギリス

<イギリスの歴史・クイックレビュー>
イングランドは、1世紀以降ローマの支配を受けていましたが、5世紀になってヨーロッパ全体に及ぶ民族大移動の影響を受けてローマの支配が終わると、グレートブリテン島に「ゲルマン系アングロサクソン人」が侵入し、土着のケルト人を駆逐、乃至同化してその過半(スコットランド、ウェールズ地方を除く)を支配するようになりました。11世紀に入るとフランス北部を拠点とするノルマンディー公ギョーム2世によりイングランドは征服、統一されました(ノルマン人もゲルマン系の民族)

スコットランドは、中世前期に建国されたときからスコットランド王国として独立を保っていましたが、スコットランド王国の正統性は、繰り返されるイングランドの侵略に脅かされていました。エリザベス1世(1533~1603年)の時代になってスコットランドの女王メアリーが内紛により女王の座を追われイングランドに亡命しましたが、その後エリザベス1世により処刑されてしまいました
女王メアリーの一人息子のジェームスはエリザベス1世死去の後、イングランド王に指名され、ジェームス1世(ステュアート朝)として即位するとともに、スコットランド王としての地位も保つことになりました(同君連合体制)。このジェームス1世は、イングランドとスコットランドの統一を願い、現在のイギリス国旗であるユニオンジャックを制定しました。因みに、この国旗はイングランドとスコットランドの両国の国旗を足して二で割った様なデザインになっています

ユニオンジャックのデザイン
ユニオンジャックのデザイン

この同君連合体制はおよそ100年間続きましが、国家としての統一はできませんでした。この間、清教徒革命(Puritan Revolution/Wars of the Three Kingdoms;1641年~1649年にかけてイングランド・スコットランド・アイルランドで起きた内戦・革命)、1688年の名誉革命(Glorious Revolution)と動乱が続きました
1707年イングランドとスコットランドの両議会で統一が決定グレートブリテン王国)されましたが、その後もスコットランドでは武力反乱が起きては鎮圧されることが続きました。1745年には大規模武力反乱(「the Forty-Five」と呼ばれている)が発生、翌年カロデンの戦い(Battle of Culloden/スコットランド北部のハイランド地方)でスコットランドは大敗北を喫しましたが、ここでイングランド政府軍(司令官カンバーランド公ウィリアム・オーガスタス)が負傷者や残党の大虐殺を行ったとされ、これが長きに亘ってスコットランド人の対イングランド感情に影を落としています。この戦いの後、政府は民族衣装のキルトやタータン模様の着用と武器の所有を法律で禁じ、伝統の氏族制度を解体しましたが、これはスコットランド人にとっては非常な屈辱であったと考えられます。尚、キルト着用禁止令は36年後に廃止されました

ウェールズは、ケルト系の小国家群が続いた後、13世紀にフレウェリンが統一を試みましたが、イングランド王エドワード1世と戦って敗北しイングランドの支配下に入りました。エドワード1世はウェールズ人をなだめる為に妊娠中の王妃をカナーヴォン城(Caernarfon;世界遺産)に連れて行き、そこで生まれた王子をプリンスオブウェールズ(Prince of Wales)と呼びました。現在でも、英国の第一王位継承者に与える公式の称号になっています(現在、チャールズ皇太子がプリンスオブウェールズです)

カナーヴォン城
カナーヴォン城

アイルランドについては、イングランドでジェームス1世による同君連合体制ができると、当面スコットランド問題が放置可能となったため、イングランド人によるアイルランド植民が始まりましたイングランドは人口においては圧倒的に優位にありアイルランド全土に植民が及んでいきました
しかし、同君連合体制になってもスコットランドとの戦争に手を焼いていることを見たアイルランドはイングランド組し易しと侮り、植民したイングランド人の虐殺事件を起こしてしまいました。また、これをきっかけにアイルランド・カトリック同盟が成立し、カトリックの擁護者を自負するローマやスペインから支援者がやってきてイニシアティブを握り、アイルランドをカトリック(アイルランド)とプロテスタント(イングランド)の代理戦争の場にしてしまいました

1749年、清教徒革命に勝利してイングランドを支配した議会派は、内外のカトリック勢力の駆逐に手を付け始めました。この過程で行われたのがオリバー・クロムウェルによるアイルランド遠征です。彼の戦略はアイルランドの徹底的壊滅であり、多くのカトリック信者が虐殺され、アイルランドはイングランドの支配下に入りました。この歴史がアイルランド人の記憶に刻み込まれ、現在に至るもアイルランドがイングランドに同化する事を徹底的に拒む背景になっています
その後、1801年にグレートブリテン王国がアイルランドを併合し、「グレートブリテン及びアイルランド連合王国」を形成しました
1916年ジェームス・コリーが指導するイースター蜂起(復活祭に行われた武装蜂起)が起きアイルランド全島の独立を宣言しましたが、直ぐにイギリス軍に鎮圧され、指導者たちは処刑されてしまいました。しかし、3年後の1919年、アイルランド独立戦争が勃発しました。1920年、イギリス政府はアイルランド統治法を制定し、北部6州はアイルランド議会で定める法の適用を受けないと規定し、アイルランドを北アイルランド南アイルランドの2つに分割して独自の議会を認め、それぞれの自治権を認めました。1922年休戦条約(英愛条約/Anglo-Irish Treaty)によって、アイルランド全島をアイルランド自由国としてイギリスの自治領になりました
しかし、イングランドから植民したプロテスタントが多い北アイルランドは即座にアイルランド自由国からの離脱を決め、イギリスへの再編入を希望しました。この結果、北アイルランドは独自の議会と政府を持つイギリスの構成国となりました(⇒グレートブリテン及び北アイルランド連合王国

一方、イギリスの自治領になった南アイルランドは、1937年に自治領から独立しアイルランド共和国となりました。北アイルランドでは、1960年代以降、宗教上政治上の対立が深まり、数々の血なまぐさいテロが実行されました(後述)。現在、北アイルラン人は、英国及びアイルランド共和国双方の市民権を持っており、双方の国のパスポートも持っています。国際法的には現在も英国の領土であり、英国議会の議席も持っています

<スコットランドの独立運動>

大英帝国が世界中に植民地を持ち、隆盛を誇っていた時代が長く続き、スコットランドではスコットランド議会において自治を求める「ホームルーム」運動(1853年)の動きはありましたが、独立を求めて中央の支配に挑戦することはありませんでした
1930年になってから、自治を求めるスコットランド誓約がジョン・マコーミックによって提案され、1949年正式に文書化されました

イギリスは、第二次世界大戦では戦勝国の仲間入りはしたものの、経済的には疲弊し大国の面影はなくなりました。1956年のスエズ危機(エジプト政府によるスエズ運河国有化)からアフリカにおける急速な脱植民地化が続き、大英帝国の凋落は最早隠しようもなくなり、多くのスコットランド人にとって大英帝国内に留まることの意義は次第に薄れて行きました
1970年代に、スコットランド近海に北海油田が発見され、イギリスに莫大な利益をもたらす様になると、その利益の不公平な分配がスコットランドのナショナリズムを刺激することとなりました
また、スコットランド議会は、1707年のイングランドとの統合以来ウェストミンスター宮殿にあるイギリス議会に統合されていましたが、こうした動きに合わせ、独自の議会設置を求める声が高まりました。1979年の住民投票では否決されたものの、1997年に登場したトニー・ブレア(スコットランド出身)首相の下で再度住民投票が行われ、独自議会を設置することが決まりました

2013年、スコットランド自治政府のアレックス・サモンド(Alex Salmond)は「独立国家スコットランド」の青写真を発表しました。2014年9月には、独立の是非を問う住民投票を実施しましたが、反対票が55%を占め否決されてしまいました
2016年6月、イギリスの欧州連合離脱の是非を問う国民投票が実施され離脱が決まりましたが、スコットランドでは、62%の住民が欧州連合に留まることを支持したことから、スコットランド自治政府首相のニコラスタージョン(Nicola Sturgeon)は独立した上で欧州連合に加盟する可能性を示唆しています

<北アイルランド民族紛争>

北アイルランドは多数派であるプロテスタント(イングランドと同じ)が中心となって統治されており、カトリック教徒は、住居、政治上の差別を受けていました。1960年代になって、アメリカの公民権運動に触発されて、北アイルランドでも差別撤廃への関心が高まりカトリックによるデモが行われるようになりました

ユニオニスト
ユニオニスト

プロテスタント主体であった北アイルランド政府はこれを抑圧情勢は緊迫化し、深刻な分断と対立が発生しまし。以降、1990年代前半までIRA( Irish Republican /南北アイルランドを統一させることを主張する武装組織)暫定派を始めとするナショナリスト(イギリスとの連合維持を主張)とユニオニスト(イギリスからの独立を主張)双方の私兵組織と、政府当局英陸軍北アイルランド警察)とが相争う抗争が続き、血の日曜日事件(1972年、北アイルランドのロンドンデリーで、デモ行進中の市民27名がイギリス陸軍落下傘連隊に銃撃され、14名が死亡した事件死亡)など数多くの武力弾圧やテロによって数千名にものぼる死者が発生するなど、社会と経済の混乱は極めて苛烈なものとなりました

しかし、1990年代になると和平への道が模索されはじめ、1998年になるとユニオニストおよびナショナリスト政党、私兵組織とイギリス、アイルランド両政府によってベルファスト合意が形成され、これに基づいて全政党が参加する北アイルランド議会が設置されました。この功績によって、穏健派政党の党首であるデヴィッド・トリンブルとジョン・ヒュームにノーベル平和賞が授与されています。過激派によるテロが収まったことを受け、外国企業による新たな直接投資が相次ぎ、経済成長を遂げています

<考察>

ウェールズ、スコットランド、アイルランド、それぞれの民族問題を概観すると、民族問題は、権力にあるものの対処の仕方によって劇的な違いを生むことが分かります;
差別は民族独立に強力なエネルギーを供給する。特に虐殺行為がこれに加わると数百年続く独立運動のエネルギーを生み出す(スコットランド、アイルランド
これに宗教の対立が絡むと、より悲惨な結果を招き、独立以外の解決策は無くなる(アイルランド
支配者が被支配者に対して名誉を与え、寛容を示せば民族間の対立は表面化しない(ウェールズ
民族紛争は荒廃をもたらし、妥協による民族の融和は繁栄をもたらす(北アイルランド

3.スペインにおける民族問題

スペインは、バスク地方とカタル―ニア地方での民族問題を抱えていますが、この問題が深刻化した背景には、スペイン内戦があります

バスク、カタル―ニア
バスク、カタル―ニア

<スペイン内乱・クイックレビュー>

第一次世界大戦後のスペインでは、右派と左派の対立が尖鋭化していた上にカタルーニャやバスクなどの地方自立の動きも加わり、政治的混乱が続いていました。そうした中で第二共和政期にあったスペインで、フランシスコ・フランコを中心とした右派による軍事クーデター発生し、マヌエル・アサーニャ率いる左派の人民戦線政府(共和国派)との間でスペイン内戦(1936年7月 – 1939年3月)が勃発しました。反ファシズム陣営である人民戦線をソビエト連邦が支援し、欧米の知識人らも数多く義勇軍として参戦(ヘミングウェイ原作の映画「誰が為に鐘は鳴る」はこの内戦を扱っています)しました。一方、フランコ側はファシズム陣営のドイツ・イタリアが支援しました

内戦の初期においては人民戦線側が有利な状況でしたが、次第にフランコ側が攻勢を強めて行き、1937年春には北部のバスク地方が他の人民戦線側地域から分断されて孤立し、ビルバオ、サンタンデール、ヒホンなど主要都市が陥落して、バスクは完全に反乱軍に占領されてしまいました。その間の4月26日にバスク地方のゲルニカが、ドイツから送り込まれた義勇軍航空部隊による空襲(ゲルニカ爆撃)を受け、巻き添えとなった市民に約300人の死傷者が出ました(共和国側は死傷2500人以上と発表)。これは、パブロ・ピカソの絵画『ゲルニカ』の題材になったことで良く知られています

ゲルニカ
ゲルニカ

1938年12月より、フランコは30万の軍勢でカタルーニャを攻撃、翌1939年1月末に州都バルセロナを陥落させました。人民戦線側を支持する多くの市民が、冬のピレネー山脈を越えてフランスに逃れました。2月末にはイギリスとフランスがフランコ政権を承認し、アサーニャは大統領を辞任、人民戦線政府はフランスに亡命し内戦は終結しました。勝利したフランコ側は、人民戦線派の残党に対して激しい弾圧を加えました。軍事法廷は人民戦線派の約5万人に死刑判決を出し、その半数を実際に処刑しました。特に自治権を求めて人民戦線側に就いたバスクとカタルーニャに対しては自治の要求を圧殺しました

<バスク独立運動>

スペイン内戦では15万人以上のバスク人が難民となり、その後のフランコ政権下ではバスク語の使用禁止やイクリニャ/バスク国旗の掲揚禁止などの政策が取られました

バスクの国旗
バスクの国旗

1946年にはアギーレがニューヨークでバスク亡命政府を編成しましたが、反共産主義の立場を取る西側勢力はフランコを容認するようになり、1960年のアギーレの死もあってバスク亡命政府は政治的影響力を低下させたました。1952年に地下組織として結成されたEKINは、バスク民族主義党青年部から分離したグループなどを加えて1959年にバスク祖国と自由(ETA)に発展し、バスク語の民族語としての擁立、バスク大学の創設などバスク民族の政治的自立や民主的諸権利の認知を訴えました。発足当初のETAは民族文化復興運動団体の色彩が強かったものの、やがて政治的独立を掲げる集団が主流派となり、1968年には武力闘争が開始されて世界的に知られるようになりました。それまでは穏健派のバスク民族主義党がバスク・ナショナリズム運動を独占していましたが、ETAの登場で状況が変わりました。1960年代末には全国的にフランコへの反体制運動が高まり、1970年代になるとバスク民族主義党が保守層の支持を背景に組織を拡大しました

1975年フランコが死去するとスペインでは民主化への移行が開始され、1978年には国民投票が行われてスペイン1978年憲法(現行憲法)が制定されました。憲法にはスペイン国家の不可分一体性が明記され、バスク人は民族を構成するには至らない民族体と位置付けられましたが、1979年にはスペイン国会でバスク自治憲章承認された後に住民投票でも承認され、バスク自治州が発足しました。憲法の規定でナバーラ県はバスク州への統合が可能とされましたが、結局1982年に単独でナバーラ州に昇格しました。バスク人とナバーラ人の分離はスペイン政府の意図するところであり、バスク地方とスペイン国家の係争解決に向けた大きな障害となっています。ETAは1968年の暴力活動開始以後に800人以上を殺害し、1990年代頃にバスク経済が一定程度回復するとテロリズムの克服がバスク地方最大の懸念事項となりましたが、2000年代後半以降には弱体化したとされています。2003年にはバスク民族主義党のフアン・ホセ・イバレチェがゲルニカ憲章改正案(イバレチェ・プラン(英語版))をスペイン国会に提出してバスク地方の自治拡大を狙いましたが、スペイン下院に否決されました

バスク語については、EU機関内で限定的な使用が認められており、2011年にはスペイン国会上院でも使用が認められるようになりました。2000年代半ばの調査で、スペインでバスク語を話す人は55万人います(他に、10万人がフランス領バスクに居住しています)

<カタル―ニア独立運動>

内戦後のカタルーニャでは、カタルーニャ語カタルーニャ・アイデンティティの象徴に対して厳しい弾圧が行われました。カタルーニャの伝統的音楽・祭礼・旗、カタルーニャ語の地名や通り名まで禁じられました。更に、自治政府や自治憲章も廃止されてしまいました。第二次世界大戦には加わらなかったものの、戦後スペイン経済は壊滅的な状況になり、1950年前後までカタルーニャ経済も停滞を余儀なくされました。1960年代から1970年代初頭になって、カタルーニャは急速な経済成長を遂げました

1975年のフランコが死去後のスペインの民主化により、1977年のスペイン議会総選挙の際、カタルーニャでは民族主義政党が75%の得票を得ました。1978年には新憲法が制定され、新憲法の下で1979年カタルーニャ自治憲章が制定されてカタルーニャ自治州が発足しました
1986年にスペインがヨーロッパ共同体に加盟すると、外国企業の1/3は経済基盤の整っているカタルーニャ州に進出しました。更に、1992年バルセロナオリンピックが開催され、カタルーニャのイメージを世界に広める役割を果たしました。1990年代には経済面で外国籍企業への依存が進み、EU外からの移民も増加致しました

2006年に自治権の拡大を謳った新たな2006年カタルーニャ自治憲章が制定されましたが、その後この自治憲章は憲法裁判所で違憲とされました(2010年)。また、スペインは財政力の弱い地域を支援する税制を採用しており、財政力が強いカタルーニャ州は特に再配分比率が低い地域であるため不満を募らせていました。これらが原因でカタルーニャ・ナショナリズムの機運が高まり、2010年半ばには独立支持派がはっきりと増加しました

2010年7月の大規模デモ「2010年カタルーニャ自治抗議」には約110万人が参加。2012年150万人が参加した大規模なデモ、2013年の「カタルーニャ独立への道」、2014年の「カタルーニャの道2014」など、毎年のように大規模デモが開催されています。2015年カタルーニャ自治州議会選挙では、独立賛成派が過半数の議席を獲得し、州議会がカタルーニャ独立手続き開始宣言を採択しました

独立旗と大規模デモ
独立旗と大規模デモ

2017年10月1日には独立を問う住民投票が実施され、投票率4割ながら賛成が9割に達しました。10月10日カタルーニャ独立宣言は署名され、中央政府に対し対話を求めたものの中央政府はこれを拒否、カタル―ニア自治政府は独立宣言そのものは撤回しなかったため、10月21日中央政府は自治政府の権限を一時停止する方針を決定しました。10月27日州議会は独立宣言を賛成多数で承認しました。これを受け中央政府はプッチダモンら州政府幹部らを更迭し、中央政府の副首相を州首相の職務代行に据えるなどカタルーニャ州の直接統治に乗り出し、現在に至っています

<考察>

バスク人もカタル―ニア人も、民族としての自覚を持った集団であることは歴史的に明らかであり、また、スペイン内乱及びその後のフランコ政権下で徹底的な弾圧を受けていることを勘案すると、現在のレベルの自治では満足しないことは明らかなように思います。独立を認めた上での連邦制、あるいは最低でも自治政府に徴税権の一部を移管する、などの妥協が必要だと思います

雑感

民族問題に関心の薄い日本も、第二次世界大戦までは、多くの民族をその支配下に置き、統治を行って来ました;
日清戦争後の下関条約で清国から台湾の割譲を受け、以後約50年間台湾を統治してきました。台湾には、福建省などから移民した中国人に加え、山地民族(9族)が居住しており、明治政府はその統治に非常に苦労しました。しかし、教育の普及等、社会インフラの整備などにより、終戦までは安定した統治が行われていました。1990年代の初めに、私自身台湾に駐在する機会がありましたが、外省人(1949年共産軍に敗れ台湾に脱出した蒋介石軍、約200万人)以外の台湾人は概ね親日的であったように思います。現在でも日台関係は良好であり、台湾の統治は失敗ではなかったと私は思っています。また、日本の統治が行われる前の台湾は、歴史的には清国の領土とはいえ「化外の地(けがいのち/中華文明に於いて文明の外の地方を表す用語)」と呼ばれ、社会インフラの整備が全く行われていなかったことも、日本を受け入れた背景にはあったと思われます

日露戦争後のポーツマス条約で、南千島、南樺太を日本の領土に加えましたが、もともとロシア人やエスキモーの人口の少ない所であったと思われますので、日本人の植民によって軋轢を起こしたことは無かったと考えられます
③ 1910年日本に併合した朝鮮については、第一次世界大戦後に沸き起こった独立運動を抑圧したこと、皇民化政策(宗氏改名、徴兵制/1944年~、、)を進めたこと、などにより民族の誇りを踏みにじったことが、現在まで続く反日感情慰安婦問題の追求靖国参拝問題に繋がっていると考えられます

第一次世界大戦で戦勝国となった日本は、ベルサイユ条約によって赤道以北の旧ドイツ領ニューギニアの地域を委任統治することとなりました。日本はこれら南洋諸島開拓のために南洋庁を置き、国策会社である南洋興発株式会社を設立して島々の開拓、産業の育成に努力しました。1933年の国際連盟脱退後は、パラオ諸島やマリアナ諸島、トラック諸島は海軍の停泊地として整備し、それらの島には軍人・軍属、及びそれらを相手に商売を行う人々が移住しました。また、新天地を求めて多くの日本人が移住し、その数は10万人に上りました。日本人の子供たちのために学校が開かれ、現地人の子供にも日本語による初等教育を行いました。こうした施策が、敗戦後も南洋諸島の人びとが親日的である理由になっていると思われます;
エピソード1:パラオ諸島のアンガウル州の州憲法では、パラオ語、英語と併せ日本語が公用語として定めています
エピソード2:1944年、パラオ諸島のぺりリュー島で1万人以上の日本兵が玉砕しましたが、開戦前に自発的に協力を願い出た現地住民を強制的に疎開させ、現地住民の人的被害は無かったそうです

1931年の満州事変後に日本の傀儡政権として満州国が生まれました。満州国を多民族国家の理想形にすると夢見た人々は、五族協和の名の下に各種の施策を行いましたが、結果として失敗に終わりました(興味のある方は、私のブログ「五色の虹-満州建国大学・卒業生たちの戦後」を読んで」をご覧になってください)。また、満州国の開拓と統治を優先する人々は、日本人百万戸(5百万人)移住計画(興味のある方は「「麻山事件」を読んで」をご覧ください)を実行に移しました。しかし、この政策は、満州国農民の土地を奪う結果となり、五族協和とは裏腹に満州人の怨みを買う事となりました。1937年の盧溝橋事件以降の日中戦争に於いては、ジュネーブ条約違反行為(捕虜の殺害や重慶無差別爆撃)、日本軍731部隊による人道に悖る行為、などがあり、現在まで続く中国人の反日感情南京虐殺の責任追及靖国参拝問題に繋がっていると考えられます

いずれにしても、日本人は、アレクサンダー大王や、ローマ人、モンゴル人、など多民族国家をうまく統治した人々とちがって、異民族統治には向いていない民族かもしれません
1949年の統一以降、アンダーソン流の「道具主義」を貫いている中国は、チベット自治区や新疆ウィグル自治区で深刻な民族問題を抱えています。「想像共同体」であった満州帝国の失敗から何を学んだのでしょうか、、、

以上

盛夏から秋へ!

前回のブログでのご報告(初夏から夏へ!/8月13日)から約2ヶ月が経過しました。空梅雨気味に推移した8月前半までは、夏野菜は順調に育っていたのですが、8月半ば以降9月上旬までは夏らしくない雨模様が続き、8月30日大雨の日には我が家の近くの柳瀬川で急激な増水に伴う水難事件(1人死亡、1人ヘリで救出)が起きたほどでした。このお陰で関東地方を中心に夏野菜の値上がりが続きました
更に、9月17日には台風18号が襲来し、直撃は免れたものの、日本海側を通過して行ったために関東地方では強風が吹き荒れました。この2ヶ月間、夏野菜にとってはご難続きのお天気でした

我が家の夏野菜の状況

前回ブログで、夏野菜(トマト、キュウリ、ナス)の収穫を長続きさせるために、植え付け時期を3回に分ける実験についてご報告しましたが、第一世代は順調に生育し、収穫も順調でしたが、第二世代、第三世代は、上記異常気象の影響をまともに受けて以下の様な結果となりました;

① トマト:第二世代は全滅、第三世代も生育が非常に遅れただけでなくウィルス病に罹患してしまったようで、8月後半以降は残念ながら収穫できませんでした(実験は失敗!)。第三世代の生き残りの株は一株のみで生育状況は下記の写真の通りです;

第三世代生き残り!のトマト
第三世代生き残り!のトマト

9月終盤からは時雨前線による長雨が続いており、収穫できるかどうかは分かりません。収穫期の長雨はトマトには過酷な様で、プロの農家は殆どがビニールハウス栽培を行っていることも当然ですね!

② キュウリ:第二世代、第三世代は9月前半までは何とか収穫が続いたのですが、台風18号の強風で一夜にして葉が千切れ飛び、枯れてしまいました;

強風で葉が吹き飛ばされたキュウリ!
強風で葉が吹き飛ばされたキュウリ!

やはりキュウリもビニールハウス栽培で強風を防げなければアウトという事でしょうか

③ ナス:第一世代、第二世代、第三世代共に長雨の影響を受け、苗は相応のダメージを受け、収量が落ちましたが、8月下旬から9月初めにかけて秋ナス用の剪定(大胆に1/3位に切り詰める)、根切りと追肥:下記写真参照)を行った結果;

根切りと追肥
根切りと追肥
剪定実施後
剪定実施後

9月下旬から秋ナスの収穫が順調に進んでいます。ナスはプロの農家も露地栽培を行っていることで分かる様に、天候不順には強い野菜のようです

現在のナス
現在のナス(秋ナス収穫中)

野菜の保存

食べきれない野菜類は、古来乾燥によって保存を行い野菜のとれない冬に備えました。拙宅でも、少ない晴れ間を使って以下の乾燥野菜を作りました;

ゴーヤ(左)とナス(右)
ゴーヤ(左)とナス(右)
赤唐辛子(鷹の爪)
赤唐辛子(鷹の爪)

また、今年は栽培の種類を増やしたハーブ類も、以下の様に乾燥ハーブとして保存しました;

乾燥中のハーブ類.
乾燥中のハーブ類.
乾燥後のハーブ類
乾燥後のハーブ類

尚、ハーブ類は寒さに強いので、少なくとも11月末頃までは収穫することができます。現在の生育状況は以下の通りです;

栽培中のハーブ類
栽培中のハーブ類

秋冬野菜の生育状況

秋冬野菜は、8月下旬~10月上旬位に種蒔き、植え付けを行うものが多いのですが、ネギのみは春に種蒔き、初夏には植え付けを行っています。以下は、秋冬野菜の生育状況です;

野菜類_A
野菜類_A

上の写真の内、ネギ、タマネギは11月末頃に植え付けを行う予定です。また、ニラについては春に植え替えた後、初夏以降必要に応じ収穫しております

野菜類_B
野菜類_B

上の写真の内、白菜については、今年各コンテナに2株づつ植えてみました。一株目を早めに収穫し、最終的に一株を大きく育てることで、収穫量の極大化と収穫可能期間を長くする狙いがあります。うまくいくかどうかお慰みといったところでしょうか!

ネギ(上段:長ネギ、下段:下仁田ネギ)
ネギ(上段:長ネギ、下段:下仁田ネギ)

上の写真は、春に植え付けを行ったネギ類ですが、植付後の杜撰な水管理と夏場の天候不順により生育が芳しくありません。鍋の時期までに十分に成長するかやや疑問が残ります

ジャガイモ2世
ジャガイモ2世

ジャガイモ2世というネーミングは、ジャガイモは所謂「二度芋」と言われる様に暖地では二期作が可能なので、6月初旬に収穫した我が家のジャガイモを8月下旬に植えてみたことからきています。うまくいけば12月初旬には収穫可能と思われますが、秋の日照時間が確保できるかどうかで収量は決まると思われます

青首大根
青首大根

大根は底の深い大きなコンテナに3本づつ育てています。これ以外に2ヶのコンテナに時期をずらして種蒔きをしていますので、最大収穫量は15本となります。昨年は多く作り過ぎて春先に収穫が遅れた大根に穂が出てきてしまいましたので、今年は少し少なめにしました

上記以外に、秋冬用の野菜として、キャベツブロッコリービーツ野沢菜プンタレッラ、などを栽培しています
野沢菜については、先シーズンの様に密植をしないで、やや大きなコンテナを使って大きく育ててみようかと思っています。野沢菜漬けの他、葉を収穫した後のカブ(←ももともと野沢菜はカブです!)を信州の地元の人がやっている様に「粕漬」にすることが目的です。以下の写真(右側)は先シーズンのやや小さな野沢菜カブを粕漬にしたものですが、期待通り大変美味なものでしょた;

茗荷の紫蘇付けと野沢菜カブの粕漬
茗荷の紫蘇付けと野沢菜カブの粕漬

プンタレッラについては、今年6月のブログ(近所の八百屋では手に入らない野菜の栽培!)で、春蒔きを試した結果をご報告しましたが、本来イタリアでは冬・春野菜のようなので、秋蒔きが正解のように思います。それ程美味しい野菜とは思われませんでしたので、中型コンテナひとつで小規模生産を試みています(芽を出したばかり)
尚、忙しさに感けてプンタレッラ収穫後の根をそのままにしておいたところ、下記写真の様に生い茂り、勿体ないので天ぷらにして食べてきたところ、とても食べられる代物ではない!ことが判明しました;

プンタレッラとその天ぷら
プンタレッラとその天ぷら

以上

敬老の日?

老人は敬う存在?

今年の敬老の日は9月18日。当初は9月15日に固定されていたのですが、行楽の秋に連休を作って観光需要を増やすために祝日法が改正されて2003年からは9月の第三月曜日と定められました。敬老の日のきっかけとなったのは、兵庫県多可郡野間谷村の村主催の「敬老会」だそうですが、この時の趣旨は「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」ことだったそうです。
私は一昨年70歳となり、自他共に認める「老人」の仲間入りを果たしています。当初は、それほど意識はしていなかったのですが、最近は老人の視点で自身のこれからの生き方について色々と考える機会が増えてきました。

最近読んだ本で、五木寛之が書いた「孤独のすすめ」という小冊子があります。これは、その前に出版している「下山の思想」、「玄冬の門玄冬の門を読んで)」に続くもので、傘寿を越えている筆者が、自身の経験や、宗教、古今の哲学に照らして老人のあらまほしき生き方を提案しており、私自身にとって大変参考になっています
この本で、次世代を担う若い労働者と、年金を食み豊かな資産を持った老人との関係は「階級闘争」の体を為しているとの面白い見方が述べられています

先日、やや混んでいる通勤時間帯の電車の中で、ドアが開いた途端、たった一つ空いた「優先席」に老人を押しのけて座った若者が居ました。件の老人は、若い女性に席を譲られて座ることはできたものの、対面に座るその若者を怒りに満ちた眼で暫し睨み続けていました
若者の言い分を忖度してみれば、肉体労働で疲れ切った体を休めるために席に座ることは、わざわざ!通勤時間帯に乗り込んでくる五体満足で暇な老人に席を譲ることに優先するということでしょうか。若い労働者にとってみれば、少ない賃金から年金やら、健康保険の名目で、彼らにとって少なくない金額を天引きされることは「搾取」と感じてしまうのも分からないわけではありません。また、このまま少子高齢化が進めば、自分たちの世代は年金を受け取れない可能性があると聞けば、元気な!老人を敬えというのが無理なのかもしれません

9月13日に厚生労働省から発表された医療費統計(平成27年度・国民医療費の概況_全体版)によれば、国民一人当たりの年間平均医療費は33万3千円になりますが、これを年齢層別に分けてみると、65歳未満の年間平均医療費が18万5千円に対して、70歳以上は84万円、75歳以上になると何と92万9千円!に達しています
また先日、日経朝刊の一面に、膨張する介護保険の記事が出ていました(介護保険は医療保険とは別建て)。現在介護保険の給付額は約9兆円、2025年にはこれが25兆円に膨らむと予想されています。介護保険は40歳以上の勤労者と、国及び地方自治体(いずれも税金が原資)が折半で賄うことになっていますが、教育費のかかる子供を抱えた勤労者の負担も重く、日本経済を支える40歳以上の勤労者の怨嗟の的になるのも時間の問題と思われます

こうした状況を考えると、我々「老人階級」も、戦後の驚異的な経済成長を支えてきたのだから、少しは楽をさせてくれよ、、などと呑気なことは言ってられないような気がします。長寿時代に生きる人間の生き方については、”「100年時代の人生戦略」を読んで“で紹介しておりますが、ここではこれからの老人階級の生き方について、もう少し具体的に自論を展開してみようと思います

元気な老人になる為に

今後、急激に増加していくことが確実な老人階級が、若い世代にとって迷惑な存在にならない為には、 長患いをしないこと 肉体的な健康を維持すること精神的な健康を維持すること、の三つに集約できると思います

① 長患いをしないこと;
簡単に言えば、古来理想的な死に方として言われている「ピンピン・コロリ」を目指すという事になるのではないでしょうか。脳死後の延命措置や、回復の見込みのない老人に「胃ろう(胃に直接流動食を注入できるようにすること)」の施術を行うこと、などは長患いの原因になります。これを避けるには、自身で判断が出来なくなる前に、予め近親者に意思表示しておくことが必要になります。最近106歳で亡くなった聖路加病院名誉院長の日野原重明さんは、ご自身で延命措置を拒否されて大往生を遂げましたが、私たち夫婦もこれに倣った生き方を目指したいと時折話し合っています
長患いをしないためには、肉体的な健康を維持すること、精神的な健康を維持することが必須条件になることは言うまでもありません

② 肉体的な健康を維持すること;
最近のテレビを見ていると、健康食品、サプリメント、健康増進器具、その他老人の健康維持、向上を謳ったコマーシャルが異常に多いことに気がつきます。コミュニケーションの手段がSNS中心となってしまった若者世代や、スマホを操り、ドラマはネットテレビに限るなどと嘯く先進的な!中年層が、ニュースを除くテレビ番組から離れてしまった事など、マスコミ業界の構造変化が、こうした老人向けTVコマーシャルの氾濫に繋がっているものと考えられます。ただ、薬や器具に頼るよりも、年齢に応じた運動を行うことの方が、楽しく、且つ健康的であることは医者に説教されるまでもなく、誰しもが納得できることではないでしょうか
年を取るにつれ、体力の衰え、運動神経の衰えに見合った軽度な運動に移行してゆくことは自然の摂理に適うことと思われます。軽度な運動の代表格は何と言っても「歩くこと」であることは誰しも依存の無い所だと思います。太古の昔から、歩けることは生きていることと同義語であったと思います。激しいスポーツが出来なくなっても、積極的に歩くことを心掛けることによって介護に頼らずに生きていく為の筋力が維持でき、少なくとも若者の負担にならない生活が可能になると考えても良さそうです

③ 精神的な健康を維持すること;
ここでは、統合失調症の様な精神病やアルツハイマー症に代表される認知症は、医学の発展に期待することとして除外して考えたいと思います。ただ、老人性のうつ病については、生き甲斐との関連が深い事から考察の対象したいと思います
精神的な健康をどう定義するかは中々難しい問題ですが、少なくとも「燃え尽き症候群に陥っている」、「何をやる気にもならない」、「死ぬことが不安で他の事が考えられない」、「政治、経済、その他、世の中で起こっている事に全く興味が湧かない」、、、などの精神状態にある時は精神的に健康であるとは言えないと思いますが、如何でしょうか?
こうした状況は、外界からの刺激を自らが遮断する結果となり、更に悪い精神状況に追い込まれるという負のスパイラルに迷い込んでいくことになりそうです。明治維新を担った志士は、関門海峡を我が物顔で行きかう外国船から強い刺激を受け、これを革命のエネルギーに変えていったと言われています。老人も外部の刺激に自分を晒すことによって生きるエネルギーを生み出すことが必要と思われますが如何でしょうか? 例えば、私など俗物は時折若者文化の坩堝となっている繁華街に出て行くことでエネルギーを貰っています。海外旅行の好きな方は、成熟した文明国を訪ねるよりも、発展途上国のエネルギーに触れることも一考に値すると思われます
私は繁華街以外に、時としてビジネスの中心街に出向くことがあります。高いハイヒールを履いて颯爽と歩く若いビジネス・ウーマンに追い越されそうになって、慌てて歩を早める自分に気が付きます! 普段老人とばかり歩いていると気が付かないポイントですね!

また、話すこと聞くこと読むことも精神的な健康を保つ上で極めて重要になります。会社勤め時代に比べると、会話をする機会が激減していることに気が付くはずです。夫婦や気の置けない友人との会話は、意識してでも増やすことが必要ではないでしょうか。あれ、これ、それ、、など代名詞が沢山混じる会話でも脳機能を活性化させることは勿論、老人性の嚥下障害(老人死亡率の高い肺炎の第一の原因です)を予防する効果も期待できます。話し相手が居ない時は、最近はやり?の「ひとりカラオケ」に興ずるのも効果があると聞いています
読むことは脳機能の内、主に前頭葉(ドーパミンの殆どがここに存在し、知的な活動を行うために最も重要な部分)を使うことになり、脳の老化を防ぐ為には最も大切な行動と言えます。毎朝新聞を読む、好きなジャンルの本を探して読む、大きな書店に行ってあれこれ立ち読みをする、書評を見てネット通販で取り寄せて読む、いずれも習慣化することで相当の効果が期待できると思います。ただ、年々老眼が進み長時間読み続けることは難しくなりますが、、、
私の友人には、緑内障や加齢黄斑変性症で視力が弱っている人もいます。彼らはパソコンを使って字を大きくして読んだり、読み上げソフトを使って聞き取ったりしています。知的な好奇心がハンディを乗り越えるということでしょうか。また、彼等はラジオの効用も語っています。朗読だけでなく、対談なども大変知的な好奇心を刺激するものがあり、塙保己一の例を引くまでもなく聞くことができれば読むことと同じ程度の前頭葉の刺激が得られることは確かです

老人が抱えるハンディキャップとその克服

上記「元気な老人になる為」の行動を実践する時、老人が抱えているハンディキャップを正確に認識し、自らその対策を講ずることを忘れれば、やはり社会の迷惑者になることは必定です

まず言えることは、走れない早く歩けない、というハンディキャップです。横断歩道の通行を始めとして、若い頃には間に合っていた距離が間に合わなくなることは往々にしてあります。対策は「急がば回れ」の諺を実践すればいいだけ、実に簡単なことです。時間はたっぷりある筈なのにこれを実践できない老人が相当数いることは間違いありません。 信号を渡り切れないことが分かっていても渡ろうとする老人がなんと多い事か、、、信号の間隔は青になってから歩き始めれば、よっぽどでない限り間に合うように時間設定されています

一次記憶保持能力(脳の中の「海馬」部分が担っています)が低下していることは誰しも認識していると思います。昔は10桁の電話番号は一度見ればダイヤルできたのに、今は一度6桁位をプッシュして、もう一度番号を確かめて残りをプッシュする人が多いのではないでしょうか。IDやパスワードについても同様ですね
また、反射神経の衰えも程度の差こそあれ、老人は避けて通れません。躓いても咄嗟に足が前へ出ないでコケそうになる、歩いていて人にぶつかりそうになるなど、日々痛感しているのではないでしょうか
自動車を運転する場合、この二つの能力低下は深刻な事態を招く可能性があります。例えば、交通量の多い道路を右折する場合、左側通行であることから多くの人は右を見てから左をみて安全を確認すると思います。右を見た時に走ってくる車の現在位置と速度を確認し、左を同じように確認した上で右折の行動に入ります。しかし、悲しいかな!最初に右を見た時の位置と速度の記憶が曖昧となっている為、結果として危険な右折を行ってしまうことがあります。広い道を走っている時に、右折を開始した後、迫って来る右の車に驚くもののブレーキが掛けられずそのまま右折を強行してしまう車は、殆どが老人の運転です。老人なんですから、時間はたっぷりあります!少し遠回りとなっても、左折を2回繰り返して信号のある交差点を右折するなど、ちょっと考えれば、老人の見っとも無い姿を見せないですむ知恵はいくらでもありそうです

バランス感覚の低下もバカになりません。スキーをやるとこのバランス感覚の低下は、即!転倒に繋がるので嫌でも思い知らされますが、この種のバランス感覚を要求されるスポーツをしていない人は、気付かないままに深刻な事態を招くことがあります。例えば、老人が自転車で交通量の多い車道を走る場合、交通ルールに従って当然左側を走るわけですが、多くの道は左側が傾斜しておりバランスを取るのが難しい状況になります。結果として蛇行しながらトロトロと走り、しかも後ろは見えていないので、追い越す車と接触するリスクが高まります。やはり、自転車が通行できる広い歩道か、自転車専用レーンのある道路以外、老人は自転車に乗らない方が賢明のようです

あれ、これ、それ、、の会話になる最大の原因は、名前を思い出せない(「度忘れ」と言い訳をする場合が多いですね!)事につきると思います。老人同士の会話であればお互い様なので、特に問題は発生しませんが、若者との会話においては決定的なコンプレックスの元になる可能性があります
しかしこの現象は、時間が経てば思い出せたり、ひょんなことから思い出すこと、などを勘案すると、脳細胞の何処かにはしっかりと記憶されていることは確か(細胞が壊れて記憶が喪失してしまう認知症とは決定的に違う点です!)であって、記憶を取り出す糸が一時的に切れているだけの現象だと思います。このハンディキャップを克服する為に私は以下の二つの方法を実践しています;① よく使うと考えられる名前は、人知れず!反復練習を行って確実に記憶の糸を繋げておく、② 思い出せなかった時点で、スマホの検索を駆使して名前を無理やり!あぶり出す。最近のグーグル検索の能力は絶大で、その名前に係る周辺情報を入力すれば、たちどころに答えが得られます(ただ、友人の名前を見つけ出す、などの私的なことはこの方法では無理のようです!)。 検索の為に周辺情報を考える過程で、前述の前頭葉が大活躍するので、ボケ防止にも大変有効なことは言うまでもありません

老人の車の運転について

表題に関し、現在世の中でコンセンサスを得つつある考え方は、「老人の運転は危険なので運転するな!」というものです。これに合わせて運転免許制度が変更され、70歳以上の人の運転免許更新に際し、運転能力の判定というハードルが設けられました。また、75歳以上からは認知機能検査が加わることになりました。更に、高齢者の運転免許証返納を大々的に奨励するようにもなってきました

私も昨年3月この更新試験を受けましたが、正直に言ってガッカリしました。ドライブ・シミュレータのテストがあると書いてあったので、自身の運転適性が図れるチャンスと期待していたのですが、このシミュレーターなるもの、道路を一直線に走る画面が出てきて不意に赤、黄、青の信号が現れ、これに対するブレーキ操作の反応だけを測定するものでした
法定速度を守っていれば、黄色に変わった時点でブレーキをかければ、異常に反応速度が遅い人でない限り、赤に変わる前に車を停止させることが出来る様に設定されているはずです。私自身の経験でも、よそ見運転で黄色信号を見逃していない限り、ブレーキ操作の反応速度が問題になることはあり得無い様に思います。それより重要なのことは、運転中に発生する色々な状況に対する「リスク予知能力」のはずです。停車中の車の陰に横断しようとする歩行者がいるかもしれない、前を走っているバイクは急に右折するかもしれない、交差している道で右折しようとしている車の運転手が見ている方向(自分の方を見ていなければ急に右折行動に出るかもしれない)、等々、長い運転経験の蓄積が安全運転の「肝」であって、反応速度が安全運転の主たる指標になることはあり得ないと思っています。反応速度の遅れは運転速度を落とすことによって十分補えるものと、私は50年以上の運転経験から断言することができます。

そもそも、老人が精神的な健康を保つためには、他人の介助を得ずに移動の自由(モビリティー/Mobilityを確保することが大変重要な事と私は思っています。自動車の発明が人類の歴史を変えたと言われる所以もそこにあります
また、長寿時代に生きる人間の生き方(「100年時代の人生戦略」を読んで)として、歳をとっても働き続けることが当たり前になっていく時代に、単に年齢のみの基準で自動車の運転の自由を奪っていく風潮は正しいのでしょうか?

凡そ50年ほど前、2週間ほど米国を旅する機会がありました。生意気にも大学一年の頃から自動車の運転をしていたことがあり、米国滞在中はレンタカーを借りて移動していました。この時受けたカルチャー・ショックは今でも鮮明に覚えています。それは、① クラクションの音を殆ど聞かなかったこと(当時の日本では、都心はクラクションの音に満ち溢れていました)、② 道幅は広い(メインの道路は大体3車線以上)のですが、皆きちんとレーンを守って走行していること(空いているレーンがあってもレーン変更はほとんどしない)、③ 少なくともレンタカーは全てパワーステアリング、パワーブレーキを装備したオートマティック車であったこと、④  道路標識が極めて分かり易かった事
数日間運転するうちにその理由が分かりました。老人が運転することを前提に、車の装備、交通ルール、他が整えられていたのです。米国は広大であり、車以外の移動手段は、繁華街を除けば考えられないこと、子供は若いうちに独立し、歳をとっても自立して生きていくほか道はないこと、などがその背景にあると思います

考えてみれば、高齢化社会が急速に進展していく日本で、高齢者から車という移動手段を奪ってしまえばどういうことになるか、自宅周辺であてどなく散歩をする老人の群れ、ベンチに座って遠くを見つめている沢山の老人、ちょっと見たくない光景が想像されます。因みに、私の住んでいる郊外では、近くの商店街はシャッター通りになり、買い物は車が必要になる大型スーパーに行かなければなりません。大都市に人口が集中してしまった日本では、日本全国概ねこうした状況(米国と同じ)になっているのではないでしょうか?

老人から車を奪わないために

老人が、肉体の衰えというハンディがあっても安全に運転できる仕組みを考えてみました;

技術の進歩を積極的に取り入れる;
最近の新聞に大きく取り扱われていることでご存知の方が多いと思いますが、現在、自動車産業全体にパラダイムシフト(Paradigm Shift/劇的な構造変化)が起こりつつあります。それを促しているのは、環境問題に起因するEV(Electric Vehicle/電動自動車)の急速な普及と、自動運転車の実用化が目前に迫ってきたことです
この内、老人の自動車運転と密接にかかわるものは、自動運転車の登場です。自動運転車は以下のレベルに合わせて開発が進められています(以下は2017年1月現在の「官民ITS構想ロードマップ」で示されている定義に従っています);

レベル1:加速・操舵・制動のいずれかの操作をシステムが行う状態
レベル2:加速・操舵・制動のうち複数の操作を一度にシステムが行う状態
レベル3:加速・操舵・制動は全てシステムが行いシステムが要請したときのみドライバーが対応する状態
レベル4:加速・制動・操舵を全てシステムが行い、ドライバーが全く関与しない状態

現在、中級車種以上の新車についてはレベル1に相当する自動ブレーキなどが装備されているのが普通になってきており、高級車についてはレベル2が装備されている場合もあります。昨年、電気自動車で有名な米国のテスラ社製の車が死亡事故を起こして話題になりましたが、この自動車にはレベル3の運転システムが装備されており、事故前にシステムがドライバーに運転を替わる様に指示していたにも関わらず自動運転させたために事故が起こったと言われています

高齢者の事故で何かと話題になることの多い、アクセルとブレーキの踏み違いによる事故は、レベル1が装備されている車であれば起こりえない事故だと考えられます。また、高齢者による高速道路逆行などは、カーナビによる運転を行えば起こり得ないことと考えられます(自動運転を行うために、カーナビの地図情報の精度向上が世界的に進められています)。ただカーナビのセットを音声で行うことが出来る様な配慮は必要かと思われます(すでにレクサスなどはこの装備がセールスポイントの一つになっています)。勿論、交通量の多い道路を右折する様な危険な行為は現在のカーナビでも避けてくれるはずです。レベル4が実現すれば、運転中の急死による事故も防げるはずです

法規制を高齢者の運転を前提としたものに改める;
私が運転免許を取る直前まで、普通免許で大型バイクまで運転ができました。また、普通免許を取得するには操作の習得が難しいクラッチが悩みの種(特に坂道発進)でしたが、オートマチック車限定免許という逃げ道がありました。当時はオートマチック車は希少でしたが、現在は逆にマニュアル車は特注でもしない限り買うことすらできない状況になっています
つまり、運転免許制度そのものが時代に合わせて変わってきているのです。であれば、高齢者が運転することを前提として、以下の様な規制の改正を行うことは可能ではないでしょうか;
① 自動運転車を前提として、以下の様な限定免許を創設する
* 咄嗟のブレーキ操作に問題のある人(高齢者に限らず、追突事故を起こした人も含む):自動運転レベル1の自動ブレーキ装備車限定の免許とする
* 居眠り運転の事故歴のあるひと:レベル3以上の自動運転車限定

Follow_Up:2019年5月17日、自動運転に関する法改正が成立しました。詳しくは(「レベル3、4」想定の改正法成立_高速道自動運転来年実現へ前進・過疎地の移動手段補う)をご覧ください

Follow_Up:2019年6月18日、政府・高齢事故防止策として自動ブレーキ車限定免許を検討へ

Follow_Up:2020年12月16日、免許返納せずサポカー限定に AI教官が高齢者を指導

以上

初夏から夏へ!

タマネギ・ジャガイモの収穫

前回報告から大分時間が経ちましたが、5月下旬にタマネギを収穫、6月中旬にはジャガイモを収穫いたしました。今のところ9月一杯までは在庫が確保できそうです;

5月24日収穫・タマネギ2種
5月24日収穫・タマネギ2種

上の写真の左側はサラダなど生食用のタマネギで、昨年秋の天候不順でも生き残った僅かな苗から育てたものです。右側は、やむなく購入した苗で育てたタマネギです。一番右にある小さなタマネギは、わざと密植して小さなタマネギとして収穫したものです。シチューや煮物など、丸ごと料理に使うのに便利です

6月17日の収穫
6月17日の収穫

上の写真の左側が「男爵」、右側が「北あかり」です。食べたことが無かった「イモ餅」を北海道出身のワイフに作ってもらいました;

いも餅_7月13日
いも餅_7月13日

物凄く美味しい!訳ではありませんが、私の少年時代の「すいとん」よりはかなりいける味でした。食が贅沢になった昨今、昔を思い出す為にも時々昼食として食べるのもいいかな、と思いました

夏野菜代表のトマト、ナス、キュウリについて

今年は以下の様な実験的な試みを行いました;
① 真夏になると、水分の蒸発が盛んになり、朝晩2回の水やりでは水が不足する(特に根が張る深い所)ことが多くなるため、これに対する対策を工夫してみました(下記参照)。尚、プロの農家の方は、根元に藁を布いて乾燥を防いでおります。しかし、東京のホームセンターでは藁が非常に高い事(米作りの機械化が進み、コメの収穫機/コンバインで籾と藁に分離した後、藁は細かく裁断されて田圃に戻される為、米作りの副産物としての藁が残らない為と推定しています)、土を再生する時に藁の処理が面倒くさい!ので、最近は止めています
② 3月に育てた苗を一度に栽培すると、収穫できる時期が短くなることと、収穫最盛期には採れすぎて、夫婦二人では食べきれなくなります。そこで、種から育てている強みを生かして、栽培を三期(3月、5月、7月の種蒔き)に分けて細く長く収穫し続ける工夫をしてみました

①について;
底を切り落とし、周囲に小さな穴を開けたペットボトルをコンテナに埋め込むことにより、潅水の時、底の方まで水を充分に行き渡らせる工夫;

ペットボトル給水機のテスト
ペットボトル給水器のテスト
トマト・ナスのコンテナにセット
トマト・ナスのコンテナにセット
新兵器の効果_キュウリ_7月29日
新兵器!の効果_キュウリ_7月29日(最高気温35度)

右が給水機がセットしていないコンテナ、左にはペットボトル給水器がセットしてあります。猛暑の日の夕方に撮っていますが、多少効果があったかな?という程度でしょうか!

② 3月に種蒔きをした第一世代の苗は、保温をして育てる必要がありますが、第二世代、第三世代の苗は、勿論保温の必要は無く、発芽から育苗まで屋外で育てられますが、代わりに若芽が虫害にあわないようにすることと、乾燥から守ることに注意する必要があります。その目的で、以下の様な工夫をしてみました;

盛夏における育苗
盛夏における育苗

種を蒔いた後「発芽 ⇒ 苗」まで不織布で覆うのですが、その際写真右の小道具を使います。右の黒いものはホームセンターで売っている「マルチを地面に固定する為のプラスティック製のキーパー」、左は「割箸にペットボトルの蓋を接着剤で張り付けたもの」です。いずれも不織布を留めるために何度でも使用可能な便利な道具です
現在までのトマト、ナス、キュウリの生育記録は以下の通りです;

トマト_第1~3世代
トマト_第1~3世代(8月10日)
ナス_第1~3世代
ナス_第1~3世代(8月10日)
キュウリ_第2~3世代
キュウリ_第2~3世代(8月10日)

トマトについては、第一世代は8月初めに収穫終了していますが、第二世代が収穫時期に至ってないので現在(8月12日時点)トマトの収穫ができないでいます(ちょっと失敗!)。ナスについては第一世代の収量が落ちてきていますが、まだ毎日2~3個収穫できています。第二世代の収穫が始まったら、丈を半分程度まで切り詰め、追肥をした上で秋ナスに備えます(昨年は剪定が遅すぎたせいか失敗!)。キュウリについては、第一世代は既に第二世代に世代交代を完了しています。順調に毎日2~3本の収穫を続けています

ハーブ類の栽培状況

我が家では、最近ハーブの消費が増えています。特にイタリアン料理には欠かせないバジルは、真冬以外はフレッシュな葉が沢山採れるように大型のコンテナを使用して栽培しています;

バジル・ローズマリー
バジル・ローズマリー

上の写真のバジルは沢山の実をつけています。若い実は勿論食用で使えますが、成熟した実は食べられません。代わりにその辺に落ちて土があれば!芽を出します。真ん中の写真は近くのネギのコンテナに落ちた実から芽が出たものです。これを別のコンテナに移植すれば、秋頃には立派なバジルの苗になります
右端はローズマリーです。百円で八百屋で買ったものを挿し木で育て、屋上のコンテナで栽培していたのですが、成長が著しく供給過多(邪魔者!)となってしまったので、2年前に玄関わきに地植えをしました。紫色の小さな花を咲かせ、一年中収穫可能なのでローズマリーはこの栽培法が適切かなと思っています
その他のハーブについては、現在以下の写真の通りで、必要な都度少量収穫しています;

ハーブ各種_7月29日
ハーブ各種_7月29日

上記は言ってみれば外国産のハーブ類ですが、日本伝統の代表的ハーブと言えばシソがあります。シソの葉だけであれば小さなコンテナ1ヶで十分なのですが、今年は沢山栽培してシソの実を大量収穫し、塩ずけにしてみようかと思っています;

青じそ_7月29日
青じそ_7月29日

その他の野菜の栽培状況

トウガラシは我が家の必需食品です。昨年は、「鷹の爪」の他に激辛の「ハバネロ」を栽培しましたが、辛すぎて未だに酢漬けにしたものが残っています。そこで昨年早々と在庫切れを起こした「鷹の爪」を大量栽培することにしました。大小のコンテナ3ヶで育てていますが、今の栽培、収穫状況は以下の通りです;

トウガラシ_7月29日
トウガラシ_7月29日

数年来続けている「ウリ」の栽培は、今年は採れすぎない様に1株だけ育てています。時々漬け物にして食べるにはこれで十分です;

ウリ_8月13日
ウリ_8月13日

数年前にエストニアから入手した種を使って1株だけ栽培した「ミニ・キュウリ(正式な名称はエストニア語のみなので分からず!)は既に全て収穫済みで、ピクルスにして保存しています;

ピクルス用ミニ・キュウリ_7月9日
ピクルス用ミニ・キュウリ_7月9日

毎年栽培を続けているゴーヤは、生産調整?で今年は1株のみの栽培にとどめましたが、夫婦二人には丁度良い量が確保できています。料理がゴーヤチャンプルーおひたしなどいつも決まっていたので、ワイフに別の料理をと注文したところ、「ゴーヤとエビの辛子マヨネーズ和え」を作ってくれました。甚だ美味しかったです!;

ゴーヤ_7月9日
ゴーヤ_7月9日

ニラも我が家の大量消費野菜ですが、例年大きめのコンテナに密植していた為、量は確保できるのですが葉が細くなってしまいました。そこで今年は、小さなコンテナに分けて株間を広げてゆったりと植えてみました;

ニラ_8月10日
ニラ_8月10日

一応思惑通り幅広の葉の立派なニラができました!

以上

覇権国家、軍国主義、愛国心とは一体何でしょうか

-はじめに-

最近の国際情勢を概観すると、アジア太平洋地域では、経済力と軍事力を強化した中国の南シナ海の島々の軍事基地化、一帯一路政策の推進など、太平洋戦争終結後、西太平洋地域の秩序を主導してきた米国との間で緊張感が高まってきています

また、ヨーロッパ地域でも、ソ連邦崩壊後、東欧諸国が雪崩を打ってEUに加盟した結果、NATOに対峙していたワルシャワ条約機構が崩壊しヨーロッパ大陸における戦争の危機は無くなったかに見えましたが、経済力、軍事力を高めたロシアが、ウクライナへの軍事介入クリミヤ半島の強引なロシアへの編入によって、再びロシアとNATO諸国の間の緊張感が高まっています

クリミヤ半島占領
クリミヤ半島占領

一方、中東地域においても、イラク戦争終結後、政治的な秩序を回復することに失敗した米国は、オバマ政権以降、中東への積極的関与を弱めてきました。これが、ISの台頭シリア内戦を招き、これに千年以上に亘る長い歴史のあるスンニ派とシーア派の対立、3千万人以上の人口を有しながら国家の無いクルド人の国家樹立の野心、黒海艦隊を有するロシアの地中海への出口の確保、などの諸要因が複雑に絡み、多くの無辜の市民を巻き込む悲惨な戦争状態が続いています

これらは、現象から見れば、悪であるはずの少数の覇権国家による世界秩序が崩れた結果であると見ることもできます。しかし第二次世界大戦後、朝鮮戦争、ベトナム戦争、カンボジア、ラオスにおける戦争、中南米各国における戦争など、覇権国家である米ソによる代理戦争が起こり、我々の世代は覇権国家の存在そのものが、これらの戦争の原因であると教育され、そう信じて青春時代を過ごしてきました。

この矛盾をどう理解すればいいのでしょうか、米国、中国、ロシアという覇権国家のはざまで、東シナ海・南シナ海、北朝鮮の核・ミサイル開発、北方領土問題への対応を迫られている日本は、「覇権国家」に対してどう対応すべきかを考えるにあたって「覇権国家」に対する正しい理解が欠かせないと思われます

日中戦争、太平洋戦争と続く15年戦争で、310万人の日本人が亡くなりました。また、中国をはじめとするアジアの国々を侵略した結果、これ以上の尊い人命を奪ってしまいました。これらの過ちは、全て「軍国主義」によるものだと、我々は教育を受けてきました。戦後、憲法9条に代表される平和主義の下、経済を優先し軍事力を抑制してきたはずが、平成30年度の防衛費概算要求は6兆円を超える額となっており、年々増加の一途をたどっております。勿論、これは日本の防衛の為に必要であるということになってはいますが、軍事費の絶対値でいえば、極めて強力な軍事力を保持するようになったと言わねばなりません。今後、東シナ海・南シナ海、北朝鮮の核・ミサイル開発など、国際的な緊張が続く中で、軍事費は更に増大することが予想されます。世界的にみても強力な軍事力を持つに至った日本が、過去の軍国主義国家になる心配はないのか、あるいは「軍国主義」と軍事力との関係はどうなのか、軍国主義とは一体何なのか(何でもかんでも軍国主義のせいにしていないか)、などについて詳しく調べていく必要があると考えます

戦前、戦中において、幼い頃から徹底して「愛国心」を叩き込まれ、結果として多くの人々が戦争に駆り出されていったという歴史的事実があります。これらに対する反省から、戦後、教育の現場では愛国心に関わる教育が一切排除されてきました。しかし、国を愛する気持ちが悪であるはずがありません。少なくとも外交の分野で外国とわたりあう人々、防衛の最前線で軍事的な緊張のある中で仕事をしている人々のバックボーンには「愛国心」が無ければならないことは自明のことです。また、昨今の国会議員の二重国籍問題も、国籍と一体となっている「愛国心」が無ければ政治の舵取りは任せられないということから来ているものと思われます。「愛国心」とは一体何か、「愛国心」と国歌との関係、国際的な緊張が高まる中で、議論を深めていく必要があると考えます。

覇権国家

1.覇権国家とは

覇権国家とは、国際関係において覇権を目指している国家」ということになります

「覇権」を表す英語は”Hegemony”、この語源を英語版Wikipedia で調べてみると;「Hegemony is the political, economic, or military predominance or control of one state over others. In ancient Greece, hegemony denoted the politico–military dominance of a city-state over other city-states. The dominant state is known as the hegemon.」とあり、要約すれば、ギリシャ時代「ある都市国家が、他の都市国家に対して、政治的、経済的、軍事的に支配している場合、この都市国家のことを「覇権国家」(Hegemon)と呼ぶ」ということになります

一方、これに対応する「覇権」という日本語は、中国の儒家の政治思想である「覇道」から来ていると思われます。これを世界大百科事典で調べてみると;

春秋戦国時代の覇者の行った統治方式で,斉の桓公,晋の文公は覇道の代表的な実行者とされる。覇道を王道と対比させて明確に説いたのは孟子で,〈力を以て仁を仮(か)る者は覇,徳を以て仁を行う者は王〉という。仁政を装って権力政治を行うのが覇者である。ところが漢代になると,〈王を図りて成らざるも,その弊は以て覇たるべし〉といい,王道と覇道を等質とし,上下の段階の違いにすぎないと考えるようになる

両者を比較してみると、文明発祥の地として共通するギリシャと中国で殆ど同じ言葉があることに驚きますが、統治される庶民から見れば、平和をもたらしてくれる権力は有り難いという一面と、経済的に搾取され、政治的・軍事的に抑圧されるという、有り難くない面があることも見て取れます

巨大な版図を有し、数百年に亘って多くの民族を統治したローマ帝国は、パックス・ロマーナPax Romana)と言われる「ローマの平和」をもたらしましたが、統治の後半には各地で反乱が起こり、軍事力で抑え込もうとしてもうまくいかず、結局瓦解してゆきました。ペルシャ帝国、イスラム帝国、モンゴル帝国、オスマントルコ帝国、大英帝国、いずれも同じ運命を辿っています。

満州事変から始まった、日本の「大東亜共栄圏」構想も、理念としては同じようなものと考えられます。第二次大戦後の米国とソ連も、上記定義に基づけば「覇権国家」であることは紛れもない事実であると思われます

2.帝国主義とは

前節で述べたように、紀元前からの長い歴史の中で、数多くの覇権国家としての「xx帝国」が生まれ、消えて行きましたが、ここで言う「帝国主義」の帝国は、覇権国家と言い換えることはできません(勿論、覇権国家の一つの形態とは言えるかもしれません)

帝国主義」という言葉は、1917年、に発刊されたレーニンの「帝国主義論」に由来しています。極く簡単に要約すれば、「産業革命以降、発展した資本主義が、最終的な段階で『帝国主義』に移行し、その矛盾が極大化した後に、必然的に共産主義に移行する」ということです
もう少し具体的に言えば;「①生産と資本の集積が市場の独占を生みだす ⇒ ②銀行資本と産業資本の融合により金融資本が巨大化し、一国の政治と経済を支配するようになる ⇒ ③商品の輸出にかわって資本輸出が重要になる ⇒ ④世界を分割する資本家の国際的独占体が形成される ⇒ ⑤資本主義列強による地球の領土的分割が完了する:これが資本主義の最高段階でこれを帝国主義と呼ぶ」ということになります

3.二大覇権国家の対峙(冷戦)

日露戦争(1904年~1905年)、第一次世界大戦(1914年~1919年)によって疲弊したロシア帝国は、1917年の2月革命、1918年の10月革命で終焉を迎え、初めての社会主義(共産主義の第一段階)国であるソビエト政府(ロシア社会主義連邦ソビエト共和国)が生まれました。周辺の列強(日本、米国、英国、フランス、イタリア、など)からの軍事的干渉(シベリア出兵)を受けたものの、これを打ち破り確固たる社会主義国家としての地位を確立しました(1922年以降ソビエト社会主義共和国連邦/以降『ソ連』と呼びます)

計画経済で力を蓄えてきたソ連は、第二次世界大戦(1939年~1945年)当初ポーランド分割でナチスドイツと組みましたが、1941年ドイツの奇襲攻撃から熾烈な攻防(対独戦のみのソ連軍の死者は1100万人以上と言われています)が行われ、最終的に勝利した結果、ソ連は占領した国々の体制を社会主義化し、巨大な社会主義国のブロックを形成し、自由主義(下記)諸国と対峙することとなりました。ソ連は、第二次大戦を通じて築き上げた強大な軍事力と、社会主義(共産主義)という政治・経済のシステムを通じて他国を支配している実態は、まさに立派な!「覇権国家」になったと言えると思います

一方、米国はその強大な軍事力と経済力で、第一次世界大戦、第二次世界大戦を勝ち抜き、資本主義の欠点を修正しつつ国民の自由な政治、生産活動を保証する自由主義の旗手として社会主義国のブロックに対峙する存在となりました。強大な軍事力と併せ、巨大な経済力によって他国を実質的に影響下に置き、時として「民主化の名の基に他国の政治に干渉を行う状況は、「覇権国家」以外の何ものでもないと思います

この二大ブロックの対立は第二次大戦が終結すると直ぐに顕在化(1946年3月、チャーチルによる「鉄のカーテン」演説で有名になった)し、その後半世紀に亘る「冷戦」が続くことになりました。この二大覇権国家同士の直接の対決キューバ危機(1962年10月)のみにとどまり、独立運動や民主化運動にこの二大覇権国家が直接、間接に関与して世界各国で戦争が続いたことから「冷戦」とネイミングされたものと思われます

4.ソ連の崩壊と米国一強の時代

米ソの軍拡競争の結果、ソ連の経済が破綻するなかで、1991年ソ連が崩壊し巨大な社会主義国のブロックは、ロシア連邦とその他の国々に分解しました。経済力の無くなった国は軍事力のみで他の国をコントロールすることもできず、ロシア連邦は覇権国家としての地位を失い、社会主義のブロックを構成していた幾つかの国々はEUの経済ブロックに組み込まれ、NATOに加盟するなど、政治、経済、軍事全てにおいて自由主義ブロックの優位性が明らかとなると共に、米国が名実共に唯一の超大国となり、単独覇権の時代が本格的に始まりました

5.中国、ロシア連邦の覇権国家への変容

世界唯一の覇権国家であった米国は、2001年9月11日の世界貿易センタービル攻撃(約3000人が死亡)を受けて始めたアフガニスタン侵攻(2001年~2014年)、第二次イラク戦争(2003年3月~)によってイスラム過激派との泥沼の戦争を続け、政治的、軍事的な威信を失うと共に、2008年9月に始まったリーマン・ショックにより経済的に大きな痛手を受けることになりました。

一方、1966年から11年間に亘って続いた「文化大革命」によって、政治的、経済的に大きな傷を受けた中国は、その後、鄧小平指導の下に改革開放政策を始め、経済的な発展を開始しました。1986年には自由主義経済の象徴であるGATT(General Agreement on Tariffs and Trade/関税と貿易に関する一般協定)加盟を申請しましたが、なかなか加盟を認められませんでした。申請から15年後、GATTの後継組織であるWTO(World Trade Organization/世界貿易機関)加盟を実現しました。その後、リーマン・ショックも無事乗り切り、好調な輸出を背景に経済の急速な発展を実現しました。更に、経済発展に合わせて、軍事力の強化に邁進すると共に、輸出で得られた潤沢な外貨をアジア、アフリカへの投資、援助に振り向けることによって、国際政治においても大きな発言力を持つに至りました。中国主導で2013年に設立された「アジア開発投資銀行」はその象徴でもあります。今や、南シナ海の軍事基地化一帯一路政策の推進、など「覇権国家としての野心をあからさまにしています

1991年のソ連崩壊後、ソ連型計画経済から自由市場経済への移行は困難を極めましたが、もともと広い国土に分布する豊富な石油、天然ガス、石炭、貴金属、といった天然資源に恵まれていること、及び世界有数の穀物生産・輸出国であることから、徐々に経済発展を開始し、2000年以降は世界的な石油価格の高騰により、相応の経済規模を達成するようになりました。もともとソ連崩壊後も強大な軍事力と近代的な軍事技術開発能力を継承していたロシアは、ウクライナのNATO加入問題を契機に再び覇権国家」の道を歩み始めました

6.覇権国家の鼎立と日本

日本は、三つの覇権国家と過去から現在まで地政学的に大きな影響を与え合って来ました。この関係を無視して、「平和国家に徹する」、「スイスのように政治的な中立を目指す」などというのどかな考え方は、以下の考察を行ってみれば、許されるはずもないことは理解して頂けるのではないでしょうか;

ロシアとは、日露戦争の結果、日本は南樺太、千島列島などロシア領土の一部の割譲南満州鉄道の権益を奪取しました。また日本は、ロシア革命後に米英などと協調してシベリア出兵を行っています。1939年にはソ満国境のノモンハンで、双方共に2万人以上の死者を出す大規模な軍事衝突が起こっています。また、第二次世界大戦の終戦直前にソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄して参戦し、終戦直前の日本に甚大な人的被害を与えると共に、南千島を占領し、未だにこれを継続しています。このように、ロシアと日本の間には、力によって問題を解決してきた100年以上の長い歴史があります

現在、ロシアの太平洋艦隊第11航空群にとって、日本海や宗谷海峡、南千島は戦略的に極めて重要な意味を持っています。対立してきた歴史からくる両国民の微妙な国民感情や日米安保条約で保証されている米国の利害を勘案すると、北方領土問題の解決は容易ではありません

中国とは、1894年の日清戦争以降、中国に対し欧米列強と正に帝国主義的な侵略を続けていましたが、1931年の満州事変以降の15年間の日中戦争では、日本は中国国民に癒すことの出来ない大きな爪痕をのこしました。中国の大都市を訪ねてみれば分かることですが、日本兵の残虐な行為(相当誇張されていることは事実ですが)を大々的に展示する博物館が必ずあり、そこで授業の一環で見学している小中学生の一団に出会うことができます。戦後70年以上を経ても両国間の負の歴史はそう簡単に消し去ることはできません

また、中国側から太平洋を見れば分かるように、覇権国家を目指す中国の太平洋への出口を塞ぐように、九州から薩南諸島、沖縄諸島が台湾まで連なっており、尖閣列島問題や、東シナ海大陸棚天然ガス開発の問題の解決は容易ではありません

米国とは、「太平の眠りを醒ます蒸気船(黒船)、、、」が、日本の開国、明治維新の直接的な契機となったことから、必ずしも悪くはなかったのですが、日露戦争、第一次世界大戦を経て、身の丈以上に軍事強国となった日本は、それに見合った経済力、政治力を得るべくアジアでの覇権国家を目指した結果、太平洋の覇権国家となっていた米国と衝突し、第二次世界大戦で完膚なきまでに粉砕されてしまいました。惨めな敗戦からの独立、領土の返還、飛躍的な経済発展は、戦後の米国との緊密な政治、経済関係、とりわけ日米安保条約なくしてあり得ないことは自明のことです。

7.米中戦争の可能性

2016年の7月、国連海洋法条約に基づくオランダ・ハーグの仲裁裁判所は、「南シナ海での中国の海洋進出に国際法上の根拠がない」と認定しました。しかし、中国はこの判決を無視して人工島造成など実効支配を日に日に強めています

南シナ海岩礁の要塞化_2年前
南シナ海岩礁の要塞化_2年前

これに対し、南シナ海の自由航行を確保すべく、米軍は「航行の自由作戦」を実施し、米中の軍事力が極めて近距離で接触する状況が日常的に生じています。今のところ双方は節度をもって対応し、本格的な対決には至っていませんが。中国の南シナ海の島々の軍事基地化がさらに進展し、緊張が高まれば、近い将来この地域で偶発的な戦闘が起こる可能性を否定できません

2016年11月に発刊された「米中もし戦わば — 戦争の地政学(著者:ピーター・ナバロ/トランプ政権・首席補佐官)」によれば、既成の大国(⇒ペロポネソス戦争におけるスパルタ⇔現在の米国)と台頭する新興国(⇒同戦争におけるギリシャ⇔現在の中国)が戦争に至る確率は70%以上(世界史をひも解くと、覇権国家が対峙した15例のうち11例で実際の戦争が起こっていることが根拠)と言っています。また、全ての大国は「覇権」を求めるとも言っており、その根拠は、取り締まる者のいない世界では、できる限り強大な国になりたいという強い動機が存在するからだと言っています。

因みに、国際情勢を鑑みれば、第二次大戦後、国際紛争を平和的に解決する仕組みとして設置された国連の安全保障理事会は、常任理事国の拒否権行使によって、世界で起こる殆どの紛争に対して、警察機能を発揮できていません。だからといって、この本は米中戦争が不可避だと言っている訳ではなく、こうした中国の脅威を直視し、米国が政治、経済、軍事の面で採るべき選択肢を具体的に提案しているだけです

8.日本の進むべき道筋(私見

核大国であるロシア、中国と緊張が高まった時、米国の核の傘は、大きな抑止力(日本国民にとっての『安心』)を提供していることは疑う余地がありません。

しかし、1971年のニクソン・ショック(日本の頭越しに突如米中国交回復を行った)を思い出していただければ分かる通り、日米関係が如何に良好であっても、米国の利害の為には、日本が「蚊帳の外」になってしまう覚悟は常に持っていなければなりません。また、軍事的にも米国が起こした戦争の『巻き添えになるリスクも常に存在します

こうした環境下で、日本が被害者とならないためには、以下の対応が必要であると私は思います;

 政治、経済面では、ロシア、中国との交流を深め、緊張関係が発生すれば、ロシア、中国の国民にとっても、政治的、経済的につらい結果をもたらす様な状況を作り出すこと。

 軍事的には、ロシア、中国の攻撃能力と日本の防御能力とのバランスに関して、常に比較優位を保つこと。つまり、相手の国土に直接脅威を与えるような強力な攻撃力を持たない代わりに、相手の攻撃を無力化させることによって、相手の攻撃意欲を挫くことが必要になります。具体的には以下の通りです;

敵からの核ミサイル攻撃に対して迎撃ミサイルによる撃墜の能力を飛躍的に高めること。因みに、現在イージス艦の迎撃ミサイル(SM-3)で打ち損じたミサイルはパトリオットミサイル(PAC-3)で撃墜する体制になっていますが、これを3重にすることによって防御能力は飛躍的に向上します。

仮にそれぞれのミサイルの撃墜確率が90%であると仮定すれば、3重のミサイル防衛網を破って着弾する確率は;

10% x 10% x 10% ⇒ 0.1 x 0.1 x 0.1 = 0.001 ⇒ 着弾確率は 0.1%

つまり千発に1発しか着弾しないことになります。これに、ターゲットとなり得る大都市において地下街、地下鉄を利用した待避壕(核シェルターにもなる)と退避訓練を行うことにより、民間人の人的被害を極小化することが必要になります

周囲を海に囲まれ、多くの島嶼をかかえる日本は、これ等の領土を侵略から守るために日本の広い領海の制海権、制空権を確保する必要があります。この為には、索敵能力の向上(高性能レーダー、偵察衛星、偵察機、偵察ヘリ、潜水艦)と、耐空、対艦ミサイルの能力向上遠隔の領土に侵入した敵に対する打撃能力の向上(陸上兵力の急速展開に必要な装備の保有)、サイバー攻撃に対する防御能力の向上、などを着実に実施する必要があります

これらの防御能力は、技術力、工業力の水準に直接依存しまが、幸いなことに日本は技術力、工業力については他国に引けを取ることはないと思われます

軍国主義

1.軍国主義とは

辞書には色々な定義が書かれていますが、要約すると以下の様に定義することができると思われます;
① 戦争を外交の主たる手段と考え,外交問題を解決する手段として軍事力を最優先すること
② 戦争は避けられものではなく、戦争の遂行は国民全てにとって神聖な使命である
③ 戦争遂行のために、国民全員に対し、自己犠牲国家に対する忠誠を美徳とし,勇気冒険をたたえ,体力の鍛錬を推奨する
④ 上記の結果、常に軍人が最高の社会的地位を占め,教育,文化,イデオロギー,風俗習慣などが軍事優先となり、国家全体が「兵営」の様な観を呈する

確かに、戦前、戦中の日本や、ドイツは、正に上記定義の様な軍国主義国家であったことは紛れもない事実であると思われます
しかし、ドイツや日本の様な「軍国主義国家」と戦争をすることになった、連合国側ではどうだったでしょうか? 上記①~④について検証してみると;
① 外交問題で解決できなかったために、最後の手段として戦争が選択された
② (避けられなかった)戦争の遂行は、国民全てにとっての使命であった(宗教的理由で徴兵を忌避することを許すかどうかの問題はある)
③ 全く同じ様なことが行われていたと思われます
④ 戦争を勝ち抜くために軍事優先の国内体制を整えたものの、軍人が最高の社会的地位を占めることは無かった

つまり、軍国主義かそうでないかを決めるポイントは、「軍事が政治(特に外交)や経済のかじ取りをしたか、しないか」ということになるのではないでしょうか

2.日本の軍国主義

言うまでもない事ですが、日本の軍国主義に関わる象徴的な出来事として、515事件(1932年5月15日)と226事件(1936年2月26日)があります。前者では、軍人によって政府の要人や経済人が暗殺されました。また後者の事件では、大隊規模の軍隊によって政府の要人の暗殺に加え、警察の制圧マスコミ(朝日新聞)の制圧が行われました。いずれも事件が終結した後、首謀者は断罪されましたが、軍隊という強大な実力組織が、政治による統制がきかなくなり、軍組織内の規律が失われると、国全体が制御不能になることを予見させる出来事でした。

これらの事件に先立つ1921年、「バーデンバーデンの密約」という重要な出来事があります。1921年という年は、ヨーロッパを主戦場として戦われた第一次世界大戦(1914年~1919年)が終った直後の時期に当たり、悲惨な戦争の傷跡を随所に見ることができました。また明治以降、常に日本の最大の脅威であり続けたロシアが1917年の革命を経て、ソ連という新しい社会主義国に生まれ変わろうとしていた時期にもあたっていました。

丁度この時期に駐在武官としてヨーロッパにいた3人の優秀な中堅将校(永田鉄山少佐、小畑敏四郎少佐、岡村寧次少佐;3人共陸士16期生で日露戦争の従軍経験がない最初の世代)が、ミュンヘン西南のボーデン湖の近くにあるバーデンバーデンという温泉郷に集まり、①長州派閥を打破して軍人事の刷新を行う、②国家総動員体制を確立する、という誓いを立てました

これらの3人の将校は、優秀であるのみならず人望もあったこともあり、多くの少壮将校がこれに続いて、政治革新運動に関与していく流れが出来て行きました。また、1929年の世界恐慌以降、大不況に見舞われた日本の政治は混乱を極めていました。これらが、最終的に515事件、226事件、柳条湖事件→満州事変、満州国建国、盧溝橋事件→日華事変、と続く軍人による政治主導が終戦まで継続することになりました

この間、気骨のある政治家であった斉藤隆夫(1870年~1949年)が、226事件直後の粛軍演説(1936年5月)、や日華事変の泥沼化が明らかとなった時期の反軍演説(1940年1月)などで正論を述べていました(言論統制の厳しい当時にあっても、実に勇気ある発言をしているので、お時間のある時にご一読をお薦めします)が、軍人による政治主導の流れを変えることはできませんでした、一方、政治に対するチェック機能を果たすべきマスコミは、軍人による独断専行をむしろ称賛し、国民を戦争に向かって煽る記事を流し続けました。また、知性を代表する小説家達もこの流れに公然と逆らう人は残念ながら殆ど歴史には残りませんでした

ペンは剣よりも強し(イギリスの政治家・小説家ブルワー・リットンの戯曲『リシュリュー』にある「The pen is mightier than the sword.」の訳)とは言いますが、この時代の新聞記者たちは、特高の恐怖の前で、保身を優先せざるを得なかったということでしょうか。それとも本心から書かれた記事が正しいと思っていたのでしょうか。

ただ、膨大な犠牲を強いられた日露戦争のさ中に、戦場に赴いた弟の生還を願って書かれた与謝野晶子の反戦の歌「君死にたまふことなかれ」(1904年雑誌『明星』に掲載されました)があった事は忘れてはならないと思います(⇔明治、大正の戦争と、昭和の戦争の違い)

こうして日本の軍国主義の流れをつぶさに眺めてみると、明治維新及びその後の日本が、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦の戦勝を通じて急速に軍事大国に成長していったこと。明治維新以降の難しい時代に政治と軍を指導統制していた経験豊かな薩長の軍閥が、純粋培養で育てられ成績優秀ではあるものの、戦争の実相をしらない若手将校に取って代わり、政治に関与を始めたこと。マスコミに煽られた大衆がこれを後押ししたこと。普通選挙で選ばれた政治家が大衆に迎合したこと。など、全てが日本の軍国主義化に関わったものと考えられます

ともすれば、A級戦犯として裁かれた高級軍人のみが、軍国主義の責任者であると簡単に整理することは、歴史を今に生かすことにはなりません

3.日本陸軍の実態

日中戦争、及び太平洋戦争開始後のマレー・シンガポール攻略作戦、フィリピン攻略作戦においては、日本軍による残虐な行為略奪行為が行われたことは紛れもない事実です。これらの残虐行為が、軍国主義の故であると考える人がいるかもしれませんが、これは間違いです

民間人への暴行・凌辱・殺人や略奪については、陸軍刑法第86条~89条で明確に規定されている様に、重罪として処罰されることになっていました。

また、捕虜に対する暴行・凌辱・殺人は、日本も署名している1929年・捕虜取り扱いに関する条約(通称ジュネーブ条約)」に明確に違反している行為であり、日本軍にとってもあってはならない行為でした。

因みに、日露戦争におけるロシア人捕虜の取り扱いや、第一次世界大戦におけるドイツ人捕虜の取り扱いは、当時の国際法に則っており、模範的なものでした。また、旅順での激しい戦いが終わった後、水師営での降伏会見で乃木希典司令官が敗軍の将を丁重に扱う模様は、外国人従軍記者により広く世界に伝えられ称賛されました

水師営の会見
水師営の会見

こうした許されざる行為は、何故行われたのでしょうか。これに対する答えは、実際に下士官として従軍した経験を綴った「私の中の日本軍;(著者:山本七平から)」に詳しく書かれています(詳しくは、私の読書メモをご覧ください)
この中で、特筆すべき点は;
① 日本軍の戦略・戦術には「兵站」の重要性が考慮されておらず、敵を追って進出した地域での兵士の食料の調達は、略奪に頼る以外に方法がない場合が屡々起こった(当時の日本軍は、飯盒炊爨が原則となっていたので、天候が悪かったり、燃料となるものが現地で調達できなかった場合は当然略奪しか選択肢が無かった)
② 陸軍刑法を遵守するためには、厳正な軍紀の適用が不可欠であることは当然の事ですが、前線にあって実際に罪を犯す可能性のある下士官、兵卒には軍紀が全く行き届かず、あるのは古参兵と新兵の上下関係だけであったとのことです。こうした無法状態の中で、戦闘における極度の緊張が解けた時、本能のままに民間人への暴行・凌辱・殺人や略奪、捕虜に対する暴行・凌辱・殺人が行われていたと考えられます
③ あまりに酷い軍紀の乱れに、何度も通達が出されていますが、全く効果が無かったとのこと

こうした軍紀が乱れた状態で戦われた戦争の経験者は、被害者であると同時に加害者でもあった訳で、敗戦後、戦争の体験を周囲に語らなかった一つの原因になっているとも考えられます。当然の事ですが、軍紀が守られない軍隊は野獣の集合であって軍隊ではありません

4.日本軍の戦死者が何故かくも多かったのか

多くの戦線において日本の敗色が濃厚となったころから、多くの将兵が死ななくてもいい命を落としました。その原因として以下が考えられます;
① 「兵站」が考慮されていない作戦で、弾薬や食料が尽きた後に玉砕
② 制海権が失われた島嶼地域の防衛に当たらせ、退路が断たれ玉砕
③ 食料の供給や、移動の手段を考慮せずに大軍を動かした結果、飢えや疫病で大量死を招いた
これらはいずれも、兵站や退路を考えない杜撰な作戦の為に多くの兵士の命を失ったことになり、責任の多くは生き残った者の多い作戦参謀にあったと考えられます

また、
④ 陸軍刑法第40条に、司令官の判断で撤退や降伏をすれば死刑と規定されていたことで、激戦・敢闘の末戦闘の継続が意味を持たなくなった後でも、玉砕攻撃によって無駄な死を招いたこと
⑤ 陸士出身の将校や、激戦に巻き込まれた沖縄戦の一般市民、終戦直前に怒涛のように侵入してきたソ連軍に蹂躙された地区の一般市民は「戦陣訓」にある「生きて虜囚の辱めを受けるな」によって死を選択した可能性もあります
これらとは別に、
⑥ 1943年のアッツ島玉砕に始まる玉砕攻撃、1944年から始まる特攻攻撃を、作戦の失敗とは報道せず、英雄的な戦いとして報道し、劣勢になった戦局では玉砕を選ぶ風潮が生まれてしまった

 

5.まとめ(私見)

今や、防衛費だけ見れば世界の8番目に位置し、最新鋭の防衛装備を有する軍事大国日本が、悲惨な歴史を繰り返さないためには、以下の様な対応が必要であると私は考えています(自衛隊法法参照);
① 政治による自衛隊の統制を厳格に行うこと(但し、軍事知識に乏しい政治家が無謀な判断をしない様に、軍事行動が行われる時には、自衛隊制服組の判断を大切にすること) — 自衛隊法第7条~9条に明確に規定されています
② 自衛隊員は規律を遵守すること — 同法第56条、57条、59条に明確に規定されています
③ 自衛隊内で政治に関わることを一切禁止すること(自衛隊法にも明確に記述されており、当たり前の事ですが、) — 同法第61条に明確に規定されています
④ 戦闘行為が発生した場合、メディアによる報道は、真実を伝えることに徹し、自身の意見で世論を操作することが無いように心がけること
⑤ 国民一人ひとりが、確かな報道を基に自身の国土防衛に関する考え方を持ち、これを国政選挙の投票に反映させること
⑥ 国政選挙において、政党はその綱領において、日本の防衛に対す考え方を明確にしておくこと

 

愛国心

1.「愛国心」とは

愛国心と言っても、国によって、人によって、その意味が少しづつ違います。従って、幾つかのタイプに整理して考えてみたいと思います;
① 国土(地理的な意味での国土)を愛し、国土に忠誠を誓うこと
② 民族を愛し、民族に忠誠を誓うこと。国土が分割されていたり、国土が無かったとしても、その忠誠は変わりません
③ 宗教に忠誠を誓うこと。宗派別に考えた方がいい宗教もあります
④ 統治者に忠誠を誓うこと
⑤ 政治体制あるいはそれを代表する党派に忠誠を誓うこと

これらの分類に基づき、世界の代表的な国々の愛国心を点検してみると;

米国:移民によって成り立っている為、典型的な①のタイプになります。太平洋戦争が始まった時、日本人は敵国であると同時に多民族国家米国に忠誠を尽くさない可能性を考え、日本人のみを隔離した暗い歴史があります

仏国:現在のフランスの国土には、歴史的に国境を接するイタリア系の民族、スペイン系の民族が多く混じっており、更に第二次世界大戦後は旧植民地から移民を多く迎えた為、多民族国家といってもいい状態になっています。従って、愛国心のタイプとしては①となります。ナポレオンによる統治の時代から、フランス国民のアイデンティティーは民族ではなく正しいフランス語を話せることされており、フランス語の教育に力を入れています。ただ、最近はイスラム圏からの移民2世に、イスラム教に忠誠を誓う③のタイプの国民がおり、テロなどの問題が頻発しています

英国:大英帝国の時代から、君臨する英国王(女王)に忠誠を誓う④のタイプに分類できますが、18世紀にアメリカが、19世紀には南アフリカが完全な形で独立しました。未だに英連邦に残っている国々もありますが、これらの国々の国旗には英国の国旗のデザインが入っており、英国王(女王)に忠誠を誓う象徴になっています。一方、英国の正式名称は「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」であり、英国国教会とは違うカトリックを信じる北アイルランドの人々は、歴史的に英国王(女王)に忠誠を誓っているとは言えないと思われます。また、グレートブリテン島にいるウェールズ人や、スコットランド人は、歴史的に被征服民族であるゲール人を祖先に持っており、やはり英国王(女王)に忠誠を誓っているとは言えないと思われます。また、最近はフランスと同様に、イスラム圏からの移民2世に、イスラム教に忠誠を誓う③のタイプの国民がおり、テロなどの問題が頻発しています

中国:現在の中国は、漢族が多いとはいえ、多くの民族や宗教の違う国民で構成されており、中国共産党に忠誠を誓う⑤のタイプになります。しかし、イスラム教を信じるウィグル人の多い新疆ウィグル自治区やチベット仏教を信じるチベット人の多いチベット自治区は、必ずしも中国共産党に忠誠を誓っているとは思えません

ロシア:ソ連時代は中国と同じ共産党に忠誠を誓う⑤のタイプでしたが、ソ連崩壊後は、主だった民族は独立し、ロシア正教も復活したところから、①&②のタイプの忠誠心を求めていると思われます

中東諸国:国境が、列強の植民地の区分の名残をとどめています。王族の支配が続いている国や、そこからの独立を果たした国がありますが、いずれもイスラム教が国教であり、イスラム教の宗派に忠誠を誓う③のタイプに分類できると思われます

クルド族:イスラム教ではあるものの、民族としての国家を持たない為、忠誠心としては②のタイプになります

ポーランド、フィンランド、エストニア:歴史的に常に周りの強国の侵略を受けており、国土及び民族に対する強い忠誠心を持っています。つまり、忠誠心のタイプとしては①&②になると思われます

日本:日本は島国であり、二度にわたる元寇(1274年の「文永の役」、1281年の「弘安の役」)を除き、徳川時代まで外国の干渉を受ける機会が皆無であった為、忠誠心は、平安時代までは天皇に向けられていたと思われますが、実際は貴族や位の高い武士に限られていたものと思われます。鎌倉時代に入ってからは、武士団の長が領地を安堵してもらう代わりに武士たちは幕府に武力を提供するという関係性を持つようになり、一般の武士の忠誠の対象は、武士団を統括する長に向けられていたと思われます。元寇において武士団が命がけで戦ったのは、当時の執権「北条時宗」に先祖伝来の所領を安堵してもらう為だったと言われています(「一所懸命」はこの事を言っています)。戦国時代にあっても、武士団の規模は大きくなるものの、忠誠心の対象は戦国大名という武士団の長に向けられていました。徳川幕府の3百余藩による統治も、徳川家の親藩を覗けば基本的にそれを立脚しています

徳川幕府時代の藩単位の国家観が、日本国という国家観に大きく変貌するのは、明治維新の志士たちが、植民地化が進みつつあった中国を観、列強が跋扈する世界を観て、藩という小さな枠組みでは列強の植民地化を防げないと考えたからでした。しかし、明治維新が成った後も暫くは、藩単位の国家観から抜けきれず、武士の特権にしがみつこうとした、武士団の反乱が相次ぎました(佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、西南戦争)。最後の西南戦争を勝利した1977年(明治10年)になってようやく、明治天皇を頂点とする国家体制が出来上がりましたが、この新しい日本国に対する忠誠心を日本の国民に植え付けていくのは、そう簡単なことではありませんでした

その後、殖産興業、富国強兵に邁進し、欧米列強と鎬を削りながら、幕末に列強との間で結ばれた不平等条約を徐々に改定しアジアの強国にのし上がっていく内に、自然な形で日本という国土を愛し、日本民族を誇りに思う愛国心が芽生えていったものと思われます

しかし、1890年代に入って日清戦争を戦い、1900年初頭には日露戦争を戦う中で、死を賭して戦う勇気と、日本という国家に対する忠誠心が結び付けられて行きました

一方、これ等の戦争に勝利した結果、台湾、南樺太、南千島が日本の領土に加えられました。また、1910年には朝鮮併合が行われ、日本人以外の民族を日本という国家に抱え込むことになり大日本帝国という多民族の国家に対する忠誠心が必要となり、天皇という統治者に忠誠を誓う大英帝国型の愛国心を植えつけるべく、教育制度や法規制などの上からの改革が進められることとなりました

更に1932年には、満州国が誕生し、日本人、中国人(台湾人、漢族、満州族)、朝鮮人、蒙古人、ロシア人で構成される満州国が、大日本帝国のいわば傀儡国家として加わることとなりました。この広大な満州国を実質的に統治するために、「五属協和「五色の虹-満州建国大学・卒業生たちの戦後」を読んでを参照)」、「八紘一宇」などの空想的な国家観、世界観を作り出し、天皇という統治者に対する忠誠心を植え付けようとしましたが、結局目的を達することができませんでした。特に、統治がうまくいかなかった朝鮮では、「皇民化政策」や「創氏改名」の強要まで行われましたが、朝鮮人としての誇りを傷つけるだけに終わりました

1937年の盧溝橋事件、第二次上海事変で始まった日華事変(日中戦争の後半)は、果てしない泥沼の戦いとなり、敵地での死に物狂いの殺し合いは「愛国心」とは全く無縁の精神状態で行われていました。また、1941年に始まった第二次世界大戦においては、当初は華々しい戦勝が続き、戦場から遠く離れた日本国内では大いに「愛国心」が盛り上がりましたが、開戦から約半年後のミッドウェー海戦に敗北してからは劣勢に立たされ、撃沈される船の中で、撃墜される航空機の中で、弾薬、食料がつき無謀な突撃を行う中で、軍人達は、無謀な作戦を恨むことはあれ、「愛国心」で戦う者は少なかったものと思います。ただ、大空襲に晒される直前までの日本国内の多くの一般人や、ソ連が参戦するまでの満州における多くの一般人は、国家をあげての「愛国心」教育のお陰で、強い「愛国心」があれば戦争に負けることは無いと信じていた人が少なからずいたのかもしれません

1945年の敗戦と同時に、無謀な戦争遂行のために「作られた愛国心」は煙のように消え去りました。武装解除され最初に日本に帰還した日本兵数か月から1年以上海外に抑留された後引揚げてきた一般人、長期間シベリア抑留を耐え抜き帰国を果たした日本兵、戦犯として裁かれ刑期を終えて帰国した日本兵、いずれの日本人も祖国の土を踏んだ時涙を流したと思われます。つまり、この涙で象徴される安堵感が、焦土と化した日本を復旧させる原動力となったものであり、その後の日本の「愛国心」のベースとなっていったものと思われます

2.国歌の歌詞に表現されている「愛国心

国歌は近代西ヨーロッパに生まれ、幕末の頃には外交儀礼上欠かせないものになっていました。現在に至るも外交儀礼上は必須のものになっていますが、国内においても、多くの国民が参加する祝賀行事になどには国歌が演奏され、参加者は全員起立したり、軍人、あるいはそれに類する立場の人は、胸に片手を当て忠誠を表すポーズを取ったりします
また、オリンピックなどの国際スポーツ大会でも、表彰式では優勝者を讃えて国歌を演奏することはご承知の通りです。こうした場面をよく見てみると、国歌を実際に歌っている人と、歌わない人が居ることに気が付きます。オリンピックで勝つために国籍を変えて代表になった選手などは、例外なく歌っていない様に見えます。日本でも最近は歌わない(多分、覚えていないので歌えない!)スポーツ選手も多くなっています

国歌を歌うことの是非は、ここでは論じないこととして、どの国でも、国歌には国の歴史や、愛国心の源が歌い込まれていることが多いので、以下に代表的な国の国歌の成り立ちを紹介したいと思います、対応する歌詞は長くなるので割愛し別紙(国歌に見る「愛国心」)に纏めてあります。時間のある人はご覧になってください;

国歌に見る「愛国心」

日本の国歌「君が代」
「君が代」の元になった歌詞は、「古今和歌集」の短歌(読人しらず)の一つです。1880年に曲が付けられて以降、日本の国歌として使用され、1999年になって国歌として法制化されました(国旗及び国家に関する法律)。この歌詞からは軍国主義は汲み取れませんが、天皇を神聖化した戦前、戦中の記憶を思い出させるとして、終戦の機会に国歌を変えるべきであったという人もいます
主題:天皇の代が永久に続くことを願うこと 天皇に対する忠誠心を鼓舞する 

イギリスの国歌:「God Save the Queen
曲のルーツははっきりしていませんが、現在知られているメロディーに最も近い編曲は1745年頃、当時有名な作曲家であったトマス・アーン(Thomas Augustine Anne)によって行われたことが知られています。当時、名誉革命後の反革命勢力との争いがあり、祖国の勝利への強い願いが込められています
主題:女王(王)に神のご加護を願うこと 女王(王)に対する忠誠心を鼓舞する

アメリカ合衆国の国歌:「星条旗よ永遠なれ」
1812年の米英戦争に於いて、優勢であった英国軍に包囲され、集中砲火を浴びながら守り抜いていたボルティモア港「マクヘンリー砦」に翻っていた星条旗に感銘を受けたフランシス・スコット・キーが書き上げた詩「マクヘンリー砦の防衛(The Defence of Fort McHenry)」が元になっています
主題:祖国防衛の為に戦う勇者の象徴として国旗を謳いこんだ 愛国心を鼓舞する
* 太平洋戦争末期、米軍に大きな犠牲を強いた硫黄島攻防戦(1945年2月)で大きな犠牲をはらって「摺鉢山」を制した海兵隊員が、頂上に星条旗を立てた時の写真が新聞に掲載され、愛国心を鼓舞したことはよく知られています

硫黄島・摺鉢山の星条旗_AP通信・郵便切手
硫黄島・摺鉢山の星条旗_AP通信・郵便切手

フランスの国歌:「ラ・マルセイエーズ」
1789年のフランス革命後、王政を布いている周辺の国々から干渉を受けたことはよく知られています。1792年にフランス革命政府がオーストリアに宣戦布告をした知らせがストラスブール(現在の独仏国境に近いライン川沿いの都市)に届いた時、当地に駐屯していたライン方面軍の工兵大尉ルージェ・ド・リールが出征する部隊の士気を鼓舞するために、一夜にして作曲した「ライン軍の為の軍歌」がフランス国家の元になっています。1995年には国歌として採用されました
主題:国を侵略する者と戦う兵士を鼓舞する → 愛国心を鼓舞する

⑤ ロシアの国歌:「ロシア連邦国歌」
1922年に成立したソ連では、フランスの市民革命・パリ・コミューンの時代(1871年)につくられた「インターナショナル」が採用されました。その後、レーニンが率いるボルシェビキ党の党歌を流用し、児童文学者のセルゲイ・ミハルコスの詩を元に「ソビエト連邦国歌」が作られました。1991年のソ連崩壊後誕生したロシアでは、新たにミハエル・グリンカ作曲による「愛国者の歌」が国家として採用されましたが、これには歌詞が無く評判は芳しくありませんでした。2000年に大統領に就任したプーチンは、旧ソ連時代の「ソビエト連邦国歌」のメロディーを復活させ、セルゲイ・ミハルコスに新たな歌詞を作らせて「ロシア連邦国歌」としました。2001年には正式に国歌として定められました
主題:広大な国土と優秀な民族であることの誇り 愛国心を鼓舞する

インターナショナル
主題:国際共産主義(共産主義を世界に広めること)
* 日本でも60年安保闘争、70年安保闘争の折、全学連各派の集会が行われる時によく歌われました

⑥ 中国の国歌:「義勇軍進行曲」
最初の中国の国歌は、清朝崩壊寸前の1911年に制定されましたが、すぐに辛亥革命によって中華民国が誕生(1912年)し、孫文の提唱した三民主義思想に基づき作詞された「中華民国国歌」が正式決定されました。この国歌は今も台湾(中華民国)の国歌として使われています(ただ、オリンピックなど国際試合で演奏されているのは中華人民共和国の一つの中国政策を慮って、「国旗歌」が演奏されています)
1949年に建国された中華人民共和国では、抗日映画である「風雲児女」の主題歌「義勇軍進行曲」(作詞者:田漢;進行曲とは行進曲の意味です)が人民会議で決定されました

抗日戦
抗日戦

しかし、文化大革命の期間(1966年~1976年)は、作詞者である田漢が迫害され、その影響で義勇軍進行曲の歌詞は歌われなくなり、メロディーの演奏のみが行われていました。その間、事実上の国歌として歌われたのは、毛沢東を讃美する「東方紅」でした
文化大革命終結後は、義勇軍進行曲が復活したものの、当初は毛沢東や中国共産党を讃美する歌詞で歌われましたが、1982年の全国人民代表大会第5回大会において田漢の歌詞が再び国歌として決定されました。その後2004年には憲法に正式な国歌であることが明記されました
主題:長く苦しかった抗日戦争を戦い抜いた勇気を讃える 愛国心を鼓舞する

⑦ 韓国の国歌
作詞者不明で20世紀初頭から「蛍の光」のメロディーに乗せて歌われていました。1948年の大韓民国建国後、作曲家・安益泰(1905年~1965年)の作曲による「韓国幻想曲」の最終楽章として発表されたメロディーに乗せて歌われるようになりました
主題:国土を愛し、民族の誇りを愛でる 民族の矜持を鼓舞する

⑧ ポーランドの国歌:「ドンブロフスキ将軍のマズルカ」
ポーランドは、18世紀後半以降、周囲の列強(プロイセン、ロシア、オーストリア)により侵食されてゆきましたが、1795年の第三次分割により全ての領土を失ってしまいました。1797年にイタリアに亡命したドンブロフスキ将軍がポーランド軍団を結成しましたが、この時の軍歌「ドンブロフスキ将軍のマズルカ」が国家となりました
主題:侵略者を打ち破る勇気 →愛国心を鼓舞する

⑨ フィンランドの国歌:「我らの地」
1948年、ドイツ人移民であるフレドリク・パーシウスが作曲したメロディーに、ユーハン・ルードウィーグ・ルーネベリが作詞した「我らの地」が国家として採用されましたが、明確に法制化されてはいません
また、フィンランドでは国民的英雄であるシベリウスによって作曲された交響詩「フィンランディア」も第二の国歌として使われています
主題:祖国、民族に対する愛 

⑩ エストニアの国歌:「我が故国、我が誇りと喜び」
エストニア国歌は、1848年にフレドリク・パーシウスによって作曲され、1869年にヨハン・ヴォルデマル・ヤンセンによって歌詞が書かれています。 この歌は、1869年のグランド・ソング・フェスティバルで合唱曲として歌われたところ、瞬く間にエストニアのナショナリズムのシンボルのようになりました。エストニアの独立戦争の後、1920年に公式にエストニア国歌として採用されています
第二次世界大戦末期の1944年にソ連に併合されてからは禁止され、 1945~1990年の期間は別の曲が国歌とされていました
ソ連邦崩壊直前の1990年には、エストニア共和国の国歌として復権しています
なお、メロディ-はフィンランド国歌とほぼ同じものです(民族的にはフィンランドと近い関係にあり、言語も非常に近い関係にあります)
主題:祖国、民族に対する愛

3.日本の「愛国心」のあるべき姿(私見)

日本の近代史を俯瞰すると、他国を侵略したことはあっても、侵略されたことはありません。他国を侵略することは、侵略される国の「愛国心」を刺激し、必然的に厳しい戦いを強いられることになります。この戦いに勝つための「強兵」を養うために、神がかった「愛国心」像を作り上げ、国民全員が幼い頃から教育されました。不幸にも、マスコミもその片棒を担いだことは紛れもない歴史の真実です。

幸い終戦後の日本は、国土や美しい日本の自然を愛することをベースとした「愛国心」を多くの人が共有しています。他国を侵略する必要が無ければこれで充分であるし、また他国から侵略されれば、この素朴な「愛国心」が強大な力を発揮して侵略者を撃退することは間違いないと私は信じています

最近、メルギブソン監督の「ハクソー・リッジ」という映画を観ました。激しかった沖縄戦の中でも、最大の激戦となった浦添城址南東の高田高地での戦闘で、非武装のまま衛生兵として活躍し、日本兵を含む多くの命を救ったデズモンド・T・ドスの実体験を描いた映画です(詳しくは、私の感想メモ「ハクソー・リッジを観て」をご覧ください)。当時の米国軍人の愛国心とはどういうものか、特に米国本土以外の外国で戦う米国軍人が、死を賭して戦う勇気がどこから生まれてくるのかが私の知りたいところでした

沖縄戦に先立つ硫黄島の戦闘では、日本では日本兵2万人の玉砕のみで語られることが多いのですが、この戦闘で米軍側も6千人以上の戦死者と、それを遥かに上回る戦傷者を出しています。この戦闘の最前線に立ち、多くの犠牲者を出したのは、米軍の中でも最も勇敢であると言われている海兵隊です。かれらの仲間同士の間で交わされる「センパーファイ/Semper Fi」という合言葉は、最近の映画やドラマなどでもよく出てきますが、これはラテン語の”Semper fidelis”から来ていて、「常に忠義・忠誠・忠実であれ」という意味を持っています。

多くの米国人にとっては、自由選挙で国民に選ばれた大統領や、議員達が決定した国策を忠実に遂行することが国民の義務と考えていると思われます。米国軍人にとっては、これは米国に忠誠を誓うこと、忠実に上官の命令に従うことに繋がっているものと考えられます

第二次世界大戦で国策の誤りで310万人に死者を出した日本には、日本の国土を侵略された場合以外には、こうした忠誠を国民や自衛隊員に期待することはできないと私は思います

ただ、昨年法改正が行われた「新安保法制」では、自衛隊員が海外に於いて生命の危険に晒されることや、武器を取って戦うことが必要になる場面が想定されます。愛する国土の防衛とは異なる、在外邦人の救出米軍等の友軍の支援危機に瀕している外国人救出、など外地における新たな危険任務を、何を拠り所に遂行すればいいのでしょうか。「派遣される自衛隊員を志願制にするか?」、「国の名誉のために戦うことも自衛隊員の任務に加えるか?」など、いずれにしても、「戦闘があったかなかったか」、「日報を隠したか隠さなかったか」などを議論するより前に、こうした根本的な問題を国会で綿密に議論すべきではなかったかと私は思います

以上

母方親族の戦争体験

-はじめに-

先日、昨年末に亡くなった従兄の偲ぶ会に行って参りました。諏訪湖を臨む高台にある古刹「地蔵寺」で行われましたが、この寺の墓地には母方親族の墓が多くあり、幼い頃から法事などで度々訪れる機会がありました

故人の墓石
故人の墓石

まず、墓前で献花し祈りを捧げた後、墓石に刻まれた墓碑銘を読んでいくと、終戦前後の故人の悲惨な体験、無念の思いが直に伝わってきました

私共の家族を含め、母方の親戚の多くは満州で終戦を迎えました。終戦の直前(8月9日未明)、日ソ不可侵条約を一方的に破棄(注)してソ連が満州に雪崩れ込んできてから、それまでの生活が一変し、引揚までの一年間、地獄のような生活が続きました。劣悪な生活環境の中で病気や栄養失調で老人や乳幼児など弱い者から次々と命を落としてゆきました
(注)1945年2月に行われた米・英・ソ3国による秘密会談(ヤルタ会談)で、ドイツ降伏(同年5月8日)後90日以内のソ連の対日参戦が決められていました。一方、大本営は同年5月、ソ連の侵攻を予測して満州の4分の3を放棄し、南満州で持久戦に持ち込む計画を決定しました。この作戦計画に基づき、全満州で所謂”根こそぎ動員“を行うと共に、主力部隊を南に後退させることになりました。この結果、この作戦について何も知らされず取り残された放棄地域の開拓農民や一般住民は、男手の無い中でソ連軍の無慈悲な攻撃に晒される結果となりました

関東軍の対ソ作戦地域とソ連軍の侵攻ルート
関東軍の対ソ作戦地域とソ連軍の侵攻ルート

-母方親戚の戦争体験-

母方祖父母の子供達の中で、長男家族_A、三男家族_B、四男家族_C、五男家族_D、次女(私の母)家族_E が終戦時に満州に住んでおり、それぞれ悲惨な体験をしました。以下の二冊の本は、諏訪地域の人々の戦争体験を後世に伝えるべく多くの手記や和歌を集め、(株)長野日報社から出版されたものです;

戦争はいやだ平和を守ろう会
戦争はいやだ平和を守ろう会

この中から、私の親戚が寄稿した手記、和歌を以下にご紹介したいと思います;

家族_Aの長男の手記 ⇒ 竹田純人
家族_Aの長女の手記 ⇒ 塚原節
家族_Aの長女の和歌
灯火管制下に征きたる君の離(さか)りゆく長靴の音を今もなほきく

家族_Bの長男の手記 ⇒ 竹田静夫 --- 昨年末に亡くなった従兄です
家族_Bの長男の和歌
緑なす博多に引き揚げし母子吾ら征きたる親父(ちち)よ生きて帰って
尚、この他に上記の本には掲載されませんでしたが、「偲ぶ会」では以下の秀作も紹介されました;
負け戦知りつつ親父赤紙で母を頼むと十二のわれに
弟の骨箱開けてばらまいて金品探るロシア兵
引揚げて松のみどりのまぶしさよ親父信二よふるさとの土
谺(こだま)する諏訪湖の花火孫といて凍土に眠る父に献杯
家族_Bの長女の手記 ⇒ 小口陽子
家族_Bの長女の和歌
四十二歳父赤紙で北満へ征きて帰らず「英霊」一枚

家族_Cの長男の和歌;
吾を背のリュックに入れて引き上げし亡父(ちち)の苦節を今にし思ふ

家族_Dの長女の和歌;
シベリアから父帰りきて川の字に寝たるうれしさ六歳の夏

家族_Eの長男の手記荒井威雄
家族_Eの次男(つまり「」)は終戦の年に生まれ、母に背負われて引揚げましたので、全く記憶がありませんが、父母から聞いた終戦前後の状況は、私のブログにある記事:生立ちの記 をご覧ください

-海外居留民引き揚げの全体像-

1945年8月14日ポツダム宣言受諾を連合国に通告し、翌15日に終戦の詔勅が発布されソ連を除く連合国との戦争はほぼ停止状態になりましたが、ソ連軍との戦闘は続き、完全な停戦が実現するのは、満州、南樺太、南千島のソ連の占領が終る9月5日になりました。その後、在外軍人・軍属、一般人は、自身の判断で行動することは許されず、以下の法令に基づいて取り扱われることとなりました;
ポツダム宣言第9項
日本国の軍隊は、完全に武装解除されたのち、各自の家庭に復帰し、平和的で生産的な生活を営む機会を与えられる
日本政府の対応
外務省は現地の状況を認識できぬまま、ポツダム宣言の受諾を決定した8月14日に、大東亜大臣・東郷茂徳は、以下の訓令を出しました;
三加国宣言(ポツダム宣言のこと:米国、英国、中華民国)受諾に関する在外現地機関に対する訓令」:「居留民は出来得る限り定着の方針を執る
支那派遣軍の対応
支那派遣軍総司令部の「和平直後の対支処理要領」のなかで「支那居留民は、支那側の諒解支援の下に努めて支那大陸に於いて活動するを原則とし、、、その技術を発揮して支那経済に貢献せしむ」としています
GHQの対応
連合軍総司令官マッカーサーによる「日本政府宛一般命令第一号」によって、それぞれの軍管区の司令官のもとに降伏することとなった。その結果、全ての日本人は軍管区ごとの連合軍の支配下に入り、日本人の取り扱いに関しては、各軍管区の軍隊ごとに大きな違いが発生しました。また、連合軍の指示により、陸海軍部隊の移動を優先し、一般人の移動は後回しになりました
8月15日の時点で海外の居留民は、軍人・軍属が353万人(陸軍:308万人、海軍:45万人)、一般人は300万人で、合計653万人もの膨大な人数に上ります。軍管区毎の内訳は下の通りです;
中国軍管区
対象区域:旧満州地区を除く中国全土、台湾、北緯16度以北の仏領インドシナ(北ベトナム)
在留全日本人:約312万人(在外日本人の47%)
ソ連軍管区
対象区域旧満州地区、北緯38度以北の朝鮮(北朝鮮)、南樺太、千島列島
在留全日本人:約161万人(在外日本人の24%)
イギリス・オランダ軍管区
対象区域:アンダマン諸島、ニコバル諸島、ビルマ、タイ、北緯16度以南の仏領インドシナ(南ベトナム)、マライ、スマトラ、ジャワ、小スンダ諸島、ブル島、セラム島、アンボン島、カイ諸島、アル諸島、タニンバル及びアラフラ海諸島、セレベス諸島、ハルマヘラ諸島、蘭領ニューギニア
在留全日本人:約74万人(在外日本人の11%)

オーストラリア軍管区
対象区域:ボルネオ、英領ニューギニア、ビスマルク諸島、ソロモン諸島
在留全日本人:約14万人(在外日本人の2%)

米軍管区
対象区域:日本の委任統治諸島、小笠原諸島、その他の太平洋諸島、日本に隣接する諸小島、北緯38度以南の朝鮮(南朝鮮)、琉球諸島、フィリピン諸島
在留全日本人:約99万人(在外日本人の15%)

イギリス・オランダ軍管区オーストラリア軍管区および沖縄を除く米軍管区からの引揚は、B、C 級戦犯(下記注参照)の容疑者を除き、引揚船の手配が付き次第概ね順調に引揚が行われました
また、中国軍管区も、B、C 級戦犯の容疑者を除き、引揚船の手配が付き次第概ね順調に引揚が行われました

引揚者は、以下の18の港湾から日本に上陸しました;
浦賀、舞鶴、呉、下関、博多、佐世保、鹿児島、函館、大竹(広島県)、宇品(広島県)、田辺(和歌山県)、唐津、別府、名古屋、横浜、仙崎(山口県)、門司、戸畑

(注)B、C 級戦犯とは;
B級戦犯:「通常の戦争犯罪」、C級戦犯:「人道に対する罪」で、世界49ヶ所の軍事法廷で裁かれました。被告となった約5千7百人の内、約千人が死刑判決を受けたと言われています。これに対して、A級戦犯は、政治家、高級軍人を対象として「平和に対する罪」で裁かれました(東京裁判/極東国際軍事裁判)

中国、南樺太、南千島からの引揚げに関わる特記事項
1.中国山西省に駐屯していた北支派遣軍5万9千人のうち約2千600人は、武装解除を受けることなく残留し、中国国民党系の軍閥(閻錫山将軍)に合流し、終戦後約3年半にわたって第二次国共内戦を戦い、約550人が戦死、700人以上が捕虜となりました(日本軍山西省残留問題
2.ソ連軍管区では、日本人の引揚に全く無関心であり以下の様な悲劇が生まれました;
ソ連軍による抑留:ソ連軍が進駐した満州、南樺太、南千島では、ポツダム宣言第9項に違反し、軍人の大半(約65万人:諸説があります)を捕虜としシベリア各地に抑留し、強制労働が課されました。極寒の地で十分な食料も与えられず、約10%の人が命を落とした言われています
ソ連抑留
ソ連抑留(ラーゲリ:収容所)
② 満州からの引揚げ:満州に取り残された日本人は約105万人。ソ連軍の撤退が本格化する1946年3月まで引揚げは全く行われませんでした。ソ連軍撤退後に進駐した中華民国軍が米軍の輸送用船舶を使って引揚を実施しました。1946年内には中共軍支配地域を含めて大半の日本人が引揚げていきました
しかし、若い女性など一部の人は中共軍に拉致され、第二次国共内戦に参加しました。 満州在住の日本人の犠牲者は、日ソ戦(9月初旬まで続いた)での死亡者を含め、約24万5千人に上り、このうち8万人近くを満蒙開拓団員が占めています。満蒙開拓団の悲劇については、私のブログにある記事:「麻山事件」を読んで をご覧ください
南樺太、北朝鮮、および大連のソ連軍占領地区からの引揚げ:南樺太に取り残された日本人は約40万人。1947年2月、ソ連は南樺太をソ連領に編入(根拠:ポツダム宣言第8項:「カイロ宣言の条項は履行され、また、日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国、並びに我々の決定する諸小島に限られる」)し、ソ連の施政下でロシア人と同じ労働条件で生活することとなりましたが、正式な引揚が開始される前までに約2万4千人が密航により北海道に逃れたと言われています
1946年春以降、米ソ間で南樺太、北朝鮮、大連のソ連軍占領地区からの引揚が協議され、同年11月27日に「引揚に関する米ソ暫定協定」、同年12月19日に「在ソ日本人捕虜の引揚に関する米ソ協定」が締結され、引揚が開始されました。1949年年7月の第5次引揚まで29万2千590人が引揚げました。しかし、朝鮮人家族のいた人や、ソ連に足止めされた熟練労働者らは少なくとも1500人が南樺太にとどまりました
-祈りにかえて-
私の家族、親戚にとって満州での悲惨な体験は、その後の人生に大きな影を落としています。侵略した国に残された国民は、何故日本という国が行った侵略行為の犠牲とならねばならないのか、、、、
満州における一般人の犠牲者数は、東京大空襲、広島・長崎の原爆、沖縄戦の犠牲者を凌ぐ規模です。しかも、敵意に囲まれ、死と向かい合っていた長い時間は、どれほど引揚者の心を蝕んだか想像に難くありません
戦後、徹底的な「民主教育」を受けた我々の世代は、大日本帝国によるアジア・太平洋地域における侵略を負の遺産として引き継ぐことを徹底的に叩き込まれており、悲惨な引揚体験を「怨み」に変えることすらできませんでした。満州引揚げや、シベリア抑留に関し、国民レベルで行う追悼の日が設定されていないのも、こうした事が背景にあるのかもしれません
終戦後の引揚げに関わるこのネガティブな歴史を、悲しみの記憶として薄れるのを待つのも一つの生き方でしょう。また、悲惨な体験を二度と繰り返さない様に、積極的に若い人たちに体験を伝えていくことも非常に価値ある生き方であると思います
一方で、戦後の混乱した状況の中で、徒に死者を増やした行為や、こうした混乱の中にあっても人間としての誇りを失わずに戦った人の行為も、歴史に埋もれさせるのではなくきちんと調査し、次代を担う若者たちにも伝えていくことも重要であると思います。例えば、以下の事例についての私の見解を述べておきたいと思います;
1.大本営が1945年5月に決定した「根こそぎ動員と、「主力部隊の南満州移転の作戦は、結果として、何の告知もされないままに北満に取り残された「女、子供、老人ばかりの開拓農民」、青少年で構成され、ソ満国境に配置された「満蒙開拓青少年義勇軍」の救いようのない残酷な死を招きました。少なくとも本土では行なわれていた学徒疎開のような弱者を救う計画が、この作戦と並行して行われていれば、北満の悲劇のかなりの部分は防げたはずです。これを行わなかった大本営、関東軍の指導者、とりわけ参謀は、日本人自身による戦犯裁判で断罪すべきであったと思います
2.中国山西省に駐屯していた北支派遣軍のうち約2600人が、終戦後第二次国共内戦に参加し650名が戦死した裏には、北支派遣軍の司令官である澄田中将が、戦犯を免れ帰国するために、軍閥である閻錫山将軍と取引をした結果であると言われています。こうした部下をも裏切る卑怯な行為は、日本人自身による戦犯裁判で断罪すべきであったと思います
3.戦陣訓」を徹底したために、投降することをせずに無駄な死を強いられた兵士が無数にいました。また、沖縄戦や、引揚途中での一般人の集団自殺も、この戦陣訓の影響があったとも言われています。これを作成した責任者である東条英機大将は、東京裁判で「平和に対する罪」で死刑になっていますが、日本人自身による戦犯裁判でも断罪すべきであったと思います
4.ソ連軍の圧倒的な侵攻に対して、ろくな兵器も支給されずに戦い、死んでいった兵士も沢山います。こうした兵士に対する尊崇の念も、忘れてはならないと思います
以上

近所の八百屋では手に入らない野菜の栽培!

3月末から4月初めにかけて各種の野菜の種蒔きをしました。定番の小松菜や水菜、サニーレタス、チンゲンサイ、大根、等々は既に1ラウンド目の収穫が終わり、2ラウンド目の栽培に掛かっているものもあります
これ等の定番野菜の他に、タイトルにあるような「近所の八百屋では手に入らない野菜の栽培」も手掛けておりますので、以下にその栽培記録を纏めてご報告します

-野沢菜-

上の写真は、一昨年のゴールデンウィークに野沢温泉で「菜の花まつり」を見物した時に撮った写真です。遠くに見える川は日本一の大河「信濃川」につながる千曲川、一面に黄色く咲き乱れている黄色い花は、長野県の冬の名物:「野沢菜漬け」に用いられる「野沢菜」の花です。見渡す限り咲いているさまは中々壮観でした。この野菜の名称は、勿論”野沢”という地名に因んでつけられたことは明白ですが、この野菜の由来(例えば、大阪の天王寺付近で栽培されている”天王寺蕪”を持ち込んだ、など)については諸説あるようです。
まつりの中心部では、主催している「瑞穂の郷づくり委員会」(地方創生のために頑張っている飯山市観光局のホームページ参照)が、訪れた観光客に野沢菜の種を無料で配っており、一緒に行った友人の分も併せ5袋ほど持って帰りました;

野沢菜の種
無料で配られた野沢菜の種

以降、持ち帰った種を栽培しておりますが、この野菜の特徴として、 成長が極めて速い事、 暑さ、寒さに強い事、があり我が家の定番野菜になりつつあります

野沢菜の収穫
野沢菜の収穫

野沢菜は生命力が強いので、上の写真の様に葉を掻きとって収穫すればまたすぐに葉が出てくるで、何回でも収穫が可能です。利用方法は、御浸しや炒め物、など、小松菜と同じ様に万能野菜として重宝しています

今回は、「野沢菜漬け」も試してみました;

勿論、一冬越して発酵してあめ色となった野沢菜の味にはかないませんが、ちゃんと野沢菜の味がする立派な野沢菜漬けになりました。少なくとも高速道路のサービスエリアで購入する野沢菜漬けには引けを取りません!

また、長野県出身の友人から聞いた、もう一つの野沢菜の利用法である、根の部分の「カブ/蕪」の粕漬にも挑戦してみることにしました;

野沢菜のカブの部分
野沢菜のカブの部分

普通のカブに比べるとちょっと硬いので、どのような出来栄えになるかやや不安がありますが、珍味を越えて旨いものであればまたご報告します

-プンタレッラ-

今年の冬、私の盟友数人が”豪華イタリア・アルプス・スキー旅行”を敢行いたしました。帰ってきた後の会食で、スキーの話はそっちのけで現地の市場で購入した”プンタレッラ“の料理の話で盛り上がりました。私も何度か仕事でイタリアに行ったことがあり、またイタリアンが好きなので日本でもイタリアンのレストランにはよく出かけていますが、未だにプンタレッラを食べた経験はありませんでした。ちょっと悔しいので、帰宅後すぐにネットで調べ、通信販売で種を入手いたしました;

プンタレッラの種
プンタレッラの種

イタリアでは通常冬野菜として売られているものなので、日本でも秋蒔きが正解だと思いますが、どのような野菜か早く知りたいので4月初めに種まきをしてみました。株間を20~30センチにすると書いてあるので、やや大きめで底の深いコンテナに最終的に3株となるよう育ててみました。栽培日数は3~4ヶ月と書いてありましたが、東京あたりでの春蒔きではもう少し早く育つようです。5月末の生育状況は以下の通りです;

5月末の生育状況
5月末の生育状況

中心部を覗いてみると既に花芽が出ています(この野菜の花芽は日照時間を感知して出るものではないらしい ⇒ 秋蒔きに拘らなくても栽培は可能!)。海外経験の長い我が盟友に栽培していて感じた疑問点を聞くべく、また自身早く味見をしてみたいこともあり、2株ほど収穫してみることにしました;

収穫したプンタレッラ!
収穫したプンタレッラ!

新聞紙との比較で大きさは分かると思いますが、我が盟友の弁よればイタリアで売っているものに比べると小さめであるとのこと。従って、残りの株は、もう暫く栽培を継続してみようと思います
肝心の花芽(下の写真);

プンタレッラの花芽
プンタレッラの花芽

は、やはり小さめとのことでした
料理に関しては恐ろしく!応用動作が得意なワイフに、早速料理を頼んでみたところ、以下の様なものが出来上がってきました;

プンタレッラの料理
プンタレッラの料理

左の皿は、プンタレッラの葉だけを使ったクリーム系のパスタ、右は花芽と葉を使ったサラダです。確かに、プンタレッラという野菜は日本の野菜とはかなり違うことが分かりました。やや苦みのある味は、色々な日本料理にも応用が可能と思われます

また、収穫して初めて分かったのですが、中心部の株の外側には”子株”が分離独立しつつありました。次の収穫時には、この子株を食べないで植えなおして栽培してみようかと思っています
因みに、プンタレッラの生命力を試すために、根の部分を捨てずに水栽培してみました;

DSC_0038
根の部分のミス栽培

なんと、1~2日で写真の様に葉が出てきました!

-みよし菜-

私の息子の一人は、人付き合いが良く、全国に親しい友人が居て忙しい間を縫ってよく地方都市に出かけています。昨年秋、地方創生の活動を活発に行っている徳島県三好市(三好市のホームページ)に出かけた時に、友達から貰って来た種が「みよし菜」です;

みよし菜の種
みよし菜の種

上記の説明書にもある通り、小松菜・水菜・白菜の交配種ということで、私の大好物の野菜3種類のDNAが入っているということで、栽培してみることにしました
成長が極めて早く、4月初めに種蒔きをしたところ、5月末にはコンテナからはみ出るほどに育ち、間引きをしながら既に何度も食べています;

みよし菜_6月1日
みよし菜_6月1日

説明書にもある通り、アクが無く柔らかく、期待通り大変美味しい野菜であることが分かりました。拙宅の場合、漬け物を第一として、御浸しや白和えで楽しんでいます。大きさを実感していただくために、参考までに水菜との比較写真を添えておきます;

みよし菜(左)と水菜(右)
みよし菜(左)と水菜(右)

-ビーツ-

ビーツは北ヨーロッパを中心に多く栽培されています。ロシア料理で有名な「ボルシチ」の濃い赤い色は、主材料となるビーツから出てくる色です。数年前から行っているビーツ栽培は、エストニアからのお土産で入手した種がきっかけでした;

ビーツ
ビーツ

ビーツは寒さに強いばかりではなく、虫も付きにくく育てやすい野菜です。通常、株の部分を茹でて食べますが、葉の部分も食べられます。北ヨーロッパの人には叱られるかもしれませんが、味というよりは、その深い赤い色に魅力があるようです。ボルシチ以外にも、ポテトサラダなどに加えると見事なピンク色のサラダが楽しめます

-キャベツの生命力に驚愕しました!-

昨年秋から育てていたキャベツは、今年に入って春先までに全て収穫を終わりましたが、その後土の再生や種蒔きに忙しかったため一部のコンテナをそのままにしておいたところ、再び芽が出て成長し、またキャベツが出来てしまいました!

キャベツ再生の記録
キャベツ再生の記録

上の写真の一番左はキャベツ収穫直後の時期、真ん中の写真は4月15日の状況、一番右の写真は6月1日時点の状況です。十分食用に耐える大きさに再成長しました
再生の条件を考察してみると、鳥に食べられながらも大きな葉が残っており、根も十分に張ったままになっていたこと、また3月後半以降は気温も上がり、成長の条件が整ったためと考えられます。冬を越した、株の大きな野菜には底知れない生命力が宿っていることを知り、愛おしくなりました

以上

憲法について考える

-はじめに-

憲法記念日の5月3日、安部首相は都内で開かれた公開憲法フォーラムにビデオメッセージを寄せ、憲法改正の時期と改正内容について明快に意思表示を行いました。この内容については、野党はおろか与党内の根回しも行っていなかったため、かなりの反響を呼びましたが、結果として、好むと好まざるとに関わらず、これから数年間、政治家や有識者の間で憲法に関する熱い議論が行われることは間違いないと思われます。また、我々一人ひとりも国会議員の選挙や、憲法改正が発議された場合は、国民投票により、自身の判断を投票に反映しなければなりません

私個人の憲法に対する考え方は(憲法についての私の見解)で述べました。また、現在までに公式に発表されている各政党の考え方については(各政党の憲法改正草案をチェックする)で紹介いたしました
今後、2007年に成立した「国民投票法」に基づき、衆参両院の「憲法審査会」で議論されますが、出てきた憲法改正案について皆さんご自身の判断の助けになればということで、以下に現行憲法に関わる諸問題について纏めてみました

-民主主義と立憲主義について-

2015年に成立した「新安保法制」の審議以降、所謂「立憲主義」という言葉が世の中に氾濫していますが、我々の世代では「民主主義」については十分に承知しているものの、「立憲主義」はちょっと耳慣れない言葉に感じます。使われている文脈から考えて、少なくとも「憲法に立脚した、、」という簡単な解釈ではダメな様です

そこで、色々調べてみた結果、日本の憲法学の権威である、樋口陽一(東京大学名誉教授)氏の説明が、ストンと腑に落ちたので以下に概略紹介してみたいと思います;
 民主主義(Democracy)はギリシャ語が語源で、「人民の支配」「人民の統治」という意味なので、その時々の人民が「これで行こう」という方向に進める。それを邪魔するものは、排除することを意味します。結果として、1946年の日本国民が選んだ憲法が、現在の日本をも縛っているというのは、憲法そのものが純粋なデモクラシーには反するということになります

 立憲主義はドイツから生まれました。民主主義がスムーズに展開しなかったドイツで、議会主義化への対抗概念として出てきました。ドイツは普仏戦争に勝って、ようやく1871年に統一します。憲法が作られ、議会も作られる。歴史の流れでは、王権はだんだん弱くなり、議会が伸びてくるはずだったですが、ドイツの場合は、イギリスやフランスのように議会が中心になるというところまでは行きませんでした。しかし、君主の絶対的な支配ではない。どちらも、決定的に相手を圧倒できないでいる時に使われたのが「立憲主義」です。君主といえども勝手なことはできず、その権力は制限される。けれどもイギリスやフランスのように議会を圧倒的な優位にも立たせない。つまり、権力の相互抑制です。この時期のイギリスやフランスは「民主主義」で、ドイツは「立憲主義」 、明治の日本は、そのドイツにならったわけです。ドイツは第一次大戦後、ワイマール憲法で議会中心主義になり、そこからナチス政権が生まれて失敗しました。それで、戦後のドイツは強力な憲法裁判所を作ることになりました

 「民主主義」と「立憲主義」は、純粋論理的に考えると緊張関係にあって、決して予定調和ではない。従って、民主主義を象徴する機関が議会だとすると、権力を縛る立憲主義の役割を果たすのは裁判所ということになります。

 アメリカのように大統領をトップとする行政府と議会が別々に選ばれている国は、権力分立は見えやすいですが、日本のような議院内閣制では、「政権与党(議会の多数派)+行政府」と「議会の少数派」の権力分立になります。そして、それとは別枠で裁判所があることになります

 日本国憲法も、ラディカルな立憲主義はとっておらず、この憲法を作ったからには永久に不変という硬直したものではありません。96条で改正手続きを定め、国会の両院で3分の2の議員が賛同するまで議論を尽くしてから国民に提起する、そして国民投票で国民が決めたらそれに従う、という妥協点を持っています

 現在の「安保法制」は、多くの憲法学者が「憲法違反」と考えていますが、一方で政府は安全保障環境が変わったからこの法案の必要性を強調しています。現行法のもとでは、必要だと思うことができそうにもないという時には、現行法を変えるための努力をすべきと考えます。今回の新安保法制で言えば、憲法には改正の手続きもあるのだから、どうしても必要なら、先にきちんと憲法改正を提起すべきだと思います

以上は、ジャーナリストの江川紹子(大手メディアが及び腰であった頃からオウム真理教の危険性を告発していたことで有名です)氏のサイト(立憲主義ってなあに?)から抜粋したものです。このサイトには、上記以外の有益な情報も載っていますので時間のある時に読まれることをお薦めします

-現行憲法の解釈について-

現行憲法の各条規の表現は、一部を除き概して包括的であり、その解釈は人によって、あるいは時代によって異なることが発生します。従って、解釈に疑義が生じた場合は裁判で争い、最終的に最高裁判所が下した判断(最高裁の判例)で憲法の条規を補完することを積み重ねてきました。また、逆に上記の表現が、具体的であるため、時が経つにつれて改定が必要になってくるものもあります
以下に、憲法が政治や社会の実態にどのように合わせて来たか、また今後どのように変わっていくべきかについて述べてみたいと思います;

天皇制関連;
第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく ⇒ 昭和天皇、今上天皇の所謂「象徴業務(戦災地の慰霊行幸、災害地の慰問行幸」につながっています
第2条
 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する

皇室典範
第1条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する
第2条 皇位は、左の順序により、皇族に、これを伝える
 皇長子  皇位継承第一順位:現皇太子
  皇長孫  愛子内親王は皇位継承できない
三 その他の皇長子の子孫
四 皇次子及びその子孫 皇位継承第二順位:秋篠宮
  その他の皇子孫  皇位継承第三順位:悠仁親王
  皇兄弟及びその子孫
  皇伯叔父及びその子孫
  前項各号の皇族がないときは、皇位は、それ以上で、最近親の系統の皇族に、これを伝える。
  前二項の場合においては、長系を先にし、同等内では、長を先にする。
第3条  皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、前条に定める順序に従って、皇位継承の順序を変えることができる。
第4条  天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する ⇒ 今上天皇の生前退位はこれに反する
-以下略-

第3条  天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負う ⇒  昭和天皇、今上天皇の所謂「象徴業務」はどう取り扱うか
第4条;
 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない
 天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる
第5条  皇室典範 の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行う。この場合には、前条第1項の規定を準用する。
第6条;
 天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。
 天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。
第7条  天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行う
一  憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること
二  国会を召集すること
三  衆議院を解散すること
四  国会議員の総選挙の施行を公示すること
五  国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること
六  大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること
七  栄典を授与すること
八  批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること
九  外国の大使及び公使を接受すること。
十  儀式を行うこと
第8条  皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは賜与することは、国会の議決に基かなければならない 

戦争の放棄、自衛隊関連;
第9条;
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する
2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない国の交戦権は、これを認めない
第98条;
 この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない
 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする

砂川事件;
  1957年7月8日、砂川町にある米軍立川基地拡張のための測量で、基地拡張に反対するデモ隊が、米軍基地の立ち入り禁止の境界柵を壊し、基地内に数メートル立ち入ったとして、デモ隊のうち7名が日本国と米国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく行政協定に伴う刑事特別法違反で起訴された事件

砂川事件
砂川事件

 被告側の主張は、米軍の日本駐留自体が憲法9条違反
 第一審の東京地裁が安保条約を「違憲」の判決を下した
 検察側は、二審を経ずに直接最高裁に上告した
最高裁判決;
 憲法第9条は、わが国が敗戦の結果、ポツダム宣言を受諾したことに伴い、日本国民が過去におけるわが国の誤って犯すに至った軍国主義的行動を反省し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、深く恒久の平和を念願して制定したものであつて、前文および第98条第2項の国際協調の精神と相まって、わが憲法の特色である平和主義を具体化したものである
 憲法第9条第2項が戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となって、これに指揮権、管理権を行使することにより、同条第1項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起すことのないようにするためである
 憲法第9条はわが国が主権国として有する固有の自衛権を否定してはいない
 わが国が、自国の平和と安全とを維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置を執り得ることは、国家固有の権能の行使であって、憲法は何らこれを禁止するものではない
 憲法は、自衛のための措置を、国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事措置等に限定していないのであつて、わが国の平和と安全を維持するためにふさわしい方式または手段である限り、国際情勢の実情に則し適当と認められる以上、他国に安全保障を求めることを何ら禁ずるものではない
 わが国が主体となって指揮権、管理権を行使し得ない外国軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても憲法第9条第2項の「戦力」には該当しない
 安保条約の如き、主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係を持つ高度の政治性を有するものが、違憲であるか否の法的判断は、純司法的機能を使命とする司法裁判所の審査の原則としてなじまない性質のものであり、それが一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外にあると解するべきである
 安保条約(またはこれに基く政府の行為)が違憲であるか否かが、本件のように(行政協定に伴う刑事特別法第二条が違憲であるか)前提問題となっている場合においても、これに対する司法裁判所の審査権になじまないのは前項と同様である
 安保条約(およびこれに基くアメリカ合衆国軍隊の駐留)は、憲法第98条、第98条第2項および前文の趣旨に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは認められない
 行政協定は特に国会の承認を経ていないが違憲無効とは認められない

長沼ナイキ(地対空ミサイル)基地訴訟
 1969年、夕張郡長沼町に航空自衛隊の「ナイキ基地」を建設するため、農林大臣が森林法に基づき国有保安林の指定を解除。これに対し反対住民が、基地に公益性はなく「自衛隊は違憲、保安林解除は違法」と主張して、処分の取消しを求めて行政訴訟を起こした

長沼ナイキ基地反対闘争
長沼ナイキ基地反対闘争

 一審の札幌地裁は「平和的生存権」を認め、初の違憲判決で処分を取り消した
 二審の札幌高裁は「防衛施設庁による代替施設の完成によって補填される」として一審判決を破棄、「統治行為論」を判示
最高裁判決;
* 行政処分に関して原告適格の観点から、原告住民に訴えの利益なしとして住民側の上告を棄却したが、二審が言及した自衛隊の違憲審査は回避した

⇒ 最高裁は、砂川事件、長沼ナイキ事件いずれのケースも米軍の駐留や自衛隊の存在に対する直接の憲法判断を避けています。「新安保法制」が憲法違反であるという意見が多ければ、憲法9条の改正を目指すのが本筋かも知れません

法の下での平等関連;
第14条;
1 すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2  華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
3  栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。
第15条;
 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
 すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。
 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。
第44四条  両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める。但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によって差別してはならない

公職選挙法衆議院定数配分規定違憲訴訟(1976年4月14日);
公職選挙法衆議院定数配分規定違憲訴訟(1985年7月17日);
 衆議院議員選挙が憲法に違反する公職選挙法の選挙区及び議員定数の定めに基づいて行われたことに伴う選挙無効を求めた行政訴訟
最高裁判決;
 投票価値の平等は、常に絶対的な形での実現を必要とするものではないけれども、国会がその裁量によって決定した具体的な選挙制度において現実に投票価値に不平等の結果が生じている場合に、合理的に是認することができるものでなければならないと解される
 議員定数配分規定の下における各選挙区の議員定数と人口数との比率の偏差は、憲法の選挙権の平等の要求に反する程度になっていた為違憲と断ぜられるべきである
 しかし、投票価値の平等は人種、信条、性別等による差別を除いては、原則として、国会が正当に考慮することのできる他の政策的目的ないしは理由との関連において調和的に実現されるべきものと解さなければならない
 本件は憲法に違反する議員定数配分規定に基づいて行われた点において違法である旨を判示するにとどめ選挙自体はこれを無効としないこととし、選挙を無効とする旨の判決を求める請求を棄却する

日産自動車事件;
 原告女性は、元々プリンス自動車工業に勤務しており、この会社では男女とも定年が55歳であった。プリンス自動車は1966年に日産自動車に吸収合併され、就業規則で定年を男性55歳、女性50歳と定めていた。満50歳となった原告は1969年1月末で退職を命じられたことに対し、従業員である地位の確認を求める仮処分申請を起こした。しかし、一審・二審とも請求が棄却されたため女性が本訴に及んだ
 本訴では一審・二審とも男女別定年制が違法であると認めたため、会社側が日本国憲法第14条、民法90条の解釈誤りを主張して上告を行った
<民法>第90条  公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする
最高裁判決;
 会社がその就業規則中に定年年齢を男子60歳、女子55歳と定めているが、担当職務が相当広範囲にわたっていて女子従業員全体を会社に対する貢献度の上がらない従業員とみるべき根拠はなく、労働の質・量が向上しないのに実質賃金が上昇するという不均衡は生じておらず、少なくとも60歳前後までは男女とも当該会社の通常の職務であれば職務遂行能力に欠けるところはなく、一律に従業員として不適格とみて企業外へ排除するまでの理由はない。従って、就業規則中女子の定年年齢を男子より低く定めた部分は、性別のみによる不合理な差別を定めたものとして民法90条の規定により無効である
 上告棄却

人権関連;
第19条  思想及び良心の自由は、これを侵してはならない
第21条;
 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない
第23条  学問の自由は、これを保障する

昭和女子大事件;
 昭和女子大学は、学内で無届の政治署名運動を行なったり、無許可で学外団体に加入し、公然と大学を誹謗する活動を続けた学生2名を、1962年2月12日付で退学処分にした。また、当該大学は、穏健中正な校風を持つ大学として学生指導を行い、学則の細則として「生活要録」を定めており、その中で「政治活動を行う場合は予め大学当局に届け、指導を受けなければならない」旨規定していた。当該学生2名は、大学の「生活要録」そのものが、思想や信条の自由を謳った日本国憲法に違反することから、退学処分が違憲であるとして身分確認を求める訴訟を起こした
 一審では復学の請求を認めた
* 二審では一審判決を取り消し、請求を棄却した
最高裁判決;
* 私立大学において、建学の精神に基づく校風と教育方針に照らして学生が政治的目的の署名運動に参加し又は政治的活動を目的とする学外団体に加入することを放任することは教育上好ましくないとする見地から、学則等により、学生の署名運動について事前に学校当局に届け出るべきこと、及び学生の学外団体加入について学校当局の許可を受けるべきことを定めても、これをもつて直ちに学生の政治的活動の自由に対する不合理な規制ということはできない
 学校教育法施行規則13条3項4号により学生の退学処分を行うにあたり、当該学生に対して学校当局のとった措置が本人に反省を促すための補導の面において欠けるところがあつたとしても、それだけで退学処分が違法となるものではなく、その点をも含めた諸般の事情を総合的に観察して、退学処分の選択が社会通念上合理性を認めることができないようなものでないかぎり、その処分は、学長の裁量権の範囲内にあるものというべきである
 学生の思想の穏健中正を標榜する保守的傾向の私立大学の学生が、学則に違反して、政治的活動を目的とする学外団体に無許可で加入し又は加入の申込をし、かつ、無届で政治的目的の署名運動をした事案において、これに対する学校当局の措置が、学生の責任を追及することに急で、反省を求めるために説得に努めたとはいえないものであつたとしても、学生が、学則違反についての責任の自覚に乏しく、学外団体からの離脱を求める学校当局の要求に従う意思はなく、説諭に対して終始反発したうえ、週刊誌や学外集会等において公然と学校当局の措置を非難するような行動をしたなどの事情があるときは、学校教育法施行規則13条3項4号により当該学生に対してされた退学処分は、学長に認められた裁量権の範囲内にある
* 上告を棄却する

信教の自由関連;
第20条;
1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2  何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3  国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
第89条  公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない

 津地鎮祭訴訟;
* 1965年1月14日、滋賀県津市体育館建設起工式の際、市の職員が式典の進行係となり、大市神社の宮司ら4名の神職主宰のもとに神式に則って地鎮祭を行った。市長は大市神社に対して公金から挙式費用金7、663円(神職に対する報償費金4,000円、供物料金3,663円)の支出を行った。
* これに対し、津市議会議員が憲法第20条、及び憲法89条に違反するとして地方自治法第242条の2に基づき、損害補填を求めて訴追した
* 一審で原告の請求棄却
* 二審では原告勝訴
最高裁判決;
* 津市が行った地鎮祭は、目的が専ら世俗的なもので、その効果は、神道を援助、助成、促進するものではない。従って、憲法第20条第3項により禁止される宗教的活動には当たらず、これに対する公金の支出も憲法第89条に違反するものではない

箕面市忠魂碑訴訟;
 1970年代、老朽化した箕面小学校改築工事に伴い忠魂碑を移設・改築する際、土地の買取以外に、忠魂碑を移転・再建するだけでなく、遺族会に代替敷地の無償貸与、及び遺族会主催の慰霊祭に市教育長が参列した。この行為が、憲法20条及び89条違反するとして行われた二つの住民訴訟
 第一審では、忠魂碑は宗教的性質を帯びているものであるとして、市の行為は政教分離に反するとし、且つ、市教育長の慰霊祭への参列に対しても公務とはいえないととする違憲判決を行った
 第二審では、忠魂碑の宗教的性質を否定し、市の教育長の慰霊祭参列に関しても社会的儀礼の範囲内であり、自治体の行為は政教分離を反したものではないとして、住民らの訴えを退けた
最高裁判決;
 忠魂碑が、元来、戦没者記念碑的性格のものであり、特定の宗教とのかかわりが、少なくとも戦後においては希薄であること戦没者遺族会が宗教的活動をすることを本来の目的とする団体ではないこと、市が移設、再建等を行った目的が、忠魂碑のあった公有地を学校用地として利用することを主眼とするもので、専ら世俗的なものであることなどの事情の下においては、いずれも憲法20条3項により禁止される宗教的活動には当たらない
 財団法人日本遺族会及びその支部は、憲法20条1項後段にいう「宗教団体」、憲法89条にいう「宗教上の組織若しくは団体に該当しない
 市の教育長が地元の戦没者遺族会が忠魂碑前で神式又は仏式で挙行した各慰霊祭に参列した行為は、忠魂碑が、元来、戦没者記念碑的性格のものであること、戦没者遺族会が宗教的活動をすることを本来の目的とする団体ではないこと、参列の目的が戦没者遺族に対する社会的儀礼を尽くすという専ら世俗的なものであることなどの事情の下においては、憲法20条、89条に違反しない

言論の自由関連;
第21条;
 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない

博多駅テレビフィルム提出命令事件;
 1968年1月16日早朝、原子力空母エンタープライズの佐世保寄港阻止闘争に参加する途中、博多駅に下車した全学連学生に対し、待機していた機動隊、鉄道公安職員は駅構内から排除するとともに、検問と所持品検査を行った。この際、警察の検問と所持品検査に抵抗した学生4人が公務執行妨害罪で逮捕され、内1人が起訴された。本件自体は、1970年10月30日に無罪判決が出ています

エンタープライズ佐世保寄港阻止闘争
エンタープライズ佐世保寄港阻止闘争

 福岡地裁は、本件の審理に必要だとして、地元福岡のテレビ局4社(NHK福岡放送局、RKB毎日放送、九州朝日放送、テレビ西日本)に対し、事件当日のフィルムの任意提出を求めたが拒否されたため、フィルムの提出を命じた
 この命令に対して当該4社は、「報道の自由の侵害であり、提出の必要性が少ない」という理由で通常抗告を行った
 二審では抗告棄却となったため、当該4社は、最高裁に特別抗告を行った
最高裁判決;
 報道の自由は、表現の自由を規定した憲法21の保障のもとにあり、報道のための取材の自由も、同条の精神に照らし、十分尊重に値するものといわなければならない
 報道機関の取材フィルムに対する提出命令が許容されるか否かは、審判の対象とされている犯罪の性質、態様、軽重および取材したものの証拠としての価値、公正な刑事裁判を実現するに当たっての必要性の有無を考慮するとともに、これによって報道機関の取材の自由が妨げられる程度、これが報道の自由に及ぼす影響の度合その他諸般の事情を比較衡量して決せられるべきであり、これを刑事裁判の証拠として使用することがやむを得ないと認められる場合でも、それによって受ける報道機関の不利益が必要な限度をこえないように配慮されなければならない
* 抗告棄却

北方ジャーナル事件;
 1979年の北海道知事選に立候補を予定していた候補者(元旭川市長)の名誉を毀損する内容の記載がある、雑誌『北方ジャーナル』の発売停止の仮処分を札幌地裁に申請し、即日認められた。これに対して、この雑誌の出版社が、この差し止めが「検閲」に当たるとして、国とこの候補者に対して損害賠償を請求した事件
 名誉を棄損するとされた記事:候補者を、「嘘と、ハッタリと、カンニングの巧みな少年」、「言葉の魔術者であり、インチキ製品を叩き売っている(政治的な)大道ヤシ」、「ゴキブリ共」などと表現し、結論として知事に相応しくないと記載していた
 一審は請求を棄却、二審は控訴棄却
最高裁判決;
 雑誌その他の出版物の印刷、製本、販売、頒布等の仮処分による事前差止めは、憲法21条2項の「検閲」には当たらない
 名誉毀損の被害者は、人格権としての名誉権に基づき、加害者に対して、現に行われている侵害行為を排除し、又は将来生ずべき侵害を予防するため、侵害行為の差止めを求めることができる
 人格権としての名誉権に基づく出版物の印刷、製本、販売、頒布等の事前差止めは、その出版物が公務員又は公職選挙の候補者に対する評価、批判等に関するものである場合には原則として許されず、その表現内容が真実でないか又は公益を図る目的のものでないことが明白、且つ被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被るおそれがあるときに限り、例外的に許される。
 公共の利害に関する事項についての表現行為の事前差止めを仮処分によって命ずる場合、原則として口頭弁論又は債務者の審尋を経ることを要するが、債権者の提出した資料により、表現内容が真実でないか又は専ら公益を図る目的のものでないことが明白であり、かつ、債権者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞があると認められるときは、口頭弁論又は債務者の審尋を経なくても憲法21条の趣旨に反するものとはいえない
 上告棄却

東京都公安条例違反事件;
 デモを主催する者が、東京都公安委員会に許可の申請を行ったところ、公安条例に基づき「蛇行進、渦巻行進又は、ことさらな停滞等交通秩序を乱すような行為は絶対に行わないこと」という条件の下、集団行進の許可を得たが、この件に違反する行動をとったため、東京都公安条例違反で起訴された
 本件に対して、東京都条例の「許可制」は憲法21条1項に違反するとして争った
 その他の地方自治体でも、東京都と同じ様な公安条例を制定しており、同じような訴訟が発生している

<東京都 集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例
第1条 道路その他公共の場所で集会若しくは集団行進を行おうとするとき、又は場所の如何を問わず集団示威運動を行おうとするときは、東京都公安委員会(以下「公安委員会」という。)の許可を受けなければならない
-第2条省略-
3条;
1 公安委員会は、前条の規定による申請があつたときは、集会、集団行進又は集団示威運動の実施が公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合の外は、これを許可しなければならない。但し、次の各号に関し必要な条件をつけることができる。
一 官公庁の事務の妨害防止に関する事項
二 銃器、凶器、その他の危険物携帯の制限等危害防止に関する事項
三 交通秩序維持に関する事項
四 集会、集団行進又は集団示盛運動の秩序保持に関する事項
五 夜間の静ひつ保持に関する事項
六 公共の秩序又は公衆の衛生を保持するためやむを得ない場合の進路、場所又は日時の変更に関する事項
2 公安委員会は、前項の許可をしたときは、申請書の一通にその旨を記入し、特別の事由のない限り集会、集団行進又は集団示成運動を行う日時の二十四時間前までに、主催者又は連絡責任者に交付しなければならない。
3 公安委員会は、前二項の規定にかかわらず、公共の安寧を保持するため緊急の必要があると明らかに認められるに至つたときは、その許可を取り消し又は条件を変更することができる
4 公安委員会は、第一項の規定により不許可の処分をしたとき、又は前項の規定により許可を取り消したときは、その旨を詳細な理由をつけて、すみやかに東京都議会に報告しなければならない。
-第4条~第7条 省略-

 一審では、許可制により一般的制限を課し、その基準も不明確であるという理由で本条例は憲法21条違反として無罪とした
 東京都は控訴したものの、控訴棄却となった
最高裁判決;
* 集団行動は、一瞬にして暴徒と化す危険があるので、地方公共団体が公安条例をもって、不測の事態に備え法と秩序を維持するに必要かつ最低限度の措置を講ずることはやむを得ない
 東京都公安条例は、規定の文面上、許可制を採用しているが、実質は届出制と異ならない
 二審判決を破棄し東京地裁に差し戻した

婚姻の自由関連;
第24条;
 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
 この条規を変えない限り同性婚は認められません。所謂LGBT(Lesbian、Gay、Bisexual、Transgender)の差別に繋がる憲法の規定であり、早急に改正を行うべきであるという意見が多いと思われます

教育の機会均等関連;
第26条;
1 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する
 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育は、これを無償とする。
 貧困に伴う教育の機会均等が失われているという認識が一般化しつつあり、高等学校の無償化、あるいは義務教育期間の延長などの検討を行うべきであるという意見があります

公務員の争議権関連;
第18条  何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない
第28条  勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する
第31条  何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない

全逓東京中郵事件;
 昭和33年の春闘の際、被告人8名が全逓信労働組合の役員として、東京中央郵便局の従業員を勤務時間に食い込む職場集会に参加するよう要請、説得し、38名の従業員に対して職場を離脱させた行為が、郵便法79条1項の郵便物不取り扱い罪の教唆罪に当たるとして起訴された。
 郵便局職員の争議行為禁止規定の合憲性が争点
 第一審は無罪
 第二審は第一審判決を破棄し差し戻し
最高裁判決;
 公務員に対して労働基本権をすべて否定するようなことは許されず、原則としてその権利を認められねばならない
 一方、労働基本権を認めると言っても何等の制約も許されないという絶対的なものではなく、国民生活全体の利益を守るという見地からの制約を受ける
 労働基本権を制限することがやむを得ない場合は、これに見合う代替措置が必要
 二審判決を破棄し差し戻し。結果、無罪となる

全農林警職法事件;
 昭和33年10月、当時の内閣は警職法(警察官職務執行法)改正案を衆議院に提出しましたが、その内容が警察官の職権濫用を招き、ひいては労働者の団体運動を抑圧する危険が大きいとして、各種労働団体(公務員労組を含む)は勿論のこと、全国規模で反対運動が展開されました
 全農林労組総評(日本労働組合総評議会)の統一行動に参加することになり、同労組幹部が同年11月5日午前中の職場大会への職員の参加を指示したことについて、国家公務員法98条5項に違反するとして、同100条1項17号にて起訴されました

警職法改正
警職法改正

* 国家公務員法98条5:公務員は使用者としての公衆に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為をなし、又は政府の活動能率を低下させる怠業的行為をしてはならない。 又、何人も、このような違法な行為を企て、又はその遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおつてはならない
 国家公務員法110条1項17:何人たるを問わず第98条第2項前段に規定する違法な行為の遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおり、又はこれらの行為を企てた者は、3年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処する
 第一審は、被告人らの行為が強度の違法性を帯びない限り当該国家公務員法違反とはならず無罪
 第二審は、本件争議行為を「政治スト」と解し、被告人を有罪判決としました
最高裁判決;
 公務員が争議行為に及ぶことは、その地位の特殊性及び職務の公共性と相いれない。また職務の停滞は、勤労者を含めた国民全体の共同利益に重大な影響を及ぼすか、またはその恐れがある
* 地位の特殊性及び職務の公共性の他、勤務条件法定主義に基づき、公務員の争議行為を一切禁止した国家公務員法98条5項、及び、同法110条1項17号は合憲である
 被告人らは有罪

 都教組事件;
 東京都教職員組合(小・中学校)は、勤務評定に反対し、これを阻止するために、加盟組合員に有給休暇を一斉に請求した上で、1958年4月23日の集会に参加するよう指令し、約37,700名中、約34,000名の教職員が参加しました。そこで、当該組合の委員長、執行委員長、支部長、等の組合役員を、ストライキを煽ったことを理由に地方公務員法37条1項、及び61条4号違反として起訴された事件

勤務評定反対闘争
勤務評定反対闘争

<地方公務員法>
37
1項 職員は、地方公共団体の機関が代表する使用者としての住民に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為をし、又は地方公共団体の機関の活動能率を低下させる怠業的行為をしてはならない。又、何人も、このような違法な行為を企て、又はその遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおつてはならない
61
条 次の各号のいずれかに該当する者は、三年以下の懲役又は百万円以下の罰金に処する
4号 何人たるを問わず、第37条第1項前段に規定する違法な行為の遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおり、又はこれらの行為を企てた者

 被告は、「地方公務員法37条1項、及び61条4号は、憲法28条、21条、18条、31条に違反する法律規定であり無効。従って、被告人の行為は罪とならない。仮に構成要件に該当するとしても、正当行為として違法性が阻却(法律用語で“退けられる”という意味)される」と」主張
 一審は無罪
 二審は有罪
最高裁判決;
 地方公務員法37条1項は憲法28条に違反しない、同61条4号は、憲法28条、18条、31条に違反しない
 東京都教職員組合が、文部省の企図した公立学校教職員に対する勤務評定の実施に反対するため、一日の一斉休暇闘争を行なうにあたり、被告人らが組合の幹部としてした闘争指令の配布、趣旨伝達等、争議行為に通常随伴する行為に対しては、地方公務員法六一条四号所定の刑事罰をもつてのぞむことは許されない
 二審判決を破棄し無罪

以上

北朝鮮危機について

-はじめに-

トランプ大統領が生まれてから、北朝鮮の核開発と大陸間弾道ミサイルの開発を巡って急激に緊張が高まってきました。米国と北朝鮮の公式の言い分だけを聞いていると、今にも戦争が始まってもおかしくないような状況になっています
新聞、テレビなどのマスコミは、国際政治の専門家や軍事評論家などを招いて熱心に分析を行ってみせますが、どうも対岸の火事のような扱いをしているように思えてなりません。また、そうした「空気」が影響していると思われますが、国民全体としても、ウクライナやシリアの内戦をテレビで見ている様な、現実感の無い遠い出来事としてとらえているふしがあります

しかし、北朝鮮はミサイルという飛び道具(米国が恐れる大陸間弾道ミサイルと違って日本に届く中距離ミサイルは既に実戦配備されている)と原子爆弾や化学・生物兵器という大量破壊兵器を既に保有しています

中距離弾道ミサイル_同時発射実験
移動式中距離弾道ミサイル(固体燃料)_同時発射実験

一方、日本は、米国との同盟国として北朝鮮に明確に敵対している状況にあることと、1910年から終戦まで35年間に亘って日本が植民地支配を行なってきたことに対する朝鮮人の人々に共通する怨念などを考慮すると、戦端が開かれたあと最初の攻撃目標に日本の都市や米軍基地が選ばれる蓋然性は、決して低くはないと私は思っています

在日米軍基地・配置図
在日米軍基地・配置図

国際社会による経済制裁や、6ヶ国協議による謂わば「飴とムチ」政策の中で、北朝鮮が着々と進めてきた核開発やミサイル開発は、彼らの体制の維持の為の必須条件となっているため、最早止めようもないという認識が一般化しつつあります
一方、米国にとっても、これまでと違って大陸間弾道ミサイルの開発が最終段階となって、これと原子爆弾がセットになった場合、真珠湾攻撃以来の米国への直接攻撃という大きなリスクを抱えることとなり、少なくとも核兵器の放棄という果実が得られない限り、今までの様な妥協は許されない状況になっています

しかし、今回の危機の当事者である米国、韓国、北朝鮮、中国は、過去の悲惨な朝鮮戦争の当事者でもあり、開戦の決断に対する国民の心理的なハードルは極めて高いことも確かです。また、クリミヤ半島の併合、ウクライナ内戦、シリア内戦の当事者であるロシアも北朝鮮と国境を接し、経済的なつながりも持っていますので、世界の覇権を競うこの三つの軍事大国が激突する構図は避けたいと思っていることに加え、地政学的に北朝鮮という国が、この三つの国の間の緩衝国として必要であるという点で共通認識を持っていると考えられますので、以前の朝鮮戦争の様な全面戦争に発展する可能性はかなり低いと考えられます

ただ、金日成がスターリンや毛沢東の反対を押し切って朝鮮戦争を始めた経緯(下記の注参照)や、金正恩が父である金正日ではなく金日成の統治スタイルの継承を目指している現況を勘案すると、開戦のリスクはゼロではないと思われます
(注)ソ連邦の崩壊後に、金日成がスターリンや毛沢東と交わした極秘電文が公開されています。詳しくは以下の書籍をご覧ください:「朝鮮戦争の謎と真実」/草思社;A・V・トルクノフ著;下斗米伸夫・金成浩訳)

-朝鮮戦争のクイック・レビュー-

ソウルに突入する北朝鮮軍戦車隊
ソウルに突入する北朝鮮軍戦車隊

上の写真は、1950年6月25日、突如北朝鮮軍が38度線を突破して韓国に侵入してきたときのソウルの様子を写した写真です。その後、北朝鮮軍は破竹の勢いで釜山まで進軍し、ほぼ韓国全土を掌握しかけました。しかし、同年9月15日、米軍を主力とする国連軍が仁川に上陸し、北朝鮮軍を圧倒して38度線を越えて北朝鮮を中国国境近くまで追い詰めましたが、建国したばかりの中国の義勇軍が鴨緑江を越えて北朝鮮に侵入して国連軍を押し返し、38度線で膠着状態に陥りました。1953年7月27日、38度線上にある板門店で休戦協定を結んだ後、現在に至っています
一説によれば、この戦争で軍人及び民間人の犠牲者(死者のみ)は、韓国240万人、北朝鮮290万人、中国90万人、米国15万人と言われており、太平洋戦争における日本人の死者数310万人と比べてみてもその死者数は桁違いと言わざるを得ません。しかも同じ民族同志の殺し合いという意味で朝鮮民族にとってその悲惨さは計り知れません
その後、青瓦台襲撃未遂事件/1968年、ラングーン爆破テロ事件/1983年、大韓航空機撃墜事件/1987年、延坪島砲撃事件/2010年、ついこの間の金正男暗殺事件、などなど北朝鮮が仕掛けた事件が数多く発生しているものの、米ソの冷戦、及びこれに続く中国の覇権国家としての台頭という国際情勢の中でギリギリのバランスを保ち、全面戦争に至らないで現在まで65年以上にわたって休戦状態が続いています

敗戦後の日本は、この朝鮮戦争によって米軍の後方基地としての役割から経済復興の足掛かりをつかみ、その後の奇跡的な経済発展の出発点となりました。また、日本に駐留する米軍が朝鮮に出兵することに伴う日本の防衛・治安維持を担うために、1950年7万5千人規模の警察予備隊が発足しました。1952年にはこれが保安隊に改組され、更に2年後の1954年には現在の自衛隊になり、実質的に再軍備がなったことになります。
また、敗戦後の日本は周辺海域に残る機雷除去のために旧海軍の部隊が掃海業務を行っておりましたが、朝鮮戦争勃発後、米軍の艦船に蝕雷(機雷に触れること)による被害が出た為に、マッカーサーの命令で1200名規模の特別掃海隊が組織され、朝鮮海域に派遣されました。この部隊が、元山(現北朝鮮)付近の海域で掃海業務を行っている際に、蝕雷により戦後初の戦死者を出しましたが、憲法9条の建前上この事実はあまり知られないままに歴史のベールに包まれてしまいました

-法体系上留意すべきこと-

日本は、きちんとした「法治国家」であることは異論のない所です。現在の日本の憲法の下で、日本が宣戦布告をしたり、先制攻撃を仕掛けることはあり得ないとしても、不意に北朝鮮から攻撃を受けたとき、あるいは同盟国である米国が北朝鮮との間で戦端を開いた時、日本の法制度ではどのように戦争を始めるのでしょうか、以下に、そのあたりを素人なりに解明してみたいと思います

日本の憲法では、その前文、及び第9条に「戦争の放棄」を謳っています。しかし、内閣法制局の憲法解釈で「自衛権」の存在は認められており、それを根拠に自衛隊という戦力を保持しています(詳しくは私のブログ:憲法についての私の見解 を参照)
この自衛権の発動の手順は、以下の自衛隊法に規定されています;

第七十六条  内閣総理大臣は、次に掲げる事態に際して、我が国を防衛するため必要があると認める場合には、自衛隊の全部又は一部の出動を命ずることができる。この場合においては「武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律(平成十五年法律第七十九号)」第九条の定めるところにより、国会の承認を得なければならない
 我が国に対する外部からの武力攻撃が発生した事態又は我が国に対する外部からの武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至つた事態
二  我が国と密接な関係にある他国(本件の場合、米国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態

ここで大切なポイントは、戦争を始めることにつき改めて国民の意思を確認する機会はありません。政権を担っている政党、及びその政党を率いる総裁(=首相)に判断を委ねることになります(勿論、国会でのチェックは入りますが)

また、現憲法が成立した当時、この様な形での自衛権の行使は想定されていなかったため、一般に戦争を遂行する際当然必要となる「交戦権」は、以下の通り明確に否定されたままになっています;

第九条  国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。
第二項  陸海空軍その他の戦力の保持は許されない。国の交戦権は認められない

一般に「交戦権」とは明確な定義は無いものの、「交戦国が国際法上有する種々の権利の総称であって、相手国兵力の殺傷と破壊相手国の領土の占領などの権能を含むものである」とされております。従って、日本の領土に北朝鮮軍が侵入した場合に、これを日本の領土外に撃退するまでの戦闘行為であれば、今の自衛権の定義の範囲で対応可能と思われますが、ミサイルによる攻撃があった場合に、敵ミサイル基地の攻撃を行うことや、公海上で敵部隊が日本に接近中にある時に、敵部隊に対する攻撃を行うこと、また攻撃をやめない敵国の領土に侵入して攻撃を行うことが現行憲法上可能かどうかは、恐らく議論が分かれるところだと思います

-日本が甘受せざるを得ないリスク-

たとえ北朝鮮から攻撃を受ける蓋然性が低いといっても、もし攻撃を受けた場合のリスクについて国民すべてが正確に認識しておく必要があると私は考えます。以下に、戦端が開かれた後、直ちに発生するリスクについて概説してみたいと思います

<ミサイル防衛上のリスク>
日本が保有する弾道ミサイル迎撃システム(海上に於けるSAM3と陸上におけるパトリオット3による2段階の迎撃)も、命中する確率は100%ではないことと、保有するミサイルの数には限りがあるため、打ち漏らして着弾するリスクは存在します。特に北朝鮮が公言しているミサイルの「飽和攻撃」(沢山のミサイルを同時に一か所に集中する攻撃)が実施された場合、一定の数は打ち漏らしてしまうことは紛れもない現実として受け入れねばなりません

<原子爆弾が使用されるリスク>
原始爆弾がミサイルに搭載できるほど小型化されたという確証は得られていませんが、もし開発完了しているとすれば、同胞である韓国に対して使うよりは、日本にある米軍基地、あるいは日本の大都市に対して使うと考える方が自然です。中でも植民地時代に受けた屈辱や、米軍からの報復核攻撃のリスクを勘案すると、日本の大都市が最初に核攻撃を受ける蓋然性が高いと私は考えています

<化学兵器、生物兵器が使用されるリスク>
化学・生物兵器は、第一次大戦で最初に使用され、極めて非人道的な兵器として知られていますが、コストの安い大量破壊兵器として現在もなおイラクやシリアで実際に使われてきました。北朝鮮は、1997年に発効した「化学兵器禁止条約」に加盟していない数少ない国であり、また、化学兵器、生物兵器をミサイルの弾頭に搭載する技術は保有していると言われています;

サリンガス弾頭
サリンガス弾頭

上の写真にある弾頭の中には、小さな球形のカプセルが詰まっていますがこのカプセルの中に化学物質や細菌が仕込まれ、着弾と同時に広範囲にバラまかれて、人的被害を拡大する仕掛けになっています。
化学兵器は、マレーシアで金正男暗殺(VXガスを使用)に使われたことで分かる通り、北朝鮮にとって使用に係る心理的な障害は皆無であると考えられます。また、人的被害を与えることが目的の兵器なので、使うとすれば人口が密集する大都市が対象となることは当然考えられることです

<北朝鮮の特殊部隊が潜入し、日本国内で破壊活動を行うリスク>
北朝鮮には相当数の特殊部隊が存在していることは周知の事実です。そしてこれらの特殊部隊は極めて危険な任務についても、目的を達するまで戦い通す実力を備えていることは、臨戦態勢に近い状態であった韓国に侵入して起こした「青瓦台襲撃未遂事件」などをみても明らかな事です
一方、日本は「日本人拉致事件」の被害者数を見れば明らかな様に、海からの侵入に対して、無防備な状態に置かれています。北朝鮮が数多く所有している潜水艦を使って少数の特殊部隊を送り込むことは、戦時体制に入れば易しいとは言えないまでも、極めて困難とは言えないと私は思っています
送り込まれる特殊部隊が少数であることを考えると、比較的過疎地にあって発見されにくく、侵入が容易で、防御が手薄な原子力発電所や水力発電所が攻撃対象に選ばれる可能性が考えられます。最も危険な攻撃方法は、原子力発電所にあっては大量の核燃料を保管しているプールの爆破(→水が抜けると燃料溶融が起こる)、水力発電所にあってはダムの爆破(→下流の村落が水害に見舞われる)が考えられます

<韓国に滞在中の日本人が犠牲となるリスク>
1995~96年にかけて第三次台湾海峡危機がありました。当時蒋介石、蒋経国時代(蒋介石と共に大陸から台湾にわたってきた中国人による台湾支配の時代)が終わって、台湾人の李登輝が民選(選挙による)によって総統に選ばれるタイミングに当たっていていました。中国は、台湾の独立は許さないとの立場で強力な軍事的圧力(福建省内の軍隊の移動、台湾海峡を越えるミサイル実験)をかけ、これに対応して米軍は台湾海峡に向け原子力空母を移動させるという、現在の北朝鮮危機と同じ様な状況になっていました
丁度この時期、私は日本アジア航空の社員として台湾に駐在しており、台湾在住の日本人約2万人を有事の際、どのように帰国、乃至台湾外に避難させるかというプロジェクトに関わっていました。この時の体験は以下の通りです;

米国は、台湾在住の米国民間人を全て陸上輸送(完全な制空権が無いという前提)で東岸(台湾海峡の反対側;台北の場合は「花連」に集まる)に集め、そこで待っている米軍の艦艇に乗せて避難させるという計画でした
一方、日本には戦闘状態に入っている空域を飛ぶ民間機は考えられないこと、自衛隊も憲法の制約(当時は勿論「新安保法制」は無かった!)で来ることは不可能であったため、自前で避難させる手段は無く、残るは米軍の情け!というありさまでした
実は、1990年8月、イラクによるクウェート侵攻があった時、日本人214人が取り残されて帰還を許されず「人間の盾」として使われた歴史があります(日本人を含む人質全員の解放はこの年の12月になります)。この時、米国民は全て迅速に避難していて人質には取られませんでした

今回のケースでは、韓国在住の日本人は7万人に達すると言われており、避難計画は相当困難であると考えられます。プラスの要素としては、新安保法制の一環で自衛隊法が改正され、同法第八十四条の三、で、在外邦人保護のために自衛隊の航空機や艦艇を送ることができることとなりました。しかし、実際に自衛隊を派遣するためには当該国の許可が必要とであり、有事の際、韓国が許可するかどうかは今のところ不明です

-現在のリスク管理の状況-

もし米国と北朝鮮が戦端を開けば、日本人一人ひとりに、好むと好まざるとに関わらず、如上のリスクが降りかかります。国及び地方自治体の関係機関は、国民に被害が及ばない様に、またリスクを極小化するように活動することは当然ですが、現在まで公表されている政府の対応は以下の通りです;

1.最も緊急を要する情報は、ミサイル発射の情報と着弾予想地点の情報です。これは(J-ALERT)というシステムで一般国民に瞬時に伝達される仕組みが構築されています
2.武力攻撃やテロが実際に発生した場合、国民一人ひとりが自身の身を守るために実施すべきことは、内閣官房・国民保護ポータルサイト武力攻撃やテロなどから身を守るために)に纏められています。大変参考になる内容ですので、是非一読されておくことをお勧めします
尚、マスコミでも広く取り上げられておりますが、J-ALERTの情報を受けて、現在自分にいるところに実際に着弾する可能性があると考えられる場合の自身のとるべき行動については「弾道ミサイル落下時の行動について」でパンフレット1枚に簡単にまとめられておりますので、これも是非一読されることをお勧めします

上記政府の対応で、北朝鮮から攻撃があった場合に取るべき行動についてはカバーされていると思いますが、原子爆弾が投下された場合の行動については、日本が唯一の被爆国であり、且つ福島原子力事故にによる混乱の記憶も生々しい事から、もう少し詳しい説明が必要であると思われます。以下は、原子爆弾や放射線についての常識ですので、知っておいて損は無いと思います
尚、以下について説明がわからない部分があれば、以前投稿した私のブログ(原子力の安全_放射能の恐怖?)をご覧になっていただければ幸いです;

3.原子爆弾による主な直接的な被害は、爆弾炸裂と同時に放たれる電磁波粒子線衝撃波によって発生します。
電磁波とは、波長の短い(=エネルギーが大きい)順に、ガンマ線エックス線紫外線可視光線(普通の光のこと)、赤外線、テレビ・ラジオなどの電波のことです。また、電磁波は光の速度(30万キロメートル/1秒)で到達しますので、ピカッと原子爆弾が炸裂した時の火の玉を見た時には既に自身の体は被曝していると考えていいと思います。。政府の発行するパンフレットでミサイル発射の情報が入ったらすぐに求められている「できる限り頑丈な建物や地下街に避難する」、「物陰に身を隠す、、」とい行動は、この理屈からきています
電磁波のうちガンマ線エックス線はエネルギーが大きく(=人体への影響が大きい)、且つ透過力が強いので、爆心地から離れていても注意が必要です
波長の長い電磁波である赤外線は「熱線」と同じですから、爆裂に伴う強烈な赤外線を受ければ、木材などの発火性の高い建物は、瞬時に発火します。ここから木造住宅に隠れるのは薦められないことが分かります

* 粒子線とは、核分裂の際に生まれる様々な原子の高速の飛翔を意味します。従って、粒子線の速度は様々ですが、電磁波より遅い速度になります。尚、電子の粒子線はベータ線、ヘリウムの原子核の粒子線はアルファ線という放射線でご存知の方が多いと思います。これ以外で恐ろしい粒子線は「中性子線」です。中性子は電気的に中性なので、他の粒子と違って電気的な反発を受けることが無いので透過力が非常に強く遺伝子を破壊する力も大きいので、爆心地から離れていても注意が必要です。中性子線による被害例としては、1999年の東海村JCO臨界事故があります。二人の方が亡くなりましたが、この被害の特徴は即死はしないものの、数十日にわたって徐々に体内の臓器が機能を失って死に至るという経過を辿ります。中性子線を防ぐには水素原子と衝突させることが一番で、原子炉の中で多くの水(酸素原子と水素原子が結び付いた分子です)が使われるているのはその理由からです。また原子炉の建屋に厚いコンクリートが使われるのも、コンクリートには30%程度の水が含まれているからです。政府パンフレットの言う、「できる限り頑丈な建物や地下街に避難する」という表現はこの理屈からきています。ただ、丈夫な建物とは、コンクリート製の重厚な建物のことで、最近の高層ビルに多い鉄骨とガラスで出来ているような建物は含まれません。地下街はコンクリートに囲まれており、且つ水分を多く含む土砂がまわりを覆っているので中性子線を遮る効果が大きいと考えられます(⇔原子爆弾の被害を防ぐ目的でつくられる核シェルターは地下街と同じ構造です)

衝撃波とは、爆風とも言われますが、爆裂によって生じた強烈な音波のことです。従って伝播速度は電磁波や、粒子線よりずっと遅く空気中では330メートル/1秒の速度で進みます。中学校の頃の理科で学んだと思いますが、雷の稲光と音の時間差で雷の発生場所からの距離が分かる様に、原子爆弾の場合も、炸裂によって生じた「ピカッ」と「ドン」の時間差で、大体爆心までの距離が分かります
音波といっても、その破壊力は凄まじく、近くで浴びれば、人体もバラバラになってしまうほどです。ごく最近、米軍がアフガニスタンのISの地下基地攻撃に使った「大規模爆風爆弾(MOAB)」はこの衝撃波の破壊力を利用したものです。政府の発行しているパンフレットで言っている、「部屋の中に入る場合、窓から離れるか、 窓のない部屋に移動する」、「物陰に身を隠す、、」という表現はこの理屈からきています、尚、部屋の外であってもガラスの面積の多い最近の高層ビルでは、衝撃波によって破壊されたガラスの破片で大怪我や死者が出ることに注意しなければなりません。因みに、1974年の三菱重工東京本社ビル爆破事件では、爆破によってビルから落ちてきたガラスの破片で通行人にまで死者がでました

* 尚、上記に様に恐ろしい電磁波粒子線衝撃波は、当たり前の事ですが爆発が起こった場所から「球状(ボールの様に)」に広がってゆきます。従って、電磁波、粒子線、衝撃波の強度(=殺傷力)は、遠くになればなるほど弱まっていきます。その弱まり方は、球の表面積(表面積=4x円周率x中心からの距離の2乗)に反比例すると考えられます。従って、例えば爆心地から1キロメートルの電磁波、粒子線、衝撃波の強度をとすれば、10キロメートル離れたところの強度は理論的には100分の1になることになります。原子爆弾の直接の被害は爆心地からの距離によって著しく異なるのはこのような理屈によるものです。

4.上記の様な直接の被害のほかに、原子爆弾の核分裂により生成された所謂「死の灰」による被害も注意しなければなりません。広島、長崎に原子爆弾が投下された後、被害地に立ち入って被害者の捜索、救出などに携わった方々が、この「死の灰」から発生している放射線を浴びた(外部被曝)ため、あるいはこの「死の灰」を体内に取り込んでしまった(内部被曝)ために、放射線障害を起こしました。当時被害に会われた方々は、原子爆弾や放射線についての知識が全くなかった訳ですから当然と言えば当然です。しかし、原爆投下から70年以上が経過し、多くの知見が積み重ねられた来たため、「死の灰」による被害を極小化することは十分可能な事です
福島事故の際、ネット情報に踊らされて傷薬に使われる「ヨードチンキ」を飲んだ人います。確かに「死の灰」に含まれる放射性ヨウ素(ヨウ素131、133)は子供の体内に中入ると、甲状腺に取り込まれて甲状腺がんを引き起こすリスクがありますが、大人の場合はそのリスクは低く、あまり心配する必要はありません。またヨウ素製剤を使うのはいいのですが、「ヨードチンキ」は体内に入れば毒になります

* 「死の灰は風によって運ばれますので、風向きによっては爆心地から離れたところでも降り注いでくることになります。例えば、福島事故では水素爆発によってまき散らされた放射性物質を含んだチリが、南東の風によって流され、且つ地形の影響を受けながら下記写真の地域に降り注ぎました。多く降りそいだ赤い地域は、長期間立ち入り禁止区域に指定されたことはご承知の通りです;

福島原子力事故・被害地域
福島原子力事故・被害地域

つまり、「死の灰」による被害を受けないためには、爆心地付近に立ち入らないことは当然の事として、「死の灰」が降る地域の情報は、福島事故の教訓を踏まえて政府により迅速な情報提供が為されるとは思いますが、情報が遅かった場合、爆心地に比較的近い人は、自己防衛の為にも風向きに注意を払うことが賢明であると私は思います

* 不幸にも「死の灰が降る環境に身を晒してしまった場合、内部被曝を避けるために口や鼻を覆うことがまず必要になります。また自宅であれば、できる限り早めに衣服を脱いで汚染されていない服に着替えること、シャワーを浴びて完璧に身体全体を洗浄すること重要です。因みに、原子力発電所で作業を行っている労働者も全く同じことを行っていますで、外部被曝であればそれ程心配する必要はありません
一方、いくら口や鼻を覆ったとしても呼吸をしている以上僅かでも体内に入ってしまう(内部被曝)ことは避けられません。体内に入った放射性物質の量は勿論、ストロンチウム90のように、半減期が長く生理的に体内の組織に取り込まれる様な微量であっても危険なものもありますので、できるだけ早期に「ホールボディー・カウンター」を備えている医療機関に行って、体内に入った放射性物資の検査をすることをお勧めします

いずれにしても、ネットからの流言飛語に惑わされることなく、政府からの情報を漏らさず受け取る体制を整え(テレビ、ラジオ、スマホ/携帯電話などの通信手段の確保は非常に大切)、自身の知識を総動員して、冷静に対応することが重要です

以上