アンダーソン(Benedict Richard O’Gorman Anderson/1936年~2015年;米国コーネル大学政治学部名誉教授)によれば、「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体」であり、言語や地理的、経済的共通性はない」としています。国民を構成する一人ひとりは、他の大多数の同胞を知ることも、会うことも、彼らについて聞くことがなくても、一人ひとりの心の中には共同のイメージが出来ています。例えば、2015年にジャーナリストの後藤健二さんがイスラム国で殺害されたとき、多くの日本人は義憤にかられましたが、殆どの国民は彼に会ったことも無く、彼の活動も知らなかったにも拘わらず、大多数の日本人の心の中には、彼の死が同胞に対して起きている危機だという心が生まれました。また、尖閣諸島にしても、殆どの人が一生の間で一度も行くことが無いにも拘わらず、日本人の「想像の共同体」の中で、「尖閣」が重要な位置を占めてしまいます。これは韓国人にとっての「独島/竹島」や「慰安婦」も同じことであると言うことができます
ゲルナー(Ernest Gellner/1925~1995年;ユダヤ人;歴史学者、哲学者、社会人類学者)は、ナショナリズムに関する誤った考え方は以下の4つに集約できると述べています;
① ナショナリズムは自然で、自明で、自己発生的なものである。もし存在しないとすれば、それは強制的に抑圧されているからに違いない ⇒「原初主義」的な考え方
② ナショナリズムは観念の産物で、悔やむべき不測の出来事によって生まれたものに過ぎない。ナショナリズムなしでも政治は成り立つ ⇒ 典型的な「道具主義」的な考え方 ③ 本来、階級闘争に向けられるべきエネルギーが、間違って民族運動に向けられてしまった ⇒「マルクス主義」への皮肉 ④ ナショナリズムは暗い神々、先祖の血や、土の力が再出現したものである ⇒「ナチズム」の考え方
ゲルナーの民族の定義; ① 人と人とが、同じ文化を共有する場合のみ、同じ民族に属すると言える。その場合、文化が意味するものは、考え方・記号・連想・行動とコミュニケーションとの様式から成る一つのシステムである ② 人と人とが、お互い同じ民族に属していると認知する場合にのみ同じ民族に属する。言い換えれば、民族とは人間の信念と忠誠心と連帯感によって作り出された人工物である
<考察>
歴史的背景から分かるように、ロヒンギャの悲劇の原因は; ①イギリスの植民地政策:ベンガルからの大量のベンガル人ムスリムの移民を行ったこと ② 太平洋戦争時にイギリス軍がベンガル人ムスリムの移民を武装させ、日本軍と戦わせたこと ③ 太平洋戦争時に日本軍がアラカンの仏教徒を武装させ、イギリス軍と戦わせたこと ④ ビルマ独立に際して、イギリスが民族問題に関して適切な指導を行わなかったこと
この同君連合体制はおよそ100年間続きましが、国家としての統一はできませんでした。この間、清教徒革命(Puritan Revolution/Wars of the Three Kingdoms;1641年~1649年にかけてイングランド・スコットランド・アイルランドで起きた内戦・革命)、1688年の名誉革命(Glorious Revolution)と動乱が続きました 1707年、イングランドとスコットランドの両議会で統一が決定(グレートブリテン王国)されましたが、その後もスコットランドでは武力反乱が起きては鎮圧されることが続きました。1745年には大規模武力反乱(「the Forty-Five」と呼ばれている)が発生、翌年カロデンの戦い(Battle of Culloden/スコットランド北部のハイランド地方)でスコットランドは大敗北を喫しましたが、ここでイングランド政府軍(司令官カンバーランド公ウィリアム・オーガスタス)が負傷者や残党の大虐殺を行ったとされ、これが長きに亘ってスコットランド人の対イングランド感情に影を落としています。この戦いの後、政府は民族衣装のキルトやタータン模様の着用と武器の所有を法律で禁じ、伝統の氏族制度を解体しましたが、これはスコットランド人にとっては非常な屈辱であったと考えられます。尚、キルト着用禁止令は36年後に廃止されました
ウェールズは、ケルト系の小国家群が続いた後、13世紀にフレウェリンが統一を試みましたが、イングランド王エドワード1世と戦って敗北しイングランドの支配下に入りました。エドワード1世はウェールズ人をなだめる為に妊娠中の王妃をカナーヴォン城(Caernarfon;世界遺産)に連れて行き、そこで生まれた王子をプリンスオブウェールズ(Prince of Wales)と呼びました。現在でも、英国の第一王位継承者に与える公式の称号になっています(現在、チャールズ皇太子がプリンスオブウェールズです)
ウェールズ、スコットランド、アイルランド、それぞれの民族問題を概観すると、民族問題は、権力にあるものの対処の仕方によって劇的な違いを生むことが分かります; ① 差別は民族独立に強力なエネルギーを供給する。特に虐殺行為がこれに加わると数百年続く独立運動のエネルギーを生み出す(スコットランド、アイルランド) ② これに宗教の対立が絡むと、より悲惨な結果を招き、独立以外の解決策は無くなる(アイルランド) ③ 支配者が被支配者に対して名誉を与え、寛容を示せば民族間の対立は表面化しない(ウェールズ) ④ 民族紛争は荒廃をもたらし、妥協による民族の融和は繁栄をもたらす(北アイルランド)
民族問題に関心の薄い日本も、第二次世界大戦までは、多くの民族をその支配下に置き、統治を行って来ました; ① 日清戦争後の下関条約で清国から台湾の割譲を受け、以後約50年間台湾を統治してきました。台湾には、福建省などから移民した中国人に加え、山地民族(9族)が居住しており、明治政府はその統治に非常に苦労しました。しかし、教育の普及等、社会インフラの整備などにより、終戦までは安定した統治が行われていました。1990年代の初めに、私自身台湾に駐在する機会がありましたが、外省人(1949年共産軍に敗れ台湾に脱出した蒋介石軍、約200万人)以外の台湾人は概ね親日的であったように思います。現在でも日台関係は良好であり、台湾の統治は失敗ではなかったと私は思っています。また、日本の統治が行われる前の台湾は、歴史的には清国の領土とはいえ「化外の地(けがいのち/中華文明に於いて文明の外の地方を表す用語)」と呼ばれ、社会インフラの整備が全く行われていなかったことも、日本を受け入れた背景にはあったと思われます
② 日露戦争後のポーツマス条約で、南千島、南樺太を日本の領土に加えましたが、もともとロシア人やエスキモーの人口の少ない所であったと思われますので、日本人の植民によって軋轢を起こしたことは無かったと考えられます
③ 1910年日本に併合した朝鮮については、第一次世界大戦後に沸き起こった独立運動を抑圧したこと、皇民化政策(宗氏改名、徴兵制/1944年~、、)を進めたこと、などにより民族の誇りを踏みにじったことが、現在まで続く反日感情や慰安婦問題の追求、靖国参拝問題に繋がっていると考えられます
① 長患いをしないこと;
簡単に言えば、古来理想的な死に方として言われている「ピンピン・コロリ」を目指すという事になるのではないでしょうか。脳死後の延命措置や、回復の見込みのない老人に「胃ろう(胃に直接流動食を注入できるようにすること)」の施術を行うこと、などは長患いの原因になります。これを避けるには、自身で判断が出来なくなる前に、予め近親者に意思表示しておくことが必要になります。最近106歳で亡くなった聖路加病院名誉院長の日野原重明さんは、ご自身で延命措置を拒否されて大往生を遂げましたが、私たち夫婦もこれに倣った生き方を目指したいと時折話し合っています
長患いをしないためには、肉体的な健康を維持すること、精神的な健康を維持することが必須条件になることは言うまでもありません
② 肉体的な健康を維持すること;
最近のテレビを見ていると、健康食品、サプリメント、健康増進器具、その他老人の健康維持、向上を謳ったコマーシャルが異常に多いことに気がつきます。コミュニケーションの手段がSNS中心となってしまった若者世代や、スマホを操り、ドラマはネットテレビに限るなどと嘯く先進的な!中年層が、ニュースを除くテレビ番組から離れてしまった事など、マスコミ業界の構造変化が、こうした老人向けTVコマーシャルの氾濫に繋がっているものと考えられます。ただ、薬や器具に頼るよりも、年齢に応じた運動を行うことの方が、楽しく、且つ健康的であることは医者に説教されるまでもなく、誰しもが納得できることではないでしょうか
年を取るにつれ、体力の衰え、運動神経の衰えに見合った軽度な運動に移行してゆくことは自然の摂理に適うことと思われます。軽度な運動の代表格は何と言っても「歩くこと」であることは誰しも依存の無い所だと思います。太古の昔から、歩けることは生きていることと同義語であったと思います。激しいスポーツが出来なくなっても、積極的に歩くことを心掛けることによって介護に頼らずに生きていく為の筋力が維持でき、少なくとも若者の負担にならない生活が可能になると考えても良さそうです
③ 精神的な健康を維持すること;
ここでは、統合失調症の様な精神病やアルツハイマー症に代表される認知症は、医学の発展に期待することとして除外して考えたいと思います。ただ、老人性のうつ病については、生き甲斐との関連が深い事から考察の対象したいと思います
精神的な健康をどう定義するかは中々難しい問題ですが、少なくとも「燃え尽き症候群に陥っている」、「何をやる気にもならない」、「死ぬことが不安で他の事が考えられない」、「政治、経済、その他、世の中で起こっている事に全く興味が湧かない」、、、などの精神状態にある時は精神的に健康であるとは言えないと思いますが、如何でしょうか?
こうした状況は、外界からの刺激を自らが遮断する結果となり、更に悪い精神状況に追い込まれるという負のスパイラルに迷い込んでいくことになりそうです。明治維新を担った志士は、関門海峡を我が物顔で行きかう外国船から強い刺激を受け、これを革命のエネルギーに変えていったと言われています。老人も外部の刺激に自分を晒すことによって生きるエネルギーを生み出すことが必要と思われますが如何でしょうか? 例えば、私など俗物は時折若者文化の坩堝となっている繁華街に出て行くことでエネルギーを貰っています。海外旅行の好きな方は、成熟した文明国を訪ねるよりも、発展途上国のエネルギーに触れることも一考に値すると思われます
私は繁華街以外に、時としてビジネスの中心街に出向くことがあります。高いハイヒールを履いて颯爽と歩く若いビジネス・ウーマンに追い越されそうになって、慌てて歩を早める自分に気が付きます! 普段老人とばかり歩いていると気が付かないポイントですね!
今年は以下の様な実験的な試みを行いました;
① 真夏になると、水分の蒸発が盛んになり、朝晩2回の水やりでは水が不足する(特に根が張る深い所)ことが多くなるため、これに対する対策を工夫してみました(下記参照)。尚、プロの農家の方は、根元に藁を布いて乾燥を防いでおります。しかし、東京のホームセンターでは藁が非常に高い事(米作りの機械化が進み、コメの収穫機/コンバインで籾と藁に分離した後、藁は細かく裁断されて田圃に戻される為、米作りの副産物としての藁が残らない為と推定しています)、土を再生する時に藁の処理が面倒くさい!ので、最近は止めています
② 3月に育てた苗を一度に栽培すると、収穫できる時期が短くなることと、収穫最盛期には採れすぎて、夫婦二人では食べきれなくなります。そこで、種から育てている強みを生かして、栽培を三期(3月、5月、7月の種蒔き)に分けて細く長く収穫し続ける工夫をしてみました
「覇権」を表す英語は”Hegemony”、この語源を英語版Wikipedia で調べてみると;「Hegemony is the political, economic, or military predominance or control of one state over others. In ancient Greece, hegemony denoted the politico–military dominance of a city-state over other city-states. The dominant state is known as the hegemon.」とあり、要約すれば、ギリシャ時代「ある都市国家が、他の都市国家に対して、政治的、経済的、軍事的に支配している場合、この都市国家のことを「覇権国家」(Hegemon)と呼ぶ」ということになります
一方、1966年から11年間に亘って続いた「文化大革命」によって、政治的、経済的に大きな傷を受けた中国は、その後、鄧小平指導の下に改革開放政策を始め、経済的な発展を開始しました。1986年には自由主義経済の象徴であるGATT(General Agreement on Tariffs and Trade/関税と貿易に関する一般協定)加盟を申請しましたが、なかなか加盟を認められませんでした。申請から15年後、GATTの後継組織であるWTO(World Trade Organization/世界貿易機関)加盟を実現しました。その後、リーマン・ショックも無事乗り切り、好調な輸出を背景に経済の急速な発展を実現しました。更に、経済発展に合わせて、軍事力の強化に邁進すると共に、輸出で得られた潤沢な外貨をアジア、アフリカへの投資、援助に振り向けることによって、国際政治においても大きな発言力を持つに至りました。中国主導で2013年に設立された「アジア開発投資銀行」はその象徴でもあります。今や、南シナ海の軍事基地化、一帯一路政策の推進、など「覇権国家」としての野心をあからさまにしています
辞書には色々な定義が書かれていますが、要約すると以下の様に定義することができると思われます;
① 戦争を外交の主たる手段と考え,外交問題を解決する手段として軍事力を最優先すること
② 戦争は避けられものではなく、戦争の遂行は国民全てにとって神聖な使命である
③ 戦争遂行のために、国民全員に対し、自己犠牲や国家に対する忠誠を美徳とし,勇気や冒険をたたえ,体力の鍛錬を推奨する
④ 上記の結果、常に軍人が最高の社会的地位を占め,教育,文化,イデオロギー,風俗習慣などが軍事優先となり、国家全体が「兵営」の様な観を呈する
確かに、戦前、戦中の日本や、ドイツは、正に上記定義の様な軍国主義国家であったことは紛れもない事実であると思われます
しかし、ドイツや日本の様な「軍国主義国家」と戦争をすることになった、連合国側ではどうだったでしょうか? 上記①~④について検証してみると;
① 外交問題で解決できなかったために、最後の手段として戦争が選択された
② (避けられなかった)戦争の遂行は、国民全てにとっての使命であった(宗教的理由で徴兵を忌避することを許すかどうかの問題はある)
③ 全く同じ様なことが行われていたと思われます
④ 戦争を勝ち抜くために軍事優先の国内体制を整えたものの、軍人が最高の社会的地位を占めることは無かった
ペンは剣よりも強し(イギリスの政治家・小説家ブルワー・リットンの戯曲『リシュリュー』にある「The pen is mightier than the sword.」の訳)とは言いますが、この時代の新聞記者たちは、特高の恐怖の前で、保身を優先せざるを得なかったということでしょうか。それとも本心から書かれた記事が正しいと思っていたのでしょうか。
こうした許されざる行為は、何故行われたのでしょうか。これに対する答えは、実際に下士官として従軍した経験を綴った「私の中の日本軍;(著者:山本七平から)」に詳しく書かれています(詳しくは、私の読書メモをご覧ください)
この中で、特筆すべき点は;
① 日本軍の戦略・戦術には「兵站」の重要性が考慮されておらず、敵を追って進出した地域での兵士の食料の調達は、略奪に頼る以外に方法がない場合が屡々起こった(当時の日本軍は、飯盒炊爨が原則となっていたので、天候が悪かったり、燃料となるものが現地で調達できなかった場合は当然略奪しか選択肢が無かった)
② 陸軍刑法を遵守するためには、厳正な軍紀の適用が不可欠であることは当然の事ですが、前線にあって実際に罪を犯す可能性のある下士官、兵卒には軍紀が全く行き届かず、あるのは古参兵と新兵の上下関係だけであったとのことです。こうした無法状態の中で、戦闘における極度の緊張が解けた時、本能のままに民間人への暴行・凌辱・殺人や略奪、捕虜に対する暴行・凌辱・殺人が行われていたと考えられます
③ あまりに酷い軍紀の乱れに、何度も通達が出されていますが、全く効果が無かったとのこと
多くの戦線において日本の敗色が濃厚となったころから、多くの将兵が死ななくてもいい命を落としました。その原因として以下が考えられます;
① 「兵站」が考慮されていない作戦で、弾薬や食料が尽きた後に玉砕
② 制海権が失われた島嶼地域の防衛に当たらせ、退路が断たれ玉砕
③ 食料の供給や、移動の手段を考慮せずに大軍を動かした結果、飢えや疫病で大量死を招いた
これらはいずれも、兵站や退路を考えない杜撰な作戦の為に多くの兵士の命を失ったことになり、責任の多くは生き残った者の多い作戦参謀にあったと考えられます
今や、防衛費だけ見れば世界の8番目に位置し、最新鋭の防衛装備を有する軍事大国日本が、悲惨な歴史を繰り返さないためには、以下の様な対応が必要であると私は考えています(自衛隊法法参照);
① 政治による自衛隊の統制を厳格に行うこと(但し、軍事知識に乏しい政治家が無謀な判断をしない様に、軍事行動が行われる時には、自衛隊制服組の判断を大切にすること) — 自衛隊法第7条~9条に明確に規定されています
② 自衛隊員は規律を遵守すること — 同法第56条、57条、59条に明確に規定されています
③ 自衛隊内で政治に関わることを一切禁止すること(自衛隊法にも明確に記述されており、当たり前の事ですが、) — 同法第61条に明確に規定されています
④ 戦闘行為が発生した場合、メディアによる報道は、真実を伝えることに徹し、自身の意見で世論を操作することが無いように心がけること
⑤ 国民一人ひとりが、確かな報道を基に自身の国土防衛に関する考え方を持ち、これを国政選挙の投票に反映させること
⑥ 国政選挙において、政党はその綱領において、日本の防衛に対す考え方を明確にしておくこと
愛国心
1.「愛国心」とは
愛国心と言っても、国によって、人によって、その意味が少しづつ違います。従って、幾つかのタイプに整理して考えてみたいと思います; ① 国土(地理的な意味での国土)を愛し、国土に忠誠を誓うこと
② 民族を愛し、民族に忠誠を誓うこと。国土が分割されていたり、国土が無かったとしても、その忠誠は変わりません
③ 宗教に忠誠を誓うこと。宗派別に考えた方がいい宗教もあります
④ 統治者に忠誠を誓うこと
⑤ 政治体制あるいはそれを代表する党派に忠誠を誓うこと
②イギリスの国歌:「God Save the Queen」
曲のルーツははっきりしていませんが、現在知られているメロディーに最も近い編曲は1745年頃、当時有名な作曲家であったトマス・アーン(Thomas Augustine Anne)によって行われたことが知られています。当時、名誉革命後の反革命勢力との争いがあり、祖国の勝利への強い願いが込められています 主題:女王(王)に神のご加護を願うこと → 女王(王)に対する忠誠心を鼓舞する
③アメリカ合衆国の国歌:「星条旗よ永遠なれ」
1812年の米英戦争に於いて、優勢であった英国軍に包囲され、集中砲火を浴びながら守り抜いていたボルティモア港「マクヘンリー砦」に翻っていた星条旗に感銘を受けたフランシス・スコット・キーが書き上げた詩「マクヘンリー砦の防衛(The Defence of Fort McHenry)」が元になっています 主題:祖国防衛の為に戦う勇者の象徴として国旗を謳いこんだ → 愛国心を鼓舞する
* 太平洋戦争末期、米軍に大きな犠牲を強いた硫黄島攻防戦(1945年2月)で大きな犠牲をはらって「摺鉢山」を制した海兵隊員が、頂上に星条旗を立てた時の写真が新聞に掲載され、愛国心を鼓舞したことはよく知られています
② 満州からの引揚げ:満州に取り残された日本人は約105万人。ソ連軍の撤退が本格化する1946年3月まで引揚げは全く行われませんでした。ソ連軍撤退後に進駐した中華民国軍が米軍の輸送用船舶を使って引揚を実施しました。1946年内には中共軍支配地域を含めて大半の日本人が引揚げていきました
しかし、若い女性など一部の人は中共軍に拉致され、第二次国共内戦に参加しました。 満州在住の日本人の犠牲者は、日ソ戦(9月初旬まで続いた)での死亡者を含め、約24万5千人に上り、このうち8万人近くを満蒙開拓団員が占めています。満蒙開拓団の悲劇については、私のブログにある記事:「麻山事件」を読んで をご覧ください
③ 南樺太、北朝鮮、および大連のソ連軍占領地区からの引揚げ:南樺太に取り残された日本人は約40万人。1947年2月、ソ連は南樺太をソ連領に編入(根拠:ポツダム宣言第8項:「カイロ宣言の条項は履行され、また、日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国、並びに我々の決定する諸小島に限られる」)し、ソ連の施政下でロシア人と同じ労働条件で生活することとなりましたが、正式な引揚が開始される前までに約2万4千人が密航により北海道に逃れたと言われています
1946年春以降、米ソ間で南樺太、北朝鮮、大連のソ連軍占領地区からの引揚が協議され、同年11月27日に「引揚に関する米ソ暫定協定」、同年12月19日に「在ソ日本人捕虜の引揚に関する米ソ協定」が締結され、引揚が開始されました。1949年年7月の第5次引揚まで29万2千590人が引揚げました。しかし、朝鮮人家族のいた人や、ソ連に足止めされた熟練労働者らは少なくとも1500人が南樺太にとどまりました