災害のリスクについて考えてみました

はじめに

毎年3月11日近くになると、新聞やテレビ、等のマスメディアは2011年に発生した「東日本大震災」の特集が組まれます。この未曽有の大災害は、地震による「建物の倒壊」の人的被害もさることながら、多くの死者、行方不明者を出した「大津波と、放射性物資が飛散したことに伴う広範囲且つ長期にわたる住民避難をもたらした福島第一原子力発電所の「原子力事故による被災者の生活に焦点を当てて報道されるものが多い様です

1995年に起こった阪神淡路大震災では6千人以上の死者を出しましたが、これは「建物倒壊」による死傷者の他に、倒壊した建物の中に閉じ込められた状態のまま地震によって発生した「大火災」によって亡くなった方も多かったと聞いています
また、雲仙普賢岳の噴火(1991年)、御嶽山の噴火(2014年)など、「火山の噴火」に伴う大災害も、歴史を辿れば枚挙にいとまがありません

これらの大災害の第一原因となる地震や噴火は、いずれも地球規模の地殻の変動によってもたらされることはわかっており、日本に住む以上、避けることができないことは明らかです。20世紀中頃に提唱されたプレートテクトニクス/Plate Tectonicsという理論によって発生のメカニズムは説明できる様になったものの、緻密な地質調査や、最新のセンサー、GPSを駆使した観測によっても地震や噴火の予測は人的災害を大幅に防ぐレベルには達していません

そこで、自然災害に関しては全くの素人である私ですが、学生時代から40年以上にわたって航空機に関わってきたこと、またサラリーマン人生最後の10年ほどは原子力ビジネスに関わってきたことことで得た知識を何とか生かせないかと、無い!知恵を絞ってみることにしました
因みに、航空機の場合、1903年にライト兄弟が最初に動力飛行を成功させてから凡そ100年しか経っていませんが、現在安全な交通機関として大量輸送の役割を担っていることはご存知の通りです。もともと空気より重い航空機やそれに乗っている人間は、空中を飛んでいる訳ですから、事故が起きた場合は、地上や水上の乗り物よりは遥かに死亡のリスクが高いことは明らかです。約100年の歴史の中で多くの航空機事故を経験し、これを乗り越えて現在があります。詳しくは(1_航空機の発達と規制の歴史)をご覧ください。勿論、現在でも事故に遭って死亡するリスクはゼロではありません。しかし、航空機を利用するお客様はこのリスクを許容しているからこそご利用になっている訳です。地震や噴火という自然現象は制御はできませんが、これらに伴う人的被害を極小化する手段については、航空安全に関わる知見を応用できる可能性はあると思います

リスクとは

リスク(Risk)という言葉は最近よくメディアに登場します。曰く『大地震のリスク』、『放射線被ばくのリスク』、『肥満によって重篤な病気に罹るリスク』、『噴火のリスク』、『戦争のリスク』、‥など
広辞苑によればリスクとは、あっさりと「危険」としか書いてありません。しかし何となくしっくりいかないので、ネットで調べてみると「ある行動に伴って(あるいは行動しないことによって)、危険に遭う可能性や損をする可能性を意味する概念」と書いてありました。最近多摩川で入水自殺して話題となった西部邁の最後の著書:「保守の真髄—老酔狂で語る文明の紊乱」を読んでいたら、リスクとは「確率的に予測できる不確実性』と書いてありました。私にはこの定義が災害の死亡リスクの問題を論ずるときにはもっとも当てはまると思われます

つまり、リスクを語る時は、リスクの大きさもさることながら、そリスクが起こる確率を把握しなければ意味がありません。例えば、およそ6千5百万年前の白亜紀末の小惑星の衝突によって恐竜が死滅した(最近は、恐竜は死滅せず鳥類に進化して生き延びたという説が有力になっています)ことはよく知られていますが、太陽系の小惑星自体は無数に存在しているものの、地球に衝突するリスク(参考:小惑星衝突防止の研究)を心配している人は殆どいません。つまり、発生確率が極めて低いからです
これに対して地震や噴火は、少なくとも数十年から数百年の間には、ある特定の場所で発生する確率は公表されています。しかも、東南海地震など大津波の伴う巨大地震や、地域が限定されるものの発生確率の高い直下型地震はいつ起こってもおかしく無い状況にあると言われています。こうしたリスクに対しては、何時、何処でという正確な予測が不可能である以上、不意に襲われたときに人が生き残れる確率をどう高めるかという研究が最も重要であると思われます

現在、大津波対策として、高台への移転防潮堤の建設(復興)、逃げ道や逃げ場所の確保緊急通報体制の整備、などがマスメディアに登場していますが、これらはいずれも今回被害にあった東北各県では大なり小なりすでに行われていた対策ではなかったかでしょうか? それでもなお、どうしてあれだけ尊い命が失われてしまったのでしょうか? 科学技術先進国である日本としては、少し努力、工夫が足りないような気がしてなりません

Follow_Up:210214_震災10年「防潮堤に頼らない」を選んだ二つの街 被災前の砂浜を取り戻した地域も_AERA

航空機の深刻な事故を減らすために、設計精度の向上、機器の信頼性の向上、地上及び航空機搭載の安全装備の向上、操縦技術のレベル管理の厳格化、ヒューマンエラーを防止するための装備や訓練の充実、などが絶えず行われて事故の確率は相当程度減ってきました。1990年代以降、これらに加えて事故が起きても乗客・乗員が生存する確率を増やすために、客室内装備の耐火性の向上と、椅子の強度向上(現在の基準は重力の11倍の衝撃加重に耐えることが求められたいます)が行われました。これらの基準は、事故によって亡くなられた方の死亡原因を調べた結果、機体火災による焼死と事故の衝撃で椅子ごと飛ばされてしまった事による激突死であることがわかり、基準が強化されました。この基準のお陰で最近の航空機の全損事故では、全員死亡のケースは減ってきています

そんな訳で、以下に思いつくままに私の稚拙な!アイデアを披露してみたいと思います

大津波から生還するには

2011年3月11日の大災害が発生してから5ヶ月ほど経ち災害救援が一段落し、公的・私的な復興支援もある程度整ってきた8月初旬、3泊4日の日程で個人的に被害・復興状況の調査に行ってきました。東北高速道「花巻」経由で太平洋沿岸を走る国道45号線に出て以下のルートを辿りました(残念ながら旅程の関係で久慈市、宮古市、大槌町は割愛);
釜石市」⇒「大船渡市」⇒「陸前高田市」⇒「気仙沼市」⇒「南三陸町」⇒「石巻市」⇒「松島町」⇒「塩竃市」⇒「多賀城市」⇒「仙台市」⇒(長い海岸線の部分)⇒「南相馬市」⇒通行止(福島第一原子力発電所周辺)避難指示が出た「浪江町」を経由して常磐高速道経由「いわき市」⇒「千葉県浦安市の埋立地

浦安市を除き、殆どの海岸近傍の平地部分は、夏草が生い茂る中に流された船や自動車の残骸が転々と残る所謂「荒蕪地」となり、市外地域の空き地は「瓦礫の山」が連なっていました;

荒蕪地・船の残骸・瓦礫の山
荒蕪地・船の残骸・瓦礫の山

陸前高田市では、津波災害の特徴が良くわかる写真を撮ることができました;

東日本大震災_2棟のアパートの被害状況
東日本大震災_2棟のアパートの被害状況

この写真にあるアパートの前面は海岸に向いており(海岸付近のホテルやアパートは景観を重んずるために所謂「オーシャンビュー」の立地が多い)一棟目は4階まで津波の被害に会ったことが分かります。一方その後ろの二棟目は1階と2階の一部が被害を受けているのみであることがわかります。アパートの1階分が仮に3メートル程度とすれば、1棟目は12メートルの高さの津波を受けたことになりますが、その後ろにある2棟目は3~5メートル程度の津波であったことがわかります。この現象は、海岸すぐ近くに立地していた「キャピトルホテル1000」でも客室レベル(恐らく10~15メートル以上)は被害を受けていない事が分かります;

東日本大震災_海沿いのホテルの被害状況
東日本大震災_海沿いのホテルの被害状況

津波被害を受けたすぐあと(4月1日)にこのホテルの被害状況を調査した記録がネットに残っていましたので詳しくは(地震直後のキャピタルホテル)をご覧ください

また今回の調査旅行の全行程で、大小多くの川の河口を通過してきましたが、河口付近の被害が比較的少ないことに気が付きました。後でニュースなどで知った事ですが、大きな川ではかなり上流まで津波が遡り、死亡を含む被害が発生していましたが、動画などから見る限り海岸付近の津波の様な破壊的なものではなく、堤防の低い所から水が溢れ沿岸の住宅地に浸水していくというプロセスを辿っていました

松島町では、被害を受けたホテルに泊まりましたが、被害は一階のホール部分のみであった様です。恐らく松島町は地図(松島町の地図)をみれば分かる様に、湾の入り口に大きな島があること、湾内にも小さな島々がある事により、津波の破壊力が減殺されたものと思われます

今回の地震は、千年以上前の西暦869年(平安時代)に東北地方を襲い甚大な被害を与えた貞観地震(少なくともマグニチュード8.3以上と推定されています)と並ぶ巨大地震です。貞観地震の際の津波は、百人一首に選ばれている『後拾遺和歌集(西暦1086年)』の清原元輔作成の一首;
  契りきな かたみに袖をしぼりつつ すゑの松山 波越さじとは
にも読み込まれていますが、今回は仙台に向かう途中、多賀城市にあるその『すゑの松山』も訪ねてきました

末の松山
末の松山

今回の地震でもちょっと高台になっているこの『すゑの松山』のすぐそばまで津波の水が押し寄せて来たそうです

仙台では、海岸近くにある『仙台空港』にも立ち寄って被害状況を見聞してきました;

仙台空港の被害状況
仙台空港の被害状況

この空港は、長い海岸線(仙台空港の立地)近くに立地しており、到底防波堤などで空港を守ることはできません。しかし、津波は一階のホールの浸水にとどまっています;

浸水した高さの標識
浸水した高さの標識

仙台から相馬に続く長い海岸線は、仙台空港周辺と同じ様な津波の爪痕が残っていました。特に海岸に設置されていたはずの「消波ブロック」が津波に流されて転々と転がっている光景は印象的でした;

仙台⇒相馬への長い海岸線の被害の様子
仙台⇒相馬への長い海岸線の被害の様子

仙台空港と同様、それ程高い津波に襲われた訳ではなかったにも拘わらず、逃げ場所となる高台が無い中で、車で避難しようとして命を失った人が多かったと言われています

千葉県・浦安市を訪ねた理由は、地震によって生じた液状化現象の被害状況を確認する為で、今回のブログの趣旨には合致しませんので、被害状況、等は割愛します

<津波被害の分析>

この調査旅行で私が強く印象付けられた津波の特徴は;
A.津波は、突然現れる大河の様なものである
B.津波の破壊力は津波が押し寄せる『速度』と波長が極めて長いことからくる膨大な『水の量』で決まる

津波の簡単なモデル
津波の簡単なモデル

例えば、ある湾(入江)に侵入する水の量は、上図の簡単なモデルで説明すると、「押し波の部分の面積」「湾(入江)の入り口の幅」に相当します。気象庁のネット情報によれば、津波の波長は数キロ~数百キロとされており、押し寄せる水の量が膨大になることが感覚的に理解できると思います。沖合における津波の波高がそれ程でなくても、被害が大きくなるのは、こうした理屈によるものです

また、津波は水であることから、基本的に「粘性流体力学」に従うと考えてよいと思われます。しかし、その精密な解析は、地震発生地点における津波の波高や波長、津波の進行する方向、到達する陸地近辺の海底の形状や、海岸線の形状、到達したあとの陸地の高低、傾斜、障害物などによって大きく影響を受けるために、適切なモデル化を行って数値計算を行うにしても、到達する場所ごとの精密な津波の規模を算出することは極めて困難と予想されます(⇔実際に津波の規模の予想は概ね外れますね!)

ただ、津波の挙動に係る定性的な説明をすることは可能であり、これに基づいて津波が起こす幾つかの現象を素人なりに説明してみることにします;
湾(入江)の入り口が広く、奥が狭まっている場合、入り口の長さで決まる大量の水が湾(入江)内に侵入(上記B項参照)し、更に、湾(入江)の両側の岸から反射した津波が重畳するため、湾(入江)の奥に到達する時には極めて波高の高い津波となります
逆に半島や、島などで実質的に入り口が狭くなっている湾(入江)は、入り込む水量が少ないこと、湾内で津波の運動エネルギーが拡散し波高が低くなります。また、島などがあれば、津波の運動エネルギーが島との衝突によって失われ、津波の破壊力は減殺されることになります(松島湾のケース)
防潮堤に必要な高さは、侵入してくる津波の水の量速度で決ります。津波の運動エネルギーは「水の量(=質量)」x「速度の2乗」に比例するので、防波堤にぶつかった時は、この運動エネルギーは、防波堤に沿ってせり上がることによるポテンシャルエネルギー(位置エネルギー)の増加で相殺せねばならず、想像以上に津波は高くなると考えなければなりません(前掲の「2棟のアパートの被害状況」の写真)。万里の長城と言われた宮古市田老地区の10メートルの防潮堤(世界最強の防波堤)を津波が軽く超え、簡単に破壊されてしまったのはこの理屈によるものと思われます。一旦防波堤の一部が破壊されると、寄せ波だけでなく、引き波で重い船や破壊された家屋の残骸、倒木などが防波堤に激突し、その集中荷重で防波堤は簡単に破壊されてしまったはずです

<参考> 宮古市田老地区の現在の堤防復興状況:防波堤・海閉ざす壁

海岸線の長い平野では、海岸付近でせり上がった高い波(←海底が駆け上がりとなっている為)が崩れ落ちた後、川幅の広い大河の流れのようになって陸地の奥深くに侵入していきます。この大河は表面は平らであっても、この水流は多くの障害物を飲み込んだり、建物を破壊した後の水流なので水中は激しく渦巻く乱流となっており、人間が泳ぐことは不可能です。どんなに泳ぎの達者な大人でも大雨の時の河川の濁流に飛び込めば簡単に水死する理屈(濁流に流された子供を助けようとした親が水死する状況はこれ!)と同じです。車ごと流されて水死してしまう事例の多くは、この乱流が原因と考えられます
大きな川の河口に押し寄せた津波は、陸地を駆け上るよりも抵抗の少ない川を上流に向かって逆流していきます。これによって津波の運動エネルギーは吸収されるため河口付近の被害が少なくなっているものと考えられます。逆に、津波が遡上した上流部では、堤防が低いところから浸水し、被害を発生させることにもなります
海岸から少し離れ大河の流れのようになっている状況では、津波の進行を妨げる様な壁は、流れが比較的緩いと言っても大きな力をうけます。因みに。水は1立法メートルで1トンも重さがあり、相当強度が無ければ直ぐに破壊されてしまいます。通常の住宅が簡単に流される理屈はここにあります。高層アパートなどが流されずに残っているのは頑強な基礎と、その重さにあります。一方、一階部分が鉄骨で出来ており、壁が簡単に破壊されるものであれば、鉄骨の間を津波が抵抗を受けずに流れ破壊されません。調査旅行の道中で、平野の中でポツンと残っている家は概ねこうした構造の家でした

<生き残る方法>

上記の分析から、構築物の被害を未来永劫に亘って防ぐ方策は、津波の規模に不確実性があること、膨大なコストが伴うことで現実的ではありません。また、東南海巨大地震による大津波がいつ発生するかもわからない現在、大津波が来ても生き残る確率を如何に向上させるかを考える方が現実的です。以下は、私の考えた幾つかのアイデアです;
1.大きな川の周辺では、津波の運動エネルギーをできるだけ吸収し、大量の海水を、川を逆流させて逃がすために積極的に活用する。このため、河口付近で溢水しないように堤防を整備するとともに、遊水池が設けられる場所があれば積極的に整備する。また、住宅密集地から外れた耕作地など人口密度が低い所があれば、ここで意図的に溢水させて大量の海水を逃がすようにする
<参考:信玄堤>

*武田信玄の時代に、荒れ川として有名な笛吹川と釜無川の治水のために作られた堤防で、意図的に増水した水を堤防外に逃がして堤防の決壊を避ける様になっています(大雨で決壊すると大被害となる:下の鬼怒川決壊の写真をご覧ください)。増水が収まると逃がした水が川に戻っていく様に設計されています

信玄堤
信玄堤
2015年・鬼怒川決壊の被害状況
2015年・鬼怒川決壊の被害状況

2.広い平野部で津波に襲われたときは、車で逃げるのは渋滞することが目に見えているので愚の骨頂です。大河の様に流れてゆく津波に飲み込まれたときは、溺れないようにすることが生還するための唯一の方法となります。その方法は航空機では非常用装備品として当たり前になっている「ライフジャケット」と「ライフラフト(救命ボート)」を予め準備しておくことです;

ライフジャケット
ライフジャケット
ライフラフト
ライフラフト

航空機の場合、ELT(Emergency Locator Transmitter)という装備が義務付けられており、墜落の様な大きな衝撃を受けると救難信号が自動的に発信される様になっており、広い海洋に墜落しても遭難機、遭難者の位置を確認できる仕組みになっています
津波用のライフジャケットやライフラフトに、水に漬かると救難信号が発信される装置や夜間用のLEDライトを装備するようにすれば、引き波で沖合に流された遭難者も発見が容易になると思います。東日本大地震の津波では、逃げ足の遅い多くの子供や老人が犠牲になりました。是非こうした非常用装備で、生還の可能性を高めてほしいと思います

尚、ライフラフトであれば、救助を待つ間に「低体温症」で死亡することも防ぐことができます。家族単位での行動が可能となり、一層生存率が高まることも期待できます。
<参考:輪中>
昔から洪水に見舞われてきた濃尾平野の揖斐川、木曽川、長良川の下流域では、「輪中」によって水害から命を守ってきました。大河の様な津波に対しては、この知恵から学ぶところが多いと思われます;

輪中・自家用の船
輪中・自家用の船・輪中・自家用の船
輪中の中の家屋の工夫
輪中の中の家屋の工夫

<Follow-up>
*2018年9月19日の朝日新聞DIGITALに(スーッと近づいてきた無人の「神様のボート」住民救った_西日本豪雨災害)という記事が出ていました

<Follow-up>
*2019年10月日本に上陸した台風19号は甚大な水害を齎しました

台風19号進路_2109.10月

これだけの大雨だったにもかかわらず、東京都心とゼロメートル地帯が免れたワケ について:191023_台風19号の浸水被害 東京都心とゼロメートル地帯が免れたワケ
この被害に関して、今後の治水行政について学識者が有益なコメントを出しておりますのでご紹介いたします:191114_水害の猛威に備える_山田正氏・角哲也氏・土屋信行氏

また、今回の災害の中で、利根川水系の八ッ場ダムによる治水効果が大きかったことが話題になりましたが、全国の約三千か所のダムの治水効果を最大化するためのルール作りが始まった様です:<191116_ダム放流指示しやすく、国交省 電力などと手順協議

3.建物自体を、圧倒的な破壊力を持つ津波に破壊されないようにするには、以下の様に極めて限定的な方法しかありません
鉄筋コンクリート製の高層建築物であれば前掲の「2棟のアパートの被害状況」、「海沿いのホテルの被害状況」の写真を見れば分かる様に、その重量と基礎の堅牢さで建物の崩壊は免れることが可能であると思われます。更に、建物の向きを「オーシャンビュー」ではなく、海岸線に直角の方向にすれば、津波の立ち上がり方も少なく、より低層部分も冠水しないで済むと考えられます
長い海岸線の平野であれば、津波の高さはそれほどではない(今回の大津波でも1階~2階の高さ)と考えられますので、普通の個人用の邸宅でも、1階部分の柱を鉄骨で作り、壁を壊れやすく!して、津波が来た時には簡単に壊れて水流が容易にすり抜けられるようにすれば(上の輪中の絵の「母屋の1階部分」をご覧ください)、家自体は守れる可能性があると思われます。尚、この時、引き波も大河の様に水が流れますので、流されてきた重量物の衝突で柱の鉄骨が破壊されないようにしたほうがより良いと考えられます。この為には大きな川の橋桁の上流側に設置されている流木などが橋桁に激突するのを防止する構造物を海と反対側に設置することが有効であると考えられます

京都嵐山・渡月橋_流木除けの効果
京都嵐山・渡月橋_流木除けの効果

Follow_Up:2021年9月12日の日経新聞に水害対策に「水上都市」 浮かぶ家・1階は柱だけの構造という興味深い記事が掲載されていました

その他の災害から身を守るには

1.大地震による家屋の倒壊や大火災から身を守るには

大地震による建物の倒壊は、建物自体の耐震性で決まります。現に最新の建築基準法に基づいて建てられている建物に住んでいる人はそれ程心配する必要はないと思いますが、そうでない場合は、耐震診断を予め受け、必要な補強を行うことによって安心して住める状態になると思います。家全体では改修費の負担が大きすぎる場合は、寝室や、居間など居る時間が長い所のみを改修することでも、倒壊した家屋の下敷きとなってしまうリスクを相当程度下げることが可能です

大地震による火災で命を失わないようにするには、まず倒壊しない安全な家に住み、地震が収まったと同時に安全な避難場所に即刻退避することが肝要です。しかし、阪神淡路大震災の被害地域の様に木造家屋が密集する地域に住んでいる場合;

阪神淡路大震災
阪神淡路大震災

倒壊した建物によって狭い路地が塞がれると同時に、地域のあちこちから出火し逃げ道を失う恐れもあります。また、火災の規模が大きくなると「火災旋風」(関東大震災や東京大空襲でもその発生が死傷者を増やしたと言われています)が起きる可能性も考えられ著しく危険な状態になります
一旦火災があちこちで発生した場合、個々の家の耐火性の向上や地上の消火活動などで延焼を防ぐことなどできません。消火するのであれば大規模な森林火災に使われる様な航空機による空からの消火活動が一番効果が大きいと思われます。

日本ではこうした航空機による消火活動は、今でもヘリコプターを利用する事は可能と思われますが、大型の固定翼機による方がより効率的です。日本にはUS2という飛行艇があり;

US2飛行艇
US2飛行艇

この機材を大規模火災の消火用に改修(US2・消防用に改修)し、人口密集地近くの基地に配置する施策も検討する価値があると思われます

また、地域全体で家が倒壊しても絶対に火災を発生させない様にする方法も考えられます。発火の原因は、その殆どが調理・炊事、暖房用の電気、ガスです。最近のガス、電気設備には個々に地震による遮断装置は付いていますが、古い設備には、この遮断装置が付いていない場合もあります
従って、住宅密集地域では、電気、ガス以外のエネルギー源(例えば炭火を使う店舗などが考えられる)を行政レベルで禁止すると同時に、震度があるレベル(その地域で最も耐震性の無い住宅が倒壊するレベル)を越えたら、直ちに地域全体の電気、ガスの供給を遮断することが有効れあると考えられます。勿論、一旦電気、ガスの供給を止めてしまうと復旧は個別の家ごとにおこなう必要があるので、電気、ガスの会社はやりたがらないとは思いますが、、、

2.大規模噴火から生還するには

噴火による死亡事故の殆どは、「噴石の直撃」を受けることと、「火砕流」に巻き込まれることです。噴火予知が正確にできればこんな心配はしないで済むのですが、今の知見だけでは予測はかなり難しい様です

噴石による事故は、防ぐことが難しく、今年1月の草津スキー場のケースでは思いもよらぬところから噴火し、自衛隊員の死傷事故が発生しました。2014年には御嶽山の突然の噴火で、登山者58名が死亡(他に行方不明者5名)しました。噴石は、噴き上げられたものが、ほぼ垂直に落ちてくるのでヘルメットを被っていても被害を避けることは不可能です。丈夫なコンクリート製の待避壕に避難するか、丈夫な屋根をもつ山小屋などに避難するしかありません。ただ、致死性の高い大きい噴石は火口近くに落ちるので、登山者の多い火山の自治体は、火口近くに待避壕を設置する対策を行う努力をしてほしいと思います。また、登山者は待避壕、山小屋などの位置を常に確認しておく習慣を持つことが自身の命を守る上で必要であると考えられます。

火砕流による事故は、噴石に比べるとより大規模で深刻な事故に繋がります。有名なベスビオス火山による火砕流は、ポンペイの町を一瞬の内に消滅させました。最近の日本でも、1991年の雲仙普賢岳の火砕流では報道関係者を含む44名が死亡しました;

雲仙普賢岳の火砕流
雲仙普賢岳の火砕流

ネット情報によれば;火砕流の実体は、「火山砕屑物(さいせつぶつ/岩石が壊れてできた破片や粒子を指す地質学用語)と噴出物の火山ガスや水蒸気が混合して流動化したもの。ガスは、マグマに含まれていた火山ガスと、火山噴出物中および流走中に取り込んだ空気からなる。温度は、マグマに近い高温のものから100℃程度まで幅がある。水蒸気噴火とマグマ噴火では水蒸気噴火の方が発生頻度が高い」であり、上の写真を見れば分かる様に、走っても逃げられないような相当な速度で襲来し、巻き込まれればその高温の環境により確実に死に至る恐ろしい現象です
最近は、噴火活動の結果生じた火口近傍の堆積物の量や、斜面の形状、方向、過去の火砕流の記録、などを勘案して、火砕流の危険性を警告する情報が流れるようになりました。ゆめゆめ好奇心から危険地域に近寄らない様にすることは勿論、避難勧告が出たら早めに非難することが、命を守る唯一の方法です

3.核兵器の攻撃を受けた時に生き延びるには

日本は、中国、ロシア、北朝鮮という核保有国に囲まれ、しかも中国とは尖閣列島帰属問題、北朝鮮とは拉致問題を抱えています。勿論、米国の核の傘で守られている為、簡単には攻撃されることないとは思いますが、仮に日本が最初に核攻撃された場合、米国が自国民を核攻撃の危機に晒さす反撃を行うかどうかは疑問が残ります。だからといって、日本も核武装すべきだという主張に私は組しません。核攻撃を受けても多くの人が生還できる方策を予め考えておくことが大切であると考えます

昔台湾に駐在した時、最初に奇異に感じたことは、台北市内の主要道路の交差点は頑丈なコンクリート製の地下歩道が整備されいることでした。現地の人に聞いたところ、これは大陸から攻撃を受けた時の防空壕の役割を果たすのだそうです
大国に囲まれた国、隣国から侵略を受けた歴史を持つ国は、防衛の第一の目標は最初に攻撃されたときに如何に生き残るかです。因みに、フィンランドの核シェルターをご覧ください;

フィンランドのシェルター
フィンランドのシェルター

戦後、唯一の被爆国として非核三原則を堅持してきた日本であっても、核攻撃されないという保証はありません。日本にとって非核三原則を遵守すると同時に、核攻撃をされても生き残る方法を、科学技術先進国である日本の総力を挙げて取り組むべきであると私は考えています。因みに、米国では数百万円~数千万円で個人用の核シェルターを販売している会社がありますが、最近の最大の顧客は日本人だそうです

日本には、核攻撃を受けると必ず死に至る(即死しなくても、後遺症で死ぬ)と思っている人が少なくありません。その結果、シェルターなど意味の無いものだという人も多い様に思います。その背景には、下記写真のような原爆の惨状を小学校時代からずっと頭に叩き込まれてきたことがあります。また、マスコミや著名な作家による恐怖を煽る記事も多くの人々に影響を与えたに違いありません。私も学生時代に読んだ「広島ノート;大江健三郎著」には多大な影響を受けました。このブログを書く前にもう一度読み返してみましたが、当時としてはやむを得ないにして、もあらゆる病気、あらゆる死が原爆、放射能と結びつけられており、現在の知見を基に判断すると驚くばかり間違いの多い内容です。これによって被曝したものの健康を取り戻した多くの人たちが、結果として差別を受けたことは忘れてはいけないと思います。この本にも引用してありますが、興味のある方は(広島で被爆した医師が大江健三郎に書いて寄こした手紙)読んでみてください;

ヒロシマ被曝直後の惨状
ヒロシマ被曝直後の惨状

核攻撃を受けても生き延びる手段はあります。冷戦時代、米国、ソ連、中国は核攻撃の危機を現実のものとして受け止め、核攻撃から自国民を守る手段を必死に研究してきました。フィンランドの核シェルターも、米国で個人宛に販売している核シェルターも、そうした研究の成果を取込んだものと考えられます

そもそも、核攻撃による死のリスクとはどんなものでしょうか;
① 致死量の放射線を爆心から直接浴びることによる死;
放射線はアルファー線、ベータ線、ガンマ線(波長の短い電磁波)、紫外線・光線・赤外線(波長の長い電磁波)、中性子線、その他の粒子線に分けられます。それぞれの放射線の性質、リスクなどについて詳しく知りたい方は私のブログ(原子力の安全_放射能の恐怖?)をご覧になってください。いずれも爆心地近くで直接浴びれば即死します。しかし、頑丈な遮蔽物に身を隠していれば防御することが可能です。ただ、中性子線だけは透過力が極めて強いので、あるいは水を含んでいるコンクリート、水分を含んだなどで防御することが有効です(原子炉が水やコンクリートで遮蔽されているのはこの理由によります)
また、こうした放射線は爆心から球状に広がると考えれば、爆心からの距離の2乗に反比例して強度は弱まります。例えば、爆心から1キロの地点の放射線強度に比べ、10キロ離れた地点の強度は百分の一になります。基本的に直進することを考えれば、山などの陰に隠れていれば安全ということになります

② 爆風(正体は衝撃波=強烈な音波)を爆心から直接浴びることによる死;
爆心地近くであれば、強烈な爆風で人間を含む重い物体が吹き飛び、何かと衝突して死亡する可能性が高いと思われます。ビル街などでは、爆風で飛び散ったガラスが突き刺さり死に至るケースも多く発生します。爆風も基本的に爆心地から直進するので、頑丈な遮蔽物に身を隠すか、地面より低い所(戦場で爆弾が降りそそぐ環境で塹壕に隠れるのはこの爆風を避ける為です)に潜り込むことで安全を確保できます
よく原爆が炸裂した時の表現で「ピカドン」という言葉が」使われますが、これは「ピカ」で光速あるいは光速に近い速度の放射線が爆裂と同時に到達し、やや遅れた「ドン」で爆風が到達する状況を表現しています(遠くから花火を見た場合を想像してください)。従って、爆心から離れたところであれば、「ピカ」を見てから待避しても間に合う可能性があります(10キロ離れていれば30秒ほどの猶予時間があります)。爆風も、放射線と同じく球状に広がるので、距離の2乗に反比例して強度は弱まります。

③ 爆発後降り注ぐ放射性廃棄物から出る放射線(二次放射線)を浴びることによる死;
核爆発すると巨大な「きのこ雲」が発生することはよく知られています。このきのこ雲は放射性廃棄物を沢山含んでいます。これが爆発後ある程度の時間をかけて地上に降り注ぎます(所謂「死の灰」)。地上に降り積もった放射性廃棄物に近づけばと同様被曝することは明らかです。しかし、放射線の強度は①に比べて桁違いに弱いので直ちに死に至ることはありませんが、長時間に亘ってその環境にいれば放射線障害になる恐れがあります。広島、長崎ではこの二次放射線で放射線障害となった人も多いと言われています。1954年ビキニ環礁でマグロはえ縄漁を行っていた第五福竜丸の23名の船員が被曝したのは、この「死の灰」によるものです詳しくは私のブログ(原子力の安全_放射能の恐怖?)をご覧になってください。ただ、きのこ雲は風向、風速によってはかなり遠方まで届くので、爆心地から離れていても注意が必要です

④ 爆発後降り積もった放射性廃棄物を体内に取り込む事による死;
これは上記私のブログをご覧になって頂ければ分かるのですが、放射性廃棄物で汚染されたほこりや食物を体内に取り込むと、体の内部から継続的に被曝する結果となり、少量であっても非常に危険です。この対策はマスクなどによって肺に取り込むことを防ぐほか、汚染された食べ物を食べてしまうことを防ぐ必要があります。尚、体内に取り込まれた放射性物質の量は、ホールボディーカウンターで測定することが可能です
いずれにしても、放射性廃棄物がある所に入らないことで確実に防ぐことが可能です

以上を踏まえると、堅牢な防護壁、乃至地下に設置された核シェルターは、爆心地近くでない限り①、②の脅威から生還できる可能性が高いことが分かります。また、シェルター内の空気は放射性廃棄物を通さないフィルターを通じて換気されているとともに、相当期間必要な食料は備蓄されているので、③、④の二次放射線の脅威からも免れることが可能です

山間部は直接攻撃されない限り山が守ってくれますが、極度に人口が集中している大都市では、こうした自然の防壁もなく、新たにシェルターなどを設置しようにも場所が確保できません。しかし、大都市では地下鉄網や広い地下街がありますので、ここに多くの人を退避させることによって少なくとも①、②の脅威からは命を守ることが可能だと考えられます
ただ、ミサイルの緊急速報が入ってからの時間の猶予はそんなにありません(北朝鮮からの発射であれば5~10分でしょうか)。また、避難スペースを広く確保するためには地下鉄を直ちに停止させ、地下鉄のトンネルの中も避難スペースとして使わなければなりません。更に、現在は、地下鉄や地下街への入り口が狭く、数も少ないので、核シェルターの代役をさせるのは入り口を増やし、ある程度の食糧の備蓄なども必要になると思います
総理府では(国民保護ポータルサイト)でミサイルが発射されたときの連絡体制や、地下街などの地下施設に避難するなどの注意事項が書いてありますが、地下施設をシェルターとして利用するために必要な改修工事は未だ計画もありません。また、地下への人の誘導の訓練もやっていません。このままでは、実際に核攻撃の脅威が現実のものになった時にどうなるかとても心配です
終戦間際の米軍による都市爆撃で、あれだけ多くの民間人が亡くなってしまった事の反省が未だにできていないのではないでしょうか、、、

<Follow-up>
*2018年12月25日の日経新聞に、Jアラートシステムが変更されるとの記事が掲載されていました:181225_北朝鮮のミサイル発射情報・Jアラート見直し_伝達を都道府県単位
*2022年2月24日のロシアによるウクライナ侵攻、とロシアによる戦術核ミサイル使用の脅しがあったことから、日本にとっても、核武装している中国、ロシア、北朝鮮からの核攻撃のリスクが現実のものとなり、以下の様な記事が掲載されるようになりました;
①2022年4月7日の日経新聞に以下の記事が掲載されました:220407_大阪市、地下鉄99駅を避難施設指定 ミサイル攻撃懸念
②2022年5月27日の日経新聞に以下の記事が掲載されました:220527_都内地下鉄など109カ所、「ミサイル避難施設」に追加
③2022年7月3日の日経新聞に以下の記事が掲載されました:220703_ミサイル避難、地下鉄駅指定3.5倍_神戸、大阪、東京など
④2024年1月27日_「港区に地下シェルター、ミサイルに備え_東京都予算案

以上

「民族問題」について考えてみました!

はじめに

11月22日、オランダ・ハーグの旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷で、ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦(1992~95年)時のジェノサイド(集団虐殺/6千人以上のイスラム教徒が殺害された)の罪に問われた当時のセルビア人武装勢力司令官、ラトコ・ムラディッチ司令官に終身刑が言い渡されました
また、ロヒンギャ難民の問題、米国・EU諸国とロシアの対立の元になっているウクライナ内戦も記憶に新しいところです。これ等はいずれも民族間の対立が原因になっていると言われています

冒頭に掲げた地図は、子供の高校時代の教科書に使われていた「世界史地図」の中から、第一次世界大戦中(1914~18年)と、第二次世界大戦直後(1945年)のヨーロッパの地図を抜き出したものです
第一次世界大戦は、オーストリア・ハンガリー帝国によるボスニア・ヘルツェゴビナの併合(1908年)により混乱を極めていたバルカン半島(人種の坩堝と言われていました)のセルビア王国の青年によるオーストリア皇太子夫妻の暗殺(サラエボ事件)がきっかけとなりました。第一次世界大戦の終わりころにはロシア革命があり、ソビエト社会主義連邦共和国(以降「ソ連」)が生まれました。第一次世界大戦後のパリ講和会議では、米国ウィルソン大統領による「十四ヶ条の平和原則」第五条で「民族自決・民族自立」の提案があり、ベルサイユ条約の基調となりました。日本全権団も「人種差別撤廃」提案を行いましたが、これは残念ながら否決されてしまいました。これらがきっかけとなって世界中で民族自立の動きが始まりました
また、第二次世界大戦後、ソ連は戦勝国となり、大戦によって生まれた社会主義諸国と社会主義ブロックを構成し、一方の戦勝国である米国を盟主とする自由主義ブロックと対峙し所謂「冷戦」が始まりました。この冷戦下では、イデオロギー民族自立が結び付いた内戦が続きました
この冷戦構造は1991年のソ連の崩壊で終焉を迎えましたが、その後現在まで一向に民族紛争は収まりそうにありません

戦後の日本は、民族問題については無頓着である人(勿論、私も含めて)が多く、またメディアの取り扱いも、単に同情(人道というべきか?)をベースとした内容に留まっていることが多い様です
最近の世界情勢は「民族問題」に関するある程度の知識が無いと、理解できないのではないかと思い始めました。そんな問題意識をもって、本屋を渉猟している時に「民族問題」(佐藤優・著、文春新書、10月20日第一刷発行)という本が目に留まりました。購入して読んでみると、中々内容の濃い啓発の書と感じましたので、内容の一部をご紹介すると共に、この分析手法を念頭に、最近のニュースに登場する「民族問題」についても私なりに考察してみたいと思います

佐藤優・著「民族問題」の紹介

佐藤優について;
1960年東京都生まれ 同志社大学神学研究科修了後、チェコスロバキアのカレル大学に留学。1985年外務省入省、2002年大臣官房総務課・課長補佐の時に鈴木宗男事件に絡む背任行為で逮捕。最高裁で懲役2年6ヶ月、執行猶予4年の刑が確定、国家公務員法76条により外務省を失職。その後は文筆家として活躍。大変な読書量と博学で知られ、著書多数
本書の由来;
著者が、同志社大学サテライト・キャンパスで2015年5月から2016年2月にかけて行った10回の講義記録を編集し、加筆修正したもの

以下は本書の要約です。分かり難い部分があれば私の読書メモを参照してください。ただ、新書版で安価(830円+税)なので購入する方がいいかもしれません!

文春文庫「民族問題」
文春文庫「民族問題」

1.なぜ日本人は民族問題が分からないのか;

多くの日本人は、「日本人」、「日本民族」というものを自明のものだと捉えていて、古来よりずっと続いてきた実体のあるまとまりだと考えていますが、これは間違いです。歴史的に「民族」という概念は、精々250年くらいしか遡れないと考えられます。例えば、室町時代に京都に住んでいた人と、東北地方に住んでいた人が、同じ「日本人」、「日本民族」という意識があったかどうかは確認できません。これはロシアやドイツ、イギリスやフランスも同じであると考えられます
現代になっても、「民族」は新たに生まれたり、解体したりしており、中東では、「シーア派」のアラブ人という新しい民族が生まれつつあるとも考えられます

民族のアイデンティティの核となるものとして「原初主義」、「道具主義」という二つの大きく異なる考え方があります。学術的には道具主義が圧倒的に主流ですが、日常的な使い方においては原初主義的な考え方の方が一般的であると思われます

①「原初主義」とは;
民族とか、国家には、その源に何かしらの実体があるという考え方。例えば言語が源になる、また、肌の色や骨格など生物学的、自然人類学的な違いに境界を求めると人種主義に近づきます。日本列島に住んでいるから日本人、インドに住んでいるならインド人というのであれば住んでいる地域が民族の原初になります。このほかにも宗教経済生活文化的共通性など「動かざるもの」を共有するのが民族という考え方です
多くの人は、この原初主義的な民族のイメージを持っていますが、言語にしても、人種にしても、文化にしても、歴史的に源をたどっていくと、複数の「民族」にまたがっていたり、境界が曖昧だったり、住んでいる場所も移動していたり、矛盾する事例が沢山出てきてしまいます

②「道具主義」とは;
民族とは作られたもの」だと考えるのが道具主義の立場です。国家のエリートや支配層が統治目的のために、支配の道具として、民族意識、ナショナリズムを利用しているという考え方です。道具主義を代表する学者が、ベネディクト・アンダーソンで、彼の著書「想像の共同体」で、「国民とは、イメージとして心に描かれた想像の共同体である」と定義しています。つまり国民、民族とは政治によるフィクションだと説いています

2.民族問題の専門家スターリン

「原初主義」に立脚した民族理論の中で、一番現実の政治に影響を与え、なおかつある程度、現象を説明できるのは、実はスターリンの民族定義です
スターリンは
、グルジア(現在のジョージア)のゴリという町の生まれであり、グルジアに帰化したオセチア人ではないかという説が、今の所一番有力です。そもそもスターリン自身が複雑な民族的なアイデンティティを持っていた訳です

ジョージア(グルジア)
ジョージア(グルジア)

ソ連(帝政ロシア)がロシアを支配し、他の民族がひどい目に遭っていたというイメージは誤解です。ソ連の中心にあって、支配していたのは民族ではなくて、ソ連共産党中央委員会、つまりマルクスレーニン主義というイデオロギーでした

スターリンが民族問題を重視したのは、ロシア革命の本質にもかかわっています。日本を含む世界各国の共産党機関紙には「万国の労働者よ、団結せよ。万国の被抑圧民族よ、団結せよ」というスローガンが掲げられていますが、このスローガンは矛盾しています。何故なら、階級と民族とは関係がないはず。例えばインドでは、抑圧していたのはイギリス人、被抑圧民族はインド人ですが、インド人の中には資本家も、労働者も、農民もいました。革命に民族運動のエネルギーを持ち込もうとして、この矛盾に敢えて目をつぶったのがスターリンです

スターリンは、イスラム教徒であるスルタンガリエフを抜擢して、中央アジアでの革命運動を統括させ、民族運動の高まりを革命に利用しようとしました。中央アジアの革命運動において、革命は西方の帝国主義者に対するジハードとしてアジった結果、革命運動は盛り上がったものの、イスラム勢力の力が予想以上に強くなってしまいました

中央アジア
中央アジア

今のトルクメニスタンウズベキスタンキルギスタジキスタンカザフスタンは、トルコ系の人たちが住んでいる土地を意味するトルキスタンと呼ばれており、トルコ民族として団結して民族運動が盛り上がると社会主義体制との矛盾が露呈してしまいます
そこでスターリンは、言語の若干の違いに注目して民族を分け(カザフ人、キルギス人、など)国境線を引いてしまいました。つまり、言語の違いという原初主義的な基準を持ち出して、国境線を引き、人工的に民族を作り出すという道具主義そのものの手法を駆使したことになります
また、フェルガナ盆地という肥沃な穀倉地帯を、敢えてタジク、ウズベク、キルギスに三分割して、水の利用権などを巡って互いに衝突するように仕向けることまで行っています。それらによって、トルコ系とか、イスラムといったアイデンティティで一つにまとまらない様に手を打っていました

バルト3では、歴史的に強力な帝国を築いたことのあるリトアニアには、反発したら大変だということでロシア人の入植をほとんどしませんでした。この結果、ソ連崩壊時点でリトアニアのロシア人比率が10%に対して、ラトビアは51%エストニアは40%となっています。また、ラトビアのロシア人は国中に散らばり都市部に多く分布しているのに対し、エストニアでは東部だけに集中させる、など細やかな民族政策をたてています

スターリンの民族理論
民族とは、「言語」、「地域」、「経済生活」および「文化の共通性」によって現れる「心理状態の共通性」を基礎として「歴史的に生じた人々の堅固な共同体」であると定義しています。因みに、この理論に従えば、ユダヤ人は、住んでいる地域によって使う言語が異なっていることから、民族ではないことになります
また、言語、地域、経済をバラバラにしてしまえば民族は解体できることになります。スターリンがしばしば厄介な民族の強制移住を行ったのは、この理論に立脚しています

スターリンの民族理論は、そのままソ連の国家体制の基礎となりました
スターリンはソ連国内の民族的共同体を、「民族/ナーツィヤ」、「亜民族/ナロードノスチ」、「種族/プリェーミァ」の三つに分類し、民族を階層(ヒエラルキー)化することにより固定化させようとしました;
民族」は国家を持ち、ソ連邦離脱も許されていました(バルト3国が、これを根拠に独立を主張することができました)
亜民族」は自治共和国を持ち、独自の憲法を持つことができますが、ソ連邦からの離脱はできません
種族」は自治州や自治管区で自分たちの言語を使い、独自の文化を持つことはできますが、独自の憲法を持つ権限はありません

これらの区分は、実際はかなり流動的に運用されたと考えられます。例えば、ウクライナの東部や南部に住んでいる人は日常ロシア語を話しており、ウクライナの中の「亜民族」になっていたと考えられます
スターリンの民族理論は、無意識のうちに日本人にも住みついています。例えば、アイヌ人は「種族」であり、沖縄は「亜民族」であるというイメージは、正にスターリン的な民族意識と言えます

3.アンダーソンの「想像共同体(道具主義)」批判

アンダーソン(Benedict Richard O’Gorman Anderson/1936年~2015年;米国コーネル大学政治学部名誉教授)によれば、「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体であり、言語や地理的、経済的共通性はない」としています。国民を構成する一人ひとりは、他の大多数の同胞を知ることも、会うことも、彼らについて聞くことがなくても、一人ひとりの心の中には共同のイメージが出来ています例えば、2015年にジャーナリストの後藤健二さんがイスラム国で殺害されたとき、多くの日本人は義憤にかられましたが、殆どの国民は彼に会ったことも無く、彼の活動も知らなかったにも拘わらず、大多数の日本人の心の中には、彼の死が同胞に対して起きている危機だという心が生まれました。また、尖閣諸島にしても、殆どの人が一生の間で一度も行くことが無いにも拘わらず、日本人の「想像の共同体」の中で、「尖閣」が重要な位置を占めてしまいます。これは韓国人にとっての「独島/竹島」や「慰安婦」も同じことであると言うことができます

アンダーソンは、この「想像の共同体」は「文化的人造物」だとしています。民族の形成で鍵を握るものは、新聞や小説といった出版資本主義です。尚、アンダーソンは、新聞を「一日だけのベストセラー」と表現しています。
例えば、ある離島にAさんとBさんが住んでいたとして、A国とB国との間で戦争が始まっても、AさんとBさんには関係がないから仲良く暮らしていますが、そこにヘリコプターでそれぞれの国の新聞を落としていくと、二人はただのAさん、Bさんではなくなって敵国民同士となってしまう。つまり、新聞が自分たちの想像の共同体をつくる出すことの非常に重要なツールになります

アンダーソンが重視するもう一つの概念は、「公定ナショナリズム」すなわち、上からのナショナリズム、あるいは統治のためのナショナリズムです
18~19世紀にヨーロッパを席巻したナポレオン戦争アメリカの独立戦争などを見て、ヨーロッパの君主たちは、国家を強化する部品としてナショナリズムを導入しようとしました。しかし、問題は、ヨーロッパの王朝や帝国は、もともと「民族」の原理ではできていません。例えば、イギリスのハノーバー朝はドイツ人で英語も話せなかったし、スイスが起源のドイツ系のハプスブルグ家は、オーストリアだけでなくスペインやイタリア、チェコも治めていました。中でも大変だったのはロシアです。ロシアの貴族たちは基本的に不在地主で、サンクトペテルブルクやモスクワに住んでおり、普段はフランス語を話し、ロシア語は書けるけど上手に話せないというのが普通でした。つまり、支配階級が既に文化的にはハイブリッドでした(エカテリーナ二世自体がドイツの出身です)。ロシア帝国の基本的な原理は、権力に忠誠を誓っているかどうかが重要であって、宗教や肌の色が何であろうが気にもしていませんでした

こうした状況から、全てのヨーロッパの君主は、19世紀半ばまでに「国家語」としてどこかの俗語を採用し、国民的理念を築き上げようとしましたロマノフ家ロシア語を話すロシア人ハノーバー家英語を話すイギリス人ホーエンツォレルン家ドイツ語を話すドイツ人となりました

アンダーソンは、日本人についても、朝鮮半島にルーツを持つ王朝が、近代になって日本の民族の代表として衣替えをしたとして、日本人も上から作られた民族であるという見方をしています
イギリスの正式名称「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」には民族を表す言葉はどこにも入っていません。イングランド人、スコットランド人、ウェールズ人、アイルランド人はいますが、グレートブリテン人や北アイルランド人はいません。つまり、イギリスは「民族」を国家原理の中心に置くことなく、近代以前からの王・女王の元に国民を統合してきました

フランス革命は、近代的な意味で組織された党派や運動によってなされたものでも、指導されたものでもありませんでした。出版資本主義のお陰でフランスの経験は、人類の記憶から消去できなくなり、さらにそこから学習することもできるようになりました。フランス革命から一世紀を経て理論化し実地に実験するなかからボルシェビキが登場し、彼らが「革命」を計画し、成功させました。レーニン本人の書いたものを読むとロシアでの事態を、フランス革命のアナロジーで見ています。2月革命で生まれたケレンスキー政権は、ジロンド派による権力奪取であり、レーニン達ボルシェビキはジャコバン派になります

アンダーソンの理論によれば、「民族」とは、同じ言語を使う人たちの間で、直感されるものを共有する共同体ということになります。例えば、個人個人が目には見えない「日本」を感じ、それが共有できれば、そのグループは「日本人」になります。従って、ナショナリズムは宗教に極めて近似しているとも考えられます
現代の国家の中には、必ず宗教的な要素、絶対神の要素が入っています。日本で言えば、靖国神社がそれにあたります。靖国神社に祀られている英霊は、神道というよりはプロテスタント系のキリスト教に近いのでないかと思います

4.ゲルナー「民族とナショナリズム」の核心

ゲルナー(Ernest Gellner/1925~1995年;ユダヤ人;歴史学者、哲学者、社会人類学者)は、ナショナリズムに関する誤った考え方は以下の4つに集約できると述べています;
 ナショナリズムは自然で、自明で、自己発生的なものである。もし存在しないとすれば、それは強制的に抑圧されているからに違いない ⇒「原初主義」的な考え方
 ナショナリズムは観念の産物で、悔やむべき不測の出来事によって生まれたものに過ぎない。ナショナリズムなしでも政治は成り立つ ⇒ 典型的な「道具主義」的な考え方
③ 本来、階級闘争に向けられるべきエネルギーが、間違って民族運動に向けられてしまった ⇒「マルクス主義」への皮肉
④ ナショナリズムは暗い神々、先祖の血や、土の力が再出現したものである ⇒「ナチズム」の考え方

ゲルナーの民族の定義
① 人と人とが、同じ文化を共有する場合のみ、同じ民族に属すると言える。その場合、文化が意味するものは、考え方・記号・連想・行動とコミュニケーションとの様式から成る一つのシステムである
② 人と人とが、お互い同じ民族に属していると認知する場合にのみ同じ民族に属する。言い換えれば、民族とは人間の信念と忠誠心と連帯感によって作り出された人工物である

一般的に、①に重点があるのは比較的に大民族で、②の「意思」が強調されるのは、大民族の領域の中にいる小民族という傾向があります
大多数の日本人は①の感覚であるが、沖縄の場合は②の比重が高いと思われます

ゲルナーの民族理論の大きな長所は、経済という視点を持っていることです。人類の歴史を「前農耕社会」、「農耕社会」、「産業社会」の三段階に分けて議論を展開しています;
前農耕社会である採集狩猟集団は、国家を構成する様な政治的分業を受け入れるには余りにも小規模で国家にはならない
農耕社会では、国家はあってもなくてもよく、国家の形態自体も著しく多様であった。また、職業も専門化されていて、地縁や血縁など様々な縛りの中で生きる身分制の社会となる。この社会では敬語が極めて複雑に発達する
産業社会では、国家の存在は必須であり、信じがたいほど複雑で全面的な分業と協働に頼らなければ生活を維持できない。この社会で人はどんな職業についてもいいし、何処に住んでもいいが、国家は膨大な社会的インフラストラクチャーの維持、監督を行わねばならなくなる。中でも、教育制度は国家の重要な一部となり、文化的・言語的媒体の維持が教育の中心的な役割となる
ゲルナーは、近代の産業社会になって、人間が均質化することによって「民族」が生まれたと論じています

<民族間紛争の本質>
どんな特徴でも差別の対象になる訳ではなくて、差別が既に社会に定着してしまっている場合に深刻な問題となる差別が構造化してくると、それを克服するために分離独立運動が出て来る

イレデンティズム(Irredentism)とは「民族統一主義」と訳されることが多いが、離れてしまったもとの民族との一体化を目指す「遠距離ナショナリズム」である。故郷を離れ、観念の中で組み立てられた、理想化された民族主義というものは、ものすごい力を持つ。それが分離運動や独立運動になっていく

産業化は流動的で文化的に同質的な社会を生じさせ、その社会は以前の安定的で階層化され教条的で絶対論的な農耕社会には通常欠けていたような、平等主義への期待と渇望が生まれる
平等主義への期待があるなかで、不平等な現実、苦難があり、しかも願望するものの未だ実現しない事により、潜在的な政治的緊張が深刻なものとなる。支配者と被支配者、特権を持つ人々と、特権を持たない人々を分ける適当な象徴や識別マークを掴むことができれば、民族やナショナリズムが形成されていくことになる
つまり、分離運動や独立運動を起こさせないために為政者に要求されることは、この差別を如何に胡麻化すかということになります

<ヘイト本について>
現在書店の新刊書のコーナーには、反韓、反中、反沖縄、反米などの所謂「ヘイト」、「日本礼賛本」、「自己啓発本」が沢山並べられている。中でも、「ヘイト本」、「日本礼賛本」の類は、ナショナリズムという観点からは重大な問題となります。アンダーソンが論じている様に、「民族」や「ナショナリズム」を形成するには出版の力が非常に大きい。1930年代の日本でも、これに似た出版状況でした(例:「日本人の偉さの研究/先進社」)。オーウェルの小説「1984年/ハヤカワepi文庫」で、独裁者ビッグブラザーが支配する超監視社会での三つのスローガン「戦争は平和である。自由は隷属である、無知は力である」が町のあちこちに貼られている情景が書かれている。ヘイト本の山を見ていると、思わず「無知は力なり」と呟きそうになります

5.民族理論でウクライナ問題を読み解く

ウクライナ(google・MAP)問題には、地政学、言語、宗教、教育、経済など、これまでの民族理論で登場したあらゆる要素が複雑に絡み合っています

<民族的観点>
ウクライナは人口5300万人100の民族が住んでおり、そのうち主だった民族の人口は、ウクライナ人が3700万人ロシア人が1100万人ユダヤ人が50万人ベラルーシ人が45万人です
ウクライナの東の方に行くと、住民の殆どがロシア語をしゃべっていますが、日常生活を送るうえでは、自分たちがウクライナ人かロシア人かなんて考えていませんでした。しかし、2013年頃からウクライナとロシアの間が緊張してきて大変な状態になってきたというのが本当の所です

<中世から近世にかけての歴史>
ロシア人の歴史
では、988年、キエフ大公国(キエフ・ルーシ)のウラジミール公が現在のウクライナの首都キエフでキリスト教の洗礼を受け、その後モンゴル・タタールが攻め込んできたためにロシアの中心をモスクワに移し発展してきたと考えています ウクライナは元々ロシア
ウクライナ人の歴史では、キエフ大公国の伝統は、ウクライナの西側にあるガリツィア地方に行って、ガリツィア公国に引き継がれ、これがウクライナの国の基になったと考えています キエフ大公国の正統を受け継いでいるのはウクライナ
このガリツィア公国(ウクライナ西部)は、14世紀にポーランド領に編入され(~18世紀)、その後オーストリア・ハンガリー帝国に編入、第一次世界大戦後に再びポーランドの一部になり、第二次大戦後にはソ連に組み込まれました。ポーランド人からすれば、自分たちの影響下にある辺境と思っています

<東部と西部の違いを生んだ歴史的背景>
東部はロシア帝国に組み込まれ、もともとはウクライナ語を話していましたが、19世紀に帝政ロシアがロシア化政策を進めウクライナ語の使用を禁止した(←アンダーソンの言う「公定ナショナリズム」)ことにより、殆どの人がロシア語を話すようになっていきました
一方、西部オーストリア・ハンガリー帝国の一部になっていた為、帝国の方針により、それぞれの民族の言語、文化は規制されず、民族のアイデンティティは失われませんでした

ソ連時代になると、ウクライナ(西部+東部)は悲惨な運命を辿ることになります。最大の悲劇は1930年に始まった「農業集団化」の強制でした。ロシアの村は「ミール/農村共同体、世界、平和という意味」といい、土地の私有制もなく土地は皆のものだったため「農業集団化」は比較的簡単に受け入れられましたが、ウクライナには土地の私有制があり、「農業集団化」に激しく抵抗しました。農民のサボタージュが相次いだことに対し、スターリンは強制移住や飢餓状態になっても小麦の徴発を行ったりしたため、400万人位の餓死者が出たと言われています。1980年代の終わりの「アガニョーク(ともしび)」という雑誌に、肉屋に人間の肉がぶら下がっている写真がでています

第二次大戦が始まると、ナチスドイツが侵入し、民族独立を保証することで「ウクライナ解放軍」を募集したところ30万人がこれに応じました。一方、「ソ連赤軍」に応じたウクライナ人は200万人で、同じ民族が二つに分かれて殺し合うことになってしまいました
その後、ドイツは独立の約束を守らず、炭鉱や工場の重労働に服させたため、戦争の末期になると「ウクライナ解放軍」は反ナチスの立場で独立運動を始めました。
現在、西部のガリツィア地方を中心に活躍している「スヴォボダ/ウクライナ語で“自由”という意味」という政党は、ナチスの親衛隊によく似た旗を掲げ、血や民族の名誉を大切にしています(この政党が2014年のクーデターでは重要な役割を演ずることになりました)
第二次大戦後は、ガリツィヤ地方(西部)も含めソ連の一部となりましたが、宗教的にはカトリックのユニア協会(ロシア正教に似ている)で、自発的にロシア正教への併合を望みました。しかし、「ウクライナ解放軍」の一部は、1950年代後半になっても、山籠もりをして抵抗を続けていました。またソ連支配を潔よしとしないウクライナ人たちは、カナダの西部に移住しました(少なく見積もって40万人、多くて140万人;カナダで話されている言語のうち、英語、フランス語に次いでウクライナ語が多い)。ソ連は、ガリツィア地方への外国人の出入りを厳しく制限し、ガリツィア地方住民の出国も禁止していましたが、1985年にゴルバチョフが登場し、経済が破綻状態になった80年代終わりには人の往来を自由にしたため、国外から流入するマネーが絶大な力を発揮するようになりました

こうして、ウクライナの独立運動(ルフ/ウクライナ語で「運動」を意味する)は西と東とは全く別々に発展してゆきました。西ウクライナの独立運動を支えたのはカナダのウクライナ人です。カナダからの豊富な資金によって、西ウクライナの民族運動家は、ソ連からの分離独立運動を仕事として行うことが出来る様になりました
<参考>これに似ているケースは、かつてのIRA(北アイルランド共和軍)です。これをサポートしていたのは、ニューヨークで成功したアイルランド系のアメリカ人でした。いずれも「遠隔地ナショナリズム」が分離独立運動を支えていたということができます

<ウクライナ独立後の状況>
1991年、ソ連邦が崩壊してウクライナは国家として独立しました。公用語はウクライナ語になるものの、東部地域、南部地域、クリミアではロシア語学校が主流で、ロシア語で教育が行われていました。独立しても東部のウクライナ人のアイデンティティはまだ決まっておらず、自分がウクライナ人であるか、ロシア人であるか、依然として意識していなかったものの、生活には全く問題がありませんでした

2014年、ソチ・オリンピックの最中(期間中はロシアが介入できないと読んでの行動)に、スヴォボダを含む民族派が、武力クーデターによって権力を奪取してしまいました。権力を奪った直後、ロシア語を公用語から外しました。翌日にはこれを撤回しましたが、これがウクライナ内戦の引き金になってしまいました
ウクライナ語だけが公用語になると、東ウクライナでロシア語しか喋れない公務員は全員解雇されることになります。また、東ウクライナは国有企業が多いので、ウクライナ語が自由に操れない管理職部門の人も職にとどまれなくなります。従って、公用語の問題は生活に直結する大問題だった訳です
また、経済問題も深く絡んいます。ウクライナは西に行くほど山岳地帯となって貧しいのに対し、東側はインフラも整備され物資の供給も豊富です。こうした状況から、東ウクライナの行政機関を自分たちの手に保持し続ける為に籠城を始めました。
これに対して、トゥルチノスという大統領代行は、行政機関を占拠しているのはテロリストだとして空爆してしまいました。これが契機となって東ウクライナは武装を開始せざるを得なくなってしまったのです。ロシア語を話す東ウクライナの窮地を見て、国境地帯で演習を行っていたロシア軍の兵士が義勇兵として戦闘に参加することになりました

マレーシア航空・B777の撃墜
マレーシア航空・B777_地対空ミサイルで撃墜_2014年7月17日

ロシアという国は、国境に対して「線」ではなく、国境の先に緩衝地帯という「面」を求めます。因みに、かつてモンゴルがソ連邦に加盟したいと言ってきましたが、ソ連はそれをさせませんでした。何故ならモンゴルがソ連邦に加わると、中国との間に長い国境線ができてしまうからです。中ソ間で国境紛争が起きない様にモンゴルという緩衝地帯を必要とした訳です
日本の北方領土問題でも、択捉島の南に国境線を引くという考えは素人の考えです。玄人であれば、歯舞、色丹、国後の3島返還で海という緩衝地帯を設けると考えると思います

こうしてウクライナ問題を詳しく分析してみると、ナショナリズムというものの怖さ、危険な部分が幾重にも折り重なっていることが分かります。従って、アンダーソンの様な「道具主義的民族論」は机上の空論であると言わざるを得ないことになります

<今後の方向性について>
民族問題がこじれてしまうと非常に解決が難しくなります。一つの確実な解決策は、紛争地域から少数民族を排除していく(エスノクレンジング)ことです。これはとても危険な方向ではあるものの、現実にこうして民族問題を解決している事例は沢山あります
現在、東ウクライナでは、新ロシア勢力によるドネツク人民共和国(下図の4)と、ルガンスク人民共和国(下図の11)ができ、実質的にウクライナ政府の管轄から外れています

ウクライナの州区分地図
ウクライナの州区分地図

この両国からウクライナ人のアイデンティティを主張する人が居なくなれば、民族問題は解決するに違いありません。とんでもない議論のように見えますが、現実に進行しているのはこうした方向です

また、アゼルバイジャンとアルメニアが争っている「ナゴルノ・カラバフ自治州」についても、現在ではナゴルノ・カラバフのアゼルバイジャン領に住んでいるアルメニア人はひとりおらず、またアルメニア側に住んでいるアゼルバイジャン人も一人もいません。最早、ナゴルノ・カラバフがどちらのものだったかと説いてもナンセンスな事です。和平交渉は進んでいないものの、ある意味でエスノクレンジングは完成したと考えられます

アルメニア・ナゴルノカラバフ・アゼルバイジャン
アルメニア・ナゴルノカラバフ・アゼルバイジャン

セルゲイ・アルチューノフというロシアの民族学者は「民族衝突が起きると、あるピークに行くまでは、人為的には抑えられない。こうした衝突が起きた場合に周辺地域がやるべきことは重火器が入らないようにするだけで、あとは当事者同士を徹底的に戦わせるしかない」と言っています

流血の自体を招かないで民族問題を解決できる道もあります。それは教育です。チェコスロバキアチェコスロバキアに分裂する時流血が起きませんでした。それを可能にした要因の一つに、チェコスロバキアでは、他文化、他民族を認める教育を徹底していたことが挙げられます
一方、ユーゴスラビアでは、全く対極的な道を歩んだことになります。ユーゴスラビアは「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と言われるように、極めて複雑な民族ナショナリズムがぶつかり合っていた地域ですが、第二次大戦後、「ユーゴスラビア人」という新しい民族ができたのだという虚構によってスタートした国家でした。それが分裂の際には、同じ「ユーゴスラビア人」だったはずの人々が血まみれの殺し合いを繰り返してしまいました

6.民族理論で沖縄問題を読み解く(アントニー・スミス「エトニー」概念から考える)

アントニー・スミスはイギリスの社会学者で、ゲルナーの弟子にあたります。現実の政治を如何に説明できるか、という点で「使えるナショナリズム論」になっている。以下は、彼の著書である「ネイションとエスニシティ/名古屋大学出版会」という本をベースに論を進めることにします

エスニシティ/Ethnicityとは;
言語や,社会的価値観,信仰,宗教,食習慣,慣習などの文化的特性を共有する集団における,アイデンティティないし所属意識,さらに歴史を共有する意識をさす人類学用語。「民族性」と訳されることもあります

エトニーとは;
名前を持った人間集団」: この名前によってエスニックな共同体の人々は、自分たちを他の集団と区別し、自分たちの「本質」を確認する
名前を剥奪されたエトニーとしてクルド人が挙げられます。トルコは自分たちの国にはクルド人はいないとして、「山岳トルコ人」と呼んでいました。しかし、一度名前が剥奪されても、名前が戻ってくることもあります
出自や血統に関する神話」:成員にとって、エスニックな紐帯感や感情の奥にある鍵となる要素である。日本人にとっては、「万世一系の天皇家」がこのイメージの中心になると思われます
融合され念入りに仕上げられた神話は、エスニック共同体に対して、意味の総合的な枠組みを与える神話力となって、共同体の経験に「意味付け」を与え、共同体の「本質」を規定することになります。この様な神話力なくしては、いかなる集団も、自分たち自身あるいは他者に対して、自己規定することができず、共同行動を鼓舞することも、指導することもできません
北朝鮮にはピョンヤンの郊外にピラミッドがあります。これは20数年前、5000年前の王、檀君の骨がそっくり発見されたということで、後からピラミッドを作った訳です
歴史の共有エトニーとは、共有された記憶の上に作り上げられた歴史的共同体です。共通の歴史を持つという意識は、世代を超えた団結の絆を作り出します。それは後の世代にも自分たちの経験の歴史的な見方を教えることになります
独自文化の共有エトニーは、その成員を互いに結び付け、同時に部外者と切り離すことを助ける様な、一つあるいはそれ以上の「文化的要素」を持っています
ある特定の領域との結びつき(地縁)エトニーは、常にある特定の場所、領域との絆を持っています。エトニーの成員は、それを「自分たちの領域」と呼びます。彼らは通常その領域に住み、住まない場合でも、その地への結びつきは強力な記憶です。あるエトニーが物理的にその領土を所有する必要は必ずしもありません。重要なのは、象徴的な地理的中心地聖なる地郷土を持つことです。エトニーの成員が世界中に散らばり、数世紀も前にその郷土が失われてしまったときでさえも、象徴的に帰還することの出来る場所を持つことが重要です
内部での連帯感エトニーは、共通の名前・血統神話・歴史・文化・領土、これ等への結びつきを持つような人間の集団というだけではなく、同時にしばしば博愛主義的な制度として表現される様な、確固としたアイデンティティと連帯感を持つ共同体です。つまり、非常時や危急の際に、共同体内の階級的、党派的、知己的(互いにに理解し合っている親友の様な間柄)な関係の分断を乗り越えてしまうような、強力な帰属意識と連帯が必要です

<沖縄にエトニーの定義を当て嵌めてみると>
 沖縄は、ウチナー沖縄琉球という名前を持っている
② 共通の血統神話を持っている
 歴史も共有している
独自の食べ物や琉球語という形での言語文化も持っている
沖縄という領域と結びついている
基地問題をめぐっては、「オール沖縄」というスローガンが出てきて、大方の沖縄県人が結集している

つまり、ちょっとした条件が変化すると沖縄の人々は「民族」になり得ることになります。現時点で、沖縄人の大多数が琉球語を話せなくても問題はありません。将来琉球語を話すという意思さえあれば、それで十分です。これは、チェコでも、イスラエルでも、アイルランドでもそうでした。言語の回復を目指すという動きが出て来る時は、ナショナリズムは相当進み始めているとみていいと思います

<参考> 琉球語の文章
アレーヌーヤガ。アヌフシヌナーヤ、ニヌファブシヤサ。ユルフニアラスルトゥチネー、アリガミアティヤンドー。ヤンナー、アンシフシヌチュラサンヤー。ヤサ。チューヤアナバタヤッタサー
日本語との類似性が殆どありません!

沖縄に仮名や漢字という文字の文化が伝わったのは13世紀終りごろと言われています。1531年から約100年かけて「おもろそうし(全22巻、1554首)」という歌謡集が作られましたその中に、1609年に薩摩が琉球入りした時に、琉球王府が日本を呪っている歌が入っています;
無礼な日本人どもを、ニライカナイの底(一度入ると永久に出られない所)に封じ込めよ。心の中で琉球に対する悪意を考えるならば、たちまち気力がなくなるようになれ。大地に叩き落として、完全に捨て去ってしまえ。天下、国中は、太陽の化身であるわが琉球王が支配している。その状況を回復せよ

<沖縄と日本、二つの幕末・明治>
沖縄にあっては、明治維新は重要ではありません。国際条約において、琉球は国家として諸外国に認められていました。1854年の琉米修好条約、1855年の琉仏修好条約、1859年の琉蘭修好条約が結ばれているにも拘らず、1879年の琉球処分によって、琉球王国の承認を得ることなく一方的に日本に併合されてしまいました
この問題を突き詰めていった結果、日本への統合が合法的であったかどうか、という所まで、既に議論はエスカレートしてきています。日本(本土)から見ると、沖縄が他者だという認識がなく、自分たちの町にゴミ処理場を作るという感覚で基地問題を考えています。これではうまくいくはずがありません

<第二次大戦後の沖縄占領に際してアメリカが行った政策(謂わば植民地政策)>
1944年、占領する沖縄を統治するために、米軍が文化人類学者のジョージ・マードックに作らせた調査資料がありますが、これは非常によくできています(現在、沖縄県教育委員会の「沖縄県史・資料編」に収められています)。米軍が進駐してきた時に、軍政府の将校たちは、この資料を参考に統治を行いました
調査の対象は、「民族的起源」、「身体的特徴」、「琉球語」、「態度と価値観」、他、などが網羅されています
例えば、「民族的立場」という項目には;
日本人と琉球島民との密着した民族関係や、近似している言語にも拘らず、島民は日本人から平等だとは見做されていない。琉球人はその粗野な振る舞いから、いわば田舎から出てきた貧乏な親戚として扱われ、色々な方法で差別されている。一方、島民は劣等感などまったく感じておらず、むしろ島の伝統と中国との積年に亘る文化的なつながりに誇りを持っている。よって、琉球人と日本人との関係に係る固有の特徴は潜在的な不和の種であり、この中から政治的に利用できる要素を作ることができるかもしれない。島民の間で、軍国主義や熱狂的な愛国主義はたとえあったとしても、わずかしか育っていない

アントニー・スミスは、少数派のエトニーと、中央政府の間で起きる紛争について、次のように論じています;
支配的なエスニックの共同体が、自分たちの伝統を、その国家の他のエスニックに強制しようとしがちになる。こうなると、通常、軽視され、あるいは抑圧されているエスニックの分離主義に火がつくことになる
これは現在の沖縄で起きていることを見事に説明しています

明治政府はもっと民族問題に敏感でした。薩長土肥(薩摩、長州、土佐、肥前)という少数派が支配する体制の中で、多くの反乱が起きたこともあり、明治政府は国家統合のために物凄い努力をしました。全国に学校、病院を作り道路や橋を整備しました。その結果、沖縄以外の日本においては均質の日本人を作り出すことに成功しました。
そうして作り出された99%の日本人だから、もう民族問題など存在しないと信じているため、少数派の気持ちが恐ろしい程分かっていません

<琉球独立論の落とし穴>
今や沖縄は自己主張を始めていますが、十分に練り上げられているとは思えません。その中では、龍谷大学教授・松島泰勝氏の「琉球独立宣言(講談社文庫)」は一番完成度が高いと思います

松島氏は石垣島出身で早稲田大学・大学院時代に島嶼経済を研究テーマにしていました。ニューカレドニアの経済と独立運動との関係についてフィールドワークを含めて研究する中で、琉球と同島を重ね合わせて独立の意味と可能性を考えていました。卒業後、外務省に入省してグアムやパラオで勤務する中で、徐々に自分は琉球人という独自民族の一員だという自己意識を強めてきました
グアム全島の三分の一は米軍基地が占拠し、島外企業が観光業を支配しており、琉球と非常によく似た島と考えられます。一方、パラオでは人口はグアムの十分の一しかないものの、国であることにより、パラオ人が島の政治経済や社会において決定権を持ち他国の政治や企業による介入や支配を許さない法制度が完備していました

琉球独立宣言は、日本(本土)に対する琉球人の怒りの現れですが、決して机上の空論ではありません。2013年には、独立を具体的に研究し、実践活動をする琉球民族独立総合研究学会が設立されました
筆者(佐藤優/母親が沖縄出身)は独立論に最も強く反対しています。民族はエリート(沖縄県知事、県会議員、琉球新報・沖縄タイムス、琉球朝日放送、など)が思っているようには生まれませんが、国家という人工物は一部の支配層がでっちあげることは可能です。筆者が経験したソ連の崩壊や東欧諸国の独立運動から得た認識を基に考察すると、沖縄の独立論は圧倒的大多数の民衆とは関係無いし、民衆を不幸にする可能性の方が高いと考えています。従って、大多数の日本人に向けて、沖縄の立場、沖縄の現状を説明し、国家統合の崩壊を食い止めたいと考えています

<今こそ民族問題を学ぶべき>
筆者(佐藤優)がソ連崩壊時に知り合ったサーシャという男がいる。彼は、ロシア人でありながらラトビアに対する植民地支配を止めるべきだとして学生運動を組織し、ラトビア人民戦線を結成してその機関紙(「アトモダ/覚醒」)の編集長もやりました。しかし、独立後、ラトビアから「好ましからざる人物」としてラトビア国籍を剥奪され、追放されてしまいました。現在、彼はプーチン側近のブレーンになって、ウクライナのドネツクとルガンスクの傀儡政権創設の手伝いをしています
独立したラトビアは、ロシア人をポストから全て追い出すために、ラトビア語の試験を受けて合格した者にしか国籍を付与せず、社会保障も一切与えないことにしています。その結果、ラトビアには無国籍証明書というおかしなパスポートがあり、ロシア人は皆これをあてがわれています
この結果を見てみると、やはり自分の出自の民族から離れたところで、他の民族に過剰に同情する形での民族運動はどうしても無理があります。同情する人に勧めるのは、極力触らない方がいいということ、つまり当事者性の無い人はよそのナショナリズムに関与しないというのは、守るべき一線ではないかと考えています

その他の民族紛争、民族独立運動について(私見)

本書で取り上げられていない民族紛争、民族独立独立運動も数え上げればきりがない程ありますが、現在メディア等で取り上げられる機会が多いケースについて幾つか考察してみたいと思います
尚、以下はいずれもアントニー・スミスの定義する独立した民族(エトニー)に該当し(①名前を持った人間集団、②出自や血統に関する神話、③歴史の共有、④独自文化の共有、⑤ある特定の領域との結びつき、⑥内部での連帯感)、国家という枠組みの中で少数派に属し、不当な取り扱いを受けているケースです

1.ロヒンギャ難民問題

ロヒンギャ難民
ロヒンギャ難民

歴史的背景
ロヒンギャはミャンマーのラカイン州(下図参照)に定住しているイスラム教を信仰するインド系の民族(ミャンマーでは「ベンガル人」と呼んでいる)で、人口は約80万人と言われています。言語はベンガル・アッサム語(インド系)に属するロヒンギャ語を使用し、殆どの人はミャンマーの公用語であるビルマ語を話せず、ミャンマー人との間で日常的なコミュニケーションは殆ど図れていません。また、ミャンマー人は仏教徒であり宗教の面からも両民族の融和は難しい状況にあります

ミャンマー・ラカイン州
ミャンマー・ラカイン州—外務省資料

歴史的には、現在のラカイン州で15世紀前半~18世紀後半まで栄えていたミャウー朝・アラカン王国の時代から王の従者や傭兵としてムスリムが移住し仏教徒と共存していましたが、その後コンバウン朝の攻撃で滅亡した後は移住していたムスリムはベンガル側に逃亡しました。18世紀半ばになってコンバウン朝はイギリスに敗北(第一次英緬戦争)し、1926年にラカイン地方は英国の植民地になりました。この結果、既に英国領になっていたインドのベンガル地方(現バングラディシュ)から大量のムスリムが移住し、ラカインの仏教徒との共存関係が崩れ、軋轢を起こすようになりました
1941年12月に太平洋戦争(第二次世界大戦)が始まると、日本軍はビルマを占領しましたが、ビルマ奪回を目指す英国軍とお間で長い戦争に突入しました

インパール作戦・地図
インパール作戦・地図

日本軍はインパール作戦を実行する段階で、ラカインの仏教徒の一部を武装化しビルマ奪還を目指す英国軍との戦いに参加させる一方、英国軍もベンガルに避難していたムスリムの一部を武装化させラカインに侵入させて日本軍との戦闘にさせました。この結果、現実の戦闘ではムスリムと仏教徒の壮絶な宗教戦争となり、ラカインにおける両教徒の対立は取り返しがつかない状態になってしまいました。

大戦終了後ビルマはイギリスの植民地に戻りましたが、1948年には共和制の連邦国家として独立しました。しかし、独立直後から民族、宗教、イデオロギーの対立から内戦に突入し、1950年代までラカイン州は中央政府の力が十分に及ばない地域として残されてしまいました。この間に、東パキスタン(現バングラディシュ)の食糧危機をきっかけにしてベンガル人ムスリムがラカインに侵入し、仏教徒との軋轢は抜き差しならない状態になってしまいました。また、侵入したムスリムの中には、1960年代に政府軍によって鎮圧された東パキスタンのムジャヒディン(イスラム教の大義に則ったジハード/聖戦に参加する戦士)を名乗る武装集団も混じっていたとされ、彼らがロヒンギャの過激グループの中核になっていると言われています

1982年に成立した「市民権法ロヒンギャは正式に国籍が剥奪されました。現在のミャンマーでも、新規の帰化については、原則として政府の認めた135民族(ロヒンギャは入っていません)に限っている為、ロヒンギャに帰化が認められる可能性はありません。尚、国籍を剥奪された住民には、借りの身分証明書として「臨時証明書」が発行されました。2015年6月より、これに代わって「帰化権審査カード」が発行されています

1988年、ロヒンギャが地位改善を期待してアウンサンスーチー率いる民主化運動を支持したため、当時の軍事政権はロヒンギャに対して強烈な弾圧(財産差し押さえ、強制労働、など)を行った結果、30万人規模の難民が発生しました。また、その後1990年代にも二度繰り返された弾圧で大量の難民が発生しています
2012年にはロヒンギャと仏教徒の間で大規模な衝突が起き、ロヒンギャ200人が殺害され、10万人以上のロヒンギャが住居を追われました
こうした状況下で、バングラデシュ以外の周辺諸国(タイ、マレーシア、など)への脱出する人もいますが、これらの国は難民認定しないことで一致しており、ロヒンギャ難民が不法入国者として罰せられています

2016年10月9日、ラカイン州で武装集団の襲撃があり、警察官9人が殺害されました。当局は実行犯8人を殺害、2人を逮捕しました。当局はこれをロヒンギャ連帯機構(RSO/Rohingya Solidarity Organization)の犯行と断定し、軍による掃討作戦を実行しました。10月14日、ミャンマー大統領府は、犯行はパキスタン過激派の支援を受けた「アカ・ムル・ムジャヒディン」によるものと声明を出しました
2017年1月、イスラム諸国機構は、マレーシアで緊急外相会議を開催し、ロヒンギャ数百人が死亡した公算が大きいという報告書を発表すると同時に、「人道に対する罪」の可能性が高いとミャンマーを非難しました
8月25日、ミャンマー国境でアラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA/Arakan Rohingya Salvation Army)が駐在所20ヶ所以上を襲撃し、以後の戦闘を含めて数百人規模の死者が出ている模様です。また、ロヒンギャの居住区域では放火(双方が相手による犯行と言っている)、略奪が行われていると報道されていますが、現在、ミャンマー政府は外国の調査団の受け入れを拒否しています。一方、バングラディシュに難民として流入した人は62万人に達しており、欧州に流入したシリア難民(約37万人)、ソマリア難民(約30万人)、サイゴン陥落時のベトナム難民(約10万人)と比べても空前の規模に達しています

<考察>
歴史的背景から分かるように、ロヒンギャの悲劇の原因は;
イギリスの植民地政策:ベンガルからの大量のベンガル人ムスリムの移民を行ったこと
太平洋戦争時にイギリス軍がベンガル人ムスリムの移民を武装させ、日本軍と戦わせたこと
太平洋戦争時に日本軍がアラカンの仏教徒を武装させ、イギリス軍と戦わせたこと
ビルマ独立に際して、イギリスが民族問題に関して適切な指導を行わなかったこと

従って、このままミャンマーとバングラディシュに問題解決を委ねるのではなく、国連を中心とする仲裁に、イギリス及び日本が積極的に関わり、両国に対する経済援助、及び難民の受け入れなどを検討すべきではないかと私は考えています

<Follow-up>
* 2018年1月12日、ミャンマーを訪問しアウン・サン・スー・チー国家顧問兼外相と会談した河野外相は26億円拠出を表明して帰還を支援することを表明しました。
* ミャンマー諮問委員会報告書

2.イギリスにおける民族問題

イギリスの正式名称は既に述べたように「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」といい、民族の名称は入っていません。主たる民族の構成は、グレートブリテン島の「イングランド人」、「スコットランド人」、「ウェールズ人」、及びアイルランド島の「アイルランド人」の4民族です。スコットランド人、ウェールズ人、アイルランド人は、土着していたケルト人の末裔であることは学術的に確認されています。従って、それぞれの人びとはケルト語から派生したスコットランド語ウェールズ語アイルランド語を、英語以外の民族の言語として現在も使用しています

9世紀、14世紀のイギリス9世紀、14世紀のイギリス

<イギリスの歴史・クイックレビュー>
イングランドは、1世紀以降ローマの支配を受けていましたが、5世紀になってヨーロッパ全体に及ぶ民族大移動の影響を受けてローマの支配が終わると、グレートブリテン島に「ゲルマン系アングロサクソン人」が侵入し、土着のケルト人を駆逐、乃至同化してその過半(スコットランド、ウェールズ地方を除く)を支配するようになりました。11世紀に入るとフランス北部を拠点とするノルマンディー公ギョーム2世によりイングランドは征服、統一されました(ノルマン人もゲルマン系の民族)

スコットランドは、中世前期に建国されたときからスコットランド王国として独立を保っていましたが、スコットランド王国の正統性は、繰り返されるイングランドの侵略に脅かされていました。エリザベス1世(1533~1603年)の時代になってスコットランドの女王メアリーが内紛により女王の座を追われイングランドに亡命しましたが、その後エリザベス1世により処刑されてしまいました
女王メアリーの一人息子のジェームスはエリザベス1世死去の後、イングランド王に指名され、ジェームス1世(ステュアート朝)として即位するとともに、スコットランド王としての地位も保つことになりました(同君連合体制)。このジェームス1世は、イングランドとスコットランドの統一を願い、現在のイギリス国旗であるユニオンジャックを制定しました。因みに、この国旗はイングランドとスコットランドの両国の国旗を足して二で割った様なデザインになっています

ユニオンジャックのデザイン
ユニオンジャックのデザイン

この同君連合体制はおよそ100年間続きましが、国家としての統一はできませんでした。この間、清教徒革命(Puritan Revolution/Wars of the Three Kingdoms;1641年~1649年にかけてイングランド・スコットランド・アイルランドで起きた内戦・革命)、1688年の名誉革命(Glorious Revolution)と動乱が続きました
1707年イングランドとスコットランドの両議会で統一が決定グレートブリテン王国)されましたが、その後もスコットランドでは武力反乱が起きては鎮圧されることが続きました。1745年には大規模武力反乱(「the Forty-Five」と呼ばれている)が発生、翌年カロデンの戦い(Battle of Culloden/スコットランド北部のハイランド地方)でスコットランドは大敗北を喫しましたが、ここでイングランド政府軍(司令官カンバーランド公ウィリアム・オーガスタス)が負傷者や残党の大虐殺を行ったとされ、これが長きに亘ってスコットランド人の対イングランド感情に影を落としています。この戦いの後、政府は民族衣装のキルトやタータン模様の着用と武器の所有を法律で禁じ、伝統の氏族制度を解体しましたが、これはスコットランド人にとっては非常な屈辱であったと考えられます。尚、キルト着用禁止令は36年後に廃止されました

ウェールズは、ケルト系の小国家群が続いた後、13世紀にフレウェリンが統一を試みましたが、イングランド王エドワード1世と戦って敗北しイングランドの支配下に入りました。エドワード1世はウェールズ人をなだめる為に妊娠中の王妃をカナーヴォン城(Caernarfon;世界遺産)に連れて行き、そこで生まれた王子をプリンスオブウェールズ(Prince of Wales)と呼びました。現在でも、英国の第一王位継承者に与える公式の称号になっています(現在、チャールズ皇太子がプリンスオブウェールズです)

カナーヴォン城
カナーヴォン城

アイルランドについては、イングランドでジェームス1世による同君連合体制ができると、当面スコットランド問題が放置可能となったため、イングランド人によるアイルランド植民が始まりましたイングランドは人口においては圧倒的に優位にありアイルランド全土に植民が及んでいきました
しかし、同君連合体制になってもスコットランドとの戦争に手を焼いていることを見たアイルランドはイングランド組し易しと侮り、植民したイングランド人の虐殺事件を起こしてしまいました。また、これをきっかけにアイルランド・カトリック同盟が成立し、カトリックの擁護者を自負するローマやスペインから支援者がやってきてイニシアティブを握り、アイルランドをカトリック(アイルランド)とプロテスタント(イングランド)の代理戦争の場にしてしまいました

1749年、清教徒革命に勝利してイングランドを支配した議会派は、内外のカトリック勢力の駆逐に手を付け始めました。この過程で行われたのがオリバー・クロムウェルによるアイルランド遠征です。彼の戦略はアイルランドの徹底的壊滅であり、多くのカトリック信者が虐殺され、アイルランドはイングランドの支配下に入りました。この歴史がアイルランド人の記憶に刻み込まれ、現在に至るもアイルランドがイングランドに同化する事を徹底的に拒む背景になっています
その後、1801年にグレートブリテン王国がアイルランドを併合し、「グレートブリテン及びアイルランド連合王国」を形成しました
1916年ジェームス・コリーが指導するイースター蜂起(復活祭に行われた武装蜂起)が起きアイルランド全島の独立を宣言しましたが、直ぐにイギリス軍に鎮圧され、指導者たちは処刑されてしまいました。しかし、3年後の1919年、アイルランド独立戦争が勃発しました。1920年、イギリス政府はアイルランド統治法を制定し、北部6州はアイルランド議会で定める法の適用を受けないと規定し、アイルランドを北アイルランド南アイルランドの2つに分割して独自の議会を認め、それぞれの自治権を認めました。1922年休戦条約(英愛条約/Anglo-Irish Treaty)によって、アイルランド全島をアイルランド自由国としてイギリスの自治領になりました
しかし、イングランドから植民したプロテスタントが多い北アイルランドは即座にアイルランド自由国からの離脱を決め、イギリスへの再編入を希望しました。この結果、北アイルランドは独自の議会と政府を持つイギリスの構成国となりました(⇒グレートブリテン及び北アイルランド連合王国

一方、イギリスの自治領になった南アイルランドは、1937年に自治領から独立しアイルランド共和国となりました。北アイルランドでは、1960年代以降、宗教上政治上の対立が深まり、数々の血なまぐさいテロが実行されました(後述)。現在、北アイルラン人は、英国及びアイルランド共和国双方の市民権を持っており、双方の国のパスポートも持っています。国際法的には現在も英国の領土であり、英国議会の議席も持っています

<スコットランドの独立運動>

大英帝国が世界中に植民地を持ち、隆盛を誇っていた時代が長く続き、スコットランドではスコットランド議会において自治を求める「ホームルーム」運動(1853年)の動きはありましたが、独立を求めて中央の支配に挑戦することはありませんでした
1930年になってから、自治を求めるスコットランド誓約がジョン・マコーミックによって提案され、1949年正式に文書化されました

イギリスは、第二次世界大戦では戦勝国の仲間入りはしたものの、経済的には疲弊し大国の面影はなくなりました。1956年のスエズ危機(エジプト政府によるスエズ運河国有化)からアフリカにおける急速な脱植民地化が続き、大英帝国の凋落は最早隠しようもなくなり、多くのスコットランド人にとって大英帝国内に留まることの意義は次第に薄れて行きました
1970年代に、スコットランド近海に北海油田が発見され、イギリスに莫大な利益をもたらす様になると、その利益の不公平な分配がスコットランドのナショナリズムを刺激することとなりました
また、スコットランド議会は、1707年のイングランドとの統合以来ウェストミンスター宮殿にあるイギリス議会に統合されていましたが、こうした動きに合わせ、独自の議会設置を求める声が高まりました。1979年の住民投票では否決されたものの、1997年に登場したトニー・ブレア(スコットランド出身)首相の下で再度住民投票が行われ、独自議会を設置することが決まりました

2013年、スコットランド自治政府のアレックス・サモンド(Alex Salmond)は「独立国家スコットランド」の青写真を発表しました。2014年9月には、独立の是非を問う住民投票を実施しましたが、反対票が55%を占め否決されてしまいました
2016年6月、イギリスの欧州連合離脱の是非を問う国民投票が実施され離脱が決まりましたが、スコットランドでは、62%の住民が欧州連合に留まることを支持したことから、スコットランド自治政府首相のニコラスタージョン(Nicola Sturgeon)は独立した上で欧州連合に加盟する可能性を示唆しています

<北アイルランド民族紛争>

北アイルランドは多数派であるプロテスタント(イングランドと同じ)が中心となって統治されており、カトリック教徒は、住居、政治上の差別を受けていました。1960年代になって、アメリカの公民権運動に触発されて、北アイルランドでも差別撤廃への関心が高まりカトリックによるデモが行われるようになりました

ユニオニスト
ユニオニスト

プロテスタント主体であった北アイルランド政府はこれを抑圧情勢は緊迫化し、深刻な分断と対立が発生しまし。以降、1990年代前半までIRA( Irish Republican /南北アイルランドを統一させることを主張する武装組織)暫定派を始めとするナショナリスト(イギリスとの連合維持を主張)とユニオニスト(イギリスからの独立を主張)双方の私兵組織と、政府当局英陸軍北アイルランド警察)とが相争う抗争が続き、血の日曜日事件(1972年、北アイルランドのロンドンデリーで、デモ行進中の市民27名がイギリス陸軍落下傘連隊に銃撃され、14名が死亡した事件死亡)など数多くの武力弾圧やテロによって数千名にものぼる死者が発生するなど、社会と経済の混乱は極めて苛烈なものとなりました

しかし、1990年代になると和平への道が模索されはじめ、1998年になるとユニオニストおよびナショナリスト政党、私兵組織とイギリス、アイルランド両政府によってベルファスト合意が形成され、これに基づいて全政党が参加する北アイルランド議会が設置されました。この功績によって、穏健派政党の党首であるデヴィッド・トリンブルとジョン・ヒュームにノーベル平和賞が授与されています。過激派によるテロが収まったことを受け、外国企業による新たな直接投資が相次ぎ、経済成長を遂げています

<考察>

ウェールズ、スコットランド、アイルランド、それぞれの民族問題を概観すると、民族問題は、権力にあるものの対処の仕方によって劇的な違いを生むことが分かります;
差別は民族独立に強力なエネルギーを供給する。特に虐殺行為がこれに加わると数百年続く独立運動のエネルギーを生み出す(スコットランド、アイルランド
これに宗教の対立が絡むと、より悲惨な結果を招き、独立以外の解決策は無くなる(アイルランド
支配者が被支配者に対して名誉を与え、寛容を示せば民族間の対立は表面化しない(ウェールズ
民族紛争は荒廃をもたらし、妥協による民族の融和は繁栄をもたらす(北アイルランド

3.スペインにおける民族問題

スペインは、バスク地方とカタル―ニア地方での民族問題を抱えていますが、この問題が深刻化した背景には、スペイン内戦があります

バスク、カタル―ニア
バスク、カタル―ニア

<スペイン内乱・クイックレビュー>

第一次世界大戦後のスペインでは、右派と左派の対立が尖鋭化していた上にカタルーニャやバスクなどの地方自立の動きも加わり、政治的混乱が続いていました。そうした中で第二共和政期にあったスペインで、フランシスコ・フランコを中心とした右派による軍事クーデター発生し、マヌエル・アサーニャ率いる左派の人民戦線政府(共和国派)との間でスペイン内戦(1936年7月 – 1939年3月)が勃発しました。反ファシズム陣営である人民戦線をソビエト連邦が支援し、欧米の知識人らも数多く義勇軍として参戦(ヘミングウェイ原作の映画「誰が為に鐘は鳴る」はこの内戦を扱っています)しました。一方、フランコ側はファシズム陣営のドイツ・イタリアが支援しました

内戦の初期においては人民戦線側が有利な状況でしたが、次第にフランコ側が攻勢を強めて行き、1937年春には北部のバスク地方が他の人民戦線側地域から分断されて孤立し、ビルバオ、サンタンデール、ヒホンなど主要都市が陥落して、バスクは完全に反乱軍に占領されてしまいました。その間の4月26日にバスク地方のゲルニカが、ドイツから送り込まれた義勇軍航空部隊による空襲(ゲルニカ爆撃)を受け、巻き添えとなった市民に約300人の死傷者が出ました(共和国側は死傷2500人以上と発表)。これは、パブロ・ピカソの絵画『ゲルニカ』の題材になったことで良く知られています

ゲルニカ
ゲルニカ

1938年12月より、フランコは30万の軍勢でカタルーニャを攻撃、翌1939年1月末に州都バルセロナを陥落させました。人民戦線側を支持する多くの市民が、冬のピレネー山脈を越えてフランスに逃れました。2月末にはイギリスとフランスがフランコ政権を承認し、アサーニャは大統領を辞任、人民戦線政府はフランスに亡命し内戦は終結しました。勝利したフランコ側は、人民戦線派の残党に対して激しい弾圧を加えました。軍事法廷は人民戦線派の約5万人に死刑判決を出し、その半数を実際に処刑しました。特に自治権を求めて人民戦線側に就いたバスクとカタルーニャに対しては自治の要求を圧殺しました

<バスク独立運動>

スペイン内戦では15万人以上のバスク人が難民となり、その後のフランコ政権下ではバスク語の使用禁止やイクリニャ/バスク国旗の掲揚禁止などの政策が取られました

バスクの国旗
バスクの国旗

1946年にはアギーレがニューヨークでバスク亡命政府を編成しましたが、反共産主義の立場を取る西側勢力はフランコを容認するようになり、1960年のアギーレの死もあってバスク亡命政府は政治的影響力を低下させたました。1952年に地下組織として結成されたEKINは、バスク民族主義党青年部から分離したグループなどを加えて1959年にバスク祖国と自由(ETA)に発展し、バスク語の民族語としての擁立、バスク大学の創設などバスク民族の政治的自立や民主的諸権利の認知を訴えました。発足当初のETAは民族文化復興運動団体の色彩が強かったものの、やがて政治的独立を掲げる集団が主流派となり、1968年には武力闘争が開始されて世界的に知られるようになりました。それまでは穏健派のバスク民族主義党がバスク・ナショナリズム運動を独占していましたが、ETAの登場で状況が変わりました。1960年代末には全国的にフランコへの反体制運動が高まり、1970年代になるとバスク民族主義党が保守層の支持を背景に組織を拡大しました

1975年フランコが死去するとスペインでは民主化への移行が開始され、1978年には国民投票が行われてスペイン1978年憲法(現行憲法)が制定されました。憲法にはスペイン国家の不可分一体性が明記され、バスク人は民族を構成するには至らない民族体と位置付けられましたが、1979年にはスペイン国会でバスク自治憲章承認された後に住民投票でも承認され、バスク自治州が発足しました。憲法の規定でナバーラ県はバスク州への統合が可能とされましたが、結局1982年に単独でナバーラ州に昇格しました。バスク人とナバーラ人の分離はスペイン政府の意図するところであり、バスク地方とスペイン国家の係争解決に向けた大きな障害となっています。ETAは1968年の暴力活動開始以後に800人以上を殺害し、1990年代頃にバスク経済が一定程度回復するとテロリズムの克服がバスク地方最大の懸念事項となりましたが、2000年代後半以降には弱体化したとされています。2003年にはバスク民族主義党のフアン・ホセ・イバレチェがゲルニカ憲章改正案(イバレチェ・プラン(英語版))をスペイン国会に提出してバスク地方の自治拡大を狙いましたが、スペイン下院に否決されました

バスク語については、EU機関内で限定的な使用が認められており、2011年にはスペイン国会上院でも使用が認められるようになりました。2000年代半ばの調査で、スペインでバスク語を話す人は55万人います(他に、10万人がフランス領バスクに居住しています)

<カタル―ニア独立運動>

内戦後のカタルーニャでは、カタルーニャ語カタルーニャ・アイデンティティの象徴に対して厳しい弾圧が行われました。カタルーニャの伝統的音楽・祭礼・旗、カタルーニャ語の地名や通り名まで禁じられました。更に、自治政府や自治憲章も廃止されてしまいました。第二次世界大戦には加わらなかったものの、戦後スペイン経済は壊滅的な状況になり、1950年前後までカタルーニャ経済も停滞を余儀なくされました。1960年代から1970年代初頭になって、カタルーニャは急速な経済成長を遂げました

1975年のフランコが死去後のスペインの民主化により、1977年のスペイン議会総選挙の際、カタルーニャでは民族主義政党が75%の得票を得ました。1978年には新憲法が制定され、新憲法の下で1979年カタルーニャ自治憲章が制定されてカタルーニャ自治州が発足しました
1986年にスペインがヨーロッパ共同体に加盟すると、外国企業の1/3は経済基盤の整っているカタルーニャ州に進出しました。更に、1992年バルセロナオリンピックが開催され、カタルーニャのイメージを世界に広める役割を果たしました。1990年代には経済面で外国籍企業への依存が進み、EU外からの移民も増加致しました

2006年に自治権の拡大を謳った新たな2006年カタルーニャ自治憲章が制定されましたが、その後この自治憲章は憲法裁判所で違憲とされました(2010年)。また、スペインは財政力の弱い地域を支援する税制を採用しており、財政力が強いカタルーニャ州は特に再配分比率が低い地域であるため不満を募らせていました。これらが原因でカタルーニャ・ナショナリズムの機運が高まり、2010年半ばには独立支持派がはっきりと増加しました

2010年7月の大規模デモ「2010年カタルーニャ自治抗議」には約110万人が参加。2012年150万人が参加した大規模なデモ、2013年の「カタルーニャ独立への道」、2014年の「カタルーニャの道2014」など、毎年のように大規模デモが開催されています。2015年カタルーニャ自治州議会選挙では、独立賛成派が過半数の議席を獲得し、州議会がカタルーニャ独立手続き開始宣言を採択しました

独立旗と大規模デモ
独立旗と大規模デモ

2017年10月1日には独立を問う住民投票が実施され、投票率4割ながら賛成が9割に達しました。10月10日カタルーニャ独立宣言は署名され、中央政府に対し対話を求めたものの中央政府はこれを拒否、カタル―ニア自治政府は独立宣言そのものは撤回しなかったため、10月21日中央政府は自治政府の権限を一時停止する方針を決定しました。10月27日州議会は独立宣言を賛成多数で承認しました。これを受け中央政府はプッチダモンら州政府幹部らを更迭し、中央政府の副首相を州首相の職務代行に据えるなどカタルーニャ州の直接統治に乗り出し、現在に至っています

<考察>

バスク人もカタル―ニア人も、民族としての自覚を持った集団であることは歴史的に明らかであり、また、スペイン内乱及びその後のフランコ政権下で徹底的な弾圧を受けていることを勘案すると、現在のレベルの自治では満足しないことは明らかなように思います。独立を認めた上での連邦制、あるいは最低でも自治政府に徴税権の一部を移管する、などの妥協が必要だと思います

雑感

民族問題に関心の薄い日本も、第二次世界大戦までは、多くの民族をその支配下に置き、統治を行って来ました;
日清戦争後の下関条約で清国から台湾の割譲を受け、以後約50年間台湾を統治してきました。台湾には、福建省などから移民した中国人に加え、山地民族(9族)が居住しており、明治政府はその統治に非常に苦労しました。しかし、教育の普及等、社会インフラの整備などにより、終戦までは安定した統治が行われていました。1990年代の初めに、私自身台湾に駐在する機会がありましたが、外省人(1949年共産軍に敗れ台湾に脱出した蒋介石軍、約200万人)以外の台湾人は概ね親日的であったように思います。現在でも日台関係は良好であり、台湾の統治は失敗ではなかったと私は思っています。また、日本の統治が行われる前の台湾は、歴史的には清国の領土とはいえ「化外の地(けがいのち/中華文明に於いて文明の外の地方を表す用語)」と呼ばれ、社会インフラの整備が全く行われていなかったことも、日本を受け入れた背景にはあったと思われます

日露戦争後のポーツマス条約で、南千島、南樺太を日本の領土に加えましたが、もともとロシア人やエスキモーの人口の少ない所であったと思われますので、日本人の植民によって軋轢を起こしたことは無かったと考えられます
③ 1910年日本に併合した朝鮮については、第一次世界大戦後に沸き起こった独立運動を抑圧したこと、皇民化政策(宗氏改名、徴兵制/1944年~、、)を進めたこと、などにより民族の誇りを踏みにじったことが、現在まで続く反日感情慰安婦問題の追求靖国参拝問題に繋がっていると考えられます

第一次世界大戦で戦勝国となった日本は、ベルサイユ条約によって赤道以北の旧ドイツ領ニューギニアの地域を委任統治することとなりました。日本はこれら南洋諸島開拓のために南洋庁を置き、国策会社である南洋興発株式会社を設立して島々の開拓、産業の育成に努力しました。1933年の国際連盟脱退後は、パラオ諸島やマリアナ諸島、トラック諸島は海軍の停泊地として整備し、それらの島には軍人・軍属、及びそれらを相手に商売を行う人々が移住しました。また、新天地を求めて多くの日本人が移住し、その数は10万人に上りました。日本人の子供たちのために学校が開かれ、現地人の子供にも日本語による初等教育を行いました。こうした施策が、敗戦後も南洋諸島の人びとが親日的である理由になっていると思われます;
エピソード1:パラオ諸島のアンガウル州の州憲法では、パラオ語、英語と併せ日本語が公用語として定めています
エピソード2:1944年、パラオ諸島のぺりリュー島で1万人以上の日本兵が玉砕しましたが、開戦前に自発的に協力を願い出た現地住民を強制的に疎開させ、現地住民の人的被害は無かったそうです

1931年の満州事変後に日本の傀儡政権として満州国が生まれました。満州国を多民族国家の理想形にすると夢見た人々は、五族協和の名の下に各種の施策を行いましたが、結果として失敗に終わりました(興味のある方は、私のブログ「五色の虹-満州建国大学・卒業生たちの戦後」を読んで」をご覧になってください)。また、満州国の開拓と統治を優先する人々は、日本人百万戸(5百万人)移住計画(興味のある方は「「麻山事件」を読んで」をご覧ください)を実行に移しました。しかし、この政策は、満州国農民の土地を奪う結果となり、五族協和とは裏腹に満州人の怨みを買う事となりました。1937年の盧溝橋事件以降の日中戦争に於いては、ジュネーブ条約違反行為(捕虜の殺害や重慶無差別爆撃)、日本軍731部隊による人道に悖る行為、などがあり、現在まで続く中国人の反日感情南京虐殺の責任追及靖国参拝問題に繋がっていると考えられます

いずれにしても、日本人は、アレクサンダー大王や、ローマ人、モンゴル人、など多民族国家をうまく統治した人々とちがって、異民族統治には向いていない民族かもしれません
1949年の統一以降、アンダーソン流の「道具主義」を貫いている中国は、チベット自治区や新疆ウィグル自治区で深刻な民族問題を抱えています。「想像共同体」であった満州帝国の失敗から何を学んだのでしょうか、、、

以上

覇権国家、軍国主義、愛国心とは一体何でしょうか

-はじめに-

最近の国際情勢を概観すると、アジア太平洋地域では、経済力と軍事力を強化した中国の南シナ海の島々の軍事基地化、一帯一路政策の推進など、太平洋戦争終結後、西太平洋地域の秩序を主導してきた米国との間で緊張感が高まってきています

また、ヨーロッパ地域でも、ソ連邦崩壊後、東欧諸国が雪崩を打ってEUに加盟した結果、NATOに対峙していたワルシャワ条約機構が崩壊しヨーロッパ大陸における戦争の危機は無くなったかに見えましたが、経済力、軍事力を高めたロシアが、ウクライナへの軍事介入クリミヤ半島の強引なロシアへの編入によって、再びロシアとNATO諸国の間の緊張感が高まっています

クリミヤ半島占領
クリミヤ半島占領

一方、中東地域においても、イラク戦争終結後、政治的な秩序を回復することに失敗した米国は、オバマ政権以降、中東への積極的関与を弱めてきました。これが、ISの台頭シリア内戦を招き、これに千年以上に亘る長い歴史のあるスンニ派とシーア派の対立、3千万人以上の人口を有しながら国家の無いクルド人の国家樹立の野心、黒海艦隊を有するロシアの地中海への出口の確保、などの諸要因が複雑に絡み、多くの無辜の市民を巻き込む悲惨な戦争状態が続いています

これらは、現象から見れば、悪であるはずの少数の覇権国家による世界秩序が崩れた結果であると見ることもできます。しかし第二次世界大戦後、朝鮮戦争、ベトナム戦争、カンボジア、ラオスにおける戦争、中南米各国における戦争など、覇権国家である米ソによる代理戦争が起こり、我々の世代は覇権国家の存在そのものが、これらの戦争の原因であると教育され、そう信じて青春時代を過ごしてきました。

この矛盾をどう理解すればいいのでしょうか、米国、中国、ロシアという覇権国家のはざまで、東シナ海・南シナ海、北朝鮮の核・ミサイル開発、北方領土問題への対応を迫られている日本は、「覇権国家」に対してどう対応すべきかを考えるにあたって「覇権国家」に対する正しい理解が欠かせないと思われます

日中戦争、太平洋戦争と続く15年戦争で、310万人の日本人が亡くなりました。また、中国をはじめとするアジアの国々を侵略した結果、これ以上の尊い人命を奪ってしまいました。これらの過ちは、全て「軍国主義」によるものだと、我々は教育を受けてきました。戦後、憲法9条に代表される平和主義の下、経済を優先し軍事力を抑制してきたはずが、平成30年度の防衛費概算要求は6兆円を超える額となっており、年々増加の一途をたどっております。勿論、これは日本の防衛の為に必要であるということになってはいますが、軍事費の絶対値でいえば、極めて強力な軍事力を保持するようになったと言わねばなりません。今後、東シナ海・南シナ海、北朝鮮の核・ミサイル開発など、国際的な緊張が続く中で、軍事費は更に増大することが予想されます。世界的にみても強力な軍事力を持つに至った日本が、過去の軍国主義国家になる心配はないのか、あるいは「軍国主義」と軍事力との関係はどうなのか、軍国主義とは一体何なのか(何でもかんでも軍国主義のせいにしていないか)、などについて詳しく調べていく必要があると考えます

戦前、戦中において、幼い頃から徹底して「愛国心」を叩き込まれ、結果として多くの人々が戦争に駆り出されていったという歴史的事実があります。これらに対する反省から、戦後、教育の現場では愛国心に関わる教育が一切排除されてきました。しかし、国を愛する気持ちが悪であるはずがありません。少なくとも外交の分野で外国とわたりあう人々、防衛の最前線で軍事的な緊張のある中で仕事をしている人々のバックボーンには「愛国心」が無ければならないことは自明のことです。また、昨今の国会議員の二重国籍問題も、国籍と一体となっている「愛国心」が無ければ政治の舵取りは任せられないということから来ているものと思われます。「愛国心」とは一体何か、「愛国心」と国歌との関係、国際的な緊張が高まる中で、議論を深めていく必要があると考えます。

覇権国家

1.覇権国家とは

覇権国家とは、国際関係において覇権を目指している国家」ということになります

「覇権」を表す英語は”Hegemony”、この語源を英語版Wikipedia で調べてみると;「Hegemony is the political, economic, or military predominance or control of one state over others. In ancient Greece, hegemony denoted the politico–military dominance of a city-state over other city-states. The dominant state is known as the hegemon.」とあり、要約すれば、ギリシャ時代「ある都市国家が、他の都市国家に対して、政治的、経済的、軍事的に支配している場合、この都市国家のことを「覇権国家」(Hegemon)と呼ぶ」ということになります

一方、これに対応する「覇権」という日本語は、中国の儒家の政治思想である「覇道」から来ていると思われます。これを世界大百科事典で調べてみると;

春秋戦国時代の覇者の行った統治方式で,斉の桓公,晋の文公は覇道の代表的な実行者とされる。覇道を王道と対比させて明確に説いたのは孟子で,〈力を以て仁を仮(か)る者は覇,徳を以て仁を行う者は王〉という。仁政を装って権力政治を行うのが覇者である。ところが漢代になると,〈王を図りて成らざるも,その弊は以て覇たるべし〉といい,王道と覇道を等質とし,上下の段階の違いにすぎないと考えるようになる

両者を比較してみると、文明発祥の地として共通するギリシャと中国で殆ど同じ言葉があることに驚きますが、統治される庶民から見れば、平和をもたらしてくれる権力は有り難いという一面と、経済的に搾取され、政治的・軍事的に抑圧されるという、有り難くない面があることも見て取れます

巨大な版図を有し、数百年に亘って多くの民族を統治したローマ帝国は、パックス・ロマーナPax Romana)と言われる「ローマの平和」をもたらしましたが、統治の後半には各地で反乱が起こり、軍事力で抑え込もうとしてもうまくいかず、結局瓦解してゆきました。ペルシャ帝国、イスラム帝国、モンゴル帝国、オスマントルコ帝国、大英帝国、いずれも同じ運命を辿っています。

満州事変から始まった、日本の「大東亜共栄圏」構想も、理念としては同じようなものと考えられます。第二次大戦後の米国とソ連も、上記定義に基づけば「覇権国家」であることは紛れもない事実であると思われます

2.帝国主義とは

前節で述べたように、紀元前からの長い歴史の中で、数多くの覇権国家としての「xx帝国」が生まれ、消えて行きましたが、ここで言う「帝国主義」の帝国は、覇権国家と言い換えることはできません(勿論、覇権国家の一つの形態とは言えるかもしれません)

帝国主義」という言葉は、1917年、に発刊されたレーニンの「帝国主義論」に由来しています。極く簡単に要約すれば、「産業革命以降、発展した資本主義が、最終的な段階で『帝国主義』に移行し、その矛盾が極大化した後に、必然的に共産主義に移行する」ということです
もう少し具体的に言えば;「①生産と資本の集積が市場の独占を生みだす ⇒ ②銀行資本と産業資本の融合により金融資本が巨大化し、一国の政治と経済を支配するようになる ⇒ ③商品の輸出にかわって資本輸出が重要になる ⇒ ④世界を分割する資本家の国際的独占体が形成される ⇒ ⑤資本主義列強による地球の領土的分割が完了する:これが資本主義の最高段階でこれを帝国主義と呼ぶ」ということになります

3.二大覇権国家の対峙(冷戦)

日露戦争(1904年~1905年)、第一次世界大戦(1914年~1919年)によって疲弊したロシア帝国は、1917年の2月革命、1918年の10月革命で終焉を迎え、初めての社会主義(共産主義の第一段階)国であるソビエト政府(ロシア社会主義連邦ソビエト共和国)が生まれました。周辺の列強(日本、米国、英国、フランス、イタリア、など)からの軍事的干渉(シベリア出兵)を受けたものの、これを打ち破り確固たる社会主義国家としての地位を確立しました(1922年以降ソビエト社会主義共和国連邦/以降『ソ連』と呼びます)

計画経済で力を蓄えてきたソ連は、第二次世界大戦(1939年~1945年)当初ポーランド分割でナチスドイツと組みましたが、1941年ドイツの奇襲攻撃から熾烈な攻防(対独戦のみのソ連軍の死者は1100万人以上と言われています)が行われ、最終的に勝利した結果、ソ連は占領した国々の体制を社会主義化し、巨大な社会主義国のブロックを形成し、自由主義(下記)諸国と対峙することとなりました。ソ連は、第二次大戦を通じて築き上げた強大な軍事力と、社会主義(共産主義)という政治・経済のシステムを通じて他国を支配している実態は、まさに立派な!「覇権国家」になったと言えると思います

一方、米国はその強大な軍事力と経済力で、第一次世界大戦、第二次世界大戦を勝ち抜き、資本主義の欠点を修正しつつ国民の自由な政治、生産活動を保証する自由主義の旗手として社会主義国のブロックに対峙する存在となりました。強大な軍事力と併せ、巨大な経済力によって他国を実質的に影響下に置き、時として「民主化の名の基に他国の政治に干渉を行う状況は、「覇権国家」以外の何ものでもないと思います

この二大ブロックの対立は第二次大戦が終結すると直ぐに顕在化(1946年3月、チャーチルによる「鉄のカーテン」演説で有名になった)し、その後半世紀に亘る「冷戦」が続くことになりました。この二大覇権国家同士の直接の対決キューバ危機(1962年10月)のみにとどまり、独立運動や民主化運動にこの二大覇権国家が直接、間接に関与して世界各国で戦争が続いたことから「冷戦」とネイミングされたものと思われます

4.ソ連の崩壊と米国一強の時代

米ソの軍拡競争の結果、ソ連の経済が破綻するなかで、1991年ソ連が崩壊し巨大な社会主義国のブロックは、ロシア連邦とその他の国々に分解しました。経済力の無くなった国は軍事力のみで他の国をコントロールすることもできず、ロシア連邦は覇権国家としての地位を失い、社会主義のブロックを構成していた幾つかの国々はEUの経済ブロックに組み込まれ、NATOに加盟するなど、政治、経済、軍事全てにおいて自由主義ブロックの優位性が明らかとなると共に、米国が名実共に唯一の超大国となり、単独覇権の時代が本格的に始まりました

5.中国、ロシア連邦の覇権国家への変容

世界唯一の覇権国家であった米国は、2001年9月11日の世界貿易センタービル攻撃(約3000人が死亡)を受けて始めたアフガニスタン侵攻(2001年~2014年)、第二次イラク戦争(2003年3月~)によってイスラム過激派との泥沼の戦争を続け、政治的、軍事的な威信を失うと共に、2008年9月に始まったリーマン・ショックにより経済的に大きな痛手を受けることになりました。

一方、1966年から11年間に亘って続いた「文化大革命」によって、政治的、経済的に大きな傷を受けた中国は、その後、鄧小平指導の下に改革開放政策を始め、経済的な発展を開始しました。1986年には自由主義経済の象徴であるGATT(General Agreement on Tariffs and Trade/関税と貿易に関する一般協定)加盟を申請しましたが、なかなか加盟を認められませんでした。申請から15年後、GATTの後継組織であるWTO(World Trade Organization/世界貿易機関)加盟を実現しました。その後、リーマン・ショックも無事乗り切り、好調な輸出を背景に経済の急速な発展を実現しました。更に、経済発展に合わせて、軍事力の強化に邁進すると共に、輸出で得られた潤沢な外貨をアジア、アフリカへの投資、援助に振り向けることによって、国際政治においても大きな発言力を持つに至りました。中国主導で2013年に設立された「アジア開発投資銀行」はその象徴でもあります。今や、南シナ海の軍事基地化一帯一路政策の推進、など「覇権国家としての野心をあからさまにしています

1991年のソ連崩壊後、ソ連型計画経済から自由市場経済への移行は困難を極めましたが、もともと広い国土に分布する豊富な石油、天然ガス、石炭、貴金属、といった天然資源に恵まれていること、及び世界有数の穀物生産・輸出国であることから、徐々に経済発展を開始し、2000年以降は世界的な石油価格の高騰により、相応の経済規模を達成するようになりました。もともとソ連崩壊後も強大な軍事力と近代的な軍事技術開発能力を継承していたロシアは、ウクライナのNATO加入問題を契機に再び覇権国家」の道を歩み始めました

6.覇権国家の鼎立と日本

日本は、三つの覇権国家と過去から現在まで地政学的に大きな影響を与え合って来ました。この関係を無視して、「平和国家に徹する」、「スイスのように政治的な中立を目指す」などというのどかな考え方は、以下の考察を行ってみれば、許されるはずもないことは理解して頂けるのではないでしょうか;

ロシアとは、日露戦争の結果、日本は南樺太、千島列島などロシア領土の一部の割譲南満州鉄道の権益を奪取しました。また日本は、ロシア革命後に米英などと協調してシベリア出兵を行っています。1939年にはソ満国境のノモンハンで、双方共に2万人以上の死者を出す大規模な軍事衝突が起こっています。また、第二次世界大戦の終戦直前にソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄して参戦し、終戦直前の日本に甚大な人的被害を与えると共に、南千島を占領し、未だにこれを継続しています。このように、ロシアと日本の間には、力によって問題を解決してきた100年以上の長い歴史があります

現在、ロシアの太平洋艦隊第11航空群にとって、日本海や宗谷海峡、南千島は戦略的に極めて重要な意味を持っています。対立してきた歴史からくる両国民の微妙な国民感情や日米安保条約で保証されている米国の利害を勘案すると、北方領土問題の解決は容易ではありません

中国とは、1894年の日清戦争以降、中国に対し欧米列強と正に帝国主義的な侵略を続けていましたが、1931年の満州事変以降の15年間の日中戦争では、日本は中国国民に癒すことの出来ない大きな爪痕をのこしました。中国の大都市を訪ねてみれば分かることですが、日本兵の残虐な行為(相当誇張されていることは事実ですが)を大々的に展示する博物館が必ずあり、そこで授業の一環で見学している小中学生の一団に出会うことができます。戦後70年以上を経ても両国間の負の歴史はそう簡単に消し去ることはできません

また、中国側から太平洋を見れば分かるように、覇権国家を目指す中国の太平洋への出口を塞ぐように、九州から薩南諸島、沖縄諸島が台湾まで連なっており、尖閣列島問題や、東シナ海大陸棚天然ガス開発の問題の解決は容易ではありません

米国とは、「太平の眠りを醒ます蒸気船(黒船)、、、」が、日本の開国、明治維新の直接的な契機となったことから、必ずしも悪くはなかったのですが、日露戦争、第一次世界大戦を経て、身の丈以上に軍事強国となった日本は、それに見合った経済力、政治力を得るべくアジアでの覇権国家を目指した結果、太平洋の覇権国家となっていた米国と衝突し、第二次世界大戦で完膚なきまでに粉砕されてしまいました。惨めな敗戦からの独立、領土の返還、飛躍的な経済発展は、戦後の米国との緊密な政治、経済関係、とりわけ日米安保条約なくしてあり得ないことは自明のことです。

7.米中戦争の可能性

2016年の7月、国連海洋法条約に基づくオランダ・ハーグの仲裁裁判所は、「南シナ海での中国の海洋進出に国際法上の根拠がない」と認定しました。しかし、中国はこの判決を無視して人工島造成など実効支配を日に日に強めています

南シナ海岩礁の要塞化_2年前
南シナ海岩礁の要塞化_2年前

これに対し、南シナ海の自由航行を確保すべく、米軍は「航行の自由作戦」を実施し、米中の軍事力が極めて近距離で接触する状況が日常的に生じています。今のところ双方は節度をもって対応し、本格的な対決には至っていませんが。中国の南シナ海の島々の軍事基地化がさらに進展し、緊張が高まれば、近い将来この地域で偶発的な戦闘が起こる可能性を否定できません

2016年11月に発刊された「米中もし戦わば — 戦争の地政学(著者:ピーター・ナバロ/トランプ政権・首席補佐官)」によれば、既成の大国(⇒ペロポネソス戦争におけるスパルタ⇔現在の米国)と台頭する新興国(⇒同戦争におけるギリシャ⇔現在の中国)が戦争に至る確率は70%以上(世界史をひも解くと、覇権国家が対峙した15例のうち11例で実際の戦争が起こっていることが根拠)と言っています。また、全ての大国は「覇権」を求めるとも言っており、その根拠は、取り締まる者のいない世界では、できる限り強大な国になりたいという強い動機が存在するからだと言っています。

因みに、国際情勢を鑑みれば、第二次大戦後、国際紛争を平和的に解決する仕組みとして設置された国連の安全保障理事会は、常任理事国の拒否権行使によって、世界で起こる殆どの紛争に対して、警察機能を発揮できていません。だからといって、この本は米中戦争が不可避だと言っている訳ではなく、こうした中国の脅威を直視し、米国が政治、経済、軍事の面で採るべき選択肢を具体的に提案しているだけです

8.日本の進むべき道筋(私見

核大国であるロシア、中国と緊張が高まった時、米国の核の傘は、大きな抑止力(日本国民にとっての『安心』)を提供していることは疑う余地がありません。

しかし、1971年のニクソン・ショック(日本の頭越しに突如米中国交回復を行った)を思い出していただければ分かる通り、日米関係が如何に良好であっても、米国の利害の為には、日本が「蚊帳の外」になってしまう覚悟は常に持っていなければなりません。また、軍事的にも米国が起こした戦争の『巻き添えになるリスクも常に存在します

こうした環境下で、日本が被害者とならないためには、以下の対応が必要であると私は思います;

 政治、経済面では、ロシア、中国との交流を深め、緊張関係が発生すれば、ロシア、中国の国民にとっても、政治的、経済的につらい結果をもたらす様な状況を作り出すこと。

 軍事的には、ロシア、中国の攻撃能力と日本の防御能力とのバランスに関して、常に比較優位を保つこと。つまり、相手の国土に直接脅威を与えるような強力な攻撃力を持たない代わりに、相手の攻撃を無力化させることによって、相手の攻撃意欲を挫くことが必要になります。具体的には以下の通りです;

敵からの核ミサイル攻撃に対して迎撃ミサイルによる撃墜の能力を飛躍的に高めること。因みに、現在イージス艦の迎撃ミサイル(SM-3)で打ち損じたミサイルはパトリオットミサイル(PAC-3)で撃墜する体制になっていますが、これを3重にすることによって防御能力は飛躍的に向上します。

仮にそれぞれのミサイルの撃墜確率が90%であると仮定すれば、3重のミサイル防衛網を破って着弾する確率は;

10% x 10% x 10% ⇒ 0.1 x 0.1 x 0.1 = 0.001 ⇒ 着弾確率は 0.1%

つまり千発に1発しか着弾しないことになります。これに、ターゲットとなり得る大都市において地下街、地下鉄を利用した待避壕(核シェルターにもなる)と退避訓練を行うことにより、民間人の人的被害を極小化することが必要になります

周囲を海に囲まれ、多くの島嶼をかかえる日本は、これ等の領土を侵略から守るために日本の広い領海の制海権、制空権を確保する必要があります。この為には、索敵能力の向上(高性能レーダー、偵察衛星、偵察機、偵察ヘリ、潜水艦)と、耐空、対艦ミサイルの能力向上遠隔の領土に侵入した敵に対する打撃能力の向上(陸上兵力の急速展開に必要な装備の保有)、サイバー攻撃に対する防御能力の向上、などを着実に実施する必要があります

これらの防御能力は、技術力、工業力の水準に直接依存しまが、幸いなことに日本は技術力、工業力については他国に引けを取ることはないと思われます

軍国主義

1.軍国主義とは

辞書には色々な定義が書かれていますが、要約すると以下の様に定義することができると思われます;
① 戦争を外交の主たる手段と考え,外交問題を解決する手段として軍事力を最優先すること
② 戦争は避けられものではなく、戦争の遂行は国民全てにとって神聖な使命である
③ 戦争遂行のために、国民全員に対し、自己犠牲国家に対する忠誠を美徳とし,勇気冒険をたたえ,体力の鍛錬を推奨する
④ 上記の結果、常に軍人が最高の社会的地位を占め,教育,文化,イデオロギー,風俗習慣などが軍事優先となり、国家全体が「兵営」の様な観を呈する

確かに、戦前、戦中の日本や、ドイツは、正に上記定義の様な軍国主義国家であったことは紛れもない事実であると思われます
しかし、ドイツや日本の様な「軍国主義国家」と戦争をすることになった、連合国側ではどうだったでしょうか? 上記①~④について検証してみると;
① 外交問題で解決できなかったために、最後の手段として戦争が選択された
② (避けられなかった)戦争の遂行は、国民全てにとっての使命であった(宗教的理由で徴兵を忌避することを許すかどうかの問題はある)
③ 全く同じ様なことが行われていたと思われます
④ 戦争を勝ち抜くために軍事優先の国内体制を整えたものの、軍人が最高の社会的地位を占めることは無かった

つまり、軍国主義かそうでないかを決めるポイントは、「軍事が政治(特に外交)や経済のかじ取りをしたか、しないか」ということになるのではないでしょうか

2.日本の軍国主義

言うまでもない事ですが、日本の軍国主義に関わる象徴的な出来事として、515事件(1932年5月15日)と226事件(1936年2月26日)があります。前者では、軍人によって政府の要人や経済人が暗殺されました。また後者の事件では、大隊規模の軍隊によって政府の要人の暗殺に加え、警察の制圧マスコミ(朝日新聞)の制圧が行われました。いずれも事件が終結した後、首謀者は断罪されましたが、軍隊という強大な実力組織が、政治による統制がきかなくなり、軍組織内の規律が失われると、国全体が制御不能になることを予見させる出来事でした。

これらの事件に先立つ1921年、「バーデンバーデンの密約」という重要な出来事があります。1921年という年は、ヨーロッパを主戦場として戦われた第一次世界大戦(1914年~1919年)が終った直後の時期に当たり、悲惨な戦争の傷跡を随所に見ることができました。また明治以降、常に日本の最大の脅威であり続けたロシアが1917年の革命を経て、ソ連という新しい社会主義国に生まれ変わろうとしていた時期にもあたっていました。

丁度この時期に駐在武官としてヨーロッパにいた3人の優秀な中堅将校(永田鉄山少佐、小畑敏四郎少佐、岡村寧次少佐;3人共陸士16期生で日露戦争の従軍経験がない最初の世代)が、ミュンヘン西南のボーデン湖の近くにあるバーデンバーデンという温泉郷に集まり、①長州派閥を打破して軍人事の刷新を行う、②国家総動員体制を確立する、という誓いを立てました

これらの3人の将校は、優秀であるのみならず人望もあったこともあり、多くの少壮将校がこれに続いて、政治革新運動に関与していく流れが出来て行きました。また、1929年の世界恐慌以降、大不況に見舞われた日本の政治は混乱を極めていました。これらが、最終的に515事件、226事件、柳条湖事件→満州事変、満州国建国、盧溝橋事件→日華事変、と続く軍人による政治主導が終戦まで継続することになりました

この間、気骨のある政治家であった斉藤隆夫(1870年~1949年)が、226事件直後の粛軍演説(1936年5月)、や日華事変の泥沼化が明らかとなった時期の反軍演説(1940年1月)などで正論を述べていました(言論統制の厳しい当時にあっても、実に勇気ある発言をしているので、お時間のある時にご一読をお薦めします)が、軍人による政治主導の流れを変えることはできませんでした、一方、政治に対するチェック機能を果たすべきマスコミは、軍人による独断専行をむしろ称賛し、国民を戦争に向かって煽る記事を流し続けました。また、知性を代表する小説家達もこの流れに公然と逆らう人は残念ながら殆ど歴史には残りませんでした

ペンは剣よりも強し(イギリスの政治家・小説家ブルワー・リットンの戯曲『リシュリュー』にある「The pen is mightier than the sword.」の訳)とは言いますが、この時代の新聞記者たちは、特高の恐怖の前で、保身を優先せざるを得なかったということでしょうか。それとも本心から書かれた記事が正しいと思っていたのでしょうか。

ただ、膨大な犠牲を強いられた日露戦争のさ中に、戦場に赴いた弟の生還を願って書かれた与謝野晶子の反戦の歌「君死にたまふことなかれ」(1904年雑誌『明星』に掲載されました)があった事は忘れてはならないと思います(⇔明治、大正の戦争と、昭和の戦争の違い)

こうして日本の軍国主義の流れをつぶさに眺めてみると、明治維新及びその後の日本が、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦の戦勝を通じて急速に軍事大国に成長していったこと。明治維新以降の難しい時代に政治と軍を指導統制していた経験豊かな薩長の軍閥が、純粋培養で育てられ成績優秀ではあるものの、戦争の実相をしらない若手将校に取って代わり、政治に関与を始めたこと。マスコミに煽られた大衆がこれを後押ししたこと。普通選挙で選ばれた政治家が大衆に迎合したこと。など、全てが日本の軍国主義化に関わったものと考えられます

ともすれば、A級戦犯として裁かれた高級軍人のみが、軍国主義の責任者であると簡単に整理することは、歴史を今に生かすことにはなりません

3.日本陸軍の実態

日中戦争、及び太平洋戦争開始後のマレー・シンガポール攻略作戦、フィリピン攻略作戦においては、日本軍による残虐な行為略奪行為が行われたことは紛れもない事実です。これらの残虐行為が、軍国主義の故であると考える人がいるかもしれませんが、これは間違いです

民間人への暴行・凌辱・殺人や略奪については、陸軍刑法第86条~89条で明確に規定されている様に、重罪として処罰されることになっていました。

また、捕虜に対する暴行・凌辱・殺人は、日本も署名している1929年・捕虜取り扱いに関する条約(通称ジュネーブ条約)」に明確に違反している行為であり、日本軍にとってもあってはならない行為でした。

因みに、日露戦争におけるロシア人捕虜の取り扱いや、第一次世界大戦におけるドイツ人捕虜の取り扱いは、当時の国際法に則っており、模範的なものでした。また、旅順での激しい戦いが終わった後、水師営での降伏会見で乃木希典司令官が敗軍の将を丁重に扱う模様は、外国人従軍記者により広く世界に伝えられ称賛されました

水師営の会見
水師営の会見

こうした許されざる行為は、何故行われたのでしょうか。これに対する答えは、実際に下士官として従軍した経験を綴った「私の中の日本軍;(著者:山本七平から)」に詳しく書かれています(詳しくは、私の読書メモをご覧ください)
この中で、特筆すべき点は;
① 日本軍の戦略・戦術には「兵站」の重要性が考慮されておらず、敵を追って進出した地域での兵士の食料の調達は、略奪に頼る以外に方法がない場合が屡々起こった(当時の日本軍は、飯盒炊爨が原則となっていたので、天候が悪かったり、燃料となるものが現地で調達できなかった場合は当然略奪しか選択肢が無かった)
② 陸軍刑法を遵守するためには、厳正な軍紀の適用が不可欠であることは当然の事ですが、前線にあって実際に罪を犯す可能性のある下士官、兵卒には軍紀が全く行き届かず、あるのは古参兵と新兵の上下関係だけであったとのことです。こうした無法状態の中で、戦闘における極度の緊張が解けた時、本能のままに民間人への暴行・凌辱・殺人や略奪、捕虜に対する暴行・凌辱・殺人が行われていたと考えられます
③ あまりに酷い軍紀の乱れに、何度も通達が出されていますが、全く効果が無かったとのこと

こうした軍紀が乱れた状態で戦われた戦争の経験者は、被害者であると同時に加害者でもあった訳で、敗戦後、戦争の体験を周囲に語らなかった一つの原因になっているとも考えられます。当然の事ですが、軍紀が守られない軍隊は野獣の集合であって軍隊ではありません

4.日本軍の戦死者が何故かくも多かったのか

多くの戦線において日本の敗色が濃厚となったころから、多くの将兵が死ななくてもいい命を落としました。その原因として以下が考えられます;
① 「兵站」が考慮されていない作戦で、弾薬や食料が尽きた後に玉砕
② 制海権が失われた島嶼地域の防衛に当たらせ、退路が断たれ玉砕
③ 食料の供給や、移動の手段を考慮せずに大軍を動かした結果、飢えや疫病で大量死を招いた
これらはいずれも、兵站や退路を考えない杜撰な作戦の為に多くの兵士の命を失ったことになり、責任の多くは生き残った者の多い作戦参謀にあったと考えられます

また、
④ 陸軍刑法第40条に、司令官の判断で撤退や降伏をすれば死刑と規定されていたことで、激戦・敢闘の末戦闘の継続が意味を持たなくなった後でも、玉砕攻撃によって無駄な死を招いたこと
⑤ 陸士出身の将校や、激戦に巻き込まれた沖縄戦の一般市民、終戦直前に怒涛のように侵入してきたソ連軍に蹂躙された地区の一般市民は「戦陣訓」にある「生きて虜囚の辱めを受けるな」によって死を選択した可能性もあります
これらとは別に、
⑥ 1943年のアッツ島玉砕に始まる玉砕攻撃、1944年から始まる特攻攻撃を、作戦の失敗とは報道せず、英雄的な戦いとして報道し、劣勢になった戦局では玉砕を選ぶ風潮が生まれてしまった

 

5.まとめ(私見)

今や、防衛費だけ見れば世界の8番目に位置し、最新鋭の防衛装備を有する軍事大国日本が、悲惨な歴史を繰り返さないためには、以下の様な対応が必要であると私は考えています(自衛隊法法参照);
① 政治による自衛隊の統制を厳格に行うこと(但し、軍事知識に乏しい政治家が無謀な判断をしない様に、軍事行動が行われる時には、自衛隊制服組の判断を大切にすること) — 自衛隊法第7条~9条に明確に規定されています
② 自衛隊員は規律を遵守すること — 同法第56条、57条、59条に明確に規定されています
③ 自衛隊内で政治に関わることを一切禁止すること(自衛隊法にも明確に記述されており、当たり前の事ですが、) — 同法第61条に明確に規定されています
④ 戦闘行為が発生した場合、メディアによる報道は、真実を伝えることに徹し、自身の意見で世論を操作することが無いように心がけること
⑤ 国民一人ひとりが、確かな報道を基に自身の国土防衛に関する考え方を持ち、これを国政選挙の投票に反映させること
⑥ 国政選挙において、政党はその綱領において、日本の防衛に対す考え方を明確にしておくこと

 

愛国心

1.「愛国心」とは

愛国心と言っても、国によって、人によって、その意味が少しづつ違います。従って、幾つかのタイプに整理して考えてみたいと思います;
① 国土(地理的な意味での国土)を愛し、国土に忠誠を誓うこと
② 民族を愛し、民族に忠誠を誓うこと。国土が分割されていたり、国土が無かったとしても、その忠誠は変わりません
③ 宗教に忠誠を誓うこと。宗派別に考えた方がいい宗教もあります
④ 統治者に忠誠を誓うこと
⑤ 政治体制あるいはそれを代表する党派に忠誠を誓うこと

これらの分類に基づき、世界の代表的な国々の愛国心を点検してみると;

米国:移民によって成り立っている為、典型的な①のタイプになります。太平洋戦争が始まった時、日本人は敵国であると同時に多民族国家米国に忠誠を尽くさない可能性を考え、日本人のみを隔離した暗い歴史があります

仏国:現在のフランスの国土には、歴史的に国境を接するイタリア系の民族、スペイン系の民族が多く混じっており、更に第二次世界大戦後は旧植民地から移民を多く迎えた為、多民族国家といってもいい状態になっています。従って、愛国心のタイプとしては①となります。ナポレオンによる統治の時代から、フランス国民のアイデンティティーは民族ではなく正しいフランス語を話せることされており、フランス語の教育に力を入れています。ただ、最近はイスラム圏からの移民2世に、イスラム教に忠誠を誓う③のタイプの国民がおり、テロなどの問題が頻発しています

英国:大英帝国の時代から、君臨する英国王(女王)に忠誠を誓う④のタイプに分類できますが、18世紀にアメリカが、19世紀には南アフリカが完全な形で独立しました。未だに英連邦に残っている国々もありますが、これらの国々の国旗には英国の国旗のデザインが入っており、英国王(女王)に忠誠を誓う象徴になっています。一方、英国の正式名称は「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」であり、英国国教会とは違うカトリックを信じる北アイルランドの人々は、歴史的に英国王(女王)に忠誠を誓っているとは言えないと思われます。また、グレートブリテン島にいるウェールズ人や、スコットランド人は、歴史的に被征服民族であるゲール人を祖先に持っており、やはり英国王(女王)に忠誠を誓っているとは言えないと思われます。また、最近はフランスと同様に、イスラム圏からの移民2世に、イスラム教に忠誠を誓う③のタイプの国民がおり、テロなどの問題が頻発しています

中国:現在の中国は、漢族が多いとはいえ、多くの民族や宗教の違う国民で構成されており、中国共産党に忠誠を誓う⑤のタイプになります。しかし、イスラム教を信じるウィグル人の多い新疆ウィグル自治区やチベット仏教を信じるチベット人の多いチベット自治区は、必ずしも中国共産党に忠誠を誓っているとは思えません

ロシア:ソ連時代は中国と同じ共産党に忠誠を誓う⑤のタイプでしたが、ソ連崩壊後は、主だった民族は独立し、ロシア正教も復活したところから、①&②のタイプの忠誠心を求めていると思われます

中東諸国:国境が、列強の植民地の区分の名残をとどめています。王族の支配が続いている国や、そこからの独立を果たした国がありますが、いずれもイスラム教が国教であり、イスラム教の宗派に忠誠を誓う③のタイプに分類できると思われます

クルド族:イスラム教ではあるものの、民族としての国家を持たない為、忠誠心としては②のタイプになります

ポーランド、フィンランド、エストニア:歴史的に常に周りの強国の侵略を受けており、国土及び民族に対する強い忠誠心を持っています。つまり、忠誠心のタイプとしては①&②になると思われます

日本:日本は島国であり、二度にわたる元寇(1274年の「文永の役」、1281年の「弘安の役」)を除き、徳川時代まで外国の干渉を受ける機会が皆無であった為、忠誠心は、平安時代までは天皇に向けられていたと思われますが、実際は貴族や位の高い武士に限られていたものと思われます。鎌倉時代に入ってからは、武士団の長が領地を安堵してもらう代わりに武士たちは幕府に武力を提供するという関係性を持つようになり、一般の武士の忠誠の対象は、武士団を統括する長に向けられていたと思われます。元寇において武士団が命がけで戦ったのは、当時の執権「北条時宗」に先祖伝来の所領を安堵してもらう為だったと言われています(「一所懸命」はこの事を言っています)。戦国時代にあっても、武士団の規模は大きくなるものの、忠誠心の対象は戦国大名という武士団の長に向けられていました。徳川幕府の3百余藩による統治も、徳川家の親藩を覗けば基本的にそれを立脚しています

徳川幕府時代の藩単位の国家観が、日本国という国家観に大きく変貌するのは、明治維新の志士たちが、植民地化が進みつつあった中国を観、列強が跋扈する世界を観て、藩という小さな枠組みでは列強の植民地化を防げないと考えたからでした。しかし、明治維新が成った後も暫くは、藩単位の国家観から抜けきれず、武士の特権にしがみつこうとした、武士団の反乱が相次ぎました(佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、西南戦争)。最後の西南戦争を勝利した1977年(明治10年)になってようやく、明治天皇を頂点とする国家体制が出来上がりましたが、この新しい日本国に対する忠誠心を日本の国民に植え付けていくのは、そう簡単なことではありませんでした

その後、殖産興業、富国強兵に邁進し、欧米列強と鎬を削りながら、幕末に列強との間で結ばれた不平等条約を徐々に改定しアジアの強国にのし上がっていく内に、自然な形で日本という国土を愛し、日本民族を誇りに思う愛国心が芽生えていったものと思われます

しかし、1890年代に入って日清戦争を戦い、1900年初頭には日露戦争を戦う中で、死を賭して戦う勇気と、日本という国家に対する忠誠心が結び付けられて行きました

一方、これ等の戦争に勝利した結果、台湾、南樺太、南千島が日本の領土に加えられました。また、1910年には朝鮮併合が行われ、日本人以外の民族を日本という国家に抱え込むことになり大日本帝国という多民族の国家に対する忠誠心が必要となり、天皇という統治者に忠誠を誓う大英帝国型の愛国心を植えつけるべく、教育制度や法規制などの上からの改革が進められることとなりました

更に1932年には、満州国が誕生し、日本人、中国人(台湾人、漢族、満州族)、朝鮮人、蒙古人、ロシア人で構成される満州国が、大日本帝国のいわば傀儡国家として加わることとなりました。この広大な満州国を実質的に統治するために、「五属協和「五色の虹-満州建国大学・卒業生たちの戦後」を読んでを参照)」、「八紘一宇」などの空想的な国家観、世界観を作り出し、天皇という統治者に対する忠誠心を植え付けようとしましたが、結局目的を達することができませんでした。特に、統治がうまくいかなかった朝鮮では、「皇民化政策」や「創氏改名」の強要まで行われましたが、朝鮮人としての誇りを傷つけるだけに終わりました

1937年の盧溝橋事件、第二次上海事変で始まった日華事変(日中戦争の後半)は、果てしない泥沼の戦いとなり、敵地での死に物狂いの殺し合いは「愛国心」とは全く無縁の精神状態で行われていました。また、1941年に始まった第二次世界大戦においては、当初は華々しい戦勝が続き、戦場から遠く離れた日本国内では大いに「愛国心」が盛り上がりましたが、開戦から約半年後のミッドウェー海戦に敗北してからは劣勢に立たされ、撃沈される船の中で、撃墜される航空機の中で、弾薬、食料がつき無謀な突撃を行う中で、軍人達は、無謀な作戦を恨むことはあれ、「愛国心」で戦う者は少なかったものと思います。ただ、大空襲に晒される直前までの日本国内の多くの一般人や、ソ連が参戦するまでの満州における多くの一般人は、国家をあげての「愛国心」教育のお陰で、強い「愛国心」があれば戦争に負けることは無いと信じていた人が少なからずいたのかもしれません

1945年の敗戦と同時に、無謀な戦争遂行のために「作られた愛国心」は煙のように消え去りました。武装解除され最初に日本に帰還した日本兵数か月から1年以上海外に抑留された後引揚げてきた一般人、長期間シベリア抑留を耐え抜き帰国を果たした日本兵、戦犯として裁かれ刑期を終えて帰国した日本兵、いずれの日本人も祖国の土を踏んだ時涙を流したと思われます。つまり、この涙で象徴される安堵感が、焦土と化した日本を復旧させる原動力となったものであり、その後の日本の「愛国心」のベースとなっていったものと思われます

2.国歌の歌詞に表現されている「愛国心

国歌は近代西ヨーロッパに生まれ、幕末の頃には外交儀礼上欠かせないものになっていました。現在に至るも外交儀礼上は必須のものになっていますが、国内においても、多くの国民が参加する祝賀行事になどには国歌が演奏され、参加者は全員起立したり、軍人、あるいはそれに類する立場の人は、胸に片手を当て忠誠を表すポーズを取ったりします
また、オリンピックなどの国際スポーツ大会でも、表彰式では優勝者を讃えて国歌を演奏することはご承知の通りです。こうした場面をよく見てみると、国歌を実際に歌っている人と、歌わない人が居ることに気が付きます。オリンピックで勝つために国籍を変えて代表になった選手などは、例外なく歌っていない様に見えます。日本でも最近は歌わない(多分、覚えていないので歌えない!)スポーツ選手も多くなっています

国歌を歌うことの是非は、ここでは論じないこととして、どの国でも、国歌には国の歴史や、愛国心の源が歌い込まれていることが多いので、以下に代表的な国の国歌の成り立ちを紹介したいと思います、対応する歌詞は長くなるので割愛し別紙(国歌に見る「愛国心」)に纏めてあります。時間のある人はご覧になってください;

国歌に見る「愛国心」

日本の国歌「君が代」
「君が代」の元になった歌詞は、「古今和歌集」の短歌(読人しらず)の一つです。1880年に曲が付けられて以降、日本の国歌として使用され、1999年になって国歌として法制化されました(国旗及び国家に関する法律)。この歌詞からは軍国主義は汲み取れませんが、天皇を神聖化した戦前、戦中の記憶を思い出させるとして、終戦の機会に国歌を変えるべきであったという人もいます
主題:天皇の代が永久に続くことを願うこと 天皇に対する忠誠心を鼓舞する 

イギリスの国歌:「God Save the Queen
曲のルーツははっきりしていませんが、現在知られているメロディーに最も近い編曲は1745年頃、当時有名な作曲家であったトマス・アーン(Thomas Augustine Anne)によって行われたことが知られています。当時、名誉革命後の反革命勢力との争いがあり、祖国の勝利への強い願いが込められています
主題:女王(王)に神のご加護を願うこと 女王(王)に対する忠誠心を鼓舞する

アメリカ合衆国の国歌:「星条旗よ永遠なれ」
1812年の米英戦争に於いて、優勢であった英国軍に包囲され、集中砲火を浴びながら守り抜いていたボルティモア港「マクヘンリー砦」に翻っていた星条旗に感銘を受けたフランシス・スコット・キーが書き上げた詩「マクヘンリー砦の防衛(The Defence of Fort McHenry)」が元になっています
主題:祖国防衛の為に戦う勇者の象徴として国旗を謳いこんだ 愛国心を鼓舞する
* 太平洋戦争末期、米軍に大きな犠牲を強いた硫黄島攻防戦(1945年2月)で大きな犠牲をはらって「摺鉢山」を制した海兵隊員が、頂上に星条旗を立てた時の写真が新聞に掲載され、愛国心を鼓舞したことはよく知られています

硫黄島・摺鉢山の星条旗_AP通信・郵便切手
硫黄島・摺鉢山の星条旗_AP通信・郵便切手

フランスの国歌:「ラ・マルセイエーズ」
1789年のフランス革命後、王政を布いている周辺の国々から干渉を受けたことはよく知られています。1792年にフランス革命政府がオーストリアに宣戦布告をした知らせがストラスブール(現在の独仏国境に近いライン川沿いの都市)に届いた時、当地に駐屯していたライン方面軍の工兵大尉ルージェ・ド・リールが出征する部隊の士気を鼓舞するために、一夜にして作曲した「ライン軍の為の軍歌」がフランス国家の元になっています。1995年には国歌として採用されました
主題:国を侵略する者と戦う兵士を鼓舞する → 愛国心を鼓舞する

⑤ ロシアの国歌:「ロシア連邦国歌」
1922年に成立したソ連では、フランスの市民革命・パリ・コミューンの時代(1871年)につくられた「インターナショナル」が採用されました。その後、レーニンが率いるボルシェビキ党の党歌を流用し、児童文学者のセルゲイ・ミハルコスの詩を元に「ソビエト連邦国歌」が作られました。1991年のソ連崩壊後誕生したロシアでは、新たにミハエル・グリンカ作曲による「愛国者の歌」が国家として採用されましたが、これには歌詞が無く評判は芳しくありませんでした。2000年に大統領に就任したプーチンは、旧ソ連時代の「ソビエト連邦国歌」のメロディーを復活させ、セルゲイ・ミハルコスに新たな歌詞を作らせて「ロシア連邦国歌」としました。2001年には正式に国歌として定められました
主題:広大な国土と優秀な民族であることの誇り 愛国心を鼓舞する

インターナショナル
主題:国際共産主義(共産主義を世界に広めること)
* 日本でも60年安保闘争、70年安保闘争の折、全学連各派の集会が行われる時によく歌われました

⑥ 中国の国歌:「義勇軍進行曲」
最初の中国の国歌は、清朝崩壊寸前の1911年に制定されましたが、すぐに辛亥革命によって中華民国が誕生(1912年)し、孫文の提唱した三民主義思想に基づき作詞された「中華民国国歌」が正式決定されました。この国歌は今も台湾(中華民国)の国歌として使われています(ただ、オリンピックなど国際試合で演奏されているのは中華人民共和国の一つの中国政策を慮って、「国旗歌」が演奏されています)
1949年に建国された中華人民共和国では、抗日映画である「風雲児女」の主題歌「義勇軍進行曲」(作詞者:田漢;進行曲とは行進曲の意味です)が人民会議で決定されました

抗日戦
抗日戦

しかし、文化大革命の期間(1966年~1976年)は、作詞者である田漢が迫害され、その影響で義勇軍進行曲の歌詞は歌われなくなり、メロディーの演奏のみが行われていました。その間、事実上の国歌として歌われたのは、毛沢東を讃美する「東方紅」でした
文化大革命終結後は、義勇軍進行曲が復活したものの、当初は毛沢東や中国共産党を讃美する歌詞で歌われましたが、1982年の全国人民代表大会第5回大会において田漢の歌詞が再び国歌として決定されました。その後2004年には憲法に正式な国歌であることが明記されました
主題:長く苦しかった抗日戦争を戦い抜いた勇気を讃える 愛国心を鼓舞する

⑦ 韓国の国歌
作詞者不明で20世紀初頭から「蛍の光」のメロディーに乗せて歌われていました。1948年の大韓民国建国後、作曲家・安益泰(1905年~1965年)の作曲による「韓国幻想曲」の最終楽章として発表されたメロディーに乗せて歌われるようになりました
主題:国土を愛し、民族の誇りを愛でる 民族の矜持を鼓舞する

⑧ ポーランドの国歌:「ドンブロフスキ将軍のマズルカ」
ポーランドは、18世紀後半以降、周囲の列強(プロイセン、ロシア、オーストリア)により侵食されてゆきましたが、1795年の第三次分割により全ての領土を失ってしまいました。1797年にイタリアに亡命したドンブロフスキ将軍がポーランド軍団を結成しましたが、この時の軍歌「ドンブロフスキ将軍のマズルカ」が国家となりました
主題:侵略者を打ち破る勇気 →愛国心を鼓舞する

⑨ フィンランドの国歌:「我らの地」
1948年、ドイツ人移民であるフレドリク・パーシウスが作曲したメロディーに、ユーハン・ルードウィーグ・ルーネベリが作詞した「我らの地」が国家として採用されましたが、明確に法制化されてはいません
また、フィンランドでは国民的英雄であるシベリウスによって作曲された交響詩「フィンランディア」も第二の国歌として使われています
主題:祖国、民族に対する愛 

⑩ エストニアの国歌:「我が故国、我が誇りと喜び」
エストニア国歌は、1848年にフレドリク・パーシウスによって作曲され、1869年にヨハン・ヴォルデマル・ヤンセンによって歌詞が書かれています。 この歌は、1869年のグランド・ソング・フェスティバルで合唱曲として歌われたところ、瞬く間にエストニアのナショナリズムのシンボルのようになりました。エストニアの独立戦争の後、1920年に公式にエストニア国歌として採用されています
第二次世界大戦末期の1944年にソ連に併合されてからは禁止され、 1945~1990年の期間は別の曲が国歌とされていました
ソ連邦崩壊直前の1990年には、エストニア共和国の国歌として復権しています
なお、メロディ-はフィンランド国歌とほぼ同じものです(民族的にはフィンランドと近い関係にあり、言語も非常に近い関係にあります)
主題:祖国、民族に対する愛

3.日本の「愛国心」のあるべき姿(私見)

日本の近代史を俯瞰すると、他国を侵略したことはあっても、侵略されたことはありません。他国を侵略することは、侵略される国の「愛国心」を刺激し、必然的に厳しい戦いを強いられることになります。この戦いに勝つための「強兵」を養うために、神がかった「愛国心」像を作り上げ、国民全員が幼い頃から教育されました。不幸にも、マスコミもその片棒を担いだことは紛れもない歴史の真実です。

幸い終戦後の日本は、国土や美しい日本の自然を愛することをベースとした「愛国心」を多くの人が共有しています。他国を侵略する必要が無ければこれで充分であるし、また他国から侵略されれば、この素朴な「愛国心」が強大な力を発揮して侵略者を撃退することは間違いないと私は信じています

最近、メルギブソン監督の「ハクソー・リッジ」という映画を観ました。激しかった沖縄戦の中でも、最大の激戦となった浦添城址南東の高田高地での戦闘で、非武装のまま衛生兵として活躍し、日本兵を含む多くの命を救ったデズモンド・T・ドスの実体験を描いた映画です(詳しくは、私の感想メモ「ハクソー・リッジを観て」をご覧ください)。当時の米国軍人の愛国心とはどういうものか、特に米国本土以外の外国で戦う米国軍人が、死を賭して戦う勇気がどこから生まれてくるのかが私の知りたいところでした

沖縄戦に先立つ硫黄島の戦闘では、日本では日本兵2万人の玉砕のみで語られることが多いのですが、この戦闘で米軍側も6千人以上の戦死者と、それを遥かに上回る戦傷者を出しています。この戦闘の最前線に立ち、多くの犠牲者を出したのは、米軍の中でも最も勇敢であると言われている海兵隊です。かれらの仲間同士の間で交わされる「センパーファイ/Semper Fi」という合言葉は、最近の映画やドラマなどでもよく出てきますが、これはラテン語の”Semper fidelis”から来ていて、「常に忠義・忠誠・忠実であれ」という意味を持っています。

多くの米国人にとっては、自由選挙で国民に選ばれた大統領や、議員達が決定した国策を忠実に遂行することが国民の義務と考えていると思われます。米国軍人にとっては、これは米国に忠誠を誓うこと、忠実に上官の命令に従うことに繋がっているものと考えられます

第二次世界大戦で国策の誤りで310万人に死者を出した日本には、日本の国土を侵略された場合以外には、こうした忠誠を国民や自衛隊員に期待することはできないと私は思います

ただ、昨年法改正が行われた「新安保法制」では、自衛隊員が海外に於いて生命の危険に晒されることや、武器を取って戦うことが必要になる場面が想定されます。愛する国土の防衛とは異なる、在外邦人の救出米軍等の友軍の支援危機に瀕している外国人救出、など外地における新たな危険任務を、何を拠り所に遂行すればいいのでしょうか。「派遣される自衛隊員を志願制にするか?」、「国の名誉のために戦うことも自衛隊員の任務に加えるか?」など、いずれにしても、「戦闘があったかなかったか」、「日報を隠したか隠さなかったか」などを議論するより前に、こうした根本的な問題を国会で綿密に議論すべきではなかったかと私は思います

以上

憲法について考える

-はじめに-

憲法記念日の5月3日、安部首相は都内で開かれた公開憲法フォーラムにビデオメッセージを寄せ、憲法改正の時期と改正内容について明快に意思表示を行いました。この内容については、野党はおろか与党内の根回しも行っていなかったため、かなりの反響を呼びましたが、結果として、好むと好まざるとに関わらず、これから数年間、政治家や有識者の間で憲法に関する熱い議論が行われることは間違いないと思われます。また、我々一人ひとりも国会議員の選挙や、憲法改正が発議された場合は、国民投票により、自身の判断を投票に反映しなければなりません

私個人の憲法に対する考え方は(憲法についての私の見解)で述べました。また、現在までに公式に発表されている各政党の考え方については(各政党の憲法改正草案をチェックする)で紹介いたしました
今後、2007年に成立した「国民投票法」に基づき、衆参両院の「憲法審査会」で議論されますが、出てきた憲法改正案について皆さんご自身の判断の助けになればということで、以下に現行憲法に関わる諸問題について纏めてみました

-民主主義と立憲主義について-

2015年に成立した「新安保法制」の審議以降、所謂「立憲主義」という言葉が世の中に氾濫していますが、我々の世代では「民主主義」については十分に承知しているものの、「立憲主義」はちょっと耳慣れない言葉に感じます。使われている文脈から考えて、少なくとも「憲法に立脚した、、」という簡単な解釈ではダメな様です

そこで、色々調べてみた結果、日本の憲法学の権威である、樋口陽一(東京大学名誉教授)氏の説明が、ストンと腑に落ちたので以下に概略紹介してみたいと思います;
 民主主義(Democracy)はギリシャ語が語源で、「人民の支配」「人民の統治」という意味なので、その時々の人民が「これで行こう」という方向に進める。それを邪魔するものは、排除することを意味します。結果として、1946年の日本国民が選んだ憲法が、現在の日本をも縛っているというのは、憲法そのものが純粋なデモクラシーには反するということになります

 立憲主義はドイツから生まれました。民主主義がスムーズに展開しなかったドイツで、議会主義化への対抗概念として出てきました。ドイツは普仏戦争に勝って、ようやく1871年に統一します。憲法が作られ、議会も作られる。歴史の流れでは、王権はだんだん弱くなり、議会が伸びてくるはずだったですが、ドイツの場合は、イギリスやフランスのように議会が中心になるというところまでは行きませんでした。しかし、君主の絶対的な支配ではない。どちらも、決定的に相手を圧倒できないでいる時に使われたのが「立憲主義」です。君主といえども勝手なことはできず、その権力は制限される。けれどもイギリスやフランスのように議会を圧倒的な優位にも立たせない。つまり、権力の相互抑制です。この時期のイギリスやフランスは「民主主義」で、ドイツは「立憲主義」 、明治の日本は、そのドイツにならったわけです。ドイツは第一次大戦後、ワイマール憲法で議会中心主義になり、そこからナチス政権が生まれて失敗しました。それで、戦後のドイツは強力な憲法裁判所を作ることになりました

 「民主主義」と「立憲主義」は、純粋論理的に考えると緊張関係にあって、決して予定調和ではない。従って、民主主義を象徴する機関が議会だとすると、権力を縛る立憲主義の役割を果たすのは裁判所ということになります。

 アメリカのように大統領をトップとする行政府と議会が別々に選ばれている国は、権力分立は見えやすいですが、日本のような議院内閣制では、「政権与党(議会の多数派)+行政府」と「議会の少数派」の権力分立になります。そして、それとは別枠で裁判所があることになります

 日本国憲法も、ラディカルな立憲主義はとっておらず、この憲法を作ったからには永久に不変という硬直したものではありません。96条で改正手続きを定め、国会の両院で3分の2の議員が賛同するまで議論を尽くしてから国民に提起する、そして国民投票で国民が決めたらそれに従う、という妥協点を持っています

 現在の「安保法制」は、多くの憲法学者が「憲法違反」と考えていますが、一方で政府は安全保障環境が変わったからこの法案の必要性を強調しています。現行法のもとでは、必要だと思うことができそうにもないという時には、現行法を変えるための努力をすべきと考えます。今回の新安保法制で言えば、憲法には改正の手続きもあるのだから、どうしても必要なら、先にきちんと憲法改正を提起すべきだと思います

以上は、ジャーナリストの江川紹子(大手メディアが及び腰であった頃からオウム真理教の危険性を告発していたことで有名です)氏のサイト(立憲主義ってなあに?)から抜粋したものです。このサイトには、上記以外の有益な情報も載っていますので時間のある時に読まれることをお薦めします

-現行憲法の解釈について-

現行憲法の各条規の表現は、一部を除き概して包括的であり、その解釈は人によって、あるいは時代によって異なることが発生します。従って、解釈に疑義が生じた場合は裁判で争い、最終的に最高裁判所が下した判断(最高裁の判例)で憲法の条規を補完することを積み重ねてきました。また、逆に上記の表現が、具体的であるため、時が経つにつれて改定が必要になってくるものもあります
以下に、憲法が政治や社会の実態にどのように合わせて来たか、また今後どのように変わっていくべきかについて述べてみたいと思います;

天皇制関連;
第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく ⇒ 昭和天皇、今上天皇の所謂「象徴業務(戦災地の慰霊行幸、災害地の慰問行幸」につながっています
第2条
 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する

皇室典範
第1条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する
第2条 皇位は、左の順序により、皇族に、これを伝える
 皇長子  皇位継承第一順位:現皇太子
  皇長孫  愛子内親王は皇位継承できない
三 その他の皇長子の子孫
四 皇次子及びその子孫 皇位継承第二順位:秋篠宮
  その他の皇子孫  皇位継承第三順位:悠仁親王
  皇兄弟及びその子孫
  皇伯叔父及びその子孫
  前項各号の皇族がないときは、皇位は、それ以上で、最近親の系統の皇族に、これを伝える。
  前二項の場合においては、長系を先にし、同等内では、長を先にする。
第3条  皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、前条に定める順序に従って、皇位継承の順序を変えることができる。
第4条  天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する ⇒ 今上天皇の生前退位はこれに反する
-以下略-

第3条  天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負う ⇒  昭和天皇、今上天皇の所謂「象徴業務」はどう取り扱うか
第4条;
 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない
 天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる
第5条  皇室典範 の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行う。この場合には、前条第1項の規定を準用する。
第6条;
 天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。
 天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。
第7条  天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行う
一  憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること
二  国会を召集すること
三  衆議院を解散すること
四  国会議員の総選挙の施行を公示すること
五  国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること
六  大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること
七  栄典を授与すること
八  批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること
九  外国の大使及び公使を接受すること。
十  儀式を行うこと
第8条  皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは賜与することは、国会の議決に基かなければならない 

戦争の放棄、自衛隊関連;
第9条;
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する
2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない国の交戦権は、これを認めない
第98条;
 この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない
 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする

砂川事件;
  1957年7月8日、砂川町にある米軍立川基地拡張のための測量で、基地拡張に反対するデモ隊が、米軍基地の立ち入り禁止の境界柵を壊し、基地内に数メートル立ち入ったとして、デモ隊のうち7名が日本国と米国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく行政協定に伴う刑事特別法違反で起訴された事件

砂川事件
砂川事件

 被告側の主張は、米軍の日本駐留自体が憲法9条違反
 第一審の東京地裁が安保条約を「違憲」の判決を下した
 検察側は、二審を経ずに直接最高裁に上告した
最高裁判決;
 憲法第9条は、わが国が敗戦の結果、ポツダム宣言を受諾したことに伴い、日本国民が過去におけるわが国の誤って犯すに至った軍国主義的行動を反省し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、深く恒久の平和を念願して制定したものであつて、前文および第98条第2項の国際協調の精神と相まって、わが憲法の特色である平和主義を具体化したものである
 憲法第9条第2項が戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となって、これに指揮権、管理権を行使することにより、同条第1項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起すことのないようにするためである
 憲法第9条はわが国が主権国として有する固有の自衛権を否定してはいない
 わが国が、自国の平和と安全とを維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置を執り得ることは、国家固有の権能の行使であって、憲法は何らこれを禁止するものではない
 憲法は、自衛のための措置を、国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事措置等に限定していないのであつて、わが国の平和と安全を維持するためにふさわしい方式または手段である限り、国際情勢の実情に則し適当と認められる以上、他国に安全保障を求めることを何ら禁ずるものではない
 わが国が主体となって指揮権、管理権を行使し得ない外国軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても憲法第9条第2項の「戦力」には該当しない
 安保条約の如き、主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係を持つ高度の政治性を有するものが、違憲であるか否の法的判断は、純司法的機能を使命とする司法裁判所の審査の原則としてなじまない性質のものであり、それが一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外にあると解するべきである
 安保条約(またはこれに基く政府の行為)が違憲であるか否かが、本件のように(行政協定に伴う刑事特別法第二条が違憲であるか)前提問題となっている場合においても、これに対する司法裁判所の審査権になじまないのは前項と同様である
 安保条約(およびこれに基くアメリカ合衆国軍隊の駐留)は、憲法第98条、第98条第2項および前文の趣旨に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは認められない
 行政協定は特に国会の承認を経ていないが違憲無効とは認められない

長沼ナイキ(地対空ミサイル)基地訴訟
 1969年、夕張郡長沼町に航空自衛隊の「ナイキ基地」を建設するため、農林大臣が森林法に基づき国有保安林の指定を解除。これに対し反対住民が、基地に公益性はなく「自衛隊は違憲、保安林解除は違法」と主張して、処分の取消しを求めて行政訴訟を起こした

長沼ナイキ基地反対闘争
長沼ナイキ基地反対闘争

 一審の札幌地裁は「平和的生存権」を認め、初の違憲判決で処分を取り消した
 二審の札幌高裁は「防衛施設庁による代替施設の完成によって補填される」として一審判決を破棄、「統治行為論」を判示
最高裁判決;
* 行政処分に関して原告適格の観点から、原告住民に訴えの利益なしとして住民側の上告を棄却したが、二審が言及した自衛隊の違憲審査は回避した

⇒ 最高裁は、砂川事件、長沼ナイキ事件いずれのケースも米軍の駐留や自衛隊の存在に対する直接の憲法判断を避けています。「新安保法制」が憲法違反であるという意見が多ければ、憲法9条の改正を目指すのが本筋かも知れません

法の下での平等関連;
第14条;
1 すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2  華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
3  栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。
第15条;
 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
 すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。
 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。
第44四条  両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める。但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によって差別してはならない

公職選挙法衆議院定数配分規定違憲訴訟(1976年4月14日);
公職選挙法衆議院定数配分規定違憲訴訟(1985年7月17日);
 衆議院議員選挙が憲法に違反する公職選挙法の選挙区及び議員定数の定めに基づいて行われたことに伴う選挙無効を求めた行政訴訟
最高裁判決;
 投票価値の平等は、常に絶対的な形での実現を必要とするものではないけれども、国会がその裁量によって決定した具体的な選挙制度において現実に投票価値に不平等の結果が生じている場合に、合理的に是認することができるものでなければならないと解される
 議員定数配分規定の下における各選挙区の議員定数と人口数との比率の偏差は、憲法の選挙権の平等の要求に反する程度になっていた為違憲と断ぜられるべきである
 しかし、投票価値の平等は人種、信条、性別等による差別を除いては、原則として、国会が正当に考慮することのできる他の政策的目的ないしは理由との関連において調和的に実現されるべきものと解さなければならない
 本件は憲法に違反する議員定数配分規定に基づいて行われた点において違法である旨を判示するにとどめ選挙自体はこれを無効としないこととし、選挙を無効とする旨の判決を求める請求を棄却する

日産自動車事件;
 原告女性は、元々プリンス自動車工業に勤務しており、この会社では男女とも定年が55歳であった。プリンス自動車は1966年に日産自動車に吸収合併され、就業規則で定年を男性55歳、女性50歳と定めていた。満50歳となった原告は1969年1月末で退職を命じられたことに対し、従業員である地位の確認を求める仮処分申請を起こした。しかし、一審・二審とも請求が棄却されたため女性が本訴に及んだ
 本訴では一審・二審とも男女別定年制が違法であると認めたため、会社側が日本国憲法第14条、民法90条の解釈誤りを主張して上告を行った
<民法>第90条  公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする
最高裁判決;
 会社がその就業規則中に定年年齢を男子60歳、女子55歳と定めているが、担当職務が相当広範囲にわたっていて女子従業員全体を会社に対する貢献度の上がらない従業員とみるべき根拠はなく、労働の質・量が向上しないのに実質賃金が上昇するという不均衡は生じておらず、少なくとも60歳前後までは男女とも当該会社の通常の職務であれば職務遂行能力に欠けるところはなく、一律に従業員として不適格とみて企業外へ排除するまでの理由はない。従って、就業規則中女子の定年年齢を男子より低く定めた部分は、性別のみによる不合理な差別を定めたものとして民法90条の規定により無効である
 上告棄却

人権関連;
第19条  思想及び良心の自由は、これを侵してはならない
第21条;
 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない
第23条  学問の自由は、これを保障する

昭和女子大事件;
 昭和女子大学は、学内で無届の政治署名運動を行なったり、無許可で学外団体に加入し、公然と大学を誹謗する活動を続けた学生2名を、1962年2月12日付で退学処分にした。また、当該大学は、穏健中正な校風を持つ大学として学生指導を行い、学則の細則として「生活要録」を定めており、その中で「政治活動を行う場合は予め大学当局に届け、指導を受けなければならない」旨規定していた。当該学生2名は、大学の「生活要録」そのものが、思想や信条の自由を謳った日本国憲法に違反することから、退学処分が違憲であるとして身分確認を求める訴訟を起こした
 一審では復学の請求を認めた
* 二審では一審判決を取り消し、請求を棄却した
最高裁判決;
* 私立大学において、建学の精神に基づく校風と教育方針に照らして学生が政治的目的の署名運動に参加し又は政治的活動を目的とする学外団体に加入することを放任することは教育上好ましくないとする見地から、学則等により、学生の署名運動について事前に学校当局に届け出るべきこと、及び学生の学外団体加入について学校当局の許可を受けるべきことを定めても、これをもつて直ちに学生の政治的活動の自由に対する不合理な規制ということはできない
 学校教育法施行規則13条3項4号により学生の退学処分を行うにあたり、当該学生に対して学校当局のとった措置が本人に反省を促すための補導の面において欠けるところがあつたとしても、それだけで退学処分が違法となるものではなく、その点をも含めた諸般の事情を総合的に観察して、退学処分の選択が社会通念上合理性を認めることができないようなものでないかぎり、その処分は、学長の裁量権の範囲内にあるものというべきである
 学生の思想の穏健中正を標榜する保守的傾向の私立大学の学生が、学則に違反して、政治的活動を目的とする学外団体に無許可で加入し又は加入の申込をし、かつ、無届で政治的目的の署名運動をした事案において、これに対する学校当局の措置が、学生の責任を追及することに急で、反省を求めるために説得に努めたとはいえないものであつたとしても、学生が、学則違反についての責任の自覚に乏しく、学外団体からの離脱を求める学校当局の要求に従う意思はなく、説諭に対して終始反発したうえ、週刊誌や学外集会等において公然と学校当局の措置を非難するような行動をしたなどの事情があるときは、学校教育法施行規則13条3項4号により当該学生に対してされた退学処分は、学長に認められた裁量権の範囲内にある
* 上告を棄却する

信教の自由関連;
第20条;
1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2  何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3  国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
第89条  公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない

 津地鎮祭訴訟;
* 1965年1月14日、滋賀県津市体育館建設起工式の際、市の職員が式典の進行係となり、大市神社の宮司ら4名の神職主宰のもとに神式に則って地鎮祭を行った。市長は大市神社に対して公金から挙式費用金7、663円(神職に対する報償費金4,000円、供物料金3,663円)の支出を行った。
* これに対し、津市議会議員が憲法第20条、及び憲法89条に違反するとして地方自治法第242条の2に基づき、損害補填を求めて訴追した
* 一審で原告の請求棄却
* 二審では原告勝訴
最高裁判決;
* 津市が行った地鎮祭は、目的が専ら世俗的なもので、その効果は、神道を援助、助成、促進するものではない。従って、憲法第20条第3項により禁止される宗教的活動には当たらず、これに対する公金の支出も憲法第89条に違反するものではない

箕面市忠魂碑訴訟;
 1970年代、老朽化した箕面小学校改築工事に伴い忠魂碑を移設・改築する際、土地の買取以外に、忠魂碑を移転・再建するだけでなく、遺族会に代替敷地の無償貸与、及び遺族会主催の慰霊祭に市教育長が参列した。この行為が、憲法20条及び89条違反するとして行われた二つの住民訴訟
 第一審では、忠魂碑は宗教的性質を帯びているものであるとして、市の行為は政教分離に反するとし、且つ、市教育長の慰霊祭への参列に対しても公務とはいえないととする違憲判決を行った
 第二審では、忠魂碑の宗教的性質を否定し、市の教育長の慰霊祭参列に関しても社会的儀礼の範囲内であり、自治体の行為は政教分離を反したものではないとして、住民らの訴えを退けた
最高裁判決;
 忠魂碑が、元来、戦没者記念碑的性格のものであり、特定の宗教とのかかわりが、少なくとも戦後においては希薄であること戦没者遺族会が宗教的活動をすることを本来の目的とする団体ではないこと、市が移設、再建等を行った目的が、忠魂碑のあった公有地を学校用地として利用することを主眼とするもので、専ら世俗的なものであることなどの事情の下においては、いずれも憲法20条3項により禁止される宗教的活動には当たらない
 財団法人日本遺族会及びその支部は、憲法20条1項後段にいう「宗教団体」、憲法89条にいう「宗教上の組織若しくは団体に該当しない
 市の教育長が地元の戦没者遺族会が忠魂碑前で神式又は仏式で挙行した各慰霊祭に参列した行為は、忠魂碑が、元来、戦没者記念碑的性格のものであること、戦没者遺族会が宗教的活動をすることを本来の目的とする団体ではないこと、参列の目的が戦没者遺族に対する社会的儀礼を尽くすという専ら世俗的なものであることなどの事情の下においては、憲法20条、89条に違反しない

言論の自由関連;
第21条;
 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない

博多駅テレビフィルム提出命令事件;
 1968年1月16日早朝、原子力空母エンタープライズの佐世保寄港阻止闘争に参加する途中、博多駅に下車した全学連学生に対し、待機していた機動隊、鉄道公安職員は駅構内から排除するとともに、検問と所持品検査を行った。この際、警察の検問と所持品検査に抵抗した学生4人が公務執行妨害罪で逮捕され、内1人が起訴された。本件自体は、1970年10月30日に無罪判決が出ています

エンタープライズ佐世保寄港阻止闘争
エンタープライズ佐世保寄港阻止闘争

 福岡地裁は、本件の審理に必要だとして、地元福岡のテレビ局4社(NHK福岡放送局、RKB毎日放送、九州朝日放送、テレビ西日本)に対し、事件当日のフィルムの任意提出を求めたが拒否されたため、フィルムの提出を命じた
 この命令に対して当該4社は、「報道の自由の侵害であり、提出の必要性が少ない」という理由で通常抗告を行った
 二審では抗告棄却となったため、当該4社は、最高裁に特別抗告を行った
最高裁判決;
 報道の自由は、表現の自由を規定した憲法21の保障のもとにあり、報道のための取材の自由も、同条の精神に照らし、十分尊重に値するものといわなければならない
 報道機関の取材フィルムに対する提出命令が許容されるか否かは、審判の対象とされている犯罪の性質、態様、軽重および取材したものの証拠としての価値、公正な刑事裁判を実現するに当たっての必要性の有無を考慮するとともに、これによって報道機関の取材の自由が妨げられる程度、これが報道の自由に及ぼす影響の度合その他諸般の事情を比較衡量して決せられるべきであり、これを刑事裁判の証拠として使用することがやむを得ないと認められる場合でも、それによって受ける報道機関の不利益が必要な限度をこえないように配慮されなければならない
* 抗告棄却

北方ジャーナル事件;
 1979年の北海道知事選に立候補を予定していた候補者(元旭川市長)の名誉を毀損する内容の記載がある、雑誌『北方ジャーナル』の発売停止の仮処分を札幌地裁に申請し、即日認められた。これに対して、この雑誌の出版社が、この差し止めが「検閲」に当たるとして、国とこの候補者に対して損害賠償を請求した事件
 名誉を棄損するとされた記事:候補者を、「嘘と、ハッタリと、カンニングの巧みな少年」、「言葉の魔術者であり、インチキ製品を叩き売っている(政治的な)大道ヤシ」、「ゴキブリ共」などと表現し、結論として知事に相応しくないと記載していた
 一審は請求を棄却、二審は控訴棄却
最高裁判決;
 雑誌その他の出版物の印刷、製本、販売、頒布等の仮処分による事前差止めは、憲法21条2項の「検閲」には当たらない
 名誉毀損の被害者は、人格権としての名誉権に基づき、加害者に対して、現に行われている侵害行為を排除し、又は将来生ずべき侵害を予防するため、侵害行為の差止めを求めることができる
 人格権としての名誉権に基づく出版物の印刷、製本、販売、頒布等の事前差止めは、その出版物が公務員又は公職選挙の候補者に対する評価、批判等に関するものである場合には原則として許されず、その表現内容が真実でないか又は公益を図る目的のものでないことが明白、且つ被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被るおそれがあるときに限り、例外的に許される。
 公共の利害に関する事項についての表現行為の事前差止めを仮処分によって命ずる場合、原則として口頭弁論又は債務者の審尋を経ることを要するが、債権者の提出した資料により、表現内容が真実でないか又は専ら公益を図る目的のものでないことが明白であり、かつ、債権者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞があると認められるときは、口頭弁論又は債務者の審尋を経なくても憲法21条の趣旨に反するものとはいえない
 上告棄却

東京都公安条例違反事件;
 デモを主催する者が、東京都公安委員会に許可の申請を行ったところ、公安条例に基づき「蛇行進、渦巻行進又は、ことさらな停滞等交通秩序を乱すような行為は絶対に行わないこと」という条件の下、集団行進の許可を得たが、この件に違反する行動をとったため、東京都公安条例違反で起訴された
 本件に対して、東京都条例の「許可制」は憲法21条1項に違反するとして争った
 その他の地方自治体でも、東京都と同じ様な公安条例を制定しており、同じような訴訟が発生している

<東京都 集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例
第1条 道路その他公共の場所で集会若しくは集団行進を行おうとするとき、又は場所の如何を問わず集団示威運動を行おうとするときは、東京都公安委員会(以下「公安委員会」という。)の許可を受けなければならない
-第2条省略-
3条;
1 公安委員会は、前条の規定による申請があつたときは、集会、集団行進又は集団示威運動の実施が公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合の外は、これを許可しなければならない。但し、次の各号に関し必要な条件をつけることができる。
一 官公庁の事務の妨害防止に関する事項
二 銃器、凶器、その他の危険物携帯の制限等危害防止に関する事項
三 交通秩序維持に関する事項
四 集会、集団行進又は集団示盛運動の秩序保持に関する事項
五 夜間の静ひつ保持に関する事項
六 公共の秩序又は公衆の衛生を保持するためやむを得ない場合の進路、場所又は日時の変更に関する事項
2 公安委員会は、前項の許可をしたときは、申請書の一通にその旨を記入し、特別の事由のない限り集会、集団行進又は集団示成運動を行う日時の二十四時間前までに、主催者又は連絡責任者に交付しなければならない。
3 公安委員会は、前二項の規定にかかわらず、公共の安寧を保持するため緊急の必要があると明らかに認められるに至つたときは、その許可を取り消し又は条件を変更することができる
4 公安委員会は、第一項の規定により不許可の処分をしたとき、又は前項の規定により許可を取り消したときは、その旨を詳細な理由をつけて、すみやかに東京都議会に報告しなければならない。
-第4条~第7条 省略-

 一審では、許可制により一般的制限を課し、その基準も不明確であるという理由で本条例は憲法21条違反として無罪とした
 東京都は控訴したものの、控訴棄却となった
最高裁判決;
* 集団行動は、一瞬にして暴徒と化す危険があるので、地方公共団体が公安条例をもって、不測の事態に備え法と秩序を維持するに必要かつ最低限度の措置を講ずることはやむを得ない
 東京都公安条例は、規定の文面上、許可制を採用しているが、実質は届出制と異ならない
 二審判決を破棄し東京地裁に差し戻した

婚姻の自由関連;
第24条;
 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
 この条規を変えない限り同性婚は認められません。所謂LGBT(Lesbian、Gay、Bisexual、Transgender)の差別に繋がる憲法の規定であり、早急に改正を行うべきであるという意見が多いと思われます

教育の機会均等関連;
第26条;
1 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する
 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育は、これを無償とする。
 貧困に伴う教育の機会均等が失われているという認識が一般化しつつあり、高等学校の無償化、あるいは義務教育期間の延長などの検討を行うべきであるという意見があります

公務員の争議権関連;
第18条  何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない
第28条  勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する
第31条  何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない

全逓東京中郵事件;
 昭和33年の春闘の際、被告人8名が全逓信労働組合の役員として、東京中央郵便局の従業員を勤務時間に食い込む職場集会に参加するよう要請、説得し、38名の従業員に対して職場を離脱させた行為が、郵便法79条1項の郵便物不取り扱い罪の教唆罪に当たるとして起訴された。
 郵便局職員の争議行為禁止規定の合憲性が争点
 第一審は無罪
 第二審は第一審判決を破棄し差し戻し
最高裁判決;
 公務員に対して労働基本権をすべて否定するようなことは許されず、原則としてその権利を認められねばならない
 一方、労働基本権を認めると言っても何等の制約も許されないという絶対的なものではなく、国民生活全体の利益を守るという見地からの制約を受ける
 労働基本権を制限することがやむを得ない場合は、これに見合う代替措置が必要
 二審判決を破棄し差し戻し。結果、無罪となる

全農林警職法事件;
 昭和33年10月、当時の内閣は警職法(警察官職務執行法)改正案を衆議院に提出しましたが、その内容が警察官の職権濫用を招き、ひいては労働者の団体運動を抑圧する危険が大きいとして、各種労働団体(公務員労組を含む)は勿論のこと、全国規模で反対運動が展開されました
 全農林労組総評(日本労働組合総評議会)の統一行動に参加することになり、同労組幹部が同年11月5日午前中の職場大会への職員の参加を指示したことについて、国家公務員法98条5項に違反するとして、同100条1項17号にて起訴されました

警職法改正
警職法改正

* 国家公務員法98条5:公務員は使用者としての公衆に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為をなし、又は政府の活動能率を低下させる怠業的行為をしてはならない。 又、何人も、このような違法な行為を企て、又はその遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおつてはならない
 国家公務員法110条1項17:何人たるを問わず第98条第2項前段に規定する違法な行為の遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおり、又はこれらの行為を企てた者は、3年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処する
 第一審は、被告人らの行為が強度の違法性を帯びない限り当該国家公務員法違反とはならず無罪
 第二審は、本件争議行為を「政治スト」と解し、被告人を有罪判決としました
最高裁判決;
 公務員が争議行為に及ぶことは、その地位の特殊性及び職務の公共性と相いれない。また職務の停滞は、勤労者を含めた国民全体の共同利益に重大な影響を及ぼすか、またはその恐れがある
* 地位の特殊性及び職務の公共性の他、勤務条件法定主義に基づき、公務員の争議行為を一切禁止した国家公務員法98条5項、及び、同法110条1項17号は合憲である
 被告人らは有罪

 都教組事件;
 東京都教職員組合(小・中学校)は、勤務評定に反対し、これを阻止するために、加盟組合員に有給休暇を一斉に請求した上で、1958年4月23日の集会に参加するよう指令し、約37,700名中、約34,000名の教職員が参加しました。そこで、当該組合の委員長、執行委員長、支部長、等の組合役員を、ストライキを煽ったことを理由に地方公務員法37条1項、及び61条4号違反として起訴された事件

勤務評定反対闘争
勤務評定反対闘争

<地方公務員法>
37
1項 職員は、地方公共団体の機関が代表する使用者としての住民に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為をし、又は地方公共団体の機関の活動能率を低下させる怠業的行為をしてはならない。又、何人も、このような違法な行為を企て、又はその遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおつてはならない
61
条 次の各号のいずれかに該当する者は、三年以下の懲役又は百万円以下の罰金に処する
4号 何人たるを問わず、第37条第1項前段に規定する違法な行為の遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおり、又はこれらの行為を企てた者

 被告は、「地方公務員法37条1項、及び61条4号は、憲法28条、21条、18条、31条に違反する法律規定であり無効。従って、被告人の行為は罪とならない。仮に構成要件に該当するとしても、正当行為として違法性が阻却(法律用語で“退けられる”という意味)される」と」主張
 一審は無罪
 二審は有罪
最高裁判決;
 地方公務員法37条1項は憲法28条に違反しない、同61条4号は、憲法28条、18条、31条に違反しない
 東京都教職員組合が、文部省の企図した公立学校教職員に対する勤務評定の実施に反対するため、一日の一斉休暇闘争を行なうにあたり、被告人らが組合の幹部としてした闘争指令の配布、趣旨伝達等、争議行為に通常随伴する行為に対しては、地方公務員法六一条四号所定の刑事罰をもつてのぞむことは許されない
 二審判決を破棄し無罪

以上

北朝鮮危機について

-はじめに-

トランプ大統領が生まれてから、北朝鮮の核開発と大陸間弾道ミサイルの開発を巡って急激に緊張が高まってきました。米国と北朝鮮の公式の言い分だけを聞いていると、今にも戦争が始まってもおかしくないような状況になっています
新聞、テレビなどのマスコミは、国際政治の専門家や軍事評論家などを招いて熱心に分析を行ってみせますが、どうも対岸の火事のような扱いをしているように思えてなりません。また、そうした「空気」が影響していると思われますが、国民全体としても、ウクライナやシリアの内戦をテレビで見ている様な、現実感の無い遠い出来事としてとらえているふしがあります

しかし、北朝鮮はミサイルという飛び道具(米国が恐れる大陸間弾道ミサイルと違って日本に届く中距離ミサイルは既に実戦配備されている)と原子爆弾や化学・生物兵器という大量破壊兵器を既に保有しています

中距離弾道ミサイル_同時発射実験
移動式中距離弾道ミサイル(固体燃料)_同時発射実験

一方、日本は、米国との同盟国として北朝鮮に明確に敵対している状況にあることと、1910年から終戦まで35年間に亘って日本が植民地支配を行なってきたことに対する朝鮮人の人々に共通する怨念などを考慮すると、戦端が開かれたあと最初の攻撃目標に日本の都市や米軍基地が選ばれる蓋然性は、決して低くはないと私は思っています

在日米軍基地・配置図
在日米軍基地・配置図

国際社会による経済制裁や、6ヶ国協議による謂わば「飴とムチ」政策の中で、北朝鮮が着々と進めてきた核開発やミサイル開発は、彼らの体制の維持の為の必須条件となっているため、最早止めようもないという認識が一般化しつつあります
一方、米国にとっても、これまでと違って大陸間弾道ミサイルの開発が最終段階となって、これと原子爆弾がセットになった場合、真珠湾攻撃以来の米国への直接攻撃という大きなリスクを抱えることとなり、少なくとも核兵器の放棄という果実が得られない限り、今までの様な妥協は許されない状況になっています

しかし、今回の危機の当事者である米国、韓国、北朝鮮、中国は、過去の悲惨な朝鮮戦争の当事者でもあり、開戦の決断に対する国民の心理的なハードルは極めて高いことも確かです。また、クリミヤ半島の併合、ウクライナ内戦、シリア内戦の当事者であるロシアも北朝鮮と国境を接し、経済的なつながりも持っていますので、世界の覇権を競うこの三つの軍事大国が激突する構図は避けたいと思っていることに加え、地政学的に北朝鮮という国が、この三つの国の間の緩衝国として必要であるという点で共通認識を持っていると考えられますので、以前の朝鮮戦争の様な全面戦争に発展する可能性はかなり低いと考えられます

ただ、金日成がスターリンや毛沢東の反対を押し切って朝鮮戦争を始めた経緯(下記の注参照)や、金正恩が父である金正日ではなく金日成の統治スタイルの継承を目指している現況を勘案すると、開戦のリスクはゼロではないと思われます
(注)ソ連邦の崩壊後に、金日成がスターリンや毛沢東と交わした極秘電文が公開されています。詳しくは以下の書籍をご覧ください:「朝鮮戦争の謎と真実」/草思社;A・V・トルクノフ著;下斗米伸夫・金成浩訳)

-朝鮮戦争のクイック・レビュー-

ソウルに突入する北朝鮮軍戦車隊
ソウルに突入する北朝鮮軍戦車隊

上の写真は、1950年6月25日、突如北朝鮮軍が38度線を突破して韓国に侵入してきたときのソウルの様子を写した写真です。その後、北朝鮮軍は破竹の勢いで釜山まで進軍し、ほぼ韓国全土を掌握しかけました。しかし、同年9月15日、米軍を主力とする国連軍が仁川に上陸し、北朝鮮軍を圧倒して38度線を越えて北朝鮮を中国国境近くまで追い詰めましたが、建国したばかりの中国の義勇軍が鴨緑江を越えて北朝鮮に侵入して国連軍を押し返し、38度線で膠着状態に陥りました。1953年7月27日、38度線上にある板門店で休戦協定を結んだ後、現在に至っています
一説によれば、この戦争で軍人及び民間人の犠牲者(死者のみ)は、韓国240万人、北朝鮮290万人、中国90万人、米国15万人と言われており、太平洋戦争における日本人の死者数310万人と比べてみてもその死者数は桁違いと言わざるを得ません。しかも同じ民族同志の殺し合いという意味で朝鮮民族にとってその悲惨さは計り知れません
その後、青瓦台襲撃未遂事件/1968年、ラングーン爆破テロ事件/1983年、大韓航空機撃墜事件/1987年、延坪島砲撃事件/2010年、ついこの間の金正男暗殺事件、などなど北朝鮮が仕掛けた事件が数多く発生しているものの、米ソの冷戦、及びこれに続く中国の覇権国家としての台頭という国際情勢の中でギリギリのバランスを保ち、全面戦争に至らないで現在まで65年以上にわたって休戦状態が続いています

敗戦後の日本は、この朝鮮戦争によって米軍の後方基地としての役割から経済復興の足掛かりをつかみ、その後の奇跡的な経済発展の出発点となりました。また、日本に駐留する米軍が朝鮮に出兵することに伴う日本の防衛・治安維持を担うために、1950年7万5千人規模の警察予備隊が発足しました。1952年にはこれが保安隊に改組され、更に2年後の1954年には現在の自衛隊になり、実質的に再軍備がなったことになります。
また、敗戦後の日本は周辺海域に残る機雷除去のために旧海軍の部隊が掃海業務を行っておりましたが、朝鮮戦争勃発後、米軍の艦船に蝕雷(機雷に触れること)による被害が出た為に、マッカーサーの命令で1200名規模の特別掃海隊が組織され、朝鮮海域に派遣されました。この部隊が、元山(現北朝鮮)付近の海域で掃海業務を行っている際に、蝕雷により戦後初の戦死者を出しましたが、憲法9条の建前上この事実はあまり知られないままに歴史のベールに包まれてしまいました

-法体系上留意すべきこと-

日本は、きちんとした「法治国家」であることは異論のない所です。現在の日本の憲法の下で、日本が宣戦布告をしたり、先制攻撃を仕掛けることはあり得ないとしても、不意に北朝鮮から攻撃を受けたとき、あるいは同盟国である米国が北朝鮮との間で戦端を開いた時、日本の法制度ではどのように戦争を始めるのでしょうか、以下に、そのあたりを素人なりに解明してみたいと思います

日本の憲法では、その前文、及び第9条に「戦争の放棄」を謳っています。しかし、内閣法制局の憲法解釈で「自衛権」の存在は認められており、それを根拠に自衛隊という戦力を保持しています(詳しくは私のブログ:憲法についての私の見解 を参照)
この自衛権の発動の手順は、以下の自衛隊法に規定されています;

第七十六条  内閣総理大臣は、次に掲げる事態に際して、我が国を防衛するため必要があると認める場合には、自衛隊の全部又は一部の出動を命ずることができる。この場合においては「武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律(平成十五年法律第七十九号)」第九条の定めるところにより、国会の承認を得なければならない
 我が国に対する外部からの武力攻撃が発生した事態又は我が国に対する外部からの武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至つた事態
二  我が国と密接な関係にある他国(本件の場合、米国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態

ここで大切なポイントは、戦争を始めることにつき改めて国民の意思を確認する機会はありません。政権を担っている政党、及びその政党を率いる総裁(=首相)に判断を委ねることになります(勿論、国会でのチェックは入りますが)

また、現憲法が成立した当時、この様な形での自衛権の行使は想定されていなかったため、一般に戦争を遂行する際当然必要となる「交戦権」は、以下の通り明確に否定されたままになっています;

第九条  国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。
第二項  陸海空軍その他の戦力の保持は許されない。国の交戦権は認められない

一般に「交戦権」とは明確な定義は無いものの、「交戦国が国際法上有する種々の権利の総称であって、相手国兵力の殺傷と破壊相手国の領土の占領などの権能を含むものである」とされております。従って、日本の領土に北朝鮮軍が侵入した場合に、これを日本の領土外に撃退するまでの戦闘行為であれば、今の自衛権の定義の範囲で対応可能と思われますが、ミサイルによる攻撃があった場合に、敵ミサイル基地の攻撃を行うことや、公海上で敵部隊が日本に接近中にある時に、敵部隊に対する攻撃を行うこと、また攻撃をやめない敵国の領土に侵入して攻撃を行うことが現行憲法上可能かどうかは、恐らく議論が分かれるところだと思います

-日本が甘受せざるを得ないリスク-

たとえ北朝鮮から攻撃を受ける蓋然性が低いといっても、もし攻撃を受けた場合のリスクについて国民すべてが正確に認識しておく必要があると私は考えます。以下に、戦端が開かれた後、直ちに発生するリスクについて概説してみたいと思います

<ミサイル防衛上のリスク>
日本が保有する弾道ミサイル迎撃システム(海上に於けるSAM3と陸上におけるパトリオット3による2段階の迎撃)も、命中する確率は100%ではないことと、保有するミサイルの数には限りがあるため、打ち漏らして着弾するリスクは存在します。特に北朝鮮が公言しているミサイルの「飽和攻撃」(沢山のミサイルを同時に一か所に集中する攻撃)が実施された場合、一定の数は打ち漏らしてしまうことは紛れもない現実として受け入れねばなりません

<原子爆弾が使用されるリスク>
原始爆弾がミサイルに搭載できるほど小型化されたという確証は得られていませんが、もし開発完了しているとすれば、同胞である韓国に対して使うよりは、日本にある米軍基地、あるいは日本の大都市に対して使うと考える方が自然です。中でも植民地時代に受けた屈辱や、米軍からの報復核攻撃のリスクを勘案すると、日本の大都市が最初に核攻撃を受ける蓋然性が高いと私は考えています

<化学兵器、生物兵器が使用されるリスク>
化学・生物兵器は、第一次大戦で最初に使用され、極めて非人道的な兵器として知られていますが、コストの安い大量破壊兵器として現在もなおイラクやシリアで実際に使われてきました。北朝鮮は、1997年に発効した「化学兵器禁止条約」に加盟していない数少ない国であり、また、化学兵器、生物兵器をミサイルの弾頭に搭載する技術は保有していると言われています;

サリンガス弾頭
サリンガス弾頭

上の写真にある弾頭の中には、小さな球形のカプセルが詰まっていますがこのカプセルの中に化学物質や細菌が仕込まれ、着弾と同時に広範囲にバラまかれて、人的被害を拡大する仕掛けになっています。
化学兵器は、マレーシアで金正男暗殺(VXガスを使用)に使われたことで分かる通り、北朝鮮にとって使用に係る心理的な障害は皆無であると考えられます。また、人的被害を与えることが目的の兵器なので、使うとすれば人口が密集する大都市が対象となることは当然考えられることです

<北朝鮮の特殊部隊が潜入し、日本国内で破壊活動を行うリスク>
北朝鮮には相当数の特殊部隊が存在していることは周知の事実です。そしてこれらの特殊部隊は極めて危険な任務についても、目的を達するまで戦い通す実力を備えていることは、臨戦態勢に近い状態であった韓国に侵入して起こした「青瓦台襲撃未遂事件」などをみても明らかな事です
一方、日本は「日本人拉致事件」の被害者数を見れば明らかな様に、海からの侵入に対して、無防備な状態に置かれています。北朝鮮が数多く所有している潜水艦を使って少数の特殊部隊を送り込むことは、戦時体制に入れば易しいとは言えないまでも、極めて困難とは言えないと私は思っています
送り込まれる特殊部隊が少数であることを考えると、比較的過疎地にあって発見されにくく、侵入が容易で、防御が手薄な原子力発電所や水力発電所が攻撃対象に選ばれる可能性が考えられます。最も危険な攻撃方法は、原子力発電所にあっては大量の核燃料を保管しているプールの爆破(→水が抜けると燃料溶融が起こる)、水力発電所にあってはダムの爆破(→下流の村落が水害に見舞われる)が考えられます

<韓国に滞在中の日本人が犠牲となるリスク>
1995~96年にかけて第三次台湾海峡危機がありました。当時蒋介石、蒋経国時代(蒋介石と共に大陸から台湾にわたってきた中国人による台湾支配の時代)が終わって、台湾人の李登輝が民選(選挙による)によって総統に選ばれるタイミングに当たっていていました。中国は、台湾の独立は許さないとの立場で強力な軍事的圧力(福建省内の軍隊の移動、台湾海峡を越えるミサイル実験)をかけ、これに対応して米軍は台湾海峡に向け原子力空母を移動させるという、現在の北朝鮮危機と同じ様な状況になっていました
丁度この時期、私は日本アジア航空の社員として台湾に駐在しており、台湾在住の日本人約2万人を有事の際、どのように帰国、乃至台湾外に避難させるかというプロジェクトに関わっていました。この時の体験は以下の通りです;

米国は、台湾在住の米国民間人を全て陸上輸送(完全な制空権が無いという前提)で東岸(台湾海峡の反対側;台北の場合は「花連」に集まる)に集め、そこで待っている米軍の艦艇に乗せて避難させるという計画でした
一方、日本には戦闘状態に入っている空域を飛ぶ民間機は考えられないこと、自衛隊も憲法の制約(当時は勿論「新安保法制」は無かった!)で来ることは不可能であったため、自前で避難させる手段は無く、残るは米軍の情け!というありさまでした
実は、1990年8月、イラクによるクウェート侵攻があった時、日本人214人が取り残されて帰還を許されず「人間の盾」として使われた歴史があります(日本人を含む人質全員の解放はこの年の12月になります)。この時、米国民は全て迅速に避難していて人質には取られませんでした

今回のケースでは、韓国在住の日本人は7万人に達すると言われており、避難計画は相当困難であると考えられます。プラスの要素としては、新安保法制の一環で自衛隊法が改正され、同法第八十四条の三、で、在外邦人保護のために自衛隊の航空機や艦艇を送ることができることとなりました。しかし、実際に自衛隊を派遣するためには当該国の許可が必要とであり、有事の際、韓国が許可するかどうかは今のところ不明です

-現在のリスク管理の状況-

もし米国と北朝鮮が戦端を開けば、日本人一人ひとりに、好むと好まざるとに関わらず、如上のリスクが降りかかります。国及び地方自治体の関係機関は、国民に被害が及ばない様に、またリスクを極小化するように活動することは当然ですが、現在まで公表されている政府の対応は以下の通りです;

1.最も緊急を要する情報は、ミサイル発射の情報と着弾予想地点の情報です。これは(J-ALERT)というシステムで一般国民に瞬時に伝達される仕組みが構築されています
2.武力攻撃やテロが実際に発生した場合、国民一人ひとりが自身の身を守るために実施すべきことは、内閣官房・国民保護ポータルサイト武力攻撃やテロなどから身を守るために)に纏められています。大変参考になる内容ですので、是非一読されておくことをお勧めします
尚、マスコミでも広く取り上げられておりますが、J-ALERTの情報を受けて、現在自分にいるところに実際に着弾する可能性があると考えられる場合の自身のとるべき行動については「弾道ミサイル落下時の行動について」でパンフレット1枚に簡単にまとめられておりますので、これも是非一読されることをお勧めします

上記政府の対応で、北朝鮮から攻撃があった場合に取るべき行動についてはカバーされていると思いますが、原子爆弾が投下された場合の行動については、日本が唯一の被爆国であり、且つ福島原子力事故にによる混乱の記憶も生々しい事から、もう少し詳しい説明が必要であると思われます。以下は、原子爆弾や放射線についての常識ですので、知っておいて損は無いと思います
尚、以下について説明がわからない部分があれば、以前投稿した私のブログ(原子力の安全_放射能の恐怖?)をご覧になっていただければ幸いです;

3.原子爆弾による主な直接的な被害は、爆弾炸裂と同時に放たれる電磁波粒子線衝撃波によって発生します。
電磁波とは、波長の短い(=エネルギーが大きい)順に、ガンマ線エックス線紫外線可視光線(普通の光のこと)、赤外線、テレビ・ラジオなどの電波のことです。また、電磁波は光の速度(30万キロメートル/1秒)で到達しますので、ピカッと原子爆弾が炸裂した時の火の玉を見た時には既に自身の体は被曝していると考えていいと思います。。政府の発行するパンフレットでミサイル発射の情報が入ったらすぐに求められている「できる限り頑丈な建物や地下街に避難する」、「物陰に身を隠す、、」とい行動は、この理屈からきています
電磁波のうちガンマ線エックス線はエネルギーが大きく(=人体への影響が大きい)、且つ透過力が強いので、爆心地から離れていても注意が必要です
波長の長い電磁波である赤外線は「熱線」と同じですから、爆裂に伴う強烈な赤外線を受ければ、木材などの発火性の高い建物は、瞬時に発火します。ここから木造住宅に隠れるのは薦められないことが分かります

* 粒子線とは、核分裂の際に生まれる様々な原子の高速の飛翔を意味します。従って、粒子線の速度は様々ですが、電磁波より遅い速度になります。尚、電子の粒子線はベータ線、ヘリウムの原子核の粒子線はアルファ線という放射線でご存知の方が多いと思います。これ以外で恐ろしい粒子線は「中性子線」です。中性子は電気的に中性なので、他の粒子と違って電気的な反発を受けることが無いので透過力が非常に強く遺伝子を破壊する力も大きいので、爆心地から離れていても注意が必要です。中性子線による被害例としては、1999年の東海村JCO臨界事故があります。二人の方が亡くなりましたが、この被害の特徴は即死はしないものの、数十日にわたって徐々に体内の臓器が機能を失って死に至るという経過を辿ります。中性子線を防ぐには水素原子と衝突させることが一番で、原子炉の中で多くの水(酸素原子と水素原子が結び付いた分子です)が使われるているのはその理由からです。また原子炉の建屋に厚いコンクリートが使われるのも、コンクリートには30%程度の水が含まれているからです。政府パンフレットの言う、「できる限り頑丈な建物や地下街に避難する」という表現はこの理屈からきています。ただ、丈夫な建物とは、コンクリート製の重厚な建物のことで、最近の高層ビルに多い鉄骨とガラスで出来ているような建物は含まれません。地下街はコンクリートに囲まれており、且つ水分を多く含む土砂がまわりを覆っているので中性子線を遮る効果が大きいと考えられます(⇔原子爆弾の被害を防ぐ目的でつくられる核シェルターは地下街と同じ構造です)

衝撃波とは、爆風とも言われますが、爆裂によって生じた強烈な音波のことです。従って伝播速度は電磁波や、粒子線よりずっと遅く空気中では330メートル/1秒の速度で進みます。中学校の頃の理科で学んだと思いますが、雷の稲光と音の時間差で雷の発生場所からの距離が分かる様に、原子爆弾の場合も、炸裂によって生じた「ピカッ」と「ドン」の時間差で、大体爆心までの距離が分かります
音波といっても、その破壊力は凄まじく、近くで浴びれば、人体もバラバラになってしまうほどです。ごく最近、米軍がアフガニスタンのISの地下基地攻撃に使った「大規模爆風爆弾(MOAB)」はこの衝撃波の破壊力を利用したものです。政府の発行しているパンフレットで言っている、「部屋の中に入る場合、窓から離れるか、 窓のない部屋に移動する」、「物陰に身を隠す、、」という表現はこの理屈からきています、尚、部屋の外であってもガラスの面積の多い最近の高層ビルでは、衝撃波によって破壊されたガラスの破片で大怪我や死者が出ることに注意しなければなりません。因みに、1974年の三菱重工東京本社ビル爆破事件では、爆破によってビルから落ちてきたガラスの破片で通行人にまで死者がでました

* 尚、上記に様に恐ろしい電磁波粒子線衝撃波は、当たり前の事ですが爆発が起こった場所から「球状(ボールの様に)」に広がってゆきます。従って、電磁波、粒子線、衝撃波の強度(=殺傷力)は、遠くになればなるほど弱まっていきます。その弱まり方は、球の表面積(表面積=4x円周率x中心からの距離の2乗)に反比例すると考えられます。従って、例えば爆心地から1キロメートルの電磁波、粒子線、衝撃波の強度をとすれば、10キロメートル離れたところの強度は理論的には100分の1になることになります。原子爆弾の直接の被害は爆心地からの距離によって著しく異なるのはこのような理屈によるものです。

4.上記の様な直接の被害のほかに、原子爆弾の核分裂により生成された所謂「死の灰」による被害も注意しなければなりません。広島、長崎に原子爆弾が投下された後、被害地に立ち入って被害者の捜索、救出などに携わった方々が、この「死の灰」から発生している放射線を浴びた(外部被曝)ため、あるいはこの「死の灰」を体内に取り込んでしまった(内部被曝)ために、放射線障害を起こしました。当時被害に会われた方々は、原子爆弾や放射線についての知識が全くなかった訳ですから当然と言えば当然です。しかし、原爆投下から70年以上が経過し、多くの知見が積み重ねられた来たため、「死の灰」による被害を極小化することは十分可能な事です
福島事故の際、ネット情報に踊らされて傷薬に使われる「ヨードチンキ」を飲んだ人います。確かに「死の灰」に含まれる放射性ヨウ素(ヨウ素131、133)は子供の体内に中入ると、甲状腺に取り込まれて甲状腺がんを引き起こすリスクがありますが、大人の場合はそのリスクは低く、あまり心配する必要はありません。またヨウ素製剤を使うのはいいのですが、「ヨードチンキ」は体内に入れば毒になります

* 「死の灰は風によって運ばれますので、風向きによっては爆心地から離れたところでも降り注いでくることになります。例えば、福島事故では水素爆発によってまき散らされた放射性物質を含んだチリが、南東の風によって流され、且つ地形の影響を受けながら下記写真の地域に降り注ぎました。多く降りそいだ赤い地域は、長期間立ち入り禁止区域に指定されたことはご承知の通りです;

福島原子力事故・被害地域
福島原子力事故・被害地域

つまり、「死の灰」による被害を受けないためには、爆心地付近に立ち入らないことは当然の事として、「死の灰」が降る地域の情報は、福島事故の教訓を踏まえて政府により迅速な情報提供が為されるとは思いますが、情報が遅かった場合、爆心地に比較的近い人は、自己防衛の為にも風向きに注意を払うことが賢明であると私は思います

* 不幸にも「死の灰が降る環境に身を晒してしまった場合、内部被曝を避けるために口や鼻を覆うことがまず必要になります。また自宅であれば、できる限り早めに衣服を脱いで汚染されていない服に着替えること、シャワーを浴びて完璧に身体全体を洗浄すること重要です。因みに、原子力発電所で作業を行っている労働者も全く同じことを行っていますで、外部被曝であればそれ程心配する必要はありません
一方、いくら口や鼻を覆ったとしても呼吸をしている以上僅かでも体内に入ってしまう(内部被曝)ことは避けられません。体内に入った放射性物質の量は勿論、ストロンチウム90のように、半減期が長く生理的に体内の組織に取り込まれる様な微量であっても危険なものもありますので、できるだけ早期に「ホールボディー・カウンター」を備えている医療機関に行って、体内に入った放射性物資の検査をすることをお勧めします

いずれにしても、ネットからの流言飛語に惑わされることなく、政府からの情報を漏らさず受け取る体制を整え(テレビ、ラジオ、スマホ/携帯電話などの通信手段の確保は非常に大切)、自身の知識を総動員して、冷静に対応することが重要です

以上

 

エネルギーと環境と原子力と暮らし方

、-はじめに-

私はサラリーマン生活の最後の10年間ほどは縁あって原子力業界で仕事をしておりました。2011年には東日本大震災に伴う深刻な原子力事故を内側から体験し、事故後の全原発の停止と、これに伴うエネルギー危機を経験する中で、エネルギー問題が将来の日本の最大の政治課題であることを痛感いたしました

人類はその長い歴史の中で“火”というエネルギーの活用を始めたことで、全生物の頂点に立つことができました。産業革命以降の人類の歴史は、水力という形を変えた太陽エネルギーの活用の他に、化石燃料という有史以前の太陽エネルギーの蓄積を消費しつつ、先進国を中心に経済規模の飛躍的な発展を実現してきました。第二次大戦以降は、これに原子の“火”という巨大なエネルギー源が加わりました

しかし、核分裂反応を利用する現在の原子力発電については、米国に於ける1979年の“スリーマイル島の原子力事故”、欧州に於ける1986年の“チェルノブイリ原子力事故”、また日本に於ける2011年の福島原子力事故があり、原子力発電の安全性にについて疑問を呈する人が増えてきました

一方、こうした現状の中で、本年11月には米中を含む主要先進国が参加したパリ協定が発効し、日本も遅ればせながらこの協定に参加することが決まりました。この協定に参加することにより、今後化石燃料によるエネルギーの使用には厳しい制約が課せられることになります

温暖化の主因が炭酸ガス放出量の増大にあることには多少の議論はあるものの、海水面の上昇により水没の危機に瀕している島嶼国が現実に存在していること、乾燥地帯では砂漠化の進行が早まっていること、また異常気象(スーパー台風、異常高温、異常低温、水害、など)の多発という地球規模の環境の変化の主因が、炭酸ガスを中心とする温暖化ガス放出によるものであることは、多くの国々が認めることとなり、その削減について協力していくことになったという事でしょう

この結果、GDPの規模で世界第3位、炭酸ガスの排出量で世界の4%を占めている日本としては、好むと好まざるとに関わらず温暖化の問題について自国の事だけでなく世界をリードしていく責任があるのではないでしょうか

従って、福島原子力事故以降、原子力発電の停止に伴うエネルギーの不足分を化石燃料による発電に切り替えて凌いできた日本は、今後他の国以上にエネルギー問題に正面から取り組んでいかねばならない状況になっていることは間違いないと思われます(日経記事:震災後LNG輸入量急増

以下に日本が直面するエネルギーの問題を俯瞰してみたいと思います。尚、如上より明らかな様に、原子力発電に関わる議論を抜きにしてこのテーマを扱うことはできませんので、「とにかく原子力は嫌だ」という方は、この辺で読むのを止めた方がいいかもしれません!

―エネルギーと暮らし-

エネルギーの問題は、近・現代史において国家の重大な意思決定に深く関わってきました;
ご承知の方が多いと思いますが、太平洋戦争に突入する直接の引き金になったのは米国の禁油通告でした。石油を絶たれた日本が、日中戦争を継続しつつ生き残るためにはオランダ領インドシナの石油(パレンバン)を確保する必要があり、ハワイ奇襲作戦とインドシナ電撃侵攻作戦によって先の大戦の口火を切ってしまいました

第二次大戦後、英仏に代わって米国が中東政治に深く関わったのは、石油を大量に消費する米国が中東の石油を必要としたためです。最近になって自国のシェール石油産出量が増加し自給できる体制になった途端、中東への関与が抑制的になってきたのはご承知の通りです。

日本が徐々に憲法解釈を変更して自衛隊の海外派遣をする様になった主たる原因は、中東の石油が日本のエネルギー需要の大半を賄っており、その生産維持と輸送ルートの確保を全面的に他国任せにすることができなかったからにあります

エネルギーの問題は、歴史的に日本の産業構造の大きな変革に関わってきました;
戦後の日本は、重厚長大型の産業を育てることによって驚異的な復興を果たしてきました。この間、必要となる膨大なエネルギー需要を賄う為に、最初は水力と石炭という自前のエネルギー源を求めて、日本各地で大規模な電源開発(佐久間ダム、黒部第四ダムなど)と炭鉱開発を行ってきました。

その後、更に成長を継続していく過程で、更なる水力電源や炭鉱の開発が限界を迎えたことから、水力や石炭に代わるエネルギー源として石油輸入を急速に拡大して行きました。こうしたエネルギー革命が進行する中で、効率の悪い石炭産業が衰退して行き、日本各地の炭鉱閉鎖に伴う痛みを伴う労働市場の大変革を余儀なくされてきました。

1973年、第四次中東戦争を契機として石油価格が急騰しました。これを第一次オイルショックといいますが、この時は消費者物価が23%も急上昇(狂乱物価)し、国民の生活に大きな影響を与えることになりました

狂乱物価・トイレットペーパー騒動
狂乱物価・トイレットペーパー騒動

また1979年にはイラン革命を契機として再び石油価格が急騰しました(第二次オイルショック)。特に日本はイランにから相当量の輸入を行っており非常に影響が大きいものでした

こうした厳しい試練を経て、日本の産業は世界最先端の省エネ技術を磨くこととなりましたが、一方に於いて、国策として石油備蓄の充実と、国際情勢に左右されない安定的なエネルギー源となる原子力発電の充実を図っていくことになりました
<Follow-up>
* 2018年7月3日に第5次エネルギー基本計画が閣議決定されました。詳しい内容は第5次エネルギー基本計画(案)をご覧ください。

“モノづくり日本”を続けるには、安定的なエネルギー確保が必要です;
日本人はモノ作りを得意とし、作ったものを海外に売ることによって繁栄してきた国です。如何に省エネ技術に長けたとしても、物を作るにはやはり沢山のエネルギーが必要となります。エネルギー供給の危機は、直ちに工業生産額の減少に繋がります。また、供給不安が無くてもエネルギー価格の上昇は直ちに製品価格の上昇、輸出競争力の減退に繋がります。日本が今後も繫栄していく為には、エネルギーを、量的にも価格的にも安定的に確保する体制が必要なことは言うまでもありません

エネルギーの問題は我々の暮らしに直接関わっています;
照明、冷暖房、炊事・洗濯・掃除などの家事は、今や殆どの家庭で電化製品が使われています。
エピソード:戦後10年位までは、殆どの家庭で蝋燭を買い置きしていたのではないでしょうか。当時、停電は日常的に経験できることでした。停電しても照明以外は電気を必要としていなかったということもできます!

輸送機関(航空機、鉄道、バス、自家用車、等)は殆ど全て(徒歩の移動や昔ながらのリアカーによる輸送は別ですが!)エネルギー無くして稼働させることはできません。またこれら輸送機関は人の移動だけでなく、毎日の生活に直結している物流を担っており、エネルギー不足により物流が滞れば毎日の生活が、即危機に見舞われます
これらは何となくエネルギーに依存していることは実感できますが、これ以外にも、温室栽培の農産物利用、水産品の利用(漁船は石油無くして動かせません)、加工食品の利用、プラスティック等の石油由来の加工品利用、これらは全てエネルギーが途切れれば利用はできません。

今や、交通安全のインフラの一つである交差点の信号機やスマホで代表されるネットワークのシステムもエネルギー無くして利用は不可能です(災害発生時の一時的な停電で実感は出来ますが!)

こうしてみると、所謂文化的な生活や都市での生活は、好むと好まざるとに関わらず多くのエネルギーを消費することが前提となっている事がわかると思います。従って、エネルギー需給の問題は、誰かに任せておいてよい問題ではなく、国民一人一人が自分の問題として考えるべき問題ではないでしょうか

-エネルギーと温暖化-

パリ協定の内容は概略以下の通りとなっています;
目標:産業革命前からの気温情報を2℃よりも十分低く抑える(努力目標は1.5℃以内)
② 21世紀後半に人為的な温暖化ガスの排出量と森林などの吸収量を均衡させる
③ 全ての国に温暖化ガスの削減目標の作成と国連への提出、5年毎の見直しを義務付けると共に、世界全体で進捗を5年毎に検証する
④ 被害を軽減させる為に世界全体の目標を設定する
⑤ 先進国には途上国への資金の拠出を義務付けると共に、それ以外の国には自主的な拠出を推奨する
⑥ 日本はEUや、島嶼国、アフリカなど約百ヶ国からなる「野心連合」に加わりました。同連合は産業革命前からの気温上昇を1.5℃以内に抑えることを協定に盛り込むよう働きかけました

日本の目標;
2015年6月:サミットに於いて「国内の温暖化ガス排出量を2030年までに2013年対比26%削減する」という目標を表明(日経記事:サミットで温暖化ガス26%削減を表明)しました
目標値の内訳:電源構成の見直しと省エネルギーの強化で21.9%削減、二酸化炭素を吸収する森林整備などで2.6%削減、代替フロン対策で1.5%削減
2030年度の望ましい電源構成;
①古くなった原発の活用を延伸し、原子力の比率を20~22%とする
②再生可能エネルギーの比率:22%~24%
③石炭火力発電の比率:30% ⇒ 26%
③LNG火力発電の比率:43% ⇒ 26%

2016年5月:閣議で「2050年までに温暖化ガスの排出量を、現在に比べ80%とする」と決定

日本は、他の国々に比べ足元で既に省エネ技術が織り込まれているエネルギー消費量であり、省エネによる削減の余地が少ないという事に注意をする必要があります。また、日本が国際的に約束した削減量を実現する為に、国としては原子力発電の比率を20%以上としていますので、原子力発電を認めない人々はこれをどう捉えればいいのでしょうか?

<参考>
*米国の目標:「2025年までに2005年対比26%~28%削減」
*EUの目標:「2030年までに1990年対比40%削減」
*温暖化についてはアメリカ元副大統領の“アル・ゴア”の著書「不都合な真実」(2007年日本語翻訳版出版)と、これを基にした映画で生々しい現状が世界的に知られるようになりました。現在最新の温暖化に関する情報をご覧になりたい方はWWFジャパンのサイトをご覧ください

-日本における再生可能エネルギー利用の現状-

経産省・資源エネルギー庁の「エネルギー白書2016」をご覧になると分かるのですが、2011年の福島原子力事故以降、再生可能エネルギーに転換すべく補助金や、電力料金・燃料料金などの上乗せなどの施策を取ってきましたが、未だエネルギー供給に占める割合は水力発電を除けば微々たるものです(2014年度時点で4.4%)。2030年までに達成しなければならない再生可能エネルギーの比率(22%~24%)を達成するには、以下の様な問題点を着実に克服していかねばなりません(日経記事:経産省が想定した電源構成);

Follow_Up;2022年9月_再生エネ廃棄・砂上の送電網_停電リスク軽視のツケ
*太陽光発電・風力発電の開発が急ピッチで進められる一方で、地域電力会社で発生した余剰電力を、電力不足が発生した他地域電力会社に融通できないで廃棄する事態が発生する様になってきました。地域電力会社間の送電網の整備を加速する必要が出てきました
Follow_Up;2022年9月_カリフォルニア州の熱波・再生エネ拡大の限界露呈

1.水力発電;
既に適地は開発済みであること、地質調査、環境調査、用地買収、水没地域住民に対する保証、長期に亘る工事期間、膨大な投資額、などを勘案すると新しい立地はほぼ不可能な状況にあります
因みに、発電用ダムの建設は1963年に完成した黒部第四ダムが最後となりました。また、八ッ場ダム(発電用ではない)に至っては1967年に建設を決定してから現在に至る(50年経過!)も完成していません
Follow_Up:八ッ場ダムは、2020年4月1日より運用を開始しました

八ッ場ダム

ただ、農業用水路などを利用する小規模の発電は、地産地消のレベルで今後導入が進む可能性があり、地方創生などの施策を進める中で着実に浸透を図っていく必要があると思われます(日経記事:安積疎水で水車発電

2.地熱発電;
地熱発電は火山国である我が国にとって地の利を得たエネルギー資源です。水力発電と同じく規模が大きく24時間一定の電力を発生させることができ、ベース電源として可能な範囲で開発を進める必要があります

地熱発電の仕組み
八丁原地熱発電所と地熱発電の仕組み

ただ、立地地域が国立公園や温泉地などに偏るため、規制緩和と併せ、景観維持や温泉湧出量への影響の評価が必要であり、建設開始までにかなりの時間がかかることを考慮しなければなりません

地熱発電立地地域
地熱発電立地地域

因みに、我が国における地熱資源量は約2000万KWと言われておりますが、そのうち80%以上(1600万KW)が国立公園の特別保護区域・特別地域内にあり、現在は開発出来ないことになっています。残りの400万KWの資源量の内53万KWは既に開発済みになっています

Follow_Up:2020年2月16日の日経新聞の記事/開発進まぬ日本の地熱 発電能力、10年で1%増 長期の環境アセスなど壁

3.風力発電;
風力発電は欧州などでは急速に開発が進んでいます。これに刺激されたものか、わが国でも近頃開発計画が目白押しです(日経記事:風力増強・原発10基分に

風力発電・石油備蓄@青森県
風力発電・石油備蓄@青森県

しかし、風力発電が我が国においてベース電源になり得るかどうかについては私は疑問に思っています。高校時代の地理で学んだことですが、西ヨーロッパは“西岸海洋性気候帯”に属しています。この気候帯では海からの穏やかな偏西風が地上付近で常に吹いており、風力の利用に適しています(オランダなどは昔からこの風を使って沢山の風車で干拓地の排水などを行っていました)。一方、日本ではアジア大陸の山岳地帯を越えた偏西風は高空のジェット気流となる為に地上近くの安定した西風にはなりません、また日本は“モンスーン気候帯”に属しており、台風の襲来など気象の変動が激しく風も一定しません。従って、発電機の数や能力を増強させても、利用可能な電力量は欧州などと比べて少なくなり、経済性も劣る可能性が考えられます
Follow_Up:2022年1月17日_日経新聞:洋上風力入札・三菱商事が圧勝_AmazonやGEが後押し
⇒ その後、風力発電事業の撤退相次ぐ
Follow_Up:2022年8月29日_風力発電「中止ドミノ」 関西電力に続きオリックスも
Follow_Up:2023年6月16日_230616_北海道知事、小樽の風力計画「地域の理解進んでいない」
Follow_Up:2023年6月17日_双日、北海道の風力発電計画中止 住民反対や資材高騰で
Follow_Up:2025年8月27日_三菱商事、洋上風力撤退を発表 中西社長「事業計画実現が困難」

また、風力発電の立地が増えるにつれ、超低周波の音波(耳では聞こえないものの、ガラス窓の振動や健康への影響が考えられる)の被害や、野性鳥類の衝突といった環境問題も無視できくなる可能性があります。また、風車が林立する景観は自然景観の保護の観点から如何か、という考え方もあります

発電量の変動が大きい問題については、“エネルギーを溜めることの問題点”の項で詳しく説明します

4.太陽エネルギーの直接利用
①太陽光発電
大規模太陽光発電の立地を促進するためには、電力事業者の買取価格を高く設定する必要があります。しかし先行するドイツなどで問題となっている様に、買取価格を高くすると発電量が大きくなるにつれて国民負担の増大と、産業競争力の低下を招くことになります。現在日本でも一時ほど普及が進まないのは、電力会社の買取価格が下がっている為です(日経記事:太陽光パネル底なし不況);

大規模な太陽光発電
大規模な太陽光発電

また、太陽光エネルギーはエネルギー密度が低い為に広大な面積を必要とします。緑豊かな日本の景観にマッチするかどうかに疑問がのこります。因みに、1キロワットの発電能力を持つ太陽光発電素子を設置するために必要となる土地面積は約10㎡と言われておりますので、1万キロワットの太陽光発電を行うには約千㎡の土地面積が必要となります。この発電能力は晴れた日の日中の発電能力ですから、実際に利用できる電力量はもっとずっと小さくなります(一般に太陽光発電の稼働率は年間千時間程度であり、24時間常に稼働できるベース電源に比べれば10%程度の稼働しか達成できないことになります)
日本は中緯度にあって水も豊かであり植物の生育には適しているものの、晴天率はそれほど高くはありません。肥沃な農地や豊かな森林を伐採してまで事業用として太陽光発電設備の設置を推進することには私は疑問を持っています

発電量の変動が大きい問題については、、“エネルギーを溜めることの問題点”の項で詳しく説明しますが、個人の住居で太陽光発電を導入し、冷暖房や温水のエネルギー源として使用することの他、電力余剰がある時にエネルギー使用を集中させるなど、個人個人のエネルギーマネージメントを促す効果があることを勘案すると、今後も補助金等により普及を促進することは理にかなっていると思われます
また、企業単位で導入しエネルギーマネージメントを行なえば、事業用電力の効率的利用に繋がる可能性があります
Follow_Up:2019年11月18日日経記事:太陽光発電買い取り終了、通知遅れ家庭混乱 大手電力に批判の声

②人工光合成
植物の行う光合成は極めて効率がいいことは確かですが、光を人間が利用できるエネルギー生産のみに着目すると1%程度の効率といわれています。最近研究が進んでいる“人工光合成”は未だ実験室レベルではありますが技術開発が進みつつあり、植物の光合成よりも効率よくエネルギーに変換できる物質を作り出すことに成功しています(日経記事:人工光合成の研究)。この技術が、政府が約束している温暖化対策に間に合うかと言えば、もうちょっと先の話の様に思われます

5.バイオマスの活用
①バイオマス発電、等
既に日本各地の主として森林地帯で林業の副産物である間伐材、廃材、などを燃焼させて発電や地域暖房に活用され始めておりますが、大規模化を測ろうとすると製紙業との競合が起こりうまくいきません。地方創生との関連で林業との調和を図っていくことが理に適っていると思われます
最近、薪ストーブやおがくずチップによる暖房が、豊かで快適な生活のシンボルとしてメディアにも登場しますが、これも林業との調和を図ってこそ意味のあるエネルギー活用の方法なのかなと思われます
Follow_Up:北海道河東郡鹿追町・バイオマスタウン構想

②バイオマス燃料(アルコール発酵)
既にトウモロコシなどの穀物のアルコール発酵で量的にも価格面でも実用化されており、環境問題が大きく取り沙汰された時期にガソリンやジェット燃料に混ぜての利用が進みました。しかし食物生産との競合関係が明らかとなり(トウモロコシを主食とする貧しい国々の食費の高騰、結果としての飢餓の発生)、大規模化には限界があると考えられています

③藻類、微生物などの活用
倫理的な問題が発生する可能性のある食用穀物のエネルギー利用に代わって、最近は成長が早く、高密度の生産が可能な藻類や微生物などによるエネルギー生産の研究が盛んになっています。未だ実験段階で生産コストもかなり高いのですが、温暖化に関わる企業責任を果たす為、航空機メーカー、航空会社などはこうした燃料の導入(現在のままで推移すると、2050年には航空機のエンジンが排出する炭酸ガスが、全世界の排出量の3%に達すると言われています)に積極的に関わっています;
航空機メーカー:航空機メーカー3社・バイオ燃料開発協力
日本航空:ゴミ由来の燃料実用化へ実証設備
全日空:バイオ燃料を実用化_ユーグレナ
Jパワー:藻から燃料油一貫生産

―エネルギーを溜めることの問題点-

既に述べてきた様に、水力発電、地熱発電、火力発電、原子力発電などは24時間稼働が可能であり、極めて安定的な電力供給が可能ですが、これから再生可能エネルギーの主役となるべき風力発電、太陽光発電は、電力供給能力が大きく変動します。一方、電力需要も季節により、時間帯により大きく変動します;

1日の電力需要_概念図
1日の電力需要_概念図

上図を見れば、現在はベース電力にもなり得る化石燃料によって発電の出力を調整して需要の変動に対応していることが分かります。この部分を供給側で変動の大きい風力発電、太陽光発電に振り替えると、どの様な事が起こるか想像できると思います。化石燃料の設備稼働を極端に犠牲にして余力を持たせるか、あるいは風力発電、太陽光発電の電気を一時的に溜めておくか、しか方法がありません

<Follow-up>
* 2018年10月13日の日経新聞に以下の様な記事が出ていました:181013_九電・きょう太陽光制御_発電業者に停止要請181013_太陽光普及・壁浮き彫り 送電網や蓄電池_対策急務

揚水発電とその仕組み
揚水発電とその仕組み

現在ピーク供給力の一部を担っている“揚水式発電”、“調整池式水力発電”、“貯水池式水力発電”の能力を拡充することも考えられますが、これが可能であれば現在でも化石燃料による供給調整にとって代わることができるはずですが、発電効率が極めて低いこと(約10%程度にしかならない←発電ロスに加え、揚水時のエネルギーロスが大きい)、立地に適した場所が少ないこと(調整池、貯水池の為に広大な面積が必要)、漏水等の環境破壊の恐れがあること、などの問題があり現在以上の立地は相当困難であると考えられています

Follow_Up:2023年1月:揚水発電維持へ経産省が投資支援_再エネ安定供給狙う

蓄電器で電気を溜める方法
しからば、リチウムイオン電池など最新のバッテリー技術を使えば大量の電力を保存できるのではないかと考え付きますが、実は大量の電気エネルギーを溜めるという事は性能が良ければよい程危険が大きいものです。最近突然発火して発売停止になったサムスンの最新スマホを例にとると、内蔵されているリチウムイオン電池の電気容量は3.5アンペア・アワー(3.5アンペアの電流を1時間流すことができる能力があります)、出力電圧は3.7ボルト程度のものでした。しかし、リチウムイオン電池は内部抵抗が低い(性能がいい!と同義です)のでプラスとマイナスの電極が短絡すると、この電気エネルギーが一気に放出されて熱に代わることになります。このエネルギーの大きさは;

3.5アンペア x 3.7ボルト = 約13ワット・アワー ⇒ 約11キロカロリー

となります。これは1リットルの水を沸騰させることができるエネルギーで、金属などであれば比熱が小さいので、一瞬の内に高温になり発火することになります

現在、最も大きい電力量を溜めることができる事業用のバッテリーは、日本ガイシ(株)が開発したNAS電池です。この電池の容量は300万キロワット・アワーに達します(NAS電池の性能)。このエネルギーの大きさを、ちょっと例えは悪いのですが、TNT火薬の発生するエネルギーに換算してみると、なんと2581トンに相当します。勿論火薬ではないので爆発的にはならないとは思いますが、何らかの理由でプラス極とマイナス極が短絡すると、大きなエネルギーが一気に放出され災害に結びつく可能性を否定できません

いずれにしても大規模な電池で、大きな需要の変動を埋めることは当面可能性が低いと考えねばなりません。勿論家庭で太陽光発電と併せて使う電池として、また企業単位で風力発電や太陽光発電と組み合わせて使う分には十分実用に足る性能が実現しており、多くのメーカーが参入しています(日経記事:企業の温暖化対策

Follow_Up:2022年になって、再生エネルギーを貯める手段については色々なアイデアが出てきました;詳しくは以下の日経記事をご覧になって下さい:再エネ蓄電を低コストに_住友重機出資の英新興など実用化へ、空気や重力使い半減

-原子力エネルギーの未来―

現在原子力発電の安全性に疑問を持っている国民が多い中で、国として原子力発電の稼働を前提としてパリ条約に対応していくことを決断した理由は理解して頂けたと思いますが、可能であればできるだけ早く将来持続可能なエネルギーに切り替えていく必要があることは言うまでもありまません。40年を超える原発の再稼働は、新しい持続可能なエネルギーが実用可能になるまでの時間稼ぎという事もできると私は思っています

一方、膨大な温暖化ガスの排出国である中国インドがパリ条約に参加しましたが、この国々は目標達成の為に多くの原子力発電所の建設を計画していることはご承知の通りです。日本は米国やフランスと並んで原子力発電所の建設や運用に関しては間違いなく先進国です。先進国の責任として事故の教訓を生かし、これらの国々の技術面のリーダーとして活躍することはむしろ義務であると考えられます。事故が起これば放射線の被害は軽々と国境を越えてゆきます。日本だけが脱原発を実現すればよいという考えは間違いだと思います

尚、当面原子力発電を継続することとなれば、放射性廃棄物処理の問題が気になると思っておられる方が多いと思います。現在、高レベル放射性廃棄物を地下深く埋設することを、場所を含めて決めている国はフィンランドのみです。フランスは実験段階ですが取り組みを強化しているようです。米国では一旦ユッカマウンテンに埋設することに決めたのですが、住民の反対により取り止めとなりました。日本も北海道で研究は進めているものの、埋設実現までは未だ長い道のりがあると思われます。また、六ヶ所村の廃棄物処理施設でのガラス固化の技術も未だ確立されていません。お先真っ暗の様ですが原子力発電所の再稼働が、持続可能なエネルギーが実用可能になるまでの時間稼ぎという位置づけであれば、当面現在の技術で原子炉施設内に廃棄物を格納することも可能だと考えられます。近い将来の実現は難しいのですが、私個人としては高速炉などを使って半減期の長い放射性廃棄物を減らす研究に期待することにしたいと思っています

持続可能なエネルギーの本命は、核融合炉の開発だと思いますが、これは今世紀中に実現することは難しいと言われています。既存の技術の延長で比較的近い将来可能と考えられるものに、高温ガス炉活用による水素社会の実現があります。水素をエネルギー源とする社会はすぐそこまで来ていますが、現在は水素を作り出すには炭酸ガスも発生させてしまいます。高温ガス炉が実用化すれば、温暖化ガスの発生無しに直接水素を取り出すことが可能になります

原子力発電に依存しない社会を築くためには、国家や企業だけでなく個人個人のレベルでも省エネ化の取り組みを強化することも大変重要なことです。太陽光発電と電池の組み合わせによる電力の自給化は、お金はかかるものの、技術上のハードルは殆どありません。私はお金がないのでこのシステムは、多分死ぬまで導入できませんが、せめて自分が輩出している温暖化ガスを把握しその排出量の削減に地道に取り組んでみたいと思っています。因みに、拙宅での昨年一年間の炭酸ガス排出量を計算してみました;

ガソリン消費量:810リットル、都市ガス:1,654㎥、電気:11,633KWH ⇒ なんと拙宅の炭酸ガス放出量は11.9トンでした!

以上

 

各党の憲法改正草案をチェックする

-はじめに-

7月に行なわれた参議院議員選挙に於いて野党側(及び一部のマスメディア)は、あたかも憲法改正の是非を問う最後の戦いの様な熱狂ぶりでしたが、結果は与党の圧勝に終わりました。当たり前の事ですが、衆参両院で三分の二の絶対多数を得て憲法改正の発議はできても、国民投票で有効投票数の二分の一以上の賛成が得られなければ改正は出来ません。
仮に今回の選挙の結果、衆参両院での審議を経て憲法改正の手続きに入ったとしても、国民が憲法改正の内容を十分に理解し、憲法改正に相応しい高い投票率を実現して、国民主権の究極的な手段である有権者一人一人の投票による多数決で憲法改正の是非を問うことが悪い事とは決して思えません

考えてみれば、今の憲法は明治憲法を修正する形で帝国議会の承認を得て1946年11月3日に公布されており、国民投票による是非の判断を行っていません。色々な事情があったと思いますが連合国による占領下にあり、国民も生きるのに精一杯で憲法の是非を判断する状況になかったことは確かです。ただ戦争の惨禍を身に染みて体験している当時の国民にとって、この憲法の“理想の平和主義”に明るい未来を感じていたことは想像に難くありません。
その後70年を経て世界情勢も大きく変わり(当ブログの「憲法についての私の見解」参照)、日本の経済力の伸展に合わせ、国際的な立場も大きく変わりました。また、国民の方も世代交代が進み、現在日本の国を支えている大多数の人々は、未だに現憲法の是非を直接判断する機会に恵まれていません

憲法改正の発議すら阻止したいと考える人々(一部のマスメディアを含む)は何を恐れているのでしょうか?
改正を発議されれば国民投票で負ける可能性が高いと思っているのかもしれません。その考え方の中には国民を“愚民”と考える思い上がった思想が隠されているとすれば大きな問題です。野党側の一部応援団が掲げた過激なスローガンには、“愚民”を教導するには“嘘でも分かり易い方がいい”という考え方のものが散見されました。確かに、国民一人一人をみれば、憲法を読んだことも無い人、全く関心の無い人も多く居ることは事実だと思います。しかし民主主義はこれらの人々を含めて民意を問い、民意に従うのが大原則のはずです。

政治家は国会に於いて憲法改正案を真剣に議論し、マスメディアはその議論の内容を正確に分かり易く報道することが憲法改正の民意を問う為に絶対必要なことと思います。マスメディアによっては“社説”に代表されるようなメディア自身の意見を入れたがりますが、これらは所詮一部の論説委員の考え方に過ぎません。ましてや、テレビの報道番組のMCなどは自身の意見を述べるなど僭越なことは厳に慎むべきだと思います。憲法の様に大切な案件の民意を問う時は、出来るだけ多くに人々が自身の意見を持てるように国会議員、マスメディアは努力すべきと思います。

2007年に成立した「国民投票法」により、憲法改正を発議するにはその前に衆参両院の「憲法審査会」での審議が必要になります。既に幾つかの政党では「憲法改正草案」が出ていますので、これから始まるかもしれない憲法審議会での議論の前に、現憲法との比較により、各政党の憲法改正草案を考えてみようと思います

-比較する改正案と主たる争点について-

改正案を比較する政党は、衆参両院への選出議員数を考慮して、自民党民主党(民進党としては未だ改正案を作っていない。また改正条項を明示するのではなく、憲法全体の考え方や枠組みをまとめた“提言”という形をとっている)、共産党公明党おおさか維新の会としました。尚、共産党については最新の「日本共産党綱領」で憲法について言及している部分、公明党については、ネット上に公開されている憲法に関わる党としての考え方を比較の対象としました。

比較した結果、大きな争点として考えられることは以下の通りです(私見);
1.現憲法の“前文”について:① 変更するか否か、② 先の戦争に対する反省を入れるか否か、③ “平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、、”の取り扱い、など
2.天皇を“元首”として位置づけることの是非
3.憲法9条について:① 変更するか否か、② “戦争の放棄”を謳うか否か、③ 自衛隊(国防軍)の存在を明記するか否か、④ “国防軍”の審判所(軍事裁判)の設置
4.憲法に、国民に対する倫理的な義務を課すことの是非。例えば、① 国と郷土に誇りと気概を持つこと、② 国旗、国歌を敬うこと、③ 家族は互いに助け合うこと、④ 憲法を尊重すること
5.基本的人権に新しい権利(環境権個人情報知的財産権、犯罪被害者及びその家族の人権、など)を加えることの是非
6.地方自治制度の改革:道州制の導入、など
7.緊急事態について:① 導入すべきか否か、② 統制の有り方(内閣総理大臣の権限)、③ 基本的人権の制限、など
8.憲法裁判所の設置について
9.憲法改正発議の手続きについて

更に詳しい検討を行う方は、以下の各党の考え方をご覧ください

自民党憲法改正草案(2012年4月27日)-

前文
<改正草案>
「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴いただく国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。
日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。
我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。
日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。」

<現憲法>
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

<改正草案と現憲法の比較、及び論点>
国民主権を謳っている点は同じ
改正草案では、国民主権とは別に「国家元首」として天皇を位置付けているのに対し、現憲法では天皇の位置付けには言及していない
③ 改正草案では先の戦争に対しての評価は無いが、現憲法では“政府が主導した戦争”に対する反省が書かれており、他の国の憲法に照らしても大変ユニークな部分と考えられる。また、国民の間で先の戦争に対する歴史的な評価が分かれており重要な争点の一つになると考えられます
④ 改正草案では「国と郷土を誇りと気概を持って自ら守」ということがはっきり書かれているのに対し、現憲法では「諸国民の公正と信義に信頼して、、、」との表現になっており、国際的な安全保障体制が機能していない現在、軍事的な強国、あるいはこれらの国が支援している他の国の侵略にどう対応するかが判断できないと考えられます
⑤ 改正草案では現憲法に無い「環境の保護」、「教育・文化の振興」という先進国としての役割が書かれている
⑥ 文章の格調は圧倒的に!現憲法の方が高い

第一章 天皇
<改正草案と現憲法の比較、及び論点>
* 第一条(天皇) :改正草案では天皇を「元首」として明確に位置付けている。象徴天皇である位置づけは変わらない
* 第三条(改正草案では“国旗及び国家”となっている): 改正草案では現憲法に無い「国旗」を“日章旗”、「国歌」を“君が代”と指定し、国民に尊重することを求めている
⇒ 改正草案・第24条、第102条のコメント参照
* 第四条( 改正草案では“元号”となっている):改正草案では、現憲法に無い皇位継承の時点での「元号」の制定を定めている
⇒ 既成事実になっている
* 第六条(天皇の国事行為等):改正草案では、天皇の行う国事行為に「国、地方自治体、その他公共団体主催の式典への出席、及びその他の公的な行為」を加えている
⇒ 既成事実になっている

第二章 安全保障(現憲法では“戦争の放棄”)
<改正草案と現憲法の比較、及び論点>
第二章のタイトルが現憲法では「戦争の放棄」となっており、大きな変更点と捉えることも可能であるものの、以下の第9条の変更を前提とすればやむを得ないものと考えらます
第9条は以下の様に大幅な変更となっています;
 実質的に変更の無い部分は、条件付きの“戦争の放棄”」を謳った部分です
イ) 改正草案:「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない」;
この規定は、「自衛権の発動を妨げるものではない
⇒ 今まで憲法解釈で許してきた「自衛権」を明確に記述しています

ロ) 現憲法:「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争と、武力による威嚇又は国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」;
この目的を達成する為、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない国の交戦権は、これを認めない
⇒  このままでは、自衛の為の軍隊を持つこと、自衛のための交戦も認められないという解釈が自然

現憲法には無く、自衛権を認めたことにより憲法草案に新たに追加された項目は
イ) 「わが国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する」
ロ) 「国防軍は、前項の任務を遂行する際は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する
ハ) 「国防軍は、前項の任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び公の秩序を維持し、または国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる」
⇒ 昨年制定された「新安保法制」、及び“国内の治安出動での国防軍の出動をイメージしていると思われ、議論を呼ぶ可能性が高いと考えられます

ニ) 上記に定めるもののほか、「国防軍の組織、統制及び機密の保持に関する事項は、法律で定める」
ホ) 「国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う罪又は国防軍の機密に関する罪を犯した場合の裁判を行うため、法律の定めるところにより、国防軍の審判所を置く。この場合においては、被告人が裁判所へ上訴する権利は、保証されなければならない」
⇒ 戦前、戦中の所謂“軍事裁判に関わる暗いイメージ”を彷彿とさせる部分であり、議論を呼び起こす可能性が高いと考えられます。ただ、国防軍による交戦を認める前提に立てば、戦争状態にある国及び軍人を危機に陥れる可能性のある“反逆の行為”に対する何らかの処罰は必要になると考えられます。裁判所への上訴の権利を保障しているのは、この規定が拡大解釈されて、「反戦論者」や「政治犯」が国防軍の審判所に於いて一方的に裁かれるリスクを回避する為と考えられます

ヘ) 「国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない」
⇒ 一見当たり前の様に見えるこの条項は、“諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した”としている現憲法に於いて曖昧であった、領土、領海及び領空の侵犯に対して、国及び国民に反撃する義務を与えている点で、領土紛争の存在している近隣諸国との緊張状態を加速する可能性がある事を十分に議論する必要があると考えられます

第三章 国民の権利及び義務
<改正草案と現憲法の比較、及び論点>
以下の部分以外は、若干の文言の追加、訂正であり、論点にはならないと思われます
* 第12条(国民の権利);
現憲法では、国民の自由及び権利認めると共に「これを乱用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」としているのに対し、憲法草案ではこの部分を「これを乱用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公に秩序に反してはならない」と変更してあります
⇒ 戦後、言論の自由を根拠として大衆を巻き込んだ政治運動が盛んになりましたが、これらの活動が治安維持の責任を持つ警察との暴力的な衝突に発展したことを受けて、1952年には破壊活動防止法が制定されましたが、戦前・戦中の治安維持法を想起させたこともあって当時国会内外で大変な議論が巻き起こりました。また60年代以降 安保闘争や反戦デモが過激化し、これを予防的にを封じ込めるために刑法に、「凶器準備集合罪」や「凶器準備結集罪」という罪名が追加されました。憲法草案はこうした法律に憲法上の根拠を与える意味を持っていると考えられます

* 第13条(人としての尊重等):この中でも、憲法草案では現憲法に無い「、、公益及び公の秩序に反しない限り、、」の文言を付加しています

第14条(法の下の平等):現憲法に無い「障害の有無による差別」を禁止する文言を付加しています。尚、第44条(議員及び選挙人の資格)の条文にも同じ文言が追加されています
第15条(公務員の選定及び罷免に関する権利等):現憲法では選挙権を「成年者による」としか書いてありませんが、憲法草案では「日本国籍を有する成年者による」と選挙権を限定しています。尚、改正草案の第94条で地方自治体の議員・首長の選挙権についても同様の国籍条項を付加しています
⇒ 約50万人の永住を認められている韓国・朝鮮籍の人達には選挙権を認めないことを憲法上明確にする意味があります

* 第19条(思想及び良心の自由):憲法草案では現憲法に無い「何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してはならない」の文言を付加しています
第20条(信教の自由):現憲法でも国及びその機関が宗教活動を行うことを禁じていますが、憲法草案では「ただし、社会的儀礼又は習俗的範囲を越えないものについては、この限りでない」の文言を付加しています
⇒ 既に総理大臣の他、国務大臣、国会議員の一部が行っている“靖国神社”、“伊勢神宮”、“出雲大社”などの恒例行事への参拝を憲法違反でないことを明確にする意味があります

第21条(表現の自由):現憲法で「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」を保証していますが、憲法草案では、「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」の文言を付加しています
⇒ “公益及び公の秩序”という判断基準は極めて曖昧であり、これも戦前・戦中の治安維持法を想起させることから、十分に議論する必要があると考えられます。ただ、戦後の歴史に於いて“赤軍派による破壊活動”や“オウム真理教による大量殺人事件”を抑止できなかったこと、及び今後心配される“テロ活動”をどの様に抑止するかを考えると、必要ないと断ずることは難しいと考えられます

また、この21条には「国は、国政上の行為につき国民に説明する責務を負う」の文言を付加しています
⇒ 一見当たり前の様に見えますが、勘ぐればこの文言を付加することによって、マスメディアを通じて、国政上の諸問題について(マスメディアによる取捨選択や歪曲無しに)国民に直接伝える手段を持ちたいという意図があるかもしれません。例えば、有名な“フランクリン・ルーズベルト大統領の炉辺談話”などと同じような政治的効果を狙っているのかもしれません

* 第24条(家族、婚姻等に関する基本原則):憲法草案では冒頭に「家族は、社会の自然且つ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わねばならない」という文言を付加しています
⇒ この様ないわば倫理的な問題を憲法に持ち込むことは、議論を呼ぶこと可能性があります。また、現憲法にも改正草案にも「婚姻は、両性の合意に基づいて成立し、、」となっており、この部分の変更はありませんが、近年先進国ではマイノリティーである“LGBT”の権利も認める方向にあり、同性間の婚姻の問題も議論になる可能性があると考えられます

* 第25条(生存権等):改正草案には以下の条文が付加されています;
「国は、国民と協力して、国民が良好な環境を享受することが出来る様にその保全に努めなければならない」
「国は、国外に於いて緊急事態が生じたときは、在外国民の保護に努めなければならない」
⇒ 新安保法制でも議論された在外邦人の保護に憲法上の根拠を与える条文になります。現在在外邦人の数は130万人以上であり、戦争状態、あるいは治安のコントロールを失った国に滞在している邦人に対して救援の手を差し伸べることは人道的な観点からも必要と考えられます

「国は、犯罪被害者及びその家族の人権及び処遇に配慮しなければならない」

* 第28条(勤労者の団結権等):改正草案には以下の条文が付加されています;
「公務員については、全体の奉仕者であることに鑑み、法律の定めるところにより、“団結権、団体交渉権”の権利の全部又は一部を制限することができる。この場合においては、公務員の勤労条件を改善するため、必要な措置が講じられなければならない」
⇒ 戦後労働争議が盛んだった頃、公務員の労働基本権の制限については度々裁判で争われており、この条文に近い判例が出ています
* 第29条(財産権):改正草案には「知的財産権については、国民の知的創造力の向上に資するように配慮しなければならない」という文言が付加されています
⇒ 現憲法が成立する頃と違い、現在では当然のことと考えられます

第四章 国会 
<改正草案と現憲法の比較、及び論点>
以下の部分以外は、若干の文言の追加、訂正であり、論点にはならないと思われます
* 第47条(選挙に関する事項):改正草案には「各選挙区は、人口を基本とし、行政区画、地勢等を総合的に勘案して定めなければならない」という文言が付加されています
⇒ 人口の大都市集中が加速化する中で、各選挙区の人口当たりの議員定数の不平等について憲法違反である旨の最高裁判決が何度も出ており、この規定は必要と考えられます
* 第54条(衆議院の解散と衆議院議員の総選挙、特別国会及び参議院の緊急集会):冒頭に「衆議院の解散は、内閣総理大臣が決定する」という文言が付加されています
* 第56条(表決及び定足数):「両議院の議決は、各々その総議員の三分の一以上の出席がなければすることができない」という文言が付加されています
* 第63条(内閣総理大臣等の議院出席の権利及び義務):出席義務に、「職務上の遂行上特に必要がある場合は、この限りでない」という但し書きが付加されている
⇒ 重要な外交日程と国会での審議日程が重なる場合、その重要度に応じてどちらを優先するか決められるようにする根拠を提供することになります
* 第64条の二(政党):憲法草案では第54条に、第二項として以下を加えました;
「国は、政党が議会制民主主義に不可欠の存在であることに鑑み、その活動の公正の確保及びその健全な発展に努めなければならない」
「政党の政治活動の自由は、保障する」
①、②に定めるもののほか、「政党に関する事項は、法律で定める」

第五章 内閣 
<改正草案と現憲法の比較、及び論点>
以下の部分以外は、若干の文言の追加、訂正であり、論点にはならないと思われます
* 第66条(内閣の構成及び国会に対する責任):現憲法で内閣総理大臣及びすべての国務大臣は「文民」でなければならないとしていますが、改正草案では「現役の軍人であってはならない」と文言を変更している
⇒ 敗戦前の日本では、陸軍大臣、海軍大臣は現役軍人が勤めており、これが軍主導の政治運営を導いたという考え方もあり、現憲法の「文民」の解釈については紆余曲折がありましたが、現在では現役の自衛官でなければよいという事になっています

* 第70条(内閣総理大臣が欠けた時の内閣の総辞職等):現憲法にはない「内閣総理大臣が欠けたとき、その他これに準ずる場合として法律で定めるときは、内閣総理大臣があらかじめ指定した国務大臣が、臨時に、その職務を行う」という文言が付加されています
⇒ 第72条に国防軍の最高指揮官と決められており、有事にあってはこの職務を瞬時に代行することが必要となるため、当然の条文と考えられます
* 第72条(内閣総理大臣の職務):改正草案に新たに「内閣総理大臣は、最高指揮官として、国防軍を統括する」という文言が付加されています
⇒ いずれの国も国防軍を統括するのは国の最高権力を握っている人となっているので、当然の条文と考えられます

第六章 司法 
<改正草案と現憲法の比較、及び論点>
若干の文言の追加、訂正であり、論点にはならないと思われます

第七章 財政 
<改正草案と現憲法の比較、及び論点>
以下の部分以外は、若干の文言の追加、訂正であり、論点にはならないと思われます
* 第83条(財政の基本原則):改正草案には「財政の健全性は、法律の定めるところにより、確保されなければならない」という文言が付加されています。尚、この文言については地方自治体財政の基本原則にも加えられています ⇒ 法律で具体的な基準が決められない限り、この条文は精神条項になってしまうのではないかと考えられます
* 第86条(予算):改正草案には以下の条文が付加されていますが、これらは 現在既に運用として行われています;
内閣は、毎会計年度中において、予算を補正するための予算案を提出することができる
予算案の議決が得られないときは、暫定期間に係る予算案を提出しなければならない
毎会計年度の予算は、法律の定めるところにより、国会の議決を経て、翌年度以降においても支出することができる
* 第91条(決算の承認等):現憲法で、国の収支決算については、会計検査院が検査を行った後に国会に提出することを義務付けているものの、検査結果の取り扱いについてはなにも決められていません。改正草案では、「検査結果の内容を予算案に反映させ、国会に対し、その結果について報告しなければならない」という条項を付加しています
⇒ ビジネスの基本である“PDCA”(Plan→Do→Check→Action)の考え方に立てば、会計検査院の厳しい検査が財政健全化に役立つ可能性も考えられます

第八章 地方自治 
<改正草案と現憲法の比較、及び論点>
* 現憲法の第92条~第95条:改正草案では、新たに以下の条項が付加されています;
① 地方自治は、住民の参画を基本とし、住民に身近な行政を自主的、自律的かつ総合的に実施することを旨として行う
② 住民は、その属する地方自治体の役務の提供を等しく受ける権利を有し、その負担を公平に分担する義務を負う
③ 地方自治体は、基礎地方自治体及びこれを包括する広域地方自治体とすることを基本とし、その種類は法律で定める
道州制を全国に導入することを視野に入れていることが窺えます
④ 国及び地方自治体は、法律の定める役割分担を踏まえ、協力しなければならない。地方自治体は、相互に協力しなければならない
⑤ 地方自治体の経費は、条例の定めるところにより課する地方税その他の自主的な財源をもって充てることを基本とする
⑥ 国は、地方自治体の自主的な財源だけでは地方自治体の行うべき役務の提供ができないときは、法律の定めるところにより、必要な財政上の措置を講じなければならない

第九章 緊急事態 
<改正草案の論点>
* 現憲法にはこの章は存在しません。以下は、憲法草案で新たに加えられた条文となります
* 第98条(緊急事態の宣言)
内閣総理大臣は、わが国に対する外部からの武力攻撃内乱等による社会的秩序の混乱地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる
緊急事態の宣言は、法律の定めるところにより、事前又は事後に国会の承認を得なければならない
内閣総理大臣は、前項の場合において不承認の議決があったとき、又は事態の推移により当該宣言を継続する必要がないと認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、当該宣言を速やかに解除しなければならない。また、百日を超えて緊急事態の宣言を継続しようとするときは、百日を超えるごとに、事前に国会の承認を得なければならない
②、③の国会の承認に際して、両院で異なった議決をした場合、法律の定めるところにより、両院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は参議院が、衆議院の議決した案を受けた後、国会休会中の期間を除いて5日以内に、議決しないときは、衆議院の議決を国会の議決とする(第60条二項の規定の準用)
* 第99条(緊急事態の宣言の効果)
① 緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分をを行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる
② 前項の政令の制定及び処分については、法律の定めるところにより、事後に国会の承認を得なければならない
③ 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に関わる事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない。この場合においても第14条(法の下の平等)、第18条(身体の拘束及び苦役からの自由)、第19条(思想及び良心の自由)、第21条(信教の自由)、その他の基本的人権に関する規定は、最大限尊重されなければならない
④ 緊急事態の宣言が発せられた場合においては、法律の定めるところにより、その宣言が効力を有する期間、衆議院は解散されないものとし、両議院の議員任期及びその選挙期日の特例を設けることができる
⇒ 緊急事態が発生した時に、国の最高権力者が既存の法律をオーバーライドする命令を発することができる仕組みは、他の国においても“非常事態宣言”、“戒厳令”などの形で取り入れられており、この様な条文を憲法に組み込むことは不自然なことではないと考えられます。ただ、わが国においては戦時下に於ける人権侵害、厳しい統制経済などの暗い歴史があったことから、法律をオーバーライドする命令を発する事態はどのようなことが考慮されるべきか十分に議論を尽くす必要があると考えられます;
* 外部からの武力攻撃:現在考えられるケースは、「中国が一方的に尖閣列島に上陸を試みた場合」、「北朝鮮がミサイル攻撃を仕掛けてきた場合」、「中国が台湾海峡を渡って大規模に侵攻してきた場合」、等ですが、漁船、その他の船舶に対する航行禁止などの強制命令、ミサイル着弾の可能性がある地域住民に対する避難命令、空域・航路の大規模な規制、などは相当の強制力をもって実行する必要があると考えられます
内乱等による社会的秩序の混乱:日本では未だ発生していませんが、大規模なテロ攻撃があった場合、捜査やテロ集団の排除などで一般市民に対して既存の法律の枠を超えた規制を行う可能性が考えられます
地震等による大規模な自然災害:多くの人命が失なわれた“阪神・淡路大震災”、“東日本大震災”の経験を踏まえると、救助活動、消火活動、補給体制、交通網の整備、など既存の謂わば“縄張り”を越えた総合的な取り組みが必要だった考えられます。例えばいつ起きてもおかしくないと言われている東南海大地震に対し、内閣総理大臣を指揮官とする自衛隊の命令系統の積極的な活用など、検討する必要があるのではないでしょうか
その他の法律で定める緊急事態:東日本大震災により発生した“福島原子力事故”の失敗の教訓(内閣総理大臣の役割、事業者の役割、専門家の定義と役割、など)を生かす必要があると思われます

第十章 改正 
<改正草案と現憲法の比較、及び論点>
第百条(現憲法では第96条となっています);
現憲法:各議員の総議員の三分の二以上の賛成で、国会がこれを発議し、国民投票又は国会の定める選挙の際に行われる投票において、過半数の賛成を必要とする
改正草案:衆議院又は参議院の議院の発議により、両議院のそれぞれの総議員の過半数の賛成で国会が議決し、法律の定めるところにより行われる国民投票において有効投票数の過半数の賛成を必要とする

第十一章 最高法規(現憲法では“第十章”となっています)
<改正草案と現憲法の比較、及び論点>
以下の部分以外は、若干の文言の追加、訂正であり、論点にはならないと思われます
現憲法の第97条:「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」は憲法草案では削除されています
⇒ 過去に於いて基本的人権が踏みにじられた歴史がある事は事実であるものの、残すととすれば前文の方が相応しいかもしれません

現憲法の99条:「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」に替わって、
改正草案・第102条:「全ての国民は、この憲法を尊重しなければならない」、「国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う」
⇒ 13世紀イギリス国王の権利を制限した“マグナカルタ”が憲法の役割の基本とすれば、国民に尊重義務を課すことの是非について議論になることが考えられます

付則(現憲法では“第十一章 補足”となっています) 
論点にはならないと思われます

民主党憲法提言(2005年10月31日)-

民主党が発行した憲法に関する最新の文書は、2013年6月に発効された参議院選挙向けのマニフェストですが、たった半ぺージ程度のものなので、ここでは2005年に出された表記提言を基に検討したいと思います。尚、維新の会との合併を経て生まれた民進党の憲法に関わる文書は現在発行されていません

民主党憲法提言では、自民党憲法草案の様な条文ごとの具体的な条文ごとの改正案は作られていないので、提言の中の重要部分を適宜抽出して分類、記述してみたいと思います。尚、抽象的な表現(例えば“未来志向の憲法”など)は省くこととします

新しい憲法の構成
* 憲法とは、主権者である国民が、国家機構等に公権力を委ねるとともに、その限界を設け、これをミスからの監視下に置き、コントロールするための基本ルール
* 憲法は、世界に対して国のあり方を示す一種の「宣言」としての意味合いを持ち、① 日本国民の「精神」あるいは「意思」を謳った部分と、② 人間の自立を支え、社会の安定を確保する国の活動を律する「枠組み」あるいは「ルール」を謳った部分とで構成される

新しい憲法が目指す五つの基本目標
自立と共生を基礎とする国民が、自ら参画し責任を負う新たな国民主権社会を構築する
② 世界人権宣言及び国際人権規約をはじめとする普遍的な人権保障を確立し、併せて環境権知る権利生命倫理などの「新しい権利」を確立すること
③ 日本から世界対するメッセージとしての「環境国家」への道を示すとともに、国際社会と協働する「平和創造国家」日本を再構築すること
活気に満ち主体性を持った国の統治機構の確立と、民の自立力と協働の力に基礎を置いた「分権国家」を創出すること
⑤ 日本の伝統と文化の尊重とその可能性を追求し、併せて個人、家族、コミュニティー、地方自治体、国家、国際社会の適切な関係の樹立、すなわち重層的な共同体的価値意識の形成を促進すること
これらは憲法前文に入れるイメージかもしれません。全体として定義がはっきりしない言葉が羅列されている印象を受けますが、特にアンダーラインを引いた部分が具体的にどういうことを言わんとしているか分かりません。憲法の条文には誰でも誤解なく理解できる文章とするのが適切なのではないでしょうか

憲法の「空洞化」を阻止し、「法の支配」を取り戻す
憲法解釈が時の政権によって平然として変更され、「憲法の空洞化」が叫ばれるようになっている。この傾向に歯止めをかけて、憲法を鍛えなおし「法の支配」を取り戻す
⇒ 憲法解釈が変更されたところは、具体的には第9条の自衛権に関わる部分と思われますが、これは空洞化ではなく憲法違反、又は憲法の拡大解釈と表現すべきであって、空洞化とは言わないのではないでしょうか、また憲法を鍛えなおすとどうして法の支配が取り戻せるのか理解に苦しむところです

内閣総理大臣主導の政府運営の実現
① 憲法第5章(内閣)における主体を「内閣総理大臣」とするとともに、第65条における「行政権」を「執政権」に切り替え、首長としての内閣総理大臣の地位と行政を指揮監督する首相(内閣総理大臣)の権限を明確にする
⇒ 解釈が難しい文章ですが、言葉の意味としては、「執政権」とは「国家目標を定め、目標を達成するための計画を策定し、計画の実現のためのに政策を決定し、政策を実施するための行政各部へ指揮監督を行うこと」であり、「行政権」とは「法律を具体的に執行したり、政策を実施すること」となるようです。現憲法では両方を区別することなく第5章(内閣)第65条~第75条に両方の権限が網羅されています
②政治主導・内閣主導の政治を実現するため、内閣法や国家行政組織など憲法付属法の見直しを行い、政治任用を柔軟なものにし、首相の行政組織権を明確なものにする
⇒ 憲法を変えなくてもできるのではないか、憲法を変え必要があるあれば何処を変えればよいのか不明確です
③ 現行の政官癒着構造を断ち切り、個々の議員と官僚の接触を禁止するなどの「政官関係のありかた」についてさらに検討し、その規定を明確にする
⇒ ②と同様

議会の機能強化と政府・行政監視機能の充実
① 行政府の活動に関する評価機能をも併せ持った「行政監視院」を設置するなど、専門的な行政監視機構を整備する。政府から独立した第三者機関とするのか、議会の下に設置するかについては、更に検討を要する
② 憲法上の規定があいまいなまま行政府が所管しているいわゆる独立行政委員会(人事院、公正取引委員会、国家公安委員会、公害等調整委員会、司法試験管理委員会など)については、その準司法的機関としての性格を踏まえ、内閣とは別の位置づけを明確にする。その上で、それらに対する議会による同意と監視の機能を整備する。
③ 国政調査権を少数でも行使可能なものにし、議会によるチェック機能を強化する
⇒ 現憲法第62条に両議院に権限があることが謳われており、憲法の改正を行わなくても国会法の改正で対応可能と考えられる
④ 二院制を維持しつつ、その役割を明確にし、議会の活性化につなげる。例えば、予算は衆議院、行政監視は参議院といった役割分担を明確にするとともに、各院の選挙制度についても再検討する
⇒ 憲法第四章(国会)の大規模な改正が必要になります
⑤ 政党については、議会制民主主義を支える重要な役割に鑑み、憲法上に位置付けることを踏まえながら、必要な法整備を図る
⇒ 自民党改正草案に具体的な改正案が入っています
⑥ 選挙制度については、政治家や政党の利害関係に左右されないよう、その基本的枠組みについて憲法上に規定を設ける
⇒ 自民党改正草案に具体的な改正案が入っています

違憲審査機能の強化及び憲法秩序維持機能の拡充
① 新たに憲法裁判所を設置するなど違憲審査機能の拡充を図る
② 行政訴訟法制の大胆な見直しを進めると同時に、憲法に幅広い国民の訴訟権を明示する
国家緊急権を憲法上に明示し、非常事態においても、国民主権や基本的人権の尊重などが犯されることなく、その憲法秩序が確保されるよう、その仕組みを明確にしておく
⇒ 自民党改正草案に具体的な改正案が入っています

公会計、財政に関する諸規定の整備・導入
① 責任の所在があいまいな現行の国の財政処理の権限については、国会の議決の基づいて、内閣総理大臣が行使することを明確にする
⇒ 現在の予算、決算に関わる憲法の規定で何が不足しているのか不明確です
② 内閣総理大臣に、国の財政状況、現在及び将来の国民に与える影響の予測について、国会への報告を義務付ける。また、予算については、複数年度にわたる財政計画を国会に報告し、承認を得る
③ 会計検査院(または新たに設置された行政監視院等)の報告を受けた国会は内閣に対して勧告を行い、内閣はこの勧告に応じて必要な措置を講ずることを明記する
⇒ 自民党改正草案に、前年度決算に関わる会計検査院の検査結果を、次年度の予算に反映させることを義務付ける条文があります

国民投票制度の検討
* 議会政治を補完するものとして、国民の意見を直接問う国民投票制度の拡充を検討する

人間の尊厳を尊重する
① 自分の生命に関わる権利の尊重:人体とその一部の利用は無償に限ること;プライバシー保護、生殖医療・遺伝子技術濫用の禁止自己の生命に関わる自己決定権の検討、など
② あらゆる暴力からの保護:ドメスティックバイオレンス、ハラスメント、人身売買
③ 犯罪被害者の人権保護 ⇒ 自民党改正草案にあります
④ 子どもの権利と発達の保障
⑤ 外国人の人権の保障 ⇒ 自民党改正草案にあります
⑥ 信教の自由、政教分離の原則の厳格な維持 ⇒ 現憲法にあります
⑦ あらゆる差別をなくす規定の検討
⑧ 人権保障のための独立性の高い第三者機関の設置

共同の責務を果たす社会に向かう(国民の義務という概念に変えて「共同の責務」という考え方の導入)
① 地球環境保全・環境優先
② 自然環境の維持向上
③ 未来への責任を果たす
④ 公共のための財産権の制約(土地資源/自然景観、自然エネルギーを正当な補償の下に制約する)
⑤ 曖昧な公共の福祉を再定義する(←公共の福祉の名目で一律に人権を制約すべきでないこと)

情報社会と価値意識の変化に対応する「新しい人権」を確立する
① 情報アクセス権の確立(←国民の知る権利)
② 情報社会に対応するプライバシー権の確立 ⇒ 自民党改正草案にあります
③ 情報リテラシーの確保(←生涯学習)
④ 勤労の権利を再定義し、国や社会の責務を明確にする(←自由な労働市場の確保、職業訓練機会の保障、無償労働参加への保障、など)
⑤ 知的財産権の明確化 ⇒ 自民党改正草案にあります

国際人権保障の確立
① 「国際人権規範」(←国連人権委員会)の尊重を明確に謳う
② 「国際人権規範」に対応する国内措置を義務付ける

多様性に満ちた分権社会の実現
① 「補完性の原理」(公的部門負うべき責務は、もっとも市民に身近な公共団体が執行する/コミュニティー基礎自治体→広域自治体→国)を実現する
中央政府は外交・安全保障、全国的な治安維持、社会保障制度を担当その他は基礎自治体、広域自治体に権限を配分する。自治権侵害の司法的救済は「憲法裁判所」が「補完性の原理」を裁判規範として審査する
③ 自治体の立法権限を強化する
④ 住民自治に根差す多様な自治体のあり方を認める:現在の“二元代表制”(首長と議員が両方とも直接選挙で選出される仕組み)だけでなく、“議院内閣制”、“執行委員会制”、“支配人制”などの多様な組織形態を認めること、及び住民投票制度の積極的活用、など
⑤ 財政自治権・課税自主権・新たな財政調整制度を確立する(現在の地方交付税制度に代えて)

より確かな安全保障の枠組みを形成するために
1.基本的考え
① 平和主義を憲法の根本規範とし、平和を享受する日本から「平和創造国家」へ転換する
② 内閣法制局による憲法解釈に頼ることなく、「制約された自衛権」、「国際貢献のための枠組み」を明確化する。また国際社会が求めている「人間の安全保障」についても積極的な役割を明確化する

2.安全保障にかかわる四原則
① 戦後培ってきた「平和主義」に徹する。国際平和を脅かすものに対しては国連主導の国際活動と協調する
② 国連憲章上の「制約された自衛権」について明確にする。自衛権の行使を、国連憲章51条に記された「国連の集団安全保障活動が作動するまでの、緊急避難的な活動」に限定する
⇒ 戦後、国連による集団安全保障活動が殆ど実行できなかった(←常任理事国の拒否権発動)歴史をどう考えるのか明らかにする必要があります
③ 参加すべき国連の集団安全保障を明確にする:国連多国籍軍の活動、国連平和維持活動への参加を可能にする
シビリアンコントロールの考えを明確にする:指揮権、及び緊急時の指揮権発動手続き、国会による承認手続き、などを明確化する
⇒ 自民党改正草案にあります

3.安全保障に関わる二条件
① 武力行使につぃては最大限抑制的であること:国連安全保障活動や武力行使に関わるガイドラインを定める
② 憲法付属法として「安全保障基本法(仮称)」を定める:上記のガイドラインの他、「人間の安全保障」、シビリアンコントロール、国連待機部隊の組織整備、緊急事態に関わる行動原理、などの規定を整備する

日本共産党綱領(2004年1月17日)-

日本共産党には、1946年に出された社会主義革命を前提とした過激な憲法改正草案がありますが、その後、暴力革命の否定など数度にわたる綱領の大幅な変更があり、この改正草案は意味をなさなくなっています。しかし、2004年に漸進的な革命を前提とした現在の綱領が作成され、現在はこの綱領に基づいて政党活動を行っていますので、現在の憲法論議のベースになっている考え方を、この綱領から抜粋してみたいと思います

目指す政治形態について
日本社会が必要としている変革は、社会主義革命ではなく、対米従属、大企業・財界の横暴な支配を打破し真の独立の確保と政治・経済の民主主義的な改革の実現を内容とする「民主主義革命」である。民主主義革命への道は;
① さしあたって、一致できる目標の範囲で統一戦線を形成し、統一戦線の政府を作るために力を尽くす
② 統一戦線の勢力が、国民多数の支持を得て、過半数を占めた時に民主連合政府を作る
③ 最終的には社会主義的変革が課題となる。この変革の中心は、主要な生産手段の社会化(統制経済は否定される)であるが、生活手段については、私有財産が保障される。

安全保障、外交について
日米安保条約を廃棄し、非同盟国の道を歩む
② 自衛隊は海外派兵を止めることなどにより縮減させる。最終的には憲法9条の完全実施により自衛隊は解消する

憲法について
現行憲法の前文を含む全項目を守る
② 国会を最高機関とする議会制民主主義体制を堅持する
③ 18歳選挙権の実現。現在の選挙制度、行政機構、司法制度は改革を行う
④ 住民が主人公の地方自治を確立する
⑤ 基本的人権の抑圧の企ての排除、労働基本権の全面的擁護、思想・信条の違いによる差別の排除を行う
⑥ 男女の平等、女性の社会的進出、法的な地位を高めることを実現する
⑦ 憲法の平和と民主主義の理念を生かした教育制度・行政の改革を行う
⑧ 科学、技術、文化、芸術、スポーツの発展を図る
⑨ 信教の自由、政教分離を徹底する
⑩ 汚職・腐敗・利権の政治を根絶するために企業・団体献金を禁止する
⑪ 天皇の世襲制、国民統合の象徴という部分は、民主主義、人間の平等の原則から受け入れられない。天皇制の存廃は、将来、情勢が熟した時に、国民の総意によって解決すべきである

公明党の憲法改正に関わるスタンス(2016年)-

公明党については、現在は独自の憲法改正案を持っていません。自民党との連立政権の合意事項の中で、国会の「憲法審査会」でしっかり議論をすることとしていますので、ネット上に公開されている幾つかの原則を列記することとします

1.現憲法の枠組みは維持し、時代の進展に伴って提起されている以下の理念を追加する;
環境権
プライバシー権
地方自治の拡充

2.憲法9条について;
戦争放棄を定めた第1項、戦力の不保持を定めた第2項は維持すると同時に、自衛のための最小限度の実力組織としての自衛隊の存在を明記する。国際貢献のあり方についても改正議論の中で検討していく

3.憲法改正手続きを定めた憲法第96条については、この条文単独での改正を目指すのではなく、他の改正案を含めた全体で議論することが望ましい

おおさか維新の会憲法改正原案(2016年3月24日)-

大阪維新の会は、現憲法の条文に沿って改正原案(追加、修正)を作っているので、以下に列記します(→以下の条文以外は現憲法を変えない)

* 憲法第26条(教育を受ける権利、教育の義務及び学校教育の無償)
① 現憲法の「すべての国民は、法律の定めるところにより、その“能力”に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」という条文を、改正原案では、「、、、、その“適性”に応じて、、、、有し、“経済的理由によって教育を受ける機会を奪われない”」と修正しています
② 改正原案では、「法律に定める学校における教育は、すべて公の性質を有するものであり、幼児期の教育から高等教育に至るまで、法律の定めるところにより、無償とする」という条項を追加しています

第五章の二 憲法裁判所(新設)
憲法裁判所は、一切の法律、命令、条例、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する第一審にして終審の裁判所である
内閣総理大臣またはいずれかの議員の総議員の四分の一以上の議員で、憲法に適合するか否かの訴えを提起することができる
通常の裁判所は、取り扱っている事件について、当事者からの申し立て、又は職権により憲法裁判所に判断を求めることができる
憲法により権限を定められている機関は、その権限の存否又はその行使に関する紛争について憲法裁判所に訴えを提起することができる
⑤ 憲法裁判所の判決で憲法に適合しないとされた法律、命令、条例、規則又は処分は、判決により定められた日に、効力を失う
⑥ 憲法裁判所の判決は、すべての公権力を拘束する
⑦ 憲法裁判所の12人の裁判官は、衆議院参議院最高裁判所それぞれ4人を任命する
⑧ 憲法裁判所の裁判官は、識見が高く、法律の素養のある者の中から任命されなければならない
憲法裁判所の長は、12人の裁判官の互選した者について、天皇が任命する
⑩ 憲法裁判所の裁判官の任期は6年とし、再任されることはできない
⑪ 憲法裁判所の裁判官は、良心に従い独立してその職権を行い、この憲法および法律にのみ拘束される
⑫ 憲法裁判所の裁判官は、裁判により、心身の故障のために職務を執ることが出来ないと決定された場合を除いては、公の弾劾によらなければ罷免されない。憲法裁判所の裁判官の懲戒処分は、行政機関がこれを行うことは出来ない
⑬ 憲法裁判所の裁判は、公開法廷で行なう
⑭ 憲法裁判所は、訴訟に関する手続き並びに内部規律及び事務処理に関する事項について、規則を定める権限を有する

第八章 地域主権(現憲法の“第八章 地方自治”に相当する)
① 自治体は、基礎自治体及びこれを包括する広域自治体としての道州とする
② 自治体の組織及び運営については、団体自らの意思と責任の下でなされる(団体自治の原則)
③ 国、道州及び基礎自治体の役割分担は、“補完性の原則(民主党提言参照)”に基づく。国は国家としての存立関わる事務その他の国が本来果たすべき役割を担うものとする
④ 自治体の組織及び運営は、自治体の条例で定める
⑤ 道州内における基礎自治体の種類、区域その他の基本事項は、道州条例で定める
⑥ 自治体には、条例その他重要事項を議決する立法機関として、議会を設置する
⑦ 自治体には、その自治体を代表する執行機関として、道州にあっては知事、基礎自治体にあってはを設置する
⑧ 議会の議員、知事又は長及び自治体の条例で定めるその他の公務員は、その自治体の住民であって日本国籍を有する者が、直接これを選挙する
⑨ 自治体は、その財産を管理し、事務を処理し、行政を執行する権能を有し、この憲法に特別の定めがある場合を除き、法律の範囲内で条例を制定することができる
⑩ ③の規定による国が担う役割に関わる事項以外の、法律で定める“道州所管事項”については、法律に優位した条例(優先条例)を制定することができる
⑪ 自治体は、その自治体の地方税の賦課徴収に関する権限を有する
⑫ 自治体が地方税その他の自主的な財源ではその経費を賄えず、財政力に著しい不均衡が生ずる場合には、道州にあっては道州相互間で、自治体にあってはその基礎自治体を包括する道州内で、財政調整を行う
⑬ 国、道州及び基礎自治体の相互間における権限の存否又はその行使に関する紛争についての訴訟その他法律で定める事項は、憲法裁判所で処理するものとする

以上

ステルス戦闘機とは

-はじめに-

上記の写真は、2016年4月22日に初飛行を果たした国産の“先端技術実証機”が名古屋空港を離陸する時の姿です。航空自衛隊の主力戦闘機であるF15JやF2支援戦闘機(地上及び海上支援)の後継機としてステルス性の高い(敵レーダーに発見されにくい)航空機が求められていることから、日本のこの分野での技術基盤を確立する為に開発されてきた航空機です。機体は三菱重工、エンジンは石川島播磨重工が開発を担当しました。
新聞等に登場する第?世代の戦闘機という表現は、定義がやや曖昧ですが、ステルス性電子装備、戦闘能力などの面で、どれだけ能力が高いかでランク付けがされています。現在、米軍や航空自衛隊で主力の戦闘機として活躍している、F15、F/A18、などは第4世代、F2やF15改良型、F/A18改良型は第4.5世代、米軍しか保有していないF22、自由主義陣営の航空先進国で共同開発したF35第5世代の航空機とされています。因みに今年から日本にが導入されるF35は、ベトナム戦争のころ大活躍したF4(ファントム)を更新する機材として導入されます

F35A_自衛隊
F35A_自衛隊

先週の新聞に、ボーイング社が航空自衛隊の次期戦闘機の共同開発を提案してきたという記事が出ていました。F35の例でも分かる様に、第5世代戦闘機の開発には巨額の投資が必要で、米国ですら共同開発を選択せざるをえなかったほどです。ご存知の方も多いと思いますが、日本はF35導入を決める前に、今もなお最強の戦闘機であるF22の導入を打診したことがありましたが、米国議会の反対にあって導入ができませんでした。基幹技術の海外流出には、国の生存が関わっているのでやむを得ない事かな、というのが私の感想です。因みに、現在韓国が戦闘機の開発を行っていますが、要となる装備品の提供を米国に拒否され、当初目指していた性能は出せなくなっている様です

振り返ってみれば、自衛隊のF1支援戦闘機の後継機で日本は自主開発を目指しましたが、日米の貿易摩擦の影響で、要となるエンジンの提供が得られず、F16をベースとした日米共同開発となってしまった歴史があります。今回の“先端技術実証機”の開発では、機体とエンジンを全て自主開発しているので、量産型機の自主開発が可能かとも考えられますが、巨額の投資が必要なこと(特に日本では自主開発しても輸出することが極めて難しい事情も重なります)、電子装備品で一部米国に頼らねばならない可能性もあり、米国との共同開発が最適の選択だと私は考えます。尚、“先端技術実証機”のステルス性、エンジンの先端性が、F22と同レベルか凌いでいれば、F22の導入が米国議会で承認される可能性も考えられます。ロシアが開発中の第5世代戦闘機“T50”の開発配備状況、米国の主力戦闘機であるF15、F/A18の後継機の検討状況によっては、F22の導入に道が開けるかもしれません

第5世代の戦闘機の導入は、自主開発にしろ、F22の導入にしろ巨額の資金が必要となることは言うまでもありません。今後この計画が具体化するにつれ、導入資金額を単純に福祉予算や災害復旧予算と比較する議論も昔と同様盛んになると思われます。しかし私は、「専守防衛」を国是にしている日本には絶対に必要な防衛装備であると考えています。何故なら、装備の劣る仮想敵の侵略の意図を挫くことができると同時に、仮に理不尽な敵の侵略があった場合でも、数で劣る自衛隊員の命の損耗を回避することによって戦力の維持が可能になるためです

最近は少しましになりましたが、日本で防衛に関する議論をする時に、具体的な数字の議論を避ける傾向があります。確かに防衛装備というものは、如何に敵に勝る攻撃力があるか(⇔殺傷能力が高いか)議論するわけですから、70年以上平和に暮らしてきた日本人にとっては相当違和感のある話である事は確かです。しかし、巨額の税金を投じる以上、その投資効果について国民一人一人が避けずに議論することが必要であると考えます

先の大戦の初めの頃、「ゼロ戦」は無敵を誇り、パイロットの損耗率は殆どゼロだったと言われています。これは「ゼロ戦」の速度航続距離旋回性能が卓越していたからです。日本が無残な敗戦に至る過程で、米軍のレーダーによる索敵能力の向上、米軍戦闘機の性能向上があったことで、「ゼロ戦」の卓越性が失われ、“優秀なパイロットの損耗制空権の喪失”という負の連鎖がありました
現在の戦闘機にこれを当て嵌めれば、「ステルス性能」と「飛行性能」が卓越性のカギを握っています。偶々、現役時代から愛読している“Aviationweek & Space Technology” の2016年7月4~7日号に、「ステルス性能」と「飛行性能」について、F22とF35の比較が出ていましたので紹介いたします。尚、出来るだけ平易な日本語にするため、若干の意訳を交えたことを予めお許し頂ければ幸いです

-ステルス性能の基礎知識- 

ステルス性能とは;
ステルス性能とは:敵レーダーに発見されにくい性能
レーダーによる探知とは:電波を発射し、目標物から反射してくる電波をキャッチして、目標物の速度、進行方向、大きさ、などを探知すること
レーダーからの反射波は、レーダーの送信機や受信機の内部で発生するノイズやクラッターの影響を受けるので、反射波の信号強度がこれらよりも大きくないと目標物を発見できません
レーダーのクラッター(Clutter)とは:目標物以外の地面、海面、雲、雨などからのの反射波

ステルス性能を表す尺度  : 「“RCS”/Radar Cross Section」といい、形、大きさ、電波の反射率、などに違いがある目標物を、標準となる金属製の球の断面の反射波と比較して標準化した指数です
RCSによるステルス性能の比較
**人間のRCSは1㎡
**第4世代航空機:10~15㎡
**第4.5世代航空機:1~3㎡
**第5世代航空機:ゴルフボールの断面(0.0014㎡)以下

*2014年から配備を始めたロシアの最新鋭機(SU35)が装備しているレーダーは400km先のRCS:3㎡の目標物を探知できるとされており、これを上記に当てはめると、SU35が探知可能となる距離は概略以下の通りです;
**第4世代航空機:540~600km先から探知可能
**第4.5世代航空機:300~400km先から探知可能
**第5世代航空機/F35:58km先から探知可能
**第5世代航空機/F22:36km先から探知可能

従って、F35、F22が装備している空対空ミサイルAIM120は100km以上の距離から発射できるので、SU35に発見されない間に発見し撃墜することが可能となります。また、ロシアの最新鋭の地対空ミサイル(S-400;射程380km)とセットになっているレーダーの能力はRCS:4㎡の目標を250km先から探知可能とされており、F35、F22は地上からの攻撃に対しても十分なステルス性能を持っているという事が出来ます(ロシアのデータはいずれも米軍専門家による推定値)

RCSの値は、レーダー波の周波数、目標物は形状、見る角度などで異なります。
**レーダー波の周波数については、現在の火器管制レーダー(索敵、ミサイルの目標追尾、など)で使用されている周波数がXバンド(8~12ギガヘルツ)帯なのでこの周波数帯が一番重要となりますが、他の周波数帯でのステルス性も重要です
**目標物を見る角度は、実際の航空機の飛行高度、レーダーの運用条件などを考えると、水平方向:±45°、上下方向:±15°が重要になります

-ステルス性能を向上させる手段-

ステルス性能を向上させるには、 レーダー波の反射波を敵レーダーに向かわせない形状にすることと、 レーダー波を吸収させること の二つの方法があります。通常①の方法の寄与率が90%、②の方法の寄与率が10%と言われています

レーダー波の反射波を敵レーダーに向かわせない形状
レーダー波が入射する方向と反射する方向との関係は、ビリヤードのボールが、縁で撥ねかえる様子(入射角と反射角が等しい)を想像すればいいと思います。つまり直角に当たらない限り入射した方向には反射しないということです
従って、エンジンの空気取り入れ口コックピットレーダー波が反射を繰り返す様な複雑な構造は、レーダー波の入射方向に反射してしまう可能性が高くなります
エンジンの空気取り入れ口の反射を防ぐ方法には、網状のシールドの設置取り入れ口内部にブロッカー設置蛇の様に曲がりくねった空気取り入れ口の構造などがあります
第4世代機までは、装備されている武器類(爆弾、ミサイル)、補助燃料タンクなどはパイロンと言われる構造で主翼や胴体に吊るされていますが、これらはステルス性能に悪影響を与えますので、第5世代機では胴体内に格納することにしています(→結果として機体のサイズが大きくなる)。
ミサイルは丸い胴体で、尾部に十字型の安定翼があり且つ前部には目標を追尾するレーダーが装備されている為、レーダーを反射しやすい形状になっています
翼の前縁(Leading Edge)や後縁(Trailing Edge)、翼端(Wing Tip)はどうしてもレーダーの入射方向に反射してしまう部分ができるので、空気力学的な性能を犠牲にしても可能な限りナイフのように鋭い形状にします

F22:ナイフの様な翼前縁部
F22:ナイフの様な翼前縁部

胴体の面、動翼の面、翼の前縁・後縁、割れ目、などからの反射波が出来るだけ限られた角度に集中するように全体のデザインを調整します

② レーダー波を吸収させる方法;
レーダー波は電磁波(一般的には“電波”と呼んでいます)なので、金属などの導電体に当たるとそこに高周波電流が流れます(←ラジオやテレビのアンテナはこの原理で電波の信号を受け取っています)。この電気エネルギーを熱に変えてレーダー波のエネルギーを吸収させる導電体のことを“RAM(Radar Absorbent Material)”と言います
コックピットのキャノピー(操縦席を覆う風防)には極薄(数ナノメートル程度)の導電性の金属膜(金、または“酸化インジウム・スズ”)で覆われています。“酸化インジウム・スズ”とは、酸化インジウムに数パーセントの酸化スズを混ぜたもので、液晶パネルや有機ELパネルに使われている材料です
機体の外装面上をレーダー波が通過すると、外装面に高周波電流が流れます。この電流が外装面(RAMで覆われている)の材料の繋ぎ目などで遮断されると、これが電波として再び放射されます(高周波電流の流れる距離が長ければ熱になって減衰する為に電波の再放出を防ぐことができます)。従って、こうした場所(例えば武器庫や降着装置のドア類、アアクセスパネルなど外板との繋ぎめ)には導電性のテープを張る、あるいは導電性物質の詰め物をして高周波電流が長い距離流れるようにする必要があります

上:F22 下:F35
上:F22 下:F35

-F35とF22の性能の比較-

*F35A:日本が今年導入するタイプ。他にF35B(垂直離着陸可能)、F35C(航空母艦の艦載機)のタイプがあります
*F22A:実戦配備済みのタイプ
F35はF22と比べてコストを下げる為に設計上かなりの妥協を行っています

両機のステルス性能、戦闘能力、価格の違いは以下の通りです;
① 有視界を超える遠距離での戦闘能力
**RCS:F22A/0.0002㎡ ⇔ F35A/0.0013㎡
**装備レーダーRCS 1.0㎡ の目標物を探知できる距離:F22A/240km ⇔ F35A/207km

② 有視界での戦闘能力;
**翼面荷重(小さい程俊敏に動ける):F22A/317kg/㎡ ⇔ F35A/420kg/㎡
**エンジン推力の方向制御(可能であれば予測が難しい運動が可能):F22A/可能 ⇔ F35A/不可能
**迎え角の限界(大きい程運動能力が高い):F22A/限界無し(垂直に上昇できる⇔機体重量より推力が大きい) ⇔ F35A/50°まで
**Distributed Aperture System(最新の電子工学分散開口システム;6つの赤外線カメラで捉えた映像を合成して前後・左右・上下の死角をなくすことができる):F22A/無し ⇔ F35A/有り

③ 空対空ミサイルの内臓数(機体内に内蔵);
**AIM120(長距離用):F22A/6基 ⇔ F35A/4基(6基に改造可能)
**AIM9(短距離用/サイドワインダー):F22A/2基 ⇔ F35A/無し

④ 地上攻撃用兵器の搭載能力
**大型爆弾搭載能力;F22A/1,000ポンド爆弾2基 ⇔ F35A/2,000ポンド爆弾2基)
**電子光学照準システム:F22A/無し ⇔ F35A/有り

⑤ 飛行性能
**最高速度(アフターバーナー無し):F22A/マッハ1.7 ⇔ F35A/マッハ1未満
**最高速度(アフターバーナー):F22A/マッハ2以上 ⇔ F35A/マッハ1.6
**最高到達高度:F22A/65,000フィート ⇔ F35A/50,000フィート
**作戦遂行半径:F22A/約1,200km ⇔ F35A/1,300km

⑥ コスト
**1機当り調達コスト(110円/USD):F22A/250億円 ⇔ F35A/110億円(自衛隊機の場合、日本で生産される為ライセンス料が加算されてかなり高額になる)
**飛行時間当たりの運航コスト(110円/USD):F22A/600万円 ⇔ F35A/350万円

Follow Up_2024年9月29日:B21ステルス爆撃機の最新の写真が公開されました;
この機体形状だと、遠方からこの爆撃機をレーダーで捕捉するのは極めて難しいと考えられます。ただ、上空に偵察衛星あれば翼の面積が大きいので捕捉できるかも?(筆者の私見)

以上

尖閣諸島問題を考える

-はじめに-

現在日中関係の最大の問題は尖閣諸島帰属の問題です。日本側の主張と中国側の主張とが真っ向から対立し、特に石原都知事時代に都がこの諸島を購入してから、両国の緊張関係は明らかに高まっていることは論を待たないことだと思います。
両国が歩み寄る気配もなく、緊張が徐々に高まっていく現在の状況は、第二次大戦後70年以上を平和に暮らしてきた日本人にとって、正に戦後最大の異常事態といっても過言ではないと思います

言うまでもない事ですが、この緊張関係を回避する特効薬は、「尖閣諸島の領有権を放棄する」ことです。しかしこの策は、排他的経済水域(200海里以内)や軍事的なプレゼンスの問題を別にしても、日本人のナショナリズムを刺激して国論を過激に走らせ、更に大きな戦争のリスクを抱える要因にもなりかねません

とすれば、最善の策は「現在の実効支配の状況を維持する」ことになります。しかし、この状態は、常に色々な形で中国側からチャレンジされることを想定し、対処しなければなりません。これは、今まで国防を全て米国に頼ってきたこの国が、自身の意思と力で自国の領土を防衛するということを意味します
米国の今の政権は、尖閣諸島の防衛は日米安保条約の範囲内である(実効支配が続いている限り)と明言している一方で、尖閣諸島帰属の問題には米国は関与しないと言っています。言い換えれば日本に尖閣諸島を防衛する確固たる意思が無ければ米軍のサポートも得られないということです

であれば、日本自身が;
* 中国の現代史(特に戦争の歴史)
* 領土問題に対する中国の姿勢
をきちんと学習し、理解しておかねば異常事態に対する戦略が立てられません。
以下は、私自身が考えた“尖閣諸島防衛の基本戦略”です;

-中国の現代史(特に戦争の歴史)-

辛亥革命以降の中国は、以下の様に絶え間ない戦争を行ってきました;
<国共合作までの内戦>
 辛亥革命/1911年~12年:1911年10月武昌蜂起により中華民国樹立。1911年1月中華民国樹立、初代大総統に孫文が就任。1912年2月清国・宣統帝廃位。袁世凱臨時大総統就任。1916年の袁世凱病死後は軍閥の群雄割拠の時代になりました。
 南京政府樹立:1927年、蒋介石は南京に政府を樹立し共産党軍の排除を始め、1930年12月からは7次に亘る大規模な共産党軍掃討戦を行いました
 瑞金臨時政府樹立:1931年、毛沢東は江西省瑞金に臨時政府を樹立しました。1934年10月、瑞金を攻撃された共産党軍は6万5千人の犠牲者を出して延安に逃れました(長征
 西安事件:1936年12月、張学良に拉致された蒋介石は、共産軍との戦闘を止め、一致して日本軍と戦うことを約しました(国共合作

<日中戦争:15年間
 1931年~1937年:1931年9月柳条湖事件(張作霖の爆殺)を機に関東軍が北支に侵入し、満州事変が勃発しました。1932年3月には宣統帝を担ぎ出して満州国を樹立しました
 1937年~1945年:1937年7月の盧溝橋事件を契機として日中が全面戦争に突入しました。同年8月に上海事変、同年12月には中華民国の首都、南京を攻略しました。以降日本は中国各地で国共合作成った国民党軍、中国共産党軍(八路軍)と泥沼の様な戦争を続けることを余儀なくされました
 1945年8月、日本の無条件降伏

(参考) 日中戦争における中国側発表の犠牲者数
*約130万人/軍人:1946年、中華民国国防部発表
*約440万人/軍民合計:1947年、中華民国行政賠償委員会
*約1300万人/軍民合計:1947年、国民党行政賠償委員会
*約2100万人/軍民合計:1985年、共産党抗日勝利40周年
*約3500万人/軍民合計:1995年、共産党抗日勝利50周年で江沢民国家主席がが発表

(参考) 日中戦争時、日本が犯した非人道的犯罪として中国の歴史に記録されていること(日本側の記録には無いか、あるいは犠牲者の数字などがかなり違うことに注意する必要があります);
*生きている人間を使った細菌実験:731部隊により行われた細菌兵器開発の為の生体実験。責任者は戦後米軍への情報提供を条件に戦犯には問われていません
*平頂山事件:1932年遼寧省北部の撫順炭鉱守備隊が行った殺害事件。ゲリラ兵に協力していると見做した無抵抗の村民を3千人殺害したとされています(ベトナム戦争における“ソンミ村事件”と似ています)
*南京大虐殺(中国側資料の表現):1937年、南京に於ける国民党軍掃討の戦闘で多くの死亡者が出ました。30万人の捕虜及び民間人が殺害されたとされています
*重慶無差別爆撃(中国側資料の表現):南京から重慶に拠点を移した国民党軍に対して、1938年~43年に亘って断続的に218回実施された戦略爆撃。1万人以上の犠牲者を出したとされています(東京裁判)
*三光作戦(中国側資料の表現):1940年以降、北支方面軍がゲリラ作戦を多用する共産党軍(八路軍)を討伐するために、これに協力する村民をまとめて殺害したとされる作戦。三光とは、“殺し尽し”、“焼き尽し”、“奪い尽す”という意味です。日本側にはこうした作戦の記録はありません
*万人抗(中国側資料の表現):満州各地の鉱山周辺に多くの人骨が埋められているとされるところ。鉱山で過酷な労働を強いられた中国人労働者の死骸が埋められた所とされ、中には生きたまま埋められた人もあるとされています

<日中戦争終了後の内戦>
 1946年~1949年:1946年6月、蒋介石は国民党軍を動員して共産軍に対して全面的に攻撃を開始しました。最初は国民党軍が優勢であったものの、次第に農民の味方を得た共産軍が優勢となっていきました。1949年10月、全土を掌握した共産軍は中華人民共和国(以下“中共”、又は“中国”)を樹立しました。1949年12月、国民党軍は全軍台湾に撤退し台北を臨時首都としました
*犠牲者数:中共軍/150万人、国民党軍/25万人と言われています

<朝鮮戦争介入>
 1948年8月、李承晩が大韓民国(以下“韓国”)を樹立、一方、金日成は同年9月、朝鮮民主主義人民共和国(以下“北朝鮮”)を樹立しました
1950年6月25日、北朝鮮は宣戦布告無しに38度線を突破して韓国に侵攻を開始しました。開戦当時、北朝鮮軍は圧倒的に優位な兵員数、火力をもっており、日本に駐留する連合国軍(ソ連、中国を除く)で結成された国連軍(正確には多国籍軍)の投入をもってしても北朝鮮軍の優位は変わらず、韓国軍と国連軍は次第に釜山付近に追い詰められていきました
1950年9月15日、マッカーサーは海兵隊を中心とする米軍部隊と韓国軍部隊を仁川に上陸させました。これに連動して釜山方面に追い詰められていた国連軍、韓国軍は反撃を開始し形勢は一気に逆転しました。9月28にはソウルを奪還し、更に10月には38度線を越えて北朝鮮に侵攻を開始しました。10月20日には平城を占領し、更に10月26には中国との国境(鴨緑江)に達しました。

北朝鮮、ソ連の要請に基づき、中国は1950年10月5日、彭徳懐を司令官とする義勇軍の派遣を決定しました。この義勇軍は後方待機を含めると100万人の大部隊でした。10月19から隠密裏に鴨緑江を渡河して侵攻を開始しました。11月1から大規模な攻勢を開始した結果、国連軍、韓国軍は懸命の戦いをしつつも撤退に次ぐ後退を余儀なくされました。この一連の戦闘で国連軍の死傷者数は約1万3千人、中国義勇軍の死傷者数はその数倍に及んだと言われています。12月5、中国・北朝鮮軍は平城を奪還、1951年1月4日には再度ソウルも奪還しました。

当初ソ連のジェット戦闘機ミグ15が投入され、第二次大戦時の航空機が主力の米軍から制空権を奪いましたが、その後米軍はF-86ジェット戦闘機を投入し、制空権を奪還することができました。航空兵力の支援を受けて1951年2月11、連合軍は再び北進を開始しました。その後両軍の間で一進一退の激戦が続き、38度線付近の高地で膠着状態に陥りました。原爆投下、等を含む戦争の継続を主張したマッカーサーは4月11日、トルーマン大統領により解任されました。

1951年7月から開城において休戦会談が開始されました。双方有利な条件での停戦を要求する為、交渉は難航し、1953年7月27に至ってようやく休戦協定が成立した。
* 正式に発表されたものはないものの、中国義勇軍の犠牲者数は50万人に達したと言われていいます。

<台湾海峡危機>
 1954年9月:中共軍による金門島砲撃
 1955年1月:中共軍による江山島攻撃と米軍支援の下での国民党軍の大陳島撤退
 1958年8月:中共軍による金門島砲撃と空中戦に勝った国民党軍による厦門空爆
⑫ 1965年:偶発的に小規模な海戦が発生

<中国・インド国境紛争>
開戦の背景:1950年、中共軍がチベットに侵攻しこれを支配しました
1954年、周恩来首相とネルー首相との会談で平和五原則(①領土・主権の相互尊重、②相互不可侵、③相互内政不干渉、④平等互恵、⑤平和共存)について合意していましたが、中国は弱体化していた清の時代の国境を認めておらず、インドが警戒感を抱いていない時期を狙って国境を画定しようとしていました。この時期インドはパキスタンとの国境紛争を抱えておりましたが、中国はこのパキスタンを支援しており、フルシチョフのスターリン批判以降中国と対立していたソ連はインドを支援していました。

戦争の推移:1959年9月に最初の武力衝突が発生し、1962年11月には大規模な衝突に発展しました。中共側戦力8万人(死傷者約2400人)、インド側戦力1万人~1万3千人(死傷者約2400人、行方不明者約1700人、捕虜約4000人)で戦い、中国が勝利をえて一方的に停戦を行いました。現在もアクサイチンを実効支配しています。

紛争後の経緯:上記紛争以降中国・インド間には直接的な戦闘は行われていませんが、中国側勝利の影響を受け、パキスタンの武装勢力がインド支配地域に侵入し、第二次印パ戦争が勃発しました。インドはこれらの紛争を契機として核弾頭搭載可能な中距離ミサイルを開発配備し、現在に至っています。

<中国・ソ連国境紛争>
開戦の背景:中ソ間の長い国境線は、強大なロシア帝国と、弱体化した清国との間で結ばれた条約(アイグン条約、北京条約)はあり、また曖昧な部分が多くありました。
1956年2月、ソ連のフルシチョフ首相が第20回党大会に於いてスターリン批判を行った結果、中ソの政治的な関係は悪化し領土に関わる緊張が高まりました。1960年代末には長い国境線を挟んで両側に大兵力が対峙(ロシア側/65万8千人、中国側/81万4千人)し小規模な衝突を繰り返していました。

戦争の推移:1969年3月、ウスリー川(アムール川/黒竜江の支流)の中州(ダマンスキー島/珍宝等)で武力衝突が発生、同年7月にはアムール川の中州(ゴルジンスキー島/八岔島)でも武力衝突が発生しました。8月には新疆ウィグル地区で武力衝突が発生し、両国は核兵器使用の準備を始めました

紛争後の経緯:1969年9月、ホーチミン首相の葬儀の帰途北京に立ち寄ったコスイギン首相と周恩来首相が会談した結果、軍事的緊張は緩和されたものの、国境での軍事力の対峙はその後も続いていました。
1980年代後半、両国は秘かに国境交渉を再開しました。1989年、ゴルバチョフ大統領が訪中して中ソ関係が正常化した後全面的な国境見直しが始まりました。1991年5月(ソ連邦崩壊直前)、一部係争地を除き中ソ東部国境協定(ソ連邦崩壊後中ロ東部国境協定)が結ばれました(1992年に批准;ダマンスキー島/珍宝等は中国に帰属することが確認されました)。1994年には中ロ西部国境協定が結ばれました(1995年に批准)。ソ連崩壊後に独立した中央アジア諸国と中国との間の国境協定も個別に結ばれてゆきました。中ロ東部国境協定で棚上げにされていたアルグン川の島とアムール川・ウスリー川の合流点の二つの島の帰属については、2004年10月、プーチン大統領と胡錦濤主席による政治決着で、係争地を二等分する形で政治決着が図られ、最終的な中ロ国境協定が締結(2005年に批准)されました

<中国・ベトナム間の領土に関わる戦争>
 1974年1月 パラセル諸島(西沙諸島)の戦い
開戦の背景:第二次世界大戦終了後、仏領インドシナでフランスとの間で独立戦争が起こりました(第一次インドシナ戦争:1946年~1949年)。独立後、ベトナム共和国(以降“南ベトナム”)と中国との間でパラセル諸島(西沙諸島)帰属の問題が発生していました。中国が同諸島の東部を実効支配し、1971年には多数の施設を建築していました。一方、南ベトナムは西部を実効支配しており軍事的な緊張は徐々に高まっていきました。
戦争の推移:1974年1月15日、哨戒中の南ベトナム軍艦が、実効支配している同諸島西部の永楽群島の島(甘泉島/ロバーツ島)に中国国旗が立てられ、付近の海域に大型の中国漁船2隻が停泊しているのを発見し退去を命ずると共に威嚇射撃を行いました。1月17日、18日には両国が増援部隊を派遣して小競り合いを繰り返していましたが、1月19日に至って南ベトナム艦隊の発砲から本格的な海戦に発展しました。1時間足らずの交戦で南ベトナム艦船は大きな損害を受けて敗退しました。午後1時30分には永楽島に4個中隊が上陸し占領、1月20には他の3つの島にも上陸し、同諸島全体が完全に中国の実効支配化に置かれることになりました。
中国の勝因/南ベトナムの敗因:地理的に中国の方が同諸島に近かったこと、速射砲を備えた中国軍艦船の方が戦闘力が高かったこと、陸軍兵力が圧倒的に凌駕していたこと(中国:4個中隊、ベトナム:100~200人)があげられます。また前年パリ協定に基づき米軍がベトナムから撤退し、南ベトナム自身も北ベトナムの攻勢に晒されている時期であり戦意の面でも相当劣勢にあったと考えられます

* パリ協定(ベトナム和平):1973年1月27日に調印。この協定に沿って3月29日には米軍はベトナムから完全に撤退しました
* ベトナムの統一1976年4月、北ベトナムの攻勢によりサイゴンが陥落、南北統一が実現しました

 1979年2月~3月 中越戦争
開戦の背景:大量虐殺による恐怖政治を布いていたポルポト政権を倒すため、ベトナムは亡命していたヘン・サムリンを支援しカンボジアに侵攻、1979年1月プノンペンを解放しました。ポルポト政権を支援していた中国は1979年2月、ベトナムとの開戦を決断しました。当時の中国は鄧小平、華国鋒政権であり、ポルポト政権支援以外に、文化大革命の不満を外に向ける必要があったこと、ベトナム戦争で支援してきた中国への裏切り行為(中国の反ソ政策に同調しないこと)やベトナムによる旧南ベトナムの華僑資本家層の圧迫、なども開戦決断の背景にあったと考えられています;

中国軍侵入ルート

戦争の推移:約60万の中国地上軍が北部国境から侵入。この時期ベトナム軍主力はカンボジアにあり、北部には約3万人程度の民兵(しかし正規軍に匹敵する精鋭)しか居なかった為徐々に後退する作戦をとりました。その結果、中国軍は北部5省を占領することとなりました。その後、ベトナム軍主力が合流を開始するとともに戦局は逆転し、最終的に中国軍は国境外に撤退しました。撤退に際して非人道的な焦土作戦を行い、多数の民間人が犠牲になったと言われています。両国の損害については確たる資料は無いものの、双方に数万人規模の犠牲者があったとされています。中国は国内では勝利したと宣伝していますが、ベトナム懲罰の目的を達せずに国境外に撤退していることから、実質中国は敗退したと考えるのが自然であると思われます

ベトナムの勝因:ベトナム戦争中にソ連から供与された兵器及び米軍から獲得した近代的な兵器を保有しており、更に厳しいベトナム戦争を勝ち抜いてきた豊富な実戦経験があったこと。
中国の敗因:旧式の兵器しか無かったこと、及び軍制に弱点(文化大革命で軍隊に階級が無くなった)があったため。(その後、軍の近代化が中国の最優先の国家目標となりました)

 1984年4月~7月 中越国境地域のベトナム側領域での戦闘
開戦の背景:中越戦争後、もともと国境が確定していなかった要衝である「老山・者陰山」一帯にベトナム軍が侵攻し、恒久的な陣地の構築を始めました。これに対して中越戦争での敗退で威信が低下していた中国は、軍制改革の効果を実戦で確認する場としてこの要衝の占領を計画しました

戦争の推移:第一次戦闘(4月2日~28日)で中国軍は要衝をほぼ制圧しました。第二次戦闘(6月12日~7月10日)ではベトナム軍が再占拠を目指して猛攻撃を加え中国軍中隊の全滅などの戦果を挙げましたが、中国軍も反撃し、双方歩兵による突撃を繰り返し大量の死者を出して戦闘は終止しました。第三次戦闘(7月12日~14日)では、ベトナム軍は6個連隊規模で白兵戦を挑みましたが、中国軍は徹底的な砲撃でこれに対抗し激戦の末兵員が尽きたベトナム軍が戦闘を中止し大規模な戦闘は終結しました

中国の勝因:第一次戦闘で大兵力を集中して要衝を抑え守りを固めていたこと。ただベトナム軍の士気が高いことと、中国側は大規模な戦闘における兵站に問題があることが判明し、その後の軍事的冒険を行わなかったこと
ベトナムの敗因:第一次戦闘で敗退し、高地に築かれてしまった中国側の堅固な陣地に、不利な低地から白兵戦を挑んだこと。

 1988年3月14日 スプラトリー諸島(南沙諸島)海戦
両国で領有権を争っていたスプラトリー諸島(南沙諸島)のジョンソン南礁(赤瓜礁)で戦闘が発生しました。中国側はフリゲート艦3隻、ベトナム側は戦車揚陸艦1隻と輸送艦2隻、火力に勝る中国が勝利しました。中国軍は空軍の支援が得られなかった為、海軍はすぐに中国本土に撤退しスプラトリー諸島全体は支配できず6個の岩礁や珊瑚礁を手に入れるに留まりました。ベトナムは29の島や暗礁を実効支配しています

-領土問題に対する中国の姿勢-

中ロの国境紛争が解決してから、中国は経済成長を上回る軍事力の増強を図ってきています。特に装備の近代化と自主開発に力を入れており、西太平洋に於いて米国と覇権を争うまでになりました。

東シナ海・南シナ海_主張の違い
東シナ海・南シナ海_主張の違い

これまでの中国の歴史を分析すると;
1.勝てると判断すれば、国際的な支持を得られない場合でも大胆に軍事力を行使している;
 1974年、南ベトナムとの衝突後にパラセル諸島(西沙諸島)全体を実効支配
 1988年、ベトナムとの海戦後にスプラトリー諸島(南沙諸島)の一部を実効支配

 スプラトリー諸島(南沙諸島)を構成している多くの島、岩礁、砂州は、中国、ベトナムの他に台湾、フィリピン、マレーシアの諸国も一部実効支配を行っています。また、ブルネイも実効支配はしていないものの、一部の島の領有を主張しています

2.軍事バランスが崩れた時を狙って抜け目なくつけ入ってくる;
 1991年のソ連邦崩壊後、米国とフィリピンの相互防衛条約が解消されると同時に米軍はクラーク空軍基地から撤収し、1992年にはスービック海軍基地からも撤収しました。その結果、この地域での米軍のプレゼンスは著しく低下しました。1995年に入って中国は、それまでフィリピンが実効支配していたミスチーフ礁(美済礁)に恒久的な建造物を作り実効支配を始めました
 2012年、中国とフィリピンが領有権を争っていたスカボロ―礁(フィリピンの排他的経済水域内にあり、スービック海軍基地があった頃米軍が射撃場にしていました)で中国漁民の違法操業を巡って両国の監視船が対峙する紛争が発生しました。2013年には、中国がここに軍事基地を建設し実効支配を固めています

 ボルネオ島の北西に位置するナトゥナ諸島は現在インドネシアが実効支配していますが、一部の島々が中国が領有を主張している“九段線”の内側に入っています。これまで南シナ海の領有権問題には中立の姿勢をとってきましたが、最近中国漁船の違法操業を巡って紛争が発生しており、今後中国の出方によっては両国の緊張が高まるものと思われます

3.領土問題に関しては、相手が大国であっても戦争をも辞さずに自国の主張を貫き通している;
 中国・インド国境紛争:1959年~現在
 中国・ソ連(ロシア)国境紛争:1956年~2005年
 中国・ベトナム国境紛争:1979年~現在

4.政治と国防が一体化し、長期的な戦略を着実に実行している;
 国民に対する歴史教育を国家主導で一元的に実施し、領土に関わる戦闘や主張、またこれに伴う莫大な国防費について国民のコンセンサスを得ている
 国民へのアナウンスとは別に、戦争を通じて得た苦い経験を軍の改革に生かしている(朝鮮戦争や中越戦争時の精神主義、白兵主義から装備の近代化への動き;中越戦争を通じての兵站戦略の重要性認識と、軍制の改革実施)
 周政権になってから海洋進出の意図を露わにしています(“一帯一路”戦略の“一路”の部分)が、この為には南シナ海、東シナ海の制空権、制海権を確立することが必要です。未だ道半ばですが、南シナ海各諸島での実効支配の拡大と軍事基地化、海軍力の増強(イージス艦、ミサイル装備の艦艇)、空軍力の増強(ステルス戦闘機、航空母艦)、即応体制の確立(防空識別圏の設定、拡大)、などはこの政策に沿った一連の施策と考えられます
 武器の供給を外国に頼ることは、戦争遂行能力に大きく影響することから、これからの戦争に必須となる武器については国産を目指しています(ステルス戦闘機、イージス艦、ミサイル装備の艦艇、航空母艦、など)
 近代戦は情報処理の技術が必須となること、また近代兵器の開発には膨大なノウハウが詰め込まれていることから、先進国からこれらの機密情報を入手するためにインターネットを使ったスパイ活動を強化しています
 強大となった経済力を政治的(→軍事的)に利用するために、発展途上国を中心に経済援助やインフラ整備支援を積極的に行っています。中国が主導したアジアインフラ投資銀行の設立もこの戦略に沿ったものと考えられます
 現在の中国は異民族統治の問題(チベット族、ウィグル族)、貧富の差の拡大、香港における一国二制度の綻び、など国内に大きな矛盾を抱えています。こうしたことはともすれば中央政府に対する不満となる可能性を孕んでおり、これを抑止する為の手段として国際的な紛争に国民の目を向けさせていると考えられます
 戦争により一気に解決できない領土問題に関しては、軍事上の実力の範囲で既成事実を積み上げていく戦略をとっています(南シナ海での実効支配拡大、東シナ海での天然ガス開発、漁船による領海侵犯、軍事プレゼンスの段階的拡大)

-尖閣諸島防衛の基本戦略-

如上を踏まえた上で尖閣諸島防衛の基本戦略を考えてみたいと思います;
1.尖閣諸島問題は南シナ海問題と同等に扱えない事情があります;
中国と紛争を起こしている南シナ海の諸国と違って、日本は中国との間で過去に15年戦争を戦い、多くの惨禍を与えてしまった事実があります。途方もない犠牲者数や人倫に悖る残虐な行為が、日本側の検証では多くが誇張されたものであったとしても、国際的にこれを認めさせる手段はありません。また中国国民にとって上記犠牲者数や残虐行為は事実そのものであって、領土問題で日中間に戦争が起きれば、中国国民の間に“熱狂”を引き起こすことは容易に想像し得ることだと思います。下記写真は瀋陽、長春を旅行した機会に訪れた戦争記念館です。日本兵の残虐行為などが数多く展示してあり、小学生と思われる団体が熱心に見学をしておりました;

満州事変記念館@瀋陽
満州事変記念館@瀋陽
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日中戦争博物館@長春

従って、仮に日米安保条約が解消された状態で、中国との全面戦争に入ったとすれば、中国が核兵器を使って日本の都市を攻撃することに道義的責任を感じる可能性は低いとも考えられます。日本にとって尖閣諸島帰属の問題で規模の大きい戦争を起こすことは絶対に避けなければならないと思います

2.日米安保条約の核の傘の下で、尖閣諸島の防衛を日米で行うことが明らかな場合、中国が核使用を含む全面戦争を行うことはあり得るか;
朝鮮戦争時に中国が“義勇軍”という形で参戦したこと、また中国・インド国境紛争、中国・ソ連国境紛争においては戦闘を国境付近に止めたこと、などで分かる様に、自国が核攻撃を受けるリスクを伴う全面戦争は行なわないと考えられます

3.中国が尖閣諸島のみの実効支配を狙って上陸し占拠することはあり得るか;
既に2010年9月に、尖閣諸島周辺の領海に中国漁船が侵入し、これを排除しようとした海上保安庁の巡視船に体当たりしたため、漁船を拿捕すると共に船長を逮捕した事件が発生しています。また2016年6月には中国公船(中国海警局所属)3隻が領海に侵入しています。西沙諸島、南沙諸島の例を見れば明らかな様に哨戒・警備のスキを作れば、今すぐにでも上陸、占拠はあり得る事態だと考えられます。

4.尖閣諸島の実効支配を続けるにはどういう戦略をとればいいのか;
(1) まず哨戒・警備のスキを作らないことが大切なことですが、これは現在最新型の巡視船の追加配備を始めており、これを尖閣諸島周辺に配備される中国公船(中国海警局所属)の数を凌駕するレベルにまで充実させることが必要だと思います
 この段階で、尖閣諸島への自衛隊の駐留や自衛隊艦船の派遣といった攻勢に出ることは、中国側の攻勢に根拠を与えることになり得るので、厳に慎むべきだと考えます。

(2) 巡視船の哨戒・警備のスキをつかれるか、あるいは巡視船の警備を実力で突破し、上陸、占拠が行われた場合、これを急速に(中国からの応援兵力が到着する前に)奪還することが必要です。またこの機会を捉え、自衛隊員の駐留継続など恒久的な措置を行なうことも選択肢の一つになると考えられます。こうした対応を可能とするには、下記の様な戦力を充実させることが必要と考えます;
 占拠された島嶼を急速に奪還するための兵力:強襲揚陸艦オスプレイ奪還用特殊作戦部隊
 奪還及び奪還後、実効支配を継続するに必要な制空権確保の為の兵力:ステルス戦闘機F35)、イージス艦ミサイル護衛艦早期警戒管制機
 奪還及び奪還後、実効支配を継続するに必要な制海権確保の為の兵力:潜水艦対潜哨戒機P1)、ミサイル護衛艦早期警戒管制機
* 日米安保条約で共同で作戦に当たることが、戦争を局地に限定する為の必須条件ですが、については米国に頼らず日本が単独で行う必要があります。
 中国の反撃を挫くためには、戦闘の初期段階で制空権、制海権を確保することが極めて重要ですが、これには中国よりも技術的にレベルの高いステルス戦闘機(当面F35、可能であればF22/米国製、又は日本独自開発のFSX/先進技術実証機)、潜水艦(日本製)の配備充実させることが必要であると思います。また、ミサイルの性能向上も重要なテーマであると考えられます。
 島嶼奪還、防衛に関わる日米合同訓練を積極的に行い、中国の実力行使を躊躇わせることも重要であると考えます

(3) 以下の外交的努力は、中国の実力行使を躊躇わせる効果があり、極めて重要なことと考えます;
 中国の攻勢に悩んでいる南シナ海に面する国々と経済協力、インフラ投資などを通じて友好関係を築くと同時に、制海権、制空権に関わる兵器の譲渡、輸出を行うこと。但し戦争に巻き込まれるリスクのある相互防衛条約は結ばない
 ロシアとの北方領土交渉を進展させ、経済協力関係を強化することによって、ロシアと中国の距離を遠ざけること
 上記以外の中央アジア諸国、欧州、アフリカ、中南米諸国との連携を強め、中国側攻勢によって発生した領土紛争に対して日本の応援団を増やすこと

以上

「五色の虹-満州建国大学・卒業生たちの戦後」を読んで

-はじめに-

長野県出身の親しい友人の一人から標記の本を紹介されました。私が満州生まれであることを承知していたためと思われます。恥ずかしながら“建国大学”について全く知識を持たなかった私としては、内容すべてが非常に新鮮でした。教科書では教えてくれない“隠れた満州史”を学ぶ良い書物だと思い私のブログで概要を紹介することにしました。

-著者、出版社、他-

著者/三浦英司略歴:1974年神奈川県生まれ。京都大学大学院卒業後朝日新聞入社、東京社会部・南三陸支局長、ヨハネスブルグ支局長、
本書で2015年・第13回開高健ノンフィクション賞受賞
出版社:集英社、

-満州建国大学とは-

<設立の経緯>
満州国建国の中心人物である石原莞爾が、1937年に満州国に以下の構想の大学設立を提唱(当初は“アジア大学”と称していた)した;
①建国精神の一つである“民族協和”を中心とすること、
②日本の既成の大学の真似をしないこと、
③各民族の学生が共に学び、食事をし、各民族語でケンカができるようにすること
④学生は満州国内だけでなく、広く中国本土、インド、東南アジアからも募集すること、
⑤思想を学び、批判し、克服すべき研究素材として、各地の先覚者、民族革命家を招聘すること

その後、石原莞爾の命を受けた辻政信が「建国大学」設立計画を推進した。1938年創立され、1945年終戦とともに消滅した。設立の目的は、満州国の国家運営を担わせる為のエリートの養成と“五族協和”を実現することにあった。

<学生について>
学生は、日本、中国、朝鮮、モンゴル、ロシアの五族から選抜。一学年150人の内、日本人学生の割合は50%以下に抑えた。学費免除、且つ給与(5/月)も支払われる為、日本、台湾、朝鮮、満州から貧富の差を問わず多くの優秀な人材が集まった。

<カリキュラム、学生生活、等>
6年間の学生生活は、二十数人単位の寮に振分けられ、生活のすべてが異民族と一緒の共同生活を行なわせた。公用語は日本語、中国語であるが、他に英語、仏語、独語、露語、モンゴル語も自由に選択できた。

カリキュラムは学問、勤労実習、軍事訓練を三つの柱としていたが、もっとも特徴的なことは、学内で完全な言論の自由が与えられていたことである(日本政府を公然と批判する自由を与え、学内の図書館では共産主義や中国革命家関連の書籍など日本で発禁になっている書籍も自由に閲覧できた)。毎晩寮内で「座談会」が開かれ、民族問題や政治問題についても自由に討論が行われていた(朝鮮人や中国人学生から日本政府に対する激しい非難が連日のように日本人学生に浴びせられ、日本人学生も政府が掲げる理想が如何に矛盾に満ちたものであるかを身をもって知ることができたという)。

<敗戦後>
1945年8月敗戦と同時に殆どの資料は焼却処分された。また学生の多くは戦後自国で迫害、弾圧された(韓国のみは例外:後述)。日本人学生はシベリア抑留の後、生存者は日本に引き上げたが、満州国が設立した最高学府の出身者という「侵略者」のイメージと、捕虜となって赤化教育を受けた「共産主義者」というレッテルに苛まれ満足な職に就くことができなかった人が多かった。

こうした中で苦労して建国大学同窓会名簿(1400人分)が作られ、同窓生達は国境を越えてコミュニケーションを図っていた。2010年6月東京で最後の同窓会が開かれ、120人が参加した。著者もこの会に陪席した。

満州国の地図
満州国の地図

-建国大学出身者についての実地調査-

<宮野泰>:建国大学六期生、新潟県新発田市で農業に従事
著者が最初に出会い、建国大学に関して長期にわたる取材をするきっかけになった人物。

<藤森孝一>:建国大学二期生、長野県諏訪市で1921年生誕、両親は農業
1938年建国大学応募、長野県で1万5千人人が応募し、合格者2人の内の1人。
1939年1月~1942年2月までの膨大な日記(A3/1500枚)を残している。
日記に記された印象的な文章
*「・・・日本の朝鮮に対する政策は間違っていたと思う。日本は英米等の植民地政策を真似ただけに過ぎない。すなわち日本の利益のために朝鮮を犠牲にしたのだ。・・・彼らは独立したいのだ・・・満州はこの真似をさせてはいけない。今のところは朝鮮と同じではないか。日支事変を“聖戦”だと言っているが、聖戦の意義がなくなってしまいはしないか
*「昼食後南湖へ魚釣を見に行く。帰りに満人の部落を通った。実に粗末な家。・・・百姓たちは畑を一生懸命耕していた。振り返ってみると、新京の立派な建物が青空にそびえている。・・・建大(建国大学)の敷地を通って帰る。藤田先生も言われた通り、コーリャンの粥をすすっている農民たちを追い払って建大を建てたのだ。考えさせられることがあまりに多い」

インタビューでの印象的な言葉
*“座談会”に関する話題で、「・・・我々はいつも中国人学生の厳しい批判に晒されるわけです。“日本は民族協和を掲げながら、一方で中国人民を殺している、民族協和も建国大学も侵略戦争をカモフラージュする単なる道具に過ぎないのではないか”とね。・・・」ある夜、崔という朝鮮人学生に“日本は朝鮮で何をやっているか知っているのか”と問い詰められました。殴り合いのようになり、その後しばらくして仲直りのような状態になったとき、私がふと、“お前はなんで建国大学にはいったのか”と聞いたのです。すると彼は“俺は建国大学には自由があると思ったんだ。朝鮮にいては息が詰まるからな”なんて言いながら泣き出したのです。・・・頭のいい連中ですからね。だからこそ私たちは真剣に悩んだんです。・・・5年間も一緒に生活していて、お互い何を考えているのかが分かるようになっていた。互いの痛みがわかるようになると、人間は大きく変わっていくのです・・・」

<先川祐次>:一期生、戦後西日本新聞、ワシントン支局長
インタビューでの印象的な言葉
*「新しい国造りに星雲の志を燃やす日本人学生」、「すべては日本の大陸進出を美化するまやかしだと反発する中国人学生」、「満州の国造りを成功させることが朝鮮独立への道につながると現実路線を敷く朝鮮人学生」、「少数民族が被支配の立場から脱却できると希望を燃やす台湾人学生やモンゴル人学生」、「共産革命を逃れて安住の地ができ、陽気にはしゃぐロシア人学生」は夜の自由時間は議論に明け暮れた

<百々和>:一期生、1956年に帰国。取材当時神戸の特別養護老人ホームにいた
終戦時点で中国山西省にいた為、強制的に国民党軍に組み入れられ、終戦後4年間、戦闘員として中国共産党と戦わされた山西省旧日本軍残留問題)後、共産軍の捕虜になった。捕虜生活は労働、スポーツ、文化活動であったが、その中で百々が演出した演劇が反革命的であるとして監獄に入れられた。監獄内では告白と反省、自己批判と仲間による相互批判が繰り返された。1956年9月帰国。帰国後38歳で神戸大学大学院に入学。経済学博士課程を卒業後、講師などを務め、53歳で神戸大学教授になる。
*山西省旧日本軍残留問題を扱った映画「蟻の兵隊」(監督;池谷薫)の一人としてスクリーンの中央に収まっている。

インタビューでの印象的な言葉
*日本に帰れるかどうか決める裁判(戦犯であるか否かの裁判)で、百々が一切の弁明や釈明を拒んだ理由を問われて、「・・・でも、それはかつての日本人であれば誰もが持ち合わせていた気質だったんだよ。民族として最も大事にしていた美徳の一つだったといえるかもしれない。あの頃の日本人にとっては“潔さ”は“美しさ”とそれほど変わらない意味だった。そして“美しく”あることは“生きる”ことよりも、遥かに尊い事だった。それらをより強く意識していたのが建大生だったのかもしれない。・・・」また、「・・・建国大学が学生に求めていたことは“時代のリーダー”たれということだった。それは“いざというときは責任を取る”ということだ。・・・それは易しいように見えて実は難しく、とても勇気のいる行為なんだ。何かあったときには必ず自ら責任を取ること。建大生はその点においては、徹底的にたたき込まれていた」

<森崎湊>:四期生、映画監督・森崎東の弟
入学3年目の1944年4月に建国大学を自主退学し、特攻隊を志願して三重海軍航空隊に入隊した。そして敗戦翌日の1945年8月16日夜、近くの砂浜で割腹自殺を図った。玉音放送が流れたとき、航空隊内にはあくまで決戦すべきという声が渦巻いていたが、森崎の自決により、航空隊内の決戦論は沈静化し解散復員が実施された

遺族が16歳~20歳の日記を刊行(題名:遺書)。この日記にある印象的な言葉
*「・・・一期、二期生の中で20余名の抗日学生が出た・・・中国人の自覚と矜持の強烈な者ほど、実は我々の同志たるべきものなのではないか。中国の同胞たちが日本軍の力の前にたたかれているのを彼らが見るとき、いかばかりの苦痛を感ずるであろうか。満州も中国もとりかえしたく思うだろう。尊敬する憂国の士は一意救国のため反満・抗日を叫んで血を流している。今まで日本が中国に対し何をおこなってきたかを彼らはよく知っている

<楊増志>:一期生、大連在住
インタビューでの印象的な言葉
*「入学3年目から中国人だけで“勉強会”を始めた。マルクス、レーニン、孫文(三民主義)、蒋介石(中国の命運)、毛沢東(新民主主義論)を仲間で読みまわした。その後、この活動を新京の各大学に広げてゆき、“東北抗戦機構”というネットワークを作り、メンバーの一部を北京、重慶(国民党軍)に送り情報を集めた。独軍のソ連侵攻に合わせ、三国同盟に基づき日本がソ連に侵攻する機会に蜂起する計画を立てたが、1941年12月に「治安維持法」で逮捕された」
*「憲兵隊から厳しい拷問を受けたが口を割らなかった。建国大学の日本人メンバーから差し入れがあり、心の底から日本を呪い、一方で彼らにもう一度会いたいと思った」
*「判決は無期懲役:2人(本人を含む)、懲役15年:1人、同13年:3人、同10年:9人であった」
*「終戦の翌日に釈放された。半年間“水攻め”されたことによる後遺症で療養した後、国民党が実施していた中国東北部の水田の管理の仕事についた。アメリカ政府からの資金援助を受け、満州に残留していた日本人技術者30人を使い、土地の改良や品種の選定を行った。そこでは日本人以外に朝鮮人や中国人を使っていたが、建国大学での経験で民族の特性(中国人は利で動く、朝鮮人は情で動く、日本人は義で動く)を知っていたので、彼らを使うことは難しくなかった。中でも日本人を使うことが一番簡単だった。彼らはポストさえ与えておけば忠実によく働いてくれた」
*「数年後、長春市の議員になった。1947年共産軍は、長春包囲戦(市全体を共産党軍が封鎖)により兵糧攻めを行った。150日間の間に30万人の市民が餓死(長春市の人口の三分の二)した。楊は3丁の銃を共産党軍に渡すことにより家族を含めて包囲の外に出ることができた」
ここまで話した所で電話が入り話は続けられなくなり(当局に監視されており、長春包囲戦について語り出したことが原因か)、インタビューは終わった

<ダニシャム・ウルジン>:三期生
父親(ウルジン)は満州国軍の著名なモンゴル人司令官(ウルジン将軍)、ロシア革命が起きた時には帝政ロシアの職業軍人、赤軍との戦いに敗れて中国北部に逃れた。その後満州国軍に入り、ノモンハン事件にも参戦
1945年8月9日の新京空襲で、教職員や日本人学生は応戦準備態勢、中国人学生は兵器廠に勤労奉仕に行く方針が決まったが、敗戦の報が伝わった後自由行動となった。その後はソ連兵と日本人の通訳の仕事に就いた(日本人が建設した施設・設備の接収の際に通訳が必要になった)。ソ連兵撤退後、一時中国政府の合作所の職員として事務作業に従事したが、共産党政権になってそれも奪われ。その後貧しい生活を続けたが、モンゴル国出身の妻のツテで現在居住しているウランバートルに来ることができた。

<金載珍>:五期生、建国大学の韓国人同窓会会長、大邱在住。慶北大学校で経済学を教えていた
唯一韓国だけは、独立後優れた頭脳を持つ建国大学の出身者たちを積極的に登用した1970年代、80年代には政府や軍、警察、大学、主要銀行などにおける主要ポストを建国大学出身者が握り、政財界にはサークルのようなものが結成されていた

<姜英勲>:三期生、昌城で生誕、農学校を中退して広島の高田中学に転入、その後建国大学入学。在学中、学徒出陣を選択、秋田県内の陸軍演習場で終戦を迎えた
インタビューでの印象的な言葉
*「*故郷の村は中国との国境付近にあるため、ソ連の主導による共産化が進行しており、貧農の若者には戦闘訓練が実施されていた。村の水力発電機がソ連兵によって村外に持ち出されることをきっかけに村の共産化に激しい抵抗を感ずるようになった。周囲から“反革命分子”と見做されるようになり、当局から出頭命令を受けたその夜、5人の友人を引き連れて漁船で38度線を越えた」
*「1946年4月ソウルに到着すると、韓国軍が幹部将校育成を目的に設立していた軍事英語学校(後の陸軍士官学校)に入学。建国大学の出身であり、その語学力や日本における軍隊の経験から、創設後間もない韓国軍の中で確実に出世の階段を上り、4年後には早くも陸軍本部の人事局長になった」
*「1950年6月、朝鮮戦争が始まると中部戦線の第二軍団参謀長となった。開始時の兵力は圧倒的に劣勢だったが、開戦2日後に国連決議で米軍の支援が確実になったため兵力の温存を図った。80日後、米軍の仁川上陸後は形勢が逆転した。中国の参戦で38度線で戦線が膠着し、1953年7月休戦に入った」
*「1961年、朴正熙少将(後の大統領)の軍事クーデターでは士官学校校長になっていたが、クーデター支持でソウル市内を正装で行進した生徒に向かって、“軍は政治に介入してはならない。軍は中立でなければならない”と戒めたところ、その言動が軍事政権下で“反革命分子”とされ4ヶ月投獄されるとともに、陸軍中将のまま退役に追い込まれた。その後亡命同然の状態でアメリカに渡り、大学の研究者として16年間の生活を送った」
*「1988年、士官学校校長時代の教え子であった盧泰愚大統領の下で首相に就任した」

*建国大学についての評価を著者に問われて、「満州国は日本がねつ造した傀儡国家である。日本人学生は、“いかに日本が満州をリードして五族協和を実現させるか”について熱くなっていた。中国人学生は、“満州はもともと中国なのに、なぜ日本が中心になって満州国を作るのか”という批判が常に先に立っていた。朝鮮人学生は、“最も純真な意味で五族協和を目指していた”。もともと満州には朝鮮民族がたくさん住んでいたし、かつては朝鮮民族の土地でもあったから・・・」
*終戦後北朝鮮に行き、韓国にスパイとして送り込まれた(上陸後すぐに逮捕された)三期生の“K”について聞かれて、「「私は何もしてやれなかった」

<李水清>:一期生、台北在住、「台湾の怪物」と呼ばれていた。
孤児で貧しく、正規の学歴が無い中で1万人以上の中から選ばれた3人の一人に入った秀才。多くの卒業生は、すべての能力で李に敵うものはいないと言っている。
建国大学卒業後、志願して満州辺境の青年訓練所に赴任した。赴任半年後に日本は敗戦、建国大学の同級生の家を訪ねつつ半年後に台湾にたどり着いた。
図らずも1947年の二・二八事件(大規模な反政府暴動;日本統治時代の知識人が多数殺害された)に連座し二年半の間監獄に繋がれた。その後事業に成功し、台湾を代表する一大製紙企業を築き上げた。

<戸泉如二>:四期生、通称ジョージ。1923年レニングラードにて生誕。日本人の父(西本願寺の僧侶⇒満鉄⇒建国大学教授)と母(ロシア人)との間の混血児。哈爾濱中学卒業、日本語・ロシア語・中国語を母国語と同じように操れた。
1943年学徒動員で出征、終戦時は中支・武昌の飛行隊所属。敗戦後は親を探して中国内を転々としている内に、1947年夏奉天付近で国府軍に逮捕されたが半年後に釈放。その後、上海を経由して、フィリピン、オーストラリア、イタリア、オランダ、スリナム(南米)と渡り歩き、最終的にそこで貿易と水産の事業で成功した。
スリナムで味の素のセールスマンに出会ったことで両親との連絡がつけられるようになった。2001年心筋梗塞で死去

<ゲオルグ・スミルノフ>:建国大学六期生、ハイラル(中国東北部)出身。ハイラル第三高等学校で日本語と英語を学んだ。
1945年6月新京郊外で勤労奉仕をしている時にソ連軍の空襲を経験し、すぐに大学を飛び出してハイラルに帰った。その後モンゴルの小さな部落のハケに移った。8月ハイラルの様子を見に行くと、彼の親友のロシア人同期生“A”はスパイという密告で家族共々射殺されていた
1954年中国からソ連に行く様通告を受け。国境で荷物は全て中国人官吏に没収され、ソ連に入ると北方の収容所(常時銃を持ったソ連兵の監視があった)に送られた。その収容所ではエストニアやラトビアの人もぼろ服をまとって生活していた。食料は全て配給制のわずかなパンと水であった。過酷な収容所生活の中で、ロシア人の建国大学の先輩に出会い、週に一度程度は会って大学時代の楽しいことを話す機会を持ったが、彼も急に居なくなった。10年ほど収容所生活を送った後、優秀な建築技術者であった弟の尽力でアルマトイに戻ることができた。但し共産党への入党が条件であった。その後キリスト協会の経理担当者としての仕事を得、2003年にこの教会でのパーティーで日本人大使と話す機会があり、これをきっかけに日本の同級生との連絡がつくようになった。

著者は、満州国に関わる日本を代表する研究者である「京都大学人文科学研究所教授の山室信一氏」とのインタビューも行っているが、満州国、及び建国大学についての見解を求めたところ、以下の様に答えている;
1895年以降、日本は台湾を領有し、朝鮮を併合し、満州などを支配した。これらが一体となって構成されていたのが近代日本の姿だったのに、日本列島だけの“日本列島史”に執着するあまり、植民地に対する反省や総括をこれまで十分にしてこなかった。日本人の植民地認識は近代日本認識におけるある種の忘れ物なんです。そして、そんな日本という特殊な国の歴史の中で、台湾、朝鮮、満州という問題が極度に集約されていたのが建国大学という教育機関だったというのが私の認識であり、位置づけでもあります。政府が掲げる矛盾に満ちた“五族協和”を強引に実践する過程において、当時の日本人学生たちは初めて自分たちがやっていることのおかしさに気づくんです。そういうことを気づける空間は当時の日本にはほとんどなかったし、だからそれを満州で“実践”できていた意味は、当時としては我々が考える以上に大きいことであった。・・・私は満州国を研究していて強く思うのは、そこには善意でやっていた人が実に多かったということなのです。それがどうして歴史の中で曲がっていくのだろうか、その失敗を私たちは歴史の中から学び直さなければならない。・・・石原莞爾についても・・・やはり悩みながら、そして失敗していった人だと思います。・・・日本が過去の歴史を正しく把握することができなかった理由の一つに、多くの当事者たちがこれまで公の場で思うように発言できなかったという事実があります。終戦直後から1980年代にかけて、満州における加害的な事実が洪水のように報道されたことにより、建大生を含めたかつての当事者たちが沈黙せざるを得ない状況に追い込まれてしまった。・・・」

-私の読後感-

私を含めて1945年8月15日以前に台湾、朝鮮、満州で生まれた者は全て戸籍謄本にその痕跡が残っています。また若い頃、外国旅行をした時に入国審査書類の“Birth Place”を記入する時に困った記憶のある人も多いと思います。まぼろしに終わった満州国、教科書では何も学べない“自分の生まれた国”についての知識。この書は、老い先短い私にも、まだまだ勉強しなければならないことが沢山ある事を教えてくれました。

以上