731部隊とは

今年(2025年)を「抗日戦争勝利80年」の記念の年と位置づける中国共産党・政府の方針を反映し、旧日本軍の秘密機関「731部隊」を描いた中国映画「731」が9月18日に公開されました(見出しの画像はその映画のポスターです)。公開初日は中国全土の映画館を席巻する勢いで上映され、一日あたりの上映回数の最高記録を樹立しました。ただ、時代考証など映画の出来栄え自体は評価が低く、9月末には入場者数は急速に失速した様です
ただ、満州に拠点を置いた関東軍指揮下の731部隊は、日本軍が日中戦争中に犯した最大とも言える戦争犯罪の当事者であるものの、戦後の歴史教育ではあまり重要視されず、私(荒井)自身も実態についてよく分からず2021年に投稿したブログ「日本の戦争の時代についての一考察」においても敢えて触れませんでした
そこで今回、SNSの情報や生成AIを駆使しての調査、常石敬一氏の著作「七三一部隊(生物兵器犯罪の真実)」、及び中国での証言を翻訳して纏めた「証言・人体実験」を読み込んで、以下に纏めてみました

ただ、731部隊の当事者や陸軍・政府関係者は、その犯罪性を認識しており、敗戦直後から国を挙げて徹底的な証拠隠滅を図ったことから、実験結果を含めたデータは極めて限定的であることはご承知おき頂きたいと思います
いずれにしても、731部隊の活動は、ナチスの人体実験と並ぶ重大な戦争犯罪とされており。日本国内では長らく「存在自体が否定」されてきたと思われますが、近年は証言・文書・遺構の発掘により、実態が徐々に明らかになりつつあります。更に、国際的にも「人体実験・生物兵器開発の最悪の事例」として研究対象となっています
*2023年8月21日・旧日本軍「731部隊」職員表など公式文書見つかる

尚、以下の記事で青色の文字で斜体で書かれている記事は私(荒井)本人の意見です

731部隊の活動及びその歴史的な経緯

<731部隊の設立~終戦までの活動の時系列での整理(重要部分は赤字
1914年~1918年 第一次世界大戦
初めて化学兵器が使用された
1925年 ジュネーブ議定書化学兵器、生物兵器(細菌兵器を含む)が禁止されました。132カ国が参加しましたが、日本は参加したものの署名はしませんでした
*後の731部隊長となる石井四郎(以下“石井”と表示)は条約で禁止しなければならないほど細菌兵器が脅威であり有効であるなら、これを開発する必要があると考えました。その後、石井は2年間の長期に渡り海外を視察し、帰国後に列強が細菌戦の準備を行っているので、日本もその準備をしなければ、大きな困難に直面すると陸軍省や参謀本部幹部らに説いて回りました

1931年 柳条湖事件(関東軍が南満洲鉄道の線路を爆破し張作霖を爆殺した事件)から満州事変が始まる
1932年
 日本の傀儡政権である満州国建国(1932年~1945年)
*1932年、石井は関東軍参謀本部・作戦主任参謀の遠藤三郎との親交を通じて関東軍の参謀本部で石井の意見は支持を得るようになっていました
1936年4月23日 板垣征四郎関東軍参謀長が梅津美治郎陸軍次官に「在満兵備充実ニ関スル意見を提出。この意見書の中に「関東軍防疫部ノ新設」があり、これが731部隊の母体となりました
*具体的には、公式文書に「昭和11年度(1936年)に於いて関東軍にて臨時編成しある病馬廠を改編して傷病馬の収療、防疫、細菌戦対策の研究機関たらしむる如く関東軍獣防疫廠を新設す 又在満部隊の増加等に伴い昭和13年(1938年)度以降其一部を拡充す 関東軍獣防疫廠の駐屯地は寛城子(中国吉林省長春市に位置する地域)附近とす」とあります


1937年
 盧溝橋事件発生、日中間の全面戦争突入(~1945年)
1939年5月 ノモンハン事件(~9月)
1940年7月 軍令陸甲第14号により、関東軍防疫部は「関東軍防疫給水部」に改編されました。そのうちの本部が「関東軍防疫給水部本部(通称:満洲第731部隊)」です。731部隊を含む関東軍防疫給水部全体での所属人員は、1940年7月の改編時で軍人1235人(内将校264人)と軍属2005人に増加し、東京帝国大学に匹敵する年間200万円(1942年度)の研究費が与えられていました

1945年8月8日 ソ連が参戦
*731部隊は、8月9日から撤退準備を始めました。人体実験の証拠を隠すことが第一の課題となり、ハルピンの本館内側の監獄に実験目的で収容されていた「得移扱(下記①、②参照)」の人々の殺害が行われ、次いで建物の破壊が関東軍工兵隊の手で行われました。この時の爆破に伴う煙はハルビン市内からも見えたと言われています
1945年8月15日 天皇陛下による終戦宣言
1945年9月2日 東京湾停泊中のミズーリ号上で降伏文書に署名
厚生労働省の集計によれば、終戦直前における所属人員は3560人(軍人1344人、軍属2208人、不明8人)でした
*ソ連国境から遠い本部ハルピンの731部隊と大連の支部の隊員はソ連軍の捕虜にはならず日本本土に帰ることが出来ました

1949年12月25日~30日 ハバロフスクに於いて戦犯裁判が行われました
*被告(合計12名):関東軍司令官・山田乙三、関東軍軍医部長・梶塚隆二、関東軍獣医部長・高橋隆篤、他
被告全員が有罪、強制労働収容所で刑期2年~25年大半が刑期満了以前に帰国しました

元軍医少佐・柄沢十三夫は、帰国を許された後自白したことを悔いて自殺しました

*公判書類から分かった事;
① 中国人を731部隊で人体実験の対象を得移扱と称していました
「得移扱」とする対象;スパイ(死刑又は無期の重罪対象)、謀略・諜報活動を行なっていて逆利用できない者、不起訴又は軽い刑であるが更生の見込みのない者
③ 「得移扱」を送り出す側であった大連憲兵隊では「大東亜戦争に協力せよ」との日系新聞の社説に対し反論を投稿した中国人を「反満抗日者」として731部隊に送っていました
④ 1940年7月に細菌をハルビンから上海に輸送する「関東軍野戦司令部命令書」も公判書類に含まれていました

1956年6月 中国に於いて731部隊に関わる戦犯裁判が行われました(下記写真、データは、中国での証言を翻訳して纏めた「証言・人体実験」よりコピー)

*731部隊で逮捕された隊員は、尋問を受け詳細な調書が取られています。また、逮捕された憲兵隊員からの証言から、間諜(スパイ)として拘束した中国人の逮捕日・氏名・年齢・職業に関わるデータも残っており、このデータから中国人逮捕者の内、「得移扱」とされた者も特定できます

50年代後半~60年代初めにかけて、米国が戦後すぐに731部隊から押収したはずの実験ノートなど詳細を記録した文書は、文書管理者が返還したとされています
*これらの文書について日本の報道機関が国立図書館に問い合わせたところ、それらの文書は厚生省を経て防衛庁に送られたとの事
*これに対し、防衛庁は「知らない」という返答をしています
日本政府はその後も、これらの文書及びその内容について自ら調べようともしていないと思われます

石井四郎・陸軍軍医の経歴
(731部隊を作った医師の終戦までの軌跡)

石井は、兵器としての細菌の存在に目をつけ、細菌兵器を開発しました。彼はその功績を認められ1942年には軍医としての最高の位である軍医中将まで昇進しました

石井は、1920年京都大学医学部を卒業し陸軍軍医となり、4年後には陸軍から京都大学・大学院に「細菌学、血清学、予防医学、病理学」の研究のために派遣されました
指導教官によれば、彼は実験中に大失敗をしており、実験者としては失格の烙印を押されていました。その後、1927年に「グラム陽性双球菌ニ就イテの研究」で医学博士の学位を得ています

1932年石井は細菌培養缶濾水機石井式濾水機/川の汚水を浄化し安全な飲料水に濾過する目的で開発した濾過装置)を発明し特許を得ています。細菌培養缶は密閉した容器で細菌の培養を行う為、感染の危険を少なくして細菌の大量培養が可能となり、これが生物兵器用の病原体作りの為に使用されました

1945年8月、ソ連軍が中国東北部に進軍してきましたが、石井はその情報をハルビン市内の隊長宿舎で聞き、直ちに東京と連絡を取り731部隊の建物の破壊と部隊員及びその家族の日本への逃避を指揮しました
その後、9月中は金沢の陸軍病院で731部隊員の恩給計算の資料作りをした後、米軍の戦犯追及を避ける為、陸軍参謀・服部卓四郎の指示で身を隠しましたが、1945年末になって彼の指示で米軍に出頭しました
*敗戦後直ぐに米軍による731部隊の調査が始まりましたが、人体実験を暴くことが出来ず、やむなく731部隊の関係者に、「研究上の情報を提供すれば戦犯免責を与える」という条件で、1945年末、米軍調査担当者と731部隊関係者が「鎌倉会談」と呼ぶ会合が開かれ、米軍は731部隊の活動の証言を得ました

1946年5月、米軍による731部隊についてのレポート(トンプソン・レポート)が纏められました。このレポートの中で石井の尋問記録が載せられていますが、人体実験については解明されていません。解明されたのは「731部隊の組織」、開発された「細菌爆弾の構造」、「航空機から細菌、その他を雨の様にばらまく“雨下”」のデータのみでした

1946年末、ソ連によるハバロフスク裁判で、石井たちを人体実験の罪で軍事裁判にかける為に引き渡しを求めてきました。驚いた米軍担当者が石井たちを再尋問したところ、“暗黙裡”に認めたようです。
その後、ソ連からの引き渡し要求を退け、再度戦犯免責を与えるとともに、本国から生物兵器専門家を呼び寄せ、石井たちから情報収集を行いました
これらを基に1947年6月には「フェル・レポート」が、12月には「ヒル&ヴィクター・レポート」が纏められました。いずれも人体実験の調査結果を述べたものです

石井は、戦犯免除後軍籍を離れ、一般社会で生活。公職追放期間中は千葉県印旛郡や東京都で医療器具や浄水装置の研究を行っていたとされています
一部資料によれば、防疫研究所(のちの国立感染症研究所)への助言も行っていたとも言われています。また、1950年代には千葉県や東京都で、医療関連企業の顧問的な活動(石井式濾過装置など)をしていたとされています
公的には目立った活動を避け、「病理学者」「細菌学者」として静かな余生を送っていた様です
1959年10月 石井四郎咽頭癌で死去

実際に行われた人道に反する行為

<人体実験>
1.感染実験
ペスト菌炭疽菌チフス菌赤痢菌コレラ菌などの病原体を、「得移扱」の被験者に注射・吸引・経口投与を行う
その後の発症経過、苦痛の様子、死亡までの時間を詳細に記録。またワクチンの開発も行った
*ワクチンの効果を確認する為の実験を行った雇員・田村良雄の証言;
「課長少佐Sの命令により、生体防御力及び毒力試験の目的を以て、1942年10月中旬の試験第一日に監禁していた5名の中国の愛国者の採血を行い免疫価を測定しました。次日に4種のペスト菌予防注射液(加温ワクチン、混合ワクチン、エンベロープワクチン、生菌ワクチン)を4名の中国愛国者に注射し、一週間後に再度注射しました。注射1ヶ月後に0.05ミリグラムを含有するペスト菌液1㏄を5名の中国愛国者に注射しました。この注射により5名の被実験の中国愛国者を重症ペストに罹患させ、内3名を殺害し、2名を該隊診療部の生体実験に提供し殺害しました
この様なプロセスは、結核のワクチンであるBCGや、抗生物質のペニシリンなどでも繰り返された。BCGの場合は、中国の子供たちを使って人体実験を行った。子供たちは、BCGを受けた数か月後に結核菌を接種され、ワクチンの効き目を確かめる実験台としました」

2.凍傷実験
得移扱」の被験者の四肢を氷水に浸し、凍傷を起こさせる。そのまま放置し、組織が壊死する過程を観察。その後、熱湯・火・衝撃などさまざまな方法で解凍を試み、「最も効率よく治療できる方法」を測定した。以下の写真は、常石敬の著作「七三一部隊(生物兵器犯罪の真実)」より転載しました

3.臓器観察と摘出
* 病原体に感染した状態の臓器を摘出するため、「得移扱」の被験者が生きている状態で解剖が行われたケースも証言されています。摘出された臓器はホルマリン漬けにされ、経過観察のサンプルとして保管されました

4.弾丸・爆弾実験
* 爆発物や毒物の威力を測定するため、「得移扱」の被験者を実験対象として、至近距離で爆薬を用いた被害データを収集

5.人体実験を直接実施した軍医「湯浅謙」の証言
① かれの経歴については、Wikipediaの「湯浅謙」をご覧ください
② 常石敬一氏の著作「七三一部隊(生物兵器犯罪の真実)に書かれている証言
*湯浅は、軍医として中国に居た3年半の間に、14人の中国人を生きたまま解剖し、また手術の練習台として殺した
* 1942年12月、湯浅は、太源監獄で次のような手術演習を経験している
証言内容;
「山西省を占領していた陸軍第一軍の軍医約40名を集めたある日の講習会でのことだった。軍医たちはいつもの防疫給水部の講堂でなく太源監獄に集合するよう命令された。集まった軍医たちの前に陸軍省法務部の白い肩章をつけた男が二人出てきた。その後、引き出されて来た中国人の男を坐らせた。白い肩章の男たちは、やにわに拳銃でパパーンと4、5発中国人の腹を撃った。後手にゆわかれていた男たちは、前方に身をくずした。これは、身体に入った弾丸をどれだけ手早く取り去ることが出来るかを競うゲームと言うべきものの始まりだった。出血して悶えている中国人を5~10人の軍医が別室に運び、弾丸を手早く抜き取る手術を始めた。湯浅は手術中に更に拳銃の発射音聞いているので、さらに2人の中国人が撃たれ、「手術演習」の犠牲になったことを知った。弾丸を取り出す手術にあぶれた軍医たちは、中国人の四肢の切断や気管切開をした。参加した軍医の何人かが、“別に珍しいことでもなく、しょっちゅうのことだ”とささやき合うのを聞いて、この種の“手術”は自分の陸軍病院だけでなく、あちこちの部隊でもやっていることを知った」

③ 湯浅謙の戦後の経歴;
*1945年8月、日本への帰国ではなく、国民党軍の軍医となる道を選び、1945年の中国革命による新中国の成立後は、共産党政権の医師として働いた
*敗戦後も中国に残ったことについて湯浅謙は、「私は3人の中国人を、自身の手術演習で殺していた。そこで、医者として残った」と回想している
湯浅謙が関わった人体実験で殺された人は全部で14人
*1951年に中国軍の捕虜となり、翌年末に山西省太源の戦犯管理所(終戦までは日本軍の捕虜収容所・太源監獄)に収監されました

*1956年6月 起訴免除となり釈放日本へ帰国
*1956年7月 肺結核の治療のため、東京赤十字病院に入院
*1957年3月 慈恵医大の内科で再研修
*1958年7月 中国帰還者連絡会に参加。白十字病院で初めて証言する。以降、反戦・平和、原水禁、日中友好運動などに積極的に参加する
*1958年3月 民医連・西荻窪診療所に勤務、所長となる
*1976年 西荻窪診療所所長を退任、勤務医となる
*1988年秋 帰国後はじめて太原へ謝罪の旅
*1991年10月 4回目の訪中。潞安を訪問。
*2010年11月 心不全のため死去。享年94歳

6.人体実験によって殺害された犠牲者の数
生成AI(ChatGPT、Copilot、Jemini)で調べた所、いずれも正確な人数は、現在も確定していません。これは、戦後に多くの資料が破棄されたこと、関係者の証言が限られていること、記録の多くがソ連や中国など複数の国に分散していることが理由です
ただ各生成AIの回答では、概数としては、人体実験によって殺害された犠牲者の数は、3,000人前後ということで共通しています

また、中国側の推定では細菌戦などを含めると、731部隊が関わる総犠牲者数は、
10万〜30万人規模とされています

生物兵器の実戦使用の記録

以下は、主として生成AI(ChatGPT、Copilot)を使ってデータを集め、筆者(荒井)が編集したものです
<実戦使用の記録>
731部隊(およびその関連部隊)では、中国で複数回、細菌兵器の実地使用(散布・汚染・感染工作)を行ったとする十分な史料証拠が残っており、代表的な事例は以下の通り;
① 伝染性ノミ(ペスト菌)の空中散布
1939年~1941年、満洲・中国本土でペスト菌に感染させたノミを飛行機から撒布する実験・攻撃が行われた記録があります。代表的な標的として寧波、湖南省長沙近辺への散布が報告され、多数の死者が出たと報告されています
② 井戸・飲食物への細菌混入
南京などで、井戸や家屋、食物にコレラ・チフス・パラチフスなどの細菌を入れる工作が行われ、結果として局所的な感染発生があったとする証言・報告があります。これらは“効果確認”を目的とした実験の一部だったとされています
<参考>
常石敬一氏の著作「七三一部隊(生物兵器犯罪の真実)」掲載のデータ

③ 各種細菌爆弾・撒布装置の開発と実地試験
ペスト菌、炭疽菌、コレラ菌、腸チフス菌、パラチフス菌、鼻疽菌、等を戦術的に使うためのばらまき方法(爆弾、容器、動物を用いる手法)を研究・量産し、満洲・中国各地で実地試験を行ったという記録が残っています。報告書や押収文書には、生産能力や試作型の設計図が含まれています
<参考>
常石敬一氏の著作「七三一部隊(生物兵器犯罪の真実)」掲載のデータ

上記の「マルタ」とは、実験の犠牲となる得移扱」の捕虜のことです
ベスト弾の瀬戸物の破片で死亡することの無い様に臀部以外の身体は布団にくるまれていました。爆弾が破裂した後、被験者は担架で部隊に運ばれ、どのような傷であれば感染が起こるか、何日間で発病するか、そしてどの様に死んでいくかを観察された多くの場合、全員が感染し数週間以内に死亡している

<被害規模及びその評価>
死亡者数の推定は研究者により幅(数千人〜数十万人)があるため確定は難しい。中国での刊行物の資料や米国公文書の未公表文書解読が進み、被害の全体像は年々明らかになっているものの、正確な死亡者数は資料の欠落と終戦後の隠蔽で不確定な部分が多く、またどのケースで何人が亡くなったか、疾病流行の直接的原因が散布によるのか自然発生かの切り分けなど、史料・疫学的検証が必要で、学術上の争点が未だに残っている部分があります。更に、戦後すぐに大量の証拠隠滅が行われたこと、また米国による加害者の免責と引換のデータ取得で証言の信憑性に問題があったことも重要です

731部隊に参加した医師の経歴

731部隊には多くの医師が参加していますが、指導的な役割を担った医師について生成AIで調べてみました
ChatGPTによれば、終戦時に石井が 組織的焼却・証拠隠滅 を命じたため、731部隊に参加した医師(軍医)全員の氏名を完全に網羅した公的リストは現存していませんただ、裁判記録・証言・回想録・防衛省旧陸軍名簿などから、主だった医師・研究責任者(⇔細菌学を担当した軍医)は判明しています。概要は以下の通りです;
参加した軍医の人数(概数);
731部隊全体の人員は 約3,000名、この数には 日本、満州、中国、朝鮮から徴用された労務者・技師・警備兵を含みます。この内、日本人職員(技術者・医官)は600人~700人であり、 生物研究・解剖・培養を担当しました。この中の軍医・医師(細菌学者・病理学者) 約150人~200人と言われています
< 出身大学の傾向>
当時の軍医はほぼ 帝国大学(旧帝大)と医官学校 出身です。大学出身者数の傾向は;
京都帝国大学 :最多、 石井の母校、彼の学閥が形成された。初代731部隊長が京大出身だったため、京大人脈が指揮中枢に集中した
*東京帝国大学(東大): 多い 、病理学・衛生学分野で供給
*大阪帝国大学: やや多い 、新設医学部からの若手研究者
*満州医科大学 :現地供給 臨床医・研究補助者
*主要な軍医・研究責任者の役職、出身大学、その他の情報

主要な軍医・研究責任者に税金で学費の大半が賄われる帝国大学の出身者が多いこと、また人を助けるはずの医学の研究をする為に、軍の命令とは言え医師が「ヒポクラテスの誓い」を破り人を殺すことを厭わないことは、どうしても理解できません

おわりに

731部隊に関わる負の歴史については、調べれば調べるほど辛い気持ちになります。特に人体実験が帝国陸軍の命令を基に行われたとしても、人の命を救うはずの医師が、自ら生きている人間に細菌を植え付け、生きている人間を解剖し死に至らしめたことは信じがたい事だと思います。我々が学生時代に学んだ人体実験「エドワード・ジェンナーの種痘の人体実験」が許される限界だと思います(これに似た人体実験?は現在のワクチン開発の最終的な臨床試験で、生命に重大な危険が無い範囲で、被験者の承諾を基に行われています)
戦時中に国家が、こうした言訳のできない人道に反する罪を犯したことは、近隣の東南アジア諸国、とりわけ中国との外交関係を未来に亘って正常に維持していく為には、日本の歴史上の過ちを国民一人一人が常にリマインドする必要があると思います

また、731部隊の蛮行以外に、中国人に対しては以下の様な取り返しのつかないつかない傷を残しています;
* 盧溝橋事件以降の日中戦争によって失われた命(生成AIのデータ)

中国人の死者数が如何に膨大であったが分かると思います
*2015年に、私共家族のルーツである満州国の歴史旅をした折「偽満皇宮・博物院“偽満”とは偽の満州国、つまり日本の傀儡政権を意味します)を訪ねましたが、この博物館では以下の様な写真が沢山展示されていました。この博物館を出た後で中国人家族に中国語で真顔で怒鳴られて恐怖を感じた記憶があります。後で案内してくれた中国人のガイドに聞いたところ、日本人に対する怒りを叫んでいたそうです               

* 歴代総理の歴史認識(歴代首相の戦後50年~80年の談話);
政府は、戦後50年(1595年)の村山富市首相から戦後80年(2025年)となる石破茂首相まで10年ごとに首相談話を公表しています。この談話の中で最も重要な部分は、先の大戦で日本が近隣諸国に対して犯した過ちをお詫びすることと、国民が日本の負の歴史を正しく学ぶことの重要性だと思います

今後も重要な資料等が見つかることがあるかも知れませんので、本ブログに関するFollow_Upを着実に行っていきたいと思います。

以上

ベトナムという国

はじめに

今年4月からベトナムに赴任した娘に招待され、最近家族揃って赴任地のハノイに行ってきました。既に20年前にワイフとホーチミンに行っております(2005年4月ベトナム旅行記)ので、大した違いはないだろうと多寡を括っていたのですが、どっこい!訪問した翌日からベトナムという国・国民にすっかり「愛」を感じてしまいました。尤も、私の学生時代は「ベトナムに平和を ! 市民連合(通称ベ平連)」の活動の報道や学生運動を通じて心情的には熱烈にベトナム支援をしていたことがその背景にあるのかもしれません
見出しの写真は、左側が訪問翌日に訪れたディエンビエンフーの戦跡の中の激戦区となった丘の上に建てられていた「勝利の像」、右側は太平洋戦争終盤、日米双方に多くの死者を出した硫黄島の激戦の米軍勝利の象徴となった「摺鉢山の星条旗」です。この二つの像は、それぞれベトナム人、米国人の愛国心に限りなく大きな力を齎したに違いありません。短い旅行でしたが、以下はこの旅を通じて感じたこと、この旅を通じて触発された「ベトナムという国」の勉強の成果を述べてみます

ベトナムの現在地

ベトナムという国の国力に関わるデータを外務省のサイトで調べてみると以下の様になります比較対象とする為にカッコ内に日本の数値を書いてあります
面積:33万 ㎢ ———————-(37万 ㎢)
人口:1億30万人 ——————-(1億3200万人)
人口密度:304人/㎢ —————(357人/㎢)
 *2024年のGDP:4763億 USD ——-(4兆1448 億  USD)
2024年の1人当たりGDP:4749USD (3万1400 USD/1人)
GDP成長率7.1%/年 ————–(0.1%/年)
まだまだ経済的には小さな国ですが、成長率はかなり高く、近い将来大きな国力を持つ国になりそうです

民族構成:キン族(越人)約86%、他に53の少数民族で構成されている
宗教:仏教、カトリック、カオダイ教(ベトナムの新宗教/儒教、道教、仏教、キリスト教、イスラム教の教えを土台にしたことから、カオダイ=高臺(高台)と名付けられた)、他

政治体制:共産党が唯一の合法政党;国会/一院制(定数500名)、任期5年、中選挙区、選挙権満18歳以上、被選挙権満21歳以上
ドイモイ(刷新)とは:1986年の第6回党大会にて採択された市場経済システムの導入と対外開放化を柱とした路線。現在、汚職対策、構造改革や国際競争力強化等に取り組んでいる
外交方針全方位外交を展開。各種国際機関をはじめ、国際的、地域的枠組みにも積極的に参加している
軍事力(2023年):軍事予算/63.5億ドル、徴兵制、正規軍45万人(陸軍/約38万人、海軍/約4万人、防空・空軍/約3万人)

貿易額(2023年):輸出/3,555億ドル、輸入/3,275億ドル
貿易相手国(2023年):
輸出/米国、中国、韓国、日本、オランダ、輸入/中国、韓国、日本、台湾、米国
主要援助国
日本、ドイツ、フランス米国韓国(この3ヶ国はベトナム近代史の中で敵国として戦った相手です)

     日本の対ベトナム ODA供与規模・実績(単位:億円)
年度 2017 2018 2019 2020 2021
円借款 1,003.04 0 118.91 0 108.13
無償資金協力 30.43 13.63 30.4 49.6 37.39
技術協力 67.1 64.81 50.15 42.9 48.95

下の写真のニャッタン橋は、首都ハノイ市の紅河にかかる世界最大級の斜張橋です。ハノイ市街と空港との間を結ぶ経路上にあり、IHIインフラシステム・三井住友建設の共同企業体が受注し、日本政府の政府開発援助(円借款で建設されました;

Follow_Up_2025年8月20日_日経新聞;「住友商事、ベトナムで街づくり_総事業費6000億円

ベトナムの歴史 Quick Review

生成AI(ChatGPT、Copilot、Gemini)、ネット情報を使ってデータを集め、これらを纏めた結果は以下の通りです;
<古代>
バクソン文化ベトナム最古の文明
*ベトナムのハノイ北東、ランソン省のバクソン山地周辺で1920年代にフランスの考古学者によって発見・調査された文化で、中石器時代から新石器時代初期にかけての石器文化を指します。特徴的な「バクソン型石斧(木の柄に取り付けた石製の斧)」や打製の礫器、骨角器などが多く出土しており、食料としていた淡水産貝類や獣骨の層も見られます。約1万年前から7千年前に属するとされます

ドンソン文化

*ドンソン文化は、紀元前4世紀頃から紀元1世紀頃にかけて続いたとされています。タインホア省・タインホア市のマー川(馬江)右岸のドンソンに遺跡が存在しており、1920年代、フランス極東学院の考古学者らによって発見され、特徴的な銅鼓が有名になりました;

<中国王朝による支配の時代(紀元前~10世紀)>
*紀元前111年に中国の漢王朝によって征服されて以降、ベトナム北部は約1000年間にわたり中国の支配下に置かれました。この「北属期」と呼ばれる時代には、中国の文化、政治制度、儒教、漢字などが導入され、ベトナム社会に大きな影響を与えました
*西暦40年から43年にかけて漢王朝の南部で。チュン姉妹(徴側・徴弐の姉妹)の反乱がおきました。40年に、ベトナム人の指導者であった徴側とその妹である徴弐が、交趾郡(現在のベトナム北部)に置かれていた漢の交阯太守に反旗を翻しました。42年、漢は、徴姉妹による百越の反乱を鎮圧すべく、馬援を将軍として派遣しました。43年、漢軍は反乱を完全に鎮圧しました。徴姉妹は捕らえられ、漢軍によって斬首されました

<独立王朝時代(10世紀〜19世紀)>
* 938年、呉権(ゴー・クエン)が中国の南漢軍を破り、ベトナムは約1000年ぶりの独立を果たしました。その後、以下のような王朝が興亡を繰り返しながら、ベトナム独自の国家を築き上げました
① 李朝(1009~1225)
*ベトナムで最初の本格的な統一王朝で、都をハノイに定め、中央集権的な統治を目指す一方、儒教が導入され、国が安定

② 陳朝(1225~1400)

この写真はホーチミン市一区メリン広場にあるチャン・フン・ダオ(陳国峻)の像です。彼は安生王陳柳の子として生まれ、陳朝の初代皇帝・太宗の甥にあたる人物で智勇に優れ、将軍として重用されていました。因みに、
1257年モンゴル軍が侵攻してきた時、大越軍を率いてモンゴル軍を大いに破り、逆に追撃するまでの大勝を収めました
@1274年の元寇:文永の役(日本への攻撃)
@1281年の元寇:弘安の役(日本への攻撃)
1282年、クビライが建国した元による侵攻を受けると、元の圧迫に恐れをなした皇帝仁宗が降伏しようと言い出しましたが、チャン・フン・ダオは「戦わずして降伏するくらいなら、私の首を差し出せ」と言って、断固として反対したといいいます。これに勇気付けられた仁宗は徹底抗戦の構えを固め、チャン・フン・ダオは大越軍の総司令官に任じられ、巧みなゲリラ戦を繰り広げて元軍に大勝しました
@ベトナムへの侵攻が失敗したことで、元による日本への3度目の侵攻が行われなかったともいわれています

 ③ 胡朝・明の支配(1400~1427)
*一時的に明の支配を受ける(1400~1428年)

③ 後黎朝(1428~1789) ⇔ 日本の足利時代、戦国時代、安土桃山時代、江戸時代
*黎利が明の支配から再び独立を勝ち取り最盛期には南部チャンパ王国を吸収し、南北統一をほぼ達成しました。しかし、内部では阮(グエン)氏と鄭(チン)氏による実質的な分裂状態が続きました。明を追い出し独立回復。長期王朝となる

④ 西山(タイソン)朝(1778〜1802)
*農民反乱から台頭した王朝。短命な王朝でしたが、南北の阮氏と鄭氏の対立を終わらせ、一時的にベトナム全土を統一しました

<阮朝とフランス支配(1802〜1945)>
⑤ 阮朝(1802〜1945)
*初代皇帝 阮福映(ザー・ロン)が統一最ベトナム全土を初めて統一し、フエを都としました。清を宗主国とし、中国の制度を取り入れて中央集権化を進めました。しかし、19世紀半ば以降、フランスが侵略を開始しフランスの保護国となった結果、実質的な国家権力を失い植民地化されました
*1887年:フランス領インドシナが成立(ベトナム、ラオス、カンボジア)。この間、ベトナムではフランスからの独立を目指す運動が活発化します。ファン・ボイ・チャウ(1867年~1940年)などの民族運動指導者が、日本の近代化に学ぼうとするドンズー(東遊)運動などを展開しました
*第二次世界大戦が始まると、1940年には日本軍が北部仏印に進駐し、ベトナムは日本の軍政下に置かれました
ホー・チ・ミンが指導するベトナム独立同盟(ベトミンが結成され、反仏・反日闘争を展開します敗戦後の日本兵の一部もベトミンに参加しディエンビエンフーの戦いにも参加しています

<独立運動とベトナム戦争(20世紀)>
*1945年9月2日:日本の降伏を受けてホー・チ・ミンが独立を宣言「ベトナム民主共和国」樹立
*1946年~1954年:フランスはこの独立を認めずベトナムに侵攻、第一次インドシナ戦争が始まる。1954年、ディエンビエンフーの戦いでフランスに勝利しました

1954年4月26日:インドシナ和平会談@スイス・ジュネーヴ
*参加国:フランス、アメリカ合衆国、イギリス、ベトナム国、カンボジア、ラオス王国、ベトナム民主共和国(べトミン)、ソビエト連邦、中華人民共和国
合意内容
ベトナム、カンボジア、ラオスの独立
② 停戦と停戦監視団の派遣
ベトミン軍の南ベトナムからの撤退フランス軍の北ベトナム、カンボジア、ラオスからの撤退
④ ベトナムを17度線で南北に分離し、撤退したベトミン軍とフランス軍の勢力を再編成した上で、1956年7月に自由選挙を行い統一を図る
* 合意はベトナム民主共和国、中華人民共和国、ソ連、フランス、イギリスが署名するも、アメリカとベトナム国(ゴジンジエム政権)は署名しなかった

これ以降;
南北分断の固定化とベトナム戦争(1954年〜1975年)が始まりました。1965年以降から米国の本格介入が始まりました;
*ジュネーブ協定発効後、「南北統一選挙」に期待して、多くの共産主義者が南ベトナムに残っていました。しかしその約束は、南ベトナム政府(アメリカの傀儡政権/ゴジンジエム政権)により一方的に反故されてしまいます。その後、南ベトナム政権による共産主義者狩りは激しさを増し、逃げ延びた共産主義支持者たちは憎悪を募らせている状態でした
こうした中で生き残った南ベトナムの共産主義支持者は、北ベトナムと連携して、ベトナム統一のための戦争の準備(反政府活動)を始めることになります。やがて南ベトナムでは、ベトナム共産主義支持者による反政府テロが頻発し、内戦状態に陥ります

1950年代半ば、北ベトナムは南ベトナムを支援するためにラオスにも侵攻し、ホーチミン・ルートを確立してベトコンを補給・強化していました
1960年
、南ベトナムの共産主義者らを中心に南ベトナム解放民族戦線(ベトコンが発足します。その後ベトコンは北ベトナム軍と連携しながら、より激しく大規模な抵抗活動を展開していきます

1959年には米国は、ケネディ大統領の下で軍事顧問団を派遣することとなりましたが、最初は1000人弱だった軍事顧問が1964年には2万3000人に達し、事実上米軍の介入が始まりました
1964年8月トンキン湾事件発生;
米国のリンドン・B・ジョンソン大統領は、米軍艦が公海上のトンキン湾(実際は北ベトナムの領海)で攻撃されたとの演説を行いました。米国議会は圧倒的多数で大統領がこの攻撃に対し、相応の措置を取ることを認める決議を行いました。この結果、報復として北爆が行われ、1965年2月からは北爆が恒常化する等、米軍がベトナム戦争へ本格介入することとなりました

その後、米軍と南ベトナム軍は、圧倒的に優勢な軍事力を頼りに、地上部隊による苛烈な砲撃、空爆を伴う索敵・破壊作戦を展開しました。また、米軍は北ベトナムだけでなく、ホーチミンルートを提供しているラオスに対しても大規模な戦略爆撃を行いました。米軍に協調してベトナムに派兵した国韓国、オーストラリア、タイ、ニュージーランド、カンボジアラオの6ヶ国です
一方、こうした状況の中で北ベトナムは、ソ連中華人民共和国から派兵は受けないものの、軍事物資に関し全面的な支援を受けていました

1968年1月、テト攻勢
テトとはベトナムの旧正月の事であり、戦争中には祝日には短期間停戦する事となっていましたが、この年は1月30日未明にこの攻勢がかけられました
この戦いで北ベトナム軍とベトコンは南ベトナム全土で攻勢を開始し、同国の主要都市を一斉攻撃すると共にケサンのアメリカ軍基地を攻撃し、都市攻撃と基地攻撃の複合戦で南ベトナムやアメリカを揺さぶりました。この攻撃で同年2月12日までに全44の省都の内34の省都が攻撃を受けました。また、サイゴンのアメリカ大使館はベトコンのゲリラによって一時的に占拠され古都フエ市は一時占領されました
また、首都サイゴンが攻撃を受けたことで、アメリカ軍の劣勢が明らかとなり、増加する死者数は米国民に大きな不信感をもたらしました。特にベトナム帰還兵の証言が戦場の実態を伝えると、一部の学生らは自ら徴兵カードを燃やし、徴兵を拒否するようになりました。このころになると、戦争推進を主張していた米国のタカ派の論調も弱まり、世論の大半はアメリカ軍の撤退を主張するようになりました。ベトナム戦争を正義とする声は少なくなり、誤った戦争であるという意見が多数を占めるようになりました

1968年3月16日、ソンミ村事件
南ベトナムに展開するアメリカ陸軍のうち第23歩兵師団・第20歩兵連隊第1大隊 C中隊のウィリアム・カリー中尉率いる第1小隊が、南ベトナム・クアンガイ省ソンティン県にあるソンミ村のミライ集落(省都クアンガイの北東13km、人口507人)を襲撃し、無抵抗の村民504人(男性149人、妊婦を含む女性183人、乳幼児を含む子供173人)を無差別射撃などで虐殺しました。さらに C中隊が何ら抵抗を受けていなかったにもかかわらず、B中隊が増派され、近隣の集落でも虐殺を行っています

1968年、学生によるベトナム反戦運動の高揚
アメリカの学生運動も、ベトナム反戦とともに大学の官僚的な統制に反発し、大学改革を求める運動として1964のカリフォルニア大学バークレー校に始まり、1968年にはコロンビア大学やハーヴァード大学でも学生が校舎を占拠するなどの過激な運動が展開されました。この学生運動はたちまち全世界に広がり日本でも東大紛争を始め全国の大学にベトナム反戦の嵐が吹き荒れました
* 世界でヒットしたベトナム反戦歌:Peter Paul & Maryの「Where have all the flowers gone」、Bob Dylanの「Blowin’ in the wind
1968年12月、ベトナム駐留米軍の兵力は約54万人に達しています

1969年4月、米軍司令官は、ベトナム戦争でのアメリカ人の死者が33,641人に達し、1950~53年の朝鮮戦争での死者数(33,629人)を上回ったことを確認しました

1969年9月2日、ホー・チ・ミン死去、レ・ズアンが後継者となる

1970年6月3日、北ベトナム軍がカンボジアの首都プノンペンに接近し始めましたが、米軍の空爆によって阻止されました

1973年1月27日、パリ和平会談の結果和平協定成立
米国のキッシンジャー補佐官とベトナムのレ・ドク・トによる秘密交渉が進められ、北ベトナム、ベトコン、南ベトナム、米国の四者によって調印されました。これによってベトナム戦争の停戦米軍の撤退南ベトナムの政治的対立の解決、捕虜の相互解放などで合意が得られました。この合意に基づき、

1973年3月29日、米軍のべトナム撤退が完了
しかし、この和平協定は米国にとっては戦争終結を意味しましたが、南ベトナムの政治的対立の解決が図られたわけではありませんでした。そのためその後も、ベトコンと南ベトナム軍の戦闘は内戦という形で続きました

1975年4月14日:ベトナム共和国大統領ティエウは海外亡命、南ベトナム政権自壊
1975年4月30日、北ベトナム軍が南ベトナムの首都サイゴン(現在のホーチミン市)を陥落させベトナム戦争は最終的に収束しました(南部解放の日)

南ベトナム軍・政府関係の高官及びその家族は、先を争って米軍の艦船、航空機に押しかけ米国への亡命を目指しました

1976年7月2日ベトナム社会主義共和国と国名を変え正式に統一が実現しました

1978年12月23日ベトナム軍、カンボジア侵攻 ⇒1979年1月7日、カンボジアのプノンペン陥落
*侵攻の理由:
親中国のポル・ポト率いるカンボジアのクメール・ルージュ政権を打倒し、親ベトナム政権を樹立する為 

1979年1月8日
親ベトナムのカンプチア人民共和国 (PRK) がプノンペンで建国され、10年に及ぶベトナムの占領が始まりました(⇒ 1989年9月26日、カンボジアから完全撤退しました)

1979年2月17日
、中国軍がベトナム北部国境全域に侵攻。中越戦争勃発
*侵攻の理由:中国はカンボジアのポル・ポト政権を支持しており、ベトナムの行動を「ベトナムの覇権主義」と非難していました
1979年3月18日、 中国軍完全撤退
中国撤退の理由;ベトナムは中国軍の侵攻に対し、正規軍・民兵を動員して激しく抵抗した。その結果、中国は兵站の困難・地形の複雑さ・民間の敵意などに直面し損害が増大した。また、ソ連はベトナムの同盟国であり、実際にシベリア軍管区や極東のソ連軍を動かすなど、中国への牽制を強化した。この結果、長期戦になれば不利と判断した可能性が高いと言われています

1986年12月15日、ベトナム共産党第6回大会(~18日)でドイモイ(刷新)政策発動 ⇒ 市場経済の導入により、その後急速な経済発展を遂げました

傘寿のベトナム旅行 雑感

コロナ騒動以降、病気療養に明け暮れた数年間を経て久し振りの海外旅行でしたが、短い旅程の割には収穫の多い旅でした。以下、旅行中に感じた幾つかの印象に残ったことを書き綴ってみたいと思います
我々日本人にとって、戦跡を訪ねることは辛い事ですが、ベトナム人にとっては国の誇り、自身の勇気を取り戻す機会になっていると感じました;
ィエンビエンフーの戦跡見学


ディエンビエンフーの戦いが、フランス軍の要塞が深い塹壕などによって堅固に守られていたことから、ベトミン軍にとっても厳しい戦いであったことが理解できました(←日露戦争・203高地の要塞戦では勝ったものの、日本軍には甚大な犠牲者がでたことは良く知られています)
以下の写真は、フランス軍が最後の抵抗を行った「A1の丘」と呼ばれている戦跡です;

降伏したフランス軍;

* ホー・チ・ミン博物館
どこかの国の様に、国家の指導者を神格化するのではなく、ホー・チ・ミンは建国の父として国民に愛されています。貧しい家庭に生まれたホー・チ・ミンの生涯は波乱万丈で、若い頃は右の写真のように、ロンドンのカールトンホテルでウェイターをしていたこともありました

博物館のお土産のコーナーに以下の「子供向けの」ものがありました;


このお土産には子どもに伝える以下の5つのことが書かれています;
祖国を愛し、人々を愛しなさい、② よく学び、よく働きなさい、③ 良い団結、良い規律、④ 良い衛生状態の維持、⑤ 謙虚で正直で勇敢であれ
ベトナムでは、子供たちにホー・チ・ミンを「ホーおじさん」と呼ばせていることからわかるように国の指導者を「愛する存在」となるよう工夫している事がわかります

* ベトナム軍事歴史博物館

ここでは、フランス軍との戦い、米国・南ベトナムとの戦いで勝利した結果、多くの敵の兵器を鹵獲(敵の武器・弾薬等を奪うこと)したものを屋外に展示しています。また、左上の写真は破壊された武器類を積み上げてモニュメントにしたものです。私が学生時代にベトナム戦争のニュースでよく見た軍用機が沢山展示されており、感慨深いものがありました

* 戦跡や博物館の記録、ベトナムの歴史を調べて実感した「ベトナム人の強さ」
ベトナム人は、理不尽な敵に対しては以下の歴史が教える通り、多くの犠牲を出しながら勇敢に戦い勝利を収める強さを持っています;
① 陳朝時代((1225~1400))の将軍・チャン・フン・ダオ(陳国峻)に率いられたベトナム人は、アジア・ヨーロッパを征服したモンゴル軍を二度に亘って撃退しました
② 第二次大戦後、日本の降伏の機会を捉えて再びベトナムの植民地化を推し進めようとしたフランスに対して戦いを挑み、1954年、ディエンビエンフーの戦いでフランスに勝利しました。この長い戦争で、フランス軍とフランスの支援をしたベトナム人の死者は併せて16万人であったのに対し、ベトミンとその支援者の死者も16万人に達したと言われています
③ 1960年以降のベトナム戦争では、米軍は約5万8千人の死者を出したのに対し、ベトナム人は併せて(北ベトナム軍、ベトコン、南ベトナム政府軍、一般民衆)200万人の死者を出したと言われています

* 戦いに勝利した後、敵に対して示す「ベトナム人の優しさ」
ベトナム近代史を振り返ると、フランス植民地時代の圧政、米国及びその同盟国との苛烈な戦争と戦争犯罪非人道的な無差別爆撃/北爆・枯葉剤散布、住民の無差別殺害)、ベトナム戦争終了後に中国から仕掛けられた侵略戦争、などに苦しめられたはずなのに、現在これらの国々との友好関係を構築しています

* ハノイ市内で感じた「ベトナム人の美しい心映え」
ハノイ市内は、娘が手配してくれた車での観光でしたが、結果として助手席に座ることが出来たことからハノイの現在の交通事情をつぶさに観察できました。20年前にホーチミン市を旅行した時は「車・バイク・人が交通ルール無視で大混乱の状態だった」という印象でしたが、今回は全く違う印象を持ちました(ハノイの交通事情)。トラック、乗用車、バイク、自転車、人がそれぞれ交通弱者を大切にして強者が弱者に譲ることで水の流れの様に実にスムース流れていく」状態であることに気が付きました。偶に短いクラクションも聞こえましたが、これは自身が近くの車の死角となる状況になった時に軽く存在を知らせるために鳴らしていることも理解できました。ベトナム人の美しい心映えが現れている交通ルールだと感動しました

あとがき

ある国の行動を本当に理解するには、国家が国民に何を期待しているのかを知る必要があると私は考えています。それには国歌で歌われている歌詞を理解するのが一番だと思います
日本や英国の様に、国の象徴たる国家元首が歴史的な存在である場合には「君が代」や「英国国歌」の様にそれぞれ天皇陛下、英国国王の永遠の繁栄を祈る内容になっています。
一方、外国との熾烈な戦争を勝ち抜いて独立を果たした国々の国歌は、歌詞の内容が全く異なります。因みにフランスの場合、国歌「La Maruseillaise」は周辺の列強の干渉を打ち破る革命軍の進軍歌が元になっており、米国の国歌「The Star Spangled Banner」はイギリスからの独立戦争の英雄的な行為が歌詞になっています。また、中国国歌「義勇軍行進曲」をお聞きになると、抗日戦争時の共産軍の進軍歌がベースになっており、日本との闘いの際に国民を鼓舞する勇ましい歌詞になっています

ベトナムの国歌」は、ホー・チ・ミンが創立し、外敵に対して戦いを始めたベトミンの進軍歌をそのまま使っており、国民は他国の侵略に対しては命をかけて戦うことを期待されていることが分かります
日本は、13世紀の元寇以降、他国を侵略することはあっても侵略されたことはありません。ロシアや中国という覇権主義国と国境を接する日本は「平和を愛する国民」というだけで国の安全が保たれるのか?とふと疑問に思いました

以上

ロシアによるウクライナ侵攻とヨーロッパ諸国の軍拡の状況

はじめに

筆者の妻が長年日本・エストニア友好協会の事務局をやっている関係で、バルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア)、その他の北欧諸国(フィンランド、スウェーデン、ノルウェイ他)の情報がよく手に入ります。昨今、これらの国々からの物騒な情報が増えてきました。これらの国々は、徴兵制復活ロシアとの国境警備の強化スウェーデンはバルト海にあってロシア領と対峙するゴットランド島の防衛強化などを行うようになりました
これらの国々とロシアとは、以下の地図をご覧になるとお分かりになると思いますが、極めて長い国境線を共有しています;

歴史的に、これらの国々は度々ロシアからの侵略(後述)を受けてきました。今回のウクライナ侵攻は、まさしく他人事ではない事態であると国民の大多数は受け止めていると思われます

大国による小国の侵略に関しては、アジアにおいても急速に軍事大国となった中国が台湾海峡の緊張を生み出すと共に、南シナ海や東シナ海においても理不尽な領土要求を行って緊張を高めています
こうした国際情勢の中で、日本がどのような安全保障上の準備をしなければならないか勉強する為に、大国であるロシアが過去どのような侵略戦争を行ったか、それに対してロシアの侵略に欧州の小国がどのような苦難を味わってきたかを調べてみました

ロシアによる侵略と領土拡大の歴史(Quick Review)

現在のロシアのウクライナ侵攻とヨーロッパ各国の対応の根源には、ピョートル1世(下記北方戦争勝利によりピョートル大帝と呼ばれています)から始まる以下の侵略戦争の歴史を辿る必要があります。以下は、生成AIや他のネット情報に基づき作成してみたものです
以下は18世紀初期の北ヨーロッパの状況を表す歴史地図です(ネットには適当な歴史地図が載っていなかったので、筆者の高校時代の世界史の授業で使った懐かしい!歴史地図をコピーしました)

<ロシア帝国(1721年~1917年)時代>
ロシア帝国は、ピョートル1世(大帝)によって1721年に成立し、20世紀初頭までに広大な領土を支配する様になりました

【ピョートル1世(在位:1682年~1725年)】の時代
① 北方戦争(1700年~1721年)
バルト海への進出を目的にスウェーデンと長期に亙って戦って勝利し、エストニアラトビアリトアニアの一部とカレリア(ロシア・フィンランド北部国境地帯)などを獲得しました

女帝エカテリーナ2世(在位:1762年~96年)】の時代
② ポーランド分割
ロシアは西方への領土拡大を企図し、プロイセン、オーストリアと共に弱体化したポーランド・リトアニア共和国を3度に亘り(1772年、1793年、1795年)攻撃した結果、ロシアは現在のベラルーシウクライナ西部リトアニアの一部を獲得しました。3ヶ国の分割支配の状況は下図参照;

【アレクサンドル1世(在位:1801年~25年)】の時代
<ナポレオンのロシア遠征(1812年)> 

ナポレオン軍の死者数: 約 40万~45万人(戦死・病死・凍死・餓死の合計)
ロシア軍の死者数:約 15万~40万人(戦死・病死・凍死を含む)
尚、ロシア国内での戦闘や焦土作戦により、数十万人の民間人も犠牲になったと推定されています
参考:この戦争については、ロシアの文豪トルストイが長編小説にしています。文学に関心のある方は読んでおられると思います。そのあらすじと映画の予告編をご覧になりたい方は以下をクリックしてください:戦争と平和あらすじ

【アレクサンドル1世(在位:1801年~25年)⇒ ニコライ1世(在位:1825年~55年)⇒アレクサンドル2世(在位:1855年~81年)】の時代
③ コーカサス戦争(1817年~1864年)

コーカサス地方の制圧を企図してチェチェン、ダゲスタン、ジョージアなどと戦争を行った結果、ジョージア、アルメニア、アゼルバイジャンを併合しました

④ シベリア進出(16世紀~19世紀)

東方への領土拡張を企図し、 先住民族(ヤクート、ブリヤートなど)、及び清と戦い、 1689年のネルチンスク条約、1858年のアイグン条約、1860年の北京条約によりアムール川流域と沿海州を獲得した

【アレクサンドル2世(在位:1855年~81年)】の時代
⑤ クリミア戦争(1853年~1856年)
クリミア半島とバルカン半島への影響力拡大を企図し、オスマン帝国イギリスフランストルコ帝国などの連合軍と戦った結果、ロシアは敗北し
南下政策は挫折しました

この戦争の戦死者:ロシア帝国:約13万人、連合軍側:約7万人

【ニコライ2世(在位:1894年~1917年)】の時代
⑥ 日露戦争(1904年~1905年)

朝鮮半島と満州の支配を企図して日本と戦った結果、日本に敗北し南樺太の日本への割譲と満州の利権(南満州鉄道に関わる利権)を日本に譲渡しました
この戦争の戦死者:日本:約9万人、ロシア帝国:約8万人

<第一次世界大戦、1914年~1918年>
ロシア帝国は1914年に戦争に参戦し、東部戦線でドイツ帝国やオーストリア=ハンガリー帝国と戦いました。戦争中に発生したロシア革命(1917年)により戦争の継続が困難となり、1918年戦争終結前にブレスト=リトフスク条約を締結して戦争から離脱しました

ロシア軍人の死者数:約170万人~200万人民間人の死者数:約160万人~190万人(戦争による飢餓や病気を含む)

<ソビエト連邦(1922年~1991年)の時代>
【 スターリン(統治期間:1924年~1953年)】の時代
ソビエト連邦は、共産主義の拡大と安全保障を目的に領土拡張を行いました
1939年8月、ソ連(スターリン)はドイツ(ヒトラー)との間で通称・独ソ不可侵条約(正式には「モロトフ=リッベントロップ協定」)を結びました。公表された条文は相互不可侵および中立義務のみでしたが、同時に結ばれた秘密議定書では東ヨーロッパとバルト三国、フィンランドをドイツとソビエトの勢力範囲に分け、相互の権益を尊重しつつ、相手国の進出を承認するという性格を持っていました。以下はその条約に沿ってソ連による侵攻が行われました

<ノモンハン事件 1939年>
日本側(関東軍)の死者・行方不明者:約 18,000人
ソ連軍・モンゴル軍の死者数: 約 9,000人~10,000人

⑦ ソ連のポーランド侵攻(1939年)
 ポーランド東部(現在のウクライナ、ベラルーシの一部)を占領しました
⑧ バルト三国併合(1940年)
西側勢力の影響を排除し防衛線を強化する為に、1918年に独立したばかりのエストニア、ラトビア、リトアニアを再び占領し、1991年ソ連崩壊まで続いた
⑨ フィンランド侵攻(冬戦争・1939年~1940年)
防衛線を強化する為にフィンランドに侵攻、フィンランドの領土の一部(カレリア地方)を獲得するも、フィンランドの独立は維持されました
⑩ ルーマニア領侵攻(1940年)
 ルーマニアに侵攻し、 ベッサラビアと北ブコビナを併合、ソ連領(現在のモルドバ)としました

<第二次世界大戦 1939年~1945年>
ソ連(ソビエト連邦)の死者数は、約 2,400万人~2,700万人 と推定されています。これは戦争に参加した国の中で最も多い犠牲者数です
参考:太平洋戦争における日本人の戦死者、戦病死者、民間人の死者の合計は約320万人と言われています。ロシア人の死者が如何に膨大であったかが分かると思います

⑪ 第二次世界大戦後の東欧支配
第二次大戦後、侵攻した国々(ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキア、ルーマニア、ブルガリア、東ドイツ)に親ソ政権を樹立し、冷戦時代の東側陣営を形成し、実質的にソ連の影響下に置きました

【 ブレジネフ(統治期間:1977年~1982年)】の時代
⑪ アフガニスタン侵攻(1979年~1989年)

共産主義政権の支援と親ソ政権の維持するためにアフガニスタン侵攻したものの、ゲリラとの長期戦の末に撤退しソ連の崩壊を加速する結果となりました

<ロシア連邦(1991年~現在)の時代>
ソビエト連邦の崩壊後、ロシア連邦も軍事侵攻を行い、影響力を拡大しようとしました。

【 エリツィン(統治期間:1991年~1999年)】の時代
⑫ 第一次チェチェン戦争(1994年~1996年)
ソ連邦内のチェチェン共和国の独立を阻止する為に侵攻しました

【 プーチン(統治期間:1999年~現在)】の時代
* 第二次チェチェン戦争(1999年~2009年)
チェチェンを制圧し、ロシアの支配下に置きました
⑬ グルジア(ジョージア)侵攻(2008年)

南オセチアとアブハジアの親ロ派勢力支援し、事実上のロシア支配下に置きました
⑭ クリミア併合(2014年)
ウクライナ領のクリミヤに電撃的に侵攻し、住民投票を経てロシアが一方的に併合しました。しかし国際的には違法とされています
⑮ ウクライナ侵攻(2022年~現在)
ウクライナがNATO加盟を目指すなどの親欧米路線を阻止する為に電撃的に侵攻を始め現在に至っています

ピョートル1世以降、現在に至るまでのロシアの他国に対する侵略は、ウクライナを含め上記の通り15回に及び、これに伴うロシア側の死者数も膨大な数に上っています。この様な膨大な犠牲を払っても領土の拡張に執念を燃やすロシアの様な国に対しては、単なる平和国家を標榜しているだけでは国を守ることはできないと思われます
現在のプーチン大統領がピョートル1世(大帝)とエカテリーナ2世を尊敬していることは良く知られています。この二人の皇帝がロシアの近代史の中で最も領土を広げた統治者であったことはプーチンの行動を考えると頷けるような気がします

顧みればわが国もロシアのみならず、覇権国家である中国、北朝鮮と国境を接しており、中国が台湾に侵攻を開始したり、北朝鮮・韓国の戦争が勃発すれば日米安保条約に従って我が国が核兵器を含む攻撃を受ける蓋然性は高いと言わざるを得ません。こうしたことを考えると、今回のウクライナ危機に対して NATO諸国、就中バルト三国のロシアによる侵略の危機に対して、どういう準備をしているかを勉強することは意味があるのではないでしょうか。筆者が勉強した結果を以下に紹介します

周辺諸国の対応

1.NATOへの加盟
これまで、ロシアに対しての中立を保っていたフィンランドは2022年4月に加盟しました。また、クルド問題で加盟が遅れたスウェーデンも2024年3月にNATOに加盟しました

NATOは、ロシアのウクライナ侵攻以降、米国と共にウクライナに武器援助を行っています。特にNATOの中でポーランドは旧ソ連軍による大量虐殺事件(カチンの森事件)の被害国という歴史的背景から、真っ先にウクライナへ戦闘機供与を行いました。一方、プーチンの核攻撃の脅しに対して最近核保有国のフランスは、核抑止力を他のNATO諸国に提供する可能性を示唆しています。
元々NATOは第二次大戦後、ソビエト連邦を中心とする東欧共産圏の国々に軍事的に対峙する為に作られた軍事同盟であり、NATO加盟を希望して果たせないでいるウクライナがロシアに屈すれば、次は自国に危機が及ぶと考えるのは自然なことと思われます

現在の覇権国(ロシア、中国)と民主主義国(米国、G7)の対立は、第二次大戦の枢軸国(ドイツ、日本、他)と連合国(米国、英国、他)の対立の構図とよく似ています。第一次大戦の反省から生まれた国際連盟が、大規模な国際紛争の平和的解決に役立たなかったことから生まれた国際連合は、大戦の戦勝国が常任メンバーなった安全保障理事会で平和的に国際紛争を解決するはずであったものの、常任理事国が当事者となる国際紛争では、拒否権の行使によってその役目を果たせなくなっています
ロシアのウクライナ侵攻に関しても、明確に国際連合憲章第2条に違反していることが明らかであるにも関わらず安全保障理事会は平和の為の機能を発揮することが出来ず現在に至っています

2.徴兵制の導入、強化
ロシアと国境線を有する国々はいずれも徴兵制を導入しており、現在の状況は下表の通りです;

国名 徴兵制 対象
スウェーデン あり(2018年再導入 18~47歳の男女(選抜制)
ノルウェー あり(男女平等徴兵) 19~44歳の男女(選抜制)
フィンランド あり(厳格徴兵) 18~60歳の男性(女性は志願)
エストニア あり 18~27歳の男性(女性は志願)
ラトビア あり(2024年より段階導入 18~27歳の男性
リトアニア あり(2015年再導入 18~26歳の男性(女性は志願)

3.その他の対ロシア防衛体制の強化
① フィンランド
* 地雷禁止条約(オタワ条約)脱退
フィンランド軍、幹線道路で離着陸訓練
② バルト三国エストニア、ラトビア、リトアニア);
三国共同で「バルト防衛線」を計画し、ロシアおよびベラルーシとの国境沿いに防衛施設を構築しています。この計画には、各国境に600以上のバンカー(掩体壕:左の写真参照)や対戦車壕の建設が含まれています

ポーランド
ポーランドは2024年末までにロシアおよびベラルーシとの国境沿いに防衛線を構築する計画を進めています
④ ドイツ・リトアニア;
ドイツは第二次世界大戦以降初めて、約 5,000人規模の装甲旅団をリトアニアに恒久的に駐留させることを決定しました。​これはロシアのウクライナ侵攻を受けた対応で、NATOの東側防衛を強化する目的があります
*Follow_Up:2025年5月28日_日経新聞/欧州安保「強いドイツ」許容 戦後初の国外常駐、徴兵制復活も

⑤ スウェーデン
スウェーデン・ゴットランド島の防衛強化状況
ゴットランド島はバルト海中央にあり、バルティック艦隊の基地のあるロシアの飛び地・カリーニングラードに対置しています

⑤ EU(​欧州連合)
EUは、ロシアおよびベラルーシとの国境監視を強化するため、電子監視機器の更新や通信ネットワークの改善、移動式探知機器の配備、ドローン侵入対策などに1億7千万ユーロの資金を提供しています

4.NATO諸国の防衛費増額
NATOの主な加盟国のGDPに占める国防費の割合については以下の表をご覧ください。2021年から2024年にかけてロシア周辺諸国を中心に急激に防衛費が増額されていることが分かります

Follow_UP:以下の記事は、Aviation Week_August 11-31’2025 に掲載されていたフランスとドイツの軍事費の伸びのグラフです

5.国民を戦災から守る施策
最近、スウェーデンが国民及び国内に在住する外国人全員に配布した以下の「自身の命を守るための対処法」を入手しました:

英語が得意な方!はこのパンフレットの英語版をご覧ください;スウェーデン_In case of crisis or war

パンフレットの内容を以下に日本語訳してみました;
[危機または戦争が起きた場合]

このパンフレットはスウェーデンの全世帯に配布されています
スウェーデン政府を代表して。内容については、スウェーデン民間緊急事態庁 (MSB) が責任を負っています
このパンフレットは、スウェーデン語、Easy Swedish、英語で注文でき、他の多くの言語でデジタルダウンロードできます。スウェーデン手話、音声形式、点字でも利用できます。詳細については、msb.se をご覧ください
このパンフレットは安全な場所に保管してください

スウェーデン緊急事態庁(MSB) 651 81 カールスタード msb.se
イラスト:パトリック・ベルク
出版番号:MSB2400 – 2024年11月
ISBN:978-91-7927-529-73

スウェーデン在住者の皆様へ
私たちは不確実な時代に生きています。現在、世界の片隅で武力紛争が起こっています。テロ、サイバー攻撃、偽情報キャンペーンが、私たちを弱体化させ、影響を与えるために使用されています。これらの脅威に抵抗するには、団結する必要があります
スウェーデンが攻撃された場合、誰もがスウェーデンの独立と民主主義を守るために自分の役割を果たさなければなりません
私たちは愛する人、同僚、友人、隣人とともに、毎日回復力を高めています
このパンフレットでは、危機や戦争に備えてどのように準備し、行動するかを学びます。あなたはスウェーデンの総合的な緊急事態対策の一部です

目次
1.不確実な時代だからこそ、備えが大切
2.スウェーデンを強くするために力を合わせよう
3.スウェーデンの防衛
4.警戒態勢の強化
5.全面防衛義務
6.警報システム
7.空襲時に避難する
8.家庭での備え
9.避難
10.民間防衛シェルター
11.心理的防衛
12.デジタルセキュリティ
13.テロ攻撃
14.出血を止める方法
15.異常気象
16.病原体
17.特別な支援が必要な場合
18.ペットを飼っている場合
19.心配な場合
20.危機や戦争について子供に話す
21.重要な電話番号

1.不確実な時代だからこそ、備えが大切
不確実な時代においては、備えることが重要です。軍事的脅威のレベルは高まっています。最悪のシナリオ、つまりスウェーデンへの武力攻撃に備える必要があります。戦争は自由に対する究極の脅威です。軍事的暴力が権力を握るために使われると、自由で独立した生活を送る権利が脅かされます。しかし、武力紛争以外にも、サイバー攻撃偽情報キャンペーンテロ破壊活動など、社会に影響を与え、弱体化させる方法はあります。こうした種類の攻撃はいつでも発生する可能性があります。現在も発生しています。自由を当然のことと考えることは決してできません。たとえ犠牲を払う必要があるとしても、私たちの開かれた社会を守る勇気と意志は不可欠です。スウェーデンが攻撃されても、私たちは決して降伏しません。それに反する主張は誤りです。その他の深刻な脅威

また、次のようなその他の深刻なリスクや脅威に対する耐性を強化する必要があります
*異常気象
*危険な病原体
*重要な IT システムの停止
*組織犯罪

2.スウェーデンを強くするために力を合わせよう
危機や戦争の際には、私たち全員がスウェーデンの回復力に貢献する必要があります。政府機関、地方自治体、自治体は、私たちの安全が脅かされたときに大きな責任を負います。たとえば自治体は、病人や高齢者の世話をし、育児や救助サービスが可能な限り中断されないようにします。民間部門も私たちの備えに貢献しています
深刻な事件が発生した場合、援助は主に最も必要としている人々に重点を置く必要があります。つまり、私たちのほとんどが少なくとも1週間は自力で対処できなければなりません

私たちの集団的備えに参加できる方法の例をいくつか挙げます;
*スウェーデンの総合防衛システムの枠組みの中で特定の任務を担う自発的な防衛組織に参加します。他にも重要な役割を果たす非営利団体や宗教団体があります
*緊急CPR(心肺蘇生法)のコースを修了します。 • 可能であれば献血をしてください
*地域社会の他の人々と、集団的な備えを強化する方法について話し合います。たとえば、同じアパートや住宅街の隣人と話し合ってください

3.スウェーデンの防衛
スウェーデンの総合防衛システムは、軍事防衛と民間防衛で構成されています。スウェーデンは NATO の集団防衛にも参加しています。
軍事防衛
スウェーデンの軍事防衛は、スウェーデンとその NATO 同盟国を武力攻撃から守り、国境を守り、紛争解決を支援します。軍事防衛は、スウェーデン軍と、スウェーデンの軍事防衛を支援することを主な任務とする政府機関で構成されています
民間防衛
民間防衛には、政府機関地方自治体自治体民間部門非営利団体とともに、スウェーデンに住むすべての人が関与しています。民間防衛の最も重要な任務の 1 つは、軍事防衛を支援することです。もう 1 つの主な任務は、国民を保護し、戦時中であっても、可能な限り重要な公共サービスが中断されないようにすることです。重要な公共サービスには、エネルギー医療輸送が含まれます。 NATO におけるスウェーデン
スウェーデンは軍事同盟 NATO に加盟しています;
同盟の目的は、加盟国が団結して強力になり、他国による攻撃を抑止することです。それでも NATO 加盟国が攻撃された場合、同盟の他の国がその国の防衛を支援します。つまり、全員が 1 人のために、1 人が全員のためになるのです


4.警戒態勢の強化
戦争または戦争の脅威が発生した場合、スウェーデン政府は国の防衛能力を向上させるために警戒態勢の強化を発表する場合があります
警戒態勢の強化には、侵略者に対して団結し、重要なサービスと機能が中断されないようにする必要があります。そのような事態が発生した場合、さまざまな役割を担うよう求められることもあります

警戒態勢の強化に関する発表は、ラジオ、テレビ、テレテキストなど、さまざまなチャンネルを通じて放送されます。緊急警報は、最高警戒態勢を知らせるために使用される場合もあります
緊急警報は、スウェーデンが戦争状態にあるか、武力紛争の差し迫った脅威にさらされていることを知らせます。全防衛部隊を直ちに動員し、全員が戦争に備えなければなりません。

5.全面防衛義務
完全防衛義務
16 歳になった年から 70 歳になる年の終わりまで、あなたはスウェーデンの完全防衛の一員となり、戦争または戦争の脅威が発生した場合に奉仕することが義務付けられます
完全防衛義務は、スウェーデン国内または海外に住むすべてのスウェーデン国民に適用されます。完全防衛義務は、スウェーデンに居住する外国人にも適用されます。完全防衛義務は、次のもので構成されます;
*軍事または民間防衛サービス。警戒態勢が強化されている間は、戦時配置で指定された場所に直ちに移動する必要があります
*一般的な国家奉仕。スウェーデン政府が一般的な国家奉仕を発動した場合、あなたは職場に留まるか、スウェーデンの完全防衛システムを支援する他のタスクを実行する必要があります
警戒態勢が強化されている間は、特定の戦時配置が割り当てられていない限り、通常どおり仕事に行きます

6.警報システム
重大な事故、危機、戦争の脅威、または戦争が発生した場合、さまざまな方法で警報が発せられることがあります
さまざまなサイレンの意味を学びましょう;
屋外警報;
大音量のサイレンを使用する屋外警報システムは、スウェーデンのほとんどの自治体と原子力発電所の周辺で運用されています
このシステムは、3 月、6 月、9 月、12 月の最初の祝日でない月曜日の午後 3 時 (15:00) にテストされます

公共広告 (PSA)
このサイレンは 7 秒間鳴り、その後 14 秒間沈黙します。このパターンは 2 分間繰り返されます;
屋内に入り、すべての窓とドアを閉め、可能であれば換気をオフにします。詳細については、スウェーデンの公共放送局 Sveriges Radio のチャンネル P4 を聞いてください。
緊急警報および情報システムである PSA (公共広告) は、緊急事態で使用されます。たとえば、有害な大気汚染や、有毒ガスを放出したり爆発を引き起こしたりする可能性のある火災が発生した場合などです。公共広告は、主に以下を通じて放送されます
*Sveriges Radio、SVT (スウェーデンの公共放送)、SVT テレテキスト、および民間のラジオとテレビ チャンネル
krisinformation.se、SOS Alarm 緊急サービス、Sveriges Radio、SVT などのアプリ
*影響を受けた地域の携帯電話に送信されるテキスト メッセージ

緊急警報;
サイレンが 30 秒間鳴り、その後 15 秒間沈黙します。このパターンが 5 分間繰り返されます。屋内に入り、スウェーデンの公共放送局 Sveriges Radio のチャンネル P4 を聴いてください。緊急警報は、国全体が最高の警戒状態にあることを意味します。軍隊のメンバーまたは民間防衛に従事している場合は、指定された戦時配置に直ちに進んでください。戦時配置が現在の職場である場合は、雇用主の指示に従ってください

空襲警報;
このサイレンは短いバーストで構成され、1 分間鳴ります
すぐに避難してください。たとえば、民間防衛シェルター、地下室、またはその他の防護構造物に避難してください。屋外よりも屋内の方が安全で、できれば窓のない部屋の方が安全です

警報解除;
30 秒間続く、長く途切れないサイレン

7.空襲時に避難する
空襲があった場合は、すぐに避難所または他の保護場所に避難する必要があります。最寄りの避難所を選択してください。また、軍事攻撃の可能性がある場合は、その地域から避難する必要があるかもしれません
警報は、空襲警報やスウェーデンの公共放送局 Sveriges Radio のチャンネル P4 など、さまざまなチャンネルを通じて放送されます

民間防衛シェルターは、衝撃波や爆弾の破片から身を守ります。また、核兵器の爆風や熱波からも身を守ります。シェルターは、放射性降下物化学兵器のガス生物兵器に関しては、他の場所よりも優れた保護を提供します。

避難するその他の場所;
地下室、ガレージ、地下の地下鉄駅も、空襲中に身を隠します。トンネルや壁も、ある程度の保護を提供します
屋外よりも屋内、できれば窓のない部屋にいたほうがよいでしょう。屋外にいて身を隠す時間がない場合、地面に横たわらなければなりません。できれば小さな穴や溝に
「安全」のサイレンが聞こえたら、シェルターから出ることができます
負傷者や閉じ込められた人を助けてください。

核兵器;
世界的な脅威レベルが上昇しているため、核兵器が使用されるリスクが高まっています。核兵器、化学兵器、生物兵器が使用される攻撃の際には、空襲のときと同じように身を隠してください。民間防衛シェルターは最高の保護を提供します。放射線レベルは数日後には大幅に低下します

基本的な防護;
屋外の穴や溝トンネル内または壁の横屋内の窓のない部屋民間防衛シェルター地下室ガレージ地下の地下鉄駅(最も効果的な保護が可能)

8.家庭での備え
少なくとも 1 週間は自力で対処できれば、集団での備えに貢献できます

チェックリストのアドバイスを、自分のニーズや状況に合わせて調整してください。隣人など、他の人といくつかのものを共有できるかもしれません。危機や戦争の際には、誰もが互いに助け合わなければなりません
事前に準備しておけば、深刻な事態が発生したときに慌てずに済みます

水;
主に飲料水と調理用に、1 日に少なくとも 3 リットルの水が必要です。飲料水が不足した場合は、自治体が公共の給水タンクを用意できます。ただし、緊急時に備えて自宅にいくらかの水を備蓄しておく必要があります
水を貯めるための貯水容器または蓋付きバケツを用意してください
ボトル入りの水を購入するか、貯水容器に水を満たしてください
水は暗くて涼しい場所に保管してください。年に 1 ~ 2 回、水の味や匂いが異常かどうかを確認してください。必要に応じて水を交換してください。水が飲んでも安全かどうかわからない場合は、沸騰するまで沸騰させてください

ペットボトルに水を入れて冷凍庫に入れます。停電の際にはボトルを保冷剤代わりに使用できます。氷が溶けたら、水を飲めます。ボトルをいっぱいに満たさないでください。凍ると割れる場合があります

暖房;
冬に停電すると、家の室内温度は急速に下がります。1 つの部屋に集まり、窓に毛布をかけ、床にラグを敷いてください
家に常備しておくとよいもの;
暖かい全天候型のアウトドア ウェア、ウール製の服、厚手の靴下、ビーニー、手袋、スカーフ、毛布、スリーピング マット、寝袋、
電気を必要としない代替熱源– たとえば、ガスまたはパラフィン ヒーター、キャンドル、ティー ライト、熱源用の燃料、マッチ、着火剤、消火器

代替熱源を使用する場合は、必要な予防措置を講じてください。窓を開けて呼吸できる空気を入れ、就寝前に熱源のスイッチを必ず切ってください。

コミュニケーション
政府当局からのニュースや重要な情報を受け取れるようにする必要があります
また、家族や友人と連絡を取り合うことも必要です。家に置いておくと便利なもの;電池、ソーラーパネル、または巻き上げ機構で動くラジオ、予備の電池、携帯電話と充電済みのパワーバンク、車用の電話充電器
重要な電話番号を紙に書き留めておく

スウェーデンの公共放送局 Sveriges Radio のチャンネル P4 は、緊急情報の公式チャンネルです。危機や戦争の場合でも放送が継続されます。お住まいの地域の P4 チャンネルの周波数は、krisinformation.se でご確認ください。

食品;
満腹感があり、エネルギーに富み、室温で安全に保存できる食品が必要です。すぐに調理でき、水をほとんど必要とせず、すぐに食べられる食品を入手してください。通常の買い物のときに、1 つまたは 2 つの追加アイテムを購入するだけで、緊急時の備蓄を増強できます

自宅に常備しておくとよいもの;
保存可能な食品: 穀物、シリアル、パスタ、米、クスクス、インスタント マッシュポテト、粉ミルク、トルティーヤ、クリスプブレッド、クラッカー、塩、スパイス缶詰食品:トマト、野菜、果物、すぐに食べられる食品
高タンパク質:乾燥または缶詰の肉や魚、ひよこ豆、豆、レンズ豆、チューブ入りチーズ
高脂肪: 調理油、ペスト、油漬け天日干しトマト、タプナード、ピーナッツバター、ナッツ、種子
エネルギー補給: フルーツカスタード、ジャム、チョコレート、蜂蜜、プロテインバー、ドライフルーツ
飲み物:コーヒー、紅茶、ホットチョコレートミックス、ブルーベリーとローズヒップのスープ、ジュース、または牛乳
子供用の食べ物: 粥、乳児用粉ミルク、オートミール、ベビーフード
手に入るフルーツやベリーを活用しましょう
庭、バルコニー、窓辺で食べられるものを育てましょう

通貨;
さまざまな方法で支払いができると、緊急時の備えが強化されます。時々現金を使う必要があります
あるとよいもの;
少なくとも 1 週間分の現金、できれば異なる額面の現金
その他の支払いオプション – たとえば、デビットカードやクレジットカード、デジタルサービ

トイレ;
停電などで水が出ない場合は、トイレを流すことができません。他の方法で廃棄物を処分し、衛生状態を良好に保つ準備をしてください
トイレを流せない場合でも、トイレで排尿することができます。トイレットペーパーはゴミ箱または蓋付きのバケツに捨ててください

排泄物を処分するには、ビニール袋またはゴミ袋を便器に入れるか、ポータブルトイレまたは蓋付きのバケツを使用してください。排泄物を堆肥化ごみまたはおがくずで覆います。廃棄物を処分する場所については、自治体から情報が得られます
自宅に常備しておくとよいもの:トイレットペーパー、ウェットティッシュ、手指消毒剤、おむつ、生理用ナプキン、ビニール袋またはゴミ袋、堆肥化ごみまたはおがくず、蓋付きのバケツ
臭いの蓄積を減らすために、尿と排泄物を混ぜないでください

その他;
自宅に常備しておくとよいもの:キャンプ用ストーブ、ガスバーナー、燃料、家庭用薬局、救急箱、マッチ、火起こし、懐中電灯、ヘッドランプ、缶切り、車の燃料タンクまたは充電済みのバッテリー
処方薬や使い捨て製品が必要な場合 (たとえば糖尿病の場合)、自宅に 1 か月分の備蓄を必ず保管してください

9.避難
軍事攻撃、自然災害、または有害物質の放出が差し迫っている場合、地域から迅速に避難しなければならない場合があります
避難指示は、公共広告 (PSA) システムを含むさまざまなチャネルを通じて発表されます。スウェーデンの公共放送局 Sveriges Radio のチャンネル P4 をオンにし、政府当局の指示に従ってください
自力で避難できない場合は、安全な場所に到着すると、支援が提供され、緊急用住居と食料も提供されます。

持ち物;
すぐに避難する必要があり、しばらく自宅に戻れない場合に備えて、必需品のリストを作成してください。持ち物に関するヒントをいくつか紹介します;
数日分の食料と水写真付き身分証明書、デビット カードまたはクレジットカード現金医薬品と補助具 (補聴器など)電池ソーラー パネルまたは巻き上げ機構で動作するラジオ暖かい服防水アウターウェア予備の衣類トイレタリーおよび衛生用品携帯電話と充電器地図コンパス電話番号や保険情報など、紙に書かれた重要な情報

10.民間防衛シェルター

特定の民間防衛シェルターが指定されているわけではありません。最寄りのシェルターに避難してください。msb.se(日本語でも見られます)では、スウェーデンのすべてのシェルターの位置を示す地図を見つけることができます
シェルターには水と基本的なトイレ設備が必要です。時間があれば、食べ物、暖かい服、トイレタリーを持ってきてください。シェルターに数日間滞在する準備をしてください

平時であれば、シェルターは他の活動に使用できます
ただし、必要に応じて 48 時間以内に再設定して利用できるようにする必要があります。警戒レベルが高まっている間は、所有者はシェルターが適切に準備されていることを確認する義務があります
シェルターには、オレンジ色の長方形の中に青い三角形のマークが(右の画像)が付いています。このシンボルは、建物が戦争法の下で保護されていることを意味します

最寄りの民間防衛シェルター
警戒レベルが高まった場合に避難が必要な場合は、現在地から最も近いシェルターに入る権利があります。 自宅、学校、職場の近くにあるシェルターやその他の保護施設を探してください
11.心理的防衛
外国勢力やスウェーデン以外の人々は、偽情報、誤情報、プロパガンダを使って私たちに影響を与えています
私たちに影響を与えようとする試みは、主にオンライン プラットフォームやソーシャル メディアを通じて毎日行われています。これらの行為の目的は、不信感を植え付け、自衛の意志を弱めることです

私たちに影響を与えようとする人々は、次のような方法でそうする可能性があります;
*嘘、偽の物語、または部分的に真実だが文脈から外れた話を広める
*偽の画像、動画、または音声録音を作成する
*特定の問題や出来事に関連する強い感情を引き起こし、お互いに対する不安や疑念を高めようとする。

私たちの集団的回復力に貢献する方法;
*強い反応を引き起こすコンテンツに注意してください
*信頼できる情報源からの情報のみを共有してください
*複数の異なる情報源からの情報を検証するようにしてください
*重大な事態が発生した場合は、公式の政府機関から確認を得てください

12.デジタルセキュリティ
デジタル化により、重要な IT システムをダウンさせるサイバー攻撃に対して脆弱になる可能性があります
自宅でも職場でも、情報を安全かつ確実に扱うことで、スウェーデンのレジリエンス強化に貢献できます。
始めるためのヒント:
*文字、数字、記号を組み合わせた強力なパスワードを作成します
*不明な送信者からのメール内のリンクをクリックしたり、添付ファイルを開いたりしないでください
セキュリティ アップデートをすぐにインストールします
重要な情報を外付けハード ドライブ、USB ドライブ、またはクラウド サービスに定期的にバックアップします

13.テロ攻撃
テロ攻撃や武力攻撃は、人や交通システム、電力網などの重要なインフラに向けられることがあります。被害に遭ったら、すぐに行動してください
逃げる:現場から遠く離れてください
隠れる:逃げられない場合は、部屋に閉じこもるか隠れてください。携帯電話をサイレント モードにしてください
伝える:112 に電話して、何が起こったかを報告してください。

考慮すべき事項
*ネットワークに過負荷をかけないように、助けを求める必要がある場合にのみ電話してください
*警察、救助隊、政府機関の指示に従ってください
*何が起こっているかについての噂や未確認の情報を広めないでください
*危険にさらされている可能性のある人には電話しないでください。隠れ場所が明らかになる可能性があります

14.出血を止める方法
負傷者を助ける前に、自分と負傷者の安全を確認してください。重度の出血を止める方法は次のとおりです;
112 番の緊急サービスに電話するか、他の人に電話してもらいます
できれば、丸めた T シャツ、スカーフなどを使用して、腕を伸ばした状態で傷口に直接しっかりと圧力をかけます
疲れたり、助けが必要になったりした場合は、誰かに手の上に圧力をかけてもらうように頼みます
救急車が到着し、救急隊員が圧力を解放してよいと言うまで、圧力を維持します

15.異常気象
大雨、洪水、熱波などの異常気象はますます頻繁に発生しています。土砂崩れや森林火災などの自然災害のリスクも高まっています。政府当局の支援を受けて、備えを強化するために、以下の手順を実行してください;
*市町村のウェブサイトまたは msb.se で、お住まいの地域での土砂崩れ、浸食、洪水のリスクと備えに関する情報を入手してください
*異常気象に備える方法についてのアドバイスを得るには、msb.se または krisinformation.se にアクセスしてください
*火やグリルに火をつける前に、お住まいの地域で火気禁止令が出ていないか確認してください。情報は krisinformation.se や、その他のウェブサイトで入手できます
*天気予報に注意し、気象警報を提供するアプリをダウンロードしてください。たとえば、krisinformation.se、スウェーデンの公共放送局 Sveriges Radio、SMHI Väder などです
*発せられた警告はすべて真剣に受け止めてください

異常気象や自然災害が発生した場合は、スウェーデンの公共放送局 Sveriges Radio のチャンネル P4 をオンにして、情報や詳しい指示を入手してください。たとえば、水道水を沸騰させる必要がある場合や、地域から避難する必要がある場合などです

16.病原体
感染症は急速に広がり、大規模な流行を引き起こす可能性があります。感染症が広がり始めた場合、政府機関は自分自身や他の人を守る方法についての推奨事項を提供します;
*市町村、地域の感染症専門家、政府機関からの最新情報を入手してください
*政府機関からの推奨事項に従って、病気の蔓延を減らすのに協力してください

17.特別な支援が必要な場合
現在、自治体から特別な支援を受けている人は、危機や戦争が発生した場合でも引き続き支援を受けることができます。ただし、特定のニーズに応じて、緊急事態への備えを遵守する必要があります
*家族、友人、隣人、介助者、または介護管理者に、必要な支援について相談してください
*処方薬やその他の医療補助具などの重要な情報も含めた、危機時の緊急時対応計画を立ててください
*避難所やその他の保護地域への移動に備えてください
*携帯電話のアクセシビリティ機能を使用して、最も重要な情報を入手してください
*聴覚障害がある場合は、krisinformation.se のアプリを使用し、通知をオンにして公共広告 (PSA) を受信して​​ください
*視覚障害がある場合は、テキスト読み上げツールまたはスクリーン リーダーを使用して、政府当局からの情報を入手してください
*盲導犬または介助犬は、民間防衛シェルターで許可されています。 !
詳細については、msb.se または krisinformation.se をご覧ください

18.ペットを飼っている場合
危機や戦争の際には、ペットの世話と健康は飼い主の責任です。少なくとも 1 週間は持ちこたえられるだけの食料を自宅に用意しておいてください
空襲があった場合は、地下室、ガレージ、地下鉄駅などの防護施設にペットを連れて行くことができます。ペットを自宅に残さなければならない場合 (ペットが自由に食べ物を摂取できる場合)、追加の食べ物と水を残しておいてください
自宅に置いておくとよいもの;
*保存容器に入れたドライフードと水
*動物用の薬
*動物を運ぶためのケージまたはその他の方法
*獣医への手書きの電話番号、保険情報、ID 番号
* 馬や家畜を飼っている場合は、緊急事態への備えに関する詳細情報を jordbruksverket.se で入手できます


19.心配な場合

不確実な時期は、人々に不安や心配を感じさせます。不安に対処するためのヒントをいくつかご紹介します;
*家族、友人、近所の人、またはメンタルヘルス組織に自分の気持ちを話しましょう。孤独感を和らげるのに役立ちます*参加しましょう。たとえば、他の人の緊急事態への備えを改善するのを手伝うなどです。そうすることで目的意識が持てます*自分の健康に気を配りましょう。良い食事、睡眠、運動はストレスを軽減し、健康状態を改善します
*ニュースの摂取を制限しましょう。自分に合ったレベルを見つけ、気分が良くなることにもっと時間を費やしましょう
*深刻な不安がある場合は専門家の助けを求めましょう。

20.危機や戦争について子供に話す
さまざまな年齢の子供は、さまざまな方法で不安を表現します。ストレスや心配の兆候に気を配りましょう;
*子供に状況を説明します
*耳を傾け、会話に誘います
*確認された情報のみを話します*不必要な詳細は避けます。 • すべての答えがわからない場合は、正直に認めましょう
*子どもと一緒にアクティビティを計画し、子どもの焦点を切り替えられるようにします

21.重要な電話番号
112 緊急の場合 – 救急車、救助隊、警察。 114 14 警察との非緊急連絡。 重大な事故や危機に関する情報の受信または提供。 1177 怪我や病気の場合の医療支援。 詳細情報 MSB.se 危機や戦争が発生した場合の緊急事態への備えに関する詳細情報。スウェーデン民間緊急事態庁が提供するビデオ、演習、コースなど。 Forsvarsmakten.se スウェーデンとその同盟国の軍事防衛について。 Krisinformation.se スウェーデン政府当局からの緊急情報。 Lilla.krisinformation.se 子供や若者に適した危機や戦争に関する情報

公共広告 (PSA);
サイレンが 7 秒間鳴り、その後 14 秒間沈黙します。このパターンは 2 分間繰り返されます。屋内に入り、すべての窓とドアを閉め、可能であれば換気装置をオフにしてください。スウェーデンの公共放送局 Sveriges Radio、チャンネル P4 を聞いてください

緊急警報;
サイレンが 30 秒間鳴り、その後 15 秒間沈黙します。このパターンは 5 分間繰り返されます
*スウェーデンの公共放送局 Sveriges Radio、チャンネル P4 を聞いてください
*軍人または公務員の場合は、指定された場所に直ちに進んでください。

空襲警報;
*サイレンは短いバーストで構成され、1 分間鳴ります。直ちに民間防衛シェルターまたはその他の保護場所を探してください。最寄りの場所を選択してください。

警報解除:
30秒間、途切れることなく長く鳴るサイレン

おわりに

ブログを書き始めるに当たってロシアの近代史をざっと調べたところ、改めてロシアという国は、為政者だけでなくその国民も他国を侵略することに道徳的な心に痛みを感じない国だなと思いました。私の過去のブログで、謂わば植民地支配をしていた満州に住んでいた両親や親戚も、一緒に住んでいた中国人や朝鮮人に対しては幾らかの心の痛みを感じていたいたと思われますが、ロシア人に対しては「ろ助」と呼んで憎んでいたと書いた事を思い出します
日露不可侵条約を結んでいたソ連が終戦直前に、一方的に条約を破棄して満州に怒涛の様に侵入してきたこと、また北満に入植していた沢山の一般日本人を集団自殺に追い込み、多くの投降した日本の軍人・軍属をシベリアに送り、極寒の中で強制労働をさせて、多くの死者を出したこと(国際法違反)は許し難いことであり、ヨーロッパの人々が歴史上被ったロシアの戦争犯罪による苦難に対し多くの日本人がシンパシイを感じてしまうことは不思議ではないと思います

日本は島国である為、歴史的に他国の侵略を受けたことは少ないものの、蒙古襲来(1274年,1281年)の時は、鎌倉武士の奮闘と暴風のお陰で退けることが出来ましたが、その進入路にあたる隠岐・対馬では島民の多くが殺害されています。また、太平洋戦争の末期の沖縄の戦闘では、住民を巻き込んだ激しい地上戦で20万人を超える人が亡くなり、県民の4人に1人が命を落としました

習近平主席が数年内の台湾併合を公言している現在、台湾関係法により「台湾の将来を非平和的手段により決定しようとする試みは西太平洋地域に対する脅威とみなす」としている米国が、これを黙っているはずはなく、台湾危機は数年内に訪れる蓋然性は低くないと思われます。危機の際、日本は日米安保条約の定めにより米軍の支援を行う必要があり(詳しくは私のブログ「ウクライナ戦争が変えた日本の防衛政策」をご覧ください)、日本の米軍基地周辺や、支援を行う自衛隊艦船への攻撃を受ける事態を想定しなければならないと思われます
既に、沖縄県の島嶼地域の防衛に関しては以下の様な対応が始まっています;
*2023年10月:沖縄から九州へ県外避難、有事備え「受け入れ計画を」
*2024年4月:自民党、沖縄離島から円滑避難で提言へ 台湾有事想定
*2024年10月:日米、南西諸島から初の退避訓練 4万人超の規模で演習
*2025年1月:自衛隊、南西防衛強化で海上輸送の新部隊 3月末発足

尚、島嶼防衛を考えるに当たっては、太平洋戦争末期の1944年、沖縄から疎開する学童らを乗せて九州に向かっていた「対馬丸」が、アメリカ軍の潜水艦の攻撃を受けて沈没、 800人近い子どもを含む多くの犠牲者を出した悲劇を忘れてはならないと思います

スウェーデンの「危機または戦争が起きた場合の国民の対処法のパンフレットは大変良くできていると思います。やはり、ロシアからの度重なる攻撃を受けてきた体験からの知恵が詰まっていると思います。日本もこれに倣って有事に備えて国民がどう対処すべきかのマニュアルを準備すべき時期に来ているのではないかと私は思います。ただ、スウェーデンと違って徴兵制が無く、専守防衛が原則の場合どう対応すればいいか、中々難しい問題だとは思います
尚、核兵器が使用された時の避難の仕方が書かれていますが、何故こういう避難をするのか?これで大丈夫か?、と思われるかもしれませんがその疑問に答えるには以下の私のブログ「災害のリスクについて考えてみました」の「3.核兵器の攻撃を受けた時に生き延びるには」を見て頂ければ納得されると思います

以上

パレスチナ問題についての一考察

―はじめに―

現在のパレスチナの状況は、昨年(2023年)10月7日のハマスによるイスラエル奇襲が発端となっています
当日、約2,900人のハマス戦闘員がイスラエル側に侵入し、付近の住民を含めユダヤ人1139人を殺害すると共に人質251人がガザ地区に連行され、トンネルなどに拘束されました(イスラエル軍からの情報によれば、2024年8月現在111人は今もガザで拘束されており、 39人は既に死亡しているとのこと)

上の画像は、翌8日、パレスチナ自治区ガザから発射された2千発を超えるロケット弾を、イスラエルの防空システム「アイアンドーム」で迎撃している状況です
この奇襲は、欧米先進国のハマスに対する非難を呼ぶと共に、それまで進んでいたイスラエルと中東アラブ主要国との雪解けムードに水を差す結果となりました。またイスラエルの報復攻撃によってガザ地区住民に多くの死傷者を出す結果となりました(8月下旬の時点で子供を含む死者が4万人を超えています)
米国、エジプト、カタールによる停戦の仲介が精力的に行われているものの、ハマスをバックアップしているイランを訪問中であったハマス指導者イスマイル・ハニヤ氏の暗殺が行われたことから、イラン・イスラエル間の大規模な戦争の危機も考えられる状況になってきました

我々日本人にとって、有史以来世界史の中心になってきた中東地区の政治状況を理解するのは中々難しい事ではありますが、浅学を顧みず勉強してみた結果を以下にご紹介したいと思います

目次

* 基礎的な知識
パレスチナ地域をめぐる帝国、王国の興亡_Quick Review
ユダヤ人受難の歴史
イスラエルの独立とパレスチナ人受難の歴史
おわりに(パレスチナ戦争に関する私見)
(注)下線のある章にはクリックすることによりジャンプできます

基礎的な知識

0.ユダヤ人、ヘブライ人、イスラエル人の違いとは;
結論先に言うと全て同じ民族を指しています
*ユダヤ人:“バビロン捕囚
(後述します)”以降の呼び名。イスラエルを構成する12部族のユダ族が由来です
*ヘブライ人:他民族からの呼び名。特にエジプトの奴隷時代にそう呼ばれていた
*イスラエル人:イスラエルという国に住んでいる自らの呼び名です。神から与えられた名で、宗教的な意味を含む
「イスラエル」の宗教的な意味とは;
イスラエルという国名は、旧約聖書に登場するヤコブ(Jacob)という人物に由来しています。ヤコブは神と格闘し、その後神から「イスラエル(Israel)」という名前を授けられました。この名前はブライ語で「神と闘う者」または「神に勝つ者」という意味があります
ヤコブには12人の子供がいて、彼らの子孫がイスラエルの12部族の祖先となりました。このため、イスラエルという名前は神の子孫とその国を指すようになりました
尚、十字軍の侵攻によって生まれたイスラエルという国(後述)の人々は、必ずしもユダヤ人ばかりとは限りません。十字軍は中世において、ヨーロッパのキリスト教徒が聖地エルサレムをイスラム教徒から奪還するために行った遠征です。その過程で、現地の住民や他の地域からの移住者が混ざり合いました。
イスラエルのユダヤ人の歴史は、十字軍よりもはるかに古く、紀元前千年頃にダビデ王がエルサレムを首都としたユダ王国(後述)にまで遡ります
以降、特に説明をせずに、参照した資料で使われている名称をそのまま使用しています

1.アラブ人とは;
主にアラビア半島や西アジア、北アフリカなどの国々に居住し、アラビア語を話しアラブ文化を受容している人々を指します。7世紀にムハンマド(マホメット)によってイスラム教が開かれ、今もなお中東・北アフリカの多くの国々はイスラム教を国教としています(下図参照)

*上記の国々はアラブ人が大多数を占めています。因みに、これらの国々の人口の概数は以下の通りです;サウジアラビア(約3,500万人)、イラク(約4,000万人)、エジプト(約1億人)、シリア(約1,800万人)、ヨルダン(約1,000万人)、レバノン(約600万人)、バーレーン(約170万人)、クウェート(約450万人)、オマーン(約500万人)、カタール(約280万人)、UAE/アラブ首長国連邦(約1,000万人)、モロッコ(約3,600万人)、アルジェリア(約4,400万人)、チュニジア(約1,200万人)、リビア(約700万人)、スーダン(約4,500万人)
*パレスチナ問題では度々イラントルコが登場しますが、イラン人、トルコ人の大多数はアラブ人ではありません
(参考)スーダンとソマリアに挟まれた国の南部はエチオピアです。キリスト教徒が2/3、イスラム教徒が1/3の人口構成です。一方、北部の紅海沿いの国はエリトリアで、1993年にエチオピアから独立しました。キリスト教徒とイスラム教徒人口が半々の人口構成です

2.イスラム教の二大宗派とは;
ムハンマド(マホメット)によって開かれたイスラム教は、現在スンニ派シーア派に分かれており過去から争いが絶えません。ただ、イスラエルを敵視している点は両派とも変わりはありません。同じ国にこの2つの宗派が混在している国も多くあります
スンニー派住民の割合;

シーア派住民の割合;

3.パレスチナ人とは;
パレスチナ人とは、主にパレスチナ地域に住むアラブ人を指します。彼らは独立した民族として認識されており、歴史的にはこの地域に長く住んでいた人々です。パレスチナ人の多くはイスラム教スンニ派を信仰していますが、キリスト教徒も存在します
パレスチナ人の起源は、東ローマ帝国時代のヘブライ人サマリア人(下記注参照)などがアラブ人の征服によって次第にイスラム教に改宗し、言語的にアラブ化したことにあります。現在、パレスチナ人はパレスチナ地域だけでなく、以下の国々にも移住しています;
①パレスチナ(約400万人)、②ヨルダン(約300万人)、③イスラエル(約132万人)、④チリ(45〜50万人)、⑤シリア(約44万人)⑥レバノン(約41万人)エジプト(約7万人)アメリカ合衆国(約7万人)、⑨ホンジュラス(約5万人)、⑩クウェート(約5万人)、⑪ブラジル(約5万人)、⑫イエメン(約2万人)、⑬カナダ(約2万人)、⑭オーストラリア(約2万人)、⑮コロンビア(約1万人)、⑯グアテマラ(約1400人)
(注)サマリア人とは:ホロン(テルアビブ近郊)とシェケム(ヨルダン川西岸地区のナーブルス/Nablus近郊)を中心に住む人々。北イスラエル10部族のうちエフライム族・マナセ族に加え、レビ族の末裔を自任している人々

4.パレスチナ問題に登場する国家ではない主な政治・軍事集団;
① ファタハ:主にパレスチナのヨルダン川西岸地区を拠点としています。この地域には約309万人のパレスチナ人が住んでおり、ファタハはその中で大きな影響力を持っています。尚、ファタハの正確な人口は公表されていません
ファタハは、1957年にヤーセル・アラファト(1929年8月~2004年11月)によって設立されたパレスチナの政党です。その名称は「パレスチナ民族解放運動」(Harakat at-Tahrir al-Watani al-Filastini)のアラビア語の頭文字を逆に並べたもので、「征服」や「勝利」を意味します
ファタハは、パレスチナ解放機構(PLO/Palestine Liberation Organizationの主要な構成組織であり、イスラエルに対する武装闘争を行ってきました。1967年の第三次中東戦争後にPLOに加入し、アラファトがPLOの議長に就任しました。その後、ファタハはレバノンに本拠を移し、1980年代には穏健路線に転換しました。
2006年のパレスチナ評議会選挙ではハマスに敗れましたが、現在もマフムード・アッバースがパレスチナ自治政府の大統領としてファタハを率いています

②ハマス:1987年、パレスチナ住民の反イスラエル闘争(インティファーダ:後述します)が広がった際に結成されたスンニ派イスラム武装組織ガザ地区で活動する戦闘員は約3万人(この数は2023年10月7日の軍事衝突が始まる前の段階での推定)とされています。2006年にはパレスチナ評議会選挙で勝利し、その後ガザ地区を武力制圧し、2007年からガザ地区を実効支配しています
尚、ガザ地区には約230万人のパレスチナ人が住んでおり、世界で最も人口密度が高い場所の一つになっています。ガザ地区はイスラエルが設置した壁やフェンスに囲まれており、移動の自由が無いことから「天井のない監獄」と呼ばれており、住民の約8割が国際支援を頼りに生活している状況です
③イスラム聖戦:1979年のイラン革命に影響を受けて設立されたスンニ派の軍事組織です。ガザにおいては同地区を実効支配する「ハマス」に次ぐ規模を持ち、武力でイスラエルを打倒し、イスラム国家を樹立することを目指しています。ガザ地区における戦闘員数は、正確な数を把握するのが難しいのですが、数千人規模とされています。最近の報道によると、イスラエル軍はガザ地区で600人以上の戦闘員を拘束したと発表しています
*2019年11月、ガザ地区からのロケット弾発射に対する報復としてイスラエル軍によりバハ・アブー・アル=アタ司令官の自宅が攻撃を受け、司令官とその妻が死亡しました


④フーシ派:
イランからの支援を受けたシーア派の反政府武装組織で、イエメン政府と約20年間戦い続け、主にイエメンの北西部と首都サヌアを実効支配しており、サウジアラビアのアシール地方南部にも活動地域があります。フーシ派の戦闘員の数は、2022年の推定で最大約20万人とされています
*今回のハマス・イスラエル戦争において、ミサイルでイスラエルへの攻撃を行うと共に、紅海の出口付近で一般商船の拿捕、米軍への攻撃などを行っています

2024年8月24日_フーシ派、紅海で石油タンカーを攻撃したとする映像公開・原油15万トン積載

⑤ヒズボラ:ヒズボラは1982年に結成されたシーア派イスラム主義の政治・武装組織です。イランとシリアからの支援を受けており、レバノン南部やベイルートを拠点に活動しています。
彼らは、イスラエルの殲滅やレバノンでのイスラム共和制の樹立を掲げており、主な居住地は、レバノンの南部とベイルートの南部郊外です。特にレバノン南部のナバティエ県やベッカー県に強い影響力を持っています。
ヒズボラの正確な人口は公表されていませんが、戦闘員の数は数万人と推定されています。また、ヒズボラはレバノン国内で広範な支持基盤を持っており、特にシーア派コミュニティからの支持が強いと言われています
*今回のハマス・イスラエル戦争においては、度々ミサイルでイスラエルを攻撃しています
FollowUp:2024年9月24日「イスラエルのレバノン空爆、最大規模 死者550人以上に

目次に戻る

パレスチナ地域をめぐる帝国、王国の興亡_Quick Review

パレスチナ地域は紀元前から多くの帝国、王国の興亡があり、これらを簡単に説明するのは容易ではありません。従って筆者が高校時代の世界史の授業で使われた吉川弘文館の「世界史地図」からの抜粋、及びネット上に掲載されている歴史地図を以下の様に年代順に並べ、視覚的に歴史の大雑把な流れを理解してもらうことにしました

紀元前10世紀頃にはイスラエル王国とユダ王国が存在していました

紀元前722年、アッシリア帝国が北のイスラエル王国を征服しました

紀元前587年、バビロニア帝国が南のユダ王国を征服しました

紀元前539年、アケメネス朝ペルシアがバビロニアを征服し、パレスチナ地域を支配しました

紀元前332年、アレクサンダー大王がペルシアを征服しました

紀元前63年、ローマ帝国がパレスチナを支配しました

7世紀、イスラム帝国(ウマイヤ朝、アッバース朝)が支配しました

11世紀、十字軍が一時的にエルサレム王国を建国しました

12世紀末、アイユーブ朝(スンニ派のイスラム王国)が十字軍を排除し、イスラム支配を回復しました

16世紀、 オスマントルコ帝国がパレスチナを含む中東、北アフリカを支配し、この状態が第一次世界大戦まで続くことになりました

1917年、 第一次世界大戦の結果、イギリスがパレスチナとトランスヨルダンを委任統治することになりました

1948年、イスラエル国が建国され、現在に至っています
目次に戻る

ユダヤ人受難の歴史

紀元前12世紀頃の出エジプト記;
出エジプト記/the Exodus」はユダヤ教のヤハウェ神旧約聖書に登場するユダヤ教の唯一神であり、万物の創造者とされています)によるユダヤ民族に対する救済であり、ユダヤ教の成立の最も重要な契機とされていますが、同時代の他の歴史資料には見られません。ただ、パレスチナの遊牧民が豊かなエジプトに移住し、建築労働などに従事していたことはメソポタミア側の資料に出てくることが知られており、全くの虚構であるとは言えません。ヘブライ人の一部がエジプトで奴隷とされたこと、彼らがパレスチナに戻り、その経験がイスラエル人全体の民族的体験に拡大されたことは十分に考えられます
旧約聖書には、ヘブライ人は「ピトムとラメセス」の町の建設に従事したとあり、これはエジプト新王国のラムセス2世(新王国第19王朝のファラオ/在位:紀元前1279年頃 – 紀元前1213年頃)が建設した「ラメセスの家」のことと考えられます

出エジプト記」は、旧約聖書の中の2番目の書(因みに有名な1番目の書は「創世記」)で、モーセがエジプトで奴隷となっていたヘブライ人を率いて、約束の地カナン(現在のパレスティナ地方)へと導く物語が描かれています。旧約聖書はユダヤ教、キリスト教、イスラム教において重要な聖典とされており、神と人間の契約、信仰、解放といった普遍的なテーマが扱われています。この物語の中では預言者「モーセ」がユダヤ人を率いて紅海を割って渡り無事に脱出した後シナイ山で神から「十戒」を受け取り、イスラエル人と神との契約が結ばれます。このエピソードは大変ドラマティックなので、ハリウッドで映画化されており、私も幼い頃この映画「十戒」を見て大変感動したことを思い出します。因みにモーセ役は、確か?「チャールトン・ヘストン」、ラムセス2世役は「ユル・ブリンナー」が演じていたと思います

古代ローマ時代のユダヤ人迫害
古代ローマは紀元前753年に建国され、紀元後476年に滅びました。紀元前1世紀から紀元後3世紀まではローマ帝国の最盛期と見なされています。古代ローマ時代とは王政ローマ期(紀元前753年~紀元前509年)を指しますが。この時代ローマ帝国の支配下で、ユダヤ人は何度も反乱を起こし、その結果、パレスチナからの追放や、ローマ帝国各地への分散(ディアスポラ)を経験しました
ディアスポラとは:ギリシャ語で「散らされたもの」という意味を持つ言葉です。歴史的には、故郷を離れて世界各地に散らばった人々やそのコミュニティを指す言葉として用いられて、特にユダヤ人のディアスポラが有名で古代イスラエル王国の滅亡後、ユダヤ人たちはバビロン捕囚(下記参照)などを経て、世界各地に散らばっていきました。このユダヤ人のディアスポラは、長い歴史の中で宗教的迫害や政治的な動乱など様々な要因によって繰り返され、現代に至るまで世界各地にユダヤ人コミュニティが存在しています
ユダヤ人のディアスポラの特徴としては以下が挙げられます
① 故郷・イスラエルの地への強い思い
② 離散先でも独自の文化や伝統を守り続ける
(⇔他民族と同化しない?)
③ 迫害を受けた結果としてのユダヤ人コミュニティー内の強い結束力

紀元前5世紀 のバビロンの捕囚
新バビロニアの王ネブカドネザル2世により、ユダ王国のユダヤ人たちがバビロンを始めとしたバビロニア地方へ捕虜として連行され、移住させられた史実を指していますネブカドネザル2世は、ユダ王国の首都エルサレムを含む多くの都市を征服しました。彼は生き残った人々の大半をバビロンに強制移住させました。 最初の捕囚は紀元前597年、その後紀元前587年(又は586年)、紀元前582年(又は581年)、最後の捕囚は紀元前578年に行われたとされています
その後これらの捕囚となったユダヤ人はアケメネス朝ペルシャの初代の王キュロス2世による勅命(紀元前538年)によって解放され、イスラエルに戻ってエルサレムで神殿を建て直すことを許されました

中世ヨーロッパにおけるユダヤ人迫害
1.1096年の第一次十字軍中に、多くのユダヤ人が殺害された「十字軍の虐殺」がありました。特に「民衆十字軍」と呼ばれる一団が、ヨーロッパ各地を通過する際にユダヤ人コミュニティを襲撃し、多くのユダヤ人を殺害しました。虐殺の正確な人数を特定するのは難しいですが、歴史家たちは数千人から数万人に及ぶと推定しています
こうした迫害が起こった背景は以下が考えられます;
宗教的要因:十字軍は、キリスト教の聖地エルサレムをイスラム教徒から奪還することを目的としており、この宗教的熱狂は、異教徒と見なされたユダヤ人に対する敵意を煽ることになりました。多くの十字軍参加者は、ユダヤ人を「キリストの殺害者」として非難し、彼らに対する暴力を正当化しました
経済的要因:ユダヤ人は中世ヨーロッパで商業や金融業に従事しており、しばしば富裕層と見なされていました。十字軍の遠征には多額の資金が必要であり、ユダヤ人の財産を略奪することで資金を調達しようとする動きがありました
社会的要因:中世ヨーロッパでは、ユダヤ人はしばしば社会の周縁に追いやられ、差別や迫害を受けていました。十字軍の遠征は、このような社会的緊張を一層悪化させ、ユダヤ人に対する暴力行為が頻発しました

2. 1492年、スペインのカトリック君主フェルナンドとイサベルによってスペインからユダヤ人が追放されました
3.ポルトガルでも1497年にユダヤ人が強制的に改宗させられ、逃亡した者は処罰されました

近代ヨーロッパにおけるユダヤ人迫害
1.ロシア帝国によるユダヤ人迫害
 19世紀末から20世紀初頭にかけて、ロシア帝国やその周辺地域でポグロム(Pogrom/ロシア語/破壊、暴動)と呼ばれるユダヤ人のコミュニティーに対する暴力的な襲撃が頻繁に発生しまし、多くの人々が殺害されたり、財産を奪われたりしました。その他に;
皇帝エリザヴェータ(在位1741-1762)の時代には、ウクライナ、ロシアからのユダヤ人全員を追放し、以後入国も禁止しました
皇帝ニコライ1世(在位:1825年 – 1855年)は、ユダヤ人対策を強化しました。ユダヤ人に対してロシアの学校に通学するか、ロシア語で授業をすることを強要したものの、ロシア帝国公認の学校に通うユダヤ人生徒数は数千人にとどまった為、皇帝はユダヤ人への不信感をつのらせ、密輸入やスパイ容疑をかけられたユダヤ人は定住地域の境界線から50km以内の町や村からの強制退去を命じました。1827年にはユダヤ人徴兵法が成立させ、それまで人頭税で兵役を免除されていたユダヤ人にも兵役が義務づけられ、7歳以上のユダヤ人の子供を軍事教練に送りこむと同時にキリスト教に改宗させました
皇帝ニコライ2世(在位1894 – 1917年)は、1882年の臨時条例よりもユダヤ定住地域をさらに狭めて、ロシア人農民がユダヤ人から搾取されないようにユダヤ人の田園地帯・キエフ・ヤルタ(皇帝離宮がある)などでの居住を禁止すると共に、定住地域外では、ユダヤ人がロシア風を名乗る改名を禁止し、ユダヤ商店ではユダヤ人であると分かるように店舗に明示することが義務づけました。また、1887年から学校でのユダヤ人定員が制限されました

Follow_Up:2024年10月3日「イスラエルの強硬姿勢の源流ホロコーストともう一つの「虐殺」とは_朝日新聞デジタル

2.ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害
 1933年から1945年にかけて、ナチス・ドイツによるホロコーストが最も悲惨なユダヤ人迫害の一つです。約600万人のユダヤ人が虐殺されました
*アンネの日記:チスドイツによる占領下のオランダ、アムステルダムが舞台となっています。国家社会主義ドイツ労働者党によるユダヤ人狩りを避けるために、咳も出せないほど音に敏感だった隠れ家に潜んだ8人のユダヤ人達の生活を下の写真にある少女・アンネ・フランクが活写したもの。密告によりナチス・ドイツのゲシュタポに捕まるまで、執筆期間は1942年6月12日から1944年8月1日まで記録されており、彼女の死後、生き残った父オットー・フランクの尽力によって出版され、世界的ベストセラーになりました


*夜と霧:
精神科医であった
ヴィクトール・E・フランクルのドイツ強制収容所の体験記録ですが、余りにも有名な書なので読んだことがある人は多いと思いますが、私は少年時代夏休み中父の実家に行ったときに従姉の本棚からこの本を見つけて読みました。この時の衝撃は忘れられません
ユダヤ人狩りはドイツ内だけでなく、ナチスドイツが占領した国々でも行われ、下図にある強制収容所に送り込まれした

Poland/ Germany: Jewish men, women and children surrender to Nazi soldiers during the Warsaw Ghetto Uprising, May 1943. (Photo by: Pictures from History/Universal Images Group via Getty Images)

収容されたユダヤ人の運命は「死」

*我が闘争:ナチス党を創立したアドルフ・ヒトラーは、 1923年11月9日にクーデター(ミュンヘン一揆)を企てましたが失敗に終わり、逮捕・投獄されました。この書はその獄中で執筆を開始しました。この書でヒトラーは、自身の思想やナチズムの理念を体系的にまとめています。主な内容としては;
ヒトラーの生い立ちと政治思想の形成(アーリア人優越論)幼少期からナチ党結成までの経緯ヴェルサイユ条約批判反ユダヤ主義(ユダヤ人に対する憎悪反共産主義民族主義など、ヒトラーの思想形成過程が描かれています
この書が、ナチス党が政権を取りヨーロッパの国々を占領した後のユダヤ人の拘束と、虐殺に繋がったことは明らかです
尚、この書にはユダヤ人に対する憎悪程ではありませんが、日本文化を軽蔑している箇所があります。太平洋戦争開戦の重要なきっかけとなった日独伊三国同盟(1940年9月27日締結)を強力に推進した外務大臣・松岡洋介や陸軍幹部(⇔海軍はこの条約に反対していた)がこの書を読んでいたのか不思議と思わざるを得ません(筆者個人の意見)
目次に戻る

イスラエルの独立とパレスチナ人受難の歴史

第一次世界大戦(1914年~1921年)中のイギリスは、強大な敵であるオスマントルコ帝国との戦いを有利に進める為に、1915年に帝国内のアラブ人に対して独立を支持することを約束しました(マクマホン協定)。一方、1917年には裕福なユダヤ人から莫大な戦費を賄うための財政支援を受けるために、イギリス外相バルフォアがパレスチナにユダヤ民族国家の建設を認めることを約束しました(バルフォア宣言)、この矛盾する約束を行っていたことが、1948年のイスラエル独立ともに、イスラエルとアラブ諸国との間の熾烈な戦争を招くことになりました
*ハリウッドの大作映画「アラビアのロレンス」は、イギリス軍から派遣されたロレンスが、アラブ世界の盟主であるサウド王と協力してトルコ帝国軍を打ち破る成果を挙げたものの、イギリスの裏切りにあって失意の内にアラビアから去っていく物語です

戦争の結果、オスマントルコ帝国は敗北し、1920年に連合国 との間でセーヴル条約)を結びました。この条約により、帝国の領土は大幅に削られることとなりました
(注)この条約では、帝国内の領土であったイラクパレスチナ・シリア全域アラビア半島の放棄イスタンブールと隣接地以外のギリシアへの割譲、治外法権の存続、財政の連合国共同管理などが定められています
この条約により、帝国の領土は大幅に削減され、最終的には1922年にオスマン帝国は崩壊し、トルコ共和国が成立しました。ケマル・アタテュルク率いるアンカラ政府受諾を拒否し、ギリシア・トルコ戦争の勝利後、1923年にローザンヌ条約を結び、セーヴル条約 を破棄しました

第二次世界大戦後、国際連合総会は1947年11月29日にパレスチナをユダヤ人国家とアラブ人国家に分割する「国連決議181号」を採択しました。この決議は、パレスチナ地域の56%をユダヤ人国家に、43%をアラブ人国家に割り当てる内容でした
この分割案は、イギリスの委任統治を終わらせ、エルサレムを特別な国際管理地区とする内容ですが、ユダヤ人側はこの案を受け入れたものの、アラブ諸国およびパレスチナ側の指導者たちは拒否しました。その結果、地域内での緊張が高まり、以下の中東戦争が勃発しました
*以下を見ると分かるのですが、第一次~第四次中東戦争を経るうちにイスラエルの占領地が徐々に増えていくことになります

第一次~第四次中東戦争とレバノン内戦;
第一次中東戦争(1948年5月~1949年3月);
参戦国: イスラエルエジプト・ヨルダン・シリア・レバノン・イラク・サウジアラビア・イエメン
勝敗: イスラエルの勝利
死傷者数: イスラエル側6,373人が戦死。アラブ側ではエジプト約2,000人、シリア約1,000人、その他の国も含めて多数

第二次中東戦争
1956年10月~11月);
参戦国: イスラエル・イギリス・フランスエジプト
勝敗: イスラエル、イギリス、フランスの勝利
死傷者数: イスラエル側で231人が戦死エジプト側では約1,000人が戦死

第三次中東戦争(1967年6月);
参戦国: イスラエル 対 エジプト・シリア・ヨルダン・イラク
勝敗: イスラエルの勝利
死傷者数: イスラエル側で776人が戦死。アラブ側ではエジプト約11,000人、シリア約1,000人、ヨルダン約700人
この戦争はイスラエル側の圧倒的勝利に終わり、イスラム教の聖地でもあるエルサレムを含むヨルダン川西岸地区ガザ地区だけでなく、エジプト領のシナイ半島シリア領のゴラン高原をも占領しました
イスラエル軍は、以後テロリストや武装グループとの戦闘、治安維持活動、または反政府活動を行うパレスチナ人に対する抑圧的な作戦を行っています。これらの作戦は屡々パレスチナ人との間での衝突を引き起こし、暴力の連鎖を生んでいます
ヨルダン川西岸地区は、国際的にはパレスチナの一部として認識されていますが、イスラエルはこの地域にユダヤ人の入植地を建設しています
2023年~2024年にかけて、イスラエル軍の活動はエスカレートしており、特に入植地周辺やパレスチナ人居住区での家屋の破壊、住民の拘束を行うことからパレスチナ人との衝突が増加しています

第四次中東戦争(1973年10月);
参戦国: イスラエルエジプト・シリア
勝敗: イスラエルの勝利
死傷者数: イスラエル側で約2,800人が戦死、8,000人が負傷エジプトとシリア側では約15,000人が戦死、30,000人が負傷
* この時アラブの石油輸出国は、原油の生産量を減らすとともに、イスラエルを支持する国々への輸出禁止を決定しました。 1974年には原油価格が4倍に上昇し、石油輸入国に大きな打撃(日本における「第一次オイルショック」)を与えました
この戦争の後、エジプトとイスラエルの関係は大きく変わりました。この戦争はエジプトとシリアがイスラエルに対して奇襲を仕掛けたもので、シナイ半島やゴラン高原の奪還を目指していました

戦争後、エジプトとイスラエルは和平交渉を進め、1978年にキャンプ・デービッド合意が成立しました。この合意に基づき、1979年にエジプトとイスラエルは平和条約を締結し、1982年までにイスラエルはシナイ半島をエジプトに返還しました
この和平条約が中東における重要な転換点となり、エジプトはアラブ諸国の中で初めてイスラエルを公式に認めた国となりました。シナイ半島の返還はエジプトにとって大きな勝利であり、地域の安定に寄与することとなりました

レバノン内戦(1975年~1990年)
この内戦は、レバノン国内の様々な宗教・政治勢力間の対立が原因で発生し、イスラエルやシリアなどの周辺国も関与し、1982年から1985年にかけてのイスラエル軍も介入しました;
参戦国: イスラエル レバノン(PLO)
勝敗: イスラエルの勝利
死傷者数: イスラエル側で368人が戦死レバノン側ではPLOの戦死者数は不明だが、レバノン市民も含めて多数死亡(推定で12万人~15万人が死亡)したと言われています

第一次~第四次中東戦争、レバノン内戦後のパレスチナ紛争
1.エルサレムの帰属に関わる紛争;

アルアクサ・モスクと嘆きの壁

エルサレムはユダヤ教キリスト教イスラム教の聖が集中しているため、宗教的・政治的な対立が絶えません。特に、エルサレム旧市街の「アルアクサ・モスク」を巡る衝突が頻発しています。2022年には、イスラエル警察とパレスチナ人の間で激しい衝突が発生し、多くの負傷者が出ました。このような衝突は、宗教的な祝日や政治的なイベントが重なる時期に特に激化します。
尚、エルサレムの帰属問題も依然として解決されていません。イスラエルはエルサレムを永遠の首都」と宣言していますが、多くの国際社会はこれを認めておらず、大使館をテルアビブに置いています(⇒ただ米国のみは、2018年トランプ大統領が米国大使館をテルアビブからエルサレムに移動させました)。この問題は中東和平交渉の大きな障害となっています

2.インティファーダとオスロ合意;
アラビア語( اِنْتِفَاضَة, ʾintifāḍa)で「揺れ」や「蜂起」を意味し、現代では主に民衆蜂起を指します。特に、パレスチナにおけるイスラエルの軍事占領に対する抵抗運動として知られています;
*第一次インティファーダ(1987年~1993年):
ガザ地区での交通事故をきっかけに始まりました。多くのパレスチナ人が参加し、イスラエルの占領に対する抗議活動が広がりました

オスロ協定;
1993年にイスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)の間で同意された一連の協定です。 この合意は、ノルウェーの首都オスロで主に協議されたことから「オスロ合意」とも呼ばれています。具体的には以下の二点が合意内容とされています;
イスラエルを国家として、PLOをパレスチナの自治政府として相互に承認する
② イスラエルが占領した地域から暫定的に撤退し5年間にわたって自治政府による自治を認め、その間に後の詳細を協議する

⇒ 残念ながら現在まで実質的な進展はありません

*第二次インティファーダ(2000年-2005年):
イスラエルの政治家アリエル・シャロンがアル・アクサ・モスクを訪れたことが引き金となり、暴力的な抗議活動が再燃しました

*Follow Up_2024年8月29日_イスラエル、ヨルダン川西岸で大規模作戦・10人死亡

目次に戻る

おわりに(パレスチナ戦争に関する私見)

ここまで縷々述べてきたように、3千年に亙る巨大帝国・王国の興亡の中で生き延びてきたユダヤ人とアラブ人の歴史は、モンゴル帝国の2回の侵略しか経験のない島国日本人には到底理解できないことは自明のことです。また、明治維新以降、連戦連勝の侵略戦争を経験はしましたが、終戦後のGHQに対する極めて従順な日本人のMindset(思考回路?)からは、パレスティナ人の不屈の抵抗精神や、2千年を経てやっと獲得した国家を守る気概は到底理解することはできないと思います

昨年(2,023年)10月7日に始まった今回のイスラエル・パレスティナ戦争において、ハマスの急襲によって1139人が殺害され、251人が拉致された事による怒りは、大日本帝国が傀儡政権である満州国を設立したあと、中国軍との緊張が高まる中で発生した「通州事件」により国民の怒りが爆発し、日中戦争を抑止しようとする人々の声を消し去り日中戦争を開始するに至った状況に似ている様な気がします。累々と横たわる同胞ユダヤ人の遺体の報道写真を見たイスラエル国民の怒りがイスラエル軍の情け容赦のない ガザ地区侵攻となったものと想像できます

一方、世界で最も人口密度が高いガザ地区(あの狭い地区に約230万人のパレスチナ人が住んでいる)での戦闘は、ハマスと一般住民の区別がつかないことから2024年8月現在で4万人を超える犠牲者が出ており、人道問題になっています
イスラエル側にしてみれば、ハマスが降伏をしない限り攻撃するというやり方は、第二次世界大戦で敗戦濃厚な時期のドイツや日本で、大都市のじゅうたん爆撃で多くの一般人が亡くなったことを思い出させます

パレスティナ人には、周りを取り巻く多くのアラブ人やイスラム教徒の同胞がいます。一方イスラエル人には先進国中心に多くのユダヤ人コミュニティーがあり、これらの国々からのサポートがあります。従って、この戦争は一方が決定的な勝利を収める結果は無いと私は思います

現在、米国、エジプト、カタール中心で行われている停戦協議をきっかけに「オスロ合意」をベースにイスラエルとパレスチナ2国家共存の仕組みを具体化することを目指すべきと私は信じています。
イスラエル側が停戦条件にしている「エジプトとガザ地区の境界(フィラデルフィ回廊)にイスラエル軍を駐留させること」をハマス側が強力に反対しているのは、イランなどからの武器の供給が絶たれることにあると思われます。イスラエル側としても武器は外部から提供される限りいずれ同じような侵攻があると考えていると思われます。であれば、国連軍によるこの地区の駐留も考えてもいいと思います
また、遠い将来になるかも知れませんが、ガザ地区と穏健化したヨルダン川西岸地区間のアラブ人の間の交流を行うための陸上の回廊を設けること、及びヨルダン川西岸地区へのイスラエル人の入植をやめることも必要であると考えています、、、、、

Follow_Up:2024年10月1日「イスラエル軍 レバノン南部で“限定的な地上作戦を開始した” _ NHK

目次に戻る

Follow_Up(2025年10月1日日経記事);

以上

ウクライナのこれから

はじめに

見出しの写真の左は、ベトナム戦争に関する米国民のみならず世界の世論を大きく動かした報道写真です。この写真は、南べトナム軍のナパーム弾の誤爆により避難民の少女が衣服を焼かれ裸になって逃げていく所を UPI のカメラマンが撮影し世界に報道されたものです。この後、数年で米軍がベトナムから撤退することになりました。一方、右の写真はロシアの攻撃で避難を余儀なくされた市民の先頭を泣きながら歩く子供の写真です。この二つの写真は凡そ半世紀を隔てた戦争の写真ですが、いずれも市民を巻き込んだ非人道的な戦争の実相を表す報道写真であると思います

2年前の2022年2月24日にロシアの突然の侵攻で始まったウクライナ戦争は、その後約一年半が経過した現在もなお激しい戦いが続いています
同年8月25日に投稿した「ウクライナの歴史」で述べたように、ウクライナの歴史に根ざした強烈な「愛国心」、「国民大多数の高い士気」、「勇敢な兵士」、「ロシアに対する怨み」、及び「米国、EUを中心とした軍事援助」によって現在もなおウクライナは軍事大国ロシアと互角に戦っています。しかし昨年行われた米国議会選挙の結果、下院の過半数を共和党が握ることとなり米国のウクライナ援助に関わる予算が議会を通過しない状況に陥っています。また、EUにおいてもハンガリーのロシア寄りの姿勢からEUのウクライナに対するバックアップが必ずしも円滑にいかない状況になっています

この戦争を歴史的に俯瞰すると、第一次世界大戦、第二次世界大戦の開戦時と同じような世界を二分するイデオロギーの戦い(「覇権主義」対「自由主義」)が背景にあり、一歩誤れば多数の国を巻き込んだ大きな戦争に発展する危険性を孕んでいます。つまり、日本としても他人事で済ますわけにはいかないと私は思っています
以下に、今後の戦況の帰趨に関わるいくつかのポイントについて、私なりの見解を述べてみたいと思います

現在までの戦況

これまでの戦況の内、投稿済みの「ウクライナの歴史」の後半、及びブログ発行後の Follow_Upで2023年2月22日まで Update しておりありますので、ネット情報を中心にこの時点以降の時系列の沿って戦況の推移を辿ってみたいと思います。尚、タイトルにある年月日はネット上に掲載された日です

                                                 <ウクライナ優勢を保つ>

① 2023年2月23日、「
明日侵攻一年、ロシア支配地の5割を失い 死傷者は20万人規模」;

2023年2月24日;
*ロシアのウクライナへの軍事侵攻から一年がたち、米欧からウクライナへの軍事支援は重火器や戦車に軸足を移しています。戦況が膠着するなか、ウクライナ、ロシア双方とも兵士と資金をつぎ込み続けています。ロシアは2022年に軍事費を前年より4割増やしたものの、兵力や戦車の損耗に苦しんでいます
ロシアの兵力は2021年時点で現役兵と予備役の合計で290万人でした。2022年9月に部分動員に踏み切り、現役兵は119万人、予備役は150万人となりました。動員対象になった訓練度の低い予備役が戦場に送られている実情が浮かびます
ウクライナは総動員令をかけており、現役兵は68万人と3.5倍に増えました。装備品をみると、ロシアの主力戦車の数は2千70台で前年から4割減り、現役の戦闘機も2022年に6~8%失ないました。特に近代化の改修を施した戦車「T72B3」や「T72B3M」は半減し、旧式の装備の投入を強いられています
③ 2023年2月27日;
英国防省は26日、ウクライナ東部ドネツク州の激戦地で破壊されたロシア軍の複数の装甲車両とされる衛星画像を公表しました。前線に展開した精鋭部隊・第155独立親衛海軍歩兵旅団に所属する車両とみられます。同省は、精鋭部隊が軍事作戦を遂行する能力は「ほぼ確実に大幅に低下した」と強調しました。下の写真は2月9日の衛星写真を基に英国防省が解説したものです

<ウクライナ反転攻勢開始>

④ 2023年6月9日、「ウクライナ南部で反転攻勢」;
ウクライナ軍は8日、ロシアが占領する南部の複数の前線で反攻を始めました。複数の米主要メディアによると、ドイツの主力戦車「レオパルト2」など米欧が供与した兵器を投入し、ロシア軍の防御陣地に激しい攻撃を仕掛けています


⑤ 2023年6月11日、「
ウクライナ反攻開始、成否を分けるのは機動性」;

ロシアの侵攻を受けるウクライナが、領土奪回に向けた本格的な反攻を始めました。第二次世界大戦後の最大級の陸戦となる見通しで、ウクライナは米欧が供与した兵器をテコにロシアの防衛線を突破し、早期に大きな戦果をあげたい考え。ロシア側は戦線を膠着状態に持ち込んでウクライナ軍を消耗させる戦略。反攻の成否はウクライナ軍の機動力にかかっています。戦略目標は;
南部防衛線の突破
東部のバフムト奪還

⑥ 2023年6月15日;
ウクライナ軍のフロモフ准将は15日、同国東部と南部における反転攻勢で既に100㎢を奪還したことを明らかにしました。東部ドネツク州南西部のベリカノボシルカ、南部ザポロジエ州マラトクマチカの近郊まで進軍していると指摘し、ロシア軍は航空戦力や砲撃力が優勢であるとして「ウクライナ軍は熾烈な戦いのなか進軍している」と強調しました

⑦ 2023年6月20日;

ロシア軍は東部や南部で築いてきた対戦車防空壕や地雷原からなる防御線で、突入してきたウクライナ旅団の足をまず止めることに成功しました。また、戦闘ヘリによる攻撃も仕掛けています。撃墜を恐れて控えてきた航空攻撃が可能になったのは、キーウにミサイルや無人機攻撃を反復することでウクライナ軍が防空兵器を首都に振り向けざるを得なくなり、前線部隊の防空能力を下げることができたためです
更にロシア軍はドニエプル川下流域にかかる最後の通路だったカホフカダムを破壊し、へルソン州北部に控えていたウクライナ部隊がダム上の道路を経由してヘルソン南部に奇襲反攻することを阻止し、反転攻勢の面的広がりを制約することに成功しています
最近、米国が兵器の無制限供与に二の足を踏んでいるのは。中国軍の台湾侵攻が従来予想より早まる恐れがあるとの警戒感が米国で高まっていて、中国が「日米や台湾の兵器備蓄が進んでしまう前に奇襲侵攻に動こう」との衝動にかられる事態への懸念があると言われています

⑧ 2023年6月24日、「雇い兵組織・ワグネルの反乱」;
ワグネルは6月24日、それまで戦っていたウクライナ東部地域の戦闘から離脱し、ウクライナ国境から100キロ東にある地方都市「ロストフ・ナ・ドヌ」に進軍しました。ここにはロシア南部軍管区の司令部があります。その後、同市の市庁舎を占拠しモスクワに向かって進軍を開始しました
プーチン大統領は、ワグネル創始者で反乱の首謀者であるプリゴジンと直接交渉を行い「彼を反乱者に問わない」と約束したためモスクワへ進軍は停止しました。6月25日、ベラルーシ大統領・ルカシェンコの仲介でプリゴジン及びワグネル軍団はベラルーシに向かいました
*2023年8月23日、プリゴジンは搭乗した小型機の墜落を装って暗殺されました

⑨ 2023年6月30日、「侵攻後最多の捕虜交換」;
ウクライナは248人、ロシアは230人をそれぞれ相手に引き渡した。2022年2月に始まったロシアによる侵攻開始以来、最大規模の捕虜交換となりました。この捕虜交換は両国と良好な関係を維持するアラブ首長国連邦(UAE)の調停によって実現したものです
帰還したウクライナ側の230人の中には、ロシアに包囲されたマリウポリで最後の拠点となった製鉄所で戦った将兵の生き残りの95人(内43人は「アゾフ大隊」のメンバー)がおり、彼らはいずれも重傷を負っていました

          <ウクライナ兵器不足に直面>

⑩ 2023年7月8日、「ウクライナ軍、反転攻勢で兵器2割損失」;
ウクライナ軍は、ロシアが敷設した地雷により損失を拡大させており、反転攻勢を始めて2週間で兵器の2割を失いました。この為、ウクライナ軍は一時的に進軍を停止していることを認めました。尚、米軍はウクライナに殺傷力の高いクラスター弾の供与を認めました

⑪ 2023年7月25日、「ウクライナが米軍供与のクラスター弾を使用」;
7月22日にロシアとウクライナ双方によるクラスター弾とみられる攻撃で従軍記者らが死傷しました。米国は紛争の長期化に伴う弾薬不足から、欧州の一部の反対を押し切って供与に応じました。背景には米国の防衛企業の武器供給力が5年間で2割減ったことがあります。バイデン大統領は7月7日、「軍需物資の戦争だ。ウクライナは弾薬を使い果たし、我々も不足している」と米国としても苦渋の判断だったと認めました。民間人への被害を懸念する日欧などは、クラスター弾の製造や使用を禁じるオスロ条約に参加しています。同条約に不参加の米国は、これまで同盟・有志国に配慮してウクライナの要請を拒んできましたが、殺傷力の強いクラスター弾に頼らざるを得なくなったと思われます

⑫ 2023年7月31日、「対ウクライナ軍事援助、西欧の履行遅れ 支援疲れの兆し」;
ウクライナへの軍事支援に絡み、実際に武器が届いた割合を示す履行率で欧州内の東西格差が生じています。戦車の履行率ではポーランドやチェコなど冷戦時に東側ブロックにいた諸国が8割に達した一方、米国やドイツなどその他の米欧では合わせて2割台にとどまる;
ロシアの脅威に対する危機感の強弱に加え、西欧の「支援疲れ」が見て取れます
こうしたことにより、反転攻勢を始めてからこれまでの1ヶ月半で奪回した領土はロシアの支配下にある国土の0.3%程度にとどまっています
旧社会主義圏の東欧の履行率の高さの背景には、歴史的な経緯からロシアの脅威に対する危機感が強いことがあります。ウクライナと地理的に近いことから侵攻の影響も受けやすいうえ、支援を届けるのが比較的容易な事情もあります。一方、西欧ではドイツやイタリアなどロシア産エネルギーに依存していた国が多く、侵攻の長期化による「支援疲れ」が出ていることも否めません。また、最新鋭の兵器の増産体制を整えるのに時間がかかっていることも要因になっていると思われます

<ウクライナ、戦略の転換か?>

⑬ 2023年8月17日、「ウクライナが国産ドローンを増産」;
主戦場になっている南部の戦況が停滞するなかで、ウクライナとロシアはドローンを使った攻撃を増加させています。ウクライナは南部クリミア半島周辺やロシア本土への攻撃を増やし、補給網の寸断やロシア側の厭戦機運の醸成を狙っています。史上初の大規模なドローン戦の行方は、今後の戦争のあり方に大きな影響を及ぼすと考えられます
ウクライナの40を超えるメーカーは夏ごろから政府の支援を受け、偵察用や攻撃用の国産ドローン生産(国産品は輸入ドローンよりも価格が10分の1以下)に着手し、年末までに最大20万機の調達を目指していると明かしました。また、操縦者の訓練も急ピッチで進めており、すでに1万人の要員が訓練を受け、17のドローン関連の部隊が発足しました。年内にはドローン部隊は数万人規模に膨らむ見込み。ウクライナは南部の領土でも偵察ドローンと砲兵を連動させた作戦を進め、徐々に攻勢を強めています。一方、ロシア軍も昨秋以来の攻撃で急減したミサイルの代替兵器としてドローンへの依存を深めています
⑭ 2023年8月19日、「無人機、モスクワ市中心部攻撃」;
ロシア国防省は18日早朝、モスクワでウクライナの無人機を撃墜したと発表、ソビャニン市長はドローンを撃墜後、中心部の展示会場モスクワ・エキスポセンターのビル群に残骸が落下したと明らかにしました

⑮ 2023年9月18日;
8月中旬、ロシアが占領するウクライナ南部メリトポリに向かうルートの要衝(ベルボベ)でウクライナ軍がロシア軍の防衛線を突破した結果、ロシア軍は温存していた最後の精鋭師団である第76衛兵航空突撃師団をウクライナの東部から南部へと振り向けました。この配置転換により東部に展開するロシア軍は機動性のある予備兵力を失ってしまいました。これにより、ウクライナ軍の精鋭部隊である第3強襲旅団がアンドリーウカのロシア軍第72自動車化狙撃旅団への攻撃を行った結果、ロシア軍の守備隊は主力部隊から切り離されて包囲され、壊滅しました

⑯ 2023年11月25日、「ロシア軍の被害甚大」;
英国防省は24日、ウクライナ軍の長距離兵器による攻撃でロシア軍は大きな被害を受けていると分析した。これは前線や支配地域の境界から数十キロ離れた場所から長距離砲が使われた結果とみられます。ロシアメディアによるとクマチョボでは兵士慰問の為に訪れていた著名な俳優も死亡したとのこと

⑰ 2023年12月2日、「敵発見から破壊までわずか80秒 ウクライナのドローン、橋頭堡防御の要に」;
これは、ウクライナ軍のチームがロシア軍の戦闘車両を偵察用ドローンで発見し、攻撃用ドローンを送って破壊するまでにかかった時間です。これはロシアがウクライナに対する戦争を拡大して以降、ドローンによるキルチェーン(目標の識別から破壊までの一連の処置)としては最速記録になりました。この数字は、重要な戦場でウクライナ軍のドローンによるロシア軍の車両や歩兵に対する脅威が一段と高まっていることを物語っています。このドローン攻撃は、南部ヘルソン州のドニエプル川左岸にある集落・クリンキの東端でのことでした。ドニエプル川左岸は現在殆どロシアが支配しています。敵発見から破壊までわずか80秒 で行えることは、ウクライナのドローンが橋頭堡防御の要になっていることを意味します
ウクライナ側はクリンキ上空で局所的な航空優勢を確保していますが、これはウクライナ軍の砲兵部隊やドローン部隊、電子戦部隊が数週間かけてドニエプル川左岸のロシア側の防空システムや無線妨害装置を破壊し、同時にウクライナが敵のドローンが飛べないようにする無線妨害装置を設置していった結果です
ともあれこの地域では、ウクライナ側が圧倒的に優勢な戦場ができ上がっていま。クリンキにいるウクライナ海兵隊の部隊は2、3個程度の中隊か大隊ですが、ロシア軍はヘルソン州南部でウクライナ軍の10倍程度の兵力を擁するにもかかわらず、これまでウクライナ軍を押し戻せていないのはこうした理由によるものであると考えられます

<欧米の軍事支援とロシアの継戦能力のせめぎあい>

⑱ 2023年12月21日、「ロシアの滑空爆弾に手こずるウクライナ、近く入手予定の F-16戦闘機で形勢逆転か」;
NATO諸国の主力戦闘機 F-16の供与がウクライナの強力な支援になる理由は、現在ウクライナが苦しめられているロシアの滑空爆弾(注1)を投下するロシア軍機に対抗する唯一の手段になるためです
(注1)ロシア軍がウクライナの防空システムでは防御できない約40キロ以上離れたところから発射できる精密誘導のミサイル

オランダ、デンマーク、ノルウェー、ベルギーは、近く余剰となったF-16をウクライナに供与することを約束しました。また、ウクライナ軍のパイロットは、既にルーマニアと米国の基地で F-16の訓練を受けていいます

F-16は、ロシアの戦闘爆撃機(Su-27、Mig-29)より優れたセンサーや防御のための電子戦装備や武器を搭載しており、ロシア機との交戦では極めて有利と言われています。因みに、F-16は高高度で約130キロ先の標的を探知し、AIM-120C空対空ミサイルで敵戦闘爆撃機を攻撃できます。また、ポッド状の電波妨害装置(ALQ131、184)を装備しているため、ロシアの地対空ミサイル(S-400 )に対してある程度の防御力を備えているからです

今後、この4ヶ国が余剰となっているF-16の供与(注2)を受ければ、ウクライナは F-16を60機以上手に入れることが可能となり、現在の戦況を変える「ゲームチェンジャー」となるかもしれません
(注2)供与する4ヶ国は F-16の代替として最新の F-35を導入することになっています

⑲ 2023年12月28日、「米国がウクライナに追加軍事支援」;
米政府は27日、ウクライナに2億1千ドル(約355億円)の追加軍事支援を行うと発表しました。今回で米国のウクライナ支援に向けた財源は枯渇する可能性があります
当初の610億ドルのウクライナ支援予算を含む追加予算措置は、野党・共和党内の慎重論などから承認の見通しが立っていません。米国防総省は声明で「ウクライナが自国を守るため、(米国の)議会が新年にできるだけ早く行動を起こすことが極めて重要だ」と強調しました。今回は米軍の在庫から、携行型の地対空ミサイル「スティンガー」や千5百万発超の弾薬などを提供することになっています
⑳2024年1月8日、「ウクライナ、防空ミサイル枯渇の懸念」;
欧米の支援減を見透かし、ロシアが2023年末から大規模なミサイル攻撃を続けています。ウクライナの防空網の突破を狙うロシアは北朝鮮製の弾道ミサイルまで投入したとみられ、欧米から十分なミサイル供給が続くかが今年の戦況を大きく左右しそうです
参考:米も武器在庫逼迫_軍需企業、冷戦期の1割

⑳ 2024年1月8日、「ウクライナ、欧米の支援減により防空ミサイル枯渇の懸念」;
ウクライナ側の発表によると、ロシアは2023年12月29日からこれまでに500発以上のミサイルとドローンでウクライナ全土を攻撃しました。このうち防空ミサイルなどで6割以上の迎撃に成功しているものの、通常の弾道ミサイルS300キンジャ-ル(極超音速弾道ミサイル)などに対しては迎撃の失敗も目立ちました。これは、弾道ミサイルに対応できるパトリオットミサイルシステムのウクライナへの供与がキーウ近郊に配置された3基にとどまっていることが背景にあります
このため、大半の地方都市の防空は脆弱な状態となっています。ウクライナ当局の発表によると東部ドネツク州ポクロフスクで1月6日、ロシア軍のミサイル攻撃があり、子ども5人を含む11人が死亡しました。これにはS300ミサイルが使われたとみられています
ロシア軍は今月2日にはパトリオットが配備された首都キエフへの弾道ミサイル攻撃も実施しました。ウクライナ軍はパトリオットで10発のキンジャル迎撃に成功したと発表しました。これらの攻撃は、ウクライナにパトリオットミサイルを消費させようとするロシアの狙いが透けます

ウクライナはパトリオットシステムの10基以上など、多数の迎撃ミサイルの供給を求めていますが、欧米の動きは今の所鈍く、米議会ではウクライナへの支援予算案を巡る調整が難航しています。米国家安全保障会議(NSC)のカービー戦略広報調整官は3日、軍事支援のための資金が事実上枯渇したとの認識を示しました。

NATOは1月3日、ロシアに対する欧州の防空能力を強化するため、最大千発のパトリオットミサイルを調達すると発表しました。ウクライナに供与して減少したミサイル在庫を補充する狙いもありますが、すぐに同国への供給増につながるとみる向きは少ないと考えられます
一方、ロシア側のミサイル在庫も減っています。米戦争研究所は2023年12月29日、現在のロシアのミサイルや無人機の生産能力を踏まえると、ロシア軍が頻繁に大規模なミサイル攻撃を繰り返すのは難しいとの分析を発表しました
このためロシアは国外からの弾道ミサイルの調達を急いでいるようです。カービー氏は1月4日の記者会見で、ロシアが北朝鮮から弾道ミサイルの供与を受け、ウクライナに対して複数回発射したとみられると語りました。ロシアがイランから短距離弾道ミサイルを入手しようとしているとの情報があることとも明らかにしました

Foolow_Up:2024年1月19日_「ウクライナのフランケンSAM 初の敵機撃墜に成功
Foolow_Up:2024年1月21日_「ロシアの港で大規模火災 ウクライナの無人機が長距離化に成功か

プーチン大統領の歴史観とウクライナ戦争との関係

第二次大戦の終了直前、第一次大戦の失敗を反省して勝利した連合国側の主要国により国際連合が発足しましたが、既にソ連を中心とする東欧圏と西欧圏の間にはチャーチルが言うところの「鉄のカーテン」ができ、朝鮮戦争、ベトナム戦争、などの共産主義国と資本主義国との間の数々の局地戦争が始まりました。1962年10月にはすんでのところで所で核戦争となるキューバ危機が発生しましたが、ここは、ケネディー大統領とフルシチョフ首相の賢明な判断で、世界はこの危機を乗り越えることができました

その後も資本主義と共産主義の政治的軋轢が続きましたが、1991年に至りソ連の経済的な破綻の結果として、ゴルバチョフ首相による「グラスノスチ(情報公開)」、「ペレストロイカ再建)」が行われソ連邦は崩壊し、資本主義国としてのロシアが生まれました(詳しくは「ウクライナの歴史」参照)。この過程でウクライナを含むソ連の保護下にあった国々も独立を果たしました

プーチンは、ゴルバチョフ首相以降の改革を受け継いだエリツィン大統領時代に首相に就任(1999年8月)し、この年の12月のエリツィン辞任に伴って大統領代行に就任しました。この時以降ロシアは「プーチンの時代が23年間以上続いています
モスクワで現在権力を握っている彼と彼の世代の考え方は、旧ソビエトがロシア帝国と同様に超大国であった時代の後期数十年の間に形成されたものだと言えます。それが彼らのロシアのあるべき姿のモデルなのです

セルヒー・プロヒー氏(66歳;ウクライナ南部のザポリージャ出身の歴史学者は、現在ウクライナ研究所の所長を務めていて、ウクライナやロシアなどの歴史研究の第一人者として知られています)によれば、「プーチン氏は歴史を通じてこのウクライナに対する侵略戦争を正当化しようとした。それは、政治・軍事目標を達成するために操作された歴史だ」と

プーチンの考え方の根底には、ロシア帝国時代に描かれたロシアとベラルーシ、ウクライナの関係を表す以下の三姉妹の絵(中央は長女のロシア、両隣にいるのが妹のウクライナとベラルーシを表現している)があります;これはプーチンの解釈では『ウクライナ人はロシア人なので、存在しない、してはならない』ということです。ロシアが剣と十字架を持っていて、戦士として防衛し解放する役目を負っていますが、実はこの2人(ウクライナとベラルーシ)を捕らえているのです。セルヒー・プロヒー氏によれば、「ベラルーシは事実上、ロシアの占領下にあります。言語的・文化的・政治的に、より強力にロシア化されています。ウクライナも抵抗しなければ、ベラルーシと同じ運命になります

大統領1期目のとき、プーチン氏は軍事力を使わずに、経済的圧力や政治的な影響力でその目標を達成しようとしました。しかし、その試みはそれほどの結果を生みませんでした
その後、プーチン氏が新たに試みたのが、ロシア国外での軍事力の行使でした。旧ソビエト諸国でロシアの影響力を取り戻すための他の手段を持っていないことに気づき、軍事オプションを選んだということです

            <プーチンの成功体験!>

*以下の説明では現在「カフカス」と呼ばれる地方を、私が学生時代に学んだ「コーカサス」という呼び方に統一しています。読者にあってはご了承いただければ幸いです

① チェチェン紛争;
現在のチェチェン共和国は、北コーカサス地方の北東部に位置するロシア連邦北カフカース連邦管区に属する共和国です。この国家は、北コーカサス先住民族のひとつのチェチェン人が住民の多数を占め、ロシア連邦憲法ではロシア連邦を構成する連邦構成主体のひとつとされています;
この国は、18世紀にロシア帝国がコーカサス地方への南下を進めると、チェチェン人はロシアの支配に対して激しく抵抗を繰り広げましたが、1859年にロシア帝国によって周辺地域とともに併合されました(コーカサス戦争)。この後、ロシア帝国とオスマン帝国の取引により多くのチェチェン人がトルコやシリア、ヨルダン等へと移住しました
1991年ソ連解体後、ロシア連邦政府及びロシア連邦への残留を主張するチェチェン人勢力と、チェチェン・イチケリア共和国やコーカサス首長国を自称するチェチェンの独立を求める武装勢力との間で対立が続きました

【第一次チェチェン紛争(1994年-1996年)】
ロシア連邦政府はこの共和国の存在を拒否し、1994年12月にエリツィン大統領は、チェチェンの独立を阻止するため4万のロシア連邦軍を派遣し第一次チェチェン紛争が始まりました。独立派はゲリラ戦で激しく戦い紛争は泥沼化しましたが、1995年2月にロシア軍がチェチェンの首都グロズヌイを制圧し、1996年4月にジョハル・ドゥダエフ(独立派の初代大統領)の殺害に成功すると、8月にエリツィンとチェチェンの武装勢力のリーダーの間で停戦が合意されました。そして1997年5月にはハサヴユルト協定が調印され五年間の停戦が定められました。この紛争では10万人以上の一般市民の死者を出したと言われています

【第二次チェチェン紛争 (1999年-2009年)】
停戦中の1999年8月7日に、コーカサス圏における「大イスラム教国建設」を掲げるチェチェン独立派の最強硬派のシャミル・バサエフとサウジアラビア生まれでヨルダン出身のアミール・ハッターが、和平協定を破り突如隣国のダゲスタン共和国へ侵攻しました。これに対しプーチン首相はロシア軍をチェチェンへ進撃させ1999年9月に紛争は再発。プーチンはエリツィンの健康悪化により1999年12月に大統領代行、2000年に大統領に就任しました

ロシア軍は2000年に首都グロズヌイを再び制圧し、アフマド・カディロフをチェチェン共和国の大統領につけてロシアへの残留を希望する親露派政権をつくらせ、独立派のチェチェン・イチケリア共和国を在野に追いやりました。しかし以降もチェチェンの独立運動は続き、ロシア軍との内戦状態が続きました。ゲリラ化したチェチェン独立派勢力はアルカイダ等の国外のイスラーム過激派勢力と結びついてテロリズムに走り紛争はさらなる泥沼化しました
これに対してプーチン政権は、2003年~2006年にかけて独立派のチェチェン・イチケリア共和国の第2代大統領ゼリムハン・ヤンダルビエフと第3代アスラン・マスハドフと第4代アブドル・ハリムを殺害し、独立にむけた武装闘争に対しては徹底的に鎮圧する意思をいっそう明確にしました。またロシア政府は2005年11月に共和国議会選挙を開催させ、「チェチェン紛争の政治的解決プロセスの総仕上げ」としてこの結果を評価しました。これに対して独立派はロシアによる「見せかけの選挙」であると強く反発しています(⇔ウクライナにおけるクリミア及び南部・東部諸州の占領地における「見せかけの選挙」とよく似ている!)
尚、親露の現チェチェン政府はロシアの要請に基づき、ウクライナへの派兵も行っています

② グルジア紛争 (2008年)
1991年ソ連解体後、グルジアも他のソ連構成国と同じく独立を宣言しました。1993年には独立国家共同体に加盟し、ゴルバチョフ政権でソ連の外務大臣として活躍していたシュワルナゼが大統領(1992~2003)となりました。しかし黒海に面したアブハジアではグルジア人以外のロシア人などの複雑な民族構成があり、親ロシアの傾向が強く、グルジアからの分離独立を主張してアブハジア紛争(~1994年)が起こりました。アブハジアの一部は今もグルジアの実効支配が及んでいません
グルジアでは独立後、経済の悪化が進み、2003年には野党の指導によるデモ隊が議会を占拠し、大統領は辞任、総選挙が行われて国民連合の指導者で親欧米派のサアカシュヴィリが当選するという、「民主化」が行われましたが、この政変は「バラ革命」とも言われています
南オセチアにはグルジア帰属に反対する人が多く、ロシアの支援を受けて分離独立の動きを強め、2008年8月に独立を宣言しました。それを認めないグルジア軍が侵攻、それに対してロシアはロシア軍をグルジアに侵攻させ、南オセチアを支援、グルジア軍は敗れて撤退しました。戦闘は同時に黒海海岸のアブハジアでも展開され、グルジア・ロシア間の戦争状態となりました。戦闘は8月中にEUの調停で講和しましたが、南オセチアとアブハジアは事実上の独立状態となっいます。ロシアは両国を独立国として承認していますが国際的にはまだ認知されていません
*現在、グルジアの正式な国名はジョージアとなっています

③ シリア内線(2011年-2017年)
シリアでは、1971年にアサド大統領の父親がクーデターを起こし権力を握って以来、強権的な政治が続いていましたが、中東で「アラブの春」と呼ばれる民主化運動が広がった2011年、シリアでもアラブの春が飛び火する形で生活への不満が爆発し反政府デモが各地に広がりました;

しかし、アサド政権は抗議デモを武力で弾圧、これをきっかけに、反政府勢力との内戦に発展しました。アサド政権は否定していますが、内戦のなかで化学兵器禁止機関(OPCW)はアサド政権が化学兵器を使用したと断定しています
その後、イスラム過激派組織が台頭して内戦が泥沼化し、イランやヒズボラの支援にもかかわらず、北西部で国内最大都市アレッポの東半分が反体制派に奪われ、ユーフラテス川東岸はイスラム過激派組織に侵食され、南部では反体制派が優位に立ち、北部ではクルド人勢力の中立と引き換えに自治を黙認せざるを得ない状況となりました。更に3月にはイドリブ県の県庁所在地イドリブが陥落し、アサド大統領自身も全ての戦線での攻勢が不可能となってしまいました

ここに至り、2015年9月30日、プーチンはシリア政府からの要請を受けたとしてシリア領内でイスラム過激派組織に対する空爆を開始、10月29日までに千回以上の爆撃が行われ、多くの民間人がこの空爆によって死亡しました

この空爆によって一時は劣勢となったアサド政権は次第に有利となり、現在では、シリアの多くの地域がアサド政権の統治下に置かれています

以上から分かることは、プーチンが権力の座についてから、彼の決断のもとに行われた軍事侵攻は、ほぼすべて成功裏に終わり、この成功体験が2014年のクリミヤ侵攻、2022年のウクライナ侵攻に繋がったと考えられます(私見)

<プーチンの軍隊が行った!戦争犯罪>

戦争とは残酷なものですが、国際法で決められた禁止行為は決して犯してはなりません。第二次世界大戦後の戦後処理の一つとして連合国により、ドイツに関してはニュールンベルク裁判で、日本に関しては東京裁判で多くの戦犯が裁かれました。以下は、生成AIを使って調べた戦争犯罪の定義です;
「戦争犯罪とは、戦争における国際法に反する行為の中でも、狭義には第二次世界大戦以前より認められてきた戦時法規の違反者が敵国にとらえられた場合に処罰されるものであり、広義には第二次世界大戦後に認められた平和に対する罪人道に対する罪を狭義の戦争犯罪に加えたものである。 例えば、捕虜虐待毒ガスなど国際法上禁じられた武器の使用文民による武力を用いた敵対行為スパイ行為戦時反逆など、軍隊構成員が行う交戦法規違反が狭義の戦争犯罪に含まれます. 広義の戦争犯罪のうち平和に対する罪とは侵略戦争の実行などで、また人道に対する罪とはジェノサイドに代表される非人道的行為である」

① ウクライナ戦争では、開始早々からロシア軍による以下の様な戦争犯罪が記録されています;
<北部戦線でのロシア軍の侵攻からウクライナ軍の反攻成功までの状況>
*2022年2月24日直後;
早朝にプーチン氏がウクライナでの「特別軍事作戦の開始」を宣言する演説が国営テレビで放送された。その直後に首都キエフ図ではキーウと表現/以下同様や東部ハリコフなど各地で爆発音が聞こえ、北・東・南の3方向からロシアが進軍しました。ウクライナはロシアが「全面的な侵攻を始めた」と世界に訴えました;
*2022年3月24日;
ウクライナの北に位置するベラルーシから進軍したロシア部隊は首都キエフ包囲を狙い、その近郊に迫りました。南東部の港湾都市マリウポリや東部ハリコフ、イジュームを陥落させようと激しい攻撃を続け、ロシア軍の支配・侵攻エリアは全土の約27%に及びました;
*2022年4月4日;
ウクライナ軍の抗戦をうけ、ロシア軍はキエフ近郊から撤退した。侵攻直後に占拠した北部チェルノブイリ原子力発電所からも引き揚げました。撤退後のブチャなど、各地で民間人の遺体が多数見つかり、ロシア軍による拷問や虐殺の疑いが明らかになりました;
*2022年4月7日
ウクライナ軍の反撃で追い詰められたロシア軍は北部から完全に撤退しました。ウクライナ軍は北部のチェルニヒウやスムイ周辺も奪還しました;

首都キーウ近郊で起きた民間人虐殺;
ウクライナ軍が北部地方奪還後、専門家による調査によって明らかになった民間人虐殺の人数については以下をご覧ください;

特にブチャに於ける民間人虐殺については、各国の報道機関によって報道され世界に衝撃を与えましたが、以下はその一部です;

② ロシア領からクリミアに至る陸の回廊を確保するうえで重要なアズフ海沿岸のマリウポリでは2022年2月24日の侵攻開始より民間人を巻き込む激しい戦闘が行われ、ロシア軍の包囲・総攻撃で約2万人の死者が出たと言われています;
*2月24日~
ロシア連邦軍はドネツク州の親ロシア派とともにマリウポリを包囲し、食料、ガス、電気の供給が遮断されると共に、爆撃により都市のおよそ80~90%が破壊されたと思われます
ロシア海軍はアゾフ海沿岸で水陸両用作戦を開始。アメリカ合衆国国防総省の高官によれば、ロシア海軍は数千人規模の兵士を海岸堡から展開、市街地への砲撃を継続した
*3月9日
小児科・産婦人科病院への砲撃により子供の犠牲者が出ているとウクライナ側当局者が発表し、ゼレンスキー大統領はこの攻撃は戦争犯罪だと主張しました。これに対してロシア側はこの病院が過激派のアゾフ連隊の基地と化しており、虚偽情報だと主張しています
*3月19日
マリウポリの市当局によると、民間人数百人が避難している芸術学校がロシア軍に爆撃されました

*4月20日
市内の大部分をロシア連邦軍が支配し、ウクライナ軍は2個大隊が壊滅。第36独立海軍歩兵旅団、アゾフ連隊、第12特務旅団、ウクライナ領土防衛隊に、国境警備隊、警察官、右派セクターの義勇兵など約2千人の戦闘員がアゾフスタリ製鉄所に籠城するのみとなりました
ウクライナ軍は、孤立したアゾフスタリ製鉄所内の部隊に対する弾薬・糧食・医薬品等の補給や負傷者後送のため、ヘリコプターによる輸送作戦を合計7回実施。従事した搭乗員は9割が帰還できませんでした。ゼレンスキー大統領は撃墜の危険を知りながら補給任務に従事したヘリ操縦士らを「英雄」と称えました
3月20日時点で、地元当局によれば、少なくとも2千3百人が、爆撃までの包囲戦で亡くなったとされています
*4月21日
衛星写真を分析し、マリウポリから西に約20キロのマンフシュ村に、ロシア側が市民らの遺体を埋めている集団墓地を発見したとテレグラムに投稿されています

5月7日
ゼレンスキー大統領がアゾフスタリ製鉄所からの市民退去完了を発表
5月16日
ロシア国防省がアゾフスタリ製鉄所の負傷兵の避難に合意したと発表。ウクライナ軍参謀本部も「マリウポリを防衛する部隊は司令部が命じた全ての任務を完遂した」と発表し、マリウポリを守備するアゾフ連隊などに撤退を命令しました。ウクライナ国防省は人道回廊が設置され、重傷者53人を含む、260人以上のウクライナ兵が製鉄所から避難したと発表しました。ただし、投降した捕虜扱いでロシア軍の支配地域に移送されています

12月22日
AP通信は、ロシアのウクライナ侵略で壊滅状態になった南部マリウポリ周辺で、これまでに少なくとも1万300基の墓が新たに作られたとの分析結果を報じました

ロシアの占領政策
マリウポリのヴァディム・ボイチェンコ市長は2022年4月15日、読売新聞のオンライン取材に対し、4万人がロシア軍により連行されたほか、ウクライナ側による市民への支援物資をロシアを奪い自らの「人道支援」と称して配っていると主張しています

③ ロシア軍は、ウクライナの原発取水ダムを破壊
2023年6月6日午前2時50分、ロシア軍は、占領下の南部ヘルソン州カホフカ水力発電所のダムを爆破、決壊させました。このダムはザポロジエ原子力発電所が冷却水を取水していました

フォンデアライエン欧州委員長はツイッターでダム決壊に言及し「ロシアはウクライナで犯した戦争犯罪の代償を支払わなければならない」と強調しました

マリウポリの市長によれば、ロシアの包囲作戦と爆撃、砲弾などによって2万人以上が亡くなったとのことです。こうしたことが理不尽な侵攻によって為されたとすれば、その国のトップは、第二次大戦の所謂「平和に対する罪」として裁かれる必要があると思います(私見)

ロシアに対する一連の経済封鎖とその効果

ウクライナ侵攻直後から、日本を含む西欧諸国の多くの国々は経済制裁を発動しました。しかし、石油、天然ガスをロシアに頼っていた西欧諸国は、当初ロシアの理不尽な侵攻の意思を挫くほどの効果はありませんでした

下表は、ロシアに対して行った一連の経済制裁とその効果に関するネット上の記事をリストアップしたものです
表を見易くする為に、以下の凡例の様に各コラムの色の割り当てを行っております(2022年度、2023年度共通);


参考指標:2022年度の為替レート(1ルーブルに対する米ドルの交換比率)は以下の表の様になっています;

2月24日のウクライナへの侵攻によってルーブルの価値は急激に下がりましたが、この年の後半は安定した水準(≃0.015USD/1ルーブル)を保っています


参考指標:2023年度の為替レート(1ルーブルに対する米ドルの交換比率)は以下の表の様になっています;

2023年度に入ると急激にルーブルの価値は下がり年度後半はの為替レートは、年初に比べ26.7%下落しています
ロシア中央銀行は、ルーブルの下落によって輸入物価が上昇し、インフレ懸念が高まる展開を懸念し、7 月には予想外の大幅利上げ(7.5%→8.5%)に踏み切りました。この利上げは、ルーブル安が加速し物価上昇に歯止めがかからないため、中銀として大幅利上げに追い込まれたと結果と考えられます。ルーブルの下落によって、ロシアの輸入物価はさらに上昇しています

全体を俯瞰すると、当初ロシアによるLNG供給停止の脅しと、国によってはエネルギー事情が厳しいところもあり、また石油製品やLNGの市場価格の高騰、中国やインドの買い付け増、などによってロシアの経済への影響はそれほどでもなかったと思われます。しかし、時がたつにつれウクライナを支援している国々の代替エネルギー確保の努力、米国のLNG(シェールガス)の増産などによって、ロシアはLNGを武器に使う意味が無くなってきつつあります。むしろその収入減によってロシア経済が時間が経つほど苦しくなってきているのが実情と思われます

また、半導体製品の制裁は武器の製造に相当厳しい影響が出て来つつあります。当初から半導体を多く使うドローンなどは、トルコや中国からの供給で間に合わせていましたが、最近は、ミサイルの製造に支障をきたすようになり北朝鮮からの供給に頼るようになってきていると見受けられます

また、最新のミサイルや戦闘機、電子戦に必要な機器類についても、最新の半導体が必要なことから、その損耗を惜しむ様な作戦に変わってきているようにも見受けられます

この戦争が更に長引いた場合、上記の状況は一層ロシア側に不利になると思われます。因みに、米国のLNGの今後の増産ペースは相当顕著になることは、右表を見れば明らかではないでしょうか

また、地球温暖化に関わる世界共通の目標となっている再生エネルギーの急速な普及を勘案すると、近いうちにエネルギー供給に関わる脅しはもはや意味をなさないと思うのですが、、(私見)

Follow_Up:2024年1月19日_「アメリカの二次制裁発動で中国国有銀行もロシアとの取引を見直し

おわりに

以上のような状況から、今後ウクライナ有利に進むように思われますが、ロシアの歴史を踏まえると、以下の理由からそう簡単にロシアに勝利できるとは思えません;
ウクライナ自身の武器の生産能力、現在の武器供給の主力であるNATO諸国の支援疲れ、特に米国の支援は共和党大統領選挙結果如何で大きく変わる可能性がある、などから近い将来に現在のロシア占領地域を奪還する見通しは立ちにくいと考えられます
ロシア帝国~ソ連の時代に、露土戦争ナポレオン戦争第二次大戦におけるドイツとの戦争という苦しい戦いをロシアは勝ち残ってきた歴史があり、苦境になればなる程大量の兵士の死を厭わない長期戦を戦い抜く可能性が排除できません

戦後の日本は憲法の制約から、武器に関わるウクライナ支援はできないことになっています。従って、現在の日本のウクライナ支援は、ウクライナ避難民の受け入れ・支援、地雷除去技術・機材に関わる援助、発電機や暖房器具の供与、ウクライナ国内の市民への生活支援、などの限られています。勿論、戦争終了後が主となる復興支援も約束しています
しかし、日本の世論は間違いなくウクライナを圧倒的に支持しています。ほかにウクライナ支援ができることは何か? 平和な日本にいる私がこんな事を考えるのは、両親や親戚から聞いた満州に於ける敗戦・抑留体験です。ロシアに負けることはどういうことか、ということを何度も聞かされました
今回のロシアのウクライナの侵攻は、日本の敗戦直前の1945年8月9日(日ソ不可侵条約を一方的に破って)、満州に突如侵攻してきたソ連軍を思いださせます独ソ戦終盤、敗軍のドイツ兵に暴虐の限りを尽くしたソ連軍が、満州侵入後に日本人の農民、市民に何をしたか、、、今回のウクライナに侵攻したロシア軍兵士の振る舞いはこれと相似形で語ることができます

ウクライナが勝利するためには長く戦い続けることが必須条件であることは間違いありません。以上を勘案すると、日本としてもう少し違う支援も考えていいのではないか?と考え始めています
日本は極めて性能の高い防御兵器を沢山保有していますが、旧式となって要らなくなった兵器でも今の憲法ではウクライナに供与はできません。しからば、ウクライナが兵器を買うお金を支援することは如何か? 「お金は天下の回り物」ですから武器援助にはあたらないと考えることはできないか?
ウクライナ戦争でミサイルや航空機に対する防御能力の高さが証明されているパトリオットシステムは、現在3基がキエフ周辺に配置されているのみです。ウクライナの他の都市はロシアのミサイル攻撃を受けて多くの民間人の死傷者を出しています日本の使途を明確にしない財政支援によってウクライナがアメリカのレセオン社からこのシステムを直接購入する、またウクライナ人が戦闘状況の推移によって他の有用な兵器の購入に変えることも可能となるのではないか?
現在、政府が検討している「ウクライナの支援で在庫が少なくなったパトリオットシステムを米国に売却する」よりも余程ウクライナ人に感謝されるのではないか?益々私の妄想は膨らみます!!!

Follow Up_2024年2月1日「ウクライナ支援でバイデンが「奥の手」 ギリシャなどから三角スキームで武器送る

以上

福島原発処理水海洋放出に関わる論点を整理してみました

-はじめに-

最近、標記に関わるニュースが頻繁に登場する様になりました。きっかけは、福島原子力事故以降、地下水や雨水が原子炉内に入り、溶けた燃料(デブリ/Debris)の冷却に使われて後、放射性物質を含む汚染水は処理された後、発電所の敷地内にタンクを適時建設しつつ貯留(見出しの写真参照/現在タンクは1,000基以上)してきたものの全容量(137万トン)の約98%に達しており、今年8月から海に放出する必要が出てきたためです

現在の計画では、国で決められた基準値の1/40に希釈し、海に放出する計画になっています。タンクに収められている処理水は、左の図の様に、予めALPSで有害な放射性物質は可能な限り除去されております
<参考> 左図のALPSとは、 Advanced Liquid Processing System(多核種除去設備)の頭文字を取った略語で、トリチウムを除く63種類の放射性物質を規制基準以下まで浄化処理する設備のことです。尚、巷では海洋に放出されるものを汚染水と言う人もいますが、海洋に放出されるのは「処理水」です。

<参考>  トリチウム以外の放射性核種の処理について
汚染水にはトリチウムを除き63種類の放射性核種が含まれていますが、それぞれの核種について、生まれてから70歳になるまでその核種を含んだ水を毎日約2リットル飲み続けた場合に、平均の被爆線量が1年あたり1ミリ・シーベルトに達する濃度が限度として定められており、これを「告示濃度限度(ベクレル表示)」と言います。
一方、処理水は、この63種類の核種の濃度の合計が1以下(1/100)となる様に二次処理されています(詳しくは「多核種除去設備等処理⽔の⼆次処理性能確認試験結果(終報)」をご覧ください)
例:(告示濃度限度(べクレル/L)処理後の濃度(べクレル/L)
*セシウム137  90/0.1850.0013
*コバルト60   2000.3330.0017
*ストロンチウム90300.03570.0012
*炭素14     200017.60.0088

処理水を更に大量の海水を混ぜて海に放出する設備は既に完成し、国際原子力機関や韓国の調査団に公開されており、この設備の海面下の設備を含む概念図は以下の通りです;

今年7月4日には IAEA(注)のトップであるグロッシ事務局長は処理水の海洋放出に関し、科学的な観点からは問題ないとの報告書を岸田総理大臣に提出しております。しかし現在、国際的にはこの海洋放出に反対する国があり、国内でも漁業関係者などは反対を表明している状況にあります
そこで、以前原子力関係の仕事(原子力安全基盤機構・監事)をしていたこともあり、私にも海洋放出の安全性について友人・知人にそれなりの説明責任を果たす義務があると考え、以下にその論点を整理してみることとしました
(注)IAEA(International Atomic Energy Agency)とは、日本語で「国際原子力機関」といい、原子力の平和利用について科学的、技術的協力を進める為、1957年、国連傘下の自治機関として設置されました

尚、以下の説明には原子物理学上の専門的な用語が沢山出てきます(ニュースなどではあまり詳しい説明なしに使用される傾向があります)が、原子物理学が得意でない方は、2016年8月に発行している私のブログ「原子力の安全_放射能の恐怖?」を事前にざっと一読して頂ければ理解が早いと思います

論点1_トリチウムの放射線の危険性

水素という元素は陽子が一つである元素の一般名称です。水素には原子量が1~3ヶの三つの種類があり(下図参照)、科学的性質はほぼ同じです
通常、我々が水素と言っているものは、上図の左端の陽子が一つだけの原子核を持った水素です。真ん中の重水素(原子核が陽子と中性子で1ヶずつで構成されている)は最近話題に度々登場している「核融合反応」の燃料として使われる元素です。右端にある三重水素がトリチウムです。三つの元素の内、放射性物質(放射線を出す物質)はこのトリチウムのみです。重水素・トリチウムはごく微量で自然界にも存在する元素で、主に宇宙線によって生成されたものですが、原子爆弾・原子炉が登場してからはトリチウムは人工的にも生成される様になりました

放射線が人体に与える影響を論ずるには、「放射線の種類」、「放射性物質の半減期」、「放射性物質の生物学的半減期(体の中に取り込まれた放射性物質が50%排出される期間)」を理解しておく必要があります
トリチウムはベータ線を放出してヘリウムの同位元素(陽子2ヶ、中性子1ヶ)に変わります(この反応は一般にベータ崩壊と言います)。ベータ線の正体は電子で、陽子の「1/1800」の質量しかないためエネルギ-は他の放射線に比べて小さく(最大18.6keV、平均5.7keV/キロ・エレクトロンボルト⇔非常に小さなエネルギーの単位)、またマイナスの電荷をもっている為に空気中を約6mm程進む内に空気中の窒素、酸素、他の元素との相互作用でエネルギーを失ってしまいます。従って人間の皮膚を通過して体内に侵入することはありません。一般に障子一枚で遮蔽することが可能とされています

②人間の被爆を論ずる場合、「外部被爆」と「内部被爆(体の中に取り込まれた放射性物質による被ばく)」の違いを理解していなければなりません
外部被爆」が問題となるのは、一時的に極めて強い放射線を浴びた場合、例えば原子爆弾の最初の炸裂時の強い放射線の直射を受けた場合や、死の灰(原子爆弾の核分裂生成物)による被ばくを長時間受けた場合、原子炉近くで被爆を防ぐ防護服を着ないで長時間作業を行った場合などであり、トリチウムの海洋放出では、外部被爆による被害を受けることは考えられません
一方、「内部被爆」については、放射性物質が体内に留まり身体内部で被爆し続けるため身体への影響が大きいことは言うまでもありません。例えば、ベータ線を出すヨウ素131の場合、半減期は8日生物学的半減期は138日ですが、ヨウ素は成長過程にある子供の甲状腺に取り込まれる可能性があることから、内部被曝による甲状腺がんの発症や甲状腺機能障害に関与することがわかっています(成人については甲状腺の成長はほぼ止まっているので、リスクはそれ程高くはないと考えられます)。またストロンチウム90の場合、ベータ線を出してイットリウム90となり、イットリウム90もベータ線を出します。半減期は29年生物学的半減期は49年に達します。ストロンチウムが周期表カルシウムのすぐ下にあることから分かる様に、化学的性質がカルシウムに似ており人間の骨に取り込まれ骨髄にダメージを与えることが知られており、白血病の発症や白血球・血小板の減少による免疫力の低下などに繋がる可能性があります。特に骨の代謝が盛んな30才以前の人はリスクが高くなります

トリチウムの場合、半減期は約12.3年、生物学的半減期は、水として摂取された場合(自由水中トリチウム)は10 日程度、有機物に含有されたもの(有機結合型トリチウム)を摂取した場合は40 日程度であり、トリチウムのベータ線のエネルギーが小さいことと併せ、内部被爆によるリスクはかなり低いと思われます ⇒下表参照


上表は、経産省の報告書から拝借したものですが、図を読む時の注意点は、縦軸の1目盛が10倍きざみになっていることに注意してください。簡単に言うとトリチウムは他の放射性物質と比べて「桁違いに生物に対する影響が小さい」ことが分かります

また、IAEAのサイト情報によれば、世界中のほとんどの原子力発電所では、通常の運転の一環として、低濃度のトリチウム及び他の放射性物質を含む処理水を、日常的かつ安全に環境中へ放出しています。尚、この処理水の放出は国の規制当局により認可・管理され、日常的に厳密にモニタリングされています
因みに、経済産業省の資料によれば、以下の図の様に現状においても、他の国も相応のレベルで放出していることが分かります
<参考> ベクレルという単位について;
「1秒間に1個の原子核が壊れて放射線を出すとき、この元素の放射能を1ベクレルとする ⇒ 単位が「兆」で吃驚しない様に!という定義で分かるように、この単位は放射線の種類やエネルギー、危険性とは直接対応していません。ただ、原子力発電所から排出する放射性物質の種類は概ね同じなので、放射性物質の排出量を比較するには適した単位です
<参考> 世界各国の原子炉タイプ別の排出量、排出方法(河川・海洋放出、気体での空中放出)は以下の資料をご覧ください「世界の原子力施設からの年間排出量

論点2_処理水の海洋放出に伴う反対論とその対策

1.海外での処理水放出反対論と原発事故以降の日本産食品の輸入規制の状況
つい最近まで中国、韓国などの国は、日本の処理水海洋放出に強い反対をしていましたが、IAEAによる安全評価が発表されてからやや下火になっています
特に韓国の尹大統領は、IAEAのグロッシ事務局長から直接安全性の説明を受けて以降IAEAの報告を尊重する立場に変わりました。一方、中国については本年7月14日の林外務大臣と王毅共産党政治局員との会談の内容を見ると、なお反対を続けるようです。ただ「処理水」と「汚染水」との区別がついていない、あるいは知っていても(自国の排出量が日本よりかなり多い)政治的な理由から反対を貫いているのかもしれません

日本産食品の輸入制限については、EUとの間の外交努力により、近々規制撤廃が確実になると共に、処理水海洋放出についても、同様の考え方から輸入規制を行うことは無いと思われます

<参考>
* 2023年7月14日・日経新聞「林外相「科学的観点で対応」_原発処理水放出 王毅氏は批判

Follow_Up: 2023年7月25日・日経新聞「日米韓・原発処理水巡り偽情報対策協議
Follow_Up: 2023年7月30日・日経新聞「日本食品のEU輸入規制、8月3日に撤廃 農相が明らかに
Follow_Up: 2023年7月3日・日経新聞「原発処理水の風評対策_放出前でも基金活用・ 経産相、福島の漁協訪問
Follow_Up: 2023年8月10日・日経新聞「NPT準備委・処理水放出に理解相次ぐ_中国は反対
Follow_Up: 2023年8月16日・日経新聞「中国、日本の魚「輸入停止」1カ月_卸・飲食店に打撃
Follow_Up: 2023年8月26日・日経新聞「水産物に追加支援策、政府調整 中国禁輸でホタテなど
Follow_Up: 2023年8月26日・日経新聞「処理水、濃度「異常なし」 東電が海水調査の結果初公表
Follow_Up: 2023年8月31日・日経新聞「処理水放出を評価、中国対応は「暴挙」_エマニュエル駐日米大使寄稿

2.日本の漁業団体の反対
日本の業関連の団体は処理水の海洋放出については強く反対しています。経済産業省や東京電力が、放出に関わる科学的な説明を行っても納得する気配はありません
* 2023年7月13日・日経新聞「全漁連、原発処理水の放出反対変わらず

ただ、上記の記事を分析すれば全漁連の要求は、放出に伴う健康被害を問題にしているのではなく、「風評被害に対する金銭的な補償を政府に求めている」様に思われます
風評被害の補償については、原発事故以降世界各国で福島産の水産物の輸入禁止措置が行われた為、既に以下の様な基金が準備されています;

今後、8月に予定されている原爆事故後の欧州各国の輸入規制が撤廃されれば、恐らく水産物の輸出が増加することと思われます
しかし、今後、中国・香港は「海洋放出が始まれば福島県産の水産物の輸入禁止措置を行う」と公言していますので、措置が実施されれば、2022年度の全国の水産物の輸出総額実績が3,870億円を超え、その輸出先の1位・2位が中国・香港(2022年度の輸出総額:1,626億円)であることを勘案すると「風評被害の為の基金の増額」が必要になるかもしれません
内訳を詳しく知りたい方は上表の基になる資料「2022年度_農林水産物輸出入概況」をご覧ください

Follow_Up:2023年9月:「米、日本産ホタテ輸出支援 処理水放出1カ月 中国迂回ルート開拓
Follow_Up:2024年8月:「ホタテ相場V字回復 中国禁輸1年、販路広がり再び品薄

-おわりに-

日本のトリチウム放出の安全基準は、1リットル当たり6万ベクレル、数字としては大きい値に感じられますが、、、この量の水を毎日2リットル飲み続けると、ベータ線による被爆は1年で0.8ミリシーベルトになります。
一方、政府が今年8月以降に計画している処理水の海洋放出は、上記基準の1/40以下に希釈して放出されます。こればWHO(世界保健機構)が飲料水に定める基準の1/7に相当し、毎日飲み続けても年間の被爆は0.02ミリシーベルトにしかなりません
この被爆量を私達が日頃色々な放射線源から被爆している量と比較すると以下の図の様になります(下図の場合も、縦軸の1目盛が10倍きざみなっていることに注意してください);

私は、昨年から今年にかけて前立腺がんの放射線治療を受けました。約2ヶ月に亘る治療の被ばく量の合計は76シーベルト⇒7万6千ミリシーベルトにも上ります。治療中に多少の副作用はあったものの、今も元気?に生きています
人間は有史以前から各種の放射線に被爆しDNAに損傷を受けてきましたが、その損傷を自らの再生力で修復し、生き延びて繫栄してきました。私はこの生命力と、科学的に立証されている情報を信じています。また、計画通り処理水の海洋放出を実施し、最も大切な福島第一原発の廃炉措置を進捗させることが重要であると考えます

処理水の海洋放出に関して、立憲民主党と共産党は反対の立場を取っていますが、両党の正式見解(下記参照)を見ると、放出そのものに反対を唱えているのではなく、風評被害に対して政府としてきちんとした対応を取ることが必要との立場で反対を表明していると理解することが至当と思います;
処理水の海洋放出に関する立憲民主党と共産党の見解

以上

 

日本農業の未来

はじめに

2022年2月に始まったウクライナ戦争で、小麦粉やトウモロコシなどの穀物の流通が妨げられた為に、これらの輸入穀物に頼っているアフリカの貧しい国々で食糧危機が起こりました。穀物の大生産地が戦争に巻き込まれた時、あるいは気候変動や害虫(主にバッタ)などにより著しく穀物生産量が低下した時には、必ずどこかの国(多くは人口が多い貧困な国)で食糧危機が発生します。日本においても戦後の一時期、荒廃した国土と併せ、海外に居た軍人・軍属、海外に居留していた日本人の約660万人が帰国し深刻な食糧危機に見舞われました。この時、米国のガリオアエロア基金による食糧援助が無ければ、多くの餓死者が発生した可能性がありました

そんな訳で、日本を取り巻く政治・軍事情勢が緊迫の度を増している状況下(日中関係特に台湾海峡危機、日ロ関係、北朝鮮の核・ミサイルによる挑発)、日本の農業の現状とその改革の方向性について、少し意見を述べてみたいと思います

以下の文章で青色の斜体で書かれている内容は私自身の見解です

日本の農業の現状

第二次大戦後、日本においては国が主導した
① 復員農民による開墾事業の実施(昭和村など)
干拓事業に実施(八郎潟など)
自作農創設特別措置法による生産意欲の高い農民が生まれた事
農業技術の向上
などの農業政策により農業生産量が急激に増加すると共に、
⑤ 国の経済力の向上により食料の輸入に困らなくなった事
により、これまで食料危機の様な事態は発生しておりません。しかし、その実態は結構厳しい状況にあります。因みに、カロリーベースでの食料自給率(注)は、なんと現在40%前後まで低下しております;
(注)カロリーベース総合食料自給率とは(農林水産庁の定義);
基礎的な栄養価であるエネルギー(カロリー)に着目して、国民に供給される熱量(総供給熱量)に対する国内生産の割合を示す指標です

この原因は、日本が豊かになるにつれ国民の嗜好が洋風化し、肉類・乳製品の需要が高まった結果、日本の畜産・酪農、養豚、養鶏の生産量は増加したものの、その飼料の大部分を輸入に頼った事、またパン食、パスタなどの洋風麺類などの需要拡大によって国産可能な主食穀物である米の需要が減って、小麦の需要が増加しこれを輸入に頼っていること、などが考えられます

一人当たり年間消費量_農林水産省

尚、日本の農業の生産性・自給率などについて詳しい説明は、2018年1月発行の私のブログ「年の初めのためしとて~」の農業、林業、水産業の未来という項目の「1.農業の分野」にも調査結果を記載してありますのでご覧になって下さい

また、農地の有効活用の面では農民の高齢化に伴う耕作放棄地の増加人口減少に伴い過疎地も全国に分布する様になりましたが、特に山間地区を中心とする過疎化が顕著になって来ています。こうした状況下で日本の食をどう守るかについて、ネット上の情報に加え、恥ずかしながら私自身の知見、アイデアなども開示してみる事にしました

こうした状況が農業政策の失敗から生まれたことは、2008年に発行された東京財団上席研究員・山下一仁氏の寄稿「日本の食料自給率はなぜ低下したのか」をご覧になるとよく分かると思います

世界規模の不作や戦争による基幹食糧のサプライチェーンの混乱に伴う食糧危機にどう対応するか — 石油危機の歴史に学ぶ

回のウクライナ危機で食糧危機に見舞われている開発途上国は、食糧自給が出来ない為に起こっていると考えられます
戦後の日本においては幸いなことに危機的な食糧危機は戦後の混乱期のみですが、戦後主要なエネルギーを石炭から石油に急速に変えていったことから、エネルギーの自給率が極端に低下(20%前後)した時期に所謂「オイルショック」が起き、大混乱を招きました。日本がこの危機から脱出する過程から学ぶことがあると思いますので、この歴史を振り返ってみることにします

*以下は資源エネルギー庁のホームページから情報を得ています
第一次オイルショック(1973年10月~1974年8月)
原因
*第一次オイルショックは、1973年10月に第4次中東戦争が勃発し、アラブ諸国を支援するOPEC(石油輸出国機構)が原油の供給制限輸出価格の大幅な引き上げを行った結果発生しました。国際原油価格は3カ月で約4倍に高騰しました。これにより、石油消費国である先進国を中心に世界経済は大きく混乱。石炭から石油へと舵を切り、エネルギーの8割近くを輸入原油に頼っていた日本も大きな影響を受けました

日本が被ったインパクト;
原油の値上がり ⇒ ガソリンなどの石油製品の値上げ物価の上昇と急激なインフレ⇒ 1974年度の日本の成長は戦後初めてマイナス成長高度経済成長の終焉
鉱工業生産指数:+8.1% ⇒ Δ7.2%
パニック現象:日本全国のスーパーの店頭からトイレットペーパーや洗剤が消えました。「石油供給が途絶えれば、日本は物不足になるのでは?」、そうした不安から「買いだめ・買い占め」、「売り惜しみ」、「便乗値上げ」などが見られました

国が行った対策;

① 「石油節約運動」として、国民に「日曜ドライブの自粛」、「高速道路での低速運転」、「暖房の設定温度調整」などを推奨
② エネルギー政策を強力に牽引する行政機関として、当時の通商産業省内に「資源エネルギー庁」を新設

*エネルギーの安定的な供給を確保することが国の将来を左右する最重要課題であるとの認識から以下の基本的施策が実行に移され、この基本的な考え方は、現在にも受け継がれています。日本が世界に誇る省エネの歴史も、ここから始まりました
① 1973年に「石油需給適正化法」を制定。石油の大幅な供給不足が起った場合に需給の適正化を図る目的で、国が石油精製業者などに石油生産計画などの作成の指示ができる様にしました
② 長期的な視点から石油備蓄目標などを定めました。1974年度中に60日分の備蓄を実現。1975年には「石油備蓄法を制定し、民間備蓄を法的に義務付け、「90日備蓄増強計画」をスタートさせ、1978年には、国家備蓄を開始しました

<参考> 2023年1月における石油備蓄の現況については資源エネルギー庁資料「石油備蓄の現況」をご覧ください

③ 1979年に「エネルギーの使用の合理化に関する法律(省エネ法)」を制定。工場や輸送、建築物や機械などについて、効率的なエネルギーの利用に努めるよう求めました
④ エネルギー源の多様化を進め、石油依存率を下げる目的で、1980年には「石油代替エネルギーの開発及び導入の促進に関する法律(代エネ法)」を制定。石油に代わるエネルギーの開発・導入を打ち出しました

こうしたことから、石油代替エネルギーとして注目を集めたのが原子力発電です。自国にエネルギー資源を持たないフランス、日本、韓国は「準国産エネルギー」(原発の燃料となるウランは一度輸入すれば燃料リサイクルにより長く使用できるため、国産に準じるエネルギーとして位置づけられるの比率を高める必要性を認識していたため、原発の導入が進展しました。1974年には、原発の建設を促進するため、発電所の立地地域への交付金を定める法律なども整備されました

尚、先進各国のエネルギー自給の状況については私のブログ「地球温暖化と日本のエネルギー政策」を参照してください

第二次オイルショック(1978年10月~1982年4月)
1970年代末から1980年代初頭にかけて、原油価格は再び高騰しました。OPECが1978年末以降段階的に大幅値上げを実施、これに1979年2月のイラン革命や1980年9に勃発したイラン・イラク戦争(1980年9月~1988年8月)の影響が重なり、国際原油価格は約3年間で約2.7倍にも跳ね上がりました。これに伴い日本でもまた物価上昇が起こり経済成長率も減速しましたが、第一次オイルショックの反省と、その後に行った国の施策により国民も冷静な対応をとり、社会的な混乱は生じませんでした

日本の農業政策に、上記のエネルギー危機対策の参考にすべきポイントは以下ではないか、と私は考えます;
国家による食料・家畜飼料の生産と備蓄を国家主導により行う

農業に適した日本を見直そう!

日本は中緯度のモンスーン地帯にあります。従って農業に欠かせない雨量については申し分ない状況にあります。因みに日本全国平均の年間降水量は、1850mmですこれに対して世界の著名な穀倉地帯;
では雨量は意外に少なく、ウクライナの年間平均降水雨量は565mm、米国の穀倉地帯(Great Plains)では年間平均降水雨量は約890mmから250mm程度と、乾燥した地域で、時折旱魃に見舞われることがあります。つまり、日本の農業は何処にあっても、ほぼ水の心配がいらない(干ばつによる飢饉が起こりにくい)農地で行われています
ただ、夏になっても日本付近に太平洋の高気圧の張り出しが弱く、そのため気温が低く、日照時間も少ないことから北日本の稲をはじめとする夏作物が実らない災害が発生することがあります。また、北海道にあっては、オホーツク海高気圧に覆われ日照はあるが、気温が上らず、冷害となることもあります。ただ近年では、冷害に強い品種改良が進むと共に、気象の長期予測の精度の向上、地球温暖化の進行などにより冷害の頻度は低くなっています

こうしたことから、日本は食料自給率を向上させる努力は必要であるし、また戦争直後の様な国民一丸となった叡智を結集すれば「外的要因による食糧危機」を防げると私は思います

耕作放棄地の活用について素人の考えを展開してみました!

1.自国農業保護に関わるルール
戦後の日本の経済的は目覚ましい発展を遂げ、海外の安い食料を簡単に輸入することが出来る国になりました。こうした状況下で、競争力の高い工業製品に対する貿易障壁を低くする為に、自国農業の保護を目的とする農産物の輸入制限にはGATTウルグアイ・ラウンドにより一定の制限が設けられる事になりました
<参考> ウルグアイ・ラウンドとは
1948年に発足したGATT(General Agreement on Tariffs and Trade/関税 および貿易に関する一般協定)は、1970年代までに7回の貿易・関税交渉を行い、関税引下げなどに自由貿易の推進に一定の成果をあげてきました。しかし、1980年代に入って、各国で保護主義の動きが高まり、また商品貿易以外の国際取引が増加するなど、国際貿易を巡る状況の変化によって、あらたな交渉の必要性が生じてきました。そこで、第8回目の貿易交渉として始まったのがウルグアイ・ラウンドです。この協議ではサービス貿易や知的所有権の扱い方、農産物の自由化などについて交渉が行われました
この中で、農業分野の交渉が難航し、将来的に全ての農産物を関税化に移行させること、及び最低輸入機会(ミニマム・アクセスを決定するにとどまり、完全な自由化には至りませんでした
1986年から1995年にかけて行われた、GATT・ウルグアイ・ラウンドにおいて、このミニマム・アクセスの農産物への適用が義務づけられ、初年度は国内消費量の4%、その後6年間で8%まで拡大することが義務付けられています。
政府は1999年に、コメの関税化へ方針転換し、コメの枠外関税を、2000年(平成12年)に341円/キログラムに設定し、関税を払えば、誰でもコメを自由に日本へ輸入出来る様にしました。これにより、ミニマム・アクセス米の輸入量は、2000年には本来8%(85.2万トン)であるところを、2000年には76.7万トン(7.2%)を関税無し(免税)で受け入れることになりました

2.耕作放棄地の現状
上図(農林水産庁の資料)を見れば明らかな様に、耕作放棄地が増加し、逆に耕作適地であるものの、耕作が放棄されている土地がハイペースで増加しています。耕作放棄地の面積は上図(2015年)の段階で42.3万ヘクタール(因みに私の住んでいる埼玉県の総面積は38万ヘクタールです!)に達しています(ネット上を色々探してみましたが、現在の農林水産省の最新の調査結果は2015年版の様です)
農林水産省は、この耕作放棄地を二つのカテゴリーに分けています;
① 遊休農地:相当程度農地と使われず放置されている農地

② 荒廃農地:長期間農地として使われず、荒廃している農地

農林水産省は、こうした耕作放棄地が発生した要因は以下の様に考えています;
①  農業就業者の7割を占める60歳以上の世代が高齢化等によりリタイアし、農地などの経営資源や農業技術が適切に継承されず、農業の生産基盤が⼀層脆弱化してきた
②  高齢化が進む中、山間地域を中⼼に農村人口が減少し、農業生産のみならず地域コミュニティの維持が困難になり離農者が増加している

こうした状況を改善する為に国では幾つかの取組を行っています;
A.農地バンク;
2014年農林水産省は、全都道府県に農地中間管理機構(通称「農地バンク」)を設立し、中立な立場で農地の貸し・借りを円滑に進める役割をさせています。耕作放棄地の所有者や高齢などの理由によりリタイアしたい人など、「農地を貸したい」という人から農地バンクが土地を借り受けます。そして、新規就農希望者や農業参入を希望する希望などに貸し付けを行っていますB.国及び地方自治体の交付金
国が行う「耕作放棄地再生利用緊急対策交付金」は、重機を使った再生作業費用の半分(沖縄県は2/3)を支給。また耕作を行った初年度には10アールにつき2.5万円の助成が受けられます。また、地方自治体を含め土地の再生や耕作の再開にかかるさまざまな費用が助成の対象になっています
現在、こうした制度によって幾つかの成功例も報告されています:耕作放棄地の再生例_農林水産省

C.飼料用米の増産
2019年3月に閣議決定した「食料・農業・農村基本計画の概要全体網羅型であり構造的な変革についてはあまり具体的な目標は掲げていない印象/私見!」において、主食用の米からの作付転換が比較的容易であり、日本の畜産業にとっても安定的な経営にも寄与することから、「飼料用米の生産拡大」を目標として掲げ、2030年度の飼料用のコメの生産努力目標を70万トンに設定しています

発想の転換!

ただ、こうした従来までの行政の延長では、広大、且つ増え続ける耕作放棄地と低下しつつある食料自給率の矛盾は解消しそうにもないと私は思います。そこで、オイルショック後の経産省が行った大胆な取り組みを参考にして、敢えて国家が全面的に介入して耕作放棄地の再利用と食糧増産を結びつけることを考えてみました

1.耕作放棄地を使って、穀物の増産がどれだけ期待できるかの試算
概算を行う為に、主要穀物(コメ、小麦、トウモロコシ、大豆)の単位面積当たりの統計資料を調べてみました;
上表をみてまず吃驚するのは、農作物の生産性の最も重要な指標である単位面積当たりの収量が、農業先進国と比べて意外に低いことです。恐らくこの原因は、二期作が行える気候か否か、農薬の使用量の多寡、遺伝子組み換え品種を利用するか否か、化学肥料の多寡、などの違いが大きいと思いますが、日本人が食味に拘る傾向が強く、生産性は高いものの味の悪い穀物は栽培していないことも大きいと思います
しかし喫緊の課題は、日本人が小麦と同じほどに摂取する様になった肉類の生産に必要な飼料となる穀物の生産です。従って、単位面積当たりの収量だけにフォーカスしてもいいはずです

そこで、平均的な国の単位面積当たりの収量をグラフから読み取り、これに日本の耕作放棄地の面積(42万ヘクタール)をかけて、どれほどの穀物が生産可能か概算値(日本の飼料用穀物の輸入量と比較する為の概算値)を出してみました;

一方、最近の飼料用穀物の輸入量は1300万トン程度を推移しており(詳細は「近年の飼料穀物の輸入状況」をご覧ください)、為替動向や流通の混乱に大きな影響を受けるようになっています。特に最近の飼料価格の高騰は、ウクライナ戦争による流通の混乱と円安による二重のインパクトよるものであり、飼料の国産化は急務であると私は考えています。その意味で、耕作放棄地の飼料用作物への転用、備蓄の推進は、オイルショック時と同様に国策として進めるべきであると考えています

素人!の試案;
①  耕作放棄地を「農地バンク」の様な個人の熱意に期待する中途半端な仕組みではなく国が積極的に買い取る(国有農地とする)
②  この国有農地を飼料専門の耕作地とし、最新の技術(ドローン、ロボット、GPS、AIを駆使する農業)を駆使した効率的な運営を行い、コスト低減と同時に単位面サキ当たりの収量向上を目指す

③  耕作放棄地のうち「荒廃農地」に分類される土地については、敢えて牧草地とし、牧草の収穫あるいは主に輸入に頼っている羊や山羊の放牧地として活用する
⇒  国がサイレージとして貯蔵する⇒  国が必要な設備投資を行う
サイレージ(Silage)とは:牧草や飼料作物など高水分の飼料を適度な水分を保ったまま密封し、乳酸発酵を主とする嫌気的発酵(サイレージ発酵)を行うことで貯蔵性を高めた飼料
スイスに於いては、殆ど全てが傾斜地であり、そこで酪農を発展させてきたことを考えると、日本の山裾の「荒廃農地」は牧場とすることに何ら問題が無いと思われます

④  飼料の国際価格が下がったり、為替相場が円高になったタイミングを狙い積極的な飼料備蓄を行う
⇒  国がカントリーエレベーター、備蓄用サイロなどの設備投資を行う

カントリーエレベーターとは : 穀物の貯蔵施設の一種のことです。巨大なサイロと穀物搬入用エレベーター、穀物の乾燥施設及び調製施設などからなります

⑤  国際飼料相場が高騰したタイミングで備蓄飼料を放出し、国内の飼料価格の安定と結果としての畜産業の経営安定化を図る

2.酪農危機に対する対応
現在日本の酪農家が直面している最大の問題は以下の通りです;
(参考)  2022年2月1日時点での乳牛の飼育状況

①  乳用牛配合飼料の価格は2022年12月時点で1トンあたり10.1万円。1年間で22%上がり、2020年同月比で4割も高い水準になっています。農林水産省によると、2020年の1頭あたりの生乳生産費は約45%を飼料費が占めていました

②  これまで、生まれた子牛は1頭10万円程度で引き取られる貴重な収入源でしたが、ホクレン農業協同組合連合会(札幌市)によると、北海道のホルスタインの子牛(オス)1頭あたりの価格は2023年1月時点で平均約2万円以下で取引されています
⇔  子牛の需要が激減していることは、酪農家が赤字経営を避ける為に経営規模の縮小に走っていることだと思われます

③  生乳は痛みやすく生産と消費の調整が難しい商品である一方で、学校給食の需要が大きい為に夏休み・年末年始期間は供給過剰になります。また今回のコロナ禍では長期間にわたって自宅学習が続いた為に大量の生乳が廃棄を余儀なくされる状況になりました
⇔  生乳を長期保存可能な加工品(バター、脱脂乳・チーズなど)として貯蔵する仕組みが欠如している結果だと思われます。ただ、加工品は輸入品との価格競争が激しいため国は「原料乳生産者補給金」を支出してサポートをしているものの、生乳の売上単価対比で原料乳の単価が30%以上下がるので売上が原価を割る事態になる事を覚悟する必要があります

素人!の試案;
①   ロングライフ牛乳の普及により学校給食による需要の変動を吸収する
牛乳の消費量が多い海外では、大容量で賞味期限が非常に長いロングライフ牛乳が当たり前となっています。今までの殺菌温度より高温にすることで、2~6ヶ月も常温保存ができるようになっています

<参考> ロングライフ牛乳は通常の要冷蔵の牛乳と以下が異なっています

A.  特殊な容器の使用通常の紙パックの内側にアルミ箔を追加(結果として4層構造になる)した容器を使用するか、海外では一般的になっている光を通さないペットボトルを容器として使用します
*現在、日本ではこのペットボトルの容器を生産していません
B.  特殊な殺菌方法:ロングライフ牛乳では130~150度で1~3秒殺菌を行う「UHT(Ultra high temperature heating method)滅菌法」が行われています。この方法では牛乳の中の菌類はほぼ死滅します。たんぱく質の変性はある程度あるものの、優れた保存効果が得られます(参考:フランスの事例
因みに、これ以外の殺菌方法には「低温保持殺菌(LTLT法)」、「高温短時間殺菌(HTST法)」があります

私自身で、味に違いがあるかどうかを確かめてみました!       ⇒

私の鈍感な味覚ではいつも飲んでいる成分無調整の牛乳と区別がつきませんでした。また日本でも九州ではよく呑まれている様です
(ref:レタスクラブ

②  乳製品製造に特化した中小企業を国が支援して育成する
この企業のイメージとしては、日本に多数存在する酒造メーカー群です。酒と言っても日本酒、焼酎、ウィスキー、ワイン、ビール、等々、沢山種類があると共に、大企業に混じって頑張る中小メーカーも日本全国に沢山あり、夫々に特徴ある企業運営をしています
元々、酪農発祥の地(欧州が中心)では、昔から続く小企業が独特の製法、味でブランドイメージを作り上げ頑張っています。最近は日本でもチーズを中心とする結構高価な様々な乳製品が輸入されて売られています
<参考> 乳製品の種類
下表(農畜産振興機構より)をご覧になると、主な乳製品の輸入量が年々増加していることが分かります

これまで日本では、大きな乳業メーカーにほぼ独占されていた乳製品の製造を、国のサポートを基に生まれる中小企業が実施することとなれば、上表の輸入分が置き換わることとなり、酪農家の生乳生産量も増やせることになると私は考えます

また上表の輸入飲用乳には、濃厚なジャージ種の生乳も含まれていると思われますが、こうした付加価値の高い乳牛は、前節で触れた「荒廃農地」での羊や山羊の飼育と同時に行えば、日本の過疎化した山間地にスイスの様な景観を作り出す事が可能と思われます。日本においても阿蘇の広大な草地での放牧風景が日本の各地に生まれるかもしれません(夢の観過ぎか!)

おわりに

毎日朝食時にコップ一杯の牛乳を楽しんでいる私は、昨年末の「5千リットルの生乳廃棄か?」、「高く売れない子牛を餌が勿体ないので屠殺している」というニュースに驚くと同時に、憤慨いたしました。その後、色々酪農関係の資料を読むうちに、煩雑な農政の仕組みに驚くと同時に乳価の決まる仕組みなど、日本は本当に資本主義国か?と思いました

過去、米価が農協と行政の間で、選挙絡みで決まっていくことに疑問を感じていました。また、最後の国主導の干拓事業である八郎潟干拓が終わって意欲ある農民が入植した直後に、減反を迫られ、憤慨した農民達は農協のくびきから逃れ、美味しいコメを自由販売する道を選んだことに拍手喝采したことを思いだしました

憤慨する気持ちを整理する為にこのブログを書きましたが、我ながら「全く素人臭いアイデアであるな!」と思います。読者の方々の中には、もっといいアイデアがをお持ちの方もいらっしゃると思います。出来たらそうしたアイデアを私に内緒で?教えて頂けたら嬉しいなと思う次第です、、、、、

Follow_Up:農林水産省は2018年にコメの生産量を調整する「減反政策」を廃止したものの、現在も主食用のコメから飼料米や麦、大豆などへの転作に補助金を出す事実上の生産抑制策が残っています
Follow_Up:2023年1月27日・President Onlineに以下の様な記事が出ていました。着眼点がやや異なるものの結論は同じです:牛乳は捨てるほど余っているのに

<参考>
2024年度後半から、コメ不足に伴う米価の高騰が続いていたことがあり、私の学生時代の親しい友人達で行っている意見交換会の内、最近2回(2025年5月と7月の例会)でこの問題を取り扱いました。私は、このブログをベースに以下の様な資料を配布して私の意見を述べました;
戦後の食糧供給に関わる制度の変遷
日本の農業の現状と改革試案

以上

ウクライナ戦争が変えた日本の防衛政策

はじめに

以下、「青色の斜め字の文章」は私個人の意見です
見出しの写真は、現在進行中のロシアとウクライナの戦争における象徴的な写真です。2022年2月24日、ロシアの大軍が一方的にウクライナに侵攻してから11ヶ月が経過した現在(2022年12月)、戦争は終結する気配はありません
今回、ロシアが2014年2月27日に実施したクリミア半島電撃侵攻・占領の成功体験をもとに実行されたものの、成功していないのは、以下の様な原因があった為と考えられます;
クリミア半島侵攻の屈辱をバネに、ウクライナの歴史に根差す愛国心が高揚(詳しくは、私のブログ「ウクライナの歴史」参照)し、ウクライナ軍が予想外の反撃能力を示していること(ウクライナに戦う意思がなければ以下の②、③の様なサポートは得られなかったとも考えられます)
NATO、とりわけ米国による継続的な最新武器の供与衛星通信インフラの提供、ロシア側の機密軍事情報の提供などが行われていること
多くの先進諸国が、ロシアによる独立国家に対する宣戦布告無き一方的な侵攻を非難していると共に、ウクライナへの経済的、精神的なサポートを行っていること
クリミア侵攻時、ロシアによる政府機関や民間インフラを狙ったサイバー攻撃が行われましたが、今回の侵攻ではこの試みが成功しなかったこと(←ウクライナ側の防御態勢が構築されていた
ロシアの核兵器による恫喝が、米国及びNATOの核攻撃の潜在力と通常兵力による反撃能力によって、これまでの所抑止できていること
ロシアが保有している兵器が、一部の最新兵器を除き旧式で、米国を中心とするNATOが提供する最新兵器に対抗しきれていないこと

一方、ウクライナにとっても、如何にロシアの苦し紛れの戦術とは言え、無人機による攻撃や砲撃・ミサイルによる病院や民間人の密集居住地域に対する攻撃、ミサイルによる発電所などのインフラ施設への大規模な攻撃占領地域における人道被害は予想外であったと思われます

こうした戦争の実態が世界中に知れ渡った結果、日本を含む多くの国々が、自国の防衛政策を大幅に見直す必要に迫られてきました
特に日本は、軍備拡張と南シナ海・東シナ海への国際法を踏みにじる軍事進出を行い、台湾の武力併合を排除しない姿勢を明確にしている中国と、核兵器開発・ミサイル開発を積極化している北朝鮮、ウクライナ侵攻で明らかとなった国際法を無視するロシア隣国として対峙しており、今回のロシアのウクライナ侵攻の様なことが、現実の脅威として国民に認識され始めていることは間違いのないことだと思われます
こうした事から、現政権はこれまでの防衛大綱の見直しを行う事を明言しており、日米安保条約と、専守防衛を基本とした日本の防衛政策が大幅に変更になる可能性が出てきました
参考:現政権の基本的なスタンスは、2022年11月21日に出された「防衛力に関する有識者会議・報告書」をご覧になると大要が掴めると思います

以下は、専守防衛が国策の基本であり、戦争の当事者には決してならないと信じて来た多くの国民にとって、昨今の報道は吃驚することばかりであり、国民一人一人が投票行動を行うに当たって、防衛政策に関わるこれまでの経緯と、これをどう変えていくのかについてできるだけ正確な情報が必要と考え纏めてみたものです

参考:2022年12月・国際政治学者イアン・ブレマー氏のウクライナ戦争に関する見解

防衛政策の変遷

1.自衛隊の誕生
1945年8月15日に終戦を迎えたあと、1947年5月3日に旧大日本帝国憲法を修正する形で新憲法が誕生しました。この憲法の戦争に関わる重要な部分は;
(1) 前文で(抜粋)
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した、、、
⇔公正と信義の無い国が攻めてくる可能性があることを考慮していない!

(2)憲法9条で、
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない

しかし、1950年6月25日、ソ連の支援で誕生した北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が事実上の南北の国境となっていた北緯38度線を越えて侵攻し、既に米国の支援で誕生していた韓国(大韓民国)との間で朝鮮戦争が始まりました。ソ連・中国が支援する北朝鮮軍と、韓国軍及び米国が中心となった国連軍とは、1953年7月27日に朝鮮戦争休戦協定に署名するまで3年間、熾烈な戦いが行われました

この間日本は、戦争を放棄し、戦力を持たないと憲法に定めながら戦争の当事者であるGHQ(General Headquarters/連合国総司令部)の命令により1950年8月10日には準軍事組織である警察予備隊(約7万5千人)が誕生しました。その後、1951年9月8日、サンフランシスコ講和条約が調印されて日本は独立を果たし、1952年7月には警察予備隊は保安隊に改組されました。
その後、1954年3月8日に日米相互防衛援助協定が結ばれ、日本は「自国の防衛力の増強」という義務を負うことになりました。これを受けて同年6月に自衛隊法と防衛庁設置法が成立し、7月に陸上自衛隊・海上自衛隊・航空自衛隊の管理・運営を行う防衛庁が発足し、保安庁は発展的に廃止されて業務は防衛庁に引き継がれました
国内では、こうした流れは憲法違反となる実質的な「再軍備」であるとして、その後の革新政党や急進的左翼諸派がリードする形で一般市民も加わった国論を二分する論争や騒乱事件が続きましたが、1970年の日米安保条約改定を機にこうした論争、騒乱は概ね収束してゆきました。一方、裁判においても自衛隊は憲法違反であるとの判決は得られず、自衛隊は現在まで存続し(注)、結果として自衛隊の軍事力は、世界の軍事力ランキングで世界第5位となるまで増強されてきました。
(注)こうした経緯について詳しく知りたい方は私の以下ブログをご覧ください:「憲法についての私の見解」、「各党の憲法改正草案をチェックする」、「憲法について考える

2.自衛隊に関わる歴代内閣の発言の変遷
1)吉田内閣時代(1946年~1947年;1948年~1954年)の自衛隊の任務
① 吉田首相は、1946年6月26日の新憲法に関わる国会答弁で「戦争放棄に関する本案の規定は、直接に自衛権を否定はして居りませんが、第9条第2項に於いて一切の軍備と交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、又交戦権も放棄したものであります」と発言しています

② 吉田首相は、1950年1月28日の国会答弁で「いやしくも国が独立を回復する以上は、自衛権の存在することは明らかであって、その自衛権が、ただ武力によらざる自衛権を日本は持つということは、これは明瞭であります」と発言しています

2)鳩山内閣時代(1954年~1956年)の自衛隊の任務
1954年12月22日の衆議院予算委員会での大村精一防衛庁長官の発言;
憲法は自衛権を否定していない
② 憲法は戦争を放棄しているが、「自衛の為の抗争」は放棄していない
③ 「戦争、武力による威嚇、武力の行使」を放棄しているのは「国際紛争を解決する手段としては」ということ。他国から武力攻撃があった場合、武力攻撃そのものを阻止することは、自己防衛そのものであって、国際紛争を解決することとは本質的に異なる。従って自国に対して武力攻撃が加えられた場合、国土を防衛する手段として武力を行使することは憲法に違反しない。しかし、「国際紛争を解決する為」以外の目的で「他国からの武力攻撃」を受けることは常識的にあり得るでしょうか。これはどう考えても私には詭弁としか思えません。

3)佐藤内閣時代(1964年~1972年)の武器輸出に関する答弁
佐藤首相は、1967年4月21日の衆院決算委員会において、以下の場合は武器輸出を認めないと答弁しました;
共産圏諸国向けの場合
国連決議により武器等の輸出が禁止されている国向けの場合
国際紛争の当事国又はそのおそれのある国向けの場合

4)三木内閣時代(1974年~1976年)の武器輸出に関する意見表明
三木首相は、1976年2月27日の衆院予算委委員会において、以下の武器輸出に関する政府統一見解を表明しました;
三原則対象地域については武器の輸出を認めない
⑤ 三原則対象地域以外の地域については、憲法及び外国為替及び外国貿易管理法の精神にのっとり、武器の輸出を慎む
武器製造関連設備の輸出については、武器に準じて取り扱う

4)海部内閣時代(1989年~1991年)の第一次湾岸戦争に伴う自衛隊の役割の変化
1990年8月2日、サダム・フセインに率いられたイラク軍が突如クウェート侵攻し占領後にイラクへの編入を宣言しました。1991年、米軍を中心とした多国籍軍がイラクを攻撃しクウェートを解放しました
独立国家に対する公然とした侵略であり、現在のウクライナ戦争と同じケース。違いはロシアは核兵器保有国であるのに対し、イラクは核兵器を保有していなかった為、多国籍軍を編成することが出来、クウェートを解放することが出来ました

日本は自衛隊の派遣はせず、130億ドルもの戦費等の負担(国民1人あたり約1万円に相当)を行ったものの、国際社会からは評価されませんでした。「Show the Flag」つまり軍隊の派遣無くして同盟軍とは見做されない現実を味わいました。ただ、1991年4月多国籍軍とイラク軍との間の停戦が発効すると、日本はペルシャ湾での機雷の撤去及び処置(掃海任務)を行うことになりましたが、これはあくまで日本の船舶の安全航行の為の通常業務と位置付けられていました

5)宮沢内閣時代(1991年~1993年)のPKO任務に伴う自衛隊の海外派遣
国連による平和維持活動に参加する為、1992年の国会(通称「PKO国会」)で「国際連合平和維持活動に対する協力に関する法律(通称「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律PKO法を制定しました。以後、南スーダン東チモールハイチゴラン高原等、政情不安が続く(⇔危険の伴う)国々に自衛隊が派遣されており、最早海外に於ける日本の自衛隊のプレゼンスは先進諸国の「軍隊」と何ら変わりがない状態になっています

6)小泉内閣時代の(2001年~2006年)の自衛隊の役割の変化
アフガニスタン侵攻
2001年9月11日、米国でアルカイダによる同時多発テロで3千人以上の死者が出ました。アフガニスタンの90%を実効支配していたタリバン政権にアルカイダのテロ実行犯の引き渡しを求めたものの応じなかった為、同年10月米軍を中心とした有志連合は、アフガニスタンの北部同盟と協調して攻撃しタリバン政権を崩壊させました。この侵攻の前には国連安全保障理事会で「このテロ行為は全国家、全人類への挑戦」という国連決議(1337号)を得ており、有志連合は国際連合憲章51条が認めている「集団的自衛権」の発動という立場をとっていましたが、この安保理事会決議には武力行使を行うとは書いていないので集団的自衛権の発動とは見做せないという意見もありました。
日本は湾岸戦争を教訓(Show the Flag)に、2001年年10月に「テロ対策特別措置法(「テロ特措法」)/2年間の時限立法 ⇒ その後「新テロ措置法」として継続されましたが2007年に失効)を制定し、海上自衛隊の艦船をインド洋に派遣し、給油活動及びイージス艦によるレーダー支援を行いました

イラク戦争(第二次湾岸戦争)
湾岸戦争終結時にイラクに課せられた「大量破壊兵器」廃棄義務違反を理由として2003年3月、米軍を中心とする有志連合がイラクに侵攻しました。正規軍同士の戦闘はこの年に有志連合側の勝利に終わったものの治安維持に向けた作戦に失敗し、その後も泥沼化した戦闘が続きました。米軍の全面撤収は2011年末に一応実現したもののシーア派による政権運営が破綻し、イスラム最過激派であるISIS(又はISIL)による地域の支配を許すことになりました。
日本は2003年12月~2009年2月まで自衛隊を派遣しています。これは「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動実施に関する特別措置法イラク特措法)/4年間の時限立法 ⇒ 2007年に2年間の延長を行った」に基づくもので、自衛隊の人員規模約1,000人に達する大規模な派遣(陸上自衛隊はサマーワを基地として約550人、航空自衛隊は輸送任務に約200人、海上自衛隊は輸送艦1隻、護衛艦1隻の乗組員約330人)となりました。国会での論議では自衛隊の活動が戦闘地域か、非戦闘地域かで紛糾しました

上記の通り国会での議論を経てここ15年以上に亘って実質的に自衛隊の海外派遣が行われてきており、自衛隊の存在に関わる違憲性はともかくとして、その任務を「専守防衛」として最後の歯止めをかけてきたことが、厳しい国際情勢の中でたとえ時限立法とはいえ崩れ去っていったことが分かります

7)第二次安倍内閣時代(2012年~2020年)の自衛隊の役割拡大に関わる法整備
新安保法制
衆議院で絶対多数を得た第二次安倍内閣では、2015年、自衛隊の任務を更に拡大し、恒久法として以下の法律群(新安保法制)を制定しました;
① 国際平和支援法案:自衛隊の海外での他国軍の後方支援
自衛隊法改正在外邦人の救出
武力攻撃事態法改正集団的自衛権行使の要件明記
④ PKO協力法改正:PKO以外の復興支援、及び駆けつけ警護を可能とする
重要影響事態法日本周辺以外での他国軍の後方支援
船舶検査活動法改正:重要影響事態における日本周辺以外での船舶検査の実施
⑦ 米軍等行動円滑化法:団的自衛権を行使する際の他国軍への役務提供追加
特定公共施設利用法改正日本が攻撃された場合、米軍以外の軍にも港湾や飛行場を提供可能にする
海上輸送規制法改正集団的自衛権を行使する際、外国軍用品の海上輸送規制を可能とする
⑩ 捕虜取り扱い法改正:集団的自衛権を行使する際の捕虜の取り扱いを追加
国家安全保障会議(NSC)設置法改正NSCの審議事項に集団的自衛権を行使する事態を追加

第二次安倍内閣では、2014年7月1日に、武力の行使を発動する際には以下の3つの用件を満たす必要があることを閣議決定しています;
① 日本または、密接な関係にある同盟国に対する武力攻撃が発生し、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険が発生し、
② これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がない場合、
国際連合憲章に基づき必要最小限度の実力行使を行うことが出来る

新安保法制全体を俯瞰すると、自衛隊の合憲性の議論は何処へやら、集団的自衛権の枠内(国連憲章の枠内ではなく)であれば、起こりうる国際紛争に立法措置無しで自衛隊を運用できるようになったと考えられます

岸田内閣時代(2021年10月~)による防衛政策の歴史的転換

岸田内閣は発足後間もなくロシアによるウクライナ侵攻があり、防衛政策の歴史的転換が必要との判断に至っています

安倍内閣時代に成立した「新安保法制」に基づけば、同盟国である米国が中国や北朝鮮と戦争を始めれば、自衛隊が全面的に米国を支援することは可能ですが、日本が直接攻撃を受けない限り戦闘に参加することはできません。しかし中国や北朝鮮にとって日本は敵国以外の何物でもありません
従って、戦争が全面戦争に変わったきた段階で、日本が直接攻撃を受ける蓋然性は極めて高いと考えられます。
この時、日本の防空力を遥かに凌駕するミサイルの飽和攻撃核攻撃を受けた場合、日本の被害は相当深刻なものにならざるを得ません。こうした事態に対抗する為に、岸田内閣は一歩踏み出すと判断したと考えられます

2022年12月15日、防衛3文書(「国家安全保障戦略(全文)」「防衛計画の大綱(防衛大綱)」「防衛力整備計画の要旨」)を概略以下の様に改定することを閣議決定しました。
参考:2022年12月16日・日経新聞_反撃能力保有を閣議決定 防衛3文書、戦後安保を転換

今回の政策転換の重要なポイントは;
① 敵基地攻撃能力を保持すること
これまで、専守防衛の原則の下に、敵国からの攻撃を防御する兵器を中心に装備を強化してきたものの、ウクライナ戦争において明白になった事は、敵国の攻撃を抑止できない場合、無防備な市民の多くが敵の攻撃のターゲットになってしまうことでした。そこで、敵ミサイルによる「先制攻撃」を受け、あるいは「攻撃着手」が行われた場合に敵基地を攻撃することを可能にする能力を新たに保持することとしています。
この種のミサイルは所謂「スタンドオフミサイル」と言い、日本に攻撃を仕掛けてくる国に対し、敵の射程圏外から攻撃することができるミサイルを新たに導入することとしました。このミサイルは、陸上又は海上の艦船から発射可能で、射程が1,000キロ~2,000キロ程度と言われています

新兵器に対する防御兵器開発能力を高めること
極超音速ミサイルロフテッド軌道を取るミサイル高速滑空弾極超音速誘導弾、無人機攻撃ロボット兵器、などの最新兵器サイバー攻撃に対抗できる防御体制を構築する為には最新兵器開発能力を高める必要があります
近年防衛産業から撤退する企業が目立っていることから、これらの防衛産業に対する財政的な支援の他、国際共同開発などによる開発負担の軽減、防衛産業が相応の兵器生産規模を確保するために武器輸出三原則(既出)の緩和などのバックアップを行う必要があります
また、軍需産業に協力して悲惨な敗戦を招いた反省から、これまで学問の分野における軍事研究には極めて慎重に対応を行ってきました。しかし、最先端の AI(人工頭脳)や量子技術、ロボット開発、などの分野では既に産・学・軍の境界は極めて曖昧になっており、学問側も最先端分野の研究費に枯渇する事態が顕著になってきています。従って、研究分野毎に官側(経済産業省・文部科学省・防衛相)が主導して少なくとも中国、ロシアの兵器開発能力に劣後しない様にする必要があります
参考_1:2017年2月_安全保障技術研究推進制度の廃止要請_署名呼びかけ
参考_2:2017年3月_軍事的安全保障研究に関する声明_日本学術会議
参考_3:2017年3月_研究機関の軍事研究について_藤原正彦
Follow_Up:2023年1月・日経新聞_民生技術の活用で脱「学術会議」

③ 継戦能力を強化すること
大国同士が戦いを始めると、簡単には戦争は終わりません。従って、平時から武器・弾薬の備蓄量をある程度まで確保しておく必要があります。また、戦闘によって破損した装備類(航空機、艦艇、戦闘車両、など)の予備、及び整備体制の構築が必要になります

④ 敵攻撃から一般市民を守るための防護施設、退避訓練を強化すること
平和日本には、こうしたことは必要無いないとして、これまで全くそうした準備を全くしていませんでしたが、攻撃されることを前提として少なくとも命を守る事が出来る防護施設の確保、そこへの退避訓練は必須と考えられます。今回のウクライナ戦争において、ロシアからあれだけミサイル攻撃を受けながら、死傷者数が意外に少ないのはこうした防護施設(ビルやアパート、工場などの地下施設)を平時にあっても準備していたことが大きいと思われます

(参考)私は、1994年~1996年の間、日本アジア航空社員として台湾に駐在しておりましたが、その間に第三次台湾海峡危機が発生しました。当時、旅行者を含めて2万人以上の日本人が台湾に滞在しており、この日本人をどうやって日本に帰還させるかという事で連日他の台湾進出企業、及び大使館に相当する「日本台湾交流協会」の担当者と議論を重ねていましたが、当時解決策が見い出せませんでした
一方、米国は米軍の軍用大型艦船が台湾の東側の港湾(嘉儀など)に待機し、台湾の各都市から米軍及び米国の調達した陸上移動手段で東側の港湾に移動する手配が完了していました。上表の自衛隊法改正案にある「在外邦人の救出や米艦防護ができる」は、現在多くの日本人が海外に滞在している実態を勘案すると極めて重要な改定であると思います

有事となった場合、まず日本にある米軍基地が攻撃対象となることは避けられません。また集団的自衛権を行使する事態となれば、日本の自衛隊基地も恐らく敵の攻撃対象になると思われます
米軍と中国、北朝鮮との戦争は、台湾、韓国と米国との条約から日本の国家意思に関わりなく起こることが考えられることから、少なくとも日本の一般市民の命だけは敵の攻撃から守られねばなりません。これを実現するには、攻撃の対象となり得る施設を防護する手段を確保すること、防護できない場合、老若男女を問わず退避する仕組みを作ることは喫緊の課題であると私は考えます
核攻撃を受けた場合の退避施設などの考え方については、私のブログ「災害のリスクについて考えてみました」の後段の部分をご覧になって下さい

Follow_Up:2022年10月_先島諸島にシェルター設置検討 政府、台湾有事など想定
Follow_Up:2022年12月_台湾、有事対応でシェルター10万カ所整備・人口の3倍超
Follow_Up:2023年1月:シェルター整備に財政支援検討へ

これらの政策変更には大規模な財政支出が伴う事は必須であることから、今後国民的な議論が必要となります。尚、下図にある「防衛費・GDP比2%は、NATO加盟国の水準です)
参考:2022年11月28日経記事_岸田首相「防衛費GDP2%、27年度に」、財源は年内決着

今後の防衛力強化のイメージ

Follow_Up:2022年12月日経新聞:2023年度防衛費_反撃能力で長射程弾整備、研究開発3倍 
Follow_Up:2022年12月日経新聞:防衛省、装備輸出へ基金新設
Follow_Up:2022年12月日経新聞:友好国へレーダー供与_新枠組み・中国にらみ外交手段に幅

補足情報

1.敵基地攻撃能力の保持について
現在自衛隊はこうした武器を保有していないので、以下の様な対応が考えられています;
① 巡航ミサイル「トマホーク」(開発次期により各種タイプが存在する)」を米国から購入して配備する

巡航ミサイルとは:音速以下で飛行(通常推進機構はジェットエンジンです)し、敵のレーダーに捕捉、撃墜されない(地形の凹凸に隠れる)様に地上近くを飛行するミサイル。第一次湾岸戦争では緒戦で使用され、イラク軍の中枢指令部、レーダー基地などがこのミサイルに攻撃され機能を殆ど失ったと言われています
トマホークは既に開発済みであり、極めて早期に導入することが可能。また、これまで迎撃のみの目的で開発されてきた護衛艦、潜水艦、航空機への装備が可能(但し、改修は必要)

Follow_Up:2022年12月23日、トマホーク四百数十発を配備へ 敵基地攻撃の手段に 政府方針

② 国産(三菱重工が開発)の12式対艦誘導弾の能力向上型の開発

このミサイルは上の写真にある様に地上発射型(主に島嶼防衛の任務)となっていますが、この射程を伸ばす(現在の射程は200キロ程度)と共に、護衛艦、潜水艦、航空機への装備が可能な様に改修する計画があります。防衛省や三菱重工からの正式な性能などは公表されていません

2.イージス・アショア導入の破綻とイージス艦2隻追加艦導入決定
2018年、小野寺防衛相が防衛白書の中で、北朝鮮の核・ミサイル開発の脅威に対抗するため陸上配備型迎撃ミサイル「イージス・アショア」の導入(予算額:訳4,500億円)を打ち出しました
「イージス・アショア」には極めて高性能な地上レーダーがセットになっており、文在寅大統領時代の韓国に導入しようとしたところ、中国が自国のミサイルシステムが丸裸になることを怖れ、強力な経済制裁を加えて諦めさせた経緯があります
一方、日本でも山口県、秋田県の基地に導入しようとしたものの、基地周辺の住民から「ミサイルの一段目(ブースター)が基地外の陸上に落下する可能性があること」及び「敵ミサイルの攻撃対象になること」などの理由から強い反対運動が起き、結果として2020年6月15日、河野防衛大臣は配備中止の決断を下しました
その代わりに、2020年12月18日、日本政府は「新たなミサイル防衛システムの整備等及びスタンド・オフ防衛能力の強化について」と題する閣議決定を行い、その中で、イージス・アショアの代替案について、「イージス・システム搭載艦」を2隻建造し、それらを海上自衛隊が運用すると決定しました

3.イージス艦搭載の弾道弾迎撃ミサイル「SM3ブロック2A」
2020年11月16日、ハワイ北東沖で最新型の弾道ミサイルシステム「SM3ブロック2A」が、ハワイから約4,000キロ離れたマーシャル諸島の米軍基地から発射されたICBM(大陸間弾道ミサイル)の模擬弾を大氣圏外で撃墜することに成功しました
この「SM3ブロック2A」は、イージス艦に搭載される日米共同開発のミサイルです。日本は三菱重工などの会社が右図のような分担で開発を行いました

 

現在、海上自衛隊が持つイージス艦の内最新型の「まや」のみ搭載が可能となっています。当然、イージスアショアの代りに導入される2隻のイージス艦にも搭載されると思われます

4.F2後継機の国際開発
F2は、航空自衛隊の支援戦闘機F1の後継となる戦闘機として、アメリカのF-16をベースに改良および各部大型化を加えて開発された機体で、1995年に初飛行し、2000年から部隊配備を開始し、現在90機程保有しています
この機体は2030年以降から順次退役が計画されておりその代替となる最新鋭の戦闘機の開発が始められていました。当初、F2と同じく米国との共同開発を計画していたものの、F2の場合と同様、機密情報の開示が十分でなく日本独自の改修が出来ないことが明らかとなり、今回はそうした自由度が発揮できるという条件で欧米各社と折衝を重ねた結果、今年になってイギリス、イタリアとの3国の共同開発で行うことで合意を得ました。開発に参加する各国の企業は下表の通りとなります;参加した日本の企業にとって、開発が終了して量産体制が整えば、日本独自開発に比べ相当数の機体を生産することになり、生産を担う企業にとって十分な利益を上げられると共に、防衛省としても安価な航空機調達が期待できることになります。
また同時に、武器輸出規制緩和の突破口となると思われまう

実験機 ATD-X

尚、日本はF2後継機開発の基礎研究、特にステルス性能(詳しくは私のブログ「ステルス戦闘機とは」をご覧ください)と高性能な戦闘機用エンジンの開発(IHIが行っていた)を行う為に、ATD-Xという実験機を作りテスト飛行を繰り返していました。この実績が他の2国との交渉で有利になったと思われます

一方、英国側の次期戦闘機(テンペスト)のイメージは左の写真の通りです

 

 

5.海上自衛隊護衛艦「いずも」、「かが」の空母化改修とF35Bの導入
海上自衛隊最大の護衛艦「いずも」、「かが」(いずれも全長248m、全幅38m、基準排水量1万9500トン)はヘリコプター搭載の護衛艦でしたが、「航空母艦」へ改修されることになっています(「いずも」については既に第一段階の改修を終了しています
搭載するる航空機は、航空自衛隊が導入した最新のステルス戦闘機であるF35Aの系列機であるF35B(現在25機導入の計画があります)で、フル装備で短距離離陸し、着陸時はヘリコプターの様に垂直に着陸できる性能を持っています(「いずも」への着艦試験の動画

むすびに代えて(安保問題に関する私の見解)

以下は、7年ほど前に私のもっとも親しい友人と交わした手紙の内容です;

〇〇〇様、
辺野古移転問題、安保問題、等でいつも情報を頂きながらレスポンスもせず心苦しく思っています。貴兄はこれらの問題に対して明確に反対の立場から意見を発信すると共に、行動も起こされていることに、政治的なスタンスは別として尊敬しております。

私の場合、妻や兄弟、子供たちとこれらの問題で意見を交わすことがしばしば有りますが、戦争を絶対に起こしてはならないという点では意見は一致しているものの、その方法論では相当違いがあります。
私は老後の趣味として歴史を勉強しておりますが、日本人には以下の特質があることを認識していないと再び過去の歴史的な過ちを犯す可能性があると思っています;
① 例外的に理性的な人を除き、極めて熱狂しやすいこと(結果として国全体として理性的な判断が出来なくなる)
尊厳を傷つけられることに我慢できないこと(尊厳を守るためには時として命をも賭す可能性があること)
また周辺の国には、以下の様に過去の恨みを歴史教育を通じて政治的に利用し続けている実態があります;
韓国:倭寇、文禄/慶長の役、安重根(伊藤博文の暗殺者)の英雄視、韓国併合、慰安婦問題、徴用工問題
中国:日中15年戦争、南京事件

私たちは、所謂「戦後の民主教育」の申し子であり、第二次世界大戦に至る歴史的な事象を極めて嗜虐的に捉えることに馴らされてきましたが、結果として明治維新から大正デモクラシーに至る歴史との連続性に無理が生じ、軍部、乃至産官軍一体となった軍国主義者を悪者にして論理性を保とうとしていますが、やはり相当無理があります。自分の親も含め、党派的でない多くの戦争経験者が先の大戦について寡黙であった事、「特攻くずれ」が殆ど何も語らないで生きていた事、等は当時生きていた国民一人ひとりに戦争責任があることを知っていたためと思います。

私もご多聞に漏れず、ベトナム反戦闘争、70年安保闘争に熱狂した者ですが、今思えば正義感では歴史の流れを変えられないということでしょうか。

大分駄文が続きましたが、以上を踏まえた上で、将来の戦争の危険を回避するための私なりの最善の策は以下の通りです;
1.軍拡を強力に進め東アジア、南アジアに脅威を与え続けている中国に対応するためには、日米安保条約を強化し軍事的な均衡を保つことが必要
2.日本は、軍事的にスーパーパワーでなくなった米国を、安保条約の枠の中で補完する役割を担う必要があること
3.これらは本来憲法を改正して実現すべきものと思いますが、当面現在の憲法の範囲内で最善の策を考えること
4.日中の経済関係の強化を図ること
5.首相の靖国神社参拝の様な、外交的に愚かなことは絶対にやめる事。ただ、身内に戦死者を出した国民一人ひとりが靖国神社を参拝することは、多くの国の例を見るまでもなく極く自然なことと思います

以上。勝手に自分の見解を述べましたが、△△△さん同様議論は家族内にとどめておりますのでよろしくお願いします/荒井

以上

ウクライナの歴史

はじめに

2022年2月24日、ロシアがウクライナ侵攻を始めてから、一気に冷戦後の国際秩序が壊れ、核戦争の危機が身近に感じられる様になってきました
冷戦終了後にも、局地的には米国やロシアが介在した戦闘は枚挙にいとまが無いほどありましたが、人口1億5千万の軍事大国ロシアの大軍が最新兵器を用いて人口4千万のウクライナに一気に攻め込む事態は誰にとっても想像を絶する事であったと思います。大方の予想では、残念ではあるものの「短期間にウクライナ全土が制圧され、ロシア寄りの政権が生まれるに違いない」ではなかったでしょうか

しかし、5月に入った時点では、北部戦線では侵攻が完全に食い止められ「戦争犯罪」の痕跡を残して撤退し、東部・南部の戦線でもロシアの苦戦が伝えられています。この想定外の事態の原因は;
① ウクライナが西側諸国の援助もあって、情報戦を有利に進めウクライナの「制空権」がある程度確保できていること、及び西側諸国から供給されている歩兵用の最新武器がロシア軍に甚大な被害を与えていること
② ウクライナのゼレンスキー大統領によるリーダーシップにより、西側諸国での議会演説などで先進諸国民の支持が得られていること
③ ウクライナ兵の士気が非常に高いこと、及び兵以外の国民も全力でウクライナ軍に協力している
などに集約できると思います

私は大学の入試の時には、歴史に興味があったことから「世界史」を選択しました。しかし、ウクライナについては余り勉強した記憶がありません。精々、広大で肥沃な大地を持ったソ連の影響下にある農業国であった事ぐらいです。また最近では深刻な事故を起こしたチェルノブイリ原発がある国程度でした。恥ずかしい限りです!
しかし、ウクライナ善戦の最大の要因は、上記 ③の根底にあるウクライナ人の「愛国心」にあると私は思います
プーチンが言うような「ウクライナ人は同じスラブ系民族の兄弟実はロシア人より劣ると考えているらしい!)」ではなく、異民族やロシアの圧政に抗して戦った歴史をもつ勇敢な民族であるという意識が彼らの「愛国心の元」になっているのではないかと考え、ネット情報に加えて、最近本屋に山積みになっている以下の本を購入してウクライナの歴史(含む、関連するロシアの歴史)を勉強してみました

物語 ウクライナの歴史
(中公新書・初版発行:2002年8月25日)

著者:黒川祐次
*1944年生誕 東大教養学部卒 外務省入省
駐ウクライナ特命全権大使(1996年~1999年);モルドバ大使兼務

世界と日本を目覚めさせたウクライナの覚悟
(PHP研究所・初版発行:2022年8月25日)
著者:倉井高志
*1955年生誕 京都大学法学部卒 外務省入省
*駐ウクライナ大使(2019年~2021年);在ロシア特命全権公使の経歴あり

同志少女よ、敵を撃て
(早川書房・初版発行:2021年11月25日;2022年本屋大賞受賞)
著者:逢坂冬馬
*1985年生誕 明治学院大学国際学部卒 小説家
*内容:独ソ戦で実在した女性狙撃手(キエフ出身のリュドミラ・パブリチェンコ)を基にして描かれた物語

下記「フォト・ドキュメント 女性狙撃手」から転載

フォト・ドキュメント 女性狙撃手
(原書房・日本語版初版発行:2015年8月10)
著者:ユーリ・オブラズツォフ、モード・アンダーズ
訳者:龍和子
*1985年生誕 明治学院大学国際学部卒 小説家
*内容:独ソ戦の女性狙撃手達の実写写真が多数収録されており、これらに纏わる説明文も豊富に収められている

独ソ戦
(文芸春秋・初版発行:2019年7月19日;)
著者:大木毅
*1961年生誕 立教大学文学部卒 小説家、軍事史研究家
*内容:ヒトラーが「これは絶滅戦争なのだ」と断言した独ソ戦の詳しい解説を行っている。この戦争によって多くのソ連人の人的被害(死者・行方不明者:1128万5057人、負傷者・罹病者:1825万3267人)があったが、勿論この数字の中には多くのウクライナ人が含まれている

1.本ブログ上の地名の表記について;
ウクライナ国営通信社「ウクルインフォルム日本語版」のウクライナ地名のカタカナ表記は、ウクライナ語が採用されており、現在では日本の報道機関も徐々にウクライナ語を用いる様になりました。しかし我々古い人間!は、俄かに古い記憶との繋がりがつきにくいので、本ブログではロシア語表記とウクライナ語表記を混用することにしました(赤字の方を使う)。対応は以下の通りです;
ロシア語ウクライナ語
キエフ/キーウ
*ハリコフ/ハルキウ
オデッサ/オデーサ
*リボフ/リヴィウ
*ミコラーエフ/ミコライウ、ムィコラーイウ
*ザポロージエ/ザポリッジャ、ザポリージャ
ドニエプル/ドニプル ⇒(ドニエプル川/ドニプロ川)
ドネツク/ドネツィク
ルガンスク/ルハンシク
ドンバスドンバス
マリウポリマリウポリ

2.地位(国)を表す用語について(皇帝、王、大公、公、などの違い)
下記は主にネット情報に基づいています;
皇帝・教皇などは、至高の権威を有する人物の称号と考えることができます。例えばキリスト教世界ではローマ皇帝・教皇中華圏では中華の皇帝イスラム世界ではカリフなどがそれに当たります。これらは英語では概ね「Emperor」と訳されております
王・大公・公は、軍事力を背景にその支配地域に君臨している者を指しているようです。ヨーロッパの歴史においては、王国大公国は特に広い地域を支配していることを指していることが多いのですが、「」については概ね使用が王国(Kingdom)のトップに限られている(イギリス、フランスの王など)のに対し、大公と公は、貴族であることを意味し、英語では公爵(Duke)が治める国という意味から大公国、公国はDuchyと訳されています。一方、大公と公の区別は比較的曖昧の様です。公の中でも版図を広めた場合、あるいは偉大な業績を上げた公を「大公」と呼ぶことが多いと思われます。また、キリスト教を広めた業績があることから公から「聖公」になるとか、仁政を引いたことから公から「賢公」になるとか、の例があるようです。このブログ内では、呼称が変わるのはややこしいので、全て「」に統一することにしました。ご了承頂ければ幸いです

目次

尚、ウクライナの歴史は相当ボリュームが大きいので、以下の目次からジャンプを使って飛ばして読むことが出来るようにしてあります;
ウクライナの歴史;
1.キンメリア_紀元前1500年~紀元前700年頃
2.スキタイ_紀元前700年頃~紀元前200年頃
3.ハザール汗国
4.キエフ・ルーシ公国_862年~1243年

5.キプチャク汗国_1243年~1502年
6・ハーリチ・ヴォルイニ公国_1173年~1340年
7.リトアニア、ポーランドのウクライナ支配とその連合国

リトアニア・ポーランド連合国の時代のユダヤ人
ユニエイト協会の誕生
8.コサックの歴史
*政治的勢力への成長
*先駆者サハイダチニー
* ヘトマンが作ったコサックの国家
*イヴァン・マゼッパ
* ヘトマン国家終焉・ ロシアへの併合の過程
9.ロシア、オーストリア両帝国によるウクライナ支配
ロシア帝国に於ける民主化、ウクライナ・ナショナリズムの動き
オーストリア帝国に於ける民主化、ウクライナ・ナショナリズムの動き
ウクライナ人のロシア帝国内、外国への移民
穀倉地帯の変貌とオデッサの隆盛、産業革命による急速な工業化
10.第一次世界大戦とウクライナの独立
戦況推移
11.ソ連の時代_1922年~1991年
農業集団化と大飢饉
第二次世界大戦とウクライナ
ヤルタ会談と戦後処理
スターリン後のウクライナ
12.ウクライナの独立
独立までの過程
独立後のウクライナの政治情勢

おわりに

ウクライナの歴史

1.キンメリア_紀元前1500年~紀元前700年頃
最初に文献(ホメロスの「オデュッセイア」)に現れる民族はキンメリア人であり、彼らはインドヨーロッパ系の民族であると言われ、紀元前1500年~700年頃、黒海北岸に居住して遊牧生活をしていた。紀元前9世紀頃に南ウクライナで勢力をふるっていた

2.スキタイ_紀元前700年頃~紀元前200年頃
キンメリア人の後に現れたのがスキタイ人(ギリシャの歴史家・ヘロドトスの記述に登場)であり、彼らはイラン系の民族であった。彼らは紀元前750年~700年頃にカスピ海東岸から黒海東北部に進出し、キンメリア人を追い払いこの地の主となった。スキタイ人は、強大な軍事力をもって紀元前620年にアッシリアを滅ぼし、小アジアからパレスチナに至る中東地域を席巻した
スキタイ人は古代で遊牧による生活様式を最初に確立した民族と思われる。遊牧は牛、羊、馬が中心であった。ドニエプル川は資源に富み、豊かな牧場もあれば、多くの魚類を産し、水は飲料にも適していた。河岸一帯は穀物の栽培に適していた。ドニエプル川の河口の当たりには見事な天然塩が結晶しており、塩干魚に加工されるチョウザメが獲れた
スキタイの社会構造や政治システムについては文字を持たなかった為十分には分かっていないが、大きく分けて、森林・ステップに居住し農耕に従事する「農耕スキタイ人」、ステップに住む「遊牧民の王族スキタイ人」、「沿岸都市に住み商業や家内工業に従事していたギリシャ人」の三相で構成されていたらしい

古代スキタイ人は政治的には滅亡したものの、彼らは生物学的に絶滅したわけではなく、この地方とその周辺で彼らの血統は現代にも脈々と受け継がれていることは遺伝子解析からも明らかにされ(現代ヨーロッパにおけるY染色体のハプログループR1a1はスキタイ時代のヨーロッパ東部から中央アジアにかけて広く住んでいたイラン系遊牧民の子孫を示している)ており、この地方とその周辺で彼らの血統は現代にも脈々と受け継がれている。ヨーロッパの各民族のうちスラヴ語系の各民族にはこのR1a1が非常に濃く含まれており、特に中央アジアとポーランドの全土、およびロシアの西部に集中している

スキタイ人の戦士

スキタイ人は「勇敢さを尊ぶ民族性」と巧みな「騎馬術戦士」として極めて優れていた(後世の騎馬民族の先駆けとなった)ため、先住者であるキンメリア人を駆逐するとともに、ペルシャの一部から小アジアを席巻した。また、ペルシャ帝国のダリウス大王(紀元前522年~486年)の遠征も阻止した
ヘロドトスによれば、スキタイ人は最初に倒した敵の血を飲み、戦闘で殺した敵兵は首級を王の許へ持参しないと戦利品の分け前にあずかれないからである。また、スキタイ人は友情を大切にし、大麻と酒に目がない
ウィキペディア情報によれば、ケンタウロス像はスキタイ人と戦ったギリシア人が、彼らを怪物視した(乗馬文化を持たないギリシャ人が騎馬民族を見て怪物と見間違った)ものだという説がある

ケンタウロス

ヘロドトスによれば「スキタイ人のみが知能に優れ、黒海沿岸の人々の中で知識が優れており、彼らは鞴(ふいご)や轆轤(ろくろ)を発明した」
スキタイ人の古墳の中でも、ドニエプル川の中・下流域、クリミヤ半島からの出土品は極めて芸術性が高い。出土品から分かるスキタイ芸術の特徴は、動物意匠黄金への偏愛である。動物は野生で獰猛なものが選ばれ、それらが馬や鹿などを襲って正に食いちぎろうとする瞬間を捉えているものが多く、筋肉の緊張感、躍動感が見事に表現されている

紀元前7世紀頃より黒海沿岸やクリミア半島はギリシャ人にとって身近になり、ギリシャ人はこの地域沿岸に植民都市群を建設した。草原の民スキタイ人と、海の民ギリシャ人の間には交易関係が成立していた。パンを主食とするギリシャ人は、スキタイの地から穀物を輸入(紀元前4世紀には輸入穀物の約半分はアゾフ海沿岸地域からであった)し、その他魚や家畜、皮革、蜂蜜、奴隷などもギリシャに売られていた。スキタイ人はギリシャ人から壺などの家財道具、織物、装飾品、葡萄酒、オリーブ油などを買っていた
尚、当初はギリシャの植民都市であった諸都市が相互の連帯が進み、アゾフ海から黒海への入り口を扼する地域にボスポロス王国が成立した
スキタイ人は、ギリシャとの交易により富が蓄積するにつれ贅沢になり、また少しづつ定住する者が現れるなど尚武の気質が失われていった。紀元前4世紀に中央アジアからスキタイ人と同じイラン系のサルマタイ人がスキタイの地の東部に侵入し、ドニエプル川流域地域からスキタイ人を駆逐していった
スキタイ人は追われてクリミア半島に閉じ込められ、ボスポロス王国と争いながら生き延びていたが、紀元前3世紀半ばのゴート人(ゲルマン系)の進入により滅亡し、500年に亘った「パックス・スキティカ(スキタイ人による平和)」)が終焉した

3.ハザール汗国
参考:可汗(カガン/ハガン)とは:鮮卑、突厥など遊牧国家で用いられた王号。 モンゴルのハン位に継承される。 漢字表記では可汗であるが、カガンというのが本来の発音
ハザール人はトルコ系の遊牧民族
でカスピ海北岸から黒海沿岸を支配し、7世紀半ばから9世紀半ばの間最盛期を迎えた。ハザール可汗国は、カフカス方面から侵入してくる新興イスラムがヨーロッパに侵入してくるのを防いでいた
ハザールの支配地域が、東西を結ぶシルクロードとアラブとヨーロッパを結ぶ南北の交易路の交差点にあたり、ハザール可汗国は次第に通商を保護し、戦争よりも外交を重視する国家に変貌していった。かくしてハザール可汗国は、交易路を積極的に保護する世界市場初の遊牧民族国家となった。キエフの町もハザール交易の拠点として発展してきたと考えられる
ハザール可汗国は、10世紀頃から新たな遊牧民族やキエフ・ルーシ公国の攻撃を受けて衰退していった。ハザール可汗国が文献に最後に現れるのは1075年であり、その頃滅亡したと考えられる

4.キエフ・ルーシ公国_862年~1243年
キエフ・ルーシ公国のルーツはノブゴロド(現在のロシア西部)に住んでいた東スラヴ人である
参考:東スラヴ人とは、スラヴ人の中で東スラヴ語を話す、現代のウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人や近隣の少数民族のことを指す
<ノブゴロド公・リューリク(在位:862年~879年)>
この地はノルマン系のヴァリャーグ人(ルーシと自称しており、ここから「ルーシ」という国の名が生じた)に貢納を行っていたが、ヴァリャーグ人を追い払い自治を始めたものの内紛が起こって治まりがつかなくなったので、再びヴァリャーグ人にこの地を治めて欲しいと要請した。そこでルーシの首長のリューリク(?~879年)が862年に一族を引き連れてノブゴロドに到来し、ノブゴロドの公になった。彼は、キエフ・ルーシ公国やその後のロシアを収めるリューリク王朝の祖となった

リューリクの家臣であるアスコルドディルの兄弟は、ドニエプル川を下ってコンスタンチノープルに向かう途中、小さな町(キエフ)を見つけ、この町を乗っ取りこの二人でキエフとボリャーネ氏族の国を治め始めた
<キエフ・ルーシ公・オレフ(在位882年~912年):キエフ・ルーシ公国の創始者>
ノブゴロドではリューリク公が死に、幼い息子・イホルの後見となったオレフアスコルドとディルの兄弟を滅ぼし、キエフ公となった。オレフは近隣の諸部族を従属させるとともにハザール可汗国への貢納を止めさせた
その後、オレフは都をノブゴロドからキエフに移しキエフからノブゴロドに至る広大な地を支配するようになった。従って、オレフがキエフ・ルーシ公国の創始者と言ってもよいと思われる

<聖オリハ>
912年に死去したリューリクの子イホル(912年~945年)はリューリク王朝の後を継ぎ公位を継いだが凡庸の君主で、スラヴ系のドレヴリャート氏族に暗殺されてしまった。
イホルの妻オリハ(?~969年)は、息子のスヴャスラフが幼かった為その後見をつとめたが、彼女は意志の強さと、賢明さを兼ね備えた女傑であり、彼女が事実上のキエフ公であった。彼女は、色々な策略を使ってドレヴリャート氏族に対して夫の復讐を果たした
キエフ・ルーシ公国の地では昔ながらの多神教が支配的であったが、オリハは、キリスト教に関心を持ち、957年コンスタンチノープルに赴き洗礼を受け、キエフ公の身内で最初のキリスト教徒となった。彼女は後にウクライナとロシアで最初の聖人(聖オリハ)となった

<キエフ・ルーシ公・スヴャトスラフ1世(在位945年~972年):征服公>
跡を継いだ息子のスヴャトスラフは武人であり、在位中にヴォルガ河口付近にあったハザール可汗国の首都イティルを破壊し、事実上同国を滅ぼした。またバルカン半島でブルガール王国やビザンチン帝国とも戦い、征服公とも呼ばれた
彼の髪型は、この氏族の高貴な身分である印として、片側のひとかたまりの頭髪を除いて頭は剃ってあった。因みに、この髪の剃り方はコサックにも引き継がれている972年、スヴャトスラフ1世は援軍を引き連れてくるためドナウ河畔からキエフに戻る途中で遊牧民のベチェネグ人の奇襲に会い命を落とした
ウクライナの歴史家フルシェフスキーは、スヴャトスラフは「王冠を被ったコサック」と称している。彼は勇敢で騎士道精神に満ちているが、攻撃一本やりで守りに弱かった
参考:これまでのキエフ・ルーシ公たちは、発祥の地の地の言葉であるスカンディナビア語系の名前を称していたが、スヴャトスラフ公以降はスラヴ語系の名前を称する様になった。これは、彼らがスラヴ人に同化していった過程を示すものと考えられる

<キエフ・ルーシ公・ヴォロディーミル(在位978年~1015年):聖公>
スヴャトスラフ公の死後、長男のヤロボルクがキエフ・ルーシ公国を継いだ(在位972年~978年)が、兄弟相続の原則からキエフ・ルーシ公国を次ぐ事になっていた次男のオレフを殺してしまったため、三男のヴォロディーミルはスカンディナビアに逃げた。その後、ルーツであるヴァリャーグ人の援軍を得てヤロボルク公を倒しキエフ公となってキエフ・ルーシ公国全体の支配者となった
ヴォロディーミルは、各地を征服し、バルト海、黒海、アゾフ海、ヴォルガ川、カルパチア山脈(現在のルーマニア東部-ウクライナ西部に連なる山脈)に広がる当時ヨーロッパ最大の版図を持つ国を作り上げた。この実績からヴォロディーミルは「大ヴォロディーミル」あるいは、キリスト教を国教としたことから「ヴォロディーミル聖公」と呼ばれるようになった

<キエフ・ルーシ公・ヤロスラフ(在位1019年~1054年):賢公>
ヴォロディーミルの死後、再び子供の兄弟の間で争いが起こったが、兄弟の一人でノブゴロド公であったヤロスラフは、父・ヴォロディーミル大公と同じ様に、ヴァリャーグ人の援軍を得て南進し、キエフ・ルーシ公となった
ヤロスラフ公は、軍事的には遊牧民ベチェネグ人を撃退したが、彼の真骨頂は内政及び外交であった;
内政面:
①それまでの慣習法を「ルスカ・プラウダ(ルーシの法)」として法典化した
復讐による殺人を禁止し、死刑を罰金に変えたこと
ソフィア聖堂を建立(1037年;現在もヤロスラフ大公の棺と遺骨が残っている)し、ここに図書館を設けキリスト教聖典の翻訳も行った
④キーウの城壁を強化するなど街の整備を行った/現在もキーウ旧市街に残っている「黄金の門」が有名外交面(華麗な婚姻政策!⇒「ヨーロッパの義父」)
⑤二人目の正妻としてスウェーデン王の娘インギガルドを迎えた
⑥娘アナスタシアをハンガリー王・アンドラーシュ一世(在位1046年~1060年)の妃にした
⑦娘エリザベートをノルウェー王・ハーラル三世(在位1047年~1066年)の妃にした
⑧娘アンナをフランス王・アンリ一世(在位1031年~1060年)の妃にした。アンナはアンリ一世の死後後継となった息子のフィリップ一世(在位1060年~1108年)の摂政もつとめている
⑨ヤロスラフの息子インジャスラフ(在位1054年~68年、69年~73年、77年~78年)は、ポーランド王の娘を妻に迎えた
⑩息子スヴャトスラフ(在位1073年~76年)はドイツのトリエール司教の娘を妻に迎えた
⑪息子フセヴォロド(在位1076年~77年、78年~93年)はビザンチン帝国の王女を妻に迎えた
参考:オリハのキリスト教への改宗、ヴォロディーミル公による国教化、ヤロスラフ大公のキリスト教によって巨大な国家の凝集力を高める施策により、キエフ・ルーシ公国はビザンチン帝国を中心とする「文明国の共同体」の一員として認められた。これにより、ヤロスラフ大公による華麗な婚姻政策も可能になり、遊牧民ベチェネグ人との戦いも、異教徒からキリスト教を守る「聖戦」と位置付けられる様になった。一方、キエフ・ルーシ公国はキリスト教を通じてビザンチン帝国の文化を吸収したが、ローマンカトリックではなくギリシャ正教を選んだことは、後世ロシアが西欧やポーランドとの政治的。文化的断絶を生むきっかけとなった

<ヴォロディーミル・モノマフ大公(在位1113年~1125年)>
ヤロスラフ大公の死後、息子たちの間の争いが半世紀近く続いた。この混乱期には遊牧民ベチェネグ人に替わって台頭していた遊牧民ポロヴェッツが執拗にキエフ・ルーシ公国を荒らしまわった。この事態を修復したのは、ヤロスラフ大公の孫のヴォロディーミル・モノマフ大公であった。彼の妻が、ビザンツ皇帝を輩出したモノマコス家出身であった為「モノマフ」と呼ばれた
モノマフ公は武勇と知略で知られ、民衆の人気もあり、国の統一を回復した。モノマフ公の妻ギーダはイングランド王ハロルド二世の娘であり、この婚姻を取り持ったのはデンマーク国王であった。これは、この時代になってもなお、キエフ・ルーシ公国の発祥の地であるスカンジナビアとの強い結びつきが残っていたことが窺える

1125年のヴォロディーミル・モノマフ大公の死後、1240年のモンゴルによるキエフ占領までの約100年の間は、キエフ・ルーシ公国の解体の過程である。それまでのキエフ・ルーシ公と地方の公の継承方式が兄弟相続から父子相続となり、地方の公は、父子相伝の領地の維持、拡大が最大の関心事となり、キエフ・ルーシ公の地位が相対的に低下すると共に、地方の緒公がキエフ・ルーシ公国から分離独立する傾向が顕著となった。以後殆ど独立した10~15の公国が出来、キエフ・ルーシ公国は実質的に緒公国の連合体になってしまった。この中の有力緒公国のうち北東部のウラジーミル・スーズダリ公国から分かれたものがモスクワ公国である
また、十字軍の派遣により地中海に於けるイスラム勢力の影響力が低下し、地中海経由の海上ルートが盛んになり、キエフを通過する陸上ルートによる貿易が衰退していった結果、キエフ・ルーシ公国の経済は商品経済から農業中心の自給自足経済に変わり沈滞していった

5.キプチャク汗国_1243年~1502年
1223年モンゴルの先遣隊はキエフ・ルーシ公国に現れ、アゾフ海に近いカルカ川の河畔でルーシ諸侯を破ったこの戦闘でルーシ緒公のほぼ半数にあたる9人が戦死し、死者は6万人に上ったと記録されている
1237年ジンギスカンの孫のバトゥに率いられた本格的な遠征軍が東部、北部の諸都市を陥落させた後キエフを包囲した。キエフ・ルーシ公は既に逃亡していたが、軍事指導者ドミトロに率いられた市民は果敢に抗戦したものの、長い籠城戦の後城壁が破壊されキエフは陥落した。陥落の際、市民は教会に立て籠もったが破壊された結果、何百という市民が下敷きになって死んだと言われている。ドミトロはその勇気をバトウに称賛され命を助けられた
その後バトウはヴォルガ川下流のサライを都とするキプチャック汗国を建てた。これによりキエフ・ルーシ公国は終焉したものの、個々の緒公国はモンゴルの支配に服し税を収めれば存続を認められたパクス・モンゴリカ/モンゴル覇権の下での平和)。ただ、交易による収入が見込まれるクリミア半島では直轄統治が行われた。
モンゴルが支配を欲した地域は、彼らの故郷に近い畑作地帯であって、モスクワ公国の属する森林地帯には興味がなかった

モンゴルは、正教会も保護した。教会や聖職者の税を免除し、教会内部や教会関係者の裁判権も教会に与えた。その結果、異教徒の支配の下で協会は豊かになりキエフ・ルーシの地のキリスト教化が完成した
また、モンゴルの支配の下で交易が盛んになり、東西の交易ルートが復活した。ここで活躍したのはイタリア商人で、ベネチア、ピサ、ジェノバなどが、かつてのギリシャの植民都市であったクリミア南岸に拠点を築き、ここを中継地として中央アジア、カスピ海、黒海、地中海との交易が盛んとなり、絹、香料、穀物、魚、皮革、奴隷などの取引が行われた。こうした交易は、スキタイ時代、ハザールの時代にも行われており、ウクライナの地は古代からギリシャ・ローマ(その後のイタリア)世界及び海の世界とつながっていた

6.ハーリチ・ヴォルイニ公国_1173年~1340年)
<ハーリチ・ヴォルイニ公・ロマン(在位1173年~1205年)>
1125年のヴォロディーミル・モノマフ大公の死後、玄孫(孫の孫)にあたるヴォルイニ公ロマンは、キエフ・ルーシ公国の南西部にあったハーリチ公国とヴォルイニ公国を合併し新王朝を開いた。ロマン公は1200年キエフを占領したが、キエフには魅力を感じずハーリチに戻った<ハーリチ・ヴォルイニ公・ダニーロ(在位1238年~1323年)>
ロマンの息子ダニーロの治世はモンゴルの来襲により多難であった。ダニーロはキプチャック汗国の首都サライに出頭しバトウに臣従の礼を尽くさねばならなかった。彼は気概のある公であった様で、ローマ法王に反タタールの十字軍を呼び掛けたが実現はしなかったものの法王から「ルーシの王」の称号を与えられた。ダニーロは、隣国からの浸食を防ぎ、ハーリチ・ヴォルイニ公国史上もっとも傑出した君主とされている。彼は息子レフの名を取ってリヴィウの町を建設した
リヴィウは後世ウクライナ西部の中心となり、ウクライナ・ナショナリズムの拠点となった。現在リヴィウは世界遺産に登録されている

こうして、ハーリチ・ヴォルイニ公国は、キエフ陥落後も一世紀近く存続した国で、現ウクライナの9割の人が住む地域を支配していた。ウクライナの歴史家トマシェフスキーは、この国がキエフ・ルーシ公国の直系であり「最初のウクライナ国家」であると主張している⇔ロシア側は1240年キエフ・ルーシ公国滅亡後ウクライナは継承すべき国家が無かったと主張してる
ダニーロの死後は周辺各国の干渉を招き、1340年代になってヴォルイニはリトアニアに、ハーリチはポーランドに併合された

<ハーリチ・ヴォルイニ公・レフ2世(在位1315年~1323年)>

最後の男系レフ2世は、始祖リューリクから数えて14世代目であった。最初のキエフ公オレフがキエフを占領してから約450年でウクライナ国家は消滅した

参考:
中世の西欧では王侯貴族が商業を低く見ていたのに対し、キエフ・ルーシ公国では諸侯や貴族は商業を重視し、そこから利益を得ていた。当時の西欧諸国は圧倒的に農村社会であったのに対し、キエフ・ルーシ公国では都市の比重が高く、2千400の町があり、総人口の13~15%が都市に住んでいたとされている
最大の都市キエフの人口は、モンゴル占領時には3万5千~5万人と推測されているが、当時のヨーロッパでは最大級の都市であった。また、総人口は12世紀末から13世紀初めには7百万人~8百万人であった。因みに当時の大国である神聖ローマ帝国は8百万人、フランスは1千5百万人であったと言われている
キエフルーシの貨幣は銀塊であり、単位はフリヴニャといい、現在のウクライナは独立5年後の1996年に通貨を発行したが、その単位は歴史的なフリヴニャを採用した。現在のロシアの通貨単位ルーブルは「切り分けられた」という意味で、フリヴニャを切り分けた銀塊の単位として13世紀に現れたものである
キエフ・ルーシ公国の文化の水準はキリスト教の導入で飛躍的に高まった(教会建築、イコン絵画、キリスト教関係の書物の翻訳・出版など)。「イーゴリ軍記」は、「ニーベルンゲンの歌(ドイツ語)」や「ロランの歌(フランス語)」と並び称される中世ヨーロッパの代表的な文学とされている。ロシアの作曲家ボロディン(1833~1887年)はこれを基に歌劇「イーゴリ公」を作曲した

7.リトアニア、ポーランドのウクライナ支配とその連合国
14世紀半ばにハーリチ・ヴォルイニ公国が滅亡してから、ウクライナの地はリトアニアとポーランドに浸食されこの2国の支配下に入った。
キエフ・ルーシ公国の時代には、ほぼ全域に亘って単一のルーシ民族であったものが、リトアニア、ポーランドに支配されていた時代にロシア、ウクライナ、ベラルーシの3民族に分化した。分化の要因は、この時代にモスクワ公国、リトアニア公国、ポーランド王国に分割され、それが長期間固定された為である。キエフ・ルーシ公国の末期から、既に言語も分化し始めており、この時期にロシア語、ウクライナ語、ベラルーシ語という独立した言語となっていった。また、「ウクライナ」という地名が生まれたのも、ウクライナの歴史を通じて最もウクライナ的といえるコサックが生まれたのもこの時期である。従って、この時期はウクライナのアイデンティティー形成の為にも極めて重要な時期であったとも言える

<リトアニアの拡張>
リトアニア人は先史時代からバルト海沿岸に住んでおり。インド・ヨーロッパ語族に属する民族(スラブ系でもゲルマン系でもない)である。
北ポーランドのカトリックの公が、リトアニア人に脅威を感じ、十字軍から戻ってきたドイツの騎士たちを定住させた(ドイツ騎士団)。ドイツ騎士団はその武力とエネルギーでリトアニアを圧迫したが、リトアニアはドイツ騎士団と戦ううちに力をつけ、周辺のスラブ諸国を侵略するようになった

キエフがモンゴルに占領された13世紀中ごろ、ミンダウガス公(在位1240年~1263年)のもとでリトアニアは初めて統一され、ダニーロ公に率いられたハーリチ・ヴォルイニ公国対峙した。ダニーロはポーランドやドイツ騎士団と協力してミンダウガス公に対抗した為、東部、南部への進出を十分果たすことはできなかった
その後、この進出政策はゲディミナス公(在位1275年~1341年)に引き継がれ、ベラルーシの大部分及びウクライナ北部を支配下におさめた。彼は首都をヴィルニュスに定め、「リトアニアとルーシの王」と名乗った
ゲディミナス公はリトアニアとポーランドの王朝の祖となったと共に、ロシア、ポーランドの多くの名門貴族の祖ともなった
ゲディミナス公の死後、1362年不敗を誇ったキプチャク汗国と戦いヨーロッパで最初の勝利者となった

リトアニア人は進入当初は異教徒であったが、すぐにスラブの文化に染まり、多くのリトアニア貴族は正教に改宗し、ルーシの言葉がリトアニアの公用語になった
リトアニア人は「古いものは壊さず、新しいものは持ち込まずという方針で臨み、リトアニア人は少数であったことからルーシ系貴族を登用したため彼らから歓迎された。この結果、1~2世代を経るとリトアニア人は見かけも言葉もルーシ人の様になってしまった。後世のウクライナの歴史家フルショフスキーは、「キエフ・ルーシ公国の伝統はモスクワではなくリトアニア公国によって継承された」としている

<ポーランドの進出>
ポーランドはスラブ系で、ルーシにとってはリトアニアより近い関係にあるものの、10世紀頃からポーランドはカトリックを受け入れたのに対し、東方キリスト教である正教を受け入れたキエフ・ルーシとは文化的には異質であった
リトアニアがルーシの文化を受け入れたのに対し、ポーランドは自身の文化を押しつけたこともあり、ポーランドのウクライナ進出はスムーズには進まなかった

最初にキエフ・ルーシに進出したのはカジミエシ三世(在位1333年~1370年)であった。彼は衰退しつつあるハーリチ・ヴォルイニ公国につけ込み、その公位継承に干渉し、同じく同公国に食い込もうとするリトアニアとも争った
14世紀中頃にはハーリチ地方はポーランドの支配下に入った。以後、リヴィウを中心とするハーリチ地方はドイツとロシアのポーランド分割までの長きに亘ってポーランドに組み込まれることになった(但し、一時期オーストリア・ハンガリー帝国に組み込まれた)
以上から、ハーリチ地方は歴史上一度も帝政ロシアの支配下に入ったことは無いことが分かる

14世紀のヨーロッパ

<ポーランドとリトアニアの合同>
カジミエシ三世の死(1370年)の後、ポーランドの王位は甥のハンガリー王ラョシュ一世(在位1370年~1382年)が兼ねることになるが、ラョシュ一世にも男子が無く、三女のヤドヴィガ(ポーランド女王としての在位1384年~1399年)にポーランドの王位を継がせた
その後、ヤドヴィガ女王の婿としてリトアニアのゲディミナス大公の孫に当たるリトアニア大公・ヨガイラを迎えることとなり、これに合わせてリトアニアをポーランド王国に編入することになった(クレヴォの合同)。1386年二人は結婚し、ヨガイラはポーランド王とリトアニア公を兼任することとなった(在位1386年~1434年)

この合同の結果リトアニアとポーランドが一つになった訳ではなく、リトアニアは自前の公をを擁してポーランドに対抗するなど別の国としての独自性を長期間維持した。特にゲディミナス大公の別の孫であるヴィタウタスが大公(在位1392年~1430年)の時代、その領土はドニエストル川とドニエプル川にまたがり黒海に及ぶリトアニアの絶頂期を迎えた
その後、次第にポーランドの力が強まり、1569年ルブリンで行われた会議の結果「ルブリンの合同」が成立し共通の王・議会・外交政策を持つ連合国家(事実上ポーランドによるリトアニアの併合)が形成されることになった

ポーランドでは、王家の男系が絶えると婚姻関係を通じて王位が継承されたが、その度に貴族たちは王の権限を制限し、自分たち貴族の国事への参画や特権を認めさせていった。貴族たちは国会や地方議会を組織して国事を決めたが、これらの会議体は全会一致制であったであった為、一人の貴族の反対で国事が決定できない状況が生まれた。16世紀初めには、国会における貴族の代表の同意無くして王は如何なる勅令も出せなくなっていった。かくして、どの国よりも王権を弱くすることに成功し、最終的に王は貴族の選挙で選ばれるという謂わば「貴族による共和制」まで生み出すに至った

こうして権限を強めた貴族は、16世紀初めには議会での町民の投票権を剥奪し、商人が外国と商売することも禁止して貴族が直接行う様になり貴族が富裕化する要因の一つとなった。また、職人も町ではやっていけず貴族の領内に移り住む様になり町は衰退していった。また、貴族は村の自治を奪い取り、農民の生活にも干渉するようになった(結婚するにも税金を払わねばならなくなった)。農民は移動の自由も奪われ、土地を所有する権利も奪われてしまったキエフ・ルーシ公国の時代に自由民であった農民は16世紀末までに領主の農奴となってしまった(西欧ではこの時期には農奴は消えていった)

アメリカ大陸からの銀の流入により経済は繫栄し人口が増加した。この為、穀物不足が起こり価格も上昇した結果、領主は商品作物の増産に精を出した(⇔農民からの搾取)。西ウクライナに於ける1491年~1492年の間の穀物輸出が1万3千トンだったものが、1618年には27万2千トンまで増加した。コペルニクスの活躍に代表されるポーランドのルネサンスはウクライナの農民の犠牲によって成り立っていた訳である

参考:リトアニア・ポーランド連合国の時代のユダヤ人
古代からウクライナの地にはユダヤ人が住んでいた。キエフ・ルーシ公国の時代にはユダヤ人は塩の専売権を手にしていたが、その数は多くはなかった。しかし、ポーランド・リトアニア連合国の支配下に入ってからは以下の要因からユダヤ人の人口が急激に増加していった
ポーランドでは
ボレスワフ王(在位1243年~79年)がユダヤ人を保護する法令(カリシュの規約)を出し、諸侯に税金を払う事によりユダヤ人を保護(ユダヤ人にたいする如何なる攻撃も厳しく罰した)し、自由な経済活動を保証した。またユダヤ人の自治を行う教区を設置する権利も認めた
②ポーランドのカジミエン三世(在位1310年~1370年)は、ボレスワフ王のユダヤ人優遇策をさらに進め、ユダヤ人が都市や農村で土地と家屋を取得するのを容易にした
③モンゴル人の進入後、ポーランドを立て直す為、外国人(ユダヤ人、ドイツ人、アルメニア人)の移民を歓迎し、彼らは主に都市部に流入した
④13世紀~15世紀に神聖ローマ帝国内でユダヤ人迫害が強まった為、ポーランドの優遇策に惹かれて多数のユダヤ人が移住してきた
リトアニアでは
ヴィタウタス公(在位1401年~1430年)は寛大なユダヤ人優遇策を打ち出し為、リトアニア支配下のウクライナにドイツ、ポーランドのユダヤ人が移住してきた

ユダヤ人は、まず都市の商人、手工業に従事し、次に農村にも進出した。彼らは金銭感覚・事務能力に優れていたため、農村では貴族の管理人になった。また荘園の経営全体の管理を請け負った者もいた。更に領主の下で旅籠、居酒屋、粉引き場、製材所などを経営するようになった。この様に、ユダヤ人は領主と農民の中間に立ち、農民の労働の成果を領主に渡すパイプ役となった為、農民からユダヤ人は領主の手先とみなされるようになった
キリスト教徒商人はユダヤ人を排除しようと試みたものの、王と貴族はユダヤ人から利益を得ていたので、こうした試みは概して成功しなかった

こうしたことからポーランド・リトアニア連合国支配下では、他のヨーロッパ諸国に比べてユダヤ人に住みよい環境が形成された。巷では「ポーランドは農民の地獄、町人の煉獄、貴族の天国、ユダヤ人の楽園」と言われた
ポーランド・リトアニア連合国支配下のユダヤ人人口の推移:1500年頃/2万3千人(全人口の1%);1648年/約50万人(全人口の5%)
19世紀、20世紀のロシア帝国、ソ連においてユダヤ人が政治・経済・文化の面で活躍するが、このユダヤ人の大部分はこの時ポーランド・リトアニア連合国支配下に入ってきたユダヤ人の子孫である

その後のユダヤ人
モスクワ公国やロシア帝国ではユダヤ人の国内居住を禁じていたが、18世紀末のポーランド分割により、ロシアはベラルーシと大部分のウクライナを領土に加えることとなり、その地に住んでいたユダヤ人の多くを抱え込むことになった。これらのユダヤ人は、原則として定住区域として設定されたウクライナ、ベラルーシから出ることが許されなかったので、ユダヤ人はこの地域が主たる居住地になった。
ウクライナ・ベラルーシ出身のユダヤ人の有名人にはトロツキー(ソ連・共産党の指導者の一人;メキシコに亡命したあとスターリンに暗殺された)、ジノヴィエフ(ソ連・共産党の指導者の一人;スターリンに粛清された)、カガノヴィッチ(ソ連の政治家;スターリンの側近;ウクライナ共産党第一書記)、エレンブルグ(作家)、シャガール(画家)がいる
参考:ユニエイト協会の誕生;
ウクライナの教会の変遷
キエフ・ルーシ公国の時代はルーシ人と正教徒と同義語であった。13世紀のモンゴル征服以降も、キプチャク汗国や初期のリトアニア公国では支配者が宗教に寛容であった為、正教が支配的であった。しかし、モンゴル征服以降正教を統括する府主教はウラジーミル(現ロシアのモスクワ西部の都市)やモスクワに住んでいた。その後、1362年キエフ府主教(日本語では「キエフ管区大主教」)の座はモスクワに置かれることになった
ポーランド・リトアニア連合国の時代、ポーランドの貴族はカトリック教徒であり、ルーシの貴族に比べ多くの特権を有していたため、ルーシの大貴族はカトリックに改宗してポーランド化することがポーランド貴族と対等になる道であった。こうして大貴族は言葉や習慣もポーランド化していった。しかし、地方の小貴族や農民は正教を守っており、正教やルーシの言語は下層階級のものとみなされるようになった。この偏見は第二次大戦まで続くことになった。正教徒の大貴族を失ったウクライナの民は指導者を失ったも同然で、その政治力、文化、教育等の面でも弱体化していった
ウクライナを支配下に置いたポーランドやローマ法王は正教会とカトリック教会を合同させようと画策し、1596年ブレスト(現ベラルーシ西部の都市)で会議を開いたがまとまらず、結局正教の一部が分裂してカトリックと合同し、新しくウクライナ独特の新しい教会・ユニエイト(合同協会/ギリシャ・カトリック教会/ウクライナ東方カトリック教会)が生まれた

リヴィウの聖ユーラ大聖堂(ユニエイトの総本山)

ユニエイトはユリウス暦を使用(⇔カトリックはグレゴリオ暦を使用)し聖職者の結婚も認めるが、ローマ法王に服従する。またユニエイトでは、正教同様教会では立って礼拝を受ける(⇔カトリック教会では椅子に座って礼拝を受ける)
ユニエイトはドニエプル川右岸では主要な宗教になった。しか18世紀末にロシア帝国領になってから、ローマ法王への忠誠を止めないユニエイトは帝国内では禁止された。
一方、ドニエプル川西岸地域はオーストリア・ハンガリー帝国の統治下にあった時期(1772年~1918年)はユニエイトが生き延びたが、第二次世界大戦後ソ連領になってからはユニエイトは禁止された。こうした歴史的背景から、ユニエイトはウクライナ・ナショナリズムのシンボルとなった

参考:モスクワ公国とクリミア汗国の台頭
モスクワ公国
は1480年、イワン3世(在位1462年~1505年)の時代にキプチャク汗国の支配から脱した。彼は「全ルーシの君主」と称し、かつてのキエフ・ルーシ公国の土地は全て自分の土地であると主張した。その結果、モスクワ公国とリトアニア公国は、キエフ・ルーシ公国の土地を巡って長期間にわたり争い、少しずつリトアニア公国の領土を切り取っていったイワン4世(イワン雷帝;在位1533年~1584年)は、1547年に初めて「ツァーリ/皇帝」として戴冠した

14世紀末ころからキプチャク汗国は内乱やリトアニア公国、ティムール帝国の侵攻などにより弱体化し、カザン汗国、クリミア汗国が独立した後、1502年に滅亡した

クリミア汗国を強大にしたのはタタール人でジンギスカンの後裔と称したメングリ・ギレイ(在位1478年~1514年)であった。ただ、彼はクリミア半島南岸で貿易の実権を握るジェノヴァ人の諸都市は支配できなかった
*オスマントルコ帝国のメフィト二世(在位1451年~1481年)は、黒海を「トルコの海」したいと望み、ジェノヴァ支配下にあったクリミア半島諸都市を手中にした。クリミア汗国はオスマントルコの強さを知り、オスマントルコの属国となった
クリミア汗国はイスラム国家であり、主にクリミア半島に住む農民であるクリミア・タタールと黒海北岸で遊牧をしているノガイ・タタールがおり、ノガイ・タタールはクリミア汗国の宗主権の下にあった。オスマントルコは軍とハーレムを維持するため絶えず奴隷を必要としており、クリミア汗国はその奴隷の主な供給源(ノガイ・タタールがスラブの町や村から人々を誘拐した)であった。この時代、遊牧民が誘拐した奴隷はクリミア南岸の諸都市を通じてコンスタンチノープルや中近東に売られており、この為にウクライナ北方の農村地帯は人口が減少していったこの危険で人口希薄な地に台頭してきたのがコサックである

参考:ウクライナの語源
ロシア史をベースとした学説では、ウクライナとは「辺境地帯」であるとしていた。しかし、ウクライナではウクライナとは、単に「土地」あるいは「国」を意味する言葉であったと主張している。「ウクライナ」という言葉の一部を為す「krai」という部分は、もともと。スラブ語で「切る」とか「分ける」という意味であり、現在のロシア語、ウクライナ語でも「krai」という名詞は「端」、「地方」、「国」を意味している
12世紀~13世紀に書かれた「キエフ年代記」には「1187年、ベレヤスカル公国のヴォロディミール公が死んだとき、「ウクライナは彼の為に悲しみ嘆いた」と書いている。また、「ハーリチ・ヴォルイニ年代記」には「1213年、公になる前のダニーロがブレスト、ウフレヴスクなど全てのウクライナを再統一した」と書いている

16世紀になりコサックの台頭と共に、ウクライナはドニエプル川両岸に広がるコサック地帯を指す様になった。1622年、コサックの指導者・サハイダチニーは、ポーランド王宛の手紙で「ウクライナ、我らの正統で永遠の故国」、「ウクライナの諸都市」、「ウクライナの民」などの表現を使っている。また、コサックはウクライナは「祖国」という意味を込めた政治的、誌的な言葉として、コサック指導者の宣言や文書に繰り返し出てくる
19世紀に入って、ロシア帝国がウクライナの大部分を支配下に置いた時、ウクライナの地を公式に表す時に小ロシアという語を用いた

ウクライナが独立国家の正式名称として使ったのは1917年、ウクライナ民族主義者によりウクライナ人民共和国1917年11月22日~1920年11月10日の樹立宣言がなされた時である

8.コサックの歴史
<コサックの生い立ち>
13世紀半ば頃より南のステップ地帯は荒れ果て人口が減少していった。ステップ地帯を支配していたキプチャク汗国も14世紀末頃から衰退していき、16世紀末から17世紀初頭にはクリミア汗国など幾つかの汗国に分裂していった。また、これらの汗国に服属しない「ノガイ・タタール」などの遊牧民がステップ地帯のルーシ人の町や村を襲って奴隷狩りを行う様になり、この地帯の人口は減少していった。因みに1450年~1586年に86回のタタール人の襲撃あったとの記録が残っている

ところが、このステップ地帯は危険ではあるものの極めて豊かで魅力のある土地であった。15世紀には、ポーランド領内の貧しい下級地主や町民が短期間ドニエプル川やその支流に夏の短期間やって来るようになった。そのうち夏の全期間滞在し、魚、獣皮、馬、蜂蜜などを持ち帰るようになった。しかし、帰る途中に役人から搾取されることから、これを嫌って勇敢な者たちは移住するようになった
危険を顧みず自由と豊かさの為に移住した者たちは、タタールの奴隷狩りに備えて武装した自治集団を作るようになった。16世紀初めには逆にタタールを襲って家畜を盗み、トルコ人やアルメニア人の隊商を襲う様になった。また、クリミア汗国やドナウ河口地帯のオスマントルコ帝国内の町や村を襲ったが、タタールの襲撃と異なる点は、奴隷にされていた正教徒のルーシを解放する事も行っていた。こうした者たちは「コサック」と呼ばれるようになった。このコサックという言葉は、トルコ語では分捕り品で暮らす人」あるいは「自由の民」を意味していた

コサックのタタールに負けない冒険的な生活は多くの人を惹きつけ、ポーランドの領主の搾取に苦しむ者たちが逃亡してコサックに加わった。また、冒険心から貴族・町人やスラブ系以外のモルダヴィア人、トルコ人、タタール人、なども加わった

サポロージヤ・コサック

ドニエプル川の中・下流域には「コサックの町」が幾つもでき、16世紀末までには王に任命された貴族の「ヘトマン」によって率いられた。後に「ヘトマン」はコサック全体の首領としてコサック自身から選ばれるようになった

コサックの町では満足できず、より大きな自由を求めてドニエプル川下流に住んだ者たちは「シーチ」と呼ばれる要塞化した拠点を作った。1530年頃、タタールやポーランドの役人に対しても安全なドニエプル川下流の川中島に主要なシーチが作られた。「早瀬の向こう」という意味の「ザ・ポリージャ」が地名となり、その拠点は「ザポリージャ・シーチ」、そこのコサックは「ザポリージャ・コサック」と呼ばれるようになった。またロシア辺境の「ドン・コサック」などと区別するために、「ザポリージャ・コサック」はウクライナのコサックの一般名詞となった

<政治的勢力への成長>
コサックの数が増え、その軍事力が高まるにつれ大規模な遠征を行う様になり、船団を組んでコンスタンチノープルや小アジアの海岸も襲う様になった。また、ポーランドの為にモスクワ公国とも戦って勇名を馳せ、17世紀初頭にはドニエプル川の中・下流域に確固たる勢力を築き上げた。この結果、コサックはキリスト教世界とイスラム教世界との境界に位置する政治・軍事勢力として他の諸国から一目置かれるようになった

ポーランド王は、戦争をするのに必要な戦費について議会の承認が得られないことから、貴族に依存しないですむコサックに目を付け、モスクワ公国やオスマントルコ帝国との戦争においてコサック軍に頼ることとなった
コサックは独立不羈の精神が強く命令に従わないことも多く、またポーランドの正規軍人に比べて待遇が悪い上に自治を尊重しないことに不満を持っており、反乱を起こすリスクもあった。そこでポーランド王はコサックの「登録制度」を設け、登録したコサックには軍務に対して給料を支払うと共に、裁判権、土地所有、指導者の選任権などの自治を認めた。これにより、ポーランド王は安い軍事力を確保すると同時にある程度コサックを統制下に置くことが出来るようになった。コサックにとっても登録制度自体は歓迎すべきものであったが、登録数が限られていた為に登録数の増加がコサック側の強い要求となった。一方、登録されたコサックが地主化、保守化し、未登録の貧しいいコサックとの間で利害が衝突することになった

<組織と戦闘方法>
大部分のコサックは、平時にはドニエプル川周辺の町や村に家族と一緒に住み農業を営んでいた。春と夏は数千人がシーチに向かい、そこを拠点として戦争・略奪の為の遠征や漁労、狩猟に従事した
コサック軍団の中心となったザポリージャ・シーチには男のみが入ることを許され、中央には広場があり、教会、学校、武器弾薬庫、幹部の家、などがあった。シーチの人口は通常5千人~6千人で、最盛期には1万人にもなった。シーチの外にはバザールがあり、ユダヤ人などの非コサックの店が並んでいた。冬には数百人を残して大部分が町や村に帰った

ザポリージャ・シーチの政治は平等の原則に則り、ヘトマンスタルシーナ(長老グループ)、ラーダによって行われていた;
軍事行動や外国との同盟などは「ラーダ」と言われる全体会議で決められていた。因みに、ラーダは現在のウクライナの議会の名でもある
コサックの首領であるヘトマンは、初期の頃はポーランド王によって任命されていたが、後にはラーダ出席の全員によって選ばれた。ヘトマンは軍事面では独裁的な権限を行使した。同僚を死刑にする権限もあったが、一方、戦争に敗れたあと指揮に誤りがあったとされた場合にはヘトマンが死刑にされることもあった

コサック軍の軍事単位は、10人の小隊、10小隊からなる中隊、5中隊からなる連隊より構成されていた。1590年年時点でコサック軍全体の規模は2万人といわれている
コサック軍の戦う目的は、正教の擁護、ウクライナ人の保護、コサックの自由と自治の擁護とされている
戦争の前に志願兵を募る時、使者は「キリスト教の為に串刺しにされたい者、十字架の為に引き裂かれたい人、極刑の苦しみに直面したい者、死を恐れない者は我々と共に来るべし」と呼びかけたいたとのこと

コサックは海上の軍事行動でも優れていた。軍船は海上軍事行動の前に60人掛かりで2週間のうちに80隻から100隻製造する。軍船はチャイカ(カモメという意味)といい、長さ約18m、幅3.0~3.6m、深さ約3.6m、片側10~15の櫂を付けて漕ぐ竜骨の無い50人~70人乗りの木造船で、逃げ足を早くするための舵は前についていた。乗船する兵は各人2丁の銃と剣一振りを持ち、4~5門の大砲も積んでいた。また、食糧、弾薬、四分儀(象限儀とも。天体の高度を観測するのに用いられた天文観測機器)なども積んでいた

コサックのチャイカ船(左)がオスマン帝国のガレー船(右)を襲う(17世紀)

<先駆者サハイダチニー>
最初の偉大なヘトマンと言われているサハイダチニー(在任期間:1614年~1622年)は、同じ族の出身で当時としては高い教育を受けたもののコサック軍に入った。彼は冒険を求め、命知らずで、最初に攻撃し最後に退く人と言われた。また、寡黙で自制心に富み、用心深く、野営中も警戒を怠らず、短時間しか眠らなかった
彼は、コサック軍の軍規、階級、秩序を作り、コサック軍をゲリラ的な軍から正規軍に作り変えた
彼は、ポーランドの為にモスクワ公国やオスマン・トルコ、タタールとの戦いに参加し、コサックの地位向上を図った。特に1621年、ウクライナ南部のホーティンで3万5千のポーランド軍と共に4万のコサック軍を動員して10万のトルコ軍を食い止めることに決定的な役割を果たした。ローマ法王は、このホーティンの戦士たちを「世界の守護者で、最悪の敵に対する勝利者」と褒め讃えた


ウクライナのホーティン城_コサック軍とトルコ軍の戦いを目撃した強力な中世の要塞

彼は、ウクライナの文化、教育、正教の振興に尽くした。モンゴルやリトアニアの支配下で荒れ果てたキエフをウクライナの文化、教育の中心地に復帰させた。彼が庇護した正教の非聖職者の団体である「エピファニー同胞団」は彼の死後10年後(1632年)に「キエフ・モヒラ・アカデミー」に発展した(彼の墓がある)。この学校は、当時優勢であったイエズス会(カトリック)の学校をモデルとして正教の教育機関とし、ラテン語・ギリシャ語の教育に力を入れ、スラブ社会における最も重要な教育機関として多くの優れた聖職者、学者を輩出した。同アカデミーは、1817年以来閉鎖されていたが、1991年のウクライナ独立後「キエフ・モヒラ・アカデミー大学」として復活した

1622年のサハイダチニーの死後、1630年代には何人かのヘトマンがポーランドに対して反乱を試みたが鎮圧され、コサックの自治は制限されると共に登録コサックの数も大幅に削減された。その後ポーランド大貴族の圧政が強まりコサックやウクライナ農民の不満が鬱積していった。この反乱の時代のコサックをロマンティックに描いたのがニコライ・ゴーゴリ(1809年~1852年;コサック小地主の末裔)の名作「隊長ブーリバ」である

<ヘトマンが作ったコサックの国家>
ウクライナ史最高の英雄はボフダン・フメリニッキー1595年~1657年)とされています彼は、ドニエプル中流域の町チヒリン近郊にある父の領地で生まれた。彼の父は「登録コサック」で小領主であった。フメリニッキーはウクライナで初等教育を受けた後、西部のイエズス会(カトリックの修道会)の学校で中等、高等教育をうけた。故郷に戻ったあと、1620年父とモルダヴィアでの戦いに参加し、父は戦死し、彼は捕虜になってコンスタンチノープルに2年間囚われの身になったが、この間にトルコ語を学び、トルコ、タタールの事情に精通するようになった。1622年帰国後、登録コサックとなり、チヒリンのコサックの隊長を勤めた。その後、領地経営に専念するようになったが、その間にもコサックの交渉団の一員としてワルシャワに赴き、ポーランド王からその指導力に高い評価を得た

1674年、ポーランド貴族でチヒリンの副代官がフメリニッキーの土地の所有権を主張して襲撃した上、フメリニッキーの末子を殺害し、彼が再婚しようとした女性を拉致した。フメリニッキーはその地方の法廷、ポーランドの議会、ポーランド王に訴えたが彼の主張は受け入れられず、逆にチヒリンの代官に逮捕されてしまった。その年の12月、牢から脱出したフメリニッキーはポーランドに対する反乱を決意した
ザポリージャ・シーチに逃れたフメリニッキーは、短期間でコサック達を動かし1648年ヘトマンに選出された。彼は普段は控えめで気取らなかったが、感情が高揚した時に行う演説は人を陶酔させたという

当時ポーランド貴族のウクライナは、ドニエプル川流域まで進み、自由民として新開地に移住したはずの農民が農奴化されていくことに反抗心を募らせていた。コサックの権利も1638年の大敗北以降不満を鬱積させていたため、フメリニッキーの反乱の呼びかけに多くの人が呼応し彼の幕下にはせ参じた
フメリニッキーは、ポーランドと戦うにはコサックの戦力だけでは無理だと考え、当時ポーランドとの関係が悪化していたクリミア・タタールとの同盟を結んだ。1648年5月、コサック・タタール連合軍9千は、ポーランド軍6千を破った。その年の夏には、フメリニッキーの軍は8万~10万に膨れ上がり、9月には再びポーランド軍8万を破って西部に進軍しワルシャワ近くまで進出した。コサック軍はポーランドを粉砕する寸前までいった
しかし、新しく即位したポーランド王ヤン・カジミエン(在位1648年~1668年)は、以下の条件での和平提案;
①コサックの伝統的権利を認める
②コサックはポーランド王のみに従い土地の貴族には従わなくてもいい
を呼びかけると、フメリニッキー軍はこれに応じてキエフに凱旋した。この勝利に対してキエフ主教や偶々キエフに滞在中のエルサレム総主教から「彼はポーランドへの隷属からルーシを解放した」と讃えられた

1649年夏、フメリニッキーは再びポーランド軍をズボリフで包囲して屈服させ「ズボレフ休戦協定
登録コサックを4万人に増やすこと
②ウクライナ(当時はキエフ州、チェルニヒフ州、ブラツラウ州)はコサック領とすること
③ウクライナからポーランド軍、ユダヤ人、イエズス会を排除すること
正教府主教はポーランド議会に議席を持つこと
を結んだ。これにより、実質的にコサックの国である「ヘトマン国家(1649年~1667年)」が誕生した
ヘトマン国家の面積:25万㎢(因みに日本の面積は37万㎢)、人口:150万人。行政組織は軍事組織が発展したもので、首領であるヘトマンは参謀部の補佐を得て統治を行った。領域は16の連帯区に分け、連隊長が軍事と民生を統括した。連隊長の下には中隊長がいて中隊区の軍事・行政を行った
ヘトマン国家の首府はフメリニッキーの司令部のチヒリンであり、サポリージャ・シーチはコサックの中心としての地位を失った。ヘトマンは、理論上これを選出した全体会議(ヘネラルダ・ラーダ)に従う事になっているものの、コサック数増加とともにラーダは開かれなくなり、ヘトマン、参謀部幕僚、連隊長などで構成する長老会議(ラーダ・スタルシーナ)を重視する様になった。長老は当初は選挙で選ばれたが、次第に世襲化し、貴族化していった
農民は、コサック連隊に登録すれば、自費で軍務につく義務はあるが税は免除され、土地所有も可能で役職者の選挙にも参加できた。軍務が果たせなくなると農民に戻った。ヘトマン国家の下で自由民に戻った農民は、農奴に戻されない様にコサックになろうとしたため、17世紀半ばには人口の半分はコサックであったと推定されている

1651年、ポーランドとの戦いが再開した。ベレステチコの戦いでは、タタール軍が突然戦場を離れ(ポーランドに買収されていたと言われている)、引き留め用としたフメリニッキーはタタール軍に拘束されてしまいコサック軍は総崩れになってしまった。ビラ・ツェルクヴァで結ばれた休戦協定では以下の譲歩;
①登録コサックの数を2万人に減らすこと
②ヘトマンの統治範囲はキエフ州のみとすること
を強いられた

1652年、フメリニッキーは反撃を試み、パティフでポーランド軍に大勝したが、交渉面では大きな前進は無かった。その後小競り合いが続くことになった
その後、フメリニッキーは周辺の国と同盟を組もうとしたが概ねうまくいかなかった中で、唯一重要性を持ったのはモスクワ・ツァーリ国イワン4世が1547年以降ツァーリを名乗っていたとの保護協定であった。モスクワに庇護を求め得るということは、同じ正教徒の国であることから一般にコサックには好評だった
当初、モスクワ・ツァーリ国は強国のポーランドに敵対するのは避けたいと考えてこの同盟の申し出に慎重であったが、フメリニッキーがポーランドに大勝したことでフメリニッキーの申し出に同意した(この背景には、以前リトアニア・ポーランドに奪われた領土を回復し、ウクライナをトルコとの緩衝国にしようと思惑があったと言われている)。この協定は「ベレヤスカル協定」といいその内容は;
①コサックとウクラナ人はツァーリに忠誠を誓う事
②ツァーリはウクライナに軍事援助を行うこと
③コサックは自らヘトマンを選ぶが事後モスクワに通報すること
④ヘトマンとサポリージャ・コサックは外国使節を受け入れることが出来るが、紛争になりそうな件はツァーリに報告すること
⑤登録コサックの数は6万人とすること
⑥ウクライナ貴族は伝統的な権利を認められること

⑦ウクライナの正教徒はモスクワ総主教の祝福の下にあるが干渉は受けないこと
参考:ロシアは、この協定が両民族は予てから統合を望んでいた証拠としているのに対し、ウクライナは、フメリニッキーが短期的な軍地同盟・保護の約束の一つであり、フメリニッキーもコサックもウクライナの運命を永久に託したものでは無いと考えていた。その証拠に、フメリニッキーはモスクワの高圧的なやり方に幻滅し、スウェーデンと組んでモスクワから離れようとしていた(志半ばでフメリニッキー死んだ)

ウクライナがモスクワ側に付いたことを知ったポーランドはタタールと同盟を組み、1654年モスクワ・ウクライナ連合軍とベラルーシで戦った。しかし、1656年フメリニッキーも知らない内にモスクワとポーランドが和平協定を結んでしまった(ウクライナがスウェーデンと手を結ぼうとしていることを察知した為と言われている)
フメリニッキーはモスクワに「ベレヤスカル協定」違反だと非難する書簡を送っている。その後、フメリニッキーはスウェーデン及びトランスシルバニアと組んでポーランドを攻めるが、そのさなかにフメリニッキーは病気で亡くなり失敗する
ウクライナ史上初のウクライナ国家である「ヘトマン国家」を作ったのはフメリニッキー、後世のウクライナ国家のシンボルとなったのも彼であった。現在、ウクライナの紙幣に彼の肖像画使われている

ウクライナの5フリヴニャの紙幣_フメリニッキーの肖像

フメリニッキーの死(1657年)の後約20年間は、モスクワ、ポーランド、トルコ、タタールが関わる戦争があり、ヘトマン国家内でもヘトマン間の対立(ドニエプル川の「右岸一帯」対「左岸一帯」との対立)抗争及びコサックの反乱が頻発し荒廃した

1667年ポーランド王国とモスクワ・ツァーリ国とが結んだ「アンドルソヴォ条約で、ドニエプル川の「右岸一帯」はポーランド王国「左岸一帯」はモスクワ・ツァーリ国の主権をお互い認め合った。この結果、ウクライナの分割は恒久的に確定し、ザポリージャは両国の宗主権(内政・外交などを支配・管理する権利)下あるとされた。また、フメリニッキーがモスクワ・ツァーリ国との間で結んだ「ベレヤスカル協定」は意味のない協定となった
参考/右岸、左岸とは:川下に向かって右側が右岸、左側が左岸
その後の推移;
①1686年、ポーランドはモスクワ・ツァーリ国によるザポリージャの単独宗主権を認めた
②1700年。ポーランドの議会は、ドニエプル川の「右岸一帯」のコサック制度を廃止した
③モスクワ・ツァーリ国の宗主権下にドニエプル川「左岸一帯」では、コサックの自治が維持され、「ヘトマン国家」は1764年まで長く維持された。ただ、ヘトマン国家の領域は約3分の1に減少し、連帯区は10となり、首府はチェルニヒフ州バトゥ―リンになった
また、これを機に右岸から左岸へ大量の移民が行われた為、ウクライナの中心はドニエプル川右岸から左岸に移った。またザポリージャはコサック活動の軍事的。政治的中心ではなくなった
④左岸の「ヘトマン国家」は、その後スタルシーナ(長老)が次第に貴族化し、一般のコサックは農奴化の危機に見舞われる様になった。両者の階級的対立をが先鋭化するのに乗じ、ロシアは一般コサック側に肩入れし、ロシアが介入しなければヘトマン国家が動かない状況を作りだしていった。モスクワに歯向かったヘトマンはシベリア送りになった

ウクライナの10フリヴニャの紙幣_イヴァン・マゼッパ

<イヴァン・マゼッパ>
マゼッパはキエフに近いドニエプル川右岸小領主の家に生まれた(17世紀前半)。キエフ・モヒラ・アカデミーで学んだ後ワルシャワに留学しポーランド王・ヤン・カジミアンの寵愛を得て、この王の臣下になりコサックに対する外交使節も務めたその後、ポーランド宮廷を辞し生地に帰り1669年ドニエプル川右岸(ポーランドが宗主国)のヘトマンの筆頭副官となった。1679年にクリミア汗国に使節として赴く途中ザポロージェ・コサックに捕らえられモスクワに送られたが、そこでもモスクワ政府に気に入られドニエプル川左岸(モスクワ・ツァーリ国が宗主国)のヘトマンに派遣され、ここでもヘトマンの筆頭副官となった。1687年このヘトマンがモスクワの不興を買ってシベリアに送られると、そのあとを継いで左岸ウクライナのヘトマンに就任した

1689年ピョートル1世(在位1682年~1725年)が姉の摂政に替わって実権を握ると、マゼッパはピョートル1世の信頼を勝ち取った。ヘトマンのマゼッパは、黒海へのアクセスを得ようとするピョートル1世に協力し数年に亘って兵を出した。その結果、マゼッタはヨーロッパでも有数の大土地所有者となった。1705年、ピョートル1世の命によりドニエプル川右岸のウクライナに攻め込み、一時はドニエプル川左右両岸を支配して、一時フメリニッキーの時代を再現した

マゼッパは平和裏にウクライナの自治を拡大したいと思っていたが、ピョートル1世は中央集権国家を目指していた。ピョートル1世は南方(黒海方面)への進出一定の成果を収めると、次の目標はバルト地方への進出であった。一方、スウェーデンのカール1世(在位1697年~1718年))もポーランドやバルトへの進出を企てており両国及びそれら同盟国はバルト地方やポーランドで激突することになった(大北方戦争
因みに、コサック軍は故郷から遠く離れた戦地に動員され兵の死傷率は50%~70%となり、コサックを消耗品の如く扱うピョートル1世に対しマゼッパは疑念を抱くようになった

大北方戦争(1700年~1721年)の推移;

1700年、ナルバ(現エストニア東部の都市)の戦いではスウェーデンは数倍も優勢なモスクワ軍に大勝した。その後、マゼッパはピョートル1世のみには頼れないと考え、スウェーデンとも接触を持つようになった
1708年、スウェーデン軍はリトアニアに攻め入り、その後モスクワ領に入ったものの糧食を絶たれた為ウクライナに侵入したマゼッパはウクライナを独立させる絶好の機会と考え、スウェーデンと同盟を結んだ。ピョートル1世は信頼していたマゼッパに裏切られたことから、直ちにドニエプル川左岸ウクライナの首府・チェルニヒフ州バトゥ―リンを襲って全住民6千人を虐殺し、親モスクワ派を集めて別のヘトマンを選出させた。多くのコサックはモスクワ側に付いたが、サポリージャ・シーチはマゼッパ側についたが、サポリージャ・シーチは破壊された
1709年、ウクライナ中部のポルタヴァで歴史的な大会戦(ポルタヴァの戦い)が行われ

ポルタヴァの戦い

カール1世率いるスウェーデン軍とマゼッパ軍の連合軍2万8千に対しピョートル1世率いるモスクワ軍(モスクワ側についてコサックを含む)5万が激突した。結果はモスクワ軍の圧勝であった
カール1世とマゼッパはオスマン・トルコ領内に逃亡した。マゼッパは亡命先で死亡し、4千のコサック軍はオルリークをヘトマンに選出した。オルリークはスウェーデンの援助の下でトルコ・タタールと同盟を結びウクライナ解放に望みを繋いだが、1713年この勢力は消滅した
⑤残されたヘトマン国家の自治は一層制限され、ロシアはこの戦いの後ヨーロッパの強国となり、モスクワ国は「ルーシ」をラテン語化した「ロシア」と名乗るようになった

<ヘトマン国家終焉・ロシアへの併合の過程>
①ピョートル1世は、ポルタヴァの戦い以降ツァーリの代理としてロシア人に送り、その代理の同意無くしてヘトマンは何もできないようにした。また、ヘトマン国家の首府をロシア国境に近い「フルヒフ」に変えさせられ、ここにロシア軍2連隊を常駐させた。また、ロシア人がコサックの連隊長や他の役職に入り込んできた。また、コサックは遠隔地のサンクト・ペテルブルクやラドガ運河の掘削、カフカス地方の要塞の建設などの土木工事に駆り出され、多くが病気で死んだ
②アンナ女帝(1730年~1740年)の時代、後任のヘトマンの選出を禁止した。また、1736年~1739年のトルコとの戦争で数万のコサックが動員され、3万5千人が戦死した
③エリザベータ女帝(在位1741年~1762年)が即位すると、左岸コサック出身の歌手・オレクシー・ロズモフスキーが女帝に見初められ、後に秘密裏に結婚した。オレクシー自身は国政に関与しなかったが。ウクライナに対する愛国心を持ち続けていたオレクシーの弟・キリコ・ロズモフスキーは1750年に22歳の若さでヘトマンに就任した。キリコ自身は大半サンクト・ペテルブルクでの宮廷に留まり、ウクライナへの関心は薄かったものの、ロシア政府のウクライナに対する干渉が減り、ヘトマンの権威も高まった
④エカテリーナ2世(在位1762年~1796年)はピョートル1世の遺志を継ぎ、「中央集権」、「帝国拡張主義者」であった。女帝はキリコにヘトマンの退任を迫り、1764年ヘトマンを退任した ⇒ キリコは最後のヘトマンとなった。ヘトマンに代わる組織として「小ロシア参議会」が作られた

⑤1765年エカテリーナ2世はスロボタ・ウクライナ(ウウライナ最東部のハルキフやスーミ地方に移住して作り出したコサック自治組織でヘトマン国家とは別の組織でモスクワの強い統制下にあった)を廃止した
⑥1774年ロシアとトルコは「クチュク・カイナルジ条約」を結びトルコ領の黒海沿岸地域を獲得し、クリミア汗国の独立を認めさせた。これによりクリミア汗国との戦争の為に必要とされていたザポリージャ・コサックの利用価値が無くなったので、1775年ザポリージャ・コサックの廃止を宣言すると共にコサック精神の象徴であったザポリージャ・シーチを破壊した
その後、ザポリージャ・コサックは、町や村に引き籠る者、ロシア軍の機銃兵の連隊に入る者、ドナウ河口でオスマン・トルコの軍務につく者、アゾフ海東岸のクバン地方に移住する者(⇒クバン地方のコサックの祖先となった)に分かれていった
⑧1780年、ドニエプル川左岸のヘトマンに替わるコサック組織として作った「小ロシア参議会」を廃止し、ロシア本土並みのキエフ、チェルニヒフ、ノブホロド・シベルスキーの3県に知事を置いた。更に、1783年コサック連隊制度も廃止した
フメルニツキー以来約130年、左岸ウクライナにされたとは言え、更に80年の命脈を保ったヘトマン国家もここに消滅したことになる
⑨1783年、「クチュク・カイナルジ条約」で孤立無援になったクリミア汗国は、エカテリーナ2世の寵臣であったポチョムキンの攻撃により滅亡した
トルコ領にあったドナウ河口のシーチにいたコサックは、1828年の露土戦争でキリスト教徒であるロシアと戦うことを拒みロシアに投降した。その後、彼らもアズフ海東岸のクバン地方に移住した。一方、この裏切りに怒ったトルコはドナウ河口のシーチを破壊し、残っていたコサックの多くは殺され、一部のコサックはトルコ領内に強制移住させられた

ポーランド領のドニエプル川右岸のコサックは既に消滅していたが、貴族の荘園を襲う「ハイダマキ(盗人あるいは放浪者という意味)」が跋扈していた。ポーランド貴族の圧政に苦しんでいた農民は、この「ハイダマキ」を支持していた。1734年、1750年、1768年に大規模な反乱が起きたが、攻撃を受けるとザポリージャに逃げ込んで難を逃れていたが、最後の反乱の時にこの反乱が左岸に及ばない様にエカテリーナ2世により完全に鎮圧された

この時期、ロシアプロイセン中央集権、絶対王政の下で強国にのし上がってきたが、ポーランドは貴族の力が強く国家としては弱体化してきており、次第に外国の干渉を受けるようになった。特にロシアは、かつてのキエフ・ルーシ公国の領域は当然ロシアに帰属すべきものと考えていた
1772年、1793年、1795年の三次に亘る分割を経て、ポーランド領はロシア、プロイセン。オーストリアの三国に分割された。ここで、14世紀に始まったポーランド支配は4世紀を経て一旦終了することになった1775年エカテリーナ2世は、数次にわたる露土戦争でロシアに編入された広大な黒海沿岸地域一帯を新しく「ノヴォロシア(新ロシア)県」としてここの総督にポチョムキンを充てた。彼が大胆な植民政策を取った結果、1778年~1887年の10年間にノヴォロシア県の収穫は5倍に伸び、1796年には人口は50万人を越えた。また黒海周辺にはオデッサミコライウヘルソンなどの大都市が出来、穀物の輸出港として発展した

9.ロシア、オーストリア両帝国によるウクライナ支配
18世紀末のポーランド分割から第一次次大戦までの約120年間、ウクライナの地は約8割がロシア帝国に残り、約2割がオーストリア帝国に支配された。19世紀末からロシア帝国で資本主義が勃興すると、ウクライナの南東部では急速な工業化が進み帝国内の最大の工業地帯に変貌した。オーストリア帝国は西欧に近いだけ専制の程度はロシア側より弱かった。この為ウクライナ・ナショナリズムの拠点になっていった。また、ウクライナの左岸地域の都市の住民は大部分はロシア人とユダヤ人であった。一方、右岸の都市ではロシア人とユダヤ人に加えポーランド人も加わった。都市に住む住人はロシア語を話す様になったが、農村では圧倒的多数のウクライナ人が頑固にウクライナ語を使い固有の文化を守っていた

ロシア支配のウクライナは9ヶの県に分かれ、それぞれモスクワから知事が派遣されたオデッサのみは中央の直轄地となっていた。左岸地域ではコサック・スタルシーナ(コサックの長老)が、右岸地域ではポーランド人及びポーランド化したウクライナ人の多くが貴族の地位を認められ、免税特権や農奴を持つ権利が与えられていた。19世紀初めには左岸地域で2万4千人の貴族が認定され、その多くがコサック・スタルシーナであった。彼らはロシア帝国のシステムに同化し地方の官僚層を形成した

オーストリア支配のウクライナは3つの地方に分けられている第一は、1772年のポーランド分割で獲得した旧ポーランド領の「東ハーリチナ地方主な都史はリヴィア);ウクライナ人」、第二は、1774年オスマン・トルコ帝国から獲得した「ヴコヴィナ地方(主な都市はチェルニフツィルーマニア人とウクライナ人が混在している)」、第三はカルパチア山脈の南麓の「ザカルパチア地方主な都市ウジホロド;ウクライナ人が主要民族)」である。
この三つの地方の宗教は殆ど「ユニエイト」であった。ウクライナ人が多い東ハーリチナ地方と行政単位(ハーリチナ州)が同じ「西ハーリチナ地方はポーランド人が多い為、同一州内で両民族の確執があった。また、「東ハーリチナ地方」は殆どポーランド貴族のもとで住民の4分の3は農奴であった。またハーリチナ州は、オーストリア帝国の中では辺境に属し最も貧しいい地域であった

<ロシア帝国に於ける民主化、ウクライナ・ナショナリズムの動き>
①デカブリストの乱(体制変革の先駆け);
1812年のナポレオン戦争に従軍し西欧での見聞を広めた若い貴族たちは、ロシア帝国の政治の後進性に愕然とし、1925年の「デカブリス(12月党)の乱」を起こした。蜂起した場所はサンクト・ペテルブルク(北方結社)ウクライナ(南方結社)であった。南方結社はチェルニヒフ連隊千人の兵士が蜂起したものの、反乱自体はあっけなく鎮圧されたが、ロシアの体制変革の先駆けとしてロシア史上重要な位置をしめている

1846年、シェフチェンコは作家・歴史家のクリン・マーロフ(1817年~1885年;「フメリニッキー伝」、「聖書のウクライナ語版」などを発刊)などの仲間10人程度を集めて「キリロ・メトディー同胞団」を結成し、農奴制の廃止全スラブ民族の連帯などを訴えていたが、反政府活動をしていた訳ではないものの、1847年同胞団全員が逮捕・投獄され、首謀者として逮捕・拘禁されたシェフチェンコはニコライ1世死去後の1857年恩赦を得たが、ほどなく死去した。しかし、死後彼はウクライナ民族運動と独立運動の象徴的存在となった

③クリミア戦争(1853年~1856年)後のロシアの改革;
東欧や地中海に進出しようとしたロシアを英・仏がトルコを助ける形で食い止めようとした大規模な帝国主義戦争であった。ロシアはクリミアのセヴァストーポリ軍港に黒海艦隊を置き、黒海、地中海進出の基地とした。英・仏・トルコ連合軍は、黒海艦隊を壊滅させる為にセヴァストーポリ軍港を守る要塞を攻めた。両軍合わせて20万人以上の兵が投入され、12ヶ月にわたる凄惨な攻防戦を行ったが最終的にロシアの敗北に終わった
この敗北の原因はロシア経済の後進性と農奴制にあり、ロシア指導層に深刻な打撃を与える結果となり、これを改革しなければ革命が起こるとの認識が広まった。そこで、レクサンドル2世(在位1855年~1881年)は、1861年農奴制を廃止すると共に、地方行政、教育、司法などの改革が行われた。当時ロシア全体では農民の約半分が農奴であった。しかしこの改革の結果、一部の豊かな農民と多くの貧しい農民を生み出す事となった

キリロ・メトディー同胞団」のメンバーだった知識人は、「フロマダ(社会)」という組織を作り活動を再開した。1861年、雑誌「オスノーヴァ(基礎)」を発刊した。コストマーロフは、この雑誌に「二つのロシアのナショナリティー」という論文を書いて、ロシアとウクライナは別の民族だと主張した。しかしロシア政府は再びナショナリズムに警戒を強め、1863年ヴァルエフ内相(1814年~1890年)は、「フロマダの解散、「オスノーヴァの廃刊ウクライナ語による教科書・宗教書の出版の禁止を行った

1876年の「エムス命令」により、「ウクライナ語の書物輸入の全面禁止」、「講演でのウクライナ語使用の禁止(歌もフランス語かロシア語に翻訳すること)」、「ウクライナ語新聞の発行禁止」、「ウクライナ語書物の学校図書館からの追放」、「ウクライナ関係団体の解散」、「ウクライナ運動活動家の追放」、などのかなり徹底したウクライナ民族弾圧を行った

「フロマダ」の主要メンバーだった思想家」ドラマホマーノフ(1841年~1895年)は「エムス命令」により追放され、ジュネーヴから雑誌フロマダを発行し、ロマンティックな愛国心ではなく「真のウクライナ愛国者は民主主義者であるべき」と説くと共に、ロシア、オーストリアのウクライナ人に愛国心の高揚を呼び掛けた

19世紀末~20世紀初頭にかけ、穏健派から過激派まで各種結社や政党が現れるようになった。最初のマルクス主義組織は、1893年に結成された「社会民主主義者のロシア・グループ」であった。1900年には、ロシア帝国内の最初の政党である革命ウクライナ党(RUP)」が地下政党として結成された。この政党はハルキウの学生を中心として、社会民主主義者とマルクス主義者からなっていた。一方、レーニンに影響されたグループは「ウクライナ社会民主連合(Spilka)」を作ったが、これは「ロシア社会民主労働党(後のロシア共産党のボルシェビキメンシャビキに繋がる)」のウクライナ版であった。また、マルクス主義者が抜けた「革命ウクライナ党」は「ウクライナ社会主義労働党(USDRP)」に引き継がれた

日露戦争敗戦後のウクライナの新たな民族運動
1905年1月、ウクライナ出身の聖職者・ガボン(1870年~1906年)に率いられて平和的に請願をしていた一団に警察が発砲し、多数が死傷した(血の日曜日事件)。この事件が契機となって各地にストライキが頻発した。軍においても反乱が起きたが、最も有名なものがオデッサ港で起きた「戦艦ポチョムキンの反乱である;
参考:セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の名作映画「戦艦ポチョムキン
この映画のあらすじ:1906年、ハルキウ生まれのウクライナ人・マティウシェンコに指導された水兵たち(大部分がウクライナ人)は、スト参加者への発砲命令を拒否して艦を乗っ取りルーマニアに逃走した。この事件はロシア海軍史上初めて艦船に赤旗が翻ったことから、ソ連時代にはロシア革命の先駆けとして称揚された
ニコライ2世の家族写真

この混乱状況に危機感を抱いたニコライ二世(在位在位1894年~1917年;1917年7月一家全員が射殺された)は、国民に全面的な市民権を付与すると共に議会(ドゥーマ)の開催を約束し、ウクライナに関してはエムス指令」による「ウクライナ語の使用制限」、「結社の制限が撤廃された。この結果、ウクライナ語の新聞が多数発行され、各地に結社が出来た。しかし、議会は何度も議員の選出を繰り返すうちに次第に保守化し、この議会の支持を得て政府は再び反動化した結果、ウクライナにおいても多くの団体が解散させられウクライナ語の出版物も姿を消した。これに合わせてロシアの左派政党もウクライナの民族主義を「裏切り分離主義」、「マゼッパ主義」として非難し、ウクライナの自主性を認めようとしなかった

<オーストリア帝国に於ける民主化、ウクライナ・ナショナリズムの動き>
ハーリチナ州がオーストリア帝国の支配下に入った時期は、マリア・テレサ女帝(在位1740年~1780年)及びヨーゼフ2世(在位1780年~1790年)の治世化で啓蒙主義の時代に当り、ロシア帝国に比べれば恵まれていた
18世紀末には、「拷問の禁止を含む刑法改正」、「農奴の実質廃止(賦役の制限、結婚の自由、職業変更の自由)」、「リヴィウ大学の設立(ウクライナの最初の大学)」などの改革が行われた
ヨーゼフ2世の死後、改革気分は後退し農奴制もかなりの程度復活した
1848年のフランスの「二月革命(パリを中心とする民衆運動と、議会内の反対派の運動によって、ルイ・フィリップの王政が倒れ、共和政が成立した)」の影響を受けてオーストリア帝国では、長年の鬱積が爆発し、首都ウィーンの学生・市民は民主化を要求し、各民族は自治や独立を要求した帝国の瓦解を防止する為、それまで長く民族主義を抑圧してきたメッテルニヒ(1773年~1859年)は解任され、「検閲の廃止」、「立憲議会招集の約束」、「農奴制の完全廃止」、などの改革が打ち出されたフランスの2月革命

ハーリチナ州でも、1848年に最初のウクライナ人の政治組織最高ルテニア評議会が設立され(ルテニア人とはルーシ人をラテン語化した言葉でオーリア帝国内のウクライナ人は「ルテニア人」と呼ばれていた)、「ルテニア人はポーランド人やロシア人とは違う民族で、ハーリチ州に250万人住んでいる」との宣言を行った。またオーストリア帝国で最初のウクライナ語新聞を発行した
1870年代には民族主義的な多くの組織が結成された
1890年、作家イワン・フランコ(1856年~1916年)らによって「ウクライナ急進党が設立され、近代ウクライナ史上初めてウクライナの統一・独立を標榜した

<ウクライナ人のロシア帝国内、外国への移民>
ロシア帝国内の農民は、1783年以降移動の自由を奪われ、より自由なドン川河口地域や南のクバン地方に逃亡するウクライナ人も多かった。現在これらの地域の住民はウクライナ人が大部分だと言われている。ソ連の最後の大統領であるゴルバチョフ氏はドン川南部の生まれであるが、祖先を辿るとウクライナのコサックであったとされている
農奴制廃止に伴い、貧しくなると共に人口増加によって失業したチェルニヒフ県を中心とするウクライナの農民が、大挙してロシア帝国内の他の地域に移民した。1896年~1906年にかけて約160万人のウクライナ人が、ウラル山脈以東の中央アジア、シベリア、極東に移民した。1914年には、ロシア極東地方では、ロシア人の2倍となる200万人のウクライナ人が定住していた

オーストリア帝国内における1848年の農奴解放は、高額の税金、農業生産性向上に伴う人口増加により、必ずしも農民の生活はを楽にならなかった。そこで、農民が活路を見出そうとしたのが「新大陸への移民」であった。1880年代より移民が始まり、当初はアメリカ北東部の工業地帯に向かった。19世紀と20世紀の境目の頃には、カナダ、米国の農業地帯がウクライナと似ていることからこの地域への移民が急増した。1880年~1912年の間、ハーリチナ州から43万人ザカルパチア州から17万人が移民した。現在、米国には150万人、カナダでは100万人のウクライナ移民がいると言われており、彼らは第一次世界大戦時にウクライナ独立運動を支持したり、ウクライナの飢饉の時は世界に情報を発信したり、第二次大戦後の冷戦時にはソ連と戦うウクライナ人パルチザンの援助を行ったりしている

<穀倉地帯の変貌とオデッサの隆盛>
18世紀末以降、ドニエプル川流域及び南ウクライナのステップ地帯は、裕福な貴族、資産家などにより大規模に開墾され、専ら輸出を目的としたビジネスが花開いた。因みに、19世紀初めのステップ地帯で農地は80万ヘクタールだったのに対し、1860年代には600万ヘクタールに急拡大し、ロシア帝国最重要の穀物生産地になった。1909年~1913年の間、穀物の輸出額のうち、小麦については98%トウモロコシについては84%ライ麦については75%ウクライナから輸出された。小麦以外にも、換金作物として大きな経済的意味を持ったのがサトウダイコンの生産と砂糖精製工業だった。その他、タバコウオッカの生産もウクライナの主要生産物及びその加工品である

主に穀物の輸出の為オデッサミコライウヘルソン、などの港が18世紀末から建設され急速に発展した。最大の港がオデッサであった。ロシア帝国最初の鉄道は、オデッサとポディリア地方を結ぶ路線であった。1847年には、全ロシアの穀物輸出の半分以上がオデッサ港から積み出された。また、オデッサはロシア帝国にとって世界への南の窓になった

<産業革命による急速な工業化>
ウクライナにおける近代化、工業化の先駆けとなったのは鉄道建設であった。19世紀後半にはヨーロッパ全体に鉄道ブームが起こり、ロシア帝国もその例外ではなかった。鉄道の建設と運航には鉄と石炭が必須であり、帝国内ではドンバス地方で大炭田が発見され石炭発掘産業が急発展した。1880年には250以上の炭田が稼働し、帝国全体の43%の石炭を生産した。1880年代には製鉄業のブームが起こりクリヴィーリフの鉄鉱山で採掘される鉄鉱石を使用して、ドニエプル・ドンバス地方に大製鉄業地帯が出現した。鉄鉱石の生産については、1890年~1900年の間に158倍に増加した

ウクライナの重工業が急成長すると、工場労働者として多くのロシア人が工場地帯に流入した。ウクライナの農民については、都市の住民がロシア人、ポーランド人、ユダヤ人が多く言葉の問題で居心地が悪かった為それほどくは流入しなかった。この結果、ウクライナにおけるロシア人の人口は300万人まで急増しウクライナ全人口の12.4%となった都市におけるロシア人も急増し、19世紀末ドニエプル川流域では34%となり、特にミコライフハルキウキエフの各都市では人口の半分を超えていた。
③1860年には8万2千人だった工場労働者は1914年には630万人に増加した

10.第一次世界大戦とウクライナの独立
第一次世界大戦の期間、ウクライナは大国間の戦争に翻弄され、つかの間の独立を果たしたものの迷走を繰り返し、最終的にソ連に組み込まれていった
このウクライナの混迷を理解するには、以下の基礎の基礎的な知識が必要になります;
<第一次世界大戦 クイックレビュー>
1914年7月28日~1918年11月11日にかけて、連合国協商国(中央同盟国)との間で繰り広げられた世界大戦
ウクライナ独立に関わる同盟関係
連合国(主な国):ドイツ、オーストリア
協商国(主な国):フランス、イギリス、ロシア

2月革命1917年3月(ロシア暦暦2月)ロマノフ王朝が倒され第一次臨時政府西欧型の立憲民主政治を志向した。同年4月20日に外交では連合国から東部戦線維持の要求に臨時政府外務大臣となったミリュコーフは敗戦前提の停戦を求める庶民や兵士の世論を無視したミリュコーフ通牒と呼ばれる書簡を送り、ロシアは連合国側と単独講和しないこと・戦争継続の約束を行った。その後に社会革命党のケレンスキーを大臣会議議長(首相)とする第二次連立政権が成立する。カデット(「人民民主党」:立憲主義を目指していた)政府内の社会主義者(「メンシェビキ」:社会革命党)との溝は深まっていった。それでも第三次連立政権でも社会主義勢力は有産層との連携のために閣僚を出していた。第三次連立政権ではレーニン率いるボリシェビキは、少数の革命家が労働者や農民を率いる社会主義国家にする必要があると主張していた
10月革命:1917年11月7日(ロシア暦10月):ボリシェヴィキがクーデターで政権を奪取

<第一次大戦中組織されたウクライナの政治・軍事組織の纏め>
西ウクライナ(オーストリア領):1917年8月8月、ウクライナ人は「全ウクライナ評議会」を結成、オーストリアがロシアに勝てば独立が果たせるとオーストリア側の義勇軍呼びかけに応じてオーストリア正規軍に加わった ⇒ ウクライナ・シーチ射撃隊
東ウクライナ(ロシア領):1917年3月ウクライナ人による中央ラーダ(会議・評議会を意味する)結成、この議長にミハイロ・フルシェフスキーを選出した ⇒ 6月「自治宣言」を行う。軍事部門はペトリューラが担当 ⇒ ロシア10月革命 ⇒ 11月「ウクライナ国民共和国創設宣言」を行う ⇒ 英・仏は「ウクライナ国民共和国」を承認 ⇒ 12月ボリシェヴィキは「国民共和国」を承認するかわりにウクライナ内でボリシェヴィキ軍の自由行動を認めることを要求 ⇒ 「ウクライナ国民共和国」はこれを拒否ボリシェヴィキと敵対関係中央ラーダ軍結成ウクライナ・シーチ射撃隊、自由コサック民兵団、ロシアに捕虜となっていたハーリチナのウクライナ人部隊、学生の部隊、などで構成)

ディレクトリア軍
:1918年11月、ドイツ軍は連合国に敗れ第一次世界大戦終結ドイツ軍ウクライナから撤退ウクライナ国民共和国の生き残りがディレクトリア(指導部)なる組織を作り傀儡政権「ウクライナ国」を壊滅させた ⇒ 1919年1月、東西ウクライナ共和国の合同 ⇒ ウクライナ軍
パルチザン軍:ロシア、オーストリア支配地内での小グループの非正規軍(ウクライナ人)

<ウクライナでの戦闘に参加した国>
同盟軍4ヶ国中ウクライナでの戦闘に参加した国;
オーストリア・ハンガリー皇帝軍
帝国内のウクライナ軍:ウクライナ・シーチ射撃隊
帝国内のポーランド軍
協商軍15ヶ国中、ウクライナでの戦闘に参加した国は以下の国
ロシア軍
@2月革命前のロシア皇帝軍
@2月革命後のロシア連立政権の軍
@2月革命後のロシア皇帝軍の残党:デキニン軍(通称「白軍」)

@10月革命後のボリシェビキ軍(紅軍)
フランス軍

<戦況推移>
1917年12月ハルキフでウクライナ・ソヴィエト共和国樹立。「ウクライナ国民共和国」軍とボリシェヴィキ軍の壮絶な戦闘開始
1918年2月、「ウクライナ国民共和国」軍キエフから130キロ西方のジトーミル撤退
1918年2月、ブレスト・リトウスクで行われていた同盟国とボリシェヴィキとの和平会議に「ウクライナ国民共和国」は代表団を送り独自にドイツ、オーストリーと交渉を行い、この2国と講和条約を締結した、講和の条件;
①ドイツ、オーストリアは「ウクライナ国民共和国を支援してボリシェヴィキと戦う
ウクライナ国民共和国」はドイツ、オーストリアに100万トンの食糧を供給する ⇒ ドイツ・オーストリア軍は45万の兵力をウクライナに進駐(ドイツは「ウクライナ国民共和国」)の行政に不満を持った
1918年4月、ドイツ軍が「中央ラーダ」会議室に乱入し、「中央ラーダ」を解散させた地主やロシア人による傀儡政権「ウクライナ国」樹立
1918年10月、オーストリア軍崩壊開始 ⇒ 西ウクライナでは独立の動きが活発になったが、相手は西ウクライナを併合しようとしたポーランド軍に変わった ⇒「ウクライナ国民ラーダ」を結成し、ハーリチ・ブコヴィナ・ザカルパチアの国民国家設立を宣言 ⇒ リヴィウの市庁舎を占領 ⇒ 11月「西ウクライナ国民共和国樹立
1918年11月ポーランドは指導者・ビウスツキが軍最高司令官及び初代大統領に選ばれ、ポーランド政府を樹立した
1918年11月、リヴィウでは人口の多いポーランド人との戦闘が始まり、「西ウクライナ国民共和国」は100キロ南東のスタニスラヴィウに撤退
1918年11月ドイツ軍は連合国に敗れ第一次世界大戦終結 ⇒ ドイツ軍ウクライナから撤退 ⇒ ウクライナ国民共和国の生き残りがディレクトリア(指導部)なる組織を作り、傀儡政権「ウクライナ国」を追撃
1918年12月、傀儡政権「ウクライナ国」軍を崩壊させキエフに入城 ⇒ ディレクトリア政府軍はキエフに「ウクライナ国民共和国」を復活。フランス軍、東西ウクライナ占領
1919年1月東西ウクライナ共和国の合同実際は別々の政府が並立している状況
1919年2月ディクトリア政府キエフから撤退
1919年4月フランス軍は、パルティザンに苦しめられウクライナから撤退
1919年7月ディレクトリア軍と西ウクライナはリヴィウ南西200キロでカミアネッツ・ボディリスキーで合流したものの、東にボリシェヴィキ軍、西にポーランド軍に責め立てられ苦境になった。しかし、ボリシェヴィキ軍はデニキンの白軍に責められた崩れ出したディレクトリア軍はボリシェヴィキ軍を追撃し8月末にキエフに入城したが、同時にデニキンの白軍もキエフに入城したため、ディレクトリア軍はキエフを撤退した
1919年8月デキニン軍キエフ占領
1919年10月ウクライナ軍は、チフスが大発生して兵員の70%を失い壊滅ディクトリア政府はポーランドに避難西ウウライナの指導者達はウィーン亡命した
1920年2月、ボリシェビキ軍キエフからデキニン軍駆逐
1920年4月、ディクトリア政府のペトリューラ、ポーランドと同盟条約締結 ⇒ ペトリューラ・ポーランド同軍盟キエフ占領
1920年8月ボリシェビキ軍キエフ奪還、7月~8月ボリシェビキ軍ウクライナの大部分を制圧
1921年8月、ボリシェビキ軍ロマノフ軍(白軍の残党)を壊滅
1922年12月ソヴィエト社会主義共和国連邦成立(通称「ソ連」)ウクライナも連邦を構成する国の一つとなった

11.ソ連の時代
第一次大戦後、戦勝国と敗戦国の間で行われたウクライナの分割に関わる条約;
①ベルサイユ条約
条約当事者連合国ドイツ帝国
署名:パリ郊外のベルサイユ宮殿で1919年6月28日署名
②サンジェルマン条約;
約当事者連合国オーストリア共和国(オーストリア・ハンガリー帝国は大戦終了前に解体)
署名:パリ・サン=ジェルマン=アン=レーで1919年9月10日署名
③ポーランド・ソビエト・リガ平和条約;
条約当事者ポーランド共和国ロシアボリシェヴィキ)、ウクライナ・ソヴィエト共和国1917年12月、ボルシェビキの指導によりハルキウで設立)
署名:リガ(現ラトビア)に於いて1921年3月18日署名

これらの条約によりウクライナは以下の4ヶ国に分断された;
大戦前ロシア帝国オースリア・ハンガリー帝国
大戦後;
①ロシア(ボリシェヴィキ)
②ポーランド:東ハーリチ、北西部のヴォルイニ、ポリシア
③ルーマニア:プコヴィナ
④チェコスロバキア:ザカルパチア

              第一次大戦後決まった国境

レーニン指導下のウクライナ(1921年~1924年)>

レーニン

当初、内戦の影響と、農業の急速な集団化により農業生産量が減った上に、食料不足に悩むロシア本土に送るために強制的な食糧徴発を行ったためにストライキや農民反乱が頻発すると共に、食料不足による死者が推定100万人に上った
そのため、1921年に社会主義政策を一時中断し「新経済政策という自由主義経済を復活させた。集団農場も中止、国有化された土地は貧農に分配され、納税の上で余った農産物を売ることも出来るようになった。また、産業面でも個人企業や外資導入も復活させたことにより、ウクライナ経済は瞬く間に復活した。ただ、民営化されなかった重工業は落ち込んだままであった

1923年、ソ連全体に「土着化」政策を行った結果、ウクライナもウクライナ語の使用が奨励されると共に、政府職員、共産党員のウクライナ人比率が劇的に上昇した。また教育のウクライナ語化、新聞や書物のウクライナ語化が進められたことにより、文化・文学が一斉に花開き、「文化ルサンス」といわれるようになった

スターリンの権力掌握とウクライナ_1927年~

スターリン

1924年レーニンの死後、権力闘争の末(トロツキー、ジェノヴィエフの追放)権力を握ったのはスターリンであった。彼はロシア中心の中央集権を志向し、ソ連邦内の自治拡大に反対であったため、民族主義の強いウクライナにとりわけ猜疑心を抱いていた
また、外国の脅威からソ連を守ることが至上命題であることから、いかなる犠牲を払っても近代化・工業化した社会主義国を築き上げる為に「数次にわたる5ヶ年計画と農業集団化を確実に実行することを政策の柱にした

第一次5ヶ年計画(1928年~1932年)では、ウクライナは最重点地域であった。因みに、ソ連全投資額の20%がウクライナに向けられ、ドニエプル川のダムと水力発電所、ザポリージャの製鉄工場、ハルキウのトラクター工場はヨーロッパ最大級のものであった。ドンバスからドニエプロペトロフスク、クリヴィーリフに至る地域はソ連最大のコンビナートとなったこの結果、ウクライナ人の都市への移住が起こった。革命前の工業化の際は、ロシア人とユダヤ人が労働者として連れて来られ都市住民になったが、今回はロシアも労働力不足で余裕がなく、農村のウクライナ人が工場労働者として使われ都市住民になった。この結果、ウクライナ人の都市住民は1926年に6%に過ぎなかったものが、1939年には30%にまで増加した

農業集団化と大飢饉
スターリンの考える社会主義実現の為には、早急な工業化が必要でありその為機械輸入の外貨獲得の手段は穀物の輸出であった。そしてこの手段として1929年から強制的に「農業集団化(コルホーズ)」が行われた。農業の集団化とは自作農民を強制的に国営農場の一員とすることであった。この結果、集団農場入りを余儀なくされると、農民は自分の家畜を屠畜し食用、乃至売却した。その結果、1928年~1932年の間にウクライナは家畜の半分を失った。抵抗する者は逮捕されシベリア送りになった。「クラーク(強欲者)」と呼ばれた比較的豊かな農民は、農民のブルジョアであり人民の敵として収容所送りや処刑されるなど徹底的な弾圧を受けた。この結果、1932年では農家の集団化率は3.4%であったのが、1935年には91.3%となった

1930年のウクライナの穀物生産は2千100万トンであったが、不作となった1931年、1932年には1千400万トンに留まったにも関わらず、この間年間の政府調達量は7百60万トンと変わらなかったことから大飢饉(ホロドモール:「ホロド」は「飢え」、「モール」は「苦死」を意味する)が発生した。農民はこの調達に抵抗したものの、党の活動家には穀物を農家から強制的に押収する法的な権利が与えられ、更に穀物を隠している者を死刑にする法律が制定された。農民はパンが無く、ネズミ、木の皮、草だけでなく人肉食いの話も多く伝わっている
この人為的な飢饉によりどれだけ餓死者が出たかは、ソ連政府が隠しているためよく分からないものの、独立後のウクライナの公式見解によれば、ウクライナ共和国内で350万人が餓死(出生率の低下を含めると500万人減)に達し、更にカフカス在住のウクライナ人については、約100万人が餓死したと言われている。因みに、北カフカス出身のゴルバチョフ氏によれば、自分の住んでいた村でもこの飢饉で三分の一が死んだと語っている
尚、1930年のプラウダ(ソ連共産党機関紙)には、「ウクライナにおける集団化はウクライナ民族主義(個人農家)の基盤を破壊するという特別な任務をもつ」と書かれており、この大飢饉が人為的であったことを裏付けている

<第二次世界大戦とウクライナ
第二次世界大戦に伴うウクライナ関連の戦況それ;
1938年9月、ミュンヘン会議チェコ・スロバキア領のズデーデン地方の併合が認められた。その結果、同国のデカルパチアは自治を認められることになった。デカルパチア自治州は「カルパト・ウクライナ」と改名されることとなり、ウクライナ語が使用言語となった。また、「カルパチア・シーチ」という独自の軍隊も創設された
しかし、1939年3月1日ドイツ軍はプラハに侵入しチェコ・スロバキアは消滅し、ザカルパチア自治州は、ドイツの同盟国であるハンガリーに与えられた。ハンガリーに与えられることが明白となった時点で、自治州の議会で独立宣言を行ったものの、数時間後ハンガリー軍に占領された。自治は数ヶ月、独立は数時間であった

1939年8月23日ソ不可侵条約が締結され、その条約の秘密協定で独ソ両国はポーランドを解体して西半分をドイツに、東半分をソ連が占領することになった。ソ連は9月17日からポーランドに進撃しポーランド東半分を占領した。同年11月にはウクライナ人の居住する東ハーリチナ西ヴォルイニ西ポリシアは、形式上の住民投票を経てウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国に編入された
1939年9月3日、英仏両国はドイツに宣戦布告し第二次世界大戦が勃発した

1940年6月ソ連はルーマニア領の北プロヴィナ、ベッサラビアを併合した。その内、ウクライナ人が居住する北プロヴィナ南ベッサラビアウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国に編入された。ルーマニア人が居住する北ベッサラビアはウクライナから切り離され、「モルダヴィア・ソヴィエト社会主義共和国(現在のモルダヴィア共和国)」となった

④1941年6月22日、ドイツは独ソ不可侵条約を一方的に破棄しソ連に奇襲攻撃(バルバロッサ作戦をかけた。不意を突かれたソ連は大混乱を起こし後退したが、その後退の過程で東ウクライナの住民380万人(1千万にという説もある)と、850の工場の設備をウラル以遠に退避させた。移動できない工場施設、鉄道、水力発電所は破壊され。ドネツクの大部分の炭鉱は水浸しにした。ウラル山脈の都市ウファはウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の首都となった。1941年11月、全ウクライナはドイツの占領下に入ったドイツは東部戦線に於いて食料と労働力の供給源としてウクライナを重視、ドイツがソ連占領地域から徴発した食料の85%はウクライナからのものであった。ドイツは「オストアルバイター(東方労働者)」と称してドイツに強制連行し過酷な労働を強いた。こうした労働者は全体で280万人と言われるが、内230万人はウクライナからの労働者であった。
ユダヤ人に対する措置は過酷を極め、ユダヤ人狩りを行って強制収容所に送られ、大部分が殺害された。強制収容所に送られる前に殺される例も多く、中でも「バービ・ヤール事件」として語られているものは;1941年9月ユダヤ人3万4千人がキエフ郊外の谷間(バービ・ヤール)に集められ射殺された事件である。ドイツは、ウクライナの地で85万人~90万人のユダヤ人を殺したと考えられる

西ウクライナでは、当初ドイツ軍は対ソ戦争の道具として利用するとの観点からウクライナ民族主義者に融和的な態度を見せたが、次第に弾圧する方向に向かった。ウクライナ民族主義者組織(OUN)を中心としてドイツ軍の中にウクライナ民族主義者部隊が作られたが、1941年6月30日に彼らはドイツ軍の了解の無いままにリヴィウでウクライナ独立宣言をした為に首謀者はゲシュタポに逮捕され、その他の民族主義者は地下に潜った

ウクライナ人による対独パルチザン活動はドイツのウクライナ侵攻後すぐに始まっている。活動場所は見晴らしの良いステップ地帯を避け、北西部ヴォルイニの森林地帯北部ポリシアの沼沢地帯南西部カルパチア山脈地帯がその活動拠点となった。
1941年夏には、タラウ・ブルバ・ホロヴェツ(1908年~1981年)によりヴォルイニにおいてウクライナ蜂起軍(UPA)が組織され、ペトリューラの流れを汲む「ウクライナ国民共和国」の亡命政府と連携を保っていた。OUNの各派もそれぞれUPAを作り、ロマン・シュヘイヴィッチ将軍(1907年~1950年)が司令官を務めたUPAは住民の支持を得て、1943年には4万の兵を擁していた(1944年の最盛期には10万の勢力になったという説もある)。
一方、ドイツ占領地域での攪乱と、ソ連軍の帰還を準備するため赤軍パルチザンを組織していたが、UPAはこの赤軍パルチザンとも激しく戦った。第二次大戦の勝者となったソ連は民族主義者のパルチザン活動を無視するか、ナチの手先だとした

1943年1月のスターリングラード攻防戦が独ソ戦の転換点となった。同年夏反撃に出たドイツ軍を「クルクスの大会戦」で破ったソ連軍は一気に失地を回復していった。1943年11月にキエフを回復した。1944年7月、西ウクライナのブローディーで6万のドイツ軍を全滅させた。ドイツ軍の中にはウクライナ人からな成る1万のハーリチ師団が含まれていた。内2千人は逃れ、その多くはUPAに参加した。1944年10月、ソ連軍はウクライナ全土を占領した
UPAソ連に対しパルチザン型戦闘を継続した。ソ連は、ベルリン陥落後UPA掃討のため全力をあげたものの、その戦いは1950年3月まで続いた。また、UPAの活動はポーランド領内でも行われていたが、1947年ポーランド国防次官を待ち伏せして殺害したことを怒ったポーランド政府により「ヴィスワ作戦」の下に軍民双方の掃討作戦により概ね殲滅された

ヤルタ会談と戦後処理
1945年2月クリミア半島のヤルタにあるロマノフ王朝のリバディア離宮(1860年代のアレクサンドル2世が皇后の健康の為に建てた)で米・ルーズベルト大統領、英・チャーチル首相、ソ連・スターリンの3人で第二次世界大戦の戦後処理が話し合われた。ウクライナに関わる合意事項は;
ポーランドの国境画定ソ連は1939年のポーランド分割で得た領土を概ね獲得した。これにより、リヴィウを含む東ハーリチはソ連領。ポーランドはオーデル・ナイセ川以東のドイツ領を獲得
ソ連領のウクライナとベラルーシの国連加盟を認める
戦争捕虜や強制労働の為にドイツに送られていたオストアルバイターを本国に送還する 1945年末までに約200万人のウクライナ人が帰国したが、帰国してソ連官憲の手に渡ることを拒否して輸送中の船から海に飛び込む者も多数居たと言われている。帰国後、万単位の者が処刑され、35万人が政治的危険分子として中央アジアや極東地域に送られた。1947年連合国はソ連のこのやり方を知ると本国送還を中止した。この内25万人が西欧諸国に残りその数年後にはアメリカ、カナダに移民した

1945年5月、ドイツ軍が降伏によりヨーロッパにおける第二次大戦は終結した。この戦争でウクライナ人530万人が死亡した(太平洋戦争における日本人の死者は310万人)が、ソ連軍の中には200万人のウクライナ人が含まれ、ドイツ軍の中にも30万人のウクライナ人が含まれていた。ウクライナ人は互いに敵味方になって戦ったことは第一次世界大戦と同様であった
多くの民族主義者の自己犠牲的な活動があったものの、今回も独立は実現しなかった。しかし、膨大な人命と損害の代償としてウクライナの領土は拡大した;
ポーランドから「東ハーリチルーマニアから「北ブコヴィナ南ベッサラビアハンガリーから「ザカルパチア」を獲得した。これにより、大戦前4ヶ国の支配下にあったウクライナ人居住区は殆ど全てウクライナ共和国に纏められた

国境線変更に伴い、従来の支配地域に残された民族が少数民族化することになり、この少数民族問題が第二次世界大戦の引き金となったことを教訓として、東ヨーロッパ各地で民族の交換が行われた
ウクライナとポーランドの間では、かつてのウクライナに住んでいたポーランド人130万人がポーランドに旧ポーランド領内のウクライナ人50万人がウクライナに移住した

スターリン後のウクライナ
フルシチョフの時代;
1953年3月、スターリン死去後に権力闘争を勝ち抜いたのはフルシチョフ(1894年~1971年)であった。フルシチョフは、非スターリン化の名の下にソ連邦内の全てで統制を緩め、民族・文化活動を自由にした

フルシチョフはウクライナ人ではなかったが、若い頃はドンバスで金属工として働き、共産党の官僚になってからも長くウクライナで過ごしている。戦時中は赤軍パルチザンの組織作りに関わり、戦後は経済の復興と西ウクライナのソ連への統合、特にUPA対策を指揮した。権力闘争の中でフルシチョフを最初に支持した党はウクライナ共産党だった。彼はウクライナ共産党第一書記に初めてウクライナ人を任命し、以後このポストは例外なくウクライナ人になった。また、ウクライナ共和国の最高会議議長、首相もウクライナ人になった。ソ連共産党政治局員11人のうち4人がウクライナ人という時期もあった。軍人でも3人が元帥に昇進し、内2人は国防大臣になった

1945年5月、ドイツ軍が降伏によりヨーロッパにおける第二次大戦は終結した。この戦争でウクライナ人530万人が死亡した(太平洋戦争における日本人の死者は310万人)が、ソ連軍の中には200万人のウクライナ人が含まれ、ドイツ軍の中にも30万人のウクライナ人が含まれていた。ウクライナ人は互いに敵味方になって戦ったことは第一次世界大戦と同様であった

ブレジネフの時代;
1964年フルシチョフは失脚し、レオニード・ブレジネフ(1906年~1982年)か権力を掌握した。彼はウクライナ東部ドノプロジェルジンスクに生まれた。ソ連工業の中心地の一つであるドニプロペトロフスクで、夜勤技師として、また共産党官僚として活動し頭角を現した

ブレジネフの時代は、民族主義文化を危険視し反体制派たちにも厳しく対応した。一方、ウクライナの地ではウクライナ共産党第一書記であったペトロ・シュレスト(在任1963年~1972年)は民族主義文化を称揚する政策をとった。しかし、ウクライナ・ナショナリズムに甘く、経済ローカリズムを助長したかどで失脚した。その後任のォロディーミル・シチェルビッキー(在任1972年~1989年)下では、ロシア語の使用が奨励され、ウクライナ語の使用は妨害された。その結果、1969年~1980年の間にウクライナ語の新聞は46%から19%に減少した。また1958年~1980年の間にウクライナ語の出版は60%から24%まで減少した

経済の状況は停滞し、ウクライナの第5次5か年計画(1951年~1955年)では13.5%の成長率を達成したのに対し、ブレジネス時代最期の第11次5か年計画(1981年~1985年)での成長率は3.5%に落ちてしまった
工業化と都市化の為に深刻なエネルギー不足が起き、ドニエプル川に巨大なダムが次々と建設されドニエプル川は巨大な人造湖の連続になってしまった。それでも電力は足らず、1970年代にチェルノブイリなど数ヶ所に原子力発電所が建設された
ウクライナは工業が主要産業になったが、ウクライナがソ連の穀倉であることに変わりは無かったが、官僚統制による不効率勤労意欲の減退などによりブレジネス時代の後期にはソ連の穀物輸入が常態化する様になった

ウクライナの社会構造は大きく変わり、工業化により都市化が促進し都市人口は全人口の55%に達すると共に、ロシア人のウクライナへの流入は加速し、1926年には300万人だったロシア人は、1979年には1千万人となり全人口の20%を超えた

ブレジネフ時代に強まったのは反体制の動きである。1975年7月、欧米35ヶ国がヘルシンキに集まってヨーロッパ安全保障会議(CFCE)が開催され、「国境尊重」、「信頼醸成措置」、「人権擁護」などを謳った「ヘルシンキ宣言」が採択されソ連もこの宣言に参加した。この人権擁護条項こそソ連体制を内部から突き崩す大きな原動力になった

12.ウクライナの独立

ゴルバチョフ

1985年、ゴルバチョフ(1931年~2022年8月30日死去)がソ連共産党の書記長に就任した。彼は、抜本的な改革を行えば共産党の支配するソ連というシステムは存続し得ると考え、「グラスノスチ(情報公開)」と「ペレストロイカ(再建)」を両輪とする政策を開始した。しかし、グラスノスチのみが先行し、ペレストロイカは既得権益の抵抗にあって遅々として進まなかった。ゴルバチョフの意図に反してグラスノスチは批判を許すインセンティブとなり結果として民族主義に火をつけてしまった。これがソ連の解体を招くことになった

ウクライナでソ連体制に対する不信が最高に高まったのは、1986年4月26日、チェルノブイリ原子力発電所・4号炉の爆発であった。この爆発で192トンの核燃料の内4%が大気中に放出され、多くの死者と多数の放射線の後遺症に悩む人が発生した

チェルノブイリ原発・事故直後の写真

事故の規模もさることながら、事故の公表が4月28日まで伏せられたことが災害を一層悲惨なものにしたことは間違いなかった。ウクライナはソ連第一の重化学工業地帯と誇ってみても、気が付けば工場・鉱山の排出する汚染物質は垂れ流しで、ウクライナの南部、東部はソ連有数の汚染地帯となり、住民の健康問題が深刻になっていた

ウクライナにグラスノスチが浸透してくると、1932年~33年のホロドモール、1930~40年代の保安警察によって殺害されて人々の大規模な墓場などが国民に公表されることになった。そのため、これまで批判の対象だった17世紀のイヴァン・マゼッパの「ウクライナ自治の要求」や、第一次世界大戦時の「ウクライナ共和国」宣言(1919年1月)なども正当な民族の渇望の現れと評価されるようになった
ウクライナ語復権の動きも高まり。1989年には「ウクライナ言語法」ができ、ウクライナ語が国語となった。長い間禁止されてきた「ウクライナ国旗」、「ヴォロディーミル聖公の三叉の鉾」、「ウクライナ国歌(後述)」

ウクライナ国旗と三叉の鉾

も公然と使われるようになった
また、禁止されていたユニエイト教徒も、ヴァティカン市国や米国の後押しもあり、1987年より公然と活動する様になった。1989年ゴルバチョフがヴァティカン市国を訪問したのを機に、ソ連はようやく「ユニエイト教会を合法化した。また、1930年以来スターリンによって禁止されていた「ウクライナ独立正教会」も合法化され、1991年には「ウクライナ正教会」となった。

この様な状況下、1972年よりウクライナの民族主義を長く抑圧してきたォロディーミル・シチェルビッキー(ウクライナ共産党第一書記)が解任され、ウクライナの民主化が加速されるようになった。
1989年、「ペレストロイカの為の国民運動ルーフ/ウクライナ語の運動という意味)」が結成され、人権少数民族の権利宗教の保護ウクライナ語の復権、などを要求すると共に、ソ連が主権国家の連合体になることを求めた
ルーフは新しい政治手法として公開の集会を度々開催した。集会には多くの人々が参加し、1990年1月には30万人(あるいは50万人)を動員してリヴィウとキエフを「人間の鎖」でつないだ

独立までの過程
1990年3月以降、独立達成までは以下の様に急速に歴史の歯車が回りだした;
1990年3月、ウクライナの「最高会議」の選挙が行われ、共産党は議席の約3分の2を占めたものの、ルーフの候補者が数々の選挙妨害にも拘わらず4分の1の議席を獲得した。この頃10万人単位で共産党を離党する状況になっていた
*1990年3月、リトアニアが独立、ソ連からの離脱を宣言
1990年7月16日、ウクライナ最高会議が「主権宣言」を行った(内容以下)。ただ、ソ連邦からの離脱は行っていない;
ウクライナの民の名を代表できるのは最高会議のみと記述。現存の国境でのウクライナ領は不可侵だと宣言。ウクライナの民のみが、ウクライナの国家の資源を管理し、利用し、使役できる権利を持つ
1990年7月23日、レオニード・クラフチューク最高会議・議長に就任
*1990年11月、ゴルバチョフ大統領(1990年3月以降)は新しい連邦条約草案を発表。1991年3月、その賛否を問う国民投票を行い、70%が賛成
1991年、ウクライナでは「主権国家ウクライナが主権国家連邦に加わるとの前年の最高会議の決議に賛成か」との質問に80%が賛成した
*1991年8月19日、モスクワの保守派は「非常事態」を宣言し、クリミアの大統領別荘で休暇を取っていたゴルバチョフ大統領を拘禁し権力移譲を迫るクーデターを起こした。クーデターはロシア最高会議議長エリツィンの抵抗であっけなく失敗した
1991年8月19日、クーデター側はキエフに使者を送りクラフチュークにクーデター支持を要請したが、彼は非常事態はウクライナでは適用されないと答えた。クーデターに対しては指示も不支持も表明しなかった
1991年8月24日、ウクライナ最高会議は、ほぼ全会一致で独立宣言」を採択した。また最高会議は、共産党をクーデターに加担したかどで禁止した。クラフチュークは共産党を離党した。後にこの日は独立記念日となった
⑨1991年9月、国旗、国歌、国章を法制化した
*ソ連を構成していた多くの共和国がウクライナに倣って独立宣言を行った
⑩1991年12月1日、ウクライナの完全独立の是非を問う国民投票と初代の大統領を決める選挙が行われ、90.2%が独立に賛成した。尚、ロシア人の多いハルキウ、ドネツク、ザボリッジア、ドニプロペドロフスクの各州でも80%以上が賛成であった。またロシア人が過半数を占めるクリミアでも賛成が54%を上回った
大統領選挙ではクラフチュークが62%の得票率で初代大統領に選出された
*ウクライナの独立でソ連は事実上解体した
*1991年12月7日~8日、ウクライナのクラフチューク、ロシアのエリツィン、ベラルーシのジュンケヴィッチの三首脳がベラルーシのミンスクミンスク郊外に集まり、ソ連の解体を宣言し、独立国家共同体(CIS)を結成した
*1991年12月21日、カザフスタンのアルマ・アタで11ヶ国首脳がCIS条約に署名した
*1991年12月25日、ゴルバチョフは大統領を辞任し、70年続いたソ連は消滅した

独立後のウウライナの政治情勢
独立後の情勢については、日本でも多くの人がウクライナの情勢に関心を持っていると思いますので、簡単な概況の説明に止めたいと思います;
①オレンジ革命;
独立後のウクライナでは親ロシア派EUが交互に政権交代してきましたが、
2004年の大統領選挙で親露派のクチマ・ヤヌコーヴィチと、EU寄りの野党ユシチェンコとの間で争われた選挙において不正があったとして大規模な抗議行動が起きました。野党支持者がオレンジをシンボルカラーとして、リボン、「ユシチェンコにイエス!(Так! Ющенко!)」と書かれたマフラーなどオレンジ色の物を使用したことからオレンジ革命と呼ばれている
再選挙の結果ユスチェンコ大統領が誕生した。尚、その時のユシチェンコとヤヌコーヴィチの選挙区別の得票率分布(下図参照)を見ると、現在まで続く新ロシア派と親 EU派の相克がよく分かる

2004年大統領選挙の結果_オレンジ・ユスチェンコ支持青・ヤヌーコビッチ支持

②マイダン革命
2014年当時、ウクライナは経済的な危機の状況にあり、当時のヤヌコーヴィチ大統領はEUの援助を受けるべく「EUと連合協定」を結ぶ協議を行なっていたが最終的に大統領はこの協定の署名を拒否し、目先の冬を越すために、ロシアに接近し、ロシアから数十億ドルに及ぶ融資協定を締結していた。しかしこれがマイダン革命に繋がる反政府デモを引き起こすことになった;
ユーロマイダンとは:ウクライナで起きた市民運動のことで「尊厳の革命」という意味
2014年2月中・下旬、首都キエフでユーロマイダンのデモ参加者と政府治安部隊の激しい騒乱事件が発生した

キエフに於ける騒乱事件

ウクライナの治安部隊はデモ活動の鎮圧に努めたが騒乱は収まらず、2月21日にヤヌコーヴィチ大統領と野党リーダーらが会談を行い危機回避の為に、憲法改正、及び大統領選の早期実施などを行うことになった。しかし、ヤヌコーヴィチ大統領は首都キーウを離れて東ウクライナに脱出した。最高会議はこれを職務放棄と見なし大統領の失職を宣言した。代わりに議会議長のトゥルチノフ氏が、大統領代行を兼務することになった
大統領選は5月25日に投票が行われ、新たに発足した暫定政権は EU協定の署名と国の司法制度・政治・財政・経済政策の改革に合意した。またIMFはこの改革の実行を条件に180億ドル以上の融資を約束した

マイダン革命の結果、ウクライナのドンバス地方(ドネツィク州、ルハーンシク州)ウクライナ軍と、親露派武装勢力との軍事衝突が発生した
更に、2014年3月、ロシアクリミアセヴァストポリ(クリミヤのロシア黒海艦隊の軍港)の三者が調印した条約に基づきクリミアのロシアへの併合が実行された

2022年2月24日、ロシア正規軍がウクライナ侵攻開始!
⇒ 戦闘進行中であり、必要により別途 Follow_Upする予定

Follow_Up;2022年11月14日のFNNオンライン・ニュースより;ウクライナの反転攻勢が続く中、首都キエフ近郊のボロジャンカでロシアの砲撃で崩れかけた壁に描かれたバンクシーの作品

Follow_Up:2023年2月24日日経新聞/続く消耗戦、描けぬ和平_プーチン氏、勢力圏固執

2023年2月21日時点の攻防
2022年2月24日~2023年4月の間の戦況

Follow_Up:2023年2月23日の国連総会・緊急特別会合における林外相の演説
同 英文版

おわりに

浅学な私が本やネット情報を集めて勉強した結果、「はじめに」で提題したウクライナ人の「愛国心」、「国民全体の士気の高さ」、「勇敢な兵士」、などの資質と「ロシアに対する怨み」について、ウクライナの歴史を辿ってみた結果、以下に集約できると確信しました;
紀元前700年頃~紀元前200年頃の間、ウクライナの地を支配していた勇敢なスキタイ人の遺伝子を受け継いでいること
862年~1243年の間、ヨーロッパ最強で、最大の版図をもったキエフ・ルーシ公国の中核の民族であり続けたこと
キエフルーシ公国が崩壊していく過程で、1173年~1340年の間、ウクライナの地でキエフルーシ公国の系譜を守り続けたハーリチ・ヴォルイニ公国で中核の民族であり続けたこと

勇敢なコサックの遺伝子を受け継いでいること、特に強国であったポーランドと戦い勝利して「コサックの国家」を建設したボフダン・フメリニッキー(1595年~1657年)の志を誇りに思っていること
参考:次のウクライナ国歌をお聞きください:ウクライナ国歌
ロシア革命が起こった1917年に独立を宣言したウクライナの民族主義者によって国歌に採用され、ソビエト連邦に併合されるまで使用された。ソ連から独立後、1992年に議会によりウクライナの国歌として復活し、2003年3月6日には最高議会でウクライナ国歌法案が成立。歌詞を一部修正の上、正式に国歌に採用された
歌詞の和訳
ウクライナの栄光は滅びず 自由も然り
運命は再び我等に微笑まん
朝日に散る霧の如く 敵は消え失せよう
我等が自由の土地を自らの手で治めるのだ
自由のために身も心も捧げよう
今こそコサック民族の血を示す時ぞ

スターリン時代の人為的な大量の飢餓死

今年7月20日に初版が発行された日本人の真価_藤原正彦の締めくくりに、以下の文章(抜粋)が載っていました;
ウクライナ侵攻の画像で、私が最も身につまされるのは避難民の姿である。18歳から60歳までの男子は出国を制限されているから、避難民の殆どは女性、子供、年寄だ。なけなしの物をリュックにつめ子供たちの手を固く握りしめて歩く母親。足を引きずる老妻の手をとりながら、ポーランドを目指して一歩一歩進むおじいさん。途中で親とはぐれたのか、泣きじゃくりながら歩く男の子がいる。
これはまさに終戦後、命からがらソ連軍から逃げのびて来た私たち一家の姿だった。寄り惨めな姿だったが
参考:終戦後の満州からの逃避行については、藤原てい(藤原正彦の母)のベストセラー「流れる 星 は 生き て いる」をご覧になって下さい

実は、私たちの家族や親戚も満州から引き揚げてくる過程で、ソ連の突然の侵攻により、藤原正彦氏と同じ様な経験をしております(詳しくは私の過去のブログ「生い立ちの記(生誕・抑留・引揚・困窮生活)」、「母方親族の戦争体験」をご覧ください)。日ソ交渉が戦後70年以上経っても進展しないことと併せ、どうしてもロシア人の指導者を好きになれない(庶民は別!)のはウクライナ人と同じかもしれません

以上

 

地球温暖化と日本のエネルギー政策

-はじめに-

見出し写真の左側は、先日のNHK首都圏ナビ「これが東京湾!? サンゴは忍び寄る温暖化の危機か 潜ってみた」で放映された千葉県鋸南町の勝山漁港付近の海底の様子(ネット上の画像を拝借!)です。この放送で吃驚したのは、私が学生時代に友人の実家(愛媛県宇和島市)に滞在した時に知った日本のサンゴの北限が宇和島市近辺の豊後水道に点在する島(名前は失念!)であるという事でした。それが今や東京湾口の海底にまで北進しているとは、、、
そもそもサンゴや熱帯魚が黒潮に乗って東京湾辺りまでやって来ることは稀ではないのですが、これが冬を越し定着するには冬の海水温が既に相当程度の期間に亘って高温化している証拠だと思います。今後、私の生きている間に食べ慣れた「江戸前の海産物」が食べられなくなると思うと今更ながら地球温暖化の危機が身に沁みます?
また、見出し写真の右側は、最近大きな問題となっているシベリアの永久凍土が解けてできた大規模な陥没現象の写真です(動画:バタガイカ・クレーター
シベリアの永久凍土は、北極地方の炭素保管庫と言われています。これが解けると温室効果ガスの二酸化炭素(以下CO2と表記)とメタンガスが大気中に大量に放出されるおそれがあります。因みに、地球上のメタンガスの50%が北極地方と北半球の永久凍土に貯蔵されています。メタンは二酸化炭素の25倍の温暖化効果があるとされています

以下は、出来るだけ客観的な視点で資料をあつめ纏めたものですが、一部、私の個人的な意見を書いてある部分があります。この部分については青字の斜体で表記し区別してあります
また、挿入されている画像類についてはクリックすることにより拡大して見ることが出来ます

温暖化に伴う日本の産業構造転換の必要性

COP26(地球温暖化関連の用語類については私のブログ「電動航空機の夜明け」で簡単に説明しています)で日本が世界に約束したことは(COP26での岸田首相演説から抜粋);
日本は2030年までにCO2排出量を46%削減し更に50%削減を目指す。2050年にはCO2排出量をゼロとする

本の温室効果ガス2050年までの削減目標

②  途上国の脱炭素化を支援する為に、先進国は5年間で最大100億ドルの資金支援を行う。因みに、2050年までに脱炭素を実施する宣言を行った国は下図の通りであり、排出量の多い中国、ロシア、ブラジルなどは宣言を行っていません

2050年までのカーボンニュ-トラルを表明した国

一方で、欧米先進国が行った2030年までに石炭火力発電所を全廃するという目標に対して、日本は2030年以降も使い続ける目標にしていることに対して、環境 NGO「気候変動ネットワーク」から温暖化対策に後ろ向きである国への不名誉な賞である「化石賞」を贈呈?されてしまいました
こうした状況について、COP26に参加した日本人の高校生が何で日本は地球温暖化に対して積極的になれないのか」と言って涙を流していましたが、日本はエネルギー資源に乏しいこと、ヨーロッパ諸国の様に国境を越えてエネルギーの調達が出来ないこと福島原子力事故以降原子力発電に頼ることが出来ない状況にあること、等について正しい理解をしていないことが原因であるような気がします
因みに、資源エネルギー庁のサイトからこれに関連する図表を引用してみると、

日本のエネルギー自給率_2018年
日本の電源構成の推移

現在の日本のエネルギー自給率が11.8%しか無いこと、電源構成でCO2を大量に発生させる化石燃料の割合が何と!77%であること、戦後日本の復興を支えた水力発電については日本において既に開発余地が殆ど無くなっていること(詳しくは私のブログ「エネルギーと環境と原子力と暮らし方」をご覧ください)、など日本の膨大なエネルギー需要を再生エネルギーなどで簡単に代替できると考えることは現実的ではありません。また石炭火力だけを取り上げても、2030年までに全廃することが容易ではないことはご理解いただけると思います
因みに、経済産業省のプランでは2030年時点で電源構成に占める石炭火力の割合は19%としていますが、原子力が現在の稼働状況のままでは、大きな地震が起きると長時間の停電が起こってしまう事や、熱海の大崩落の惨事が発生して以降、大規模太陽光発電の立地が難しくなっていることなどを勘案すると、この目標でもかなりハードルが高いと私は考えています(参考:メガソーラー建設に「待った」 災害・環境破壊で反発

しからば、2050年にCO2排出量ゼロという岸田首相の宣言の実行性についてはどうか?という点に関しては、私は十分可能であると判断しています。日本の基礎技術に関する実力と、産業界の卓越した技術開発力をもってすれば世界の脱炭素化革命をリードする役割を担えると考えています
以下は経済産業省のサイトより入手した比較的分かり易い日本の2050年までの脱炭素計画の内容を図示したデータです;

日本の温室効果ガス2050年までの削減方法

上図にある脱炭素の各種施策について以下に簡単な説明を行います;
水素還元製鉄:現在の製鉄方法を例にとると、酸化鉄を溶かしながら高温で還元する(酸化鉄から酸素を奪うこと)為に石炭から作ったコークスを使っています。因みに、現在日本の鉄鋼産業が排出しているCO2は製造業では最大で日本全体の排出量の13.9%に当たります;

2018年度 国内のCO2排出量シェア

コークスに代えて水素を使った還元は、水素の吸熱作用などの技術的な問題があり、実現までには相応の時間がかかりそうです(参考:「日本製鉄・高炉屋の魂 水素で未来ひらく」)
Follow_Up:2022年5月28日・JFE、車向け高級鋼を電炉で生産

② FCV(Fuel Cell Vehicle):水素と空気中の酸素を反応させて直接電気を作る燃料電池(Fuel Cell)をエネルギー源とする電動自動車のことで、既にトヨタとホンダから市販されています(私のブログ「電動航空機の夜明け」でも簡単な説明を行っています)が、現時点では高価なので普及には時間がかかりそうです

③ メタネーション、合成ガス:メタネーションとは、CO2と水素から「メタン」を合成する技術です。これによりエネルギー源として現在天然ガス(約90%がメタン)を使っている民生用のガスを含めカーボンニュートラル(排出される炭酸ガスと吸収する炭酸ガスを同じ量にする)が実現できます。その他の合成燃料を含め、詳しくは資源エネルギー庁のサイトをご覧ください
Follow_Up:2022年4月・排ガス・下水からエコ燃料
Follow_Up:2022年4月・東京ガス、合成メタンを製造

④ バイオマス(Biomass ):現在地球上に存在する生物由来のエネルギー源のことを指します。石炭、石油も生物由来ではあるものの、使用すれば遥か昔に地下に固定したCO2を排出することになるので脱炭素エネルギーにはなりません;
既にバイオマス発電は山間地などで導入が進んでいます。具体例を知りたい方は私のブログ「エネルギーと環境と原子力と暮らし方」をご覧になって下さい

⑤ 再生エネルギー:太陽光、風力、水力、地熱、などを指します。現状を詳しく知りたい方は私のブログ「エネルギーと環境と原子力と暮らし方」をご覧になって下さい

⑥ CCUS(Carbon dioxide Capture, Utilization and Storage):産業界で発生するCO2を回収し、利用することです。以下は、現在研究が一定の成果を上げている例です
CO2から化学原料を直接合成・排ガスは資源の実証めざす
CO2の燃料転換に希望

⑧ DACCS(direct air capture with carbon storage):大気中にすでに存在するCO2 を直接回収して貯留する技術。 詳しくはネット上のブログ「大気からCO2を吸収する技術」をご覧ください

上記以外でも、製造の過程で温暖化ガス排出の可能性がある製造業があり、発生量の大幅削減の努力が始まっています;
*セメント製造
㋐ 土木・建築関連作業は大量のセメントを使用しますが、製造の過程で大量のCO2を排出します。現在、CO2の発生を大幅に削減する技術が日本の企業により開発されました
三菱商事・米新興と提携_再生コンクリにCO2封入
大成建設「CO2削減コンクリ」本格展開・製造時8割減
コンクリにCO2封入_アイシン・大成建設とタッグ

*アルミニウム製造
省エネなどの目的で、あらゆる産業分野でアルミニウムが使われるようになりましたが、原料となるボーキサイトからアルミニウムを製造する過程で大量の電力を消費します

以上の様な対応を強力に進めた結果実現するであろう「カーボン・ニュートラルの産業」の姿を、経済産業省のサイトにある分かり易いイメージ図を拝借すると以下の様になります;

カーボンニュートラルの日本

このイメージ図ををご覧になると、これまでの日本の産業と全く違うインフラは、現在産業の血液である「化石燃料」が全面的に「水素」に替わっていることです

水素エネルギーの活用

水素エネルギーの活用について、前節では①、②、③のみが登場しましたが、実は水素が現在の産業構造を根本的に変えるエネルギー源として注目されています
昨今、世界の脱炭素化のうねりの中で天然ガスがクリーンなエネルギー源として奪い合うように取引が拡大していますが、天然ガスの主成分であるメタンガスはCH4の分子式で分かるように燃焼させた後に水(H2O)の他にCO2が発生しますので、完全なクリーンエネルギーとは言えません。エネルギーの水素化が実現する未来には、天然ガスは再び地中深くで眠って貰うことになりそうです
以下に水素が化石燃料に替わって主役になっていくためのキー・テクノロジーをご紹介します

<水素ガスタービン>
現在、燃料電池の他に水素を燃料とするタービン発電機が実用を目指して研究が進んでいます。日本では三菱パワー(株)、川崎重工(株)が最先端の研究を行っていますが、水素は燃焼速度が速く燃焼が不安定になりがちである事、また燃焼温度が高い為公害の原因となる酸化窒素(NOx)が発生する事、などを克服することが必要です
水素ガスタービンが実用化されれば、水素の製造原価が下がりさえすれば石炭火力だけでなく天然ガス発電など全ての火力発電を脱炭素化することが可能になります
<アンモニア>
水素を直接エネルギーとして活用する他に、水素と空気中の窒素を化合させてアンモニアを合成し、これをエネルギー源とする方法があります。アンモニアは常温で液体であり輸送コストは化石燃料と同じになり、NH4の分子式で分かるように燃焼してもCO2は発生しません。現在、石炭火力発電におけるアンモニアとの混焼の試みが始まっています(参考:JERAが石炭火力発電所でアンモニア混焼実証を初公開
ただ、アンモニア製造はこれまでハーバー・ボッシュ法(HB法)により、水素と空気中の窒素を化合させる方法を取っていますが、高温・高圧下での反応である為、製造プロセスでのCO2発生を避けることが出来ません。水素を製造する過程でのCO2の発生も考慮すると、HB法はエネルギーの脱炭素化のつなぎ役と言えるかもしれません
尚、常温・常圧で水(水素の元)と空気(窒素の元)からアンモニアの合成を行うという画期的な研究が日本の学者によって行われています!
空気と水からアンモニアを作る
アンモニアの製造コスト半減・出光が24年までに新製法

Follow_Up:2022年5月1日_日経「IHI、世界最大級のアンモニアタンク・次世代燃料普及へ

<メチルシクロヘキサン(MCH)>
トルエン(注)に水素を反応させてMCHに転換し、水素を輸送する方法もあります。トルエン、MCHともに常温・常圧で液体状態であり、常温・常圧の水素ガスを 1/500 の体積の液体として貯蔵・輸送することが可能になります。以下の資料は、経済産業省が主管する官民共同の協議会で発表された資料です;
MCHによる水素供給シナリオ_千代田化工建設(株)
(注)トルエンとは:アルコール類・油脂類などの溶媒(溶かす液体)として広く使用されています。ベンゼン(分子式:C6H6)の水素原子の一つをメチル基で置換した以下の様な分子構造をしています;
<水素製造法>
水素製造法については、製造過程で温暖化ガスを出すか出さないかで以下の二種類に区分できます;
ブルー水素:水素製造の過程で温暖化ガスを排出してしまう製造法
グリーン水素:水素製造の過程で温暖化ガスを排出しない製造法。勿論、製造の為に必要となるエネルギーについても温暖化ガスを排出しないことが求められます。但し、製造の過程で発生した温暖化ガスを地下貯蔵するなどの対応をとればグリーン水素の扱いとなります
現在、大量且つ安価な水素が必要な場合、ブルー水素を調達するしかありませんが、まずはこの水素で日本のエネルギーのインフラを改革し、大量且つ安価なグリーン水素の製造法が確立した上でこれに切り替えていくことが賢明であると思われます

A. ブルー水素の各種製造法;
化石燃料はその成分に水素が大量に含まれているので、化学的な方法で水素ガスを作ることが可能です。ただ、副産物としてCO2やCO(一酸化炭素)、他、の温暖化ガスが発生します。しかし、化石燃料の埋蔵量は膨大なので、当面エネルギーの水素化を急ぐのであれば当面こうした技術で水素を確保することは可能ですが、将来的にはCCSやDACCSなどの装置の併設が必要になると思われます
① 天然ガスからの水素製造技術:天然ガスからの水素製造
② 石炭からの水素製造技術:石炭からの水素製造
*資源エネルギー庁の褐炭水素プロジェクト
(注)CCS(Carbon capture and storage/CO2地下貯留)
B. グリーン水素の各種製造法
言うまでも無く水(H2O)は水素と酸素の化合物です。強固に結びついている水素原子と酸素原子を何らかのエネルギーで分離すれば水素を取り出すことが出来ます。勿論、利用するエネルギーは温暖化ガスを発生させないで得られたものに限ります
水の電気分解による方法
再生エネルギーを使った電気分解による方法;
再生エネルギーは、気象条件によって出力が大きく変動すると共に、需要についても季節、時刻により大きな変動があります。従って、需要の少ない季節、時刻に再生エネルギーを貯蔵することが出来るという大きな利点を備えています(特に最近の大規模な太陽光発電・風力発電設備)
洋上風力でグリーン水素製造_北海道電力などが最大拠点
Follow_Up:2022年4月7日(日経)_東電、再エネ調整弁に水素

② 高温ガス炉の熱エネルギーを使って水を分解する方法
高温ガス炉については次節で説明します。
次世代型「⾼温ガス炉」で⽔素を⼤量製造_ CO2発生ゼロ 

<水素の貯蔵・供給システム>
現在、化石燃料で賄われているエネルギーを水素に切り替えていくには、液体水素にして遠距離を運ぶタンカー(⇔海外からの輸入、国内の遠距離輸送に必要)、日本全国隈なく水素を供給するタンクローリー鉄道貨車(タンク車)、水素配管システム水素ステーション、などの水素の貯蔵・供給のシステムを新たに作り上げなければなりません
しかし、水素は常温で気体であり1気圧のままでの輸送はエネルギー密度が低いので実用性はありません。高密度で輸送する為に液体にするには-253℃以下の極低温にする必要があります。また気体のまま極めて高い圧力(例えば1,000気圧)で輸送することも考えられますが、高圧に耐える容器の開発や充填の際の断熱圧縮に関わる物性上の問題などを解決する必要があります
(参考)水素を高密度に貯蔵輸送する方法とその展望_日本燃料学会誌

以下は、既に開発が始まっている水素の貯蔵・供給のシステムです;
水素供給網の整備加速 ENEOSは給油所で2022年春に販売開始
水素補給拠点「2030年1000基」
東電・工場向けに水素を供給 山梨県・東レと実験
大型車に水素高速充填_官民7社・団体、福島に研究施設
水素運搬船_川崎重工

Follow_Up:2022年6月・日経新聞記事「三菱重工やアマゾン・水素製造装置の米新興に出資

原子力の活用

福島原子力事故が発生してから日本の原子力発電は大幅に規模を縮小したままになっています。欧州諸国は1986年4月26日のチェルノブイリ事故を経験していることもあり、つい最近までフランスを除き、長期的に再生エネルギーの開発に併せ、原子力発電を徐々に廃止する方向に舵が切られてきました。しかし、地球温暖化のペースが上がり危機的な状況を呈するようになってから、脱原子力から新しい安全な原子炉導入に政策の舵が切られるようになってきました(イギリス、フランス)。また、脱炭素を再生エネルギーだけで賄うことは、異常気象が発生した場合など、思わぬ苦労を強いられることも分かってきました
参考:風吹かぬスペインの教訓

日本にあっては福島原子力事故の復興も未だ途上にあり、事故を起こした福島原発の1号炉、2号炉の事故処理の目途も立っていない中で、既存原子炉の再稼働や新型原子炉の導入を議論することは不謹慎の誹りは免れないとは思いますが、日本の脱炭素化社会への道のりを確かなものにする為に、敢えて以下に原子力の活用について持論を述べてみたいと思います

1.原子力事故の教訓をどう生かすか
過去において世界を震撼させた原子力発電所の事故に関し、構造上の事故発生リスクをざっくり整理すると以下の様になります;
①1979年3月、米国スリーマイルアイランド原子力発電所事故
原子炉の構造(加圧水型)と事故原因
② 1986年4月、ソ連(現ウクライナ)チェルノブイリ原子力発電所事故

原子炉の構造と事故原因

③ 2011年3月、福島原子力事故

原子炉の構造(沸騰水型)

事故の進展

<事故の教訓をどう生かすか>
①と③は加圧水型と沸騰水型の違いはありますが、いずれも最終的に原子炉が暴走してしまった共通の原因は原子燃料を取り巻く冷却水の喪失です。つまり、燃料を冷却する水(熱エネルギーを運ぶ役割もある)には以下の様な自己制御性があり、水を喪失させないことと、水を冷却する機能を失わないようにすれば安全を維持できることが分かります
②のチェルノブイリ原発は中性子の減速材(⇔核分裂を起こさせるには高速の中性子を減速させる必要があります)に黒鉛を使っています。英国で最初に作られたコールダ―ホール型の原子炉も黒鉛を使っていました。
黒鉛は安価で大量に入手でき、中性子の吸収が少なく減速能力も比較的大きい優秀な減速材であり、濃縮していない天然ウランを燃料として使用できるという利点があります。 世界ではこの炉が約12%使われていますが、高温になれば燃えるという欠点があります。また、この事故が本質的に不安定となる運転モードで発生したとすれば事故の原因は設計自体にある考えられます

2.新型原子炉の概要
現在、安全意識の高い欧米先進国で新設を考えている原子炉には以下があります。経済産業省も次世代原子力発電の実用化に向けた工程表を策定する方針を決めました(次世代原発実用化へ工程表_経産省検討 技術・人材維持

⓪革新型軽水炉(2022年9月に追加)
従来の軽水炉を、事故の教訓生かして安全性を飛躍的に向上させようとしたもので、既存の技術が使えることと併せ、100万キロワット以上の大型化が可能なため投資効率が高く、開発期間が短いという利点があります。以下は、2022年4月、三菱重工のプレゼンが、ネット情報から得られましたので、以下に紹介します;
上図にある「コアキャッチャCore/炉心 Catcher/受け皿)」は、福島原子力事故で経験した「炉心溶融」の事態になった時に、これを受け止めて何らの動力を使用しなくても冷却できる装置です。以下の資料は、東芝の栗田智久氏が公益社団法人・化学工学会で発表した資料です。コアキャッチャーの原理及び実験結果がご覧になれます:コアキャッチャ;溶融した炉心の安定冷却

① 小型原子炉

一般的には 30万キロワット 以下の電気出力の原子炉のことを指します。米国のニュー・スケール・パワー社のSMR(Small Modular Reactor)といわれている小型原子炉の場合、プレハブ住宅の様に工場でモジュールを作り、モジュールの組立のみを現場で行うので均質で低コスト、建設期間の短縮が可能になります。これまでの大型原子炉が10年以上の工期が必要だったのに対して、SMRの場合3~4年で建設できると言われています
冷却システムは水の自然な対流で行われるので、非常用電源が無くても事故時の冷却が可能であり安全性が高いとされています
従来の大型原子炉が冷却のための水を確保する為に、海沿いか大きな川の近くに立地する必要があったのに対し立地の自由度が高いことから、消費地に近い場所に建設することも可能になります
尚、原子炉本体は地下に設置され、出力を増やすには独立した炉の数を増やすことで対応可能となっています;参考
三菱重工が小型原発、電力大手と協議・日立・GEも開発
Follow_Up:2022年4月・三菱重工のプレゼン(ネット情報)原発は「脱炭素に貢献」_欧州委が認定方針 関連投資促す
* Follow_Up:2022年4月18日・日経新聞「三菱重工・トラック輸送できる超小型原発・30年代商用化
Follow_Up:2022年4月・三菱重工のプレゼン(ネット情報)

② 高温ガス炉
高温ガス炉 は固有の安全性 が高く、異常時の過渡的な挙動も極めて緩慢です。これは日本の高温工学試験研究炉(HTTR)やドイツの高温ガス実験炉の過渡実験でも確認されています。燃料が環状に配置された炉心(下図左端を参照)では、冷却材による強制冷却ができないような事故においても、炉心中心部の温度上昇を抑え 原子炉 圧力容器外への自然放熱により炉心残留熱を除去できる設計となっています;

高温ガス炉の構造と茨城県の研究施設

冷却材(ヘリウム)の循環器2台が停止したあとの過渡状況;

横軸の0(ゼロ秒)で循環器2台が停止した後、原子炉の出力は30%以下に低下し、燃料平均温度と減速材(黒鉛)の平均温度は安定している事が分かります
参考;
高温ガス炉向け核燃料、実用レベルに
高温ガス炉設計、ポーランドと協力

Follow_Up:2022年7月20日_三菱重工・高温ガス炉を使い水素量産、産総研と新技術開発へ 
Follow_Up:2022年4月・三菱重工のプレゼン(ネット情報)Follow_Up:2022年9月3日_英国の高温ガス炉開発に日本が参加_30年代初頭にも建造

③ 高速増殖炉
高速増殖炉(FBR:Fast Breeder Reactor)とは、発電しながら消費した以上の燃料を生成できる原子炉です。高速増殖炉の炉心の周辺は劣化ウランなどで囲み、この劣化ウラン中のウラン238が中性子を取り込みプルトニウム239に変わり燃料となります。高速増殖炉は、高速中性子をそのまま利用するもので減速材は使用しません冷却材には中性子を減速・吸収しにくいナトリウムを使用し、原子炉で発生した熱で水を蒸気に変えタービンを回して発電します(電気事業連合会のサイトより)

日本の高速増殖炉研究・開発の悲しい歴史;
常陽高速増殖炉開発のために必要な技術・データおよび経験を得るための基礎研究・基盤研究を目的として実験炉常陽」が計画され、1977年、MK-I 炉心の初臨界を達成しました。その後、2007年にMARICO-2と呼ばれる照射試験用実験装置の上部が大きく破損する事故が発生したため、炉の運転休止を余儀なくされてしまいました。その後、2011年の福島原子力事故により原子力分野の安全規制・審査や世論が厳しくなり再稼働が遅れています
もんじゅ:もんじゅは、MOX燃料(プルトニウムとウラン混合燃料)を使用し、消費した量以上の燃料を生み出すことのできる高速増殖炉の実用化のための原型炉であり、高速実験炉常陽でのデータを基に建設されました。また、発生する高速中性子を利用した核変換技術などの研究の場としても期待されていました(⇔危険度の高い核廃棄物を核変換して量を減らすことが期待されていた)
1995年に、冷却材の金属ナトリウム漏洩と、それによる火災事故を起こし、更に事故が一時隠蔽されたことから、大きな批判を浴びましたその後、運転再開のための本体工事が2007年に完了し、2010年5月6日に2年後の本格運転を目指して運転を再開しました。しかし、2010年8月の炉内中継装置落下事故により、再び稼働ができなくなりました。2012年に再稼働する予定であったものの、2011年の福島事故の影響で実現せず、2016年12月21日に廃炉が正式決定されました。エネルギー自給に向けて長期間努力してきた研究者、電気事業の関係者にとっては非常に悲痛な出来事でした

日本はウラニウムの資源が殆ど無く、使用済みの核燃料から新たに核燃料(MOX)が作り出せるという事で国民の期待も大きく、研究も世界の先端を走っていたのですが、事故及び事故処理の不手際で残念ながら頓挫してしまいました
しかし、欧米先進国での研究は継続・進化を続けており、日本の経験はこれらの国との共同開発として生かされていくと確信しています。特に冷却にナトリウムを使う事となるので、日本の失敗が生かされるのではないでしょうか、、、、
参考;米高速炉開発で米国と協力覚書_原子力機構と三菱重工が技術維持へ関与

Follow_Up:2022年4月・三菱重工のプレゼン(ネット情報)

④ 核融合炉
核融合反応とは、太陽のエネルギーの源であり水素爆弾のエネルギーの源です。これまでの原子炉や原子爆弾のエネルギーがウラニウムやプルトニウムという原子量の大きな原子核が分裂する時の質量欠損がエネルギーに変る(発生エネルギー=質量欠損 x 光の速度の2乗)のに対し、核融合反応は水素やヘリウムといった原子量の小さな原子核が融合する時の質量欠損がエネルギーに変る反応です取り出せるエネルギーが膨大であることと併せ、核融合反応は核分裂反応と違って燃料不足になると核反応が止まるため比較的制御しやすいと言われています。また、反応により設備の一部が低レベルの放射性物質に変わるものの、敷地内などで数十年保管すれば放射能レベルが低下し原子炉材料として再利用できなど、有害な核廃棄物が非常に少ないという事が「夢のエネルギー」と言われる所以です核融合炉の仕組み核融合反応を起こさせるには、1億度以上の高温で原子核同士がぶつかり合うプラズマ状態にしなければなりません。このプラズマを炉の中に閉じ込めるには極めて強力な磁場が必要です。従って、核融合炉の開発には膨大な費用と長期間の取り組み、人類の英知の結集が必要なため国際協調のもとで開発が進められています。この炉の大きさをイメージするには、下の画像右下の「人の大きさ」と比較してみて下さい


計画の詳細を知りたい方は以下の資料をご覧ください:ITER計画

ITER計画の中で、日本が開発・製造を担当する部分は以下の通りです;

トロイダル磁場コイルの設計・製造については、三菱重工が担当しています;南フランス・ITER向けTFコイル計4基が完成

おわりに

脱炭素時代の幕開けは、エネルギーを大量に消費して成長を続けてきた先進国には産業構造・市民生活すべてを巻き込む大きなパラダイムシフトとなることは間違いありません
戦後の日本が、復興期を終え急成長を始めたころ、日本はかなりのレベルでエネルギーの自給を達成していました。エネルギーの元は水力発電の他に産業用の石炭と、民生用の炭やマキでした。しかし、エネルギーの石炭から石油への急速の転換によって日本では多くの炭鉱の閉山炭鉱労働者の解雇炭鉱労働者の争議の多発という社会大変革が起きました。下図はこうした大変革時の炭鉱労働者の離職者数を追った資料です(嶋崎尚子氏の論文石炭産業の収束過程における離職者支援」より引用)図から分かることは、1941年から15年以上に亘って炭鉱の閉山が続き、毎年数千人の炭鉱離職者が発生し、他の成長産業に労働者の移動が起こりました。私の友人の中にもこうした炭鉱離職者の子息がおります
Follow_Up:2022年7月26日_脱炭素、いざ「Reskilling」_欧州で進む「公正な移行」、日本は政策構想なく

その後の日本は、石油がエネルギーの主役になったものの、石炭と違って石油生産を中東諸国に頼っていたことから、1973年の第四次中東戦争に端を発する第一次オイルショック、1978年に始まったイラン革命に端を発する第二次オイルショックを経験しましたこれらの危機の教訓を踏まえて原子力発電に力を入れ、2010年には原子力発電のエネルギーシェアが25.1まで達していました

2011年の福島原子力事故以降全国の全原発が停止となり、その年の夏は冷房の設定温度を下げるキャンペーンが行われた苦い記憶が思い出されます。その後規制庁による強化された規制基準を基に検査が行われ、徐々に運転が再開された結果、現在の運転状況は以下の様になっています;

2021年3月の時点で稼働再開している原発は9基。稼働年数などを勘案して廃炉を決定した原発は24基に上っています。6基については厳しい新基準に合格したものの未だ地方自治体の合意が得られない為に稼働再開できていません。また、建設中の原発も工事を停止したままになっています

今後、日本は前述の通り急速に水素社会に移行することは間違いないと思いますが、再生エネルギーによる自前のグリーン水素を我が国で製造することには限界があり、海外からのブルー水素、グリーン水素を調達することになり、福島原子力事故以降続いているエネルギーの海外依存状態からは抜け出せません。悲惨な先の大戦が、米国による石油禁輸がきっかけの一つとなったことを考えれば、子供や孫の時代までこのエネルギーの過度な海外依存は続けるべきではなく、出来る限り早期にエネルギー自給に向けて政策の舵を切らなければならないと私は考えています
参考;
JERA・火力発電9基廃止_老朽化で採算合わず
三菱重工・原発を十数分で出力制御

原発反対している方々の顰蹙を買うことを承知の上で、近い将来の水素化社会に向けて、原発に関わる政策は以下のシナリオで進むことが現実的であると思います;
① 新規制基準に合格している原発の運転再開
② 建設中の原発の工事再開、及び新規制基準による検査が終了していない原発の検査を急ぎ、合格した原発から順次運転を再開する
③ 新しい「小型原発」の導入 ⇒  古い原発から順に廃炉させる
④ 高温ガス炉の建設 ⇒ グリーン水素の大量生産
⑤ 高速増殖炉の建設 ⇒ 使用済み燃料からのプルトニウム製造  ⇒ 自前のMOX燃料の生産拡大(⇔原発燃料の国産化;核廃棄物の削減
⑥ 核融合炉の建設(恐らく従来の核分裂型の原子炉は核融合炉に切り替わっていくと思われますが、早くて孫の存命中に実現するかどうか、、、)

上記は過激なように見えますが、①、②は欧米先進国では同タイプの原子炉の運転が継続しています。③は近い内に米国、フランス、英国では導入を決めるのではないでしょうか。恐らくドイツもウクライナ戦争が一段落した後には、数年後に廃炉を決めた原子炉の代替として導入を決めると私は踏んでいます
④、⑤については、つい最近まで日本の研究は世界をリードしていました。⑥については現在ロシアを含め先進国の共同開発が進められており、日本もその重要な担い手になっています

先進国は科学や産業の発展を支えると同時に、開発の過程で発生するリスクを負う責任があります。航空の歴史を見てもそれは明らかです(参考:航空機の発達と規制の歴史)。世界が脱酸素社会に向かう過程で日本がリーダーシップを発揮し、尊敬される国になるには、事故の教訓を生かすと共に、リスクを怖れぬ国(国民)に戻ることが必要と私は思います

Follow_Up:2022年5月1日_効率と安定を選ぶ現実_アジアの原発計画、推進に傾斜
Follow_Up:2022年5月3日_米、原発延命に7800億円_脱炭素推進へ廃炉阻止
Follow_UP:2022年6月2日_島根原発再稼働で丸山知事が同意
Follow_UP:2022年6月27日_原発の是非・参議院選での議論不可避
Follow_Up:2022年7月14日_今そこにある電力危機・安定供給へあらゆる手を
Follow_Up:2022年7月19日_原発燃料の脱ロシア難航、米欧が依存 エネ安保リスクに
Follow_Up:2022年8月10日_経産省審議会・次世代原発稼働へ工程表_「30年代開始」明記
Follow_Up:2022年8月10日_SMR・エネ安保で脚光_ GE日立や三菱重工参入
Follow_Up:2022年9月2日__原発活用、問われる覚悟_脱炭素へ欧州「現実解」にカジ
Follow_Up:2022年9月3日_次世代原発・自民が後押し_電力逼迫や調達不安で

Follow_Up:2022年9月22日_原発活用へ議論始まる。論点は再稼働・運転延長・建設
Follow_Up:2022年11月28日_原発運転、最長60年超に_経産省が法整備検討 規制委が事実上容認

以上