「国連海洋法条約」についてちょっと勉強してみました

はじめに

今年(2018年)1月に発行したブログ(年の初めのためしとて~:「農業、林業、水産業の未来、3.水産業の分野)で、日本がいかに広い排他的経済水域(EEZ)に恵まれていて、日本の水産業の未来は明るい!という持論を述べました。ここでは、海洋法について十分な説明をしていませんでしたので、改めて表記「国連海洋法条約(正式名:海洋法に関する国際連合条約)」を読み込んで、日本が国際関係に於いて重要となるポイントについて拙いながら解説を試みることにしました。
尚、条文の文章は、読んで頂くと分かるのですが、法律的な正確性を担保するためか表現が回りくどく、且つ使う用語が日常使う言葉ではないことも多く、更に条約が成立する前に存在していた条約や慣習法を組み込む過程で発生したと思われる条文間の重複や順序の不整合が随所にあります。従って、私なりに解釈した上で適宜文章を再構成しています。お許し願えれば幸いです

国連海洋法条約とは

国連海洋法条約とは、海洋法に関する国際的な秩序の確立を目指して1982年4月30日に第3次国連海洋法会議にて採択され、1994年11月16日に発効した条約です。17部320条の本文と9つの附属書(全体として500条に上る膨大な内容です)で構成されています。現在、168ヶ国・地域と欧州連合が批准しています(締約国リスト)。大洋に面した主な非締結国は米国、トルコ、ペルー、ベネズエラがありますが、深海底に関する規定以外の大部分の規定が慣習国際法化しているため、米国などの非締約国も事実上海洋法条約に従っており、別名「海の憲法」とも呼ばれています(“ウィキペディア”から抜粋、一部修正)
海を隔てて日本と接している近隣の国々(中国、ロシア、韓国)は締約国となっていますが、締約国リストを見ると北朝鮮は批准していないようです

詳しくは「国連海洋法条約」(英語版)」の条文をご覧いただくとして、全体の構成は以下のようになります:

国際海洋法条約の構成
国際海洋法条約の構成
特殊用語解説

国連海洋法条約やそれに関連する情報を読み込んでいくと、幾つかの聞きなれない特殊用語が出てきます。条文の中に定義のあるものも、ないものもあります。これらが具体的に何を意味するかを予め理解していないと、条文を正しく理解するのに時間がかかると思いますので、以下に簡単に説明しておきます。ただ、領海、接続水域、・排他的経済水域、大陸棚、公海などは次項で詳しく述べることにします。また、特にことわりのない限り条文番号は、国連海洋法条約の条文番号を意味しています;

1.海域の領有権や管理権に係る特殊用語
①沿岸国とは:海洋に面している国(⇔内陸国)
②基線とは:沿岸国が公認する海図上の低潮線(引き潮の時の海面と陸地との交わる線)を根拠とした領海、接続水域、排他的経済水域、公海などの範囲を決める基準となる線。実際の地形は湾や河口、島嶼などがあり、決め方は簡単ではありません。興味のある方は、国連海洋法条約3条~10条に基線の決め方が具体的に定められていますので、ご覧になってください

領海の基線と限界線の関係_海上保安庁
領海の基線と限界線の関係_海上保安庁

③低潮高地とは:低潮時には水に囲まれ水面上にあるが、高潮時には水中に没するものをいいます(13条)
④礁(しょう)とは:浅い海底の隆起部。岩礁・サンゴ礁などがあります

⇒南シナ海で中国が実効支配している「スカボロー礁」がよくニュースに登場しますので、ご存知の方が多いと思います。ここはフィリピン及び台湾も領有を主張しており、フィリピンが中国による実効支配の不当性をハーグの常設仲裁裁判所に訴え、勝訴していますが、未だに中国の実効支配が続いています

⑤無害通航権とは:沿岸国の平和、秩序、安全を害しない限り通行できる権利のことを意味します。通行中には以下の行為が禁止されています(第19条)、武力による威嚇、武力の行使。兵器を用いる訓練、演習、沿岸国の安全保障上の情報の収集、沿岸国の安全保障に係る宣伝行為、航空機の発着、積み込み、軍事機器の発着、積み込み、沿岸国のCIQ(税関、出入国管理、検疫)に係る法令違反、重大な汚染行為、漁獲、調査、測量、通信妨害、運航に関係のないその他の行為

2.海洋や河川に生息する魚類に関する特殊用語
①遡河魚(そかぎょ)とは:海洋で餌をとって成長し、産卵のために河川または湖へ回遊する魚類を言い、遡上魚とも言われます。北洋を回遊して成長するサケ・マス類、沿岸域と河川を行き来するウグイ、ワカサギ、シシャモ、シラウオなどがあります
②母川国とは:遡河魚が産卵のために回帰する川を領有している国

③降河魚(こうかぎょ)とは:一生の大部分を淡水で生活して十分に成長し、成熟が始まる前後から川を下って海に入り、海洋で産卵する魚類を言います。降河魚の代表はウナギです。しかし、産卵以外の生理・生態的な要因で淡水域から海へ下る魚は降河魚に含めません。例えば、アユや淡水にすむハゼ類、カジカ類のように、孵化(ふか)後の稚魚が水流に運ばれて川を下って海で変態期前後まで成育し、ふたたび淡水へ帰って成長し、産卵するものは降河魚とは言いません

高度回遊性の種(Highly Migratory Fish Stocks)とは:排他的経済水域の内外を問わず広く回遊する魚類。国連海洋法条約において、この資源の回遊域に当たる沿岸国と漁獲を行う国がすべて参加する国際機関によって保存管理すべきとしています。日本が大量に消費している魚種では、かつおまぐろかじきサンマなどがこれに当たり、国連海洋法条約・付属書Ⅰ (サイトを開いてからANNEX Ⅰ をクリックしてください)で指定されています

3.領海・接続水域・排他的経済水域・海峡・大陸棚・公海

15世紀半ばから始まった大航海時代以降、海洋先進国が「公海自由」の原則を掲げ全世界の海に進出し、未開の地を植民地化するとともに、海洋資源も独占してきました。その後、18世紀から19世紀初頭になって、沿岸国の秩序維持に必要な「狭い領海」と、その外側にある先進国の自由競争が認められる「広い公海」、という二元構造によって海域をとらえる見方が主流となっていきました。こうした考え方が「慣習法」として定着していきましたが、領海の限界については、海洋国(日本を含む)が主張する3海里から、12海里まで主張の違う国がそれぞれの立場で自国の領海を管理する状態が続きました

第二次世界大戦を経て国連が生まれ、国連を中心に各国が話し合う場が設けられた結果、1958年の第一回国連海洋法会議が開催され、領海条約大陸棚条約公海条約公海生物資源保存条約という4つの条約の採択に成功しました。しかし、国の利害がぶつかる領海と公海の境界線をどこに置くのかという点については合意に至ることはできませんでした。
その後、1982年の第三次国連海洋会議になって、ようやく領海を領海基線から12海里までとすること、排他的経済水域を200海里とすることなど、現在の国連海洋法条約が採択され、ほどなく多くの国々に批准される現在の姿になりました

領海・排他的経済水域の模式図_海上保安庁
領海・排他的経済水域の模式図_海上保安庁

1.領海
領海とは、基線から12海里(約22.2キロ/東京駅⇔南浦和駅程度の距離)の範囲で(第2条)、2ヶ国が隣接している場合は、両国の基線の中間を双方の領海の境界とすることになっています(第15条)、但し歴史的な背景がある場合には例外が認められています

<領海に係る重要なポイント>
全ての国の船舶、沿岸国であるか内陸国であるかを問わず、この条約に従うことを条件として、領海において無害通航権が認められるています(第17条)
沿岸国は、無害でない通航を防止するため、自国の領海内において必要な措置をとることができます(第25条)
潜水艦、その他の水中航行機器は領海に於いては、浮上し、かつ船籍が分かる旗を掲げなければなりません(第20条)
無害通航権を行使する外国船舶は、沿岸国の法令及び海上における衝突予防に関する国際的な規則を遵守することが義務になっています
⑤沿岸国は航路帯、及び分離通行帯を明確に海図上に表示し、その海図を公表することが義務付けられています(第22条)
⑥外国の原子力船及び核物質又はその他の本質的に危険若しくは有害な物質を運搬する船舶が、領海において無害通航する場合には、そのような船舶について国際協定が定める文書を携行し、かつ、当該国際協定が定める特別の予防措置をとる義務がありますと(第23条)
低潮高地が領海外にあある場合、それ自体の領海は認められません(第13条)

2.接続水域
接続水域とは、領海から更に12海里の幅で、沿岸国の領土、領海内で起こったCIQ(税関、出入国管理、検疫)に係る法令違反の防止措置、及び法令違反の処罰を行う為に必要な規制を行うことができる水域です(第33条)

⇒近年頻々として起こる尖閣列島(日本が実効支配しているものの、中国も領有権を主張しています)周辺の中国公船(日本で言えば海上保安庁の艦船)による示威行動は、概ねこの接続数域への侵入が多いようです。日本は、警戒監視はするものの領海侵入までは手が出せません(幸い?)

3.国際海峡(国際運航に使用されている海峡)
国際海峡とは、領海または、排他的経済水域を含み、国際航行(船舶だけでなく、航空機も含む)で使用されている海峡のことです。日本においては、宗谷海峡津軽海峡対馬東水道対馬西水道大隅海峡が国際海峡に指定されています
<国際海峡に係る重要なポイント>
海峡の上空、海底、地下資源に係る主権及び管轄権は海峡沿岸国にあります(第34条)
すべての船舶及び航空機は、国際海峡を通過する権利を持っていますが、原則として停止しないで、迅速に通過することが必要とされています(第38条)
通過する船舶及び航空機が負う義務については、概ね領海通過に係る義務と同じです。詳しくは、第38条~45条をご覧ください

最近、米国と軋轢を起こしているイランが、ホルムズ海峡封鎖の可能性に言及していますが、こうした行為は、上記条文から判断すると、明かな国連海洋法違反ということになります。従って、もし封鎖を強行することになれば大国による軍事力の行使が現実となり、日本も新安保法制に基づき何らかの軍事行動が求められる可能性があります

4.排他的経済水域EEZ/Exclusive Economic Zone)
EEZとは、沿岸国が天然資源などに対して「主権的行為」を行うことができる海域のことで、基線から最大200海里まで設定することが認められています(第57条)。また、隣接している海岸を有する国の間における排他的経済水域の境界は原則として中間線となりますが、両国での合意が得られない場合、国際司法裁判所において国際法に基づいて合意を図ることができます(第74条)。ただ、両国が提訴に合意しない限り中々解決できないケースが多いようです。紛争の解決の具体的手続きについては15部(第279条~304条)に詳しく書かれています

<EEZに係る重要なポイント>
A. EEZ内の沿岸国の権利
①EEZ内の天然資源(海産物、海底資源、海流・風力エネルギー)の探査・開発・保存・管理に係る権利
人工島、施設・構築物の設置利用、海洋の科学的調査、海洋環境の保護・保全に係る権利(第56条)

B. EEZに於ける沿岸国の義務:他の国の権利及び義務に妥当な考慮を払う必要があります(第56条)
C. 全ての国は、EEZ内に於ける船舶及び航空機の航行の自由海底ケーブル・海底パイプライン敷設の自由、その他これらに係る海洋利用の自由が認められています(第60条)
D. 沿岸国は、EEZ内の生物資源の漁獲可能量を決定することができます。一方、生物資源の維持が脅かされない様、科学的証拠を考慮して、適当な保存措置・管理措置を講ずる義務があります(第61条)

E. 沿岸国が、漁獲可能量のすべてを漁獲する能力を持っていない場合、協定その他の取極(注)に従い、漁獲可能量の余剰分を他の国による漁獲に委ねることができます
(注)協定・取り決めの内容:漁獲枠魚種(含む大きさ)・漁期・漁場・漁具漁船の種類の指定手数料その他の報酬に係る許可証の発給沿岸国の監視員の乗船漁獲量の全部または一部の沿岸国への陸揚げ、などを指定できることになっています(第62条)

F. 高度回避性の種を漁獲する国は、EEZの内外を問わず種の保存を確保しかつ最適利用の目的を促進するため、直接、又は適当な国際機関を通じて協力する必要があります。また、適当な国際機関が存在しない地域においては、沿岸国、その他当該地域でその種を漁獲する国は、適切な機関を設立し、その活動に参加する必要があります

⇒サンマについては、最近漁獲高が急減し、中国、韓国、台湾による公海での漁獲が原因との見方があります。しかし、公海での漁獲は、日本にこれを制限する権利はなく、関係国による話し合いも、資源量に関する情報が無い中で早急に合意に至る可能性は低いと言わざるを得ません。ただ、わが国のEEZ内の密漁については、違法操業を取り締まるべく海上保安庁は頑張っているようです(参考:北方四島周辺水域における第三国漁船の操業問題_いわゆるサンマ問題

⇒マグロについては、全世界の海域で国際機関が設置され厳格に管理されています;
大西洋マグロ類保存国際委員会
インド洋マグロ資源委員会
全米熱帯マグロ類委員会
中西部太平洋マグロ類委員会
ミナミマグロ保存委員会

G. 溯河魚の漁獲に関するルール(第66条);
母川国は、EEZ内の漁獲量、漁業規制を定め資源の保存の為の措置を講ずること、及び自国の河川に由来する資源の総漁獲可能量を定めることができます。
溯河魚の漁獲は、原則としてEEZ内及び陸地側の水域に於いてのみ行うことができます。但し、これにより母川国以外の国に経済的混乱がもたらされる場合はこの限りではありませんが、EEZ外の漁獲に関しては、関係国は、当該漁獲の条件に関する協議を行う必要があります
③母川国は、上記の原則を実施するに当たって、他の国の経済的混乱を最小のものにとどめるために協力する必要があります
④母川国は、他の国との合意により溯河魚の人工孵化・放流を行い、かつその経費を負担している場合には、自国の河川に発生する資源の漁獲について特別の考慮が払われることになっています
⑤EEZ外の溯河魚の規制は、母川国と他の関係国との間の合意によって決められます
⑥溯河魚が母川国以外の国のEEZ内に入ったり、通過して回遊する場合、当該国は、溯河魚の保存及び管理について母川国と協力する必要があります

H. 降河魚の漁獲に関するルール(第67条);
①降河魚がその一生の大部分を過ごす水域を持つ沿岸国は、種の管理の責任を持ち、回遊する魚が出入りすることができるようにする義務があります(ダムなど作る場合は、魚道を整備する義務があります)
②降河魚の漁獲は、EEZ内及び陸地側の水域においてのみ行うことができます
③降河魚が、稚魚又は成魚として他の国のEEZを通過して回遊する場合、その魚の管理、漁獲は、①の沿岸国と当該他の国との間の合意によって行われます

⇒遡河魚、降河魚、高度回遊性の種については、後段で詳しく述べるように、資源維持のために各国が協力する体制がしっかり出来ています。しかしそれ以外の領海、排他的経済水域で漁獲している大衆魚(イカ、タコ、イワシ、ニシン、ハタハタ、ズワイガニ、etc、etc、、、)については、日本が資源の維持・管理に一元的な責任があります

I. いずれの国も、海産哺乳動物の保存のために協力するものとし、特に鯨類については、その保存、管理及び研究のために適当な国際機関(国際捕鯨委員会)を通じて活動する(第65条)

J. 沿岸国の主権的権利の行使についてのルール(第73条);
①この条約に従って制定する法令を遵守させる為に必要な措置乗船、検査、拿捕及び司法上の手続を含む。)をとることができます
②拿捕した船舶・乗組員は、合理的な保証金の支払又は合理的な他の保証の提供の後に速やかに釈放しなければなりません。また、拿捕、抑留した場合は、とられた措置及び罰について、船籍のある国に速やかに通報する必要があります
漁業に関する法令違反について沿岸国が課する罰には、拘禁、身体刑を含めてはならないことになっています

5.大陸棚
A. 大陸棚とは:領海から先の海面下であってその領土の自然の延長をたどって大陸縁辺部の外縁に至るまでのもの、又は大陸縁辺部の外縁が基線から200海里の距離まで延びていない場合、原則として200海里の距離までのものを言います
尚、200海里を越える大陸棚については、第76条に詳しく定義されていますが、その確定作業は、沿岸国が調査した情報を「付属書Ⅱ」に定める「大陸棚の限界に関する委員会」(通称大陸棚限界委員会;詳しくは大陸棚限界委員会参照)に提出し、得られた裁定が最終的なものとなり、拘束力があります

大陸棚限界設定の流れ

沿岸国は、大陸棚上の天然資源の探査・開発に係る主権的権利」を持っています。但し、この天然資源は、海底及びその下の鉱物・非生物資源、定着性の生物のみが対象になります(⇔海中で生息している魚類、ほ乳類は対象になりません)

隣接している海岸を有する国の間の大陸棚の境界画定について、両国での合意が得られない場合、国際司法裁判所において国際法に基づいて合意を図ることができます(第83条)。ただ、両国が提訴に合意しない限り中々解決できないもののようです。紛争の解決の具体的手続きについては、EEZの境界画定のケースと同様、15部(第279条~304条)に詳しく書かれています

⇒東シナ海の日中の中間線付近に於ける中国のガス田開発については、中国の主張と日本の主張(中間線)が食い違うものの解決が得られていません

東シナ海に於ける中国とのEEZ紛争

参考として大陸棚限界委員会に提出された、日本及び中国の申請書をご紹介します;
中国による東シナ海に於ける大陸棚申請
日本による大陸棚申請

6.公海
上記の接続水域・排他的経済水域・海峡以外の海水域が公海となります
<公海に係る重要なポイント>
①公海の自由
とは(第87条):航行の自由、上空飛行の自由、海底電線・海底パイプライン敷設の自由、国際法によって認められる人工島その他の施設を建設する自由㋭漁獲を行う自由科学的調査を行う自由
公海上の軍艦は、船籍のある国の管轄権のもとにあります(第95条)

③公海で航行中の事故に係る刑事裁判権は、船籍のある国、又は乗員の国籍のある国に限られます(第97条)
公海上での船舶の拿捕、抑留、調査船籍のある国に限られています(第97条)
⑤いずれの国も、公海上における救難の義務があります(第98条)

⑥いずれの国も、自国の船籍のある船舶による奴隷の輸送は禁じられています(第99条)
⑦すべての国は、公海上の船舶が国際条約に違反して麻薬及び向精神薬の不正取引を行うことを防止するために協力する義務があります(第108条)

⑧いずれの国も可能な範囲で、公海その他いずれの国の管轄権にも服さない場所における海賊行為の抑止に協力する義務があります(第100条)
⑨いずれの国も、公海その他いずれの国の管轄権にも服さない場所において、海賊行為が行われた場合、海賊の支配下にある船舶・航空機を拿捕し、犯人を逮捕・拘禁し、財産を押収することができます。また、拿捕を行った国の裁判所は、科すべき刑罰を決定することができます(第105条)

⇒ソマリア海で日本の自衛隊が拿捕した海賊船の犯人は、日本の裁判所で裁判を受けました

⑩沿岸国は、外国船舶が自国の法令に違反したと信ずるに足りる十分な理由があるときは、当該外国船舶の追跡を行うことができます。但し追跡は、国の内水、群島水域、領海、接続水域にある時に開始しなければなりません。尚、この追跡権は排他的経済水域又は大陸棚における沿岸国の法令違反がある場合にも準用されます
⑪追跡権は、第三国の領海に入ると同時に消滅します
⑫追跡権は、軍艦軍用航空機その他政府の公務に使用されていることが明らかに表示されており、かつ識別されることのできる船舶又は航空機でそのための権限を与えられているものによってのみ行使することができます

日本の場合、追跡権は自衛隊あるいは海上保安庁の艦船、航空機でなければ実施できないことになります。最近頻々と起こっている外国船による密漁も、海上自衛隊の増強以外の方法しかないことは理解できると思います
⇒海上保安庁による警備:領海・EEZを守るを参照

いずれの国も公海に於ける生物資源の保存、管理について相互に協力する義務があります(第117条~第119条)

7.深海底
深海底及びその資源は人類共同の財産です。従って、いずれの国も深海底又はその資源のいかなる部分についても主権又は主権的権利を主張し又は行使してはならず、また、いずれの国・法人・人も深海底又はその資源のいかなる部分も専有してはならないことになっています(第136条、第137条)
<深海底に係る重要なポイント>
①深海底の資源に関するすべての権利は、人類全体に付与されるものとし、この任務を遂行するために国際海底機構(以下“機構”;詳しくは国際海底機構参照を設立しました(第156条)。機構、人類全体のために行動することになっています。また、深海底の資源は、譲渡の対象とはならないものの、所定の手続に従うことによって譲渡することも可能となっています(第137条)
②機構は、深海底における活動から得られる経済的利益を、公平の原則に基づいて行うことを原則にしています(第140条)
沿岸国の管轄権の及ぶ区域の境界に跨って存在する深海底の資源に係る活動については、当該沿岸国の権利及び正当な利益に妥当な考慮を払うことになっています(第142条)

④機構は、深海底から採取された鉱物の生産者及び消費者の双方を含む関係のある全ての当事者が参加する権利を持っています。機構は、当該会議の全ての取決め、合意の当事者となる権利を持っています
⑤機構及び締約国は、事業体及び全ての締約国が利益を得ることができるように、深海底における活動に関する技術及び科学的知識の移転の促進に協力することになっています(第144条)
機構及び締約国は、深海底から採取された鉱物について、生産者にとって採算がとれ、かつ、消費者にとつて公平である価格の形成を促進すること、並びに供給と需要との間の長期的な均衡を促進することが求められています(第150条)
操業者が機構生産認可を申請し、その発給を受けるまでは、承認された業務計画に沿った商業的生産を行ってはならないことになっています(第151条)

⇒最近、日本近海の深海底に於ける鉱物資源の調査、及び採掘技術の研究が、官・学・民が協力して行われています。しかし、上記条文から判断すると、現実の採掘となれば、採掘した資源を独占できるわけではなく、また生産量に係る制約を受けることになります。また、採掘技術に係る研究成果についても、先駆者の利益を得ることは難しいことも考えられます(⇔南極大陸の資源管理と同じか)

北洋漁業の歴史

漁業に関して、少年時代から私の記憶の断片に残っていものは、南氷洋の捕鯨と並んで盛んであった北洋漁業に係るものです。それは必ずしも明るいものではなく、当時のソ連に拿捕される北海道の漁民と悲しみに暮れる家族の姿、敗戦国の日本は、満州国での非人道的占領政策、その後のシベリア抑留に加え、ソ連にどれだけ虐められれば済むんだ、といったマイナスの感情です

今回のテーマに係る情報をネットで探していたところ、東海大学海洋学部地球環境工学科の牛尾裕美氏の書いた論文「日本における遡河性魚種の漁獲に関する一考察」に、日本の北洋漁業に係る歴史が分かり易く纏めてありましたので、以下に紹介します;

*日本が、シベリアとカムチャッカの沿岸でサケ漁を開始したのは、17世紀の初め(江戸時代)であったと言われている
*1905年、日露戦争終結後に締結されたポーツマス講和条約により、日本はロシア領土内に漁業区を借り、サケ・マス定置網漁業を行う権益を認められたました(勿論、北方4島の他に、南樺太も日本領となったため、ここでも行われていたと思われます)

*1917年のロシア革命により誕生したソ連による資源ナショナリズムの影響を受け、1929年には流し網を用いる北洋サケ・マス母船式漁業を発足させ、沖取り漁業への転換が行われていった
*第二次大戦とそれに続く米軍駐留期間は北洋漁業は休止していましたが、1952年のサンフランシスコ平和条約発効後、独立を果たした日本は、北西太平洋の公海域に於いて北洋漁業を再開しました。公海域での漁獲は、産卵回遊途上の成魚だけでなく、翌年以降成熟する生育途上の未成魚も含まれており、しかも漁獲の主要部分は、ソ連の極東地方の河川を起源とするものであった(その他、アラスカと日本の河川を起源とするシロザケも含まれていた)

*こうした日本の母船式を中心とする沖取り漁業の大規模化は、1955年にピークを迎え、それと共にソ連極東地方へのサケ・マス回帰量の急激な減少ををもたらしました
*1956年、ソ連はサケ・マス資源の保護と漁獲調整を目的として、極東地方の領海に接続する公海においてサケ・マス漁獲制限操業の特別許可性一方的に宣言しました(ブルガーニン・ライン
*同年、サケ・マスに関して、公海における規制区域の設定、その区域内に於ける漁業禁止区域、漁期、漁具の制限年間総漁獲量の設定などを内容とした日ソ漁業条約が締結された

*1976年に200海里漁業水域が設定されたことに伴い、日ソ漁業条約の破棄を通告してきた。サケ・マスに関しては、1978年になって「日ソ漁業協力協定(日本漁船によるソ連を母川国とするサケ・マスの漁獲等に関する協議の基礎となる協定)」が締結された
日ソ漁業協力協定の主なポイント;
両国は遡河性魚種の母川国が、当該魚種に関し第一義的利益及び責任を有することを認める
両国は、母川国が200海里漁業水域内における総漁獲可能量を定めることができることを認める
両国は、母川国が200海里漁業水域内の外側の水域における遡河性魚種に関する規制は、母川国と他の関係国との合意によることを認める

*1984年にソ連がEEZを設定し、「日ソ漁業協力協定」もソ連側の終了通知により失効した。その後難航の末に、1985年に新しい「日ソ漁業協定」が締結されるに至った
*1988年になって、日ソ漁業合同委員会の年次会議において、1992年までのできるだけ早い時期に、公海でのソ連を母川国とするサケ・マスの漁獲を停止するようにとの声明を行った

*1952年に締結された日米加漁業条約「北太平洋の公海漁業に関する国際条約」を、ロシアを加えて発展的に解消し、1992年に締結(1993年2月16日発効)された日米加ロ漁業条約北太平洋における遡河性魚類の系群の保存のための条約(沿岸国の200海里水域を超えた北緯33度以北の北太平洋及びその隣接海域における条約特定の遡河性魚類の捕獲禁止等を定める)」により、戦後40年行われてきた北太平洋の公海におけるサケ・マス漁業は終止符を打つに至った

以上

春を飛び越して?夏野菜の報告

色々野暮用が重なって報告をサボっているうちに、2月初旬に苦戦した冬野菜の現況報告!で更新を行ってから約6ヶ月が経過してしまいました。1月末、2月初旬の大雪(東京地方)から一転して、春は急速に訪れ今年の桜は3月中に満開を迎えました。暖かくなれば野菜類は順調に育ち、フキノトウから始まって葉物野菜は豊富に収穫できました

春野菜
春野菜

中でも「春大根」は例年になく良い出来で、1コンテナ当り3本、3コンテナで9本の収穫があり、2ヶ月ほど大根料理を豊富に楽しむことができました

春大根の収穫_5月27日
春大根の収穫_5月27日

3月からいつも通り室内で夏野菜の苗を育て、4月中には屋上で栽培を始めました。例年と違って冬から春にかけて寒暖の差が激しかった(←温暖化の影響?)ためか、害虫類は心なしか少ないような感じがしました。特にアブラムシの被害が殆ど無かったので助かっています

今年の梅雨明けは、何と6月29日でした。気象庁の観測史上初めてだそうで、これも温暖化の影響か、はたまた黒潮の蛇行が原因か、中長期の気象予想は優秀な気象予報士の予報や、スーパー・コンピューターの予報もやや信頼性に欠けるような気がします。先週末からの西日本豪雨災害も、予測精度の向上に大金を投ずるだけでなく、保安林の整備(参考:森林経営管理法が成立しました!)、非常時におけるリスク管理(参考:災害のリスクについて考えてみました)の強化を、大災害を経験していない地方を中心に真剣に取り組んでいくことが重要であると感じる今日この頃です

拙宅の年間を通じての基本的な野菜は、冬場は白菜、長ネギなどの鍋材料(苦戦した冬野菜の現況報告!)、春から初夏はタマネギ、ジャガイモ、ネギ類、初夏から初秋まではトマト、ナス、キュウリです。以下、これら基本野菜を中心に収穫状況、栽培状況を報告します

タマネギ、ジャガイモ、ネギ類の収穫について

1.タマネギ;
タマネギは、前年9月の種まき、11月の植え付けを経て、5月に収穫を迎える長丁場の栽培ですが、今年は苗が順調に育てられた結果、5月の収穫はほぼ想定通りでした

タマネギの収穫_5月20日
タマネギの収穫_5月20日

紫色のタマネギは生食用(主にサラダ)、所謂タマネギ色のものは料理用に使います。収穫後、屋上倉庫の軒先で2週間以上乾燥させたものを保存して食べていますが、今年も秋口までは買わないで済みそうです

2.ジャガイモ
ジャガイモは、1月に入ってから売り出されている種芋を買い、2月末に植え付けました。今年は「北あかり」と味の良い「インカのめざめ」をほぼ同量植え付けましたが、「北あかり」に比べ「インカのめざめ」は収量が少ないことが分かりました

ジャガイモの収穫
ジャガイモの収穫

育て方や気象条件も関係すると思いますが収量を犠牲にしても味を重視している品種なのだと理解しています(値段も高い!)。因みに、以前植えていた「男爵」と「メイクイーン」は、収量は多いものの、味は「北あかり」、「インカのめざめ」に劣るというのが我が家の結論です。ジャガイモについても秋口までは食べられそうです

3.ネギ類
我が家のネギの需要は半端ではないので、相当力を入れて栽培しています。昨年9月頃に種を蒔いたネギは、長ネギ、葉ネギ、九条ネギの3種類です。長ネギ、九条ネギは2月末頃に大きなコンテナに植え替えて栽培しましたが、九条ネギは理由がよく分からないのですが失敗しました。葉ネギは植え替えないで、ある程度育ったところで根元で必要量だけカットして食べています

葉ネギ
葉ネギ

長ネギは収穫期に入っています。栽培コンテナは標準の小さなコンテナに10本程度植え付け、成長するに応じて土を追加していきます(白い部分を長くする為)。都合3回程度土を追加すれば食べ頃の長さのネギになります。10コンテナ栽培しており全部で100本となりますが、これも秋口までには食べ終わると予想しています

長ネギ
長ネギ
今年の夏野菜で工夫したこと

1.ナス、キュウリの乾燥対策
昨年のブログ(初夏から夏へ!)で紹介しましたが、ナスやキュウリ(乾燥するとすぐ弱る!)のコンテナに、底をカットして側面に小さな穴をあけたペットボトルを埋め込み、灌水がコンテナ内部に及ぶような工夫をしました。それなりの効果がありましたが、土の表面からの蒸発量が半端ではなく酷暑の時には水不足に陥ることもありましたので、今年はペットボトル給水器に加え、落ち葉や野菜の剪定屑を乾燥させて苗の周りを覆うことを試みています

ナス・キュウリの乾燥対策
ナス・キュウリの乾燥対策

元々、野菜栽培の教科書には、表面からの水分の蒸発を防ぎ、土の温度が極端に上がらないようにするためにワラを敷くことを推奨しています。しかし、ご存知の方も多いと思いますが、ホームセンターでワラは非常に高価なものになっています。恐らく、イネの栽培の機械化が進み、コンバインで刈り取った後、自動的にワラをカットし田んぼに漉き込んでいる為だと推察しています。昔はワラ付きで天日干しをし脱穀するので大量のワラが余ったのですが、、、

2.キュウリの強風対策
昨年の栽培時も苦労しましたが、キュウリは葉が大きく葉の茎が弱いので、ちょっと強い風が吹くと葉の茎から折れ、その後の収穫量が激減します。プロの農家は最近は殆どビニールハウスの栽培なのもそうした理由もあるかもしれません。一方、トマトは支柱さえしっかりしていれば、比較的風に強い野菜だと思います。そこで、今年の第二世代のキュウリ、同じく第二世代のトマトは以下の写真の様な工夫をしてみました;

キュウリ栽培用遮風?ネット
キュウリ栽培用遮風?ネット

トマトとキュウリを直線に並べ、その間には遮光ネット(百円ショップで購入)を風よけとして張ってあります。南東からの強風は、この遮光ネットが和らげてくれるものと期待しています

3.コンパニオン・プランツとトマトの栽培
NHKの野菜栽培の番組を観るのが、日曜日の朝食時の楽しみの一つになっていますが、先日この番組でコンパニオン・プランツ(companion plants)の存在を知りました。香味野菜やハーブ類を野菜と一緒に栽培すると、病害虫予防や味がよくなる効果があるとか。昨年はトマト栽培で病虫害で苦労しましたので、今年は拙宅で大量に栽培しているバジルをコンパニオン・プランツとして植えてみました;

コンパニオン・プランツ_トマトとバジル
コンパニオン・プランツ_トマトとバジル

既に収穫に入っている第一世代のトマトの育ち方は、病虫害もなく昨年より良好です。また、味も心なしか?良い様な気がします。参考までにコンパニオン・プランツの組み合わせをネットから入手しましたので興味にある方はご覧になってください:コンパニオン・プランツ

その他のトピックス

1.プンタレッラについて
この野菜栽培については、昨年6月のブログ(近所の八百屋では手に入らない野菜の栽培!)でご紹介しましたが、今回はローマでの栽培と同じく冬野菜として育ててみましたが、見事に失敗しました。やはり日本の冬の露地栽培には向いていないようです。しかし、弱弱しく生き残っていた冬越しのプンタレッラが春になって鑑賞に堪えるほどの美しい花を咲かせ、しかも長持ちするという発見もありました

プンタレッラの花
プンタレッラの花

今年の春植えのプンタレッラは、一旦大きなプンタッレラの花芽を収穫した後も、次から次に小さな花芽が出てくるので、少しづつ食べるには重宝しています

春植えプンタレッラ_最初の収穫と二度目以降の収穫
春植えプンタレッラ_最初の収穫と二度目以降の収穫

2.豆類の栽培
豆類については、大量に栽培しても老夫婦では食べきれないので、ナス、トマト、キュウリと同じように2世代に分けて栽培することにしました。栽培したものは以下の3種類です。絹さやについては3月から収穫を始めた第一世代は既に収穫を終わり、同じコンテナに第二世代を育てています

絹さや_第二世代_7月14日
絹さや_第二世代_7月14日

枝豆は既に収穫を始めていますが、良く知られている様に、収穫後直ちに茹でたものは一味違います

枝豆
枝豆

尚、枝豆は豆類なので、学校で習った知識(豆類は“根瘤バクテリア”で空気中の窒素を固定できる)に基づき追肥をしないでいたら葉が黄色くなってしまいました(下の写真)

肥料不足の枝豆の葉
肥料不足の枝豆の葉

慌ててネットで調べて肥料不足であることが分かり、追肥を施したところ、1ヶ月程度で回復しました。ご参考まで!

つる無しエンドウは既に第一世代の収穫が2ヶ月に及んでおり、収量が少なくなっているので、もうすぐ第二世代に引継ぎになります

つる無しエンドウ_7月14日
つる無しエンドウ_7月14日

3.唐辛子類の栽培
唐辛子は昨年同様、日本在来種で一番辛い「鷹の爪」を昨年以上(8本)植え付けました。拙宅では乾燥させた赤い唐辛子のほか、熟す前の緑色の唐辛子も収穫し醤油漬けにして食事の共にしています。この習慣は台湾での駐在経験からきています。台湾では青唐辛子を輪切りにし“魚醤”に漬けたものが、麺や餃子の屋台では必ず卓上に出されています。これを麺に加えたり、餃子のタレの入れて食べるととても美味しいんです。辛い物好きの方は是非お試しおください

鷹の爪
鷹の爪

また、昨年まではピーマン、又はパプリカを栽培していましたが、病虫害であまりよくできませんでした。今年は「ジャンボ・シシトウ」を試しに植えてみたところ大変うまくいきました。ジャンボ・シシトウは小さいうちに収穫すればシシトウと同じ様に料理に使うことができ(例えば、天ぷらやBBQの焼きシシトウ、など)、大きく育てれば、ピーマン代わりにも使えます

ジャンボ・シシトウ_7月12日
ジャンボ・シシトウ_7月12日

4.ハーブ類

昨年栽培していたハーブ類(バジル、ローズマリー、ペパーミント、レモンバーム、ディル、セージ、タイム、イタリアンパセリ、日本のパセリ)の他に、今年は香菜(パクチー)も常備して、ラーメンを食べる機会に使ったり、エスニック風のサラダに入れて食べています

ハーブ各種
ハーブ各種

ハーブ類は野草の類なので、概して生命力は旺盛です。花が咲いて種ができて後、放っておくとあちこちで芽が出てきます。新しく種を買う必要がないものが多いです。今回の発見は、セージを冬の間放っておくと春先から花が咲き、これがとても美しいんです(上述のプンタレッラの花には負けますが、、、)

セージの花
セージの花
夏野菜の料理

初夏から秋口にかけては、野菜が豊富に採れるので野菜の購入は殆どしません。取れ過ぎる時は、根菜類は漬物(ぬか漬け、みそ漬け、粕漬、塩漬け、ピクルス、など)、ハーブ類は乾物、ナスなども乾物にしておけば冬場の鍋材料で重宝します。
しかし、新鮮なうちに食べるのが一番なのでワイフは単調にならないように色々な創作料理で楽しませてくれます(感謝!)。例えば7月10日の夕食では;

自作野菜のみの惣菜_7月10日
自作野菜のみの惣菜_7月10日

① ナス、カブ、漬物用のウリの古漬け(結構酸っぱい!)
② ナス、ジャンボ・シシトウ、ズッキーニを一旦素揚げしてから少々砂糖を入れた味噌で和える(私の大好物!)
③ キュウリのゴーヤソース和え。ゴーヤソースはゴーヤ、カシューナッツ(軽く炒る)、塩少々にオリーブ油を加えフードプロセッサーにかける

ゴーヤは取れ過ぎるので2本のみ植えていますが、それでも毎日1~2本は採れてしまうので、定番料理のゴーヤチャンプルーや、薄くスライスしてさっと湯がき、鰹節をトッピングして食べる方法なども飽きてきます
ゴーヤソースを作り置きしておくと、木綿豆腐を崩したものに混ぜておぼろ豆腐風!にするとか、ドレッシングに混ぜて使う方法もあり、ゴーヤ料理のバリエーションが増えて重宝します

以上

森林経営管理法が成立しました!

はじめに

上の写真は、日田木材協同組合のサイトに載っていた写真から拝借したものです。日田と言えば、江戸時代、天領(徳川家の直轄地)の森として手厚く保護されていたこともあり樹齢300年を超える巨木が多く残っている貴重な森林です。植林は15世紀から始まり、現在もなお林業はこの山間の地の主要産業として成り立っています

日本の林業については、1955年までは木材の自給率が9割以上であったものが、木材輸入の自由化が段階的に行われた結果(1964年に完全自由化)、2008年には自給率が24%までに落ち込んでおり、正に衰退の一途を辿っています(詳しくは、私のブログ“年の初めのためしとて~”の<農業、林業、水産業の未来・ 2.林業の分野>の部分をご覧ください)。この結果、国産材供給の問題だけでなく、山間地域の過疎化地滑り、鉄砲水による災害水源地域の荒廃、などの諸問題を惹起しています。こうした問題を抜本的に解決すべく新たな法律が誕生しました

「モリカケ」問題で、与野党が紛糾している国会で、珍しくさしたる混乱もなく「森林経営管理法」が成立しました(5月25日に衆議院を通過;6月1日施行;審議経過については森林経営管理法案・審議経過をご覧ください)。新聞やテレビの様なニュースメディアでは殆ど取り上げられなかったものの、この法案が野党を含む殆どの政党が賛成して成立した背景には、日本の森林の荒廃がかなり進み、国民全体に、“何とかしなければ”という共通認識があったからと思われます。以下にこれからの日本林業再生のきっかけとなると思われるこの「森林経営管理法」の内容をできるだけわかり易くご紹介したいと思います

森林経営管理法のねらい

日本の国土面積、約37万平方キロのうち森林の面積は66%を占めています。この内、国が管理の責任を持つ国有林が31%、地方公共団体が管理の責任を持つ公有林が11%、所有している個人、法人が管理の責任を持つ私有林が58%を占めています。尚、大変紛らわしいのですが、公有林と私有林を総称して民有林と言います。「はじめに」で挙げた各種の問題は、ほぼこの民有林の管理が十分に行われていないことが原因とされています

昔は「山持」と言えば富の象徴であり、生産サイクルが数十年から数百年に及ぶことから短期間で投資回収ができない林業の問題も、「山持」の人たちの有り余る財力によって賄われてきました。しかし、安い外材の流入により、木材自体の価値が大幅に下がり、山林の所有は“役に立たない財産”、あるいは“売るに売れない厄介な財産”となり、管理されないまま放置されてしまうこととなりました
森林経営管理法の目的は、管理が行き届いていない民有林を官主導できちんとした管理を行えるようにすることです

しかし、そもそも私有財産である私有林の管理を、官が勝手に行うことが許されるのかという問題があります。森林経営管理法では、この問題を以下の様な考え方で私権を制限できる根拠としています

<なぜ森林所有者の権利を制限できるのか>
① 現在、実質的に管理が行われていない私有林が多く存在し、本来森林所有者が適時適切に行うべき伐採造林保育(下刈、枝打、間伐、など)が行われず荒れ果ててしまった森林が多く存在すること
② 荒れ果ててしまった森林は、その所有者が負うべき保安林としての公的な責任(水源の涵養、土砂の崩壊その他の災害の防備、生活環境の保全・形成、など)果たせなくなってしまっている事例が発生しつつあること

山林の崩壊
山林の崩壊

③ かつて林業で栄えた多くの山間の村落が林業の衰退により過疎地と化しており、こうした村落を再び活性化させるには林業が最も適していること

④ 日本の地理的な条件を勘案すると、日本は森林面積森林資源の蓄積量森林の成長量の数値から判断して、森林資源が最も豊かな国の一つであり、林業は国際競争力の高い成長産業になりうること(← 詳しくは、私のブログ“年の初めのためしとて~”の<農業、林業、水産業の未来・ 2.林業の分野>の部分をご覧ください)

つまり、憲法で保証している財産権を「公共の福祉」の観点から、必要最小限の範囲で制限を加えていることになります
憲法29条:財産権は、これを侵してはならない。財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることができる

森林経営管理法の概要

以下、条文の具体的な内容について詳しく知りたい方は森林経営管理法を読み込んで戴くこととして、ここでは、全体を俯瞰して重要なポイントを説明(一部私見を交えて!)していきたいと思います

<森林経営管理法のねらい>
① 林業の成長産業化と、森林資源の適切な管理を両立させる為に、市町村を介して林業経営能力の低い小規模零細な森林所有者の経営を、意欲と能力のある林業経営者につなぐ(⇔委託する)ことで、林業経営の集積・集約化を図る
⇒ 大規模化によって効率的な森林用特殊大型車両の導入、広域的な林道整備が可能となり、長期的且つ計画的な林業経営が可能となります
経済的に成り立たない森林については、市町村が自ら経営管理を行う仕組みを構築する
保安林としての機能を維持するための計画、実施が容易になる

<森林所有者の責任の明確化と市町村による森林経営管理権の行使>
森林所有者は、自身の保有する森林について、適時に伐採、造林または保育(下刈、枝打、間伐、など)を実施することにより、適切な経営または管理を持続的に行わなければならないと定めています(森林経営管理法第4条)
② 森林所有者が上記の義務を果たせない時は、市町村が森林所有者から経営管理権(森林の伐採、木材の販売、造林、保育を行う)を取得し経営管理を行う(同法第3条~第9条)と定めています

<市町村による森林経営管理によって何故林業の成長産業化が図れるのか
都道府県が意欲と能力のある林業経営者」を募集、公表する(同法第36条)。この林業経営者には、以下の支援措置を実施する
支援措置の内容(同法第44条~第46条、附則第2条);
国有林野事業に係る伐採等も委託
* 国及び都道府県による技術指導
* 独立行政法人農林漁業信用基金による経営支援、林業経営基盤の強化等の促進のための資金の貸し付け期間の延長(12年⇒15年)
<参考> 林業の規模拡大の為に林業を経営するものに債務保証を行う制度:180206_林業9割に債務保証_大規模化支援

市町村は、管轄する区域内の民有林について経営管理の状況を調査し、市町村に集積することが必要かつ適当であると認める場合には、経営管理権集積計画を定める
この計画は、市町村森林整備計画森林法第10条の5で民有林については、10年を一期とする森林整備計画を立てなければならない)、都道府県が実施する治山事業(森林法第15条の15で定められている)、その他地方公共団体の森林の整備及び保全に関する計画との調和が保たれたものでなければならないとされています

治山事業_林野庁
治山事業_林野庁

経営管理集積計画に定めるべきこと(森林経営管理法第4条);
* 集積計画対象の民有林の所在地番地目、面積所有者の氏名又は名称住所
* 経営管理権の執行開始時期及び継続期間
* 市町村が行う経営管理の内容
* 経営管理を行った結果、利益が得られた場合に森林所有者に還元すべき金額の算定方式、及び支払時期・方法
* その他

 市町村は、都道府県が公表した「意欲と能力のある林業経営者」に林業経営に適した森林の経営を委託する。また、林業経営に適さない森林については、市町村自らが間伐等を実施する

<森林所有者の権利、保護について>
① 市町村の経営管理集積計画は、森林所有者の同意を得なければならない(同法第4条の5)
② 市町村は、集積計画対象森林の森林所有者に対してその意向に関する調査(経営管理意向調査)を行わなければならない(同法第5条)
③ 森林所有者が、経営管理権集積計画に同意しないとき、市町村長は、農林水産省令で定めるところにより、同意すべき旨を勧告することができる(同法第16条)

④ 森林所有者が、経営管理権集積計画に同意しないとき、市町村長は、農林水産省令で定めるところにより、6ヶ月以内に都道府県知事の裁定を申請することができる(同法第17条)
⑤ 申請を受けた都道府県知事は、森林所有者に対して2週間以上の期間を指定して森林所有者に意見書を提出する機会を与えるものとする(同法法第18条)
⑥ 都道府県知事は、森林所有者の森林について、現に経営管理が行われておらず、かつ、所有者の意見書の内容、当該森林の自然的経済的社会的諸条件、その周辺地域における土地の利用の動向その他の事情を勘案した上で、集積することが必要かつ適当であると認める場合には、裁定をする(⇔森林所有者の財産権の制限)ものとする(同法第19条)

森林所有者の全部または一部が、探索を行っても不明である場合、市町村が森林経営管理権を行使する旨を公告する。森林所有者は、広告の日から6ヶ月以内であれば異議を述べることができる。期間内に異議を述べなかった場合は、経営管理集積計画に同意したものとみなす(同10条、11条)

森林経営管理法に関連する法規制、制度、等

林業の衰退と再生の必要性については、民主党政権時代(2009年~12年)から既に政官界の共通認識となっており、その後の自民党政権でも「成長戦略」の一つとして取り上げられています。従って、森林経営管理法成立以前にもこれに関連する政策が着々と進められておりました

<林地台帳の整備>
市町村が経営管理集積計画を策定、実行するに当たって、民有林の所有者、及びその境界を確定することが非常に重要であることは言うまでもありません。しかしながら民有林の内、特に私有林の所有者については、登記上の所有者が死亡したのち、何代にもわたって相続権のある人が相続の手続きを行っていない場合(⇒相続権のある人が多数存在することになります)、あるいは所有者が転居して探索が困難になっている場合も多く、誰が所有者か確定できないケースが多数存在しているといわれています。また、森林の境界が不明確なケース(もともと境界の目印が“口伝!”によるものが多いのだそうです)も多いといわれています

そこで、2017年5月の森林法改正によって、市町村が統一的な基準に基づき、民有林の所有者やその境界に関する情報などを整備・公表する林地台帳制度が創設されました(森林法第191条の4~7)。この制度の概要については林野庁が作成した林地台帳制度の概要をご覧ください
また、実際に各市町村が林地台帳を整備するにあたってのマニュアルも林野庁が整備しておりますので、興味のある方は林地台帳及び地図整備マニュアルの概要ご覧になってみてください
尚、林地台帳作成の義務を負った市町村も、作成にかかる多額な費用を自前で賄うのは難しいので、次項に紹介する新税を原資とした、国や都道府県からの補助金が頼りになりそうです

しかし、法律が出来、補助金が得られても、広大な森林面積を有する自治体では、かなり困難な作業となりそうです。境界の確定などには、最新のGPS技術やドローンを利用する技術をなどを持っている調査会社のビジネスチャンスが増えそうですね(私見!)。参考までに長野県のケースについて日経の記事を見つけましたので、興味のある方はご覧ください(171216_森林整備まず境界明確化_林地台帳作成

<森林環境税>
森林環境税は、温暖化対策として空気中の炭酸ガスの吸収源となる森林の整備を行うための財源確保として平成2018年度の税制改革にて導入が決められました。ただ、2019年度から徴収すると納税者の負担感が増すため、東日本大震災の復興財源の上乗せ措置が終わる翌年の2024年度に導入することとなりました
この税の徴収は、現在個人住民税を収めている約6千2百万人すべてが対象とされており、1人あたり千円の徴収(復興特別税と同額)とすると年間で約620億円の税収が想定されています

しかし、森林環境税は名前は異なるものの目的は同じ森林整備の名目ですでに独自に導入している地方自治体があります。高知県が2003年度に森林環境税を導入したのをきっかけに2017年1月時点では、全国36県・1政令市で導入されています。税額については下表の通りバラバラです;

森林環境税_既存の地方税
森林環境税_既存の地方税

従って、今後は各自治体毎に地方税との二重課税の問題を解決しなければならないと思われます。また、新税については2024年から配布されることになりますが、林地台帳の整備などは一刻も早く実施する必要があります。従って、新税開始までのつなぎとして、地方交付税に上乗せして実質的に開始することも考えているようです
参考:180424_森林環境税_既存の住民税との二重課税問題

おわりに

先日、NHKの「クローズアップ現代+」で取り上げられていましたので、ご覧になっている方もいると思いますが、人口1550人の兵庫県西粟倉村では、国の平成の大合併政策を拒否して2008年以降「百年の森林構想」を掲げて林業を中心とした村おこしを始めています。すでに全国から志ある者が集まり人口も増加しつあるそうです
参考:兵庫県西粟倉村の村おこし(前編)同(後編)

大都会では、有効求人倍率が1を超えたといいながら、職にあぶれ日雇いで食いつないでいる若者、夢のない「派遣労働」で行き場を失っている若者に満ち溢れています。こうした若い労働力が、森林経営管理法のもとで林業を中心とした村おこしに参加してゆけば平成の次の時代は明るいものになると思うのですが、、、

Follow_Up:2019年6月5日、改正国有林野法が成立(民間林業の参入支援)」しました

Follow_Up:2020年7月30日、「林業大国」への大転換
*詳しくは、MEC Industryの中核を担う三菱地所のサイトをご覧ください

以上

災害のリスクについて考えてみました

はじめに

毎年3月11日近くになると、新聞やテレビ、等のマスメディアは2011年に発生した「東日本大震災」の特集が組まれます。この未曽有の大災害は、地震による「建物の倒壊」の人的被害もさることながら、多くの死者、行方不明者を出した「大津波と、放射性物資が飛散したことに伴う広範囲且つ長期にわたる住民避難をもたらした福島第一原子力発電所の「原子力事故による被災者の生活に焦点を当てて報道されるものが多い様です

1995年に起こった阪神淡路大震災では6千人以上の死者を出しましたが、これは「建物倒壊」による死傷者の他に、倒壊した建物の中に閉じ込められた状態のまま地震によって発生した「大火災」によって亡くなった方も多かったと聞いています
また、雲仙普賢岳の噴火(1991年)、御嶽山の噴火(2014年)など、「火山の噴火」に伴う大災害も、歴史を辿れば枚挙にいとまがありません

これらの大災害の第一原因となる地震や噴火は、いずれも地球規模の地殻の変動によってもたらされることはわかっており、日本に住む以上、避けることができないことは明らかです。20世紀中頃に提唱されたプレートテクトニクス/Plate Tectonicsという理論によって発生のメカニズムは説明できる様になったものの、緻密な地質調査や、最新のセンサー、GPSを駆使した観測によっても地震や噴火の予測は人的災害を大幅に防ぐレベルには達していません

そこで、自然災害に関しては全くの素人である私ですが、学生時代から40年以上にわたって航空機に関わってきたこと、またサラリーマン人生最後の10年ほどは原子力ビジネスに関わってきたことことで得た知識を何とか生かせないかと、無い!知恵を絞ってみることにしました
因みに、航空機の場合、1903年にライト兄弟が最初に動力飛行を成功させてから凡そ100年しか経っていませんが、現在安全な交通機関として大量輸送の役割を担っていることはご存知の通りです。もともと空気より重い航空機やそれに乗っている人間は、空中を飛んでいる訳ですから、事故が起きた場合は、地上や水上の乗り物よりは遥かに死亡のリスクが高いことは明らかです。約100年の歴史の中で多くの航空機事故を経験し、これを乗り越えて現在があります。詳しくは(1_航空機の発達と規制の歴史)をご覧ください。勿論、現在でも事故に遭って死亡するリスクはゼロではありません。しかし、航空機を利用するお客様はこのリスクを許容しているからこそご利用になっている訳です。地震や噴火という自然現象は制御はできませんが、これらに伴う人的被害を極小化する手段については、航空安全に関わる知見を応用できる可能性はあると思います

リスクとは

リスク(Risk)という言葉は最近よくメディアに登場します。曰く『大地震のリスク』、『放射線被ばくのリスク』、『肥満によって重篤な病気に罹るリスク』、『噴火のリスク』、『戦争のリスク』、‥など
広辞苑によればリスクとは、あっさりと「危険」としか書いてありません。しかし何となくしっくりいかないので、ネットで調べてみると「ある行動に伴って(あるいは行動しないことによって)、危険に遭う可能性や損をする可能性を意味する概念」と書いてありました。最近多摩川で入水自殺して話題となった西部邁の最後の著書:「保守の真髄—老酔狂で語る文明の紊乱」を読んでいたら、リスクとは「確率的に予測できる不確実性』と書いてありました。私にはこの定義が災害の死亡リスクの問題を論ずるときにはもっとも当てはまると思われます

つまり、リスクを語る時は、リスクの大きさもさることながら、そリスクが起こる確率を把握しなければ意味がありません。例えば、およそ6千5百万年前の白亜紀末の小惑星の衝突によって恐竜が死滅した(最近は、恐竜は死滅せず鳥類に進化して生き延びたという説が有力になっています)ことはよく知られていますが、太陽系の小惑星自体は無数に存在しているものの、地球に衝突するリスク(参考:小惑星衝突防止の研究)を心配している人は殆どいません。つまり、発生確率が極めて低いからです
これに対して地震や噴火は、少なくとも数十年から数百年の間には、ある特定の場所で発生する確率は公表されています。しかも、東南海地震など大津波の伴う巨大地震や、地域が限定されるものの発生確率の高い直下型地震はいつ起こってもおかしく無い状況にあると言われています。こうしたリスクに対しては、何時、何処でという正確な予測が不可能である以上、不意に襲われたときに人が生き残れる確率をどう高めるかという研究が最も重要であると思われます

現在、大津波対策として、高台への移転防潮堤の建設(復興)、逃げ道や逃げ場所の確保緊急通報体制の整備、などがマスメディアに登場していますが、これらはいずれも今回被害にあった東北各県では大なり小なりすでに行われていた対策ではなかったかでしょうか? それでもなお、どうしてあれだけ尊い命が失われてしまったのでしょうか? 科学技術先進国である日本としては、少し努力、工夫が足りないような気がしてなりません

Follow_Up:210214_震災10年「防潮堤に頼らない」を選んだ二つの街 被災前の砂浜を取り戻した地域も_AERA

航空機の深刻な事故を減らすために、設計精度の向上、機器の信頼性の向上、地上及び航空機搭載の安全装備の向上、操縦技術のレベル管理の厳格化、ヒューマンエラーを防止するための装備や訓練の充実、などが絶えず行われて事故の確率は相当程度減ってきました。1990年代以降、これらに加えて事故が起きても乗客・乗員が生存する確率を増やすために、客室内装備の耐火性の向上と、椅子の強度向上(現在の基準は重力の11倍の衝撃加重に耐えることが求められたいます)が行われました。これらの基準は、事故によって亡くなられた方の死亡原因を調べた結果、機体火災による焼死と事故の衝撃で椅子ごと飛ばされてしまった事による激突死であることがわかり、基準が強化されました。この基準のお陰で最近の航空機の全損事故では、全員死亡のケースは減ってきています

そんな訳で、以下に思いつくままに私の稚拙な!アイデアを披露してみたいと思います

大津波から生還するには

2011年3月11日の大災害が発生してから5ヶ月ほど経ち災害救援が一段落し、公的・私的な復興支援もある程度整ってきた8月初旬、3泊4日の日程で個人的に被害・復興状況の調査に行ってきました。東北高速道「花巻」経由で太平洋沿岸を走る国道45号線に出て以下のルートを辿りました(残念ながら旅程の関係で久慈市、宮古市、大槌町は割愛);
釜石市」⇒「大船渡市」⇒「陸前高田市」⇒「気仙沼市」⇒「南三陸町」⇒「石巻市」⇒「松島町」⇒「塩竃市」⇒「多賀城市」⇒「仙台市」⇒(長い海岸線の部分)⇒「南相馬市」⇒通行止(福島第一原子力発電所周辺)避難指示が出た「浪江町」を経由して常磐高速道経由「いわき市」⇒「千葉県浦安市の埋立地

浦安市を除き、殆どの海岸近傍の平地部分は、夏草が生い茂る中に流された船や自動車の残骸が転々と残る所謂「荒蕪地」となり、市外地域の空き地は「瓦礫の山」が連なっていました;

荒蕪地・船の残骸・瓦礫の山
荒蕪地・船の残骸・瓦礫の山

陸前高田市では、津波災害の特徴が良くわかる写真を撮ることができました;

東日本大震災_2棟のアパートの被害状況
東日本大震災_2棟のアパートの被害状況

この写真にあるアパートの前面は海岸に向いており(海岸付近のホテルやアパートは景観を重んずるために所謂「オーシャンビュー」の立地が多い)一棟目は4階まで津波の被害に会ったことが分かります。一方その後ろの二棟目は1階と2階の一部が被害を受けているのみであることがわかります。アパートの1階分が仮に3メートル程度とすれば、1棟目は12メートルの高さの津波を受けたことになりますが、その後ろにある2棟目は3~5メートル程度の津波であったことがわかります。この現象は、海岸すぐ近くに立地していた「キャピトルホテル1000」でも客室レベル(恐らく10~15メートル以上)は被害を受けていない事が分かります;

東日本大震災_海沿いのホテルの被害状況
東日本大震災_海沿いのホテルの被害状況

津波被害を受けたすぐあと(4月1日)にこのホテルの被害状況を調査した記録がネットに残っていましたので詳しくは(地震直後のキャピタルホテル)をご覧ください

また今回の調査旅行の全行程で、大小多くの川の河口を通過してきましたが、河口付近の被害が比較的少ないことに気が付きました。後でニュースなどで知った事ですが、大きな川ではかなり上流まで津波が遡り、死亡を含む被害が発生していましたが、動画などから見る限り海岸付近の津波の様な破壊的なものではなく、堤防の低い所から水が溢れ沿岸の住宅地に浸水していくというプロセスを辿っていました

松島町では、被害を受けたホテルに泊まりましたが、被害は一階のホール部分のみであった様です。恐らく松島町は地図(松島町の地図)をみれば分かる様に、湾の入り口に大きな島があること、湾内にも小さな島々がある事により、津波の破壊力が減殺されたものと思われます

今回の地震は、千年以上前の西暦869年(平安時代)に東北地方を襲い甚大な被害を与えた貞観地震(少なくともマグニチュード8.3以上と推定されています)と並ぶ巨大地震です。貞観地震の際の津波は、百人一首に選ばれている『後拾遺和歌集(西暦1086年)』の清原元輔作成の一首;
  契りきな かたみに袖をしぼりつつ すゑの松山 波越さじとは
にも読み込まれていますが、今回は仙台に向かう途中、多賀城市にあるその『すゑの松山』も訪ねてきました

末の松山
末の松山

今回の地震でもちょっと高台になっているこの『すゑの松山』のすぐそばまで津波の水が押し寄せて来たそうです

仙台では、海岸近くにある『仙台空港』にも立ち寄って被害状況を見聞してきました;

仙台空港の被害状況
仙台空港の被害状況

この空港は、長い海岸線(仙台空港の立地)近くに立地しており、到底防波堤などで空港を守ることはできません。しかし、津波は一階のホールの浸水にとどまっています;

浸水した高さの標識
浸水した高さの標識

仙台から相馬に続く長い海岸線は、仙台空港周辺と同じ様な津波の爪痕が残っていました。特に海岸に設置されていたはずの「消波ブロック」が津波に流されて転々と転がっている光景は印象的でした;

仙台⇒相馬への長い海岸線の被害の様子
仙台⇒相馬への長い海岸線の被害の様子

仙台空港と同様、それ程高い津波に襲われた訳ではなかったにも拘わらず、逃げ場所となる高台が無い中で、車で避難しようとして命を失った人が多かったと言われています

千葉県・浦安市を訪ねた理由は、地震によって生じた液状化現象の被害状況を確認する為で、今回のブログの趣旨には合致しませんので、被害状況、等は割愛します

<津波被害の分析>

この調査旅行で私が強く印象付けられた津波の特徴は;
A.津波は、突然現れる大河の様なものである
B.津波の破壊力は津波が押し寄せる『速度』と波長が極めて長いことからくる膨大な『水の量』で決まる

津波の簡単なモデル
津波の簡単なモデル

例えば、ある湾(入江)に侵入する水の量は、上図の簡単なモデルで説明すると、「押し波の部分の面積」「湾(入江)の入り口の幅」に相当します。気象庁のネット情報によれば、津波の波長は数キロ~数百キロとされており、押し寄せる水の量が膨大になることが感覚的に理解できると思います。沖合における津波の波高がそれ程でなくても、被害が大きくなるのは、こうした理屈によるものです

また、津波は水であることから、基本的に「粘性流体力学」に従うと考えてよいと思われます。しかし、その精密な解析は、地震発生地点における津波の波高や波長、津波の進行する方向、到達する陸地近辺の海底の形状や、海岸線の形状、到達したあとの陸地の高低、傾斜、障害物などによって大きく影響を受けるために、適切なモデル化を行って数値計算を行うにしても、到達する場所ごとの精密な津波の規模を算出することは極めて困難と予想されます(⇔実際に津波の規模の予想は概ね外れますね!)

ただ、津波の挙動に係る定性的な説明をすることは可能であり、これに基づいて津波が起こす幾つかの現象を素人なりに説明してみることにします;
湾(入江)の入り口が広く、奥が狭まっている場合、入り口の長さで決まる大量の水が湾(入江)内に侵入(上記B項参照)し、更に、湾(入江)の両側の岸から反射した津波が重畳するため、湾(入江)の奥に到達する時には極めて波高の高い津波となります
逆に半島や、島などで実質的に入り口が狭くなっている湾(入江)は、入り込む水量が少ないこと、湾内で津波の運動エネルギーが拡散し波高が低くなります。また、島などがあれば、津波の運動エネルギーが島との衝突によって失われ、津波の破壊力は減殺されることになります(松島湾のケース)
防潮堤に必要な高さは、侵入してくる津波の水の量速度で決ります。津波の運動エネルギーは「水の量(=質量)」x「速度の2乗」に比例するので、防波堤にぶつかった時は、この運動エネルギーは、防波堤に沿ってせり上がることによるポテンシャルエネルギー(位置エネルギー)の増加で相殺せねばならず、想像以上に津波は高くなると考えなければなりません(前掲の「2棟のアパートの被害状況」の写真)。万里の長城と言われた宮古市田老地区の10メートルの防潮堤(世界最強の防波堤)を津波が軽く超え、簡単に破壊されてしまったのはこの理屈によるものと思われます。一旦防波堤の一部が破壊されると、寄せ波だけでなく、引き波で重い船や破壊された家屋の残骸、倒木などが防波堤に激突し、その集中荷重で防波堤は簡単に破壊されてしまったはずです

<参考> 宮古市田老地区の現在の堤防復興状況:防波堤・海閉ざす壁

海岸線の長い平野では、海岸付近でせり上がった高い波(←海底が駆け上がりとなっている為)が崩れ落ちた後、川幅の広い大河の流れのようになって陸地の奥深くに侵入していきます。この大河は表面は平らであっても、この水流は多くの障害物を飲み込んだり、建物を破壊した後の水流なので水中は激しく渦巻く乱流となっており、人間が泳ぐことは不可能です。どんなに泳ぎの達者な大人でも大雨の時の河川の濁流に飛び込めば簡単に水死する理屈(濁流に流された子供を助けようとした親が水死する状況はこれ!)と同じです。車ごと流されて水死してしまう事例の多くは、この乱流が原因と考えられます
大きな川の河口に押し寄せた津波は、陸地を駆け上るよりも抵抗の少ない川を上流に向かって逆流していきます。これによって津波の運動エネルギーは吸収されるため河口付近の被害が少なくなっているものと考えられます。逆に、津波が遡上した上流部では、堤防が低いところから浸水し、被害を発生させることにもなります
海岸から少し離れ大河の流れのようになっている状況では、津波の進行を妨げる様な壁は、流れが比較的緩いと言っても大きな力をうけます。因みに。水は1立法メートルで1トンも重さがあり、相当強度が無ければ直ぐに破壊されてしまいます。通常の住宅が簡単に流される理屈はここにあります。高層アパートなどが流されずに残っているのは頑強な基礎と、その重さにあります。一方、一階部分が鉄骨で出来ており、壁が簡単に破壊されるものであれば、鉄骨の間を津波が抵抗を受けずに流れ破壊されません。調査旅行の道中で、平野の中でポツンと残っている家は概ねこうした構造の家でした

<生き残る方法>

上記の分析から、構築物の被害を未来永劫に亘って防ぐ方策は、津波の規模に不確実性があること、膨大なコストが伴うことで現実的ではありません。また、東南海巨大地震による大津波がいつ発生するかもわからない現在、大津波が来ても生き残る確率を如何に向上させるかを考える方が現実的です。以下は、私の考えた幾つかのアイデアです;
1.大きな川の周辺では、津波の運動エネルギーをできるだけ吸収し、大量の海水を、川を逆流させて逃がすために積極的に活用する。このため、河口付近で溢水しないように堤防を整備するとともに、遊水池が設けられる場所があれば積極的に整備する。また、住宅密集地から外れた耕作地など人口密度が低い所があれば、ここで意図的に溢水させて大量の海水を逃がすようにする
<参考:信玄堤>

*武田信玄の時代に、荒れ川として有名な笛吹川と釜無川の治水のために作られた堤防で、意図的に増水した水を堤防外に逃がして堤防の決壊を避ける様になっています(大雨で決壊すると大被害となる:下の鬼怒川決壊の写真をご覧ください)。増水が収まると逃がした水が川に戻っていく様に設計されています

信玄堤
信玄堤
2015年・鬼怒川決壊の被害状況
2015年・鬼怒川決壊の被害状況

2.広い平野部で津波に襲われたときは、車で逃げるのは渋滞することが目に見えているので愚の骨頂です。大河の様に流れてゆく津波に飲み込まれたときは、溺れないようにすることが生還するための唯一の方法となります。その方法は航空機では非常用装備品として当たり前になっている「ライフジャケット」と「ライフラフト(救命ボート)」を予め準備しておくことです;

ライフジャケット
ライフジャケット
ライフラフト
ライフラフト

航空機の場合、ELT(Emergency Locator Transmitter)という装備が義務付けられており、墜落の様な大きな衝撃を受けると救難信号が自動的に発信される様になっており、広い海洋に墜落しても遭難機、遭難者の位置を確認できる仕組みになっています
津波用のライフジャケットやライフラフトに、水に漬かると救難信号が発信される装置や夜間用のLEDライトを装備するようにすれば、引き波で沖合に流された遭難者も発見が容易になると思います。東日本大地震の津波では、逃げ足の遅い多くの子供や老人が犠牲になりました。是非こうした非常用装備で、生還の可能性を高めてほしいと思います

尚、ライフラフトであれば、救助を待つ間に「低体温症」で死亡することも防ぐことができます。家族単位での行動が可能となり、一層生存率が高まることも期待できます。
<参考:輪中>
昔から洪水に見舞われてきた濃尾平野の揖斐川、木曽川、長良川の下流域では、「輪中」によって水害から命を守ってきました。大河の様な津波に対しては、この知恵から学ぶところが多いと思われます;

輪中・自家用の船
輪中・自家用の船・輪中・自家用の船
輪中の中の家屋の工夫
輪中の中の家屋の工夫

<Follow-up>
*2018年9月19日の朝日新聞DIGITALに(スーッと近づいてきた無人の「神様のボート」住民救った_西日本豪雨災害)という記事が出ていました

<Follow-up>
*2019年10月日本に上陸した台風19号は甚大な水害を齎しました

台風19号進路_2109.10月

これだけの大雨だったにもかかわらず、東京都心とゼロメートル地帯が免れたワケ について:191023_台風19号の浸水被害 東京都心とゼロメートル地帯が免れたワケ
この被害に関して、今後の治水行政について学識者が有益なコメントを出しておりますのでご紹介いたします:191114_水害の猛威に備える_山田正氏・角哲也氏・土屋信行氏

また、今回の災害の中で、利根川水系の八ッ場ダムによる治水効果が大きかったことが話題になりましたが、全国の約三千か所のダムの治水効果を最大化するためのルール作りが始まった様です:<191116_ダム放流指示しやすく、国交省 電力などと手順協議

3.建物自体を、圧倒的な破壊力を持つ津波に破壊されないようにするには、以下の様に極めて限定的な方法しかありません
鉄筋コンクリート製の高層建築物であれば前掲の「2棟のアパートの被害状況」、「海沿いのホテルの被害状況」の写真を見れば分かる様に、その重量と基礎の堅牢さで建物の崩壊は免れることが可能であると思われます。更に、建物の向きを「オーシャンビュー」ではなく、海岸線に直角の方向にすれば、津波の立ち上がり方も少なく、より低層部分も冠水しないで済むと考えられます
長い海岸線の平野であれば、津波の高さはそれほどではない(今回の大津波でも1階~2階の高さ)と考えられますので、普通の個人用の邸宅でも、1階部分の柱を鉄骨で作り、壁を壊れやすく!して、津波が来た時には簡単に壊れて水流が容易にすり抜けられるようにすれば(上の輪中の絵の「母屋の1階部分」をご覧ください)、家自体は守れる可能性があると思われます。尚、この時、引き波も大河の様に水が流れますので、流されてきた重量物の衝突で柱の鉄骨が破壊されないようにしたほうがより良いと考えられます。この為には大きな川の橋桁の上流側に設置されている流木などが橋桁に激突するのを防止する構造物を海と反対側に設置することが有効であると考えられます

京都嵐山・渡月橋_流木除けの効果
京都嵐山・渡月橋_流木除けの効果

Follow_Up:2021年9月12日の日経新聞に水害対策に「水上都市」 浮かぶ家・1階は柱だけの構造という興味深い記事が掲載されていました

その他の災害から身を守るには

1.大地震による家屋の倒壊や大火災から身を守るには

大地震による建物の倒壊は、建物自体の耐震性で決まります。現に最新の建築基準法に基づいて建てられている建物に住んでいる人はそれ程心配する必要はないと思いますが、そうでない場合は、耐震診断を予め受け、必要な補強を行うことによって安心して住める状態になると思います。家全体では改修費の負担が大きすぎる場合は、寝室や、居間など居る時間が長い所のみを改修することでも、倒壊した家屋の下敷きとなってしまうリスクを相当程度下げることが可能です

大地震による火災で命を失わないようにするには、まず倒壊しない安全な家に住み、地震が収まったと同時に安全な避難場所に即刻退避することが肝要です。しかし、阪神淡路大震災の被害地域の様に木造家屋が密集する地域に住んでいる場合;

阪神淡路大震災
阪神淡路大震災

倒壊した建物によって狭い路地が塞がれると同時に、地域のあちこちから出火し逃げ道を失う恐れもあります。また、火災の規模が大きくなると「火災旋風」(関東大震災や東京大空襲でもその発生が死傷者を増やしたと言われています)が起きる可能性も考えられ著しく危険な状態になります
一旦火災があちこちで発生した場合、個々の家の耐火性の向上や地上の消火活動などで延焼を防ぐことなどできません。消火するのであれば大規模な森林火災に使われる様な航空機による空からの消火活動が一番効果が大きいと思われます。

日本ではこうした航空機による消火活動は、今でもヘリコプターを利用する事は可能と思われますが、大型の固定翼機による方がより効率的です。日本にはUS2という飛行艇があり;

US2飛行艇
US2飛行艇

この機材を大規模火災の消火用に改修(US2・消防用に改修)し、人口密集地近くの基地に配置する施策も検討する価値があると思われます

また、地域全体で家が倒壊しても絶対に火災を発生させない様にする方法も考えられます。発火の原因は、その殆どが調理・炊事、暖房用の電気、ガスです。最近のガス、電気設備には個々に地震による遮断装置は付いていますが、古い設備には、この遮断装置が付いていない場合もあります
従って、住宅密集地域では、電気、ガス以外のエネルギー源(例えば炭火を使う店舗などが考えられる)を行政レベルで禁止すると同時に、震度があるレベル(その地域で最も耐震性の無い住宅が倒壊するレベル)を越えたら、直ちに地域全体の電気、ガスの供給を遮断することが有効れあると考えられます。勿論、一旦電気、ガスの供給を止めてしまうと復旧は個別の家ごとにおこなう必要があるので、電気、ガスの会社はやりたがらないとは思いますが、、、

2.大規模噴火から生還するには

噴火による死亡事故の殆どは、「噴石の直撃」を受けることと、「火砕流」に巻き込まれることです。噴火予知が正確にできればこんな心配はしないで済むのですが、今の知見だけでは予測はかなり難しい様です

噴石による事故は、防ぐことが難しく、今年1月の草津スキー場のケースでは思いもよらぬところから噴火し、自衛隊員の死傷事故が発生しました。2014年には御嶽山の突然の噴火で、登山者58名が死亡(他に行方不明者5名)しました。噴石は、噴き上げられたものが、ほぼ垂直に落ちてくるのでヘルメットを被っていても被害を避けることは不可能です。丈夫なコンクリート製の待避壕に避難するか、丈夫な屋根をもつ山小屋などに避難するしかありません。ただ、致死性の高い大きい噴石は火口近くに落ちるので、登山者の多い火山の自治体は、火口近くに待避壕を設置する対策を行う努力をしてほしいと思います。また、登山者は待避壕、山小屋などの位置を常に確認しておく習慣を持つことが自身の命を守る上で必要であると考えられます。

火砕流による事故は、噴石に比べるとより大規模で深刻な事故に繋がります。有名なベスビオス火山による火砕流は、ポンペイの町を一瞬の内に消滅させました。最近の日本でも、1991年の雲仙普賢岳の火砕流では報道関係者を含む44名が死亡しました;

雲仙普賢岳の火砕流
雲仙普賢岳の火砕流

ネット情報によれば;火砕流の実体は、「火山砕屑物(さいせつぶつ/岩石が壊れてできた破片や粒子を指す地質学用語)と噴出物の火山ガスや水蒸気が混合して流動化したもの。ガスは、マグマに含まれていた火山ガスと、火山噴出物中および流走中に取り込んだ空気からなる。温度は、マグマに近い高温のものから100℃程度まで幅がある。水蒸気噴火とマグマ噴火では水蒸気噴火の方が発生頻度が高い」であり、上の写真を見れば分かる様に、走っても逃げられないような相当な速度で襲来し、巻き込まれればその高温の環境により確実に死に至る恐ろしい現象です
最近は、噴火活動の結果生じた火口近傍の堆積物の量や、斜面の形状、方向、過去の火砕流の記録、などを勘案して、火砕流の危険性を警告する情報が流れるようになりました。ゆめゆめ好奇心から危険地域に近寄らない様にすることは勿論、避難勧告が出たら早めに非難することが、命を守る唯一の方法です

3.核兵器の攻撃を受けた時に生き延びるには

日本は、中国、ロシア、北朝鮮という核保有国に囲まれ、しかも中国とは尖閣列島帰属問題、北朝鮮とは拉致問題を抱えています。勿論、米国の核の傘で守られている為、簡単には攻撃されることないとは思いますが、仮に日本が最初に核攻撃された場合、米国が自国民を核攻撃の危機に晒さす反撃を行うかどうかは疑問が残ります。だからといって、日本も核武装すべきだという主張に私は組しません。核攻撃を受けても多くの人が生還できる方策を予め考えておくことが大切であると考えます

昔台湾に駐在した時、最初に奇異に感じたことは、台北市内の主要道路の交差点は頑丈なコンクリート製の地下歩道が整備されいることでした。現地の人に聞いたところ、これは大陸から攻撃を受けた時の防空壕の役割を果たすのだそうです
大国に囲まれた国、隣国から侵略を受けた歴史を持つ国は、防衛の第一の目標は最初に攻撃されたときに如何に生き残るかです。因みに、フィンランドの核シェルターをご覧ください;

フィンランドのシェルター
フィンランドのシェルター

戦後、唯一の被爆国として非核三原則を堅持してきた日本であっても、核攻撃されないという保証はありません。日本にとって非核三原則を遵守すると同時に、核攻撃をされても生き残る方法を、科学技術先進国である日本の総力を挙げて取り組むべきであると私は考えています。因みに、米国では数百万円~数千万円で個人用の核シェルターを販売している会社がありますが、最近の最大の顧客は日本人だそうです

日本には、核攻撃を受けると必ず死に至る(即死しなくても、後遺症で死ぬ)と思っている人が少なくありません。その結果、シェルターなど意味の無いものだという人も多い様に思います。その背景には、下記写真のような原爆の惨状を小学校時代からずっと頭に叩き込まれてきたことがあります。また、マスコミや著名な作家による恐怖を煽る記事も多くの人々に影響を与えたに違いありません。私も学生時代に読んだ「広島ノート;大江健三郎著」には多大な影響を受けました。このブログを書く前にもう一度読み返してみましたが、当時としてはやむを得ないにして、もあらゆる病気、あらゆる死が原爆、放射能と結びつけられており、現在の知見を基に判断すると驚くばかり間違いの多い内容です。これによって被曝したものの健康を取り戻した多くの人たちが、結果として差別を受けたことは忘れてはいけないと思います。この本にも引用してありますが、興味のある方は(広島で被爆した医師が大江健三郎に書いて寄こした手紙)読んでみてください;

ヒロシマ被曝直後の惨状
ヒロシマ被曝直後の惨状

核攻撃を受けても生き延びる手段はあります。冷戦時代、米国、ソ連、中国は核攻撃の危機を現実のものとして受け止め、核攻撃から自国民を守る手段を必死に研究してきました。フィンランドの核シェルターも、米国で個人宛に販売している核シェルターも、そうした研究の成果を取込んだものと考えられます

そもそも、核攻撃による死のリスクとはどんなものでしょうか;
① 致死量の放射線を爆心から直接浴びることによる死;
放射線はアルファー線、ベータ線、ガンマ線(波長の短い電磁波)、紫外線・光線・赤外線(波長の長い電磁波)、中性子線、その他の粒子線に分けられます。それぞれの放射線の性質、リスクなどについて詳しく知りたい方は私のブログ(原子力の安全_放射能の恐怖?)をご覧になってください。いずれも爆心地近くで直接浴びれば即死します。しかし、頑丈な遮蔽物に身を隠していれば防御することが可能です。ただ、中性子線だけは透過力が極めて強いので、あるいは水を含んでいるコンクリート、水分を含んだなどで防御することが有効です(原子炉が水やコンクリートで遮蔽されているのはこの理由によります)
また、こうした放射線は爆心から球状に広がると考えれば、爆心からの距離の2乗に反比例して強度は弱まります。例えば、爆心から1キロの地点の放射線強度に比べ、10キロ離れた地点の強度は百分の一になります。基本的に直進することを考えれば、山などの陰に隠れていれば安全ということになります

② 爆風(正体は衝撃波=強烈な音波)を爆心から直接浴びることによる死;
爆心地近くであれば、強烈な爆風で人間を含む重い物体が吹き飛び、何かと衝突して死亡する可能性が高いと思われます。ビル街などでは、爆風で飛び散ったガラスが突き刺さり死に至るケースも多く発生します。爆風も基本的に爆心地から直進するので、頑丈な遮蔽物に身を隠すか、地面より低い所(戦場で爆弾が降りそそぐ環境で塹壕に隠れるのはこの爆風を避ける為です)に潜り込むことで安全を確保できます
よく原爆が炸裂した時の表現で「ピカドン」という言葉が」使われますが、これは「ピカ」で光速あるいは光速に近い速度の放射線が爆裂と同時に到達し、やや遅れた「ドン」で爆風が到達する状況を表現しています(遠くから花火を見た場合を想像してください)。従って、爆心から離れたところであれば、「ピカ」を見てから待避しても間に合う可能性があります(10キロ離れていれば30秒ほどの猶予時間があります)。爆風も、放射線と同じく球状に広がるので、距離の2乗に反比例して強度は弱まります。

③ 爆発後降り注ぐ放射性廃棄物から出る放射線(二次放射線)を浴びることによる死;
核爆発すると巨大な「きのこ雲」が発生することはよく知られています。このきのこ雲は放射性廃棄物を沢山含んでいます。これが爆発後ある程度の時間をかけて地上に降り注ぎます(所謂「死の灰」)。地上に降り積もった放射性廃棄物に近づけばと同様被曝することは明らかです。しかし、放射線の強度は①に比べて桁違いに弱いので直ちに死に至ることはありませんが、長時間に亘ってその環境にいれば放射線障害になる恐れがあります。広島、長崎ではこの二次放射線で放射線障害となった人も多いと言われています。1954年ビキニ環礁でマグロはえ縄漁を行っていた第五福竜丸の23名の船員が被曝したのは、この「死の灰」によるものです詳しくは私のブログ(原子力の安全_放射能の恐怖?)をご覧になってください。ただ、きのこ雲は風向、風速によってはかなり遠方まで届くので、爆心地から離れていても注意が必要です

④ 爆発後降り積もった放射性廃棄物を体内に取り込む事による死;
これは上記私のブログをご覧になって頂ければ分かるのですが、放射性廃棄物で汚染されたほこりや食物を体内に取り込むと、体の内部から継続的に被曝する結果となり、少量であっても非常に危険です。この対策はマスクなどによって肺に取り込むことを防ぐほか、汚染された食べ物を食べてしまうことを防ぐ必要があります。尚、体内に取り込まれた放射性物質の量は、ホールボディーカウンターで測定することが可能です
いずれにしても、放射性廃棄物がある所に入らないことで確実に防ぐことが可能です

以上を踏まえると、堅牢な防護壁、乃至地下に設置された核シェルターは、爆心地近くでない限り①、②の脅威から生還できる可能性が高いことが分かります。また、シェルター内の空気は放射性廃棄物を通さないフィルターを通じて換気されているとともに、相当期間必要な食料は備蓄されているので、③、④の二次放射線の脅威からも免れることが可能です

山間部は直接攻撃されない限り山が守ってくれますが、極度に人口が集中している大都市では、こうした自然の防壁もなく、新たにシェルターなどを設置しようにも場所が確保できません。しかし、大都市では地下鉄網や広い地下街がありますので、ここに多くの人を退避させることによって少なくとも①、②の脅威からは命を守ることが可能だと考えられます
ただ、ミサイルの緊急速報が入ってからの時間の猶予はそんなにありません(北朝鮮からの発射であれば5~10分でしょうか)。また、避難スペースを広く確保するためには地下鉄を直ちに停止させ、地下鉄のトンネルの中も避難スペースとして使わなければなりません。更に、現在は、地下鉄や地下街への入り口が狭く、数も少ないので、核シェルターの代役をさせるのは入り口を増やし、ある程度の食糧の備蓄なども必要になると思います
総理府では(国民保護ポータルサイト)でミサイルが発射されたときの連絡体制や、地下街などの地下施設に避難するなどの注意事項が書いてありますが、地下施設をシェルターとして利用するために必要な改修工事は未だ計画もありません。また、地下への人の誘導の訓練もやっていません。このままでは、実際に核攻撃の脅威が現実のものになった時にどうなるかとても心配です
終戦間際の米軍による都市爆撃で、あれだけ多くの民間人が亡くなってしまった事の反省が未だにできていないのではないでしょうか、、、

<Follow-up>
*2018年12月25日の日経新聞に、Jアラートシステムが変更されるとの記事が掲載されていました:181225_北朝鮮のミサイル発射情報・Jアラート見直し_伝達を都道府県単位
*2022年2月24日のロシアによるウクライナ侵攻、とロシアによる戦術核ミサイル使用の脅しがあったことから、日本にとっても、核武装している中国、ロシア、北朝鮮からの核攻撃のリスクが現実のものとなり、以下の様な記事が掲載されるようになりました;
①2022年4月7日の日経新聞に以下の記事が掲載されました:220407_大阪市、地下鉄99駅を避難施設指定 ミサイル攻撃懸念
②2022年5月27日の日経新聞に以下の記事が掲載されました:220527_都内地下鉄など109カ所、「ミサイル避難施設」に追加
③2022年7月3日の日経新聞に以下の記事が掲載されました:220703_ミサイル避難、地下鉄駅指定3.5倍_神戸、大阪、東京など
④2024年1月27日_「港区に地下シェルター、ミサイルに備え_東京都予算案

以上

高齢者スキー技術の実践_その3

今シーズンは、3回スキー・ツアーに出かけることができました。我々のスキー仲間の中では決して年寄りの部類には入りませんが、正直に言うと初滑りに出かける時は年々億劫になってきています。こうした感覚の背景には「体力が持つか?」、「怪我でもしたら見っとも無いな!」といった不安があるのは否めません。しかしゲレンデに立ってみるとそんな不安はどこへやら、歳を忘れてスキーフリークに変貌してしまいます
初滑りは正月明けに新潟県の「石打スキー場」で、2回目は長野県の「菅平スキー場」、滑り収めは北海道の「ルスツスキー場」となりました。幸い今シーズンは素晴らしい雪に恵まれ、7回目の干支を迎えても尚、スキーができる幸せを噛み締めることができました

ルスツ・スキー場
ルスツ・スキー場

冒頭のスキーヤーの写真は、我らスキー仲間の中で最高齢(84歳)となるTさんの滑りです。私よりも10歳以上年長なので、私も今後10年は滑れるのではと希望が湧いてきます。参考のために、彼の滑降中の動画をYouTubeにアップロードしてみました(84歳の大滑降!)のでご覧になってください。抑制された滑走スピードとズレをうまく使ったターンは超高齢スキーヤーにとって模範となる滑りだと思います
この動画の後半に登場する3人のスキーヤーの内、後ろを滑る2人はいずれも全日本スキー連盟の指導員で、それぞれ66歳のSさんと76歳のHさんです。Sさんは足首を捻挫したばかりであり、Hさんは両膝の靭帯が伸び切っていて、ロボコップの様なプロテクターを装着して滑っていますが、そんなことを全く感じさせない熟達した滑りを見せています

昨シーズンの宿題

昨年投稿した私のブログ(高齢者スキー技術の実践_その2)の最後のくだりに書いてありますが、昨シーズンの私の宿題は「ターン後半の滑りをどうまとめるか」でした
「ルスツスキー場」での合宿で、全日本スキー連盟の指導員である仲間のKさん(66歳)とOさん(74歳)に直接指導してもらう幸運があり、以下の様な幾つかのポイントを体感することができました;

ターン後半から次のターンに至る部分は、できるだけ直線的に滑る方が疲れない(Kさんの言葉を借りれば″美しく見える!”)こと。勿論、小回りのターンではこの直線で滑る部分は無く、短時間のニュートラル・ポジション(斜面に垂直に立ち、スキーの前後を揃える)で二つのターンを繋ぐことになります

② 斜面の傾斜が緩い時は、この直線部分をニュートラルポジションのままターンの大きさに合わせて直線的に滑り、次のターンに入ることになります。ただ、斜面の傾斜がきつくなった場合は、この滑り方ではスキーの方向が徐々に下向きとなり、加速してゆきます。何故なら、斜面に垂直に立てば(⇔ニュートラルポジション)、体は斜面の下方に傾いており、エッジを立てていない限り重力によりスキーは最大傾斜線方向にズレながら向きを変え加速していくことになります(所謂「先落とし」)。この結果、次のターンに入る時にオーバースピードなった場合、ターンの前半で減速の操作(ズラす角度を大きくする)が必要となり、高齢者にとっては雪面からの抵抗が大きくなり、疲れる滑りになります(勿論、筋力、バランス力があればスピード変化に対応して減速を行わずに美しく滑る!事は可能です)

 斜面の傾斜がきつい時は、この直線部分を「斜滑降」、乃至「斜め前横滑り」を行い、ターンの出口と同じ速度を維持し、ニュートラル・ポジションを経て次のターンに入ることでスピード変化の無い疲れないターンを行うことができます。斜面が更にきつくなった場合は、ターンを始動する時の軸足(⇔谷足、ターン終了後は「山足」になります)及びターン終了後の直線滑走時の「山足」にある程度荷重を加えることにより、スピードのコントロールを行うことができます(「斜滑降」では山側に上っていくことにより、また「斜め前横滑り」ではズラす幅をコントロールすることにより可能になります)

これらのポイントを意識した上での私の滑りを、恥ずかしながらYouTubeにアップロードしてみました(ターン開始からニュートラルまで)。来シーズンも、この滑りで安全で快適な高齢者の滑りを目指して頑張りたいと思っています。
私のお目汚し!の滑りをご覧になった後は、私が40年以上に亘って師事しているKさん、Oさんの華麗な滑り(模範滑降)をご覧になって不快感!を中和してください!

以上

苦戦した冬野菜の現況報告!

前回報告(冬来たりなば春遠からじ)で述べましたが、冬野菜は種蒔きから育苗の時期(8月下旬~9月上旬)における天候不順、及びこれに続く秋の長雨により苦戦を強いられました。その後、12月~1月は晴天が続いたものの、後半は寒波が襲来して1月22日には関東地方は大雪に見舞われました。上の写真は翌日の拙宅屋上の積雪状況を撮影したものです。その後も寒波の勢いは衰えず、2月2日にも結構な積雪がありました。今年の冬野菜は大苦戦!と言わざるを得ないようです。言い訳にはなりますが、プロもこの異常天候には翻弄されたようで、12月以降、白菜、キャベツを中心とする冬野菜の物価は2倍以上になっています(←言い訳 !)

以下は拙宅の野菜の現在の生育状況です;
<白菜>
前回報告時点では、12月以降の生育を期待して「透明ごみ袋」を利用した簡単な保温措置を行いましたが、殆ど効果はありませんでした;

白菜_2月10日の生育状況
白菜_2月10日の生育状況
白菜大・小_収穫後にカット
白菜大・小_収穫後にカット

プロの農家では、この様な発育不全の白菜は収穫せずに土壌改良の為に畑に漉き込むか、廃棄されるのでしょうが、我が家では以下の様な料理で全量食べ、無駄にはしていません;

白菜料理.各種
白菜料理.各種
鍋用野菜_ネギ・水菜・白菜
鍋用野菜_ネギ・水菜・白菜

上の写真の左から「時漬け/白菜・人参・シソの実塩漬け」、「お浸し」、「白菜漬け/塩漬けして水が上がった後一週間以上経って酸味が出た頃が食べごろ/一部朝鮮漬けに流用」。また屋上で取れたネギ、水菜と併せ、鍋の野菜(下の写真)としても無駄なく利用しています。言い訳の様に聞こえると思いますが、柔らかさは普通の白菜と遜色はなく、1月は零下の日が続いたためか甘さが際立っていました(←負け惜しみ?)

<キャベツ類>
キャベツも白菜同様12月以降生育は止まってしまいました。おまけに昨年同様、鳥の餌になっている様です。そろそろ、不織布の覆いをかけようかと思っています;

キャベツ_2月10日の生育状況
キャベツ_2月10日の生育状況

<ネギ>
ネギは11月までにほぼ生育が終っていた為、1月以降の寒さの影響はありませんでした。1月初めには全て収穫を完了して、下の写真の様に纏めて土に植えています(鮮度を保つため);

ネギ_2月10日残存状況
ネギ_2月10日残存状況

この残量では、残念ながら当初計画していた2月末までの自給は無理の様です

<レタス・水菜>
ある程度寒さにやられてはいますが、2月一杯の朝食のサラダ用としては充分な量が確保できています;

レタス・水菜_2月10日
レタス・水菜_2月10日

<その他>
甘くて美味しいホウレン草を食べています。本当に寒さに強い!;

ホウレン草_2月10日
ホウレン草_2月10日

*チンゲン菜は未だ収穫していませんが、下の写真の様に何時でも収穫可能になっています。チンゲン菜も寒さに強い!;

チンゲン菜_2月10日
チンゲン菜_2月10日

*春菊・小松菜は12月中は何とか収穫できましたが、1月以降は下の写真の様に生長が止まってしまいました! 昨年は何とか収穫できたのに今年の寒さは尋常ではなかったということでしょうか;

春菊・小松菜_2月10日
春菊・小松菜_2月10日

*三好菜は寒さには強いのですが、寒さが厳しいと生長は止まる様です。食べてみると繊維が硬く鍋料理や、お浸し、漬け物には向かないので、このまま春先の「菜花」の収穫時期を待とうかと考えています;

三好菜_2月10日
三好菜_2月10日

*ニラ、ビーツ、プンタレッラ、などは、この冬の寒さで、枯れはしないものの生長が止まり、全く食用にはなりませんでした。このまま春を迎えてどうなるかについて観察を続けたいと思います

<秋植え・春収穫の野菜>
*昨年植えたタマネギは、3センチ程に達する霜柱の中で春を待っています;

タマネギ生育状況_2月10日
タマネギ生育状況_2月10日

*昨年秋に植えたネギは今年の春、夏に収穫できると思います;

ネギの苗_春・夏収穫予定
ネギの苗_春・夏収穫予定

*今年はソラマメを試しに育ててみることにしました。今の所寒さに耐えて順調の様です;

ソラマメ_2月10日
ソラマメ_2月10日

ああ!野生動物憎し、、、

今朝(2月11日)、新聞を取りに行くと下の写真の様に玄関脇の水路がひどく荒らされていました。右端の写真には食べられた金魚の鱗が見えます;

得体の知れない野生動物の被害_2月11日
得体の知れない野生動物の被害_2月11日

この水路では金魚数十匹(5年以上育てている)を飼い、水質維持を兼ねてクレソン、セリも育てていましたが、それぞれ壊滅的な被害を受けました。リーマンショック以降、この辺も漸く土地の値段が上がってきた為か、雑木林がどんどん減っています。此処を棲家にしていた野生の動物(あるいは野生化したペット)が食料を求めて侵入してきたものと思われます。沢山の金魚をほぼ一網打尽にしているところから、イタチの類かも知れません。一昨年、昨年とこの金魚は産卵しており今年も産卵を楽しみにしていたので残念でなりません
知人の別荘のある南長野では、サギなどの鳥の被害があり池全体を金網などで覆うのですが、ここでもそうした対応策が必要かもしれません 😥

以上

年の初めのためしとて~

今年も我が家は穏やかなうちに新年を迎えました
我が家の小さなペントハウスには、これまた小さな小さな神棚があり、以前住んでいた保谷にある東伏見稲荷神社で戴いたお札が祀ってあります。元日の朝は、ここで二拝二拍手一拝した上で屋上に出て美しい富士山を仰ぎ、その後一階の仏壇で線香をあげ、我流で般若心経を唱えることが習いとなっています。特に願いごとも、お礼ごとも無く、心静かに祈るだけですが、かれこれ父親が亡くなってから46年間欠かさずこれを続けていることになります。以下はのんびりした正月に御屠蘇気分であれこれ考えてみたことを書いてみました

第四次産業革命の夜明け

朝食を始める前の一時は、例年おもむろに特集記事中心の分厚い新聞を広げることになりますが、今年は「第四次産業革命」関連の特集記事が目立ったような気がします;
第一次産業革命」:18世紀、ジェームスワットの蒸気機関の発明によって生産が人力から機械力に代わったことによって起こった世界的な産業構造の大変化のことを指します。日本は明治維新後の「殖産興業」の政策によって遅ればせながら列強に追随し、アジアでは最初に工業化を果たすことができました
第二次産業革命」:19世紀後半、フォード自動車のベルトコンベア方式に代表される大量生産により、自動車などの高度工業製品の大衆化が実現しました。しかし、この生産方式は、巨大な資本力、大量の資源、大きな市場の確保が必要となることから、狭い国土の日本では、必然的に帝国主義への道を歩む事になってしまいました
第三次産業革命」:第二次世界大戦後、半導体技術の進歩により実現した「生産設備の電子化、システム化」、トヨタに代表される「サプライチェーンの効率化」、「多品種少量生産」、などにより産業構造が大きく変わりました。これらを総称して「ファクトリー・オートメイション」とも言いますが、日本は敗戦後の苦難な時期を乗り越えこの産業革命では世界をリードする国になりました

第四次産業革命」とは;
  1990年代から本格化したインターネットで代表されるコミュニケーション技術の大革命
人間の知能に近い学習を自ら行って時間が経つにつれ賢くなってゆくDeep Learning を備えたAI(Artificial Inteligence / 人工知能)とロボット技術の融合
5G(Fifth generation / 次世代通信網)で代表される高速・大容量の通信インフラの整備(近い将来)
桁違いの演算能力を持つ量子コンピューターの登場
などによって、近い将来起こると予測されている第一次~第三次産業革命を凌ぐ産業構造の大変革の事です
最近屡々新聞を賑わすICT(Information and Communication Technology / 情報処理および情報通信技術を使ったサービスの総称)やIoT(Internet of Things / 多種多様な生産設備が地理的な境界を越えて相互に自律的にコミュニケーションを行う事)の普及、急ピッチで開発は進められている動運転車、身近な生活の分野で急速に進むシェア・エコノミー(配車シェア/ウ―バー、個人同士の商取引/メルカリ、クラウドコンピューティング/クラウドワークス、、)などは、いずれもこの「第四次産業革命」の第一歩という事ができます

第四次産業革命では、それまでの産業革命と同じ様に「人の働き方」が大きく変わります。そして、結果として「人の生き方」も大きく変わるのではないか、と言われています
最近、週刊現代に「オックスフォード大学が認定、あと10年で消える職業無くなる仕事」というセンセーショナルなタイトルの記事が出て話題になっていました。この記事のソースをネット上で探ったところ、どうやら2013年9月に発表された「The future of employment : How susceptible are Jobs to Computerisation ?」という論文の様です。これは72ページにわたる大論文で、私には到底読みこなせませんが、論文冒頭の要約をみると、米国の702の職種についてコンピューター化できる可能性を分析したところ、47%の職種でコンピューター化が可能であり、労働市場に於いて雇用環境全般(職種ごとの賃金水準や学歴、ほか)に大きなインパクトを与える可能性があるとのことです

難しい話は別にしても、頭脳労働の粋と思われる囲碁や将棋の世界でコンピューターが一流のプロに勝ってしまうニュースや、人気のない大工場でロボットが黙々と仕事をこなしている映像を見ると、近い将来間違いなく「人の働き方」が変わるに違いない事は実感できると思います
第四次産業革命でも半分くらいの職域は残るのでしょうが、要求される能力はかなり変わってきそうです。既に、増え続けるデータ処理に係る人の求人が増えています(参考:データ解析者争奪戦)。一方、失われる可能性の高い職域の雇用の問題は、予め予測し、可能な範囲で対策を考えておくことは絶対に必要ではないでしょうか? 大国であった英国が20世紀後半、第3次産業革命に的確に対応できず所謂「英国病」で苦しんだ歴史を忘れてはならないと思います

日本が直面している少子・高齢化の状況

第四次産業革命の黎明期にあたって、世界をリードする日本であり続けるためには、今直面している少子・高齢化社会の状況にどう対応していくかは避けて通れないと思われます。総務省が発表している人口推計から衝撃的!な幾つかの図表を取り出してみると(詳しくは:我が国の労働力人口における課題_総務省参照);

我が国の高齢化の推移と将来推計
我が国の高齢化の推移と将来推計

我が国の65歳以上の人口は2010年には23.0%であったが、2060年予測では39.9%と世界のどの国でもこれまで経験したことがない少子高齢化が進むことが見込まれ、2060年には15歳~64歳までの労働人口が4,418万人まで大幅に減少することが予想されています
一方、こうした労働力の急速な減少傾向に対して、現在65歳以上の人が就業している(希望する)割合は極めて少ない事が以下の図表を見ると明らかになります;

潜在的労働力
潜在的労働力

この結果、65歳以上の人ひとりを支える生産年齢(15歳~64歳)の人の数は、以下の表の通り劇的に低下し、常識的には働かない高齢者を働ける人(15歳~64歳)が支えていくというこれまでの構造(生き方)は通用しないことになります;65歳以上人口1人を支える生産年齢人口

一方、厚生労働省の要介護者数の推計値をみると、これまた衝撃的!な数値になっています;

要介護の認定者数
要介護の認定者数

こうしたことを総合すると、高齢者は自ら道を切り開いていく必要があると考えられます。豊かな高齢者は、働かずとも高額商品の購入、旅行や遊びで消費することによって経済の循環に貢献することが可能です。しかし、年金を貰っている普通の高齢者は、働き続けることによって社会に貢献することが必要になると思います。働き続けることによって「介護の世話にならずにすむ健康を維持」し、同時に「生産労働人口の減少」を補うことが、結果として「老後の生き甲斐」を得ることに繋がるのではないでしょうか

産業構造の大変革と日本の生きる道

第三次産業革命までは、日本人の器用さからくる「もの作りの伝統」と、江戸時代の寺子屋、藩校などから続く国民皆教育による「労働者の平均的な能力の高さ」によって勝ち残ってきました。しかし「もの作りの伝統」はAI+ロボット+3Dプリンターで優位性は失われる可能性が高いと言われています。また、「労働者の平均的な能力の高さ」もロボットが導入されたもの作りの現場、自動運転車が導入された運輸業などの現場(参考:高速道路で隊列走行の実証実験)はもとより、間接業務についても、軽易な事務作業は当然として、花形である企画業務や、人事・総務業務、技術開発業務、などについても膨大なデータベースを基に、AIを駆使して答えを出す「クラウド・xxx」によって代替される可能性が高いと言われています。最近、日本の巨大銀行においてフィンテック(FinTech /金融を意味するファイナンス/Financeと、技術を意味するテクノロジー/Technologyを組み合わせた造語 )の急速な普及により人員や店舗数を削減し始めたのもその象徴的な現象と思われます

逆に、同じ理屈で日本の人件費の高さから海外生産にシフトしていった、グローバル企業が、「生産の一部(少なくとも日本で消費される部分)を日本に戻すこと」も不思議ではありません。今始まったばかりですが、多国間の自由貿易協定(TPP、日欧EPA、など)もそれを後押しするに違いありません

また、間違いなく生き残る仕事のうち、基礎研究の分野、芸術と言われるまでに進化した伝統技術の分野人とのコミュニケーションが必須のサービスの分野、などは、現在必ずしも人気のある職種とは言えませんが、これから職を探そうとしている若い人たちには狙い目かもしれません

< 基礎研究の分野
これから日本が世界の産業をリードしていく為には、医薬品・医療用機器の開発、新素材の開発、情報分野での基本技術の開発(量子コンピューター、通信規格、、、)など、基礎的な研究に国を挙げて力を注いでいく必要があります
これまで、所謂ポスドク問題(Post Doctor / 博士号は取得したが、正規の研究職または教育職についていない者)と言われ、多くの優秀な研究者が、充分な給与を得られず苦労しているという実態があります。結果として優秀な人材が米国に流出したり、研究に対する夢をすてて民間企業の普通の仕事に就いたりすることが後を絶ちませんでした
また、公的な研究機関であっても、多くの研究員が有期雇用契約で研究しており、研究成果を出すことを焦って研究不正を犯す事例(STAP細胞の事件で有名!)が発生したことでも分かる様に腰を据えて研究する体制が整っていません

ノーベル賞を受賞する様な卓越した基礎研究も、日本の教育・研究環境の評判を高めることとなり、米国の様に世界から優秀な人材を呼び込むことに繋がると考えられます。ここ最近、日本は中国や韓国が羨むほどのノーベル賞の授賞者を輩出していますが、これは数十年前の研究に対して与えられている訳で、現在の教育・研究環境が続けば早晩受賞者が減ることは間違いないと受賞者たちから警鐘を鳴らされています

<Follow-up>
*2018年10月13日の日経新聞電子版に(181013_科学技術大国・衰える研究基盤_伸び悩む資金、細る人材_推進力に影・気が付けば後進国181013_科学技術基本法)という記事が出ていました

< 伝統技術の分野
明治維新の主役となった島津藩は、16世紀の文禄・慶長の役で朝鮮から連れ帰った陶工を優遇し根付かせた「島津焼」を幕末にヨーロッパ各国に輸出し経済的に豊かになったと言われています。また、島津藩に限らず徳川幕藩体制の中で、各藩が競って現金収入の基になる工芸品を洗練し、これが明治の日本を経済の面で支えたことは間違いありません。更に、神社仏閣・城郭の建設で培われた木工建築技術も世界に誇れる伝統技術の一つと思われます
こうした優れた伝統技術は、現在後継者が不足していると言われています。こうした技術を単に維持するというよりは、国内のみならず海外への販売強化を図り、結果として産業として成り立たせる方策を国を挙げて考えるべきだと思われます

< 人とのコミュニケーションが必須のサービスの分野
現在日本が直面している最大の課題である「少子・高齢化」の問題で喫緊の課題となっているのは保育士介護要員の確保にあることはは周知の事実です。いずれも給与レベルが低いという問題の解決は当然の事として、保育士については子育てが一段落した資格を持った女性の再雇用の促進が図られることになると思われます。介護要員の不足については、現在では非常に体力のいる仕事となっているので、ロボットの活用で体力仕事を無くすことにより、被介護者とのコミュニケーションに関して優位性のある高齢者に門戸を開くことも可能になると考えられます

高齢者が増加することにより、間違いなく医療の分野でも多くの雇用が必要となります。医師の数は医師免許という高い障壁があるので魅力ある収入が保証されなくては現在以上の数は期待できません。ただAIを活用した的確な診断と、「かかりつけ医」制度によって医師の必要数増加はある程度抑制可能と考えられます
一方、看護師の必要数は確実に増加します。現在でも看護師の数が揃わないためにベッドが空いていても入院させられない事態が起こっているそうです。看護師という職業は十分に魅力ある職業であるものの、労働環境が厳しい(特に夜勤の回数及び業務量が多いと言われています)こと、給与水準が労働の質、量に見合わないことが必要人数を確保できない要因になっていると考えられます
私が以前従事していたエアライン・ビジネスについても、夜間作業が多く、これをこなす為に給与面、勤務回数・勤務時間の面において十分な手当てを行うことによって必要人員を確保していました。看護師の定員に関しても国が関与しつつ同様の手当てを行うことにより、充分な雇用数を確保することは可能と考えられます。

観光・旅行業に関しても、人とのコミュニケーションが必須であるビジネスと考えられます。政府の掛け声で始まったオリンピックが開催される2020年迄に「訪日客4000万人、消費額8兆円達成」は、これまでのところある程度順調に来ています。しかし、2017年訪日客は2869万人を達成したものの、消費額は4.4兆円にとどまっています。一時の中国人旅客の爆買いが影を潜めたことが背景にあると思われます。これから更に訪日客の消費額を増やすためには、「コト消費(体験や経験に係る消費;例:」を増やすことが課題とされています。そのためには、国や地方公共団体が行う規制緩和(例:民泊通訳、など)や公衆WIFIの整備、隠れた観光スポットの開発、日本文化体験サービスの提供、などの「観光インフラ」の整備が必要となります。また同時に、訪日客のこうした行動をサポートする人材が多く必要となることは言うまでもありません
これらの活動はオリンピック後も継続して行うことによって、更に多くの訪日客を呼び寄せ、更なる雇用を生み出すことができると考えられます。因みに観光先進国のフランスには年間7000万人の観光客が訪れるそうです

農業、林業、水産業の未来

第四次産業革命とは無縁と思われる「農業、林業、水産業」などの第一次産業は、人の命を支え、有事の際の最も重要なインフラであることは言うまでもありません。しかし、戦後の急速な経済発展の過程でないがしろにされ、時として政治の道具とされてきた結果、農業、林業、水産業それぞれの先進国(いずれも経済・文化の先進国)から相当程度遅れた状態にあります
一方、地球儀を眺めて貰えれば分かることですが、日本の地理的な条件(中緯度、南北に長い、モンスーン地帯、山岳地帯が多い、海に囲まれ島が多い)は農業、林業、水産業とって世界有数の適地であり、間違いなく生き残る産業分野です。努力と工夫次第で自給はもとより、国際競争力のある第一級の輸出産業に育てることも可能だと考えられます

現在、農業、林業、水産業共に就業者が減少すると共に高齢化し、存続の危機に陥っている地域(地方の過疎化)も少なくありません。一方、都市に流れ込んだ若者は現在でも低賃金に喘ぎ、第四次産業革命が本格化すれば職を失う可能性も否定できません
こうした状況を打開するためには、農業、林業、水産業を金の稼げる産業に転換すると同時に、労働環境を快適なものにして魅力ある職場に変えてゆくことが急務であると思います。以下にその方策について私なりに考えてみたいと思います

1.農業の分野

現在、農業分野の生産性は、農業先進国に比べると相当低いと言われてる一方、農業人口は戦前・戦中・戦後に比べれば相当減ってきています。因みに、農業就業人口とGDP(国内総生産)に対する農業の貢献度は下図の様になっています;

GDP当たり農業人口
農業人口比率・国際比較

つまり、日本の農業は就業人口の減少に合わせて、GDPに貢献しなくなっている実態を表しており、農業が結果としてないがしろにされてきた原因であり、結果であると考えられます。農業就業人口の比率は米国の水準に近いレベルまで来ているので、これからは農業の生産性を上げ、日本のGDPに対する農業の貢献度を上げていかなければならないと私は考えます

農業の中で最も大切なものは昔も今も穀物生産にあることは論を待ちません。ご記憶の方も多いと思いますが、温暖化対策の切り札としてトウモロコシから製造したアルコールがガソリンの代替として使われた時期がありました。主な製造国は米国でした。この結果、食料としてのトウモロコシの需給が逼迫し、トウモロコシを主食としている国々、とりわけ貧しいフィリピンにおける食糧危機に繋がりました。また、トウモロコシを飼料として家畜を生産している日本においても、食肉価格の高騰につながりました。これは、異常気象や、戦争などによって穀物生産の需給が逼迫すれば、穀物を自給できない国は命に係わる大変な事態が起こるという事を如実に表しています

現在の日本の穀物類の生産状況を食糧需給統計_農林水産省(確定値のある平成27年度分)でチェックしてみると;
* コメ:国内生産量/842万9千トン ⇔ 自給率/98%(主食用は100%)
小麦:国内生産量/100万4千トン ⇔ 自給率/15%
* ジャガイモ:国内生産量/240万6千トン ⇔ 自給率/71%
* でんぷん:国内生産量/247万3千トン ⇔ 自給率/9%(他の資料より)
大豆:国内生産量/24万3千トン ⇔ 自給率/7%
大雑把な捉え方として、穀物類の中で小麦と大豆の自給率に問題がありそうです。小麦の需要が多いのは、過去米食主体だった食生活が、戦後パン食を好む様になってきた結果(学校給食の影響か?)だと考えられます

戦後の高度経済成長のお陰で日本は豊かになり、穀物類の他に肉類、鶏卵、牛乳・乳製品の消費も急激に増加してきました。これらの生産状況を、同じ農水省のデータでチェックすると;
* 肉類:国内生産量/3262万8千トン ⇔ 自給率/53%
* 鶏卵:国内生産量/254万4千トン ⇔ 自給率/97%
* 牛乳・乳製品:国内生産量/740万7千トン ⇔ 自給率/62%
一見問題無さそうに見えますが、実はこれらの生産に共通する飼料(主に穀物由来)の自給率に大きな問題があります;
* 飼料:総需要量/2,356万9千トン ⇔ 自給率/28%
食肉生産大国(米国、オーストラリア、など)との貿易摩擦でいつも問題となる牛肉、豚肉の輸入量の問題は、既存の生産農家の保護のみが強調されますが、「食の自給」を問題にするのであれば、上記穀物類の生産と併せ、飼料作物、放牧地の確保など多面的な対策をたてる必要があると考えられます

参考:農林水産省から出されている、異常に低い食料自給率(39%)は、ご承知の方が多いと思いますが、これは「カロリーベース食料自給率」のことで、国内生産を行っている家畜類の飼料もカロリーをベースに輸入量に加えている為です。こういう数値は先進諸国では殆ど公表されていません。ただ、飼料の大半を輸入に頼っているという実態は問題であることは確かです

以下、「食料の自給」の問題として小麦、大豆、飼料作物の増産について浅はかな!私見を展開してみることにします
増産には耕作地の拡大土地生産性の向上コストの削減などが必要になります;
耕作地の拡大
農地に関する統計_農林水産省を見ると、平成27年度で耕作放棄の農地は28万4千ヘクタールに上っており、全耕地面積(444万ヘクタール)の6.4%になっています。まず、これ等の遊休地を耕作地に変えることが必須です(ちょっと乱暴ですが、仮にこの耕作放棄地で小麦を栽培すれば150万トンの収穫が得られ自給率が37%まで上がる計算になります)
また、耕作に適さない山裾の山林の一部を牧草地とし、家畜の放牧地に変えることも飼料穀物の輸入量の削減に寄与すると考えられます。副次的な効果として、スイスや阿蘇の放牧地の様な美しい景観も作れるのではないでしょうか

更に、以下に展開する野菜生産の効率化により、野菜耕作地の相応の部分を穀物類の生産に振り替えることも可能ではないかと考えています

土地生産性の向上
現在、日本の土地の生産性は諸外国と比べて決して高いとは言えません。因みに穀物単位当たり収量・国際比較をみると;
* コメ・1ヘクタール当たりの収量:日本/6.52トン ⇔ 中国/6.59トン
* 小麦・1ヘクタール当たりの収量:日本/3.25トン ⇔ EU/5.36トン
* 大豆・1ヘクタール当たりの収量:日本/1.57トン ⇔ 米国/2.96トン

コメはそこそこですが、小麦と大豆はかなり生産性が低い状態です。コメについては日本人の銘柄米志向から単位当たり収量を犠牲にしている結果だと理解できますが、小麦や大豆については、強い殺虫剤を使用できないとか、遺伝子操作をした種を使っていないとか、耕作単位が小さいとか、色々言い訳はあるかもしれませんが努力する余地は相当ありそうです

コストの削減
日本は小規模の農家が多く、機械化が進まないために農業大国の様なコスト面で効率的な農業ができていないことは否定できません。戦前は広い土地を所有する地主が、多くの小作人を使って経営しておりましたが、戦後すぐに「自作農創設特別措置法(昭和21年制定)」が施行され、多くの自作農が誕生しました。また、土地を持たない引揚者が荒蕪地を開拓して(各地に存在する″昭和村″などはその例)農民となりました。こうして生まれた自作農民の営農努力、耕地の拡大が戦後の食糧難を救ったことは間違いありません。また、互助組織としての農協の役割も大きかったと思います。しかし、こうした小規模農家と農協が、戦後70年以上経って農業の大規模化、効率化を阻んでいるのは皮肉なことです
現在こうした小規模農家の多くで高齢化が進み、後継者不足が叫ばれています。不謹慎な事を承知で敢えて言わせて貰えば、今が低コスト農業に移行する絶好のチャンスだと思われます。耕作放棄せざるを得ない農地を買い上げ(あるいは借り上げ)、営農意欲のある自作農、あるいは農業法人に売却し(貸し出し)、大規模化を図ることにより、耕作機械類の大型化、耕作機械類の稼働率の向上、肥料、種苗類の大量購入によ単価削減、を実現すると共に、農業労働者の雇用創出、高賃金化、労働環境の改善を図ることができると思います

野菜栽培について;
野菜の栽培に関して我々が学生時代に学んできたことは、人口が集中する「大都市周辺に立地する」ということでしたが、高速道路網、鉄道網が発達した現在の高度な Supply Chain を前提とすれば、この理屈は殆ど通用しなくなりました。米国産のブロッコリーが日本全国の大都市で安く売られていること、産地直送の野菜が宅急便で1日で手に入ることから分かる等に、大量冷蔵輸送が当たり前になった現在では、日本全国どこで生産しても大都市に新鮮な野菜を供給できる様になりました
温室を使わないで栽培する野菜類については、全国配送を前提とすることにより、大規模化、機械化が実現できコスト削減が可能となると思われます。また、南北に長い日本の特徴をうまく生かすことになり、季節ごとにその地方に適した野菜の生産にに特化することにより農薬使用量の削減、農業所得の均一化も期待できることになります(ジャガイモやタマネギの栽培、夏場の高原野菜の栽培などで既に行われています)。また、暖地における春小麦の栽培と野菜栽培の二毛作(土地生産性の向上)も期待できるのではないでしょうか
最近、キャベツ、白菜、大根、など重い野菜の収穫作業が高齢者には負担となり栽培面積が減少していると言われています。こうした問題も、大規模化による大型省力化機械の導入で解決可能と思われます

葉物野菜、トマト、キュウリ、ナスなどの野菜は、AIで栽培に最適な条件を整えた大規模な温室栽培により、病虫害のリスクを下げ、単位面積当たりの収量を飛躍的に増やすことが可能になっています。オランダのトマト栽培を例にとれば、普通の露地栽培に比べ6~8倍の単位面積当たり収量が実現しており、ヨーロッパにおけるトマトの輸出国になっているそうです。勿論、冬場のエネルギーコストを勘案した上で適地を選ぶ必要はあると思います

<Follow-up>
*2018年3月8日の日経新聞電子版に(三共木工・トマトハウスにIoT)という記事が出ていました

農地に関する統計_農林水産省をみても全耕地面積の半分弱が畑地として使われていますが、上記の様な野菜栽培の大規模化により相当程度の耕作地を穀物生産に振り向けることが可能ではないかと私は考えています

果樹栽培について;
果樹栽培に関しては、日本は既に先進国と言えるのではないでしょうか。品種改良の努力によって、殆ど全ての果樹について高付加価値の輸出品として脚光を浴びつつあります。アジア地区の経済発展に伴う富裕層の増加により更に輸出が伸びることが期待されております。ふた昔前のオレンジ自由化による騒ぎが懐かしく思い出されます!

酒類の生産について
最近、ワイン、日本酒、焼酎、等の純国産の酒類が注目されています。世界に誇る発酵食品を作り出してきた日本の技術が、酒造りに生かされているのではないでしょうか。今後、大きく期待できると思います

Follow_Up:2019年5月17日、改正農地バンク法が成立しました。詳しくは(改正農地バンク法が成立 農地集約手続きを簡素化)をご覧ください

2.林業の分野;

日本林業の歴史(ネット情報);
1955年頃、日本の木材の自給率は9割以上ありました。しかし、急速な経済発展に伴い木材の需給が逼迫した結果、木材輸入の自由化が段階的に行われ、1964年には全面自由化となりました。外材は国産材と比べて安かった為にその後輸入量が年々増大してゆき、1975年以降は円高により更に外材価格の比較優位が進みました。この結果、1980年頃をピークに国産材の価格は落ち続け、日本の林業経営は苦しくなっていきました。2008年には自給率が24%となっています。

一方、国内の大造林政策は1996年まで続けられ膨大な人工林が残りましたが、国産材の価格の低迷により、間伐や伐採・搬出等に掛かる費用が回収できず、林業はすっかり衰退してしまいました。また不在地主の増加により、間伐などの手入れが全く行われていない森林が増えていることも一つの要因です。手入れが行われなければ、木は育たず、国産材として活用することができません

林業の改革の方向性については「日本林業はよみがえる」;

日本林業は蘇る_梶山恵司
日本林業はよみがえる_梶山恵司

を一読されることをお薦めします。以下にこの本の要点を踏まえた上で私見を述べさせて頂きます;
林業が衰退した結果何が起こったか
江戸時代、林業は各藩の大切な資源として保護され、林業に携わる人が数十年から百年以上にわたる生産サイクル(植林した木は孫の世代が伐採する)を営々として守って安定した生産を行って来ました。また、植林・間伐・伐採などを担う人々の他、山間の木材集積地には製材産業、木工産業が育ち、多くの雇用を創出していました。こうした生産体制は明治以降終戦に至るまで守られてきましたが、外材の流入により崩壊してしまいました
この結果、植林・間伐・伐採を計画的に行って森林を健全に守ってきた人材が流出、高齢化するに任せる結果となり森林は全国的に荒廃して行きました。また、計画的な伐採を行わなくなった結果、製材産業は山間に立地する必要が無くなり外材が入る港湾近くに立地し、結果として山間部の木工産業も衰退していきました。こうしたことが、現在日本が直面する大きな課題の一つである、山間市町村の過疎化の一因になっていることは間違いありません

国内の大造林政策は何をもたらしたか
戦災で焼け野原になった都市を復興するために、長い生産サイクルを守らずに一時的に大量伐採を続けざるを得なかったことは止むを得なかったかも知れません。また結果として、植林した若木が育つまで一時的な外材の利用は止むを得なかったかも知れません
しかし、植林した木が育ったあと、広い面積を一斉に伐採し(「皆伐(かいばつ)」と呼ぶそうです)、また一斉に植林するという林業に移行したことは、日本林業の選択として誤っていたと思われます。「皆伐」は必要となる労働力の密度が高く、且つ時間的な継続性がありません。また「皆伐」する場所へのアクセスが悪い場合、人力による伐採と仮設ケーブルの設置など伐採に係るコストがかさみ、結果として外材とのコスト競争力を失うと共に、森林を永続可能な資源として維持するための人材も失うことになりました(農業の場合、自由化に当たって、農民を守る為の各種施策が行われましたが、林業の場合はそれが行われませんでした)。その結果が、森林の荒廃を招いたことはほぼ間違いありません。これが林業の衰退以外に「水害」、「大規模な土砂崩れ」、「水源地の危機」(参考:荒れる人工林・水源地がピンチ)、ひいては「花粉症患者の増加」や「野生動物(猪、鹿、猿)被害の増加」などを招いていると思われます

木曽の美林
木曽の美林

「木曽の美林」に代表される管理された日本の森林では、建築用木材となる杉、檜などの針葉樹林の間には広葉樹林帯を設け、これが野生動物の餌を提供すると同時にその保水力で水害、土砂崩れを防ぎ、木工品の材料を提供するなどの役割を担って来ました。単一樹木の大造林、皆伐という生産サイクルは、これら全てを奪ってしまったということでしょうか

日本林業のポテンシャル
日本は森林経営には理想的な地理的条件を備えています。中緯度にあり太陽エネルギーが豊富であると同時に、モンスーン地帯に位置するため雨量が豊富です。高緯度にあるカナダやロシアには豊富な森林はあるものの、気温が低く太陽エネルギーの恩恵が少ないので、一旦伐採すれば育成するのに時間と手間がかかります。一方低緯度にある熱帯雨林では、高温と大雨に伴う土壌栄養分の流出により一旦伐採すれば再生が極めて難しいと言われています(参考:熱帯雨林保護活動
日本は急峻な山岳地帯が多いので林業には不向きだという意見もあるかもしれませんが、山岳地帯であるが故に雨量が多いこと、寒暖差が激しいこと、などによる高い木材品質が確保できることなど、メリットも多くあります。またアクセスの悪さについては次項に示す通り、林道の整備、大型機械の導入を行うことにより克服可能です。例えばオーストリアは林業先進国で日本にも木材を輸出していますが、急峻な山岳地帯が多いという地形は日本と同じです。因みに主要林業国の木材資源の状況を見ると以下の様になります;

主要林業国の基本指標_日本林業は蘇る
主要林業国の基本指標_日本林業はよみがえる

上表によれば、日本の森林の蓄積量は44億立方メートルに達しているものの、生産量が極めて低い事が分かります。また、上表にある森林国の内フィンランドの2005年の輸出量は年間105億ユーロ(約1兆4000億円/1ユーロ135円)、オーストリアは年45億ユーロ(6000億円)です。また、ドイツは国内消費がメインですが、2005年に1,223億ユーロ(16兆5000億円)を売り上げ約100万人の雇用を生み出しているそうです

改革の方向性
如上の通り日本林業は、敗戦とともに一旦衰退したものの林業先進国というお手本があり、且つ江戸時代からの伝統技術を継承する人材もわずかながら残っていることから、規制当局による方向付けと林業関係者の熱意さえあれば、必ずや日本林業は蘇ると思われます。日本の周辺には中国(乾燥地帯が多い)という巨大な輸出可能性を秘めた国があり、下記の様な改革を着実に行うことにより林業が日本の基幹産業の一つになることは夢ではないと私は確信しています
林道の整備;
日本の林道は大型機械を導入する様にはなっていません。昔ながらの細い林道では、人間が一人で使うチェーンソーで伐採し、馬を使って運び出すことくらいしかできません。一方、高度経済成長時代につくられた「スーパー林道(大半が舗装され、山を崩して作られている)」は行楽客の通路になっているだけで環境破壊の原因にも挙げられています。林道の目的は森林の環境を悪化させず、伐採すべき森林のすべてにアクセスできる「林道網(ネットワーク)」でなければならず、しかも大型機械が通行できなければなりません;

理想的な林道_日本林業は蘇る
理想的な林道_日本林業はよみがる

上記の林道は幅3.5メートルで、道の真ん中を高くして排水を良くしてあり、アスファルト舗装をせずに砕石を敷き詰めています

大型機械の導入;
林業で一番コストがかかるのは間伐・伐採、輸送に係る費用です。上記林道網を利用して大型機械を運び込めば、ケーブル設置の様な仮設の設備は不要となり、省力化と作業時間の短縮による人件費の削減が一挙に可能となります。尚、大型の林業機械は森林の地面を荒らすことの無い様に特別に開発したもの(当面は林業先進国からの輸入か?;有限会社・フォレスト動画リスト)でなければなりません。土木工事用の大型機械の改修ではこの条件を満たさない可能性が高いので注意が必要です
数種類の大型機械とそのオペレーターがセットになって、林道網に沿って計画的に間伐、伐採を行い、伐採を行った場所に順次植林を行って行けば、年間の木材産出量も安定し、昔の様に木材生産地に製材産業を呼び戻すことが可能になります。更に植林に当たって、広葉樹林帯の整備も行えば、いずれ木工産業をの再生と野生動物の跋扈もなくなると思います。更に、地球温暖化の対策として推奨されている木材チップ(間伐材)や製材の廃棄物(おが屑、端切れ、など)を使ったバイオマス発電により、山間地区のエネルギー自給が可能になるかもしれません

③ 後継者の育成;
戦後からの失われた70年で、林業を支える人材は一から育てなければならない状況になっていると思われます。歴史を振り返ってみれば、明治維新後まず政府が取り掛かった教育改革は、近代的な農業を習得するために外国からの教師の招聘と、農学校の設立でした。現在の北海道大学の前身にあたる札幌農学校(クラーク博士で有名)然り、東大農学部の前身も明治3年に遡ります。現在、明治維新当時と同じ様に先進国が存在し、そこでは近代的な林業が行われています。こうした国から国策として教員を招く、あるいは優秀な学生を林業先進国に国策として派遣する、などを行って全国規模で林業振興の種を蒔くことが必要だと思います(参考:林業再生・人材養成待ったなし

 日本林業の未来;
林業についても最新の技術を使った先進的な試みが行われつつあります(例えば、ドローン活用による資源量調査IoTを活用してスマート林業を実験)。また、強度と耐火性の高い集成材(CLT)を使うことにより、従来鉄筋コンクリート製、あるいた鉄骨製が普通であった高層建築にも木材が使われるようになり、木材需要は今後増えると考えられます。更に、最近話題になっている木材資源を使ったセルロース・ナノファイバー(CNF)は、鉄の5分の1の重さで鉄の5倍の強度を持つと言われ、今あらゆる分野で使用が拡大している炭素繊維に匹敵する素材に成長する可能性を秘めています(しかもこの素材は完全にカーボンニュートラルです!)。木材の資源国である日本には明るい未来があると考えて良さそうです

遅ればせながら国も林業再生に本格的に取り組みを始めました。林業再生に必要な資金を確保するため、政府は2019年度から新税(森林保全へ新税)を設ける方針です。また、新しい森林行政を進める為に林地台帳の整備(地権者を見つけ出し、境界を確定する)を始めました。地権者の世代交代、住居の変更などで困難が予想されますが、林業改革の為にはできるだけ早期に全国レベルで実施完了する必要があると思います

<Follow-up>
*木材利用の促進を図るため、2010年に 公共建築物等における木材の利用促進に関する法律が制定されました;促進スキーム
*2018年3月6日の日経新聞電子版にバイオマス発電に積極投資を行うエフォンという記事が出ていました
*2018年8月11日の“ZUU Online”に(中国が日本の木材を「爆買い」)という記事が出ていました

3.水産業の分野;

日本は戦後、大型船を駆使して南氷洋における捕鯨、北洋におけるサケ・マス、カニ漁、太平洋・大西洋におけるマグロ・はえ縄漁を行い、沿岸漁業と併せ、世界一の漁獲量を誇っていました。私たちの世代は子供の頃、こうした豊富な水産資源のお陰で不足しがちのタンパク質を摂取し成長することができました。

その後、沿岸漁業に依存する諸国が先進遠洋漁業国の進出に対抗し,漁業資源の保存と独占のため,漁業に関する管轄権を自国領海の外側の公海部分にまで一方的に拡大するようになりました。1982年に採択された国連海洋法条約で排他的経済水域の制度が新設され、実質的に沿岸から200海里の範囲で「漁業専管水域」として管理できることになり日本の漁業は大きな変革を余儀なくされることになりました
しかし、考えてみれば日本は多くの島々で成り立っており、排他的経済水域の面積は世界第6位となる海洋大国です

領海・接続水域・排他的経済水域
領海・接続水域・排他的経済水域_wikipedelia

また日本列島の周辺は黒潮(+対馬海流)、親潮が囲むようにして流れ、この広い水域を生かした漁業を行えば水産品の輸出大国になることも不可能ではないと私は考えます。しかし、以下の様な課題を解決することが前提になると思われます;
 現在、沿岸漁業を中心に漁業者の高齢化が目立ち、後継者の育成が急務な状況ですが安定した漁獲が得られなければこの問題は解決しません。稚魚・稚貝の放流の他、流れ込む川の上流域での森林の整備(←落葉が分解して植物由来の栄養素が海に流れ込むことが必要)など豊かな漁場にしていく施策が必要と思われます。また、クール宅急便を使って各地方の雑魚のマーケットを開発すれば、沿岸漁業の経済価値を引き上げることも可能と思います

過去、北海道で沢山取れたニシンが全く取れなくなった時期がありました。また、日本海沿岸で沢山取れたハタハタが全く取れなくなった時期がありました。いずれも乱獲が主な原因でした。その後、厳格な漁獲規制を行った結果、資源が回復しつつあります。資源量の正確な把握と適切な漁獲規制(必要により完全な禁漁)を国の責任で行っていく必要があると思います

<Follow-Up>
2月16日のダイヤモンド・オンラインの記事(180216_日本だけが漁獲量減少、ノルウェー漁業を見習うべき理由)が刺激的です!

日本が大量に漁獲し、消費しているマグロは、その資源の維持について責任があると思います。マグロの漁獲量と消費量のサイトを見ると、日本は世界中のマグロの消費量の約2割を占めており、日本人が好むクロマグロについては全漁獲量の72%、ミナミマグロについては全漁獲量の98%を消費していることが分かります
地中海、大西洋のマグロについては、欧州各国が資源の管理をしていますが、昨年は資源量が回復し漁獲割り当てが増加しました(参考:大西洋のマグロ管理に学べ)。一方、太平洋のマグロについては資源が減少しつつあり日本のイニシアティブが求められるところです
先日、テレビで大西洋のマグロ資源に関わる番組を見る機会がありました。大西洋マグロの産卵場所は地中海沿岸にあります。産卵時期にこの海域で捕獲(巻き網漁)したマグロは船に水揚げせずに、そのまま時速2キロで生かしたまま移動し肥育用の生簀に移すことで、抱卵したマグロは移動の途中や生簀の中で産卵するそうです。産卵を終えたマグロは生簀で肥育させた上で出荷するとのことです
太平洋マグロも小型魚を取り過ぎない様に漁獲規制を行っていますが、あまりうまくいっていない様です。この1月には既に割り当ての9割に達し漁獲規制が始まりました。マグロはえ縄漁では小型魚(30キロ以下)も、産卵直前の親マグロも針にかかってしまえば水揚げしない訳にはいかず、こうした規制の効果には疑問が残ります。太平洋でも産卵する海域は特定されており

太平洋マグロ産卵場所_水産庁調査結果
太平洋マグロ産卵場所_水産庁調査結果

地中海でやっている様に産卵するまで水揚げをしないような方法を取れないものかと考えてしまいます

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*2018年10月7日の日経新聞電子版に以下の様な分かり易い統計図表が出ていましたのでご紹介します;

マグロ資源統計
マグロ資源統計

日本では大分昔から養殖漁業が盛んになっています。今や高級魚を中心に沢山市場に出回っています。マグロについても近畿大学が完全養殖(生簀で生ませた卵から成魚を育てること)に成功し、既に「近畿マグロ」というブランドで市場に出ています。また、今年シラスの大不漁が伝えられているウナギの完全養殖についても、もうすぐそこまで来ているといわれています
養殖についての残された課題は餌にあります。餌を魚粉に頼っている間はイワシなど、そのままで食用になる魚を大量に消費することになるので、コストの面と資源量の面で必ずしも養殖がいいとは言えません。植物由来の餌も一部魚種について使われていますが、味や香りに影響を与えてしまうと言われています。味、香りに影響を与えない植物由来の飼料とか、タンパプ源として昆虫を使うとか、今後の開発が待たれます。また、養殖魚の生育環境の管理などではAIの活用も考えられます

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2018年12月8日に漁業法改正案が可決・成立しました。この改正法は70年ぶりの大改正で、漁業の成長産業化による漁業者の所得向上と、若者の就業を後押しする狙いもあります。詳しくはを漁業法等の一部を改正する等の法律案の概要ご覧ください

あとがき

第四次産業革命の黎明期に当たって、「人の働き方」がこれからどう変わるかについて思いつくままに書いてきましたが、その結果として「人の生き方」も変わるはずですが、この点についてはあまり書くことができませんでした。特に激増する高齢者が、今後どう価値ある生き方ができるかについては殆ど触れることができませんでした。今後更に時間をかけて勉強していきたいと思います

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2018年3月4日の日経新聞電子版に、以下の様な記事(なるか一次産業リバイバル)が出ていました。また、ウナギ資源問題でも(歴史的不漁のシラスウナギ_甘い資源管理の限界)という記事が掲載されています

以上

冬来たりなば春遠からじ

ここの所、毎日寒い日が続いています。前回の盛夏から秋へ!(10月16日)で長雨によるキュウリやトマトの失敗談をご紹介しましたが、その後も不純な天候が続いていて我が屋上菜園は苦戦を強いられています。野菜が元気よく育つ春が待ち遠しい限りですが、まずは現在の状況をご報告したいと思います

生き残った第三世代のトマトはどうなったか!

前回の報告でご紹介した1本だけ残った第三世代のトマトは、日に日に下がる気温と日射量の減少の中で、健気にも幾つかの実をつけました;

第三世代トマトの一生!
第三世代トマトの一生!

写真右端の収穫したトマトの内、真っ赤に熟れているトマト2ヶは、10日ほど前に先行して収穫した青いトマトを室内で日に当てたものです

秋・冬野菜の生育状況

秋冬に収穫する積りで育てている野菜は
①サニーレタス(31株/小コンテナ5ヶ、中コンテナ2ヶ)
今年は育苗用プラグトレー;

育苗用プラグトレー

で苗を作り、コンテナに植え替えたところ、コンテナに直接種を蒔いて育てたよりもうまくいきました。11月くらいから食べ始めましたが、3月一杯は食べられそうです

サニーレタス_ゴミ袋による防寒処置実施
サニーレタス_ゴミ袋による防寒処置実施

②白菜(22株/大コンテナ11ヶ)
サニーレタスと同じく育苗用プラグトレーで苗を育てコンテナに植え替えましたが、現在の生育状況は以下の通りです;

白菜_12月16日
白菜_12月16日

昨年に比べ明らかに生育が遅れています。昨年との違いは、一つのコンテナに2株植えたことと、9月~11月の生育に大事な時期の天候が不順だったことが考えられます。11月下旬からゴミ袋を使った低温対策を行いましたが、結球不全の株が大分出そうです。止むを得ないので、結球不全のものも、鍋、漬け物、サラダ、などに利用しようと考えています。残念!
今年の失敗を踏まえ、来年は天候不順でも結球するように、8月中に苗を育て、昨年同様1株/1コンテナで植えるようにしたいと思っています

③長ネギ(100株/小コンテナ10ヶ)
昨年確立した方法(春に種蒔き、7月に植え替え、成長してきたら半透明のエクステンションをコンテナに継ぎ足し、成長に合わせて土を追加する)により、順調に育ち、11月から収穫を始めています;

長ネギの収穫
長ネギの収穫

拙宅のネギの消費量は半端ではないのですが、恐らく3月一杯は食べられそうです
また、今年は春以降の長ネギの収穫ができませんでしたので、9月に種を蒔いて春以降に食べられるかテストをしています

秋蒔きネギ
秋蒔き長ネギ_12月

④大根(15株/大コンテナ5)
例年通り秋蒔きで育てていますが、白菜同様に不順な天候で十分太くはなりませんでしたが、食用には問題ない状態に育っています;

大根
大根

⑤ジャガイモ(6株/大コンテナ3ヶ)
今年6月に収穫した(収穫シリーズ_②)ジャガイモのうち、芽が出た小さめのジャガイモ(キタアカリ)6ヶを8月下旬に植えてみました。普通ジャガイモは100日で収穫できると言われていますので、寒波が襲い葉が枯れてしまった12月10日に収穫してみました;

ジャガイモ
ジャガイモ

やはり天候不順の影響か中玉、小玉のみで3.1キロしか収穫できませんでした。来年以降やるとすれば、天候不順の場合を考慮し8月初旬には植えないと十分な収穫量は望めないと思われます。しかし、自家栽培のジャガイモは8月初旬では芽が出ていないと思われますので、さてどうするか?

⑥キャベツ(8株/大コンテナ2ヶ)、スティック・セニョール(4株/大コンテナ2ヶ)
キャベツは白菜同様、天候不順により生育状態は芳しくありませんが、冬に収穫できなくても春キャベツとして収穫可能(経験済み)なので心配していません。また今年はブロッコリーの苗を育てるのを忘れたので、実験的に10月入って売れ残っていたスティック・セニョールの苗(50円/株)を買い植えてみました。12月中旬には収穫を始めましたが、今後どれくらい収穫できるか確認したいと思います;

キャベツ・スティックセニョール
キャベツ・スティックセニョール

⑦その他の冬野菜春菊、チンゲン菜、みよし菜、水菜、ホウレン草
これらの野菜は一種類につき小コンテナ2~3ヶ程度を割り当てて栽培しています。栽培状況は以下の通り(寒さに強いものは防寒用のゴミ袋をかぶせていません);

冬野菜・各種
冬野菜・各種

ニラ(小コンテナ5ヶ)
昨年実績でニラは防寒処置不要と考え以下の様にゴミ袋を被せずに栽培していましたが、この所の寒さで成長が著しく鈍ったことと、葉先が変色して来ましたので、今後防寒処置を実施しようと思っています;

ニラ_12月17日
ニラ_12月17日

来春以降に収穫予定の野菜の植付状況

①タマネギ(生食用タマネギ/大コンテナ5ヶ、普通のタマネギ/大コンテナ6ヶ)
昨年失敗した苗の育成が、今年は順調だった為、収穫量増が期待できそうです;

タマネギ_2種
タマネギ_2種

②その他の春野菜ビーツ、ソラマメ、プンタレッラ
ソラマメは7~8年前に一度栽培しましたが、冬場のケア不足が原因だと思いますが、失敗してしまいました。今回は再チャレンジです。プンタレッラは昨年4月初旬に種を蒔いて一応成功しております(近所の八百屋では手に入らない野菜の栽培!)ので、今回は秋蒔きに挑戦しました。しかし、天候不順の影響か、あるいは地中海周辺で栽培されている野菜なので、日本の秋冬には適応できないのか、とにかく成長が遅く来年2月頃の収穫は危ぶまれます。今後は防寒処置を実施して生育状況を観察したいと思います;

ビーツ・ソラマメ・プンタレッラ
ビーツ・ソラマメ・プンタレッラ

おまけ!_屋上野菜の年間経費のご紹介

2006年から本格的に屋上菜園を始め、現在まで色々と試行錯誤しながら楽しんできました。これまでの費用のあらましは以下の通りです;

屋上菜園・費用分析
屋上菜園・費用分析

最初の頃は水耕栽培を目指して、7万円位かけて装置を自作しましたが、屋上の過酷な環境(循環する肥料入りの水が、夏場は高温になりすぎ、冬場は逆に低温になり過ぎる)では水耕栽培はできないと悟りました。夏場の不在時に枯らさないための潅水装置は自動潅水器3台が今も稼働しており、設備投資は無駄になっていません

栽培後の土の再生に必要となる肥料・用土類については、最近購入しているものは、牛糞堆肥苦土石灰燻炭(もみ殻を蒸し焼きにしたもの:年一回伊那に出かけた時に購入)、有機化成肥料(窒素・燐酸・カリの成分比:8・8・8/追肥が中心)のみで費用的には安定しています(年間1万5千円前後)。これ以外には、庭のハナミズキの落ち葉、自家用精米機から得られる米糠生ごみ(生ごみ処理機で処理したもの)、収穫後の食用としない葉・茎類、など費用の掛からないものも使っています;

ジャガイモ収穫後の茎・葉
ジャガイモ収穫後の葉・茎

殺虫剤はできるだけ使用しない様にしています。土中にある害虫の代表は「コガネムシ」の幼虫(通称「根くい虫」とヨトウムシ(「夜盗蛾」の幼虫)ですが、これは栽培後の土の再生の際に取り除くようにしています。また、葉に付く青虫は毎朝の見回りで、発見次第ピンセットでつまみ、憎しみを込めて!足ですり潰すことで対応可能です。しかし、野菜の種類を問わず大切な若芽に付くアブラムシだけには手を焼いています。今年は、あまりに被害が大きいので、アブラムシ駆除用にオルトラン、モスピレンを購入してみましたが、匂いがきつく、毒性が強いことが分かり、結局殆ど使いませんでした。やはり、虫よけの覆いをこまめに行うことが一番と考えられますので来春からは殺虫剤ゼロを目指したいと思っています

以上

「民族問題」について考えてみました!

はじめに

11月22日、オランダ・ハーグの旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷で、ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦(1992~95年)時のジェノサイド(集団虐殺/6千人以上のイスラム教徒が殺害された)の罪に問われた当時のセルビア人武装勢力司令官、ラトコ・ムラディッチ司令官に終身刑が言い渡されました
また、ロヒンギャ難民の問題、米国・EU諸国とロシアの対立の元になっているウクライナ内戦も記憶に新しいところです。これ等はいずれも民族間の対立が原因になっていると言われています

冒頭に掲げた地図は、子供の高校時代の教科書に使われていた「世界史地図」の中から、第一次世界大戦中(1914~18年)と、第二次世界大戦直後(1945年)のヨーロッパの地図を抜き出したものです
第一次世界大戦は、オーストリア・ハンガリー帝国によるボスニア・ヘルツェゴビナの併合(1908年)により混乱を極めていたバルカン半島(人種の坩堝と言われていました)のセルビア王国の青年によるオーストリア皇太子夫妻の暗殺(サラエボ事件)がきっかけとなりました。第一次世界大戦の終わりころにはロシア革命があり、ソビエト社会主義連邦共和国(以降「ソ連」)が生まれました。第一次世界大戦後のパリ講和会議では、米国ウィルソン大統領による「十四ヶ条の平和原則」第五条で「民族自決・民族自立」の提案があり、ベルサイユ条約の基調となりました。日本全権団も「人種差別撤廃」提案を行いましたが、これは残念ながら否決されてしまいました。これらがきっかけとなって世界中で民族自立の動きが始まりました
また、第二次世界大戦後、ソ連は戦勝国となり、大戦によって生まれた社会主義諸国と社会主義ブロックを構成し、一方の戦勝国である米国を盟主とする自由主義ブロックと対峙し所謂「冷戦」が始まりました。この冷戦下では、イデオロギー民族自立が結び付いた内戦が続きました
この冷戦構造は1991年のソ連の崩壊で終焉を迎えましたが、その後現在まで一向に民族紛争は収まりそうにありません

戦後の日本は、民族問題については無頓着である人(勿論、私も含めて)が多く、またメディアの取り扱いも、単に同情(人道というべきか?)をベースとした内容に留まっていることが多い様です
最近の世界情勢は「民族問題」に関するある程度の知識が無いと、理解できないのではないかと思い始めました。そんな問題意識をもって、本屋を渉猟している時に「民族問題」(佐藤優・著、文春新書、10月20日第一刷発行)という本が目に留まりました。購入して読んでみると、中々内容の濃い啓発の書と感じましたので、内容の一部をご紹介すると共に、この分析手法を念頭に、最近のニュースに登場する「民族問題」についても私なりに考察してみたいと思います

佐藤優・著「民族問題」の紹介

佐藤優について;
1960年東京都生まれ 同志社大学神学研究科修了後、チェコスロバキアのカレル大学に留学。1985年外務省入省、2002年大臣官房総務課・課長補佐の時に鈴木宗男事件に絡む背任行為で逮捕。最高裁で懲役2年6ヶ月、執行猶予4年の刑が確定、国家公務員法76条により外務省を失職。その後は文筆家として活躍。大変な読書量と博学で知られ、著書多数
本書の由来;
著者が、同志社大学サテライト・キャンパスで2015年5月から2016年2月にかけて行った10回の講義記録を編集し、加筆修正したもの

以下は本書の要約です。分かり難い部分があれば私の読書メモを参照してください。ただ、新書版で安価(830円+税)なので購入する方がいいかもしれません!

文春文庫「民族問題」
文春文庫「民族問題」

1.なぜ日本人は民族問題が分からないのか;

多くの日本人は、「日本人」、「日本民族」というものを自明のものだと捉えていて、古来よりずっと続いてきた実体のあるまとまりだと考えていますが、これは間違いです。歴史的に「民族」という概念は、精々250年くらいしか遡れないと考えられます。例えば、室町時代に京都に住んでいた人と、東北地方に住んでいた人が、同じ「日本人」、「日本民族」という意識があったかどうかは確認できません。これはロシアやドイツ、イギリスやフランスも同じであると考えられます
現代になっても、「民族」は新たに生まれたり、解体したりしており、中東では、「シーア派」のアラブ人という新しい民族が生まれつつあるとも考えられます

民族のアイデンティティの核となるものとして「原初主義」、「道具主義」という二つの大きく異なる考え方があります。学術的には道具主義が圧倒的に主流ですが、日常的な使い方においては原初主義的な考え方の方が一般的であると思われます

①「原初主義」とは;
民族とか、国家には、その源に何かしらの実体があるという考え方。例えば言語が源になる、また、肌の色や骨格など生物学的、自然人類学的な違いに境界を求めると人種主義に近づきます。日本列島に住んでいるから日本人、インドに住んでいるならインド人というのであれば住んでいる地域が民族の原初になります。このほかにも宗教経済生活文化的共通性など「動かざるもの」を共有するのが民族という考え方です
多くの人は、この原初主義的な民族のイメージを持っていますが、言語にしても、人種にしても、文化にしても、歴史的に源をたどっていくと、複数の「民族」にまたがっていたり、境界が曖昧だったり、住んでいる場所も移動していたり、矛盾する事例が沢山出てきてしまいます

②「道具主義」とは;
民族とは作られたもの」だと考えるのが道具主義の立場です。国家のエリートや支配層が統治目的のために、支配の道具として、民族意識、ナショナリズムを利用しているという考え方です。道具主義を代表する学者が、ベネディクト・アンダーソンで、彼の著書「想像の共同体」で、「国民とは、イメージとして心に描かれた想像の共同体である」と定義しています。つまり国民、民族とは政治によるフィクションだと説いています

2.民族問題の専門家スターリン

「原初主義」に立脚した民族理論の中で、一番現実の政治に影響を与え、なおかつある程度、現象を説明できるのは、実はスターリンの民族定義です
スターリンは
、グルジア(現在のジョージア)のゴリという町の生まれであり、グルジアに帰化したオセチア人ではないかという説が、今の所一番有力です。そもそもスターリン自身が複雑な民族的なアイデンティティを持っていた訳です

ジョージア(グルジア)
ジョージア(グルジア)

ソ連(帝政ロシア)がロシアを支配し、他の民族がひどい目に遭っていたというイメージは誤解です。ソ連の中心にあって、支配していたのは民族ではなくて、ソ連共産党中央委員会、つまりマルクスレーニン主義というイデオロギーでした

スターリンが民族問題を重視したのは、ロシア革命の本質にもかかわっています。日本を含む世界各国の共産党機関紙には「万国の労働者よ、団結せよ。万国の被抑圧民族よ、団結せよ」というスローガンが掲げられていますが、このスローガンは矛盾しています。何故なら、階級と民族とは関係がないはず。例えばインドでは、抑圧していたのはイギリス人、被抑圧民族はインド人ですが、インド人の中には資本家も、労働者も、農民もいました。革命に民族運動のエネルギーを持ち込もうとして、この矛盾に敢えて目をつぶったのがスターリンです

スターリンは、イスラム教徒であるスルタンガリエフを抜擢して、中央アジアでの革命運動を統括させ、民族運動の高まりを革命に利用しようとしました。中央アジアの革命運動において、革命は西方の帝国主義者に対するジハードとしてアジった結果、革命運動は盛り上がったものの、イスラム勢力の力が予想以上に強くなってしまいました

中央アジア
中央アジア

今のトルクメニスタンウズベキスタンキルギスタジキスタンカザフスタンは、トルコ系の人たちが住んでいる土地を意味するトルキスタンと呼ばれており、トルコ民族として団結して民族運動が盛り上がると社会主義体制との矛盾が露呈してしまいます
そこでスターリンは、言語の若干の違いに注目して民族を分け(カザフ人、キルギス人、など)国境線を引いてしまいました。つまり、言語の違いという原初主義的な基準を持ち出して、国境線を引き、人工的に民族を作り出すという道具主義そのものの手法を駆使したことになります
また、フェルガナ盆地という肥沃な穀倉地帯を、敢えてタジク、ウズベク、キルギスに三分割して、水の利用権などを巡って互いに衝突するように仕向けることまで行っています。それらによって、トルコ系とか、イスラムといったアイデンティティで一つにまとまらない様に手を打っていました

バルト3では、歴史的に強力な帝国を築いたことのあるリトアニアには、反発したら大変だということでロシア人の入植をほとんどしませんでした。この結果、ソ連崩壊時点でリトアニアのロシア人比率が10%に対して、ラトビアは51%エストニアは40%となっています。また、ラトビアのロシア人は国中に散らばり都市部に多く分布しているのに対し、エストニアでは東部だけに集中させる、など細やかな民族政策をたてています

スターリンの民族理論
民族とは、「言語」、「地域」、「経済生活」および「文化の共通性」によって現れる「心理状態の共通性」を基礎として「歴史的に生じた人々の堅固な共同体」であると定義しています。因みに、この理論に従えば、ユダヤ人は、住んでいる地域によって使う言語が異なっていることから、民族ではないことになります
また、言語、地域、経済をバラバラにしてしまえば民族は解体できることになります。スターリンがしばしば厄介な民族の強制移住を行ったのは、この理論に立脚しています

スターリンの民族理論は、そのままソ連の国家体制の基礎となりました
スターリンはソ連国内の民族的共同体を、「民族/ナーツィヤ」、「亜民族/ナロードノスチ」、「種族/プリェーミァ」の三つに分類し、民族を階層(ヒエラルキー)化することにより固定化させようとしました;
民族」は国家を持ち、ソ連邦離脱も許されていました(バルト3国が、これを根拠に独立を主張することができました)
亜民族」は自治共和国を持ち、独自の憲法を持つことができますが、ソ連邦からの離脱はできません
種族」は自治州や自治管区で自分たちの言語を使い、独自の文化を持つことはできますが、独自の憲法を持つ権限はありません

これらの区分は、実際はかなり流動的に運用されたと考えられます。例えば、ウクライナの東部や南部に住んでいる人は日常ロシア語を話しており、ウクライナの中の「亜民族」になっていたと考えられます
スターリンの民族理論は、無意識のうちに日本人にも住みついています。例えば、アイヌ人は「種族」であり、沖縄は「亜民族」であるというイメージは、正にスターリン的な民族意識と言えます

3.アンダーソンの「想像共同体(道具主義)」批判

アンダーソン(Benedict Richard O’Gorman Anderson/1936年~2015年;米国コーネル大学政治学部名誉教授)によれば、「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体であり、言語や地理的、経済的共通性はない」としています。国民を構成する一人ひとりは、他の大多数の同胞を知ることも、会うことも、彼らについて聞くことがなくても、一人ひとりの心の中には共同のイメージが出来ています例えば、2015年にジャーナリストの後藤健二さんがイスラム国で殺害されたとき、多くの日本人は義憤にかられましたが、殆どの国民は彼に会ったことも無く、彼の活動も知らなかったにも拘わらず、大多数の日本人の心の中には、彼の死が同胞に対して起きている危機だという心が生まれました。また、尖閣諸島にしても、殆どの人が一生の間で一度も行くことが無いにも拘わらず、日本人の「想像の共同体」の中で、「尖閣」が重要な位置を占めてしまいます。これは韓国人にとっての「独島/竹島」や「慰安婦」も同じことであると言うことができます

アンダーソンは、この「想像の共同体」は「文化的人造物」だとしています。民族の形成で鍵を握るものは、新聞や小説といった出版資本主義です。尚、アンダーソンは、新聞を「一日だけのベストセラー」と表現しています。
例えば、ある離島にAさんとBさんが住んでいたとして、A国とB国との間で戦争が始まっても、AさんとBさんには関係がないから仲良く暮らしていますが、そこにヘリコプターでそれぞれの国の新聞を落としていくと、二人はただのAさん、Bさんではなくなって敵国民同士となってしまう。つまり、新聞が自分たちの想像の共同体をつくる出すことの非常に重要なツールになります

アンダーソンが重視するもう一つの概念は、「公定ナショナリズム」すなわち、上からのナショナリズム、あるいは統治のためのナショナリズムです
18~19世紀にヨーロッパを席巻したナポレオン戦争アメリカの独立戦争などを見て、ヨーロッパの君主たちは、国家を強化する部品としてナショナリズムを導入しようとしました。しかし、問題は、ヨーロッパの王朝や帝国は、もともと「民族」の原理ではできていません。例えば、イギリスのハノーバー朝はドイツ人で英語も話せなかったし、スイスが起源のドイツ系のハプスブルグ家は、オーストリアだけでなくスペインやイタリア、チェコも治めていました。中でも大変だったのはロシアです。ロシアの貴族たちは基本的に不在地主で、サンクトペテルブルクやモスクワに住んでおり、普段はフランス語を話し、ロシア語は書けるけど上手に話せないというのが普通でした。つまり、支配階級が既に文化的にはハイブリッドでした(エカテリーナ二世自体がドイツの出身です)。ロシア帝国の基本的な原理は、権力に忠誠を誓っているかどうかが重要であって、宗教や肌の色が何であろうが気にもしていませんでした

こうした状況から、全てのヨーロッパの君主は、19世紀半ばまでに「国家語」としてどこかの俗語を採用し、国民的理念を築き上げようとしましたロマノフ家ロシア語を話すロシア人ハノーバー家英語を話すイギリス人ホーエンツォレルン家ドイツ語を話すドイツ人となりました

アンダーソンは、日本人についても、朝鮮半島にルーツを持つ王朝が、近代になって日本の民族の代表として衣替えをしたとして、日本人も上から作られた民族であるという見方をしています
イギリスの正式名称「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」には民族を表す言葉はどこにも入っていません。イングランド人、スコットランド人、ウェールズ人、アイルランド人はいますが、グレートブリテン人や北アイルランド人はいません。つまり、イギリスは「民族」を国家原理の中心に置くことなく、近代以前からの王・女王の元に国民を統合してきました

フランス革命は、近代的な意味で組織された党派や運動によってなされたものでも、指導されたものでもありませんでした。出版資本主義のお陰でフランスの経験は、人類の記憶から消去できなくなり、さらにそこから学習することもできるようになりました。フランス革命から一世紀を経て理論化し実地に実験するなかからボルシェビキが登場し、彼らが「革命」を計画し、成功させました。レーニン本人の書いたものを読むとロシアでの事態を、フランス革命のアナロジーで見ています。2月革命で生まれたケレンスキー政権は、ジロンド派による権力奪取であり、レーニン達ボルシェビキはジャコバン派になります

アンダーソンの理論によれば、「民族」とは、同じ言語を使う人たちの間で、直感されるものを共有する共同体ということになります。例えば、個人個人が目には見えない「日本」を感じ、それが共有できれば、そのグループは「日本人」になります。従って、ナショナリズムは宗教に極めて近似しているとも考えられます
現代の国家の中には、必ず宗教的な要素、絶対神の要素が入っています。日本で言えば、靖国神社がそれにあたります。靖国神社に祀られている英霊は、神道というよりはプロテスタント系のキリスト教に近いのでないかと思います

4.ゲルナー「民族とナショナリズム」の核心

ゲルナー(Ernest Gellner/1925~1995年;ユダヤ人;歴史学者、哲学者、社会人類学者)は、ナショナリズムに関する誤った考え方は以下の4つに集約できると述べています;
 ナショナリズムは自然で、自明で、自己発生的なものである。もし存在しないとすれば、それは強制的に抑圧されているからに違いない ⇒「原初主義」的な考え方
 ナショナリズムは観念の産物で、悔やむべき不測の出来事によって生まれたものに過ぎない。ナショナリズムなしでも政治は成り立つ ⇒ 典型的な「道具主義」的な考え方
③ 本来、階級闘争に向けられるべきエネルギーが、間違って民族運動に向けられてしまった ⇒「マルクス主義」への皮肉
④ ナショナリズムは暗い神々、先祖の血や、土の力が再出現したものである ⇒「ナチズム」の考え方

ゲルナーの民族の定義
① 人と人とが、同じ文化を共有する場合のみ、同じ民族に属すると言える。その場合、文化が意味するものは、考え方・記号・連想・行動とコミュニケーションとの様式から成る一つのシステムである
② 人と人とが、お互い同じ民族に属していると認知する場合にのみ同じ民族に属する。言い換えれば、民族とは人間の信念と忠誠心と連帯感によって作り出された人工物である

一般的に、①に重点があるのは比較的に大民族で、②の「意思」が強調されるのは、大民族の領域の中にいる小民族という傾向があります
大多数の日本人は①の感覚であるが、沖縄の場合は②の比重が高いと思われます

ゲルナーの民族理論の大きな長所は、経済という視点を持っていることです。人類の歴史を「前農耕社会」、「農耕社会」、「産業社会」の三段階に分けて議論を展開しています;
前農耕社会である採集狩猟集団は、国家を構成する様な政治的分業を受け入れるには余りにも小規模で国家にはならない
農耕社会では、国家はあってもなくてもよく、国家の形態自体も著しく多様であった。また、職業も専門化されていて、地縁や血縁など様々な縛りの中で生きる身分制の社会となる。この社会では敬語が極めて複雑に発達する
産業社会では、国家の存在は必須であり、信じがたいほど複雑で全面的な分業と協働に頼らなければ生活を維持できない。この社会で人はどんな職業についてもいいし、何処に住んでもいいが、国家は膨大な社会的インフラストラクチャーの維持、監督を行わねばならなくなる。中でも、教育制度は国家の重要な一部となり、文化的・言語的媒体の維持が教育の中心的な役割となる
ゲルナーは、近代の産業社会になって、人間が均質化することによって「民族」が生まれたと論じています

<民族間紛争の本質>
どんな特徴でも差別の対象になる訳ではなくて、差別が既に社会に定着してしまっている場合に深刻な問題となる差別が構造化してくると、それを克服するために分離独立運動が出て来る

イレデンティズム(Irredentism)とは「民族統一主義」と訳されることが多いが、離れてしまったもとの民族との一体化を目指す「遠距離ナショナリズム」である。故郷を離れ、観念の中で組み立てられた、理想化された民族主義というものは、ものすごい力を持つ。それが分離運動や独立運動になっていく

産業化は流動的で文化的に同質的な社会を生じさせ、その社会は以前の安定的で階層化され教条的で絶対論的な農耕社会には通常欠けていたような、平等主義への期待と渇望が生まれる
平等主義への期待があるなかで、不平等な現実、苦難があり、しかも願望するものの未だ実現しない事により、潜在的な政治的緊張が深刻なものとなる。支配者と被支配者、特権を持つ人々と、特権を持たない人々を分ける適当な象徴や識別マークを掴むことができれば、民族やナショナリズムが形成されていくことになる
つまり、分離運動や独立運動を起こさせないために為政者に要求されることは、この差別を如何に胡麻化すかということになります

<ヘイト本について>
現在書店の新刊書のコーナーには、反韓、反中、反沖縄、反米などの所謂「ヘイト」、「日本礼賛本」、「自己啓発本」が沢山並べられている。中でも、「ヘイト本」、「日本礼賛本」の類は、ナショナリズムという観点からは重大な問題となります。アンダーソンが論じている様に、「民族」や「ナショナリズム」を形成するには出版の力が非常に大きい。1930年代の日本でも、これに似た出版状況でした(例:「日本人の偉さの研究/先進社」)。オーウェルの小説「1984年/ハヤカワepi文庫」で、独裁者ビッグブラザーが支配する超監視社会での三つのスローガン「戦争は平和である。自由は隷属である、無知は力である」が町のあちこちに貼られている情景が書かれている。ヘイト本の山を見ていると、思わず「無知は力なり」と呟きそうになります

5.民族理論でウクライナ問題を読み解く

ウクライナ(google・MAP)問題には、地政学、言語、宗教、教育、経済など、これまでの民族理論で登場したあらゆる要素が複雑に絡み合っています

<民族的観点>
ウクライナは人口5300万人100の民族が住んでおり、そのうち主だった民族の人口は、ウクライナ人が3700万人ロシア人が1100万人ユダヤ人が50万人ベラルーシ人が45万人です
ウクライナの東の方に行くと、住民の殆どがロシア語をしゃべっていますが、日常生活を送るうえでは、自分たちがウクライナ人かロシア人かなんて考えていませんでした。しかし、2013年頃からウクライナとロシアの間が緊張してきて大変な状態になってきたというのが本当の所です

<中世から近世にかけての歴史>
ロシア人の歴史
では、988年、キエフ大公国(キエフ・ルーシ)のウラジミール公が現在のウクライナの首都キエフでキリスト教の洗礼を受け、その後モンゴル・タタールが攻め込んできたためにロシアの中心をモスクワに移し発展してきたと考えています ウクライナは元々ロシア
ウクライナ人の歴史では、キエフ大公国の伝統は、ウクライナの西側にあるガリツィア地方に行って、ガリツィア公国に引き継がれ、これがウクライナの国の基になったと考えています キエフ大公国の正統を受け継いでいるのはウクライナ
このガリツィア公国(ウクライナ西部)は、14世紀にポーランド領に編入され(~18世紀)、その後オーストリア・ハンガリー帝国に編入、第一次世界大戦後に再びポーランドの一部になり、第二次大戦後にはソ連に組み込まれました。ポーランド人からすれば、自分たちの影響下にある辺境と思っています

<東部と西部の違いを生んだ歴史的背景>
東部はロシア帝国に組み込まれ、もともとはウクライナ語を話していましたが、19世紀に帝政ロシアがロシア化政策を進めウクライナ語の使用を禁止した(←アンダーソンの言う「公定ナショナリズム」)ことにより、殆どの人がロシア語を話すようになっていきました
一方、西部オーストリア・ハンガリー帝国の一部になっていた為、帝国の方針により、それぞれの民族の言語、文化は規制されず、民族のアイデンティティは失われませんでした

ソ連時代になると、ウクライナ(西部+東部)は悲惨な運命を辿ることになります。最大の悲劇は1930年に始まった「農業集団化」の強制でした。ロシアの村は「ミール/農村共同体、世界、平和という意味」といい、土地の私有制もなく土地は皆のものだったため「農業集団化」は比較的簡単に受け入れられましたが、ウクライナには土地の私有制があり、「農業集団化」に激しく抵抗しました。農民のサボタージュが相次いだことに対し、スターリンは強制移住や飢餓状態になっても小麦の徴発を行ったりしたため、400万人位の餓死者が出たと言われています。1980年代の終わりの「アガニョーク(ともしび)」という雑誌に、肉屋に人間の肉がぶら下がっている写真がでています

第二次大戦が始まると、ナチスドイツが侵入し、民族独立を保証することで「ウクライナ解放軍」を募集したところ30万人がこれに応じました。一方、「ソ連赤軍」に応じたウクライナ人は200万人で、同じ民族が二つに分かれて殺し合うことになってしまいました
その後、ドイツは独立の約束を守らず、炭鉱や工場の重労働に服させたため、戦争の末期になると「ウクライナ解放軍」は反ナチスの立場で独立運動を始めました。
現在、西部のガリツィア地方を中心に活躍している「スヴォボダ/ウクライナ語で“自由”という意味」という政党は、ナチスの親衛隊によく似た旗を掲げ、血や民族の名誉を大切にしています(この政党が2014年のクーデターでは重要な役割を演ずることになりました)
第二次大戦後は、ガリツィヤ地方(西部)も含めソ連の一部となりましたが、宗教的にはカトリックのユニア協会(ロシア正教に似ている)で、自発的にロシア正教への併合を望みました。しかし、「ウクライナ解放軍」の一部は、1950年代後半になっても、山籠もりをして抵抗を続けていました。またソ連支配を潔よしとしないウクライナ人たちは、カナダの西部に移住しました(少なく見積もって40万人、多くて140万人;カナダで話されている言語のうち、英語、フランス語に次いでウクライナ語が多い)。ソ連は、ガリツィア地方への外国人の出入りを厳しく制限し、ガリツィア地方住民の出国も禁止していましたが、1985年にゴルバチョフが登場し、経済が破綻状態になった80年代終わりには人の往来を自由にしたため、国外から流入するマネーが絶大な力を発揮するようになりました

こうして、ウクライナの独立運動(ルフ/ウクライナ語で「運動」を意味する)は西と東とは全く別々に発展してゆきました。西ウクライナの独立運動を支えたのはカナダのウクライナ人です。カナダからの豊富な資金によって、西ウクライナの民族運動家は、ソ連からの分離独立運動を仕事として行うことが出来る様になりました
<参考>これに似ているケースは、かつてのIRA(北アイルランド共和軍)です。これをサポートしていたのは、ニューヨークで成功したアイルランド系のアメリカ人でした。いずれも「遠隔地ナショナリズム」が分離独立運動を支えていたということができます

<ウクライナ独立後の状況>
1991年、ソ連邦が崩壊してウクライナは国家として独立しました。公用語はウクライナ語になるものの、東部地域、南部地域、クリミアではロシア語学校が主流で、ロシア語で教育が行われていました。独立しても東部のウクライナ人のアイデンティティはまだ決まっておらず、自分がウクライナ人であるか、ロシア人であるか、依然として意識していなかったものの、生活には全く問題がありませんでした

2014年、ソチ・オリンピックの最中(期間中はロシアが介入できないと読んでの行動)に、スヴォボダを含む民族派が、武力クーデターによって権力を奪取してしまいました。権力を奪った直後、ロシア語を公用語から外しました。翌日にはこれを撤回しましたが、これがウクライナ内戦の引き金になってしまいました
ウクライナ語だけが公用語になると、東ウクライナでロシア語しか喋れない公務員は全員解雇されることになります。また、東ウクライナは国有企業が多いので、ウクライナ語が自由に操れない管理職部門の人も職にとどまれなくなります。従って、公用語の問題は生活に直結する大問題だった訳です
また、経済問題も深く絡んいます。ウクライナは西に行くほど山岳地帯となって貧しいのに対し、東側はインフラも整備され物資の供給も豊富です。こうした状況から、東ウクライナの行政機関を自分たちの手に保持し続ける為に籠城を始めました。
これに対して、トゥルチノスという大統領代行は、行政機関を占拠しているのはテロリストだとして空爆してしまいました。これが契機となって東ウクライナは武装を開始せざるを得なくなってしまったのです。ロシア語を話す東ウクライナの窮地を見て、国境地帯で演習を行っていたロシア軍の兵士が義勇兵として戦闘に参加することになりました

マレーシア航空・B777の撃墜
マレーシア航空・B777_地対空ミサイルで撃墜_2014年7月17日

ロシアという国は、国境に対して「線」ではなく、国境の先に緩衝地帯という「面」を求めます。因みに、かつてモンゴルがソ連邦に加盟したいと言ってきましたが、ソ連はそれをさせませんでした。何故ならモンゴルがソ連邦に加わると、中国との間に長い国境線ができてしまうからです。中ソ間で国境紛争が起きない様にモンゴルという緩衝地帯を必要とした訳です
日本の北方領土問題でも、択捉島の南に国境線を引くという考えは素人の考えです。玄人であれば、歯舞、色丹、国後の3島返還で海という緩衝地帯を設けると考えると思います

こうしてウクライナ問題を詳しく分析してみると、ナショナリズムというものの怖さ、危険な部分が幾重にも折り重なっていることが分かります。従って、アンダーソンの様な「道具主義的民族論」は机上の空論であると言わざるを得ないことになります

<今後の方向性について>
民族問題がこじれてしまうと非常に解決が難しくなります。一つの確実な解決策は、紛争地域から少数民族を排除していく(エスノクレンジング)ことです。これはとても危険な方向ではあるものの、現実にこうして民族問題を解決している事例は沢山あります
現在、東ウクライナでは、新ロシア勢力によるドネツク人民共和国(下図の4)と、ルガンスク人民共和国(下図の11)ができ、実質的にウクライナ政府の管轄から外れています

ウクライナの州区分地図
ウクライナの州区分地図

この両国からウクライナ人のアイデンティティを主張する人が居なくなれば、民族問題は解決するに違いありません。とんでもない議論のように見えますが、現実に進行しているのはこうした方向です

また、アゼルバイジャンとアルメニアが争っている「ナゴルノ・カラバフ自治州」についても、現在ではナゴルノ・カラバフのアゼルバイジャン領に住んでいるアルメニア人はひとりおらず、またアルメニア側に住んでいるアゼルバイジャン人も一人もいません。最早、ナゴルノ・カラバフがどちらのものだったかと説いてもナンセンスな事です。和平交渉は進んでいないものの、ある意味でエスノクレンジングは完成したと考えられます

アルメニア・ナゴルノカラバフ・アゼルバイジャン
アルメニア・ナゴルノカラバフ・アゼルバイジャン

セルゲイ・アルチューノフというロシアの民族学者は「民族衝突が起きると、あるピークに行くまでは、人為的には抑えられない。こうした衝突が起きた場合に周辺地域がやるべきことは重火器が入らないようにするだけで、あとは当事者同士を徹底的に戦わせるしかない」と言っています

流血の自体を招かないで民族問題を解決できる道もあります。それは教育です。チェコスロバキアチェコスロバキアに分裂する時流血が起きませんでした。それを可能にした要因の一つに、チェコスロバキアでは、他文化、他民族を認める教育を徹底していたことが挙げられます
一方、ユーゴスラビアでは、全く対極的な道を歩んだことになります。ユーゴスラビアは「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と言われるように、極めて複雑な民族ナショナリズムがぶつかり合っていた地域ですが、第二次大戦後、「ユーゴスラビア人」という新しい民族ができたのだという虚構によってスタートした国家でした。それが分裂の際には、同じ「ユーゴスラビア人」だったはずの人々が血まみれの殺し合いを繰り返してしまいました

6.民族理論で沖縄問題を読み解く(アントニー・スミス「エトニー」概念から考える)

アントニー・スミスはイギリスの社会学者で、ゲルナーの弟子にあたります。現実の政治を如何に説明できるか、という点で「使えるナショナリズム論」になっている。以下は、彼の著書である「ネイションとエスニシティ/名古屋大学出版会」という本をベースに論を進めることにします

エスニシティ/Ethnicityとは;
言語や,社会的価値観,信仰,宗教,食習慣,慣習などの文化的特性を共有する集団における,アイデンティティないし所属意識,さらに歴史を共有する意識をさす人類学用語。「民族性」と訳されることもあります

エトニーとは;
名前を持った人間集団」: この名前によってエスニックな共同体の人々は、自分たちを他の集団と区別し、自分たちの「本質」を確認する
名前を剥奪されたエトニーとしてクルド人が挙げられます。トルコは自分たちの国にはクルド人はいないとして、「山岳トルコ人」と呼んでいました。しかし、一度名前が剥奪されても、名前が戻ってくることもあります
出自や血統に関する神話」:成員にとって、エスニックな紐帯感や感情の奥にある鍵となる要素である。日本人にとっては、「万世一系の天皇家」がこのイメージの中心になると思われます
融合され念入りに仕上げられた神話は、エスニック共同体に対して、意味の総合的な枠組みを与える神話力となって、共同体の経験に「意味付け」を与え、共同体の「本質」を規定することになります。この様な神話力なくしては、いかなる集団も、自分たち自身あるいは他者に対して、自己規定することができず、共同行動を鼓舞することも、指導することもできません
北朝鮮にはピョンヤンの郊外にピラミッドがあります。これは20数年前、5000年前の王、檀君の骨がそっくり発見されたということで、後からピラミッドを作った訳です
歴史の共有エトニーとは、共有された記憶の上に作り上げられた歴史的共同体です。共通の歴史を持つという意識は、世代を超えた団結の絆を作り出します。それは後の世代にも自分たちの経験の歴史的な見方を教えることになります
独自文化の共有エトニーは、その成員を互いに結び付け、同時に部外者と切り離すことを助ける様な、一つあるいはそれ以上の「文化的要素」を持っています
ある特定の領域との結びつき(地縁)エトニーは、常にある特定の場所、領域との絆を持っています。エトニーの成員は、それを「自分たちの領域」と呼びます。彼らは通常その領域に住み、住まない場合でも、その地への結びつきは強力な記憶です。あるエトニーが物理的にその領土を所有する必要は必ずしもありません。重要なのは、象徴的な地理的中心地聖なる地郷土を持つことです。エトニーの成員が世界中に散らばり、数世紀も前にその郷土が失われてしまったときでさえも、象徴的に帰還することの出来る場所を持つことが重要です
内部での連帯感エトニーは、共通の名前・血統神話・歴史・文化・領土、これ等への結びつきを持つような人間の集団というだけではなく、同時にしばしば博愛主義的な制度として表現される様な、確固としたアイデンティティと連帯感を持つ共同体です。つまり、非常時や危急の際に、共同体内の階級的、党派的、知己的(互いにに理解し合っている親友の様な間柄)な関係の分断を乗り越えてしまうような、強力な帰属意識と連帯が必要です

<沖縄にエトニーの定義を当て嵌めてみると>
 沖縄は、ウチナー沖縄琉球という名前を持っている
② 共通の血統神話を持っている
 歴史も共有している
独自の食べ物や琉球語という形での言語文化も持っている
沖縄という領域と結びついている
基地問題をめぐっては、「オール沖縄」というスローガンが出てきて、大方の沖縄県人が結集している

つまり、ちょっとした条件が変化すると沖縄の人々は「民族」になり得ることになります。現時点で、沖縄人の大多数が琉球語を話せなくても問題はありません。将来琉球語を話すという意思さえあれば、それで十分です。これは、チェコでも、イスラエルでも、アイルランドでもそうでした。言語の回復を目指すという動きが出て来る時は、ナショナリズムは相当進み始めているとみていいと思います

<参考> 琉球語の文章
アレーヌーヤガ。アヌフシヌナーヤ、ニヌファブシヤサ。ユルフニアラスルトゥチネー、アリガミアティヤンドー。ヤンナー、アンシフシヌチュラサンヤー。ヤサ。チューヤアナバタヤッタサー
日本語との類似性が殆どありません!

沖縄に仮名や漢字という文字の文化が伝わったのは13世紀終りごろと言われています。1531年から約100年かけて「おもろそうし(全22巻、1554首)」という歌謡集が作られましたその中に、1609年に薩摩が琉球入りした時に、琉球王府が日本を呪っている歌が入っています;
無礼な日本人どもを、ニライカナイの底(一度入ると永久に出られない所)に封じ込めよ。心の中で琉球に対する悪意を考えるならば、たちまち気力がなくなるようになれ。大地に叩き落として、完全に捨て去ってしまえ。天下、国中は、太陽の化身であるわが琉球王が支配している。その状況を回復せよ

<沖縄と日本、二つの幕末・明治>
沖縄にあっては、明治維新は重要ではありません。国際条約において、琉球は国家として諸外国に認められていました。1854年の琉米修好条約、1855年の琉仏修好条約、1859年の琉蘭修好条約が結ばれているにも拘らず、1879年の琉球処分によって、琉球王国の承認を得ることなく一方的に日本に併合されてしまいました
この問題を突き詰めていった結果、日本への統合が合法的であったかどうか、という所まで、既に議論はエスカレートしてきています。日本(本土)から見ると、沖縄が他者だという認識がなく、自分たちの町にゴミ処理場を作るという感覚で基地問題を考えています。これではうまくいくはずがありません

<第二次大戦後の沖縄占領に際してアメリカが行った政策(謂わば植民地政策)>
1944年、占領する沖縄を統治するために、米軍が文化人類学者のジョージ・マードックに作らせた調査資料がありますが、これは非常によくできています(現在、沖縄県教育委員会の「沖縄県史・資料編」に収められています)。米軍が進駐してきた時に、軍政府の将校たちは、この資料を参考に統治を行いました
調査の対象は、「民族的起源」、「身体的特徴」、「琉球語」、「態度と価値観」、他、などが網羅されています
例えば、「民族的立場」という項目には;
日本人と琉球島民との密着した民族関係や、近似している言語にも拘らず、島民は日本人から平等だとは見做されていない。琉球人はその粗野な振る舞いから、いわば田舎から出てきた貧乏な親戚として扱われ、色々な方法で差別されている。一方、島民は劣等感などまったく感じておらず、むしろ島の伝統と中国との積年に亘る文化的なつながりに誇りを持っている。よって、琉球人と日本人との関係に係る固有の特徴は潜在的な不和の種であり、この中から政治的に利用できる要素を作ることができるかもしれない。島民の間で、軍国主義や熱狂的な愛国主義はたとえあったとしても、わずかしか育っていない

アントニー・スミスは、少数派のエトニーと、中央政府の間で起きる紛争について、次のように論じています;
支配的なエスニックの共同体が、自分たちの伝統を、その国家の他のエスニックに強制しようとしがちになる。こうなると、通常、軽視され、あるいは抑圧されているエスニックの分離主義に火がつくことになる
これは現在の沖縄で起きていることを見事に説明しています

明治政府はもっと民族問題に敏感でした。薩長土肥(薩摩、長州、土佐、肥前)という少数派が支配する体制の中で、多くの反乱が起きたこともあり、明治政府は国家統合のために物凄い努力をしました。全国に学校、病院を作り道路や橋を整備しました。その結果、沖縄以外の日本においては均質の日本人を作り出すことに成功しました。
そうして作り出された99%の日本人だから、もう民族問題など存在しないと信じているため、少数派の気持ちが恐ろしい程分かっていません

<琉球独立論の落とし穴>
今や沖縄は自己主張を始めていますが、十分に練り上げられているとは思えません。その中では、龍谷大学教授・松島泰勝氏の「琉球独立宣言(講談社文庫)」は一番完成度が高いと思います

松島氏は石垣島出身で早稲田大学・大学院時代に島嶼経済を研究テーマにしていました。ニューカレドニアの経済と独立運動との関係についてフィールドワークを含めて研究する中で、琉球と同島を重ね合わせて独立の意味と可能性を考えていました。卒業後、外務省に入省してグアムやパラオで勤務する中で、徐々に自分は琉球人という独自民族の一員だという自己意識を強めてきました
グアム全島の三分の一は米軍基地が占拠し、島外企業が観光業を支配しており、琉球と非常によく似た島と考えられます。一方、パラオでは人口はグアムの十分の一しかないものの、国であることにより、パラオ人が島の政治経済や社会において決定権を持ち他国の政治や企業による介入や支配を許さない法制度が完備していました

琉球独立宣言は、日本(本土)に対する琉球人の怒りの現れですが、決して机上の空論ではありません。2013年には、独立を具体的に研究し、実践活動をする琉球民族独立総合研究学会が設立されました
筆者(佐藤優/母親が沖縄出身)は独立論に最も強く反対しています。民族はエリート(沖縄県知事、県会議員、琉球新報・沖縄タイムス、琉球朝日放送、など)が思っているようには生まれませんが、国家という人工物は一部の支配層がでっちあげることは可能です。筆者が経験したソ連の崩壊や東欧諸国の独立運動から得た認識を基に考察すると、沖縄の独立論は圧倒的大多数の民衆とは関係無いし、民衆を不幸にする可能性の方が高いと考えています。従って、大多数の日本人に向けて、沖縄の立場、沖縄の現状を説明し、国家統合の崩壊を食い止めたいと考えています

<今こそ民族問題を学ぶべき>
筆者(佐藤優)がソ連崩壊時に知り合ったサーシャという男がいる。彼は、ロシア人でありながらラトビアに対する植民地支配を止めるべきだとして学生運動を組織し、ラトビア人民戦線を結成してその機関紙(「アトモダ/覚醒」)の編集長もやりました。しかし、独立後、ラトビアから「好ましからざる人物」としてラトビア国籍を剥奪され、追放されてしまいました。現在、彼はプーチン側近のブレーンになって、ウクライナのドネツクとルガンスクの傀儡政権創設の手伝いをしています
独立したラトビアは、ロシア人をポストから全て追い出すために、ラトビア語の試験を受けて合格した者にしか国籍を付与せず、社会保障も一切与えないことにしています。その結果、ラトビアには無国籍証明書というおかしなパスポートがあり、ロシア人は皆これをあてがわれています
この結果を見てみると、やはり自分の出自の民族から離れたところで、他の民族に過剰に同情する形での民族運動はどうしても無理があります。同情する人に勧めるのは、極力触らない方がいいということ、つまり当事者性の無い人はよそのナショナリズムに関与しないというのは、守るべき一線ではないかと考えています

その他の民族紛争、民族独立運動について(私見)

本書で取り上げられていない民族紛争、民族独立独立運動も数え上げればきりがない程ありますが、現在メディア等で取り上げられる機会が多いケースについて幾つか考察してみたいと思います
尚、以下はいずれもアントニー・スミスの定義する独立した民族(エトニー)に該当し(①名前を持った人間集団、②出自や血統に関する神話、③歴史の共有、④独自文化の共有、⑤ある特定の領域との結びつき、⑥内部での連帯感)、国家という枠組みの中で少数派に属し、不当な取り扱いを受けているケースです

1.ロヒンギャ難民問題

ロヒンギャ難民
ロヒンギャ難民

歴史的背景
ロヒンギャはミャンマーのラカイン州(下図参照)に定住しているイスラム教を信仰するインド系の民族(ミャンマーでは「ベンガル人」と呼んでいる)で、人口は約80万人と言われています。言語はベンガル・アッサム語(インド系)に属するロヒンギャ語を使用し、殆どの人はミャンマーの公用語であるビルマ語を話せず、ミャンマー人との間で日常的なコミュニケーションは殆ど図れていません。また、ミャンマー人は仏教徒であり宗教の面からも両民族の融和は難しい状況にあります

ミャンマー・ラカイン州
ミャンマー・ラカイン州—外務省資料

歴史的には、現在のラカイン州で15世紀前半~18世紀後半まで栄えていたミャウー朝・アラカン王国の時代から王の従者や傭兵としてムスリムが移住し仏教徒と共存していましたが、その後コンバウン朝の攻撃で滅亡した後は移住していたムスリムはベンガル側に逃亡しました。18世紀半ばになってコンバウン朝はイギリスに敗北(第一次英緬戦争)し、1926年にラカイン地方は英国の植民地になりました。この結果、既に英国領になっていたインドのベンガル地方(現バングラディシュ)から大量のムスリムが移住し、ラカインの仏教徒との共存関係が崩れ、軋轢を起こすようになりました
1941年12月に太平洋戦争(第二次世界大戦)が始まると、日本軍はビルマを占領しましたが、ビルマ奪回を目指す英国軍とお間で長い戦争に突入しました

インパール作戦・地図
インパール作戦・地図

日本軍はインパール作戦を実行する段階で、ラカインの仏教徒の一部を武装化しビルマ奪還を目指す英国軍との戦いに参加させる一方、英国軍もベンガルに避難していたムスリムの一部を武装化させラカインに侵入させて日本軍との戦闘にさせました。この結果、現実の戦闘ではムスリムと仏教徒の壮絶な宗教戦争となり、ラカインにおける両教徒の対立は取り返しがつかない状態になってしまいました。

大戦終了後ビルマはイギリスの植民地に戻りましたが、1948年には共和制の連邦国家として独立しました。しかし、独立直後から民族、宗教、イデオロギーの対立から内戦に突入し、1950年代までラカイン州は中央政府の力が十分に及ばない地域として残されてしまいました。この間に、東パキスタン(現バングラディシュ)の食糧危機をきっかけにしてベンガル人ムスリムがラカインに侵入し、仏教徒との軋轢は抜き差しならない状態になってしまいました。また、侵入したムスリムの中には、1960年代に政府軍によって鎮圧された東パキスタンのムジャヒディン(イスラム教の大義に則ったジハード/聖戦に参加する戦士)を名乗る武装集団も混じっていたとされ、彼らがロヒンギャの過激グループの中核になっていると言われています

1982年に成立した「市民権法ロヒンギャは正式に国籍が剥奪されました。現在のミャンマーでも、新規の帰化については、原則として政府の認めた135民族(ロヒンギャは入っていません)に限っている為、ロヒンギャに帰化が認められる可能性はありません。尚、国籍を剥奪された住民には、借りの身分証明書として「臨時証明書」が発行されました。2015年6月より、これに代わって「帰化権審査カード」が発行されています

1988年、ロヒンギャが地位改善を期待してアウンサンスーチー率いる民主化運動を支持したため、当時の軍事政権はロヒンギャに対して強烈な弾圧(財産差し押さえ、強制労働、など)を行った結果、30万人規模の難民が発生しました。また、その後1990年代にも二度繰り返された弾圧で大量の難民が発生しています
2012年にはロヒンギャと仏教徒の間で大規模な衝突が起き、ロヒンギャ200人が殺害され、10万人以上のロヒンギャが住居を追われました
こうした状況下で、バングラデシュ以外の周辺諸国(タイ、マレーシア、など)への脱出する人もいますが、これらの国は難民認定しないことで一致しており、ロヒンギャ難民が不法入国者として罰せられています

2016年10月9日、ラカイン州で武装集団の襲撃があり、警察官9人が殺害されました。当局は実行犯8人を殺害、2人を逮捕しました。当局はこれをロヒンギャ連帯機構(RSO/Rohingya Solidarity Organization)の犯行と断定し、軍による掃討作戦を実行しました。10月14日、ミャンマー大統領府は、犯行はパキスタン過激派の支援を受けた「アカ・ムル・ムジャヒディン」によるものと声明を出しました
2017年1月、イスラム諸国機構は、マレーシアで緊急外相会議を開催し、ロヒンギャ数百人が死亡した公算が大きいという報告書を発表すると同時に、「人道に対する罪」の可能性が高いとミャンマーを非難しました
8月25日、ミャンマー国境でアラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA/Arakan Rohingya Salvation Army)が駐在所20ヶ所以上を襲撃し、以後の戦闘を含めて数百人規模の死者が出ている模様です。また、ロヒンギャの居住区域では放火(双方が相手による犯行と言っている)、略奪が行われていると報道されていますが、現在、ミャンマー政府は外国の調査団の受け入れを拒否しています。一方、バングラディシュに難民として流入した人は62万人に達しており、欧州に流入したシリア難民(約37万人)、ソマリア難民(約30万人)、サイゴン陥落時のベトナム難民(約10万人)と比べても空前の規模に達しています

<考察>
歴史的背景から分かるように、ロヒンギャの悲劇の原因は;
イギリスの植民地政策:ベンガルからの大量のベンガル人ムスリムの移民を行ったこと
太平洋戦争時にイギリス軍がベンガル人ムスリムの移民を武装させ、日本軍と戦わせたこと
太平洋戦争時に日本軍がアラカンの仏教徒を武装させ、イギリス軍と戦わせたこと
ビルマ独立に際して、イギリスが民族問題に関して適切な指導を行わなかったこと

従って、このままミャンマーとバングラディシュに問題解決を委ねるのではなく、国連を中心とする仲裁に、イギリス及び日本が積極的に関わり、両国に対する経済援助、及び難民の受け入れなどを検討すべきではないかと私は考えています

<Follow-up>
* 2018年1月12日、ミャンマーを訪問しアウン・サン・スー・チー国家顧問兼外相と会談した河野外相は26億円拠出を表明して帰還を支援することを表明しました。
* ミャンマー諮問委員会報告書

2.イギリスにおける民族問題

イギリスの正式名称は既に述べたように「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」といい、民族の名称は入っていません。主たる民族の構成は、グレートブリテン島の「イングランド人」、「スコットランド人」、「ウェールズ人」、及びアイルランド島の「アイルランド人」の4民族です。スコットランド人、ウェールズ人、アイルランド人は、土着していたケルト人の末裔であることは学術的に確認されています。従って、それぞれの人びとはケルト語から派生したスコットランド語ウェールズ語アイルランド語を、英語以外の民族の言語として現在も使用しています

9世紀、14世紀のイギリス9世紀、14世紀のイギリス

<イギリスの歴史・クイックレビュー>
イングランドは、1世紀以降ローマの支配を受けていましたが、5世紀になってヨーロッパ全体に及ぶ民族大移動の影響を受けてローマの支配が終わると、グレートブリテン島に「ゲルマン系アングロサクソン人」が侵入し、土着のケルト人を駆逐、乃至同化してその過半(スコットランド、ウェールズ地方を除く)を支配するようになりました。11世紀に入るとフランス北部を拠点とするノルマンディー公ギョーム2世によりイングランドは征服、統一されました(ノルマン人もゲルマン系の民族)

スコットランドは、中世前期に建国されたときからスコットランド王国として独立を保っていましたが、スコットランド王国の正統性は、繰り返されるイングランドの侵略に脅かされていました。エリザベス1世(1533~1603年)の時代になってスコットランドの女王メアリーが内紛により女王の座を追われイングランドに亡命しましたが、その後エリザベス1世により処刑されてしまいました
女王メアリーの一人息子のジェームスはエリザベス1世死去の後、イングランド王に指名され、ジェームス1世(ステュアート朝)として即位するとともに、スコットランド王としての地位も保つことになりました(同君連合体制)。このジェームス1世は、イングランドとスコットランドの統一を願い、現在のイギリス国旗であるユニオンジャックを制定しました。因みに、この国旗はイングランドとスコットランドの両国の国旗を足して二で割った様なデザインになっています

ユニオンジャックのデザイン
ユニオンジャックのデザイン

この同君連合体制はおよそ100年間続きましが、国家としての統一はできませんでした。この間、清教徒革命(Puritan Revolution/Wars of the Three Kingdoms;1641年~1649年にかけてイングランド・スコットランド・アイルランドで起きた内戦・革命)、1688年の名誉革命(Glorious Revolution)と動乱が続きました
1707年イングランドとスコットランドの両議会で統一が決定グレートブリテン王国)されましたが、その後もスコットランドでは武力反乱が起きては鎮圧されることが続きました。1745年には大規模武力反乱(「the Forty-Five」と呼ばれている)が発生、翌年カロデンの戦い(Battle of Culloden/スコットランド北部のハイランド地方)でスコットランドは大敗北を喫しましたが、ここでイングランド政府軍(司令官カンバーランド公ウィリアム・オーガスタス)が負傷者や残党の大虐殺を行ったとされ、これが長きに亘ってスコットランド人の対イングランド感情に影を落としています。この戦いの後、政府は民族衣装のキルトやタータン模様の着用と武器の所有を法律で禁じ、伝統の氏族制度を解体しましたが、これはスコットランド人にとっては非常な屈辱であったと考えられます。尚、キルト着用禁止令は36年後に廃止されました

ウェールズは、ケルト系の小国家群が続いた後、13世紀にフレウェリンが統一を試みましたが、イングランド王エドワード1世と戦って敗北しイングランドの支配下に入りました。エドワード1世はウェールズ人をなだめる為に妊娠中の王妃をカナーヴォン城(Caernarfon;世界遺産)に連れて行き、そこで生まれた王子をプリンスオブウェールズ(Prince of Wales)と呼びました。現在でも、英国の第一王位継承者に与える公式の称号になっています(現在、チャールズ皇太子がプリンスオブウェールズです)

カナーヴォン城
カナーヴォン城

アイルランドについては、イングランドでジェームス1世による同君連合体制ができると、当面スコットランド問題が放置可能となったため、イングランド人によるアイルランド植民が始まりましたイングランドは人口においては圧倒的に優位にありアイルランド全土に植民が及んでいきました
しかし、同君連合体制になってもスコットランドとの戦争に手を焼いていることを見たアイルランドはイングランド組し易しと侮り、植民したイングランド人の虐殺事件を起こしてしまいました。また、これをきっかけにアイルランド・カトリック同盟が成立し、カトリックの擁護者を自負するローマやスペインから支援者がやってきてイニシアティブを握り、アイルランドをカトリック(アイルランド)とプロテスタント(イングランド)の代理戦争の場にしてしまいました

1749年、清教徒革命に勝利してイングランドを支配した議会派は、内外のカトリック勢力の駆逐に手を付け始めました。この過程で行われたのがオリバー・クロムウェルによるアイルランド遠征です。彼の戦略はアイルランドの徹底的壊滅であり、多くのカトリック信者が虐殺され、アイルランドはイングランドの支配下に入りました。この歴史がアイルランド人の記憶に刻み込まれ、現在に至るもアイルランドがイングランドに同化する事を徹底的に拒む背景になっています
その後、1801年にグレートブリテン王国がアイルランドを併合し、「グレートブリテン及びアイルランド連合王国」を形成しました
1916年ジェームス・コリーが指導するイースター蜂起(復活祭に行われた武装蜂起)が起きアイルランド全島の独立を宣言しましたが、直ぐにイギリス軍に鎮圧され、指導者たちは処刑されてしまいました。しかし、3年後の1919年、アイルランド独立戦争が勃発しました。1920年、イギリス政府はアイルランド統治法を制定し、北部6州はアイルランド議会で定める法の適用を受けないと規定し、アイルランドを北アイルランド南アイルランドの2つに分割して独自の議会を認め、それぞれの自治権を認めました。1922年休戦条約(英愛条約/Anglo-Irish Treaty)によって、アイルランド全島をアイルランド自由国としてイギリスの自治領になりました
しかし、イングランドから植民したプロテスタントが多い北アイルランドは即座にアイルランド自由国からの離脱を決め、イギリスへの再編入を希望しました。この結果、北アイルランドは独自の議会と政府を持つイギリスの構成国となりました(⇒グレートブリテン及び北アイルランド連合王国

一方、イギリスの自治領になった南アイルランドは、1937年に自治領から独立しアイルランド共和国となりました。北アイルランドでは、1960年代以降、宗教上政治上の対立が深まり、数々の血なまぐさいテロが実行されました(後述)。現在、北アイルラン人は、英国及びアイルランド共和国双方の市民権を持っており、双方の国のパスポートも持っています。国際法的には現在も英国の領土であり、英国議会の議席も持っています

<スコットランドの独立運動>

大英帝国が世界中に植民地を持ち、隆盛を誇っていた時代が長く続き、スコットランドではスコットランド議会において自治を求める「ホームルーム」運動(1853年)の動きはありましたが、独立を求めて中央の支配に挑戦することはありませんでした
1930年になってから、自治を求めるスコットランド誓約がジョン・マコーミックによって提案され、1949年正式に文書化されました

イギリスは、第二次世界大戦では戦勝国の仲間入りはしたものの、経済的には疲弊し大国の面影はなくなりました。1956年のスエズ危機(エジプト政府によるスエズ運河国有化)からアフリカにおける急速な脱植民地化が続き、大英帝国の凋落は最早隠しようもなくなり、多くのスコットランド人にとって大英帝国内に留まることの意義は次第に薄れて行きました
1970年代に、スコットランド近海に北海油田が発見され、イギリスに莫大な利益をもたらす様になると、その利益の不公平な分配がスコットランドのナショナリズムを刺激することとなりました
また、スコットランド議会は、1707年のイングランドとの統合以来ウェストミンスター宮殿にあるイギリス議会に統合されていましたが、こうした動きに合わせ、独自の議会設置を求める声が高まりました。1979年の住民投票では否決されたものの、1997年に登場したトニー・ブレア(スコットランド出身)首相の下で再度住民投票が行われ、独自議会を設置することが決まりました

2013年、スコットランド自治政府のアレックス・サモンド(Alex Salmond)は「独立国家スコットランド」の青写真を発表しました。2014年9月には、独立の是非を問う住民投票を実施しましたが、反対票が55%を占め否決されてしまいました
2016年6月、イギリスの欧州連合離脱の是非を問う国民投票が実施され離脱が決まりましたが、スコットランドでは、62%の住民が欧州連合に留まることを支持したことから、スコットランド自治政府首相のニコラスタージョン(Nicola Sturgeon)は独立した上で欧州連合に加盟する可能性を示唆しています

<北アイルランド民族紛争>

北アイルランドは多数派であるプロテスタント(イングランドと同じ)が中心となって統治されており、カトリック教徒は、住居、政治上の差別を受けていました。1960年代になって、アメリカの公民権運動に触発されて、北アイルランドでも差別撤廃への関心が高まりカトリックによるデモが行われるようになりました

ユニオニスト
ユニオニスト

プロテスタント主体であった北アイルランド政府はこれを抑圧情勢は緊迫化し、深刻な分断と対立が発生しまし。以降、1990年代前半までIRA( Irish Republican /南北アイルランドを統一させることを主張する武装組織)暫定派を始めとするナショナリスト(イギリスとの連合維持を主張)とユニオニスト(イギリスからの独立を主張)双方の私兵組織と、政府当局英陸軍北アイルランド警察)とが相争う抗争が続き、血の日曜日事件(1972年、北アイルランドのロンドンデリーで、デモ行進中の市民27名がイギリス陸軍落下傘連隊に銃撃され、14名が死亡した事件死亡)など数多くの武力弾圧やテロによって数千名にものぼる死者が発生するなど、社会と経済の混乱は極めて苛烈なものとなりました

しかし、1990年代になると和平への道が模索されはじめ、1998年になるとユニオニストおよびナショナリスト政党、私兵組織とイギリス、アイルランド両政府によってベルファスト合意が形成され、これに基づいて全政党が参加する北アイルランド議会が設置されました。この功績によって、穏健派政党の党首であるデヴィッド・トリンブルとジョン・ヒュームにノーベル平和賞が授与されています。過激派によるテロが収まったことを受け、外国企業による新たな直接投資が相次ぎ、経済成長を遂げています

<考察>

ウェールズ、スコットランド、アイルランド、それぞれの民族問題を概観すると、民族問題は、権力にあるものの対処の仕方によって劇的な違いを生むことが分かります;
差別は民族独立に強力なエネルギーを供給する。特に虐殺行為がこれに加わると数百年続く独立運動のエネルギーを生み出す(スコットランド、アイルランド
これに宗教の対立が絡むと、より悲惨な結果を招き、独立以外の解決策は無くなる(アイルランド
支配者が被支配者に対して名誉を与え、寛容を示せば民族間の対立は表面化しない(ウェールズ
民族紛争は荒廃をもたらし、妥協による民族の融和は繁栄をもたらす(北アイルランド

3.スペインにおける民族問題

スペインは、バスク地方とカタル―ニア地方での民族問題を抱えていますが、この問題が深刻化した背景には、スペイン内戦があります

バスク、カタル―ニア
バスク、カタル―ニア

<スペイン内乱・クイックレビュー>

第一次世界大戦後のスペインでは、右派と左派の対立が尖鋭化していた上にカタルーニャやバスクなどの地方自立の動きも加わり、政治的混乱が続いていました。そうした中で第二共和政期にあったスペインで、フランシスコ・フランコを中心とした右派による軍事クーデター発生し、マヌエル・アサーニャ率いる左派の人民戦線政府(共和国派)との間でスペイン内戦(1936年7月 – 1939年3月)が勃発しました。反ファシズム陣営である人民戦線をソビエト連邦が支援し、欧米の知識人らも数多く義勇軍として参戦(ヘミングウェイ原作の映画「誰が為に鐘は鳴る」はこの内戦を扱っています)しました。一方、フランコ側はファシズム陣営のドイツ・イタリアが支援しました

内戦の初期においては人民戦線側が有利な状況でしたが、次第にフランコ側が攻勢を強めて行き、1937年春には北部のバスク地方が他の人民戦線側地域から分断されて孤立し、ビルバオ、サンタンデール、ヒホンなど主要都市が陥落して、バスクは完全に反乱軍に占領されてしまいました。その間の4月26日にバスク地方のゲルニカが、ドイツから送り込まれた義勇軍航空部隊による空襲(ゲルニカ爆撃)を受け、巻き添えとなった市民に約300人の死傷者が出ました(共和国側は死傷2500人以上と発表)。これは、パブロ・ピカソの絵画『ゲルニカ』の題材になったことで良く知られています

ゲルニカ
ゲルニカ

1938年12月より、フランコは30万の軍勢でカタルーニャを攻撃、翌1939年1月末に州都バルセロナを陥落させました。人民戦線側を支持する多くの市民が、冬のピレネー山脈を越えてフランスに逃れました。2月末にはイギリスとフランスがフランコ政権を承認し、アサーニャは大統領を辞任、人民戦線政府はフランスに亡命し内戦は終結しました。勝利したフランコ側は、人民戦線派の残党に対して激しい弾圧を加えました。軍事法廷は人民戦線派の約5万人に死刑判決を出し、その半数を実際に処刑しました。特に自治権を求めて人民戦線側に就いたバスクとカタルーニャに対しては自治の要求を圧殺しました

<バスク独立運動>

スペイン内戦では15万人以上のバスク人が難民となり、その後のフランコ政権下ではバスク語の使用禁止やイクリニャ/バスク国旗の掲揚禁止などの政策が取られました

バスクの国旗
バスクの国旗

1946年にはアギーレがニューヨークでバスク亡命政府を編成しましたが、反共産主義の立場を取る西側勢力はフランコを容認するようになり、1960年のアギーレの死もあってバスク亡命政府は政治的影響力を低下させたました。1952年に地下組織として結成されたEKINは、バスク民族主義党青年部から分離したグループなどを加えて1959年にバスク祖国と自由(ETA)に発展し、バスク語の民族語としての擁立、バスク大学の創設などバスク民族の政治的自立や民主的諸権利の認知を訴えました。発足当初のETAは民族文化復興運動団体の色彩が強かったものの、やがて政治的独立を掲げる集団が主流派となり、1968年には武力闘争が開始されて世界的に知られるようになりました。それまでは穏健派のバスク民族主義党がバスク・ナショナリズム運動を独占していましたが、ETAの登場で状況が変わりました。1960年代末には全国的にフランコへの反体制運動が高まり、1970年代になるとバスク民族主義党が保守層の支持を背景に組織を拡大しました

1975年フランコが死去するとスペインでは民主化への移行が開始され、1978年には国民投票が行われてスペイン1978年憲法(現行憲法)が制定されました。憲法にはスペイン国家の不可分一体性が明記され、バスク人は民族を構成するには至らない民族体と位置付けられましたが、1979年にはスペイン国会でバスク自治憲章承認された後に住民投票でも承認され、バスク自治州が発足しました。憲法の規定でナバーラ県はバスク州への統合が可能とされましたが、結局1982年に単独でナバーラ州に昇格しました。バスク人とナバーラ人の分離はスペイン政府の意図するところであり、バスク地方とスペイン国家の係争解決に向けた大きな障害となっています。ETAは1968年の暴力活動開始以後に800人以上を殺害し、1990年代頃にバスク経済が一定程度回復するとテロリズムの克服がバスク地方最大の懸念事項となりましたが、2000年代後半以降には弱体化したとされています。2003年にはバスク民族主義党のフアン・ホセ・イバレチェがゲルニカ憲章改正案(イバレチェ・プラン(英語版))をスペイン国会に提出してバスク地方の自治拡大を狙いましたが、スペイン下院に否決されました

バスク語については、EU機関内で限定的な使用が認められており、2011年にはスペイン国会上院でも使用が認められるようになりました。2000年代半ばの調査で、スペインでバスク語を話す人は55万人います(他に、10万人がフランス領バスクに居住しています)

<カタル―ニア独立運動>

内戦後のカタルーニャでは、カタルーニャ語カタルーニャ・アイデンティティの象徴に対して厳しい弾圧が行われました。カタルーニャの伝統的音楽・祭礼・旗、カタルーニャ語の地名や通り名まで禁じられました。更に、自治政府や自治憲章も廃止されてしまいました。第二次世界大戦には加わらなかったものの、戦後スペイン経済は壊滅的な状況になり、1950年前後までカタルーニャ経済も停滞を余儀なくされました。1960年代から1970年代初頭になって、カタルーニャは急速な経済成長を遂げました

1975年のフランコが死去後のスペインの民主化により、1977年のスペイン議会総選挙の際、カタルーニャでは民族主義政党が75%の得票を得ました。1978年には新憲法が制定され、新憲法の下で1979年カタルーニャ自治憲章が制定されてカタルーニャ自治州が発足しました
1986年にスペインがヨーロッパ共同体に加盟すると、外国企業の1/3は経済基盤の整っているカタルーニャ州に進出しました。更に、1992年バルセロナオリンピックが開催され、カタルーニャのイメージを世界に広める役割を果たしました。1990年代には経済面で外国籍企業への依存が進み、EU外からの移民も増加致しました

2006年に自治権の拡大を謳った新たな2006年カタルーニャ自治憲章が制定されましたが、その後この自治憲章は憲法裁判所で違憲とされました(2010年)。また、スペインは財政力の弱い地域を支援する税制を採用しており、財政力が強いカタルーニャ州は特に再配分比率が低い地域であるため不満を募らせていました。これらが原因でカタルーニャ・ナショナリズムの機運が高まり、2010年半ばには独立支持派がはっきりと増加しました

2010年7月の大規模デモ「2010年カタルーニャ自治抗議」には約110万人が参加。2012年150万人が参加した大規模なデモ、2013年の「カタルーニャ独立への道」、2014年の「カタルーニャの道2014」など、毎年のように大規模デモが開催されています。2015年カタルーニャ自治州議会選挙では、独立賛成派が過半数の議席を獲得し、州議会がカタルーニャ独立手続き開始宣言を採択しました

独立旗と大規模デモ
独立旗と大規模デモ

2017年10月1日には独立を問う住民投票が実施され、投票率4割ながら賛成が9割に達しました。10月10日カタルーニャ独立宣言は署名され、中央政府に対し対話を求めたものの中央政府はこれを拒否、カタル―ニア自治政府は独立宣言そのものは撤回しなかったため、10月21日中央政府は自治政府の権限を一時停止する方針を決定しました。10月27日州議会は独立宣言を賛成多数で承認しました。これを受け中央政府はプッチダモンら州政府幹部らを更迭し、中央政府の副首相を州首相の職務代行に据えるなどカタルーニャ州の直接統治に乗り出し、現在に至っています

<考察>

バスク人もカタル―ニア人も、民族としての自覚を持った集団であることは歴史的に明らかであり、また、スペイン内乱及びその後のフランコ政権下で徹底的な弾圧を受けていることを勘案すると、現在のレベルの自治では満足しないことは明らかなように思います。独立を認めた上での連邦制、あるいは最低でも自治政府に徴税権の一部を移管する、などの妥協が必要だと思います

雑感

民族問題に関心の薄い日本も、第二次世界大戦までは、多くの民族をその支配下に置き、統治を行って来ました;
日清戦争後の下関条約で清国から台湾の割譲を受け、以後約50年間台湾を統治してきました。台湾には、福建省などから移民した中国人に加え、山地民族(9族)が居住しており、明治政府はその統治に非常に苦労しました。しかし、教育の普及等、社会インフラの整備などにより、終戦までは安定した統治が行われていました。1990年代の初めに、私自身台湾に駐在する機会がありましたが、外省人(1949年共産軍に敗れ台湾に脱出した蒋介石軍、約200万人)以外の台湾人は概ね親日的であったように思います。現在でも日台関係は良好であり、台湾の統治は失敗ではなかったと私は思っています。また、日本の統治が行われる前の台湾は、歴史的には清国の領土とはいえ「化外の地(けがいのち/中華文明に於いて文明の外の地方を表す用語)」と呼ばれ、社会インフラの整備が全く行われていなかったことも、日本を受け入れた背景にはあったと思われます

日露戦争後のポーツマス条約で、南千島、南樺太を日本の領土に加えましたが、もともとロシア人やエスキモーの人口の少ない所であったと思われますので、日本人の植民によって軋轢を起こしたことは無かったと考えられます
③ 1910年日本に併合した朝鮮については、第一次世界大戦後に沸き起こった独立運動を抑圧したこと、皇民化政策(宗氏改名、徴兵制/1944年~、、)を進めたこと、などにより民族の誇りを踏みにじったことが、現在まで続く反日感情慰安婦問題の追求靖国参拝問題に繋がっていると考えられます

第一次世界大戦で戦勝国となった日本は、ベルサイユ条約によって赤道以北の旧ドイツ領ニューギニアの地域を委任統治することとなりました。日本はこれら南洋諸島開拓のために南洋庁を置き、国策会社である南洋興発株式会社を設立して島々の開拓、産業の育成に努力しました。1933年の国際連盟脱退後は、パラオ諸島やマリアナ諸島、トラック諸島は海軍の停泊地として整備し、それらの島には軍人・軍属、及びそれらを相手に商売を行う人々が移住しました。また、新天地を求めて多くの日本人が移住し、その数は10万人に上りました。日本人の子供たちのために学校が開かれ、現地人の子供にも日本語による初等教育を行いました。こうした施策が、敗戦後も南洋諸島の人びとが親日的である理由になっていると思われます;
エピソード1:パラオ諸島のアンガウル州の州憲法では、パラオ語、英語と併せ日本語が公用語として定めています
エピソード2:1944年、パラオ諸島のぺりリュー島で1万人以上の日本兵が玉砕しましたが、開戦前に自発的に協力を願い出た現地住民を強制的に疎開させ、現地住民の人的被害は無かったそうです

1931年の満州事変後に日本の傀儡政権として満州国が生まれました。満州国を多民族国家の理想形にすると夢見た人々は、五族協和の名の下に各種の施策を行いましたが、結果として失敗に終わりました(興味のある方は、私のブログ「五色の虹-満州建国大学・卒業生たちの戦後」を読んで」をご覧になってください)。また、満州国の開拓と統治を優先する人々は、日本人百万戸(5百万人)移住計画(興味のある方は「「麻山事件」を読んで」をご覧ください)を実行に移しました。しかし、この政策は、満州国農民の土地を奪う結果となり、五族協和とは裏腹に満州人の怨みを買う事となりました。1937年の盧溝橋事件以降の日中戦争に於いては、ジュネーブ条約違反行為(捕虜の殺害や重慶無差別爆撃)、日本軍731部隊による人道に悖る行為、などがあり、現在まで続く中国人の反日感情南京虐殺の責任追及靖国参拝問題に繋がっていると考えられます

いずれにしても、日本人は、アレクサンダー大王や、ローマ人、モンゴル人、など多民族国家をうまく統治した人々とちがって、異民族統治には向いていない民族かもしれません
1949年の統一以降、アンダーソン流の「道具主義」を貫いている中国は、チベット自治区や新疆ウィグル自治区で深刻な民族問題を抱えています。「想像共同体」であった満州帝国の失敗から何を学んだのでしょうか、、、

以上

盛夏から秋へ!

前回のブログでのご報告(初夏から夏へ!/8月13日)から約2ヶ月が経過しました。空梅雨気味に推移した8月前半までは、夏野菜は順調に育っていたのですが、8月半ば以降9月上旬までは夏らしくない雨模様が続き、8月30日大雨の日には我が家の近くの柳瀬川で急激な増水に伴う水難事件(1人死亡、1人ヘリで救出)が起きたほどでした。このお陰で関東地方を中心に夏野菜の値上がりが続きました
更に、9月17日には台風18号が襲来し、直撃は免れたものの、日本海側を通過して行ったために関東地方では強風が吹き荒れました。この2ヶ月間、夏野菜にとってはご難続きのお天気でした

我が家の夏野菜の状況

前回ブログで、夏野菜(トマト、キュウリ、ナス)の収穫を長続きさせるために、植え付け時期を3回に分ける実験についてご報告しましたが、第一世代は順調に生育し、収穫も順調でしたが、第二世代、第三世代は、上記異常気象の影響をまともに受けて以下の様な結果となりました;

① トマト:第二世代は全滅、第三世代も生育が非常に遅れただけでなくウィルス病に罹患してしまったようで、8月後半以降は残念ながら収穫できませんでした(実験は失敗!)。第三世代の生き残りの株は一株のみで生育状況は下記の写真の通りです;

第三世代生き残り!のトマト
第三世代生き残り!のトマト

9月終盤からは時雨前線による長雨が続いており、収穫できるかどうかは分かりません。収穫期の長雨はトマトには過酷な様で、プロの農家は殆どがビニールハウス栽培を行っていることも当然ですね!

② キュウリ:第二世代、第三世代は9月前半までは何とか収穫が続いたのですが、台風18号の強風で一夜にして葉が千切れ飛び、枯れてしまいました;

強風で葉が吹き飛ばされたキュウリ!
強風で葉が吹き飛ばされたキュウリ!

やはりキュウリもビニールハウス栽培で強風を防げなければアウトという事でしょうか

③ ナス:第一世代、第二世代、第三世代共に長雨の影響を受け、苗は相応のダメージを受け、収量が落ちましたが、8月下旬から9月初めにかけて秋ナス用の剪定(大胆に1/3位に切り詰める)、根切りと追肥:下記写真参照)を行った結果;

根切りと追肥
根切りと追肥
剪定実施後
剪定実施後

9月下旬から秋ナスの収穫が順調に進んでいます。ナスはプロの農家も露地栽培を行っていることで分かる様に、天候不順には強い野菜のようです

現在のナス
現在のナス(秋ナス収穫中)

野菜の保存

食べきれない野菜類は、古来乾燥によって保存を行い野菜のとれない冬に備えました。拙宅でも、少ない晴れ間を使って以下の乾燥野菜を作りました;

ゴーヤ(左)とナス(右)
ゴーヤ(左)とナス(右)
赤唐辛子(鷹の爪)
赤唐辛子(鷹の爪)

また、今年は栽培の種類を増やしたハーブ類も、以下の様に乾燥ハーブとして保存しました;

乾燥中のハーブ類.
乾燥中のハーブ類.
乾燥後のハーブ類
乾燥後のハーブ類

尚、ハーブ類は寒さに強いので、少なくとも11月末頃までは収穫することができます。現在の生育状況は以下の通りです;

栽培中のハーブ類
栽培中のハーブ類

秋冬野菜の生育状況

秋冬野菜は、8月下旬~10月上旬位に種蒔き、植え付けを行うものが多いのですが、ネギのみは春に種蒔き、初夏には植え付けを行っています。以下は、秋冬野菜の生育状況です;

野菜類_A
野菜類_A

上の写真の内、ネギ、タマネギは11月末頃に植え付けを行う予定です。また、ニラについては春に植え替えた後、初夏以降必要に応じ収穫しております

野菜類_B
野菜類_B

上の写真の内、白菜については、今年各コンテナに2株づつ植えてみました。一株目を早めに収穫し、最終的に一株を大きく育てることで、収穫量の極大化と収穫可能期間を長くする狙いがあります。うまくいくかどうかお慰みといったところでしょうか!

ネギ(上段:長ネギ、下段:下仁田ネギ)
ネギ(上段:長ネギ、下段:下仁田ネギ)

上の写真は、春に植え付けを行ったネギ類ですが、植付後の杜撰な水管理と夏場の天候不順により生育が芳しくありません。鍋の時期までに十分に成長するかやや疑問が残ります

ジャガイモ2世
ジャガイモ2世

ジャガイモ2世というネーミングは、ジャガイモは所謂「二度芋」と言われる様に暖地では二期作が可能なので、6月初旬に収穫した我が家のジャガイモを8月下旬に植えてみたことからきています。うまくいけば12月初旬には収穫可能と思われますが、秋の日照時間が確保できるかどうかで収量は決まると思われます

青首大根
青首大根

大根は底の深い大きなコンテナに3本づつ育てています。これ以外に2ヶのコンテナに時期をずらして種蒔きをしていますので、最大収穫量は15本となります。昨年は多く作り過ぎて春先に収穫が遅れた大根に穂が出てきてしまいましたので、今年は少し少なめにしました

上記以外に、秋冬用の野菜として、キャベツブロッコリービーツ野沢菜プンタレッラ、などを栽培しています
野沢菜については、先シーズンの様に密植をしないで、やや大きなコンテナを使って大きく育ててみようかと思っています。野沢菜漬けの他、葉を収穫した後のカブ(←ももともと野沢菜はカブです!)を信州の地元の人がやっている様に「粕漬」にすることが目的です。以下の写真(右側)は先シーズンのやや小さな野沢菜カブを粕漬にしたものですが、期待通り大変美味なものでしょた;

茗荷の紫蘇付けと野沢菜カブの粕漬
茗荷の紫蘇付けと野沢菜カブの粕漬

プンタレッラについては、今年6月のブログ(近所の八百屋では手に入らない野菜の栽培!)で、春蒔きを試した結果をご報告しましたが、本来イタリアでは冬・春野菜のようなので、秋蒔きが正解のように思います。それ程美味しい野菜とは思われませんでしたので、中型コンテナひとつで小規模生産を試みています(芽を出したばかり)
尚、忙しさに感けてプンタレッラ収穫後の根をそのままにしておいたところ、下記写真の様に生い茂り、勿体ないので天ぷらにして食べてきたところ、とても食べられる代物ではない!ことが判明しました;

プンタレッラとその天ぷら
プンタレッラとその天ぷら

以上