災害のリスクについて_その2

はじめに

二年ほど前に、災害全般について、そのリスクの分析と、リスクから生き延びる方法について、ブログを発行しました(災害のリスクについて考えてみました
今般、昨年後半の強烈な風台風(台風15号)と猛烈な雨台風(台風19号)による甚大な被害を受けて、前ブログの補完をすべく災害リスクに関わる本を漁っていた所、寺田寅彦(1878年~1935年;地球物理学者、随筆家)の「天災と国防」という文庫本を見つけました。読んでみると、恐らく百年近く前の著作にも拘らず災害の分析、及びそのリスク回避方法についての記事は多くの示唆に富んでいることが分かりました。余計なおせっかいとは思いますが、その内容の一部をご紹介するとともに、私なりのコメントを加えてみたいと思います

また、筆者(寺田寅彦)に倣い、拙宅付近の災害リスクを調査し、私なりの生意気な評価を試みてみました。災害リスクに関心のある方はちょっと覗いてみて下さい

天災と国防」を読んで

本書は「寺田寅彦全集」、「寺田寅彦随筆集」を基に災害に関連したもの12編を集め、再編成したものです。初版発行日(2011年6月9日)から考えると、同年3月11日の東北地方太平洋地震を受けて発刊を企図したものと思われます。巻末に「失敗学」で有名な畑村洋太郎(東京大学名誉教授)が解説を行っています。以下にテーマ毎に私なりの注目ポイントを抽出してみたいと思います。尚、引用する文章は旧仮名遣いや旧字を多く使っていますが、一部(津浪⇒津波)を除いて原文のままとしています
また、筆者の文章を引用する場合は括弧でくくることとし、私の補足やコメントについては青字で表記することにいたします

<天災と国防>
*「文明が進むにしたがって人間は次第に自然を征服しようとする野心が生じた」、「災禍を起こさせたもとの起こりは天然に反抗する人間の細工であると言っても不当ではないはずである
*「20世紀の現代寺田寅彦が生きた時代では日本全体が一つの高等な有機体である。電線やパイプが縦横に交差し、交通網がすきまもなく張り渡されているありさまは高等動物の神経や血管と同様である」、「天然の設計に成る動物体内ではこれらの器官が実に巧妙な仕掛けで注意深く保護されている

⇒昨年の台風15号で千葉県の一部で送電線が寸断され、回復に多くの時間を費やしました

台風15号・送電線被害

⇒一方、人間を含む動物の動脈は、体内の深いところにあり、通常の怪我では動脈が傷つくことが無いようになっています

*「昔の人間は過去の経験を大切に保存し蓄積してその教えにたよることがはなはだ忠実であった。過去の地震や風害に堪えたような場所にのみ集落を保存し、時の試練に堪えたような建築様式のみを墨守してきた。そうした経験に従って造られたものは関東大震災(1923年9月)でも多くは助かっているのである
*「昔の人間は過去の経験を大切に保存し蓄積してその教えにたよることがはなはだ忠実であった。過去の地震や風害に堪えたような場所にのみ集落を保存し、時の試練に堪えたような建築様式のみを墨守してきたそうした経験に従って造られたものは関東大震災(1923年9月)でも多くは助かっているのである
*「大震後横浜から鎌倉へかけて被害の状況見学に行ったとき、かの地方の丘陵のふもとを縫う古い村家が存外平気で残っているのに、田んぼの中に発展した新開地の新式家屋がひどくめちゃめちゃに破壊されているのを見た時につくづくそういう事を考えさせられた

室戸台風の進路

*「今度の関西の風害(室戸台風/1934年9月)でも、古い神社仏閣などは存外あまりいたまないのに、時の試練を経ない新様式の学校や工場が無残に倒壊してしまったという」

⇒2018年7月の豪雨に伴う広島、岡山の水害は、山すそに流れ出る小さな河川の扇状地に鉄砲水が流れ込んだことが原因と考えられます。いずれも新興住宅地になっており、こうした扇状地を農地として活用する分には問題はないものの、私有地であっても宅地として簡単に転用することが適切であるかは疑問があります

*「思うに日本のような特殊な天然の敵を四面に控えた国では、陸軍海軍の他にもう一つの科学的国防の常備軍を設け、日常の研究と訓練によって非常時に備えるのは当然ではないかと思われる

⇒ここでいう「常備軍」とは戦争を行う軍隊を指しているのではないと思われます。現在、災害が発生した時には地方自治体単位の消防、警察がまず対応し、必要に応じて都道府県首長の要請に基づき自衛隊派遣が行われる仕組みになっていますが、大きな自然災害が発生した時には寸刻を争う対応が必要となるので、人命救助に係る場合には自衛隊の自発的出動の仕組みが必要と思います。各種の装備と、訓練された多数の隊員を抱える自衛隊の方が、規模と即応力に関して圧倒的に優位にあると思われます

<災難雑考>
*「
災難の普遍性恒久性が事実であり天然の方則であるとすれど、われわれは災難の進化論的意義といったような問題に行き当らない訳にはいかなくなる」
*「日本人を日本人にしたのは実は学校でも文部省でもなくて、神代から今日まで根気よく続けられてきたこの災難教育であったかもしれない」

*「進化論的災難観とは少しばかり見地を変えた優生学的災難論といったようなものもできるかもしれない災難を予知したり、あるいはいつ災難が来てもいいように防備のできているような種類の人間だけが災難を生き残りそういうノアの子孫だけが繁殖旧約聖書の“ノアの方船”伝説すれば知恵の動物としての人間の品質はいやでもだんだん高まっていく一方であろうこういう意味で災難は優良種を選択する試験のメンタルテストであるかもしれない

⇒シニカルな表現ではありますが、的を得た指摘であると思います。大災害のあと生き残った人には、偶然ではない冷静で理知的な判断が働いていることが多いと思います。そこには恐らく流言飛語に惑わされない、今でいえばフェイクのSNSに惑わされない知識をとっさの行動に生かす知恵があったのだと思います
後述の、筆者(寺田寅彦)の関東大震災体験記を読んで頂ければよくわかると思います

<小爆発二件>
*この随筆は筆者(寺田寅彦)自身が浅間山近くで偶然経験した小噴火の経験を書いたものです
*新聞などの報道機関の書きぶりについて以下の様に皮肉を述べています
翌日の東京新聞で見ると、4月20日以来最大の爆発で噴煙が6里の高さにのぼったとあるが、これは自分が経験したものとかけ離れており信じられない素人のゴシップをそのまま伝えたいつもの新聞のうそであろう

⇒別の用件で旅行中に偶然噴火に遭遇したにも関わらず、20倍の双眼顕微鏡を持参していたこと、これですぐさま降灰を観察していることには驚かされます。また、新聞報道が大きな災害を報道するに当たって、伝聞や噂の類を垂れ流す状況は現在でも当てはまるように思われます。普段から災害を想定して、助かるために必要な知識を自分のものにしておくことの必要性を感じます

<震災日記より>
震災概要
①発生日時:1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒ごろ
②震源:11時58分32に発生したM7.9の本震(震源:神奈川県西部)から3分後の12時01分にM7.2(震源:東京湾北部)、5分後の12時03分にM7.3(震源:山梨県東部)という巨大な揺れが三度発生した“三つ子地震”であることが最新の研究で判明しています
③死者・行方不明者:105,385人。これまで言われていた142,807人という数字は統計上の重複があったと言われています
④火災以外の被害概況:太平洋沿岸の相模湾沿岸部と房総半島沿岸部の津波高さ10メートル以上)山崩れや崖崩れ、それに伴う土石流による家屋の流失・埋没
⑤政府の対応:9月2日、東京府下5郡に「戒厳令」を施行し、3日には東京府と神奈川県全域にまで広げました。また、朝鮮人(本書では“〇〇人”と書いてある)虐殺に発展した流言飛語の存在をきっかけとして、9月7日には緊急勅令「治安維持の為にする罰則に関する件」(勅令403号)が出されました

3月10日未明空襲後の浅草松屋屋上から見た仲見世とその周辺の写真

*以下の筆者(寺田寅彦)の実体験を地図上で辿るには次の被害状況を参考にしてください(全17ページ):国会図書館所蔵の東京市被害地図
*震災当日、筆者は二科展見物の為に上野公園内の竹の台陳列館木造平屋建
1,248)に出かけ、見終わった後喫茶店で地震に見舞われました

最初の感覚:椅子に腰かけている両足の裏を下から木槌で急速に乱打するように感じた(短周期の振動
*「そのうち急激に大きな振動が襲い、自分の全く経験のない大地震であることが分かった。これは子供の頃から何度となく母から聞かされていた土佐の安政地震一般に安政の大地震とは、江戸時代後期の安政年間に、日本各地で連発した大地震の事を指しますが、ここでは1854年に発生した南海トラフ巨大地震である南海地震及びその32時間前に発生した安政東海地震のことを指していると思われますの話がありありと思い出され、丁度船に乗ったように、ゆたりゆたり揺れるという形容が適切であることを感じた
*「竹の台陳列館に展示されていた美術品の損壊は大したことはなく、この建物自体の揺れは激烈なものではなかった。後で考えてみると、建物の自己周期が著しく長い(⇔固有振動数が低い⇔地震動に共振しない)ことが有利であったと思われる

⇒この体験は、私が神谷町8階のオフイスで東北地方太平洋沖地震(通称3.11大地震)で経験した揺れと同じだと思います。現代のビルは柔構造で大きな地震に耐えるように設計されているので、長周期の大きな揺れがかなり長い時間続きました。

*「自宅(文京区本駒込曙町あたり)への帰途東照宮(上野公園内)前の方へ歩いて来ると異様なかび臭い匂いが鼻を突いた。空を仰ぐと下谷方面(鶯谷駅の東側)からひどい土ほこりが飛んで来るのが見えるこれは非常に多数の家屋が倒壊したのだと思った同時に、これでは東京中が火になるかもしれないと直感された。東照宮近くの上野大仏の首が落ちたことは後で知った」
*「根津を抜けて帰宅する積りだったが、頻繁に襲ってくる余震で崩れかかった煉瓦壁が新たに倒れたりするのを見て低湿地の街路は危険だと思ったから谷中三崎町台東区谷中から団子坂に向かった」

自身の臭覚と視覚の情報を動員して即座に大火発生を予測したこと、また余震で壁が崩れるのを見て、低湿地は地盤が弱い為と判断して遠回りでも迂回した判断は流石! 最近は、海岸沿いの埋め立て地(参考:浦安地区液状化被害)だけでなく、内陸でも低湿地や谷が埋め立てられて造成された住宅地は液状化現象で被害が拡大しますので、自宅が埋め立て地か否かの知識は大変重要です

*「団子坂を登って千駄木当たりに来ると被害は少なく、自宅付近は見かけ上被害は殆ど無かった」、「室内に入ると、相応の被害はあった
*「自宅の縁側から見ると南の空(下町方面か)に珍しい積雲が盛り上がっている。それは普通の積雲とは全く違って、先年桜島大噴火の際の噴煙を写真で見るのと同じように典型的のいわゆるコーリフラワー(カリフラワーのこと)状のものであった。よほど盛んな火災のために生じたものと直感された

*「翌日(9月2日)大学(東京大学)に行って破損の状況を見廻ってから、本郷通りを湯島五丁目まで行くと、奇麗に焼き払われた湯島台の起伏した地形が一目に見え上野の森が思いもかけない近くに見えた
*「帰宅すると、焼け出された浅草の親戚のものが13人避難して来ていた。いずれも何一つ持ち出すひまもなく、昨夜上野公園で露営していたら巡査が来て“〇〇人(⇔朝鮮人のこと)の放火者が徘徊するから注意しろ”と云ったそうだ井戸に毒を入れるとか、爆弾を投げるとかさまざまな浮説が聞こえてくるこんな場末の町へまでも荒らして歩くためには一体何千キロの毒薬、何万キロの爆弾がいるであろうかそういう目の子勘定だけからでも自分にはその話は信ぜられなかった

⇒流言飛語や新聞記事を見て、多くの無辜の朝鮮人が殺害されたこの歴史上の事実を、恐らく差別につながるということで伏字にしたと思われますが、過去日本が行っていた人種差別(沖縄出身者やアイヌ人)や部落(現在は同和と表記している)の問題をこうした伏字で隠すという出版上のルールには、私は賛成できません。日本の負の歴史も正しく、明確に子孫に伝えていく必要があると思います
また、また流言飛語がありえないことを、科学者として冷静に判断していることは、特に影響力の大きいメディアは見習ってほしいと思います

朝鮮人虐殺_読売新聞記事

*「夕方に駒込の通りに出てみると、避難者の群れが陸続と滝野川の方に流れて行く。表通りの店屋などでも荷物を纏めて立退用意をしている。上野方面の火事がこの辺まで焼けて来ようとは思われなかったが万一の場合の非難の心構えだけはした

*「翌々日(9月3日)、長男を板橋にやり、三代吉(親戚か?)を頼んで白米、野菜、塩などを送らせるようにする
*「大学(東京大学)に出かけると追分の通り(17号線、あるいは都道455号線/本郷・赤羽線か)の片側を田舎へ避難する人が引切りなしに通った。反対の側も流れを為している。呑気そうな人も、悲惨な感じのする人もある
*「帰りに追分辺でミルクの缶やせんべい、ビスケットなど買った。焼けた区域に接近した方面のあらゆる食料品屋の店先はからっぽになっていた。そうした食料品の欠乏が漸次に波及して行く様が歴然とわかった
*「帰宅してから用心に鰹節、梅干、缶詰、片栗粉などを近所に買いにやる。何だか悪いことをするような気がするが、20余人の口を託されているのだからやむを得ないと思った。午後4時には三代吉の父親の辰五郎が白米、薩摩芋、大根、茄子、醤油、砂糖など車に積んで持ってきたので少しは安心することが出来た。しかしまたこの場合に、台所から一車もの食料品を持ち込むのはかなり気の引けることであった

<函館の大火について>
火災の概要
①発生日時:1934年(昭和9年)3月21日
②火元:函館市谷地頭町
③被害概要:死者2,166名、焼損棟数11,105棟
最終的には市街地の三分の一が焼失する規模となった。死者の中には、橋が焼失した亀田川を渡ろうとして、あるいは市域東側の大森浜へ避難したところ、炎と激浪の挟み撃ちになって逃げ場を失い溺死した者907名、また溺死しないまでも凍死した者が217名にも上りました
④当日の気象状況:当時日本海からオホーツク海に抜けた低気圧があり発達しながら北上した。午後6時には台風の中心が札幌の真西辺りに来て、函館辺りは南南西の風速十数メートルであった。ここで谷地頭町から最初の火の手が上がった。その後、低気圧が北上するとともに風向は西からとなり函館市内は最大瞬間風速39メートルに及ぶ強風となり函館全市に燃え広がった

*「江戸時代の火災の消失区域を調べてみると、相応な風があった場合には火元を“かなめ”として末広がりに、半開きの扇形に延焼している。これは理論上からも予期されることであり、実験でも実証されている

函館大火

*「江戸大火の例でみると、この消失区域の扇形の頭角はざっと60度から30度の程度。明暦大火の場合は恐らく風速10メートル以上であったと思われる根拠があるが、この頭角がだいたいにおいて、今度の函館の火元から消失区域の外郭に接して引いた二つの直線のなす角に等しい
*「もしも最初の南南西の風が発火後も持続し風速を増大していたなら、恐らく火流は停車場付近を右翼の限界として海へ抜けてしまったであろうと思われるのが、不幸にも次第に西へ回った風の転向のために火流の進路が五稜郭の方向に向けられ、そのためにいっそう災害を大きくしたのではないかと想像される

*「火流前線がどれだけ以上になった場合に、どれだけの風速ではどの方向にどこまで焼けるかという予測が明確にでき、また気象観測の結果から風向旋転の順位が相当たしかに予測され、そうして出火当初に消防方針を定めまた市民に避難の経路を指導することができたとしたらおそらく、あれほどの大火に至らず、また少なくともあんなに多くの死人を出さずに済んだであろうと想像される

*「文明を誇る日本帝国は国民の安寧を脅かす各種の災害に対して、それぞれ専門の研究所を設けている。健康保全に関するものでは“伝染病研究所”や“癌研究所”のようなもの、それから“衛生試験所”とか“栄養研究所”のようなものもある。地震に関しては“大学地震研究所”をはじめ“中央気象台の一部”にもその研究をつかさどるところがある。暴風や雷雨に関しては“中央気象台”に研究予報の機関が完備している。これらの設備の中にはいずれも最高の科学の精鋭を集めた基礎的研究機関を具備しているのである。しかるにまだ日本のどこにもひとつの“理化学的火災研究所”のある話を聞いた覚えがないのである
*「もちろん警視庁には消防部があって、そこでは消防設備方法に関する直接の講究練習に努力しておられることは事実であるが、ここでいわゆる火災研究という、そういうものではなくて、火災という一つの理化学的現象を純粋な基礎科学的な立場から根本的徹底的に研究する科学的研究をさしていうのである。例えば、“発火の原因となるべき科学的物理学的現象の研究”、“火災延焼に関する方則”、“色々な支配因子が与えられた場合に、火災が自由に延焼するとすればいかなる速度でいかなる面積に広がるかという問題”、更に基礎的研究には単に自然科学方面のみならず、“心理学的方面”、“社会学的方面”にも広大な分野が存在する
*「例えば、市民一人当たりの“失火の比率”とかまた“失火を発見して即座に消し止める比率”とか、そういう人間的因子が、たとえば京橋区日本橋のごとき区域と浅草本所のごとき区域とで顕著な区別のあることが発見されている。この種の研究を充分に進めた上で、消防署の配置や消火栓の分布を決めるのでなくては合理的とは言えないであろうと思われる

⇒畑村洋太郎氏(東京大学名誉教授)は巻末の解説で、消防に関しては、筆者(寺田寅彦)の時代より消防組織及び消防技術について格段の進歩があり、ハイパーレスキュー隊や消防救助機動部隊の例を挙げて筆者の指摘は当たらない、と言っていますが、分野を超えた知見の交換による死亡リスクの軽減、焼失拡大の阻止、などの面で“理化学的火災研究所”の設置はいいアイデアだと私は思います

<流言蜚語>
*「流言蜚語が伝播する条件として“流言の源”と“その流言を次へ次へと受け継ぎ取り次ぐべき媒質の存在”が必要である」
*「ある特別な機会には“流言の源”となりうるものは、故意にも偶然にも至る処に発生すると言うことは、ほとんど必然な、不可抗力的な自然現象であるとも考えられる
*「従って、ある機会に、東京市中にある流言蜚語の現象が行われたとすれば、その責任の少なくとも半分は市民自身が負わなければならない。事によるとその9割以上も負わなければならないかもしれない
*「科学的な常識というものは、何も。天王星の距離を暗記していたり、ヴィタミンの色々な種類を心得たりするだけではない。もう少し手近なところに活きて働くべき、判断の標準にならなければなるまいと思う
*「適当な科学的常識は、ことに臨んで吾々に“科学的な省察の機会と余裕”を与える。そういう省察の行われるところにはいわゆる流言蜚語のごときものは著しくその熱度と伝播能力を弱められなければならない」

⇒流言飛語の被害は、つまるところ国民の科学的な知識レベルに依存すると言っていますが、私も全面的に筆者の意見に賛成です。SNSのフェイクニュースが飛び交う現代、まず沈思黙考し、ちょっとでもおかしいと思ったら絶対に拡散させないことが必要と思います

<神話と地球物理学>
*「神話の中には、地球物理学的に、その土地の気候風土の特徴が濃厚に印銘されており浸潤していると考えられる
*「島が生まれるという記事は、海底火山の噴出、地震による海底の隆起によって海中に島が現れる、あるいは暗礁が露出する」、「河口における三角州の出現などが連想される
*「スサノオノミコトの記事に“その泣きたもうさまは、青山を枯山なす泣きはらし、河海はことごとく泣き乾しき”とあるのは、噴火の為に草木が枯死し河海が降灰のために埋められることを連想させる。噴火を地神の慟哭と見るのは適切な比喩であると言わなければなるまい

*「“すなわち天にまい上がります時に、山川ことごとく動み、国土皆振りき”とあるのは、普通の地震よりもむしろ特に火山性地震を思わせる
*「“すなわち高天原皆暗く、葦原中国ことごとくくらし”というのも“噴煙降灰によって天地晦冥の状”を思わせる
*「“ここに万の声は、狭蠅なす(五月蠅か)皆湧き”は“火山鳴動のものすごい心持ち”の形容にふさわしい
*「ヤマタノオロチの話も“火山からふき出す溶岩流の光景”を連想させる

*「以上の例からも、わが国の神話が地球物理学的に見ても、かなりまでわが国にふさわしい真実を含んだものであることから考えて、その他の人事的な説話の中にも、案外かなり多くの史実あるいは史実の影像が包含されているのではないかという気がする。きのうの出来事に関する新聞記事がほとんどうそばかりである場合もある。しかし数千年前からの言い伝えの中に貴重な真実が含まれている場合もあるであろう

⇒ハインリヒ・シュリーマン(1822年~1890年)はホメーロスによって作られたと伝えられる長編叙事詩『イーリアス』を基に発掘作業を行い、伝説の都市トロイアの遺跡を発見しました
*イーリアスとは:最古のギリシア神話を題材とし、トロイア戦争十年目のある日に生じたアキレウスの怒りから、イーリオスの英雄ヘクトールの葬儀までを描写しています

<津波と人間>
*筆者(寺田寅彦)の存命中に東北地方に2回大津波(1896年、1933年:両津波の間隔は37年)が襲い、大きな被害を与えました

*「こんなに度々繰り返される自然現象ならば、当該地方の住民は、とうの昔に何かしら対策を考えてこれに備え、災害を未然に防ぐことが出来ていてもよさそうに思われる。それが実際はなかなかそうならないというのがこの人間界の人間的自然現象であるように見える
*「学者の立場からは“この地方に数十年ごとに津波が起こるのは既定の事実である。こんな道理もわきまえずに、うかうかしているというのはそもそも不用意千万である”となるが、罹災者の側に云わせれば、“それほど分かっている事なら、何故津波の前に間に合うように警告を与えてくれないか”ということになる

*「37年という間隔は、世代が変わり大津波の経験は継承されない
*「昔の日本人は子孫のことを多少でも考えない人は少なかったようである。例えば津波を戒める碑を建てておいても相当な効き目があったのであるが、これから先の日本ではそれがどうであるか甚だ心細いような気がする
*「自然は過去の習慣に忠実である。紀元前20世紀にあったことが起源20世紀にも全く同じ様に行われるのである。科学の方則とは畢竟“自然の記憶の覚え書き”である。自然程伝統に忠実な物はないのである
*「日本のような、世界的に有名な地震国の小学校では少なくとも毎年一回ずつ一時間や二時間くらい地震津波に関する特別講習があっても決して不思議ではないであろうと思われる

*「三陸災害地を視察して帰った人の話を聞いた。ある地方では1896年の災害記念碑を建てたが、それが今では二つに折れて倒れたままになってころがっており、碑文などは全く読めないそうである。またある地方では同様な碑を、山腹道路の傍で通行人の最もよく眼につく処に建てておいたが、新道が別に出来たために記念碑のある旧道は淋れてしまっているそうである。それからもう一つ意外な話は、地震があってから津波の到着するまでに通例数十分かかるという平凡な科学的事実を知っている人が彼地方に非常に稀だということである。前の津波に遭った人でも大抵そんなことは知らないそうである

⇒この文章を見て、ふと感じたことがあります;
二年前に友人と東北地方を旅したことがあります。この時吃驚したのは、3.11大津波の直後の視察の際に見た「何もない海岸」に、吃驚するほど巨大な防潮堤が建設されつつあったことでした。当時はこの防波堤で美しい三陸の海の景観が失われるなあ、、、という程度の感覚でした

しかし、こうした防潮提は、必然的にその内側で防波堤より低い場所に住んで居る人が、津波の前兆である大きな引き波を自分の目で見ることが出来ず、高台への避難が遅れるのではないのだろうか、、、

拙宅付近の災害リスクの調査

自宅付近の災害リスクの概略を知るには、まず住んでいる地区の役所のサイトを覗いて見ることを薦めます
我が街・新座市には、地震ハザードマップ洪水・土砂災害ハザードマップがあり大変重要な情報を提供してくれます

1.地震ハザードマップから分かること;
このハザードマップから、新座市が持っている地目(畑地、宅地などの土地の使用区分)の情報、建築物の登記情報(構造、用途、築年数、等)、建物の密集度、などから地震の耐性を地域別に大まかに推測した結果が得られます(5メートル四方単位の危険度を色別に表示)
尚、この耐性を評価するにあたっては、新建築基準法が制定される前に建築された建築物を倒壊リスクが高いと評価しています
新建築基準法とは:1978年 M7.2の宮城沖地震では、最大震度5の地震だったのですが、多くの死者を出してしまいました。これを受けて1981年の建築基準法の改正で、震度6から7の地震でも倒壊・崩壊しない耐震性を持つように規定されています。現在の耐震基準もこの時の改正を元にしており、この時以前の耐震基準を旧耐震基準、この時以降の耐震基準を新耐震基準と呼んでいます

このハザードマップ上で第5ブロックに入る我が家の近辺は、巨大地震があると倒壊する家が、ある程度あると考えられます。ただ、我が家については1990年に新建築基準法に基づき立て替えていますので倒壊する危険はないのですが、周りの倒壊する家から火事が発生し、延焼する危険がある程度あります(我が家は、軽量コンクリートの外壁なので延焼のリスクは比較的小さい)
避難場所は幾つか考えられますが、自宅から1キロ程度にある十文字学園が一番安全であると考えられます

2.洪水・土砂災害ハザードマップから分かること;

新座市洪水・土砂災害ハザードマップ(画面をクリックすると拡大して見ることができます)

ハザードマップをご覧になるとわかると思いますが、新座市には柳瀬川と黒目川という二つの一級河川が流れています
一級河川とは:河川法で指定された河川の区分で、分水界や大河川の本流と支流で行政管轄を分けることなく、治水と利水を統合し、水系ごとに一貫管理されています

この両河川は、いすれも新河岸側を経由して荒川に合流していますが、過去に何度も氾濫を起こした油断のならない川です。因みに、拙宅から1キロ程にある柳瀬川は2017年には氾濫を起こさなかったものの、新聞やテレビに取り上げられるほどの被害が出ました(死者1名、ヘリによる救出)

柳瀬川・水難事故写真

昨年の台風19号でも水位はかなり上がったのですが、氾濫するには至りませんでした(被害の調査結果については事項をご覧になってください)

洪水・土砂災害ハザードマップでは新座市のみの洪水の恐れのあるエリア黄色)と土砂災害の恐れのあるエリア(赤色)、避難の道筋避難場所につても情報が分かり易く書かれています。拙宅のある地域は高度差が10メートル以上(測定方法は事項をご覧ください)ありますので、ほぼ浸水の恐れがないことが分かります

このハザードマップでは、当たり前のことですが、一部を除き新座市の部分のみしか書かれていません。しかし柳瀬川の周辺部については、隣接する清瀬市と所沢市の部分も行政区分の境界を越えて表現してほしいと思いました。特に避難が必要になった時には、行政区分を超えて一番近く、安全な避難経路と避難場所を選ぶことが必要になるのではないでしょうか、、、

柳瀬川のリスク評価

まず、清瀬市、所沢市、新座市にまたがる柳瀬川の地形の全体像を捉えるために、Google_Mapの航空写真地図をご覧になってください;

柳瀬川周辺航空写真
柳瀬川周辺_Google Map

この航空写真で、新座市は右隅の部分、左下が清瀬市、左上が所沢市の行政区分になります。この写真の左下から右上にかけて伸びる影は、恐らく断層があった跡だと考えられます。従って、前項で述べた土砂災害の恐れのある場所はこの断層と深く関係しています。また、断層から斜め右下側に当る広い部分が低地となっており洪水の恐れのある地域と深く関係していると考えられます

因みに、この写真上の特定の部分の標高を国土地理院の標高調査(試験版)で調べてみたところ;
滝の城址(地図の右上):54.2メートル
断層下の低地の部分:24.7メートル
柳瀬川の水面の辺り:22.0メートル
また、自然堤防と低地に当たる部分に高度差があまりないことを勘案すると、
自然堤防の平時の水面からの高さ:24.7-22.0 ⇒ 3メートル程度

なお、国土地理院のサイトにも書いてありますが、この標高は正確に実測されたものではなく、既存の地図(等高線が入っているもの)をベースにしていますので、地域によって使用できる地図に違いがあり精度が異なりますので注意が必要です
精度の程度を比較する目的で、同じサイトで以下の場所の標高を調べてみたところ;
新河岸川との合流地点:1.5メートル
彩湖周辺(荒川との合流地点付近):0.5メートル
となっており、いくら何でも荒川が東京湾に注ぐ場所と0.5メートルしか標高差がない事は考えにくいので、標高の絶対値については数メートルの誤差があることは考慮する必要はありそうです

従って、確たることは言えませんが、新河岸川と荒川の合流地点での標高差が非常に小さいこと(もともと新河岸川は、荒川を経由して江戸と川越との間の重要な水運に使われていました)を勘案すると、荒川の上流域での雨量が極めて多くなった場合、今年の台風19号で大きな河川の下流域で起きたように、新河岸川の水が荒川に流入できなくなり、その周辺での洪水を起こす危険が考えられるのではないでしょうか
一方、標高差を考えると、柳瀬川が荒川の増水の影響を受けることは無さそうです

<柳瀬川の洪水の可能性について>
柳瀬川は一級河川なので、各種のデータが利用できます。国土交通省が公開している柳瀬川のデータから必要な部分を抽出すると;
流域面積:106.3㎢(平方キロ)
流路延長:19.6km

柳瀬川流域地図

地図を見ると、柳瀬川の上流には「狭山湖」、「多摩湖」があります。このダム湖は多摩川から引き込まれた水を貯めており、基本的に用途は東京都向けの水道水になっていますので、昨今話題となっている「豪雨の予想がある時に予め貯水池の水を放流し柳瀬川の洪水を防ぐ仕組み」は使えそうもありません

<参考>
最近、豪雨に備えてダムの貯水量をコントロールするルールが決まりました(ダムの洪水対処能力倍増へ AI活用、事前放流を拡大

柳瀬川の水量は、流域に降る雨量で決まることは明白です。勿論、地面に沁み込んで地下水となる水を除かねばなりませんが、短時間の集中豪雨や長雨によって地中水分が飽和状態にある時は、降った雨の大半が川に流れ込むと考えてもよさそうです
そこで、記憶に新しい国土交通省が公開している柳瀬川のデータを活用して、柳瀬川の流域一帯に、1時間当たり400ミリメートルの降雨があった場合、柳瀬川に流れ込む水量の試算をしてみました;
平成30年7月豪雨とは:7月5日から8日にかけて梅雨前線が西日本付近に停滞し、そこに大量の湿った空気が流れ込んだため、西日本から東海にかけて大雨が連日続きました。梅雨前線は9日に北上して活動を弱めるまで日本上空に停滞。西日本から東日本にかけて広い範囲で記録的な大雨となりました

試算
1時間当たり柳瀬川の流域一帯に降る雨の量:106.3㎢  x  400mm
(メートル単位に変える)⇒ 106.3 x 1,000 x 1,000 x 0.4 = 42,520,000㎥
つまり、1時間当たり4千2百52万㎥の水が流れ込むことになります

この数字を昨年の19号台風時に、工事の最終段階で貯水量が空になっていて、利根川の洪水を防ぐのに役立ったと言われている八ッ場ダムの貯水量と比較してみると;
八ッ場ダムの設計上の有効貯水量:9千万㎥
つまり、2時間11分で満杯になる計算になります。
実際の流量は、こんな簡単な計算では再現できないと思いますが、1時間当たり400ミリメートルの降雨というのは、如何に猛烈な雨であるかが理解できると思います

拙宅の近くの柳瀬川には「金山調節池」(前掲の航空写真版_Google Map の中央下側)があり、柳瀬川の洪水を防ぐ役割を担うことになっています;

「金山調節池」の案内板

この看板によれば、貯水量46,000㎥です。この貯水量では、既に満水になった柳瀬川に1時間400ミリの降雨があった場合、たった約4秒で満杯になる計算で、集中豪雨時には殆ど役に立たないことが分かります

また、自然堤防スレスレまで水面があがり、秒速10メートルの流速で流れると仮定した場合、1時間当たりどれくらいの水を流せるかざっくり計算してみると、
上述の国土交通省の地図データから計算して
自然堤防の高さ:3メートル
拙宅に近い柳瀬川の橋を渡って、歩幅で測定した川幅は;
自然堤防上部の川幅:45メートル
川底付近の川幅:37メートル

自然堤防が作る柳瀬川の断面の面積は:3 x (45 + 37) ÷ 2 = 123 ㎡
流速:10メートル/秒と想定すれば、
1時間当たりの流量:123 x 10 x 60 x 60 = 4,428,000㎥
つまり、1時間当たり4百42万8千㎥

先の計算で、400ミリの雨量で 1時間当たり4千2百52万㎥の水が流れ込むことになっていたので、何ミリの雨量まで洪水を起こさずに流せるかを逆算すると;
400ミリ x (4百42万8千㎥ ÷ 4千2百52万㎥)⇒ 41ミリ
1時間当たり41ミリの雨は、大したことはないように見えますが、気象庁の雨量の表現の仕方としては、「バケツをひっくり返したような激しい雨」という表現になりますので、柳瀬川の治水としては相応の努力を行ってきたと言えるかもしれません

Follow_Up:このブログを見た友人からの情報を契機に、神奈川県・鶴見川の河川管理状況を調べてみたところ、流石に柳瀬川の管理状況よりも数段進んでいることが分かりました。ラグビー・ワールドカップ時の日本対スコットランド戦が豪雨の後にも拘らず開催できた理由が分かりました。興味にある方は次の(鶴見川の紹介)をご覧になってみてください

いずれにしても、これまでのざっくりした計算から、「平成30年7月豪雨」並みの集中豪雨が柳瀬川流域を襲えば、前掲の航空写真の左岸一帯(柳瀬川から断層の崖に至る低地)洪水で水浸しとなる可能性が高いと思われます。特に、航空写真で、断層の崖近くにある多くの住宅地はリスクが高いと考えられます

Follow_Up(2020年8月5日):自然の貯水力を水害抑止へ活用

台風19号襲来時の柳瀬川の被害状況及、び改修の状況

昨年、台風19号が通過してから数日後に柳瀬川周辺の被害状況を見てきました;

左岸の堤防の被害状況
左岸の堤防の被害状況
橋周辺の被害状況

二つの写真を見て分かることは、コンクリートや鉄でできた簡単な堤防では、たった一日の強い水流でも、脆い砂礫で出来ている自然堤防は簡単に浸食されることが分かります。自然堤防を守るには、岸に沿う部分の水流を遅くすることが堤防の決壊を防ぐ有効な手段であることが考えられます。因みに、下の写真の手前の堤防には、一昨年の秋に同じように堤防が崩された時の修理跡が確認できます。強い水流に晒されるところには、大きめの石を金網で包んだもので防御してあります。原始的ではありますが、今回の雨では何の被害もありませんでした

実は、コンクリートや鉄の堤防が無かった江戸時代にも、同じような発想で堤防付近の水流を弱める「牛枠」という装置を使っていました。下の写真は玉川上水の羽村取水口付近に展示してあったものです;

多摩川・水害対策_「牛枠」

今年2月、柳瀬川の改修工事が始まっていました;

河川工事の公示
自然堤防・補修個所の状況

下の写真をみると、柳瀬川の補修方法がこれまでと変わっていることが分かります。新しい補修資材を使ってはいますが、岸周辺の流速を落とし水流の破壊力を減少させる目的としては、江戸時代の「牛枠」と変わらない考え方の改修方法と思われます
寺田寅彦が「人智に奢ることなく、自然に学んできた過去の経験を生かせ!」と言っているような気がしました!

おわりに

最近の天気予報では「線状降水帯」という新しい気象用語が度々登場します。台風並みに、時には台風以上の集中豪雨をもたらす意味では災害リスクの主役級に躍り出てきた感があります。日本という国土は、地図を見てみればわかる通り中小の河川が網の目のように走っており、河川氾濫による災害リスクは至る所にあるといっても過言ではないと思います
集中豪雨による河川の氾濫を完璧に防ぐには、膨大な費用と時間がかかり、今すぐ解決することは不可能ではないでしょうか。であるからこそ、自身の情報武装と、的確な氾濫の予報を行うことが喫緊の課題であると思っています

最近、NHKのニュースで太陽誘電(株)の画期的な水位計の紹介がありました。極めて小型で安価(3万円/1台)な装置です。この装置を全国の中小河川に設置(例えば、簡易無線水位計測サービスを使って1km毎に設置)し、河川の流量を常時監視できるようにすれば、この流量の実績値と河川流域の雨量の実績値を時間のスケールで比較し、雨量の時間的な変化で流量がどう時間的な変化をするかの関係(河川ごとに異なる)がある程度つかめると思われます。これに気象レーダーによる河川流域の雨量予測を当て嵌めれば、今より相当正確な河川氾濫予測を行えるのではないか、、、異常気象が続く昨今、河川氾濫を完全に防ぐことはできないにしても、河川氾濫による死亡者ゼロは近いうちに実現したいものです

Follow_Up:(2020年2月28日):朗報!今後、関東一円の雨量予測の精度が高まります/関東一円の雨量、予測精度を高く 新気象レーダー、来月運用開始
Follow_Up:(2020年7月15日):自治体の9割が浸水危険地域でも住宅立地_転出に遅れ

Follow_Up:(2021年3月30日);全国109全ての一級水系などについて流域治水プロジェクトを策定し、全国一斉に公表しました

Follow_Up:(2021年8月15日);
今年7月4日、熊本県を中心に81人の死者・行方不明者を出した九州豪雨から1年となり、球磨川の氾濫で甚大な被害を受けた人吉市などでは追悼行事が行われました。球磨川流域では、人吉市の中心市街地など約1,060haが浸水し、佐敷川などの中小河川の氾濫や土砂災害による被害も含めると約7,400戸の家屋が被災しました。特に球磨村の特別養護老人ホーム「千寿園」で、移動の自由が奪われた入所者14人が水死したことからご記憶の方も多いと思います、
その後、今年1月31日に球磨川流域治水協議会から公表された長期計画の全体像が公表されていますのでご紹介します(球磨川水系・緊急対策プロジェクト)。この資料の中に出てくる特殊用語については下の概念図をご参考にして下さい;

河川の水害防止対策の概念図

 

以上

屋上菜園・2019年のレビュー

はじめに

  2019年は自然災害が目立った年になりました。特に、農業に係ることとしては、梅雨明け早々から記録的な猛暑が続いたこと、9月に入ると強烈な風台風(15号)が襲来し、千葉方面はビニールハウスが壊滅的な被害を受け、普通の民家も屋根瓦が吹っ飛び、長期間の停電が話題になりました。10月には強烈な雨台風(19号)が襲来し、関東甲信越、東北地方に甚大な農業被害が発生しました
 我が家のちっぽけな屋上菜園でも、そこそこの被害が発生し、「くそっ!台風め」と地団駄を踏みましたが、プロの農家の方には農業を諦めるか、莫大な借金をして農業を続けるかの判断を迫られた方も居たようです。私共家族のルーツである長野県では千曲川が広範囲で氾濫し、豊野市に住む親戚のリンゴ農家はすぐ傍まで水が押し寄せたそうです(幸いにも被害は免れたそうです)

台風15号・19号

 以下に、屋上菜園での台風被害状況や、収穫状況、新しい試みなど2019年のトピックスをご紹介したいと思います

台風の被害

 台風15号の被害については、拙宅付近でも夜中にゴーゴーという風の音がひどく暫し寝られないほどでした。案の定、翌朝になって恐る恐る屋上に出てみると、葉の大きい夏野菜はほぼ壊滅的な状況になっていました。詳しくは9月13日の私のブログ(酷暑の夏と強力台風の襲来!)をご覧ください。
 トマトとキュウリは諦めたものの、ナス(3種)については、往生際が悪く、整枝をした上で肥料をたっぷり与えて「秋ナス」に期待をかけましたが、残念ながら全く収穫できませんでした

秋ナスを期待しましたが!
秋ナスを期待しましたが、、、

 温暖化の影響か、9月以降強力な台風が襲来する確率が高まるとすれば、露地栽培のトマト、ナス、キュウリは8月中には収穫を終えることを前提に、苗を早めに育てて収穫開始時期を早める工夫が必要と痛感しました

 尚、台風15号の強烈な風にも全く影響を受けなかった野菜があります。それは熱帯性である「空心菜」です。下の写真は台風襲来直後のものです

台風通過直後の「空心菜」

 台風19号の影響は、強烈な雨が長時間にわたって降り続いたことです。9月中旬に種蒔きを行った秋冬野菜が元気に芽を出して、間引きも終わって成長を始めた時期に台風19号が襲いました。殆どの幼い苗は強烈な雨に叩かれて「消滅!してしまいました。残った葉物野菜の苗はホウレン草、水菜、春菊などのごく一部でした。台風一過、種を蒔き直しましたが、成長期に気温が相当下がる時期になってしまい収穫はおぼつかない状況です
 ただ、一昨年の台風被害(酷暑の夏と強力台風の襲来!)の反省から、白菜とキャベツは、室内で苗を育てた結果、被害の影響は殆ど受けずに済みました

白菜の成長の記録(写真上でクリックすると拡大されます)

 また、一昨年の成功に味をしめて、ちょっと規模を大きくした「野沢菜」は、葉が大きいので被害はある程度ありましたが、12月に入ってそこそこの収穫があり

野沢菜の収穫

既に漬物を楽しんでいます

漬物類

野沢菜のカブの利用法は上の写真以外に粕漬もやっていますが、食べ頃は恐らく数か月先になると思います

定番の作物

1.タマネギ
 タマネギは通常2種類作っていますが、種蒔き方法をちょっと変えたものをトライしました。長期保存用のタマネギは、今まで通り普通のコンテナで種蒔きを行い、サラダ用の紫色のタマネギは、ホームセンターで売っている様な鉢植えの苗床にしてみました(⇔ この方式であれば室内で育苗できるので台風や日照りの影響を受けにくい)

タマネギの苗(2種)

これらの苗は11月下旬に植え付け、順調に育っています

2.大根
 いつもは青首大根を底の深いコンテナ3ヶ(都合9本収穫可能)に植え付けていますが。上記の「秋ナス」期待で底の深いコンテナが1ヶしか都合がつかなかった為、底の浅いコンテナに3種の小さな大根を植え付けてみました

青首大根とその他大根3種

それぞれの小さな大根は中々いい味がします。特に上の写真右側の「ねずみ辛大根」は信州でおろし蕎麦を食べる時の定番ですが、正月の揚げ餅をこの大根おろしで食べると絶品!です

3.ニンジン
 毎年トライをしながら、いまいち成功していなかったニンジンの栽培にとうとう成功!しました。また、大きく育つ前に栽培間隔を広げるために少しづつ間引きをした小さなニンジンは、葉も含めて生野菜サラダとして大変美味しい素材であることが分かりました

ニンジンの栽培

4.ネギ類
 今年もネギは3種類作りました

ネギ3種

上の写真の一番左は鍋用の「下仁田ネギ」ですが、台風の影響であまり多くは収穫できませんでした。その右は用途が広く沢山消費する長ネギですが、白い部分を長くするには土を注ぎ足していく手間が必要ですが、今回はサボってやっていません(従って白い部分が短い!)。家族の人が青い部分も美味しいと言ってくれるので、これからもこの手抜き栽培でいきたいと思っています。上の写真の一番右側は細ネギです。細かく刻んで主に薬味に使っています

5.唐辛子
 今年は2種類栽培し、沢山収穫できました(下の写真はごく一部)

トウガラシ2種と生トウガラシの醤油漬け

 上の写真の一番左は初めて栽培した「辛長キング」です。これは”F1”と書いてありますので、2種類の唐辛子を掛け合わせた雑種一代目で、キムチ用に開発された品種です(最近、種苗メーカーは苦労して作り上げた品種をコピーされないようにこの雑種一代目を販売しています)。生で薄くスライスしたものを生野菜サラダに入れたり、炒め物に混ぜても美味しいことが分かりました。とにかく沢山収穫可能です。真ん中の小さな唐辛子は定番の「鷹の爪」です。我が家では一年中この唐辛子は切らすことはできません
 一番右は、生の「鷹の爪」を細かく輪切りにして醤油に漬けたものです。これは台湾駐在時代に病みつきになった調味料で、大衆的な中華料理屋には常備されており、湯麵や炒麺、炒め物などに、好みに合わせて一寸かけて食べるのが常道です。冷蔵庫に入れて置けばかなり長持ちします

新たな試み

1.サツマイモの栽培
 初めてサツマイモ(金時)の栽培を試してみました(袋栽培)。水遣りを忘れないようにするだけで超簡単に栽培できました

サツマイモの栽培

 右の収穫したサツマイモの内、大きい方は生でなくダッチオーブンで、アルミ箔を敷いたうえで1時間ほど水無しで調理したもの(石焼き芋に近い!)です。これから元旦のおせち料理の一品ができました

おせち料理

2.種を採る!
 前年から始めた「種」を採る範囲をかなり広げました。一年間で採った種は以下の写真の通りです

” 各種

 ご覧になれば分かるように、ハーブ系の種が多いのですが、これは野生に近い品種なので蒔けば必ず育つので採種向き(失敗が少ない!)といえます。特に紫蘇やバジルなどは殻に複数の種が入った状態で採種することができます(買った種は、殻の中の小さな種だけが入っています)ので、そのまま殻ごと蒔けばあまりケアをしないでも発芽させることができます(殻の中で湿気が閉じこめられ直射光線を遮ってくれる為であると考えています)。一番下の種は鞘に入ったままの「水菜」です。既に昨年一年間はこの種を使って栽培しています(この種は蒔くときに鞘から出します)
 上段真ん中の種は、上で述べた「辛長キング」です。”F1”なので先祖帰りをするはずなので、今年蒔いてみてどんな唐辛子ができるか結果が楽しみです

3.冬季におけるハーブ栽培
 これまでずっと多種類のハーブ栽培を行ってきましたが、冬季については皆枯れるか、葉が落ちてしまうのでフレッシュなハーブが食べられません。従って、冬季のみ室内での栽培を始めてみました

冬季のハーブ栽培

 上の写真の左側は現在の状況です。イタリアンパセリ、日本のパセリ、バジル、ディルは既に食に供しておりますが、セージ、ペパーミントは未だ育成中です
 右の水槽は熱帯魚用のヒーターが入れてあり、ハーブ類の発芽に必要な25度前後の水温を保っています。ここでは水に浮かせた発芽用のセルで、現在タイムとキャラウェイの発芽を待っているところです。尚、別のやや大きな水槽でグッピーを飼っているのですが、雑婚?を繰り返した為か鮮やかな色を失いつつあるので、色の良さそうな一組のつがいをこの水槽で飼って増やす算段をしています

2019年の費用明細

 2006年度からの屋上菜園関連費用の推移と、2019年度費用の詳細は以下の通りです

2006年度からの費用の推移と、2019年費用の明細

 概ね例年通りですが、栽培する野菜が増えた割に費用が低く抑えられた要因は袋栽培を取り入れたことと、信州山峡採種場のサイトを発見し、単価100円で種が買えるようになったことが大きいと思われます

以上

日韓関係_その2(「反日種族主義」を読んで)

はじめに

 

 日韓関係については、一年ほど前に私が勉強した結果をまとめたブログ(日韓関係について勉強してみました)を発行しました。この時は主として日本側の視点からできるだけ正確に日韓関係の歴史を綴ってみましたが、今般見出しの写真にある「反日種族主義」という本が文芸春秋社から発刊されました。韓国語による原著は今年8月に発行され、韓国内で既に10万部を超えるベストセラーになっています(月間・文芸春秋12月号の記事より)。日本語版は11月14日に発刊され、現在20万部を超える極めて好調な売れ行きだそうです(私は発売当日に、とある有名書店に買いに行きましたが、昼過ぎの時点で売り切れており、漸くやや場末の本屋!で購入することができました)

 

 この本は、韓国の知識人 6人の著者(6人の著者のプロフィール:この内「李栄薫」氏が編者として全体の取り纏めを行っています) による共著で、それぞれ研究している専門領域 中心として極めて実証的に書いてあります。私にとっては入手できなかった実証的なデータが数多く含まれており、大変興味深いものでした 
 一方、韓国人の一般の読者にとっては、韓国人自身から語られた 極めて衝撃的な内容(今まで受けてきた歴史教育や反日運動の否定)となっていますので、今後、著者に対する誹謗中傷(既にかの有名な前法務長官はへどが出る本と非難しています)が激しくなるのではないかと思われます

 以下、この本の内容のうち、現在日韓両国の間で紛争の元になっている問題について、実証的なデータを中心にご紹介したいと思います
 尚、本書は、6人の著者が「反日種族主義」という共通認識をベースに各自の論文を持ち寄ったものが纏められていますので、下記のようなテーマ別にみればかなり重複が見られます。従って、私が勝手にテーマ別に再編成をしておりますので、著者毎のそれぞれの詳しい分析、考え方について知りたい方は、是非この本を購入され、一読されることをお薦めします(反日種族主義・目次

韓国人の「反日」の背景にある種族主義について

 

 6人の著者は、韓国人の「反日」のベースにあるものは、韓国人特有の「種族主義」に原因があると言っています。
 日本では、この「種族主義」という用語はあまり使われていませんが、著者たちの定義によれば“前近代的で呪術的なシャーマニズムに基づく民族意識”と定義しています。例えていえば、ナチスドイツにによるユダヤ人迫害やボスニア・ヘルツェゴビナにおける民族浄化の原因になった他民族に対する敵意や、白人至上主義、など、合理的な理由が無いにもかかわらず民族を差別する悪しき思い込みとも言えるかもしれません(⇔私の勝手な解釈)
 因みに、著者の一人である朱益鍾氏は、「韓国の種族主義は、種族主義の神学が作り上げた全体主義的権威であり、暴力です。種族主義の世界は外部に対し閉鎖的であり、隣人に対して敵対的です。つまり、韓国の民族主義は本質的に反日種族主義です」と言っています

 

 韓国の多くの人が陥っている「種族主義」のベースとなっている神話的な考え方には以下のものがあります;
① 白頭山神話
 白頭山は北朝鮮と中国の国境にあり(白頭山_Google Map)、15世紀までは火山活動をしていました。著者の李栄薫氏によれば、白頭山が朝鮮民族の霊山に変わったのは日本の植民地時代であるとのことです。朝鮮王朝時代には民族という言葉も、そうした意識もありませんでした。民族という意識が芽生えてくると、それに見合った象徴が必要になります。著者は、白頭山神話を作るのに重要な役割を果たした人物は崔南善(1890年~1957年/歴史家・詩人・思想家)と考えています。彼が「白頭山覲参記」という本の中で;
白頭山は我ら種姓の根本であり、わが文化の淵源であり、わが国土の礎石であり、わが歴史の胞胎であられる。三界をさ迷う風来坊が山を越え水を渡って、慈愛に満ちた母の温和なお顔に一度お目にかかりたく、やってまいりました。おじいさん、おばあさん、私です。何もないわたしです
と述べ、その後以下の様に祈祷しました:「わが民族は再び生き返るのだ」「信じます。信じます。分かってください。分かってください。白頭天王、天地大神」。こうして、白頭山は民族の父と母に変貌していきました
 太平洋戦争終結以降、南北朝鮮で白頭山は民族の霊山として崇められてきました。1987年からは白頭山のイメージが政治的神話として創作されていきます
 北朝鮮で「白頭山一帯で抗日戦士のスローガンが刻まれた木(実際は北朝鮮政府が創作させたもの)が発見された」と発表されました。また、金日成は白頭山の頂上のある場所に丸太の家を建て、ここが抗日パルチザンの密営であり、金正日もここで生まれた場所とされました(金正日は実際はハバロフスクで生まれました)

白頭密営に参拝する北朝鮮住民

白頭山に天池に登る南北の首脳

土地気脈論・国土身体論
 韓国人が共有している自然観で、全国土を一つの身体と捉えていることがあります。朝鮮王朝時代には、中国を世界の中心と考える世界観を反映して、国土を中国にお辞儀をする老人の姿に描きました。20世紀に入ると、その姿が白頭山を頭頂とする虎の姿に変わります

崔南善と「猛虎気像図」

 この様な身体感覚は、いつの間にか強烈な反日感情の源泉になりました。白頭山で活動した独立軍が歌ったという軍歌の一節に「日本人よ、富士を自慢するな、我々には白頭があるんだ」という言葉が入っています
 朝鮮王朝時代は独島(竹島)の存在は知られていませんでしたが、1950年以降、日本との帰属紛争が始まると、独島は突然反日感情の最も熾烈な象徴になり、土地気脈論国土身体論がこれに作用し、独島を訪れた韓国詩人協会の会員は、「独島はわが祖国の胆のう」であるとか、「独島の岩を砕けば韓国人の血が流れる」などと、まるで独島が韓国人の身体の一部であるかのように謡いました(独島の帰属に係る歴史的な事実については後述します)
 
儒教的死生観・風水学
 土葬の風俗は、朝鮮王朝時代の15世紀から始まりました。それ以前は仏教の時代であり火葬が一般的でした。朝鮮王朝から始まった儒教の考え方では、人の生命は魂(こん)と魄(はく)の結合であり、人が死ぬと魂は空中に散らばり、魄は地に沁み込んでいきます。これが土葬に変わった原因です
 死んでからある期間は、魂と魄は生気を維持します。子孫が祭祀を行って呼ぶと、空中の魂と地中の魄が結合して子孫を訪ね、祭祀のもてなしを受け子孫に福を授けます。長い歳月を経ると魂と魄は生気を失い消滅します。魂と魄が生気を維持する期間は死んだ人の地位によって変わります。天子は5代、諸侯は4代、大夫は3代、それ以下の地位の人は2代です。それが過ぎると死んだ人に対する祭祀は終了し、その位牌さえも地に埋めます
 ②で述べた土地気脈論は遅くとも三国時代(4世紀~7世紀)に成立したと考えられていますが、朝鮮王朝以降上記の儒教の生命論の影響を受け、魄が地に沁み込むと考えられるようになって、18世紀以降、吉相のある墓地を探す風水地理が勢いを振るうようになりました。19世紀に入ると全国各地で墓地をめぐる訴訟が広範囲に起こるようになります。また、朝鮮王朝後代になると全国の地図が山脈の地図に変わってきますが、これは、白頭山に源を発する気運が、山脈に沿って広がっていく様子を描いているのだそうです

 儒教の教えに基づく魂は一定期間がが過ぎると消滅しますが、朝鮮王朝時代の魂は永遠不滅です。これは土地気脈論の作用でした。朝鮮王朝時代に祖先の墓を重視する葬礼と祭祀が生まれたのはそのためです

慶尚北道安東の義城金氏の墓祭

 父親が亡くなると息子は、墓の横に粗末な小屋を建て、その中で2年間暮らしました(これを「侍墓」といいます)。「侍墓」が終わっても、毎年定期的に墓祭を行いました。どんなに遠い祖先でも、墓がある限り墓祭は続けられました。何故なら、墓に眠る祖先の魂は永遠不滅だからです。中国の儒教の教えでは天子の場合でも5代前の先祖の血縁集団までが親族ですが、朝鮮では5代以上の遠い先祖まで繋がる親族集団を形成します。その結果生まれたのが、世界に類例を見ない「族譜」です。「族譜」によってはるか昔の祖先を共有する韓国人の親族文化が生まれました

 朝鮮人は20世紀初頭に至るまで「民族」という概念はありませんでした。韓国に於いては、「族譜」という遠い祖先まで繋がるベースがあった為、親族の拡大形態として民族という概念が受容され定着しました
 1931年、「万世大同譜」という「族譜」が編纂されました。これは全国330の有名親族集団を一つに統合した「族譜です。朝鮮王朝時代、これらは殆ど不遷位(原文のママ;位が変わらないという意味か?)の祖先を祀った一級身分の両班(朝鮮王朝時代の支配階級)の婚姻関係を追跡した系図の様なものと考えられます(私の解釈)。家毎に「族譜」がありますが、これを横に繋げたのは、朝鮮人はみな元来は一つの祖先から分かれた子孫であるからだとも述べています。檀君から今に至るまで4300年の間に増えた人口を推算すると今の人口になるという理論を展開し、朝鮮人は皆檀君の子孫であるという民族意識がこうして生まれました

檀君神話

鉄杭神話・風水学
 「植民地時代に日帝(大日本帝国)は、朝鮮の地から人材が出るのを防ぐため、全国の名山にわざと「鉄杭」を打ち、風水侵略を行った」、という話が伝説のように口伝えされてきました
 韓国の社会で鉄杭騒動を引き起こす契機になったのは、金泳三政権(1993年~1998年)が「光復五十周年記念力点事業」として推進した「鉄杭除去事業」です。それ以前は主に民間の次元で「西京大学」の徐吉洙教授!が、鉄杭除去事業を推進していました。この団体が除去した鉄杭は、北漢山の17本、俗離山の8本、馬山舞鶴山鶴嶺の1本でした。これらは、日本人が風水侵略の為に打ち込んだという証拠の無い理由で抜き取られました。因みに、北漢山の鉄杭は、1984年、白雲台で登山をしていた民間団体が、登山客たちの「倭人たちがソウルの精気を抹殺する為に打った鉄柱」という説明を聞いて除去したものです
 その後、青瓦台(大統領官邸)の指示を受けた内務省が、全国の各市郡邑に公文を送り事業を開始しましたが、日帝が打った鉄杭と立証してくれる専門家がいませんでした。結局、地方の行政庁は、近隣で風水が多少は分かるという風水師(地官と言うそうです)、易術人占い師などを鉄杭鑑定専門家として動員しました。1995年から6ヶ月間全国で受け付けられた住民の申告は439件、この内鉄杭だとして除去されたものは18本でした(この件について、著者の金容三氏は詳細に検証を行い根拠不明であることを実証しています)。これ以外にも、特に根拠も無く、住民の多数決で「日帝が打った鉄杭」とされたものもありました

鉄杭除去作業

 また、揚口で除去された鉄杭は、ソウル民族博物館で開かれた光復五十周年記念の「近代百年民族風物展に展示され、日帝が打った鉄杭だという証拠が全くないにもかかわらず以下の様な説明文が付けてありました;
民族抹殺政策の一環として、日本人は我々民族の精気と脈を抹殺しようと、全国の名山に鉄杭を打ったり、鉄を溶かして注いだり、炭や瓶を埋めた。風水地理的に有名な名山に鉄杭を打ち込み、地気を押さえ付けけようとしたのだ
 尚、植民地時代に華川・揚口一帯の測量業務を行った朝鮮総督府林政課の測量技師二人(古賀某、挑吉福)を手伝った山林保護局臨時職員の李ボンドゥク氏(当時21歳)が、以下の様な証言を行っています:「日帝時代、測量の為に山の頂上や峰の上に設置した大三角点を、この国の人々は、日帝が急所を射るために打ち込んだ鉄杭だと誤解した」。著者の金容三氏は、鉄杭が打ち込まれているという地点を調査した結果、それらの地点と測量の為の起点として使われる「大三角点」や「小三角点」と一致していることを確認しています

日帝による朝鮮収奪という虚構

 

 日本が、1910年に朝鮮を併合した後、1945年に太平洋戦争に敗北するまでの35年間、朝鮮のあらゆる資源を収奪したという韓国人の一般認識については、以下の様な実証的な検証を行い、反論しています

1.朝鮮土地調査事業
 1910年に朝鮮を併合した後、直ちに着手した事業に「朝鮮土地調査事業」があります。1918年まで8年間行われたこの事業によって、全国全ての土地面積、地目(土地の用途)、等級、地価が調査されました(朝鮮ではそれまで行われていなかった)。これにより、総面積は2,300万ヘクタール、内487万ヘクタールが人間の生活空間としての土地(田畑、住宅敷地、河川、堤防、道路、鉄道用地、貯水池、墓地など)、残り1,813万ヘクタールが山地でした
 1960年代以降、韓国の中・高等学校の韓国史教科書は、「総督府が実施した土地調査事業の目的は朝鮮農民の土地を収奪する事にあったと教えてきました。またある教科書では、「全国の土地の40%が総督府の所有地として収奪されたと書いています。1974年から国定教科書に変わっていますが、その後2010年までの36年間、40%の土地が収奪されたと学生たちに教えてきました。歴史の授業の時間でこの部分に来ると、教える教師も教わる生徒もみな泣いたそうです。しかし、どの研究者もこの数値を証明したことがありません

 土地調査事業当時、一部の土地で所有権紛争がありました。しかし、これは生活空間としての土地487万ヘクタールのうち12万ヘクタールに過ぎない国有地を巡っての紛争でした。これに関して慎鏞廈教授!ソウル大学名誉教授;社会学者、政治学者、独島学会会長)が「朝鮮土地調査事業研究」という本の中で、この紛争について「当該土地は自分の所有物だと主張すると、総督府はピストルで押さえつけた」と書きました。当時、土地調査局の職員は実地調査に出かけるとき、山中深く入っていくと獣に襲われる事例があり、また山中では匪賊が活動していることもあり護身用に拳銃を持って調査をしていました。農民たちは、最初は警戒していたものの次第に調査の内容が分かると、むしろ歓迎していました。土地調査局は、調査を終えると土地台帳の下書きを公開していました。農民はこれに自分の名前があると喜ぶと同時に、間違いがあると熱心に異議を唱えたといいます。慎鏞廈教授は、「朝鮮土地調査事業研究」という本を書きながら、実際に郡庁や裁判所にある土地台帳や地籍図を閲覧したことが無かったのです。こんな本を韓国の学会とメディアは歓喜して迎え、慎鏞廈教授には輝かしい学術賞を授与しました
 人気小説家の趙廷来(1943年~)は、大河小説「アリラン」(12巻合わせて350万部売れました)の中で、日帝が狂的に朝鮮人を殺害する場面をあちこちに書いていますが、その中に「土地調査事業」の期間に行われた警察の即決による銃殺の場面があります

土地調査事業における朝鮮農民の銃殺場面

 勿論、こんな事実はありませんでした。因みに、1913年の一年間に53人が殺人と強盗の罪で死刑を宣告されましたが、いずれも二審の判決でした。また、1921年3月に「警察官処罰規則」が施行されていますが、そこには警察が即決で処理できる犯罪として軽犯罪87種のみが規定されています

2.「強制動員」の真実
 1939年~1945年8月15日までの間、日本に渡って働いた73万人余りの朝鮮人労務者を「労務動員」と呼びます(韓国人はこれを「強制徴用」と言っています)。韓国の研究者たちは、動員された朝鮮人の大部分が日本の官憲によって強制的に連れていかれたと主張しています。また、日本で奴隷のように酷使された(奴隷労働)と主張しています。「夜寝ている時、田で働いている時、憲兵や巡査が来て、日本に連れて行かれて死ぬほど仕事させられ、動物のように虐待され、一銭も貰えずに帰ってきた」という主張です。これらは、1965年に日本の朝鮮総連系の朝鮮大学校の教員・朴慶植(在日朝鮮人の歴史研究者;1922年~1998年)が主張した「朝鮮人強制連行の記録」ことですが、これは当時進行していた日韓国交正常化交渉を阻止するために作られた話でした。これは、韓国の政府機関、学校などの教育機関、言論界、文化界の全てに甚大な影響を与え、国民の一般的な常識として根付くことになりました。著者の李宇衍は、これは明白な歴史の歪曲と断言しています。2018年10月30日、韓国大法院は日本の企業(新日鐵住金)に、韓国人一人当たり1億ウォン(約1千万円超)の慰謝料の支払いを命じました。この判決もやはり明白な歴史歪曲の基づくでたらめなものだと著者の李宇衍が断言しています

 歴史的事実に基づけば、徴用は、1944年9月から長く見て1945年4月頃までの約8ヶ月間実施されました。その後終戦まではアメリカ軍が玄界灘の制海権を握り、朝鮮人労働者の輸送が出来なくなりました。このことから、徴用で日本に行った朝鮮人は10万人以下だったと推定できます
 「徴用は法律に基づく強制的な動員方法でした。徴用を拒否すれば一年以下の懲役、もしくは100円以下の罰金に処せられました。この徴用以前は、1939年9月から実施された「募集」と1942年2月から始められた「官斡旋」があり、これらは何れも法的強制力はなく朝鮮人たちの自発的な選択に任されていました。当時、日本の青年の大部分が徴兵されていましたので、労働力が極度に不足していた状況にあり、特に、炭鉱などの鉱山で労働力不足が深刻であった為、日本に行った朝鮮人の64%が鉱山に配置されました。しかし、朝鮮人の大部分が農村出身で、鉱山の地下労働をとても恐れ、多くが建築現場の様な所に逃げて行ったと言われています。いずれにしても朝鮮人労働動員は、基本的には自発的であり、強制性はありませんでした
 2015年に釜山で開館した「国立日帝強制動員歴史館」に以下の様な写真が掲げられていました;

教科書に載った「強制動員された我が民族」

 写真に写っている人は肋骨が浮き出るほどに痩せこけ、奴隷の様に働かされた朝鮮人が、どれほどの苦難を経験したのか、広く知らしめようとして掲げられました。ニューヨークで徴用を宣伝する為に使われた写真もこれと同じものでした。しかし、この写真は、1926年9月9日に、日本の「旭川新聞」に掲載されたものです。北海道を開拓する過程で土木建設現場に監禁された日本人10人の写真でした。2012年から、日本の歴史歪曲に対応するという目的で、韓国史が高校の必須科目になりました。新しい教科書全8種のうち7種の教科書に上記の写真が掲載されています。また2019年からは、この写真が初等学校6年生の教科書に掲載されるようになりました

 2016年からは、社会団体も歴史歪曲運動に乗り出しました。いわゆる「強制徴用労働者像」を設置しようという運動です。これは「全国民主労働組合総連盟(民労総)」、「韓国労働組合総連盟(韓労総)」、「韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)」などが主導する「日帝下強制徴用労働者像設置推進委員会」によって行われています。著者の李宇衍は、下の強制徴用労働者像が、上記写真5-1の右から二番目の人物の酷似していると指摘しています(この件、現在像の制作者から訴訟を起こされたと報道されています)

強制徴用労働者像

 廬武鉉政権(2003年~2008年)において、国務総理室所属の「日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会」という機関を設置し、日本に動員された韓国人の被害補償をしました。補償を受けるのに必要な証拠としてよく使われたのが以下の写真です;

朝鮮人労働者の記念写真

 この写真は、1941年に北海道の尺別炭鉱で働いた鄭成得氏が同僚たちと一緒に撮った記念写真です。写真に写っている人たちは、何れも穏やかで余裕が感じられます。この他に、1939年~1945年の間に日本に来た鉱夫達の団体写真が沢山残っていますが、いずれもこの写真と似たり寄ったりです。朝鮮人は大部分、会社が提供する無料の寮で同じ故郷出身者と共に生活していました

3.「労働環境における民族差別」の実態
 前掲の朝鮮大学校の教員・朴慶植は、「多くは1日12時間仕事をさせられました。また賃金はが現金で支給されずに、みな貯金させられ、送金などとても考えられない水準であって、一人で食べていくのも大変だった。また、賃金自体も「日本人労働者の半分程度」と主張しました。また、「朝鮮人たちは炭鉱の坑内労働の様な一番過酷な労働を行い、殴打、集団リンチ、監禁などが日常的に行われていた」と言いました。また今日においても、殆どの研究者が同じ主張を繰り返しています
 この様な意見は、歴史的事実とは全く違ったものです。賃金は基本的に正常に支給されました。強制貯蓄は確かにありましたが、それも日本人と同じでした。2年の契約期間が終わると、利子と共に貯蓄もみな引き出し、朝鮮にいる家族にも送金できました。賃金体系は基本的に日本人と同じ成果給であり、日本人より賃金が高い場合も多くありました。日本人より賃金が低いケースの大部分は、朝鮮人たちの経験が浅く、結果として生産量が少なかったからでした。業務中に殴る蹴るなどの前近代的な労務管理も、全く無かったわけではありませんが、これも日本人に対しても同じことでした。因みに、朝鮮人炭鉱夫の賃金を、朝鮮の他の職種や日本の他の職種と比べてみれば以下の表のようになります(朝鮮人炭鉱夫の賃金はこの職種の収入に表の倍率を掛けたものになります。朝鮮人炭鉱夫の賃金は1940年時点では約73円1944年時点では約165円もの賃金を受け取っていたことになります)

朝鮮人炭鉱夫と他職種の賃金との比較

 生活は非常に自由なものでした。一晩中花札をして夜を明かしたり、勤務後に市内に出て飲み過ぎ、翌日欠勤することも多かった様です。中には、酒が飲め朝鮮の女性がいる「特別慰安所」に行き、月給を使い果たしてしまう人もいたとのことです

「朝鮮人徴用労働者」と誤認されている1950年代の日本人

 上の写真は、誠信女子大の徐敬徳教授!が。ミューヨークのタイムス・スクエアの電光板に映し出し、映画「軍艦島」の宣伝で、「腹ばいになって石炭を掘る朝鮮人の姿だ」と紹介したものです。またこの写真は「国立日帝強制動員歴史館」にも展示され、中学校の教科書にも掲載されています。しかし、この写真は、日本の写真家・斎藤康一氏が、1950年代半ば、貧しい庶民の暮らしを写すという目的で、筑豊炭田地帯のある廃坑で、日本人が石炭を盗掘している所を写したものです(斎藤氏はこの写真のフィルムを所蔵しています)
 1929年の世界大恐慌以降、日本の炭鉱やその他の鉱業でも人件費を減らすための機械化が急速に進みました。空気圧縮式削岩機(下の写真参照)、石炭裁断機、石炭を運ぶ機械式コンベアが広く使用されるようになりました。朝鮮人が配置された1939年以降、上の写真の様な採炭方法はあり得なかったわけです

空気圧縮式削岩機を使用する炭鉱夫_1934年

 1939年1月から1945年12月まで、日本本土の炭鉱で死亡した炭鉱夫は、日本人と朝鮮人合わせて 10,330人でした。一方、1943年に於ける日本の主要炭鉱での死亡率は、朝鮮人が日本人より2倍ほど高くなっています。この違いは、日本人の屈強な若者が徴兵されたことがあり、坑内作業のうち危険度の高い三種の坑内夫(採炭夫、掘進夫、支柱夫)の職種が日本人より1.9倍も高かったことによるものです。また、1941年における北海道の6ヶ所の炭鉱についても同様の傾向があります(朝鮮人の死亡率が日本人より 1.3倍~3.0倍)。
 著者の李宇衍氏は、朝鮮人の災害率が高いのは、人為的な「民族差別」ではなく、炭鉱の労働需要と、朝鮮からの労働供給が作り上げた不可避な結果であると結論付けています

4.「食料収奪」の真実
 日帝の植民地支配に対する批判の中で、最も多く耳にする話の一つが「日帝が朝鮮を食料供給基地にし、朝鮮の米を収奪していった」ということです。また、「米を大量に「収奪」または「搬出」した結果、朝鮮人の米消費量は大きく減少し、朝鮮人は雑穀で延命しなければならなかった」とも記しています。しかし、下図を見れば、この主張が的を得ていないことがすぐに分かります;

朝鮮における米の生産量・輸出量・朝鮮内消費量

 朝鮮総督府による「産米増殖計画」に基づき水利施設の整備や肥料投入量を増加させた結果、米の生産量は飛躍的に増加し朝鮮内消費量を減らすことなく輸出量を増やしています。生産量が増加した結果、生産量の約半分が輸出されるようになり、日本と朝鮮の米市場は一つに結ばれます。日本という大規模な米輸出市場が出来たために、朝鮮農民の所得増加に大きく寄与したことが分かります。このことは、当時を生きた朝鮮の農民や言論人にはあまりにもよく知られた常識でした。ただ、朝鮮の農民たちの所得が増えたと言っても、その恩恵は米販売量の多い地主や自作農に集中し、小作農が得られたものは微々たるものでした。これが改善されたのは、解放後(1945年~)に行われた農地改革(地主制の解体)と農業の機械化(余った労働力は第二次、第三次産業へ移動しました)によるものでした
 著者の金洛年氏は、教科書の「収奪」とか「搬出」という表現を変えられないのは、「輸出」という表現に変えたとたん、自分たちの日帝批判の論理が混乱に陥ることをよく分かっているからだ、と言っています

5.「陸軍特別志願兵」の真実
 1938年4月、日本は「朝鮮人陸軍特別志願兵制」を実施しました

陸軍特別志願兵

 従来の韓国近現代史では、この制度は朝鮮人の兵力資源化のための日帝の広範囲で、徹底した「強制動員」であり、志願者の出身と動機も朝鮮半島の南半分の地域の貧民層に限定された政策であるとしてきました。しかし、日中戦争の最中に志願兵に応募することは、志願者の立場に立てば生きるか死ぬかの選択でした。この様な命がけの決断を強制動員と見なす考えは、歴史的事実を極端に単純化し、歪曲したものに過ぎない、と著者の鄭安基氏は言っています
 朝鮮における陸軍特別志願兵に選抜されるには、各道の知事、朝鮮総督府、朝鮮軍司令部が実施する身体検査学科試験面接試験に合格し、更に入営前の朝鮮総督府陸軍志願者訓練所での訓練を終了しなければなりませんでした。従って、この制度は、朝鮮人社会の同意と協力無くしては決して成立しない植民地軍事動員でした。下の表をご覧になると、志願倍率が如何に高かったかが分かります

陸軍特別志願兵の募集と選抜の状況

 これらの志願者の大部分は、普通以上の収入のある南朝鮮地域の中農層の次男で、当時、朝鮮人児童就学率が50%以下の状況で、少なからぬ学費を払わねばならなかった普通学校の卒業者でした。当時の中農層は「両班」出身の上流層とは違い、出世志向の強い「常民」出身の人達であり、この制度が、時代錯誤的な郷村社会の身分差別からの脱出であり、立身出世のための絶好の近道であったことが、この高い志願倍率になっていたと考えられます。朝鮮における陸軍特別志願兵制の成功を受け、1942年には同じ制度を台湾にも拡大しました。続いて1943年、朝鮮と台湾で海軍特別志願兵制と学徒志願兵制を施行しました
 1939年以降、朝鮮軍第20師団所属の陸軍特別志願兵は、中国や、ニューギニアに動員され、果敢に戦い多くの戦死者を出しました。また、太平洋戦争終結後の朝鮮戦争に於いても、韓国の自由と人権を守るために献身した英雄ともなりました 

 

独島(竹島)の領有権に係る真実

 

鬱陵島と竹島の位置関係

 独島(竹島)は、韓国と日本が領有を争っている島ですが、韓国の立場からすると絶対に譲歩できない象徴になっています。しかし、領有を争うには、歴史的に自国民が住んでいた証拠があること、あるいは国際社会に対して最初に領有を宣言するか、あるいは戦争などによって領有を勝ち取った歴史があることが必要となります。しかし、朝鮮王朝時代には、独島(竹島)の存在そのものが知られていませんでした

 現在、韓国が独島を韓国の固有の領土と主張している根拠の一つは、独島が「于山」という名前で、新羅以来、歴代王朝の支配を受けてきたという歴史的事実です。三國史記(高麗仁宗の命により1145年に編纂された;新羅、百済、高句麗に関する歴史書)に次のような記事が出てきます;
于山国が新羅に帰服した。毎年新羅に土産品を貢納した。于山国は、溟州の東側の海にある島だ。あるいは鬱陵島ともいう。土地の大きさは方一百里である。険峻なのを信じ新羅に服さなかった。伊「サンズイに”食”という字」異斯夫将軍が征服した」。この記事に出てくる于山が今日の独島だと主張しています。 しかし、ここに出てくる「于山」は、明らかに「鬱陵島」と同じものです

 また、独島固有領土説の内、最もよく知られた根拠は、1454年に編纂された「世宗実録地理誌」に出てくる次の記事です;
于山」と「武陵」の二つの島は県の東側、海の中にある。二つの島は、お互い余り離れていない。天気が良ければお互い眺められる。新羅時代は于山国と称したが、鬱陵島とも言った

 1530年に編纂された「新増東国輿地勝覧」に「八道総図」という地図があります。この地図は幻想で生まれた于山島を描いた最初の地図です;

15世紀・16世紀の李朝朝鮮時代の鬱陵島地図
16世紀~19世紀の色々な地図の中の鬱陵島干山島

 韓国の外務省はこの地図(上の地図12-1の右側)を提示しながら、于山独島だと主張してきました。中学・高校の韓国史の教科書も、そのように教えています。しかし、著者の李栄薫は、独島は鬱陵島の東南87キロ先の海に位置しており、于山が独島であるなどありえないと言っています。池内敏という日本人研究者が、合わせて116枚の地図に描かれた于山島の位置を追跡したことがあります。それによると、17世紀までは于山島はたいてい鬱陵島の西にありました。18世紀に入ると南側に移動する傾向があります。以後19世紀には東に行き、北東方面に移っていく傾向にあります。このように于山島は、朝鮮王朝時代にわたってさ迷い漂う島でした。幻想の島だからです。当然、それは鬱陵島から87キロに位置する独島ではありません

 1417年以降、李朝朝鮮は鬱陵島に人が住むことを禁じました。1883年に再び居住することを許した結果、日本人もアシカ狩りの為に多く暮らしていました。1900年大韓帝国は勅令41号を出して鬱陵島を群に昇格させ、群主を派遣しました。その時、群の領域を定めるのに際し「鬱陵全島と竹島と石島を管理する」としました。ここで竹島とは独島ではなく鬱陵島の近くの竹島で、石島とは観音島です。鬱陵島近くの人の住む島はこの二つ以外にありません

 1905年、日本は独島(竹島)の履歴を調査し、朝鮮王朝に所属していないことを確認した上で、独島を「竹島」として自国の領土に編入しました。この事実を知った鬱陵郡主が「本郡所属の独島が日本に編入された」と報告しましたが、中央政府がそれに対して何の反応も示しませんでした。大韓帝国がこの時点で異議を唱えなかったことは、領土紛争における決定的なことであったと考えられます。
 日本政府が独島問題を国際司法裁判所に提起する様主張していますが、韓国政府がこれに応じないのは、率直に言って、独島が歴史的に韓国固有の領土であることを証明できる国際社会に提示できる証拠が、何一つ存在していないからです

慰安婦問題の真実

 

 1991年、日本軍慰安婦問題が発生しました。金学順という女性が、日本軍慰安婦だった自分の経歴を告白しました。以降、170人以上の女性たちも同様な経験者だったと告白し、自分たちを慰安婦として連れて行った日本軍の犯罪行為に対して、日本の謝罪と賠償を要求しました。それから今まで28年間、この問題を巡って韓国と日本の関係は悪化の一途を辿ってきました。韓国人の日本に対する敵対感情はますます高まり、日本の首相が何回も謝罪をし、補償を試みましたが、彼女達を支援する団体(後で詳しく説明します)はこれを拒否し、日本に法律を制定して公式の謝罪と賠償を行うことを要求し、問題の解決は遠のくばかりです
 著者の李栄薫氏は、問題の実態を客観的に理解しない韓国側の責任が大きいと言っています。また、この問題に関する韓国側の優れた学術書は存在しないとも言っています。今回、この本の中で著者の李栄薫氏は、慰安婦に係る全体像を実証的に説明しようと試みています

1.李朝朝鮮時代の慰安婦
 普通の韓国人は、朝鮮王朝時代は性に関しては清潔な社会で、20世紀の売春業は日本が持ち込んだ悪い風習だと思い込んでいます。しかし、これは事実ではありません。著者の李栄薫氏は、「世界史に於いて性的に清潔な社会は存在したことがなく、今でもそうだ」と言っています。
 朝鮮王朝時代、女性に強要された貞操律は、あくまでも「両班」身分の女性が対象でした。「常民」や「賤民」身分の女性はその対象ではありませんでした。中でも「女卑」や「妓生(キーセン)」のような「賤民」身分の女性は、男性たちから至る所で性暴力を受けていました

 朝鮮王朝の地方行政機構である監営や郡県(地方行政区画)には、「」が居り、水汲み、料理を行う「汲水卑」と呼ばれる「女卑」と、官衛(かんが;朝鮮王朝時代の地方官庁)で行われる宴会や行事で歌って踊る役となる「妓生」(「酒湯)とも呼ばれていました)が居ました。「妓生」はまた、官衛を訪れてきた賓客の寝室に入り、性的慰安を提供する役も担っていました。こういう事を指して「房直」または「守庁」と言います
 民間の「女卑」、すなわち「私卑」も大事なお客様が訪れてくると、「私卑」が性的慰安を提供する役(房直、守庁)も担っていました

 両班官僚が妓生の性をどの様に支配し、享受したかに関しては、慶尚道蔚山府出身の朴就文の例が良く知られています。1617年生まれで、1644年に武科(武将になる国家試験)に合格した人です。合格の翌年の12月から1年5ヶ月間、咸鏡道の会寧と鏡城で軍官を務めました。彼は蔚山を出発してから帰るまでの毎日の生活振りを「赴北日記」に残しました。この日記には、赴任の途中で官衛の「妓生」や民間の「私卑」に夜伽の相手を務めさせたこと、会寧に到着するまでに150人の「妓生」、「私卑」と床を共にしたことなどが記録されていますまた、赴任地に到着すると、房直妓生配属されましたが、これだけでは満足せず、他の多くの妓生との性を求めた(特に、国境地帯の諸村を巡視する過程で)ことも記録されています

 妓生の身分は「」であり世襲制(妓生の娘は妓生、、)を取っていましたが、この身分制に係る法律を作ったのは朝鮮王朝初期の世宗(第4代;1397年~1450年)ですが、かれは「妓生」を「軍慰安婦」としての制度化も行いました。前述の「赴北日記」によれば、1645年に鏡城府に属した妓生は100人に上ると書いてあります。恐らく全国では1万人に達していたのだはないかと推定できます。この妓生制度は20世紀初めの朝鮮王朝滅亡(1910年日本に併合;1997年に朝鮮王朝は「大韓帝国」に改称されています)まで続いていました

2.日本統治時代の慰安婦(1910年~1945年)
 1916年、朝鮮総督府は「貸座敷娼妓取締規則(ベースとなったのは1900年明治政府が日本で発布した娼妓取締規則です)を発布し、公娼制を施行しました。ここで娼妓というのは、性売買を専業とする女性のことをいいます

貸座敷娼妓取締規則の内容
 娼妓が営業を行うには、貸座敷営業者が連署した申請書を管轄警察署に提出し許可を得る必要がありました。貸座敷とは娼妓を受け入れる「貸座敷営業者が提供する営業場所(通称”遊郭“)」のことです。娼妓が申請書を出すときには、娼妓の父、母、などの戸主が印鑑を押した就業承諾書」、娼妓と抱え主間の「前借金契約書」、「健康診断書」、「娼妓業を行う理由書などが添付されねばなりませんでした。また、娼妓の住所は遊郭区域に限定されていました。一方、貸座敷営業者は、毎月、娼妓の営業所得」、「前借金の償還実績」などを警察署長に報告しなければなりませんでした。娼妓は、毎月2回定期的に「性病検診」を受けなければなりません。尚、娼妓を辞める時は、許可証を警察署長に返納し、「廃業許可」を得なければなりません

 公娼制は、近代の西欧諸国ではじまりました。規則は「娼婦登録制」、「性病検診義務」、「営業区域の集中制を基本要件としていました。「娼婦登録制」は、娼婦と抱え主の関係に国家が介入し、不当な契約条件を取り締まり、待遇を改善するためです。「性病検診義務」は性病を予防し、国民の健康を守るためです(特に兵士たちの性病感染を防ぐため)。「営業区域の集中制」は、売春業による風紀の乱れから一般社会を保護する為でした

 朝鮮に於いては、1916年の公娼制施行をもって身分的性暴力の時代が去り商業的売春の時代が始まったことになります。しかし、この移行は漸進的、且つ段階的な過程を踏みました。因みに、1929年時点での貸座敷娼妓の営業状況は、下表のとおりです。娼妓の人数、遊客の人数両方で日本人が圧倒的に多かったことが分かります;

貸座敷娼妓の概況_1929年

 上表から日本人と朝鮮人の遊客一人当たりの遊興費には2倍の差があります。娼妓一人当たりの月の売り上げは102円となり、その内三分の一か二分の一が娼妓の分け前としても、34円か51円となり、当時小学校卒の女工の月給が18円程度なので待遇はかなり良かったと考えられます

ソウル新町の遊郭街

 日本から朝鮮に移植された公娼制が持つ重要な特徴の一つは、遊郭区域は最初から日本軍が駐屯した所と密接な関係がありました。因みに、上の写真の新町遊郭は、朝鮮駐箚軍の本部近くにありました

 1930年代半ばから、娼妓と誘客の中心が朝鮮人に移り、大衆的売春業に様変わりしました。少数の日本人のための特権的売春業が、多数の朝鮮人のための大衆的売春業に発展したことになります。下表は、仁川にあった敷島遊郭の1925年と1938年の営業状況です。尚、敷島遊郭は朝鮮人楼日本人楼に分かれていました;

仁川敷島の遊郭の営業状況

 公娼制の大衆化過程は、同時に日本から移植された公娼制が朝鮮風に変わる過程でもありました。公娼制下で売春業に従事した女性たちは大きく三つの部類に分けられます;
娼妓:これまで述べてきた売春を専業とする女性たち
芸妓:芸妓屋や料理屋で舞と歌を披露する芸能の所持者です。芸妓の売春は許可されていませんが、客の要求がれば売春を行うことが普通でした。朝鮮王朝時代の伝統妓生もこの範疇に入ると思われます
酌婦:料理屋や飲食店の客席に座り客を接待します。酌婦の売春は許可されていませんが、客の要求がれば売春を行うのが普通でした

 朝鮮王朝時代の妓生はもともと一牌、二牌、三牌に分かれていました;
一牌:宮中官衛の宴会で舞と歌を披露した一級芸能の所持者で売春とは無関係でした
二牌:
芸能水準が一牌より低く、売春も兼業していました
三牌:芸能の訓練を受けたことのない自称妓生
で、主に売春に従事していました
 1930年代に入って、朝鮮人芸妓が急増したのは、主に二牌三牌が芸能名簿に名前を登録し、料理屋に出て歌と舞を行いつつ売春を行ったことを意味します。後に日本軍慰安婦になった女性達の相当数が、妓生養成所の役割を担った券番(遊郭で芸者の取り次ぎや送迎,玉代の精算などをした所)や料理屋の妓生出身であったのは、この様な朝鮮特有の歴史的な背景があったからでした

 1916年の貸座敷娼妓取締規則に関連する規則によれば、貸座敷の店主は雇人周旋業をしてはならないことになっていました。従って、売春業も一種の労働市場であるため職業紹介所の様な市場機構が出来上がりました。娼妓の周旋業社間では、”小売市場ー卸売市場ー中央市場“の様な周旋業の階層が成立し、募集した女性たちを地域内または地域間、更には国境を越えて送り出すシステムができました
 前述したとおり、女性が娼妓になる為には、戸主の就業承諾書が必要でした。戸主は普通父親ですが、母親、母親が居なければ兄や他の親族がなりますが、周旋業者はこの戸主を説得して就業承諾書に印鑑を押させます。朝鮮王朝時代は家族という言葉はありませんでしたが、日本の統治が始まって「戸主制家族」が成立し、20世紀の朝鮮人の家庭生活や精神文化に大きな影響を及ぼしました。戸主は家族構成員を養育し保護する権利と義務を負うことになりました。家族内での出生、死亡、結婚、離婚、養子縁組、相続、分家、などは戸主の承認が必要です。家族構成員が取得した所得は戸主の所得になります。戸主には娘の就業を承諾する権利がありますので、周旋業者が来て戸主に若干の前借金を提示すれば、貧困家庭の戸主は娘の娼妓就業承諾書に印鑑を押してしまいます。娘には拒否する権利がありませんでした娘は泣きながら周旋業者に連れて行かれることになりました。これらが公娼制を取りまく、所謂「人身売買」の実態です。
 朝鮮王朝時代には、この類の人身売買はありませんでしたが、奴婢だけは主人の財産なので売買は自由でした。朝鮮王朝全盛期の奴婢の人口は3~4割にも達していました。19世紀に入ると、一般常民身分の人が、自分と家族を奴婢として売る「自売」という現象がありますが、父親が家族を売ることはありませんでした

売春業の域外進出
 公娼制の成立と大衆売春社会の成長は、売春業が域外進出していく過程でもありました。1910年代末には、関東州と南満州一帯で日本人と中国人を顧客とする朝鮮人売春業が登場しました。1931年の満州事変以降、満州の主要都市で売春業は大きく成長しました。因みに、1940年、満州国全体で各種売春業に従事する女性は 38,607人、内中国人は52%、日本人が35%、朝鮮人は12%でした。朝鮮人が接客業を行う事業所は、599軒、事業所当たり平均7~8人の女性が働いていました(当時、朝鮮内では娼妓、芸妓、酌婦の総数が9,580人であり、満州国では約半分の規模となります)。尚、満州では、性売買を専業とする娼妓はおらず、酌婦が娼妓の役割を果たしていました。満州の売春市場では、最上級市場は日本人売春業、その次が朝鮮人と下層日本人を顧客にする朝鮮人買収業、その次が中国人売春業でした

従軍慰安婦
  1937年の第二次上海事変以降、日中戦争が本格化し、北京から広東までの広大な沿岸地域を占領した後、内陸の奥深くまで進出しました。それと共に、大量の朝鮮人が新しい仕事を求めて日本軍占領地域に入っていきました。彼らは軍の後について軍が必要とする雑貨類を運搬し、特殊婦女子の一団をつれて軍慰安所を開業しました
 1941年時点で中国河北に定着した朝鮮人の総数は52,072人(16,511戸)、その内の362戸が料理屋、飲食店、カフェを経営し、
11戸が慰安所を開業していました。これらの事業所に所属する娼妓、芸妓、酌婦、女給は全部で1,292人で、内219人は軍慰安所に所属する慰安婦でした
 日本軍は、1937年以降、①将兵の性欲を解消し、②性病を防ぎ、③軍事機密の漏洩を防ぐ為に、軍の付属施設としての慰安所を設置しました。「慰安婦」という言葉は、慰安所が軍主導で設置されてから生まれた言葉と言われています。著者の李栄薫によれば、日本軍慰安婦制は、民間の公娼制が軍事的に動員・編成されたものに過ぎないと言っています

 慰安所には多様な形態がありました。軍が直接設置して運営したものもありますが、殆どは民間の慰安所を軍専用の慰安所に指定し、管理する形態でした。慰安所には軍が定めた運営守則(1916年朝鮮総督府は発布した「貸座敷運営守則」とほぼ同じ内容)がありました;

日本軍が関与した慰安所の壁に貼り出されていたいた慰安所規定

 将兵が慰安所を利用するには、部隊長が発給した許可証が無ければなりません。利用時間帯と長さは階級によって異なりました。概ね、兵士たちは昼間、将校は夕方か夜でした。花代は階級によって異なります慰安所内での飲酒や放歌などは禁じられていました慰安婦に対する乱暴な行動は取り締まりの対象になりました。慰安所の入り口で許可証を見せて花代を払うと、店主がサック(コンドーム)を支給(コンドームの着用は義務事項)しました。慰安婦たちは定期的に性病検診を受けなければならず、月2回の休日以外はむやみに外出することはできませんでした
 民間の慰安所と比べ、軍慰安所での仕事は「高労働、高収益、危険」なものでした。慰安婦の数は、概ね兵士150人に対して一人であり、慰安婦の一日当たりの相手は5人程度と推定できます。当時、大阪遊郭区域における一日当たりの相手2.5人と比べると労働強度は2倍となります。労働強度が高い分、高収益でした。兵士たちの花代は民間遊郭よりも安かったのですが、将校の花代は民間とほぼ同じでした。軍の管理が厳しく店主の中間搾取が統制され、軍慰安所は需要が確保された高収益の市場でした
 軍慰安婦は、少なからぬ金額を貯蓄し、実家に送金もしました。ただ、第一線に配置された慰安婦は、危険にさらされることがありました。特に南太平洋とビルマの戦線で日本軍が崩壊した時は、命を落とす慰安婦もありました。しかし、殆どの軍慰安婦は戦後無事に帰還しました。戦争が終わる以前にも、少なからぬ軍慰安婦が契約期間が満了して慰安所を離れました
 満州、台湾、日本、中国で活動した慰安婦は、全て合わせて19,000人、その内3,600人が軍慰安婦であると考えられます

 軍慰安婦問題で、最も深刻な誤解は、慰安婦たちが官憲によって強制連行されたというものです。例えば、憲兵が道端を歩く女学生や畑で仕事している女性たちを、奴隷狩りをするように強制的に連れていったなど、、、

井戸端で日本軍に強制連行される朝鮮人少女のイメージ

 こんな話をもっともらしくした本を書いた人は日本人でした。彼は1983年、「私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行」という本を書き、その中で「1943年、部下6人と共に済州島の城山浦に行き、ボタン工場で働く女性16人を慰安婦にするために連れて行った」と書きました;

吉田清治の本

 この本は、韓国人に大きな衝撃を与え、以後の慰安婦問題発生に大きな役割を果たしました。また、この本が刊行された後、済州島の郷土史家と記者達が、関連証言を聴取しようとしましたが、城山浦の住民たちは、そんなことは無かったと否定しました。それどころか、本を売るための軽薄な日本人の悪徳商魂だと憤慨しました

 強制連行説を煽ったもう一つのは、女子挺身隊との混同です。1991年、金学順という女性が、日本軍慰安婦だった自分の経歴を告白しました時、これを報道した「朝鮮日報」は慰安婦を挺身隊と書きました。挺身隊は、戦時期に女性の労働力を産業の現場に動員したものです。1944年8月、日本は「女子挺身勤労令」を発布し、12歳~40歳の日本女性を軍需工場に動員しました。しかし、この法律は朝鮮では施行されませんでした。ただ、官の勧めと斡旋で接客業の女性あるいは女学生が挺身隊として組織され、平城の軍需工場や仁川の工廠で2ヶ月ほど働いた事例はあります。日本の軍需工場まで行った挺身隊もありますが、その総数は2,000人程度と推測されています。
 慰安婦問題が起きた時、韓国国民は慰安婦と挺身隊を混同し、人々は限りなく憤怒しました。つまり、日本軍慰安婦問題は、最初からとんでもない誤解と無知から爆発したものでした。慰安婦問題を主導した「韓国挺身隊問題対策協議会(通称:挺対協)」は、挺身隊と慰安婦が別物であることが明確になったあとも、ごく最近まで団体名を変えようとしませんでした。今でもなお6種の国定教科書には、「日帝が女子挺身勤労令を発動し、一部の女性たちを日本軍慰安婦にするために連れて行ったと書かれてあります

日本軍慰安婦問題の解決を難しくさせたもう一つの要因は、その人数がとんでもなく誇張されたという点です。「朝鮮人慰安婦は20万人も居たという荒唐無稽な説が教科書にも載っていました今もなお、教科書によっては数万人といい、その人数を誇張しています。20万人という数値を最初に言及したのは、1969年の某日刊紙でした。この記事の中で「1943年~1945年、挺身隊として動員された日本人女性と朝鮮人女性は20万人で、その内朝鮮人女性は5万~7万人だった」と書いています。しかし、1984年になると、宗建鎬という人が自分の書いた本の中で「日帝が挺身隊として連行した朝鮮人女性は20万人で、その内5万~7万人が慰安婦だった」と書きました。これが、朝鮮人慰安婦20万人説となりました
 朝鮮人の軍慰安婦の人数を、データの残っている数値から推算してみると;1937年、日本軍が慰安所を設置した当初、慰安婦は兵士150人に1人の比率(既に述べています)で確保しました。そうすると全日本軍270万人を相手にすべき慰安婦は18,000人程度になります。一方、1942年に日本軍が将兵に支給したサック(コンドーム)の数は3,210万個、この数から1日のサックの使用量を求め、1人の慰安婦が1日に5人の兵士を相手にした(既に述べています)とすれば、やはり18,000人に近い数字になります。一方、慰安婦たちの民族構成は、日本人40%現地人30%朝鮮人20%その他10%と推算するのが一般的です。この比率で計算すると、朝鮮人の慰安婦は3,600人ということになります。ただ、慰安所を離れ民間に戻ってきた女性たちもいることから、軍慰安婦を経験していた人数はこの倍くらい居るかもしれませんが根拠はありません

 韓国において、日本軍慰安婦の性格を「性奴隷」としてきた学説があります。①日本の吉見義明名誉教授(中央大学;歴史学者)は「慰安婦たちは行動の自由が無く、事実上献金された状態で意図しない性交を強要され、日本軍は彼女達を殴ったりけったりするなど乱暴に扱っており、店主への前借金と増えていく利子に縛られて、お金を稼ぎ貯蓄する機会を持っていなかった、だから日本軍の性奴隷であった」と主張しています。性奴隷説を主張するもう一人の研究者は、②日本の宋連玉教授(青山学院大学経営学部教授;在日朝鮮人二世)です。彼女は「娼妓と酌婦は自由意思で廃業することができず、ならず者の監視のもと、事実上監禁された状態で客と接しなければならず、抱え主の前借金に縛られ、化粧品などを購入する為に借りたお金も利子となって増えていく、耐えられない隷属状態にあった」と主張しています
 しかし、米軍の捕虜となった慰安婦を尋問した記録などを見ると、「1943年に東南アジアの日本軍は、前借金を償還し、契約期間が満了した慰安婦の帰郷を許可しました。また、朴治根が帳場人として勤めたシンガポールの菊水倶楽部では、1944年の一年間、20人余の慰安婦のうち15人が廃業し、朝鮮に帰りました。ビルマのラングーン会館の文玉珠と彼女の同僚5人は、共に許可を得て慰安所を出ました。この様に慰安所の居住は、本人の選択による流動性を特徴としていました著者の李栄薫氏は、吉見義明名誉教授宋連玉教授の「性奴隷」という主張は、然るべき証拠が提示されたことが無い先入観に過ぎない」と結論づけています

 上述の宋連玉教授は、性奴隷説を民間の公娼制にまで拡張していますが、これは納得しがたい主張です。1924年、道家斉一郎という人が、平安北道(北朝鮮の西側地域)を除く朝鮮全域に居住する娼妓、芸妓、酌婦の移動状況を調査したことがあります。これによると、1924年の1年間、娼妓などとして新規に就業した女性は3,494人でした。一方、廃業して娼妓名簿から削除された女性は3,388人でした。「朝鮮総督府統計年報」によると、1923年に全国に居住した娼妓、芸妓、酌婦の総数は7,527人でした。従って、1924年に廃業した娼妓等は45%になります。平安北道が除かれている為、実際の廃業率はもっと高かったはずです。このことから、娼妓等の勤続期間は2年6ヶ月程度であることが推算できます。勿論、不運にも売春業から抜け出せなかった女性たちもいました、娼妓として10年以上に及んだ人も、人生に絶望して自殺した女性もいました。しかし、その人数を誇張したり、売春業の実態を覆い隠したりすることがあってはならないと、著者の李栄薫氏は言っています

3.米軍統治時代・ 韓国独立後の の慰安婦(1945年~)
 慰安婦制は日帝の敗北と共に消えたわけではありません。韓国軍慰安婦米軍慰安婦民間慰安婦の形態で存続しました。1946年日本が移植した公娼制が廃止されましたが、民間の売春業は私娼制に変わっただけでした
 朝鮮戦争による破壊と混乱の中で、性売買に従事する女性が日帝時代の10倍にもなりました。労働強度は日本軍慰安婦時代とさほど変わらないにもかかわらず、国家からの保護が無い為、所得水準は下がりました。また、私娼街の暴力は、その時代の文化でした。彼女たちの健康状態は最悪でした。1959年、ダンサー、慰安婦、接待府、密娼の性病感染率は26%にものぼりました。女性達の体がどれほど虐待されたかは、以下の表を見ればよく分かります;

群山市慰安婦の人工中絶回数の記録_1964年

 基地村の慰安婦の抱え主は、妊娠した慰安婦に中絶を強要しました。この当時の基地村の慰安婦たちは、妊娠と中絶の恐怖に無防備に晒されていました。これに比べれば、日本軍慰安婦は保護された境遇にありました。前述の朴治根の日記に出てくる女性たちの妊娠件数は、ビルマで1件、シンガポールでも1件に過ぎません

米軍基地村慰安所風景_1965年


4. 韓国挺身隊問題対策協議会(以下”挺対協”)の活動史

 1990年から、慰安婦問題がどの様に展開していったか分析するには以下の3者のプレーヤーの活動に注目するひつようがあります:挺対協、 韓国政府、 日本政府 
① 1990年11月に挺対協が結成されました。メインメンバーは、1970年以来妓生観光を告発、批判してきた韓国協会女性連合会と、慰安婦問題を研究してきた梨花女子大学(韓国ソウル)の尹貞玉教授です。二者は1988年から一緒に慰安婦問題を扱ってきました。彼らは、慰安婦の足跡を探す目的で、沖縄、九州、北海道、東京、埼玉、タイ、パプアニューギニアなどを踏査したあと、1990年1月、「ハンギョレ新聞」は「挺身隊、怨魂の足跡の取材記」を4回に亘って連載しました。「怨魂」とは、「朝鮮人女性たちが日本軍によって戦争中に慰安婦として使役され、敗戦の時に虐殺された」という意味です。彼らは、慰安婦を挺身隊と間違えるほど事実関係を知らないにもかかわらず、日本による慰安婦虐殺という先入観をもって活動を開始しました
 挺対協を組織する前から日本政府に、慰安婦の強硬連行の事実認定謝罪を要求する書簡を出していました。日本政府が慰安婦の強制連行を否認すると、大々的に世論化する必要性を感じ、原爆被害者を中心に慰安婦被害生存者を探し「金学順」と出会いました。1991年8月14日、金学順証言を発表することに成功します
 次いで12月には文玉珠、金福善の証言を発表することに成功し、済州島での慰安婦狩り
を書いた吉田清治の書いた本がこれに油を注いだ結果となり、連日のように新聞の紙面を覆いました

② 1992年1月11日、日本の中央大学の吉見義明教授(当時)が防衛研究所の図書館から得た資料(「陸支密大日記・軍慰安所従業婦等募集に関する件」;昭和13年3月4日、陸軍省兵務局兵務課起案、北支那方面軍及び中支那派遣軍参謀長宛)から日本政府が慰安婦の募集と慰安所の運営に関与したと発表しました。これは、それまでの日本政府の公式な立場を否定するものでした。挺対協は、日本政府の責任が明らかになった以上、謝罪と補償、それから徹底した真相解明を要求しました。1992年1月17日に訪韓した宮沢喜一首相は、韓国の国会で慰安婦問題に対して謝罪を行いました。

③ 1992年7月、日本政府は「慰安婦第一次調査報告書」を発表しました。軍慰安婦募集に日本政府が関与したことを認めながら、強制連行の証拠は発見されていないという内容でした。これを受け、加藤紘一官房長官は謝罪を行なうとともに、何らかの措置を取ることを明らかにしました。同年12月から第二次調査を実施し、1993年8月に報告書を発行しました。日本政府は、軍部が慰安所の設置、経営、管理、慰安婦の移送に直接・間接的に関与したことを認めました  
  1993年8月4日、慰安婦関係関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話(通称”河野談話“)を発表。しかし、挺対協は、この謝罪を拒否

1992年8月、挺対協は、国連人権委員会小委員会の委員たちに、日本軍慰安婦が「現代型奴隷制」であると宣伝・ロビー活動を行いました。小委員会は、娼婦問題を主題にして、1996年~1998年に「戦争中の組織的強姦、性奴隷制及び類似奴隷制に関する報告書を発表しました。日本軍慰安所は「強姦センター」であり、国際法に違反している、という内容でした。挺対協の宣伝の結果、国連人権委員会女性暴力問題に関する特別調査報告官を任命しました。1996年、この報告官が「戦争中、軍隊の性奴隷問題に関する調査報告書」を発表しました。
 当時、ユーゴスラヴィアで内戦が起き、「民族浄化」と呼ばれるほどの殺傷、強姦と強制妊娠などが行われていて、セルビア系の兵士たちがボスニア系の女性たちを集団暴行した事件で、日本軍慰安所もそのようなものと一緒にされ、女性に対する戦争中の性暴力、戦争犯罪と見なされました

韓国政府は、挺対協と違って河野談話を肯定的に評価しました。慰安婦被害に関する補償、賠償については、1965年の請求権協定によって新たな対日請求は要求できない、という立場で、金泳三政権は韓国政府で元慰安婦を支援することに決めました。1993年6月、「慰安婦被害者に対する生活安定支援法」が制定され、生存慰安婦申告者121人に対して生活安定金500万ウォン(約50万円)と毎月の生活支援金15万ウォン(約1万5千円)、」及び永久賃貸住宅優先入居権を提供しました。日本政府法的賠償ではない、道徳的責任という趣旨で慰労金を支給することに決定しました。
 解放50周年にあたる1995年8月15日、村山富市首相が、所謂「村山談話」を発表しました

⑥ その後、日本政府は「女性のためのアジア平和国民基金(以下”国民基金”)」を設置しました。日本企業と国民から募ったお金で財団法人を組織し、その基金から慰安婦一人当たり200万円の慰労金を支給し、日本政府は政府資金で医療費の支給財団運営費を支援することとしました
 しかし、挺対協はこれを拒否。慰安婦を支援している挺対協が反対するので、韓国内では元慰安婦たちが公に日本の国民基金を受け取りずらくなりました。そこで国民基金は、財団の基金を受領した名簿を公開しないこととし、1997年に7人に対して慰労金の支給を始めましたが、激しい抵抗にあって1998年事業を中断、結局2002年には韓国内での慰労金支給を終結しました。日本の国民基金は、2007年に解散するまで、総計364人に慰労金を支給し、推定慰安婦7百余人のうち半分程度は受け取ったことになります(支給率40%という説もあります)。基金の民間募金額は5億7千万円、総費用は46億2千百万円ですので、費用の90%は日本政府が負担したことになります
 韓国政府金泳三政権)は、挺対協主導の世論に押され、当初の了解を違え日本の国民基金の支給に反対しました。その結果、韓国政府は、国民基金以上の額の個別慰労金を支給することにしました。1998年に誕生した金大中政権は、慰安婦申告者186人に、1人当たり3,800ウォン(約380万円)を支給しました。その際、国民基金を受け取った元慰安婦には韓国政府のお金は渡さないことにしました

⑦ その後挺対協は、慰安婦問題の国際問題化するための努力を続けました。海外の人権団体と共に、2000年に「東京模擬法廷」を開廷し、慰安婦国際戦犯裁判を行いました。この法廷で、昭和天皇などに強姦と性奴隷犯罪の有罪判決を下しました。また、2007年には米下院と欧州議会で、日本政府に慰安婦問題解決を促す決議案を出させることにも成功しました

挺対協は、韓国内でも慰安婦に対する世論づくりを続け、2011年12月には、水曜集会1000回目を記念してソウル市の日本大使館前に慰安婦少女像を建て日本政府に対する圧力を強めました
 韓国政府李明博政権)は、大使館前の慰安婦像設置が、大使館の保護などを規定したウィーン条約22条2項に違反しているにもかかわらず、何の対応も行いませんでした

慰安婦像

⑨ 2006年に、元慰安婦たちは、日本軍慰安婦の賠償請求権問題の解決を図ってこなかったことは基本権侵害で憲法違反だと憲法裁判所に訴えて出ました。2011年に憲法裁判所は「韓国政府が日本軍慰安婦の賠償請求権に関する韓日間紛争を解決しようとしなかったのは違憲」という判決を下しました
 そこで、韓国政府朴槿恵政権)は、日本政府と水面下で交渉を重ね、韓国の外交通商部長と日本の外務大臣の間で慰安婦合意案を発表しました。また発表の夜、安倍晋三首相と朴槿恵大統領との首脳会談で合意を確認しました。合意内容は、日本政府から10億円の慰労金を貰って財団を設立し、個別被害者に慰労金を支給し、これを以て日韓両国間で「最終的かつ不可逆的に解決することを確認」し。「国際社会において、本問題について互いに非難・批判することは控えると約束しました
 この合意に対して、 挺対協が強く反発しました。しかし、朴槿恵政権は、2016年に「和解・癒し財団を設立し、被害者個人に対する慰労金支給を実行に移しました。これで相当数の元慰安婦と遺族が一人当たり1憶ウォン(約5千万円)の支給を受けました。2018年11月の時点で、癒し金を受け取った元慰安婦は34人、約2千万ウォン(約200万円)を受け取った遺族は58人。しかし、挺対協はこれにも反発を続けました

朴槿恵政権が倒れたあと、韓国政府文在寅政権)は、2018年11月に「和解・癒し財団」を解散し、2015年の合意も正式に破棄し、再交渉も要求せずに合意事項を無効化しました
 2016年12月、一部の元慰安婦と遺族の20人は、「精神的かつ肉体的苦痛を強要された」と日本政府に対して総額30億ウォン(約3億円)を求める訴訟をソウル中央地方裁判所に起こしました。これに対して日本政府は、「国家は、同意なしに他国の裁判所で被告になることはない」という国際法上の主権免除の原則に基づき拒否しました。1919年5月初め、裁判所は審理を開始することを決定しました

<参考>
 日本政府がこれまでに行ったってきた慰安婦に対するお詫びの内容については、今年1月に発行した私のブログ(日韓関係について勉強してみました)をご覧になってください

Follow_Up:月間文芸春秋の1月号に”韓国高校生は「反日教育」に反対します“というインタービュー記事がでていました

おわりに

 この本を読んだ後、正直に言って「暗澹たる気持ち」になりました。特に、慰安婦問題は、ここ迄こじれると解決の糸口も見いだせないような気がしました。現在50万人近くの在日朝鮮人(韓国籍+北朝鮮籍)が国内に住んでおり、更に日本に帰化した朝鮮人、婚姻によって日本人姓を名乗っている人も相当数在住していることを考えると、少なくとも同じ自由主義圏にいる最も近い隣国であり、文化の繋がりも強い韓国の国民と、永久に和解できないのではないかと悲観的になってしまいました
 日本が辿ってきた負の歴史を覆すことはできないことは言うまでもありませんが、その反省を基に、度々行われてきた日本政府トップによる「お詫び」と、日本政府や韓国政府によって慰安婦やその遺族に支給されてきた多額の慰労金によっても解決できていないのが現実の姿です

 ことの発端は、軍慰安所の設置に日本軍が関わっていたという当り前の事実を、当初日本が正式に認めていなかったことと、吉田清治という日本人が、自身で慰安婦を強制連行したというウソを本を書いたことにあると思われます。また、挺対協による執拗な韓国内や世界に対する世論操作が、日本軍慰安婦問題を解決不能の様な現在の状況に追い込んだことも確かです。しかし、戦争が終結してから40年以上経過してからこうした戦争の負の側面が表面化し、反日の巨大なうなりになっていることは、世界史的に見ても異常であるに違いありません

 この本の6人の著者は、この原因が日本にあるのではなく、韓国特有の種族主義にあると言っており、我々日本人にとってはそれなりに説得力があると思います。しかし、彼ら積み上げてきた実証作業のみによって、韓国で現在もなお行われている間違った歴史教育を正し、韓国世論の状況を変えていくのは中々困難であると思います
 そこで、日本としても、この本が韓国で出版されベストセラーになっている機を捉えて、現在の韓国の政治、社会状況を変えていく手伝いをしなければならないのではないでしょうか。少なくとも挺対協による執拗な国際世論操作を今後も許すことがあってはならないと思います。戦争の負の遺産を声高に主張することは日本人の得意とするところではありませんが、外務省を通じて間違いは間違いとして国際世論に積極的に訴えていく努力が必要になると思います

Follow_Up:週刊ポスト2020年1月3日・10日号に韓国の若者、北朝鮮が好きで日本には「恨」の感情抱く絶望_井沢元彦という記事が出ていました

Follow_Up:ニューズウィーク日本版2020年2月11日号にという日本文化に惚れ込んだ韓国人たち記事が出ていました

以上

 

 

 

 

 

 

 

カラオケ万歳!

はじめに

上の写真は、私の最近の歌仲間と楽しく歌っている様子を写した写真です。写っている仲間以外に、退職後、兵庫県の実家に帰って年に1~2度しか会えなくなった仲間の一人がいます

この黒いバーはメディアプレーヤーですをクリックすると音楽が流れ、また同じ場所をクリックすれば途中で止められます。ここでは「旅愁」が入っています。この旅愁という歌はネット情報によれば、原曲は米国の John P. Ordway による“Dreaming of Home and Mother”(家と母を夢見て)という楽曲で、日本で当時唯一の音楽の学校であった東京音楽学校出身の犬童球渓が1907年(日露戦争が終わって2年目)に、この楽曲を日本語に訳した翻訳唱歌です。同年、「中等教育唱歌集」で取り上げられて以来、日本人に広く親しまれてきたこの歌は、2007年(つまり歌われ始めて100年)に日本の歌百選の1曲に選ばれています。歌の命は永遠ということでしょうか、私は小学校時代にこの曲を教わりましたが、今でも私の「心の歌」の一つです
以下、沢山の曲が挿入されていますが、お好きな方だけ挿入曲を聴きながら読んでください

以下、「音楽」という括りで語るような、大それたことをする積りはなく、カラオケ好きの老人の大風呂敷ということでお許し願えれば幸いです!

わが人生の歌がたり

五木寛之「わが人生の歌がたり
五木寛之「わが人生の歌がたり

上の写真は、私の好きな作家の一人である五木寛之が、「月刊ラジオ深夜便」で2005年8月号~2007年1月号まで執筆したものを纏めたもので、同シリーズ三部作の第一部です。九州の貧しい農家で生まれ、教師であった父母と一緒に朝鮮に渡って少年時代(愛国少年!)を過ごし、悲惨な引揚体験(母の死)を経て、東京での苦学(早稲田大学)時代までの間、記憶に残る歌をキーにして自身の人生と世相を綴ったエッセーです
彼の人生は、満州生まれの私の人生に重なる部分が多いために彼の作品に心が引かれるのかもしれません。以下は、私がこの本を読みながら勝手に妄想!した内容です

わが人生の歌がたり_歌のリスト
わが人生の歌がたり_歌のリスト

第一章 はじめて聴いた歌;
五木寛之が初めて聴いた歌は、遠い記憶の底にある朝鮮の民謡と日本人がいない朝鮮の地で教員として奮闘していた父母の歌だったそうです
寂しい」、「わびしい」、「悲しい」というネガティブなフレーズが沢山出てくる「影を慕いて」が大ヒットしたのは1932年のことですが、

この年は3年前の米国発の大恐慌(暗黒の木曜日)が日本にも波及して、日本は大不況の真っ只中にありました。また、1931年には東北地方・北海道地方が冷害により大凶作にみまわれました。この結果、上野駅には東北の農村から身売りしてくる娘さんたちが列をなして降りてくるような悲惨な時代でした。こうした大衆の苦しみに刺激されて海軍将校を中心とした五・一五事件などテロ事件が相次ぎ、大正デモクラシーという古き良き時代が終わって退廃的な雰囲気が漂う時代でもありました。私が一年に一度はカラオケで歌う「侍ニッポン」は、

郡司次郎正が1931年に、この時代を幕末の退廃的な世相に映して描いた同名の大衆小説を題材にしたものです

第二章 戦時下の流行歌;
1931年柳条湖事件を発端として満州事変がはじまり、1932年には日本の傀儡政権である満州国が成立しました。1937年の盧溝橋事件から日中戦争(日華事変)が始まり、更に1941年には太平洋戦争が始まり、1945年の敗戦に至るまで15年間も日本は戦争に明け暮れていました
この戦時下にあって、軍主導の勇ましい軍歌が流行る中で、苦しい戦争を戦っていた兵卒は、望郷の想い祖国に残した家族・兄弟への想い傷ついた、あるいは戦死した戦友への想い異国の丘の歌詞)を好んで歌ったといいます

湖畔の宿_カラオケ
湖畔の宿_カラオケ

上の写真はカラオケの「湖畔の宿」の最初の場面です。この歌は、その物悲しい旋律、歌詞で軍から発禁処分を受けたものの、高峰三枝子さんが特攻隊の慰問に行くと、いつもこの歌をリクエストされ、隊員は涙を流しながら聞き入っていたそうです

戦時中に大ヒットした「麦と兵隊」は、奉天(現在の瀋陽)で満州航空に勤めていた父が好きだった歌のようで、私の小学校時代、父が風呂に入るとよく歌っていたのを思い出します

第三章 極限の悲しみの歌;

玉音放送」には、戦時中の体験から十人十色の感慨があると思いますが、戦争直後の激動期に想いを馳せるには必須のものと思いましたので、この音源をいれました。神谷町に勤務していた頃、月一度くらいは昼休みに愛宕山のNHK博物館に行き、この玉音放送や当時流行の歌を聞いていました。五木寛之は本書の中で「人は悲しい時に明るい歌で元気付けられるというよりは、“わかるよ、おれもそうなんだよ。本当に生きていることは大変だね”という言葉の方に心は支えられる」と書いていますがサーカスの唄」もそんな歌だったのでしょう

直接敵と殺し合う軍人にとっても戦争は悲惨であり、特攻隊の悲劇も沢山ありましたが、戦争の本当の被害者は普通一般の人々であり、彼らは戦争が終わった瞬間から、生き残るため、祖国に帰るための戦争が始まったと本書に書かれています。この泣きたくなるような理不尽な運命の渦中にあって心に響いた歌が「雨に咲く花」でした

この体験は朝鮮からの引揚者だけでなく、満州から引き揚げてきた私たちの家族、親戚も同じ状況でした(生い立ちの記(生誕・抑留・引揚・困窮生活)母方親族の戦争体験

第四章 脱出を支えた歌;
五木寛之の家族は平壌に住んでいた為、ソ連軍の占領下となり終戦になってもすぐには帰国が叶いませんでした。この間に母親が亡くなり、父親も茫然自失の状態で中学生の彼が一家を支えていました。この間に大人に混じってやけくその酒盛りで一緒に歌って覚えた歌が「国境の町」でした

漸く帰国が叶い引揚船の中で船員たちが歌ってくれたのが「リンゴの唄」、内地を目の前にして不安でいるときに「こういう明るい世界がまっているんだよ」と不安を吹き払ってくれた応援歌のようだったそうです

第五章 貧しい日本で生まれた歌;
戦争は終わったものの経済はどん底の状態で、全ての人が貧しかったと言えますが、中でも女性には大変厳しい時代でした。戦争未亡人や普通の娘さんが、生活の為にしかたなく街に立って客を引くことも珍しくなかった時代でした。私たち家族と同じ旧満州の奉天(今の瀋陽)から引き揚げてきた22歳の看護婦さんが、不運が続くなかで上野の地下道で暮らすようになり、生きていくためにやむを得ず身を売ることになった、という新聞記事に、作詞家の清水みのるさんが衝撃を受け書いたのが「星の流れに」という歌です

この歌の中にでてくる「こんな女に誰がした」という歌詞が有名で、映画「肉体の門」の中で歌われて大ヒットしました
また、引揚者は、どこか外地の香りがするエキゾティックな歌に、かつて見た朝鮮や満州、上海疎開地の風景を連想して、心惹かれたようです。そういう背景があってディックミネが歌った「夜霧のブルース」は大ヒットしました

昭和20年代から30年代にかけてNHKラジオ第一放送がラジオ歌謡というオリジナルな歌を放送しました。その中からヒット曲が出て、時代を映し出す歌の数々が生まれました。中でも長く歌い続けられている歌に「さくら貝の歌」があります

第六章 東京の苦学生の歌;
五木寛之は、高校卒業後ロシア文学を学びたくて早稲田大学を受験、合格したあと最初の難関は入学金と前期授業料合わせて6万7千円の納入でした。何とか父親が恩給証紙を抵当に入れて工面しても貰ったものの、住む場所がなく、取り敢えず近くの穴八幡という神社の床下に野宿しました。その後、学徒援護会の斡旋で住み込みのアルバイト(業界新聞の配達)の職を得て働きながら勉学に励むことが出来るようになりました。当時の早稲田大学では、地方の貧乏学生が集まり、大学の裏には角帽をかぶった学生が靴磨きをしており、一般の人の他に、教職員や金持ちの学生が靴を磨かせていました
その頃は町のどこからも音楽が聞こえてくる時代で、特に印象的な歌は、美空ひばりの「リンゴ追分」でした

この時代、学生にとってはデモが日常生活の一部になっていました。GHQの占領が終わった1952年のメーデーの日(5月1日)に血のメーデー事件と呼ばれる激しい騒乱事件が発生しました。また翌年には、石川県の内灘砂丘の米軍試射場に反対する「内灘事件」が発生し、ここに住民だけでなく、各地の労働組合学生音楽や演劇の人も参加する闘争に発展しました。これはその後長く続いた基地反対闘争のきっかけなりました

内灘事件
内灘事件

この頃を象徴する歌としては「君の名は」があります。この時代。数寄屋橋はまだ本当に水に流れの上に掛かっていました

この歌は菊田一夫が書いた脚本の代表作で、1952年にラジオドラマで放送され、多大な人気を獲得しました。ただ、この歌の最初の部分に空襲警報が挿入されていることでも分かるように、最初の半年間は人々の戦争体験を主題に描いていたため、あまり人気は出ませんでした。その後、真知子と春樹の恋愛のドラマに変わっていくと爆発的な人気を呼び、「番組が始まる時間になると、銭湯の女湯から人が消える」といわれるほどであったといいます
残念なことに、現代の若者たちにとっては、2016年8月に公開された新海誠監督の同名のアニメ映画(菊田一夫のドラマとは全く関係ありません)の方が圧倒的に有名です!

その後、五木寛之は学費が払えず大学を中退し、作詞家及び小説家として生計を立てることになりますが、ネットで調べると作詞して販売された歌は数十曲に及び、中でも自身の小説のために作詞を担当した「愛の水中花」、「織枝の唄(青春の門)」、「青年は荒野をめざす」が大ヒットしました

私の人生の歌がたり

私も、大胆過ぎるとは思いますが、五木寛之に倣って自分の人生の歌がたりを試みてみたくなりました。別に歌が上手い訳でもなく、音楽の造詣が深い訳でもないのですが、一時期をのぞいて歌は私の人生にとって非常に大切なものであったことは確かです
1.小学生時代;
五木寛之の歌がたり第六章が1952年で終わっていますが、私の小学生時代はこの1952年、米軍の占領が終わった時に始まっています。就学前の音楽や歌の記憶は全くないので丁度いいタイミングなのかもしれません

私の小学校時代の音楽の授業は大変楽しいものでした。何しろオルガンで伴奏をしてくれる先生のもとで、大きな声を出して歌っていればいいのですから楽しい訳です。ちょうどこの時代は、親も学校の先生もみな反戦の意識が高く、自分より不幸な人達に対する同情の念が強かったせいだと思いますが「とんがり帽子」の少年少女の元気な歌声が心に残っています

この歌は、1947年~1950年までNHKラジオで放送されたラジオドラマ「鐘の鳴る丘」で使われていました。空襲により家も親も失った戦災孤児たちが街にあふれていた時代、復員してきた主人公が孤児たちと知り合い、やがて信州の山里で共同生活を始め、明るく強く生きていくさまを描いています
また、戦後生まれの童謡の中では最もヒットした「みかんの花咲く丘」も戦災孤児を扱った曲と思われます

三番の歌詞の最後に、丘の上に登って遠くの島を見ながら「優しい母さん思われる」という部分ではいつも涙がでてしまいます。恐らく、心臓弁膜症を患いながら私を背負って満州からの長い長い引揚の道のりを歩いた私の母の面影を思い出してしまうからかもしれません

今では、どこの小学校でも校歌がありますが、私の通った小学校では六年生の時に初めて校歌ができました。今回ネットで探したところ、何と見つけ出すことが出来ました。ただ、歌詞がちょっと変えられていたのには吃驚しました

この校歌が秋の運動会の始まる前にお披露目された時、私が作詞者、作曲者にたいして生徒を代表して感謝の言葉を述べました。兄と違ってヤンチャだった私は、小学校時代これが唯一の晴れの舞台だったので、父が写真を撮ってくれた様です;

運動会_校歌発表会
運動会_校歌発表会

2.中学生時代;
私が通った学芸大学付属小金井中学校では、大原某という先進的な音楽の授業?を行う先生がいました。この中学の校歌は確かこの先生が作曲したと記憶しています。ネットで探し出すのに苦労したものの何とか見つけ出すことが出来ましたが、3番まである歌詞のうち一番だけしか入っていませんでした

楽しみにしていた最初の音楽の時間で戸惑ったことは、歌を歌詞で歌わず、階名(ドレミ、、)で歌わされたことでした。私の出身の町立小学校でそんな教育は一切受けておらず、楽譜を見ても曲に合わせたスピードでは階名を読めませんでした。さらに翌週の授業では皆の前で暗記した階名で歌わされるという地獄が待っていました。お陰で?今でも中学校で学んだ歌は全て階名で歌うことができます
また、当時の中学としては珍しかったと思いますが、一クラス全員分のオルガンが音楽室に用意されており、教科書としてメトードローズピアノ教則本が与えられて自習を強要!されました。ピアノを小さい頃から習っていた裕福な生徒や、音楽の才能があってすぐ上達する生徒が多かったなかで、才能が無い上に貧しかった私の家にはピアノやオルガンの類はないので練習ができず、また小学校時代に彫刻刀で手のひらを切り、左手の小指が自由に動かなかった私にとって、毎学期末に行われる全員の前でピアノを弾くテストは正に地獄でした。そんな訳で、この時期に生涯癒すことのできない音楽に対するコンプレックスが定着してしまいました

ただ、兄は高校時代の音楽教育が良かったせいか、クラッシック音楽が好きでレコードを買ってよく聞いていました。その時に影響を受けたのだと思いますが、ベートーベンやその時代の音楽家の音楽には、何の造詣もありませんが、未だに聞くのは大好きです

その頃、日本航空が初めてジェット機を導入するにあたって、父がエンジン整備の勉強をするためにアメリカに長期間出張しました。その時の土産に、当時珍しかったゼニス社製の5球スーパーラジオ(5つの真空管を使ったSuperheterodyne 方式のラジオ受信機で雑音が少ない;済みません!この頃の私は既に“電気少年”だったので電気製品については細部に拘ります)を買ってきてくれ、毎日これでラジオを聴きながら夕食を取っていました。この頃のNHKラジオドラマの「一丁目一番地(1957年~1964年)」のテーマ曲をネットで見つけだしました。聴いてみると、その頃の自宅の夕食風景や隣近所の人たちの顔が鮮やかに蘇ってきました

3.高校時代;
高校に入ってまず驚いたことは、フォークダンスが必修?であると言うことです。男女が手を繋いでダンスをするなどは生まれて初めての事だったので、胸が高鳴ったのを思い出します。まず覚えるのは最もポピュラーな「コロブチカ」です

高校では音楽は必修科目ではなく選択科目になっていました。と言っても、他の選択肢は美術だったので、【美術のコンプレックス】>【音楽のコンプレックス】ということで、音楽をいやいやながら選択しました。
音楽の先生が最初に登場した時は、余りのカッコよさに魂消ました。何といってもイケメンの上に二期会の現役の歌手です。この先生に最初に教わった歌は「いつかある日」でした

この歌のメロディーは実に単純です。しかしこの歌の歌詞は、私にとって心打つものでした。ひょっとして歌は歌詞が“主”で、メロディーは“従”なんではないか、そんな些細なことから歌うことに対するコンプレックスは多少和らいでいった様な気がします

今回このブログを書いている最中に昔の音楽の教科書が懐かしくなり、探し始めました。小学校、中学の教科書は見つからなかったものの、ボロボロになった高校の教科書を見つけ出しました(表紙なし)。老化している紙が破れないようにページをめくっていくと、わら半紙にガリ版刷りの校歌の楽譜が出てきました。たしかこれも練習した様な気がします

高校音楽教科書の1ページ目とガリ版刷りの「校歌」
高校音楽教科書の1ページ目とガリ版刷りの「校歌

また、苦労して歌えるようになった「海に来れ」のページでは、上手く歌えない部分を自宅で必死に練習したことを懐かしく思い出しました

海に来れ
海に来れ

歌を歌うのが少し好きになったところで、当時流行っていたギターを弾ければ好きな歌を弾き語りできるな、と一念発起し、親に安いギターを買ってもらいました。左手の小指が使えないので、弦を逆に張り替え、右手でフレットを押さえることにして練習を始めましたが、数か月の練習で投げ出してしまいました。またしても楽器コンプレックス悪化させるだけに終わりました

音楽を選択したグループは、上級生の卒業式で「ハレルヤ」を歌うことになっていました。これは本格的なクラシック音楽なのでそう簡単にはマスターできません。また、音楽を選択した“沢山の男”は大半がバスかバリトンのパートしか声が出せず、テノールとソプラノは音楽の“手練れ”が少人数で担当していました。特にソプラノは卒業後芸大を出てプロの歌手となった女性一人が頑張っていて、ソプラノの音量に負けてしまう大勢のバス、バリトンに対して「もっと声を出して、、」と先生に言われ続けたことを思い出しました。数ヶ月の練習を経て、なんとか卒業式で歌うことができました

このハレルヤという合唱曲は、ヘンデル作曲のオラトリオ「メサイア」の44番です。音楽を選択した私の友人の中で、才能に恵まれた人たちは「メサイア」全曲を歌いたいと、ほぼ老年!になってから本格的な練習を始め、数年前に目出度く公演を行いました、大したもんです!

4.大学時代;
一年浪人した後、大学に行きましたが、浪人中は、オールナイト・ニッポンなどの深夜放送を聞きながらの勉強でした。1坪を半分に区切って妹と勉強部屋をシェアしていましたが、そこに自作の真空管アンプとリンゴ箱を使って作ったスピーカーを持ち込んで、流行り始めたビートルズの「 I Should Have Known Better」などを聞いていました

目出度く入学した後、バレーボール部に入部しましたが、ここで最初の洗礼はコンパ(今の飲み会)で歌う「ああ玉杯に花受けて

と、試合の応援などで使われる応援歌「ただ一つ」の練習です

これらの歌はいずれもアカペラで大声で歌わねばなりませんので、高校時代に学んだ歌唱法?とは全く別物です
大学に入ってから最初にやることは、ダンス部が主催するダンス講習会に通ってダンスパーティーに必要な、ジルバ、ワルツ、ルンバ、他、を覚えることです。当時、男性主体の大学や、女子大学の学生は、ダンスパーティーを通じて異性の友達を作ることが、ごく自然に行われていました。この頃のダンスパーティーではスイングジャズがよくかかっていましたが、私はビリーボーン楽団の「波路はるかに」が大好きでした

60年安保が終わっても、左翼の活動家の人々は、どうにかして若者を仲間に加えたいと思っており、一方、地方から出てきた真面目な若者は、人との繋がりの少ない都会生活で疎外感を感じる人も多くいました。こうした状況下で店に来た皆が歌の上手いリーダーと一緒に歌う歌声喫茶がはやり、東京の繁華街には当時沢山の歌声喫茶がありました。ここで歌われる歌は外国の民謡、学校で習ってきた唱歌、左翼の人が好む反戦歌、スタンダードとなった歌謡曲などでした。私たち学生も、コンパが終わった後、時折こうした歌声喫茶に寄って何曲も何曲も歌い続けたことを思い出します

また我々の世代は、親はもとより、教えを受けた教員の大半が戦争の惨禍を経験しており、社会や家庭内には反戦の気分が横溢していました。私の様ないい加減な学生でも朝日ジャーナルの購読は当たり前であり、ベトナム戦争には学生は概ね全員が反対していました。ベ平連もこうした政情の中で登場致しました
東大では1968年1月、医学部の学生がインターン制度に代わる登録医制度に反対して無期限ストに突入しました。その後、6月には東大全共闘が結成されると共に各学部、学科単位でバリケード封鎖が連鎖的に行われてゆきました。他大学の全共闘との連携、政治デモへの参加の過程で歌われた歌は、正に革命の歌でした。今でも、当時の高揚した気分の中で屡々歌われた「インターナショナル」、「国際学連の歌」、「ワルシャワ労働者の歌」を聴くと何故か気持ちが自然に高ぶります

この三つの歌をお聞きになるだけでも感じられると思いますが(実際に大勢で歌ってみるともっと迫力がでます)、革命歌というのは人を酔わせて死をも恐れぬ勇気を生み出す効果を狙っています
戦時中の日本の軍歌もそういう効果を狙っていたと思いますが、ネット上で30曲程の日本の軍歌を聞き比べてみたところ、上記革命歌3曲が「侵略者に対する反撃」がテーマであり極めて本能的で好戦的であるのに対し、日本の軍歌は、「天皇や国に対する忠誠」、「“八紘一宇”という作られた正義への挑戦」、「戦友への想い」などがテーマとなっており、敢えて言えば理想主義的で抒情的であるような気がします。これは国が発展登場にあった明治期の武士道が底流にあったのかもしれません

5.サラリーマン時代~現在;
1971年に大学院・修士課程を卒業して日本航空のサラリーマンになりました。DC-8型機の導入で後れを取り、太平洋路線のシェアを米国の航空会社に奪われて苦しんだ経験を活かし、1969年に初飛行したばかりの超大型機B747型機の導入を積極的に行った結果、1971年は本格的な海外旅行時代の幕開けの年となりました
折しも1967年、日本航空がスポンサーとなってFM東海で始まった深夜放送の「ジェットストリーム」は1970年からエフエム東京に引き継がれ、城達也の魅力的な声は、バックに流れる「Mr.Lonely」の甘い調べと相俟って多くの若い人に愛され、後の海外旅行ブームに繋がった様に思います

1978年には、国際線を全面的に成田空港に移転するという大事業があり、その一環で羽田に集約されていた整備基地を、成田と羽田に分割するプロジェクトを私が担当することとなりました。また、成田整備基地に於いては新しい勤務シフトを導入するというプロジェクトの担当にもなりました。歌どころではない忙しい日々が続きましたが、5月20日漸く開港の日を迎えることができました。その日から成田勤務が始まりましたが、未だ成田空港周辺は反対派の取り締まりの為に機動隊員が要所で検問を行っており、物々しい雰囲気でした。一方、成田駅周辺の繁華街の夜は寺町であるため閑散としていました。こうした中で我々単身赴任者が夜遊び!をするところは、畑の真ん中に散在する深夜スナックでした。必ずカラオケがあり、流行っていた歌の一つが「北国の春」でした

成田空港と自宅では130キロ程の距離がありますが、単身赴任とは言いながら、金曜日に自宅に帰って、月曜日早朝に自宅を出て出勤する、所謂「金帰月来」が可能でした。この長時間のドライブ中、当時流行っていた歌をテープやラジオでたっぷり楽しむことができました。その頃よく登場していた歌手は、ピンクレディーキャンディーズさだまさしアリス、、、でしょうか、中でもアリスの堀内孝雄が歌っていた「君のひとみは10000ボルト」は8ビートの難しい曲ですが、妙に記憶に残っています

1980年には、たのきんトリオ松田聖子中森明菜長渕剛、、、などの歌手が頑張っていましたが、バブル景気のさ中、松田聖子の初々しい「青いサンゴ礁」が大ヒットしていました

1980年代半ば以降は、日本航空にとっては歌どころではない辛い日々が続きました。勿論これは1985年8月12日の御巣鷹山墜落事故によるものです。1989年、社会の底辺ではバブル景気崩壊が忍び寄りつつ、何となく不穏な雰囲気が漂う時期にあたりますが、長渕剛の「トンボ」のヒットが強く印象に残っています。この歌詞に溢れる何ともやるせない鬱屈した気分が、若者の共感を呼んだのではないかと思います

1990年には、経営企画室に異動し、バブル景気の中で大量に購入契約を結んだB747-400を始めとする大型航空機のダウンサイジング(小さな飛行機に代替してゆくこと)するためにボーイング社と交渉していました。当時、日本航空の本社は旧東京ビルにあり、昼休みには東京駅周辺の多くの食事処でバラエティーに富んだ昼食を取っていましたが、なんと!時には昼休みのたった1時間4人で昼食を取りながらカラオケやったこともありました。東京ビルには車で通勤することはできず、運転しながらヒット曲を聴く機会が無くなったこともあり、10代~20代の人達が支えているヒット曲にはとんと疎くなっていました。ただ、当時日本航空のCMソングとなっていた米米CLUBの「浪漫飛行」は、時折カラオケで練習した記憶があります

一応 B737-400の導入でダウンサイジング計画完了のめどを付けた後、日本アジア航空台北支社勤務を命ぜられ、赴任しました。この時は完全な!単身赴任で、夜は夕食を取った後はカラオケスナックに入り浸る毎日でした。台湾では10年~20年前の日本の唄を別に何の違和感もなく歌うことが出来ました。中国語の歌は、テレサテンが歌っていて聞き覚えがあった「月亮代表我的心」と沖縄出身の歌手喜納昌吉の作詞・作曲によるヒット曲「」の替え歌である「花心」くらいで、中国語の発音が難しくあまり覚えることが出来ませんでした

台湾からの帰任後、私の経営企画室時代の最後の仕事であったB737-400の導入後、予想されていたことではありましたが、この航空機の投入路線が全て大幅な赤字になっていたことから、新しいLCCを設立してこの路線を黒字化させるプロジェクトを担当することになりました。1996年4月には社名をJAL Expressと命名し、この会社の実質的な本社を大阪(伊丹)として、同年7月には大阪=鹿児島、大阪=宮崎の2路線の運航を開始しました。2年半の大阪勤務を終えて、1998年には整備部門の効率化の為に整備カンパニー設立の為のプロジェクトを担当し、2000年4月に発足させることが出来ました。そんな訳でこの10年間は、偶にしか好きなカラオケができない忙しい毎日を過ごしました

2000年以降、成田、羽田での勤務を経て2002年には日本航空を退社、その後、某原子力関係の独法の監事や某大学の特任教授などを歴任した後、2016年以降は息子の会社の監査役という閑職のみとなり、ブログ発行や読書など、そこそこ充実した日々を送っています。そうした生活の中で、夕方、時間ができると後述する“一人カラオケ装置”を使って数十曲は歌い込み、冒頭の写真にあるカラオケ仲間との月一回の歌比べ!に備えています
尚、2000年以降、現在までの歌については新しすぎて“歌がたり”に馴染むような歌は少なく、また歌をキーにして振り返る私の歴史についても、取り立てて語る価値のあることもありませんので、割愛することにします

老人とカラオケ、その効用?

昨今、繁華街に限らず普通の町にもカラオケボックスがあります。日中空いている時間帯であれば1時間数百円の単位で利用でき、年金生活の老人が度々通っても経済的な負担は大したことはありません。現に私の様な老人が独りで利用する姿を見ることもも珍しくありません
現在のカラオケボックスは、通信カラオケといってネット経由で古い歌から最新の歌まで数えきれない程の歌が登録されており、老人が歌選びに困ることはありません。また、音程から音量、エコーの程度まで自分好みに合わせた細かい調整が可能になっています。以下に老人とカラオケ、その効用につて考察をしてみようと思います

1.カラオケで老人の健康を向上させる
老人が長生きをしたいという願望(周りの人がそれを望んでいるかどうかは疑問!?)を抱いていることは間違い無いことです。しかし、ただ生きていればいいという訳ではなく、健康で楽しい老後でなければ意味がありませんね
肉体的な健康を保つ;
肉体的な健康を保つためにジムに通う人が多くいますが、若いうちはジムで筋肉を鍛えることによって好きなスポーツが楽しくなるという意味で効用は大きいのですが、腰や膝を痛めた人にとって早く歩く程度まで回復させるのがせいぜいではないでしょうか。老人が充実した日常生活を送るために最も大事な臓器は心臓と肺であることは論を待ちません。心臓に疾患を抱えていたり、弱ってくれば強い運動は控えなければなりません。しかし、肺の機能はカラオケで十分に鍛え続けることが可能です。正しい発声法をマスター(私はボイストレーニングしているワイフに教わっています!)して歌うことによって肺の機能を強化することが可能です
また、自分でも最近実感していますが、口の奥を大きく開けて発声することで、喉周りの筋肉が鍛えられ、老人特有の嚥下障害によって食事の時にむせることが少なくなりました

② 精神的な健康を保つ;
会社を退職したあと一番大きな変化は、人とのコミュニケーションの機会が極端に減ることです。昔はリタイア後も、大家族制の中で子供や孫とのコミュニケーションが沢山ありましたし、またご近所づきあいが継続されることでコミュニケーションが一気に失われることはありませんでした。しかしサラリーマンが退職した場合、一気にコミュニケーションの機会が減るケースが多いようです。夫婦の会話を増やすことである程度のコミュニケーションを確保することは可能ですが、限界はあります。昨今、独居老人が殆ど会話の無い生活を続けている内に、誰にも知られずに孤独死するケースが時々報道されています
カラオケは独りで歌っていても会話と同じ効果が期待できます。自分が歌う(⇔話す)、自分の唄を聴く(⇔話を聴く)という行為は、正に脳細胞の機能から考えると、人とコミュニケーションを取っていることとあまり変わらないのではないでしょうか。勿論、冒頭の写真の様に仲間と一緒にカラオケをすればもっと効果が大きいことは確かです

2.カラオケで若々しい情操を維持、開発?する
カラオケには色々な歌が収められています。それぞれの歌を歌うことによって、歌の世界の中に自分を没入させていくことができます
① 歌いながら泣く;
歌詞の世界に入り込むと自然に涙が出てくる歌があります。私の場合、前節でも述べた様に「とんがり帽子」、「ミカンの花咲く丘」、「長崎の鐘」などは戦争の惨禍を想い必ず泣いてしまいます。また、子供に先立たれた親の悲しみが直に心を揺さぶる「七里ガ浜の哀歌」も途中から号泣してしまいます。勿論、みっともないので独りカラオケの時のみ歌います

② 歌いながら幼い頃の美しい心に帰る;
主に童謡や唱歌を歌っている時は童心に帰ることができます。私が好きな歌は、「美しき天然」、「里の秋」、「冬の星座」、「早春賦」、「冬景色」、などなど数限りなくあります
③ 歌いながら妄想に耽る;
純愛、悲恋、未練、など男女の恋愛に絡む歌はどうしても妄想に耽りながら歌うことになります。私がカラオケをご一緒している方々もこの種の歌が好きなようです。私が好きな歌は、「哀愁列車」、「悲しみ本線日本海」、「雨」、「夢の途中」、「愛人」、「昔の名前で出ています」、「みちずれ」、「恋歌綴り」、「エメラルドの伝説」、「リバーサイドホテル」、など沢山持ち歌がありますが、最近覚えた「抱擁」は若干いかがわしさが漂い、酔うとつい歌ってしまいます

④ 歌手の心情に心を寄せる;
ニューミュージック系の歌手の歌にも、屈折した複雑な心情が読み取れて好きな歌が沢山あります。「また君に恋してる」、「檸檬」、「無縁坂」、「悪女」、「竹とんぼ」、「何も言えなくて・・・夏」、「百万本のバラ」、中でもNHK朝ドラのテーマ曲になった「花束を君に」は、宇多田ヒカルが自殺した母(歌手の藤圭子)を偲び、何もできなかった自分を嘆く心情がヒシヒシと伝わってきます

絶唱して心の憂さを晴らす;
声を潰さない程度のできるだけ大きな声で歌うと憂さが晴れる歌は、当然のことながら絶唱型の歌手の歌った歌が対象になります。例えば私の場合、「五月のバラ」、「乾杯」、「Diamonds」、「涙をふいて」、「座・ロンリーハーツ親爺バンド」、「好きになった人」、「加賀の女」などが気持ちよく歌えます
⑥ 感動した映画やテレビドラマの挿入歌を歌ってストーリーや好きな俳優を思い出す;
映画が大好きで洋画を中心に若い頃よく見ましたが、自分で歌える歌はそれほど多くはありません。自分のカラオケのレパートリーに入れている易しい歌は、「Red River Valley」、「My Rifle、My Pony and Me」、「High Noon」、「ゴッドファーザー愛のテーマ」、「ロシアより愛をこめて」、など。日本のドラマでは「はぐれ刑事純情派」の挿入歌「かくれんぼ」が好きです。日本映画では、渡部恒彦と夏目雅子主演の映画「時代屋の女房」のバックに流れる「Again」が大好きです。主演の二人が亡くなってしまったこともあり、時々思い出しながらしみじみと歌っています

カラオケの裏にある文化

カラオケで歌われている歌は、宗教音楽やオペラのアリア、クラッシックの歌曲の様な難しい歌ではないために、軽く扱われがちですが、それぞれの民族が持っている文化が背景にあります。もう少し誇りをもって?歌うために少し調べてみました

1.カラオケの歌詞に隠された文化;
カラオケの歌詞の特徴を語る前に、幾つかの基礎知識をレビューしておきたいと思いますす。まず、
音節
発音の中心になる要素を一つの単位としたものです。「母音」あるいは「子音+母音」、「子音+母音+子音」といった組み合わせがあります。「っ」「ん」「-」はその前に来る文字とセットで現れるものなので、音節分けの際には独立して1音節となることはありません。因みに、「すっぱい」は、「すっ」「ぱ」「い」が正しい分け方であり、3音節の単語ということになります
詩の形式
① 定型詩とは:一定のリズムで改行する詩
② 自由詩とは:作者の気分で改行し、決まったリズムが無い詩
③ 散文詩とは:詩なのに改行しない

カラオケで歌われる歌の歌詞を分析すると、一般に、古い歌、童謡、唱歌、演歌、歌謡曲、などは定型詩が非常に多いことが分かります。一方、最近の歌唱力のある歌手が歌うポピュラーなどのジャンルの曲は自由詩が多いように思います。歌は一般に1番~X番まで繰り返すことが多いので、散文詩は多くないと思いますが、今流行りのヒップホップというリズムで歌うラップというジャンルは散文詩と言えるかもしれません。ただ、ラップは米国から輸入されたものだからでしょうか「韻を踏む」要素はある程度重視されるそうです(⇔かっこよく聞こえる or 訴求力がある

定型詩は古い時代から世界の各地に存在し、「韻を踏む」ことを一つのルールにして詩に一定のリズムを与えることが行われていました
A. 漢詩について;
私が台湾に駐在していた時、現地採用の台湾人の社員は、我々が高校時代にほんのちょっと学んだ漢詩を、実に美しく朗読するのに吃驚しました。これは漢詩のルールである規則的に韻を踏むことによってまるで歌うよう聞こえるせいだと思われます。例えば、杜甫の有名な五言律詩;
國破山河在 城春草木(sh-in)
感時花濺涙 恨別鳥驚(sh-in)
烽火連三月 家書抵萬(k-in)
白頭掻更短 渾欲不勝(sh-in)
この詩の場合、2句目、4句目、6句目、8句目で韻を踏んでいます。もともと、詩と歌とは不可分の関係にあったことが背景にあるのでは、と想像しています

B. 英詩について;
詳しい知識はありませんが、私が好きで、時々カラオケで歌っている「青春の光と影」の挿入歌「Both Sides Now」でも、韻を踏んでいる部分はとにかく心地よいのですぐに気が付きます
Rows and flows of angel hair
And ice cream castles in the air
And feather canyons everywhere
I’ve looked at clouds that way
But now they only block the sun
They rain and snow on everyone
So many things I would have done
But clouds got in my way
I’ve looked at clouds from both sides now
From up and down and still somehow
It’s cloud’s illusions I recall
I really don’t know clouds at all

日本の定型詩では万葉集の昔から「短歌」の形式として、5つの音節と7つの音節の組み合わせが使われています。これが平安時代末期の後白河上皇が愛した「今様」に引き継がれ、更に江戸時代の「連歌」、「俳句」に繋がっています。こうした伝統を踏まえたと思いますが、上田敏はカール・ブッセの詩を翻訳するにあたって以下の様に7・5調(7音節+5音節)を使っています(上田敏訳詩集「海潮音」から);
やまのあなたの 空遠く
幸い住むと 人の言ふ
ああ、われひとと尋めゆきて
涙さしぐみ かえりきぬ
やまのあなたの なお遠く
幸い住むと 人の言ふ
大変覚えやすく、リズムがいいと感じると思います

こうした観点から私の好きな歌を調べてみたところ、古い歌の多くは、7・5調、7・7調、5・7調の歌詞が非常に多いことが分かりました
完全な7・5調の歌詞:「緑の地平線」、「女心の唄」、「みちずれ」、「君は心の妻だから」、「美しき天然」、「椰子の実」、「夏の思い出」、「とんがり帽子」、「花」、「宵待ち草」、「もみじ」、「ミカンの花咲く丘」、「惜別の唄」、「人を恋うる歌」、「古城」、「武田節」、「あゝ新選組」、その他
完全な7・7調の歌詞:「異国の丘」、「ラバウル小唄」、「戦友」、「同期の桜」、「兄弟仁義」、「唐獅子牡丹」、「夜霧に第二国道」、
完全な5・7調の歌詞:「麦と兵隊」、「舟歌」、「潮来笠」、

ポピュラー音楽の分野では、上記とは別の規則的な音節数で繰り返し改行するタイプの歌詞と、全く規則的な繰り返しの無い自由詩のタイプが多いことが分かりました。老人にとって定型詩は比較的歌いやすいのですが、自由詩はやや歌うのが難しいのが本音だと思います。ただ自由詩でも歌詞が素晴らしいものはチャレンジしている人が多いと思います

2.カラオケのメロディーに隠された文化;
現在、我々が学校で学ぶ音階は、中世の西洋で発明?された、“ド”から1オクターブ上の“ド”まで12個の半音で区切る「12音階」と言われるものです。現在ピアノなど普通に使われる楽器は、この12音階が表現できるようになっています
しかし、日本でいえば沖縄の音楽がちょっと違うなと感じるのは、沖縄の伝統的な音楽が「ド、ミ、ファ、ソ、シ」の五つの音階のみが使われているためだと言うことです。また、スコットランド民謡は「ド、レ、ミ、ソ、ラ」の五つの音階で出来ているそうです。これらはペンタトニック・スケール(ペンタは5を意味します)と総称するそうです
この他に、日本の古い音楽には、「ラ、シ、ド、ミ、ファ」のマイナー・ペンタトニック・スケールが使われているそうです

こうした知識を豊富に持っている息子に、私の好きな歌の傾向を判定して貰ったところ、スコットランド民謡のマイナー版となる「ラ、ド、レ、ミ、ソ」というマイナー・ペンタトニック・スケールの歌が多いそうです。考えてみれば、私の好きな小学校唱歌は、明治期にスコットランド民謡や、アイルランド民謡から採ったものが多く腑に落ちる感じがします。尚、息子の話では、北アフリカや東アフリカの民族の伝統的な音楽もマイナー・ペンタトニック・スケールなのだそうです
スコットランド、アイルランド、ウェールズは英国と言ってもイングランド(ゲルマン系アングロサクソン人)に征服された国です。原住民はケルト人なので、日本人の音楽に対する感性は北アフリカ・東アフリカの民族、ケルト民族に近いのかもしれません。老人はこうした逸話が大好きです!

おまけ:自宅における一人カラオケセットの構築

カラオケボックスに通うだけではマスターできない難しい歌を練習する為と、ちょっとした時間を見つけてカラオケを楽しむために、以下の様なセットを準備し、主として YouTube で流布しているカラオケを見つけ出して歌っています。ただ、著作権の問題があるので、比較的新しい人気ミュージシャンのカラオケ版は、誰かが見つけ次第消去している様で、発見してもすぐに消えてしまいます。しかし、我々老人の好きな歌は90%以上がネットで発見できるはずです

YouTube-画面
YouTube-画面

YouTubeで発見して繰り返し歌いたい場合は、ご自身の使っているサイト閲覧ソフトの「ブックマーク」に登録しておけば、いつでも呼び出せます。またブックマークに登録した歌が多くなったら、上の写真の右側に表示されているようにフォルダーでブックマークした歌を整理しておけば便利です

カラオケ用4点セット
カラオケ用4点セット

YouTubeを閲覧するにはパソコンは必須です。それ以外は中古品を利用すれば数千円で調達可能です
パソコン以外の必要な機器類は;
① アンプ:持っている人が多いと思いますが、無くても中古屋ではピンキリですが、安いもので十分なので数千円で買えます
② ヘッドホン:同居している人、隣近所に迷惑を掛けないために必須アイテムです。中古品が非常に安く出回っています(高級品は不要)。アンプの“ヘッドホン出力”端子につなぐ
③ ラインミキサー必須アイテムです。これも中古品が非常に安く出回っています(高級品は不要)。“入力”端子にマイクとパソコンの音声出力を繋ぎ、“出力”端子をアンプの“AUX”端子に繋ぎます
④ カラオケ用エコー付きマイク(電池式):必須アイテム。これも中古品が非常に安く出回っています(高級品は不要)

存分にお楽しみください!

おわりに

全く音楽の才能に恵まれなかった私がこのブログを書くに当って、様々な疑問が発生しました。相談する相手は私の子供3人です。この子たちには、不思議なことに多少神の恵みがあったようで、長い間培った音楽の知識を披露してくれました。この子供達への感謝の気持ちを込めて3人の音楽の経歴と宣伝を少しさせて頂きます

長女については高校終了まで、とある合唱の団体に所属し、海外公演なども行っていました。現在ワイフが北欧の国々に人脈を持ち、エストニア関連の仕事(無給!)ができているのもそのお陰といえます。社会人になってからゴスペルの団体に所属して頑張っていましたが、子供ができてからちょっとお休みをしているようです
長男は、高校時代に相当ギターの練習をしていたようで、今でも長男が使っていた部屋には沢山の音楽関係の本と、ギターなどの楽器が何台も置いてあります。最近、映像関連の忙しい仕事の傍ら、自身が作詞・作曲・演奏(シンセサイザー)した曲「Kentaro Arai 1441」をリリースしました。このアルバムの中で、私が一番気に入っているのは「マグカップ」です

次男も高校時代に自宅のピアノで独学をしていた様で、私が海外駐在から帰任した時に、突如二階から「幻想即興曲」が流れてきた時は本当に吃驚しました。現在はIT関連事業を興して忙しい仕事をする傍ら、依頼があると作曲なども行っている様です。また土日には複数のバンド仲間と活動を行っています。昨年、神谷町の光明寺で、自身が中心のバンド(Saara Band)がいけばな作家の今井蒼泉氏と、ジョイントでライブ演奏を行ったものを YouTube にアップロードしてありますのでご興味のある方はご覧になってください。ただ非常に長い(40分以上)演奏です:「Saara Band × Sosen Imai live performance at Komyoji Temple

以上

乗員計画(パイロット、CA/客室乗務員)

はじめに

乗員計画とは、エアラインの事業計画の根幹をなす路線便数計画(どの路線に、どの型式の航空機を、どれだけの便数を飛ばすか、という計画)に基づき、パイロットや CA(Cabin Attendant/客室乗務員)の必要数を計算し、それを満たす人数を用意する計画ということができます

乗員計画は、経営側の立場に立てば、エアラインの貴重な人的資源であるパイロットや CA を、規制が要求する各種の制限事項を守りつつ、最も効率よく運航路線に配置することと言うことができます。一方、パイロットや CA の側の立場に立てば、自身の労働条件(労働時間、賃金等の収入、その他)の基本になる計画であるということもできます。また視点を変えて、乗員計画がパイロットや CA の労働密度に直接関係することから、それがひいては安全運航」にも関連することとも考えられ、経営者、パイロット、飛行機を利用されるお客様全てにとっても適切な計画を求められているという、エアラインビジネスにとって極めて重要な計画であると言えます

乗務割

乗務割については、前回発行のブログ「パイロットの養成」の中で、エアラインに乗務割の基準を定めることを法律で義務付けている(航空法第68条、及び航空法施行規則第214条)と書きました。実は、乗員計画の基礎となるルールの大切な部分は全てこの乗務割」の基準に含まれています。このルールは一般の人にはやや難解であると思われますので、以下にできるだけ分かり易くその説明を行いたいと思います

1.定義:勤務時間、乗務時間、他
パイロットや CA の業務は、一般の労働者と違って特殊な労働環境で働くため、以下の様な厳密な区分とその定義が定められています(以下、見出しの写真を見ながら読んでください);
① 勤務時間とは:乗務の為に出勤して業務が始まる時刻(例えばフライト前のブリーフィングが始まる時刻)から、業務が終了する時刻(例えばフライト後のデブリーフィングが終了する時刻)までの時間
② 乗務時間とは:ブロックアウト時刻(航空機がスポットを出る時刻/タイムテーブル上の出発時刻)からブロックイン時刻(航空機がスポットで停止する時刻/タイムテーブル上の到着時刻)までの時間
 就業時間:会社業務に従事する時間。上記の勤務時間には不測の事態に備えるため自宅で待機(スタンバイ)し、乗務に備える時間が含まれていません
④ 休養時間:全ての会社業務から開放される時間
⑤ 休養施設:自宅、ホテル、等
⑥ 仮眠設備乗務中交替で仰臥して休息が取れる設備(Crew Bunk、客室内の仕切られた客席、など)

B787_Crew Bunk(左:パイロット用;右:CA用)
B787_Crew Bunk(左:パイロット用;右:CA用)

⑦ 地上輸送時間:空港と予め指定された休養施設との間の輸送時間(実際にかかる時間でなく、別に定める時間)で、勤務時間、休養時間には含めない

2、パイロットの編成数と乗務割
大型旅客機に乗り組む乗務員は、長い間パイロット二人(機長と副操縦士)に加え、航空機関士(Flight Engineer)が乗り組んでいました。航空機関士は、エンジン状態の監視やその調整を行うこと、及び搭載している燃料のマネージメント(航空機の燃料は幾つかの燃料タンクに分けて搭載されており、これを原則として内側のタンクから消費していく必要があります)を行うことが主たる任務になっていました。ところが、1989年になって操縦室が大幅に近代化された(Glass Cockpit/操縦室内の計器が液晶画面に統一されたためにこの様に名付けられました)B747-400が登場し、航空機関士が行っていた任務の大半を二人のパイロットに分散させることが出来るようになりました。これ以降開発された大型旅客機はほぼ全てこの Glass Cockpit が装備されており、原則として二人のパイロットだけで運航が行われています。勿論、B747-400以前に開発されている旅客機も未だに運航されており、これらの航空機を区別する為に航空機関士が乗り組む必要のある航空機を「3MAN機」、航空機関士が乗り組む必要のない航空機を「2MAN機」と呼んでいます
① シングル編成;2MAN機/機長1名+副操縦士1名;3MAN機/機長1名+副操縦士1名+航空機関士1名

航空機の性能が向上するとともに、お客様にとっての利便性向上の観点から長距離路線においても中継地を経由しない直行路線が増えてきました。こうした長距離路線における長時間の勤務に対応する為に、乗務中の適切な休息が可能となるように以下の編成が設定されています
② マルチ編成:2MAN機/シングル編成+機長(又は副操縦士)1名;3MAN機/シングル編成+機長(又は副操縦士)1名+航空機関士1名
③ ダブル編成:2MAN機/シングル編成の倍;3MAN機/シングル編成の倍

<パイロットの乗務割基準
運航規程審査要領、および同細則に定められている具体的な審査基準は以下の通りです。各エアラインは運航規程に以下を下回る基準を設定することはできません
国内運航
① 連続する24時間の乗務時間が8時間を超えないこと。また乗務時間が8時間を越えた場合は、勤務終了後、乗務時間を勘案した適切な休養を与えること
1暦月100時間を超えないこと
3暦月270時間を超えないこと
1暦年1000時間を越えないこと
⑤ 連続する7日間のうち1暦日以上の休養を与えること

国際運航(国内運航と違って路線によっては時差があります)
編成により乗務時間の制限が異なります
 シングル編成:連続する24時間の乗務時間が12時間以下
㋺ マルチ編成:連続する24時間の乗務時間が12時間を超える場合。この場合、航空機内に適切な仮眠設備を設けること
㋩ ダブル編成基準はなく航空会社に任されている
乗務時間が上記制限時間を越えた場合は、勤務終了後、乗務時間を勘案した適切な休養を与えること
上記以外の乗務時間の制限は国内線の②~⑤と同じです

米国においても日本と同様の基準があります。詳しく知りたい方はをパイロットの務割に関わる米国の基準をご覧になってみて下さい。日本の基準に比べると詳細、且つ複雑な基準になっていますが、これは航空輸送に係る長い歴史及び ALPAと呼ばれる交渉力の強い産別組合の存在の故であると考えられます

3.CA の編成数と乗務割
CA の一番大切な任務は、非常時に於いてお客様を機外に安全に脱出させることです。これを受けて運航規程審査要領には、CA の編成数について以下のルールが定められています;
① 非常時の指揮統括者として「専任客室乗務員」の配置が必要
② 非常脱出時の誘導の為に必要とされる最低編成数は、旅客50名に対して1名以上の配置が必要

CAには、お客様に対する飲食のサービスを提供する任務もあります。サービスの程度によりますが;
③ 一般に短距離路線では上記①、②で決まる編成とし、長距離路線では、飲食のサービスの内容、回数、飛行途中での休憩の必要性、などを勘案して編成人数を増やします

CAの乗務割
運航規程審査要領には、CAの乗務割について以下が定められています;
乗務時間1暦月100時間を超えて予定しないこと(3歴月、1年の別の制限は無い)
休養時間連続する7日間のうち1暦日(外国においては連続する24時間)以上の休養を与えること

4.勤務協定
パイロットや CA は当然のことながら労働者であり、労働基準法で保障された以下の権利があります(詳しくは労働基準法の関連する条文を参照してください);
団結権の補償 ⇒ パイロットもCAも組合を作って労働条件について会社側と交渉する権利とストライキを行う権利が保障されています
労働条件の基準 ⇒ 労働時間(1日時間以内)、休日(1週間に1日以上)、時間外手当の支給、など

一方、パイロットや CA は、上述の通り、航空法により乗務時間の制限、休養時間の確保などが義務付けられています。従って、基本的には両方の基準を満たすように乗務割の基準を定め乗務計画を行うことになります
一般に LCC や立ち上げたばかりのエアラインは労働基準法と航空法の基準に近い厳しい乗務割で乗員計画を行いますが、歴史のある大手のエアラインは労使交渉の結果、これよりやや緩い乗務割基準で乗員計画を立てているのが実情であると考えられます
参考:勤務協定の例

乗員計画シミュレーション_前提条件

乗員計画がどの様に立てられているかを理解していただくために、パイロットと CA の乗員計画シミュレーションを行ってみたいと思います

シミュレーション行う際の順序としては、路線便数計画を決める乗務割基準を決める③便ごとに必要となる編成数から、その路線で必要となる乗員の組数を乗務割基準(勤務基準)を基に計算する、④路線毎に必要となる組数から余裕(パイロットの場合は機種別になります)があれば計算しておく、⑤技量審査(パイロットの6Month Check Flight、など)、非常救難訓練健康診断、などの実行可能性を確認する

1.国内線路線便数計画
JXエア(仮称)の国内線路線便数計画に基づく発着ダイヤを以下と致します(実はシミュレーションを行うために、大分前の、とある航空会社の発着時刻表を拝借しました)。尚、機種はB737-800とします;

JXエアの国内線ダイア
JXエアの国内線ダイヤ

上記の発着時刻表で空港名がアルファベット3文字で書かれていますが、具体的な空港名は空港コードをご覧になってください

この発着ダイアは、実は航空機の運用を行っているプロが以下の様なダイアグラムで検証した上で作成されることは、私のブログ航空機の運用をご覧になればお判りになることと思いますが、ここでは逆に発着時刻表から以下のダイヤグラムを作成してみました;

JXエアのダイアグラム
JXエアのダイアグラム

ここでパイロット、CA は羽田を基地として乗務し、交代は羽田で行うことを原則とすれば、航空機が羽田に帰って来るタイミングが分かるパターンが乗務計画を検討するのに便利なことがご理解いただけると思います

上記ダイヤグラムを、それぞれの路線を運航する航空機のパターンとして書き換えます(イメージとしては、私のブログ航空機の運用の列車番号でパターンを引き直すということと同じです)。例えば、上記のダイヤグラムを標準作業工程(DGT:航空機の運用を参照してください)を35分として、各空港に到着する便をDGTを守った上で最短時間で出発便に繋げると(下図参照:赤字で1機分のみ表示);

航空機の当て嵌め
航空機の当て嵌め

この作業を全てのダイヤグラムについて実施すると、この路線便数計画を実行するのに必要な全ての航空機のパターンが作成できます(下表参照)。下の航空機のパターンを見ると、この路線便数計画を運航するには19機必要となることも分かります。因みにこの図の最下段にある20機目は予備機として考えています。尚、予備機は乗員計画には関係ありませんが、その必要性について知りたい方は、私のブログ航空機の運用の整備関連の部分ををご覧になってください;

JXエアの航空機のパターン
JXエア国内線の航空機パターン

この機材パターンを使用して国内線のパイロット、CA の乗務計画を行うこととします

2.国際線路線便数計画
国際線路線便数計画に基づく発着時刻表(ブロックタイム、時差を含む)を以下とします(とある航空会社の発着時刻表から一部路線を拝借しました!);

JXエアの国際線ダイヤ
JXエアの国際線ダイヤ

路線に書かれているアルファベットの都市コードは;
TYO/東京、NYC/ニューヨーク、LAX/ロサンゼルス、HNL/ホノルル、BKK/バンコック、DLC/大連、SEL/ソウル
機種コードは以下の通りです;
773/B777-300;767/B767-300ER;772/B777-200、尚、B777-300と同-200とはパイロットの機種限定は同じです
UTCとは:協定世界時(Coordinated Universal Time)のことで、時差によらない時刻表示になるので、時差のある場所を行き来する国際線のブロックタイムなどを計算するときに便利です

これを、国内線の様に機材のパターンで表示すると;

JXエア国際線の航空機のパターン
JXエア国際線の航空機パターン

3.乗務割基準
JXエアの乗務割基準を以下の通りとします;
A. 乗務時間制限
①1暦月100時間を超えないこと
② 3暦月270時間を超えないこと(CAにはこの制限はありません)
③ 1暦年1000時間を越えないこと(CAにはこの制限はありません)
B. 編成による乗務時間の制限
シングル編成:連続する24時間の乗務時間が12時間を超えないこと。但し、国内線では原則1日に8時間を越えないこと
マルチ編成:連続する24時間の乗務時間が12時間を超える場合。この場合、航空機内に適切な仮眠設備を設けること
③ ダブル編成:基準を設けない

C. 休養時間の原則
連続の勤務の前の休養時間は、前の乗務時間により以下を予定する;
① 8時間以下の場合:6時間以上の休養
② 8時間を越え12時間以内の場合:12時間以上の休養
③ 12時間を越える場合:24時間以上の休養
D. 着陸回数の制限一連続の勤務で8回以内
E. 勤務時間の制限月間平均して週40時間を越えないこと

F_1. 勤務時間の開始
① 国内線:ブロックアウト時刻の1時間前
② 国際線:ブロックアウト時刻の1時間30分前
F_2. 勤務時間の終了時刻
① 国内線:ブロックイン時刻の1時間後
② 国際線:ブロックイン時刻の2時間後

G. 地上輸送時間の原則
① 勤務開始・終了の前後30分
② 地上輸送時間:空港と予め指定された休養施設との間の輸送時間(実輸送時間でなく、別に定める時間)で、勤務時間、休養時間には含めない

H. 所定の休日(常日勤者の土曜日、日曜日、祝日に相当します)
① 1週間に1日以上
② 1暦月8日以上
③ 1暦年119日以上
I. 有給休暇
① 年次有給休暇:20日
② 夏休:3日
③ 特別休暇:年間平均1日程度を想定

乗員計画シミュレーション_必要人員の計算

1.乗務員が乗務する路線毎に1組当たりの平均乗務時間、勤務時間を計算する

A.国内線の場合;
国内線の航空機パターン(下図)の右端にあるデータの意味は;
CNX:Connectionの略で、羽田空港以外の空港に到着し、翌日出発する場合の航空機の番号(左端の数字)を表しています
BT:Block Timeの略で、その航空機の一日の乗務時間の合計に相当します
FC:Flight Cicleの略で、その航空機の一日発着回数
まず、乗務時間の制限を勘案して航空機のパターンに、乗務員の交替する所に「」を入れてみると;

JXエアの航空機のパターン_乗員交代のタイミング入り
JXエアの航空機のパターン_乗員交代のタイミング()入り

上表で「」が入った航空機パターンのでは、その路線を別の乗員グループが乗務することを意味します。勿論一日のブロックタイム合計の時間(乗務時間)が短い場合(例えば9番の機材)は「」がありません。これは合計した乗務時間が乗務時間制限を超えないので一組の乗員グループで乗務を完結できるからです。こうして一日に全便を運航するのに必要となる乗員グループを表にまとめると(縦軸は航空機の番号と同じ);

乗務パターン毎の乗務時間・勤務時間_JXエアの航空機のパターン
乗務パターン毎の乗務時間勤務時間_JXエアの航空機のパターン

上表の左側の表の黄色で塗りつぶした部分が、一日で乗務しなければならない乗務の組の名称を表します。この国内線では、A~JJまでの36組が必要になることが分かります。尚、乗務員はいつも同じ乗務パターンを勤務するのではなく、月間、年間の乗務時間や勤務時間が均等となるよう最適な組合せを考えることになりますので、必要な組数を計算するときは平均値が重要な指標になります
上表の右側には乗務時間と勤務時間の合計欄が黄色で塗りつぶしてありますのでこれらの数値から以下の様に平均値を計算します;
合計値から全乗務時間は:104.3時間+75.8時間 =180.1時間/1日
これを一組当たりの平均では:108.1時間  ÷ 36組 = 5.0 時間/1組 
また、同様に全勤務時間は:189.3時間+127.9時間 = 317.3時間/1日
これを一組当たりの平均では 317.3時間  ÷ 36組 = 8.8時間/1組
ということになります

因みに、パイロット、CA の国内線36組の乗務パターンは下表の様になります(表の右側の欄には、基地である羽田空港以外の空港で1日の乗務が終わった場合、翌日はその空港からの乗務を行うこととなり、乗務を通じて基地に戻るまでの乗務パターンの繋がりが分かるようにしてあります);

パイロット、CAの国内線乗務パターン
パイロット、CAの国内線乗務パターン

B.国際線の場合
国際線の乗務パターンは発着時刻表を使って計画します。国際線の場合は乗務時間、勤務時間、休養時間、乗務編成、などのルールが複雑なので、分かり易い路線から説明致します。尚、1往復の乗務が完結する(次の往路便に乗務できる状態)までに要する日数を「x日パターン」と表記しています;
① 東京=ソウル線;

東京=ソウル線の基本乗務パターン
東京=ソウル線の基本乗務パターン

*1往復の乗務時間:4時間55分 ⇒ 4.9時間
* 乗務時間から ⇒ パイロットはシングル編成
*1往復の勤務時間:9時間25分 ⇒ 9.4時間
* 復路到着日から6時間以上の休養時間を取っても翌日から乗務が可能となるので ⇒ 1日パターン

② 東京=大連線;

東京=大連線の基本乗務パターン
東京=大連線の基本乗務パターン

*1往復の乗務時間:6時間10分 ⇒ 6.2時間
* 片道の乗務時間から ⇒ パイロットはシングル編成
*1往復の勤務時間:10時間50分 ⇒ 10.8時間
* 復路到着日から6時間以上の休養時間を取っても翌日から乗務が可能となるので ⇒ 日パターン

③ 東京=バンコック線;

東京=バンコック線の基本乗務パターン
東京=バンコック線の基本乗務パターン

*1往復の乗務時間:12時間50分 ⇒ 12.8時間
* 片道の乗務時間から ⇒ パイロットはシングル編成
*1往復の勤務時間:19時間50分 ⇒ 19.8時間 
* 復路到着日から12時間以上の休養時間を取っても3日目から乗務が可能となるので ⇒ 日パターン

④ 東京=ホノルル線;

東京=ホノルル線の基本乗務パターン
東京=ホノルル線の基本乗務パターン

*1往復の乗務時間:15時間55分 ⇒ 15.9時間
* 片道の乗務時間から ⇒ パイロットはマルチ編成 
*1往復の勤務時間:22時間55分 ⇒ 22.9時間 
* 復路到着日から12時間以上の休養時間を取っても4日目から乗務が可能となるので ⇒ 日パターン

⑤ 東京=ロサンゼルス線;

東京=ロサンゼルス線の基本乗務パターン
東京=ロサンゼルス線の基本乗務パターン

*1往復の乗務時間:21時間20分 ⇒ 21.3時間 
* 片道の乗務時間から ⇒ パイロットはシングル編成
*1往復の勤務時間:28時間20分 ⇒ 28.3時間 
* 復路到着日から12時間以上の休養時間を取っても4日目から乗務が可能となるので ⇒ 3日パターン

⑥ 東京=ニューヨーク線;

東京=ニューヨーク線の基本乗務パターン
東京=ニューヨーク線の基本乗務パターン

*1往復の乗務時間:27時間05分 ⇒ 27.1時間 
* 片道の乗務時間から ⇒ パイロットはシングル編成
*1往復の勤務時間:34時間05分 ⇒ 34.1時間 
* 復路到着日から24時間以上以上の休養時間が確保出来るので1往復で5日間がが必要 ⇒ 5日パターン

これらのパターンは分かり難いようですが、よく見るとパイロットの編成の種類は片道の乗務時間(ブロックタイム)が12時間を超えるか否かで決まり、休養時間(上表の“REST”)は乗務時間によって時間が変わります。また、往路到着した海外の空港から適切な休養を経て復路の乗務を行うこと、基地である東京に戻った後、適切な休養時間を取った上で次の便に乗務できる時刻が表示されていることが読み取れると思います

2.必要人員の計算
計算する際に必要となるルールを整理すると以下の様になります。尚、ここでパイロットや CA の生活が実感できるように月間単位のルールで統一することとします;

ルール_Ⅰ月平均日数30.4日 ⇔ 4年に一度「閏年」が有ることを勘案すると年間日数の平均は365.25日となります。これを12ヶ月で割った日数です 
ルール_Ⅱ( パイロットの月間平均乗務時間制限): 83.3時間 ⇔ 年間乗務時間制限は1000時間ですから、これを12ヶ月で割った数字です
<注> 勿論、夏季繁忙期などは月間乗務時間制限ギリギリの100時間近く乗務するのですが、これを続ければ年間1200時間となってしまうので、繁忙期以外は100時間未満で路線便数計画を立てます

ルール_Ⅲ( CAの乗務時間制限):100時間
ルール_Ⅳ月間の勤務可能な平均日数): 18.5日 ⇔ 年間平均日数から所定の休日(119日)、有給休暇(20日)、夏季休暇(3日)、特別休暇(忌引きなどの平均:1日)を控除したあと12ヶ月で割った日数

A.国内線の必要人員
<パイロットの必要人員>
上記ルールを適用すると、必要となるパイロットの組数は;

国内線のパイロットの編成と必要組数
国内線のパイロットの編成と必要組数

上表を見ると、国内線の場合ルール_Ⅱで月間の乗務回数の限界が来ることが分かります。シングル編成は機長1名と副操縦士1名なので、この路線便数計画を実行するには、機長66名、副操縦士66名のパイロットが必要となります

また、上表から、乗務しなければ勤務できる日数が年間21.6日(12ヶ月x〔D―C〕)確保できることとなり、パイロットの定期審査6Month Check Flight)、健康診断、非常救難訓練なども、追加パイロットを確保しなくてもい実施可能であることが分かります

また、この路線便数計画は19機の航空機とパイロットは66組で運営できることから、航空機1機当たり約3.5組のパイロットで運営できることになります。国内線の中期計画で路線便数が決まっていない場合でも、国内線配置機数が決まっていれば、パイロットの凡その必要数が計算できることになります

< CA の必要人員>
パイロットとの違いは乗務回数の上限が乗務時間制限でなくルール_Ⅳで決まるので必要となる CA の組数は;

国内線のCAの編成と必要組数
国内線のCAの編成と必要組数

B737-800客席数は176席、50席当たり配置するCA は4名(内1名は専任客室乗務員を配置する必要があります。従って、4名x59組=236名のCA(内59名は専任客室乗務員)を配置する必要があります

尚、国内線CAの場合、乗務回数がルール_Ⅳで決まるため、乗務以外の余裕日数は出ないので、非常救難訓練(1回/年)を行うために236人日分の非常救難訓練の為に人員引当が必要になります。これは更に2名(236人日 ÷ 18.5日x12ヶ月)の追加配置が必要になることになります

B.国際線の必要人員
<パイロットの必要人員
国内線とほぼ同じような方法で必要となるパイロットの組数を計算すると;

国際線のパイロットの編成と必要組数
国際線のパイロットの編成と必要組数

上表を見ると、国際線パイロットの場合もルール_Ⅱで月間の乗務回数の限界が来ることが分かります。この路線便数計画を実行するには、機長42名、副操縦士32名のパイロットが必要でありことが分かります

また、上表の「乗務以外の一編成当たりの月間出勤可能日」をご覧になれば、乗務員の定期審査6Month Check Flight)、健康診断、非常救難訓練なども、追加パイロットを確保しなくてもい実施可能であることが分かります

< CA の必要人員>
パイロットの違いは乗務時間制限(月間の基準があるのみ)と編成数だけで、乗務パターンはパイロットと同じなので;

国際線のCAの編成と必要組数
国際線のCAの編成と必要組数

上表を見ると、国際線 CA 場合は、路線によってルール_Ⅱで決まる場合と、ルール_Ⅳで決まる場合があることが分かります。ルール_Ⅳで決まる路線では乗務以外の勤務を行う余裕が無いことに注意する必要があります

上表における編成数の考え方は以下の通りです;
東京=ソウル線:配置機材はB767-300ERで、エグゼキュティブクラス/30席、エコノミークラス/207席、提供サービスは1.0食、免税品販売を行うという前提で編成数は7名内1名は専任客室乗務員を配置)
*東京=大連線:配置機材はB767-300ERで、エグゼキュティブクラス/30席、エコノミークラス/207席、提供サービスは1.0食、免税品販売を行うという前提で編成数は7名内1名は専任客室乗務員を配置)
東京=バンコック線:
配置機材はB777-200ERで、エグゼキュティブクラス/63席、エコノミークラス/239席、提供サービスは1.5食、免税品販売を行うという前提で編成数は10名内1名は専任客室乗務員を配置)
* 東京=ホノルル線:配置機材はB767-300ERで、エグゼキュティブクラス/30席、エコノミー・クラス/207席、提供サービスは1.5食、免税品販売を行うという前提で編成数は8名内1名は専任客室乗務員を配置)
 東京=ロサンゼルス線:配置機材はB777-300ERで、ファーストクラス/9席、エグゼキュティブ・クラス/63席、プレミアムエコノミークラス/44席、エコノミー・クラス/156席、提供サービスは1食、免税品販売を行うという前提で編成数は13名内1名は専任客室乗務員を配置)
* 東京=ニューヨーク線:配置機材はB777-300ERで、ファーストクラス/9席、エグゼキュティブ・クラス/63席、プレミアムエコノミークラス/44席、エコノミー・クラス/156席、提供サービスは2.5食、免税品販売を行うという前提で編成数は14名内1名は専任客室乗務員を配置)

従って、上表より305名(内27名は専任客客室乗務員)のCAの配置が必要となります

また、上表の「乗務以外の一編成当たりの月間出勤可能日」をご覧になると、東京=大連線で、一編成当たり月間2.1日東京=バンコック線ロで、同1.3日東京=サンゼルス線で、同1.4日の出勤可能日数がることが分かります。これらの路線の配置人員、及び12ヶ月をかけ合わせれば;
(13人x2.1+39人X1.3人+84人X1.4人)x12ヶ月
2,347人・日
の出勤が可能であり、これは305名の CA が、健康診断、及び非常救難訓練をそれぞれ年間一回、追加人員の配置なしに実施可能であることが分かります

C.その他の必要人員
A 及び B で計算した必要人員は、路線運営で直接必要とされる人員数と、法律で実施が義務付けられている定期審査、健康診断、非常救難訓練の実施ができる人員だけです
しかし、長期、安定的、且つ成長を見込んで路線運営を行うには、以下の様な増員要素を見込んで計画を立てなければなりません;
① 追加的な技術教育
② 機種更新に伴う限定変更の訓練
③ 機長昇格訓練
④ 定年退職、死亡退職、等に伴う欠員引き当て
⑤ 臨時便、チャーター便に対する引き当て
⑦ エアラインによっては、組織運営を円滑に行うための管理を担当するパイロットを置くケースもあります。こうしたパイロットは乗務時間をある程度犠牲にして地上勤務を行う必要が発生しますので、その為の引き当て要員が必要になります

以上

パイロットの養成

はじめに

航空機以外の船舶、鉄道、自動車などの公共交通機関では、危険な状態に陥った時、船長や運転手は停止することに全力を傾ければいいという意味で、そのミッションは比較的シンプルです。一方、航空機の場合は、飛行中に危険が迫ってきても着陸するまでは飛行を停止させるわけにはいきません。正常な飛行ができない状態の航空機を、安全に着陸させなければならないという極めて難しいミッションが課せられていることから、パイロットの技量を維持・向上させ、適正な労働環境を整えることがエアラインビジネスの最重要の経営課題であることはお判りいただけると思います
以下に、これらの具体的な内容についてできるだけ分かり易い説明をしていきたいと思います

パイロットに起因する深刻な事故

100年以上にわたる航空機の歴史の中で、パイロットの技能や労働環境に起因する数多くの事故を経験し、パイロットのミスを防ぐための操縦室の設計やパイロットの訓練に係る規制が強化(詳しくは8_Humanwareに係る信頼性管理を参照してください)されてきましたが、未だにパイロットに起因する深刻な事故をゼロにすることが出来ていません。因みに、21世紀に入ってからも、パイロットに起因する深刻な事故が起きていますので、以下にご紹介いたします;

1.2001年11月12日、 アメリカン航空のエアバス社製の A300B-600は、ニューヨーク州・ケネディー空港離陸直後、近郊の住宅地に墜落・炎上し、乗員・乗客260人全員が死亡、更に地上で巻き添えとなった5人も死亡しました

2001年AA・A300事故
2001年AA・A300事故

事故原因:離陸直後、前方を飛行するボーイング747の後方乱気流に遭遇した。この時操縦していた副操縦士が不必要且つ過度な方向舵操作を行ったため、方向舵に設計荷重を超える空気力がかかり、尾翼が分離脱落し操縦不能となって墜落

2.2006年年8月27日、米国のコムエアー( COMAIR/デルタ航空のローカル線を運航)のボンバルディア社製の CRJ-100は、ケンタッキー州・ブルーグラス空港から離陸滑走を開始したものの、離陸する前に滑走路の終端に至り大破しました。乗員・乗客50人中、49人が死亡しました

コムエアー・CRJ100の事故
コムエアー・CRJ100の事故

事故原因機長と副操縦士が、離陸操作と関係のない会話を交わしていた為、進入する滑走路を間違えて短い滑走路に進入し離陸できずに滑走路の先に突っ込んでしまった

3.2009年6月1日、エールフランスのエアバス社製 A330ー200は、リオデジャネイロ空港離陸後、4時間後に最後の交信を行ったあと消息を絶ちました。翌日大西洋上で残骸の浮遊物を発見し墜落が確認されました。乗員・乗客228人は全員死亡したもの思われます。その後、事故調査の為に墜落したと思われる場所周辺の広大な海域の海底探索を行っていましたが、2011年になって4000メートルの海底にあったフライトレコーダー、コックピット・ボイスレコーダーが回収されました

AF・A330墜落事故
AF・A330型機の墜落事故

事故原因:回収されたフライトレコーダーの解析から、事故は以下の様なシーケンスで起こったことが分かりました;
① 悪天候で飛行中に3本のピトー管(飛行中の航空機の高度、速度を検出する重要な装備品であらゆる航空機に装備されています。高空で高度、速度の情報が得られなくなると操縦が非常に難しくなります)が凍結し機能を果たさなくなった為、自動操縦が自動的にオフとなった

777型機のピトー管_装着位置と原理
777型機のピトー管_装着位置と原理

② 休憩中だった機長に替わって操縦していた副操縦士は手動で操縦を始めると同時に失速警報が鳴り始めた
失速の際は本来“機首下げ”の操作を行うべきところ、この副操縦士は、“機首上げ”の操作を行いつつエンジンの推力を上げた
機長が戻って来て「機首を上げるな」と指示したものの間に合わず完全に失速して海面に激突した

4.2013年7月6日、アシアナ航空のボーイング社製777-300型は、サンフランシスコ国際空港での着陸に失敗。乗客3名死亡 ⇒ 動画:アシアナ航空214便着陸失敗事故

事故原因:この日は天候が良く、風もほとんどありませんでした。ただ、操縦桿を握っていた副操縦士はボーイング777型機の飛行時間はまだ43時間で慣熟訓練中であり、訓練教官役となっていた機長も事故の20日前に教官としての資格を取得したばかりであり、本便が資格取得後初の訓練教官役としての搭乗でした

5.2015年2月4日、復興航空(トランスアジア航空)のATR社製ATR72-600型機は、松山空港離陸直後にエンジントラブルを起こして墜落。乗員・乗客58名中43名死亡 ⇒ 動画:中華民国・復興航空ATR72-600型機墜落

事故原因:離陸直後、第2エンジンがフレームアウト(エンジンの燃焼が停止した状態)していることを示す画面が表示されると共に、主警報装置が鳴り響いた。ところが、パイロットは第1エンジンのスロットルをアイドリング位置まで引き、更にエンジンを停止させてしまった。その後、第1エンジンを再起動したものの操縦を正常に戻せず、左翼端が高速道路の側壁に激突し墜落した

6.2015年3月24日、ジャーマンウィングス(ルフトハンザ航空のLCC子会社)/A320型、フランス南東部の山岳地帯に墜落。乗員・乗客150人全員死亡

ジャーマンウィングスA320型機墜落
ジャーマンウィングスA320型機墜落

事故原因副操縦士の自殺。事故直前、急降下前に機長が操縦室外に出て、戻ったところ、暗証番号(9.11のテロ事件以降、操縦室のドアは常時施錠され客室側から開けられない様になっている)ではドアが開かず、何度ドアを叩いてもインターフォンで呼びかけても操縦席から反応がなく、しまいにはドアを斧で破壊しようとしていた思われる痕跡があった。回収されたコックピット・ボイスレコーダーの音声記録にはドア施錠後から墜落に至るまで会話や発声が一切なかったという

<パイロットの高度な技量により着水して乗員・乗客を全員救助できた事例>
2009年1月15日、ニューヨーク・ラガーディア空港を離陸したエアバス社のA320型機は、離陸直後に大型のカナダガンの群れの遭遇し、二つのエンジンが同時にフレームアウトしてしまった。機長は冷静な判断でハドソン川に着水することを決断し、航空機は全損となったものの乗員・乗客全員(155人)が救助されました
クリント・イーストウッド監督、トム・ハンクス主演で制作された映画、「ハドソン川の奇跡」は、この事実を基につくられました。尚、こうした鳥衝突に係る種々の問題について詳しいことを知りたい方は「航空機の鳥衝突による安全性について」をご覧になってみて下さい

パイロットの養成について

多くのお客様を乗せて航空機を安全に飛行させることが出来る優秀なパイロットを養成するためには、何等かの法的な規制が必要となることは言うまでもありません。第二次大戦後、大型旅客機が登場し、国境を越えて安全な運航を保証するためのルール作りが必要となりシカゴ条約(詳しくは条約・航空協定の歴史をご覧ください)として結実しました。この中で、パイロットの資格に係る基本的なルールについては、ICAO_Annex 1_Personal Licensingの中で定められています。また、日本に於いては、航空法の中でシカゴ条約のルールが具現化されています

パイロットに安全な運航を行わしめるための航空法の仕組み;
* パイロットの操縦技能に関し国による認定を行うこと
* パイロットの健康状態に関し国による認定を行うこと
機長の役割につき国の基準を定め、エアラインに実行せしめること
* パイロットと地上の運航支援を行う人との間で適切なコミュニケーションを図ることに関し国による認定を行うこと
* パイロットが適切な労働条件のもとで働けるように国の基準を定め、エアラインに実行せしめること
の様に分類することが出来ます。以下にその具体的な内容をご紹介します。尚、下記の説明には航空法や航空施行規則(附則及び付表等を含む)を頻繁に参照していますが、条文の内容を直接ご覧になりたい場合は、必要に応じそれぞれ次のリンクをご覧になってください:(航空法)、(航空法施行規則

また、米国においても実質的に同等の認定の仕組みを持っています。詳しく米国航空法と上記日本の航空法との対応関係を知りたい方はをパイロットに関わる米国の法規制ご覧になってください。また、この資料の中に引用されている「§ xxx」は、米国航空法のセクション番号です。ここに記述されている内容を詳しくご覧になりたい方はCode of Federal Regulationを参照してください

1.パイロットの操縦技能に関する国による認定
A. 操縦技能の認定方法については、航空法第26条、28条、29条、航空法施行規則第42条、43条で以下が定められています;
① 操縦に必要な経験(年齢、資格別の必要飛行経歴
② 操縦に必要な知識レベルの認定(筆記試験の例:定期運送用操縦士の学科試験
③ 操縦技術のレベルの認定(実機、シミュレーターによる実技試験

B. 国が認定する資格の種類は航空法第24条に以下の様に区分されています;
① 自家用操縦士、② 事業用操縦士、③ 準定期運送用操縦士(注)定期運送用操縦士、⑤ 航空機関士、⑥ 他
また、上記以外に航空法第34条で以下の証明の取得を義務付けています;
① 計器飛行証明:計器飛行、計器航法による飛行(計器飛行以外の航空機の位置、及び進路の測定を計器のみによって行うこと)を行う場合に必要となります
操縦教育証明:機長がその業務を遂行しつつ、同乗するパイロットに対して資格取得訓練、限定変更訓練を行う場合に必要となります

(注)準定期運送用操縦士MPL/Multi-crew Pilot License):これまでのパイロット養成ではまず小型機を単独で操縦するための訓練期間を長く行うことになっていました。しかし、最新の大型旅客機を運航するエアラインでは、副操縦士は機長と業務を分担してミッションを行うことが求められるようになりました。2013年、こうした状況に鑑み、航空法24条が改正され標記 MPL の資格が創設されました。MPL 養成訓練では、訓練の初期段階から機長と副操縦士の二人での運航を前提として行なわれますので、従来の訓練方式に比べ訓練期間が約6カ月以上短縮され、しかもより安全な運航を行なえる優れた副操縦士を養成ができるようになりました。尚、MPLの養成は、現在JAL及びANAの航空従事者指定養成施設(後段に説明があります)にのみ認められています。詳しい内容を知りたい方は国土交通省が作成したMPL技能証明制度についてをご覧になってみて下さい

LAL・MPL第一期生初フライト_2017年2月27日
LAL・MPL第一期生(右席)初フライト_2017年2月27日

C. 航空機の種類、等級、型式別の資格の認定については国土交通省令で以下の様に更に細かく区分されています(資格の「限定」とは、自動車の運転免許が自動二輪、普通、大型二種、等々など種類が分かれているのと同じ様な理由です);
① プロペラ機タービン機回転翼機、他、の区分
② 航空機の使用目的による区分
 最大離陸重量による区分

D. その他;
* パイロットが航空運送事業の業務を行う場合に、最近の飛行経験夜間飛行経験などに関し最低限の基準を設けています(航空法第69条 & 国土交通省令で定められています)

2.パイロットの健康状態に関し国による認定を行うこと
パイロットが操縦を行うには航空身体検査証明を取得しなければならないことが航空法第31条、航空法施行規則第61条の二で定められています
A. 航空身体検査証明の種別
第一種定期運送用操縦士準定期運送用操縦士事業用操縦士、航空機関士、他
② 第二種:自家用航空操縦士、他
B. 国が指定した病院において定期的に健康診断を受けること
C. 航空身体検査証明の有効期間は航空法第32条、及び航空法施行規則第61条の三で、原則1年と定められています。但し、60歳以上(加齢乗員ともいいます)の定期運送用操縦士は6ヶ月に一度と定められています
上記 A~C の詳細について知りたい方は、(財)航空医学研究センターのサイト(航空身体検査証明とは)をご覧になってください

D. 健康診断においてチェックすべき項目と、合否の判定基準については、航空法施行規則第61条の二に定められています。具体的な検査項目をご覧になりたい方は、最も厳しい検査内容となっている(第一種航空身体検査証明書の検査基準)をご覧になってください。恐らく、中年以上の方は、この基準を満たす為には健康状態維持に相当努力しなければならないことがわかると思います!
また、米国の規定をご覧になりたい方は(米国の身体検査証明書の検査基準)をご覧になってみて下さい。概ね日本の航空法と考え方は同じなのですが、昨今米国において社会的な問題となっている薬物依存症に係る規定は、極めて具体的に判断基準が明示されていることが分かります

3.機長の役割につき国の基準を定め、エアラインに実行せしめること
航空運送事業の用に供する航空機を操縦するパイロットの内、安全運航に最終責任を負う機長については、航空法第72条において、その知識及び能力の審査を行うこととしています。また、航空法施行規則第163条で、その知識及び能力の具体的な基準を定めています;
機長の知識及び能力の審査
審査の対象:5.7トン以上の航空機、または9.7トン以上の回転翼機(ヘリコプターなど)を使って航空運送事業を行う機長
② 審査は口述審査(所謂“口頭試問”に相当)と実地審査(認定に係る航空機と同じ型式のシミュレーターを使用)で行います;
<運航に係る審査の具体的な内容>
* パイロットが行う航空法第73条の二に基づく飛行前点検(Pre Flight Check)について
* 出発・飛行計画変更に係る運航管理者(Dispatcher)の承認事項について
* 他の乗務員(含むCA/客室乗務員)に対する指揮・監督について
* 安全阻害行為の抑止危難の場合の措置他の安全管理事項について
* 通常状態、及び異常状態での航空機の操作及び措置について

③ 上記審査は、航空法施行規則第164条の二に基づき、年一回実施することになっています。但し“通常状態、及び異常状態での航空機の操作及び措置”については年2回の審査を実施する必要があります ⇒ 6Month Check Flight

4.パイロットと地上の運航支援を行う人との間で適切なコミュニケーションを図ることに関し国による認定を行うこと
① 通信機器の知識、取り扱いに関わる電波法に基づく航空級無線通信士の資格取得を義務付けています
② 外国での運航を行う場合、航空法第33条に基づき、国土交通大臣が行う航空英語能力証明の取得を義務付けています

5.パイロットが適切な労働条件のもとで働けるように国の基準を定め、エアラインに実行せしめること
航空法第68条、及び航空法施行規則第214条に基づき、エアラインに乗務割の基準を定めることを義務付けています
① 運航規程に乗務割の基準を定めることを義務付け運航規程を認可項目としています。運航規程に関する詳しい説明は(2_航空機の安全運航を守る仕組み_全体像)の「4.運用段階、(8)」をご覧になってみてください

② 航空法施行規則第175条で、乗務割の基準には以下の項目が含まれていなければならないとしています;
*乗務時間の制限は、1暦日又は24時間(国際線など時差がある運航を行う場合)、1歴月3ヶ月1暦年当たりそれぞれの限界時間を設定しなければならない。
*疲労により航行の安全を阻害しないような乗務時間その他の労働時間が配分されていること
尚、それぞれの限界時間の具体例(エアラインによって異なる)については、乗員計画(パイロット、CA/客室乗務員)をご覧になってください

X. 外国人パイロットに係る例外措置
昨今、パイロットの絶対数の不足、パイロットに係る諸経費の削減、パイロット養成期間の短縮事業計画の変動に対する迅速な対応、などの目的で外国人パイロットが多く導入さています。彼らの保有している資格は欧米先進国で発行されたものであり、この資格では日本の航空法の下では飛行できないことになります。従って、これを短時間で日本の資格に切り替えるために、以下の様な例外措置を設けています;
国際民間航空条約(ICAO)締約国の政府が発行した資格を有する者は、国内航空法規に関わるものを除く学科試験、及び実地試験の全部又は一部を行わない
② 取得できる日本の資格:技能証明技能証明の限定の変更計器飛行証明航空英語能力証明

国に代わって認可行為の一部を代行する仕組み

これまで説明してきた安全運航に係る重要事項について“国による認可や審査”があるのは、航空行政の公平性、厳格性を保つために必須の事ですが、これらを全て国家によって行うには、必要となる専門性、人件費の効率性設備投資、などの面で実質的に不可能です。そこで、パイロット養成に係る施設(例えば航空機やシミュレーターなど)、訓練に必要となる教官(実技指導を行うパイロット、操縦に必要となる知識に係る訓練を行う地上職の教官)、などを保有している組織(下記参照)を指定し、国による認可行為の一部を委嘱することが出来るようになっています。これを定航空従事者養成施設制度(自動車の運転免許取得の際通った自動車運転教習所を想像すればいいと思います)といいます。この仕組みについて詳しく知りたい方は(2_航空機の安全運航を守る仕組み_全体像)の「規制当局による審査、認可等の合理化」(2)をご覧になってみてください。以下に具体的な「定航空従事者養成施設」を例示します;

1.独立行政法人航空大学校
航空大学校は、航空法施行規則第50条の二で、国に替わって以下の資格を付与することができることになっています。尚、この学校は独立行政法人となっていることから分かるように、1954年に国策で設立され、訓練学生の授業料負担の軽減、エアラインのパイロット養成費用負担の軽減、その他のパイロット・ソースの確保、などの役割を果たしています。現在の募集定員は108名訓練期間は2年間となっています;
自家用操縦士事業用操縦士の技能証明
② 技能証明の限定
計器飛行証明の実地試験
航空英語能力証明に関わる学科試験

2.航空従事者指定養成施設
エアラインのパイロット訓練部門民間のパイロット養成施設大学のパイロット養成コース、などを対象としています。航空法施行規則第50条に当該施設の認可に関わる国のチェック項目は以下の様に具体的に示されています;
① 教育・訓練に必要となる教官(実技指導を行うパイロット、操縦に必要となる知識に係る教官)、及び技能審査員の履歴航空従事者としての資格が適正かどうか
教育・訓練のための施設教育・訓練の内容・方法技能審査の方法が適正かどうか
教官が必要数以上配置されているかどうか
④ 技能審査に必要な技能審査員、訓練に必要となる航空機、シミュレーター、その他の機材、設備を利用できる状態になっているかどうか
訓練・教育施設としての適確な運営の為の制度が定められているかどうか

上記を踏まえたうえで、以下の認可行為を行うことを施設ごとに指定します;
自家用操縦士事業用操縦士準定期運送用操縦士定期運送用操縦士、航空機関士の資格付与
航空機種の限定は、実地試験に使われる航空機の機種で決まります
計器飛行証明の付与

3.指定本邦航空運送事業者、査察運航乗務員
航空法第72条に基づき、国は航空運送事業を行う機長の知識及び能力を審査することになっていますが、「指定本邦航空運送事業者」の認可を得たエアラインについては、エアラインが自社の機長の審査を行う者を指定し、国がその者の適格性について審査を行った上で「査察運航乗務員」として指名し、国が行う審査をその者に代行させることが出来ます
この査察運航乗務員の適格性についての審査は、航空法施行規則第164条、165条に基づき以下の項目のチェックを行うことになっています。審査は年一回行われます;
① 書面審査、口述審査、実地審査
② 組織、訓練体制、訓練方法、訓練施設が適切であること
③ 査察操縦士の審査に関わる権限の独立性が確保されていること(⇔審査される機長の合否判断は、あくまで国土交通大臣に替わって行っている)

4.指定航空英語能力判定航空運送事業者;
航空英語能力証明に関わる試験を行います

エアラインのパイロットになるまで

エアラインのパイロットとして乗務する為には、副操縦士であっても事業用操縦士の資格航空無線通信士の資格、計器証明、(国際線を乗務するのであれば航空英語英語能力証明も必要)を保有していなければなりません。また、機長として乗務する為には、上記の資格と併せ、「定期運送用操縦士」の資格を持っていなければなりません
これらの資格を取得してエアラインパイロットになる為には以下の様な選択肢があります;
1.資格を何も持たないままにエアラインのパイロット要員として入社するケース;
資格取得するまでのコストは全てエアラインが負担し、更に資格を取得するまでの間も相応の賃金が支払われるので人気が高く応募者も多いために、競争環境は非常に高いといえます。尚、一定期間内に資格を取得できなかった場合、エアラインパイロットとしての適格性が無いと判定され、地上職に職変してエアラインにとどまるか、退職するかの選択を迫られます

2.航空大学校に入学し、自家用操縦士、事業用操縦士、航空無線通信士、計器証明、航空英語英語能力証明、などの資格を取得しエアラインに入社するケース;
資格取得するまでのコストは原則国費で賄われますが、入学料、授業料、寮費などの自己負担分は二年間で350万円以上となります(詳しくは2020年度航空大学校募集要領を参照してください)。エアラインにとってパイロットの養成が低コストで済むので、エアラインに採用される可能性は高いものの、その分航空大学校への入学の敷居は非常に高い状況です。エアラインに採用されなかった人は、民間の使用事業(少人数の観光客をターゲットにした遊覧飛行やチャーター飛行)その他の組織でパイロットとして働く道も残されています

3.パイロット・コースを設けている大学に入学し、自家用操縦士、事業用操縦士、航空無線通信士、計器証明、航空英語英語能力証明、などの資格を取得しエアラインに入社するケース;
近年、LCCの隆盛と共にエアライン・パイロットの需要が高まり、パイロットを養成するコースを設ける大学が増加しつつあります。ただ、日本国内で大学単独で資格取得の為の航空機やシミュレーターを購入するには高額な投資が必要となること、国内では飛行訓練のための空港や空域の確保が難しく、更に着陸料、航行援助施設利用料の負担も大きいことから、殆どの大学は、実機訓練を外国の飛行学校に委嘱しているのが実情です。また、学費も2000万円以上掛かると言われており、経済的な面で入学の敷居は高いと言えます
しかし最近は、エアラインとしてもこうしたパイロットソースを通じて優秀なパイロットを確保する必要性から大学との協力関係を築いているケースもあります。因みに現在、桜美林大学の航空コースはJALと東海大学の航空コースはANAと協力関係を持っています
尚、エアラインに採用されなかった人は、航空大学校卒業生と同じように民間の使用事業、その他の組織でパイロットとして働く道も残されています

4.個人で外国の飛行学校、等に入学し必要な資格を取得するケース;
パイロットの資格は学歴には関係ないので、自費で必要な資格を取得することは可能です。このケースでも一般に経済的な理由で外国の飛行学校で資格を取得するケースがほとんどです
<参考>
1996年 JALエクスプレス(1997年設立、2014年JALに統合)を立ち上げたときは、このケースのパイロットも採用しました

5.自衛隊に入隊し、ある程度の年齢になってから自衛隊を退職し、エアラインに入社するケース;
自衛隊が保有する戦闘機や輸送機、その他、数多くの航空機を操縦するパイロットは100%国費で養成されています。また飛行経験自体も通常の業務の遂行のなかで積み上げていくことが可能です。ただ、自衛隊のパイロットの操縦資格は航空法で決めらている民間機の操縦資格とは異なります。また、自衛隊のパイロットの機種ごとの配置数は運用する各種の航空機別に定員が決まっており、その人件費・経費は国費で賄われております。従って、自分の意思だけで自衛隊を退職しエアラインのパイロットになることが出来ないことはご理解いただけると思います
しかし、自衛隊のパイロットは部隊運用上ピラミッド型のシンプルな組織を形成することが必要であると同時に、肉体的に過酷な任務を求められる航空機については高齢になれば任務遂行が困難になるため、定期的な若返りを図っていく必要もあります。こうしたことから、自衛隊とエアラインとの間で「割愛」という制度が設けられており、必要によりエアラインは防衛相と合意の上で自衛隊パイロットを受け入れることを行っています
<参考>
先進国を中心として、大規模な航空戦力を保有している国では、軍のパイロット出身のエアラインパイロットが多いと言われています

機長養成について

安全運航に最終責任を負う機長については、既に述べた様に航空法に基づく重要な任務を遂行する必要があり、大手エアラインでは、法で定められた飛行経験(資格別の必要飛行経歴)、定期運送用操縦士資格の取得(参考:定期運送用操縦士の学科試験)の他に以下の様な要素を加味して機長養成を行っています;
① 機長業務に相応しい人格・識見を有していること
② 機長業務に相応しい操縦技能、知識を有していること
③ “Senioroty”の基準を満たしていること
“Senioroty”の基準とは:入社順、資格取得順、などで機長になる機会を与えること。一般に労働組合などとの間で労務上の問題を起こさないようにするための基準であり、法に基づく厳格な基準ではありません

機長養成をエアライン自ら行うことは法的には義務付けられていませんが(⇔航空会社設立時などでは機長資格を持った人を採用します)、路線運営には必ず一定数の機長が必要(具体例ついては、乗員計画(パイロット、CA/客室乗務員)をご覧になってください)であり、長期的な事業計画の伸び、及び機種更新の計画に合わせて新しい型式の航空機の機長も確保しなければならないことから、大手のエアラインでは副操縦士から機長への昇格、機長の「限定」変更(操縦する機種の変更)などを長期的な視野で行っています

副操縦士が機長養成コースに入ると、シミュレーター訓練や座学の他に、教官となる機長と定期便に同乗して訓練(“路線訓練”といいます;副操縦士席での訓練 、 機長席での訓練)を行う必要があります。また、離着陸時の機長のミッションを習得する為には、離着陸の経験(馬術用語の“鞍数”ともいいます)を多く積まねばなりません

<参考>
1.事故統計によれば航空機事故の殆どは、離陸時の3分間着陸時の8分間に集中していることから、この合計11分間を「Critical Eleven Minutes/魔の11分間」と呼んでいます。機長養成で離着陸の訓練を重視するのはこうした背景があるからです
2.前述(パイロットに起因する深刻な事故)の、アシアナ航空のサンフランシスコ国際空港における着陸失敗事故は、長距離路線で慣熟飛行を行ったことが問題であった可能性も考えられるのではないでしょうか

こうしたことから、大手のエアラインには機長養成に、短距離路線(国内線、短距離国際線)に投入し、保有機数も多い機種を機長養成用の機種として指定し、養成の効率化を図っているところもあります。
具体的な運用としては、機長候補者を予めこの機種に移行(“限定”の変更)させ、機長昇格後も相応の期間その機種で慣熟を図っていきます。結果としてその機種で余剰となる他の機長は、事業計画上増機していかねばならない機種に移行させていく、などの対応を行って機長マンニングのバランスを取ることになります

パイロット養成コスト(試算)

これまで述べてきたことからパイロットを養成するには、訓練のための高額な費用が掛かることはある程度想像できると思いますが、もう少し正確なイメージを持っていただくために、以下のケースに分けて必要となる費用の試算をしてみたいと思います;
1.航空大学校における訓練生一人当たりの訓練費用
この試算を行うためには、航空大学校の収支データが必要になります。本来は独立行政法人なので公表を義務付けられているはずの財務諸表及び事業報告書を入手できれば一番いいのですが、今回サイトから見つけることが出来ませんでしたので、航空大学校のサイトから航空大学校2018年度業務実績報告書を入手し、ここから収支計画・実績のデータを取り出して計算してみました(下表の単位は“円”);

航空大学校訓練生の訓練費用(試算)
航空大学校訓練生の訓練費用(試算)

訓練生の自己負担分は2年間で350万円程度ですが、国費で負担する金額が一人当たり3千万円以上かかっていることが分かります。エアラインに優秀なパイロットを供給する為に国も相応の負担をしているということでしょうか

2.米国の飛行学校で自家用操縦士、事業用操縦士、計器飛行証明の資格を取得する場合の訓練費用
米国のEpic Flight Academyで資格を取得するための授業料を計算してみました。ここでは、米国における滞在費、その他の費用は入っていません;

外国の飛行学校で資格を取得する場合の訓練費用
外国の飛行学校で資格を取得する場合の訓練費用

3.エアラインが自社のパイロットを養成する時の費用
エアラインが採用したパイロットに各種の資格を取らせるためには、掛かる費用は全て自社で賄わねばなりません。基礎となるデータ類は5年ほど前のもの(但し、大きな費用項目となる航空機の減価償却費については減価償却資産の耐用年数等に関する省令別表_航空機関連を反映しています)ですが、訓練費用の内訳や費用総額の概算値としてはそれほど外れていないと思いますので参考のために以下の表をご覧になってみてください;

パイロットを自社養成する場合の訓練費用
パイロットを自社養成する場合の訓練費用

米国の飛行学校で資格を取るのに比べてかなり費用が大きいことが分かると思います。これは資格取得する際に使う航空機の価格の差、日本の空港を使用することに伴う公租公課の差、訓練シラバスの差、などによって違いが生まれています。従って、エアラインであっても訓練費用を削減する為に、海外の飛行学校に訓練を委嘱したり、海外に訓練施設を設けるなどの対応も行われています。
JALでは、新しくできたMPL資格取得訓練をCAE Phoenix – Aviation Academyで行っています

機長養成訓練や、航空機の型式限定の変更訓練などは、大手のエアラインは事業計画の柔軟性を確保する為に自社で行うことが普通です。これらに係る費用の試算値は以下の通りです;

機長養成・機種限定変更訓練コスト(試算)
機長養成・機種限定変更訓練コスト(試算)

上記二つの表の基礎的なデータについてご興味のある方は自社乗員養成コスト_基礎データをご覧になってみて下さい

以上から、エアラインビジネスにとってパイロット養成に係るマネージメントは、経営面で極めて重要であることはご理解いただけると思います

以上

酷暑の夏と強力台風の襲来!

夏野菜の状況

前回のブログ(野菜栽培の現況_7月29日発行)で例年になく長引いた梅雨(冷夏)が終わり、漸く盛夏を迎えて夏野菜の生産が始まったところまでご報告いたしました。その後記録的な猛暑が続き、朝晩の水遣りは大変でしたが夏野菜の収穫そのものは順調に推移しました
しかし、9月8日未明に東京湾から侵入して千葉県に上陸した台風15号は、千葉県、茨城県に甚大な被害を与えて通過していきました。中心を外れた我が家でも一晩中強風が吹き荒れ、不安な一夜を過ごしましたが、案の定、翌朝屋上に上がってみると;

台風被害状況_09SEP
台風15号被害状況_09SEP

写真の様にトマト、キューリの様な背の高い野菜類はほぼ壊滅状態になっていました。また自作の資材置き場も庇が吹き飛んでいました。7月末から収穫が始まっていた第二世代のキュウリは、冒頭の写真(8月29日撮影)の様に台風襲来の前日まで毎日沢山の収穫が出来ていたにも関わらず全滅し残念無念であります!
一方、オクラ、唐辛子類、サツマイモ、空心菜、など熱帯、亜熱帯性の植物は、あれだけ強い風が吹いたにも拘わらず、被害ほぼゼロでした

オクラと唐辛子
オクラと唐辛子

サツマイモと空心菜
サツマイモと空心菜

三種類のナスについては、葉が柔らかくて大きいのに対し茎はかなり丈夫なので、多くの葉が引き千切られていました。しかし、茎はしっかりしており、生き残る可能性も考えられるので、大胆に剪定し、コンテナの周囲に張っている根を切ったうえで肥料を与え、秋ナスとして収穫できるか様子を見る積りです

痛んだ葉と茎を剪定したナス_12SEP
痛んだ葉と茎を剪定したナス_12SEP

考えてみれば、昨年も同じような経験をしています(猛暑と台風襲来でこっぴどくヤラレマシタ!)。風に対して無力な屋上菜園の場合は、今後台風シーズンが来る前にトマト、ナス、キュウリなどの夏野菜は収穫が終わるように植え付け時期を早めるなどの工夫をする必要があるかもしれません!

これで、トマト、キュウリのコンテナが空きますが、これらは土の再生が終わった段階で、スタンバイしている冬野菜の苗(8月後半に種を蒔きベランダで育成していた)を植え付ける予定にしています;

白菜、キャベツ、タマネギ、他の苗の育成
白菜、キャベツ、タマネギ、他の苗の育成

 大失敗!

1.辛味大根2種の栽培
前回のブログ(野菜栽培の現況_7月29日発行)で、春蒔きの辛味大根が成功し、二回目の種蒔きをしたことを報告しましたが、この栽培は完全に失敗しました。途中まで育ったのですが、葉の部分のつけ根が病に罹り成長が中途半端で止まってしまいました。勿論、中途半端に育った辛大根もちゃんと食べたことは言うまでもありません! 振り返って、種の袋の裏側の説明書をよく見ると、なんと! 二種類の辛大根共、種を蒔く時期に6月、7月は入っていないのに気が付きました。種蒔きは梅雨の時期は避けろという意味でしょうか、やはり説明書はよく見るべきですね!

辛大根2種・栽培表
辛大根2種・栽培表

2.蔓無しえんどう豆
昨年はうまく栽培できて、長期間楽しめましたが、今年は殆ど収穫できませんでした。深めのコンテナに6本植え、途中まで順調に育ってくれたのですが、花がついて実がなる時期に次々原因不明のまま枯れてしまいました。まだ、掘り返して調査していませんので、ひょっとすると途中で枯れたナスと同様コガネムシの幼虫の仕業かもしれません

3.黒豆
初めての栽培でしたが、どうも失敗した様です。茎・葉は立派に育って安心していた所、実付きが悪いうえに、今現在、枝豆として食べられるほど大きくなっていません。いっそのこと豆として収穫できるまで(11月?)待つしかないかなと思っています

料理の紹介

1.丸ナスの料理;
今年から始めた丸ナスはコンスタントに収穫でき、ワイフに色々な料理を試してもらいましたが、以下の二種類の料理が中々の出来栄えでした;

丸ナスのお焼き
丸ナスのお焼き

味は幼い頃から馴染んでいた「お焼き」(長野市近辺)と同じ様に出来ましたが、写真で右側の1ヶだけ裏が見えているので分かると思いますが、皮で包んでいったあとの裏側の処理がうまくいかなかったことが、今後の勉強材料です!

丸ナスの甘酢煮浸し
丸ナスの甘酢煮浸し

料理名は「甘酢煮浸し」としていますが、勝手につけた名前で一般名ではありません。要するに縦に切った丸ナス(輪切りにすると味や、歯ごたえが今一!)を油で柔らかくなるまでジックリと煮た後、冷たい酢、醤油、適量の砂糖(入れなくてもよい)にショウガのみじん切りを入れたタレをかけたものです。冷やして食べれば正に夏の味!

2.水ナスの料理;
本命!の浅漬けについては色々試してみましたが、中々大阪駐在時に感動した味にはならず、もう少し研究が必要の様です。そこで、いっそのこと生で食べてみようかということになり;

水ナスの刺身?
水ナスの刺身?

写真の様に氷水にスライスした水ナスを入れ、好みにより塩、醤油、ポン酢、などで食べてみた所、シャキシャキとした食感でこれは中々いけるぞ!という感じでした

蛇足!

取り忘れて巨大化したナス、シマウリ、ズッキーニ
取り忘れて巨大化したナス、シマウリ、ズッキーニ

恥ずかしい話ですが、炎暑の中での収穫では、どうしても見落としがでます。数日収穫が遅れただけで写真の様に巨大化してしまいます。勿論、生産者の苦労?を考え、ワイフに料理を工夫して貰ってちゃんと食べることにしています

以上

 

“死”について(その2)

はじめに

3年前の3月に同じタイトルのブログ(“死”について)を書きました。この時は偶々、私の高校時代の親友と「死」についてメールのやり取りをする機会があり、その時の私の「死に対する考え方」を書いてみたものです
それから3年余りの年月を経た今年の4月、1年ほどの闘病生活の後に私の最も近い肉親の一人である妹が亡くなりました。私より3年も若い死は、数十年前の親の早すぎる死に接して感じた不条理を改めて蘇らせることになりました。人間である以上死は避けられないものですが、やはり死は特別なものです

また、避けられない死を前にして、妹の家族が行った数か月に亘る献身的な「看取り」と、死にゆく妹の穏かなさまは、日ごろ死から遠ざかっていた私に大きなショックを与えてくれました

以後、数か月間「死に係る」本を読み、知りえた知識を纏めてみました
最初のニュートン別冊の記事紹介は、主に医学、生理学の見地から死を捉えたものです。雑誌ニュートンの記事にはいつも感心しますが、イラストをうまく使って難しい内容を分かり易く説明しています。記事の全てではなく、生物としての人間の死に関して、どこまで科学的に研究がすすんでいるかを中心に概要を纏めてみました

次はシェリー・ケーガンの講義録の紹介です。この講義は、私の最も苦手とする哲学、倫理学の知識を駆使して、死とは何かについて解説しているものです。論理的な正確さを貫いている為に理解するのに非常に時間がかかりましたが、苦労して読み終えてみるとそれなりに私たちの生き方に対する、何か指針の様なものを与えてくれるような気がしました。内容が多岐にわたりますが、最後の方に多くの紙面を割いて「死に直面しながら生きる」、「自殺」というテーマを扱っています。これは、この講義が、世界中から若き俊英が集まっているイェール大学の学生を対象としていることから、これらの学生に悔いのない人生を送ってもらうことを願ってのことだろうと思いました
尚、筆者のシェリー・ケーガンは魂の存在(⇒人間の魂は永遠)を完全に否定していますので、魂の存在を信じている方は、この段落はスキップしたほういいと思います

三つ目の段落は、私が50年近く前の父の死以降、折に触れ読み返し、心の支えにしてきた「般若心境」の死生観についての簡単な紹介(受け売り?)です。「般若心境」は禅宗系の宗派では必ずと言っていいほど読経の対象になっていますが、日本ではほかにも多くの宗派が存在します。これらの宗派の死生観については勉強していませんので触れていません

最後の段落は、看取りの問題です。亡くなっていく本人が、ともすれば過剰な延命処置を行ってしまう病院での死よりも、自宅での安らかな死を願いつつも、希望通りにならない実態と解決の方向性について書かれている本の紹介です

死とは何か -- 雑誌「Newton」別冊から

死とは何か_Newton別冊
死とは何か_Newton別冊

この本では、主として「人間」が生物としての「死」を迎えるときの細胞レベルの変化(心の問題は別)を、最新の科学的知見をもとに解説しています;

1.老化のしくみ; --- 割愛します

2.生と死の境界線
(A)生と死;
通常のイメージでは、心停止となった時と考えがちですが、もし血液と酸素を適切な方法で循環させれば、他の臓器や脳は、まだ“生きて”いられます。そう考えると、死は瞬間的に訪れるものではなく「過程」だということができます

(B)心停止;
心拍と呼吸が止まっても、完全なる死ではありません。突然、人が倒れて意識を失った時、その人は、心停止ではなく、心臓のリズムが無秩序になって、血液が全身に送られなくなった状態(心室細動)である可能性もあります。この状態で最も影響を受けやすい臓器は「」です。僅か30秒ほどでも脳に何らかの後遺症が残る可能性があると言われています。脳に続いて「脊髄」、次に血中の老廃物を取り除く「腎臓」の一部、という順序で甚大な影響を受けるといわれています
現在、死亡の判定は、医師(歯科医も含む)が「心拍の停止」、「呼吸の停止」、「瞳孔反応の喪失」の3つ(死の三兆候)が揃う、ことで行っています。瞳孔が光に反応しなくなったときは、脳幹が担う様々な反射反応が全て消失することにほぼ一致しているからです

心臓を支える重要パーツ
心臓を支える重要パーツ

AEDを使うと救命率が高まる
AEDを使うと救命率が高まる

(C)植物状態;
心停止後に一命をとりとめても、脳に後遺症が残ることがあります。脳の各部分(下のイラスト参照)が低酸素状態になることによって、意識や体の各部分の機能に影響が出て来ます。「大脳皮質」(大脳の表面)と、それに連携している「視床」が機能を失うと、意識が持てなくなり昏睡状態に陥ることになります。しかし1~2ヶ月ほどで、目が開くようになったり、覚醒と睡眠のリズムが戻ってきたりする場合があります。この状態を植物状態と言います
植物状態では、低酸素に比較的強い「脳幹(呼吸など生命維持に不可欠な機能を担っている)がある程度機能しています。植物状態は、3ヶ月以上続く意識障害の一種で、診断の基準は「目が開いていても意思疎通は行えないこと排泄をコントロールできないこと自発的に呼吸でき目を開けている時間と閉じている時間もある」ことです。従って、死の三兆候は満たしていないので死から遠い状態にあるといえます。植物状態から6ヶ月間は回復する可能性はあり、目覚めが早いほどその後の治りも良い言われています。8年~10年という長期間を経て回復したケースも報告されています(青森大学・片山容一博士)

脳の各部分の働き
脳の各部分の働き

健常者と植物状態の患者、昏睡状態の患者の脳波を比べる(下のイラスト参照)と、植物状態の患者の脳波は、覚醒時、睡眠時ともに健常者ほどではないものの、脳が活動していることが分かります。しかし、外部からの刺激に正常に応答できないことから、意識は無いと考えられます。昏睡状態の患者の脳波は、ある程度活動していることは分かりますが、健常者の脳波とは形がかなり異なっています

脳波比較(健常者覚醒時・植物状態覚醒時・植物状態睡眠時・昏睡状態)
脳波比較(健常者覚醒時・植物状態覚醒時・植物状態睡眠時・昏睡状態)

2006年、植物状態と診断された患者にも意識があるという可能性が実験結果で報告されました。ケンブリッジ大学のエイドリアン・オーウェン博士らは、交通事故で植物状態にある患者の脳の活動を「fMRI(脳の各部分の活動の活発度を、脳を傷つけることなく測定できる装置)」で調査しました。この患者に「テニスをしている状態を思い浮かべてください」と呼びかけると、患者の脳は、同じことを言われた健常者と非常によく似た活動を示すことが分かりました。このことは、植物状態と診断された患者の中には、健常者と同等に外部の言葉を理解し、正常な応答ができる(⇔意識がある)患者が存在する可能性があることを示唆しています。植物状態の患者の意識については。今後さらに詳しく調べる必要があると思われます

(D)閉じこめ症候群;
全身が麻痺して声も出せず、意思を伝えることが出来なくなっているものの、周囲の様子を目や耳などで把握でき、思考も可能であった場合、通常の方法ではコミュニケーションができないので、一見、植物状態と見分けがつかなくなります。この状態のことを「閉じこめ症候群(Locked-in Syndrome)」といいます。難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)も症状がすすむと、同じような状況になります。閉じこめ症候群は、覚醒していて、自己や外の世界を認識できるという点を考えると、健常者の意識状態とほぼ同じといえます。閉じこめ症候群の患者の脳の損傷部分と、意識や感覚が正常である理由は以下のイラストをご覧になるとお分りになると思います;

閉じこめ症候群の脳の状態
閉じこめ症候群の脳の状態

(G)脳死
植物状態や閉じこめ症候群と違って、呼吸や意識が無く、脳が機能を取り戻す見込みのない状態が脳死といわれます。脳死の判定基準は、「脳幹」の機能が停止していることが重要視されます。脳幹の機能停止を確かめる7つの方法は、以下のイラストを参照してください;

脳幹の機能停止を確かめる7つの方法
脳幹の機能停止を確かめる7つの方法

自発呼吸が止まっても、人工呼吸器を付ければ、心臓が動いている間は血液と酸素の循環は保てます。また、食事が取れなくても、点滴で水分や栄養を補給することは可能です。つまり脳が機能を失っても、身体は生かし続けることができるので、臓器移植によってほかの人の命を繋ぐことが可能となる訳です
しかし、脳以外は生きていることから、ある統計調査によれば、「脳死は人の死として妥当だと思う」という回答者の割合は、米、英、仏、独では60%~71%であるのに対し、日本では43%だそうです

(H)臓器・細胞の死;
脳を細胞のスケールで見ると、脳の神経細胞(ニューロン)は、活動するためのエネルギーとなるATP(アデノシン三リン酸)を、ブドウ糖(グルコース)と酸素を使って作り出しています。神経細胞に酸素の足りない状況が続くと、ATPが枯渇し、神経細胞が死んでしまいます。神経細胞が酸素不足になって死に瀕するまでのタイムリミットは、動物実験によれば3~4分と言われていいます。神経細胞は、低温では活動が抑えられるため、ATPが枯渇するまでの時間を稼ぐことが出来ます。特に心臓の異常による脳損傷に関しては、脳の温度を1~2度下げる低体温療法がおこなわれています

皮膚の細胞や腸の細胞は、日々死んで新しい細胞に入れ替わっています。死んだ皮膚の細胞は垢として、死んだ腸の細胞は糞便として体外に捨てられています。また、尿を通しても死んだ細胞が排泄されています。細胞のスケールで考えれば、命ある人体には、生と死が混在しているということが出来ます

現在行われている臓器移植で、移植が成功する(5年後に生着している)確率、移植希望者数は、以下の通りです(生着率、移植希望者登録者数は「2017年の日本臓器移植ネットワーク」のデータから引用しています);
心臓:生着率/91.6%、移植希望登録者数/728人
② 肺:生着率/71.2%、移植希望登録者数/349人
③ 肝臓:生着率/81.6%、移植希望登録者数/335人
④ 腎臓:生着率/76.8%、移植希望登録者数/207人
腎臓 :生着率/77.4%、移植希望登録者数/1万2千人
小腸:生着率/62.3%(拒絶反応が大きい)、移植希望登録者数/ごく僅か
上記以外にも、骨、血管、皮膚、などの移植も行われています

元の身体が死んでも生き続けている細胞を「不死化細胞」と言います。最も有名なものに、ヘンリエッタ・ラックス(1920年~51年)という米国の女性の子宮頸がんに由来する細胞株(下記の写真参照)があります。この細胞は、女性の名と姓の2文字をとって「HeLa細胞」と呼ばれており、彼女が死んだ後も、細胞分裂を繰り返して今も生きています細胞レベルでは「不死」が可能!);

細胞として「不死」になった女性
細胞として「不死」になった女性

(I)臨終直前の回復;
亡くなる前に、既に亡くなっている人を見るなど、あり得ない物事を見たり感じたりする幻覚体験(所謂「お迎え」)は多いといいます。日本では4割強英国での調査では6割ほどの人が経験していたとの報告もあります。また、終末期の緩和ケアの現場では、臨終の前に一時的に体調がよくなったり、ぼんやりしていた意識がはっきりするなどの現象も報告されています。2010年~14年にかけて、患者を看取った介護者からの回答によると、2~3割に一時的な体調改善や覚醒が見られたと報告されていますが、脳科学や生理学ではこの原因を突き止めることが出来ていません

(J)臨死体験;
死線をさまよった際に「臨死体験」を報告する人もいます。因みに、心停止から回復した患者のうち5~6人に1人が臨死体験を報告するといいます。その体験は、個々に違ってもよさそうなものですが、光を見たり、苦しみを感じなかったり、などの共通性も見られるようです
脳研究の為の「生前同意登録」システムの創始者である豊倉康夫医師が33歳の時、急性アレルギーによるショックで一時的に呼吸停止になった際、覚醒した時に「臨死体験」の報告を行っています(極楽の花園をさまよい、天上の光を浴び、何とも言えない恍惚感を感じた)。豊倉医師の死後、その脳の解剖検証を行ったところ、呼吸停止による脳虚血で生じたと思われる僅かな損傷を発見しましたが、臨死体験がこの脳の損傷で説明できるかどうかは検証できていません

(K)死の間際にみられる「最後の脳信号」;
2018年2月、脳死患者9名の家族の同意のもと、生命維持装置を外した後の脳内の活動が記録され、医学誌に報告されました(下記のグラフ参照);

最後の脳信号
最後の脳信号

血液の循環が停止すると、脳内の酸素濃度が下がっていき、脳波も平たんになっていき、最終的に神経細胞には「ターミナル(週末)拡延性脱分極」として知られる現象が観測されました。これは神経細胞への酸素供給が絶たれ、ATPが枯渇、細胞の内外のイオンのバランスが崩れて元に戻せなくなった状態です。「拡延性脱分極」の専門家であるドイツのシャリテ大学病院神経科教授・イェンス・ドレアー博士は、「拡延性脱分極」が死に繋がる最終的な変化(本当の終わり)の開始である可能性があると言っています

(L)生死の境;
千葉大学付属法医学研究教育センターの岩瀬博太郎博士は、「死の三兆候」はあくまで経験的にこの状態になると、もう二度と蘇生しないというだけだと言っています。脳死判定は「脳が何割損傷したときに意識が完全に失われるといった明確な判断基準」が無いので、現在は、あくまで医師の判断によって行われることになっています。因みに、心肺蘇生を施されている人や、心臓移植中で「仮死状態」の患者などでは「死の三兆候」が見られたあとでも蘇生する例があります。従って、医師の「死の三兆候」の確認は、心肺が停止してから数十分時間をあけてから行われるのが一般的です

(M)高齢者が死に向かう体にはどんな変化が起きるのか?
高齢者の死期について研究している東京有明医療大学教授・川上嘉明博士は、「高齢者が亡くなるまでにたどる体の変化はゆっくりしているため、死期を正確に判断するのは非常に困難」と言っています。河上博士は、老人ホームなどで亡くなった高齢者の亡くなるまでの過去5年間のBMI(定義については肥満指数(BMI)についての”はてな?”をご覧になってください)、食事量水分摂取量の調査を行っています(下記のグラフ参照);

死に向かう体の変化
死に向かう体の変化

川上博士によれば、この結果はあくまで平均値なので、必ずしも全ての人がこの経過を辿るという訳ではないと言っています

3.寿命の不思議
(A)細胞の2種類の死;
私たちの身体は、受精卵になった時には1個であった細胞が、細胞分裂を繰り返して最終的に成人の身体は37兆個以上の細胞で構成されています。これらの細胞の死に方は「壊死(外傷や栄養不足による事故死)」と「自死」に分けられます。私たちの身体では、毎日3千億個から4千億個の細胞(約200グラムに相当)が死に、代わりに新しい細胞が生まれています。身体を構成している各種の細胞別の寿命については以下のイラストを参照してください;

人体の細胞の寿命
人体の細胞の寿命

(B)細胞の自死;
細胞の自死の仕組みは2種類に分けられます。第一のタイプは、脳の神経細胞や、心臓の心筋細胞のように生まれてから死ぬまで殆ど入れ替わることのない細胞で、細胞分裂をしない代わりに100年近い寿命を持っています。もう一つは、皮膚の細胞のように頻繁に入れ替わる細胞で、人の皮膚は約4週間で入れ替わります。第二のタイプの細胞の寿命は分裂の回数によって決まってきます
第一のタイプだけで出来ている生物の代表は成虫となった昆虫です。昆虫は、新たに分裂する細胞を持っていないので身体が傷ついても修復はできません。第二のタイプの生物にプラナリアがあります、再生能力が高く、切っても切っても再生することが出来ます。ただ、再生回数には限度があります

プラナリア
プラナリア

人間の第二のタイプの細胞死は、「アポトーシス」といい、かなり研究が進んでいます。アポトーシスとはギリシャ語で「葉や花が散る」という意味です。
アポトーシスの引き金になるのは、細胞の老化やホルモン、ウィルス、放射線、などの様々な刺激です。刺激を受けた細胞は、「ガスパーゼ」という酵素を活性化させ、細胞内にあるタンパク質を切り刻みます。タンパク質が破壊されると、その中にあるDNAを分解する酵素が働きだし、DNAが断片化されてしまい、細胞が正常な機能を失います。この時点で確実な細胞死が約束されてしまいます。この細胞は最終的に小さな袋に分けられ、2~3時間のうちに隣り合う細胞や「マクロファージ(白血球の一種で免疫機能の中心的役割を担っています)に取り込まれていきます。取り込まれた細胞の成分はリサイクルされて新しい細胞の材料になると考えられています)。アポトーシスは、老化したり異常になった細胞を早めに取り除き、身体を正常な状態に維持していますので、「生命を保つための死」とも言われています

人間の第一のタイプの細胞死は「アポビオーシス」といい、「寿命がつきる」という意味です
アポトーシスとの違いは「DNAが比較的大きく断片化されること」と「最終的に小袋に分けられず、ただ収縮するだけ」という点にあります。取り換えのきかない脳の神経細胞が死ぬことは、個体の死に繋がります。アポビオーシスで死んだ細胞はゆっくりとマクロファージに取り込まれたり、そのまま放置されたりします

(C)がんと細胞死;
がんとは、細胞が異常に分裂・増殖することで、正常な細胞や臓器がおかされ、死に至ることがある疾患です。私たちの身体では、生まれた時からがん細胞が発生していますが、普通はアポトーシスで自死する為にがんになることはありません。しかし、細胞にはアポトーシスを起こすガスパーゼの他に、ガスパーゼの働きを抑制する「IAPタンパク質(アポトーシス抑制タンパク質)」があり、これが多すぎると自死できない状況になります。がんの異常な分裂・増殖はIAPタンパク質が多すぎることによって始まることが分かってきました。現在、IAPタンパク質の働きを妨げる新しいがん治療薬の実現を目指して研究が行われています

(D)アルツハイマー症と細胞死;
高齢化によって大きな社会問題になっているアルツハイマー症は、大脳の神経細胞が急激に死んで減ってしまうことによって発症します。現在、その治療に使われている主な薬は神経細胞の死を止める薬ではなく、残った細胞同士の繋がりを維持するための薬です。神経細胞の死を止める新薬を開発するにはアポビオーシス」の仕組みを解明しなければなりませんが、実験材料となるべき神経細胞が増殖しない為に、研究が進んでいないのが現状です

(E)無性生殖と有性生殖;
無性生物である大腸菌は、遺伝子のセットを一つだけ持っている1倍体生物」です。増殖するときは、予め遺伝子のセットを一つコピーしておき、分裂するときに1セットずつ分配します。分裂した二つの細胞の遺伝子セットは元の細胞と全く同じになります(これを無性生殖と言います)。大腸菌は栄養がある限り、分裂することができ分裂の限界は無く、自死の遺伝子も持っていないので、いわば「不死」です
生命誕生から20億年たってから「自死」の仕組みを持つ生物が現れました。それは1倍体生物生物と異なる遺伝子セットを二つ持つ2倍体生物」でした。人間もこの2倍体生物の一員です
2倍体生物は、分裂だけで個体を増やすことは殆どありません。雄と雌が協力して、それぞれが持つ遺伝子を混ぜて新しい1セット分の遺伝子を「生殖細胞」に収め、この細胞が増殖することによって、他の誰とも違う遺伝子セットを持つ個体(子供)が生まれます(これを有性生殖と言います)。この結果、遺伝子のバリエーションが豊富になり、環境に激変があった場合に種が全滅してしまう可能性を低くすることが出来るようになります。一方、遺伝子の異常な組み合わせがが出現してしまうというマイナスの可能性もはらんでいます。2倍体生物は、片方の遺伝子セットに異常があったとしてももう片方が正常であれば、成長できることもあり、異常のある遺伝子が、そのまま生殖細胞に含まれて子孫に引き継がれる可能性も出てきます。異常のある遺伝子が消えずに子孫に蓄積していってしまうと、いつか正常な個体を作れなくなり、種の絶滅に繋がる可能性も出てきます。有性生殖でおかしな遺伝子の組み合わせが出来てしまった時、それを消滅させる仕組み ⇒ 「死のプログラムを持った生物が現れ、その生物が長い地球の歴史の中で生き残り、繁栄してきていると考えることが出来ます

(F)寿命の長さ;
遺伝学に詳しい東京大学定量生命科学研究所教授の小林武彦博士は、「複雑な組織を維持するのはかなり大変で、有性生殖を行う生物は、ある程度老化すると、組織を保てなくなり、死んでしまうのでしょうと言っています。また、仮に親がずっと生き残ってしまう種がいたとすると、子供と餌の取り合いが起こり、いずれ餌が枯渇してしまうことになります。環境の変化によって簡単に淘汰されない程度に適応能力を持ち、子孫を生んだ後いずれ死んでしまう生物の方が、結果的に繁栄できたのだろう」と言っています。

(G)寿命の限界;
人類史上、正確な記録が残っている範囲で最も長生きした人物は、フランス人女性のジャンヌ=ルイーズ・カルマン氏で、122年(1875年~1997年)に及ぶ生涯を送りました。小林武彦博士は、人間の寿命は、環境と寿命が3:1の割合で関係していると言っています。また、同博士は「日本人の寿命(男性/81.09さい歳、女性/87.26歳;2017年の統計)は、人間としての生理学的な限界のかなり近い所にある」とも言っています
人間の生理的な寿命とは、「身体の器官とそれを構成する細胞が正常に活動できる限界」ということが出来ます。私たちの身体の大部分は古い細胞を新しい細胞に入れ替えることで常にフレッシュな状態に保たれています。しかし、老化とともに細胞の入れ替わりが少しずつ遅れてしまいますこの原因は、細胞増殖の要となる「幹細胞」が老化する為です細胞の老化は、様々な要因によってDNAが損傷することなどによって進みますDNAには損傷を修復する機能が備わっていますが、損傷が多すぎたり、修復能力が低下したりするとDNAに損傷が残ってしまいます

近年、「長寿遺伝子」と呼ばれる細胞の老化を遅らせる働きを持つ遺伝子の存在が注目されています。中でも有名なのは「サーチュイン(Sirtuin)」という総称を持つ遺伝子群です。この遺伝子はDNAの安定化に係る遺伝子ですが、まだ動物実験の段階にあり、人間に使える薬になるにはまだ長い研究が必要と思われます

シェリー・ケーガン著:「死」とは何か

DEATH_イェール大学教授・シェリーケーガン
DEATH_イェール大学教授・シェリーケーガン

筆者は「シェリー・ケーガン/Shelly Kagan」:イェール大学教授、道徳哲学、規範倫理学が専門、着任以来続けられている「死」をテーマにした大学での講義は、常に指折りの人気授業になっており、本書はその講義を纏めたもの
本書は、恐らく講義(講義風景:DEATH)の録音を英語で起こし、それを翻訳したものなので、以前に纏めた(Life Shift)と比べて時として説明が冗長で論旨が分かりにくいところもありましたが、難しい哲学や倫理学を若い学生向けに平易な言葉で説明していることには好感が持てます
翻訳者は「柴田裕之/しばたやすし」:早稲田大学、Earlham College(1847年にクェーカー教徒系の団体が設立)卒業

筆者は講義の最後に、本講義の狙いについて以下の様に語っています;
たいていの人は、どうしても死について考えたくないと思っている。また、魂の存在を前提として、私たちは永遠に生き続ける可能性があると信じている。しかし、それは、死が一巻の終わりであるという考え方にどうしても耐えられないからだ。筆者は、これらすべてを否定しています不死は災いであり、恵みではない。死について考えるとき、死を深淵な謎と見なし、恐ろしくて面と向かえず、圧倒的にぞっとするものと捉えるのは適切ではない。死を恐れるのは不適切な対応だ。だから私は本講義を通じて、生と死にまつわる事実について自ら考えるように促してきた。さらに、恐れたり幻想を抱いたりせずに死に向き合うように促してきた

また、翻訳を行った柴田裕之氏は、現在の日本が抱えている以下の様な深刻な問題について、本書が何らかの助けになるのではないか考えています;
高齢化が大きな社会問題になりつつある現在、病気になる可能性や余命を遺伝子検査などで統計的に予測できる時代に入りつつある。臓器移植植物状態脳死延命措置尊厳死安楽死自殺リビングウィル(終末期医療における事前指示書)、老前整理終活遺言、死に関連した話題に事欠かない。人生をどう生き、どう終えるかを考えるのが当たり前になるかもしれない

本書の9回の講義の内容は、死に係る多くの論点、及びこれらの論点に係るギリシャ・ローマ時代から現代に至るまでの数多くの哲学者や文学者の主張を引用しつつ、それに係る筆者の意見を網羅していますので膨大になっています。従って、各回の講義毎に私なりに要点をまとめたものをこのブログの最後に付録として追加しています。また、更に各講義の詳しい内容について個別に知りたい方は私のレジュメ(Death_résumé/Word A4で35ページ)をご覧になってください。これをみても何を言っているかわからん!?という方は、本書を購入(1850円)して読んでみることをお薦めします

「般若心経」の死生観

般若心経
般若心経(臨済宗・建長寺派 崇禅寺の日課経典より)

私たち日本人にとって、最も身近にある宗教は言うまでもなく「仏教」です。しかし、多くの日本人にとって仏教は「葬儀」や「法事」で触れることはあっても、日常の生活の中で、仏教的な環境に置かれる機会は非常に少ないのではないでしょうか。一方、キリスト教にあっては日曜日の礼拝、イスラム教にあっては1日5回のメッカに向かっての礼拝を守っている人も多くいるようで、宗教に対する姿勢にかなり隔たりがあるような気がします

私も、大学院修士課程2年の後半、父の死に向き合わざるを得ない状況になるまでは、全くと言っていいほど宗教には無縁な生活をしていました。その頃、自宅にあった小さな小さな仏壇には、戦前に満州で亡くなった私の姉2人の小さな白木の位牌があるのみでしたが、父が入院した後、朝晩この仏壇に向かって母が一心に祈る姿を見ていました。しかし、私自身は父の治癒を仏壇に向かって祈ることはありませんでした
翌年の2月に父が亡くなってから、大きな喪失感と病弱の母をこれから支えていかねばならないという責任感で、暫し何も手につかなかったことを覚えています。そこで朝晩、仏壇に向かって「般若心経」を声を出して読むことで、心の平衡を取り戻していったことが思い出されます。母の死も、ほぼ回復を約束されていた手術の直前に急死したこともあって、心の痛手は小さくなく、この時も「般若心経」を声を出して読むことで、乗り越えていきました

「般若心経」が求めている境地は、「人間の一生は「無」から生まれ「無」に帰っていく、生きていることは「苦」(生老病死)の連続である」ということですが、もう少し詳しく知りたい方は(「般若心経_現代語訳)をご覧になってみてください

「般若心経」については、根本の教理は変わらないものの、色々な解釈があります。父が亡くなって以降、色々勉強した中で、私は以下の二つの解釈が心に響くような気がしましたので紹介いたします;

生きて死ぬ知恵_柳澤桂子 著
生きて死ぬ知恵_柳澤桂子 著

1.著名な分子生物学・生命科学の研究者である柳澤桂子氏が、30年以上に亘って激しい痛みとしびれを伴う原因不明の病(後に「周期性嘔吐症候群」と診断されました)に苦しんでいた時に「般若心経」と出会い救われたと回想しています。科学者であることから「人間も含め物質は全て原子からできており、一面の原子の飛び交っている宇宙の中で、私たちはところどころ原子が密になっているだけの存在」という認識から出発している所に特徴があります。理系の人間にとっては理解しやすいかもしれません。詳しくは(般若心経_柳澤桂子訳)をご覧になってください

2.私が、折に触れ手にして読んでいる「臨済宗・建長寺派 崇禅寺の日課経典」に「般若心経和讃」というお経が入っています。これは文字通り日本語訳なのですが、庶民を対象にしたお経であることから、日常の庶民の悲しみ、苦しみをどう乗り越えていくかを七五調で具体的に説教しているところが素晴らしいと思います。是非一度ご覧になってみて下さい:般若心経和讃_臨済宗建長寺派・崇禅寺・日課経典

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看取りについて

看取りに関する二冊の本
看取りに関する二冊の本

A.看取りに関する二冊の本;
冒頭でも述べた様に、妹の死とその家族の「看取り」を間近で経験する機会があり、既に老境に入っている私たち夫婦にはその覚悟が無いことに気が付きました。そこで、まず看取りの実態を知る必要を感じて読んだのが以下の2冊の本です(上の写真参照);
1.「死を生きた人びと」
筆者の小堀鷗一郎(こぼりおういちろう)医師は、国立の医療機関で40年間、外科の勤務医として勤めた後、私の住んでいる所にほど近く、私の母も亡くなる前に世話になったことがある「堀之内病院」に赴任しました。2005年になって退職する同僚に依頼されて「寝たきりの患者2名」の訪問医療を引き継ぐことになったことがきっかけで「在宅医療」の世界に入ることになったそうです
2000年4月に、国が「介護保険制度を創設し、高齢者の終末期医療の場を病院から自宅に移行させる方針を決定して以降、現在では、堀之内病院でも専属医師4名、看護師2名による地域医療センターが創設され、充実した体制が整えられています(以下の表参照);

堀之内病院・地域医療センターの訪問医療登録患者数(上)と月当たりの訪問医療回数(下)
堀之内病院・地域医療センターの訪問医療登録患者数()と月当たりの訪問医療回数(

筆者は、これまで355人の看取りに係り、現在の問題点について以下の様な指摘を行っています;
① 今の日本では、患者の望む最期を実現することは非常に難しい。「死は敗北」とばかりにひたすら延命する医者目前に迫る死期を認識しない親族や患者が多い
②行政と社会は、 病院以外での死を「例外」と見做し、老いを「予防」しようとする
「病院死」が一般化するにつれ、自分や家族がいずれ死ぬという実感が無くなってしまっている
筆者は、日々の往診の際に患者と語り合ううちに、患者の7割は自宅での死を求めるようになる(現在の日本では8割が病院で死亡している)と言っています

ご存知の方が多いと思いますが、医師の居ない状態で亡くなると、不審死として警察が介入し、本人や家族が希望しない解剖による検死が行われる可能性があります。これを避けるためにも、また痛みなどの緩和措置を適時、適切に行ってもらうためにも。在宅死を希望する場合は、医師の訪問看護を前提にする必要があると言っています

2.「死にゆく人の心によりそう」
筆者の玉置妙憂(たまおきみょうゆう)氏は消化器外科の看護師をしていましたが、在宅死を希望した夫の看取りを2年間行いました。夫の「自然死」という死に様があまりに美しかったとから、49日の納骨が終わった段階で出家を決意、真言宗・高野山で200日に亘る厳しい出家のための修行を経て僧侶となりました。その後、看護師の仕事を続ける傍ら、死期の近い患者やその家族の間に入って、精神的なケアを行う「臨床宗教師として多くの看取りを実践してきました。以下は、看取りの実践を行う過程で得た「死に向うプロセス」に関する観察記録です

<死に向かうとき、心と体はどう変わるのか>
① 死の3ヶ月前から起こること外界に興味が無くなり、内に興味が向く;食欲が落ちて食べなくなる⇒痩せる;眠くなり、夢を見ながらうつらうつらする
② 死の1ヶ月前から起こること血圧・心拍数・呼吸数・体温などが不安定になる;痰が増えるが暫くすると元に戻る;夢かうつつか分からない不思議な幻覚を見る
数日前から起こること 急に体調が良くなる; 血圧・心拍数・呼吸数・体温などが更に不安定になる
④ 死の24時間前頃から起こること 尿が出なくなる; 下顎呼吸になる;尿と便がバッ出る; ㋥目が半開きになり、涙がでる; 息を吸って、止まる

<大切な人の死を看取る人の心に起こること>
① 何もすることが無いと不安になる: することが無くなって手持ち無沙汰になる; 「食べたくない」と言われて心配になる
② 「まだ大丈夫」と「もうダメかも」の間で心が揺れる: 自分の希望のために、不必要なことをしてしまう; お酒やタバコが欲しいと言われても拒んでしまう
③ 別の世界に行きつつあることを理解できない: 奇妙なことを言われて否定してしまう ⇒ 同じ空間にいるだけでいい
④ できることは全てしても後悔する:⇒ 起こったことはすべて「よかったこと」

<上記以外で心に残ったポイント>
* 余命を告げられた時に、本人がそれを受容するまでに、否認⇒怒り⇒取引⇒抑うつ⇒受容というプロセスを辿る
* 「スピリチュアル・ペイン」とは終末期特有の心の痛みからくることで、看護する人に「なぜ死ぬのだろうか?」、「どれくらい生きていられるのだろうか?」、「私の人生は、何だったのだろうか?」と聞いてきます。看護する人には答えようのない問題ですが、「何をバカなことを言ってるの」などと言って逃げたり、諭したりするのではなく、死にゆく人の言葉に耳を傾けてあげることが大切 

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B.「病床六尺」を読んで;
看取られる側の死に至る迄のプロセスについては、当然のことながら亡くなってしまえば書いて残すことが出来ないので、中々いい本が見つからなかったのですが、何かの拍子に学生時代に読んだ正岡子規の「病床六尺を思い出しました。家の中を探してみましたが、見つからなかったので、ネットで購入できるか探してるうちに、電子化された病状六尺の全文がネットから手に入れることができると分かり(恐らく短編であり著作権が切れている為と思われます)読み返してみました

内容はご存知の方も多いと思いますが、1902年5月5日~同年9月17日までの136日間、127回に亘って日刊新聞「日本」に掲載された、評論を中心としたエッセーです。最終稿が投稿されて二日後に亡くなりました。日刊新聞「日本」といえば、今年、終戦記念に因むNHKの特集番組で、国粋主義を標榜する編集で国論を動かし、日本を軍国主義に導いていったメディアとして紹介されましたが、このエッセー自体はそうした内容は皆無です。ここでは、死を間近しながら、舌鋒鋭い評論の部分は割愛することとし、当時「死病」であった結核菌による脊椎カリエス(私の父の姉もこの病で20代前半に無くなっています)で、死の恐怖と極度の痛みに苦しみながら、どのように過ごし、亡くなっていったかに注目したいと思います;

*最初の投稿で、「苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤(鎮痛剤?)、僅かに一条の活路を死路のうちに求めて安楽を貪るはかなさ、それでも生きて居ればいいたい事はいいたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限って居れど、それさえ苦しんでいる時も多いが、読めば腹の立つこと、癪に障る事、たまには何となく嬉しくてために病苦を忘るるような事がないでもない」 ⇒ 精神的、肉体的に厳しい状況になっていても、評論という創作活動を行うことで、絶望しないで生きることが出来るということか、、、
* 21回目の投稿で、「余は今まで禅宗のいわゆる悟りということを誤解していた。悟りということは如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違いで、悟りということは如何なる場合にも平気で生きていることであった」 ⇒ 死期が迫っている自覚があるなかで、創作活動を続けることが出来たのはこうした悟りに達していたからか、、、

* 病状が厳しくなった39回目の投稿で、「死ぬることが出来ればそれは何より望むところである。しかし死ぬる事も出来ねば殺してくれるものもない」 ⇒ 自死をする体力も失ったということかもしれない
* 看護に触れている66回目の投稿で、「おんなの務むべき家事は沢山あるが、病人ができた暁にはその家事のうちでも緩急を考えて先ず急なものだけをやって置いて、急がない事は後回しにするようにしなくては病人の介抱など出来るはずがない、、、んうんと唸っている病人を棄てておいて隅から隅まで拭き掃除をしたところで、それで女の義務を尽くしたという訳でもあるまい」 ⇒ 献身的な介護をしていた妹の「律」に向かって言っているとすれば、現代では許されないコメントかもしれない

* 病状が進んだ86回目の投稿で、「このごろはモルヒネを飲んでから写生をやるのが何よりの楽しみになっている」 ⇒ 現在の緩和治療では、痛みに応じて多くの種類の鎮痛剤(モルヒネを含む多くのオピオイド系鎮痛剤)を処方できる
* 127回目の最終稿を送った翌日の9月17日、死が目前に迫ったことを覚り、以下の辞世の句を自身で唐紙に書きつけ、19日未明に息を引き取りました。享年36歳でした;
⇒ 「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
⇒ 「痰一斗糸瓜の水も間にあわず
⇒ 「をととひのへちまの水も取らざりき
(注)糸瓜は「へちま」のこと。ヘチマの蔓を切って液をとり、飲むと痰が切れ、咳をとめるのにいいとされ、子規の家でも庭にヘチマを育てていた。子規の命日を「糸瓜忌」というのは、この辞世の句が由来です

おわりに

およそ4ヶ月のあいだ、死の問題に取り組んで来ましたが、「自身の死に関して覚悟ができたか」と問われれば”否”と言わざるを得ません。雑誌”Newton”が教える「生物としての生と死」は否定しようがない真実です、またシェリー・ケーガン教授が教える最新の哲学、倫理学から理論的に導かれる「人間の生と死の実相と、それを前提とした正しい生き方」も、ごく一部を除けが納得ができます。

一方、私が50年近くに亘って馴染んできた「般若心経」の死生観については、頭の中ではある程度理解ができるものの、死を超越する悟りの境地(子規の境地?)には程遠い状態です。しかし、この先に何かがあるような感覚は持っています
また、「看取り」の問題は、今回の勉強で自身の心の準備とは別に、在宅死を望むのであれば、家族の理解を得るため準備しておくべきことや、在宅医療のサービスを受けるために必要な準備があることが分かりました

私の死に対する準備が整うまで、「死神さん、ちょっと待って!」というのが今の心境です

付録 -- “シェリー・ケーガン著:「死」とは何か” 各講義の要点

第1講:「死」について考える
本書では、私たちの生き方は、「やがて死ぬ」という事実にどの様な影響を受けて然るべきか? 「必ず死ぬ」という運命に絶望するべきなのか? 「死」を恐れるべきか? 「自殺」の合理性と道徳性、などについて論理的な検討を行う
本書は哲学の本なので、宗教的な権威に訴えず、「死」に関して知り得ることや、理解しうることについて、論理的思考力を使って、注意深く考えることに徹する

「死」が終わりであることが筆者が依って立つ前提となる

第2講:死の本質
人間の機能を、心臓を動かしたり、呼吸をしたり、歩いたりする身体の機能「身体機能(B機能)」と、高次の様々な認知機能を「人格機能(P機能)」とすれば、生まれてから暫くは「B機能」のみ、その後、意思疎通をしたり、理性や創造性を発揮し始め「P機能」を持つこととなる。そして、かなり長い時間が経ってから両機能が停止するが、その状態は議論の余地なく「死体」となる。しかし、「B機能」と「P機能」が同時に停止するとは限らない
「人格説」を取れば、人格を失った時点で死んでいるので「心臓移植」は問題ないと言えるが、「身体説」をとれば生きている人間から心臓を取れば確実に死に至るので「殺人」ということになり、道徳的に許されないことになる

生死の境は実は曖昧。眠っているときにP機能をはたしていないとしても、起こせばP機能を発揮できるので、新たな生きている定義として、「実際にP機能を実行していなくても、それでもP機能果たせる能力を持っている」とすればどうか。こうすれば、P機能を果たせなくなるということは、P機能を果たす能力を支える「脳の認知機能」が壊れ働かなくなった状態と説明することが出来る

死とは何か -- 筆者の哲学的回答;
哲学の観点に立つと、ここでは何一つ謎めいたことは起こっていない。身体が作動し、それから壊れる。「死」とはただそれだけのことだ

第3講:当事者意識と孤独感 -- 死をめぐる二つの主張
主張①:誰もがみな、“自分が死ぬ”ことを本気で信じていない;
根拠_A:病気になり「死」の直前までの状況は想像できるが、死後の状況までは想像できない ⇔ 自分が思い描いたり、想像したりできないような可能性は信じられない
根拠_B:「自分がいつか死ぬ」とは本当は信じていないから;
私たちはみな自分の身体が最終的には機能しなくなると、確かに認めている。何故なら、生命保険に入るのは、自分が特定の期間内に自分の身体が死ぬ可能性があると信じていて、残された家族が暮らしていけるようにしたいと願っているからだろう。また、遺言状を書くのも同じ理由だろう

主張②:死ぬときは結局独り;
「独りで死ぬ」ならば、それは必然か、偶然か;
この主張に関しては、ただ「正しい」ことが判明するだけでは納得するには不十分だ。私たちが探し求めているのは恐らく、死に関する「必然的真理」なのだろう
死を取り巻く「孤独感」;
「死ぬときは結局独り」という主張は、私たちが死ぬときの心理状態が「孤独」に類似しているということかもしれない。死の床に就いたその人は、他の人々に囲まれているかもしれない。にもかかわらず、その人は他者から引き離され、遠く疎外されているように感じている。その人は、大勢の人の中にいてさえ、孤独感を覚える。これこそが、人が言わんとしていた種類の「独りでいる」ことなのかもしれない
筆者の結論:「私たちはみな独りで死ぬ」と人は良く言うけれど、その主張はただの戯言だと思う

第4講:死は何故悪いのか
死はどうして、どんなふうに悪いのか;
殆どの人は「死は悪い」と信じていると筆者は思っている。しかし、死が本当に一巻の終わりであるなら、死は本人にとって悪いものであるはずがないように思える。何故なら、死んでしまって本人が存在していないのであれば、何一つ本人にとって悪いはずがないということは妥当な事ではないだろうか

死は何より、「残された人にとって、悪い」もの?;
残された人にとって、死者との交流する機会をすべて失うことになり、それが死の最悪の点である。しかし、それは「死のどこが悪いのか」という点に関しては、その核心にあるとは思えない

「死ぬプロセス」や「悲しい思い」こそが「悪い」?;
自分がいずれ死ぬと考えたときに、恐れや不安、心配、後悔、その他、を感じるのは、「死そのものが自分にとって悪い」という考えが先にあってこそ筋が通る。言い換えれば、恐怖や胸騒ぎでどうしようもなくなるのは、待ち受けているもの、予期しているもの自体が悪い時に限られる

死の本質は何か;
人間の機能を、心臓を動かしたり、呼吸をしたり、歩いたりする身体の機能「身体機能(B機能)」と、高次の様々な認知機能を「人格機能(P機能)」
「人格説」を取れば、人格を失った時点で死んでいるので「心臓移植」は問題ないと言えるが、「身体説」をとれば生きている人間から心臓を取れば確実に死に至るので「殺人」ということになり、道徳的に許されないことになる

哲学の観点に立つと、ここでは何一つ謎めいたことは起こっていない。身体が作動し、それから壊れる。「死」とはただそれだけのことだ

「死が悪いことか」という問題;
昔から多くの哲学者が理論を展開してきたが、筆者の結論は;
剥奪説」こそが、進むべき正しい道に思える。この説は死にまつわる最悪の点を実際にはっきり捉えているように見える。死のどこが悪いのかといえば、それは、死んだら人生における良いことを享受できなくなる点で、それが最も肝心だ。死が私達にとって悪いのは、私たちが死んでさえいなければ人生がもたらしてくれただろうものを享受できないからにほかならない

第5講:不死 -- 可能だとしたら、あなたは「不死」を手に入れたいか?
死は人生における良いことを剥奪するから悪いのであるなら、最も望ましいのは永遠に生きることなのだろうか?
天国での永遠の時を約束する宗教でさえ、詳細については非常に遠慮がちであることは際立っている。何故なら、実際に詳細を埋めようとすると、この素晴らしい「永遠の存在」は、結局それほど素晴らしくは見えなくなることが懸念されるからだ。例えば、私たち全員が天使になり、永遠に賛美歌を歌って過ごすことになると想像してみれば、天国はそれほど素晴らしくは見えないことが懸念される

筆者は、「永遠にやりたいと思えるようなことを考え付くのは不可能だと思っている。また、自分が永遠に続けたいと願うような人生は一つとして思いつかない」と思う。
「不死」は実は、是非そこから逃れたくなるような悪夢となるだろう

第6講:死が教える「人生の価値」の測り方
人生の価値;
快楽主義について:快楽主義の見方は、哲学が生まれたときから既にあり、哲学者の間で人気が高い。しかし、筆者はそれが間違えに思えてならない。最良の人生には、快感を手に入れて痛みを避けること以上のものがあるように思える。単純な快感ではなく、実際には、「友情を育み」、「語り合い」、「睦み合い」、「愛し合う」といった人間が真に切望する最高級の快感があるはずだ

人生に何が起きているかという問いとは別に。「生きていること自体の恩恵」というものがある。現に生きているというだけの事実が、人生に更なる価値を与えるという主張で、これを「価値ある器説」という
「生きていることそのものには信じられないほどの価値があるので、人生の中身がどれほど身の毛がよだつものでも、総計はいつもプラスになる」と考える人もいる。筆者としては、この様な考え方は夢物語であり、荒唐無稽で信じがたく、どうしても信じる気になれない

第7講:私たちが死ぬまでに考えておくべき、「死」にまつわる6つの問題
人生の送り方;
1.「死は絶対に避けられない」という事実を巡る考察
2.なぜ「寿命」は、平等に与えられないのか
3.「自分に残された時間」を誰も知りえない問題
4.人生の「形」が幸福度に与える影響;
イェール大学の学生で、この疑問に直面しなければならなかった学生がいた。この学生は一年生の時に癌の診断を受け、医師から回復の見込みがなく、あと2年しか生きられないことを告げられたた。彼は残されたあと2年で何をするべきかと考え、自分の目標は「学位をとり卒業すること」と定めた。その一環として4年生の後期に、私の「Death」の講座を選択し出席していた。しかし、春休みを迎える頃には病状が悪化し、医師に学業の継続は無理と言われた。その学期に彼が取っていた講座の教員は、大学の管理部門から「学期のその時点までの実績に基づいて、彼にどの様な成績を与えるつもりがあるか」と問い合わせが来た。つまり、かれが卒業可能となるだけの単位が取れるかの確認であった。結果として、彼は十分な単位が取れており卒業可能であることがわかった。そこでイェール大学は、見上げたものだが、管理部門の職員を死の床に派遣し、彼が亡くなる前に学位を授与した
5.突発的に起こりうる死との向き合い方;
6.生と死の組み合わせによる相互作用;
筆者は、単に合計を求めるだけでは足りないと考える。人生の境遇を全体として評価するには人生の良さと死の悪さを、ただ合計する以上のことが重要だ。それは、「生」と「死」の間にある「相互作用効果」だ、この相互作用によって人生の価値がプラスになったりマイナスになったりする

第8講:死に直面しながら生きる
死にまつわる事実を認めるものの、「どう生きるべきか」についてまだ自問していない人に対しては、この後でこの人たちの疑問に答えていきたい
死にまつわる事実については、考えるべきときと場がある。自分が死ぬべき運命にあるという事実を、常に目の前に置いておくべきかという人が居たら、その人は間違っているとおもう。しかし、死ぬべき運命と死の本質について決して考えるべきではない、という人が居たら、やはりその人も間違っていると思う
死に対するごくありふれた反応の一つに、「非常に強い恐怖」がある。ただ、筆者が知りたいのは、死に対する恐れは「適切な応答かどうか」、また「理にかなった感情かどうか」だ。恐れの3条件;①恐れているものが、何か「悪い」ものである;②身に降りかかってくる可能性がそれなりにある;③不確定要素がある
恐れの中身;
①死に伴う痛みが恐ろしい;
②死そのものが恐ろしい:誰かが「死を恐れている」という時に、本当は「死ぬプロセス」を恐れている場合もあるかもしれないが、殆どの人は「死んでいるところ(⇔死んだらどのようになるか)」を恐れているように思う。しかし、それはこの恐れが適切であるための条件は満たしていないと筆者は考える
何故なら、死んでしまえばどんな種類の経験もできない(⇔第3講で考察済み)。死んだとき、何らかの経験はするが、それは通常の経験とは違うので想像はできないはず。死んだらもう、いかなる経験も存在しないのだ
③予想外に早く死ぬかもしれないのが恐ろしい:若者が実際に死ぬ可能性は、統計的にみれば極端に低い。その可能性があまりに低いので若者が本気で恐れるのは全く適切には思えない。歳をとるにつれ、特定の期間内に死ぬ可能性は着実に高まるものの、この場合でも「間もなく死ぬという恐れ」は不釣り合いなまでに大きくなりやすい。死が間もなく訪れかねないのを恐れるのは、とても病気が重い人や、とても高齢の人であれば理に適っている。死はまったく逆らいようのないものだから、私は恐ろしくて仕方がない」という人が居るのは本当だと思うけれど、死を極端に恐れる気持ちは適切な感情では無いと思わざるを得ない。事実を見る限り、それは筋が通らないのだ

死ぬか死なないか以前に、人生を台無しにしないこと:私たちが死を免れないのなら、人生を台無しにする危険は大きい。(不死でなければ)死がすぐに来てしまい、やり直しを試みる時間はとても短いことを常に念頭に置いていなければならない

業績や作品は永久に不滅か;
死と向かい合いながら生きるための戦略について考えるにあたって、この種類の不滅性を追求するに値するかどうかを問うことだ。つまり、自分の作品や業績を通して生き続ける、あるいは子供を通して生き続けるということは、文字通り生き続けるのとは違うからだ。それは「半不滅性」あるいは「準不滅性」だろう
「半不滅性」を主張する第一のタイプ:「自分の一部が子供のから孫、、、に引き継がれるから」、あるいは、ドイツの哲学者ショーペンハウアー(1788年~1860年)が言っている「自分の身体を構成している原子は、死んでも存在し続け、何か別のものに再利用される」という考えについては、筆者は同意できない
「半不滅性」を主張する第二のタイプ:亡くなっても、「その人の実績が残り続ける」筆者は、この第二のタイプに価値があるという考えに惹かれている

人生の価値をできる限り高めるための戦略とは;
これまで語ってきた人生戦略の根底にある信念は、「人生は良いもの、あるいは良いものとなりうるので、じぶんの人生をできる限り価値あるものにしようとするのは理にかなっている」ということだ。

死と仏教、キリスト教と生き方の関係;
これまでの議論を単純化し、一般化すれば、「人生は良いもの、あるいは良いものとなりうるので、じぶんの人生をできる限り価値あるものにしようとするのは理にかなっている」という基本的な見解(第一の見解)は、おおざっぱに言えば西洋的な見解だ。一方、「人生は、本当は大切に受け入れる価値がある、潜在的に価値に満ちた貴重な贈り物ではない」というのは、おそらく東洋的な見解第二の見解)だ。この有名な例が仏教にみられる。仏教徒は、人生の本質は、「喪失と苦しみ」と言っている。仏教徒はこうした良いものへの愛着から自分を解放し、それらを失った時の痛手最小限になるようにしようとする。筆者は、仏教に途方もなく深い敬意を抱いている。ただ、筆者は西洋の生まれであり、「創世記」の産物だ。「創世記」では神は世界を眺め、それが良いものであると判断を下す。少なくとも筆者は、人生がネガティブなものだと認めることで喪失を最小化する戦略は受け入れられないとしている。だとすれば、筆者にとって、ひょっとすると私たち殆どにとって、もっと楽観的な戦略から選ぶのが妥当であると思われる

第9講:自殺
自殺を「自己利益」の問題と「道徳性」の問題に分けて考える
「自己利益」の面から考えれば、「癌の様な最終的に死に至る消耗性疾患の末期の人を想像すれば、痛みがひどく、苦しむこと以外ほとんど何もできないかもしれない。色々な楽しみも無くなり、ただ痛みの為に取り乱し、痛みがやむことを願うばかりになる。また、アルツハイマー症やALS(筋萎縮性側索硬化症)の様な変性疾患にかかって、人生に価値を持たせるようなことが徐々にできなくなり、自分の身の回りの最低限のことさえままならなくなる。これらのような場合は、自殺することが理に適っている」と筆者は考える
ただ、変性疾患の場合、身体のコントロールはできなくなるものの、頭脳は何の問題もなく働き続ける間は、家族やそのほかの人がサポートしてくれれば、生き続ける価値があると考えられる。ただ最終的に人生を送る価値がなくなる時が来ることは想像し得る。しかしこうなれば、自殺する能力もなくなる可能性もある。分かってもらえると思うが、ここで自殺は安楽死の問題に変わる
明晰な思考ができない状況で下した判断は信頼に値しない。信頼に値しないなら、結局自殺が合理的な判断になることなど決して無いように思える
自殺するという判断は慌てて下してはいけない。医師とよく話し合い、自分の愛する人々と十分話し合うべきだ。その結果下した判断は、どんな判断であれ理に適ったものとして信頼するに値するのではないだろうか

現実の自殺の事例は、実にこの肝心な条件を満たしていないことが多いと筆者は考えている。多くの自殺のケースでは、以前の人生と比べたり夢見ていた人生と比べたり周りの人の人生と比べたりして、今の人生は生きる価値が無いと思い込む。しかし、期待した人生ほど生きる価値が無かったとしても、やはり存在しないよりは良いのだ

道徳性」の面から考える;自殺は合理的な選択であり得るとしても、自殺がなお不道徳であり得る。ただ、道徳性と合理性という二つの概念を切り離せるかどうかについては、哲学では大論争になっている
この問題に対する最も優れた回答は、イギリスの哲学者デイヴィッド・ヒューム(1711年~1776年)が行っている:「少なくとも、自殺が神の意思に背くという考えには説得力があると思う人がいたら、誰かの命を救うのは神の意思に背くというのも、なぜ説得力があると思わないのだろうか?神はその人を死なせるつもりだったのかもしれないではないか!
例えば、もし皆さんが医師で、誰かが心肺停止の状態になっていたら、直ちに心肺蘇生法を施せるのに、「ああ私はこんなことをしてはいけない。この人が死ぬのは神に意思だから、この人の命を救うのは、神の思し召しを妨害していることになります」などと言うだろうか?そんな人はいない。であれば、「自殺は神の思し召しに反する」ということもあり得ないということになる

「命はとても素晴らしい贈り物であり、この与えられた贈り物を大切にし、恩返しをしなければならない。だから私たちは生き続ける義務があり、自殺は道徳に反する」という意見がある。筆者は、この主張にも説得力が無いと考えている。何故なら、恩義とは一体何を意味するかに注意を払う必要があるからだ。しかし、恩義とはいっても、与えられた本人が有難いとは思わないこともあるはず。そんな場合、恩義に報いることに道徳的な必要性はないはず。「たとえ汝の人生が悲惨な状況になり、死んだほうがましだとしても生き続けよ。もし自殺をすれば、永久に地獄に落とすぞ」と神が言われたとしたら、恐らく自殺しないほうが賢明だが、そこには道徳的な必要性は無いはずである。従って、感謝の念に訴えることに基づいて自殺に反対する主張はうまくいくはずがない

全ての「道徳論」に共通する考え方として、自分の行動の結果がどうなるかを問うことは、いつも道徳的に重要である。
自分自身は?:自殺が自己利益の観点から合理的なものとして受け入れられるケースでは、自殺をすれば、そうしない限り被らなければならないだろう苦しみから解き放たれると仮定すれば、自殺をする判断が実は道徳的に支持されるようにも思える。道徳性の観点からは、自殺をしようとしている本人だけでなく、全ての人にもたらされる結果を考えねばならない。これに関連する最も重要な人は家族、愛する人、友人など本人のことを最も直接的に知り、気にかけている人々だ。これらに人々に関しては、自殺が大きな嘆きや苦しみをもたらすので、自殺の結果は一般的に悪いと主張するのが妥当と思われる。
しかし、行動の結果はたいてい良いものと悪いものが混ざり合っている。従って。自殺者の家族や友人や愛する人に嘆きや痛みをもたらすというネガティブな結果があるとしても、もしその自殺者が死んだほうが本当にましなら、本人の受ける恩恵の方が勝るかもしれない

①功利主義的立場:万人の幸福を同等に扱いながら、「正しいか誤りかは万人にどれだけ多くの幸福を生み出せるかの問題である」とする道徳の主義だ。この立場に立てば、誰かの死によってあまりにも大きな悪影響を受ける人々がいて、本人が生き続ける代償よりも、その人々への害の方が大きい場合、自殺しない方が良い。しかし、自分は死んだほうがましで、他者への影響がその事実を凌ぐほどに大きくない場合は、自殺が正当化される。

②義務論的な立場:自分の行動の良し悪しを結果だけでなく、他の事柄にも目を向けなければならないと考えること。
思考実験:臓器移植を行う場合、一人の健康な人を殺してその臓器を5人の患者を生かすために使ったとした場合、功利主義に立てば許されるように見えるが、直感的に罪のない人を殺すのは間違いであることが分かる。人には殺されない権利があり、罪のない人を害することを義務論が禁じているのは、大抵の人が受け入れる。
しからば、「私という罪のない人間」を殺す反道徳的行為にならないか? 私が死んだほうがましな場合には、自殺しても自分を全体として害するわけではなく、自分に恩恵を与えていることになる。だから、全体として害してはならないという禁止に反してはいない。これが正しいなら、義務論の観点から考えても、自殺は特定のケースでは道徳的に正当と言える

自殺の道徳性に関する筆者の結論;
功利主義の立場を受け入れようと、義務論的な立場を受け入れようと、自殺は常に正当であるわけではないが、正当な場合もある。自殺しようとする人に出会った場合、その人がよく考え、妥当な理由を持ち、必要な情報も得ていて、自分の意思で行動していることが確信出来たら、その人が自殺することは正当であり、本人の思うようにさせることも正当だと思える

以上

野菜栽培の現況

今年5月6日にブログで報告(平成と令和の春!)してから3ヶ月ほどが経過しました。既に7月末、見出しの写真は、漸く長い梅雨が終わろうとしている7月24日での夏野菜の収穫状況です。今年の夏野菜のチャレンジの第一はナスの栽培品種を増やすことでした。種の入手経路は、今までの国華園に加え両親の故郷・長野県の種苗業者である信州山峡採種場からも調達を行いました。この種苗業者は全ての種の値段が種の量によって100円から売られていることです。家庭菜園の様に「小規模」生産では常に種が余り、翌年以降に繰り越すと発芽率がかなり落ちてきて無駄になるために大変重宝しています
見出し写真の上部にナスが3種類ならんでいます、左の丸い大きなナスは「小布施丸茄子」です。両親の出身が長野県であった為、親戚からのお土産で頂く機会が多かった「お焼き」が大好きでしたが、この材料になるナスです。実が固いので、恐らく輪切りにして「ナスの田楽」にしても美味しいと思います。写真の左側のつやの良いナスは国華園で調達した「泉州水ナス」です。これは、3年弱関西に駐在していたころに味わった「水ナスの浅漬け」を忘れられず、今年初めてトライしてみました。ただ、現在の所あの浅漬けの味が出せずにワイフと研究中です

水ナス_7月2日
水ナスの最初の収穫_7月2日

真ん中のナスは関東地方で一般に売られている「長なす」です。これまで失敗したことが無かった品種ですが、今年は3本育てた内1本が生育途中で突然枯れてしまいました。原因を調査する為にこのコンテナの土を取り出して子細に調べた結果、以下の写真の様にコガネムシの幼虫に根を食べられた為と分かりました

コガネムシとその幼虫
コガネムシとその幼虫

見出し写真の中ほどにあるトマト(3種)のうち、黄色のプチトマトは信州山峡採種場で調達した「交配・ミニトマト オレンジ」です。これは糖度が高くて吃驚しました。また100円で種が3粒しか入っていないのにも驚きました(3粒全て発芽しました!)。「赤いミニトマト」は昨年国華園で調達した種を使いました(味はやや酸味が強い)。右端の大きなトマトも信州山峡採種場で調達した「世界一トマト」です。味は幼い頃馴染んでいた露地栽培のトマトと同じでやや酸っぱいのですが、甘くないトマトもそれなりに美味しいと思います。屋上菜園を始めた頃にチャレンジして失敗した大きなトマトも、種さえ選べば素人の露地栽培でも収穫可能であることを知って嬉しくなりました

大きめのトマト
収穫した最大のトマト_7月26日

尚、小さめのトマトの皮が割れているのは、梅雨が例年になく長引いたためです(⇒ 露地栽培の宿命!:今や拙宅の近所で露地栽培を行っている農家は皆無です)

見出しの写真の左下の情けないキュウリ!は、梅雨の長雨でウドンコ病、ベト病が発生し葉がほぼ役に立たなくなったせいです(下の写真の左側参照)。ただ6月半ばまでは立派なキュウリを収穫することができていました。第一世代は程なく収穫不能になると考え、7月初めに植え付けた第二世代(下の写真の右側参照)によって7月27日から新しいキュウリの収穫が可能となりました

キュウリの生育状況
キュウリの生育状況

見出し写真の一番下はピーマンです。ピーマンの栽培はここ数年病気などにより多くの収穫ができませんでしたが、信州山峡採種場から調達した「改良巨大ピーマン」を購入して育ててみたところ、病気にも強いようで7月以降収穫は好調です。”巨大”とありますが、普通のピーマンの大きさで収穫する方が収穫量は多いようです

その他の報告事項

1.ジャガイモの収穫;
5月のブログ(平成と令和の春!)で切り口を上にして植え付けたものと、今まで通り切り口を下にして植え付けたものとで、収穫状況を比べてみることを約束しましたが、結果は以下の通りです;

男爵イモの収穫_6月5日
男爵イモの収穫(21.8kg)_6月17日

*切り口の収穫量:6.4kg/3コンテナ ⇒ 2.13kg/1コンテナ
*切り口の収穫量:15.4kg/7コンテナ ⇒ 2.20kg/1コンテナ

となり、両方の植え方には収穫量面で有意な差が無い!ことが分かりました

2.タマネギの収穫;
昨年のブログ(寒風吹きすさぶ!真冬の野菜栽培)で長期保存が可能なタマネギは何とか11月下旬に植え付けることが出来たこと(苗はちょっと弱々しい!)、また生食用のタマネギは苗が植え付けるまでに育たなかったことで、翌春の植え付けとしたことを報告しました。前回のブログ(平成と令和の春!)で3月6日に定植し、5月6日の生育状況は順調とご報告しましたが、5月27日に収穫したところ;

タマネギ2種の収穫_5月27日
タマネギ2種の収穫(11.0kg)_5月27日

全般的に球が小さく、収穫量は昨年までに比べると少な目となりました。やはり良い苗を育て、秋の定植時期をきちんと守らないと、いいタマネギはきないことを改めて学びました

3.袋栽培の状況;
前回のブログ(平成と令和の春!)でチャレンジすることを書きましたが、実際に植え付けた野菜は以下の通りです;

袋栽培_巨大ピーマン・辛長唐辛子・鷹の爪_7月28日
袋栽培_巨大ピーマン・辛長唐辛子・鷹の爪_7月28日

袋栽培_縞ウリ・ゴーヤ・サツマイモ_7月28日
袋栽培_縞ウリ・ゴーヤ・サツマイモ_7月28日

生育状況は概ね順調です。ただ縞ウリはキュウリと同様、長梅雨の為にウドンコ病、ベト病に罹り元気が良くありません。梅雨明けで元気になってくれるといいんですが、、、
いずれにしても、袋は「牛糞堆肥」を買えばタダで手に入るので、これからは高価な栽培用コンテナの更新(5年ぐらい使用するとプラスティックが老化して脆くなります)は最小限に出来そうです(⇒コストの削減!

4.その他(蛇足?)
袋栽培の写真にある「辛長唐辛子」(正式名称:トウガラシ・F1辛長キング)は国華園で調達しましたが、下の写真にあるように兎に角大きい唐辛子です;

辛長唐辛子
辛長唐辛子

種の説明によれば、韓国キムチ専用で使われる品種です。赤くなる前に青色で収穫すれば、酢味噌を付けて生食も可能と書いてあります。拙宅では天ぷらで食べることもあります。また、種を除いて薄い輪切りにしてサラダに加えれば、適度に辛味のきいた大人のサラダになります

信州山峡採種場から「サラダからし菜」を調達し、春から二度にわたって収穫しています。とにかく成長が早いので、朝の生野菜サラダには最適の野菜です;

サラダからし菜_7月29日朝食
サラダからし菜_7月29日朝食

生で食べるとちょっと辛味がありますが、私は大好きです。上の写真の朝食は卵を除き全て我が家の屋上野菜です。生サラダに入っているタマネギのスライスは、やや出来損ないのタマネギを朝食用として無駄なく活用しています。トマトの上にのっている緑色のけったいな代物は朝取り!のディルです!

辛味大根2種;
近所のホームセンターで調達した「四季どり辛味大根」と信州山峡採種場から調達した「ねずみ辛味大根」を栽培し6月に収穫しました。現在2回目の栽培を行っています;

辛味大根2種
辛味大根2種

四季どり辛味大根」は写真で分かるように見栄えが良く辛味もそこそこありますが、辛味は圧倒的に「ねずみ辛味大根」に軍配が上がります。信州そばの友として最も適している大根おろしはやはり「ねずみ辛味大根」だな、というのが私の感想です

以上

 

航空機の運用

はじめに

上の写真は、上越新幹線の通称『ダイヤグラム』と言われている発着ダイヤを表すグラフです。このグラフで新幹線全便の一日の運航状況が全て読み取れます
因みに、縦軸は停車駅、横軸は時刻を表しています。斜めの線が列車の進行を表し、この線の上に書かれている『1301C』などの番号がその列車に付けられたいわば「便名」に相当することになります。その列車の駅間の隙間がやや不揃いなのは、駅間の平均速度を勘案して駅間の斜めの線の傾きがある程度揃うように工夫してあるようです
停車する駅ではこの斜めの線が少しズレていますが、このズレがその駅の停車時間に相当します(恐らく上越新幹線では途中駅での停車時間は1~2分、終点の新潟駅での折り返し東京行き出発までの時間は15分程度に設定されていると思われます)
列車の乗務員、駅員、全体のスケジュールを調整している担当者などはこの『ダイヤグラム』で仕事をしていると言っても過言ではないと思います。例えば、どこかの駅でトラブルによる遅延が発生した場合、この『ダイヤグラム』を見て後続の列車をどこの駅で停車させればいいか直ぐに分かります。勿論、復旧する場合も同様に、各列車の運休計画、遅延時間も迅速に判断が可能です。いわばプロ仕様のダイヤと言えるかもしれません。参考までに、興味のある方は、最も過密なダイヤで運行しているJR東海道新幹線ダイヤグラム_2015年ダイヤ改正をご覧になってみてください。プロの凄さ!が理解できると思います

エアラインビジネスにおける各航空機の運用も、基本的には列車やバスなどの陸上輸送や、船舶による海上輸送と全く同じです。航空機の運用のプロも、お客様が日頃見慣れている発着ダイヤではなく、こうした『ダイヤグラム』をもとに仕事をしていると言っても過言ではありません

エアラインビジネスの場合、航空機の購入価格が桁違いに高額である為、航空機の稼働を極限まで高めないとビジネスとして成立しないことになります。因みに、日本航空が最近デリバリーを受けたエアバス製のA350XWBという航空機のカタログ価格は、シリーズによって違いはありおますが、約3億ドル(日本円で約325億円:108円/USD)⇒ 機体の償却費だけで1日約1千万円弱を見込まなければならないことになります。また、鉄道の場合、駅のホームは鉄道会社が所有しているのが普通であるのに対し、エアラインが使用する空港や空港内のターミナルは、通常エアラインとは別の事業体(国の所有を含む)が所有しており、エアラインが自由に使えるものではありません
従って、以下の様な各種の制約条件を如何に上手に?クリアーし、航空機の運用を効率的行うことが、エアラインビジネスの『肝』になると言えると思います

航空機の運用に係る各種制約条件

1.使用する空港の制約
発着枠:空港の滑走路の数、管制官の人数、空域の制約(近傍の空港が使用する空域の制約、軍の訓練空域の制約)などにより、空港ごとに最大の発着回数が決められています。混雑空港については各エアライン間で公平さが要求されるために必ずしも要求通りの発着枠を取得できるとは限りません。お客様の利便性を考慮し、既に運航している定期便の発着枠の既得権は原則守られますが、1990年代に政策的に規制緩和が行われた時代には、新規航空会社の参入を進めるために、新規枠の配分を新規参入エアラインに優先的に配布されました。尚、規制緩和にについて詳しく知りたい方は(航空規制緩和の歴史)をご覧ください。また最近話題になっている羽田空港の発着枠の政策的な方向性について詳しいことを知りたい方は(羽田空港発着枠の検討課題と現状_国土交通省)をご覧ください。尚、発着が特定の時間帯に集中しない様に1時間あたり、場合によっては3時間当たりの最大の発着回数にも制限が加えられることもあります

羽田空港_夜間
羽田空港_夜間

② 運用時間帯:日本では、地方空港は概ね夜間は使用できません。また主要空港である成田空港、大阪国際空港(伊丹空港)では周辺住民の騒音対策として夜間の発着が禁止されています(日本の各空港の運用時間帯の情報については国交通省の(空港情報一覧)をご覧ください
駐機スポット:航空機を駐機させるにはかなり広い面積が必要であり、ランプエリアを十分に確保できない空港は、駐機スポットの数の制約から他に乗り入れているエアラインとの発着時刻の調整が必要になることがあります
④ CIQ:国際線を運航する場合は、空港に於いて税関Customs/財務省管轄)、出入国管理Immigration/法務省管轄)、検疫Quarantine/人間の検疫は厚生労働省管轄;動植物の検疫は農林水産省管轄)を行う必要があります。管轄する部署の配置人員が十分に確保できない場合、遅延が発生する可能性があります(繁忙期における臨時便の運航、など)

出入国管理
出入国管理

セキュリティー管理:空港ターミナルの「制限区域」に入る場合は危険物の持ち込みを排除する為のチェックが義務付けられています。日本にあっては、この要員の確保に係るコストは、空港に乗り入れているエアライン間でシェアすることになっています

上記③~⑤の制限によって、空港への乗入れに際し時間帯の制約を受ける可能性があります

2.航空機の地上停留中の作業に係る制約
① 機内清掃とシートポケット内容物の補充する作業:航空機がスポットに入ったあと、お客様が降機を終わってから作業を開始し、次の出発便のお客様が乗機を始める迄に作業を終わらなくてはなりません

Cabine Cleaning
Cabin Cleaning

② ケータリング作業(飲食材料の補充):飛行中にお客様に提供される飲み物や食事を搭載します。国内線にあっては飲み物を中心とする補充で済みますが、15時間程度の飛行時間となる長距離路線を運航する場合には、各種飲み物の他に、メインとなる食事2食分と朝食などの軽食を搭載することとなり、かなりの量になります(⇒機内のスペースの確保⇒旅客席数の減)

Catering・Cargo Handoling
Catering・Cargo Handling

③ 貨物の取り卸し・搭載作業:現在エアラインで使われている大型の航空機には相当量の貨物搭載が可能であるため、お客様の手荷物以外にも多くの郵便物や貨物が搭載されており、発着毎にこれらの貨物の取り卸し・搭載作業が行われています

④ 燃料の補給:出発前に目的地到着までに必要となる燃料を補給します。この燃料には目的地までに消費する燃料以外に、もしもの場合(悪天候や航空機のトラブルなど)に備えて目的地ごとに指定される代替空港までの飛行に必要な燃料(場合によっては出発空港に戻るまでの燃料)、その他の予備燃料(空港混雑により待機する場合など)が含まれます

Fueling
Fueling

⑤ トイレの汚物回収、洗浄水の補充:この目的のための特殊車両で行います
⑥ 飲料水の補充:この目的のための特殊車両で行います

Lavatory Service ・Water Service Car
Lavatory Service Car・Water Service Car

⑦ 整備作業:航空機の運用に際し、航空法に基づき整備作業を実施する必要があります。(詳しくは(整備プログラム)をご覧になってください
毎日運航している航空機に対して行う整備作業(航空業界内では運航整備作業/Line Maintenanceと呼んでいます)の具体的な内容や必要人員数については、到着便作業・配置人員出発便作業・配置人員折返し便作業・配置人員をご覧になってイメージアップしてください(実際の作業時間、配置人員については必ずしも正確ではありません)

Line Maintenance
Line Maintenance

これらの作業以外に、定期的に行う整備作業とその機会に行う改修作業があります。これらは、夜間に長時間(5~10時間程度)駐機する機会に実施する作業(通常数百飛行時間ごとに計画的に設定)と、航空機を1週間から1ヵ月程度駐機させて格納庫内で大人数をかけて行う作業があります(詳しくは整備プログラムをご覧になってください)。私の経験ですが、これらの格納庫内で行う大きな整備作業・改修作業は、1機について年間平均18日程度引当ておくことが必要となります。これは即ち、20機保有しているエアラインは、そのうち1機相当分はこうした大きな整備作業・改修作業(航空業界内では重整備作業/Heavy Maintenanceと呼んでいます)を行っていることとなり、実際に毎日稼働できる航空機は平均して19機になることを意味します。こうした大きな整備作業・改修作業に引き当てる予備の航空機を保有していない場合、作業に必要な日数分 定期便を運休する必要が発生します

Heavy Maintenance
Heavy Maintenance

⑧ パイロットの業務:出発前に航空機を地上から点検すること(Walk_around Check)、操縦室内でチェックリストに基づいて計器や各種操縦に必要な機能が正常であることを確認すること、整備士から整備作業に係る報告を受けること、などの業務を行います

パイロットの飛行前の準備作業
パイロットの飛行前の準備作業

⑨ CA(客室乗務員)の業務:お客様が乗機する前に客室内の飛行前点検、機内の収納エリアに危険物が隠されていないかなどのチェックなどを行います
⑩ ランプ・コーディネイターの業務:地上に居て到着・出発作業に携わる人達の作業の進捗管理を行います(必要により出発遅延の決定も行う)。作業が順調に進めば出発5分前という情報を関係者全員に周知することなどを行います

上述の、航空機の到着から出発に至る迄の各担当部門が行う作業の相関関係を図示したものが「標準作業工程表」と言い、ここで示された地上停留時間は航空機の運用を行う際の最小限の地上停留時間DGT/Standard Ground Timeといいます)となります(これより短い折り返し便の設定は特別の場合以外は行いません)。以下は国内線の標準的なケースです(エアラインや航空機の型式によって異なることが普通です)

航空機の到着・出発における標準作業工程表
航空機の到着・出発における標準作業工程表(国内線)

尚、国際線については、①~⑨の業務量が増加するため、一般にもう少し長い停留時間が必要となります

3.航空機の型式、客室仕様
航空機を路線に投入する場合、まずその航空機の航続性能がその路線の飛行距離より長い事が必要です。また競合する他社との競争上の観点から、その路線の旅客需要に見合った客席数(First Class、Executive Class、Premium Economy Class、Economy Class)であることと併せ、旅客サービスの為の飲食類が提供できる客室内の装備が必要となります。
① 航空機の航続性能と最大離陸重量
航空機の航続性能は、航空機の空気力学的な抵抗(一般に新しい型式の航空機ほど性能が良い)、エンジンの燃費性能、燃料の搭載量、などによって決まります。また、長距離路線は飛行時間は長いものの着陸回数はそれほど多くはないのに対し、短距離路線は逆に飛行時間は短いものの、発着回数が多くなります
航空機の用途によって要求される性能を実現するには、航空機の設計の段階で取り入れなければ実現することはできません。要求される設計基準について詳しいことを知りたい方は(3_耐空証明制度・型式証明制度の概要)をご覧になってください。参考の為に、現在日本航空で保有している機種の中で、長距離国際線の路線と国内路線の両方に使用されているボーイング社製の777という機種の性能の違いを日本航空のサイトにある情報を拝借してみました;

777・長距離型と短距離型の比較
777・長距離型と短距離型の比較

上記の二機種は、777という型式名から想像できるように航空機の基本構造は変わりませんが、長距離用と短距離用という用途の違いから相応の設計の違いが見て取れます;

777-300ER(長距離型) 777-300(短距離型)

* 最大離陸重量 : 340.2 ton          237.0 ton
* 航続距離   : 14,340 km           3,550 km
* 機体の長さ/幅:    73.9m/64.8m         73.9m/60.9m

上表から分かる通り、長距離型は航続距離を延ばすために燃料を多く搭載できるように最大離陸重量がかなり大きくなっています。また幅が大きいということは、翼が長くなっている為ですが、これは長距離を効率的に飛行する際の空気抵抗を減らすためです。また、短距離型については上表の数字からは分かりませんが、離着陸回数が多くなることから、頻繁に使う主脚(Landing Gear)や高揚力装置(Flapなど)が強化されています

航空機が運用される時に徴収される着陸料、及び航空路を飛行する際に徴収される航行援助施設料、駐機料などは、一般にこの最大離陸重量を基に計算されます(⇔ 運航コストに大きな影響があります)。これは日本の高速道路料金がその建設費や車体の重量によって道路の傷み具合が違うことから決められている理屈と同じですね!

尚、着陸料の計算式については、最大離陸重量の他に、空港周辺の騒音を低減させる為に機種別にICAO基準に基づいて測定された離陸測定点と着陸進入測定点での騒音値をもとに高騒音機(古い機種)程付加料金が高くなる体系になっています。また離島の空港、あるいは利用状況が芳しくない空港で路線開設、増便を促すためのインセンティブとして着陸料の割引を行うことも行っています。現在の着陸料などの状況については、国土交通省が発行している(着陸料等告示_AIP)をご覧になってみてください

昨今オリンピックに向けての増枠で話題となっている羽田空港の着陸料、及びあまり馴染みのない航行援助施設利用料の設定については、国土交通省が一元的に行っていますので、同省の政策的な方向性について興味のある方は以下の資料をご覧になってください;
羽田空港の着陸料:羽田空港発着枠の検討課題と現状
航行援助施設利用料:今後の航行援助施設利用料のあり方_国土交通省

② 客室仕様
客席と旅客サービスに必要となる装備は「客室仕様」と呼んでいます。長距離型の客室仕様の場合、席数を減らして飲食物提供に必要なスペースを設けるため、座席数がかなり減ってしまいます。777の長距離型と短距離型の客室仕様の違いを日本航空のサイトからコピーしたものが下図です。長距離型は、飲食物の収納、飲食物提供の準備作業のための大きなスペース(Galleyと呼んでいます)が設けられていることが分かります;

777・長距離型と短距離型の座席配置の比較
777・長距離型と短距離型の客室仕様の比較

席数については、以下の様に大きな違いがあります;
777-300ER(長距離型):244席(First Class/8席、Executive Class/49席、Premium Economy Class/40隻、Economy Class/147席)
777-300(短距離型):500席(J  Class/78席、Economy Class/500席)

以上より、長距離国際線用の航空機を国内線に使用することはコスト面からも収入面からも適切でないことが分かります

航空機の稼働を上げるには?

1.「標準作業工程表」を変更し、DGTを短縮する
国土がそれほど広くない日本にあっては、国内線の飛行時間は数十分から4時間未満と考えてよいと思います。また、国内の地方空港の大半は夜間の発着ができないことがあり一日の稼働可能時間はせいぜい8時~22時の14時間程度しか期待できません。こうした状況で稼働を上げるにはDGTを短縮するしか方法はありません
DGTを短縮するには「標準作業工程表」の各部門の作業時間を短縮する(あるいは省略する)こと、作業の重なりを許すこと、などが考えられます。このための具体的な工夫の例は以下の通りです;
「機内清掃とシートポケット内容物の補充」作業を、お客様が降機するペースに合わせ、後部担当のCA(客室乗務員)に担当してもらう(機内清掃は粗ゴミ拾い程度 ⇒ 旅客サービス水準の低下!)
「燃料の補給」作業をお客様が降機中から始める(⇔ 火災発生時に備え、CAのDoor side配置が必要になります)

<具体的な事例>
* 米国で数百機のB737を運航しているサウスウェスト航空ではDGT15分を実現しています。ただ、実際のスポット周辺でのサービス状況の観察、サウスウェスト航空担当者のインタビュー等を通じてわかったことは、日本とは違い米国では飛行ルートの選択に係るパイロットの自由度が高く、遅延した場合でも飛行ルートを変えて飛行時間を短縮することが可能な場合があること、また到着・出発に係る地上作業者がマルチタスク(色々な作業ができる)に対応し、かつ動線が短い(駐機スポットの直ぐ傍で待機している)こと、更に数百機の保有機が全てB737シリーズで全ての作業者が作業を熟知しておりミスが少ないこと、などがこの様な短いDGTで運用できている背景にあると思われます

* 1996年、B737-400を使ってJAL100%子会社のLCC(JAL Express)を立ち上げたとき、JALで使われていたDGT35分を10分間短縮して25分でダイヤを組みました。特に遅延が目立ったということはありませんでした

*正確な時期は覚えていませんが1990年代、、タイのLCCが運航するバンコック=チェンマイ間の路線を視察する機会がありました。1機を使ったシャトル運航でしたが、早朝から満席に近い運航を繰り返して(予約上の確認のみ)おり、私が搭乗した最終便は2時間以上の遅延で運航されていました。安い運賃であった為か、あるいは定時性にはあまりセンシティブでない国民性の故か、待たされている満員の旅客は全く平静であったことが印象的でした

2.航空機の運用の仕方に着目した稼働の向上策
国内線については夜間帯は空港の制約から概ねどこかの空港に駐機しています。一方、国際線については、主としてお客様の利便性(目的地に到着してからすぐにビジネスや観光ができること、あるいは外国空港での乗継が便利であること、など)を優先したダイヤが作られるために昼間帯に空きが発生することがあります。以下はこうした航空機が使われない空きを使って稼働を上げることができる例です;

日本航空の羽田発着のサンフランシスコ線のJL002便は、出発時刻は19時50分、サンフランシスコ到着は現地時間13時10分になります。その後2時間40分サンフランシスコ空港に駐機して、帰りのJL001便は現地時間15時50分にサンフランシスコを出発し、翌日の19時に羽田に到着いたします。つまりサンフランシスコを往復するのに足掛け2日かかります(飛行時間は20時間30分)。従って、このサンフランシスコ線を毎日飛ばすためには航空機が2機必要になります。一方、この路線引き当ての2機の航空機のうち1機は、毎日朝から19時50分まではこの航空機には空き発生しています。この空きを使って羽田=上海線(JL81便/羽田発09時20分⇒JL82便/羽田到着16時45分:往復飛行時間は6時間)を運航させることができます。サンフランシスコ線だけを2機で運航した場合、航空機1機・1日当たりの稼働時間は10時間15分にとどまりますが、これに上海線を組み合わせることによって13時間15分に向上させることが可能となります( ⇒ 更に上海線引き当ての航空機はいらなくなります)
ただ、注意しなければならないことは、客室仕様は、当然基幹路線であるサンフランシスコ線が優先されますので4クラス仕様、一方上海線(通常2クラス(Executive Class、Economy Classで販売している)は販売可能な客席数が少なくなります。また最大離陸重量が大きいので着陸料、航行援助施設利用料が高くなりコスト面でもややマイナスになります

航空機の稼働向上策
航空機の稼働向上策

羽田に駐機する国内線は、地方空港の運用時間帯の制約で、概ね22時頃までに到着しています。翌日の羽田出発便も地方空港の運用時間帯の制約、お客様の利便性の関係で8時過ぎまで空いている航空機もあります。私が航空機運用の担当だった時代、この空きを使って国内線機材によるグアム線(往復飛行時間:7時間30分)の運航を行っていました。この夜行便の対象は学生さんなど若い人が往復とも機中泊とすることで滞在費を節約できるメリットがあり、結構利用されていました
ただ、注意しなければならないことは、客室仕様の他に、国内で使われる航空機の燃油費には燃料税(26円/1リットル;沖縄、離島路線などでは減額されています)が掛かっているのに対し、国際線で使われる航空機の燃料は無税となっております(ICAO CHAPTER 4:詳しくは条約・航空協定の歴史参照)ので、この燃料の課税処理の為に税関当局の承認が必要となることです

3.整備作業実施に係る航空機の稼働向上策
整備作業については、「2.航空機の地上停留中の作業に係る制約;⑦ 整備作業」で述べた様に、発着に係る整備作業以外に「定期的に行う整備作業とその機会に行う改修作業」があります。定期的に行う整備作業とは、一定の飛行時間や飛行サイクル(発着回数)、経過日数によって実施が義務付けられている個々の作業(「整備要目」といいます)を実施しやすさを考えてまとめたもの(⇔整備要目の集合)を意味しますが、これを「整備パッケージ」と呼んでいます(詳しくは4_整備プログラムをご覧ください)。整備パッケージと整備要目との関係についてイメージしていただくには下記の表が分かり易いと思います;

整備要目と整備パッケージの関係
整備要目と整備パッケージの関係

上表で「C整備」と呼ばれている整備パッケージは作業量が非常に大きい整備パッケージで格納庫内で1週間から2週間かけて行うことが普通です(4から5年に一度計画される大きな改修を実施するための整備パッケージは1ヶ月位の期間が必要です)。「A整備」やそれより短い間隔で行われる整備パッケージは、通常数時間から15時間くらいの短い停留時間で実施されることを想定しています。つまり、航空の稼働を下げることなく、定期便が到着して次の出発までに作業を終えるのが原則です
① A整備を実施するための航空機の運用
A整備は定期便の間の夜間の駐機中に行うと言っても、抱き合わせに行われる改修作業や、検査中に発見されたトラブルを処理するためにある程度余裕を持った停留時間を予め確保しておく必要も発生します。この場合、「A整備を予定している航空機については、早めに到着する便を割当て、翌日の出発便についても、できる限り遅く出発する便を割り当てることなどが考えられます
以下の図は、とある航空会社の過去のダイアグラムから作成した「機材パターン」と呼ばれるものです。整備を主に行う空港(整備基地とも呼びます;下図の各行の下の線が羽田駐機を表します)で整備計画を立てるときに使われるものです(CASE_Aの場合は8時間50分、CASE_Bの場合は15時間50分の整備機会が確保できることが分かります);

整備機会の検証
整備機会の検証

尚、「A整備」の実施時期は、前回「A整備」からの累積飛行時間が実施期限(整備パッケージの表の場合、仮に500飛行時間にしています)を超えることは航空法上許されませんが、余りに余裕をもって計画すると、A整備の実施回数が増えることとなり、できるだけ実施期限近くで実施することが整備コストの面で有利になります。因みに[実際に「A整備」を実施した時の累積飛行時間]÷[実施期限]を「Check in Rate」と言います。例えば400飛行時間で「A整備」を実施したとすれば、この時ので「Check in Rate」は0.8となります(←航空機の運用を行っているプロから見れば「計画が甘い!」と言われるかもしれません!)

尚、運航している航空機に大きな故障が発生した場合、考え方は「A整備」の実施体制と同じと考えてよいと思います。大きな故障と言えばエンジン・トラブルが代表的ですが、この場合も「A整備」との違いは突発的に発生するか、予め計画できるかの違いであって、欠航や遅延を最小限にする為の航空機の運用方法は変わりません

② 「C整備大きな改修作業」を実施するための航空機の運用
こうした大きな作業は、航空機を1週間から1ヵ月程度停留させて格納庫内で大人数をかけて行う作業となります。自社で整備を行う場合、格納庫を必要数持っている必要があると同時に、この作業に必要となる多数の整備士を確保していなければなりません。従って、航空機の稼働を高めると同時に、格納庫と多数の整備士の稼働を高める必要が同時に発生します
このやや複雑な問題を解くには、問題自体をシンプルにして考えるのが分かり易いと思います。仮にこのエアラインが20機保有していたとすれば、既に述べた通り、その内の19機が毎日稼働し、残り1機分は入れ代わり立ち代り「C整備や大きな改修作業」を実施していると考えてよいということになります。その場合格納庫は1棟あればよく、この種の大きな作業に必要な人員も1機分で良いことになります(これを「C整備や大きな改修作業」の「生産ライン」といいいます)。従って、航空機の運用で考えておくべきことは、それぞれの「C整備」の実施時期をできるだけ高い「Check in Rate」を守りつつ、2機が重ならない様に計画することになります

「C整備や大きな改修作業」を整備会社に委託しているエアライン(LCCはこういうケースが多い)は、自社の都合の良いタイミングで整備を実施することは難しくなりますが、考え方は自社整備の場合と一緒です。整備の実施タイミングでイニシアティブを持つためには複数の委託先を選定して置くなどの対応が必要となります

③ その他の稼働向上の方策
整備要目と整備パッケージの関係は、「整備要目と整備パッケージの関係」の表をよく見れば分かるように、整備期限(飛行時間、飛行サイクル、飛行日数)を守らなければならないならないのは、それぞれの整備要目です。整備パッケージは、エアラインが自社の航空機の運用に便利なように組み合わせを考え、航空当局に申請し認可を得たものに過ぎません。それぞれの整備要目を期限内に確実に実施する体制さえ構築できれば大きな整備パッケージで整備を行う必要はありません
*事例1:私が日本航空の航空機運用の担当であった時代、B767の「C整備」要目を二分割して運用したことがあります。このケースでは目立った効率向上が得られなかったため、数年で運用を止めてしまいました
*事例2:サウスウェスト航空では、1990年代に私が同社を視察した時には、「C整備」を4分割した整備パッケージを作り、それぞれのパッケージを1日プラスアルファで自社で実施していました。B737という小さな航空機であり、且つ数百機の単位で保有していた為と考えられます

必ずしも航空機の稼働向上に結び付くとは言えませんが、日本の様に旅客繁忙期がある程度限定的(年末年始、ゴールデンウィーク、夏季繁忙期)である場合、この期間のみC整備や大きな改修作業を計画せず、ここに引き当てている航空機を定期便の増便や臨時便設定に引き当てることがあります。この時期は需要が大きい為に旅客単価、及び搭乗率が高くなっていることがあって、営業収入の増に大きく貢献することになります。ただ、増便することによって、パイロットやCAの必要数も増えることとなるので、限界はあります

以上