冬・春収穫野菜栽培の結果報告と夏野菜の準備状況

A.冬・春収穫野菜栽培の結果報告

前回の報告(2023年1月6日発行:冬野菜あれこれ)の通り、白菜、キャベツ、漬物用の葉物野菜・根菜類、生野菜サラダ用の葉物野菜などは大成功(少なくとも冬季は完全自給達成)に終わりました。このノウハウは来シーズンの生産にも生かしたいと思います
拙宅では、月~金曜日は毎朝山盛り?の「生野菜サラダ」を食べていますが、12月~現在まで供給し続けていた野菜は以下の通りです;

ただ、11月末植え付けのタマネギと1月末植え付けのジャガイモについては、収穫量について昨年実績を若干下回る結果となりました;
1.タマネギについて
4月初めまでは極めて!順調に生育したものの、4月7日の異常気象(発達した寒冷前線が本州付近を通過、拙宅付近では風速10メートル以上の強風が吹き荒れた )により、50㎝以上に成長した葉の部分が大部分根本からなぎ倒され、成長がそこで止まってしまいました。ただ栽培数を増やしていたため小さい玉は多いものの、量的には秋までの消費分十分確保できたと思います

2.ジャガイモ
ジャガイモについては、1月下旬、「キタアカリ」の種芋10ヶを夫々半分に切って植え付けました。また、コンテナが2ヶ余ったので、食用に買った「インカの目覚め」を2ヶのみ2月下旬に植え付けました。極めて順調に生育していたものの、5月に入って突如ヨトウムシ(夜盗虫)の襲撃を受けて無残な状態になってしまいました
ヨトウムシは夜にならないと葉の方に出てきませんので、5月24日から2夜に亘ってワイフの助けを借りてヨトウムシ駆除(30匹以上を捕殺)を行いましたが、既に葉がかなり食害を受けており、相当量の収穫減を覚悟しました。しかし5月28日、収穫を行ったところキタアカリは、小粒が多かったもののある程度の量を収穫出来ました(約10キログラム)
ただ、インカの目覚めは僅かな少量のみの収穫にとどまりました(写真上の段ボール箱の中)

B.夏野菜の準備状況

夏野菜は何といってもトマト、ナス類、瓜類(キュウリなど)がメインになります。これらは2月末から準備を始め、種蒔き⇒育苗⇒植付の順に作業を行います
① 種蒔き・育苗は、近年続けている熱帯魚用のヒーターを入れた自作の水槽にトレーを浮かべ、そこに乗せたプラスティック・ポットに種を蒔いています。今年からは発芽した後、室内では日光が足りないので屋上に防寒処置を施し、ヒーターを強力にした荒井式?屋外種蒔き・育苗器を使用しています(2023年1月6日発行:冬野菜あれこれで報告済み)

②植付は、今年から初めて保温の為のカバーをテスト使用してみました。1ヶ175円はちょっと高いとは思いましたが、かなりの効果を立証することが出来ました。
テストの為に、ほぼ成長状態が同じナスの苗をカバー無しと保温カバー付きとで、3月末一週間ほど経過した状態で成長を比べると、成長の違いが歴然としていることが分かります
因みに連休明けに訪れた長野県飯山市で見た家庭菜園では、ビニールや、米袋を使った夏野菜の保護を行っているのを見ることが出来ました

1.トマト
トマトは毎日の生野菜サラダの材料として重宝な「プチトマト」、昔懐かしい「大型のトマト」、最近人気の甘い「中型トマト」の3種類を植え付けました。収穫した「プチトマト」を湯通して皮をむいたものが私の大好物なので、かなり多めに栽培しています。余ったら冷凍して秋・冬まで食べ続けたいと思っていますが、ワイフが対応してくれるかどうか、、、

2.ナス
ナスは一番用途が広い「中型ナス」に加え、「小型ナス、「水ナス」、「丸ナスの4種類を植え付けました。「小型ナス」は辛子漬(那須与一漬)や粕漬に、丸ナスは長野県の味「オヤキ」に、水ナスは大阪駐在時に味を占めた「浅漬け」を想定しておりますが、ワイフが対応してくれるかどうか、、、

3.ウリ類
ウリ類は生食・漬物用の「キュウリ」及び「小型キュウリ、それに長野県人としては各種漬物材料として外せない「縞ウリ」を植え付けました。今年は後述する病気対策を施して例年よりも多く植え付けて、子供達にも漬物を配れるようにしたいと思っていますが病気対策の効果は如何、、、
<病気対策>
ウリ類は露地栽培の場合、雨や水遣りの時に地面からはねた土に含まれている細菌・カビ類が葉に感染し収量が落ちてしまうケースが多いことが知られています。通常、露地栽培の場合には干藁、籾殻 (もみがら)、ヤシの繊維、黒マルチなどで根元を覆うのですが、黒マルチはコンテナ栽培では難しいこと、その他の方法は最近非常に高価になっており、貧乏人の農民?には手が出ません。今回ネットで調べた結果、新聞紙(透水性がある)でも同じ機能が期待できると出ていましたので、新聞紙を根の周辺に敷き、上に堆肥を蒔いて風に飛ばない様にしています。この実験、上手くいくかどうか、、、

4.トウガラシ類
トウガラシは2年前から完全自給しています。栽培品種は、最も一般的な「鷹の」に加え、「辛長キング」という大型の品種、「剣先なんば」という細長い品種、「立八房(たちやつふさ)」という鷹の爪に似ている品種、「沖縄トウガラシ」という小型ながら極めて辛味が強い品種の5種類を栽培する計画です。現在、種蒔きをして芽が出た所ですが、沖縄トウガラシのみは例年通り発芽に時間が掛かっています

5.ハーブ類
ハーブについては、料理でよく使うハーブは完全自給を目指しています。「ローズマリー」は常緑のハーブであり屋外で十分すぎる?程成長するので玄関わきに地植えをしています。その他のハーブは基本的に冬場に屋内に持ち込める小さなコンテナで栽培しています。現在屋上で栽培しているハーブは、下の写真の通り「カモミール(花を乾燥させて使用)」、「チャイブ(今年から始めました)」、「オーデコロンミント」、「ペパーミント」、「パクチー」、「タイム」、「スペアミント」、「ディル」、「レモンバーム」ですが、最も消費量の多い「バジル」は、居間の出窓で栽培している他、トマトのコンパニオン・プラント(近くに植えるとお互いに助けあう!)として一緒に栽培しています
上記以外で居間の出窓で栽培しているハーブとして、「セージ」、「パセリ」、「イタリアンパセリ」などがあります

6.長ネギ
毎年自給を目指していますが、消費量が余りに多いので春以降半年位は長ネギを購入しなければならない状況が続いています。昨年導入した底の深い大型のコンテナによる栽培は必ずしもうまくいきませんでした(成長が遅かった)。今年は、この大型コンテナに植え替える時までにできるだけ大きく成長させるよう努力していと思っています
← 春先に種を蒔いたネギは、ホームセンターで売っている苗と比べても遜色の無い程順調に育ちました
5月下旬にこれらの苗を、標準コンテナ7ヶに20本づつ植え替えを完了しました。果たしてうまくいくかどうか、、、

7.その他
① ベリー類の状況
昨年植えた新しい「ブルーベリー」2株は順調に育ち、量は少ないものの収穫できそうです。「ラズベリー」は一杯実を付けているのですが、赤くなる前のオレンジ色の状態で落果しているので、ちょっと心配です。「ブラックベリー」は樹勢が強く沢山花を咲かせているので楽しみです
② 柚子の状況
一昨年植え付けた「柚子」は、昨年は全く花を付けませんでした。しかし、今年に入って樹勢も強くなり、漸く花が咲いたので期待していたのですが、どうやら実にはなってない様なのでとても残念です(ひょっとして実が小さい内は発見が難しいのかも?)

③ 山菜類の栽培
今年から山菜類の栽培を始めることにしました。私の大好きな「コシアブラ」、「ワラビ」、「山ウド」です。さて、関東の酷暑に耐えられるかどうか、、、

④ キャベツ類
@ 冬キャベツを沢山栽培しましたが、収穫後の根を残しておいたところ、春先になって根から元気な葉が沢山生えてきました。勿体ないので、炒め物で食べてみた所、少々固いものの小松菜のような使い方が出来そうだという結果がでました(まあそれ程美味しい野菜とは言えませんが、、、)一方、元気な芽を「差し芽」にしてみた所、ちゃんと根が生えてきました。そこで、これがキャベツになるかどうか実験をしてみることにしました;


その後、結構元気よく成長を始めたので、立派なキャベツに成長するか期待させるものがありました、、、
@ 昨年、頂きもので「コールラビ」を生で食べてみた所、大変美味しかったので春先に種を買って蒔いてみました。それなりに育ってきたので、あと一月ぐらいで食べられる大きさになるかなと思っていたのですが、、、
@ キャベツ類は、世界中に人に愛される野菜で食味も大変いいのですが、5月に入ってモンシロチョウが屋上を訪れる様になると、恐れていたことが起きました、、、
@ ゴールデンウィーク明けに両方のキャベツ類は同時に虫食いが始まり、あっという間に哀れな姿(特にキャベツ)に変わり果てました
無農薬栽培の原則を維持する為に農薬は使えないので、最近の私ども夫婦の日課は意地?の「虫退治」です。役割分担は、ワイフが「見つけ係」、私が「死刑執行人」です! 玄関脇の池で発生したオタマジャクシの死刑執行も私の担当だったので、もうすぐ罰が当たるのは確実と思われます!

以上

米ソ宇宙開発競争の歴史(スプートニク~アポロ計画)

はじめに

現在、宇宙開発は人類共通の「未知への挑戦」として国境を越えて協力が行われていますが、人類が初めて地球の大気圏を脱して地球を周回する人工の衛星を打ち上げ、この人工衛星に人を乗せ、更に月にまで人間を送り込む有史以来の大事業は、米国、ソ連という第二次世界大戦の勝者の間で行われた12年間の熾烈な開発競争の結果達成されたたものです

こうした宇宙開発には強力なロケットが必要であり、このロケット開発のベースになったのは、米ソがお互いの国に原子爆弾を打ち込むことが出来る大陸間弾道ミサイルの開発があったことは紛れもない事実です。また、この莫大な資金を必要とする開発競争の陰で、両国の中に貧困にあえぐ国民がいたことも事実です
しかし、こうした宇宙競争の結果、両国の国民だけでなく全世界の人々が熱狂したことも確かです。以下に、この歴史を振り返ってみたいと思います

(注1)本ブログでは、青字で斜体の文は全て筆者に文責があります
(注2)本ブログでは、専門家の間では推力の単位をニュートン(N)で表しますが、地上での重量に換算した方が分かりやすいと考え、「kg/キログラム」乃至「ton/トン」の表現(正確を期すには「重」を末尾に付けます、例えば「kg重/kgf/kirogram force」など)を使います。推力の単位に関する詳しい説明は私のブログ「ロケットに関わる基礎知識と日本のロケット開発の歴史」の前半の部分をご覧になって下さい
(注3)一般に、人工衛星の近くで宇宙遊泳などを行っている時、公共放送でも「無重力」という表現が使われていますが、宇宙で無重力の状態は殆ど考えられません。例えば太陽系の中の宇宙では、太陽の引力、その他の惑星、衛星の引力の影響下にあります。従って正確には「無重量」という表現をすべきですが、このブログでは混乱を避ける為に敢えて「無重力」という表現を使います。因みに人工衛星は地球の重力場の中で自由落下しています。詳しくは私のブログ「宇宙に関わる基礎的な知識」の中の「1.人工衛星は何故落下しないか?」の項をご覧になってください

注4)本ブログでは、宇宙開発が多くの失敗を積み重ねた上で成功している事実を明確にするため、予想外の事象や失敗の部分は緑色下線付きで“XXX様に表現しています

 

ソ連による世界初の人工衛星打上の衝撃と米国の対応

1957年10月4日、ソ連によって人工衛星スプートニク1号が打ち上げられました(当時のNHKのニュース映像)。スプートニク(Спутник)とはロシア語で衛星を意味します。また、この衛星はロシアの宇宙開発の草分けと言われるコンスタンチン・ツィオルコフスキーの生誕100年と国際地球観測年に合わせて打ち上げられました
この衛星はバイコヌール宇宙基地からR-7ロケットを使って打ち上げられました。衛星の軌道は近地点約230km、遠地点約950kmキロメートル、軌道傾斜角65.0°の楕円軌道であり、96.2分で周回しました。尚、R-7ロケットは、離陸重量は280トン、全長34m直径3mという2段式の大型ロケットです。第1段ロケットは RD-107というロケットを4基束ねた推力381トンもの巨大なロケットで液体酸素とケロシンを推進剤として用いています

スプートニクの打ち上げ成功により、米国はソ連の科学技術力及びそれを背景にした軍事力に大きな脅威を感じることとなりました。当時は東西冷戦の渦中であり、米国は即座に軍備拡張を加速するとともに、人口衛星の打ち上げに総力を挙げる体制を築く為に、翌1958年にはNASA(連邦航空宇宙局)を設立して宇宙開発を強力に推進することとなりました

米国は、スプートニクの成功に直ちに追従すべく、たった1.36kgの衛星を搭載したヴァンガードロケットを、1957年12月6日ケープカナベラル空軍基地から打ち上げましたが、発射2秒後に爆発し、失敗してしまいました
その後、1958年1月31日、エクスプローラー1号が打ち上げられ、8.32kgの人工衛星打ち上げに成功しました。衛星の軌道は近地点約360km、遠地点約2,530km、軌道傾斜角33.2°の楕円軌道であり、114.8分の長楕円軌道を周回しました
打上に使われたジュノーⅠロケットは、ナチス・ドイツでV2号を開発していたウェルナー・フォン・ブラウンの提案の基にジュピターCロケット(観測用として開発された)の発展型(ジュピターCの3段目の上部に4段目を追加)として開発されました
全長21.2m直径1.78m離陸重量は29トン、第1段ロケットの推力は42トン、液体酸素とヒドラジンを推進剤として用いています

米国は、ソ連から遅れること約3ヶ月で人工衛星の打ち上げに成功しましたが、両国が打ち上げた人工衛星の重量、ロケットの発射重量を見ればわかる通り、ロケットの性能は相当程度劣後している事は明白でした

その後、ソ連はロケットの優位性を生かして、月探査、惑星探査、有人人工衛星の打ち上げに先陣を切っていくことになります

有人人工衛星の開発競争

無人の人工衛星の競争の後に続いて、1961年以降有人人工衛星の米ソの熾烈な競争が始まりました
1.ソ連のボストーク計画(1961年~1963年)
ボストーク(Vostok)とはロシア語の「東」という意味ですボストーク計画では各種ロケットが使われましたが、上の写真の「8K72A」が代表的なロケットです
性能は、全長約40m(シリーズにより若干異なる)直径2.68m離陸重量は287トン、液体酸素とケロシンを推進剤として用いる。離陸重量だけから見ればスプートニク打ち上げロケットと大差がないと思われます

打上実績(打上基地は「バイコヌール宇宙基地」)
①ボストーク1号は1961年4月12日にユーリイ・ガガーリン少佐を乗せて打ち上げられました。その後地球を1周し1時間48分飛行後、大気圏に再突入し、高度7kmでガガーリンは座席ごとカプセルから射出され、パラシュートで降下、無事帰還しました。成功後に人類初の有人宇宙飛行として公表され、世界中を驚愕させました。ガガーリンの帰還後の記者会見で「地球は青かった」と語り有名になりました

②1961年8月6日
ボストーク2号が打ち上げられ、宇宙空間に25時間滞在し、地球や宇宙空間の撮影、無重力状態での実験などを行いました
③1962年8月11日ボストーク3号が打ち上げられました。続いて
④翌日ボストーク4号が打ち上げられ、この両機は互いに5kmまで近づき人類初の宇宙空間同志での交信を行いました

⑤1963年6月14日、ボストーク5号が打ち上げられ、下記ボストーク6号と軌道上でランデブーを行いました
⑥1963年6月16日、ボストーク6号初めての女性宇宙飛士となるワレンチナ・テレシコワを乗せて打ち上げられました。尚、彼女が宇宙で発した最初の言葉である「私はカモメ/ヤー・チャイカ(Я — Чайка)」は有名になりました。因みに「カモメ」は各飛行士につけられるコールサインです

2.米国のマーキュリー計画(1958年~1963年)
マーキュリーという名称は、ローマ神話の旅行の神メルクリウス (英語名:Mercury) からつけられました
マーキュリー計画は、1958年から1963年にかけて実施された米国の有人宇宙飛行計画です。スプートニクで先を越された米国が、有人人工衛星ではソ連よりも先に達成することを目標としていました。この計画は、1958年に設立されたNASA(連邦航空宇宙局)によって実行され、20回の無人飛行及び米国人の宇宙飛行士たちを搭乗させた6回の有人飛行が行われました

<マーキュリー宇宙船の構造>

ケネディー大統領の演説;
宇宙開発において米国が主導権を取り戻す為に、ケネディー大統領による強力なリーダーシップを発揮しました
*1961年1月20日、ケネディー大統領就任
1961年5 月25 日、ケネディ大統領は国家的緊急課題に関する特別議会演説(Special Message to the Congress on Urgent National Need)』と題した 45 分に及ぶ演説の末部(上記演説草稿の「Ⅸ Space/8頁後半~10ページ前段)」で、有人月面着陸計画を議会に提示しました

<参考>適当な日本語訳が見つからなかったので、故ケネディ大統領の格調高い演説は再現できませんが、第Ⅸ章のみ私の拙い日本語訳を添付します:国家的緊急課題に関する特別議会演説_第Ⅸ章の日本語訳

アポロ計画始動後の 1962 年9 月12 日、ケネディ大統領はライス大学のフットボール競技場でアポロ計画についての一般向け演説行い、聴衆からの熱狂的ともいえる反応を得ました
*1963年11月22日、ケネディー大統領暗殺

 

打上実績(打上基地はケープカナベラル空軍基地);
①1961年5月5日(ボストーク1号に遅れること23日)、マーキュリー・レッドストーン3号は、アメリカ初の宇宙飛行アラン・シェパードが搭乗する宇宙船で弾道飛行(飛行時間15分22秒)を行いました
<参考>弾道飛行とは
地球を周回しないで地上に落下する軌道(弾丸が放物線を描いて地上に落下する軌道)ですが、大気圏外の宇宙を飛行したことは事実です。レッドストーンというロケットは、無人の人工衛星の打上ロケットであるジュノーⅠロケットと基本的に同じ仕様です


②1961年7月21日、マーキュリー・レッドストーン4号はレッドストーン・ロケットによって打ち上げられ弾道飛行(飛行時間15分37秒)を行いました

③1962年2月20日マーキュリー・アトラス6号が打ち上げられ近地点161km、遠地点261kmの楕円軌道を3回周回し(飛行時間4時間55分)し着水しました
この飛行で使用されたアトラスロケットの性能は、全長約28.7m直径3.0m離陸重量は120トン、第1段ロケットの LV-3Bの推力は356トン液体酸素とケロシンを推進剤として用いており、このロケットでソ連の打上ロケットの性能に追いついたことになります

④1962年5月24日、マーキュリー・アトラス7号が打ち上げられ、近地点161km、遠地点269kmの楕円軌道を3回周回し(飛行時間4時間56分)し着水しました
⑤1962年10月3日、マーキュリー・アトラス8号が打ち上げられ、近地点161km、遠地点283kmの楕円軌道を6回周回し(飛行時間9時間13分)し着水しました
⑥1963年5月15日、マーキュリー・アトラス9号が打ち上げられ、近地点161km、遠地点267km、の楕円軌道を22回周回し(飛行時間10時間20分)し着水しました

マーキュリー計画遂行に当たって注目すべきポイントは、上記6回の有人飛行の前に弾道飛行と軌道飛行を合わせて20回もの無人の試験飛行(内6回失敗、3回一部失敗)を行い万全を期して有人飛行に移行したことです

3.米国のジェミニ計画(1961年~1966年)
ジェミニ(Gemini)とは「ふたご座」を意味しますが、恐らく2人乗りの宇宙船を打ち上げることから命名されたものと思われます
ジェミニ計画は、連邦航空宇宙局(NASA)によるマーキュリー計画に続く有人宇宙飛行計画です。計画は1961年から始まり1966年までに2名の宇宙飛行士を宇宙に送り、船外活動、及び宇宙船同士のランデブーとドッキングを行う事が目的でしたが、これは月面着陸を目指すアポロ計画に必要となる技術を確立する為に必要な事でした。1965年から1966年までの間に10名の宇宙飛行士が地球周回低軌道を飛行し計画を達成しました。この成功により、米ソの宇宙開発競争において米国が優位に立つこととなりました
使用されたロケットは、米国空軍向けの大陸間弾道ミサイル(ICBM)であるタイタンIIを転用した「タイタンII GLV」というロケットです。このロケットの性能は、全長31.4m、直径3.1m、離陸重量は154トン、第1 段ロケットエンジンはLR-87 2基で1,862トンの推力推進剤はエアロジン-50(ヒドラジンと非対称ジメチルヒドラジンを半々で混合したもの)と四酸化二窒素(N2O4)とを用いています

打上実績(打上基地はケープカナベラル空軍基地);
①1964年4月8日、ジェミニ1号(無人)が打ち上げられました。発射後4時間50分で所期の任務を果たした後、宇宙船は3日と23時間周回飛行を行った後に大気圏に再突入し意図的に破壊されました
②ジェミニ2号(無人は、当初1964年12月月9日に予定されていましたが、エンジン点火1秒後に機体の異常検知システムがエンジン圧力に問題を発見したためロケットエンジンを停止させ、飛行は延期となりました
再打上げは、1965年1月19日に行なわれ、最高高度171.2kmの弾道飛行を行いました。ジェミニ2号はロケットから切り離された後、自動操縦により打上げ6分54秒後に逆噴射を実施して大気圏再突入を行い大西洋上に着水(予定地点からは26kmの誤差があった)しました。アメリカ海軍の航空母艦により回収されています。飛行時間は18分16秒。燃料電池や冷却装置などが改良すべき点が判明したしたものの、逆噴射装置や耐熱遮蔽板の性能は確認されました

③1965年3月23日、ジェミニ3号が打ち上げられました周回軌道を3周し4時間52分後に西大西洋に着水しました。着水地点は予定より約110km離れており、また着水時の姿勢はやや不安定であり回収作業には時間が掛かりましたが、宇宙飛行士は米海軍の航空母艦イントレピッド搭載のヘリコプターによって回収されました

④1965年6月3日、ジェミニ4号が打ち上げられました。飛行は順調に行き近地点162.3km、遠地点282.1kmの軌道に投入されました
軌道上でのランデブー試験は、「タイタンII GLV」ロケット第2段を標的に行なわれましたが、宇宙空間では、目視による距離が掴みづらく
軌道姿勢制御システム(以下OAMS/Orbit Attitude and Maneuvering Systemと記述)を用いた接近操作は難渋し、結局ランデブーは中止されました
その後3周目にキャビンを減圧させた後、
命綱を付け宇宙銃を持ったエドワード・ホワイト飛行士が船外に出て宇宙船より約5m離れて、宇宙遊泳を行い15分40秒後には船内に戻りましたが、ハッチの開閉に難があったため、2度目の宇宙遊泳は中止されました
軌道周回48回目にIBM製のコンピュータが故障したために、大気圏再突入時の揚力を用いた制御性の高い再突入は放棄され、ローリングを行いつつ再突入を実施しています。高度3,230mで主パラシュートが開傘、フロリダ半島沖の大西洋上に着水しました。飛行時間は4日を越え、米国の宇宙飛行では最も長いものとなりました。乗員はヘリコプターにより米海軍の強制揚陸艦ワスプへ回収されました

⑤1965年8月21日、ジェミニ5号が打ち上げられました。この飛行のミッションは、同時に打ち上げられた34.5kgの小型衛星とのランデブー試験でした。小型衛星は打上げ2時間後にジェミニ宇宙船から切り離されましたが、燃料電池が不調であったため、電力が不足し、ランデブーは中止されました。飛行3日目にランデブーではないものの、ランデブーのための軌道制御飛行試験を行っています。5日目にはOAMSのスラスターのうちの1基が故障し、いくつかの試験が中止されています。このほか、予定されていた地球観測や医学的実験は実施されています
大気圏再突入に際しては、本来の姿勢制御方式である「宇宙船を傾け、その揚力を利用した制御方式」で再突入が行われました。コンピューターの不調により、予定地よりも約130kmずれた大西洋上に着水しています

*ジェミニ6号は、に打ち上げを予定していましたが、ランデブー試験を行なう対象であったアジェナ標的衛星が1965年10月25日に打上げに失敗したために、7号の打上げが先となりました。
⑤1965年12月4日ジェミニ7号
が打ち上げられました。この飛行目的は、月飛行計画のための長期宇宙滞在を実施することにありました。宇宙船が軌道投入された後、搭乗員は長時間の宇宙服着用が不快であったために、地上と交渉した上で宇宙服を脱ぐことになりました。打上げ後5日目には高度300kmの安定した円軌道に軌道変更を行っています。12月15日にはジェミニ6-A号も打ち上げられ軌道上でランデブー(下記⑥参照)を行なっています。以降、予定されていた実験もほとんど完了したために宇宙飛行士は読書などをして過ごしました。一方、この頃からスラスターの不調燃料電池の出力低下が報告されています。ジェミニ7号は12月18日に大気圏再突入し、フロリダ半島沖の大西洋上の予定地点から11.8km離れたところに着水しています。宇宙滞在時間は13日18時間35分となり、ジェミニ5号の7日22時間を超え宇宙滞在記録を更新しました

⑥1965年12月15日予定変更されたジェミニ6-A号が打ち上げられ、近地点161km、遠地点259kmの軌道に投入されました。打上げ94分後に、ジェミニ6-A号は軌道変更のための5km/secの加速を開始し、軌道高度を上げ、ジェミニ7号に追い付くコースをとりました

ジェミニ6-A号から見たジェミニ7号

3回の軌道修正により6-A号は遠地点274km、近地点270kmの軌道に入りました後、微修正を繰り返してジェミニ7号とのランデブーを行いました。最接近時は距離30cmで近づいており、ランデブー状態を約270分継続しています。ジェミニ6-A号はランデブー試験の成功の後、ジェミニ7号よりも先に12月16日に帰還しています

⑦1966年3月16日、ジェミニ8号が打ち上げられました。この飛行では史上初となる2機の宇宙機の軌道上でのドッキングが行われました

ドッキングの対象となるアジェナ標的衛星(GATV-5003)は、1966年3月16日に打ち上げられ高度298キロメートルの円軌道に乗り、自動制御でドッキングのための正確な高度に軌道修正していました

ドッキングの為の手順は以下の通りです;
@第1回目の軌道修正は発射から1時間34分後に行われました。二人の宇宙飛行士は、 OAMS を5秒間作動させ遠地点をわずかに下げました
@第2回目の軌道修正は遠地点の近くで行われ、速度を毎秒15メートル増加させました
@第3回目の軌道修正は太平洋上空で行われ、横方向への噴射で毎秒18m加速し、軌道平面を南側に傾けました
@メキシコ上空にさしかかったとき、ヒューストンの通信担当官は、さらに毎秒0.79メートル加速する最後の軌道修正が必要であると伝えました
@ランデブー用レーダーは、距離322キロメートルの地点でアジェナの姿をとらえ、発射から3時間48分10秒後、宇宙飛行士らはさらにロケットを噴射し、アジェナよりも高度が28キロ低い円軌道に進入しました
@最初にアジェナを目視したのは距離141キロの地点で、102キロまで接近したときコンピューターによる自動操縦に移行しました
@その後の数度にわたる微調整で距離46メートルまで接近し、相対速度はゼロになりました
@宇宙飛行士らは30分間にわたってアジェナを目視で点検し、発射の衝撃による損傷は何も見られないことが確認できたため、管制室はドッキングを遂行するよう指令を出しました
@アームストロング飛行士は毎秒8センチメートルでアジェナへの接近を開始し、数分間のうちにアジェナのドッキング装置の留め金がかかり、緑色のランプが点灯してドッキングが完了しました。「管制室、ドッキングが完了! 実にスムーズなものだった」と、スコット飛行士が無線で地上に報告しました

緊急事態発生!;
@アジェナが内蔵プログラムにより、ジェミニと結合した船体を90度右に傾ける操作を開始した後、スコット飛行士は船体が右回転していることに気づきました。アームストロング飛行士はェミニのOAMSを使用して回転を止めましたが、一旦停止した後、すぐにまたローリングが始まりましたが、この時点で8号は地上との通信圏外にいましたた。
@アームストロング飛行士は、OAMSの燃料が30%にまで落ちていると報告しました(これは問題がジェミニの方にあることを示しています
@回転があまりに速くなりすぎると宇宙船の一方または双方が損傷し、さらには燃料を大量に積んだアジェナは分解あるいは爆発するおそれがあるため、飛行士らは状況を分析できるようアジェナを切り離すことを決断しました
@アームストロング飛行士が切り離しのた機体を安定させようと奮闘している一方で、スコット飛行士はアジェナの制御を地上からの指令に切り替えました
@スコット飛行士が分離のボタンを押すと、アームストロング飛行士はケットを長時間噴射してアジェナから遠ざかりました
@しかし、アジェナが切り離されたことによりジェミニの回転数は急激に上昇(1秒間に1回転)し、この状態では飛行士は視界がぼやけ、意識を失ったり回転性めまいに陥ってしまう危険がありました
@アームストロング飛行士は回転を止めるためにOAMSを停止し、大気圏再突入システム (以下RCS/Re-entry Control Systemと記述) の推進装置を使用することを決断しました


@宇宙船の状態を安定させることに成功した後、両宇宙飛行士はOAMSを順番に点検し8番の推進器に異常があることを発見しました
再突入用の燃料は回転停止に使用したためほぼ75%が失われており、規定では何らかの理由でRCSを一度でも噴射した場合は飛行を中止しなければならないとされていました。従って、ジェミニ8号はただちに緊急着陸の準備を始めました

着水、生還まで;
@その後、軌道を1周した後に大気圏に再突入することが決定されました。当初は大西洋に着水することが予定されていましたが、ここに到達するのは3日後のことでした。そのため新たに太平洋上の着水地点(沖縄東方800km、横須賀南方1,000km)が設定されました
再突入を開始したのは中国上空で、NASAの通信ステーションの範囲外でした
@着水想定地点に航空機が派遣され、パイロットは宇宙船の着水地点を目をこらして観測しました。ジェミニ8号を発見すると、この航空機からアメリカ空軍パラレスキュー部隊に連絡され、3名のレスキュー隊員が海面に飛びおりて宇宙船に浮き輪を取りつけました。着水から3時間後、ジェミニ宇宙船は艦上に引き上げられました。飛行士らは疲労困憊していましたが、無事に生還することが出来ました

⑧ジェミニ9-A号
ジェミニ9号の目的は、軌道上においてドッキングを成功させることにありましたが、ドッキング対象となるはずだったアジェナ標的機は、1966年5月17日に打ち上げられたものの、軌道投入に失敗し、ジェミニ9号の打ち上げも中止されました。その後、別の標的衛星が打ち上げられ、同年6月1日にジェミニ9-A号と名前を変えて打ち上げようとしましたが、発射3分前に機器の不調により打上げ中止となってしまいました。結局、1966年6月3日に打ち上げられました
軌道投入後の活動;
打ち上げ49分後、標的衛星に接近するための軌道修正を開始し、3時間20分後に93kmの地点にまで接近しました。しかし、標的衛星のペイロード・フェアリングが開ききっていないことが確認され、ドッキングは中止されました
飛行3日目に船外活動試験を実施することとなりユージン・サーナン飛行士が船外に出て、推進・機械部に搭載された宇宙飛行士推進ユニット(AMU/Astronaut Maneuvering Unit)を装着し船外活動を開始したものの、無重力下の宇宙空間での移動は困難を極めました。また宇宙服が動きづらかったのみならず、汗によりバイザーが曇り視界が確保できなくなったため、AMU の所まで移動するのに1時間を費やしました。飛行士の疲労や視界不良のため、AMUによる船外活動は中止となり、ユージン・サーナン飛行士は再び1時間をかけて船内に戻りました。
周回45週目に逆噴射を行い、大気圏再突入を開始しました。再突入動作は非常に順調に行われました

⑩1966年7月18日、ジェミニ10号が打ち上げられました。これに先立ち、ドッキング対象となるアジェナ標的機(GATV-5005)も打ち上げられて、打上げ6時間後にはアジェナ標的機(GATV-5005)とのドッキングに成功しました。ドッキング状態のまま、アジェナ標的機のエンジンを用いて近地点294km、遠地点763kmの軌道に変更することに成功しています。7月19日20時58分より78秒間の噴射を行い、近地点294km、遠地点382kmの軌道に再修正を行い、更に軌道修正を行って遠地点を378kmに変更しています
その後、アジェナ標的機(GATV-5005)を分離し、ジェミニ8号とドッキングしたことのあるアジェナ標的機(GATV-5003)とのランデブーを試み、3kmまで接近しています

打上げ48時間41分後から、マイケル・コリンズ飛行士は船外に出てアジェナ標的機(GATV-5003)へと移動しました。命綱を装着し宇宙銃を用いても移動は困難だったものの、アジェナ標的機(GATV-5003)に装着されていた微小隕石収集装置を回収し、ジェミニ宇宙船に戻ってきました
<参考> 微小隕石収集装置とは
色々な呼び方があると思いますが、宇宙空間に浮遊している、あるいは飛び交っている微小な粒子を補足する装置です
因みにISS(国際宇宙ステーション)に装備されている微小粒子捕獲装置は右の写真の様な装置です。JAXAはこの装置で世界的な発見を行っています(ISSで新種の地球外物質を回収

打上げ70時間10分後(48周回実施)に逆噴射を行い大気圏再突入を開始し、フロリダ半島沖の大西洋上で待機していた強襲揚陸艦ガダルカナルから5.6kmの地点に着水、無事回収されています

⑪1966年9月12日、ジェミニ11号が打ち上げられました。
これに先立ち、アジェナ標的機(GATV-5006)が1966年9月12日13時5分に打ち上げられており、ジェミニ11号は打上げ約1時間半後にはこのアジェナ標的機(GATV-5006)とのドッキングに成功しています
打上げ24時間後から搭乗員のリチャード・ゴードンは船外活動で各種の実験などを行っていましたが、疲労が激しく33分間で打ち切られ、全ての実験を消化することはできませんでした
打上げ40時間30分後に、アジェナ標的機(GATV-5006)のエンジンを用い軌道変更を実施、遠地点1,374kmの軌道に変更しましたが、これは当時有人で到達した最高高度でもありました。3時間23分後の再軌道修正により遠地点304kmの軌道に戻っています。また、打上げ後47時間7分後からゴードン飛行士が2時間に渡って、2度目の船外活動を行っています。

船外活動終了後、ジェミニ11号はアジェナ標的機(GATV-5006)とのドッキングを解除し、テザー試験を開始しています。これはジェミニ宇宙船とアジェナ標的機の間を約30mの紐で結び、軌道上の微小重力を用いたテザー推進により、姿勢制御を行なう試験でした。この試験は打上げ53時間後に終了しています
大気圏再突入は、米国の宇宙計画で初めて、完全コンピューター制御によって行われ、バハマ沖の大西洋上、強襲揚陸艦グアムから4.5kmの地点に着水、無事回収されています

⑫1966年11月11日、ジェミニ12号が打ち上げられました。これに先立ち、ドッキング対象となるアジェナ標的機(GATV-5001A)も打ち上げられています。
ジェミニ12号は打上げ4時間14分後にアジェナ標的機とのドッキングに成功しましたが、ジェナ標的機のエンジンに不調が見られたため、より遠軌道への軌道変更試験は中止されました

船外活動中のオルトリン飛行士

打上げ19時間29分後から1回目の船外活動が開始されました。これまでの船外活動の難しさを克服する為に、事前の訓練や作業道具の見直し・追加を行なっており、船外活動は以前より容易なものとなりました
オルドリン飛行士は2時間29分に渡って船外活動を行い、船外より微小隕石収集機の回収を行なっています。また2回目の船外活動は42時間48分後から開始され、2時間6分に渡って継続し、アジェナ標的機(GATV-5001A)とジェミニ宇宙船との間にテザー(綱)を設置し、これに携帯用手すりを用いて、船外活動をよりやり易くしています
47時間23分後にアジェナ標的機とのドッキングを解除し、テザーによる姿勢制御試験を行いました。テザーの長さは30mで、両端にジェミニ宇宙船とアジェナ標的機がある形になり、51時間51分まで続けられました。オルドリンによる3回目の船外活動が66時間6分後から行われました
94時間後に逆噴射を実施し、大気圏再突入を開始しました。全自動モードでの突入であり、目標より4.8km離れたバハマ沖の大西洋上に着水し、航空母艦ワスプにより無事回収されています

*ジェミニ計画で予想外の事象や失敗を多く経験することにより、アポロ計画は慎重に進められ、結果として比較的順調に成功への道を辿れたと思われます(私見)

アポロ計画

ケネディ大統領が国家事業として開始したアポロ計画は、NASAによるマーキュリー計画、ジェミニ計画に続く三度目の有人宇宙飛行計画です。この計画は、1961年~1972年にかけて実施され、全6回の有人月面着陸に成功しました

計画を具体化するに当たってまず必要になった事は、月飛行方式を決めることでした。具体的には以下の方式が検討されました;
A.直接降下方式
単体の宇宙船で月に向かい、着陸して帰還するとい方式。この方式では、非常に強力なロケットが必要とされる為不採用となりまhした。
B.地球周回ランデブー方式(Earth Orbit Rendezvous, EOR);
複数のロケットで部品を打ち上げ、月に直接降下する宇宙船、地球周回軌道を脱出するための宇宙船を組み立てる方式。軌道上で各部分をドッキングさせた後は、宇宙船は単体として月面に着陸する。
C.月面ランデブー方式
2機の宇宙船を続けて打ち上げる方式。燃料を搭載した無人の宇宙船が先に月面に着陸し、その後人間を乗せた宇宙船が着陸する。地球に帰還する前に、必要な燃料は無人船から供給される。
D.月周回ランデブー方式(Lunar Orbit Rendezvous, LOR);
いくつかの単位から構成される宇宙船を、1基のサターン・ロケットで打ち上げるという方式着陸船が月面で活動している間、司令船は月周回軌道上に残りその後活動を終えて離昇してきた着陸船と再びドッキングする

他の方式と比較すると、Dの方式はそれほど大きな着陸船を必要とせず、そのため月面から帰還する宇宙船の重量(すなわち地球からの発射総重量を最小限に抑えることができることから、この方式が選択されました

1.巨大なサターンロケットの開発
Dの方式でも有人月面着陸を行うには、米国が保有しているロケットでは対応不可能で、新しい強力なロケットの開発が必要になりました。サターンロケットは、ナチスドイツでV2ロケットの開発を行ったウェルナー・フォン・ブラウンが中心となって開発しました。サターン(Saturn)という名は、土星の英語名です

A.サターンIの開発;
サターン・シリーズの最初の型。日本のH-IIAとほぼ同等の低軌道打ち上げ能力を持ち、米国が地球周回軌道に衛星を乗せることを目的に開発した初めてのロケット(宇宙専用機)です。第一段は、新規に大きなエンジンを開発するのではなく、すでに完成されている小さいロケットエンジンを組み合わせる (clustered) ことによって大推力を発生させていることが特徴です。このクラスター方式は、手堅くて融通のきくものであることを実証してみせました。元々は1960年代において全世界を射程圏内に収める軍用ミサイルとなるべきはずのものでしたが、実際には1961年~1965年、10機のみが、アメリカ航空宇宙局 (NASA) によって使用されただけでした
このロケットの性能は、離陸重量は509.7トンで、地球低軌道には9トン、月軌道には2.2トンの打上能力があります

<構造・性能詳細>
①第1段目の構造・性能
全長:24.5m、直径:6.52m、エンジン:H-1/8基、推力:774トン、推進剤:ケロシンと液体酸素

②第2段目の構造・性能
全長:12.2m直径:5.49m、
エンジン:RL-10/6基、推力:41トン、推進薬:液体水素、液体酸素

③第3段目の性能
全長:9.1m、直径:3.1m、エンジン:RL-10/2基、推力:14トン、推進薬:液体水素と液体酸素

サターンⅠによる打上実績;
①1961年10月27日、1段目の飛行テスト(弾道飛行
②1962年4月25日、高度105kmに到達した時点で自爆装置を作動させてロケットを爆破し、模擬の2段目ロケットに搭載した109,000リットルの水を宇宙空間に散布して通信や気象への影響を調査(ハイウォーター計画)
③1962年11月16日、二度目のハイウォーター計画実施

④1963年3月28日
1段目ロケットの最後の試験飛行(2段目はダミーを搭載)。今回の目的は、エンジンの一基を発射から約100秒後に停止するというもので、停止したエンジンが使用するはずだった燃料を残りのエンジンに振り分け、燃焼時間を長くすることによってロケットは正しい軌道を維持できるかテストを行い正しい軌道が維持できるか確認するテスト。この技術はトラブルが発生した場合の冗長性確保(トラブルが発生しても深刻な事故に発展させない設計)が目的であり、後のアポロ6号やアポロ13号の大きなトラブルの際に大いに役立てられました

⑤1964年1月29日
、初めて二段目のロケットが搭載されて発射されました。1段目の切り離しは完璧に成功、2段目も順調に飛行し、近地点262km、遠地点785kmの楕円軌道に投入されました。この人工衛星になった2段目の重量は約17トンになり、その時点で世界最大の人工衛星となりました(⇔ソ連を越えた!
⑥1964年5月28日、形態・重量・重心などすべてが人間を搭乗させた場合と同等に作られた司令船と緊急脱出用ロケットのダミーが搭載し、司令船には116ヶの計測機器が搭載され、圧力・応力・加速などのデータを計測し地上に送信されました。発射から76.9秒が経過した時、1段目の第8エンジンが予定よりも早く燃焼を停止してしまった。しかし、冗長性確保の設計が完璧に機能し、残りのエンジンが予定よりも2.7秒長く燃焼し、ロケットは予定通りの軌道を飛行しました。第1段ロケットを切り離し、第2段が点火され、数秒後には緊急脱出用ロケットも切り離されました。第1段切り離しの様子は機体に搭載された8台のカメラで撮影され、フィルムは大西洋上で回収されました。2段目ロケットと司令船の模型は近地点182km、遠地点227kmの楕円軌道上に投入されました。司令船は地球を4周してバッテリーが途絶えるまでデータを送信し続け、6月1日に地球を54周した後大気圏に突入し、太平洋に落下しました

⑦1964年9月18日
、第1段ロケットは発射から147.7秒後に燃焼を停止し、その0.8秒後に切り離されました。さらに1.7秒後には第2段ロケットが燃焼を開始し、発射から160.2秒後に緊急脱出用ロケットが投棄されました。第2段ロケットは発射後621.1秒で燃焼を停止し、司令・機械船の模型が近地点213km、遠地点227kmの楕円軌道に投入されました。宇宙船は他の衛星を介してデータを送信し続け、地球を59周した後大気圏に再突入し、インド洋上に落下しました
⑧1965年2月16日、飛行は正常に行われ、2段目の先端に取り付けられた人工衛星ペガサスAは、およそ10分半後に近地点495km、遠地点743kmの楕円軌道上に投入されました。この飛行の目的は、緊急脱出用ロケット、及び司令船の切り離しに関わるテスト、またペガサスAには、機体の構造や電気的システムの機能に関するテスト、及び 低軌道に於ける宇宙塵が機体に及ぼす影響の調査という目的がありました

⑨1965年5月25日の夜間(現地時間午前2時35分)に発射されましたが、サターンIではこれが最初でした。10.6分後、2段目の先端に取り付けられた人工衛星ペガサスBは正常に軌道に投入されました。宇宙船、ペガサスB、使用済の第二段ロケットなど、軌道に乗ったものの総重量は約15.5トンでした。ペガサスBはその後1968年8月29日に通信が途絶えるまで、データを送信し続け、大気圏に再突入したのは、14年後の1979年11月3日でした。計画全体はほぼ完全に達成されました
⑩1965年7月30日に打ち上げられ、約11分後に司令船、ペガサスC、二段目ロケットが軌道に乗りました。ペガサスCは切り離され後872秒後に宇宙塵探査のためのパネルが展開しました。ペガサスCは当初の予想よりも長く1968年8月29日まで信号を送り続け、大気圏再突入は1969年8月4日で、計画のすべての目的は達成されました。司令船の大気圏に再突入は1975年11月22日でした(打上語10年以上経過!)

B.サターンIBの開発;
サターンIの改良型であり、第二段により強力なS-IVBを搭載しており、2段式ロケットです。以下、カッコ内の数値はサターンⅠとの比較です。尚、このロケットは、宇宙ステーション「スカイラブ計画」、「アポロ計画」にも一部使用されました
①第1段目の構造・性能
全長:25.5m(+1.0m)、直径:6.60(ほぼ同じ)、エンジン:H-1/8基(同じ)、推力:929トン(+155トン)、推進剤:ケロシンと液体酸素(同じ)

②第2段目の構造・性能
全長:17.8m(+5.6m)、直径:6.6m(+1.2m)、
エンジン:J-2/1基、推力:91トン(+49トン)、推進薬:液体水素、液体酸素(同じ)

サターンⅠBによる打上実績;
①1966年2月26日、サターンⅠBの初飛行(弾道飛行)及びアポロ司令・機械船の無人弾道試験飛行
②1966年7月5日、第2段性能試験。地球を4周
③1966年8月25日、司令・機械船の無人弾道試験飛行
④1968年1月22日(アポロ5号)、本来はアポロ1号で使用されるはずだった機体。アポロ月着陸船無人試験飛行。地球を36周
⑤1968年10月11日(アポロ7号)、アポロ宇宙船初の有人飛行。地球を163周
⑥1973年5月25日(スカイラブ2号)、宇宙ステーションスカイラブ第一次滞在クルーの飛行。地球を404周
⑦1973年7月28日(スカイラブ3号)、スカイラブ第二次滞在クルーの飛行。地球を838周
⑧1973年11月16日(スカイラブ4号)、スカイラブ第三次(最終)滞在クルーの飛行。地球を1,214周
⑨1975年7月15日、ソ連のソユーズ宇宙船とのランデブーとドッキングサターンIB 最後の飛行

<参考> スカイラブ計画とは;
スカイラブ計画は、1973年~1979年まで地球を周回する飛行を行いました。米国が初めて挑んだ宇宙ステーションです。主として、宇宙開発(アポロ計画を含め)の基礎となる実験や地球観測や長時間の無重力環境を必要とするような科学の実験に使われました。因みにスカイは「空⇒宇宙空間」、ラブは「laboratory」(実験室)の略です

C.司令・機械船、月着陸船の開発;
月周回ランデブー方式(Lunar Orbit Rendezvous, LOR)で月着陸、地球への帰還を目指す為の具体的手順は以下の様になります;
①地上からの打ち上げロケットにより司令・機械船と月着陸船を接続したまま地球周回軌道に入ります。その後、サターンⅤの第3段エンジンを噴射し司令・機械船と月着陸船月を月への軌道に乗せます。月周辺に到着後、
②月の衛星となる為に月着陸船を接続したまま司令・機械船のエンジンを噴射して月周回軌道に入ります。そこから、
③2人の飛行士を乗せて月着陸船を切り離し、月着陸船のエンジンを逆噴射をして軟着陸を行います。帰還する時は、
④月着陸船・下降段を切り離し、月着陸船・上昇段のエンジンを噴射して月周回軌道に入り、司令・機械船とランデブーを行い2人の飛行士を指令・機械船に収容します、その後、
司令・機械船はエンジンを噴射して地球周回軌道に入ります。その後、
指令・機械船エンジンを噴射して大気圏に突入し、機械船を切り離し指令船のみを着水させる

以上より、司令・機械船と月着陸船は以下の様な機能を持たせなければなりません

司令・機械船の開発
司令船・機械船は二つの部分から構成されています。司令船は3人の飛行士乗船し、宇宙船を操縦し地球に帰還させるために必要なすべての制御装置が搭載されています
機械船は推進用の大きなロケットエンジン1基と姿勢制御用の小ロケットエンジン16基およびその燃料、さらに宇宙滞在中に必要な酸素、水、バッテリーなどの消耗品などを搭載しています。最終的に地球に帰還するのは司令船のみで、機械船は大気圏再突入時に高温・高圧力で消滅します

司令船は直径3.9m、高さ3.2mの円錐形で、頂上部には二基の姿勢制御用小型ロケット、月着陸船とのドッキング装置および乗り換え用のトンネル、地球帰還時に使用するパラシュートなどが搭載されています。底辺部には10基の姿勢制御用小型ロケットとその燃料タンク水タンク機械船との集合接続ケーブルなどがあります。外壁は主にアルミニウムのハニカム構造(蜂の巣の様な構造)になっています。底面には4層のハニカムパネルを貼り合わせた耐熱シールドとなっており、大気圏再突入時にはこのシールドが断熱圧縮で高温となり徐々に融解することによって熱を吸収し、船体が熱破壊されることを防いでいます

テスト中の司令船の事故:
アポロ1号は、1967年2月21日に最初の有人宇宙飛行となる予定で準備が進められていましたが、同年1月27日、発射台上で発射の予行演習を行っていた際に火災が発生し、ガス・グリソム 、エドワード・ホワイト、ロジャー・チャフィーが3名の宇宙飛行士が犠牲になりました


機械船
は与圧されていない直径3.9m、高さ7.5mの円筒形の構造物です。内部は中央部とそれを放射状に取り巻く6つの外郭部によって構成されており、推進用ロケット・姿勢制御ロケットおよびその燃料、酸素、燃料電池、通信用のアンテナなどが配置されています

前部カバーは高さが86.4cmで、機械船コンピューター、司令船との結合装置などが収納されています

推進用エンジンは高さ約3.9m、直径約2.5mで、燃料にはエアロジン-50、酸化剤には四酸化二窒素を使用する。推力は894kgで、月周回軌道への投入および離脱、途中での軌道修正などを行ないます。 姿勢制御用ロケットは1基が推力4.4kgで、四基ずつ集合したものがそれぞれ90度の角度をおいて外周に配置され、宇宙船の姿勢制御や速度の微調整などを行ないます。姿勢制御用ロケットの燃料はモノメチルヒドラジン、酸化剤は四酸化二窒素です

月着陸船(Apollo Lunar Module)の開発
アポロ計画において、2名の宇宙飛行士を月面に着陸させ、かつ帰還させるために開発された宇宙船です。下降段と上昇段による構成で、着陸する際は下降段のロケット噴射をブレーキに用い月面に降り、帰還する際は下降段を発射台として、上昇段のロケットを噴射して軌道上の司令船とドッキングします。総重量は14.7トンで、そのうち下降段の重量は10.1トンを占めます

開発は困難を極めました。まず問題となったのは重量でした。当初ロケットの打ち上げ能力から要求された重量は9トン以内だったのですが、開発初期でさえ予定重量は10トンを超えていたため、徹底した軽量化が図られました。中でも一回きりの使用となる着陸時の緩衝機構はアルミ製ハニカムが潰れる事で着陸時の衝撃を吸収する方式が新たに採用されました。こうした努力にも関わらず最終的に重量は15トン近くに達し、見かねたウェルナー・フォン・ブラウンがサターンVの推力を増やすことでようやく解決することになりました。次に問題となったのは着陸用エンジンで、従来のロケットエンジンに比べ繊細な出力制御が要求されましたが、燃料と酸化剤の比を一定に保ちつつ流量制御する特殊な供給機構の開発により解決されました

D.サターンⅤの開発;
連邦航空宇宙局(NASA)が開発した世界最大のロケット(全長・総重量・搭載量)で、6年間で計13機のサターンVを発射し、その間大きな事故は一度も起こしませんでした
サターンVは、サターン・シリーズの旗艦ロケットです。ウェルナー・フォン・ブラウンの指揮の下、ボーイングノース・アメリカンダグラスIBM等、米国が誇る航空、ITに関わる巨大企業が開発作業を分担しました。アラバマ州ハンツビルのマーシャル宇宙飛行センターにおいて開発が進められましたが、最終的にそれらを引き取り、組み立てる作業はボーイングが行いました

以下、カッコ内の数値はサターンⅠBとの比較です
第1段の構造・性能;
全長:全長は42.0m(+16.5m)、直径:10.0(+3.4m)、エンジン:F-1/5基(Δ3基)、推力:3,460トン+2,531トン)、推進剤:ケロシンと液体酸素(同じ)
*エンジン5基のうち中央の1基は固定されており、ジンバル(首振り)機構が設けられた周囲の4基がロケットの飛行を制御する構造になっています。また加速度を制限する(⇔推力が変わらずに燃料を消費していくとロケットの重量が減少し、結果として加速度が増加して乗員の負担が大きくなるから)ために、中央の1基は発射後2分で燃焼を停止することになっています。更に、周囲の4基のエンジンがトラブルを起こした場合の冗長性/Redundancyの役割も担っているものと考えられます

第2段の構造・性能;
全長:24.9(+7.1m)、直径:10.0m(第1段と同じ;+3.4m)、
エンジン:J-2(4基;+3)推力:453トン+362トン)、推進薬:液体水素、液体酸素(同じ)
第3段の構造・性能;
全長:17.9m、直径:6.6m、エンジン:J-2/1基(サターンⅠBの2段目と同じ)、推力:91トン、推進薬:液体水素、液体酸素
*第3段目のロケットは、第2段ロケットの燃焼終了後から2分半にわたって噴射を行って機体を地球周回軌道に投入します。その後6分の噴射を行って月への軌道に乗せることになっています

サターンVによる打上実績;
*以下の実績で、アポロの発射番号で欠番になっている部分は、文末にある参考の図表をご覧ください
①1967年11月9日(アポロ4号)、サターンⅤの  初飛行。すべての実験が成功
② 1968年4月4日(アポロ6号 ) 、第2段と第3段のJ-2 エンジンに問題が発生
1968年12月21日(アポロ8号)  初の有人飛行。月を周回
④1969年3月4日( アポロ9号)、  地球周回軌道上で月着陸船の有人飛行試験
⑤1969年5月18日(アポロ10号) 月面着陸の予行演習
⑥1969年7月16日(アポロ11号)、  史上初の月面着陸
⑦ 1969年11月14日(アポロ12号)、 無人月面探査機サーベイヤー3号の近くに着陸。発射時に2回雷の直撃を受けましたが、ダメージはありませんでした

⑧1970年4月11日(アポロ13号)、月に向かう途中で機械船の酸素タンクが爆発する事故が発生しましたが、飛行士は月着陸船をあたかも救命ボートとして用い、使用不能になった機械船のエンジンの代わりに月着陸船の降下用エンジンを使って地球に帰還するための加速を行いました。月着陸船は、本来は2人の飛行士を45時間生存させるよう設計されていましたが、あらゆる部分を切り詰めて使用した結果、3人の飛行士を90時間生存させることに成功し、飛行士は無事に帰還しました
⑨1971年1月31日(アポロ14号)  フラ・マウロ高地の近くに着陸
⑩1971年7月26日(アポロ15号)  月面車を初めて使用
⑪1972年4月16日(アポロ16号)  デカルト高原に着陸
⑫1972年12月7日(アポロ17号)  初の夜間打ち上げ。アポロ計画最後のミッション
⑬1973年5月14日(スカイラブ1号)  宇宙ステーション・スカイラブを打ち上げに使用

おわりに

ソ連に先行された宇宙開発競争は、ジェミニ計画からは米国が完全に追い越し、アポロ計画に至って人類が夢見ていた月着陸、地球への帰還という快挙を成し遂げました。この契機となったのは、ネディー大統領の壮大な計画と大胆な財政支援であり、またこの計画をバックアップしたのは失敗を恐れず前に進むという米国民の開拓者精神であったと私は思います
考えてみれば、人類が鳥の様に空を飛ぶという夢を実現した航空機の歴史も似た様な経過を辿りました(ref:航空機の発達と規制の歴史)。幾多の事故に怯むことなく、原因を追究し飽くなき挑戦を続けていくこと以外に進歩はあり得ないという事であろうとおもいます

ネット情報を丹念調べていくと、失敗についての記事は、ソ連、ロシアからは余り見つからない(←多分隠している)のに対し、米国の宇宙開発途上での失敗(緑字の下線付きの部分参照)は数多く見つけることが出来ます。米国はこうしたチャレンジの結果としての失敗に実に寛容な国であると思います
翻って日本の宇宙開発はどうか、昨年から今年にかけて良型イプシロンロケット、H3ロケットの打上失敗がありました。強く非難する論調は無かったものの、開発担当者の落胆ぶりを見ると悲しい気持ちになります。これに対して宇宙開発用の大型宇宙ロケット「スカイシップ」打上の失敗では、スペースX社の開発担当者やオーナーであるイーロンマスクの表情は明るすぎるほど明るいものでした。恐らく未知の領域へのチャレンジとは、こういう心構えと財政的な余裕が必要なのかと気づかされました

革新的な設計を行っているイプシロンロケット、H3ロケットの開発
も、米国流でやるのであれば、地上でのテストとは別にペイロードを載せる前にまずロケットシステムのみの実射テストを行うべきではなかったか(まあ予算による制約も大きかったんでしょうね)? でも、ペーロードを載せての失敗はもっと失うものが大きかったような気がします

Follow_Up:2023年5月25日日経新聞記事_「H3」2号機、衛星載せず打ち上げへ リスク抑え性能確認

宙開発競争の歴史

以下のデータはネット上で検索を行って纏めたものであり、全てをカバーしている訳ではありません。また、軍事目的に関わる打上実績は敢えてピックアップしてません;

 

 

ロケットに関わる基礎知識と日本のロケット開発の歴史

はじめに

Follow_Up:準天頂衛星に関わる最新情報
(注)上記をクリックすることによりにジャンプできます

見出しの写真は、現代のロケットの原点とも言えるV2ロケットの実際の発射時の写真と、その構造です。このロケットは第二次大戦終盤に、劣勢に陥りつつあったナチスドイツが起死回生のミサイルとして開発しました。ヨーロッパにおける主要な敵国であるイギリスの首都ロンドンに対しては1,252機も発射されたものの着弾は517機に止まりましたが、極めて高速での垂直に近い着弾だったため迎撃はほぼ不可能であり、ロンドン市民の恐怖感は尋常ではなかったと言われています
参考:V2の前にドイツは V1を開発しイギリス攻撃に使っていました

ただ、この V1というミサイルはロケット推進ではなくパルスジェットエンジン(楽器のハーモニカの様な構造のジェットエンジンです;原理は右図参照)で推進しており、速度、高度は航空機と変わりないので、戦闘機や対空砲で容易に撃墜することが可能でした

V2は。制御がしやすい液体式(燃料:アルコール、酸化剤:液体酸素)であり、ジャイロを使った自動制御機構で弾道飛行を行うなど、現代の長距離ミサイルと基本のシステムはそう変わりない程の先進的なロケットでした。従って、1945年5月のドイツ降伏後、米国とソ連はこのロケットを鹵獲すると共に、開発に携わったドイツ人の技術者を本国に連れ帰り、両国のミサイル開発に従事させました。この中には米国のアポロ計画を主導したウェルナー・フォン・ブラウン(過去、ナチス党員であったことが知られています)が含まれています

一方、日本も第二次大戦末期に、日本近海に迫った米国機動部隊の艦船を攻撃する為の兵器として特攻を前提とした「桜花」が開発されています。この機体は一式陸上攻撃機に吊るされて攻撃目標近くになって発射される固体燃料のロケットで、終戦まで755機製造され55名の特攻隊員が命を落としています

以下に第二次世界大戦後の日本のロケットの開発状況を辿ってみたいと思います。ただ、ロケットの開発がミサイルの開発のベースになっていることは明らかですが、可能な限り宇宙開発用のロケットを対象にすることとします

ロケットの性能について

1.各種の人工衛星、宇宙船のミッションに関わる性能
人工衛星にはその目的によって投入する軌道(各種の人工衛星軌道については次章参照)や重量が異なります。また宇宙船も目指す目的地までの距離(例えば月、火星、小惑星、など)や重量がが異なります。従ってこれらの目的に沿ったロケットの開発が行われており、その性能に関わる重要なパラメーターは以下の様になります;
① 推力及びその継続時間
<参考> 推力を表す単位
通常、推力を表す単位にはニュートン(標記「N」:物理学者アイザック・ニュートンから名称が付けられました)が使われますが、定義は以下の様になります;
 @質量1kgの物体に1m/s2の加速度を与えるのに必要な力が1N(ニュートン)
一方、地上で「質量1kg」の物体を手に持った時に感じる下向きの力を通常1kgと表現しますが、物理学ではこれを「1キログラム重(1kgf/Kirogram・Force」と表現しています。例えば、地上で3,000トンの船を持ち上げるには地上では重力加速度9.8m/s2が働いていますので、
 @3,000トンx 9.8m/s2 = 3x 103x1000kg/トンx9.8m/s2
  = 3x 106kg x 9.8m/s2 = 29.4x106ニュートン  
となります。しかし、私のブログでは見慣れないお単位を使うよりは、慣れた単位の方が直感的に理解しやすいと考え、上記の例の場合推力3,000トンと表現することにしています

② ミッション達成に必要な最終段の速度(第一宇宙速度、第二宇宙速度,第三宇宙速度;「宇宙に関わる基礎的な知識」参照)
③ 一段のみか、二段式か、三段式か
④ 軌道制御能力
⑤ 経済性

2.推進剤に関わる性能(比推力
ロケットやジェットのエンジンは、プロペラとは違って、大量・高速の流体を噴射することにより推進力を得ています。何故これで推進力を得られるかはニュートンの第二法則で説明できます(詳しくは私のブログ「宇宙に関わる基礎的な知識」をご覧になって下さい)
ジェットエンジンが大気中で作動する(⇔燃焼に必要な酸素を空気から得る)のに対し、ロケットエンジンは、真空中でも作動させねばならないので燃料の他に酸素を供給する酸化剤が必要になります。ただ、小型の宇宙船などで使われるイオンエンジンは、帯電させた粒子を電気(⇔太陽電池や原子力を使って得る)で加速して噴射させますので酸化剤は不要になります

ロケットやジェットのエンジン性能(燃費効率と言い換えることもできます)とは、いかに少ない推進剤(燃料+酸化剤)で所要の推力を持続できるかと言う事ができます(推力の大きさそのものとは別です)。
現在、この性能の指標として一般に使われているは比推力( specific impulse)と言います

比推力の定義

① 推力 = 単位時間当たり噴射される燃焼ガスの運動量(kg m/S2)
ニュートンの第二法則(⇔力は単位時間当たりの運動量の変化変化率に等しい)
② 推進剤の重量流量 = 質量流量(kg/S)x 重力加速度(9.8m/S2
*9.8m/S2の意味は:地球の重力のもとで物を落下させると毎秒9.8mづつ速度が増加します。つまり自由に落下させると1秒後には秒速 9.8m、2秒後には 9.8x2=秒速19.6mの速度、3秒後には、、、、
 比推力 = ① ÷ ② (単位:秒)
⇔ 単位質量の推進剤で単位推力を発生させ続けられる時間(単位:秒)

例えば;
1,000kg/Sの質量流量の推進剤が秒速2,000m/Sで噴射されたとすれば

① 推力 = 1,000kg/S x 2,000m/S =2 x 106 kg・
m/S2
② 推進剤の重量 流量= 1,000kg /S x 9.8m/S2
③ 比推力 = (1,000kg/S x 2,000m/s) ÷ (1,000kg/S x 9.8m/S2) = 204秒

推進剤による比推力の比較
ロケットエンジン;
固体燃料ロケット:200–300秒
液体燃料ロケット:300–460秒
参考:「H-ⅡA」の先進的な第一段ロケット(LE7Aは液体水素・酸素を燃料にしています)の比推力は445秒です

ジェットエンジン、レシプロエンジン
(酸化剤は空気中の酸素);
ターボジェットエンジン2300–2900秒
レシプロエンジン3500–5500秒

イオンエンジン
::数千秒~1万秒
*燃焼ではなく電気で噴射する粒子を加速するので酸化剤は不要であり、噴射速度を早くできますので効率は非常に良い。しかし大きな推力は出せないので惑星間飛行など長時間推力を出し続けられる場合などに使われます。特に「はやぶさ」など惑星間飛行を行う時の軌道修正時などに適しています

人工衛星の軌道に関わる基礎知識

静止軌道(Geostationary Orbit)とは
地球の自転の周期(24時間)と同じ周期で公転していることから、地上からは、空のある一点に静止しているかのように見えます。ただ実際には、地球の重力場が一様ではない事と、太陽輻射圧や月の引力の影響があるため、静止衛星の位置は少しずつずれてゆきます。これを補正するために静止衛星は定期的に軌道制御を行っています。従って静止衛星の寿命は、概ね軌道制御用燃料の搭載量で決まり、寿命末期には静止軌道から、さらに高度が高い軌道に上昇させて廃棄し、静止軌道を空けることが国際条約により定められています
静止軌道は、放送衛星通信衛星気象衛星などに用いられています

極軌道(Polar Orbit)とは
極軌道とは、北極・南極の上空を通過する軌道です。地球表面上の全範囲を観測できるので、地図作成地球観測衛星気象衛星、偵察衛星などでよく用いられています

尚、偵察衛星は高い解像度の可視光カメラ、夜間でも撮影可能な赤外線カメラ、レーダーなども装備しており、しかも解像度を上げる為に低高度を周回する様になっているため一般に希薄な空気の影響を受けて寿命は短いのが普通です

太陽同期軌道(Sun-synchronous Orbit)とは

極軌道の一種で、地球の場合、平均すると地球の公転と同期するように軌道面が変化するため、太陽光線と軌道面とのなす角がほぼ一定となります

 

 

GPS(Global Positioning System)の軌道とは
各衛星は、高度20,200km、軌道傾斜角55度、周期12時間の準同期軌道上にあり、各衛星は60度おきで、6種類の軌道面毎に4個が配置され、合計24基で地球全域、24時間カバーできるようなっています。これらの軌道配置によって、遮蔽されない限り地上のどこからでも6ヶ以上の衛星が同時に視界に入る様になっています

準天頂衛星の軌道とは
GPS衛星を使って利用者が位置の測定するには、常に4機以上のGPS衛星から信号を受信することが必要です。また、高精度な測位には8機以上からの受信が必要になります。しかし、日本では山間部や、高層建築物が立ち並ぶ都市部が多く、利用者位置から見た可視衛星数が少なくなり、測位精度が落ちたり、不可能となる場合があります。これを補う為に、日本の上空を常時1機以上は見通せることができるようにする為に地球の自転と同期した24時間で一周する楕円軌道に3機の衛星を配置し、常に1機の衛星は日本の天頂付近を通過する様にしています。この様な軌道を準天頂軌道と言います

Topics:2025年2月2日:H3ロケット5号機で準天頂衛星「みちびき6号」の打ち上げ成功


筆者(荒井)は、打上当日 JAXAの提供する実況中継を観る機会があり、以下の様な追加の知見を得ました;
① 打ち上げ後、1段目及びSRB(固体補助ロケット)は燃焼が終わった後切り離し、2段目に点火。その後秒速 約8kmに加速した後2段目のエンジンを一旦停止して、慣性飛行に移行。その後再び2段目を点火しました。そのまま秒速 9km以上まで加速した後衛星(みちびき6号)を切り離しました ⇒ オーストラリア南方海上上空を近地点(衛星の速度が9km以上)、日本上空を遠地点(衛星の速度が遅い)とする楕円軌道を周回することとなりました
② この結果として、適正な間隔で準天頂衛星を打ち上げると(最終的に7機を予定)、日本上空付近に常に4機が集まり、残りの3機が日本からは見通せない軌道上に居る状態を維持することが出来ることになります
③ この時の赤道面に対する軌道傾斜角は約43度、飛行高度はオーストラリア南方海上で約3万2千km、
日本上空で約4万 km、軌道周期約24時間となります
④ 衛星が日本上空を通過する時、地上から見える衛星の軌跡が8の字になる理由は、地上にある日本は24時間で一周する一定の自転速度で動きますが、衛星が地球に向かう軌道上にある時は地球の自転とは無関係に地球に対してやや東側に飛行しますが、近地点に戻る時は地球に対してやや西側に向かって飛行しますので、地上から衛星を見ると軌道が日本上空で左右にズレ、8の字のような軌道をたどる様に見えることになります

準天頂衛星「みちびき」の今後の利用計画;

現行のGPSの精度は10メートルの誤差がありますが、準天頂衛星「みちびき」を利用すると、この誤差が1メートルと一気に精度が上がります。また、天頂付近に衛星が集まっていますので、山間部やビルに囲まれた都市部での受信が改善されます。今後の利用方法については「内閣府・宇宙開発推進事務局」の情報をご覧になってください
最新情報は以上

Follow_UP:2023年4月_「極超音速」ミサイル対処へ衛星実験_政府が宇宙基本計画の改定案

日本のロケット開発の歴史

国産ロケット開発の歴史については、JAXA(国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構 / Japan Aerospace Exploration Agency)のネット上の資料(「国産ロケットの系譜」)から多くを引用しております。

1.糸川英雄による日本のロケット開発の曙
戦後日本のロケットの開発は糸川英雄博士によるペンシルロケットから始まりました
糸川英夫は1912年7月20日、西麻布で生まれました。東京帝国大学に入学後、工学部航空学科に進み。1935年卒業後は中島飛行機(株)に入社しました。ここで、名機と言われる「97式艦上攻撃機」、「一式戦闘機・隼」、「二式戦闘機・鍾馗の開発に携わりました

戦後、東京大学生産技術研究所に勤務し、航空及び超音速空気力学研究班(Avionics and Supersonic Aerodynamics)を組織し、ロケットの開発に着手しました
以下にその足跡を辿りますが、敗戦国日本が現在は宇宙開発の最先端を走っているのは彼の功績によるものが大きいと思います。そうしたことから、2010年、世界に先駆けて日本の宇宙船「はやぶさ」が小惑星探査にチャレンジし、サンプルを持ち帰ってきた小惑星を「イトカワ」命名されたことはむべなるなと思います

ペンシルロケットからベビーロケットへ

① ペンシルロケットからベビーロケットへ
ペンシルロケット開発を着手した時、東京大学と共同開発を行った富士精密(株)は乏しい予算しか無かったため、最初のロケット実験機は(右写真の一番右)直径1.8cm、長さ23cm、重さ200グラムの正にペンシルの様なロケットでした。
しかしおもちゃの様に小さいとはいえ、航空機の設計と同様にロケットの重心と飛行中に作用する空気力の中心(「空力中心」といいます)を実験により確認しつつ形状や、材料の設計を行ってゆきました
1955年4月、国分寺にロケット発射の実験場を設置し、最初は水平に発射し各種データを測定する際、関係官庁・報道関係者立ち会いのもとで、試射が行われました。当時、レーダーが手に入らなかったことも水平発射実験に繋がったものと思われます

試射で撮影された飛行状況;

この実験により得られたデータを基に、より大型のペンシル300ロケットとベビーロケットの開発に着手し、その実験場を日本海に面した秋田県・道川としました

秋田県・道川の発射場の全景

この発射場(秋田ロケット実験場)では、ペンシル300ロケットとベビーロケットの発射実験を行いました
ペンシル300ロケットの到達高度600m、水平距離700m。飛翔時間は16.8秒でした
1955年8月末から9月にかけてベビーロケット(直径80mm、長さ約1,200mm、重さ約10kg)も沢山打ち上げられました

② カッパロケットの開発
*カッパロケット以降は、アルファベットの頭文字が名前につけられているものの、読み方はギリシャ語の発音です(カッコ内はギリシャ文字) ⇒ K:カッパ(κ)、L:ラムダ(λ)、M:ミュー(μ)、イプシロン(ε;イプシロンだけは何故か「 E」を使いません?) 

日本における糸川英雄のロケット開発は、1957年~1958年にかけて計画された国際地球観測年(IGY/International Geophysical Year)の日本における宇宙観測を担う役割を負うことになっていました
IGYでは、当時未だよく分かっていなかったオーロラ大気光(夜光)宇宙線地磁気氷河重力電離層経度・緯度決定気象学海洋学地震学太陽活動など12項目について世界各国で協力して観測を行う事になっていました。ソ連邦と米国も、IGYのために初期の人工衛星・スプートニク1号と米国のエクスプローラー1号を打ち上げて観測に協力しています。IGYの主な成果は、バン・アレン帯の発見、中央海嶺、プレート・テクトニクス説の確認などがあります

バンアレン帯とは
地球の磁場にとらえられた、陽子(陽子線)、電子(ベータ線)からなる放射線帯

 

IGYの観測を行う為にに1955年の10月からこれまでより高い高度への飛行と観測機器の搭載の為にこれまでより大きなロケットが必要となることからカッパロケットの開発が始まり、実験場も新たに近くに建設されました。1956年9月、K-1ロケットの初飛行が行われ高度10kmを達成しました

K-1ロケットからK-6 ロケットへ

しかし、この高度ではIGYのミッションを達成できないことから、燃料の改良(圧縮成型⇒コンポジット推薬)及び機体の軽量化を行い、二段ロケットのK-6が完成し、1957年9月の打ち上げで目標の高度60kmを達成しました。この成功から日本は世界の宇宙開発の仲間入りを果たしたのです。カッパ6は21機打ち上げられました

2. その後の日本の固体燃料ロケット開発概観
ペンシルロケット以降、現在までの日本が開発した固体燃料ロケットは以下の通りです;
(注)上表中のLEOは「低軌道 (Low Earth Orbit;地球表面からの高度2,000km以下)」、SSOは「太陽同期軌道(Sun-Synchronous Orbit;前章「人口衛星の軌道に関わる基礎的な知識」参照) 」を意味します

固体燃料ロケットの構造

固体燃料ロケットの構造は、右図の様に固体の燃料と酸化剤を混ぜてロケット本体に充填したロケットであり、発射する時はロケット内部の燃料へそのまま点火します。ロケット本体が燃焼室を兼ねており部品点数が少なく、構造が簡単で安価に製造できる利点があります。また、固体である燃料・酸化剤は化学的に比較的安定した性質の物質からなり、製造後の点検がほとんど必要ないまま長期間保管でき、即応性に優れています(⇔ミサイルに適している)。一方、燃焼の制御が難しく、点火後に燃焼の中断や再点火、推力の調整を行うことは原理的に非常に難しく、またロケット本体は燃焼室となることから燃焼圧力と温度に耐える様強い強度が必要になります

上表の各ロケットにより達成されたミッションは以下の通りです;
① ラムダロケット
1970年2月11日、3回の失敗の後にラムダロケットL-4S(上表左端;写真は以下)により日本初の人工衛星「おおすみの打ち上げに成功しました。名称は打ち上げ基地があった大隅半島に由来します。この成功により日本はソ連、米国、フランスに次ぎ、世界で4番目の衛星打ち上げ国となりました

② ミューロケット
ラムダロケット以降、ミューロケットが開発され各種ミッションをこなしながら集大成として完成したのがミューロケット第5世代の「M-V」ロケットです
以下は「M-V」で達成したミッション一覧です;

                                         M-Ⅴの打上実績

③ イプシロンロケット
ミューロケットは多くのミッションを達成しましたが、高コストであったために2006年に廃止されました。その代わりに開発された固体燃料ロケットがイプシロンロケットです
参考:イプシロンロケットの基本形態は全段固体の3段式ロケットですが、液体エンジンの「PBS(ポストブーストステージ)」を4段目として搭載するオプションが用意されています。これを使えば、投入高度の誤差は±20km程度と、液体ロケット並みの精度が実現できます。PBSは液体エンジンと言っても、M-Vの姿勢制御用エンジンと同じような1液式エンジン(燃料はヒドラジン)です

イプシロンロケットは2010年から開発を始め、2013年9月に試験1号機が打ち上げられました。その後の打ち上げ実績は以下の通りです

*2021年11月・日経記事イプシロン5号機打ち上げ・衛星9基搭載

2022年10月日経記事イプシロン6号機・初の打ち上げ失敗
2022年10月18日、開発を統括している宇宙航空研究開発機構から「イプシロンロケット6号機打上げ失敗原因調査状況」が発行されています
今後失敗原因が特定され、イプシロンロケットの打ち上げが再開されるまでフォローします

3.日本の液体ロケット開発概観
実用の大型衛星を望み通りの軌道に打ち上げるには、正確なコントロールが行える液体燃料ロケットが必要であることから、米国からの技術導入をスタートとして開発が薦められました;


上表中のGTOは「静止トランスファ軌道(Geostationary Transfer Orbit)」を意味し、人工衛星を静止軌道(前章「人口衛星の軌道」参照))に投入する前に、一時的に投入される軌道で、よく利用されるのは、遠地点が静止軌道の高度、近地点が低高度の楕円軌道です

液体燃料ロケットの構造は、右図の様に液体の燃料と酸化剤をタンクに貯蔵し、それをエンジンの燃焼室で混合して燃焼させ推力を発生させるロケットです。液体燃料は一般的に固体燃料に比べて比推力に優れているうえ、推力可変機能燃焼停止や再着火などの燃焼制御機能を持つことができます。また、エンジン以外のタンク部分は単に燃料を貯蔵しているだけで構造は簡単であるものの、燃焼室や噴射器、燃料ポンプなどの機構は複雑です。以下の写真はH2ロケットの第一段のエンジン(LE7)の該当部分のアッセンブリーです;開発の歴史
① 海外からの技術導入(「N-1」~「H-1」)
日本における液体ロケットの開発は、固体燃料ロケットとは別に宇宙開発事業団(NASDA)が担当することになりました。液体燃料のエンジンは構造が複雑で開発に時間も費用もかかり当時の日本には難易度が高かったので、米国の「デルタロケット(ウィキペディア)」の技術の導入を図ることとなりました。
最初の「N-I」ロケットの開発がスタートしたのは1970年。5年後の1975年には、早くも1号機が打ち上げられ、更に後継の「N-II」の初打ち上げは1981年、現行のHシリーズのベースとなった「H-I」ロケットは1986年と大型化が進められていきました。「N-II」~「H-I」の打ち上げ回数は17回でしたが、全てミッションを達成しました

② 「H-Ⅱ」の開発(「H-Ⅱ」~「H-ⅡA」~「H-ⅡB」
液体ロケットとして、初めて国産化を果たしたのはその次の「H-II」ロケットです。第2段エンジンはH-Iですでに国産のものを搭載していましたが、H-IIではより大きな第1段エンジンも独自開発しました。1986年に開発が始まり、エンジンの爆発事故が起きるなど開発は難航したものの、1994年に試験機の打ち上げに成功した。

しかし、1998年、5号機において、第2段エンジンに不具合が発生。燃焼時間が短かったため、予定した軌道への衛星の投入に失敗してしまいました。その後、必用な改修を行った上で1999年、8号機を打ち上げましたが、今度は第1段エンジンが飛行中に異常停止。衛星を投入できる見込みがなくなったため、ロケットは地上からの指令で爆破されました。純国産ロケットは2機連続失敗という窮地に立たされました。H-IIは8号機の成功を前提に7号機の打ち上げを予定していましたがこれをキャンセル、既に1996年より開発が始まっていたH-II改良型の「H-IIA」ロケットの開発に注力することになりました
参考:2000年5月18日に出された「H-Ⅱロケット8号機打上げ失敗の 原因究明及び今後の対策について

海底で発見された8号機のLE7エンジンと、破損したターボポンプのブレード

その後「H-IIA」、「HⅡ-B」は高い信頼性を確立し、各種の重要ミッションを遂行しました(下表参照)が、コストの高さが問題になりました。多少の違いはあるもののH-IIAの打ち上げ費用は、1機あたり約100億円であり、他のロケット先進国の商用衛星打上競争で顧客を獲得するには、次世代の「H3」の開発を待たねばなりませんでした

③ H3ロケットの開発
H3ロケット(コンセプトを根本から見直したロケットであることを示すため、「H-Ⅲ」ではなく敢えて「H3」としたそうです!)は、日本の次世代の大型ロケットとして2014年から開発がスタートし、開発目標は打ち上げ価格を「H-Ⅱ」の半額となる約50億円を目標にしています

また、幅広い打ち上げ能力要求にシームレスに対応するため、固体ロケットブースター「SRB-3」の基数や、第1段メインエンジン「LE-9」の基数、衛星フェアリングを各種選択できる仕様となっています;おり機体形態は「H3-a、b、c」で表します;
H3-a:第1段メインエンジンの機数(2基、3基)
H3-b:固体ロケットブースターの基数(0、2基、4基)
H3-c:フェアリングのサイズ(W:Wide/L:Long/S:Short)

日本中の大きな期待を乗せて2023年3月7日、種子島宇宙センターから打ち上げられましたが、第1段目は順調に飛行したものの、第2段目が着火せず失敗に終わりました。事故原因の究明はこれから始まりますが、失敗に至る経緯については事故翌日に発行された「H3ロケット試験機1号機の打上げ失敗について」をご覧ください
H-Ⅱ 8号機の失敗と異なり、今回は電気系統の故障が原因と言われていますので、原因究明が済めば再挑戦の機会は意外に早く来るのではないかと私は期待しています

参考:現在世界各国で運用されている宇宙開発用ロケットとの能力比較
JAXAのサイトで、現在運用されている宇宙開発用ロケットとの能力比較に掲載されている宇宙先進国の大型ロケットの性能比較は下図の通りです(海外ロケットの性能については2018年の米国連邦航空局/FAAの資料によります)。尚、表中に無い現在開現発中のH3ロケットの場合、「アリアンⅤ」並みの打ち上げ能力を確保できることになっています(詳しくは「JAXA H3 ロケット」をご覧ください)

おわりに

日本のロケット開発は戦後の苦しい経済事情の中で始まったものの、関係者の努力で世界の5強に連なっていることは日本人として、一宇宙ファンとして大変誇りに思っています。偶々、昨年末のイプシロン6号機の失敗、今年3月のH3ロケットの失敗と続きましたが、日本の技術の力をもってすれば間違いなく近い将来日本の主力ロケットとして活躍を始めると思っています
ただ少し心配なのは、2月末のH3ロケット打上の時に、メインエンジンは着火したもののブースターが着火せず打ち上げを延期した時の開発責任者が、記者会見で涙声になっていた(私も不覚にも貰い泣きをしてしまった!)のはちょっと心配です。イプシロンロケットの4段目、H3メインエンジンの先進性は、世界の最先端だと思っており、今回の失敗位でめげてはいけないと思います。両ロケットとも近い内に再打ち上げが行われ成功することを信じています

以上

日本農業の未来

はじめに

2022年2月に始まったウクライナ戦争で、小麦粉やトウモロコシなどの穀物の流通が妨げられた為に、これらの輸入穀物に頼っているアフリカの貧しい国々で食糧危機が起こりました。穀物の大生産地が戦争に巻き込まれた時、あるいは気候変動や害虫(主にバッタ)などにより著しく穀物生産量が低下した時には、必ずどこかの国(多くは人口が多い貧困な国)で食糧危機が発生します。日本においても戦後の一時期、荒廃した国土と併せ、海外に居た軍人・軍属、海外に居留していた日本人の約660万人が帰国し深刻な食糧危機に見舞われました。この時、米国のガリオアエロア基金による食糧援助が無ければ、多くの餓死者が発生した可能性がありました

そんな訳で、日本を取り巻く政治・軍事情勢が緊迫の度を増している状況下(日中関係特に台湾海峡危機、日ロ関係、北朝鮮の核・ミサイルによる挑発)、日本の農業の現状とその改革の方向性について、少し意見を述べてみたいと思います

以下の文章で青色の斜体で書かれている内容は私自身の見解です

日本の農業の現状

第二次大戦後、日本においては国が主導した
① 復員農民による開墾事業の実施(昭和村など)
干拓事業に実施(八郎潟など)
自作農創設特別措置法による生産意欲の高い農民が生まれた事
農業技術の向上
などの農業政策により農業生産量が急激に増加すると共に、
⑤ 国の経済力の向上により食料の輸入に困らなくなった事
により、これまで食料危機の様な事態は発生しておりません。しかし、その実態は結構厳しい状況にあります。因みに、カロリーベースでの食料自給率(注)は、なんと現在40%前後まで低下しております;
(注)カロリーベース総合食料自給率とは(農林水産庁の定義);
基礎的な栄養価であるエネルギー(カロリー)に着目して、国民に供給される熱量(総供給熱量)に対する国内生産の割合を示す指標です

この原因は、日本が豊かになるにつれ国民の嗜好が洋風化し、肉類・乳製品の需要が高まった結果、日本の畜産・酪農、養豚、養鶏の生産量は増加したものの、その飼料の大部分を輸入に頼った事、またパン食、パスタなどの洋風麺類などの需要拡大によって国産可能な主食穀物である米の需要が減って、小麦の需要が増加しこれを輸入に頼っていること、などが考えられます

一人当たり年間消費量_農林水産省

尚、日本の農業の生産性・自給率などについて詳しい説明は、2018年1月発行の私のブログ「年の初めのためしとて~」の農業、林業、水産業の未来という項目の「1.農業の分野」にも調査結果を記載してありますのでご覧になって下さい

また、農地の有効活用の面では農民の高齢化に伴う耕作放棄地の増加人口減少に伴い過疎地も全国に分布する様になりましたが、特に山間地区を中心とする過疎化が顕著になって来ています。こうした状況下で日本の食をどう守るかについて、ネット上の情報に加え、恥ずかしながら私自身の知見、アイデアなども開示してみる事にしました

こうした状況が農業政策の失敗から生まれたことは、2008年に発行された東京財団上席研究員・山下一仁氏の寄稿「日本の食料自給率はなぜ低下したのか」をご覧になるとよく分かると思います

世界規模の不作や戦争による基幹食糧のサプライチェーンの混乱に伴う食糧危機にどう対応するか — 石油危機の歴史に学ぶ

回のウクライナ危機で食糧危機に見舞われている開発途上国は、食糧自給が出来ない為に起こっていると考えられます
戦後の日本においては幸いなことに危機的な食糧危機は戦後の混乱期のみですが、戦後主要なエネルギーを石炭から石油に急速に変えていったことから、エネルギーの自給率が極端に低下(20%前後)した時期に所謂「オイルショック」が起き、大混乱を招きました。日本がこの危機から脱出する過程から学ぶことがあると思いますので、この歴史を振り返ってみることにします

*以下は資源エネルギー庁のホームページから情報を得ています
第一次オイルショック(1973年10月~1974年8月)
原因
*第一次オイルショックは、1973年10月に第4次中東戦争が勃発し、アラブ諸国を支援するOPEC(石油輸出国機構)が原油の供給制限輸出価格の大幅な引き上げを行った結果発生しました。国際原油価格は3カ月で約4倍に高騰しました。これにより、石油消費国である先進国を中心に世界経済は大きく混乱。石炭から石油へと舵を切り、エネルギーの8割近くを輸入原油に頼っていた日本も大きな影響を受けました

日本が被ったインパクト;
原油の値上がり ⇒ ガソリンなどの石油製品の値上げ物価の上昇と急激なインフレ⇒ 1974年度の日本の成長は戦後初めてマイナス成長高度経済成長の終焉
鉱工業生産指数:+8.1% ⇒ Δ7.2%
パニック現象:日本全国のスーパーの店頭からトイレットペーパーや洗剤が消えました。「石油供給が途絶えれば、日本は物不足になるのでは?」、そうした不安から「買いだめ・買い占め」、「売り惜しみ」、「便乗値上げ」などが見られました

国が行った対策;

① 「石油節約運動」として、国民に「日曜ドライブの自粛」、「高速道路での低速運転」、「暖房の設定温度調整」などを推奨
② エネルギー政策を強力に牽引する行政機関として、当時の通商産業省内に「資源エネルギー庁」を新設

*エネルギーの安定的な供給を確保することが国の将来を左右する最重要課題であるとの認識から以下の基本的施策が実行に移され、この基本的な考え方は、現在にも受け継がれています。日本が世界に誇る省エネの歴史も、ここから始まりました
① 1973年に「石油需給適正化法」を制定。石油の大幅な供給不足が起った場合に需給の適正化を図る目的で、国が石油精製業者などに石油生産計画などの作成の指示ができる様にしました
② 長期的な視点から石油備蓄目標などを定めました。1974年度中に60日分の備蓄を実現。1975年には「石油備蓄法を制定し、民間備蓄を法的に義務付け、「90日備蓄増強計画」をスタートさせ、1978年には、国家備蓄を開始しました

<参考> 2023年1月における石油備蓄の現況については資源エネルギー庁資料「石油備蓄の現況」をご覧ください

③ 1979年に「エネルギーの使用の合理化に関する法律(省エネ法)」を制定。工場や輸送、建築物や機械などについて、効率的なエネルギーの利用に努めるよう求めました
④ エネルギー源の多様化を進め、石油依存率を下げる目的で、1980年には「石油代替エネルギーの開発及び導入の促進に関する法律(代エネ法)」を制定。石油に代わるエネルギーの開発・導入を打ち出しました

こうしたことから、石油代替エネルギーとして注目を集めたのが原子力発電です。自国にエネルギー資源を持たないフランス、日本、韓国は「準国産エネルギー」(原発の燃料となるウランは一度輸入すれば燃料リサイクルにより長く使用できるため、国産に準じるエネルギーとして位置づけられるの比率を高める必要性を認識していたため、原発の導入が進展しました。1974年には、原発の建設を促進するため、発電所の立地地域への交付金を定める法律なども整備されました

尚、先進各国のエネルギー自給の状況については私のブログ「地球温暖化と日本のエネルギー政策」を参照してください

第二次オイルショック(1978年10月~1982年4月)
1970年代末から1980年代初頭にかけて、原油価格は再び高騰しました。OPECが1978年末以降段階的に大幅値上げを実施、これに1979年2月のイラン革命や1980年9に勃発したイラン・イラク戦争(1980年9月~1988年8月)の影響が重なり、国際原油価格は約3年間で約2.7倍にも跳ね上がりました。これに伴い日本でもまた物価上昇が起こり経済成長率も減速しましたが、第一次オイルショックの反省と、その後に行った国の施策により国民も冷静な対応をとり、社会的な混乱は生じませんでした

日本の農業政策に、上記のエネルギー危機対策の参考にすべきポイントは以下ではないか、と私は考えます;
国家による食料・家畜飼料の生産と備蓄を国家主導により行う

農業に適した日本を見直そう!

日本は中緯度のモンスーン地帯にあります。従って農業に欠かせない雨量については申し分ない状況にあります。因みに日本全国平均の年間降水量は、1850mmですこれに対して世界の著名な穀倉地帯;
では雨量は意外に少なく、ウクライナの年間平均降水雨量は565mm、米国の穀倉地帯(Great Plains)では年間平均降水雨量は約890mmから250mm程度と、乾燥した地域で、時折旱魃に見舞われることがあります。つまり、日本の農業は何処にあっても、ほぼ水の心配がいらない(干ばつによる飢饉が起こりにくい)農地で行われています
ただ、夏になっても日本付近に太平洋の高気圧の張り出しが弱く、そのため気温が低く、日照時間も少ないことから北日本の稲をはじめとする夏作物が実らない災害が発生することがあります。また、北海道にあっては、オホーツク海高気圧に覆われ日照はあるが、気温が上らず、冷害となることもあります。ただ近年では、冷害に強い品種改良が進むと共に、気象の長期予測の精度の向上、地球温暖化の進行などにより冷害の頻度は低くなっています

こうしたことから、日本は食料自給率を向上させる努力は必要であるし、また戦争直後の様な国民一丸となった叡智を結集すれば「外的要因による食糧危機」を防げると私は思います

耕作放棄地の活用について素人の考えを展開してみました!

1.自国農業保護に関わるルール
戦後の日本の経済的は目覚ましい発展を遂げ、海外の安い食料を簡単に輸入することが出来る国になりました。こうした状況下で、競争力の高い工業製品に対する貿易障壁を低くする為に、自国農業の保護を目的とする農産物の輸入制限にはGATTウルグアイ・ラウンドにより一定の制限が設けられる事になりました
<参考> ウルグアイ・ラウンドとは
1948年に発足したGATT(General Agreement on Tariffs and Trade/関税 および貿易に関する一般協定)は、1970年代までに7回の貿易・関税交渉を行い、関税引下げなどに自由貿易の推進に一定の成果をあげてきました。しかし、1980年代に入って、各国で保護主義の動きが高まり、また商品貿易以外の国際取引が増加するなど、国際貿易を巡る状況の変化によって、あらたな交渉の必要性が生じてきました。そこで、第8回目の貿易交渉として始まったのがウルグアイ・ラウンドです。この協議ではサービス貿易や知的所有権の扱い方、農産物の自由化などについて交渉が行われました
この中で、農業分野の交渉が難航し、将来的に全ての農産物を関税化に移行させること、及び最低輸入機会(ミニマム・アクセスを決定するにとどまり、完全な自由化には至りませんでした
1986年から1995年にかけて行われた、GATT・ウルグアイ・ラウンドにおいて、このミニマム・アクセスの農産物への適用が義務づけられ、初年度は国内消費量の4%、その後6年間で8%まで拡大することが義務付けられています。
政府は1999年に、コメの関税化へ方針転換し、コメの枠外関税を、2000年(平成12年)に341円/キログラムに設定し、関税を払えば、誰でもコメを自由に日本へ輸入出来る様にしました。これにより、ミニマム・アクセス米の輸入量は、2000年には本来8%(85.2万トン)であるところを、2000年には76.7万トン(7.2%)を関税無し(免税)で受け入れることになりました

2.耕作放棄地の現状
上図(農林水産庁の資料)を見れば明らかな様に、耕作放棄地が増加し、逆に耕作適地であるものの、耕作が放棄されている土地がハイペースで増加しています。耕作放棄地の面積は上図(2015年)の段階で42.3万ヘクタール(因みに私の住んでいる埼玉県の総面積は38万ヘクタールです!)に達しています(ネット上を色々探してみましたが、現在の農林水産省の最新の調査結果は2015年版の様です)
農林水産省は、この耕作放棄地を二つのカテゴリーに分けています;
① 遊休農地:相当程度農地と使われず放置されている農地

② 荒廃農地:長期間農地として使われず、荒廃している農地

農林水産省は、こうした耕作放棄地が発生した要因は以下の様に考えています;
①  農業就業者の7割を占める60歳以上の世代が高齢化等によりリタイアし、農地などの経営資源や農業技術が適切に継承されず、農業の生産基盤が⼀層脆弱化してきた
②  高齢化が進む中、山間地域を中⼼に農村人口が減少し、農業生産のみならず地域コミュニティの維持が困難になり離農者が増加している

こうした状況を改善する為に国では幾つかの取組を行っています;
A.農地バンク;
2014年農林水産省は、全都道府県に農地中間管理機構(通称「農地バンク」)を設立し、中立な立場で農地の貸し・借りを円滑に進める役割をさせています。耕作放棄地の所有者や高齢などの理由によりリタイアしたい人など、「農地を貸したい」という人から農地バンクが土地を借り受けます。そして、新規就農希望者や農業参入を希望する希望などに貸し付けを行っていますB.国及び地方自治体の交付金
国が行う「耕作放棄地再生利用緊急対策交付金」は、重機を使った再生作業費用の半分(沖縄県は2/3)を支給。また耕作を行った初年度には10アールにつき2.5万円の助成が受けられます。また、地方自治体を含め土地の再生や耕作の再開にかかるさまざまな費用が助成の対象になっています
現在、こうした制度によって幾つかの成功例も報告されています:耕作放棄地の再生例_農林水産省

C.飼料用米の増産
2019年3月に閣議決定した「食料・農業・農村基本計画の概要全体網羅型であり構造的な変革についてはあまり具体的な目標は掲げていない印象/私見!」において、主食用の米からの作付転換が比較的容易であり、日本の畜産業にとっても安定的な経営にも寄与することから、「飼料用米の生産拡大」を目標として掲げ、2030年度の飼料用のコメの生産努力目標を70万トンに設定しています

発想の転換!

ただ、こうした従来までの行政の延長では、広大、且つ増え続ける耕作放棄地と低下しつつある食料自給率の矛盾は解消しそうにもないと私は思います。そこで、オイルショック後の経産省が行った大胆な取り組みを参考にして、敢えて国家が全面的に介入して耕作放棄地の再利用と食糧増産を結びつけることを考えてみました

1.耕作放棄地を使って、穀物の増産がどれだけ期待できるかの試算
概算を行う為に、主要穀物(コメ、小麦、トウモロコシ、大豆)の単位面積当たりの統計資料を調べてみました;
上表をみてまず吃驚するのは、農作物の生産性の最も重要な指標である単位面積当たりの収量が、農業先進国と比べて意外に低いことです。恐らくこの原因は、二期作が行える気候か否か、農薬の使用量の多寡、遺伝子組み換え品種を利用するか否か、化学肥料の多寡、などの違いが大きいと思いますが、日本人が食味に拘る傾向が強く、生産性は高いものの味の悪い穀物は栽培していないことも大きいと思います
しかし喫緊の課題は、日本人が小麦と同じほどに摂取する様になった肉類の生産に必要な飼料となる穀物の生産です。従って、単位面積当たりの収量だけにフォーカスしてもいいはずです

そこで、平均的な国の単位面積当たりの収量をグラフから読み取り、これに日本の耕作放棄地の面積(42万ヘクタール)をかけて、どれほどの穀物が生産可能か概算値(日本の飼料用穀物の輸入量と比較する為の概算値)を出してみました;

一方、最近の飼料用穀物の輸入量は1300万トン程度を推移しており(詳細は「近年の飼料穀物の輸入状況」をご覧ください)、為替動向や流通の混乱に大きな影響を受けるようになっています。特に最近の飼料価格の高騰は、ウクライナ戦争による流通の混乱と円安による二重のインパクトよるものであり、飼料の国産化は急務であると私は考えています。その意味で、耕作放棄地の飼料用作物への転用、備蓄の推進は、オイルショック時と同様に国策として進めるべきであると考えています

素人!の試案;
①  耕作放棄地を「農地バンク」の様な個人の熱意に期待する中途半端な仕組みではなく国が積極的に買い取る(国有農地とする)
②  この国有農地を飼料専門の耕作地とし、最新の技術(ドローン、ロボット、GPS、AIを駆使する農業)を駆使した効率的な運営を行い、コスト低減と同時に単位面サキ当たりの収量向上を目指す

③  耕作放棄地のうち「荒廃農地」に分類される土地については、敢えて牧草地とし、牧草の収穫あるいは主に輸入に頼っている羊や山羊の放牧地として活用する
⇒  国がサイレージとして貯蔵する⇒  国が必要な設備投資を行う
サイレージ(Silage)とは:牧草や飼料作物など高水分の飼料を適度な水分を保ったまま密封し、乳酸発酵を主とする嫌気的発酵(サイレージ発酵)を行うことで貯蔵性を高めた飼料
スイスに於いては、殆ど全てが傾斜地であり、そこで酪農を発展させてきたことを考えると、日本の山裾の「荒廃農地」は牧場とすることに何ら問題が無いと思われます

④  飼料の国際価格が下がったり、為替相場が円高になったタイミングを狙い積極的な飼料備蓄を行う
⇒  国がカントリーエレベーター、備蓄用サイロなどの設備投資を行う

カントリーエレベーターとは : 穀物の貯蔵施設の一種のことです。巨大なサイロと穀物搬入用エレベーター、穀物の乾燥施設及び調製施設などからなります

⑤  国際飼料相場が高騰したタイミングで備蓄飼料を放出し、国内の飼料価格の安定と結果としての畜産業の経営安定化を図る

2.酪農危機に対する対応
現在日本の酪農家が直面している最大の問題は以下の通りです;
(参考)  2022年2月1日時点での乳牛の飼育状況

①  乳用牛配合飼料の価格は2022年12月時点で1トンあたり10.1万円。1年間で22%上がり、2020年同月比で4割も高い水準になっています。農林水産省によると、2020年の1頭あたりの生乳生産費は約45%を飼料費が占めていました

②  これまで、生まれた子牛は1頭10万円程度で引き取られる貴重な収入源でしたが、ホクレン農業協同組合連合会(札幌市)によると、北海道のホルスタインの子牛(オス)1頭あたりの価格は2023年1月時点で平均約2万円以下で取引されています
⇔  子牛の需要が激減していることは、酪農家が赤字経営を避ける為に経営規模の縮小に走っていることだと思われます

③  生乳は痛みやすく生産と消費の調整が難しい商品である一方で、学校給食の需要が大きい為に夏休み・年末年始期間は供給過剰になります。また今回のコロナ禍では長期間にわたって自宅学習が続いた為に大量の生乳が廃棄を余儀なくされる状況になりました
⇔  生乳を長期保存可能な加工品(バター、脱脂乳・チーズなど)として貯蔵する仕組みが欠如している結果だと思われます。ただ、加工品は輸入品との価格競争が激しいため国は「原料乳生産者補給金」を支出してサポートをしているものの、生乳の売上単価対比で原料乳の単価が30%以上下がるので売上が原価を割る事態になる事を覚悟する必要があります

素人!の試案;
①   ロングライフ牛乳の普及により学校給食による需要の変動を吸収する
牛乳の消費量が多い海外では、大容量で賞味期限が非常に長いロングライフ牛乳が当たり前となっています。今までの殺菌温度より高温にすることで、2~6ヶ月も常温保存ができるようになっています

<参考> ロングライフ牛乳は通常の要冷蔵の牛乳と以下が異なっています

A.  特殊な容器の使用通常の紙パックの内側にアルミ箔を追加(結果として4層構造になる)した容器を使用するか、海外では一般的になっている光を通さないペットボトルを容器として使用します
*現在、日本ではこのペットボトルの容器を生産していません
B.  特殊な殺菌方法:ロングライフ牛乳では130~150度で1~3秒殺菌を行う「UHT(Ultra high temperature heating method)滅菌法」が行われています。この方法では牛乳の中の菌類はほぼ死滅します。たんぱく質の変性はある程度あるものの、優れた保存効果が得られます(参考:フランスの事例
因みに、これ以外の殺菌方法には「低温保持殺菌(LTLT法)」、「高温短時間殺菌(HTST法)」があります

私自身で、味に違いがあるかどうかを確かめてみました!       ⇒

私の鈍感な味覚ではいつも飲んでいる成分無調整の牛乳と区別がつきませんでした。また日本でも九州ではよく呑まれている様です
(ref:レタスクラブ

②  乳製品製造に特化した中小企業を国が支援して育成する
この企業のイメージとしては、日本に多数存在する酒造メーカー群です。酒と言っても日本酒、焼酎、ウィスキー、ワイン、ビール、等々、沢山種類があると共に、大企業に混じって頑張る中小メーカーも日本全国に沢山あり、夫々に特徴ある企業運営をしています
元々、酪農発祥の地(欧州が中心)では、昔から続く小企業が独特の製法、味でブランドイメージを作り上げ頑張っています。最近は日本でもチーズを中心とする結構高価な様々な乳製品が輸入されて売られています
<参考> 乳製品の種類
下表(農畜産振興機構より)をご覧になると、主な乳製品の輸入量が年々増加していることが分かります

これまで日本では、大きな乳業メーカーにほぼ独占されていた乳製品の製造を、国のサポートを基に生まれる中小企業が実施することとなれば、上表の輸入分が置き換わることとなり、酪農家の生乳生産量も増やせることになると私は考えます

また上表の輸入飲用乳には、濃厚なジャージ種の生乳も含まれていると思われますが、こうした付加価値の高い乳牛は、前節で触れた「荒廃農地」での羊や山羊の飼育と同時に行えば、日本の過疎化した山間地にスイスの様な景観を作り出す事が可能と思われます。日本においても阿蘇の広大な草地での放牧風景が日本の各地に生まれるかもしれません(夢の観過ぎか!)

おわりに

毎日朝食時にコップ一杯の牛乳を楽しんでいる私は、昨年末の「5千リットルの生乳廃棄か?」、「高く売れない子牛を餌が勿体ないので屠殺している」というニュースに驚くと同時に、憤慨いたしました。その後、色々酪農関係の資料を読むうちに、煩雑な農政の仕組みに驚くと同時に乳価の決まる仕組みなど、日本は本当に資本主義国か?と思いました

過去、米価が農協と行政の間で、選挙絡みで決まっていくことに疑問を感じていました。また、最後の国主導の干拓事業である八郎潟干拓が終わって意欲ある農民が入植した直後に、減反を迫られ、憤慨した農民達は農協のくびきから逃れ、美味しいコメを自由販売する道を選んだことに拍手喝采したことを思いだしました

憤慨する気持ちを整理する為にこのブログを書きましたが、我ながら「全く素人臭いアイデアであるな!」と思います。読者の方々の中には、もっといいアイデアがをお持ちの方もいらっしゃると思います。出来たらそうしたアイデアを私に内緒で?教えて頂けたら嬉しいなと思う次第です、、、、、

Follow_Up:農林水産省は2018年にコメの生産量を調整する「減反政策」を廃止したものの、現在も主食用のコメから飼料米や麦、大豆などへの転作に補助金を出す事実上の生産抑制策が残っています
Follow_Up:2023年1月27日・President Onlineに以下の様な記事が出ていました。着眼点がやや異なるものの結論は同じです:牛乳は捨てるほど余っているのに

<参考>
2024年度後半から、コメ不足に伴う米価の高騰が続いていたことがあり、私の学生時代の親しい友人達で行っている意見交換会の内、最近2回(2025年5月と7月の例会)でこの問題を取り扱いました。私は、このブログをベースに以下の様な資料を配布して私の意見を述べました;
戦後の食糧供給に関わる制度の変遷
日本の農業の現状と改革試案

以上

宇宙に関わる基礎的な知識

宇宙とは

 宇宙について概論を語るには私は知識及び理解力の面で無理があります。何故なら凡そ100年前にアインシュタインが発表した「一般相対性理論」を理解できなければ本当の意味で宇宙を理解するのは不可能だからです因みに、アインシュタインがこの理論を発表した時、これを直ちに理解できる人は「当時天才と言われたフェルミなど数人しかいないだろう」と言っていた事を聞いたことがあります
その後、この理論で予言したことが実際の観測結果で証明されるようになるまでには相当の時間がかかりました。因みに、アインシュタインが予言した空間のゆがみが光の速さで宇宙空間に伝播するという「重力波」の存在を実際に直接検出することは、2015年9月14日まで待たなければなりませんでした(アメリカの重力波望遠鏡 LIGOとヨーロッパの重力波望遠鏡 Virgoの研究チームによる観測結果)


てな訳で、以下の説明や画像は大半書籍や新聞、ネット情報の受け売りという事になりますが、お許しいただければ幸いです

1.宇宙の成り立ち
どうしてそんな事になるか分かりませんが、およそ137億年前、何もないところに宇宙のタネが生まれ、すぐに急激に膨張し、引き続き大爆発しました。これを「ビッグバン」と言います

               ビッグバン後の宇宙の姿

今から46億年前(ビックバンから約90億年後)に宇宙の様々なガスが集合して太陽が誕生しました。太陽誕生をきっかけとして太陽系ができ、その後太陽を中心とする沢山の惑星が誕生しました。誕生の順序は以下の通りです;
① 水星、金星、地球、火星の誕生
② 木星、土星の誕生
③ 天王星、海王星の誕生

<参考1>
宇宙マイクロ波背景放射(CMB:Cosmic Microwave Background)とは;
天球上の全方向から観測されるマイクロ波であり、そのスペクトルは2.725K(ケルビンという温度単位;-270.425℃に相当)の物体の発するスペクトルに極めてよく一致しています。このCMBの放射は、ビッグバン理論について現在までに得られている最も確かな証拠と考えられています。CMBが1960年代中頃に発見されたことで、定常宇宙論はじめとするビッグバン理論と対立する説への興味は失われていきました
<参考2>
ブラックホール(Black Hole)とは;
 最も速い光(秒速約30万km)でさえも脱出できないほど重力が強いとされる天体を意味します。従って、光では観測することができず、宇宙に空いた黒い穴のように見えることから名づけられました。すべての質量が「特異点」と呼ばれるきわめて狭い領域に押し込められ、周囲の時空間が大きく歪んでいると考えられているブラックホールの場合、脱出速度が光速を上回ります。ブラックホールの外からやってきた光も強い重力で進む向きが曲げられてしまい、ある距離まで近づくとブラックホールから脱出することができなくなるとされています。

光さえも出ては来られないブラックホールそのものを直接見ることはできませんが間接的に観測することは可能です。ブラックホールの強い重力に引き寄せられたガスなどの物質は、吸い込まれつつもブラックホールの周囲を高速で周回する「降着円盤」を形成します。円盤とはいいますが、その中心にはブラックホールが存在するはずなので、実際には幅の広い輪のような構造をしていると考えられています(右上の写真は理論的に考えられた想像図)。この降着円盤は光(電磁波)を放つので、その様子を詳しく観測することで、ブラックホールの性質を調べることができるのです。また、物質の一部をブラックホールから「ジェット」として放出しています。ジェットも光(電磁波)を放つので、観測することが可能です

2019年4月、国際協力プロジェクト・Event Horizon Telescope(EHT)は、楕円銀河「M87」の中心にある超大質量ブラックホール周辺の撮影に成功したことを発表しました。EHTから公開された画像を見ると、オレンジ色で示されたリングのなかにぽっかりと黒い穴が空いているように見えます

ブラックホールが生まれる原因の一つに、巨大な質量の恒星(太陽の質量の8倍以上)が寿命の最後に超新星爆発を起こして外層が吹き飛ばされ、残された中心部分の質量が太陽の約3倍以上だった場合、自身の重力で収縮する重力崩壊が止まらなくなった結果、ブラックホールが誕生すると言われています

 

 

 

恒星の一生とブラックホール

Follow_Up:2023年4月日経「ガス噴出を伴うブラックホール 国際チームが撮影

2.宇宙の果ては?
宇宙はその誕生以降も膨張し続けていると言われていますが、宇宙は広大であり、現代人の科学技術をもってしても観測可能な宇宙は宇宙全体のほんの一部に過ぎません。宇宙の全体像が分からないということについては、科学者の間ではさまざまな意見があり議論が交わされているようですが、「宇宙が無限なのか有限なのかも分からない」ということにもなります
2016年3月、米国のハッブル望遠鏡による分光分析により「GN-z11」という銀河系宇宙(gakaxy)を発見しました;

ハッブル望遠鏡によって発見された一番遠い銀河系

この銀河系の見かけの距離は134億光年(注1)でしたが、膨張し続けている宇宙(地球から遠ざかっている)の正確な距離を計算するための「赤方偏移(注2)」で補正すると実際の距離は320億光年ということになります

(注1)光年とは
 秒速30万キロメートルの速さの光が1年間に到達する距離を言います(宇宙の距離はこの尺度で比較されることが多い;太陽から地球迄の距離は凡そ1億5千万km、従って太陽から発せられた光が地球に届くのは8.3秒後という事になります)。134億光年の距離ということは、ビッグバン直後に生まれた天体を今見ていることにもなります
参考:太陽系の中での距離の単位で天文単位( Astronomical Unit )というものがあります。これは太陽から地球迄の距離(凡そ1億5千万km)を一単位とするものです
(注2)赤方偏移(Red Shift)とは
主に天文学において、遠ざかりつつある遠方の天体から到来する光の波長が、ドップラー効果遠ざかるパトカーのサイレンが音が低く聞こえる現象と同じ)によって長くなる(つまり波長の長い赤色に偏移する)現象を言っています。 赤方偏移による波長のずれは、天体の光を分光し、フラウンホーファー線(下図の黒い縦線)を比較することによって調べることができます

太陽光のスペクトルのFraunhofer_lines

フラウンホーファー線:
太陽光等の連続した光のスペクトルにおいて、ところどころに生じている暗線のこと。光源から観測地点までの間に存在する様々な物質が、特定の波長の光を強く吸収するために生じると言われています。
観測した遠方の銀河系の光のスペクトルと太陽光のスペクトルのフラウンホーファー線を比べ波長が長い方にシフトしていることは、高速で遠ざかっていることを意味します

ところが、昨年(2022年4月)GN-z11よりもさらに遠い約135億光年(実際の距離は約334億光年)離れている可能性のある銀河候補の天体「 HD1 」が発見されました。また、この年の7月、ハッブル望遠鏡の後継となる巨大な宇宙望遠鏡「James Webb」が稼働を始めましたので、今後更に遠い宇宙が観測できるものと期待しています
参考:2022年7月・日経記事_「宇宙最初の星」に迫れ

宇宙の研究に功績のあった人々とその成果

宇宙」という言葉は一般にコスモス(cosmos/ギリシャ語)、ユニバース(universe/ラテン語)、スペース(space/英語)などに対する共通の日本語訳です。夜空に輝く星座や恒星、惑星にギリシャ神話に登場する神々の名前が付けられ、それが現在も尚継承されている事を考えると、現在の天文学の起源は、天空の精密な観測を基に科学的に解き明かそうとした(古代ギリシャでは天文学は数学の一分野として扱われていた)ギリシャの哲人(ピタゴラス、プラトン、他)であると考えてよさそうです
その後キリスト教がヨーロッパ全土に広がっていった結果、天文学は神学の世界に取り込まれ科学的な研究が行われなくなってしまいました。この状況が一変するのは14世紀から16世紀に亘るルネサンス時代でした。ルネサンス(Renaissance/「再生」「復活」などを意味するフランス語)とは、ギリシア・ローマ時代の文化を復興しようとする運動の事ですが、この時代に以下の様な天才が登場し、現代の天文学の基礎を確立しました

1.ニコラウス・コペルニクス(1473年~1543年;現在のポーランド出身)
① 1510年頃 「コメンタリオルス」という同人誌で太陽中心説(地動説)をはじめて公にしました
② 1542年、「天球の回転について」の草稿を書き上げ、その中で地動説を基にして実際に星の軌道計算も行いました
*その後脳卒中で倒れ、1543年に死去(70歳)しますが、「天球の回転について」の校正刷りは彼の死の当日に仕上がったと言われています
[豆知識] コペルニクス的転回という例えがよく使われますが、これは物事の見方が180度変わってしまう事を比喩した言葉です。 コペルニクスが天動説を捨てて地動説を唱えたことにたとえています。ドイツの哲学者カントがその著「純粋理性批判」の中で自らの認識論を特徴づけた言葉だそうです

2.ヨハネス・ケプラー(1571年~1630年;現在のドイツ出身)
*ケプラーの考えた数学的モデルは、ピタゴラス、プラトンが考えていたモデルに近いといわれています
ケプラーの法則
第一法則:惑星は太陽を1つの焦点とする楕円軌道を描く
第二法則:惑星と太陽とを結ぶ線分が単位時間に描く面積は一定である
第3法則:惑星の公転周期 T の2乗は、楕円軌道の半長軸 a の3乗に比例する

3.ガリレオ・ガリレイ(1564年~1642年;現在のイタリア出身)
① 1597年 ケプラー宛の手紙で、地動説を信じていると伝えました
② 1604年頃、落体の運動法則(軽いものでも重いものでも真空中であれば同じ速度で落ちること)を発表

③ 1609年オランダの望遠鏡の噂を聞き、自分で製作(ガリレオ式望遠鏡;屈折式望遠鏡)、これを使って月を観測し月が天体であることを理解すると共に、月面のクレーター、太陽の黒点などを発見
④ 1610年、天体観測により木星の4個の衛星を発見
⑤ 1613年、太陽の観測を基に「太陽黒点論」を発刊

*1515年頃から天動説を主張する教会との間で争いが起きる

4.アイザック・ニュートン(1642年~1727年;現在のイギリス出身)
*ニュートンは力学(下記A、B)、数学(微分・積分法)、光学(光の粒子論)の3つの分野で偉大な業績を残した天才科学者です
A.質点に関する運動の法則;
第一法則(慣性の法則:すべての物体は、外部から力を加えられない限り、静止している物体は静止状態を続け、運動している物体は等速直線運動を続ける
②  第二法則(ニュートンの運動方程式:物体の運動状態の時間変化と物体に作用する力の関係を示す法則
⇒ 質点の加速度を(速度の変化率)は、その時の質点(物体)の質量を、これに作用する力 Fとすれば、これら間の関係は以下の数式の様になります
F = ma 微分方程式で表すと  (注)m・vは運動量
第三法則(作用・反作用の法則:二つの質点(物体)1、2の間に相互に力が働くとき、質点2から質点1に作用する力と、質点 1から質点2に作用する力は、大きさが等しく、逆向きである(押すと押し返され、引っ張ると引っ張り返されること;この原理から運動量保存の法則が導き出されたり、力の定義を行ったりする重要なものです)

B.万有引力の法則;
 地球上において質点(物体)が地球に引き寄せられるだけではなく、この宇宙においてはどこでも全ての質点(物体)は、互いに 引き寄せる作用(引力、重力)を及ぼしあっています。この引力は両質点の質量の積に比例し、両質点の距離に反比例します。式に表すと以下の通り;

m1、m2 :質量(kg)、
r:距離(m)、F引力(ニュートン)とすると
万有引力係数:G=6.67×10-11実測値

Episode 1
 私が航空学科の大学院に進学し、「飛行力学」の勉強を始めた時、担当教授に最初に言われた事は「飛行力学を研究する上で相対性理論や量子力学は不要、必要なのはニュートン力学と熱力学の完全な理解である」でした。後で理解したのですが、確かに相対性理論は、物体の速さが光速よりも十分遅く、重力が十分に小さい(地球レベル)条件下ではニュートン力学で十分近似されます。また、量子力学の結果は、対象物体の質量を大きくした極限では、ニュートン力学の運動方程式の解と一致します。従って、人工衛星や惑星探査までを含む宇宙航行の運動の予測を行う際には、ニュートン力学を用いて十分な精度で計算できる場合が多いと思われます

ニュートン力学で説明できる事あれこれ

ニュートン力学を理解していれば、以下の様な様々な事がうまく説明できます

1.人工衛星は何故落下しないか?
実は、人工衛星は落下し続けているんです! 人工衛星を打ち上げる時は、大気圏外まで打ち上げ、その後重力の方向に対して直角に秒速7.9km以上(第一宇宙速度:下記参照)まで加速すると、その速度は大氣の抵抗が無いので「慣性の法則」で減速すること無く飛び続けます。しかし進む方向は重力によって下向きに変えられますが、地球は丸いので落下せずに元の位置に戻り、回り続けることが出来る訳です

同じ理屈は、「ISS(国際宇宙ステーション)に乗っている宇宙飛行士が何故地上に落下しないで宇宙遊泳が出来るか」という説明にも使えます。宇宙飛行士はISSから出た段階では「慣性の法則」によりISSと同じ速度と方向で運動を続けますのでISSと宇宙飛行士の相対位置は維持されます。ただ船外作業中に宇宙飛行士がISSに何らかの力(作用)を加えると「作用・反作用の法則」で宇宙飛行士はISSから遠ざかっていき、ISSに戻れなくなる可能性がありますので、命綱などが必要になります(ref:ISSの船外活動

尚、上記の人工衛星にする為に必要な速度(第一宇宙速度)の他に、地球の引力圏を脱出して太陽の周りを廻る惑星にする為の速度(第二宇宙速度)、太陽系から脱出して宇宙の彼方まで飛行する為の速度(第三宇宙速度)があります。夫々の速度は範囲は以下の通りです;
第一宇宙速度約 7.9 km/s (= 28,400 km/h)以上第二宇宙速度未満
第二宇宙速度約 11.2 km/s(40,300 km/h)以上第三宇宙速度未満
第三宇宙速度約16.7 km/s (60,100 km/h) 以上

2.ゴルフ(野球)でボールを遠くに飛ばすには遠心力使う事が必要?
こんな事を言うコーチや解説者がいますが、これは全くの間違いです。遠心力の「心」は回転の中心、「遠」は遠ざかるを意味します。つまり中心から遠ざかろうとする「力」を意味します。つまりこの遠心力は、仮にゴルフのヘッド(野球のバット)に人が乗っているとしたら(おかしな設定ですね!)その人が回転の中心から遠ざかろうとする様に感じる「架空の力」なのです
この架空の力はゴルフのヘッド(野球のバット)が回転することによって回転の接線方向に進もうとする運動(この運動方向に当ったボールが飛ぶ)を、無理やり回転の内側に引張っている(シャフトを通じて人の力で引っ張っている⇔「求心力」といいます)ことの反作用なのです

Episode 2
 私の経験ですが、台湾駐在のときに買ったゴルフ道具がいい加減で、練習場に行ってドライバーを渾身の力?で打っていたら、ヘッドがすっぽ抜け、ボールと同じ方向(回転円弧の接線方向)に飛んで行ってしまいました。もし、遠心力が架空の力でなく本当にヘッドに働いていればヘッドは回転の外側に飛んでいくはずですね
野球でも同じことが確認できます。打者がバットを強く振りボテボテの内野ゴロを打った時、偶にバットが手から離れることがありますが、この時バットも内野ゴロ?で投手を襲う光景が見られます!

3.月や惑星への飛行は極めて長距離なのに、宇宙船には多くの燃料が積まれていないよう思われるが、大丈夫なのか?
前述の通り、人口衛星を打ち上げた時と同様、真空中を飛行している時は地上の様に空気抵抗は無いので「慣性の法則」により飛び続けることが出来ます(⇒燃料は不要)。ただ、何もしなければ他の天体に引き寄せられて激突する可能性があります

一方、意図的に他の天体に近づき、その公転速度を利用して加速する技!があります。これをSwingby(立ち寄るという意味)といいます。但し、正確に他の天体に近づく必要がありますので、その軌道に入るまでの進路の調整に多少の燃料が必要になります。最近の事例では、日本が誇る?「はやぶさ2は目標の小惑星・リュウグウ(火星と木星の間にある)に接近する時にこのSwingbyの技術を使っています
月の公転速度を利用したSwing By;

 

 

 

 

火星飛行の際の月と地球の引力を利用したSwing By;

 

 

 

 

 

 

Episode 3 漫画「機動戦士ガンダム」にも登場するラグランジュ・ポイント
以下は、ラグランジュ・ポイントについて図を使って分かり易い説明を行っている「ホーキング織野のサラリーマン宇宙を語る」から抜粋しました

 ホーキングという名称は、恐らく2018年に筋萎縮性側索硬化症(ALS)で亡くなった天才物理学者のスティーブン・ホーキング博士のことを指しており、内容も彼の著作(左の写真)から借りた?ものと想像しています

 主星の周囲を伴星が公転している場合、伴星の軌道付近に特殊な場所が5つあります。もし、小天体がその場所に入ると、主星と伴星との位置関係を保ちながら安定して公転できますこの場所をラグランジュ・ポイントと呼んでいます
 18世紀半ば、スイスの数学者・天体物理学者オイラー(1707年~1783年が、主星と伴星を結ぶ直線上に、物体が安定して存在できる三点を計算によって導きました(オイラーの直線解)。その後、フランスの数学者ラグランジュ( 1736年~1813年)が、主星と伴星を一辺とする正三角形の頂点も安定していることを発見し、5つの特異な点が存在することが分かりました。この天才の名前を取ってこの5つの特異点をグランジュ・ポイントと呼ぶようになりました
主星が太陽で伴星が地球の場合;

 L1は、地球から太陽に向かって150万キロメートルの空間にあります。
月の軌道半径は38万キロメートルなので、L1は、月よりも約4倍遠い位置になります。常に太陽の手前にあるので、L1は太陽観測衛星の設置に適しており、観測衛星SOHO、ACE、WINDが置かれています
L2は、地球から太陽の反対方向へ150万キロメートルの空間にあります。
常に地球の影になるため、太陽光はあたりません。太陽光の影響を避けたい観測衛星に適します。ここには観測衛星WMAP、及びジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡もここに置かれています
 L3は、地球から見て太陽の裏側にあります。。このため、L3を地球から直接見ることはできません。昔から、このL3に未知の惑星が存在するという主張がありましたが、探査機による調査の結果、L3に惑星サイズの天体は存在しないことが判明しています
 L4、L5は、地球軌道上の60度前方がL4、後方がL5です。ここでは、惑星間塵が集まった雲状の天体が確認されています

主星が地球で伴星が月の場合;

 以前、L4 、L5に雲状天体が確認されコーディレフスキー雲と命名されましたが、現在では、コーディレフスキー雲の存在は疑問視されています
 また、L1、L2には、地球と月との位置関係を保ちながら安定して公転できるので惑星旅行の際に携行すべき資材の仮置き場所としての利用も考えられます(知人からの情報)。因みに日本も参加しているアルテミス計画(月基地建設)の最初のミッション(目的:月周回軌道への到達・6日間の月周回・地球帰還の間の安全性の検証;2022年11月16日打ち上げ、12月1日地球帰還)では日本の超小型宇宙船2個が搭載され、所定の軌道に打ち出されました。内 OMOTENASHIについては打ち出された直後から地上と通信できず、11月22日に月着陸を断念しました。一方、EQUULEUSについては今の所順調にL2のラグランジュポイントに向かっています

以上

 

冬野菜あれこれ

はじめに

3年間も続くコロナ禍の中で、家に籠る生活が続きました。こうした状況での一番の楽しみは家庭菜園の農作業です。種を蒔き、育て、収穫して、食べる、この一連の作業に植物とは言え、命との触れ合いがあり、食の楽しみがあり、しかもコロナ罹患のリスクはほぼゼロ! また私の場合、農場は屋上という極めて狭いエリアではあるものの、片道30段の階段の上り下り土の再生、草取り、水遣り、害虫殺害!、エトセトラ、そこそこの運動量も確保できるとあって一石二鳥以上のメリットのある趣味です

ところが昨年5月以降、老人には珍しくもないものの、中々しぶとい病に罹り、検査、治療に明け暮れる日々が続いて農作業も手抜きが目立つ様になりました。しかし、「何とか(ここに慣用語句を入れると拙宅では差別撲滅警察に逮捕される?ので使えません!)とハサミは使いよう」で、あれこれの工夫を積み重ねて、何とか例年通りの作柄を維持できています。以下はそのご報告です

現在収穫中の野菜

1.白菜
種を蒔いて苗を育てる8月下旬以降9月一杯は、手術、入院、禁酒(関係無いか!)で全く作業が出来ず、やむを得ず白菜とキャベツは苗を購入して植え付けました。また、夏野菜収穫後のコンテナの土は手抜き再生で済ませましたが、下記の写真の様にそこそこの出来となりました
① 白菜

1月4日に収穫した白菜は1ヶ2キロ以上ありました(上出来!)
今シーズンから、試しに余った苗を密植して育ててみましたが、これが大成功!
12月初めから収穫し、柔らかい葉はお浸しなどにすると絶品の味でした。また、生野菜サラダにしてもレタスとはちょっと違った食感で中々の味でした。特に芯の部分の歯ごたえも中々いい感じです

2.キャベツ
病の為か?青虫の捕獲・殺害が思う様にできず、一部の株は虫食いになりました。しかし、12月の寒波襲来のお陰で結果として収穫時のキャベツは十分に成長出来ていました

1月4日に収穫したキャベツの虫食いの葉を取り除いて見ればそこそこ立派に育っていることが分かります

 

3.レタス
レタスの種蒔きは8月中旬に終えていたため、自作の苗で必要量を確保できました。12月以降、生野菜サラダの他、中国流に鍋の野菜としても重宝しています

4.ケール
昨シーズン試しに育ててみたら、大成功!沢山食べると共に、潤沢に種が取れました。今年はこの種で育てています。冬の生野菜サラダの材料として欠かせない野菜になりました

5.セロリ
これも昨シーズンの成功から4株に増やして栽培中です。種は勿論自身で採種したものです。冬の生野菜サラダの材料として欠かせない野菜になりました

6.水菜
拙宅の冬野菜の定番です。今シーズンも生野菜サラダ、鍋の具材として常に活躍しています。この野菜は根こそぎ収穫しなければ、後から後から生えて来るので冬野菜の優等生です(ネギの葉っぱが一部存在を主張しています!)

7.各種ハーブ
例年通り、11月以降室内の日当たりの良い出窓で栽培し、必要に応じ料理に使っています
<種類>
セージ、ディル、バジル、パセリ、イタリアン・パセリ、フレンチ・パセリ、ペパー・ミント、オーデコロン・ミント、レモンバーム

尚、冬場は日照時間が足りないので、自作のLEDライトで補っています(赤色が主体の光)」

これから収穫する野菜

1.根菜類
昨年は、底の深い大きなコンテナで栽培していたナスを秋ナス収穫を期待して10月一杯迄栽培していたため、これまで栽培していた青首大根は栽培できませんでした。従って、根菜類は以下の3種類になりました;

ねずみ辛味大根」は大根おろしにして天ぷらの友とするのがベスト。「はつか大根しらうお」と「日野菜カブ」は漬物として利用する予定。「日野菜カブ」については、ネット上のレシピを見ると生食もお薦めの様です

2.野沢菜
今年も漬物用に中型コンテナ2ヶを使って栽培しています;
野沢菜は長野県下高井郡野沢温泉村の名刹薬王山健命寺の八代住職昇天園端大和尚が京都に遊学の際、浪速の天王寺蕪の種子を持ち帰り広めたものと言われています。大きな葉としっかりした茎は有名な「野沢菜漬け」で食べられるのが一般的です。カブの部分は葉に比べると小さいのですが、長野県出身の先輩からの薦めで「粕漬」にした所、大変美味しくいただけることが分かりました

3.ネギ類
長ネギについては、昨年度から自作のネギ用コンテナを止め、最近ホームセンターに出回っている深底のコンテナを使用することにしました。1ヶ約700円と高価ですが、一つのコンテナに2列に植えれば20本栽培できそうなので使用することにしました(6コンテナx20本 ⇒ 120本)。しかし、思惑通りにいきませんでした。原因は恐らく「密植になり過ぎ」となることと、「苗が小さい時に日当たりが悪くなる」為だろうと思われます
細ネギについては12月まで繰り返し収穫(根元からカットすると再び生えて来る)したので、一旦全て掘り上げ、新しい土で植え直しています。春から収穫可能になるはずです

4.タマネギ(二種;生食用と長期保存用)、ペコロス仏語/小さなタマネギ
昨年大成功だったので、今年も同じように植え付け、現在までのところ順調に育っています。ペコロスは恐らく3月下旬からタマネギは5月に入ってからの収穫になると思われます

5.その他
ニラについては、今後一部コンテナを下記のビニールハウスに入れて収穫しようと思っています。残りのコンテナはこのまま冬越しさせて、春からの収穫を目指します
ブルーベリーは昨年枯死したため、二種類(実を多く収穫するには二種類の株を植える必要があるそうです)。ラズベリーブラックベリーは、新しく支柱を建てて枝を誘導する栽培を試みることとしました

発芽・育苗器とビニールハウスを使った葉物野菜の冬季栽培

<発芽・育苗器>
既に6年前から夏野菜の苗を種から発芽・育苗させる為に自作したものを今でも室内で使っています(ref:「夏野菜の発芽・育苗の工夫_①」、「夏野菜の発芽・育苗の工夫_②」。今シーズンは、冬野菜の為の発芽・育苗器を自作してみました。冬場は日照時間が短いので室内のみでは苗を十分に成長させることは無理なので、屋外での使用を前提として制作してみました。基本構造は室内用と同じですが、コンテナの周りを断熱の為に発泡スチロールで覆う事、コンテナの中の水を20~30℃に保つため、熱帯魚用水槽電熱器を大水槽用の200ワットとしました。また、日中の日差しを確保する為に上部を透明のビニール(ゴミ袋を使用)で覆っています。尚、温水にある苗を乗せるトレーは100円ショップで購入できます;
既に運用していますが、上々の結果を得ています。1月1日の朝、拙宅付近の気温はマイナス1℃前後でしたが、コンテナ内の水温を測ってみたところ22℃を保っていました。また日中は天気が良かったこともありトレー上は30℃を越えていました。尚、製作費は約6,600円で収まりました(下記「2022年度の費用内訳」参照)

<ビニール・ハウス>
2020年から始めた冬場のビニールハウス(「秋・冬野菜の現況」)を、今シーズンは規模を拡大して冬野菜を栽培しています。今後、収穫が終わって空いたスペースに上記の発芽・育苗器で育った苗を移植していく予定です;


上の写真2枚は後ろに白壁がある所に設置しましたので壁からの反射で日中は気温が上がり易いのですが、下の写真はテーブルの上に乗せて設置していますので、周囲に迫る寒気を防ぎきれないせいか成長が遅くなっています
左の写真は、中央の写真の中を写したものですが、高菜ホウレン草はもうすぐ収穫できるほど成長しています
尚、ビニールハウスに必要な主な資材は70リットルの透明ビニール(1枚37円)と洗濯ばさみ(100円ショップで格安で大量に?手に入ります)です

2022年度の費用内訳

2022年度の全費用は以下の通りです。赤字となっている項目が、例年と比べて費用増になっています;

以上

ウクライナ戦争が変えた日本の防衛政策

はじめに

以下、「青色の斜め字の文章」は私個人の意見です
見出しの写真は、現在進行中のロシアとウクライナの戦争における象徴的な写真です。2022年2月24日、ロシアの大軍が一方的にウクライナに侵攻してから11ヶ月が経過した現在(2022年12月)、戦争は終結する気配はありません
今回、ロシアが2014年2月27日に実施したクリミア半島電撃侵攻・占領の成功体験をもとに実行されたものの、成功していないのは、以下の様な原因があった為と考えられます;
クリミア半島侵攻の屈辱をバネに、ウクライナの歴史に根差す愛国心が高揚(詳しくは、私のブログ「ウクライナの歴史」参照)し、ウクライナ軍が予想外の反撃能力を示していること(ウクライナに戦う意思がなければ以下の②、③の様なサポートは得られなかったとも考えられます)
NATO、とりわけ米国による継続的な最新武器の供与衛星通信インフラの提供、ロシア側の機密軍事情報の提供などが行われていること
多くの先進諸国が、ロシアによる独立国家に対する宣戦布告無き一方的な侵攻を非難していると共に、ウクライナへの経済的、精神的なサポートを行っていること
クリミア侵攻時、ロシアによる政府機関や民間インフラを狙ったサイバー攻撃が行われましたが、今回の侵攻ではこの試みが成功しなかったこと(←ウクライナ側の防御態勢が構築されていた
ロシアの核兵器による恫喝が、米国及びNATOの核攻撃の潜在力と通常兵力による反撃能力によって、これまでの所抑止できていること
ロシアが保有している兵器が、一部の最新兵器を除き旧式で、米国を中心とするNATOが提供する最新兵器に対抗しきれていないこと

一方、ウクライナにとっても、如何にロシアの苦し紛れの戦術とは言え、無人機による攻撃や砲撃・ミサイルによる病院や民間人の密集居住地域に対する攻撃、ミサイルによる発電所などのインフラ施設への大規模な攻撃占領地域における人道被害は予想外であったと思われます

こうした戦争の実態が世界中に知れ渡った結果、日本を含む多くの国々が、自国の防衛政策を大幅に見直す必要に迫られてきました
特に日本は、軍備拡張と南シナ海・東シナ海への国際法を踏みにじる軍事進出を行い、台湾の武力併合を排除しない姿勢を明確にしている中国と、核兵器開発・ミサイル開発を積極化している北朝鮮、ウクライナ侵攻で明らかとなった国際法を無視するロシア隣国として対峙しており、今回のロシアのウクライナ侵攻の様なことが、現実の脅威として国民に認識され始めていることは間違いのないことだと思われます
こうした事から、現政権はこれまでの防衛大綱の見直しを行う事を明言しており、日米安保条約と、専守防衛を基本とした日本の防衛政策が大幅に変更になる可能性が出てきました
参考:現政権の基本的なスタンスは、2022年11月21日に出された「防衛力に関する有識者会議・報告書」をご覧になると大要が掴めると思います

以下は、専守防衛が国策の基本であり、戦争の当事者には決してならないと信じて来た多くの国民にとって、昨今の報道は吃驚することばかりであり、国民一人一人が投票行動を行うに当たって、防衛政策に関わるこれまでの経緯と、これをどう変えていくのかについてできるだけ正確な情報が必要と考え纏めてみたものです

参考:2022年12月・国際政治学者イアン・ブレマー氏のウクライナ戦争に関する見解

防衛政策の変遷

1.自衛隊の誕生
1945年8月15日に終戦を迎えたあと、1947年5月3日に旧大日本帝国憲法を修正する形で新憲法が誕生しました。この憲法の戦争に関わる重要な部分は;
(1) 前文で(抜粋)
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した、、、
⇔公正と信義の無い国が攻めてくる可能性があることを考慮していない!

(2)憲法9条で、
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない

しかし、1950年6月25日、ソ連の支援で誕生した北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が事実上の南北の国境となっていた北緯38度線を越えて侵攻し、既に米国の支援で誕生していた韓国(大韓民国)との間で朝鮮戦争が始まりました。ソ連・中国が支援する北朝鮮軍と、韓国軍及び米国が中心となった国連軍とは、1953年7月27日に朝鮮戦争休戦協定に署名するまで3年間、熾烈な戦いが行われました

この間日本は、戦争を放棄し、戦力を持たないと憲法に定めながら戦争の当事者であるGHQ(General Headquarters/連合国総司令部)の命令により1950年8月10日には準軍事組織である警察予備隊(約7万5千人)が誕生しました。その後、1951年9月8日、サンフランシスコ講和条約が調印されて日本は独立を果たし、1952年7月には警察予備隊は保安隊に改組されました。
その後、1954年3月8日に日米相互防衛援助協定が結ばれ、日本は「自国の防衛力の増強」という義務を負うことになりました。これを受けて同年6月に自衛隊法と防衛庁設置法が成立し、7月に陸上自衛隊・海上自衛隊・航空自衛隊の管理・運営を行う防衛庁が発足し、保安庁は発展的に廃止されて業務は防衛庁に引き継がれました
国内では、こうした流れは憲法違反となる実質的な「再軍備」であるとして、その後の革新政党や急進的左翼諸派がリードする形で一般市民も加わった国論を二分する論争や騒乱事件が続きましたが、1970年の日米安保条約改定を機にこうした論争、騒乱は概ね収束してゆきました。一方、裁判においても自衛隊は憲法違反であるとの判決は得られず、自衛隊は現在まで存続し(注)、結果として自衛隊の軍事力は、世界の軍事力ランキングで世界第5位となるまで増強されてきました。
(注)こうした経緯について詳しく知りたい方は私の以下ブログをご覧ください:「憲法についての私の見解」、「各党の憲法改正草案をチェックする」、「憲法について考える

2.自衛隊に関わる歴代内閣の発言の変遷
1)吉田内閣時代(1946年~1947年;1948年~1954年)の自衛隊の任務
① 吉田首相は、1946年6月26日の新憲法に関わる国会答弁で「戦争放棄に関する本案の規定は、直接に自衛権を否定はして居りませんが、第9条第2項に於いて一切の軍備と交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、又交戦権も放棄したものであります」と発言しています

② 吉田首相は、1950年1月28日の国会答弁で「いやしくも国が独立を回復する以上は、自衛権の存在することは明らかであって、その自衛権が、ただ武力によらざる自衛権を日本は持つということは、これは明瞭であります」と発言しています

2)鳩山内閣時代(1954年~1956年)の自衛隊の任務
1954年12月22日の衆議院予算委員会での大村精一防衛庁長官の発言;
憲法は自衛権を否定していない
② 憲法は戦争を放棄しているが、「自衛の為の抗争」は放棄していない
③ 「戦争、武力による威嚇、武力の行使」を放棄しているのは「国際紛争を解決する手段としては」ということ。他国から武力攻撃があった場合、武力攻撃そのものを阻止することは、自己防衛そのものであって、国際紛争を解決することとは本質的に異なる。従って自国に対して武力攻撃が加えられた場合、国土を防衛する手段として武力を行使することは憲法に違反しない。しかし、「国際紛争を解決する為」以外の目的で「他国からの武力攻撃」を受けることは常識的にあり得るでしょうか。これはどう考えても私には詭弁としか思えません。

3)佐藤内閣時代(1964年~1972年)の武器輸出に関する答弁
佐藤首相は、1967年4月21日の衆院決算委員会において、以下の場合は武器輸出を認めないと答弁しました;
共産圏諸国向けの場合
国連決議により武器等の輸出が禁止されている国向けの場合
国際紛争の当事国又はそのおそれのある国向けの場合

4)三木内閣時代(1974年~1976年)の武器輸出に関する意見表明
三木首相は、1976年2月27日の衆院予算委委員会において、以下の武器輸出に関する政府統一見解を表明しました;
三原則対象地域については武器の輸出を認めない
⑤ 三原則対象地域以外の地域については、憲法及び外国為替及び外国貿易管理法の精神にのっとり、武器の輸出を慎む
武器製造関連設備の輸出については、武器に準じて取り扱う

4)海部内閣時代(1989年~1991年)の第一次湾岸戦争に伴う自衛隊の役割の変化
1990年8月2日、サダム・フセインに率いられたイラク軍が突如クウェート侵攻し占領後にイラクへの編入を宣言しました。1991年、米軍を中心とした多国籍軍がイラクを攻撃しクウェートを解放しました
独立国家に対する公然とした侵略であり、現在のウクライナ戦争と同じケース。違いはロシアは核兵器保有国であるのに対し、イラクは核兵器を保有していなかった為、多国籍軍を編成することが出来、クウェートを解放することが出来ました

日本は自衛隊の派遣はせず、130億ドルもの戦費等の負担(国民1人あたり約1万円に相当)を行ったものの、国際社会からは評価されませんでした。「Show the Flag」つまり軍隊の派遣無くして同盟軍とは見做されない現実を味わいました。ただ、1991年4月多国籍軍とイラク軍との間の停戦が発効すると、日本はペルシャ湾での機雷の撤去及び処置(掃海任務)を行うことになりましたが、これはあくまで日本の船舶の安全航行の為の通常業務と位置付けられていました

5)宮沢内閣時代(1991年~1993年)のPKO任務に伴う自衛隊の海外派遣
国連による平和維持活動に参加する為、1992年の国会(通称「PKO国会」)で「国際連合平和維持活動に対する協力に関する法律(通称「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律PKO法を制定しました。以後、南スーダン東チモールハイチゴラン高原等、政情不安が続く(⇔危険の伴う)国々に自衛隊が派遣されており、最早海外に於ける日本の自衛隊のプレゼンスは先進諸国の「軍隊」と何ら変わりがない状態になっています

6)小泉内閣時代の(2001年~2006年)の自衛隊の役割の変化
アフガニスタン侵攻
2001年9月11日、米国でアルカイダによる同時多発テロで3千人以上の死者が出ました。アフガニスタンの90%を実効支配していたタリバン政権にアルカイダのテロ実行犯の引き渡しを求めたものの応じなかった為、同年10月米軍を中心とした有志連合は、アフガニスタンの北部同盟と協調して攻撃しタリバン政権を崩壊させました。この侵攻の前には国連安全保障理事会で「このテロ行為は全国家、全人類への挑戦」という国連決議(1337号)を得ており、有志連合は国際連合憲章51条が認めている「集団的自衛権」の発動という立場をとっていましたが、この安保理事会決議には武力行使を行うとは書いていないので集団的自衛権の発動とは見做せないという意見もありました。
日本は湾岸戦争を教訓(Show the Flag)に、2001年年10月に「テロ対策特別措置法(「テロ特措法」)/2年間の時限立法 ⇒ その後「新テロ措置法」として継続されましたが2007年に失効)を制定し、海上自衛隊の艦船をインド洋に派遣し、給油活動及びイージス艦によるレーダー支援を行いました

イラク戦争(第二次湾岸戦争)
湾岸戦争終結時にイラクに課せられた「大量破壊兵器」廃棄義務違反を理由として2003年3月、米軍を中心とする有志連合がイラクに侵攻しました。正規軍同士の戦闘はこの年に有志連合側の勝利に終わったものの治安維持に向けた作戦に失敗し、その後も泥沼化した戦闘が続きました。米軍の全面撤収は2011年末に一応実現したもののシーア派による政権運営が破綻し、イスラム最過激派であるISIS(又はISIL)による地域の支配を許すことになりました。
日本は2003年12月~2009年2月まで自衛隊を派遣しています。これは「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動実施に関する特別措置法イラク特措法)/4年間の時限立法 ⇒ 2007年に2年間の延長を行った」に基づくもので、自衛隊の人員規模約1,000人に達する大規模な派遣(陸上自衛隊はサマーワを基地として約550人、航空自衛隊は輸送任務に約200人、海上自衛隊は輸送艦1隻、護衛艦1隻の乗組員約330人)となりました。国会での論議では自衛隊の活動が戦闘地域か、非戦闘地域かで紛糾しました

上記の通り国会での議論を経てここ15年以上に亘って実質的に自衛隊の海外派遣が行われてきており、自衛隊の存在に関わる違憲性はともかくとして、その任務を「専守防衛」として最後の歯止めをかけてきたことが、厳しい国際情勢の中でたとえ時限立法とはいえ崩れ去っていったことが分かります

7)第二次安倍内閣時代(2012年~2020年)の自衛隊の役割拡大に関わる法整備
新安保法制
衆議院で絶対多数を得た第二次安倍内閣では、2015年、自衛隊の任務を更に拡大し、恒久法として以下の法律群(新安保法制)を制定しました;
① 国際平和支援法案:自衛隊の海外での他国軍の後方支援
自衛隊法改正在外邦人の救出
武力攻撃事態法改正集団的自衛権行使の要件明記
④ PKO協力法改正:PKO以外の復興支援、及び駆けつけ警護を可能とする
重要影響事態法日本周辺以外での他国軍の後方支援
船舶検査活動法改正:重要影響事態における日本周辺以外での船舶検査の実施
⑦ 米軍等行動円滑化法:団的自衛権を行使する際の他国軍への役務提供追加
特定公共施設利用法改正日本が攻撃された場合、米軍以外の軍にも港湾や飛行場を提供可能にする
海上輸送規制法改正集団的自衛権を行使する際、外国軍用品の海上輸送規制を可能とする
⑩ 捕虜取り扱い法改正:集団的自衛権を行使する際の捕虜の取り扱いを追加
国家安全保障会議(NSC)設置法改正NSCの審議事項に集団的自衛権を行使する事態を追加

第二次安倍内閣では、2014年7月1日に、武力の行使を発動する際には以下の3つの用件を満たす必要があることを閣議決定しています;
① 日本または、密接な関係にある同盟国に対する武力攻撃が発生し、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険が発生し、
② これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がない場合、
国際連合憲章に基づき必要最小限度の実力行使を行うことが出来る

新安保法制全体を俯瞰すると、自衛隊の合憲性の議論は何処へやら、集団的自衛権の枠内(国連憲章の枠内ではなく)であれば、起こりうる国際紛争に立法措置無しで自衛隊を運用できるようになったと考えられます

岸田内閣時代(2021年10月~)による防衛政策の歴史的転換

岸田内閣は発足後間もなくロシアによるウクライナ侵攻があり、防衛政策の歴史的転換が必要との判断に至っています

安倍内閣時代に成立した「新安保法制」に基づけば、同盟国である米国が中国や北朝鮮と戦争を始めれば、自衛隊が全面的に米国を支援することは可能ですが、日本が直接攻撃を受けない限り戦闘に参加することはできません。しかし中国や北朝鮮にとって日本は敵国以外の何物でもありません
従って、戦争が全面戦争に変わったきた段階で、日本が直接攻撃を受ける蓋然性は極めて高いと考えられます。
この時、日本の防空力を遥かに凌駕するミサイルの飽和攻撃核攻撃を受けた場合、日本の被害は相当深刻なものにならざるを得ません。こうした事態に対抗する為に、岸田内閣は一歩踏み出すと判断したと考えられます

2022年12月15日、防衛3文書(「国家安全保障戦略(全文)」「防衛計画の大綱(防衛大綱)」「防衛力整備計画の要旨」)を概略以下の様に改定することを閣議決定しました。
参考:2022年12月16日・日経新聞_反撃能力保有を閣議決定 防衛3文書、戦後安保を転換

今回の政策転換の重要なポイントは;
① 敵基地攻撃能力を保持すること
これまで、専守防衛の原則の下に、敵国からの攻撃を防御する兵器を中心に装備を強化してきたものの、ウクライナ戦争において明白になった事は、敵国の攻撃を抑止できない場合、無防備な市民の多くが敵の攻撃のターゲットになってしまうことでした。そこで、敵ミサイルによる「先制攻撃」を受け、あるいは「攻撃着手」が行われた場合に敵基地を攻撃することを可能にする能力を新たに保持することとしています。
この種のミサイルは所謂「スタンドオフミサイル」と言い、日本に攻撃を仕掛けてくる国に対し、敵の射程圏外から攻撃することができるミサイルを新たに導入することとしました。このミサイルは、陸上又は海上の艦船から発射可能で、射程が1,000キロ~2,000キロ程度と言われています

新兵器に対する防御兵器開発能力を高めること
極超音速ミサイルロフテッド軌道を取るミサイル高速滑空弾極超音速誘導弾、無人機攻撃ロボット兵器、などの最新兵器サイバー攻撃に対抗できる防御体制を構築する為には最新兵器開発能力を高める必要があります
近年防衛産業から撤退する企業が目立っていることから、これらの防衛産業に対する財政的な支援の他、国際共同開発などによる開発負担の軽減、防衛産業が相応の兵器生産規模を確保するために武器輸出三原則(既出)の緩和などのバックアップを行う必要があります
また、軍需産業に協力して悲惨な敗戦を招いた反省から、これまで学問の分野における軍事研究には極めて慎重に対応を行ってきました。しかし、最先端の AI(人工頭脳)や量子技術、ロボット開発、などの分野では既に産・学・軍の境界は極めて曖昧になっており、学問側も最先端分野の研究費に枯渇する事態が顕著になってきています。従って、研究分野毎に官側(経済産業省・文部科学省・防衛相)が主導して少なくとも中国、ロシアの兵器開発能力に劣後しない様にする必要があります
参考_1:2017年2月_安全保障技術研究推進制度の廃止要請_署名呼びかけ
参考_2:2017年3月_軍事的安全保障研究に関する声明_日本学術会議
参考_3:2017年3月_研究機関の軍事研究について_藤原正彦
Follow_Up:2023年1月・日経新聞_民生技術の活用で脱「学術会議」

③ 継戦能力を強化すること
大国同士が戦いを始めると、簡単には戦争は終わりません。従って、平時から武器・弾薬の備蓄量をある程度まで確保しておく必要があります。また、戦闘によって破損した装備類(航空機、艦艇、戦闘車両、など)の予備、及び整備体制の構築が必要になります

④ 敵攻撃から一般市民を守るための防護施設、退避訓練を強化すること
平和日本には、こうしたことは必要無いないとして、これまで全くそうした準備を全くしていませんでしたが、攻撃されることを前提として少なくとも命を守る事が出来る防護施設の確保、そこへの退避訓練は必須と考えられます。今回のウクライナ戦争において、ロシアからあれだけミサイル攻撃を受けながら、死傷者数が意外に少ないのはこうした防護施設(ビルやアパート、工場などの地下施設)を平時にあっても準備していたことが大きいと思われます

(参考)私は、1994年~1996年の間、日本アジア航空社員として台湾に駐在しておりましたが、その間に第三次台湾海峡危機が発生しました。当時、旅行者を含めて2万人以上の日本人が台湾に滞在しており、この日本人をどうやって日本に帰還させるかという事で連日他の台湾進出企業、及び大使館に相当する「日本台湾交流協会」の担当者と議論を重ねていましたが、当時解決策が見い出せませんでした
一方、米国は米軍の軍用大型艦船が台湾の東側の港湾(嘉儀など)に待機し、台湾の各都市から米軍及び米国の調達した陸上移動手段で東側の港湾に移動する手配が完了していました。上表の自衛隊法改正案にある「在外邦人の救出や米艦防護ができる」は、現在多くの日本人が海外に滞在している実態を勘案すると極めて重要な改定であると思います

有事となった場合、まず日本にある米軍基地が攻撃対象となることは避けられません。また集団的自衛権を行使する事態となれば、日本の自衛隊基地も恐らく敵の攻撃対象になると思われます
米軍と中国、北朝鮮との戦争は、台湾、韓国と米国との条約から日本の国家意思に関わりなく起こることが考えられることから、少なくとも日本の一般市民の命だけは敵の攻撃から守られねばなりません。これを実現するには、攻撃の対象となり得る施設を防護する手段を確保すること、防護できない場合、老若男女を問わず退避する仕組みを作ることは喫緊の課題であると私は考えます
核攻撃を受けた場合の退避施設などの考え方については、私のブログ「災害のリスクについて考えてみました」の後段の部分をご覧になって下さい

Follow_Up:2022年10月_先島諸島にシェルター設置検討 政府、台湾有事など想定
Follow_Up:2022年12月_台湾、有事対応でシェルター10万カ所整備・人口の3倍超
Follow_Up:2023年1月:シェルター整備に財政支援検討へ

これらの政策変更には大規模な財政支出が伴う事は必須であることから、今後国民的な議論が必要となります。尚、下図にある「防衛費・GDP比2%は、NATO加盟国の水準です)
参考:2022年11月28日経記事_岸田首相「防衛費GDP2%、27年度に」、財源は年内決着

今後の防衛力強化のイメージ

Follow_Up:2022年12月日経新聞:2023年度防衛費_反撃能力で長射程弾整備、研究開発3倍 
Follow_Up:2022年12月日経新聞:防衛省、装備輸出へ基金新設
Follow_Up:2022年12月日経新聞:友好国へレーダー供与_新枠組み・中国にらみ外交手段に幅

補足情報

1.敵基地攻撃能力の保持について
現在自衛隊はこうした武器を保有していないので、以下の様な対応が考えられています;
① 巡航ミサイル「トマホーク」(開発次期により各種タイプが存在する)」を米国から購入して配備する

巡航ミサイルとは:音速以下で飛行(通常推進機構はジェットエンジンです)し、敵のレーダーに捕捉、撃墜されない(地形の凹凸に隠れる)様に地上近くを飛行するミサイル。第一次湾岸戦争では緒戦で使用され、イラク軍の中枢指令部、レーダー基地などがこのミサイルに攻撃され機能を殆ど失ったと言われています
トマホークは既に開発済みであり、極めて早期に導入することが可能。また、これまで迎撃のみの目的で開発されてきた護衛艦、潜水艦、航空機への装備が可能(但し、改修は必要)

Follow_Up:2022年12月23日、トマホーク四百数十発を配備へ 敵基地攻撃の手段に 政府方針

② 国産(三菱重工が開発)の12式対艦誘導弾の能力向上型の開発

このミサイルは上の写真にある様に地上発射型(主に島嶼防衛の任務)となっていますが、この射程を伸ばす(現在の射程は200キロ程度)と共に、護衛艦、潜水艦、航空機への装備が可能な様に改修する計画があります。防衛省や三菱重工からの正式な性能などは公表されていません

2.イージス・アショア導入の破綻とイージス艦2隻追加艦導入決定
2018年、小野寺防衛相が防衛白書の中で、北朝鮮の核・ミサイル開発の脅威に対抗するため陸上配備型迎撃ミサイル「イージス・アショア」の導入(予算額:訳4,500億円)を打ち出しました
「イージス・アショア」には極めて高性能な地上レーダーがセットになっており、文在寅大統領時代の韓国に導入しようとしたところ、中国が自国のミサイルシステムが丸裸になることを怖れ、強力な経済制裁を加えて諦めさせた経緯があります
一方、日本でも山口県、秋田県の基地に導入しようとしたものの、基地周辺の住民から「ミサイルの一段目(ブースター)が基地外の陸上に落下する可能性があること」及び「敵ミサイルの攻撃対象になること」などの理由から強い反対運動が起き、結果として2020年6月15日、河野防衛大臣は配備中止の決断を下しました
その代わりに、2020年12月18日、日本政府は「新たなミサイル防衛システムの整備等及びスタンド・オフ防衛能力の強化について」と題する閣議決定を行い、その中で、イージス・アショアの代替案について、「イージス・システム搭載艦」を2隻建造し、それらを海上自衛隊が運用すると決定しました

3.イージス艦搭載の弾道弾迎撃ミサイル「SM3ブロック2A」
2020年11月16日、ハワイ北東沖で最新型の弾道ミサイルシステム「SM3ブロック2A」が、ハワイから約4,000キロ離れたマーシャル諸島の米軍基地から発射されたICBM(大陸間弾道ミサイル)の模擬弾を大氣圏外で撃墜することに成功しました
この「SM3ブロック2A」は、イージス艦に搭載される日米共同開発のミサイルです。日本は三菱重工などの会社が右図のような分担で開発を行いました

 

現在、海上自衛隊が持つイージス艦の内最新型の「まや」のみ搭載が可能となっています。当然、イージスアショアの代りに導入される2隻のイージス艦にも搭載されると思われます

4.F2後継機の国際開発
F2は、航空自衛隊の支援戦闘機F1の後継となる戦闘機として、アメリカのF-16をベースに改良および各部大型化を加えて開発された機体で、1995年に初飛行し、2000年から部隊配備を開始し、現在90機程保有しています
この機体は2030年以降から順次退役が計画されておりその代替となる最新鋭の戦闘機の開発が始められていました。当初、F2と同じく米国との共同開発を計画していたものの、F2の場合と同様、機密情報の開示が十分でなく日本独自の改修が出来ないことが明らかとなり、今回はそうした自由度が発揮できるという条件で欧米各社と折衝を重ねた結果、今年になってイギリス、イタリアとの3国の共同開発で行うことで合意を得ました。開発に参加する各国の企業は下表の通りとなります;参加した日本の企業にとって、開発が終了して量産体制が整えば、日本独自開発に比べ相当数の機体を生産することになり、生産を担う企業にとって十分な利益を上げられると共に、防衛省としても安価な航空機調達が期待できることになります。
また同時に、武器輸出規制緩和の突破口となると思われまう

実験機 ATD-X

尚、日本はF2後継機開発の基礎研究、特にステルス性能(詳しくは私のブログ「ステルス戦闘機とは」をご覧ください)と高性能な戦闘機用エンジンの開発(IHIが行っていた)を行う為に、ATD-Xという実験機を作りテスト飛行を繰り返していました。この実績が他の2国との交渉で有利になったと思われます

一方、英国側の次期戦闘機(テンペスト)のイメージは左の写真の通りです

 

 

5.海上自衛隊護衛艦「いずも」、「かが」の空母化改修とF35Bの導入
海上自衛隊最大の護衛艦「いずも」、「かが」(いずれも全長248m、全幅38m、基準排水量1万9500トン)はヘリコプター搭載の護衛艦でしたが、「航空母艦」へ改修されることになっています(「いずも」については既に第一段階の改修を終了しています
搭載するる航空機は、航空自衛隊が導入した最新のステルス戦闘機であるF35Aの系列機であるF35B(現在25機導入の計画があります)で、フル装備で短距離離陸し、着陸時はヘリコプターの様に垂直に着陸できる性能を持っています(「いずも」への着艦試験の動画

むすびに代えて(安保問題に関する私の見解)

以下は、7年ほど前に私のもっとも親しい友人と交わした手紙の内容です;

〇〇〇様、
辺野古移転問題、安保問題、等でいつも情報を頂きながらレスポンスもせず心苦しく思っています。貴兄はこれらの問題に対して明確に反対の立場から意見を発信すると共に、行動も起こされていることに、政治的なスタンスは別として尊敬しております。

私の場合、妻や兄弟、子供たちとこれらの問題で意見を交わすことがしばしば有りますが、戦争を絶対に起こしてはならないという点では意見は一致しているものの、その方法論では相当違いがあります。
私は老後の趣味として歴史を勉強しておりますが、日本人には以下の特質があることを認識していないと再び過去の歴史的な過ちを犯す可能性があると思っています;
① 例外的に理性的な人を除き、極めて熱狂しやすいこと(結果として国全体として理性的な判断が出来なくなる)
尊厳を傷つけられることに我慢できないこと(尊厳を守るためには時として命をも賭す可能性があること)
また周辺の国には、以下の様に過去の恨みを歴史教育を通じて政治的に利用し続けている実態があります;
韓国:倭寇、文禄/慶長の役、安重根(伊藤博文の暗殺者)の英雄視、韓国併合、慰安婦問題、徴用工問題
中国:日中15年戦争、南京事件

私たちは、所謂「戦後の民主教育」の申し子であり、第二次世界大戦に至る歴史的な事象を極めて嗜虐的に捉えることに馴らされてきましたが、結果として明治維新から大正デモクラシーに至る歴史との連続性に無理が生じ、軍部、乃至産官軍一体となった軍国主義者を悪者にして論理性を保とうとしていますが、やはり相当無理があります。自分の親も含め、党派的でない多くの戦争経験者が先の大戦について寡黙であった事、「特攻くずれ」が殆ど何も語らないで生きていた事、等は当時生きていた国民一人ひとりに戦争責任があることを知っていたためと思います。

私もご多聞に漏れず、ベトナム反戦闘争、70年安保闘争に熱狂した者ですが、今思えば正義感では歴史の流れを変えられないということでしょうか。

大分駄文が続きましたが、以上を踏まえた上で、将来の戦争の危険を回避するための私なりの最善の策は以下の通りです;
1.軍拡を強力に進め東アジア、南アジアに脅威を与え続けている中国に対応するためには、日米安保条約を強化し軍事的な均衡を保つことが必要
2.日本は、軍事的にスーパーパワーでなくなった米国を、安保条約の枠の中で補完する役割を担う必要があること
3.これらは本来憲法を改正して実現すべきものと思いますが、当面現在の憲法の範囲内で最善の策を考えること
4.日中の経済関係の強化を図ること
5.首相の靖国神社参拝の様な、外交的に愚かなことは絶対にやめる事。ただ、身内に戦死者を出した国民一人ひとりが靖国神社を参拝することは、多くの国の例を見るまでもなく極く自然なことと思います

以上。勝手に自分の見解を述べましたが、△△△さん同様議論は家族内にとどめておりますのでよろしくお願いします/荒井

以上

老人にもおし寄せる ICT革命

はじめに

見出しの画像は、現在進行中のウクライナ戦争に関わる情報を、今年に入ってから現在(2022年10月10日)まで集め、何時でも取り出せるように整理した情報群を可視化したものです。フォルダーとはデジタル情報を収納しておく記憶媒体上の倉庫の様なものですが、情報の従属関係を考慮してフォルダーを階層化することにより、幹から細い枝まで繋がる「木(Tree)」に例えて私はこれを「Folder Tree」と呼んでおります。こうした整理をすることによって膨大な資料を何時でも取り出すことが出来ます
因みに、第5階層の「ウクライナ問題」のフォルダーだけを取っても、それより下層にあるフォルダーの数は19ヶ、収納されている資料の数は664ヶ(⇔これを紙の資料として保存するには、恐らく数千ページはくだらないと思われます)、データの総量は345MB(メガバイト)になります。
私が数十年前にパソコン(NECの98シリーズ)を購入した時に、清水の舞台から飛び降りる気持ちで購入したハードディスクの値段が20万円以上、容量がたった20MBだったことを想うと隔世の感があります

さて、タイトルの中にある「ICT」ですが、お聞きになった人が多いと思いますが、これは「Information and Communication Technology」の頭文字を取った略語ですが、日本語に直せば「情報通信技術」という事になります
ここ数十年の間のICTの急速な発展を促した背景にはムーアの法則(集積回路上のトランジスタ数は「2年ごとに2倍になる」)として知られる半導体素子製造技術の急速な進歩があります。また、こうしたハードウェアの進歩によってインターネットを通じての情報の流通が同じようなペースで激増し、これまで使われてきた紙による情報の交換(FAXもこの範囲)、電話による情報の交換、CDやDVDなどの媒体を通じての情報の交換は古臭く、効率が悪い為にビジネスの世界は勿論、現在の若者たちに見向きもされなくなってきました

こうした情報革命(DX:Degital Transformation)が急速に進行する現在、子供や孫の世代との交流を図るには、まずは電話やガラケーにおさらばし、パソコンAND/OR 既にパソコンと同等な能力を持っているスマホを駆使して、情報武装することが必要と思います
実は、かく言う私も遠い昔の電気少年の時代に培った古臭い知識と誇りをドブにすて!息子や孫に最新のICTの状況について教えを請いながら勉強を始めたばかりなのです
以下は、取り敢えず若者たちが既に使っているICTのインフラの概略を説明し、皆さまにも是非仲間に加わってもらうべく、浅はかな知識と承知しつつ紹介する次第です

基礎知識あれこれ

1.情報量の単位
最小単位:1ビット(bit);2進法の0か1の値を区別し、それ以上の情報は桁を上げて表記します)。尚、10進法では0~9の区別があり、それ以上は桁を上げて表記します(一桁上は10~99、、、)
1バイト(bite):8ビット分の情報量があります。1バイトの情報量は十進法で標記すれば256ヶ(十進法で標記すれば =2x2x2x2x2x2x2x2の情報を区別できます)の情報量になります
参考:(ネット情報)1980年頃から既に1バイトは 8ビット であることが一般的でしたが、 正式には2008年のIEC(国際電気標準会議)で規格化( IEC 80000-13)されてからです
*1バイトは256ヶの区別が出来ますので、数字、アルファベット、各種の記号などを1バイトで一意的に区別できます。一方、漢字・かなで構成される日本語や、中国語は文字の数が多いので1バイトでは一意的に表現できず2バイトを使って区別します
「ビット」と「バイト」の使い分け:情報の伝達速度を表記する時は「ビット」が使われる(例えば「この回線の伝送速度は秒速100メガビット」など)のに対し、記憶装置の記憶容量を表記する時などは「バイト」が使われます(例えば「このハードディスクは20メガバイト」など)

2.大きい数字の表記の仕方
* 一般に「ビット」、「バイト」は極めて小さな情報量の単位なので、大きな情報量を表すのに以下の様な桁標記が使われます;
① キロビット、キロバイト ⇒ 1000ビット、1000バイト
② メガビット、メガバイト ⇒ キロビット、キロバイトの1000倍
③ ギガビット、ギガバイト ⇒ メガビット、メガバイトの1000倍
④ テラビット、テラバイト ⇒ ギガビット、ギガバイトの1000倍
⑤ 以下、1000倍毎にペタ、エクサ、ゼタ、ヨタが頭につきます
因みに、最近インターネットの通信速度はギガビット/秒が一般化しつつあります。また最近販売されているハードディスクはテラバイト単位が珍しくなくなりました

3.サブスクリプション(Subscription)とは
サブスクリプションとは、辞書を引くと「定期購読」という翻訳が出てきますが、現在使われている意味は自動車のリースの様なサービスの形態と考えるほうが的を得ていると思われます。自動車のリースの場合、高価な自動車を資産として所有せず、自動車を利用することによって得られる便益のみを一定の価格で利用する契約ということが出来ます
ICTに関わるサブスクリプションも、ほぼ同じ意味で使われています。ICTに関わる各種の便益を一定の料金を定期的に支払いつつサービスのみを享受できる仕組みに世界全体が急速に変わりつつあるのが現在です。我々老人も、この変革に乗り遅れるとこれからの人生がバラ色から灰色に変わっていくかもしれません、、、ちょっと大げさですね!

4.プラットフォームビジネス
「platform」が持つ「土台、基礎」という意味から派生して、インターネット上で情報処理を行うための土台(⇔インフラ)を「プラットフォーム」と呼ぶようになりました
ICTに関わるプラットフォームを形成する上で世界的に有名な企業は、MicrosoftとGAFA(ガーファ)と呼ばれる米国発の大企業群です(GAFAは「Google」「Apple」「Facebook」「Amazon」の頭文字をとった呼び方です)。これらの企業は、夫々パソコンという電子機器をプログラム(アプリ)で自在に動かすための「オペレイティング・システム」の提供、インターネットの世界で「検索」を行うインフラの提供、音楽・映像をパソコンで利用するための「オペレーティング・システム及びハードウェア」の提供、SNS(Social Networking System)のインフラの提供、「電子商取引」のインフラの提供、などの分野で現在実質的に世界を制覇しています

5.クラウド
クラウドとは、クラウドコンピューティングの略称です。これまでソフトウェア(アプリ)を利用する場合、パソコンなどにインストールして利用するのが一般的でした。例えば、Word、ExcelなどのMicrosoft Office製品やメールソフト、ウイルス対策ソフトなどを購入し、自身のパソコンにインストールして利用する利用形態一が般的でした。
しかし、MicrosoftやGAFAなどに代表される巨大企業が自身の持つ巨大なシステム・リソースを安価に提供し、ユーザーが高速化したインターネットのネットワークを介して、記憶領域や、ソフトウェア(アプリ)などを利用できるサービス形態のことです
利用形態の種類や定義など、詳しいことを知りたい方は、米国国立標準技術研究所( NIST/ National Institute of Standards and Technology) によるクラウドコンピューティングの定義をご覧ください。

昨今、この傾向は個人的な利用よりも、多くの企業が自身のITインフラの効率化や、セキュリティーの強化を図るために世界的に利用が拡大しています。一方、コツコツとモノづくりを行うことが得意な日本の企業は、自前のコンピューターシステムを構築してきた歴史があり、クラウドの利用が遅れています。以下は企業のクラウド利用に関する最近の記事です;
クラウド小国、日本の限界_投資比率北米の3分の1、自前重視がDX阻む
国産クラウド巻き返せるか Amazon頼みに広がる危機感
米アマゾン・ウェブ・サービス「不況、クラウドには追い風」_設備投資継続に意欲

老人でも簡単に利用可能なICTインフラ

1.クラウドの利用
冒頭の画像は、私のパソコンで頻繁に利用している情報類を格納するための記憶の一部をクラウドに移行した結果を表示したものです。私の場合、クラウド利用の目的は以下の通りです;
①効率化;
私の30歳台前半からの長いパソコン使用の歴史の中で、何度も経験し極めてダメージが大きかった経験は、ハードディスクが突然壊れる事(ハードディスクは回転する円盤を使っているので、長期間使えば壊れる)でした。このダメージを経験する内に必ず行うようになった事は、大切なデータのバックアップを必ず取るということでした。因みに、現在私が使っているメインのパソコンでは、以下の構成になっています

パソコンにとって一番重要な記憶領域はローカルディスク(C)です。この231GB(ギガバイト)の記憶領域はパソコンの演算速度に関連するので、SSD(Solid State Drive)といって半導体を使った壊れにくい高価な記憶媒体を使っています。他のディスクD、W、X、Yのハードディスクは1.81TB(テラバイト)、Zドライブは0.931TDなど大容量のものを使っております
Dドライブは、ソフトウェア(アプリ)を動かすためのプログラムなどのデータの保存でほぼ満タン!まで使われています。Wドライブは、日常頻繁にアクセスするドライブですが、クラウドを使うまでは、ほぼ満タン!になるまで使用していました。残りのX、Y、Zのドライブはバックアップの為だけに使われています
尚、「iCloudフォト」は、無料で使用できる(5ギガバイトまで)クラウドで、スマホと連動させることができ、スマホで撮った写真、動画をパソコンに取り込む時に使っています(非常に便利)

②セキュリティーの強化;
セキュリティ関連で私の一番苦い経験は、2000年代初頭に、私の所属しているクラブの写真や動画をクラブ構成員に無料で閲覧してもらう為に、自作パソコン4台を使って自前のサーバーを構築して運用開始したところ、たった一カ月半で「悪辣な乗っ取り犯」に侵入され、大量のメールをバラまかれたことがありました。当然ですが、サーバー機能をすぐに停止せざるを得ませんでした。素人がプロの真似をすると酷い目に合うことを実感した次第です。
以降、ウィルスの進入を怖れて市販のウィルスソフトを導入してパソコンの防御を図っていますが、ウィルスソフトメーカーからは常に追加料金を払ってバージョンアップを薦めてきます。追加料金を払う余裕もないので、最も大切なデータについてセキュリティの完璧なクラウドへの移行を決断しました
尚、写真や動画をクラブ構成員に無料で閲覧してもらう手段については、現在YouTubeのMy Channelを使っていますが、閲覧する側は隙間に広告が入るので鬱陶しいかもしれませんね!

③複数のパソコン(スマホを含む)間のデータの共有;
最近、同居している息子から結構性能の良いノートパソコンの「お下がり!」を貰いました。これに私のスマホを加えると3台のパソコンを駆使できる状況になります。これらのパソコンでデータを共有することにより、私の趣味であり、生き甲斐でもあるブログ作成の効率化を図ることが出来ます。画面の大きな(27インチ)自作の据え置きパソコンでネット上の情報を採取し、性能の良いノートパソコン(高性能なGPUが装備されている)を使って動画処理や、旅行中での作業を行い、スマホでは取り込んだデータを、隙間時間(移動中、トイレ?など)を使って読み込むなどの作業が行えます

クラウドサービスを提供している会社の料金プランなどは以下の表をご覧ください。因みに私の場合は「Dropbox」の2TBのプランを使っていますが、処理速度が速く、中々快適です

2.音楽の楽しみ方の革命
生演奏を聴いたり放送を聞く以外の音楽の楽しみ方は、私が生まれてから数々の変遷がありました;
① レコード:アナログ録音(SP盤→LP盤・EP盤)
② 磁気テープ:アナログ録音(オープンリール、カセットテープ)
③ コンパクト・ディスク(CD):デジタル録音
④ ミニディスク(MD):デジタル録音
⑤ 電子ファイル:デジタル音源のファイル(パソコンのソフトウェアで再生する)
*③、④については、借りて来た媒体のデジタル音源を、自身のパソコンでデジタルのままコピー(デジタル化された音源なので音質の劣化が無い!ものの、著作権を侵害している)する人が多く、CDの売り上げが年々落ち込んで来ている現状があります。また、ネット上で入手可能な⑤の電子ファイルのままコピーすることも、当然著作権を侵害しています

これに代わって、高速化した通信回線を使って有料でダウンロードさせたり、有料でストリーミング再生(デジタルデータを連続的に受信⇒再生を行う方式)が行える仕組みが出来ました。これにより音源の提供側は相応の売上を確保できるし、利用側も著作権侵害の心配なく多くの音源を楽しむことが可能となりました。
著作権意識が根付いている欧米先進国ではこの方式が既にかなり普及してきていますが、日本においては未だし!の感があります。しかし、日本でも若者達にはかなり普及しつつある様です。これは、ウォークマンに馴染んできた歴史から、寝ている時以外「〜しながら」音楽を聴く習慣が浸透していることと、好みの音楽が多様化し、多くの音源を楽しみたいという欲求にマッチするサービスであることに由来すると思います。以下は、音楽のサブスクリプション・サービスを行っている企業(アプリ)のリストと料金、サービス内容の一覧です;

表からも分かると思いますが、若者達の利用促進(大人になってからも利用継続が期待できる)を図るために学生料金を安く設定しています
尚、表中の右側にある音質(最大ビットレート/bps=bits/Second)は、本来アナログ信号である音源を以下の図の様に細かく区切ってデジタル化しているので、細かく区切れば区切るほどアナログ音源に近い高音質を再現できることになります。因みに「ハイレゾ」とは「High Resolution」の略語で「高精細⇔高音質」という意味になります

図中の右側のCD(44.1kHz/16bit)の意味は、CD音源は、1秒間のアナログ音源を1秒間当り44,100個に区切り、その区切った部分の音の強さを夫々16ビット(=2バイト)で表現(256×256=65,536種類で区別できる)することを意味しています
尚、提供されているサービスの伝送速度(ビット・レート)は、256キロビット/秒~320キロビット/秒と高速です。しかし、現在の無線高速通信回線は;
4G回線(現在の携帯・スマホで主流):最大1ギガビット/秒
5G回線(昨年からサービスが始まった):最大20ギガビット/秒
となっており、「ハイレゾ」音源でも全く問題がありません(ただ、高速移動中だったり、電波の弱い地域では音が乱れることがあります)
私が98パソコンで電話回線をつかってインターネットを始めた時は、ISDN ( Integrated Services Digital Network)という有線電話回線が最速で、最大速度が64キロビット/秒でした。これでも「速ツ!」と感動していたものでした

私自身は、音楽のサブスクリプションの契約はしていませんが、同居している次男は上表の「Spotify」を契約しており日々楽しんでいます。ただ、私が関心を持っているのは室内だけでなく、車の中でもスマホの「Bluetooth」の機能を使って音楽を楽しんでいることです。「Bluetooth」は10メートル以内の距離で無線通信を行える装置で、最近の車やスマホ、テレビ、アンプ、などには標準装備されており、簡単にサブスクリプション契約をしている音源をスマホ経由でコードレスで楽しむことが出来ます

3.映画(動画)の楽しみ方の革命
音楽同様、映画(動画)についても、かなり高速な通信回線が普及してきたことから、サブスクリプション契約が一般化してきました(特に若い年代)。古い名画は勿論、かなり新しい映画についても収録されている様で、大型テレビが普及した上に映画館が激減している現在、映画の好きな方は既に下表の何処かのサービスと契約しているのではないでしょうか?
拙宅の場合、同居している次男が幸いにも早くから「NetFlix」と契約しており、私もその契約のご相伴にあずかることもあります

表中の画質(HD/FHD/4K)の意味は、画面の解像度(画素/ピクセルの数で表記)を表しており、区分は以下の通りです;
① HD(High Definition):ハイビジョンとも呼ばれ、画素数は1280x720=921,600画素
② FHD(Full High Definition):フルハイビジョンとも呼ばれ、画素数は1,920x1080=2,073,600画素
③ 4K(Ultra High Definition):ウルトラハイビジョンとも呼ばれ、画素数は3840x2160=8,294,400画素
尚、②、③を楽しむにはテレビがこの解像度に対応していることが前提になります

4.ゲームの楽しみ方の変化
私のブログの読者で時々パチンコや競馬を楽しむ人は居ても、ゲームを楽しんでいる人はまずいない?(私のゲーム歴は、会社に入って間もない頃スナックなどにあった「インベーダー・ゲームが最初で最後!です)と思いますが、子供や孫はほぼ間違いなく子供時代にパソコンゲームを経験しており、現在も下表の様なサブスクリプションの契約を行って楽しんでいるのではないでしょうか? この分野は私には皆目分かりません

おわりに

実は私も今回調査してみて余りに多くの企業がこれらのサービスを提供していることに驚きました。勿論、このサブスクリプション隆盛を招いたのは、これからの時代を担う若者達であることは間違いありません。結果として、この変革に乗り遅れれば我々の世代の余生の楽しみは少なくなってくるのは間違いないと確信しました。従って私自身は精一杯この変革に追いついて行こうと思っています

以上

屋上菜園の現況

ーはじめにー

昨年末に「秋・冬野菜の現況」を投稿してから屋上菜園関連の投稿は暫くお休みをしていました。理由の一つはややチャレンジングでボリュームが大きくなった「地球温暖化と日本のエネルギー政策」(4月1日発行)の発行を行ったことと、2月の血液検査から芋づる式?に見つかった体の変調(老化した臓器の暴走!現象)により、情けなくも精神的に不安定となり、ブログ制作の意欲が減退してきたことがありました
その後、外出を極力減らし、無心に?屋上野菜の世話を続けることで精神の安定を保つことが出来るようになってから、再び気力も蘇ってきて、ロシアのウクライナ侵攻以降、現在もなおニュース番組を独占しているウクライナについて私自身が理解を深めるべく調査した結果を「ウクライナの歴史」として纏めることが出来ました

ブログ休止期間の間に、春・夏野菜は最盛期を迎え、自家消費量を超える収穫にささやかな幸福を感じていました。以下は「秋・冬野菜の現況」で書いた植え付け済みの冬・春野菜の収穫状況、夏野菜の収穫状況の報告と、これからの秋・冬野菜の準備状況の報告です

冬・春・野菜の収穫状況

1.白菜・キャベツの収穫(昨年秋に植え付け);
白菜については、13株育てましたが、ほぼ完全に我が家の冬野菜としての使命を果たせたと思っています。鍋物や漬物(通常の白菜漬け、キムチ)だけでなく多くの野菜料理に使われるました

白菜・全13株(2021年12月末時点)

キャベツについては、植え付けがやや遅れたこともあって年を越しても完全には結球しない苗が多く、最終的に多くは菜の花として?食用に付されました。流石に食べ甲斐ががありました(笑!)

菜の花と化した?キャベツ(3月30日時点)

2.タマネギ2種(長期保存用と生食用)
昨年8月中旬に種を蒔いたタマネギの苗は沢山確保できたので、11月末に植え付けました(栽培状況は秋冬野菜の現況で報告済み)。余った沢山の苗は、ペコロス用として収穫する為に多数の標準コンテナに密植しました
3月末頃からペコロスを収穫しつつ消費し、5月末には大きく育ったタマネギを収穫しました。2種類とも10キロ以上収穫でき、食べ終わるのは9月末となりました。尚、カレーの具にペコロスを丸ごと加えるという「新しい料理法?」を編み出しましたが、読者の皆さんにもお薦めしたいと思います

3.ジャガイモ
通常、関東地方では種芋の植え付けは2月中なのですが、ついうっかりして2月中の購入を忘れ、植え付け時期直前に探した所ほとんどのホームセンターで売り切れ!となっていました。3月に入ってようやくやや遠方のホームセンターで唯一手に入れることが出来たのは、フランスのGermicopa社が開発した「サッシー」という品種でした
収穫量は日本で栽培されている他の品種とほぼ同じ程度が確保できました。やや小型の芋が多く取れましたが、味は良く、色々な料理に使い9月中旬位迄楽しみました

4.その他、冬期に消費する葉物野菜(主なもののみ)
ハーブ類は居間の出窓の所で各種栽培(栽培状況は秋冬野菜の現況で報告済み)し、冬中フレッシュハーブを楽しむことが出来ました。また、ハーブ以外の朝の生野菜サラダ用の野菜は透明ビニールで覆ったコンテナで栽培しました(栽培状況は秋冬野菜の現況で報告済み)。他に、保温措置無しでも元気に育ったセロリケールでを加えて自家消費分は十分確保できました
各種大根類は12月中に収穫し、寒冷地の保存方法を真似た屋外の大型コンテナ(蓋つき)の土の中で保存(下記写真参照)した所、春までの長期保存が可能であることを立証できました

5.長ネギ
冬の到来前に100本の長ネギを育てる事(標準のコンテナを10ヶ使用)を目指した結果、一応目標を達成したものの3月末には早くも食べ尽くしてしまいました。我が家の長ネギ消費量は尋常ではなく、今後は更に栽培数を増やすこととしました(新しい栽培形態は後述)

夏野菜の収穫状況
夏野菜各種(8月7日時点;南向き)

1.キューリ
キューリについては、保存用の漬物にするものを含めて大量の収穫を狙いかなり多数の苗を植えましたが、途中で枯れる苗もあり期待通りには収穫できませんでした原因は恐らくコンテナの中に繁殖したカビによるもの(キューリ用の栽培コンテナは結果として同じものが使われることが多く連作状態になる為か?)と推定され、来年以降の栽培に大きな課題を残しました

2.トマト
トマトについては、大・中・小それぞれ複数株づつ育てました。大トマトについては、昨年の課題である尻腐れ病を起こさない様にカルシウム入りの化成肥料を使いましたが、大型トマト一本のみ尻腐れ病を再び起こしてしまいました(来年以降の課題にしたい)が、概ね当初の狙い通りに収穫できた(7月~9月初旬まで毎日一定量の収穫が出来た)と思います。今年は、毎日沢山のトマトを食べることが出来ました。未だに(10月上旬)に生き残って少しづつ実を付けているトマトもあります。プロはこんな見すぼらしい苗は廃棄すると思いますが、愛情を込めて育てたトマトを見捨てる訳にはいきません!

トマト(10月6日時点)

3.ナス
ナスについては、家族一同大好きな野菜なので昨年以上に沢山栽培しました。標準的な中ナス以外に、長ナス水ナス小ナスを育てましたが、いずれも豊作に恵まれ、毎日のナス料理の他に、漬物用(糠漬け粕漬辛子漬け、柴漬け/同居している次男の得意料理で使用する紫蘇も自家栽培)や干物として長期保存にする分も十分確保できました。また、今年初めて栽培した小ナスは、収穫量も多く実もやや硬いので粕漬用、辛子漬用として最適であると感じました
尚、今年はナスを長期に亘って実らせる為に、実を収穫する時に不要となる枝・葉を同時に切り落とすことと、時機を見て大胆な剪定を行うことが大切であることを学ぶことが出来ました。因みに、秋ナスの実りが期待できる現在(10月初旬)のナスの苗の状況は下の写真の通りです;

4.その他の夏野菜
縞ウリは昨年同様2株育てました。漬物用として十分役に立ったと思います。長野県出身者(私は6歳までの微かな経験!)としては夏の漬物として欠かせないものと言えます
マクワ瓜は毎年ではないのですが、幼い頃の郷愁を呼び起こす果物として時折植え付けます(近所の八百屋では殆ど見かけない)。今年は2株植えました。最近の果物に比べると圧倒的に甘さが少なく、サラダの具材にも向いていると思います

ゴーヤは毎年植え付けています。今年も2株植えましたが数日おきに収穫でき、丁度いい間隔でサラダやチャンプルーとして食べることが出来ました(10月現在、恐らく最後のゴーヤを収穫予定です)
オクラについては、今年は毎日一定量の収穫を得るべく、中型のコンテナに4本のみを植え付けました。これが大正解! 毎日2本程度の収穫で、平均数日おき程度の間隔でオクラ料理を食べることが出来ました
ピーマンは通常のピーマンと、辛いピーマンの2種類栽培してみました。辛いピーマンは我が家では意外に評判がよく、色々な料理法で楽しんでいます。来年以降も我が家の定番になるのは確実です
ズッキーニは中型コンテナに2株植え付けましたが、毎年の経験通り最初の1ヶ月程は毎日収穫できますが、その後ヘビの様に茎が成長し収穫量が激減してしまいます。8月になると脇芽が出てきてそこにも花が咲きますが、今までは芽カキをしていましたが、今年は思いついて脇芽を生かし、古い太い茎をカットした所、脇芽の方に立派なズッキーニが出来ました。来年はこの経験を生かした長期間・多収を目指したいと思います

ズッキーニ(古い茎をカットし、脇芽を生かした状態

トウガラシは、昨年同様「鷹の爪」、「辛長キング」、「立八房」、「剣先なんば」、「沖縄トウガラシ」の5種類を栽培しています。赤くなった実から収穫していますが、収穫を終わるのは11月半ば過ぎになると思われます

ハーブ各種の屋外での栽培状況は以下の通りです

秋・冬野菜の栽培状況

「はじめに」の所で述べた通り、秋・冬野菜の栽培にとって一番大切な時期(8月下旬から9月中旬)に病気療養となった為、準備作業を相当程度手抜きをする必要に迫られました。準備作業の内最も手間のかかる仕事は、夏野菜で使った「大きなコンテナの土を再生すること」と、「種から苗を育てること」です。今年は、この二つの大作業を以下の様に手抜きをすることとしました;
① 大きなコンテナの土を全部再生するには、相当な労力と時間が掛かります。従って、大量に栽培するキャベツと白菜の栽培に使うコンテナの土は三分の一のみを再生して使うこととしました。結果はどうなるか分かりません?

② これまで種から苗を育てる事に拘ってきましたが、今年はキャベツ、白菜については苗を購入することにしました。買ってみれば一株70円! 家庭菜園では苗を購入して栽培する方が利口ですね、、、
以下は10月6日現在の栽培状況です。尚、レタスは種から育てています;

1.キャベツ・白菜・レタスキャベツ(10株)、白菜(11株)、レタス(18株)

2.タマネギ
今年も、8月中旬タマネギ2種の種蒔きを行い、昨年同様多数の苗を確保できる見込みとなりました

3.セロリ
昨年冬の生野菜サラダで大活躍したセロリについては栽培方法を二つに分け、通常店頭で売られている白く柔らかな茎が収穫できる方法を試してみました(単に茎の根本を牛乳パックで巻いただけ!)。さあ!結果はどうなる事やら、、、

4.長ネギ
長ネギの収穫量を増やすために色々考えていた所、近くのホームセンターで格好のコンテナを発見しました。このコンテナであれば、一つのコンテナに20本は植えられそうです。また、これまでの方法は栽培途中で標準コンテナに自作のエクステンションを追加す方法で手間が掛かるのですが、このコンテナであれば土を追加するだけで済むので省力化が実現できます。早速6ヶ購入して新しい栽培にチャレンジすることとしました

以上

ウクライナの歴史

はじめに

2022年2月24日、ロシアがウクライナ侵攻を始めてから、一気に冷戦後の国際秩序が壊れ、核戦争の危機が身近に感じられる様になってきました
冷戦終了後にも、局地的には米国やロシアが介在した戦闘は枚挙にいとまが無いほどありましたが、人口1億5千万の軍事大国ロシアの大軍が最新兵器を用いて人口4千万のウクライナに一気に攻め込む事態は誰にとっても想像を絶する事であったと思います。大方の予想では、残念ではあるものの「短期間にウクライナ全土が制圧され、ロシア寄りの政権が生まれるに違いない」ではなかったでしょうか

しかし、5月に入った時点では、北部戦線では侵攻が完全に食い止められ「戦争犯罪」の痕跡を残して撤退し、東部・南部の戦線でもロシアの苦戦が伝えられています。この想定外の事態の原因は;
① ウクライナが西側諸国の援助もあって、情報戦を有利に進めウクライナの「制空権」がある程度確保できていること、及び西側諸国から供給されている歩兵用の最新武器がロシア軍に甚大な被害を与えていること
② ウクライナのゼレンスキー大統領によるリーダーシップにより、西側諸国での議会演説などで先進諸国民の支持が得られていること
③ ウクライナ兵の士気が非常に高いこと、及び兵以外の国民も全力でウクライナ軍に協力している
などに集約できると思います

私は大学の入試の時には、歴史に興味があったことから「世界史」を選択しました。しかし、ウクライナについては余り勉強した記憶がありません。精々、広大で肥沃な大地を持ったソ連の影響下にある農業国であった事ぐらいです。また最近では深刻な事故を起こしたチェルノブイリ原発がある国程度でした。恥ずかしい限りです!
しかし、ウクライナ善戦の最大の要因は、上記 ③の根底にあるウクライナ人の「愛国心」にあると私は思います
プーチンが言うような「ウクライナ人は同じスラブ系民族の兄弟実はロシア人より劣ると考えているらしい!)」ではなく、異民族やロシアの圧政に抗して戦った歴史をもつ勇敢な民族であるという意識が彼らの「愛国心の元」になっているのではないかと考え、ネット情報に加えて、最近本屋に山積みになっている以下の本を購入してウクライナの歴史(含む、関連するロシアの歴史)を勉強してみました

物語 ウクライナの歴史
(中公新書・初版発行:2002年8月25日)

著者:黒川祐次
*1944年生誕 東大教養学部卒 外務省入省
駐ウクライナ特命全権大使(1996年~1999年);モルドバ大使兼務

世界と日本を目覚めさせたウクライナの覚悟
(PHP研究所・初版発行:2022年8月25日)
著者:倉井高志
*1955年生誕 京都大学法学部卒 外務省入省
*駐ウクライナ大使(2019年~2021年);在ロシア特命全権公使の経歴あり

同志少女よ、敵を撃て
(早川書房・初版発行:2021年11月25日;2022年本屋大賞受賞)
著者:逢坂冬馬
*1985年生誕 明治学院大学国際学部卒 小説家
*内容:独ソ戦で実在した女性狙撃手(キエフ出身のリュドミラ・パブリチェンコ)を基にして描かれた物語

下記「フォト・ドキュメント 女性狙撃手」から転載

フォト・ドキュメント 女性狙撃手
(原書房・日本語版初版発行:2015年8月10)
著者:ユーリ・オブラズツォフ、モード・アンダーズ
訳者:龍和子
*1985年生誕 明治学院大学国際学部卒 小説家
*内容:独ソ戦の女性狙撃手達の実写写真が多数収録されており、これらに纏わる説明文も豊富に収められている

独ソ戦
(文芸春秋・初版発行:2019年7月19日;)
著者:大木毅
*1961年生誕 立教大学文学部卒 小説家、軍事史研究家
*内容:ヒトラーが「これは絶滅戦争なのだ」と断言した独ソ戦の詳しい解説を行っている。この戦争によって多くのソ連人の人的被害(死者・行方不明者:1128万5057人、負傷者・罹病者:1825万3267人)があったが、勿論この数字の中には多くのウクライナ人が含まれている

1.本ブログ上の地名の表記について;
ウクライナ国営通信社「ウクルインフォルム日本語版」のウクライナ地名のカタカナ表記は、ウクライナ語が採用されており、現在では日本の報道機関も徐々にウクライナ語を用いる様になりました。しかし我々古い人間!は、俄かに古い記憶との繋がりがつきにくいので、本ブログではロシア語表記とウクライナ語表記を混用することにしました(赤字の方を使う)。対応は以下の通りです;
ロシア語ウクライナ語
キエフ/キーウ
*ハリコフ/ハルキウ
オデッサ/オデーサ
*リボフ/リヴィウ
*ミコラーエフ/ミコライウ、ムィコラーイウ
*ザポロージエ/ザポリッジャ、ザポリージャ
ドニエプル/ドニプル ⇒(ドニエプル川/ドニプロ川)
ドネツク/ドネツィク
ルガンスク/ルハンシク
ドンバスドンバス
マリウポリマリウポリ

2.地位(国)を表す用語について(皇帝、王、大公、公、などの違い)
下記は主にネット情報に基づいています;
皇帝・教皇などは、至高の権威を有する人物の称号と考えることができます。例えばキリスト教世界ではローマ皇帝・教皇中華圏では中華の皇帝イスラム世界ではカリフなどがそれに当たります。これらは英語では概ね「Emperor」と訳されております
王・大公・公は、軍事力を背景にその支配地域に君臨している者を指しているようです。ヨーロッパの歴史においては、王国大公国は特に広い地域を支配していることを指していることが多いのですが、「」については概ね使用が王国(Kingdom)のトップに限られている(イギリス、フランスの王など)のに対し、大公と公は、貴族であることを意味し、英語では公爵(Duke)が治める国という意味から大公国、公国はDuchyと訳されています。一方、大公と公の区別は比較的曖昧の様です。公の中でも版図を広めた場合、あるいは偉大な業績を上げた公を「大公」と呼ぶことが多いと思われます。また、キリスト教を広めた業績があることから公から「聖公」になるとか、仁政を引いたことから公から「賢公」になるとか、の例があるようです。このブログ内では、呼称が変わるのはややこしいので、全て「」に統一することにしました。ご了承頂ければ幸いです

目次

尚、ウクライナの歴史は相当ボリュームが大きいので、以下の目次からジャンプを使って飛ばして読むことが出来るようにしてあります;
ウクライナの歴史;
1.キンメリア_紀元前1500年~紀元前700年頃
2.スキタイ_紀元前700年頃~紀元前200年頃
3.ハザール汗国
4.キエフ・ルーシ公国_862年~1243年

5.キプチャク汗国_1243年~1502年
6・ハーリチ・ヴォルイニ公国_1173年~1340年
7.リトアニア、ポーランドのウクライナ支配とその連合国

リトアニア・ポーランド連合国の時代のユダヤ人
ユニエイト協会の誕生
8.コサックの歴史
*政治的勢力への成長
*先駆者サハイダチニー
* ヘトマンが作ったコサックの国家
*イヴァン・マゼッパ
* ヘトマン国家終焉・ ロシアへの併合の過程
9.ロシア、オーストリア両帝国によるウクライナ支配
ロシア帝国に於ける民主化、ウクライナ・ナショナリズムの動き
オーストリア帝国に於ける民主化、ウクライナ・ナショナリズムの動き
ウクライナ人のロシア帝国内、外国への移民
穀倉地帯の変貌とオデッサの隆盛、産業革命による急速な工業化
10.第一次世界大戦とウクライナの独立
戦況推移
11.ソ連の時代_1922年~1991年
農業集団化と大飢饉
第二次世界大戦とウクライナ
ヤルタ会談と戦後処理
スターリン後のウクライナ
12.ウクライナの独立
独立までの過程
独立後のウクライナの政治情勢

おわりに

ウクライナの歴史

1.キンメリア_紀元前1500年~紀元前700年頃
最初に文献(ホメロスの「オデュッセイア」)に現れる民族はキンメリア人であり、彼らはインドヨーロッパ系の民族であると言われ、紀元前1500年~700年頃、黒海北岸に居住して遊牧生活をしていた。紀元前9世紀頃に南ウクライナで勢力をふるっていた

2.スキタイ_紀元前700年頃~紀元前200年頃
キンメリア人の後に現れたのがスキタイ人(ギリシャの歴史家・ヘロドトスの記述に登場)であり、彼らはイラン系の民族であった。彼らは紀元前750年~700年頃にカスピ海東岸から黒海東北部に進出し、キンメリア人を追い払いこの地の主となった。スキタイ人は、強大な軍事力をもって紀元前620年にアッシリアを滅ぼし、小アジアからパレスチナに至る中東地域を席巻した
スキタイ人は古代で遊牧による生活様式を最初に確立した民族と思われる。遊牧は牛、羊、馬が中心であった。ドニエプル川は資源に富み、豊かな牧場もあれば、多くの魚類を産し、水は飲料にも適していた。河岸一帯は穀物の栽培に適していた。ドニエプル川の河口の当たりには見事な天然塩が結晶しており、塩干魚に加工されるチョウザメが獲れた
スキタイの社会構造や政治システムについては文字を持たなかった為十分には分かっていないが、大きく分けて、森林・ステップに居住し農耕に従事する「農耕スキタイ人」、ステップに住む「遊牧民の王族スキタイ人」、「沿岸都市に住み商業や家内工業に従事していたギリシャ人」の三相で構成されていたらしい

古代スキタイ人は政治的には滅亡したものの、彼らは生物学的に絶滅したわけではなく、この地方とその周辺で彼らの血統は現代にも脈々と受け継がれていることは遺伝子解析からも明らかにされ(現代ヨーロッパにおけるY染色体のハプログループR1a1はスキタイ時代のヨーロッパ東部から中央アジアにかけて広く住んでいたイラン系遊牧民の子孫を示している)ており、この地方とその周辺で彼らの血統は現代にも脈々と受け継がれている。ヨーロッパの各民族のうちスラヴ語系の各民族にはこのR1a1が非常に濃く含まれており、特に中央アジアとポーランドの全土、およびロシアの西部に集中している

スキタイ人の戦士

スキタイ人は「勇敢さを尊ぶ民族性」と巧みな「騎馬術戦士」として極めて優れていた(後世の騎馬民族の先駆けとなった)ため、先住者であるキンメリア人を駆逐するとともに、ペルシャの一部から小アジアを席巻した。また、ペルシャ帝国のダリウス大王(紀元前522年~486年)の遠征も阻止した
ヘロドトスによれば、スキタイ人は最初に倒した敵の血を飲み、戦闘で殺した敵兵は首級を王の許へ持参しないと戦利品の分け前にあずかれないからである。また、スキタイ人は友情を大切にし、大麻と酒に目がない
ウィキペディア情報によれば、ケンタウロス像はスキタイ人と戦ったギリシア人が、彼らを怪物視した(乗馬文化を持たないギリシャ人が騎馬民族を見て怪物と見間違った)ものだという説がある

ケンタウロス

ヘロドトスによれば「スキタイ人のみが知能に優れ、黒海沿岸の人々の中で知識が優れており、彼らは鞴(ふいご)や轆轤(ろくろ)を発明した」
スキタイ人の古墳の中でも、ドニエプル川の中・下流域、クリミヤ半島からの出土品は極めて芸術性が高い。出土品から分かるスキタイ芸術の特徴は、動物意匠黄金への偏愛である。動物は野生で獰猛なものが選ばれ、それらが馬や鹿などを襲って正に食いちぎろうとする瞬間を捉えているものが多く、筋肉の緊張感、躍動感が見事に表現されている

紀元前7世紀頃より黒海沿岸やクリミア半島はギリシャ人にとって身近になり、ギリシャ人はこの地域沿岸に植民都市群を建設した。草原の民スキタイ人と、海の民ギリシャ人の間には交易関係が成立していた。パンを主食とするギリシャ人は、スキタイの地から穀物を輸入(紀元前4世紀には輸入穀物の約半分はアゾフ海沿岸地域からであった)し、その他魚や家畜、皮革、蜂蜜、奴隷などもギリシャに売られていた。スキタイ人はギリシャ人から壺などの家財道具、織物、装飾品、葡萄酒、オリーブ油などを買っていた
尚、当初はギリシャの植民都市であった諸都市が相互の連帯が進み、アゾフ海から黒海への入り口を扼する地域にボスポロス王国が成立した
スキタイ人は、ギリシャとの交易により富が蓄積するにつれ贅沢になり、また少しづつ定住する者が現れるなど尚武の気質が失われていった。紀元前4世紀に中央アジアからスキタイ人と同じイラン系のサルマタイ人がスキタイの地の東部に侵入し、ドニエプル川流域地域からスキタイ人を駆逐していった
スキタイ人は追われてクリミア半島に閉じ込められ、ボスポロス王国と争いながら生き延びていたが、紀元前3世紀半ばのゴート人(ゲルマン系)の進入により滅亡し、500年に亘った「パックス・スキティカ(スキタイ人による平和)」)が終焉した

3.ハザール汗国
参考:可汗(カガン/ハガン)とは:鮮卑、突厥など遊牧国家で用いられた王号。 モンゴルのハン位に継承される。 漢字表記では可汗であるが、カガンというのが本来の発音
ハザール人はトルコ系の遊牧民族
でカスピ海北岸から黒海沿岸を支配し、7世紀半ばから9世紀半ばの間最盛期を迎えた。ハザール可汗国は、カフカス方面から侵入してくる新興イスラムがヨーロッパに侵入してくるのを防いでいた
ハザールの支配地域が、東西を結ぶシルクロードとアラブとヨーロッパを結ぶ南北の交易路の交差点にあたり、ハザール可汗国は次第に通商を保護し、戦争よりも外交を重視する国家に変貌していった。かくしてハザール可汗国は、交易路を積極的に保護する世界市場初の遊牧民族国家となった。キエフの町もハザール交易の拠点として発展してきたと考えられる
ハザール可汗国は、10世紀頃から新たな遊牧民族やキエフ・ルーシ公国の攻撃を受けて衰退していった。ハザール可汗国が文献に最後に現れるのは1075年であり、その頃滅亡したと考えられる

4.キエフ・ルーシ公国_862年~1243年
キエフ・ルーシ公国のルーツはノブゴロド(現在のロシア西部)に住んでいた東スラヴ人である
参考:東スラヴ人とは、スラヴ人の中で東スラヴ語を話す、現代のウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人や近隣の少数民族のことを指す
<ノブゴロド公・リューリク(在位:862年~879年)>
この地はノルマン系のヴァリャーグ人(ルーシと自称しており、ここから「ルーシ」という国の名が生じた)に貢納を行っていたが、ヴァリャーグ人を追い払い自治を始めたものの内紛が起こって治まりがつかなくなったので、再びヴァリャーグ人にこの地を治めて欲しいと要請した。そこでルーシの首長のリューリク(?~879年)が862年に一族を引き連れてノブゴロドに到来し、ノブゴロドの公になった。彼は、キエフ・ルーシ公国やその後のロシアを収めるリューリク王朝の祖となった

リューリクの家臣であるアスコルドディルの兄弟は、ドニエプル川を下ってコンスタンチノープルに向かう途中、小さな町(キエフ)を見つけ、この町を乗っ取りこの二人でキエフとボリャーネ氏族の国を治め始めた
<キエフ・ルーシ公・オレフ(在位882年~912年):キエフ・ルーシ公国の創始者>
ノブゴロドではリューリク公が死に、幼い息子・イホルの後見となったオレフアスコルドとディルの兄弟を滅ぼし、キエフ公となった。オレフは近隣の諸部族を従属させるとともにハザール可汗国への貢納を止めさせた
その後、オレフは都をノブゴロドからキエフに移しキエフからノブゴロドに至る広大な地を支配するようになった。従って、オレフがキエフ・ルーシ公国の創始者と言ってもよいと思われる

<聖オリハ>
912年に死去したリューリクの子イホル(912年~945年)はリューリク王朝の後を継ぎ公位を継いだが凡庸の君主で、スラヴ系のドレヴリャート氏族に暗殺されてしまった。
イホルの妻オリハ(?~969年)は、息子のスヴャスラフが幼かった為その後見をつとめたが、彼女は意志の強さと、賢明さを兼ね備えた女傑であり、彼女が事実上のキエフ公であった。彼女は、色々な策略を使ってドレヴリャート氏族に対して夫の復讐を果たした
キエフ・ルーシ公国の地では昔ながらの多神教が支配的であったが、オリハは、キリスト教に関心を持ち、957年コンスタンチノープルに赴き洗礼を受け、キエフ公の身内で最初のキリスト教徒となった。彼女は後にウクライナとロシアで最初の聖人(聖オリハ)となった

<キエフ・ルーシ公・スヴャトスラフ1世(在位945年~972年):征服公>
跡を継いだ息子のスヴャトスラフは武人であり、在位中にヴォルガ河口付近にあったハザール可汗国の首都イティルを破壊し、事実上同国を滅ぼした。またバルカン半島でブルガール王国やビザンチン帝国とも戦い、征服公とも呼ばれた
彼の髪型は、この氏族の高貴な身分である印として、片側のひとかたまりの頭髪を除いて頭は剃ってあった。因みに、この髪の剃り方はコサックにも引き継がれている972年、スヴャトスラフ1世は援軍を引き連れてくるためドナウ河畔からキエフに戻る途中で遊牧民のベチェネグ人の奇襲に会い命を落とした
ウクライナの歴史家フルシェフスキーは、スヴャトスラフは「王冠を被ったコサック」と称している。彼は勇敢で騎士道精神に満ちているが、攻撃一本やりで守りに弱かった
参考:これまでのキエフ・ルーシ公たちは、発祥の地の地の言葉であるスカンディナビア語系の名前を称していたが、スヴャトスラフ公以降はスラヴ語系の名前を称する様になった。これは、彼らがスラヴ人に同化していった過程を示すものと考えられる

<キエフ・ルーシ公・ヴォロディーミル(在位978年~1015年):聖公>
スヴャトスラフ公の死後、長男のヤロボルクがキエフ・ルーシ公国を継いだ(在位972年~978年)が、兄弟相続の原則からキエフ・ルーシ公国を次ぐ事になっていた次男のオレフを殺してしまったため、三男のヴォロディーミルはスカンディナビアに逃げた。その後、ルーツであるヴァリャーグ人の援軍を得てヤロボルク公を倒しキエフ公となってキエフ・ルーシ公国全体の支配者となった
ヴォロディーミルは、各地を征服し、バルト海、黒海、アゾフ海、ヴォルガ川、カルパチア山脈(現在のルーマニア東部-ウクライナ西部に連なる山脈)に広がる当時ヨーロッパ最大の版図を持つ国を作り上げた。この実績からヴォロディーミルは「大ヴォロディーミル」あるいは、キリスト教を国教としたことから「ヴォロディーミル聖公」と呼ばれるようになった

<キエフ・ルーシ公・ヤロスラフ(在位1019年~1054年):賢公>
ヴォロディーミルの死後、再び子供の兄弟の間で争いが起こったが、兄弟の一人でノブゴロド公であったヤロスラフは、父・ヴォロディーミル大公と同じ様に、ヴァリャーグ人の援軍を得て南進し、キエフ・ルーシ公となった
ヤロスラフ公は、軍事的には遊牧民ベチェネグ人を撃退したが、彼の真骨頂は内政及び外交であった;
内政面:
①それまでの慣習法を「ルスカ・プラウダ(ルーシの法)」として法典化した
復讐による殺人を禁止し、死刑を罰金に変えたこと
ソフィア聖堂を建立(1037年;現在もヤロスラフ大公の棺と遺骨が残っている)し、ここに図書館を設けキリスト教聖典の翻訳も行った
④キーウの城壁を強化するなど街の整備を行った/現在もキーウ旧市街に残っている「黄金の門」が有名外交面(華麗な婚姻政策!⇒「ヨーロッパの義父」)
⑤二人目の正妻としてスウェーデン王の娘インギガルドを迎えた
⑥娘アナスタシアをハンガリー王・アンドラーシュ一世(在位1046年~1060年)の妃にした
⑦娘エリザベートをノルウェー王・ハーラル三世(在位1047年~1066年)の妃にした
⑧娘アンナをフランス王・アンリ一世(在位1031年~1060年)の妃にした。アンナはアンリ一世の死後後継となった息子のフィリップ一世(在位1060年~1108年)の摂政もつとめている
⑨ヤロスラフの息子インジャスラフ(在位1054年~68年、69年~73年、77年~78年)は、ポーランド王の娘を妻に迎えた
⑩息子スヴャトスラフ(在位1073年~76年)はドイツのトリエール司教の娘を妻に迎えた
⑪息子フセヴォロド(在位1076年~77年、78年~93年)はビザンチン帝国の王女を妻に迎えた
参考:オリハのキリスト教への改宗、ヴォロディーミル公による国教化、ヤロスラフ大公のキリスト教によって巨大な国家の凝集力を高める施策により、キエフ・ルーシ公国はビザンチン帝国を中心とする「文明国の共同体」の一員として認められた。これにより、ヤロスラフ大公による華麗な婚姻政策も可能になり、遊牧民ベチェネグ人との戦いも、異教徒からキリスト教を守る「聖戦」と位置付けられる様になった。一方、キエフ・ルーシ公国はキリスト教を通じてビザンチン帝国の文化を吸収したが、ローマンカトリックではなくギリシャ正教を選んだことは、後世ロシアが西欧やポーランドとの政治的。文化的断絶を生むきっかけとなった

<ヴォロディーミル・モノマフ大公(在位1113年~1125年)>
ヤロスラフ大公の死後、息子たちの間の争いが半世紀近く続いた。この混乱期には遊牧民ベチェネグ人に替わって台頭していた遊牧民ポロヴェッツが執拗にキエフ・ルーシ公国を荒らしまわった。この事態を修復したのは、ヤロスラフ大公の孫のヴォロディーミル・モノマフ大公であった。彼の妻が、ビザンツ皇帝を輩出したモノマコス家出身であった為「モノマフ」と呼ばれた
モノマフ公は武勇と知略で知られ、民衆の人気もあり、国の統一を回復した。モノマフ公の妻ギーダはイングランド王ハロルド二世の娘であり、この婚姻を取り持ったのはデンマーク国王であった。これは、この時代になってもなお、キエフ・ルーシ公国の発祥の地であるスカンジナビアとの強い結びつきが残っていたことが窺える

1125年のヴォロディーミル・モノマフ大公の死後、1240年のモンゴルによるキエフ占領までの約100年の間は、キエフ・ルーシ公国の解体の過程である。それまでのキエフ・ルーシ公と地方の公の継承方式が兄弟相続から父子相続となり、地方の公は、父子相伝の領地の維持、拡大が最大の関心事となり、キエフ・ルーシ公の地位が相対的に低下すると共に、地方の緒公がキエフ・ルーシ公国から分離独立する傾向が顕著となった。以後殆ど独立した10~15の公国が出来、キエフ・ルーシ公国は実質的に緒公国の連合体になってしまった。この中の有力緒公国のうち北東部のウラジーミル・スーズダリ公国から分かれたものがモスクワ公国である
また、十字軍の派遣により地中海に於けるイスラム勢力の影響力が低下し、地中海経由の海上ルートが盛んになり、キエフを通過する陸上ルートによる貿易が衰退していった結果、キエフ・ルーシ公国の経済は商品経済から農業中心の自給自足経済に変わり沈滞していった

5.キプチャク汗国_1243年~1502年
1223年モンゴルの先遣隊はキエフ・ルーシ公国に現れ、アゾフ海に近いカルカ川の河畔でルーシ諸侯を破ったこの戦闘でルーシ緒公のほぼ半数にあたる9人が戦死し、死者は6万人に上ったと記録されている
1237年ジンギスカンの孫のバトゥに率いられた本格的な遠征軍が東部、北部の諸都市を陥落させた後キエフを包囲した。キエフ・ルーシ公は既に逃亡していたが、軍事指導者ドミトロに率いられた市民は果敢に抗戦したものの、長い籠城戦の後城壁が破壊されキエフは陥落した。陥落の際、市民は教会に立て籠もったが破壊された結果、何百という市民が下敷きになって死んだと言われている。ドミトロはその勇気をバトウに称賛され命を助けられた
その後バトウはヴォルガ川下流のサライを都とするキプチャック汗国を建てた。これによりキエフ・ルーシ公国は終焉したものの、個々の緒公国はモンゴルの支配に服し税を収めれば存続を認められたパクス・モンゴリカ/モンゴル覇権の下での平和)。ただ、交易による収入が見込まれるクリミア半島では直轄統治が行われた。
モンゴルが支配を欲した地域は、彼らの故郷に近い畑作地帯であって、モスクワ公国の属する森林地帯には興味がなかった

モンゴルは、正教会も保護した。教会や聖職者の税を免除し、教会内部や教会関係者の裁判権も教会に与えた。その結果、異教徒の支配の下で協会は豊かになりキエフ・ルーシの地のキリスト教化が完成した
また、モンゴルの支配の下で交易が盛んになり、東西の交易ルートが復活した。ここで活躍したのはイタリア商人で、ベネチア、ピサ、ジェノバなどが、かつてのギリシャの植民都市であったクリミア南岸に拠点を築き、ここを中継地として中央アジア、カスピ海、黒海、地中海との交易が盛んとなり、絹、香料、穀物、魚、皮革、奴隷などの取引が行われた。こうした交易は、スキタイ時代、ハザールの時代にも行われており、ウクライナの地は古代からギリシャ・ローマ(その後のイタリア)世界及び海の世界とつながっていた

6.ハーリチ・ヴォルイニ公国_1173年~1340年)
<ハーリチ・ヴォルイニ公・ロマン(在位1173年~1205年)>
1125年のヴォロディーミル・モノマフ大公の死後、玄孫(孫の孫)にあたるヴォルイニ公ロマンは、キエフ・ルーシ公国の南西部にあったハーリチ公国とヴォルイニ公国を合併し新王朝を開いた。ロマン公は1200年キエフを占領したが、キエフには魅力を感じずハーリチに戻った<ハーリチ・ヴォルイニ公・ダニーロ(在位1238年~1323年)>
ロマンの息子ダニーロの治世はモンゴルの来襲により多難であった。ダニーロはキプチャック汗国の首都サライに出頭しバトウに臣従の礼を尽くさねばならなかった。彼は気概のある公であった様で、ローマ法王に反タタールの十字軍を呼び掛けたが実現はしなかったものの法王から「ルーシの王」の称号を与えられた。ダニーロは、隣国からの浸食を防ぎ、ハーリチ・ヴォルイニ公国史上もっとも傑出した君主とされている。彼は息子レフの名を取ってリヴィウの町を建設した
リヴィウは後世ウクライナ西部の中心となり、ウクライナ・ナショナリズムの拠点となった。現在リヴィウは世界遺産に登録されている

こうして、ハーリチ・ヴォルイニ公国は、キエフ陥落後も一世紀近く存続した国で、現ウクライナの9割の人が住む地域を支配していた。ウクライナの歴史家トマシェフスキーは、この国がキエフ・ルーシ公国の直系であり「最初のウクライナ国家」であると主張している⇔ロシア側は1240年キエフ・ルーシ公国滅亡後ウクライナは継承すべき国家が無かったと主張してる
ダニーロの死後は周辺各国の干渉を招き、1340年代になってヴォルイニはリトアニアに、ハーリチはポーランドに併合された

<ハーリチ・ヴォルイニ公・レフ2世(在位1315年~1323年)>

最後の男系レフ2世は、始祖リューリクから数えて14世代目であった。最初のキエフ公オレフがキエフを占領してから約450年でウクライナ国家は消滅した

参考:
中世の西欧では王侯貴族が商業を低く見ていたのに対し、キエフ・ルーシ公国では諸侯や貴族は商業を重視し、そこから利益を得ていた。当時の西欧諸国は圧倒的に農村社会であったのに対し、キエフ・ルーシ公国では都市の比重が高く、2千400の町があり、総人口の13~15%が都市に住んでいたとされている
最大の都市キエフの人口は、モンゴル占領時には3万5千~5万人と推測されているが、当時のヨーロッパでは最大級の都市であった。また、総人口は12世紀末から13世紀初めには7百万人~8百万人であった。因みに当時の大国である神聖ローマ帝国は8百万人、フランスは1千5百万人であったと言われている
キエフルーシの貨幣は銀塊であり、単位はフリヴニャといい、現在のウクライナは独立5年後の1996年に通貨を発行したが、その単位は歴史的なフリヴニャを採用した。現在のロシアの通貨単位ルーブルは「切り分けられた」という意味で、フリヴニャを切り分けた銀塊の単位として13世紀に現れたものである
キエフ・ルーシ公国の文化の水準はキリスト教の導入で飛躍的に高まった(教会建築、イコン絵画、キリスト教関係の書物の翻訳・出版など)。「イーゴリ軍記」は、「ニーベルンゲンの歌(ドイツ語)」や「ロランの歌(フランス語)」と並び称される中世ヨーロッパの代表的な文学とされている。ロシアの作曲家ボロディン(1833~1887年)はこれを基に歌劇「イーゴリ公」を作曲した

7.リトアニア、ポーランドのウクライナ支配とその連合国
14世紀半ばにハーリチ・ヴォルイニ公国が滅亡してから、ウクライナの地はリトアニアとポーランドに浸食されこの2国の支配下に入った。
キエフ・ルーシ公国の時代には、ほぼ全域に亘って単一のルーシ民族であったものが、リトアニア、ポーランドに支配されていた時代にロシア、ウクライナ、ベラルーシの3民族に分化した。分化の要因は、この時代にモスクワ公国、リトアニア公国、ポーランド王国に分割され、それが長期間固定された為である。キエフ・ルーシ公国の末期から、既に言語も分化し始めており、この時期にロシア語、ウクライナ語、ベラルーシ語という独立した言語となっていった。また、「ウクライナ」という地名が生まれたのも、ウクライナの歴史を通じて最もウクライナ的といえるコサックが生まれたのもこの時期である。従って、この時期はウクライナのアイデンティティー形成の為にも極めて重要な時期であったとも言える

<リトアニアの拡張>
リトアニア人は先史時代からバルト海沿岸に住んでおり。インド・ヨーロッパ語族に属する民族(スラブ系でもゲルマン系でもない)である。
北ポーランドのカトリックの公が、リトアニア人に脅威を感じ、十字軍から戻ってきたドイツの騎士たちを定住させた(ドイツ騎士団)。ドイツ騎士団はその武力とエネルギーでリトアニアを圧迫したが、リトアニアはドイツ騎士団と戦ううちに力をつけ、周辺のスラブ諸国を侵略するようになった

キエフがモンゴルに占領された13世紀中ごろ、ミンダウガス公(在位1240年~1263年)のもとでリトアニアは初めて統一され、ダニーロ公に率いられたハーリチ・ヴォルイニ公国対峙した。ダニーロはポーランドやドイツ騎士団と協力してミンダウガス公に対抗した為、東部、南部への進出を十分果たすことはできなかった
その後、この進出政策はゲディミナス公(在位1275年~1341年)に引き継がれ、ベラルーシの大部分及びウクライナ北部を支配下におさめた。彼は首都をヴィルニュスに定め、「リトアニアとルーシの王」と名乗った
ゲディミナス公はリトアニアとポーランドの王朝の祖となったと共に、ロシア、ポーランドの多くの名門貴族の祖ともなった
ゲディミナス公の死後、1362年不敗を誇ったキプチャク汗国と戦いヨーロッパで最初の勝利者となった

リトアニア人は進入当初は異教徒であったが、すぐにスラブの文化に染まり、多くのリトアニア貴族は正教に改宗し、ルーシの言葉がリトアニアの公用語になった
リトアニア人は「古いものは壊さず、新しいものは持ち込まずという方針で臨み、リトアニア人は少数であったことからルーシ系貴族を登用したため彼らから歓迎された。この結果、1~2世代を経るとリトアニア人は見かけも言葉もルーシ人の様になってしまった。後世のウクライナの歴史家フルショフスキーは、「キエフ・ルーシ公国の伝統はモスクワではなくリトアニア公国によって継承された」としている

<ポーランドの進出>
ポーランドはスラブ系で、ルーシにとってはリトアニアより近い関係にあるものの、10世紀頃からポーランドはカトリックを受け入れたのに対し、東方キリスト教である正教を受け入れたキエフ・ルーシとは文化的には異質であった
リトアニアがルーシの文化を受け入れたのに対し、ポーランドは自身の文化を押しつけたこともあり、ポーランドのウクライナ進出はスムーズには進まなかった

最初にキエフ・ルーシに進出したのはカジミエシ三世(在位1333年~1370年)であった。彼は衰退しつつあるハーリチ・ヴォルイニ公国につけ込み、その公位継承に干渉し、同じく同公国に食い込もうとするリトアニアとも争った
14世紀中頃にはハーリチ地方はポーランドの支配下に入った。以後、リヴィウを中心とするハーリチ地方はドイツとロシアのポーランド分割までの長きに亘ってポーランドに組み込まれることになった(但し、一時期オーストリア・ハンガリー帝国に組み込まれた)
以上から、ハーリチ地方は歴史上一度も帝政ロシアの支配下に入ったことは無いことが分かる

14世紀のヨーロッパ

<ポーランドとリトアニアの合同>
カジミエシ三世の死(1370年)の後、ポーランドの王位は甥のハンガリー王ラョシュ一世(在位1370年~1382年)が兼ねることになるが、ラョシュ一世にも男子が無く、三女のヤドヴィガ(ポーランド女王としての在位1384年~1399年)にポーランドの王位を継がせた
その後、ヤドヴィガ女王の婿としてリトアニアのゲディミナス大公の孫に当たるリトアニア大公・ヨガイラを迎えることとなり、これに合わせてリトアニアをポーランド王国に編入することになった(クレヴォの合同)。1386年二人は結婚し、ヨガイラはポーランド王とリトアニア公を兼任することとなった(在位1386年~1434年)

この合同の結果リトアニアとポーランドが一つになった訳ではなく、リトアニアは自前の公をを擁してポーランドに対抗するなど別の国としての独自性を長期間維持した。特にゲディミナス大公の別の孫であるヴィタウタスが大公(在位1392年~1430年)の時代、その領土はドニエストル川とドニエプル川にまたがり黒海に及ぶリトアニアの絶頂期を迎えた
その後、次第にポーランドの力が強まり、1569年ルブリンで行われた会議の結果「ルブリンの合同」が成立し共通の王・議会・外交政策を持つ連合国家(事実上ポーランドによるリトアニアの併合)が形成されることになった

ポーランドでは、王家の男系が絶えると婚姻関係を通じて王位が継承されたが、その度に貴族たちは王の権限を制限し、自分たち貴族の国事への参画や特権を認めさせていった。貴族たちは国会や地方議会を組織して国事を決めたが、これらの会議体は全会一致制であったであった為、一人の貴族の反対で国事が決定できない状況が生まれた。16世紀初めには、国会における貴族の代表の同意無くして王は如何なる勅令も出せなくなっていった。かくして、どの国よりも王権を弱くすることに成功し、最終的に王は貴族の選挙で選ばれるという謂わば「貴族による共和制」まで生み出すに至った

こうして権限を強めた貴族は、16世紀初めには議会での町民の投票権を剥奪し、商人が外国と商売することも禁止して貴族が直接行う様になり貴族が富裕化する要因の一つとなった。また、職人も町ではやっていけず貴族の領内に移り住む様になり町は衰退していった。また、貴族は村の自治を奪い取り、農民の生活にも干渉するようになった(結婚するにも税金を払わねばならなくなった)。農民は移動の自由も奪われ、土地を所有する権利も奪われてしまったキエフ・ルーシ公国の時代に自由民であった農民は16世紀末までに領主の農奴となってしまった(西欧ではこの時期には農奴は消えていった)

アメリカ大陸からの銀の流入により経済は繫栄し人口が増加した。この為、穀物不足が起こり価格も上昇した結果、領主は商品作物の増産に精を出した(⇔農民からの搾取)。西ウクライナに於ける1491年~1492年の間の穀物輸出が1万3千トンだったものが、1618年には27万2千トンまで増加した。コペルニクスの活躍に代表されるポーランドのルネサンスはウクライナの農民の犠牲によって成り立っていた訳である

参考:リトアニア・ポーランド連合国の時代のユダヤ人
古代からウクライナの地にはユダヤ人が住んでいた。キエフ・ルーシ公国の時代にはユダヤ人は塩の専売権を手にしていたが、その数は多くはなかった。しかし、ポーランド・リトアニア連合国の支配下に入ってからは以下の要因からユダヤ人の人口が急激に増加していった
ポーランドでは
ボレスワフ王(在位1243年~79年)がユダヤ人を保護する法令(カリシュの規約)を出し、諸侯に税金を払う事によりユダヤ人を保護(ユダヤ人にたいする如何なる攻撃も厳しく罰した)し、自由な経済活動を保証した。またユダヤ人の自治を行う教区を設置する権利も認めた
②ポーランドのカジミエン三世(在位1310年~1370年)は、ボレスワフ王のユダヤ人優遇策をさらに進め、ユダヤ人が都市や農村で土地と家屋を取得するのを容易にした
③モンゴル人の進入後、ポーランドを立て直す為、外国人(ユダヤ人、ドイツ人、アルメニア人)の移民を歓迎し、彼らは主に都市部に流入した
④13世紀~15世紀に神聖ローマ帝国内でユダヤ人迫害が強まった為、ポーランドの優遇策に惹かれて多数のユダヤ人が移住してきた
リトアニアでは
ヴィタウタス公(在位1401年~1430年)は寛大なユダヤ人優遇策を打ち出し為、リトアニア支配下のウクライナにドイツ、ポーランドのユダヤ人が移住してきた

ユダヤ人は、まず都市の商人、手工業に従事し、次に農村にも進出した。彼らは金銭感覚・事務能力に優れていたため、農村では貴族の管理人になった。また荘園の経営全体の管理を請け負った者もいた。更に領主の下で旅籠、居酒屋、粉引き場、製材所などを経営するようになった。この様に、ユダヤ人は領主と農民の中間に立ち、農民の労働の成果を領主に渡すパイプ役となった為、農民からユダヤ人は領主の手先とみなされるようになった
キリスト教徒商人はユダヤ人を排除しようと試みたものの、王と貴族はユダヤ人から利益を得ていたので、こうした試みは概して成功しなかった

こうしたことからポーランド・リトアニア連合国支配下では、他のヨーロッパ諸国に比べてユダヤ人に住みよい環境が形成された。巷では「ポーランドは農民の地獄、町人の煉獄、貴族の天国、ユダヤ人の楽園」と言われた
ポーランド・リトアニア連合国支配下のユダヤ人人口の推移:1500年頃/2万3千人(全人口の1%);1648年/約50万人(全人口の5%)
19世紀、20世紀のロシア帝国、ソ連においてユダヤ人が政治・経済・文化の面で活躍するが、このユダヤ人の大部分はこの時ポーランド・リトアニア連合国支配下に入ってきたユダヤ人の子孫である

その後のユダヤ人
モスクワ公国やロシア帝国ではユダヤ人の国内居住を禁じていたが、18世紀末のポーランド分割により、ロシアはベラルーシと大部分のウクライナを領土に加えることとなり、その地に住んでいたユダヤ人の多くを抱え込むことになった。これらのユダヤ人は、原則として定住区域として設定されたウクライナ、ベラルーシから出ることが許されなかったので、ユダヤ人はこの地域が主たる居住地になった。
ウクライナ・ベラルーシ出身のユダヤ人の有名人にはトロツキー(ソ連・共産党の指導者の一人;メキシコに亡命したあとスターリンに暗殺された)、ジノヴィエフ(ソ連・共産党の指導者の一人;スターリンに粛清された)、カガノヴィッチ(ソ連の政治家;スターリンの側近;ウクライナ共産党第一書記)、エレンブルグ(作家)、シャガール(画家)がいる
参考:ユニエイト協会の誕生;
ウクライナの教会の変遷
キエフ・ルーシ公国の時代はルーシ人と正教徒と同義語であった。13世紀のモンゴル征服以降も、キプチャク汗国や初期のリトアニア公国では支配者が宗教に寛容であった為、正教が支配的であった。しかし、モンゴル征服以降正教を統括する府主教はウラジーミル(現ロシアのモスクワ西部の都市)やモスクワに住んでいた。その後、1362年キエフ府主教(日本語では「キエフ管区大主教」)の座はモスクワに置かれることになった
ポーランド・リトアニア連合国の時代、ポーランドの貴族はカトリック教徒であり、ルーシの貴族に比べ多くの特権を有していたため、ルーシの大貴族はカトリックに改宗してポーランド化することがポーランド貴族と対等になる道であった。こうして大貴族は言葉や習慣もポーランド化していった。しかし、地方の小貴族や農民は正教を守っており、正教やルーシの言語は下層階級のものとみなされるようになった。この偏見は第二次大戦まで続くことになった。正教徒の大貴族を失ったウクライナの民は指導者を失ったも同然で、その政治力、文化、教育等の面でも弱体化していった
ウクライナを支配下に置いたポーランドやローマ法王は正教会とカトリック教会を合同させようと画策し、1596年ブレスト(現ベラルーシ西部の都市)で会議を開いたがまとまらず、結局正教の一部が分裂してカトリックと合同し、新しくウクライナ独特の新しい教会・ユニエイト(合同協会/ギリシャ・カトリック教会/ウクライナ東方カトリック教会)が生まれた

リヴィウの聖ユーラ大聖堂(ユニエイトの総本山)

ユニエイトはユリウス暦を使用(⇔カトリックはグレゴリオ暦を使用)し聖職者の結婚も認めるが、ローマ法王に服従する。またユニエイトでは、正教同様教会では立って礼拝を受ける(⇔カトリック教会では椅子に座って礼拝を受ける)
ユニエイトはドニエプル川右岸では主要な宗教になった。しか18世紀末にロシア帝国領になってから、ローマ法王への忠誠を止めないユニエイトは帝国内では禁止された。
一方、ドニエプル川西岸地域はオーストリア・ハンガリー帝国の統治下にあった時期(1772年~1918年)はユニエイトが生き延びたが、第二次世界大戦後ソ連領になってからはユニエイトは禁止された。こうした歴史的背景から、ユニエイトはウクライナ・ナショナリズムのシンボルとなった

参考:モスクワ公国とクリミア汗国の台頭
モスクワ公国
は1480年、イワン3世(在位1462年~1505年)の時代にキプチャク汗国の支配から脱した。彼は「全ルーシの君主」と称し、かつてのキエフ・ルーシ公国の土地は全て自分の土地であると主張した。その結果、モスクワ公国とリトアニア公国は、キエフ・ルーシ公国の土地を巡って長期間にわたり争い、少しずつリトアニア公国の領土を切り取っていったイワン4世(イワン雷帝;在位1533年~1584年)は、1547年に初めて「ツァーリ/皇帝」として戴冠した

14世紀末ころからキプチャク汗国は内乱やリトアニア公国、ティムール帝国の侵攻などにより弱体化し、カザン汗国、クリミア汗国が独立した後、1502年に滅亡した

クリミア汗国を強大にしたのはタタール人でジンギスカンの後裔と称したメングリ・ギレイ(在位1478年~1514年)であった。ただ、彼はクリミア半島南岸で貿易の実権を握るジェノヴァ人の諸都市は支配できなかった
*オスマントルコ帝国のメフィト二世(在位1451年~1481年)は、黒海を「トルコの海」したいと望み、ジェノヴァ支配下にあったクリミア半島諸都市を手中にした。クリミア汗国はオスマントルコの強さを知り、オスマントルコの属国となった
クリミア汗国はイスラム国家であり、主にクリミア半島に住む農民であるクリミア・タタールと黒海北岸で遊牧をしているノガイ・タタールがおり、ノガイ・タタールはクリミア汗国の宗主権の下にあった。オスマントルコは軍とハーレムを維持するため絶えず奴隷を必要としており、クリミア汗国はその奴隷の主な供給源(ノガイ・タタールがスラブの町や村から人々を誘拐した)であった。この時代、遊牧民が誘拐した奴隷はクリミア南岸の諸都市を通じてコンスタンチノープルや中近東に売られており、この為にウクライナ北方の農村地帯は人口が減少していったこの危険で人口希薄な地に台頭してきたのがコサックである

参考:ウクライナの語源
ロシア史をベースとした学説では、ウクライナとは「辺境地帯」であるとしていた。しかし、ウクライナではウクライナとは、単に「土地」あるいは「国」を意味する言葉であったと主張している。「ウクライナ」という言葉の一部を為す「krai」という部分は、もともと。スラブ語で「切る」とか「分ける」という意味であり、現在のロシア語、ウクライナ語でも「krai」という名詞は「端」、「地方」、「国」を意味している
12世紀~13世紀に書かれた「キエフ年代記」には「1187年、ベレヤスカル公国のヴォロディミール公が死んだとき、「ウクライナは彼の為に悲しみ嘆いた」と書いている。また、「ハーリチ・ヴォルイニ年代記」には「1213年、公になる前のダニーロがブレスト、ウフレヴスクなど全てのウクライナを再統一した」と書いている

16世紀になりコサックの台頭と共に、ウクライナはドニエプル川両岸に広がるコサック地帯を指す様になった。1622年、コサックの指導者・サハイダチニーは、ポーランド王宛の手紙で「ウクライナ、我らの正統で永遠の故国」、「ウクライナの諸都市」、「ウクライナの民」などの表現を使っている。また、コサックはウクライナは「祖国」という意味を込めた政治的、誌的な言葉として、コサック指導者の宣言や文書に繰り返し出てくる
19世紀に入って、ロシア帝国がウクライナの大部分を支配下に置いた時、ウクライナの地を公式に表す時に小ロシアという語を用いた

ウクライナが独立国家の正式名称として使ったのは1917年、ウクライナ民族主義者によりウクライナ人民共和国1917年11月22日~1920年11月10日の樹立宣言がなされた時である

8.コサックの歴史
<コサックの生い立ち>
13世紀半ば頃より南のステップ地帯は荒れ果て人口が減少していった。ステップ地帯を支配していたキプチャク汗国も14世紀末頃から衰退していき、16世紀末から17世紀初頭にはクリミア汗国など幾つかの汗国に分裂していった。また、これらの汗国に服属しない「ノガイ・タタール」などの遊牧民がステップ地帯のルーシ人の町や村を襲って奴隷狩りを行う様になり、この地帯の人口は減少していった。因みに1450年~1586年に86回のタタール人の襲撃あったとの記録が残っている

ところが、このステップ地帯は危険ではあるものの極めて豊かで魅力のある土地であった。15世紀には、ポーランド領内の貧しい下級地主や町民が短期間ドニエプル川やその支流に夏の短期間やって来るようになった。そのうち夏の全期間滞在し、魚、獣皮、馬、蜂蜜などを持ち帰るようになった。しかし、帰る途中に役人から搾取されることから、これを嫌って勇敢な者たちは移住するようになった
危険を顧みず自由と豊かさの為に移住した者たちは、タタールの奴隷狩りに備えて武装した自治集団を作るようになった。16世紀初めには逆にタタールを襲って家畜を盗み、トルコ人やアルメニア人の隊商を襲う様になった。また、クリミア汗国やドナウ河口地帯のオスマントルコ帝国内の町や村を襲ったが、タタールの襲撃と異なる点は、奴隷にされていた正教徒のルーシを解放する事も行っていた。こうした者たちは「コサック」と呼ばれるようになった。このコサックという言葉は、トルコ語では分捕り品で暮らす人」あるいは「自由の民」を意味していた

コサックのタタールに負けない冒険的な生活は多くの人を惹きつけ、ポーランドの領主の搾取に苦しむ者たちが逃亡してコサックに加わった。また、冒険心から貴族・町人やスラブ系以外のモルダヴィア人、トルコ人、タタール人、なども加わった

サポロージヤ・コサック

ドニエプル川の中・下流域には「コサックの町」が幾つもでき、16世紀末までには王に任命された貴族の「ヘトマン」によって率いられた。後に「ヘトマン」はコサック全体の首領としてコサック自身から選ばれるようになった

コサックの町では満足できず、より大きな自由を求めてドニエプル川下流に住んだ者たちは「シーチ」と呼ばれる要塞化した拠点を作った。1530年頃、タタールやポーランドの役人に対しても安全なドニエプル川下流の川中島に主要なシーチが作られた。「早瀬の向こう」という意味の「ザ・ポリージャ」が地名となり、その拠点は「ザポリージャ・シーチ」、そこのコサックは「ザポリージャ・コサック」と呼ばれるようになった。またロシア辺境の「ドン・コサック」などと区別するために、「ザポリージャ・コサック」はウクライナのコサックの一般名詞となった

<政治的勢力への成長>
コサックの数が増え、その軍事力が高まるにつれ大規模な遠征を行う様になり、船団を組んでコンスタンチノープルや小アジアの海岸も襲う様になった。また、ポーランドの為にモスクワ公国とも戦って勇名を馳せ、17世紀初頭にはドニエプル川の中・下流域に確固たる勢力を築き上げた。この結果、コサックはキリスト教世界とイスラム教世界との境界に位置する政治・軍事勢力として他の諸国から一目置かれるようになった

ポーランド王は、戦争をするのに必要な戦費について議会の承認が得られないことから、貴族に依存しないですむコサックに目を付け、モスクワ公国やオスマントルコ帝国との戦争においてコサック軍に頼ることとなった
コサックは独立不羈の精神が強く命令に従わないことも多く、またポーランドの正規軍人に比べて待遇が悪い上に自治を尊重しないことに不満を持っており、反乱を起こすリスクもあった。そこでポーランド王はコサックの「登録制度」を設け、登録したコサックには軍務に対して給料を支払うと共に、裁判権、土地所有、指導者の選任権などの自治を認めた。これにより、ポーランド王は安い軍事力を確保すると同時にある程度コサックを統制下に置くことが出来るようになった。コサックにとっても登録制度自体は歓迎すべきものであったが、登録数が限られていた為に登録数の増加がコサック側の強い要求となった。一方、登録されたコサックが地主化、保守化し、未登録の貧しいいコサックとの間で利害が衝突することになった

<組織と戦闘方法>
大部分のコサックは、平時にはドニエプル川周辺の町や村に家族と一緒に住み農業を営んでいた。春と夏は数千人がシーチに向かい、そこを拠点として戦争・略奪の為の遠征や漁労、狩猟に従事した
コサック軍団の中心となったザポリージャ・シーチには男のみが入ることを許され、中央には広場があり、教会、学校、武器弾薬庫、幹部の家、などがあった。シーチの人口は通常5千人~6千人で、最盛期には1万人にもなった。シーチの外にはバザールがあり、ユダヤ人などの非コサックの店が並んでいた。冬には数百人を残して大部分が町や村に帰った

ザポリージャ・シーチの政治は平等の原則に則り、ヘトマンスタルシーナ(長老グループ)、ラーダによって行われていた;
軍事行動や外国との同盟などは「ラーダ」と言われる全体会議で決められていた。因みに、ラーダは現在のウクライナの議会の名でもある
コサックの首領であるヘトマンは、初期の頃はポーランド王によって任命されていたが、後にはラーダ出席の全員によって選ばれた。ヘトマンは軍事面では独裁的な権限を行使した。同僚を死刑にする権限もあったが、一方、戦争に敗れたあと指揮に誤りがあったとされた場合にはヘトマンが死刑にされることもあった

コサック軍の軍事単位は、10人の小隊、10小隊からなる中隊、5中隊からなる連隊より構成されていた。1590年年時点でコサック軍全体の規模は2万人といわれている
コサック軍の戦う目的は、正教の擁護、ウクライナ人の保護、コサックの自由と自治の擁護とされている
戦争の前に志願兵を募る時、使者は「キリスト教の為に串刺しにされたい者、十字架の為に引き裂かれたい人、極刑の苦しみに直面したい者、死を恐れない者は我々と共に来るべし」と呼びかけたいたとのこと

コサックは海上の軍事行動でも優れていた。軍船は海上軍事行動の前に60人掛かりで2週間のうちに80隻から100隻製造する。軍船はチャイカ(カモメという意味)といい、長さ約18m、幅3.0~3.6m、深さ約3.6m、片側10~15の櫂を付けて漕ぐ竜骨の無い50人~70人乗りの木造船で、逃げ足を早くするための舵は前についていた。乗船する兵は各人2丁の銃と剣一振りを持ち、4~5門の大砲も積んでいた。また、食糧、弾薬、四分儀(象限儀とも。天体の高度を観測するのに用いられた天文観測機器)なども積んでいた

コサックのチャイカ船(左)がオスマン帝国のガレー船(右)を襲う(17世紀)

<先駆者サハイダチニー>
最初の偉大なヘトマンと言われているサハイダチニー(在任期間:1614年~1622年)は、同じ族の出身で当時としては高い教育を受けたもののコサック軍に入った。彼は冒険を求め、命知らずで、最初に攻撃し最後に退く人と言われた。また、寡黙で自制心に富み、用心深く、野営中も警戒を怠らず、短時間しか眠らなかった
彼は、コサック軍の軍規、階級、秩序を作り、コサック軍をゲリラ的な軍から正規軍に作り変えた
彼は、ポーランドの為にモスクワ公国やオスマン・トルコ、タタールとの戦いに参加し、コサックの地位向上を図った。特に1621年、ウクライナ南部のホーティンで3万5千のポーランド軍と共に4万のコサック軍を動員して10万のトルコ軍を食い止めることに決定的な役割を果たした。ローマ法王は、このホーティンの戦士たちを「世界の守護者で、最悪の敵に対する勝利者」と褒め讃えた


ウクライナのホーティン城_コサック軍とトルコ軍の戦いを目撃した強力な中世の要塞

彼は、ウクライナの文化、教育、正教の振興に尽くした。モンゴルやリトアニアの支配下で荒れ果てたキエフをウクライナの文化、教育の中心地に復帰させた。彼が庇護した正教の非聖職者の団体である「エピファニー同胞団」は彼の死後10年後(1632年)に「キエフ・モヒラ・アカデミー」に発展した(彼の墓がある)。この学校は、当時優勢であったイエズス会(カトリック)の学校をモデルとして正教の教育機関とし、ラテン語・ギリシャ語の教育に力を入れ、スラブ社会における最も重要な教育機関として多くの優れた聖職者、学者を輩出した。同アカデミーは、1817年以来閉鎖されていたが、1991年のウクライナ独立後「キエフ・モヒラ・アカデミー大学」として復活した

1622年のサハイダチニーの死後、1630年代には何人かのヘトマンがポーランドに対して反乱を試みたが鎮圧され、コサックの自治は制限されると共に登録コサックの数も大幅に削減された。その後ポーランド大貴族の圧政が強まりコサックやウクライナ農民の不満が鬱積していった。この反乱の時代のコサックをロマンティックに描いたのがニコライ・ゴーゴリ(1809年~1852年;コサック小地主の末裔)の名作「隊長ブーリバ」である

<ヘトマンが作ったコサックの国家>
ウクライナ史最高の英雄はボフダン・フメリニッキー1595年~1657年)とされています彼は、ドニエプル中流域の町チヒリン近郊にある父の領地で生まれた。彼の父は「登録コサック」で小領主であった。フメリニッキーはウクライナで初等教育を受けた後、西部のイエズス会(カトリックの修道会)の学校で中等、高等教育をうけた。故郷に戻ったあと、1620年父とモルダヴィアでの戦いに参加し、父は戦死し、彼は捕虜になってコンスタンチノープルに2年間囚われの身になったが、この間にトルコ語を学び、トルコ、タタールの事情に精通するようになった。1622年帰国後、登録コサックとなり、チヒリンのコサックの隊長を勤めた。その後、領地経営に専念するようになったが、その間にもコサックの交渉団の一員としてワルシャワに赴き、ポーランド王からその指導力に高い評価を得た

1674年、ポーランド貴族でチヒリンの副代官がフメリニッキーの土地の所有権を主張して襲撃した上、フメリニッキーの末子を殺害し、彼が再婚しようとした女性を拉致した。フメリニッキーはその地方の法廷、ポーランドの議会、ポーランド王に訴えたが彼の主張は受け入れられず、逆にチヒリンの代官に逮捕されてしまった。その年の12月、牢から脱出したフメリニッキーはポーランドに対する反乱を決意した
ザポリージャ・シーチに逃れたフメリニッキーは、短期間でコサック達を動かし1648年ヘトマンに選出された。彼は普段は控えめで気取らなかったが、感情が高揚した時に行う演説は人を陶酔させたという

当時ポーランド貴族のウクライナは、ドニエプル川流域まで進み、自由民として新開地に移住したはずの農民が農奴化されていくことに反抗心を募らせていた。コサックの権利も1638年の大敗北以降不満を鬱積させていたため、フメリニッキーの反乱の呼びかけに多くの人が呼応し彼の幕下にはせ参じた
フメリニッキーは、ポーランドと戦うにはコサックの戦力だけでは無理だと考え、当時ポーランドとの関係が悪化していたクリミア・タタールとの同盟を結んだ。1648年5月、コサック・タタール連合軍9千は、ポーランド軍6千を破った。その年の夏には、フメリニッキーの軍は8万~10万に膨れ上がり、9月には再びポーランド軍8万を破って西部に進軍しワルシャワ近くまで進出した。コサック軍はポーランドを粉砕する寸前までいった
しかし、新しく即位したポーランド王ヤン・カジミエン(在位1648年~1668年)は、以下の条件での和平提案;
①コサックの伝統的権利を認める
②コサックはポーランド王のみに従い土地の貴族には従わなくてもいい
を呼びかけると、フメリニッキー軍はこれに応じてキエフに凱旋した。この勝利に対してキエフ主教や偶々キエフに滞在中のエルサレム総主教から「彼はポーランドへの隷属からルーシを解放した」と讃えられた

1649年夏、フメリニッキーは再びポーランド軍をズボリフで包囲して屈服させ「ズボレフ休戦協定
登録コサックを4万人に増やすこと
②ウクライナ(当時はキエフ州、チェルニヒフ州、ブラツラウ州)はコサック領とすること
③ウクライナからポーランド軍、ユダヤ人、イエズス会を排除すること
正教府主教はポーランド議会に議席を持つこと
を結んだ。これにより、実質的にコサックの国である「ヘトマン国家(1649年~1667年)」が誕生した
ヘトマン国家の面積:25万㎢(因みに日本の面積は37万㎢)、人口:150万人。行政組織は軍事組織が発展したもので、首領であるヘトマンは参謀部の補佐を得て統治を行った。領域は16の連帯区に分け、連隊長が軍事と民生を統括した。連隊長の下には中隊長がいて中隊区の軍事・行政を行った
ヘトマン国家の首府はフメリニッキーの司令部のチヒリンであり、サポリージャ・シーチはコサックの中心としての地位を失った。ヘトマンは、理論上これを選出した全体会議(ヘネラルダ・ラーダ)に従う事になっているものの、コサック数増加とともにラーダは開かれなくなり、ヘトマン、参謀部幕僚、連隊長などで構成する長老会議(ラーダ・スタルシーナ)を重視する様になった。長老は当初は選挙で選ばれたが、次第に世襲化し、貴族化していった
農民は、コサック連隊に登録すれば、自費で軍務につく義務はあるが税は免除され、土地所有も可能で役職者の選挙にも参加できた。軍務が果たせなくなると農民に戻った。ヘトマン国家の下で自由民に戻った農民は、農奴に戻されない様にコサックになろうとしたため、17世紀半ばには人口の半分はコサックであったと推定されている

1651年、ポーランドとの戦いが再開した。ベレステチコの戦いでは、タタール軍が突然戦場を離れ(ポーランドに買収されていたと言われている)、引き留め用としたフメリニッキーはタタール軍に拘束されてしまいコサック軍は総崩れになってしまった。ビラ・ツェルクヴァで結ばれた休戦協定では以下の譲歩;
①登録コサックの数を2万人に減らすこと
②ヘトマンの統治範囲はキエフ州のみとすること
を強いられた

1652年、フメリニッキーは反撃を試み、パティフでポーランド軍に大勝したが、交渉面では大きな前進は無かった。その後小競り合いが続くことになった
その後、フメリニッキーは周辺の国と同盟を組もうとしたが概ねうまくいかなかった中で、唯一重要性を持ったのはモスクワ・ツァーリ国イワン4世が1547年以降ツァーリを名乗っていたとの保護協定であった。モスクワに庇護を求め得るということは、同じ正教徒の国であることから一般にコサックには好評だった
当初、モスクワ・ツァーリ国は強国のポーランドに敵対するのは避けたいと考えてこの同盟の申し出に慎重であったが、フメリニッキーがポーランドに大勝したことでフメリニッキーの申し出に同意した(この背景には、以前リトアニア・ポーランドに奪われた領土を回復し、ウクライナをトルコとの緩衝国にしようと思惑があったと言われている)。この協定は「ベレヤスカル協定」といいその内容は;
①コサックとウクラナ人はツァーリに忠誠を誓う事
②ツァーリはウクライナに軍事援助を行うこと
③コサックは自らヘトマンを選ぶが事後モスクワに通報すること
④ヘトマンとサポリージャ・コサックは外国使節を受け入れることが出来るが、紛争になりそうな件はツァーリに報告すること
⑤登録コサックの数は6万人とすること
⑥ウクライナ貴族は伝統的な権利を認められること

⑦ウクライナの正教徒はモスクワ総主教の祝福の下にあるが干渉は受けないこと
参考:ロシアは、この協定が両民族は予てから統合を望んでいた証拠としているのに対し、ウクライナは、フメリニッキーが短期的な軍地同盟・保護の約束の一つであり、フメリニッキーもコサックもウクライナの運命を永久に託したものでは無いと考えていた。その証拠に、フメリニッキーはモスクワの高圧的なやり方に幻滅し、スウェーデンと組んでモスクワから離れようとしていた(志半ばでフメリニッキー死んだ)

ウクライナがモスクワ側に付いたことを知ったポーランドはタタールと同盟を組み、1654年モスクワ・ウクライナ連合軍とベラルーシで戦った。しかし、1656年フメリニッキーも知らない内にモスクワとポーランドが和平協定を結んでしまった(ウクライナがスウェーデンと手を結ぼうとしていることを察知した為と言われている)
フメリニッキーはモスクワに「ベレヤスカル協定」違反だと非難する書簡を送っている。その後、フメリニッキーはスウェーデン及びトランスシルバニアと組んでポーランドを攻めるが、そのさなかにフメリニッキーは病気で亡くなり失敗する
ウクライナ史上初のウクライナ国家である「ヘトマン国家」を作ったのはフメリニッキー、後世のウクライナ国家のシンボルとなったのも彼であった。現在、ウクライナの紙幣に彼の肖像画使われている

ウクライナの5フリヴニャの紙幣_フメリニッキーの肖像

フメリニッキーの死(1657年)の後約20年間は、モスクワ、ポーランド、トルコ、タタールが関わる戦争があり、ヘトマン国家内でもヘトマン間の対立(ドニエプル川の「右岸一帯」対「左岸一帯」との対立)抗争及びコサックの反乱が頻発し荒廃した

1667年ポーランド王国とモスクワ・ツァーリ国とが結んだ「アンドルソヴォ条約で、ドニエプル川の「右岸一帯」はポーランド王国「左岸一帯」はモスクワ・ツァーリ国の主権をお互い認め合った。この結果、ウクライナの分割は恒久的に確定し、ザポリージャは両国の宗主権(内政・外交などを支配・管理する権利)下あるとされた。また、フメリニッキーがモスクワ・ツァーリ国との間で結んだ「ベレヤスカル協定」は意味のない協定となった
参考/右岸、左岸とは:川下に向かって右側が右岸、左側が左岸
その後の推移;
①1686年、ポーランドはモスクワ・ツァーリ国によるザポリージャの単独宗主権を認めた
②1700年。ポーランドの議会は、ドニエプル川の「右岸一帯」のコサック制度を廃止した
③モスクワ・ツァーリ国の宗主権下にドニエプル川「左岸一帯」では、コサックの自治が維持され、「ヘトマン国家」は1764年まで長く維持された。ただ、ヘトマン国家の領域は約3分の1に減少し、連帯区は10となり、首府はチェルニヒフ州バトゥ―リンになった
また、これを機に右岸から左岸へ大量の移民が行われた為、ウクライナの中心はドニエプル川右岸から左岸に移った。またザポリージャはコサック活動の軍事的。政治的中心ではなくなった
④左岸の「ヘトマン国家」は、その後スタルシーナ(長老)が次第に貴族化し、一般のコサックは農奴化の危機に見舞われる様になった。両者の階級的対立をが先鋭化するのに乗じ、ロシアは一般コサック側に肩入れし、ロシアが介入しなければヘトマン国家が動かない状況を作りだしていった。モスクワに歯向かったヘトマンはシベリア送りになった

ウクライナの10フリヴニャの紙幣_イヴァン・マゼッパ

<イヴァン・マゼッパ>
マゼッパはキエフに近いドニエプル川右岸小領主の家に生まれた(17世紀前半)。キエフ・モヒラ・アカデミーで学んだ後ワルシャワに留学しポーランド王・ヤン・カジミアンの寵愛を得て、この王の臣下になりコサックに対する外交使節も務めたその後、ポーランド宮廷を辞し生地に帰り1669年ドニエプル川右岸(ポーランドが宗主国)のヘトマンの筆頭副官となった。1679年にクリミア汗国に使節として赴く途中ザポロージェ・コサックに捕らえられモスクワに送られたが、そこでもモスクワ政府に気に入られドニエプル川左岸(モスクワ・ツァーリ国が宗主国)のヘトマンに派遣され、ここでもヘトマンの筆頭副官となった。1687年このヘトマンがモスクワの不興を買ってシベリアに送られると、そのあとを継いで左岸ウクライナのヘトマンに就任した

1689年ピョートル1世(在位1682年~1725年)が姉の摂政に替わって実権を握ると、マゼッパはピョートル1世の信頼を勝ち取った。ヘトマンのマゼッパは、黒海へのアクセスを得ようとするピョートル1世に協力し数年に亘って兵を出した。その結果、マゼッタはヨーロッパでも有数の大土地所有者となった。1705年、ピョートル1世の命によりドニエプル川右岸のウクライナに攻め込み、一時はドニエプル川左右両岸を支配して、一時フメリニッキーの時代を再現した

マゼッパは平和裏にウクライナの自治を拡大したいと思っていたが、ピョートル1世は中央集権国家を目指していた。ピョートル1世は南方(黒海方面)への進出一定の成果を収めると、次の目標はバルト地方への進出であった。一方、スウェーデンのカール1世(在位1697年~1718年))もポーランドやバルトへの進出を企てており両国及びそれら同盟国はバルト地方やポーランドで激突することになった(大北方戦争
因みに、コサック軍は故郷から遠く離れた戦地に動員され兵の死傷率は50%~70%となり、コサックを消耗品の如く扱うピョートル1世に対しマゼッパは疑念を抱くようになった

大北方戦争(1700年~1721年)の推移;

1700年、ナルバ(現エストニア東部の都市)の戦いではスウェーデンは数倍も優勢なモスクワ軍に大勝した。その後、マゼッパはピョートル1世のみには頼れないと考え、スウェーデンとも接触を持つようになった
1708年、スウェーデン軍はリトアニアに攻め入り、その後モスクワ領に入ったものの糧食を絶たれた為ウクライナに侵入したマゼッパはウクライナを独立させる絶好の機会と考え、スウェーデンと同盟を結んだ。ピョートル1世は信頼していたマゼッパに裏切られたことから、直ちにドニエプル川左岸ウクライナの首府・チェルニヒフ州バトゥ―リンを襲って全住民6千人を虐殺し、親モスクワ派を集めて別のヘトマンを選出させた。多くのコサックはモスクワ側に付いたが、サポリージャ・シーチはマゼッパ側についたが、サポリージャ・シーチは破壊された
1709年、ウクライナ中部のポルタヴァで歴史的な大会戦(ポルタヴァの戦い)が行われ

ポルタヴァの戦い

カール1世率いるスウェーデン軍とマゼッパ軍の連合軍2万8千に対しピョートル1世率いるモスクワ軍(モスクワ側についてコサックを含む)5万が激突した。結果はモスクワ軍の圧勝であった
カール1世とマゼッパはオスマン・トルコ領内に逃亡した。マゼッパは亡命先で死亡し、4千のコサック軍はオルリークをヘトマンに選出した。オルリークはスウェーデンの援助の下でトルコ・タタールと同盟を結びウクライナ解放に望みを繋いだが、1713年この勢力は消滅した
⑤残されたヘトマン国家の自治は一層制限され、ロシアはこの戦いの後ヨーロッパの強国となり、モスクワ国は「ルーシ」をラテン語化した「ロシア」と名乗るようになった

<ヘトマン国家終焉・ロシアへの併合の過程>
①ピョートル1世は、ポルタヴァの戦い以降ツァーリの代理としてロシア人に送り、その代理の同意無くしてヘトマンは何もできないようにした。また、ヘトマン国家の首府をロシア国境に近い「フルヒフ」に変えさせられ、ここにロシア軍2連隊を常駐させた。また、ロシア人がコサックの連隊長や他の役職に入り込んできた。また、コサックは遠隔地のサンクト・ペテルブルクやラドガ運河の掘削、カフカス地方の要塞の建設などの土木工事に駆り出され、多くが病気で死んだ
②アンナ女帝(1730年~1740年)の時代、後任のヘトマンの選出を禁止した。また、1736年~1739年のトルコとの戦争で数万のコサックが動員され、3万5千人が戦死した
③エリザベータ女帝(在位1741年~1762年)が即位すると、左岸コサック出身の歌手・オレクシー・ロズモフスキーが女帝に見初められ、後に秘密裏に結婚した。オレクシー自身は国政に関与しなかったが。ウクライナに対する愛国心を持ち続けていたオレクシーの弟・キリコ・ロズモフスキーは1750年に22歳の若さでヘトマンに就任した。キリコ自身は大半サンクト・ペテルブルクでの宮廷に留まり、ウクライナへの関心は薄かったものの、ロシア政府のウクライナに対する干渉が減り、ヘトマンの権威も高まった
④エカテリーナ2世(在位1762年~1796年)はピョートル1世の遺志を継ぎ、「中央集権」、「帝国拡張主義者」であった。女帝はキリコにヘトマンの退任を迫り、1764年ヘトマンを退任した ⇒ キリコは最後のヘトマンとなった。ヘトマンに代わる組織として「小ロシア参議会」が作られた

⑤1765年エカテリーナ2世はスロボタ・ウクライナ(ウウライナ最東部のハルキフやスーミ地方に移住して作り出したコサック自治組織でヘトマン国家とは別の組織でモスクワの強い統制下にあった)を廃止した
⑥1774年ロシアとトルコは「クチュク・カイナルジ条約」を結びトルコ領の黒海沿岸地域を獲得し、クリミア汗国の独立を認めさせた。これによりクリミア汗国との戦争の為に必要とされていたザポリージャ・コサックの利用価値が無くなったので、1775年ザポリージャ・コサックの廃止を宣言すると共にコサック精神の象徴であったザポリージャ・シーチを破壊した
その後、ザポリージャ・コサックは、町や村に引き籠る者、ロシア軍の機銃兵の連隊に入る者、ドナウ河口でオスマン・トルコの軍務につく者、アゾフ海東岸のクバン地方に移住する者(⇒クバン地方のコサックの祖先となった)に分かれていった
⑧1780年、ドニエプル川左岸のヘトマンに替わるコサック組織として作った「小ロシア参議会」を廃止し、ロシア本土並みのキエフ、チェルニヒフ、ノブホロド・シベルスキーの3県に知事を置いた。更に、1783年コサック連隊制度も廃止した
フメルニツキー以来約130年、左岸ウクライナにされたとは言え、更に80年の命脈を保ったヘトマン国家もここに消滅したことになる
⑨1783年、「クチュク・カイナルジ条約」で孤立無援になったクリミア汗国は、エカテリーナ2世の寵臣であったポチョムキンの攻撃により滅亡した
トルコ領にあったドナウ河口のシーチにいたコサックは、1828年の露土戦争でキリスト教徒であるロシアと戦うことを拒みロシアに投降した。その後、彼らもアズフ海東岸のクバン地方に移住した。一方、この裏切りに怒ったトルコはドナウ河口のシーチを破壊し、残っていたコサックの多くは殺され、一部のコサックはトルコ領内に強制移住させられた

ポーランド領のドニエプル川右岸のコサックは既に消滅していたが、貴族の荘園を襲う「ハイダマキ(盗人あるいは放浪者という意味)」が跋扈していた。ポーランド貴族の圧政に苦しんでいた農民は、この「ハイダマキ」を支持していた。1734年、1750年、1768年に大規模な反乱が起きたが、攻撃を受けるとザポリージャに逃げ込んで難を逃れていたが、最後の反乱の時にこの反乱が左岸に及ばない様にエカテリーナ2世により完全に鎮圧された

この時期、ロシアプロイセン中央集権、絶対王政の下で強国にのし上がってきたが、ポーランドは貴族の力が強く国家としては弱体化してきており、次第に外国の干渉を受けるようになった。特にロシアは、かつてのキエフ・ルーシ公国の領域は当然ロシアに帰属すべきものと考えていた
1772年、1793年、1795年の三次に亘る分割を経て、ポーランド領はロシア、プロイセン。オーストリアの三国に分割された。ここで、14世紀に始まったポーランド支配は4世紀を経て一旦終了することになった1775年エカテリーナ2世は、数次にわたる露土戦争でロシアに編入された広大な黒海沿岸地域一帯を新しく「ノヴォロシア(新ロシア)県」としてここの総督にポチョムキンを充てた。彼が大胆な植民政策を取った結果、1778年~1887年の10年間にノヴォロシア県の収穫は5倍に伸び、1796年には人口は50万人を越えた。また黒海周辺にはオデッサミコライウヘルソンなどの大都市が出来、穀物の輸出港として発展した

9.ロシア、オーストリア両帝国によるウクライナ支配
18世紀末のポーランド分割から第一次次大戦までの約120年間、ウクライナの地は約8割がロシア帝国に残り、約2割がオーストリア帝国に支配された。19世紀末からロシア帝国で資本主義が勃興すると、ウクライナの南東部では急速な工業化が進み帝国内の最大の工業地帯に変貌した。オーストリア帝国は西欧に近いだけ専制の程度はロシア側より弱かった。この為ウクライナ・ナショナリズムの拠点になっていった。また、ウクライナの左岸地域の都市の住民は大部分はロシア人とユダヤ人であった。一方、右岸の都市ではロシア人とユダヤ人に加えポーランド人も加わった。都市に住む住人はロシア語を話す様になったが、農村では圧倒的多数のウクライナ人が頑固にウクライナ語を使い固有の文化を守っていた

ロシア支配のウクライナは9ヶの県に分かれ、それぞれモスクワから知事が派遣されたオデッサのみは中央の直轄地となっていた。左岸地域ではコサック・スタルシーナ(コサックの長老)が、右岸地域ではポーランド人及びポーランド化したウクライナ人の多くが貴族の地位を認められ、免税特権や農奴を持つ権利が与えられていた。19世紀初めには左岸地域で2万4千人の貴族が認定され、その多くがコサック・スタルシーナであった。彼らはロシア帝国のシステムに同化し地方の官僚層を形成した

オーストリア支配のウクライナは3つの地方に分けられている第一は、1772年のポーランド分割で獲得した旧ポーランド領の「東ハーリチナ地方主な都史はリヴィア);ウクライナ人」、第二は、1774年オスマン・トルコ帝国から獲得した「ヴコヴィナ地方(主な都市はチェルニフツィルーマニア人とウクライナ人が混在している)」、第三はカルパチア山脈の南麓の「ザカルパチア地方主な都市ウジホロド;ウクライナ人が主要民族)」である。
この三つの地方の宗教は殆ど「ユニエイト」であった。ウクライナ人が多い東ハーリチナ地方と行政単位(ハーリチナ州)が同じ「西ハーリチナ地方はポーランド人が多い為、同一州内で両民族の確執があった。また、「東ハーリチナ地方」は殆どポーランド貴族のもとで住民の4分の3は農奴であった。またハーリチナ州は、オーストリア帝国の中では辺境に属し最も貧しいい地域であった

<ロシア帝国に於ける民主化、ウクライナ・ナショナリズムの動き>
①デカブリストの乱(体制変革の先駆け);
1812年のナポレオン戦争に従軍し西欧での見聞を広めた若い貴族たちは、ロシア帝国の政治の後進性に愕然とし、1925年の「デカブリス(12月党)の乱」を起こした。蜂起した場所はサンクト・ペテルブルク(北方結社)ウクライナ(南方結社)であった。南方結社はチェルニヒフ連隊千人の兵士が蜂起したものの、反乱自体はあっけなく鎮圧されたが、ロシアの体制変革の先駆けとしてロシア史上重要な位置をしめている

1846年、シェフチェンコは作家・歴史家のクリン・マーロフ(1817年~1885年;「フメリニッキー伝」、「聖書のウクライナ語版」などを発刊)などの仲間10人程度を集めて「キリロ・メトディー同胞団」を結成し、農奴制の廃止全スラブ民族の連帯などを訴えていたが、反政府活動をしていた訳ではないものの、1847年同胞団全員が逮捕・投獄され、首謀者として逮捕・拘禁されたシェフチェンコはニコライ1世死去後の1857年恩赦を得たが、ほどなく死去した。しかし、死後彼はウクライナ民族運動と独立運動の象徴的存在となった

③クリミア戦争(1853年~1856年)後のロシアの改革;
東欧や地中海に進出しようとしたロシアを英・仏がトルコを助ける形で食い止めようとした大規模な帝国主義戦争であった。ロシアはクリミアのセヴァストーポリ軍港に黒海艦隊を置き、黒海、地中海進出の基地とした。英・仏・トルコ連合軍は、黒海艦隊を壊滅させる為にセヴァストーポリ軍港を守る要塞を攻めた。両軍合わせて20万人以上の兵が投入され、12ヶ月にわたる凄惨な攻防戦を行ったが最終的にロシアの敗北に終わった
この敗北の原因はロシア経済の後進性と農奴制にあり、ロシア指導層に深刻な打撃を与える結果となり、これを改革しなければ革命が起こるとの認識が広まった。そこで、レクサンドル2世(在位1855年~1881年)は、1861年農奴制を廃止すると共に、地方行政、教育、司法などの改革が行われた。当時ロシア全体では農民の約半分が農奴であった。しかしこの改革の結果、一部の豊かな農民と多くの貧しい農民を生み出す事となった

キリロ・メトディー同胞団」のメンバーだった知識人は、「フロマダ(社会)」という組織を作り活動を再開した。1861年、雑誌「オスノーヴァ(基礎)」を発刊した。コストマーロフは、この雑誌に「二つのロシアのナショナリティー」という論文を書いて、ロシアとウクライナは別の民族だと主張した。しかしロシア政府は再びナショナリズムに警戒を強め、1863年ヴァルエフ内相(1814年~1890年)は、「フロマダの解散、「オスノーヴァの廃刊ウクライナ語による教科書・宗教書の出版の禁止を行った

1876年の「エムス命令」により、「ウクライナ語の書物輸入の全面禁止」、「講演でのウクライナ語使用の禁止(歌もフランス語かロシア語に翻訳すること)」、「ウクライナ語新聞の発行禁止」、「ウクライナ語書物の学校図書館からの追放」、「ウクライナ関係団体の解散」、「ウクライナ運動活動家の追放」、などのかなり徹底したウクライナ民族弾圧を行った

「フロマダ」の主要メンバーだった思想家」ドラマホマーノフ(1841年~1895年)は「エムス命令」により追放され、ジュネーヴから雑誌フロマダを発行し、ロマンティックな愛国心ではなく「真のウクライナ愛国者は民主主義者であるべき」と説くと共に、ロシア、オーストリアのウクライナ人に愛国心の高揚を呼び掛けた

19世紀末~20世紀初頭にかけ、穏健派から過激派まで各種結社や政党が現れるようになった。最初のマルクス主義組織は、1893年に結成された「社会民主主義者のロシア・グループ」であった。1900年には、ロシア帝国内の最初の政党である革命ウクライナ党(RUP)」が地下政党として結成された。この政党はハルキウの学生を中心として、社会民主主義者とマルクス主義者からなっていた。一方、レーニンに影響されたグループは「ウクライナ社会民主連合(Spilka)」を作ったが、これは「ロシア社会民主労働党(後のロシア共産党のボルシェビキメンシャビキに繋がる)」のウクライナ版であった。また、マルクス主義者が抜けた「革命ウクライナ党」は「ウクライナ社会主義労働党(USDRP)」に引き継がれた

日露戦争敗戦後のウクライナの新たな民族運動
1905年1月、ウクライナ出身の聖職者・ガボン(1870年~1906年)に率いられて平和的に請願をしていた一団に警察が発砲し、多数が死傷した(血の日曜日事件)。この事件が契機となって各地にストライキが頻発した。軍においても反乱が起きたが、最も有名なものがオデッサ港で起きた「戦艦ポチョムキンの反乱である;
参考:セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の名作映画「戦艦ポチョムキン
この映画のあらすじ:1906年、ハルキウ生まれのウクライナ人・マティウシェンコに指導された水兵たち(大部分がウクライナ人)は、スト参加者への発砲命令を拒否して艦を乗っ取りルーマニアに逃走した。この事件はロシア海軍史上初めて艦船に赤旗が翻ったことから、ソ連時代にはロシア革命の先駆けとして称揚された
ニコライ2世の家族写真

この混乱状況に危機感を抱いたニコライ二世(在位在位1894年~1917年;1917年7月一家全員が射殺された)は、国民に全面的な市民権を付与すると共に議会(ドゥーマ)の開催を約束し、ウクライナに関してはエムス指令」による「ウクライナ語の使用制限」、「結社の制限が撤廃された。この結果、ウクライナ語の新聞が多数発行され、各地に結社が出来た。しかし、議会は何度も議員の選出を繰り返すうちに次第に保守化し、この議会の支持を得て政府は再び反動化した結果、ウクライナにおいても多くの団体が解散させられウクライナ語の出版物も姿を消した。これに合わせてロシアの左派政党もウクライナの民族主義を「裏切り分離主義」、「マゼッパ主義」として非難し、ウクライナの自主性を認めようとしなかった

<オーストリア帝国に於ける民主化、ウクライナ・ナショナリズムの動き>
ハーリチナ州がオーストリア帝国の支配下に入った時期は、マリア・テレサ女帝(在位1740年~1780年)及びヨーゼフ2世(在位1780年~1790年)の治世化で啓蒙主義の時代に当り、ロシア帝国に比べれば恵まれていた
18世紀末には、「拷問の禁止を含む刑法改正」、「農奴の実質廃止(賦役の制限、結婚の自由、職業変更の自由)」、「リヴィウ大学の設立(ウクライナの最初の大学)」などの改革が行われた
ヨーゼフ2世の死後、改革気分は後退し農奴制もかなりの程度復活した
1848年のフランスの「二月革命(パリを中心とする民衆運動と、議会内の反対派の運動によって、ルイ・フィリップの王政が倒れ、共和政が成立した)」の影響を受けてオーストリア帝国では、長年の鬱積が爆発し、首都ウィーンの学生・市民は民主化を要求し、各民族は自治や独立を要求した帝国の瓦解を防止する為、それまで長く民族主義を抑圧してきたメッテルニヒ(1773年~1859年)は解任され、「検閲の廃止」、「立憲議会招集の約束」、「農奴制の完全廃止」、などの改革が打ち出されたフランスの2月革命

ハーリチナ州でも、1848年に最初のウクライナ人の政治組織最高ルテニア評議会が設立され(ルテニア人とはルーシ人をラテン語化した言葉でオーリア帝国内のウクライナ人は「ルテニア人」と呼ばれていた)、「ルテニア人はポーランド人やロシア人とは違う民族で、ハーリチ州に250万人住んでいる」との宣言を行った。またオーストリア帝国で最初のウクライナ語新聞を発行した
1870年代には民族主義的な多くの組織が結成された
1890年、作家イワン・フランコ(1856年~1916年)らによって「ウクライナ急進党が設立され、近代ウクライナ史上初めてウクライナの統一・独立を標榜した

<ウクライナ人のロシア帝国内、外国への移民>
ロシア帝国内の農民は、1783年以降移動の自由を奪われ、より自由なドン川河口地域や南のクバン地方に逃亡するウクライナ人も多かった。現在これらの地域の住民はウクライナ人が大部分だと言われている。ソ連の最後の大統領であるゴルバチョフ氏はドン川南部の生まれであるが、祖先を辿るとウクライナのコサックであったとされている
農奴制廃止に伴い、貧しくなると共に人口増加によって失業したチェルニヒフ県を中心とするウクライナの農民が、大挙してロシア帝国内の他の地域に移民した。1896年~1906年にかけて約160万人のウクライナ人が、ウラル山脈以東の中央アジア、シベリア、極東に移民した。1914年には、ロシア極東地方では、ロシア人の2倍となる200万人のウクライナ人が定住していた

オーストリア帝国内における1848年の農奴解放は、高額の税金、農業生産性向上に伴う人口増加により、必ずしも農民の生活はを楽にならなかった。そこで、農民が活路を見出そうとしたのが「新大陸への移民」であった。1880年代より移民が始まり、当初はアメリカ北東部の工業地帯に向かった。19世紀と20世紀の境目の頃には、カナダ、米国の農業地帯がウクライナと似ていることからこの地域への移民が急増した。1880年~1912年の間、ハーリチナ州から43万人ザカルパチア州から17万人が移民した。現在、米国には150万人、カナダでは100万人のウクライナ移民がいると言われており、彼らは第一次世界大戦時にウクライナ独立運動を支持したり、ウクライナの飢饉の時は世界に情報を発信したり、第二次大戦後の冷戦時にはソ連と戦うウクライナ人パルチザンの援助を行ったりしている

<穀倉地帯の変貌とオデッサの隆盛>
18世紀末以降、ドニエプル川流域及び南ウクライナのステップ地帯は、裕福な貴族、資産家などにより大規模に開墾され、専ら輸出を目的としたビジネスが花開いた。因みに、19世紀初めのステップ地帯で農地は80万ヘクタールだったのに対し、1860年代には600万ヘクタールに急拡大し、ロシア帝国最重要の穀物生産地になった。1909年~1913年の間、穀物の輸出額のうち、小麦については98%トウモロコシについては84%ライ麦については75%ウクライナから輸出された。小麦以外にも、換金作物として大きな経済的意味を持ったのがサトウダイコンの生産と砂糖精製工業だった。その他、タバコウオッカの生産もウクライナの主要生産物及びその加工品である

主に穀物の輸出の為オデッサミコライウヘルソン、などの港が18世紀末から建設され急速に発展した。最大の港がオデッサであった。ロシア帝国最初の鉄道は、オデッサとポディリア地方を結ぶ路線であった。1847年には、全ロシアの穀物輸出の半分以上がオデッサ港から積み出された。また、オデッサはロシア帝国にとって世界への南の窓になった

<産業革命による急速な工業化>
ウクライナにおける近代化、工業化の先駆けとなったのは鉄道建設であった。19世紀後半にはヨーロッパ全体に鉄道ブームが起こり、ロシア帝国もその例外ではなかった。鉄道の建設と運航には鉄と石炭が必須であり、帝国内ではドンバス地方で大炭田が発見され石炭発掘産業が急発展した。1880年には250以上の炭田が稼働し、帝国全体の43%の石炭を生産した。1880年代には製鉄業のブームが起こりクリヴィーリフの鉄鉱山で採掘される鉄鉱石を使用して、ドニエプル・ドンバス地方に大製鉄業地帯が出現した。鉄鉱石の生産については、1890年~1900年の間に158倍に増加した

ウクライナの重工業が急成長すると、工場労働者として多くのロシア人が工場地帯に流入した。ウクライナの農民については、都市の住民がロシア人、ポーランド人、ユダヤ人が多く言葉の問題で居心地が悪かった為それほどくは流入しなかった。この結果、ウクライナにおけるロシア人の人口は300万人まで急増しウクライナ全人口の12.4%となった都市におけるロシア人も急増し、19世紀末ドニエプル川流域では34%となり、特にミコライフハルキウキエフの各都市では人口の半分を超えていた。
③1860年には8万2千人だった工場労働者は1914年には630万人に増加した

10.第一次世界大戦とウクライナの独立
第一次世界大戦の期間、ウクライナは大国間の戦争に翻弄され、つかの間の独立を果たしたものの迷走を繰り返し、最終的にソ連に組み込まれていった
このウクライナの混迷を理解するには、以下の基礎の基礎的な知識が必要になります;
<第一次世界大戦 クイックレビュー>
1914年7月28日~1918年11月11日にかけて、連合国協商国(中央同盟国)との間で繰り広げられた世界大戦
ウクライナ独立に関わる同盟関係
連合国(主な国):ドイツ、オーストリア
協商国(主な国):フランス、イギリス、ロシア

2月革命1917年3月(ロシア暦暦2月)ロマノフ王朝が倒され第一次臨時政府西欧型の立憲民主政治を志向した。同年4月20日に外交では連合国から東部戦線維持の要求に臨時政府外務大臣となったミリュコーフは敗戦前提の停戦を求める庶民や兵士の世論を無視したミリュコーフ通牒と呼ばれる書簡を送り、ロシアは連合国側と単独講和しないこと・戦争継続の約束を行った。その後に社会革命党のケレンスキーを大臣会議議長(首相)とする第二次連立政権が成立する。カデット(「人民民主党」:立憲主義を目指していた)政府内の社会主義者(「メンシェビキ」:社会革命党)との溝は深まっていった。それでも第三次連立政権でも社会主義勢力は有産層との連携のために閣僚を出していた。第三次連立政権ではレーニン率いるボリシェビキは、少数の革命家が労働者や農民を率いる社会主義国家にする必要があると主張していた
10月革命:1917年11月7日(ロシア暦10月):ボリシェヴィキがクーデターで政権を奪取

<第一次大戦中組織されたウクライナの政治・軍事組織の纏め>
西ウクライナ(オーストリア領):1917年8月8月、ウクライナ人は「全ウクライナ評議会」を結成、オーストリアがロシアに勝てば独立が果たせるとオーストリア側の義勇軍呼びかけに応じてオーストリア正規軍に加わった ⇒ ウクライナ・シーチ射撃隊
東ウクライナ(ロシア領):1917年3月ウクライナ人による中央ラーダ(会議・評議会を意味する)結成、この議長にミハイロ・フルシェフスキーを選出した ⇒ 6月「自治宣言」を行う。軍事部門はペトリューラが担当 ⇒ ロシア10月革命 ⇒ 11月「ウクライナ国民共和国創設宣言」を行う ⇒ 英・仏は「ウクライナ国民共和国」を承認 ⇒ 12月ボリシェヴィキは「国民共和国」を承認するかわりにウクライナ内でボリシェヴィキ軍の自由行動を認めることを要求 ⇒ 「ウクライナ国民共和国」はこれを拒否ボリシェヴィキと敵対関係中央ラーダ軍結成ウクライナ・シーチ射撃隊、自由コサック民兵団、ロシアに捕虜となっていたハーリチナのウクライナ人部隊、学生の部隊、などで構成)

ディレクトリア軍
:1918年11月、ドイツ軍は連合国に敗れ第一次世界大戦終結ドイツ軍ウクライナから撤退ウクライナ国民共和国の生き残りがディレクトリア(指導部)なる組織を作り傀儡政権「ウクライナ国」を壊滅させた ⇒ 1919年1月、東西ウクライナ共和国の合同 ⇒ ウクライナ軍
パルチザン軍:ロシア、オーストリア支配地内での小グループの非正規軍(ウクライナ人)

<ウクライナでの戦闘に参加した国>
同盟軍4ヶ国中ウクライナでの戦闘に参加した国;
オーストリア・ハンガリー皇帝軍
帝国内のウクライナ軍:ウクライナ・シーチ射撃隊
帝国内のポーランド軍
協商軍15ヶ国中、ウクライナでの戦闘に参加した国は以下の国
ロシア軍
@2月革命前のロシア皇帝軍
@2月革命後のロシア連立政権の軍
@2月革命後のロシア皇帝軍の残党:デキニン軍(通称「白軍」)

@10月革命後のボリシェビキ軍(紅軍)
フランス軍

<戦況推移>
1917年12月ハルキフでウクライナ・ソヴィエト共和国樹立。「ウクライナ国民共和国」軍とボリシェヴィキ軍の壮絶な戦闘開始
1918年2月、「ウクライナ国民共和国」軍キエフから130キロ西方のジトーミル撤退
1918年2月、ブレスト・リトウスクで行われていた同盟国とボリシェヴィキとの和平会議に「ウクライナ国民共和国」は代表団を送り独自にドイツ、オーストリーと交渉を行い、この2国と講和条約を締結した、講和の条件;
①ドイツ、オーストリアは「ウクライナ国民共和国を支援してボリシェヴィキと戦う
ウクライナ国民共和国」はドイツ、オーストリアに100万トンの食糧を供給する ⇒ ドイツ・オーストリア軍は45万の兵力をウクライナに進駐(ドイツは「ウクライナ国民共和国」)の行政に不満を持った
1918年4月、ドイツ軍が「中央ラーダ」会議室に乱入し、「中央ラーダ」を解散させた地主やロシア人による傀儡政権「ウクライナ国」樹立
1918年10月、オーストリア軍崩壊開始 ⇒ 西ウクライナでは独立の動きが活発になったが、相手は西ウクライナを併合しようとしたポーランド軍に変わった ⇒「ウクライナ国民ラーダ」を結成し、ハーリチ・ブコヴィナ・ザカルパチアの国民国家設立を宣言 ⇒ リヴィウの市庁舎を占領 ⇒ 11月「西ウクライナ国民共和国樹立
1918年11月ポーランドは指導者・ビウスツキが軍最高司令官及び初代大統領に選ばれ、ポーランド政府を樹立した
1918年11月、リヴィウでは人口の多いポーランド人との戦闘が始まり、「西ウクライナ国民共和国」は100キロ南東のスタニスラヴィウに撤退
1918年11月ドイツ軍は連合国に敗れ第一次世界大戦終結 ⇒ ドイツ軍ウクライナから撤退 ⇒ ウクライナ国民共和国の生き残りがディレクトリア(指導部)なる組織を作り、傀儡政権「ウクライナ国」を追撃
1918年12月、傀儡政権「ウクライナ国」軍を崩壊させキエフに入城 ⇒ ディレクトリア政府軍はキエフに「ウクライナ国民共和国」を復活。フランス軍、東西ウクライナ占領
1919年1月東西ウクライナ共和国の合同実際は別々の政府が並立している状況
1919年2月ディクトリア政府キエフから撤退
1919年4月フランス軍は、パルティザンに苦しめられウクライナから撤退
1919年7月ディレクトリア軍と西ウクライナはリヴィウ南西200キロでカミアネッツ・ボディリスキーで合流したものの、東にボリシェヴィキ軍、西にポーランド軍に責め立てられ苦境になった。しかし、ボリシェヴィキ軍はデニキンの白軍に責められた崩れ出したディレクトリア軍はボリシェヴィキ軍を追撃し8月末にキエフに入城したが、同時にデニキンの白軍もキエフに入城したため、ディレクトリア軍はキエフを撤退した
1919年8月デキニン軍キエフ占領
1919年10月ウクライナ軍は、チフスが大発生して兵員の70%を失い壊滅ディクトリア政府はポーランドに避難西ウウライナの指導者達はウィーン亡命した
1920年2月、ボリシェビキ軍キエフからデキニン軍駆逐
1920年4月、ディクトリア政府のペトリューラ、ポーランドと同盟条約締結 ⇒ ペトリューラ・ポーランド同軍盟キエフ占領
1920年8月ボリシェビキ軍キエフ奪還、7月~8月ボリシェビキ軍ウクライナの大部分を制圧
1921年8月、ボリシェビキ軍ロマノフ軍(白軍の残党)を壊滅
1922年12月ソヴィエト社会主義共和国連邦成立(通称「ソ連」)ウクライナも連邦を構成する国の一つとなった

11.ソ連の時代
第一次大戦後、戦勝国と敗戦国の間で行われたウクライナの分割に関わる条約;
①ベルサイユ条約
条約当事者連合国ドイツ帝国
署名:パリ郊外のベルサイユ宮殿で1919年6月28日署名
②サンジェルマン条約;
約当事者連合国オーストリア共和国(オーストリア・ハンガリー帝国は大戦終了前に解体)
署名:パリ・サン=ジェルマン=アン=レーで1919年9月10日署名
③ポーランド・ソビエト・リガ平和条約;
条約当事者ポーランド共和国ロシアボリシェヴィキ)、ウクライナ・ソヴィエト共和国1917年12月、ボルシェビキの指導によりハルキウで設立)
署名:リガ(現ラトビア)に於いて1921年3月18日署名

これらの条約によりウクライナは以下の4ヶ国に分断された;
大戦前ロシア帝国オースリア・ハンガリー帝国
大戦後;
①ロシア(ボリシェヴィキ)
②ポーランド:東ハーリチ、北西部のヴォルイニ、ポリシア
③ルーマニア:プコヴィナ
④チェコスロバキア:ザカルパチア

              第一次大戦後決まった国境

レーニン指導下のウクライナ(1921年~1924年)>

レーニン

当初、内戦の影響と、農業の急速な集団化により農業生産量が減った上に、食料不足に悩むロシア本土に送るために強制的な食糧徴発を行ったためにストライキや農民反乱が頻発すると共に、食料不足による死者が推定100万人に上った
そのため、1921年に社会主義政策を一時中断し「新経済政策という自由主義経済を復活させた。集団農場も中止、国有化された土地は貧農に分配され、納税の上で余った農産物を売ることも出来るようになった。また、産業面でも個人企業や外資導入も復活させたことにより、ウクライナ経済は瞬く間に復活した。ただ、民営化されなかった重工業は落ち込んだままであった

1923年、ソ連全体に「土着化」政策を行った結果、ウクライナもウクライナ語の使用が奨励されると共に、政府職員、共産党員のウクライナ人比率が劇的に上昇した。また教育のウクライナ語化、新聞や書物のウクライナ語化が進められたことにより、文化・文学が一斉に花開き、「文化ルサンス」といわれるようになった

スターリンの権力掌握とウクライナ_1927年~

スターリン

1924年レーニンの死後、権力闘争の末(トロツキー、ジェノヴィエフの追放)権力を握ったのはスターリンであった。彼はロシア中心の中央集権を志向し、ソ連邦内の自治拡大に反対であったため、民族主義の強いウクライナにとりわけ猜疑心を抱いていた
また、外国の脅威からソ連を守ることが至上命題であることから、いかなる犠牲を払っても近代化・工業化した社会主義国を築き上げる為に「数次にわたる5ヶ年計画と農業集団化を確実に実行することを政策の柱にした

第一次5ヶ年計画(1928年~1932年)では、ウクライナは最重点地域であった。因みに、ソ連全投資額の20%がウクライナに向けられ、ドニエプル川のダムと水力発電所、ザポリージャの製鉄工場、ハルキウのトラクター工場はヨーロッパ最大級のものであった。ドンバスからドニエプロペトロフスク、クリヴィーリフに至る地域はソ連最大のコンビナートとなったこの結果、ウクライナ人の都市への移住が起こった。革命前の工業化の際は、ロシア人とユダヤ人が労働者として連れて来られ都市住民になったが、今回はロシアも労働力不足で余裕がなく、農村のウクライナ人が工場労働者として使われ都市住民になった。この結果、ウクライナ人の都市住民は1926年に6%に過ぎなかったものが、1939年には30%にまで増加した

農業集団化と大飢饉
スターリンの考える社会主義実現の為には、早急な工業化が必要でありその為機械輸入の外貨獲得の手段は穀物の輸出であった。そしてこの手段として1929年から強制的に「農業集団化(コルホーズ)」が行われた。農業の集団化とは自作農民を強制的に国営農場の一員とすることであった。この結果、集団農場入りを余儀なくされると、農民は自分の家畜を屠畜し食用、乃至売却した。その結果、1928年~1932年の間にウクライナは家畜の半分を失った。抵抗する者は逮捕されシベリア送りになった。「クラーク(強欲者)」と呼ばれた比較的豊かな農民は、農民のブルジョアであり人民の敵として収容所送りや処刑されるなど徹底的な弾圧を受けた。この結果、1932年では農家の集団化率は3.4%であったのが、1935年には91.3%となった

1930年のウクライナの穀物生産は2千100万トンであったが、不作となった1931年、1932年には1千400万トンに留まったにも関わらず、この間年間の政府調達量は7百60万トンと変わらなかったことから大飢饉(ホロドモール:「ホロド」は「飢え」、「モール」は「苦死」を意味する)が発生した。農民はこの調達に抵抗したものの、党の活動家には穀物を農家から強制的に押収する法的な権利が与えられ、更に穀物を隠している者を死刑にする法律が制定された。農民はパンが無く、ネズミ、木の皮、草だけでなく人肉食いの話も多く伝わっている
この人為的な飢饉によりどれだけ餓死者が出たかは、ソ連政府が隠しているためよく分からないものの、独立後のウクライナの公式見解によれば、ウクライナ共和国内で350万人が餓死(出生率の低下を含めると500万人減)に達し、更にカフカス在住のウクライナ人については、約100万人が餓死したと言われている。因みに、北カフカス出身のゴルバチョフ氏によれば、自分の住んでいた村でもこの飢饉で三分の一が死んだと語っている
尚、1930年のプラウダ(ソ連共産党機関紙)には、「ウクライナにおける集団化はウクライナ民族主義(個人農家)の基盤を破壊するという特別な任務をもつ」と書かれており、この大飢饉が人為的であったことを裏付けている

<第二次世界大戦とウクライナ
第二次世界大戦に伴うウクライナ関連の戦況それ;
1938年9月、ミュンヘン会議チェコ・スロバキア領のズデーデン地方の併合が認められた。その結果、同国のデカルパチアは自治を認められることになった。デカルパチア自治州は「カルパト・ウクライナ」と改名されることとなり、ウクライナ語が使用言語となった。また、「カルパチア・シーチ」という独自の軍隊も創設された
しかし、1939年3月1日ドイツ軍はプラハに侵入しチェコ・スロバキアは消滅し、ザカルパチア自治州は、ドイツの同盟国であるハンガリーに与えられた。ハンガリーに与えられることが明白となった時点で、自治州の議会で独立宣言を行ったものの、数時間後ハンガリー軍に占領された。自治は数ヶ月、独立は数時間であった

1939年8月23日ソ不可侵条約が締結され、その条約の秘密協定で独ソ両国はポーランドを解体して西半分をドイツに、東半分をソ連が占領することになった。ソ連は9月17日からポーランドに進撃しポーランド東半分を占領した。同年11月にはウクライナ人の居住する東ハーリチナ西ヴォルイニ西ポリシアは、形式上の住民投票を経てウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国に編入された
1939年9月3日、英仏両国はドイツに宣戦布告し第二次世界大戦が勃発した

1940年6月ソ連はルーマニア領の北プロヴィナ、ベッサラビアを併合した。その内、ウクライナ人が居住する北プロヴィナ南ベッサラビアウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国に編入された。ルーマニア人が居住する北ベッサラビアはウクライナから切り離され、「モルダヴィア・ソヴィエト社会主義共和国(現在のモルダヴィア共和国)」となった

④1941年6月22日、ドイツは独ソ不可侵条約を一方的に破棄しソ連に奇襲攻撃(バルバロッサ作戦をかけた。不意を突かれたソ連は大混乱を起こし後退したが、その後退の過程で東ウクライナの住民380万人(1千万にという説もある)と、850の工場の設備をウラル以遠に退避させた。移動できない工場施設、鉄道、水力発電所は破壊され。ドネツクの大部分の炭鉱は水浸しにした。ウラル山脈の都市ウファはウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の首都となった。1941年11月、全ウクライナはドイツの占領下に入ったドイツは東部戦線に於いて食料と労働力の供給源としてウクライナを重視、ドイツがソ連占領地域から徴発した食料の85%はウクライナからのものであった。ドイツは「オストアルバイター(東方労働者)」と称してドイツに強制連行し過酷な労働を強いた。こうした労働者は全体で280万人と言われるが、内230万人はウクライナからの労働者であった。
ユダヤ人に対する措置は過酷を極め、ユダヤ人狩りを行って強制収容所に送られ、大部分が殺害された。強制収容所に送られる前に殺される例も多く、中でも「バービ・ヤール事件」として語られているものは;1941年9月ユダヤ人3万4千人がキエフ郊外の谷間(バービ・ヤール)に集められ射殺された事件である。ドイツは、ウクライナの地で85万人~90万人のユダヤ人を殺したと考えられる

西ウクライナでは、当初ドイツ軍は対ソ戦争の道具として利用するとの観点からウクライナ民族主義者に融和的な態度を見せたが、次第に弾圧する方向に向かった。ウクライナ民族主義者組織(OUN)を中心としてドイツ軍の中にウクライナ民族主義者部隊が作られたが、1941年6月30日に彼らはドイツ軍の了解の無いままにリヴィウでウクライナ独立宣言をした為に首謀者はゲシュタポに逮捕され、その他の民族主義者は地下に潜った

ウクライナ人による対独パルチザン活動はドイツのウクライナ侵攻後すぐに始まっている。活動場所は見晴らしの良いステップ地帯を避け、北西部ヴォルイニの森林地帯北部ポリシアの沼沢地帯南西部カルパチア山脈地帯がその活動拠点となった。
1941年夏には、タラウ・ブルバ・ホロヴェツ(1908年~1981年)によりヴォルイニにおいてウクライナ蜂起軍(UPA)が組織され、ペトリューラの流れを汲む「ウクライナ国民共和国」の亡命政府と連携を保っていた。OUNの各派もそれぞれUPAを作り、ロマン・シュヘイヴィッチ将軍(1907年~1950年)が司令官を務めたUPAは住民の支持を得て、1943年には4万の兵を擁していた(1944年の最盛期には10万の勢力になったという説もある)。
一方、ドイツ占領地域での攪乱と、ソ連軍の帰還を準備するため赤軍パルチザンを組織していたが、UPAはこの赤軍パルチザンとも激しく戦った。第二次大戦の勝者となったソ連は民族主義者のパルチザン活動を無視するか、ナチの手先だとした

1943年1月のスターリングラード攻防戦が独ソ戦の転換点となった。同年夏反撃に出たドイツ軍を「クルクスの大会戦」で破ったソ連軍は一気に失地を回復していった。1943年11月にキエフを回復した。1944年7月、西ウクライナのブローディーで6万のドイツ軍を全滅させた。ドイツ軍の中にはウクライナ人からな成る1万のハーリチ師団が含まれていた。内2千人は逃れ、その多くはUPAに参加した。1944年10月、ソ連軍はウクライナ全土を占領した
UPAソ連に対しパルチザン型戦闘を継続した。ソ連は、ベルリン陥落後UPA掃討のため全力をあげたものの、その戦いは1950年3月まで続いた。また、UPAの活動はポーランド領内でも行われていたが、1947年ポーランド国防次官を待ち伏せして殺害したことを怒ったポーランド政府により「ヴィスワ作戦」の下に軍民双方の掃討作戦により概ね殲滅された

ヤルタ会談と戦後処理
1945年2月クリミア半島のヤルタにあるロマノフ王朝のリバディア離宮(1860年代のアレクサンドル2世が皇后の健康の為に建てた)で米・ルーズベルト大統領、英・チャーチル首相、ソ連・スターリンの3人で第二次世界大戦の戦後処理が話し合われた。ウクライナに関わる合意事項は;
ポーランドの国境画定ソ連は1939年のポーランド分割で得た領土を概ね獲得した。これにより、リヴィウを含む東ハーリチはソ連領。ポーランドはオーデル・ナイセ川以東のドイツ領を獲得
ソ連領のウクライナとベラルーシの国連加盟を認める
戦争捕虜や強制労働の為にドイツに送られていたオストアルバイターを本国に送還する 1945年末までに約200万人のウクライナ人が帰国したが、帰国してソ連官憲の手に渡ることを拒否して輸送中の船から海に飛び込む者も多数居たと言われている。帰国後、万単位の者が処刑され、35万人が政治的危険分子として中央アジアや極東地域に送られた。1947年連合国はソ連のこのやり方を知ると本国送還を中止した。この内25万人が西欧諸国に残りその数年後にはアメリカ、カナダに移民した

1945年5月、ドイツ軍が降伏によりヨーロッパにおける第二次大戦は終結した。この戦争でウクライナ人530万人が死亡した(太平洋戦争における日本人の死者は310万人)が、ソ連軍の中には200万人のウクライナ人が含まれ、ドイツ軍の中にも30万人のウクライナ人が含まれていた。ウクライナ人は互いに敵味方になって戦ったことは第一次世界大戦と同様であった
多くの民族主義者の自己犠牲的な活動があったものの、今回も独立は実現しなかった。しかし、膨大な人命と損害の代償としてウクライナの領土は拡大した;
ポーランドから「東ハーリチルーマニアから「北ブコヴィナ南ベッサラビアハンガリーから「ザカルパチア」を獲得した。これにより、大戦前4ヶ国の支配下にあったウクライナ人居住区は殆ど全てウクライナ共和国に纏められた

国境線変更に伴い、従来の支配地域に残された民族が少数民族化することになり、この少数民族問題が第二次世界大戦の引き金となったことを教訓として、東ヨーロッパ各地で民族の交換が行われた
ウクライナとポーランドの間では、かつてのウクライナに住んでいたポーランド人130万人がポーランドに旧ポーランド領内のウクライナ人50万人がウクライナに移住した

スターリン後のウクライナ
フルシチョフの時代;
1953年3月、スターリン死去後に権力闘争を勝ち抜いたのはフルシチョフ(1894年~1971年)であった。フルシチョフは、非スターリン化の名の下にソ連邦内の全てで統制を緩め、民族・文化活動を自由にした

フルシチョフはウクライナ人ではなかったが、若い頃はドンバスで金属工として働き、共産党の官僚になってからも長くウクライナで過ごしている。戦時中は赤軍パルチザンの組織作りに関わり、戦後は経済の復興と西ウクライナのソ連への統合、特にUPA対策を指揮した。権力闘争の中でフルシチョフを最初に支持した党はウクライナ共産党だった。彼はウクライナ共産党第一書記に初めてウクライナ人を任命し、以後このポストは例外なくウクライナ人になった。また、ウクライナ共和国の最高会議議長、首相もウクライナ人になった。ソ連共産党政治局員11人のうち4人がウクライナ人という時期もあった。軍人でも3人が元帥に昇進し、内2人は国防大臣になった

1945年5月、ドイツ軍が降伏によりヨーロッパにおける第二次大戦は終結した。この戦争でウクライナ人530万人が死亡した(太平洋戦争における日本人の死者は310万人)が、ソ連軍の中には200万人のウクライナ人が含まれ、ドイツ軍の中にも30万人のウクライナ人が含まれていた。ウクライナ人は互いに敵味方になって戦ったことは第一次世界大戦と同様であった

ブレジネフの時代;
1964年フルシチョフは失脚し、レオニード・ブレジネフ(1906年~1982年)か権力を掌握した。彼はウクライナ東部ドノプロジェルジンスクに生まれた。ソ連工業の中心地の一つであるドニプロペトロフスクで、夜勤技師として、また共産党官僚として活動し頭角を現した

ブレジネフの時代は、民族主義文化を危険視し反体制派たちにも厳しく対応した。一方、ウクライナの地ではウクライナ共産党第一書記であったペトロ・シュレスト(在任1963年~1972年)は民族主義文化を称揚する政策をとった。しかし、ウクライナ・ナショナリズムに甘く、経済ローカリズムを助長したかどで失脚した。その後任のォロディーミル・シチェルビッキー(在任1972年~1989年)下では、ロシア語の使用が奨励され、ウクライナ語の使用は妨害された。その結果、1969年~1980年の間にウクライナ語の新聞は46%から19%に減少した。また1958年~1980年の間にウクライナ語の出版は60%から24%まで減少した

経済の状況は停滞し、ウクライナの第5次5か年計画(1951年~1955年)では13.5%の成長率を達成したのに対し、ブレジネス時代最期の第11次5か年計画(1981年~1985年)での成長率は3.5%に落ちてしまった
工業化と都市化の為に深刻なエネルギー不足が起き、ドニエプル川に巨大なダムが次々と建設されドニエプル川は巨大な人造湖の連続になってしまった。それでも電力は足らず、1970年代にチェルノブイリなど数ヶ所に原子力発電所が建設された
ウクライナは工業が主要産業になったが、ウクライナがソ連の穀倉であることに変わりは無かったが、官僚統制による不効率勤労意欲の減退などによりブレジネス時代の後期にはソ連の穀物輸入が常態化する様になった

ウクライナの社会構造は大きく変わり、工業化により都市化が促進し都市人口は全人口の55%に達すると共に、ロシア人のウクライナへの流入は加速し、1926年には300万人だったロシア人は、1979年には1千万人となり全人口の20%を超えた

ブレジネフ時代に強まったのは反体制の動きである。1975年7月、欧米35ヶ国がヘルシンキに集まってヨーロッパ安全保障会議(CFCE)が開催され、「国境尊重」、「信頼醸成措置」、「人権擁護」などを謳った「ヘルシンキ宣言」が採択されソ連もこの宣言に参加した。この人権擁護条項こそソ連体制を内部から突き崩す大きな原動力になった

12.ウクライナの独立

ゴルバチョフ

1985年、ゴルバチョフ(1931年~2022年8月30日死去)がソ連共産党の書記長に就任した。彼は、抜本的な改革を行えば共産党の支配するソ連というシステムは存続し得ると考え、「グラスノスチ(情報公開)」と「ペレストロイカ(再建)」を両輪とする政策を開始した。しかし、グラスノスチのみが先行し、ペレストロイカは既得権益の抵抗にあって遅々として進まなかった。ゴルバチョフの意図に反してグラスノスチは批判を許すインセンティブとなり結果として民族主義に火をつけてしまった。これがソ連の解体を招くことになった

ウクライナでソ連体制に対する不信が最高に高まったのは、1986年4月26日、チェルノブイリ原子力発電所・4号炉の爆発であった。この爆発で192トンの核燃料の内4%が大気中に放出され、多くの死者と多数の放射線の後遺症に悩む人が発生した

チェルノブイリ原発・事故直後の写真

事故の規模もさることながら、事故の公表が4月28日まで伏せられたことが災害を一層悲惨なものにしたことは間違いなかった。ウクライナはソ連第一の重化学工業地帯と誇ってみても、気が付けば工場・鉱山の排出する汚染物質は垂れ流しで、ウクライナの南部、東部はソ連有数の汚染地帯となり、住民の健康問題が深刻になっていた

ウクライナにグラスノスチが浸透してくると、1932年~33年のホロドモール、1930~40年代の保安警察によって殺害されて人々の大規模な墓場などが国民に公表されることになった。そのため、これまで批判の対象だった17世紀のイヴァン・マゼッパの「ウクライナ自治の要求」や、第一次世界大戦時の「ウクライナ共和国」宣言(1919年1月)なども正当な民族の渇望の現れと評価されるようになった
ウクライナ語復権の動きも高まり。1989年には「ウクライナ言語法」ができ、ウクライナ語が国語となった。長い間禁止されてきた「ウクライナ国旗」、「ヴォロディーミル聖公の三叉の鉾」、「ウクライナ国歌(後述)」

ウクライナ国旗と三叉の鉾

も公然と使われるようになった
また、禁止されていたユニエイト教徒も、ヴァティカン市国や米国の後押しもあり、1987年より公然と活動する様になった。1989年ゴルバチョフがヴァティカン市国を訪問したのを機に、ソ連はようやく「ユニエイト教会を合法化した。また、1930年以来スターリンによって禁止されていた「ウクライナ独立正教会」も合法化され、1991年には「ウクライナ正教会」となった。

この様な状況下、1972年よりウクライナの民族主義を長く抑圧してきたォロディーミル・シチェルビッキー(ウクライナ共産党第一書記)が解任され、ウクライナの民主化が加速されるようになった。
1989年、「ペレストロイカの為の国民運動ルーフ/ウクライナ語の運動という意味)」が結成され、人権少数民族の権利宗教の保護ウクライナ語の復権、などを要求すると共に、ソ連が主権国家の連合体になることを求めた
ルーフは新しい政治手法として公開の集会を度々開催した。集会には多くの人々が参加し、1990年1月には30万人(あるいは50万人)を動員してリヴィウとキエフを「人間の鎖」でつないだ

独立までの過程
1990年3月以降、独立達成までは以下の様に急速に歴史の歯車が回りだした;
1990年3月、ウクライナの「最高会議」の選挙が行われ、共産党は議席の約3分の2を占めたものの、ルーフの候補者が数々の選挙妨害にも拘わらず4分の1の議席を獲得した。この頃10万人単位で共産党を離党する状況になっていた
*1990年3月、リトアニアが独立、ソ連からの離脱を宣言
1990年7月16日、ウクライナ最高会議が「主権宣言」を行った(内容以下)。ただ、ソ連邦からの離脱は行っていない;
ウクライナの民の名を代表できるのは最高会議のみと記述。現存の国境でのウクライナ領は不可侵だと宣言。ウクライナの民のみが、ウクライナの国家の資源を管理し、利用し、使役できる権利を持つ
1990年7月23日、レオニード・クラフチューク最高会議・議長に就任
*1990年11月、ゴルバチョフ大統領(1990年3月以降)は新しい連邦条約草案を発表。1991年3月、その賛否を問う国民投票を行い、70%が賛成
1991年、ウクライナでは「主権国家ウクライナが主権国家連邦に加わるとの前年の最高会議の決議に賛成か」との質問に80%が賛成した
*1991年8月19日、モスクワの保守派は「非常事態」を宣言し、クリミアの大統領別荘で休暇を取っていたゴルバチョフ大統領を拘禁し権力移譲を迫るクーデターを起こした。クーデターはロシア最高会議議長エリツィンの抵抗であっけなく失敗した
1991年8月19日、クーデター側はキエフに使者を送りクラフチュークにクーデター支持を要請したが、彼は非常事態はウクライナでは適用されないと答えた。クーデターに対しては指示も不支持も表明しなかった
1991年8月24日、ウクライナ最高会議は、ほぼ全会一致で独立宣言」を採択した。また最高会議は、共産党をクーデターに加担したかどで禁止した。クラフチュークは共産党を離党した。後にこの日は独立記念日となった
⑨1991年9月、国旗、国歌、国章を法制化した
*ソ連を構成していた多くの共和国がウクライナに倣って独立宣言を行った
⑩1991年12月1日、ウクライナの完全独立の是非を問う国民投票と初代の大統領を決める選挙が行われ、90.2%が独立に賛成した。尚、ロシア人の多いハルキウ、ドネツク、ザボリッジア、ドニプロペドロフスクの各州でも80%以上が賛成であった。またロシア人が過半数を占めるクリミアでも賛成が54%を上回った
大統領選挙ではクラフチュークが62%の得票率で初代大統領に選出された
*ウクライナの独立でソ連は事実上解体した
*1991年12月7日~8日、ウクライナのクラフチューク、ロシアのエリツィン、ベラルーシのジュンケヴィッチの三首脳がベラルーシのミンスクミンスク郊外に集まり、ソ連の解体を宣言し、独立国家共同体(CIS)を結成した
*1991年12月21日、カザフスタンのアルマ・アタで11ヶ国首脳がCIS条約に署名した
*1991年12月25日、ゴルバチョフは大統領を辞任し、70年続いたソ連は消滅した

独立後のウウライナの政治情勢
独立後の情勢については、日本でも多くの人がウクライナの情勢に関心を持っていると思いますので、簡単な概況の説明に止めたいと思います;
①オレンジ革命;
独立後のウクライナでは親ロシア派EUが交互に政権交代してきましたが、
2004年の大統領選挙で親露派のクチマ・ヤヌコーヴィチと、EU寄りの野党ユシチェンコとの間で争われた選挙において不正があったとして大規模な抗議行動が起きました。野党支持者がオレンジをシンボルカラーとして、リボン、「ユシチェンコにイエス!(Так! Ющенко!)」と書かれたマフラーなどオレンジ色の物を使用したことからオレンジ革命と呼ばれている
再選挙の結果ユスチェンコ大統領が誕生した。尚、その時のユシチェンコとヤヌコーヴィチの選挙区別の得票率分布(下図参照)を見ると、現在まで続く新ロシア派と親 EU派の相克がよく分かる

2004年大統領選挙の結果_オレンジ・ユスチェンコ支持青・ヤヌーコビッチ支持

②マイダン革命
2014年当時、ウクライナは経済的な危機の状況にあり、当時のヤヌコーヴィチ大統領はEUの援助を受けるべく「EUと連合協定」を結ぶ協議を行なっていたが最終的に大統領はこの協定の署名を拒否し、目先の冬を越すために、ロシアに接近し、ロシアから数十億ドルに及ぶ融資協定を締結していた。しかしこれがマイダン革命に繋がる反政府デモを引き起こすことになった;
ユーロマイダンとは:ウクライナで起きた市民運動のことで「尊厳の革命」という意味
2014年2月中・下旬、首都キエフでユーロマイダンのデモ参加者と政府治安部隊の激しい騒乱事件が発生した

キエフに於ける騒乱事件

ウクライナの治安部隊はデモ活動の鎮圧に努めたが騒乱は収まらず、2月21日にヤヌコーヴィチ大統領と野党リーダーらが会談を行い危機回避の為に、憲法改正、及び大統領選の早期実施などを行うことになった。しかし、ヤヌコーヴィチ大統領は首都キーウを離れて東ウクライナに脱出した。最高会議はこれを職務放棄と見なし大統領の失職を宣言した。代わりに議会議長のトゥルチノフ氏が、大統領代行を兼務することになった
大統領選は5月25日に投票が行われ、新たに発足した暫定政権は EU協定の署名と国の司法制度・政治・財政・経済政策の改革に合意した。またIMFはこの改革の実行を条件に180億ドル以上の融資を約束した

マイダン革命の結果、ウクライナのドンバス地方(ドネツィク州、ルハーンシク州)ウクライナ軍と、親露派武装勢力との軍事衝突が発生した
更に、2014年3月、ロシアクリミアセヴァストポリ(クリミヤのロシア黒海艦隊の軍港)の三者が調印した条約に基づきクリミアのロシアへの併合が実行された

2022年2月24日、ロシア正規軍がウクライナ侵攻開始!
⇒ 戦闘進行中であり、必要により別途 Follow_Upする予定

Follow_Up;2022年11月14日のFNNオンライン・ニュースより;ウクライナの反転攻勢が続く中、首都キエフ近郊のボロジャンカでロシアの砲撃で崩れかけた壁に描かれたバンクシーの作品

Follow_Up:2023年2月24日日経新聞/続く消耗戦、描けぬ和平_プーチン氏、勢力圏固執

2023年2月21日時点の攻防
2022年2月24日~2023年4月の間の戦況

Follow_Up:2023年2月23日の国連総会・緊急特別会合における林外相の演説
同 英文版

おわりに

浅学な私が本やネット情報を集めて勉強した結果、「はじめに」で提題したウクライナ人の「愛国心」、「国民全体の士気の高さ」、「勇敢な兵士」、などの資質と「ロシアに対する怨み」について、ウクライナの歴史を辿ってみた結果、以下に集約できると確信しました;
紀元前700年頃~紀元前200年頃の間、ウクライナの地を支配していた勇敢なスキタイ人の遺伝子を受け継いでいること
862年~1243年の間、ヨーロッパ最強で、最大の版図をもったキエフ・ルーシ公国の中核の民族であり続けたこと
キエフルーシ公国が崩壊していく過程で、1173年~1340年の間、ウクライナの地でキエフルーシ公国の系譜を守り続けたハーリチ・ヴォルイニ公国で中核の民族であり続けたこと

勇敢なコサックの遺伝子を受け継いでいること、特に強国であったポーランドと戦い勝利して「コサックの国家」を建設したボフダン・フメリニッキー(1595年~1657年)の志を誇りに思っていること
参考:次のウクライナ国歌をお聞きください:ウクライナ国歌
ロシア革命が起こった1917年に独立を宣言したウクライナの民族主義者によって国歌に採用され、ソビエト連邦に併合されるまで使用された。ソ連から独立後、1992年に議会によりウクライナの国歌として復活し、2003年3月6日には最高議会でウクライナ国歌法案が成立。歌詞を一部修正の上、正式に国歌に採用された
歌詞の和訳
ウクライナの栄光は滅びず 自由も然り
運命は再び我等に微笑まん
朝日に散る霧の如く 敵は消え失せよう
我等が自由の土地を自らの手で治めるのだ
自由のために身も心も捧げよう
今こそコサック民族の血を示す時ぞ

スターリン時代の人為的な大量の飢餓死

今年7月20日に初版が発行された日本人の真価_藤原正彦の締めくくりに、以下の文章(抜粋)が載っていました;
ウクライナ侵攻の画像で、私が最も身につまされるのは避難民の姿である。18歳から60歳までの男子は出国を制限されているから、避難民の殆どは女性、子供、年寄だ。なけなしの物をリュックにつめ子供たちの手を固く握りしめて歩く母親。足を引きずる老妻の手をとりながら、ポーランドを目指して一歩一歩進むおじいさん。途中で親とはぐれたのか、泣きじゃくりながら歩く男の子がいる。
これはまさに終戦後、命からがらソ連軍から逃げのびて来た私たち一家の姿だった。寄り惨めな姿だったが
参考:終戦後の満州からの逃避行については、藤原てい(藤原正彦の母)のベストセラー「流れる 星 は 生き て いる」をご覧になって下さい

実は、私たちの家族や親戚も満州から引き揚げてくる過程で、ソ連の突然の侵攻により、藤原正彦氏と同じ様な経験をしております(詳しくは私の過去のブログ「生い立ちの記(生誕・抑留・引揚・困窮生活)」、「母方親族の戦争体験」をご覧ください)。日ソ交渉が戦後70年以上経っても進展しないことと併せ、どうしてもロシア人の指導者を好きになれない(庶民は別!)のはウクライナ人と同じかもしれません

以上